南史

巻六十三より巻六十四

巻六十三より巻六十四

南史

巻六十三より巻六十四

列伝第五十三

王神念

原文王神念

王神念は太原郡祁県の人である。若い頃から儒学を好み、特に仏典に明るかった。魏に仕えて潁川太守の位にあり、子の僧辯と共に郡を拠点として梁に帰順し、南城県侯に封ぜられた。安成・武陽・宣城の内史を歴任し、いずれも政績を顕著にした。後に青州・冀州の二州刺史となった。神念は性質剛直で、赴任する州郡では必ず淫祠を禁止し、当時青州東北の石鹿山が海に臨んでおり、以前から神廟と妖しき巫があり、百姓を欺き惑わし、遠近から祈祷に来て、浪費が極めて多かった。神念が到着すると、直ちにこれを破壊撤去させ、風俗は改まった。後に召されて右衛将軍となり、官のまま死去し、諡して壮といった。元帝の初年に至り、侍中・中書令を追贈され、諡を忠公と改められた。

原文王神念,太原祁人也。少好儒術,尤明內典。仕魏位潁川太守,與子僧辯據郡歸梁,封南城縣侯。曆安成、武陽、宣城內史,皆著政績。後爲青、冀二州刺史。神念性剛正,所更州郡必禁止淫祠,時青州東北有石鹿山臨海,先有神廟祅巫,欺惑百姓,遠近祈禱,糜費極多。及神念至,便令毀撤,風俗遂改。後徵爲右衛將軍,卒于官,諡曰壯。及元帝初,追贈侍中、中書令,改諡忠公。

神念は若い頃から騎射に優れ、老いても衰えなかった。かつて武帝の前で二手に刀と楯を執り、左右に交差させ、馬を駆って往来し、群伍を圧倒した。

原文神念少善騎射,及老不衰。嘗于武帝前手執二刀楯,左右交度,馭馬往來,冠絶群伍。

当時また楊華という者がおり、驚軍騎(馬術の技)をよくし、これも一時の妙技で、帝は深く賞賛した。華は本名を白花といい、武都郡仇池の人である。父の大眼は魏の名将であった。華は若い頃から勇力があり、容貌は魁偉で、魏の胡太后が彼を逼って寵幸した。華は禍を恐れ、大眼の死後、部曲ぶきょくを擁し、父の屍を載せ、名を華と改め、降伏して来た。胡太后は追慕して止まず、楊白花歌辞を作り、宮人に昼夜連臂して蹋蹄(足踏み)して歌わせ、その声は甚だ悲愴であった。華は後に太子左衛率の位に至り、侯景の軍中で死去した。

原文時復有楊華者,能作驚軍騎,亦一時妙捷,帝深賞之。華本名白花,武都仇池人。父大眼爲魏名將。華少有勇力,容貌瑰偉,魏胡太后逼幸之。華懼禍,及大眼死,擁部曲,載父屍,改名華,來降。胡太后追思不已,爲作楊白花歌辭,使宮人晝夜連臂蹋蹄歌之,聲甚淒斷。華後位太子左衛率,卒于侯景軍中。

神念の長子遵業は太僕卿の位に至った。次子が僧辯である。

原文神念長子遵業,位太僕卿。次子僧辯。

神念の子 僧辯

原文神念子 僧辯

僧辯は字あざなを君才といい、学問は広く博通し、特に左氏春秋に明るかった。言辞は弁捷で、器宇は厳然としており、たとえ射て札を貫かぬとも、陵雲の気概があった。元帝が江州刺史となった時、僧辯は府に随って中兵参軍となった。時に安成の望族劉敬躬という者がおり、田間で白い蛆が金の亀に化するのを得て、これを銷そうとしたところ、亀が光を放って室を照らし、敬躬はこれを神として祈祷した。請うところ多く験があり、無頼の徒が多くこれに依った。平生の徳ある者や怨みある者には必ず報い、遂に謀反を企て、遠近がこれに応じた。元帝は中直兵参軍曹子郢にこれを討たせ、僧辯に安成を襲撃させた。子郢がその軍を破ると、敬躬は安成に逃れ、僧辯がこれを捕らえた。また安州の反乱した蛮を討平し、これによって勇略をもって称された。

原文僧辯字君才,學涉該博,尤明左氏春秋。言辭辯捷,器宇肅然,雖射不穿劄,而有陵雲之氣。元帝爲江州刺史,僧辯隨府爲中兵參軍。時有安成望族劉敬躬者,田間得白蛆化爲金龜,將銷之,龜生光照室,敬躬以爲神而禱之。所請多驗,無賴者多依之。平生有德有怨者必報,遂謀作亂,遠近回應。元帝命中直兵參軍曹子郢討之,使僧辯襲安成。子郢既破其軍,敬躬走安成,僧辯禽之。又討平安州反蠻,由是以勇略稱。

元帝が荊州に移ると、僧辯は貞毅府諮議参軍となり、柳仲礼に代わって竟陵太守となった。侯景が反乱すると、元帝は僧辯に舟師一万を総督させて援軍に赴かせた。到着した時、台城は既に陥落し、侯景はその軍需物資を全て収め、手厚く慰撫して、竟陵に帰還させた。そこで倍道兼行して西に進み、元帝に就いた。元帝は承制して、領軍将軍に任じた。荊州・湘州に疑いと離反が生じると、元帝は僧辯と鮑泉にこれを討たせた。当時僧辯は竟陵の部下は皆精鋭で勇猛であるが、まだ全ては来ておらず、集結を待ってから出発したいと考えていた。泉と共に入り、泉に先に言わせようとしたが、泉は入って言えなかった。元帝が僧辯に問うと、僧辯は実情を答えた。元帝は猜疑心が強く、遅延して出発しないと思い、激怒して声を厲らせて言った。「卿は行くのを憚り命令を拒み、賊と同調しようというのか。今はただ死あるのみだ。」僧辯は答えて言った。「今日戮に就くのは甘んじます。ただ老母に会えぬことを恨むのみです。」帝は自ら斬りつけ、その腿に当たり、血が地に流れ、気絶し、久しくしてようやく蘇った。直ちに廷尉に送り、その子や甥も併せて捕らえて繋いだ。その母は簪珥を脱いで罪を待ち、帝の怒りが解け、良薬を賜ったので、死なずに済んだ。折しも岳陽王の軍が江陵を襲撃し、人心が騒然とした。元帝は獄から僧辯を出して城内都督とした。間もなく岳陽王は敗走し、鮑泉は長沙を攻め落とせず、帝は僧辯に代わらせた。僧辯は将帥を部署し、力を併せて攻囲し、遂に湘州の地を平定した。帰還して再び領軍将軍を兼ねた。

原文元帝除荊州,僧辯爲貞毅府諮議參軍,代柳仲禮爲竟陵太守。及侯景反,元帝命僧辯總督舟師一萬赴援。及至,台城陷沒,侯景悉收其軍實而厚加綏撫,遣歸竟陵。於是倍道兼行,西就元帝。元帝承制,以爲領軍將軍。及荊、湘疑貳,元帝令僧辯及鮑泉討之。時僧辯以竟陵間部下皆勁勇,猶未盡來,意欲待集然後上頓。與泉俱入,使泉先言之,泉入不敢言。元帝問僧辯,僧辯以情對。元帝性忌,以爲遷延不去,大怒厲聲曰:「卿憚行拒命,欲同賊邪?今唯死耳。」僧辯對曰:「今日就戮甘心,但恨不見老母。」帝自斫之,中其髀,流血至地,悶絶,久之方蘇。即送廷尉,並收其子侄並系之。其母脫簪珥待罪,帝意解,賜以良藥,故不死。會岳陽軍襲江陵,人情搔擾。元帝遣就獄出僧辯以爲城內都督。俄而岳陽奔退,而鮑泉力不能克長沙,帝命僧辯代之。僧辯仍部分將帥,並力攻圍,遂平湘土。還復領軍將軍。

侯景が長江を西に浮かんで侵寇し、軍は夏首に駐屯した。僧辯は大都督となり、軍は巴陵に駐屯した。景が郢城を陥落させると、進んで荊州を侵そうとし、これにより長江沿いの屯戍は風の便りに従って降伏を請うた。僧辯は公私の船を水に沈め、諸軍に命じて城に乗り固守させ、旗を偃げ鼓を臥せ、安閑として人のいぬが如くであった。翌日、賊の大軍が長江を渡り、軽騎が城下に至り、城中に向かって言った。「王領軍に伝えよ、何ぞ早く降らぬのか。」僧辯は使者に答えさせて言った。「大軍はただ荊州に向かうがよい。この城は自ら障礙とはならぬ。僧辯の一族百人の命は人の掌握にある。どうしてすぐに降れようか。」景の軍は肉薄して激しく攻めたが、城内は同時に鬨の声を上げ、矢石が雨のように降り、賊は退却した。元帝はまた平北将軍胡僧佑に兵を率いて僧辯を救援させた。この日、賊はまた城を攻めて勝てず、また火艦で柵を焼こうとしたが、風が便わず、自ら焼けて退いた。流星がその営中に墜ち、賊徒は大いに驚き、顔を見合わせて色を失った。賊の将帥任約はまた陸法和に捕らえられ、景は営を焼いて夜遁し、軍を夏首に引き返した。

原文侯景浮江西寇,軍次夏首。僧辯爲大都督,軍次巴陵。景既陷郢城,將進寇荊州,於是緣江屯戍望風請服。僧辯並沈公私船于水,分命眾軍乘城固守,偃旗臥鼓,安若無人。翌日,賊眾濟江,輕騎至城下,謂城中曰:「語王領軍,何不早降?「僧辯使答曰:「大軍但向荊州,此城自當非礙。僧辯百口在人掌握,豈得便降。」景軍肉薄苦攻,城內同時鼓噪,矢石雨下,賊乃引退。元帝又命平北將軍胡僧佑率兵援僧辯。是日,賊復攻城不克,又爲火艦燒柵,風不便,自焚而退。有流星墮其營中,賊徒大駭,相顧失色。賊帥任約又爲陸法和所禽,景乃燒營夜遁,旋軍夏首。

元帝は僧辯を征東将軍・開府儀同三司・江州刺史とし、長寧県公に封じ、直ちに巴陵の諸軍を率いて流れに沿って景を討つことを命じた。魯山を攻め落とし、引き続き郢を攻め、即座に羅城に入った。また大きな星が車輪の如く賊の営に墜ち、地から十丈のところで火に変わり、一時に砕け散った。龍が城から出て、五色の光が輝き、城前の鸚鵡洲の水中に入った。景はこれを聞き、倍道で建鄴に帰還した。賊の将帥宋子仙らは窮迫し、郢城を輸送して差し出し、身をもって景のもとに帰還しようと願った。僧辯は偽ってこれを許した。子仙は信じるものと思い、舟を浮かべて出発しようとした時、僧辯は杜龕に命じて鬨の声を上げて掩撃させ、大いにこれを破り、子仙・丁和らを捕らえて江陵に送った。元帝は和の舌を生きたまま釘で打ち、臠殺することを命じた。

原文元帝以僧辯爲征東將軍、開府儀同三司、江州刺史,封長寧縣公,命即率巴陵諸軍沿流討景。攻拔魯山,仍攻郢,即入羅城。又有大星如車輪墜賊營,去地十丈變成火,一時碎散。有龍自城出,五色光曜,入城前鸚鵡洲水中。景聞之,倍道歸建鄴。賊帥宋子仙等困蹙,求輸郢城,身還就景。僧辯偽許之。子仙謂爲信然,浮舟將發,僧辯命杜龕鼓噪掩至,大破之,禽子仙、丁和等送江陵。元帝命生釘和舌臠殺之。

郢州えいしゅうが平定されると、僧辯は軍を進めて尋陽に至った。軍人の多くが周何二廟の神の夢を見て、「我は既に天子を助けて賊を討った。」と自称し征討大将軍となり、皆朱色の船に乗っていた。間もなく反って「既に景を殺した。」と言った。同じ夢を見た者は数十百人に及んだ。

原文郢州既平,僧辯進師尋陽。軍人多夢周何二廟神云:「吾已助天子討賊。」自稱征討大將軍,並乘朱航。俄而反曰:「已殺景。」同夢者數十百焉。

元帝は僧辯に侍中・尚書令・征東大将軍を加えた。僧辯は頻りに上表して即位を勧め、優れた返答を蒙った。そこで江州より発して直ちに建鄴を指し、先に南兗州刺史侯瑱に命じて南陵・鵲頭などの戍を襲撃させ、併せてこれを攻略した。

原文元帝加僧辯侍中、尚書令、征東大將軍。僧辯頻表勸進,並蒙優答。於是發江州直指建鄴,乃先命南兗州刺史侯瑱襲南陵、鵲頭等戍,並克之。

先に、陳武帝(陳霸先)が五万の兵を率いて南江より出で、前軍五千は盆口に至る。陳武の名声は僧弁を圧し、僧弁はこれを畏れた。盆口に至り、僧弁と白茅洲に会して盟を結ぶ。ここに壇に登り血を啜り、共に盟文を読み、辞気慷慨にして、皆涙下り衿を沾す。鵲頭を発し、中流にて風浪起こり、軍人皆懼る。僧弁再拝して天に告げて曰く、「僧弁は忠臣、辞を奉じて罪を伐ち、社稷中興せんとす、まさに風を息ましむべし。若し鼎命中に淪ばば、請う此より逝かん」と。言い終わりて風止み、此より安流に泛ぶ。群魚水を躍り空を飛びて導き、賊は官軍の上に五色の雲有り、双龍艦を挟み、行くこと甚だ迅疾なり。

原文先是,陳武帝率眾五萬出自南江,前軍五千行至盆口。陳武名蓋僧辯,僧辯憚之。既至盆口,與僧辯會于白茅洲爲盟。於是升壇歃血,共讀盟文,辭氣慷慨,皆淚下沾衿。及發鵲頭,中江而風浪,師人咸懼。僧辯再拜告天曰:「僧辯忠臣,奉辭伐罪,社稷中興,當使風息;若鼎命中淪,請從此逝。」言訖風止,自此遂泛安流。有群魚躍水飛空引導,賊望官軍上有五色雲,雙龍挾艦,行甚迅疾。

侯景自ら出でて石頭城北に戦い、僧弁等大いにこれを破る。盧暉略、景の戦いに敗れたるを聞き、石頭城を以て降る。僧弁軍を引いて入りこれを占拠す。景は朱方に走り、僧弁は諸将に命じて台城を占拠せしむ。その夜、軍人の失火により太極殿及び東西堂を焼く。僧弁は賊を滅ぼす功有りと雖も、下を馭する法無く、軍人は鹵掠し、居人を驅逼す。都下の百姓父子兄弟相哭き、石頭より東城に至るまで、執縛せらるる者は、男女裸袒し、衵衣も免れず。淮に沿いて号叫し、翻って侯景を思う。

原文景自出戰於石頭城北,僧辯等大破之。盧暉略聞景戰敗,以石頭城降。僧辯引軍入據之。景走朱方,僧辯命眾將入據台城。其夜軍人失火燒太極殿及東西堂。僧辯雖有滅賊之功,而馭下無法,軍人鹵掠,驅逼居人。都下百姓父子兄弟相哭,自石頭至於東城,被執縛者,男女裸露,衵衣不免。緣淮號叫,翻思景焉。

僧弁は侯瑱・裴之横に命じて東に侯景を追わしむ。偽行台趙伯超は自ら呉松江より侯瑱に降り、瑱これを僧弁に送る。僧弁これに謂いて曰く、「卿は国の重恩を荷い、遂にまた同逆す。今日の事、将に如何にせんと欲すや」と。因って江陵に送ることを命ず。伯超既に出で、僧弁は坐客を顧みて曰く、「朝廷は昔唯だ趙伯超有るを知り、豈に王僧弁を識らんや。社稷既に傾き、我が為に復せらる。人の興廃、また何の常か有らん」と。賓客皆前に進みて功德を称歎す。僧弁戄然として、乃ち謬りて答えて曰く、「此れ乃ち聖上の威徳、群帥の命を用うるなり。老夫は戎首に濫りに居ると雖も、何の力か之れ有らん」と。ここに逆寇悉く平ぐ。

原文僧辯命侯瑱、裴之橫東追景,偽行台趙伯超自吳松江降侯瑱,瑱送至僧辯,僧辯謂曰:「卿荷國重恩,遂復同逆,今日之事,將欲如何。」因命送江陵。伯超既出,僧辯顧坐客曰:「朝廷昔唯知有趙伯超,豈識王僧辯乎。社稷既傾,爲我所復,人之興廢,亦復何常。」賓客皆前稱歎功德,僧辯戄然,乃謬答曰:「此乃聖上威德,群帥用命,老夫雖濫居戎首,何力之有焉。」於是逆寇悉平。

元帝即位し、鎮衛将軍・司徒を授け、班剣二十人を加え、永寧郡公に改封し、侍中・尚書令は元の如し。

原文元帝即位,授鎮衛將軍、司徒,加班劍二十人,改封永寧郡公,侍中、尚書令如故。

先に、天監年中、沙門釈宝志が讖を作りて云く、「太歳龍、将に理無からん。蕭は霜に経り、草は応に死す。余人散じ、十八子」と。時に蕭氏滅び李氏代わって興ると言う。湘州の賊陸納等が衡州刺史丁道貴を攻め破り、李洪雅また零陵より自ら称して納を討つを助けんとす。既にして朝廷その心を達せず、詔して僧弁を征し宜豊侯蕭循に就き南征せしめ、都督東上諸軍事と為す。陳武帝を都督西下諸軍事と為す。先に、陳武は都督を僧弁に譲るも、僧弁受けず。故に元帝東西の都督に分ちて俱に南討せしむ。尋いで洪雅は納に降り、納は符に応ずと為し、ここに共に議して洪雅を大将軍に拝し、尊びて主と為して事う。洪雅は平肩の大輿に乗り、傘蓋・鼓吹、羽儀悉く備わり、翼従して長沙城に入る。時に納等は車輪に拠り、岸を夾んで城と為し、士卒は皆百戦の余、器甲精厳、徒党勇鋭、蒙衝闘艦、水に亙り山を陵ぐ。時に天日清明、初め雲霧無し。軍発の際、忽然として風雨有り、時人これを泣軍と謂い、百姓窃に言いてその敗るるを知る。三月庚寅、二龍城西の江中より騰躍して天に升り、五色分明、遥かに江水に映ず。百姓皆仰ぎ目之し、父老或いは聚まって悲しみ、窃に相謂いて曰く、「地龍已に去る、国其れ亡びんか」と。初め、納は大艦を造り、一名を三王艦と曰う。邵陵王・河東王・桂陽嗣王の三人並びに元帝の為に害せらる。故にその像を艦に立て、太牢を以て祭り、その節蓋羽儀鼓吹を加え、戦う毎に輒ちこれに祭りて福を求む。また二艦を造る。一を青龍艦と曰い、一を白虎艦と曰う。皆牛皮を以て衣し、並びに高さ十五丈、その中尤も勇健なる者を選びてこれに乗ず。僧弁これを憚り、稍く連城を作りて逼る。賊敢えて鋒を交えず、並びに懈怠を懐く。僧弁その無備に因り、親しく旗鼓を執りて進止を誡め、群賊大いに敗れ、帰りて長沙を保つ。僧弁乃ち命じて壘を築きてこれを囲み、自ら出で臨視す。賊は備え無きを知り、その党呉蔵・李賢明等は楯を蒙りて直進す。僧弁尚ほ胡床に拠りて之が為に動かず、指麾勇敢、遂に賢明を斬り、賊乃ち退き帰る。初め、陸納の逆を為すや、王琳を以て辞と為し、云く、「若し琳を放たば則ち自ら服せん」と。時に諸軍未だこれを許さず。而して武陵王蕭紀は上流に衆を擁し、内外駭懼す。元帝乃ち琳を遣わしてこれを和解せしめ、湘州乃ち平ぐ。因って詔を被りて諸軍を会し西討す。尋いで武陵敗績す。

原文先是,天監中沙門釋寶志爲讖云:「太歲龍,將無理。蕭經霜,草應死。餘人散,十八子。」時言蕭氏當滅,李氏代興。及湘州賊陸納等攻破衡州刺史丁道貴,而李洪雅又自零陵稱助討納。既而朝廷未達其心,詔征僧辯就宜豐侯循南征,爲都督東上諸軍事。以陳武帝爲都督西下諸軍事。先是,陳武讓都督于僧辯,僧辯不受,故元帝分爲東西都督而俱南討焉。尋而洪雅降納,納以爲應符,於是共議拜洪雅爲大將軍,尊事爲主。洪雅乘平肩大輿,傘蓋、鼓吹,羽儀悉備,翼從入長沙城。時納等據車輪,夾岸爲城,士卒皆百戰之餘,器甲精嚴,徒黨勇銳,蒙沖鬥艦,亙水陵山。時天日清明,初無雲霧,軍發之際,忽然風雨,時人謂爲泣軍,百姓竊言知其敗也。三月庚寅,有兩龍自城西江中騰躍升天,五色分明,遙映江水。百姓咸仰面目之,父老或聚而悲,竊相謂曰:「地龍已去,國其亡乎。」初,納造大艦,一名曰三王艦者,邵陵王、河東王、桂陽嗣王三人並爲元帝所害,故立其像於艦,祭乙太牢,加其節蓋羽儀鼓吹,每戰輒祭之以求福。又造二艦,一曰青龍艦,一曰白虎艦,皆衣以牛皮,並高十五丈,選其中尤勇健者乘之。僧辯憚之,稍作連城以逼焉。賊不敢交鋒,並懷懈怠。僧辯因其無備,親執旗鼓以誡進止,群賊大敗,歸保長沙。僧辯乃命築壘圍之,而自出臨視。賊知不設備,其党吳藏、李賢明等蒙楯直進,僧辯尚據胡床不爲之動,指麾勇敢,遂斬賢明,賊乃退歸。初,陵納作逆,以王琳爲辭,云:「若放琳則自服」。時眾軍未之許,而武陵王紀擁眾上流,內外駭懼。元帝乃遣琳和解之,湘州乃平。因被詔會眾軍西討。尋而武陵敗績。

是の時、斉は郭元建を遣わして建鄴を襲わんと謀り、またその大将東方老等を遣わしてこれに継がしむ。陳武帝これを聞き、馳せて江陵に報ず。元帝即ち詔して僧弁に急ぎ下り赴援せしむ。僧弁は姑孰に次ぎ、即ち留まって鎮す。先に豫州刺史侯瑱に命じて東関に壘を築きて北軍を拒がしめ、呉郡太守張彪・呉興太守裴之横を征して瑱に会せしめ、大いにこれを破る。僧弁は旅を振るって建鄴に帰る。承聖三年二月、詔して僧弁を太尉・車騎大将軍と為す。頃にして母憂に丁る。母は魏氏を姓とし、性甚だ安和にして、綏接に善く、家門内外これ懐かざる莫し。初め、僧弁獄に下りし時、母は流淚徒行し、将に入りて謝罪せんとすれど、元帝相見えず。時に貞恵世子寵有り、母は閣に詣りて自ら訓え無きを陳べ、涕泗嗚咽す。衆並びにこれを矜む。僧弁の罪免るるに及び、母は深く責厲し、辞色俱に厳し。旧都を克復し、功宇宙を蓋うと雖も、母は恒に自ら謙損し、富貴を以て物に驕らず、朝野これを称し、明哲の婦人と謂う。亡ぶに及び、甚だ湣悼せられ、且つ僧弁の勲重きを以て、故に喪礼を加う。侍中・謁者を命じて喪事を監護せしめ、貞敬太夫人と諡す。霊柩将に建康に帰らんとし、また謁者を遣わして舟渚に至り弔祭せしむ。

原文是時,齊遣郭元建謀襲建鄴,又遣其大將東方老等繼之。陳武帝聞之,馳報江陵。元帝即詔僧辯急下赴援。僧辯次姑孰,即留鎮焉。先命豫州刺史侯瑱築壘于東關以拒北軍,征吳郡太守張彪、吳興太守裴之橫會瑱而大敗之。僧辯振旅歸建鄴。承聖三年二月,詔以僧辯爲太尉、車騎大將軍。頃之丁母憂。母姓魏氏,性甚安和,善於綏接,家門內外莫不懷之。初,僧辯下獄,母流淚徒行,將入謝罪,元帝不與相見。時貞惠世子有寵,母詣合自陳無訓,涕泗嗚咽,眾並矜之。及僧辯罪免,母深相責厲,辭色俱嚴。雖克復舊都,功蓋宇宙,母恒自謙損,不以富貴驕物,朝野稱之,謂爲明哲婦人。及亡,甚見湣悼,且以僧辯勳重,故喪禮加焉。命侍中、謁者監護喪事,諡曰貞敬太夫人。靈柩將歸建康,又遣謁者至舟渚弔祭。

その年十月、魏は兵を遣わし梁王蕭詧と合衆して将に江陵を襲わんとす。元帝は僧弁を建鄴より征し、大都督・荊州刺史と為す。未だ至らざるに、荊州已に滅ぶ。敬帝初めて梁王の位に即くに及び、僧弁は援に預かり功を立て、制を承けて驃騎大将軍・中書監・都督中外諸軍事・録尚書に進む。陳武帝と参謀して討伐す。

原文其年十月,魏遣兵及梁王察合眾將襲江陵,元帝征僧辯於建鄴,爲大都督、荊州刺史。未至,而荊州已滅。及敬帝初即梁王位,僧辯預援立功,承制進驃騎大將軍、中書監、都督中外諸軍事、錄尚書。與陳武帝參謀討伐。

時に斉の文宣帝また貞陽侯蕭明を納れて以て梁の嗣と為さんとし、僧弁に書を遣わす。並びに貞陽もまた頻りに僧弁に書を遣わし、国に還り統を継ぐ事を論ず。僧弁納れず。貞陽と斉の上党王高渙が東関に至り、散騎常侍裴之横軍敗るるに及び、僧弁遂に貞陽を納れんと謀り、仍りて書して君臣の礼を定む。因って第七子の顕・顕の生母劉氏並びに弟子の珍を遣わして質と為し往かしめ、左戸尚書周弘正を遣わして歴陽に至り蕭明を迎えしむ。また吏部尚書王通を遣わして啓を送り、因って敬帝を以て皇太子と為さんことを求む。明は書を報じてこれを許す。僧弁は使いを遣わして質を鄴に送る。貞陽は衛士三千の渡来を求む。僧弁はその変を為さんことを慮り、散卒千人を受くるに止めしむのみ。並びに龍舟法駕を遣わして往き迎えしむ。貞陽の江を済むの日、僧弁は烜を擁して中流にあり、敢えて岸に就かず、末に乃ち江寧浦にて同会す。明は位に践み、僧弁に大司馬を授け、太子太傅・揚州牧を領せしめ、余は元の如し。

原文時齊文宣又納貞陽侯明以爲梁嗣,與僧辯書,並貞陽亦頻與僧辯書,論還國繼統之事。僧辯不納。及貞陽與齊上党王高渙至東關,散騎常侍裴之橫軍敗,僧辯遂謀納貞陽,仍書定君臣之禮。因遣第七子顯、顯所生劉並弟子珍往充質,遣左戸尚書周弘正至曆陽迎明。又遣吏部尚書王通送啟,因求以敬帝爲皇太子。明報書許之。僧辯遣使送質於鄴,貞陽求度衛士三千。僧辯慮其爲變,止受散卒千人而已,並遣龍舟法駕往迎。貞陽濟江之日,僧辯擁烜中流,不敢就岸,末乃同會于江寧浦。明踐位,授僧辯大司馬,領太子太傅、揚州牧,餘如故。

陳武帝の時に司空・南徐州刺史となり、京口より挙兵してこれを襲った。僧辯は常に石頭城に居り、この日政務を執っていたところ、軍人が既に城北を越えて入り、南門からもまた兵が来たと報告があった。僧辯は子の頠と急いで外に出て合流したが、策がなく、南門の楼に拠って拝礼し哀れみを請うた。陳武は火を放ってこれを焼き、ようやく頠と共に降りて捕らえられた。陳武は言った、「私は何の罪があって、公は斉の軍と共に私を討とうとするのか。」また言った、「どうして全く備えがなかったのか。」僧辯は言った、「北門を公に委ねたのに、何を以て備えなしと言うのか。」この夜、子の頠と共に絞殺された。

原文陳武帝時爲司空、南徐州刺史,因自京口舉兵襲之。僧辯常處石頭城,是日視事,軍人已踰城北而入,南門又白有兵來。僧辯與子頠遽走出合,計無所出,乃據南門樓拜請求哀。陳武縱火焚之,方共頠下就執。陳武謂曰:「我有何辜,公欲與齊師賜討。」又曰:「何意全無防備。」僧辯曰:「委公北門,何謂無備?」是夜,及子頠俱被絞殺。

初め、僧辯が建鄴を平定した時、陳武を京口に守らせ、赤心を推して廉頗・藺相如の交わりを結んだ。また第三子の頠に陳武の章后の生んだ娘を娶わせることを許し、未だ婚礼を挙げずに僧辯の母が亡くなったが、情誼は甚だ密であった。その長子の顗は度々諫めたが聞き入れられなかった。この時、江淮の人から「斉の兵が大挙して寿春に至った」と報せがあり、僧辯は斉軍が必ずや江表に出ると考え、記室参軍の江旰を遣わして事を陳武に報じ、併せて舟艦と器械を整えさせた。陳武はかねてより僧辯を図る志があり、命を聞くと、江旰を城中に留め、枚を銜んで進軍した。謀を知る者は侯安都・周文育のみで、外の者はただ江旰が北を防ぐために兵を徴したと思った。安都の舟艦が石頭に向かおうとした時、陳武は馬を制して進まなかった。安都は大いに恐れ、陳武を追って罵った、「今日賊を為すに、事勢は既に成った。生死は決すべきであり、後方で何を望むのか。もし敗れれば共に死ぬ、後になって斬首を免れることができようか。」陳武は言った、「安都が私を怒っている。」ようやく進むことを敢えてし、遂にこれを陥れた。時に寿春には結局斉軍はなく、また陳武の詭計でもなかったが、天の授けたものであろう。顗は承聖の初めに侍中の位にあり、魏が江陵を陥とすと、王琳に従って斉に入り、竟陵郡守となった。斉は王琳を遣わして寿春を鎮めさせ、江左を図らんとした。陳が淮南を平定して王琳を殺すと、顗はこれを聞き、郡城の南に出て高塚に登り、号哭して一慟のうちに絶命した。

原文初,僧辯平建鄴,遣陳武守京口,推以赤心,結廉、藺之分。且爲第三子頠許娶陳武章後所生女,未昏而僧辯母亡,然情好甚密,其長子顗屢諫不聽。至是,會江淮人報云:「齊兵大舉至壽春」,僧辯謂齊軍必出江表,因遣記室參軍江旰以事報陳武,仍使整舟艦器械。陳武宿有圖僧辯志,乃聞命,留旰城中,銜枚而進。知謀者唯侯安都、周文育而已,外人但謂江旰徵兵扞北。安都舟艦將趣石頭,陳武控馬未進。安都大懼,乃追陳武罵曰:「今日作賊,事勢已成,生死須決,在後欲何所望?若敗俱死,後期得免斫頭邪?」陳武曰:「安都嗔我。」乃敢進,遂克之,時壽春竟無齊軍,又非陳武之譎,殆天授也。顗承聖初位侍中,魏克江陵,隨王琳入齊,爲竟陵郡守。齊遣王琳鎮壽春,將圖江左。及陳平淮南殺琳,顗聞之,乃出郡城南登高塚上,號哭一慟而絶。

僧辯の子、頒。

原文僧辯子 頒

顗の弟の頒は、少より志節有り、常に梁の元帝に従った。荊州が覆滅すると、魏に入った。僧辯が既に亡くなり、弟の僧智は任約に就いた。敗走し、僧智は肥満して行けず、また害に遇った。

原文顗弟頒,少有志節,恒隨梁元帝。及荊州覆滅,入于魏。僧辯既亡,弟僧智得就任約。敗走,僧智肥不能行,又遇害。

僧辯の弟、僧愔。

原文僧辯弟 僧愔

僧智の弟の僧愔は譙州刺史の位にあり、蕭勃を征討したが、兄の死を聞き、軍を引いて還った。時に呉州刺史の羊亮が僧愔の麾下に属していたが、僧愔と不和で、密かに侯瑱を召して捕らえさせた。僧愔は名義を以て侯瑱を責めると、侯瑱は罪を将の羊鯤に委ねてこれを斬った。僧愔は再び斉に奔り、徐嗣徽らと共に斉軍を挟んで陳を攻めた。軍敗れ、荒野に逃れ、行く所を知らず、天を仰いで嘆いて言った、「仇恥雪がず、未だ身を野草に膏するを欲せず。若し精誠に感有らば、道を得るべく、誓って人手に辱を受けじ。」刀を抜いて自刎せんとしたが、空中に急ぎ去れと促す声を聞き、僧愔はこれを異とし、力を勉めて馳せ進み、一里余り行って、振り返って先の場所を見ると既に陳の人がいた。江山を越えて、辛うじて斉に帰った。

原文僧智弟僧愔位譙州刺史,征蕭勃,及聞兄死,引軍還。時吳州刺史羊亮隸在僧愔下,與僧愔不平,密召侯瑱見禽。僧愔以名義責瑱,瑱乃委罪於將羊鯤斬之。僧愔復得奔齊,與徐嗣徽等挾齊軍攻陳。軍敗,竄逸荒野,莫知所之,仰天歎曰:「讎恥不雪,未欲身膏野草,若精誠有感,當得道路,誓不受辱人手。」拔刀將自刎,聞空中催令急去,僧愔異之,勉力馳進,行一里許,顧向處已有陳人。踰越江山,僅得歸齊。

附、徐嗣徽。

原文附 徐嗣徽

徐嗣徽は高平の人、父の雲伯は青部より南帰し、位は新蔡太守に終わった。侯景の乱に、嗣徽は荊州に帰り、元帝は羅州刺史とし、弟の嗣宗・嗣産も共に武用有り。嗣徽は巴丘に従征し、功により太子右衛率・監南荊州となった。徐州が亡びると、秦州刺史を任じられた。嗣産は先に建鄴にあり、嗣宗は荊州滅亡の中から逃れて都に至った。従弟の嗣先は僧辯の甥で、また比丘の慧暹に匿われ、共に脱出して還った。僧辯が害されると、兄弟は刀を抽き眥を裂き、功を立てんことを志し、共に逃れて兄の嗣徽に就き、密かに南豫州刺史の任約と僧辯の旧知として結び、陳武帝を図った。帝は江旰を遣わして説得させたが、嗣徽は江旰を捕らえて鄴に送り援軍を請うた。斉の文宣帝は儀同を授け、将として応赴せしめた。石頭で敗退すると、再び斉に兵を請い、任約・王曄・席皋と心を同じくして江を渡った。戦いに敗れ、嗣徽は馬より堕ち、嗣宗は兄を援けて害された。嗣産は陳武帝の軍に捕らえられ、言辞面色撓まずして死んだ。任約・王曄は北に帰ることができた。

原文徐嗣徽,高平人,父雲伯自青部南歸,位終新蔡太守。侯景之亂,嗣徽歸荊州,元帝以爲羅州刺史,及弟嗣宗、嗣產並有武用。嗣徽從征巴丘,以功爲太子右衛率、監南荊州。徐州之亡,任秦州刺史。嗣產先在建鄴,嗣宗自荊州滅亡中逃得至都。從弟嗣先即僧辯之甥,復爲比丘慧暹藏,得脫俱還。及僧辯見害,兄弟抽刀裂眥,志在立功,俱逃就兄嗣徽,密結南豫州刺史任約與僧辯故舊,圖陳武帝。帝遣江旰説之,嗣徽執旰送鄴乞師焉。齊文宣帝授爲儀同,命將應赴。及石頭敗退,復請兵于齊,與任約、王曄、席皋同心度江。及戰敗,嗣徽墮馬,嗣宗援兄見害。嗣產爲陳武軍所禽,辭色不撓而死。任約、王曄得北歸。

羊侃。

原文羊侃

羊侃は字を祖忻といい、泰山郡梁父県の人である。父の祉は『北史』に伝がある。侃は幼少より瑰偉で、身長七尺八寸、文と史を雅く愛した。弱冠にして父に従い梁州で功を立て、初め尚書郎となり、膂力で知られた。魏の帝は常に言った、「郎官たちは卿を虎と言うが、羊の質に虎の皮か。試みに虎の様子をせよ。」侃は伏し、手で殿を抉って指を没した。魏帝はこれを壮とし、珠剣を賜った。正光年中、秦州の羌の莫折念生が州を拠って反し、弟の天生を遣わして岐州を陥とし、雍州を寇した。侃は偏将として蕭宝寅に隷し、これを討ちに行き、天生を射殺すると、その衆は即ち潰えた。功により征東大将軍・東道行台となり、泰山太守を領し、爵を钜平侯に進めた。

原文羊侃字祖忻,泰山梁父人也。父祉,北史有傳。侃少而瑰偉,身長七尺八寸,雅愛文史。弱冠隨父在梁州立功,初爲尚書郎,以力聞。魏帝常謂曰:「郎官謂卿爲虎,豈羊質虎皮乎?試作虎狀。」侃因伏,以手抉殿沒指。魏帝壯之,賜以珠劍。正光中,秦州羌莫折念生據州反,仍遣其弟天生攻陷岐州,寇雍州。侃爲偏將,隸蕭寶寅往討之,射殺天生,其眾即潰。以功爲征東大將軍、東道行台,領泰山太守,進爵钜平侯。

初め、その父の祉は常に侃に南帰を勧めていた。侃はこの時、済水・黄河を挙げて先志を成さんとした。従兄の兗州刺史の敦が密かにこれを知り、州を拠って侃を拒んだ。侃は精兵三万を率いてこれを襲ったが、勝てず、十余りの城を築いてこれを守った。梁朝の賞授は全て元法僧と同じであった。魏帝はこれを聞き、侃に驃騎大将軍・司徒・泰山郡公を授け、長く兗州刺史とせんとした。侃はその使者を斬った。魏人は大いに驚き、僕射の於暉に衆十万及び高歓・爾朱陽都らを率いさせ相次いで至らせた。柵中の矢が尽き、南軍が進まないので、夜に囲みを潰して出た。一日一夜で魏の境を出た。渣口に至り、衆は尚万余り、馬二千匹あった。南に入らんとしたが、士卒は終夜悲歌した。侃は謝して言った、「卿らは郷土を懐かしむ。幸いに去留に適うべし。」各々拝礼して辞し去った。

原文初,其父祉恒使侃南歸,侃至是將舉濟、河以成先志。其從兄兗州刺史敦密知之,據州拒侃,侃乃率精兵三萬襲之,不克,仍築十餘城以守之。梁朝賞授一與元法僧同。魏帝聞之,使授侃驃騎大將軍、司徒、泰山郡公,長爲兗州刺史。侃斬其使。魏人大駭,令僕射於暉率眾十萬及高歡、爾朱陽都等相繼而至。柵中矢盡,南軍不進,乃夜潰圍而出。一日一夜,乃出魏境。至渣口,眾尚萬餘人,馬二千匹。將入南,士卒竟夜悲歌,侃乃謝曰;「卿等懷土,幸適去留。」各拜辭而去。

侃は大通三年に建鄴に至り、徐州刺史を授かり、兄の默及び三弟の忱・給・元も皆刺史に拝された。侃は高昌県侯に封ぜられ、累遷して太子左衛率となった。中。車駕が楽遊苑に幸し、侃は宴に預かった。時に少府が新たに造った両刃の矟が完成し、長さ二丈四尺、囲み一尺三寸と奏上した。帝は侃に河南国の紫騮馬を賜って試させた。侃は矟を執り馬に上り、左右に撃刺して、特にその妙を尽くした。観る者は木に登った。帝は言った、「この木は必ず侍中によって折られるであろう。」間もなく果たして折れた。これによりこの矟を折樹矟と号した。北より降った者の中で、侃のみが衣冠の余緒であり、帝は他よりも寵愛し、言った、「朕が少時に矟を捉えた時、形勢は卿のようであった。今は旧体を失い、全く奇ならず。」上はまた武宴詩三十韻を制して侃に示すと、侃は即座に応詔した。帝は覧て言った、「仁者に勇有りと聞くが、今勇者に仁有るを見る。鄒・魯の遺風と謂うべく、英賢絶えず。」この日詔して殿省に入直せしめ、尚方の仗が用に堪えざるを啓上した。上は大いに怒り、坐する者は一人ではなかった。侯景が逆を為すに及んで、果たして仗の粗悪に弊われた。

原文侃以大通三年至建鄴,授徐州刺史,並其兄默及三弟忱、給、元皆拜刺史。侃封高昌縣侯,累遷太子左衛率,中。車駕幸樂游苑,侃預宴。時少府奏新造兩刃矟成,長二丈四尺,圍一尺三寸。帝因賜侃河南國紫騮令試之。侃執矟上馬,左右擊刺,特盡其妙。觀者登樹。帝曰:「此樹必爲侍中折矣。」俄而果折,因號此矟爲折樹矟。北人降者,唯侃是衣冠餘緒,帝寵之踰於他者,謂曰:「朕少時捉矟,形勢似卿,今失其舊體,殊覺不奇。」上又制武宴詩三十韻示侃,侃即席上應詔。帝覽曰:「吾聞仁者有勇,今見勇者有仁,可謂鄒、魯遺風,英賢不絶。」是日詔入直殿省,啟尚方仗不堪用。上大怒,坐者非一。及侯景作逆,果弊於仗粗。

後に都官尚書に遷り、尚書令の何敬容が権勢を振るい、侃と共に省にあったが、遊び造ることはなかった。左衛の蘭欽が同じく宮宴に侍した時、言葉少なに交わったが、侃は座中でこれを折って言った、「小僧め、汝は銅鼓を以て朱異を父と買い、韋粲を兄とし、何ぞ宜しきを無くすことを敢えてするか。」朱異はその時席にいた。後に華林の法会があり、欽は省中で拝謝した。王銓が欽に言った、「卿が廉公に屈膝するは、ますます尽美を見る。然れども羊公の意は未だ解けず、更に一拝を置くことができようか。」欽はこれに従った。宦官の張僧胤が嘗て侃を訪ねたが、侃は言った、「我が床は閹人の坐する所にあらず。」遂に前に進ませなかった。時の論はその貞正を美とした。

原文後遷都官尚書,尚書令何敬容用事,與之並省,未嘗遊造。左衛蘭欽同侍宮宴,詞色少交,侃於坐折之曰:「小子!汝以銅鼓買朱異作父,韋粲作兄,何敢無宜適。」朱時在席。後華林法會,欽拜謝於省中。王銓謂欽曰:「卿能屈膝廉公,彌見盡美;然羊公意猶未釋,容能更置一拜?」欽從之。宦者張僧胤嘗候侃,侃曰:「我床非閹人所坐。」竟不前之。時論美其貞正。

太清元年、侍中となり、大いに北侵を挙行することに会し、侃を冠軍將軍とし、寒山堰の工事を監督させた。堰が完成すると、侃は元帥貞陽侯明に水勢を利用して彭城を攻めるよう勧めたが、容れられなかった。やがて魏の援軍が大挙して到着すると、侃はしばしば遠来の敵を撃つべきと進言し、翌日もまた出戦を勧めたが、いずれも聞き入れられなかった。侃はそこで自らの配下を率いて堰の上に駐屯した。諸軍が敗れると、侃は陣を整えてゆっくりと帰還した。

原文太清元年,爲侍中,會大舉北侵,以侃爲冠軍將軍,監作寒山堰事。堰立,侃勸元帥貞陽侯明乘水攻彭城,不見納。既而魏援大至,侃頻言乘其遠來可擊,旦日又勸出戰,並不從。侃乃率所領頓堰上。及眾軍敗,侃結陣徐還。

二年、再び都官尚書となった。侯景が反乱を起こし、歴陽を陥落させると、帝は侃に景討伐の策を問うた。侃は二千人を率いて急ぎ採石を占拠し、邵陵王に寿春を襲撃させて奪取させ、景を進むこともできず退くにも根拠地を失わせ、烏合の衆を自然に瓦解させることを求めた。議する者は景がすぐに都を脅かすことはないだろうと言い、その策は採用されなかった。王質を行かせた。侃は「これで敗れるであろう」と言った。そこで侃に千余騎を率いて望國門に駐屯させた。景が新林に至ると、侃を召還して宣城王を補佐させ城内諸軍事を都督させた。

原文二年,復爲都官尚書。侯景反,攻陷曆陽,帝問侃討景之策。侃求以二千人急據採石,令邵陵王襲取壽春,使景進不得前,退失巢窟,烏合之眾,自然瓦解。議者謂景未敢便逼都,遂寢其策。令王質往。侃曰:「今茲敗矣。」乃令侃率千餘騎頓望國門。景至新林,追侃入副宣城王都督城內諸軍事。

当時、景軍が突然到来したため、民衆は競って城内に入り、公私ともに混乱し、秩序はまったくなくなった。侃はそこで区画を分けて防備の手配をし、いずれも宗室の者をその間に配置した。兵士たちが武器庫に争って入り、自ら武器や甲冑を取ったので、担当官は制止できず、侃が数人を斬るよう命じてようやく止めさせた。この時、梁の建国以来四十七年、国内は平穏で、公卿が位にあり、また里巷の士大夫も兵甲を見たことがなかった。賊が突然迫ってきたので、公私ともに驚き震えた。当時、古参の将軍はすでに尽き、後進の若者たちは皆外に出ており、城中には侃と柳津、韋黯しかいなかった。津は年老いており病気であり、黯は臆病で謀略がなく、軍旅の指揮はすべて侃に一任され、その胆力はともに雄壮で、簡文帝は深く頼りにした。

原文時景既卒至,百姓競入,公私混亂,無復次序。侃乃區分防擬,皆以宗室間之。軍人爭入武庫,自取器甲,所司不能禁,侃命斬數人方得止。是時梁興四十七年,境內無事,公卿在位,及閭里士大夫莫見兵甲。賊至卒迫,公私駭震。時宿將已盡,後進少年並出在外,城中唯有侃及柳津、韋黯。津年老且疾,黯懦而無謀,軍旅指撝,一決於侃,膽力俱壯,簡文深仗之。

賊が城に迫ると、皆が恐れおののいた。侃は外からの矢文を得たと偽って言った。「邵陵王、西昌侯がすでに近道に到着した」と。すると人々はようやく少し落ち着いた。賊が東掖門を攻め、火を放って勢いが非常に盛んだった。侃は水をかけて火を消し、数人を射殺したので、賊は退いた。侍中、軍師將軍を加えられた。詔勅があり、金五千両、銀一万両、絹一万匹を戦士たちに賜るため送られた。侃は辞退して受けず、配下の千余人に私的に賞を与えた。

原文及賊逼城,眾皆兇懼,侃偽稱得外射書,云:「邵陵、西昌侯已至近路」,眾乃少安。賊攻東掖門,縱火甚盛。侃以水沃滅火,射殺數人,賊乃退。加侍中、軍師將軍。有詔送金五千兩、銀萬兩、絹萬匹賜戰士。侃辭不受,部曲千餘人並私加賞賚。

賊は尖った頂部の木驢を作って城を攻め、矢や石では制御できなかった。侃は雉尾炬を作り、鉄の鏃を付け、油を注いで、木驢の上に投げて焼き、たちまち焼き尽くした。賊はまた東西に二つの土山を築いて城に臨み、城中は震え上がった。侃は命じて地下道を作らせ、密かにその土山の土を引き抜かせたので、土山は立つことができなかった。賊はまた登城楼車を作り、高さ十余丈で、城上から城中を射ようとした。侃は「車は高く塹は空虚である。彼らが来れば必ず倒れる。臥してこれを見るがよい」と言った。車が動くと果たして倒れ、皆は感服した。

原文賊爲尖頂木驢攻城,矢石所不能制。侃作雉尾炬,施鐵鏃,以油灌之,擲驢上焚之俄盡。賊又東西起二土山以臨城,城中震駭。侃命爲地道,潛引其土山,不能立。賊又作登城樓車,高十餘丈,欲臨射城中。侃曰:「車高塹虛,彼來必倒,可臥而觀之。」及車動果倒,眾皆服焉。

賊はたびたび攻撃しても勝利できなかったので、長い包囲陣を築いた。朱異と張綰は出撃してこれを討とうと議した。帝が侃に問うと、侃は言った。「なりません。賊は多日攻城し、すでに落とせないので、長囲を築き、城中の降伏者を引き出そうとしているのです。今これに撃ちかかれば、出る者が少なければ賊を破るに足りず、多ければ一旦失利すれば、門は狭く橋は小さいので、必ず大いに挫かれ敗北します」。聞き入れられず、遂に千余人を出戦させた。まだ鋒を交えるに至らず、風を見て退き走り、果たして橋を争って水に飛び込み、死者は大半に及んだ。

原文賊既頻攻不捷,乃築長圍。朱異、張綰議出擊之。帝以問侃,侃曰:「不可,賊多日攻城,既不能下,故立長圍,欲引城中降者耳。今擊之,出人若少,不足破賊;若多,則一旦失利,門隘橋小,必大致挫衄。」不從,遂使千餘人出戰。未及交鋒,望風退走,果以爭橋赴水,死者太半。

初め、侃の長子の鷟が景に捕らえられ、城の下に引き出されて侃に見せられた。侃は彼に言った。「私は一族を挙げて主君に報いるが、なお不足を恨むほどである。どうしてまたこの一子を考慮しようか。幸いにも早く殺せ」。数日後また連れて来られ、侃は鷟に言った。「とっくに汝は死んだと思っていたが、まだ生きているのか。私は身を国に許し、陣中で死ぬことを誓っている。決して汝のために進退を左右することはない」。そこで弓を引いて彼を射た。賊はその忠義心ゆえに、彼を害することもなかった。

原文初,侃長子鷟爲景所獲,執來城下示侃。侃謂曰:「我傾宗報主,猶恨不足,豈復計此一子。幸早殺之。」數日復持來,侃謂鷟曰:「久以汝爲死,猶在邪?吾以身許國,誓死行陣,終不以爾而生進退。」因引弓射之。賊以其忠義,亦弗之害。

景は儀同の傅士哲を遣わして侃を呼び語らわせ、言った。「侯王は遠くより来たりて天子にご挨拶申し上げる。なぜ閉じて拒み、時に応じて受け入れないのか。尚書は国家の大臣である。宜しく朝廷に啓上すべきである」。侃は言った。「侯將軍は敗走逃亡の後、国家に帰順し、重鎮として方城を任され、懸隔なく信任されていた。何の患い苦しみがあって、突然に兵を挙げるに至ったのか。人臣としてこのようなことをする者があろうか。私は妄りに浮説を受け、門を開いて盗賊を招き入れることはできない」。士哲は言った。「北にいた日、久しく風猷を敬慕しておりました。戎服を脱ぎ、一度お目にかかりたい」。侃は冑を脱いだ。士哲はしばらく眺めて去った。そのように北人に欽慕されていたのである。

原文景遣儀同傅士哲呼侃與語,曰:「侯王遠來問訊天子,何爲閉拒不時進納?尚書國家大臣,宜啟朝廷。」侃曰:「侯將軍奔亡之後,歸命國家,重鎮方城,懸相任寄,何所患苦,忽致稱兵,豈有人臣而至於此。吾不能妄受浮説,開門揖盜。」士哲曰:「在北之日,久挹風猷,願去戎服,得一相見。」侃爲免胄,士哲瞻望久之而去,其爲北人所欽慕如此。

後に大雨が降り、城内の土山が崩れた。賊はこれに乗じてまさに入らんとしたが、苦戦しても制止できなかった。侃はそこで多く火を投げるよう命じ、火の城としてその進路を断ち切らせ、ゆっくりと城内に城を築かせたので、賊は進むことができなかった。まもなく病気により城内で卒去した。侍中、護軍將軍を追贈された。子の球が後を嗣いだ。

原文後大雨,城內土山崩,賊乘之垂入,苦戰不能禁。侃乃令多擲火,爲火城以斷其路,徐於城內築城,賊不能進。尋以疾卒於城內,贈侍中、護軍將軍。子球嗣。

侃は若い頃より雄勇で、膂力は人に絶し、用いる弓は二十石に至り、馬上では六石の弓を用いた。かつて兗州の堯廟で壁を蹴り、真っ直ぐに五尋(約八メートル)まで上り、横に七歩の跡を得た。泗橋に数体の石人があり、長さ八尺、太さ十囲じゅういあった。侃はそれを持ち上げて互いに打ちつけ、すべて粉々に砕いた。性格は豪奢で、音律に長け、自ら採蓮、棹歌の二曲を作り、非常に新しい趣があった。姬妾を列ねて侍らせ、奢侈の極みを尽くした。箏を弾く者に陸太喜という者がおり、鹿角の爪(義爪)を着け、長さ七寸であった。舞人に張淨琬という者がおり、腰囲一尺六寸で、当時の人は皆、掌上で舞うことができると推した。また孫荊玉という者は腰を反らせて地に貼りつけ、筵の上の玉簪を口でくわえることができた。勅命により歌人の王娥兒に賜物があり、東宮もまた歌者の屈偶之に賜物を与え、ともに妙に奇曲を尽くし、当時対する者なしであった。初めて衡州に赴く時、二隻の船の間に三間の通梁水齋を造り、珠玉で飾り、さらに錦繍を加え、盛大に帷屏を設け、女楽を列ねた。潮に乗じて纜を解き、波に臨んで酒を設け、塘に沿い水の傍らで、見物人が押し合いへし合いした。大同年間、魏の使者陽斐は侃と北でかつて同学であったが、詔命があり侃に斐を招いて同宴を開かせた。賓客三百余人、食器はすべて金玉や雑宝であり、三部の女楽を奏した。夕方になると、侍婢百余人が皆金の花燭を執った。侃は酒を飲まないが賓客との交遊を好み、終日献酬し、彼らの酔い醒めを同じくした。

原文侃少雄勇,膂力絶人,所用弓至二十石,馬上用六石弓。嘗於兗州堯廟蹋壁,直上至五尋,橫行得七跡。泗橋有數石人,長八尺,大十圍。侃執以相擊,悉皆破碎。性豪侈,善音律,自造採蓮、棹歌兩曲,甚有新致。姬妾列侍,窮極奢靡。有彈箏人陸太喜著鹿角爪,長七寸。舞人張淨琬腰圍一尺六寸,時人咸推能掌上舞。又有孫荊玉能反腰帖地,銜得席上玉簪。敕賚歌人王娥兒,東宮亦賚歌者屈偶之,並妙盡奇曲,一時無對。初赴衡州,於兩艖滏起三間通梁水齋,飾以珠玉,加之錦繢,盛設帷屏,列女樂。乘潮解纜,臨波置酒,緣塘傍水,觀者填咽。大同中,魏使陽斐與侃在北嘗同學,有詔命侃延斐同宴。賓客三百餘人,食器皆金玉雜寶,奏三部女樂。至夕,侍婢百餘人俱執金花燭。侃不飲酒而好賓遊,終日獻酬,同其醉醒。

性格は寛厚で、器量があった。かつて南に還る途中、漣口で酒宴を設けた。客の張孺才という者が船中で酔って火を失い、延焼して七十余艘を焼き、焼けた金帛は数え切れなかった。侃は聞いても少しも気にかけず、酒を命じてやめさせなかった。孺才は慚愧と恐れから自ら逃げたが、侃は慰めて諭し、帰らせ、以前のように遇した。

原文性寬厚,有器局。嘗南還至漣口置酒,有客張孺才者,醉於船中失火,延燒七十餘艘,所燔金帛不可勝數。侃聞聊不掛意,命酒不輟。孺才慚懼自逃,侃慰喻使還,待之如舊。

侃の子 從

原文侃子 從

第三子の從は字を子鵬といい、侃に従って台城(宮城)内におり、城が陥落すると、陽平に逃げ隠れた。侯景はその妹を側室としたので、呼び戻して非常に厚く遇し、庫真都督とした。景が敗れると、從は密かに彼を討とうと図り、その東走に従った。景が松江で戦いに敗れ、残るは三隻の船のみとなり、海に出て蒙山に向かおうとした。折しも景が昼寝している時、從は船頭に言った。「この中にどこに蒙山があるというのか。汝はただ我が処分に従え」。そこで真っ直ぐ京口に向かい、胡豆洲に至った。景が気づき、大いに驚いた。岸上に問うと、「郭元建がまだ広陵にいる」と言う。景は大いに喜び、彼に頼ろうとした。從は刀を抜いて船頭を叱り、京口に向かわせた。從と王元禮、謝答仁の弟の葳蕤は、ともに景の親しい者であった。三人は景に言った。「我等は王のため百戦百勝し、自ら無敵と謂い、ついにここに至りました。これ天にあらずや。今、王に頭を乞いて富貴を取ります」。景は水に飛び込もうとした。從は刀を抜いて彼を斬った。景は船中に走り込み、小刀で船底を抉ろうとした。從は矛を以て入り刺し殺した。景の僕射索超世は別の船にいた。葳蕤が景の命と偽って彼を召し、京口で斬った。

原文第三子從字子鵬,隨侃台內,城陷,竄于陽平。侯景以其妹爲小妻,呼還待之甚厚,以爲庫真都督。及景敗,從密圖之,乃隨其東走。景於松江戰敗,惟餘三舸,下海欲向蒙山。會景晝寢,從語海師:「此中何處有蒙山,汝但聽我處分。」遂直向京口,至胡豆洲,景覺,大驚。問岸上,云:「郭元建猶在廣陵」。景大喜,將依之。從拔刀叱海師使向京口。從與王元禮、謝答仁弟葳蕤,並景之昵也,三人謂景曰:「我等爲王百戰百勝,自謂無敵,卒至於此,豈非天乎。今就王乞頭以取富貴。」景欲透水,從抽刀斫之。景乃走入船中,以小刀抉船。從以矟入刺殺之。景僕射索超世在別船,葳蕤以景命召之,斬於京口。

元帝は從を青州刺史とし、昌國縣侯に封じ、また東陽太守を兼ねさせた。陸納を征伐し、散騎常侍を加えられ、西晉州刺史に任じられた。東關で郭元建を破り、東晉州刺史に遷った。承聖三年、西魏が江陵を包囲すると、從は援軍に赴いたが間に合わなかった。王僧愔に従って嶺表で蕭勃を征伐し、僧辯の敗北を聞いて帰還したが、侯瑱に破られ、害に遇い、年二十八であった。

原文元帝以從爲青州刺史,封昌國縣侯,又領東陽太守。征陸納,加散騎常侍,除西晉州刺史。破郭元建于東關,遷東晉州刺史。承聖三年,西魏圍江陵,從赴援不及。從王僧愔征蕭勃於嶺表,聞僧辯敗,乃還,爲侯瑱所破,遇害,年二十八。

羊鴉仁

原文羊鴉仁

羊鴉仁は字を孝穆といい、泰山郡鉅平県の人である。若い頃より驍勇で、郡に仕えて主簿となった。普通年間の中頃、兄弟を率いて魏から梁に帰順し、広晉侯に封ぜられた。青州・斉州の間で征伐に従事し、功績を重ね、都督・北司州刺史の位に至った。侯景が降伏すると、詔により鴉仁は土州刺史桓和之・仁州刺史湛海珍らを督して懸瓠に赴き、応接せしめた。侯景が到着すると、そのまま都督・司豫二州刺史となり、懸瓠に鎮した。侯景が渦陽で敗れた時、魏軍が次第に迫り、鴉仁は糧食輸送が続かぬことを恐れ、北司に引き返し、上表して陳謝した。帝は鴉仁を大いに怒り、鴉仁は恐れて軍を淮上に留めた。侯景が反乱すると、鴉仁は配下の兵を率いて入援した。

原文羊鴉仁字孝穆,泰山钜平人也。少驍勇,仕郡爲主簿。並通中,率兄弟自魏歸梁,封廣晉侯。征伐青、齊間,累有功績,位至都督、北司州刺史。及侯景降,詔鴉仁督土州刺史桓和之、仁州刺史湛海珍等趣縣瓠應接。景至,仍爲都督、司豫二州刺史,鎮縣瓠。會侯景敗于渦陽,魏軍漸逼,鴉仁恐糧運不繼,遂還北司,上表陳謝。帝大怒鴉仁,鴉仁懼,頓軍於淮上。及侯景反,鴉仁率所部入援。

太清二年、侯景が盟約に背くと、鴉仁は趙伯超および南康王会理とともに東府城で賊を攻めたが、かえって賊に敗れた。台城が陥落すると、侯景は彼を五兵尚書に任じた。鴉仁は常に奮発を志し、親しい者に言うには、「我は凡庸の身でありながら朝廷の寵愛を受けながら、ついに報効する所なく、重恩に答えることができぬ。今このまま終わるならば、死してなお責めを負わん」と。涙を流し、見る者を哀れませた。

原文太清二年,景既背盟,鴉仁乃與趙伯超及南康王會理共攻賊於東府城,反爲賊敗。台城陷,景以爲五兵尚書。鴉仁常思奮發,謂所親曰:「吾以凡流,受寵朝廷,竟無報效,以答重恩。今若以此終,沒有餘責。」因泣下,見者傷焉。

三年、江西に奔り、江陵に赴かんとしたが、東莞に至り、故北徐州刺史荀伯道の子荀晷に害された。臨終に報効を終えられぬことを思い、涙を流した。後に鴉仁の兄の子海珍がこれを知り、荀晷の父伯道および祖父と生母、合わせて五つの喪を掘り起こし、それぞれその骨の半分を分け、同じ棺に入れて焼き、半分の骨を他の骨と混ぜ、五つの袋に盛り、袋の上に銘して「荀晷祖父母某之骨」と記した。

原文三年,出奔江西,將赴江陵,至東莞,爲故北徐州刺史荀伯道子晷所害。臨死以報效不終,因而泣下。後鴉仁兄子海珍知之,掘晷父伯道並祖及所生母合五喪,各分其半骨,共棺焚之,半骨雜他骨,作五袋盛之,銘袋上曰:「荀晷祖父母某之骨

鴉仁の子 亮

原文鴉仁子 亮

鴉仁の子亮は、侯景の乱の後に吳州刺史に移り、王琳に従い、名将の子として礼遇は甚だ厚かった。酒を多く嗜み無頼で、酒酔いの際に宦官に殺された。

原文鴉仁子亮,侯景亂後移至吳州刺史,隨王琳,以名將子見禮甚隆。爲人多酒無賴,酒醉爲閹豎所殺。

論

原文論

論じて言う。王神念・羊侃・羊鴉仁らは、北より南に至り、皆寵任を受けた。その後、侃および鴉仁は晩年に艱難に遭う。侃は危難に臨んで屈せず、鴉仁は義を守って死んだ。古人の言う「心は鉄石の如し」とは、このことを言うのであろう。僧辯は風格秀で挙げられ、文武の奇才があったが、この酷濫に遭い、ほとんど覆滅に至らんとした。幸いにして首領を全うし、ついに奇功を立て、人に仕える道は、ここにおいて得たと言えよう。時に運は交喪し、地は元宰に居りながら、内には奥主ありて外に君を求め、遂に尊卑の位を易え、親疏の序を貿うこととなり、既に児戯の如く、かつ棋を打つに類す。敵を延いて釁を開くは、実にここに基づき、国を喪い宗を傾け、天下の笑いものとなった。豈に天将に陳を啓かんとするか、何ぞ斯の人にして斯の謬りあるや、哀しいかな。

原文論曰:王神念、羊侃、羊鴉仁等,自北徂南,咸受寵任。既而侃及鴉仁晩遇屯剝。侃則臨危不撓,鴉仁則守義以殞。古人所謂「心同鐵石」,此之謂乎。僧辯風格秀舉,有文武奇才,而逢茲酷濫,幾致隕覆。幸全首領,卒樹奇功,事人之道,於斯爲得。及時鐘交喪,地居元宰,內有奧主而外求君,遂使尊卑易位,親疏貿序,既同兒戲,且類弈棋。延敵開釁,實基於此,喪國傾宗,爲天下笑。豈天將啟陳,何斯人而斯謬也,哀哉!