南史
巻六十三より巻六十四
列伝第五十三
王神念
王神念は太原郡祁県の人である。若い頃から儒学を好み、特に仏典に明るかった。魏に仕えて潁川太守の位にあり、子の僧辯と共に郡を拠点として梁に帰順し、南城県侯に封ぜられた。安成・武陽・宣城の内史を歴任し、いずれも政績を顕著にした。後に青州・冀州の二州刺史となった。神念は性質剛直で、赴任する州郡では必ず淫祠を禁止し、当時青州東北の石鹿山が海に臨んでおり、以前から神廟と妖しき巫があり、百姓を欺き惑わし、遠近から祈祷に来て、浪費が極めて多かった。神念が到着すると、直ちにこれを破壊撤去させ、風俗は改まった。後に召されて右衛将軍となり、官のまま死去し、諡して壮といった。元帝の初年に至り、侍中・中書令を追贈され、諡を忠公と改められた。
神念は若い頃から騎射に優れ、老いても衰えなかった。かつて武帝の前で二手に刀と楯を執り、左右に交差させ、馬を駆って往来し、群伍を圧倒した。
当時また楊華という者がおり、驚軍騎(馬術の技)をよくし、これも一時の妙技で、帝は深く賞賛した。華は本名を白花といい、武都郡仇池の人である。父の大眼は魏の名将であった。華は若い頃から勇力があり、容貌は魁偉で、魏の胡太后が彼を逼って寵幸した。華は禍を恐れ、大眼の死後、部曲を擁し、父の屍を載せ、名を華と改め、降伏して来た。胡太后は追慕して止まず、楊白花歌辞を作り、宮人に昼夜連臂して蹋蹄(足踏み)して歌わせ、その声は甚だ悲愴であった。華は後に太子左衛率の位に至り、侯景の軍中で死去した。
神念の長子遵業は太僕卿の位に至った。次子が僧辯である。
神念の子 僧辯
僧辯は字を君才といい、学問は広く博通し、特に左氏春秋に明るかった。言辞は弁捷で、器宇は厳然としており、たとえ射て札を貫かぬとも、陵雲の気概があった。元帝が江州刺史となった時、僧辯は府に随って中兵参軍となった。時に安成の望族劉敬躬という者がおり、田間で白い蛆が金の亀に化するのを得て、これを銷そうとしたところ、亀が光を放って室を照らし、敬躬はこれを神として祈祷した。請うところ多く験があり、無頼の徒が多くこれに依った。平生の徳ある者や怨みある者には必ず報い、遂に謀反を企て、遠近がこれに応じた。元帝は中直兵参軍曹子郢にこれを討たせ、僧辯に安成を襲撃させた。子郢がその軍を破ると、敬躬は安成に逃れ、僧辯がこれを捕らえた。また安州の反乱した蛮を討平し、これによって勇略をもって称された。
元帝が荊州に移ると、僧辯は貞毅府諮議参軍となり、柳仲礼に代わって竟陵太守となった。侯景が反乱すると、元帝は僧辯に舟師一万を総督させて援軍に赴かせた。到着した時、台城は既に陥落し、侯景はその軍需物資を全て収め、手厚く慰撫して、竟陵に帰還させた。そこで倍道兼行して西に進み、元帝に就いた。元帝は承制して、領軍将軍に任じた。荊州・湘州に疑いと離反が生じると、元帝は僧辯と鮑泉にこれを討たせた。当時僧辯は竟陵の部下は皆精鋭で勇猛であるが、まだ全ては来ておらず、集結を待ってから出発したいと考えていた。泉と共に入り、泉に先に言わせようとしたが、泉は入って言えなかった。元帝が僧辯に問うと、僧辯は実情を答えた。元帝は猜疑心が強く、遅延して出発しないと思い、激怒して声を厲らせて言った。「卿は行くのを憚り命令を拒み、賊と同調しようというのか。今はただ死あるのみだ。」僧辯は答えて言った。「今日戮に就くのは甘んじます。ただ老母に会えぬことを恨むのみです。」帝は自ら斬りつけ、その腿に当たり、血が地に流れ、気絶し、久しくしてようやく蘇った。直ちに廷尉に送り、その子や甥も併せて捕らえて繋いだ。その母は簪珥を脱いで罪を待ち、帝の怒りが解け、良薬を賜ったので、死なずに済んだ。折しも岳陽王の軍が江陵を襲撃し、人心が騒然とした。元帝は獄から僧辯を出して城内 都督 とした。間もなく岳陽王は敗走し、鮑泉は長沙を攻め落とせず、帝は僧辯に代わらせた。僧辯は将帥を部署し、力を併せて攻囲し、遂に湘州の地を平定した。帰還して再び領軍将軍を兼ねた。
侯景が長江を西に浮かんで侵寇し、軍は夏首に駐屯した。僧辯は大 都督 となり、軍は巴陵に駐屯した。景が郢城を陥落させると、進んで荊州を侵そうとし、これにより長江沿いの屯戍は風の便りに従って降伏を請うた。僧辯は公私の船を水に沈め、諸軍に命じて城に乗り固守させ、旗を偃げ鼓を臥せ、安閑として人のいぬが如くであった。翌日、賊の大軍が長江を渡り、軽騎が城下に至り、城中に向かって言った。「王領軍に伝えよ、何ぞ早く降らぬのか。」僧辯は使者に答えさせて言った。「大軍はただ荊州に向かうがよい。この城は自ら障礙とはならぬ。僧辯の一族百人の命は人の掌握にある。どうしてすぐに降れようか。」景の軍は肉薄して激しく攻めたが、城内は同時に鬨の声を上げ、矢石が雨のように降り、賊は退却した。元帝はまた平北将軍胡僧佑に兵を率いて僧辯を救援させた。この日、賊はまた城を攻めて勝てず、また火艦で柵を焼こうとしたが、風が便わず、自ら焼けて退いた。流星がその営中に墜ち、賊徒は大いに驚き、顔を見合わせて色を失った。賊の将帥任約はまた陸法和に捕らえられ、景は営を焼いて夜遁し、軍を夏首に引き返した。
元帝は僧辯を征東将軍・開府儀同三司・江州刺史とし、長寧県公に封じ、直ちに巴陵の諸軍を率いて流れに沿って景を討つことを命じた。魯山を攻め落とし、引き続き郢を攻め、即座に羅城に入った。また大きな星が車輪の如く賊の営に墜ち、地から十丈のところで火に変わり、一時に砕け散った。龍が城から出て、五色の光が輝き、城前の鸚鵡洲の水中に入った。景はこれを聞き、倍道で建鄴に帰還した。賊の将帥宋子仙らは窮迫し、郢城を輸送して差し出し、身をもって景のもとに帰還しようと願った。僧辯は偽ってこれを許した。子仙は信じるものと思い、舟を浮かべて出発しようとした時、僧辯は杜龕に命じて鬨の声を上げて掩撃させ、大いにこれを破り、子仙・丁和らを捕らえて江陵に送った。元帝は和の舌を生きたまま釘で打ち、臠殺することを命じた。
郢州 が平定されると、僧辯は軍を進めて尋陽に至った。軍人の多くが周何二廟の神の夢を見て、「我は既に天子を助けて賊を討った。」と自称し征討大将軍となり、皆朱色の船に乗っていた。間もなく反って「既に景を殺した。」と言った。同じ夢を見た者は数十百人に及んだ。
元帝は僧辯に侍中・ 尚書令 ・征東大将軍を加えた。僧辯は頻りに上表して即位を勧め、優れた返答を蒙った。そこで江州より発して直ちに建鄴を指し、先に南兗州刺史侯瑱に命じて南陵・鵲頭などの戍を襲撃させ、併せてこれを攻略した。
先に、陳武帝(陳霸先)が五万の兵を率いて南江より出で、前軍五千は盆口に至る。陳武の名声は僧弁を圧し、僧弁はこれを畏れた。盆口に至り、僧弁と白茅洲に会して盟を結ぶ。ここに壇に登り血を啜り、共に盟文を読み、辞気慷慨にして、皆涙下り衿を沾す。鵲頭を発し、中流にて風浪起こり、軍人皆懼る。僧弁再拝して天に告げて曰く、「僧弁は忠臣、辞を奉じて罪を伐ち、社稷中興せんとす、まさに風を息ましむべし。若し鼎命中に淪ばば、請う此より逝かん」と。言い終わりて風止み、此より安流に泛ぶ。群魚水を躍り空を飛びて導き、賊は官軍の上に五色の雲有り、双龍艦を挟み、行くこと甚だ迅疾なり。
侯景自ら出でて石頭城北に戦い、僧弁等大いにこれを破る。盧暉略、景の戦いに敗れたるを聞き、石頭城を以て降る。僧弁軍を引いて入りこれを占拠す。景は朱方に走り、僧弁は諸将に命じて台城を占拠せしむ。その夜、軍人の失火により太極殿及び東西堂を焼く。僧弁は賊を滅ぼす功有りと雖も、下を馭する法無く、軍人は鹵掠し、居人を驅逼す。都下の百姓父子兄弟相哭き、石頭より東城に至るまで、執縛せらるる者は、男女裸袒し、衵衣も免れず。淮に沿いて号叫し、翻って侯景を思う。
僧弁は侯瑱・裴之横に命じて東に侯景を追わしむ。偽行台趙伯超は自ら呉松江より侯瑱に降り、瑱これを僧弁に送る。僧弁これに謂いて曰く、「卿は国の重恩を荷い、遂にまた同逆す。今日の事、将に如何にせんと欲すや」と。因って江陵に送ることを命ず。伯超既に出で、僧弁は坐客を顧みて曰く、「朝廷は昔唯だ趙伯超有るを知り、豈に王僧弁を識らんや。社稷既に傾き、我が為に復せらる。人の興廃、また何の常か有らん」と。賓客皆前に進みて功德を称歎す。僧弁戄然として、乃ち謬りて答えて曰く、「此れ乃ち聖上の威徳、群帥の命を用うるなり。老夫は戎首に濫りに居ると雖も、何の力か之れ有らん」と。ここに逆寇悉く平ぐ。
元帝即位し、鎮衛将軍・ 司徒 を授け、班剣二十人を加え、永寧郡公に改封し、侍中・ 尚書令 は元の如し。
先に、天監年中、沙門釈宝志が讖を作りて云く、「太歳龍、将に理無からん。蕭は霜に経り、草は応に死す。余人散じ、十八子」と。時に蕭氏滅び李氏代わって興ると言う。湘州の賊陸納等が衡州刺史丁道貴を攻め破り、李洪雅また零陵より自ら称して納を討つを助けんとす。既にして朝廷その心を達せず、詔して僧弁を征し宜豊侯蕭循に就き南征せしめ、 都督 東上諸軍事と為す。陳武帝を 都督 西下諸軍事と為す。先に、陳武は 都督 を僧弁に譲るも、僧弁受けず。故に元帝東西の 都督 に分ちて俱に南討せしむ。尋いで洪雅は納に降り、納は符に応ずと為し、ここに共に議して洪雅を大将軍に拝し、尊びて主と為して事う。洪雅は平肩の大輿に乗り、傘蓋・鼓吹、羽儀悉く備わり、翼従して長沙城に入る。時に納等は車輪に拠り、岸を夾んで城と為し、士卒は皆百戦の余、器甲精厳、徒党勇鋭、蒙衝闘艦、水に亙り山を陵ぐ。時に天日清明、初め雲霧無し。軍発の際、忽然として風雨有り、時人これを泣軍と謂い、百姓窃に言いてその敗るるを知る。三月庚寅、二龍城西の江中より騰躍して天に升り、五色分明、遥かに江水に映ず。百姓皆仰ぎ目之し、父老或いは聚まって悲しみ、窃に相謂いて曰く、「地龍已に去る、国其れ亡びんか」と。初め、納は大艦を造り、一名を三王艦と曰う。邵陵王・河東王・桂陽嗣王の三人並びに元帝の為に害せらる。故にその像を艦に立て、太牢を以て祭り、その節蓋羽儀鼓吹を加え、戦う毎に輒ちこれに祭りて福を求む。また二艦を造る。一を青龍艦と曰い、一を白虎艦と曰う。皆牛皮を以て衣し、並びに高さ十五丈、その中尤も勇健なる者を選びてこれに乗ず。僧弁これを憚り、稍く連城を作りて逼る。賊敢えて鋒を交えず、並びに懈怠を懐く。僧弁その無備に因り、親しく旗鼓を執りて進止を誡め、群賊大いに敗れ、帰りて長沙を保つ。僧弁乃ち命じて壘を築きてこれを囲み、自ら出で臨視す。賊は備え無きを知り、その党呉蔵・李賢明等は楯を蒙りて直進す。僧弁尚ほ胡床に拠りて之が為に動かず、指麾勇敢、遂に賢明を斬り、賊乃ち退き帰る。初め、陸納の逆を為すや、王琳を以て辞と為し、云く、「若し琳を放たば則ち自ら服せん」と。時に諸軍未だこれを許さず。而して武陵王蕭紀は上流に衆を擁し、内外駭懼す。元帝乃ち琳を遣わしてこれを和解せしめ、湘州乃ち平ぐ。因って詔を被りて諸軍を会し西討す。尋いで武陵敗績す。
是の時、斉は郭元建を遣わして建鄴を襲わんと謀り、またその大将東方老等を遣わしてこれに継がしむ。陳武帝これを聞き、馳せて江陵に報ず。元帝即ち詔して僧弁に急ぎ下り赴援せしむ。僧弁は姑孰に次ぎ、即ち留まって鎮す。先に 豫 州刺史侯瑱に命じて東関に壘を築きて北軍を拒がしめ、呉郡太守張彪・呉興太守裴之横を征して瑱に会せしめ、大いにこれを破る。僧弁は旅を振るって建鄴に帰る。承聖三年二月、詔して僧弁を太尉・車騎大将軍と為す。頃にして母憂に丁る。母は魏氏を姓とし、性甚だ安和にして、綏接に善く、家門内外これ懐かざる莫し。初め、僧弁獄に下りし時、母は流淚徒行し、将に入りて謝罪せんとすれど、元帝相見えず。時に貞恵世子寵有り、母は閣に詣りて自ら訓え無きを陳べ、涕泗嗚咽す。衆並びにこれを矜む。僧弁の罪免るるに及び、母は深く責厲し、辞色俱に厳し。旧都を克復し、功宇宙を蓋うと雖も、母は恒に自ら謙損し、富貴を以て物に驕らず、朝野これを称し、明哲の婦人と謂う。亡ぶに及び、甚だ湣悼せられ、且つ僧弁の勲重きを以て、故に喪礼を加う。侍中・謁者を命じて喪事を監護せしめ、貞敬太夫人と諡す。霊柩将に建康に帰らんとし、また謁者を遣わして舟渚に至り弔祭せしむ。
その年十月、魏は兵を遣わし梁王蕭詧と合衆して将に江陵を襲わんとす。元帝は僧弁を建鄴より征し、大 都督 ・荊州刺史と為す。未だ至らざるに、荊州已に滅ぶ。敬帝初めて梁王の位に即くに及び、僧弁は援に預かり功を立て、制を承けて驃騎大将軍・ 中書監 ・ 都督 中外諸軍事・録尚書に進む。陳武帝と参謀して討伐す。
時に斉の文宣帝また貞陽侯蕭明を納れて以て梁の嗣と為さんとし、僧弁に書を遣わす。並びに貞陽もまた頻りに僧弁に書を遣わし、国に還り統を継ぐ事を論ず。僧弁納れず。貞陽と斉の上党王高渙が東関に至り、 散騎常侍 裴之横軍敗るるに及び、僧弁遂に貞陽を納れんと謀り、仍りて書して君臣の礼を定む。因って第七子の顕・顕の生母劉氏並びに弟子の珍を遣わして質と為し往かしめ、左戸尚書周弘正を遣わして歴陽に至り蕭明を迎えしむ。また吏部尚書王通を遣わして啓を送り、因って敬帝を以て皇太子と為さんことを求む。明は書を報じてこれを許す。僧弁は使いを遣わして質を鄴に送る。貞陽は衛士三千の渡来を求む。僧弁はその変を為さんことを慮り、散卒千人を受くるに止めしむのみ。並びに龍舟法駕を遣わして往き迎えしむ。貞陽の江を済むの日、僧弁は烜を擁して中流にあり、敢えて岸に就かず、末に乃ち江寧浦にて同会す。明は位に践み、僧弁に大司馬を授け、太子太傅・揚州牧を領せしめ、余は元の如し。
陳武帝の時に 司空 ・南徐州刺史となり、京口より挙兵してこれを襲った。僧辯は常に石頭城に居り、この日政務を執っていたところ、軍人が既に城北を越えて入り、南門からもまた兵が来たと報告があった。僧辯は子の頠と急いで外に出て合流したが、策がなく、南門の楼に拠って拝礼し哀れみを請うた。陳武は火を放ってこれを焼き、ようやく頠と共に降りて捕らえられた。陳武は言った、「私は何の罪があって、公は斉の軍と共に私を討とうとするのか。」また言った、「どうして全く備えがなかったのか。」僧辯は言った、「北門を公に委ねたのに、何を以て備えなしと言うのか。」この夜、子の頠と共に絞殺された。
初め、僧辯が建鄴を平定した時、陳武を京口に守らせ、赤心を推して廉頗・藺相如の交わりを結んだ。また第三子の頠に陳武の章后の生んだ娘を娶わせることを許し、未だ婚礼を挙げずに僧辯の母が亡くなったが、情誼は甚だ密であった。その長子の顗は度々諫めたが聞き入れられなかった。この時、江淮の人から「斉の兵が大挙して寿春に至った」と報せがあり、僧辯は斉軍が必ずや江表に出ると考え、記室参軍の江旰を遣わして事を陳武に報じ、併せて舟艦と器械を整えさせた。陳武はかねてより僧辯を図る志があり、命を聞くと、江旰を城中に留め、枚を銜んで進軍した。謀を知る者は侯安都・周文育のみで、外の者はただ江旰が北を防ぐために兵を徴したと思った。安都の舟艦が石頭に向かおうとした時、陳武は馬を制して進まなかった。安都は大いに恐れ、陳武を追って罵った、「今日賊を為すに、事勢は既に成った。生死は決すべきであり、後方で何を望むのか。もし敗れれば共に死ぬ、後になって斬首を免れることができようか。」陳武は言った、「安都が私を怒っている。」ようやく進むことを敢えてし、遂にこれを陥れた。時に寿春には結局斉軍はなく、また陳武の詭計でもなかったが、天の授けたものであろう。顗は承聖の初めに侍中の位にあり、魏が江陵を陥とすと、王琳に従って斉に入り、竟陵郡守となった。斉は王琳を遣わして寿春を鎮めさせ、江左を図らんとした。陳が淮南を平定して王琳を殺すと、顗はこれを聞き、郡城の南に出て高塚に登り、号哭して一慟のうちに絶命した。
僧辯の子、頒。
顗の弟の頒は、少より志節有り、常に梁の元帝に従った。荊州が覆滅すると、魏に入った。僧辯が既に亡くなり、弟の僧智は任約に就いた。敗走し、僧智は肥満して行けず、また害に遇った。
僧辯の弟、僧愔。
僧智の弟の僧愔は譙州刺史の位にあり、蕭勃を征討したが、兄の死を聞き、軍を引いて還った。時に呉州刺史の羊亮が僧愔の麾下に属していたが、僧愔と不和で、密かに侯瑱を召して捕らえさせた。僧愔は名義を以て侯瑱を責めると、侯瑱は罪を将の羊鯤に委ねてこれを斬った。僧愔は再び斉に奔り、徐嗣徽らと共に斉軍を挟んで陳を攻めた。軍敗れ、荒野に逃れ、行く所を知らず、天を仰いで嘆いて言った、「仇恥雪がず、未だ身を野草に膏するを欲せず。若し精誠に感有らば、道を得るべく、誓って人手に辱を受けじ。」刀を抜いて自刎せんとしたが、空中に急ぎ去れと促す声を聞き、僧愔はこれを異とし、力を勉めて馳せ進み、一里余り行って、振り返って先の場所を見ると既に陳の人がいた。江山を越えて、辛うじて斉に帰った。
附、徐嗣徽。
徐嗣徽は高平の人、父の雲伯は青部より南帰し、位は新蔡太守に終わった。侯景の乱に、嗣徽は荊州に帰り、元帝は羅州刺史とし、弟の嗣宗・嗣産も共に武用有り。嗣徽は巴丘に従征し、功により太子右衛率・監南荊州となった。徐州が亡びると、秦州刺史を任じられた。嗣産は先に建鄴にあり、嗣宗は荊州滅亡の中から逃れて都に至った。従弟の嗣先は僧辯の甥で、また比丘の慧暹に匿われ、共に脱出して還った。僧辯が害されると、兄弟は刀を抽き眥を裂き、功を立てんことを志し、共に逃れて兄の嗣徽に就き、密かに南 豫 州刺史の任約と僧辯の旧知として結び、陳武帝を図った。帝は江旰を遣わして説得させたが、嗣徽は江旰を捕らえて鄴に送り援軍を請うた。斉の文宣帝は儀同を授け、将として応赴せしめた。石頭で敗退すると、再び斉に兵を請い、任約・王曄・席皋と心を同じくして江を渡った。戦いに敗れ、嗣徽は馬より堕ち、嗣宗は兄を援けて害された。嗣産は陳武帝の軍に捕らえられ、言辞面色撓まずして死んだ。任約・王曄は北に帰ることができた。
羊侃。
羊侃は字を祖忻といい、泰山郡梁父県の人である。父の祉は『北史』に伝がある。侃は幼少より瑰偉で、身長七尺八寸、文と史を雅く愛した。弱冠にして父に従い梁州で功を立て、初め尚書郎となり、膂力で知られた。魏の帝は常に言った、「郎官たちは卿を虎と言うが、羊の質に虎の皮か。試みに虎の様子をせよ。」侃は伏し、手で殿を抉って指を没した。魏帝はこれを壮とし、珠剣を賜った。正光年中、秦州の羌の莫折念生が州を拠って反し、弟の天生を遣わして岐州を陥とし、雍州を寇した。侃は偏将として蕭宝寅に隷し、これを討ちに行き、天生を射殺すると、その衆は即ち潰えた。功により征東大将軍・東道行台となり、泰山太守を領し、爵を钜平侯に進めた。
初め、その父の祉は常に侃に南帰を勧めていた。侃はこの時、済水・黄河を挙げて先志を成さんとした。従兄の兗州刺史の敦が密かにこれを知り、州を拠って侃を拒んだ。侃は精兵三万を率いてこれを襲ったが、勝てず、十余りの城を築いてこれを守った。梁朝の賞授は全て元法僧と同じであった。魏帝はこれを聞き、侃に驃騎大将軍・ 司徒 ・泰山郡公を授け、長く兗州刺史とせんとした。侃はその使者を斬った。魏人は大いに驚き、僕射の於暉に衆十万及び高歓・爾朱陽都らを率いさせ相次いで至らせた。柵中の矢が尽き、南軍が進まないので、夜に囲みを潰して出た。一日一夜で魏の境を出た。渣口に至り、衆は尚万余り、馬二千匹あった。南に入らんとしたが、士卒は終夜悲歌した。侃は謝して言った、「卿らは郷土を懐かしむ。幸いに去留に適うべし。」各々拝礼して辞し去った。
侃は大通三年に建鄴に至り、徐州刺史を授かり、兄の默及び三弟の忱・給・元も皆刺史に拝された。侃は高昌県侯に封ぜられ、累遷して太子左衛率となった。中。車駕が楽遊苑に幸し、侃は宴に預かった。時に少府が新たに造った両刃の矟が完成し、長さ二丈四尺、囲み一尺三寸と奏上した。帝は侃に河南国の紫騮馬を賜って試させた。侃は矟を執り馬に上り、左右に撃刺して、特にその妙を尽くした。観る者は木に登った。帝は言った、「この木は必ず侍中によって折られるであろう。」間もなく果たして折れた。これによりこの矟を折樹矟と号した。北より降った者の中で、侃のみが衣冠の余緒であり、帝は他よりも寵愛し、言った、「朕が少時に矟を捉えた時、形勢は卿のようであった。今は旧体を失い、全く奇ならず。」上はまた武宴詩三十韻を制して侃に示すと、侃は即座に応詔した。帝は覧て言った、「仁者に勇有りと聞くが、今勇者に仁有るを見る。鄒・魯の遺風と謂うべく、英賢絶えず。」この日詔して殿省に入直せしめ、尚方の仗が用に堪えざるを啓上した。上は大いに怒り、坐する者は一人ではなかった。侯景が逆を為すに及んで、果たして仗の粗悪に弊われた。
後に都官尚書に遷り、 尚書令 の何敬容が権勢を振るい、侃と共に省にあったが、遊び造ることはなかった。左衛の蘭欽が同じく宮宴に侍した時、言葉少なに交わったが、侃は座中でこれを折って言った、「小僧め、汝は銅鼓を以て朱異を父と買い、韋粲を兄とし、何ぞ宜しきを無くすことを敢えてするか。」朱異はその時席にいた。後に華林の法会があり、欽は省中で拝謝した。王銓が欽に言った、「卿が廉公に屈膝するは、ますます尽美を見る。然れども羊公の意は未だ解けず、更に一拝を置くことができようか。」欽はこれに従った。宦官の張僧胤が嘗て侃を訪ねたが、侃は言った、「我が床は閹人の坐する所にあらず。」遂に前に進ませなかった。時の論はその貞正を美とした。
太清元年、侍中となり、大いに北侵を挙行することに会し、侃を冠軍將軍とし、寒山堰の工事を監督させた。堰が完成すると、侃は元帥貞陽侯明に水勢を利用して彭城を攻めるよう勧めたが、容れられなかった。やがて魏の援軍が大挙して到着すると、侃はしばしば遠来の敵を撃つべきと進言し、翌日もまた出戦を勧めたが、いずれも聞き入れられなかった。侃はそこで自らの配下を率いて堰の上に駐屯した。諸軍が敗れると、侃は陣を整えてゆっくりと帰還した。
二年、再び都官尚書となった。侯景が反乱を起こし、歴陽を陥落させると、帝は侃に景討伐の策を問うた。侃は二千人を率いて急ぎ採石を占拠し、邵陵王に寿春を襲撃させて奪取させ、景を進むこともできず退くにも根拠地を失わせ、烏合の衆を自然に瓦解させることを求めた。議する者は景がすぐに都を脅かすことはないだろうと言い、その策は採用されなかった。王質を行かせた。侃は「これで敗れるであろう」と言った。そこで侃に千余騎を率いて望國門に駐屯させた。景が新林に至ると、侃を召還して宣城王を補佐させ城内諸軍事を 都督 させた。
当時、景軍が突然到来したため、民衆は競って城内に入り、公私ともに混乱し、秩序はまったくなくなった。侃はそこで区画を分けて防備の手配をし、いずれも宗室の者をその間に配置した。兵士たちが武器庫に争って入り、自ら武器や甲冑を取ったので、担当官は制止できず、侃が数人を斬るよう命じてようやく止めさせた。この時、梁の建国以来四十七年、国内は平穏で、公卿が位にあり、また里巷の士大夫も兵甲を見たことがなかった。賊が突然迫ってきたので、公私ともに驚き震えた。当時、古参の将軍はすでに尽き、後進の若者たちは皆外に出ており、城中には侃と柳津、韋黯しかいなかった。津は年老いており病気であり、黯は臆病で謀略がなく、軍旅の指揮はすべて侃に一任され、その胆力はともに雄壮で、簡文帝は深く頼りにした。
賊が城に迫ると、皆が恐れおののいた。侃は外からの矢文を得たと偽って言った。「邵陵王、西昌侯がすでに近道に到着した」と。すると人々はようやく少し落ち着いた。賊が東掖門を攻め、火を放って勢いが非常に盛んだった。侃は水をかけて火を消し、数人を射殺したので、賊は退いた。侍中、軍師將軍を加えられた。詔勅があり、金五千両、銀一万両、絹一万匹を戦士たちに賜るため送られた。侃は辞退して受けず、配下の千余人に私的に賞を与えた。
賊は尖った頂部の木驢を作って城を攻め、矢や石では制御できなかった。侃は雉尾炬を作り、鉄の鏃を付け、油を注いで、木驢の上に投げて焼き、たちまち焼き尽くした。賊はまた東西に二つの土山を築いて城に臨み、城中は震え上がった。侃は命じて地下道を作らせ、密かにその土山の土を引き抜かせたので、土山は立つことができなかった。賊はまた登城楼車を作り、高さ十余丈で、城上から城中を射ようとした。侃は「車は高く塹は空虚である。彼らが来れば必ず倒れる。臥してこれを見るがよい」と言った。車が動くと果たして倒れ、皆は感服した。
賊はたびたび攻撃しても勝利できなかったので、長い包囲陣を築いた。朱異と張綰は出撃してこれを討とうと議した。帝が侃に問うと、侃は言った。「なりません。賊は多日攻城し、すでに落とせないので、長囲を築き、城中の降伏者を引き出そうとしているのです。今これに撃ちかかれば、出る者が少なければ賊を破るに足りず、多ければ一旦失利すれば、門は狭く橋は小さいので、必ず大いに挫かれ敗北します」。聞き入れられず、遂に千余人を出戦させた。まだ鋒を交えるに至らず、風を見て退き走り、果たして橋を争って水に飛び込み、死者は大半に及んだ。
初め、侃の長子の鷟が景に捕らえられ、城の下に引き出されて侃に見せられた。侃は彼に言った。「私は一族を挙げて主君に報いるが、なお不足を恨むほどである。どうしてまたこの一子を考慮しようか。幸いにも早く殺せ」。数日後また連れて来られ、侃は鷟に言った。「とっくに汝は死んだと思っていたが、まだ生きているのか。私は身を国に許し、陣中で死ぬことを誓っている。決して汝のために進退を左右することはない」。そこで弓を引いて彼を射た。賊はその忠義心ゆえに、彼を害することもなかった。
景は儀同の傅士哲を遣わして侃を呼び語らわせ、言った。「侯王は遠くより来たりて天子にご挨拶申し上げる。なぜ閉じて拒み、時に応じて受け入れないのか。尚書は国家の大臣である。宜しく朝廷に啓上すべきである」。侃は言った。「侯將軍は敗走逃亡の後、国家に帰順し、重鎮として方城を任され、懸隔なく信任されていた。何の患い苦しみがあって、突然に兵を挙げるに至ったのか。人臣としてこのようなことをする者があろうか。私は妄りに浮説を受け、門を開いて盗賊を招き入れることはできない」。士哲は言った。「北にいた日、久しく風猷を敬慕しておりました。戎服を脱ぎ、一度お目にかかりたい」。侃は冑を脱いだ。士哲はしばらく眺めて去った。そのように北人に欽慕されていたのである。
後に大雨が降り、城内の土山が崩れた。賊はこれに乗じてまさに入らんとしたが、苦戦しても制止できなかった。侃はそこで多く火を投げるよう命じ、火の城としてその進路を断ち切らせ、ゆっくりと城内に城を築かせたので、賊は進むことができなかった。まもなく病気により城内で卒去した。侍中、護軍將軍を追贈された。子の球が後を嗣いだ。
侃は若い頃より雄勇で、膂力は人に絶し、用いる弓は二十石に至り、馬上では六石の弓を用いた。かつて兗州の堯廟で壁を蹴り、真っ直ぐに五尋(約八メートル)まで上り、横に七歩の跡を得た。泗橋に数体の石人があり、長さ八尺、太さ十囲あった。侃はそれを持ち上げて互いに打ちつけ、すべて粉々に砕いた。性格は豪奢で、音律に長け、自ら採蓮、棹歌の二曲を作り、非常に新しい趣があった。姬妾を列ねて侍らせ、奢侈の極みを尽くした。箏を弾く者に陸太喜という者がおり、鹿角の爪(義爪)を着け、長さ七寸であった。舞人に張淨琬という者がおり、腰囲一尺六寸で、当時の人は皆、掌上で舞うことができると推した。また孫荊玉という者は腰を反らせて地に貼りつけ、筵の上の玉簪を口でくわえることができた。勅命により歌人の王娥兒に賜物があり、東宮もまた歌者の屈偶之に賜物を与え、ともに妙に奇曲を尽くし、当時対する者なしであった。初めて衡州に赴く時、二隻の船の間に三間の通梁水齋を造り、珠玉で飾り、さらに錦繍を加え、盛大に帷屏を設け、女楽を列ねた。潮に乗じて纜を解き、波に臨んで酒を設け、塘に沿い水の傍らで、見物人が押し合いへし合いした。大同年間、魏の使者陽斐は侃と北でかつて同学であったが、詔命があり侃に斐を招いて同宴を開かせた。賓客三百余人、食器はすべて金玉や雑宝であり、三部の女楽を奏した。夕方になると、侍婢百余人が皆金の花燭を執った。侃は酒を飲まないが賓客との交遊を好み、終日献酬し、彼らの酔い醒めを同じくした。
性格は寛厚で、器量があった。かつて南に還る途中、漣口で酒宴を設けた。客の張孺才という者が船中で酔って火を失い、延焼して七十余艘を焼き、焼けた金帛は数え切れなかった。侃は聞いても少しも気にかけず、酒を命じてやめさせなかった。孺才は慚愧と恐れから自ら逃げたが、侃は慰めて諭し、帰らせ、以前のように遇した。
侃の子 從
第三子の從は字を子鵬といい、侃に従って台城(宮城)内におり、城が陥落すると、陽平に逃げ隠れた。侯景はその妹を側室としたので、呼び戻して非常に厚く遇し、庫真 都督 とした。景が敗れると、從は密かに彼を討とうと図り、その東走に従った。景が松江で戦いに敗れ、残るは三隻の船のみとなり、海に出て蒙山に向かおうとした。折しも景が昼寝している時、從は船頭に言った。「この中にどこに蒙山があるというのか。汝はただ我が処分に従え」。そこで真っ直ぐ京口に向かい、胡豆洲に至った。景が気づき、大いに驚いた。岸上に問うと、「郭元建がまだ広陵にいる」と言う。景は大いに喜び、彼に頼ろうとした。從は刀を抜いて船頭を叱り、京口に向かわせた。從と王元禮、謝答仁の弟の葳蕤は、ともに景の親しい者であった。三人は景に言った。「我等は王のため百戦百勝し、自ら無敵と謂い、ついにここに至りました。これ天にあらずや。今、王に頭を乞いて富貴を取ります」。景は水に飛び込もうとした。從は刀を抜いて彼を斬った。景は船中に走り込み、小刀で船底を抉ろうとした。從は矛を以て入り刺し殺した。景の僕射索超世は別の船にいた。葳蕤が景の命と偽って彼を召し、京口で斬った。
元帝は從を青州刺史とし、昌國縣侯に封じ、また東陽太守を兼ねさせた。陸納を征伐し、 散騎常侍 を加えられ、西 晉 州刺史に任じられた。東關で郭元建を破り、東 晉 州刺史に遷った。承聖三年、西魏が江陵を包囲すると、從は援軍に赴いたが間に合わなかった。王僧愔に従って嶺表で蕭勃を征伐し、僧辯の敗北を聞いて帰還したが、侯瑱に破られ、害に遇い、年二十八であった。
羊鴉仁
羊鴉仁は字を孝穆といい、泰山郡鉅平県の人である。若い頃より 驍 勇で、郡に仕えて主簿となった。普通年間の中頃、兄弟を率いて魏から梁に帰順し、広 晉 侯に封ぜられた。青州・斉州の間で征伐に従事し、功績を重ね、 都督 ・北司州刺史の位に至った。侯景が降伏すると、詔により鴉仁は土州刺史桓和之・仁州刺史湛海珍らを督して懸瓠に赴き、応接せしめた。侯景が到着すると、そのまま 都督 ・司 豫 二州刺史となり、懸瓠に鎮した。侯景が渦陽で敗れた時、魏軍が次第に迫り、鴉仁は糧食輸送が続かぬことを恐れ、北司に引き返し、上表して陳謝した。帝は鴉仁を大いに怒り、鴉仁は恐れて軍を淮上に留めた。侯景が反乱すると、鴉仁は配下の兵を率いて入援した。
太清二年、侯景が盟約に背くと、鴉仁は趙伯超および南康王会理とともに東府城で賊を攻めたが、かえって賊に敗れた。台城が陥落すると、侯景は彼を五兵尚書に任じた。鴉仁は常に奮発を志し、親しい者に言うには、「我は凡庸の身でありながら朝廷の寵愛を受けながら、ついに報効する所なく、重恩に答えることができぬ。今このまま終わるならば、死してなお責めを負わん」と。涙を流し、見る者を哀れませた。
三年、江西に奔り、江陵に赴かんとしたが、東莞に至り、故北徐州刺史荀伯道の子荀晷に害された。臨終に報効を終えられぬことを思い、涙を流した。後に鴉仁の兄の子海珍がこれを知り、荀晷の父伯道および祖父と生母、合わせて五つの喪を掘り起こし、それぞれその骨の半分を分け、同じ棺に入れて焼き、半分の骨を他の骨と混ぜ、五つの袋に盛り、袋の上に銘して「荀晷祖父母某之骨」と記した。
鴉仁の子 亮
鴉仁の子亮は、侯景の乱の後に吳州刺史に移り、王琳に従い、名将の子として礼遇は甚だ厚かった。酒を多く嗜み無頼で、酒酔いの際に宦官に殺された。
論
論じて言う。王神念・羊侃・羊鴉仁らは、北より南に至り、皆寵任を受けた。その後、侃および鴉仁は晩年に艱難に遭う。侃は危難に臨んで屈せず、鴉仁は義を守って死んだ。古人の言う「心は鉄石の如し」とは、このことを言うのであろう。僧辯は風格秀で挙げられ、文武の奇才があったが、この酷濫に遭い、ほとんど覆滅に至らんとした。幸いにして首領を全うし、ついに奇功を立て、人に仕える道は、ここにおいて得たと言えよう。時に運は交喪し、地は元宰に居りながら、内には奥主ありて外に君を求め、遂に尊卑の位を易え、親疏の序を貿うこととなり、既に児戯の如く、かつ棋を打つに類す。敵を延いて釁を開くは、実にここに基づき、国を喪い宗を傾け、天下の笑いものとなった。豈に天将に陳を啓かんとするか、何ぞ斯の人にして斯の謬りあるや、哀しいかな。