南史
巻六十二より巻六十三
列伝第五十二 賀瑒(子:革、季、従子:琛)、司馬褧、朱异、顧協、徐摛(子:陵、孫:儉、份、儀、陵弟:孝克)、鮑泉(附:行卿、行卿弟:客卿)
賀瑒
賀瑒は字を徳璉といい、会稽郡山陰県の人で、晋の 司空 賀循の玄孫である。代々儒術をもって顕れた。伯祖父の道養は卜筮に巧みで、経過したところで歌を歌う女が病死したので、彼のために占うと、「これは死ではない。天地が彼女を召して歌わせるのである」と言った。そこで土塊をその心臓の上に置くと、しばらくして蘇生した。祖父の道力は三礼に通じ盛名があり、宋に仕えて尚書三公郎、建康令となった。父の損もまた家業を伝えた。
賀瑒は幼少より聡明で、斉の時に沛国の劉瓛が会稽府丞となったが、賀瑒を 見 て深く器量を異とし、重んじた。かつて共に呉郡の張融を訪ね、賀瑒を指して言うには、「この生は将来儒者の宗となるであろう」と。彼を推薦して国子生とし、明経に挙げられた。後に太学博士となった。
梁の天監初年、太常丞となり、有司が賓礼の修定を挙げると、召し出されて礼義を説いた。武帝はこれを異とし、詔して朔望の朝参を許し、華林講に参与させた。四年、初めて五館を開くと、賀瑒を以て五経博士を兼ねさせた。別詔により皇太子の礼を定め、五経義を撰した。時に武帝は礼楽を創定しようとしていたが、賀瑒の建議は多く施行された。七年、歩兵 校尉 に拝され、五経博士を領した。館において卒した。著した礼・易・老・荘の講疏、朝廷博士議数百篇、賓礼儀注一百四十五巻がある。
賀瑒は礼に特に精通し、館中の生徒は常に数百人、弟子で明経に対策する者は数十人に及んだ。二子の革・季、弟子の琛は、共に賀瑒の学業を伝えた。
賀瑒の子 革
革は字を文明といい、幼少の時家が貧しかったため、自ら耕作して父母を養い、二十歳になって初めて耒を止めて父に就いて学業を受け、精力を怠らなかった。六尺の方形の寝台があり、義理が通じない時は、その上に横たわり、その義を尽くさないうちは、終に食を取ろうとしなかった。三礼に通じた。成長すると、孝経・論語・毛詩・左伝を広く修め、兼太学博士となった。身長七尺八寸、容姿は雍容として優雅で、吐く言葉は含蓄に富んでいた。勅命により永福省において邵陵王・湘東王・武陵王の三王に礼を講じた。後に国子博士となり、学において講義し、生徒は常に数百人であった。出て西中郎湘東王諮議参軍となり、江陵令を帯びた。王は州に学を置き、革に儒林祭酒を領させ、三礼を講じた。荊楚の士大夫で聴講する者は非常に多かった。前後二度南平郡を監し、人吏に懐かれた。まもなく平西長史・南郡太守を兼ねた。革は至孝であり、常に禄食をもって耕作に代えること、養うに及ばないことを恨んだ。荊州において歴任した郡県で得た俸禄は、妻子に及ぼさず、専ら郷里に帰って寺を造り、感慕の思いを表そうとした。子の徽は風儀が美しく、談吐に優れ、深く革に愛されたが、革に先立って卒した。革はこれを哭し、それによって病を得て卒した。
賀瑒の子 季
季もまた三礼に明るく、位は中書黄門郎、著作を兼ねた。
賀瑒の従子 琛
琛は字を国宝といい、幼くして孤となり、伯父の賀瑒が経学の業を授けると、一度聞いただけで義理を理解した。賀瑒はこれを異とし、常に言った、「この児は明経によって貴きに至るであろう」と。賀瑒が卒した後、琛は家が貧しく、常に諸暨を往還して粟を売り、母を養った。自ら舟を操り火を焚くこともあったが、暇な時は学業を習い、特に三礼に精通した。二十歳余りで、賀瑒の門徒が次第に来て道を問うた。
初め、賀瑒は郷里において徒を集めて教授し、四方より学業を受ける者は三千余人に及んだ。賀瑒は天監年中に亡くなったが、この時に再び集まり、賀琛は郊外の地に室を築き、茅葺きの数間で、年も三十に近づくと、早くも講授に従事した。既に代々礼学を習い、その精微を究め、先儒の説を述べては、言葉を吐いて弁明明晰であり、座って聴き受ける者は、終日疲れを知らなかった。
湘東王が幼年にして郡を治めることとなり、彭城の到溉が行事となったが、賀琛の美名を聞き、車を走らせて訪ねた。ちょうど賀琛が講義をしており、学友が筵に満ちていたが、上佐が突然来たと聞いて、皆動揺した。賀琛は経を説くのを止めず、少しも意を屈しなかった。到溉が車を降り、欣として席に就き、問難を申し述べると、往復して従容とし、義理が該博であった。到溉は嘆じて言った、「通儒碩学、また賀生を見る。今は暫く城に還るが、尋ねて必ず君を招こう」。賀琛は全く応答せず、神情は萎えていた。到溉は王に言上し、郡の功曹史に補するよう請うた。賀琛は母が老いていると辞し、終に固執した。
やがて母の喪に遭い、墓所に廬した。喪が明けても、まだ家に還らず、生徒がまた彼に従った。賀琛は哀毀して数年を積み、骨立つばかりであり、講授に堪えられなかった。諸生が救い営み、少しずつ学業を習った。
普通年間、太尉臨川王蕭宏が州を臨み、祭酒從事に召し補した。賀琛は年既に四十余りで、初めて辟命に応じた。武帝はその学術有るを聞き、文徳殿に召し見て、語り悦び、僕射徐勉に謂って言った、「賀琛は殊に門業有り」。仍って王國侍郎を補し、稍く遷って兼中書通事舍人となり、禮儀事に参じた。累遷して尚書左丞となり、詔して賀琛に新諡法を撰ばしめ、便ち即ち施用した。時に皇太子が議して、大功の末には、子に冠し女を嫁がすことを得るとした。賀琛が駁議して曰く、
令旨は「大功の末には、子に冠し女を嫁がすことを得るが、自ら冠し自ら嫁ぐことは得ず」とされる。記文を推すに、窃かに猶お惑いを致す。案ずるに嫁冠の禮は、本来父の成す所である。父無き人は、乃ち自ら冠すことを得る。故に記は大功小功を称し、並びに「子に冠し子を嫁す」を文とし、唯だ子の為に得るのみに関し、己身は得ずと云うに非ざるなり。小功の末は既に自ら嫁娶することを得るが、而も亦云う「子に冠し婦を娶る」と。其の義益々明らかなり。故に先ず二服を列し、毎に子に冠し子を嫁ぐことを明らかにし、後句に結びて、方に自ら娶るの義を顕す。既に小功の自ら娶るを明らかにすれば、即ち大功の自ら冠するを知る。蓋し約言して旨を見るなり。若し父の為に大功に服し、子は小功に服すと謂い、小功の服軽きを以て、故に子に冠嫁することを得、大功の服重きを以て、故に自ら嫁ぎ自ら冠することを得ずとすれば、則ち小功の末は、父子の服殊なるを明らかにせず、応に復た「子に冠し子を嫁す」と云うべからざるなり。若し小功の文は己の娶ることを得ると言い、大功の文は己の冠するを言わず、故に身に大功有れば、自ら嘉禮を行うことを得ず、但だ子に冠嫁することを得ると知るとするは、窃かに謂うに、服有りて嘉禮を行わざるは、本来吉凶相い干すべからざる為なり。子は小功の末と雖も、冠嫁を行うことを得るも、猶お応に父の其の為に冠嫁することを得るを須うべし。若し父が大功の末に於いて子に冠し子を嫁すことを得れば、是れ吉凶の禮に礙り無し。吉凶の禮に礙り無ければ、豈に自ら冠し自ら嫁ぐことを得ざらんや。若し自ら冠し自ら嫁ぐことが事に礙り有れば、則ち子に冠し子を嫁ぐことは寧ろ独り通ずることを得んや。今其の子に冠するを許して其の自ら冠するを塞ぐは、是れ賀琛の惑う所なり。
又た令旨は「下殤の小功は婦を娶るべからず」を推して、「則ち降服の大功も亦た子に冠嫁することを得ず」とされる。伏して尋ぬるに此の旨は、若し降服の大功は子に冠嫁すべからずとすれば、則ち降服の小功も亦た自ら冠嫁すべからず。是れ凡そ厥の降服の大功小功皆冠娶すべからざるなり。記文応に降服と云うべく、寧ぞ唯だ下殤を称するを得ん。今降服を言わず、的かに下殤を挙ぐるは、実に其の義有るなり。夫れ出嫁し出後するは、或いは再降有り、出後の身は、本の姊妹に於いて大功に降し、若し大夫の士父に服すれば、又た尊を以て降し、則ち小功と成る。其の冠嫁の義に於いて以て異なる無し。然る所以の者は、出嫁すれば則ち我を受くる者有り、出後すれば則ち重きを伝うる者有り、並びに薄く此に於いて厚く彼にせんと欲するなり。此の服は降ると雖も、彼の服は則ち隆し。昔は実に期親たり、再降すると雖も復た、猶お小功の禮に依り、冠すべく娶るべし。若し夫れ期の大功に降し、大功の小功に降するは、止だ一等なり、降殺に倫有り、服末の嫁冠は、故に異なる有ること無し。唯だ下殤の服は特ちに娶らざるの義を明らかにする者は、蓋し幼弱の故を縁とす。夭喪の情深く、既に他姓を受くる厚き無く、又た彼の宗に重きを伝うるに異なり、其の年幼く服軽きを嫌い、頓に殺略を成すを以て、故に特ちに娶らざるを明らかにし、以て本重の恩を示す。是を以て凡そ厥の降服は、冠嫁に殊なる無く、唯だ下殤に在るに於いて、乃ち娶らざるを明らかにす。其の義此の若くすれば、則ち大功の降服は皆冠嫁せずと言うことを得ざるなり。且つ記に云う「下殤の小功」と。下殤を言えば則ち中上に通ぜず、小功を語れば又た大功を兼ねず。若し実に大功小功の降服は皆冠嫁せず、上中二殤も亦た冠嫁せずとすれば、記は直ちに「下殤の小功は則ち不可」と云うことを得ざるべし。恐らくは文意に非ざるなり。此れ又た賀琛の疑う所なり。遂に賀琛の議に従う。員外 散騎常侍 を加う。旧より尚書の南坐に貂無し、貂は賀琛より始まる。遷って御史中丞となり、先の如く禮儀に参じた。
賀琛は性貪嗇にして、多く賕賂を受け、家産既に豊かになり、主第を買って宅と為し、有司に奏せられ、坐して官を免ぜられた。後、通直 散騎常侍 となり、尚書左丞を領し、禮儀事に参じた。賀琛は前後職に居り、凡そ郊廟諸儀多く創定する所有り、毎に進見して武帝と語るに、常に晷刻を移し、故に省中の語に曰く、「上殿して下らざるは賀雅有り」と。賀琛は容止閒雅なり、故に時人之を呼ぶ。遷って 散騎常侍 となり、禮儀に参ずること先の如し。
時に武帝は年齢が高く、職に任ずる者は奸諂を飾り立て、時政を深く害していた。賀琛は事条を陳べて封奏し、大略は次の通りである。その一事は、「今、北辺は稽服しているが、まさに生聚教訓の時であるのに、天下の戸口は減落しており、誠に当今の急務である。国家が関外に対しては、賦税は微少であるが、年常の租調に至っては、動もすれば逋積を来たし、人が安居を失っているのは、寧ろ牧守の過ちではないか」。
その二事は、「今天下の宰守が皆貪残を尚ぶのは、廉白なる者が稀なのは、良く風俗の侈靡がこれを然らしめているのである。人をして廉隅を守らしめ、吏をして清白を尚ばしめんと欲するも、安んぞ得んや。今誠に厳に禁制を為し、節儉をもって導き、彫飾を貶黜し、浮華を糾奏して、衆をして皆その耳目を変え、その好悪を改めしめれば、掌を反すが如く容易であろう」。
その三事は、「斗筲の人が詭競して進を求め、挈瓶の智を運らし、分け外の求を徼り、深刻を以て能と為し、繩逐を以て務と為す。弊を長じ奸を増すは、実にこれに由る。今誠にその公平の効を責め、その残愚の心を黜すれば、下は安らぎ上は謐かで、徼幸の患いは無かろう」。
その四事は、「北境を征伐して以来、帑蔵は空虚である。今天下は事無いのに、猶日も暇あらず給するのは、良く以て然る所以がある。国が弊すればその事を省きその費を息む。事を省けば人を養い、費を息めば財が聚まる。もし小費は財を害するに足らずと言えば、終年息むことが無く、小役は人を妨げるに足らずと言えば、終年止むことが無い」。
書が奏上されると、武帝は大いに怒り、主書を前に召して、口で敕を授けて賀琛を責めて言った、「朕は天下を有すること四十余年、公車の讜言は日々聞き覧る。毎に倥傯を苦しみ、更に惛惑を増す。卿は貂紆組を珥し、博問洽聞であるから、闒茸と同じくすべきではなく、ただ名を取って、我は上事できると言い、朝廷が受け入れないのを恨む。卿は『今北辺は稽服し、まさに生聚教訓の時であるのに、人が安居を失うのは牧守の過ちである』と言う。
しかし大沢の中には龍もいれば蛇もいる。全て善では無いにしても、皆悪ではあり得ない。卿は分明にその人を顕出せよ。卿は『節儉をもって導くべきである』と言い、また『至道なる者は必ず淳素を以て先と為す』と言う。この言葉は大いに善い。夫子は言う、『其身正しければ、令せずして行わる。其身正しからざれば、令すと雖も従わず』と。朕は房室を絶つこと三十余年、女人と同屋に寝ること無しも三十余年、居処に過ぎるは一床の地に過ぎず、彫飾の物は宮に入れず、これも人の共に知る所である。
生を受けて酒を飲まず、生を受けて音声を好まず、故に朝中の曲宴には未だ嘗て楽を奏さず。朕は三更に出て事を理め、事の多少に随う。事少なければ、中前に終わり、事多ければ、日昃に至って方に就食する。既に常に一食、昼か夜か定時無く、疾苦の日は或いは再食することもある。昔、腰は十圍を過ぎたが、今の瘦削は裁二尺余り。旧帯猶存す、妄説に非ず。誰が為に之を為すか。物を救うが故である。
書に云う、『股肱惟れ人にあり、良臣惟れ聖にあり』。向使朕に股肱有らば、中主を得べし。今乃ち免れずして九品の下に居る。『令せずして行わる』は徒に虚言のみ。卿又云う『百司、事を奏せざる莫し、詭競して進を求む』。今、外人の事を呈するを許さざるは、義に於いて可否か。噎えて餐を廃する、これを謂う。もし呈事を断たば、誰かその任を屍するか。専ら委するの人、云何ぞ得ん。是の故に古人云う、『専聴は奸を生じ、独任は乱を成す』と。何れか是れ宜しきか、具に以て奏聞せよ」。
賀琛は敕を奉じてただ過ちを謝するのみで、敢えて指斥する所が無かった。
旧制では、二十五歳にして初めて官服を着ることができたが、当時朱異は二十一歳であったので、特別に詔勅を下して揚州議曹従事史に抜擢された。まもなく詔を下して異能の士を求めると、五経博士の明山賓が表を奉って朱異を推薦した。「年齢はなお若いが、徳は老成を備え、独り居ても散逸の思いなく、暗所にあっても賓客に対する顔色あり。器宇は弘大深遠、神采は峰のように峻厳である。金山万丈、攀じ登るには未だ至らず、玉海千尋、窺い映すも測り難し。これに圭璋新たに琢かれ、錦組初めて構えられたるを加えれば、触れて響けば鏗鏘とし、彩りに遇えば便ち発する。その信行を観るに、十室の邑に稀なるのみならず、もし重きを負わせて遥かな途を行かせば、必ず千里の用あり。」武帝は召し出して、孝経と周易の義を説かせると、大いに喜び、左右の者に言った。「朱異は実に異なる者である。」後に明山賓に会って言った。「卿の推挙は殊に人を得ている。」そこで直ちに西省に直させ、まもなく太学博士を兼ねさせた。その年、帝自ら孝経を講じ、朱異に読ませた。尚書儀曹郎に遷り、入って中書通事舎人を兼ねた。後に中書郎に除されると、秋の日、拝命したばかりの時、飛蝉がちょうど朱異の武冠の上に集まったので、当時皆これを蝉珥の兆しと言った。太子右衛率に遷った。
普通五年、大いに挙兵して北へ侵攻すると、魏の徐州刺史元法僧が使者を遣わして領地を挙げて内属を請うたので、詔を下して有司にその虚実を議させた。朱異は言った。「王師が北討して以来、勝利と捕獲が相継ぎ、徐州の地は次第に弱体化し、皆罪に帰することを願っている。法僧は禍を恐れており、その降伏は必ずや偽りではない。」帝はそこで朱異を遣わして法僧に返答させ、併せて諸軍に応接するよう命じ、朱異の節度を受けるようにさせた。到着すると、法僧は朝廷の旨に従い、朱異の策の通りであった。 散騎常侍 に遷った。
朱異の容貌は魁偉で、挙措をよくし、諸生の出身ではあったが、軍国故実に甚だ通暁していた。周捨が卒して後、朱異が代わって機密を掌り、軍旅の謀議、方鎮の改換、朝儀国典、詔誥勅書を併せて典掌した。四方からの表疏、当局の簿領、諮問審議や裁断の請いが、前へと押し寄せてくると、朱異は文辞を綴り紙に落とし、事を覧て議を下し、縦横に敏速で豊かで、筆を暫しも停めることなく、瞬く間に諸事を済ませた。
右衛将軍に遷った。儀賢堂において武帝の老子義を奉述することを求めると、勅許された。講義が始まると、朝士及び道俗の聴衆は千余人に及び、一時の盛況となった。当時、城西にはまた士林館を開いて学士を招き、朱異は左丞の賀琛と交替で武帝の礼記中庸義を述べた。皇太子もまた朱異を玄圃に召して易を講じさせた。
大同八年、侍中に加えられた。朱異は博識で多芸多才、囲碁は上品であったが、財を貪り賄賂を冒し、視聴を欺き、君主の意を伺って、賢を進め悪を退けることを肯んじなかった。四方からの贈り物を、推し拒むことはなく、故に遠近から憤り憎まれる者がなかった。東陂に邸宅を建て、その美しさを極め、夕日に臨んで、その中で酣に飲んだ。毎夕暮れが迫り、台門が閉じられようとするのを慮り、鹵簿を引き連れて自宅から城まで行き、城門を押さえて管鑰を留めさせた。やがてその勢威は内外に熏灼し、財産は羊侃と相匹敵した。飲食を好み、滋味と声色の歓楽を極め、子鵝や炰鰌を口に絶やすことなく、朝謁の時でさえ、車中に必ず飴や餌を携えた。そして朝の賢者を軽んじ傲り、貴戚をも避けなかった。ある人がこれを諫めると、朱異は言った。「私は寒士である。遭逢して今日に至った。諸貴は皆枯骨を恃んで私を軽んじる。私が彼らに下れば、蔑ろにされることは更に甚だしい。それ故に私は先んじるのだ。」
徐勉・周捨が卒して後、外朝では何敬容、内省では朱異が権勢を握った。敬容は質朴で誠実だが文飾がなく、綱紀維持を己れの任とした。朱異は文華に富み敏速で、世の称誉を曲げて営んだ。二人は行いが異なるが共に寵幸を受けた。朱異は内省に十余年いて、一度も譴責を受けなかった。司農卿の傅岐がかつて朱異に言った。「今、聖上が君に政を委ねておられるのに、どうして毎事ごとに上意に従うことができようか。近頃、外間では甚だ異論がある。」朱異は言った。「正に私が諫争できないと言っているのであろう。当今天子は聖明である。私はどうして聞いたところをもって天聴を干し忤えることができようか。」
太清二年、中領軍となり、舎人は元の通りであった。初め、武帝が中原が悉く平定された夢を見て、朝廷挙げて慶賀し、大いに喜び、朱異に語って言った。「私は平生夢を少なく見るが、夢は必ず実現する。」朱異は言った。「これは宇内がまさに一つになる兆しです。」侯景が降伏した時、勅を下して群臣を召し廷議させると、尚書僕射の謝挙らは許すべからずと以為った。武帝はこれを容れようとしたが、決断できず、かつて早朝に武徳閤口まで行き、独り言った。「我が国家は金甌の如く、一つの傷欠もなく、太平がこのようであるのに、今すぐに土地を受け入れれば、果たして事の宜しきであろうか。もし紛紜に至れば、悔いても及ばない。」朱異は帝の微かな意向を探り、答えて言った。「聖明の御宇、上は蒼玄に応じ、北土の遺黎、誰か慕い仰がないことがあろうか。機会がないため、その心に達していないだけです。今、侯景は魏国の大半を分かち、遠く聖朝に帰順しようとしています。もし容れ受けなければ、恐らく後来の者の望みを絶つことになりましょう。」帝は深く朱異の言葉を容れ、また前の夢に感じて、遂にこれを容れた。貞陽侯が敗没すると、帝は憂えて言った。「今、晋の故事を繰り返すことになるのではないか。」まもなく貞陽侯が魏から使者を遣わし、魏の相国高澄が和睦を申し出たいと述べさせた。勅を下して有司に議を定めさせた。朱異はまた和議を妥当とする議を立て、帝はこれに従った。その年六月、建康令の謝挺と通直郎の徐陵を遣わして北へ通好させた。当時、侯景は寿春を鎮守し、疑念と恐れを抱き、累次上啓して和議を絶つよう請い、また朱異に書を送って金二百両を贈り、さらに制局監の周石珍に書を送って詳細に上聞するよう求めた。朱異はその金を受け取ったが北使を止めず、侯景は遂に反逆した。
初め、侯景が謀反を企てた時、合州刺史の鄱陽王蕭範と司州刺史の羊鴉仁が共に累次上啓して聞かせた。朱異は侯景が孤立して命を寄せているのだから、必ずやそうすることはあるまいと思い、使者に言った。「鄱陽王は遂に国家に一人の客も許さないのか。」併せて聞き奏上することもしなかった。賊が板橋に至ると、前寿州司馬の徐思玉を先に遣わして上への謁見を求めさせた。上は召し出して問うと、思玉は偽って反賊であると称し、閑を請うて事を陳べたいと言った。上は左右を退けようとしたが、舎人の高善宝が言った。「思玉は賊の中から来た者で、真偽測り難く、どうして彼を独り殿上に置くことができましょう。」その時、朱異が侍坐していたので、言った。「徐思玉が刺客であろうか。何と偏ったことを言うのか。」善宝は言った。「思玉は既に臨賀王を北へ入らせたのです。どうして軽々しく信じられましょう。」言い終わらないうちに、思玉は果たして賊の啓を出し、朱異は大いに慚じた。賊は遂に朱異と陸験を討つことを名目とした。侯景が城下に至ると、また啓を射て言った。「朱異らは朝権を蔑み弄び、軽々しく威福をなす。臣は讒臣に陥れられ、屠戮を加えられようとしている。陛下が朱異らを誅すれば、臣は轡を収めて北へ帰る。」帝は簡文帝に問うた。「そのようなことがあるか。」答えて言った。「然り。」帝は有司を召して誅そうとしたが、簡文帝が言った。「賊はただ朱異らを名目としているだけです。今日朱異を殺しても、急を救うには足らず、ただ将来の笑いを残すだけです。妖気が既に収まってから、誅しても遅くはありません。」帝はそこで止めた。
朱異が寵愛を受けている時、朝廷において彼を睨まない者はなく、皇太子でさえも不平を抱いた。この時、城内の人々は皆朱異を非難し、簡文帝は四言の湣乱詩を作って言った、「あの坂の田を憐れみ、この妖気を嘆く。謀りごとが善からず、我が王の法度を乱す。」また囲城賦を作り、末章に云う、「あの高冠と厚履、並びに鼎食して肥馬に乗る者。紫霄の丹地に昇り、玉殿の金扉を排す。謀謨を陳べて啓沃し、政刑を宣べて福威を振るう。四郊これによって多壘、万邦これによって未だ綏ならず。豺狼と問う、その何者ぞ?虺蜴と訪う、誰を為すか?」これらは皆朱異を指したものである。また帝が南楼に登って賊を望み、顧みて朱異に言った、「四郊に多くの堡塁があるが、誰の罪か?」朱異は汗を流して答えられなかった。慚愧と憤りから発病して卒去した。時に六十七歳。詔して尚書右僕射を追贈した。旧来、尚書官は贈官とされなかったが、朱異が卒すると、武帝は悼み惜しみ、贈官の事を議していたところ、左右に朱異に好意を持つ者がおり、啓上して言った、「朱異が平生に願っていたのは、執法の任を得ることでした。」帝はその宿志に因り、特にこの贈官を行った。
朱異は権要の地位に三十年余り在り、上手く上の意を承けて、特に寵愛任用された。歴任した官は員外常侍から侍中まで、四つの官は皆貂尾を挿し、右衛率から領軍まで、四つの職は並んで鹵簿を駆り、近代未だかってこれ有らざるものであった。朱異及び諸子は潮溝から青溪まで邸宅を並べ、その中には台池や遊興の施設があり、暇ある日には賓客と共に遊んだ。四方からの贈り物は財貨が充ち積もり、性質は吝嗇で、かつて施し散らしたことはなかった。厨房の珍味は常に腐敗し、毎月常に十数車を棄てたが、諸子の別房にも分け与えなかった。撰した礼・易の講疏及び儀注・文集百余篇。
朱異の子 朱肅
子の朱肅は国子博士の位にあり、次に朱閏は 司徒 掾であった。共に乱に遭って卒去した。
顧協
顧協は字を正礼といい、呉郡呉の人、晋の 司空 顧和の六世孫である。幼くして孤となり、母に従って外戚の家で養われた。外従祖の右光禄大夫張永がかつて内外の孫や甥を連れて虎丘山に遊んだ時、顧協は数歳であったが、張永が撫でて言った、「児は何をして遊びたいか?」顧協は言った、「児はまさに石を枕にし流れに漱ぎたい。」張永は嘆息して言った、「顧氏はこの子によって興るだろう。」成長して好学、精力に優れると称された。外戚の張氏には賢達が多く、識鑑があり、内弟の張率は特に推重した。
初め揚州議曹従事となり、秀才に挙げられた。 尚書令 沈約はその策を見て嘆じて言った、「江左以来、このような作品はなかった。」兼廷尉正となった。太尉臨川王がその名を聞き、召して書記を掌らせ、引き続き西豊侯蕭正德の読書に侍った。蕭正德が巴西・梓潼郡の太守となると、顧協はその管轄下の新安令に任じられた。県に着かぬうちに母の憂いに遭い、刺史始興王が厚く資を送って、喪を送って還った。峡江で風に遭い、同旅は皆漂流溺死したが、顧協の一つの船だけが石に触れて停泊できた。皆、精誠の致すところであると言った。張率がかつて帝に推薦した時、帝が顧協の年齢を問うと、張率は三十五歳と答えた。帝は言った、「北方は高く涼しく、四十で強仕だが、南方は低く湿り、三十で既に衰える。顧協の如きは既に老いたと言えるが、その事親に孝、友と信あり、草沢に遺すこともできない。卿は便宣に詔を称して呼び出せ。」ここにおいて顧協を兼太学博士とした。累遷して湘東王参軍、兼記室となった。
普通年間、詔して士を挙げるに及び、湘東王が表を上って推薦したので、即ち召して通直散騎侍郎に拝し、兼中書通事舎人とした。大通三年、雷が大航の華表を撃ち焼き尽くした。建康県が馳せて啓上したが、顧協は吉祥ならずとして、直ちに呈上して聞かせなかった。後に帝が知って言った、「雷の撃つところは、一つには悪龍を罰し、二には朕の過ち有ることを顕わす。顧協は悪を掩い善を揚げる、忠公とは言えない。」これによって免官された。後に鴻臚卿を守り、員外 散騎常侍 となり、卿・舎人は並びに元の如くであった。
近臣となって以来、頻繁に機密に関わり、制を述べる毎に、詔の前に顧協に示し、当時の人々はこれを栄誉とした。官に卒する時、衾なくして斂うるものなく、士人に嘆かれた。武帝は悼み惜しみ、哀悼の礼を挙げた。 散騎常侍 を追贈し、諡して温子といった。
顧協は若い頃清介で、志操があり、初めて廷尉正となった時、冬服が薄く、寺卿の蔡法度は襦を解いて与えようとしたが、その清厳を憚って口に出せず、人に言った、「我は身上の襦を解いて顧郎に与えたいが、顧郎は衣食に難がある者だ。」結局敢えて与えなかった。舎人となった時、同官は皆家を潤したが、顧協は省に十六年在っても、器服飲食は常のまま改めなかった。門生が初めて顧協に仕えようとし、その廉潔を知って、厚く贈ることを敢えず、ただ銭二千を送ったが、顧協は怒り、杖二十を加え、このため仕える者は贈り物を絶った。艱憂に遭って以来、終身布衣蔬食であった。若い時に舅の娘と婚約したが、未だ婚礼を挙げずに顧協の母が亡くなり、喪が明けた後も再び娶らなかった。六十余歳になっても、この女はまだ他に嫁がず、顧協は義によって迎えた。晩年に合卺したが、遂に子孫はなかった。
顧協は群書を博く極め、文字及び禽獣草木に特に精詳と称され、異姓苑五巻、瑣語十巻、文集十巻を撰し、並びに世に行われた。
徐摛
徐摛は字を士秀といい、東海郯の人、一字を士繢という。祖父の徐憑道は宋の海陵太守。父の徐超之は梁の天監初年に員外 散騎常侍 の位にあった。
徐摛は幼くして好学、成長して経史を遍く覧み、文を作るに新変を好み、旧体に拘らなかった。晋安王蕭綱が石頭に出戍すると、武帝は周舎に言った、「我がために一人を求めよ、文学共に長じ、行い有る者を、晋安王と遊び処まわしめたい。」周舎は言った、「臣の外弟の徐摛は、形質陋小で、衣に勝えぬようだが、この選に堪えます。」帝は言った、「必ずや仲宣の才があれば、容貌も選ばない。」ここにおいて徐摛を侍読とした。大通初年、王が軍を総べて北侵するに及び、徐摛を兼ねて寧蛮府長史とし、戎政に参 賛 させ、教命軍書は多く徐摛から出た。王が入って皇太子となると、家令に転じ、兼管記、まもなく領直を兼ねた。
徐摛の文体は既に別格で、春坊は皆これを学び、「宮体」の号はここから始まった。帝がこれを聞いて怒り、徐摛を召して譴責を加えようとしたが、会ってみると応対明敏、辞義見るべきものがあり、意を解いた。そこで五経の大義を問い、次に歴代史及び百家雑記を問い、末に釈教を論じた。徐摛は縦横に商較し、響きに応ずる如く応答したので、帝は大いに嘆異し、更に親狎され、寵遇日々に隆盛となった。領軍朱異は快く思わず、親しい者に言った、「徐叟は両宮に出入りし、漸く逼って来る、我は早く処置を為さねば。」遂に隙を承けて帝に白して言った、「徐摛は年老い、また泉石を愛し、一郡で自ら養いたいと思っています。」帝は徐摛がそれを望むと思い、徐摛を召して言った、「新安は大いに山水が良い、任昉らが皆これを治めた、卿は我のためにこの郡を臨め。」中大通三年、遂に出て新安太守となった。政は清静で、人に礼義を教え、農桑を勧課し、一ヶ月で風俗が改まった。任期が満ちて、中庶子となった。
時に臨城公(蕭大器)が夫人王氏(即ち簡文帝妃の姪女)を娶るに当たり、晋・宋以来の慣例として、婚礼三日目に新婦が舅姑に拝謁し、賓客も皆列席して見物する。春秋の義を引いて『丁丑、夫人姜氏至る。戊寅、公、大夫宗婦をして幣を用いて 覿 えしむ』とある。戊寅は丁丑の翌日であるから、礼官はこれに拠って皆『旧来の観覧の儀を踏襲すべし』と云う。簡文帝が徐摛に意見を求めると、摛は議して曰く、『儀礼に「質明(夜明け)に賛見す、婦を舅姑に見えしむ」とあり、雑記にも「婦、舅姑に見えるや、兄弟姊妹皆堂下に立つ」とある。これは正に婦が外宗(他家の出身)であるため、未だ閨門の令(家内の礼法)に通じていないから、舅は外客を招き、姑は内賓を率い、堂下の儀礼を以て盛礼を備えるのである。近代では婦と舅姑は元来戚属(親族関係)があり、互いに見知らぬ者ではない。夫人は妃の姪女であり、他の姻戚とは異なる。覿見の儀礼は略すべきであると謂うべきである』。簡文帝はその議に従った。摛は太子左衛率に任ぜられた。
侯景が台城を攻め落とした時、簡文帝は永福省に居た。賊の兵衆が駆け込むと、侍衛は散り散りに逃げ、一人も残る者は無かった。摛のみが独り侍立して動かず、徐ろに景に謂って曰く、『侯公は礼を以て謁見すべきであり、どうしてこのような有様か』。凶暴な威勢は遂に挫かれ、侯景は拝礼した。これにより景は常に摛を畏れた。簡文帝が帝位を継ぐと、左衛将軍に進めて授けようとしたが、固辞して拝受しなかった。簡文帝が幽閉されると、摛は朝謁することが叶わず、気疾を感じて卒した。享年七十八。侍中・太子詹事を追贈され、諡して貞子と曰う。長子の徐陵が最も著名である。
徐摛の子、徐陵。
陵は字を孝穆と曰う。母の臧氏は、嘗て五色の雲が鳳と化して左肩に集まる夢を見、間もなく陵を生んだ。数歳の時、家人が連れて沙門の釈宝志を訪ねると、宝志はその頂を摩って曰く、『天上の石麒麟なり』。光宅寺の慧雲法師は常に陵の早熟を嘆賞し、顔回と称した。八歳で文を綴り、十三歳で荘子・老子の義理を通曉した。成長すると、史籍に広く渉猟し、縦横の弁舌を有した。父の摛が晋安王(蕭綱)の諮議参軍となると、王は更に陵を召して寧蛮府軍事に参与させた。王が皇太子に立てられると、東宮に学士を置き、陵はその選に充てられた。稍々に尚書度支郎に遷った。
上虞県令として出向した。御史中丞の劉孝儀は陵と先に遺恨があり、風聞を以て陵が県令在任中に贓汙(収賄汚職)があったと弾劾し、これに坐して免官された。久しくして、通直散騎侍郎となった。梁の簡文帝が東宮に在った時、長春殿義記を撰し、陵に序を為させた。また少傅府において自らが作った荘子義を講述させた。
太清二年、通直 散騎常侍 を兼ねて魏に使し、魏人は賓館を授けて賓客を宴した。この日は甚だ暑く、その主客の魏収が陵を嘲って曰く、『今日の暑さは、徐常侍が来られた由縁であろう』。陵は即座に答えて曰く、『昔、王肅が此処に至り、魏の為に初めて礼儀を制定した。今、我が聘問に来て、卿に再び寒暑を知らしめるのである』。収は大いに慚じた。斉の文襄帝(高澄)が宰相として、収の失言を以て、数日間彼を拘禁した。
侯景が侵入した時、陵の父の摛は先に囲まれた城の中に在った。陵は家からの便りを受けず、蔬食布衣にて、喪に服するが如き生活を送った。丁度斉が魏の禅譲を受けると、梁の元帝が江陵において制(皇帝の権限)を承け、再び斉と使者を通わせた。陵は累次に渡り帰国復命を求めたが、終に拘留されて遣わされず、遂に僕射の楊遵彦に書を致したが、返答は無かった。魏が江陵を平定し、斉が貞陽侯蕭淵明を梁の後継として送還するに及んで、初めて陵を随行させて帰した。太尉の王僧辯は初め国境で拒んで受け入れず、淵明が往復して送った書状は、皆陵の文辞であった。淵明が入国すると、僧辯は陵を得て大いに喜び、尚書吏部郎とし、詔誥の執筆を兼掌させた。その年、陳武帝(陳霸先)が僧辯を誅殺し、引き続き韋載を討伐したが、任約・徐嗣徽が虚に乗じて石頭城を襲撃した。陵は僧辯の旧恩に感じ、任約の下に赴いた。任約が平定されると、武帝は陵を釈放して問わず、尚書左丞とした。
紹泰二年、再び斉に使した。帰朝して給事黄門侍郎・秘書監に任ぜられた。陳が禅譲を受けると、 散騎常侍 を加えられた。天嘉四年、五兵尚書となり、大著作を領した。六年、 散騎常侍 ・御史中丞に任ぜられた。時に安成王陳頊が 司空 として、帝弟の尊をもって権勢が朝野を傾けた。直兵の鮑僧叡が王の威風を仮り、訴訟を抑圧塞ぎ、大臣も敢えて言う者無かったが、陵は乃ちこれを弾劾する上奏をした。文帝(陳蒨)は陵の服章が厳粛で、犯し難きが如きを見て、顔を引き締めて正坐した。陵が進み出て奏状を読み上げると、時に安成王は殿上に侍立していたが、文帝を仰ぎ見て流汗し顔色を失い、陵は殿中郎に命じて王を殿下に引き下ろさせた。此れより朝廷は粛然とした。
吏部尚書に遷り、大著作を領した。陵は梁末以来、選挙授官が多くその適所を失っていると考え、於是に綱維を提げ挙げ、名実を綜覈した。時に冒進して官を求め、奔走競い止まぬ者があると、乃ち書を為してこれを宣示し、曰く、『永定の時、聖朝は草創し、干戈未だ息まず、尚ほ条序無し。府庫空虚にして賞賜乏しく、白銀は得難く、黄劄(任命書)は営み易し。権りに官階を以て、錢絹に代え、義は撫接に在りて、多少を計らざりき。致す所、員外常侍は路上に比肩し、諮議参軍は市中に数無し、豈に朝章かくの如くあるべきや。今や衣冠礼楽、日に富み年に華やぎて、何ぞ猶ほ旧意を為し、非理に望まんや。見る所、諸君多くは本分を踰え、猶ほ大いに屈すと言い、高き懐(朝廷の厚意)を諭さず。若し梁朝の朱領軍(朱異)も卿相と為ったと問わば、此れ其の本分を踰えざるか。此れは天子の抜擢する所にして、選序に関せず。梁武帝は云う「世間の人言に目色(目を掛ける)有りと、我は特に範悌に目色せず」と。宋文帝も亦云う「人豈に運命無からんや、毎に好官の缺くる有れば、輒ち羊玄保を憶う」と。此れ則ち清階顕職は選挙によらざるなり。既に衡流(選挙の任)を忝くす、諸賢深く鄙意を明らかにせよ』。是より衆皆服した。時の論は之を毛玠に比した。
宣帝(陳頊)が輔政に入り、異志を抱く者を廃そうと謀り、陵を引き入れてその議に参与させた。宣帝が即位すると、建昌県侯に封ぜられた。太建年中、尚書左僕射となり、上表して周弘正・王勱等を推挙した。帝は内殿に召し入れて曰く、『卿は何ぞ固く辞して人を挙げるか』。陵曰く、『弘正は旧藩の長史、王勱は太平中の相府長史、張種は帝郷の賢戚なり。若し賢旧を選ばば、臣は宜しく後に居るべし』。累日に渡り固辞し、乃ち詔を奉じた。
朝議において北侵が論じられると、宣帝は元帥を挙げるよう命じ、衆議は淳于量に在ったが、陵独り曰く、『然らず。呉明徹の家は淮左に在り、彼の地の風俗を悉くし、将略人才、当今に彼に過ぐる者無し』。於是に数日間争論して決せず、都官尚書の裴忌が曰く、『臣は徐僕射に同ず』。陵は応声して曰く、『明徹のみが良将ならず、忌こそ即ち良き副将なり』。この日、詔して明徹を大 都督 とし、忌に軍事を監させ、遂に淮南数十州の地を攻克した。宣帝は因って酒宴を設け、杯を挙げて陵に属して曰く、『卿の人を知るを賞す』。
七年、国子祭酒を領し、公事に坐して侍中・僕射を免ぜられた。間もなく侍中を加えられ、扶(扶持)を給された。十三年、 中書監 となり、太子詹事を領した。年老いを以て累表して致事(引退)を求め、宣帝も亦優礼を以てし、詔して将作に命じ大なる邸宅を造らせ、陵に第宅において政事を摂行させた。後主(陳叔宝)が即位すると、左光禄大夫・太子少傅に遷った。至徳元年に卒し、享年七十七。詔して特進を追贈した。初め、後主が文を陵に見せ、他人の作と偽った。陵は嗤って曰く、『全く辞句を成さず』。後主は之を恨みに含み、此に至り諡して章偽侯と曰う。
徐陵は器量が深遠であり、容姿・挙措は見るべきものがあった。性質は清廉簡素で、営利を求めず、俸禄は親族と共有した。太建年間、建昌県の封戸を食み、戸から米が水辺まで送られてくると、貧窮している親戚を皆呼び寄せて取らせたので、数日で尽きた。徐陵の家はやがて困窮に陥った。府の僚属が怪しんでその理由を問うと、陵は言った。「私には車・牛・衣裳があって売れるが、あなた方の家には売れるものがあるか?」そのように周囲を救済したのである。
若い頃から仏教を深く信奉し、経論を多く解釈した。後主が東宮にいた時、陵に『大品経』を講義させると、義学の名僧が遠方から雲のごとく集まり、講筵で議論が交わされるたび、四座で抗しうる者はなかった。目に青精(瞳の澄んだ様)があり、当時の人はこれを聡慧の相と見なした。陳が創業して以来、文檄・軍書および受禅の詔策は、すべて陵が起草し、一代の文宗とされた。また人を軽んじることもなく、かつて作者を誹謗・非難したこともなかった。後進に対しては、倦むことなく引き立てた。文帝・宣帝の時代、国家に大手筆(重要な文章)があると、必ず陵に草稿させた。その文章は旧来の文体をかなり変え、構成が巧みで綿密であり、新意が多い。一つの文章が出るごとに、好事の者が伝写して暗誦し、ついに周・斉にまで伝わり、家ごとにその写本を持った。後に喪乱に遭い、多くは散失し、現存するものは三十巻である。陵には四人の子がいた。儉・份・儀・僔である。
陵の子 儉
儉は一名を報といい、幼い頃から背が高く立ち、学問に勤勉で志操があった。汝南の周弘直はその人柄を重んじ、娘を妻として与えた。梁の元帝が召し出して尚書金部郎中とした。しばしば侍宴して詩を賦すると、元帝は賞賛して言った。「徐氏の子に、また文才がある。」魏が江陵を平定した後、建鄴に戻り、累進して中書侍郎となった。
太建初年、広州刺史の歐陽紇が兵を挙げて反乱を起こすと、宣帝は儉に節を持たせて旨を諭させた。紇は儉と会うと、盛大に儀仗・護衛を並べ、言辞が恭しくなかった。儉は言った。「呂嘉の事は、確かにすでに遠い昔だが、将軍は周迪・陳寶応のことをご覧にならなかったのか?」紇は黙って答えなかった。儉が衆の志を沮喪させることを恐れ、城に入ることを許さず、儉を孤園寺に置いた。紇がかつて出てきて儉に会うと、儉は言った。「将軍はすでに挙兵なさった。儉は天子に復命しなければならない。儉の性命は将軍の手中にあるが、将軍の成敗は儉にかかっているのではない。どうか引き留めないでいただきたい。」紇はそこで儉を帰した。儉は間道から馳せて戻った。宣帝は章昭達に紇を討たせ、儉に昭達の軍を監させた。紇が平定されると、兼中書通事舍人となった。
後主が立つと、累進して尋陽内史となり、政治は厳明で、盗賊は静まった。 散騎常侍 に転じ、建昌侯の爵を襲封した。入朝して御史中丞となった。儉は公平で誰にも阿附せず、 尚書令 の江總は一時声望が高かったが、儉に弾劾され、後主は深く儉を信任した。禎明二年に卒した。
陵の子 份
份は幼い頃から父の風があった。九歳で『夢賦』を作り、陵はこれを見て、親しい者に言った。「私が幼い頃に文を作った時も、これには及ばなかった。」海塩令となり、政績があった。入朝して太子洗馬となった。性質は孝悌に厚く、陵がかつて重病になった時、份は香を焚き涙を流し、跪いて『孝経』を誦し、日夜休むことなく、三日間そのようにしたところ、陵の病はたちまち癒えた。親戚は皆、份の孝心の感応によるものだと言った。陵より先に卒した。
陵の子 儀
儀は幼い頃から聡明で機敏であり、陳に仕えて尚書殿中郎の位に至った。陳が滅亡すると、銭唐の赭山に隠棲した。隋の煬帝が召し出して学士とし、まもなく著作佐郎に任じた。大業四年に卒した。
陵の弟 孝克
陵の弟の孝克は、弁舌に優れ、玄理を談ずることができた。性質は至孝で、父の喪に遭い、ほとんど喪に堪えられなかった。生母の陳氏に仕え、養いの道を尽くした。梁の末、侯景の乱が起こると、孝克は母を養ったが、粥さえ十分に与えられなかった。妻は東莞の臧氏で、領軍將軍の臧盾の娘であり、非常に容色があった。孝克はそこで妻に言った。「今このように飢饉がひどく、母の供養が欠乏している。あなたを富人に嫁がせ、互いに救われたいと思うが、あなたはどう思うか?」臧氏は承諾しなかった。時に孔景行という者がおり、侯景の将となっており、多くの部下を従えて臧氏を強引に迎えに来た。臧氏は泣いて去り、得た穀物や絹布はすべて母に与えた。孝克はまた髪を剃って沙門となり、名を法整と改め、乞食を兼ねて供給を補った。臧氏もまた旧恩を深く思い、たびたび密かに食物を送ったので、困窮することはなかった。後に景行が戦死すると、臧氏は道中で孝克を待ち伏せ、数日してようやく会い、孝克に言った。「かつてのことは、あなたを裏切るためではなかった。今や脱することができたので、帰って供養しなければならない。」孝克は黙って答えなかった。そこで俗に戻り、再び夫婦となった。
後に東に遊び、銭唐の佳義里に住み、諸僧と仏典を討論し、ついに三論に通じた。毎日二時に講義し、朝は仏経を講じ、夕方は礼伝を講じ、僧俗の受業者は数百人に及んだ。天嘉年間、剡県令に任じられたが、好みではなく、まもなく職を去った。太建四年、秘書丞に徴されたが、就任しなかった。そこで蔬食の長斎を行い、菩薩戒を持ち、昼夜『法華経』を講誦した。宣帝はその操行を大いに称賛した。後に国子祭酒となった。孝克は毎度侍宴しても、何も食べず、宴席が散じる時、彼の前の膳羞は減っていた。帝は密かに記して中書舍人の管斌に問うた。斌はそれ以来うかがっていると、孝克が珍果を取って紳帯の中に納めるのを見た。斌は当時その意図が分からなかったが、後になって尋ねてみると、母に与えるためだと知った。斌がこれを啓上すると、宣帝はしばらく嘆息し、勅して今後宴享では、孝克の前の饌はすべて持ち帰らせ、その母に与えさせた。当時の論はこれを称えた。
至徳年間、皇太子が学に入り釈奠を行うと、百官が陪列した。孝克が『孝経』の題を発すると、後主は詔して皇太子に北面して敬意を表させた。禎明元年、入朝して都官尚書となった。晋以来、尚書の官僚は皆、家眷を連れて省に住んでいた。省は臺城内の下舎門の中にあり、東西に跨る閣道があり、朝堂に通じていた。その第一が都官省であり、西は閣道に接していた。年代が久しく、多くの鬼怪があった。毎夜、黄昏の頃、理由なく音や光があり、あるいは衣冠を着た人が井戸から出てきて、しばらくしてまた沈むのを見たり、あるいは門や戸が自然に開閉したりした。ここに住む者は多く死亡し、尚書の周確がこの省で卒した。孝克が確に代わると、すぐにここに住んだ。二年経つと、妖変はすべて止み、当時の人は皆、貞正によるものだと考えた。
孝克の性質は清素で、施しを好んだので、飢えと寒さを免れなかった。後主は勅して石頭津の税を彼に与えたが、孝克はすべて斎会を設け経を写すのに用い、すぐに尽きた。
二年、 散騎常侍 となり、東宮に侍した。陳が滅びると、例に従って長安に入った。家は貧しく、生母が病に罹り、粳米で粥を作りたいと望んだが、常に用意することができなかった。母が亡くなった後、孝克は常に麦を食べるようになり、粳米を贈る者がいると、孝克はそれに向かって悲しみ泣き、生涯再び食することはなかった。
開皇十二年、長安に疫病が流行し、隋の文帝はその名声と行いを聞き、召し出して尚書都堂で金剛般若経を講じさせた。まもなく国子博士に任じられ、後に東宮に侍して、礼伝を講じた。
十九年、病により卒した。七十三歳であった。臨終に正坐して念仏し、室内には尋常ならざる香気があり、隣里は皆驚き怪しんだ。子の万載は、太子洗馬の位に至った。
鮑泉
鮑泉、字は潤岳、東海の人である。父の幾、字は景玄、家は貧しく、母が老いているため吏部尚書王亮に禄を求めた。亮は一見して賞賛し、挙げて舂陵令とした。後に明山賓に推薦され、太常丞となった。外兄の傅昭が太常となったため、制度により緦服の親族は互いに臨むことができず、尚書郎に改められ、湘東王諮議参軍で終わった。
泉は鬚髯が美しく、挙止に優れ、身長八尺、性質は甚だ機敏であった。広く史伝に渉猟し、文筆も兼ね備えていた。若くして元帝に仕えて国常侍となり、早くから抜擢任用され、帝は「我が文の外に卿を出す者なし」と言った。後に通直侍郎となった。常に高幰車に乗り、数十人の従者を従え、傘蓋や服玩は甚だ精緻であった。道で国子祭酒王承に出会い、承は旧来の貴人ではないかと疑い、訪ねさせると、泉の従者が答えて「鮑通直です」と言った。承は怪しみ、さらに辱めようと、人を遣わして車に迫り問うた。「鮑通直とはまた何者か、このようであるとは!」都の若者はこれを口実とし、豪華な人を見ると、互いに戯れて「鮑通直とはまた何者か、このようである」と言い、笑いの種とした。
元帝が制を承けると、累遷して信州刺史に至った。方等が敗れると、元帝は大いに怒り、泉と王僧辯にこれを討たせた。僧辯が「計はどう出すか」と言うと、泉は「事は雪を沃ぐが如し、何ぞ多く慮る所あらん」と言った。僧辯は「君の言は文士の常談に過ぎぬ。河東(蕭繹)には少し武幹があり、精兵一万なければ行くべからず。竟陵の甲卒は間もなく到着するはず、まだ再考できる。卿と共に入って言おう」と言った。泉は承諾したが、僧辯が先の言葉通りに言うと、泉は黙然として続けなかった。元帝は大いに怒り、ここに僧辯を械にかけて拘禁した。当時の人は泉を酈寄に比した。
泉は長沙を専征したが、久しくして勝てなかった。元帝はついに泉の二十の罪を数え、書を為して責めて言った。「面は冠玉の如し、なお木偶を疑わしめ、鬚は蝟毛の如し、徒らに喙を繞らすに労す。」ここにおいて獄中から王僧辯を起用し、泉に代えて 都督 とし、舍人羅重歡に齋仗三百人を率いさせて僧辯と共に行かせた。長沙に至り、泉に通じて言った。「羅舍人は命を受けて王竟陵をお送りしました。」泉は愕然とし、左右を顧みて言った。「王竟陵が我が経略を助けてくれるなら、賊を平らげるに足らぬ。」ここに席を払って坐し、これを待った。僧辯が入ると、背を泉に向けて坐し言った。「鮑郎、卿には罪がある。令旨により卿を鎖するよう命じられた。故意をもって期待するなかれ。」重歡に命じて令を示させ、泉を床下に鎖した。泉の顔色は自若として、少しも恐れる様子がなく、言った。「王師を稽緩させた罪は甘んじて受ける。ただ後人が更に鮑泉の昏憒を思うことを恐れるのみ。」僧辯の表情は甚だ穏やかでなかった。泉はついに淹遅の罪を啓上陳述した。元帝はまもなくその任に復し、僧辯らと共に東進して邵陵王を 郢州 に逼迫させよと命じた。
郢州が平定されると、元帝は世子の方諸を刺史とし、泉を長史として州府の事を行わせた。方諸は泉が温和で弱いのを見て、諮問陳情があっても用いず、泉に床に伏せて背中に騎り馬とならせ、その衣に姓名を書いた。これにより州府はことごとく欺くようになった。侯景が密かに将の宋子仙・任約を遣わして襲撃させた。方諸と泉は軍政を顧みず、ただ樗蒲と酒で自ら楽しみ、「賊がどうして来られようか」と言った。やがて伝え告げる者が多くなり、ようやく門を閉ざすよう命じた。城は陥落し、賊は方諸と泉を捕らえて景のもとに送った。後に景が王僧辯を巴陵で攻めて勝てず、敗れて還ると、泉を江夏で殺し、その屍を黄鶴磯に沈めた。
初め、泉は朱衣を着て水上を行く夢を見た。死ぬと、全身に血を帯びて江に沈み、その夢の通りであった。泉は儀礼に特に明るく、新儀三十巻を撰して世に行われた。
附 鮑行卿
当時また鮑行卿が博学大才をもって称され、後軍臨川王録事、兼中書舎人に位し、歩兵 校尉 に遷った。玉璧の銘を献上し、武帝は詔を発して褒賞した。韻語を好み、歩兵 校尉 に拝された時、面と向かって帝に謝して言った。「舎人を作れば貧しさ免れず、五校を得れば実に大校。」例は皆このようであった。集二十巻がある。皇室儀十三巻、乗輿龍飛記二巻を撰した。
行卿の弟 客卿
弟の客卿は南康太守の位に至った。客卿に三人の子、検・正・至があり、皆才芸で知られ、ともに湘東王の五佐となった。正は交遊を好み、一日も人に適わぬ日はなく、人はこれについて語って言った。「至らぬ所なく烏の噪くに逢わず、至らぬ所なく鮑佐に逢わず。」正は湘東王に知られず、書を献じて告退した。王はこれを恨んだ。建 鄴城 が陥落すると、正は尚書外兵郎で、病み起き上がれなかった。景は死屍の中に混ぜて焼いた。王はこれを聞いて言った。「忠は紀信にあらず、利は象歯にあらず。焚き棄つること、ここにおいて得たり。」君子はこれによって湘東王の不仁を知る。検は湘東鎮西府中記室となり、蜀に使いし、武陵王に屈せず、害された。
論
論じて曰く、夏侯勝が云う、「士は経術を明らかにせざるを患う、経術明らかなれば、青紫を取ること地芥を拾うが如し」と。賀瑒・賀琛・朱異・司馬褧はこれを得たり。而して異は遂に寵倖を徼り、事に任じ権に居り、道を以て時に佐くる能わず、苟くも容媚を取る。寇を延いて国を敗るに及んでは、実に異の由る所、禍難既に彰るるも、其の罪を明らかにせず、亦既に身死すとも、寵贈猶ほ殊なり。罰既に加えられず、賞亦斯に濫る。夫れ太清の乱は、固より其れ宜なり。顧協は清介にして、以て古人を追跡するに足る。徐摛は貞正にして、仁者は信乎に勇有り。孝穆は聰明特達にして、興王を締構し、献替謀猷、亮直斯に在り。泉本は文房の士にして、毎に荷戈の任に処る、材に非ざるの責、勝任すること亦た難からずや。