南史

巻六十二より巻六十三

巻六十二より巻六十三

南史

巻六十二より巻六十三

列伝第五十二 賀瑒(子:革、季、従子:琛)・司馬褧・朱异・顧協・徐摛(子:陵、孫:倹、份、儀、陵の弟:孝克)・鮑泉(附:行卿、行卿の弟:客卿)

賀瑒

原文賀瑒

賀瑒は字あざなを徳璉といい、会稽郡山陰県の人で、晋の司空賀循の玄孫である。代々儒術をもって顕れた。伯祖父の道養は卜筮に巧みで、経過したところで歌を歌う女が病死したので、彼のために占うと、「これは死ではない。天地が彼女を召して歌わせるのである」と言った。そこで土塊をその心臓の上に置くと、しばらくして蘇生した。祖父の道力は三礼に通じ盛名があり、宋に仕えて尚書三公郎、建康令となった。父の損もまた家業を伝えた。

原文賀瑒字德璉,會稽山陰人,晉司空循之玄孫也。世以儒術顯。伯祖道養工卜筮,經遇工歌女人病死,為筮之,曰:「此非死也,天地召之歌也。」乃以土塊加其心上俄頃而蘇。祖道力善三禮,有盛名,仕宋為尚書三公郎,建康令。父損亦傳家業。

賀瑒は幼少より聡明で、斉の時に沛国の劉瓛が会稽府丞となったが、賀瑒を見まみて深く器量を異とし、重んじた。かつて共に呉郡の張融を訪ね、賀瑒を指して言うには、「この生は将来儒者の宗となるであろう」と。彼を推薦して国子生とし、明経に挙げられた。後に太学博士となった。

原文瑒少聰敏,齊時沛國劉瓛爲會稽府丞,見瑒深器異之。嘗與俱造吳郡張融,指瑒謂曰:「此生將來爲儒者宗矣。」薦之爲國子生,舉明經。後爲太學博士。

梁の天監初年、太常丞となり、有司が賓礼の修定を挙げると、召し出されて礼義を説いた。武帝はこれを異とし、詔して朔望の朝参を許し、華林講に参与させた。四年、初めて五館を開くと、賀瑒を以て五経博士を兼ねさせた。別詔により皇太子の礼を定め、五経義を撰した。時に武帝は礼楽を創定しようとしていたが、賀瑒の建議は多く施行された。七年、歩兵校尉に拝され、五経博士を領した。館において卒した。著した礼・易・老・荘の講疏、朝廷博士議数百篇、賓礼儀注一百四十五巻がある。

原文梁天監初,爲太常丞,有司舉修賓禮,召見説禮義。武帝異之,詔朝朔望,預華林講。四年,初開五館,以瑒兼五經博士。別詔爲皇太子定禮,撰五經義。時武帝方創定禮樂,瑒所建議多見施行。七年,拜步兵校尉,領五經博士。卒於館。所著禮、易、老、莊講疏,朝廷博士議數百篇,賓禮儀注一百四十五卷。

賀瑒は礼に特に精通し、館中の生徒は常に数百人、弟子で明経に対策する者は数十人に及んだ。二子の革・季、弟子の琛は、共に賀瑒の学業を伝えた。

原文瑒于禮尤精,館中生徒常數百,弟子明經對策至數十人。二子革、季,弟子琛,並傳瑒業。

賀瑒の子 革

原文瑒子 革

革は字を文明といい、幼少の時家が貧しかったため、自ら耕作して父母を養い、二十歳になって初めて耒を止めて父に就いて学業を受け、精力を怠らなかった。六尺の方形の寝台があり、義理が通じない時は、その上に横たわり、その義を尽くさないうちは、終に食を取ろうとしなかった。三礼に通じた。成長すると、孝経・論語・毛詩・左伝を広く修め、兼太学博士となった。身長七尺八寸、容姿は雍容として優雅で、吐く言葉は含蓄に富んでいた。勅命により永福省において邵陵王・湘東王・武陵王の三王に礼を講じた。後に国子博士となり、学において講義し、生徒は常に数百人であった。出て西中郎湘東王諮議参軍となり、江陵令を帯びた。王は州に学を置き、革に儒林祭酒を領させ、三礼を講じた。荊楚の士大夫で聴講する者は非常に多かった。前後二度南平郡を監し、人吏に懐かれた。まもなく平西長史・南郡太守を兼ねた。革は至孝であり、常に禄食をもって耕作に代えること、養うに及ばないことを恨んだ。荊州において歴任した郡県で得た俸禄は、妻子に及ぼさず、専ら郷里に帰って寺を造り、感慕の思いを表そうとした。子の徽は風儀が美しく、談吐に優れ、深く革に愛されたが、革に先立って卒した。革はこれを哭し、それによって病を得て卒した。

原文革字文明,少以家貧,躬耕供養,年二十,始輟耒就父受業,精力不怠。有六尺方床,思義未達,則橫臥其上,不盡其義,終不肯食。通三禮。及長,遍治孝經、論語、毛詩、左傳,爲兼太學博士。長七尺八寸,雍容都雅,吐納蘊藉。敕于永福省爲邵陵、湘東、武陵三王講禮。後爲國子博士,于學講授,生徒常數百人。出爲西中郎湘東王諮議參軍,帶江陵令。王於州置學,以革領儒林祭酒,講三禮,荊楚衣冠聽者甚眾。前後再監南平郡,爲人吏所懷。尋兼平西長史、南郡太守。革至孝,常恨食祿代耕,不及爲養。在荊州曆爲郡縣,所得俸秩,不及妻孥,專擬還鄉造寺,以申感思。子徽,美風儀,能談吐,深爲革愛,先革卒。革哭之,因遘疾而卒。

賀瑒の子 季

原文瑒子 季

季もまた三礼に明るく、位は中書黄門郎、著作を兼ねた。

原文季亦明三禮,位中書黃門郎,兼著作。

賀瑒の従子 琛

原文瑒從子 琛

琛は字を国宝といい、幼くして孤となり、伯父の賀瑒が経学の業を授けると、一度聞いただけで義理を理解した。賀瑒はこれを異とし、常に言った、「この児は明経によって貴きに至るであろう」と。賀瑒が卒した後、琛は家が貧しく、常に諸暨を往還して粟を売り、母を養った。自ら舟を操り火を焚くこともあったが、暇な時は学業を習い、特に三礼に精通した。二十歳余りで、賀瑒の門徒が次第に来て道を問うた。

原文琛字國寶,幼孤,伯父瑒授其經業,一聞便通義理。瑒異之,常曰:「此兒當以明經致貴。」瑒卒後,琛家貧,常往還諸暨販粟以養母。雖自執舟烜,閑則習業,尤精三禮。年二十餘,瑒之門徒稍從問道。

初め、賀瑒は郷里において徒を集めて教授し、四方より学業を受ける者は三千余人に及んだ。賀瑒は天監年中に亡くなったが、この時に再び集まり、賀琛は郊外の地に室を築き、茅葺きの数間で、年も三十に近づくと、早くも講授に従事した。既に代々礼学を習い、その精微を究め、先儒の説を述べては、言葉を吐いて弁明明晰であり、座って聴き受ける者は、終日疲れを知らなかった。

原文初,瑒於鄉里聚徒教授,四方受業者三千餘人。瑒天監中亡,至是復集,琛乃築室郊郭之際,茅茨數間,年將三十,便事講授。既世習禮學,究其精微,占述先儒,吐言辯絜,坐之聽受,終日不疲。

湘東王が幼年にして郡を治めることとなり、彭城の到溉が行事となったが、賀琛の美名を聞き、車を走らせて訪ねた。ちょうど賀琛が講義をしており、学友が筵に満ちていたが、上佐が突然来たと聞いて、皆動揺した。賀琛は経を説くのを止めず、少しも意を屈しなかった。到溉が車を降り、欣として席に就き、問難を申し述べると、往復して従容とし、義理が該博であった。到溉は嘆じて言った、「通儒碩学、また賀生を見る。今は暫く城に還るが、尋ねて必ず君を招こう」。賀琛は全く応答せず、神情は萎えていた。到溉は王に言上し、郡の功曹史に補するよう請うた。賀琛は母が老いていると辞し、終に固執した。

原文湘東王幼年臨郡,彭城到溉爲行事,聞琛美名,命駕相造。會琛正講,學侶滿筵,既聞上佐忽來,莫不傾動。琛説經無輟,曾不降意。溉下車,欣然就席,便申問難,往復從容,義理該贍。溉歎曰:「通儒碩學,復見賀生。今且還城,尋當相屈。」琛了不酬答,神用頹然。溉言之王,請補郡功曹史。琛辭以母老,終於固執。

やがて母の喪に遭い、墓所に廬した。喪が明けても、まだ家に還らず、生徒がまた彼に従った。賀琛は哀毀して数年を積み、骨立つばかりであり、講授に堪えられなかった。諸生が救い営み、少しずつ学業を習った。

原文俄遭母憂,廬於墓所。服闋,猶未還舍,生徒復從之。琛哀毀積年,骨立而已,未堪講授。諸生營救,稍稍習業。

普通年間、太尉臨川王蕭宏が州を臨み、祭酒從事に召し補した。賀琛は年既に四十余りで、初めて辟命に応じた。武帝はその学術有るを聞き、文徳殿に召し見て、語り悦び、僕射徐勉に謂って言った、「賀琛は殊に門業有り」。仍って王國侍郎を補し、稍く遷って兼中書通事舍人となり、禮儀事に参じた。累遷して尚書左丞となり、詔して賀琛に新諡法を撰ばしめ、便ち即ち施用した。時に皇太子が議して、大功の末には、子に冠し女を嫁がすことを得るとした。賀琛が駁議して曰く、

原文普通中,太尉臨川王宏臨州,召補祭酒從事,琛年已四十餘,始應辟命。武帝聞其有學術,召見文德殿,與語悅之,謂僕射徐勉曰:「琛殊有門業。」仍補王國侍郎,稍遷兼中書通事舍人,參禮儀事。累遷尚書左丞,詔琛撰新諡法,便即施用。時皇太子議大功之末,可以冠子嫁女。琛駁議曰:

令旨は「大功の末には、子に冠し女を嫁がすことを得るが、自ら冠し自ら嫁ぐことは得ず」とされる。記文を推すに、窃かに猶お惑いを致す。案ずるに嫁冠の禮は、本来父の成す所である。父無き人は、乃ち自ら冠すことを得る。故に記は大功小功を称し、並びに「子に冠し子を嫁す」を文とし、唯だ子の為に得るのみに関し、己身は得ずと云うに非ざるなり。小功の末は既に自ら嫁娶することを得るが、而も亦云う「子に冠し婦を娶る」と。其の義益々明らかなり。故に先ず二服を列し、毎に子に冠し子を嫁ぐことを明らかにし、後句に結びて、方に自ら娶るの義を顕す。既に小功の自ら娶るを明らかにすれば、即ち大功の自ら冠するを知る。蓋し約言して旨を見るなり。若し父の為に大功に服し、子は小功に服すと謂い、小功の服軽きを以て、故に子に冠嫁することを得、大功の服重きを以て、故に自ら嫁ぎ自ら冠することを得ずとすれば、則ち小功の末は、父子の服殊なるを明らかにせず、応に復た「子に冠し子を嫁す」と云うべからざるなり。若し小功の文は己の娶ることを得ると言い、大功の文は己の冠するを言わず、故に身に大功有れば、自ら嘉禮を行うことを得ず、但だ子に冠嫁することを得ると知るとするは、窃かに謂うに、服有りて嘉禮を行わざるは、本来吉凶相い干すべからざる為なり。子は小功の末と雖も、冠嫁を行うことを得るも、猶お応に父の其の為に冠嫁することを得るを須うべし。若し父が大功の末に於いて子に冠し子を嫁すことを得れば、是れ吉凶の禮に礙り無し。吉凶の禮に礙り無ければ、豈に自ら冠し自ら嫁ぐことを得ざらんや。若し自ら冠し自ら嫁ぐことが事に礙り有れば、則ち子に冠し子を嫁ぐことは寧ろ独り通ずることを得んや。今其の子に冠するを許して其の自ら冠するを塞ぐは、是れ賀琛の惑う所なり。

原文令旨以「大功之末,可得冠子嫁女,不得自冠自嫁」。推以記文,竊猶致惑。案嫁冠之禮,本是父之所成。無父之人,乃可自冠,故記稱大功小功,並以「冠子嫁子。」爲文,非關唯得爲子,己身不得也。小功之末既得自嫁娶,而亦云:「冠子娶婦」,其義益明。故先列二服,每明冠子嫁子,結於後句,方顯自娶之義。既明小功自娶,即知大功自冠矣。蓋是約言而見旨。若謂緣父服大功,子服小功,小功服輕,故得爲子冠嫁,大功服重,故不得自嫁自冠者,則小功之末,非明父子服殊,不應復云:「冠子嫁子。」也。若謂小功之文,言己可娶,大功之文,不言己冠,故知身有大功,不得自行嘉禮,但得爲子冠嫁。竊謂有服不行嘉禮,本爲吉凶不可相干。子雖小功之末,可得行冠嫁,猶應須父得爲其冠嫁。若父于大功之末可以冠子嫁子,是於吉凶禮無礙;吉凶禮無礙,豈不得自冠自嫁?若自冠自嫁於事有礙,則冠子嫁子寧獨可通?今許其冠子而塞其自冠,是琛之所惑也。

又た令旨は「下殤の小功は婦を娶るべからず」を推して、「則ち降服の大功も亦た子に冠嫁することを得ず」とされる。伏して尋ぬるに此の旨は、若し降服の大功は子に冠嫁すべからずとすれば、則ち降服の小功も亦た自ら冠嫁すべからず。是れ凡そ厥の降服の大功小功皆冠娶すべからざるなり。記文応に降服と云うべく、寧ぞ唯だ下殤を称するを得ん。今降服を言わず、的かに下殤を挙ぐるは、実に其の義有るなり。夫れ出嫁し出後するは、或いは再降有り、出後の身は、本の姊妹に於いて大功に降し、若し大夫の士父に服すれば、又た尊を以て降し、則ち小功と成る。其の冠嫁の義に於いて以て異なる無し。然る所以の者は、出嫁すれば則ち我を受くる者有り、出後すれば則ち重きを伝うる者有り、並びに薄く此に於いて厚く彼にせんと欲するなり。此の服は降ると雖も、彼の服は則ち隆し。昔は実に期親たり、再降すると雖も復た、猶お小功の禮に依り、冠すべく娶るべし。若し夫れ期の大功に降し、大功の小功に降するは、止だ一等なり、降殺に倫有り、服末の嫁冠は、故に異なる有ること無し。唯だ下殤の服は特ちに娶らざるの義を明らかにする者は、蓋し幼弱の故を縁とす。夭喪の情深く、既に他姓を受くる厚き無く、又た彼の宗に重きを伝うるに異なり、其の年幼く服軽きを嫌い、頓に殺略を成すを以て、故に特ちに娶らざるを明らかにし、以て本重の恩を示す。是を以て凡そ厥の降服は、冠嫁に殊なる無く、唯だ下殤に在るに於いて、乃ち娶らざるを明らかにす。其の義此の若くすれば、則ち大功の降服は皆冠嫁せずと言うことを得ざるなり。且つ記に云う「下殤の小功」と。下殤を言えば則ち中上に通ぜず、小功を語れば又た大功を兼ねず。若し実に大功小功の降服は皆冠嫁せず、上中二殤も亦た冠嫁せずとすれば、記は直ちに「下殤の小功は則ち不可」と云うことを得ざるべし。恐らくは文意に非ざるなり。此れ又た賀琛の疑う所なり。遂に賀琛の議に従う。員外散騎常侍を加う。旧より尚書の南坐に貂無し、貂は賀琛より始まる。遷って御史中丞となり、先の如く禮儀に参じた。

原文又令旨推「下殤小功不可娶婦,則降服大功亦不得爲子冠嫁」。伏尋此旨,若爲降服大功不可冠子嫁子,則降服小功亦不可自冠自嫁,是爲凡厥降服大功小功皆不得冠娶矣。記文應雲降服則不可,寧得唯稱下殤?今不言降服,的舉下殤,實有其義。夫出嫁出後,或有再降,出後之身,于本姊妹降爲大功,若是大夫服士父,又以尊降,則成小功,其於冠嫁義無以異。所以然者,出嫁則有受我,出後則有傳重,並欲使薄於此而厚於彼。此服雖降,彼服則隆。昔實期親,雖復再降,猶依小功之禮,可冠可娶。若夫期降大功,大功降爲小功,止是一等,降殺有倫,服末嫁冠,故無有異。唯下殤之服特明不娶之義者,蓋緣以幼弱之故。夭喪情深,既無受厚他姓,又異傳重彼宗,嫌其年幼服輕,頓成殺略,故特明不娶,以示本重之恩。是以凡厥降服,冠嫁不殊,唯在下殤,乃明不娶。其義若此,則不得言大功之降服皆不冠嫁也。且記云:「下殤小功」,言下殤則不得通於中上,語小功又不兼于大功。若實大功小功降服皆不冠嫁,上中二殤亦不冠嫁者,記不得直云:「下殤小功則不可」。恐非文意,此又琛之所疑也。遂從琛議。加員外散騎常侍。舊尚書南坐無貂,貂自琛始也。遷御史中丞,參禮儀如先。

賀琛は性貪嗇にして、多く賕賂を受け、家産既に豊かになり、主第を買って宅と為し、有司に奏せられ、坐して官を免ぜられた。後、通直散騎常侍となり、尚書左丞を領し、禮儀事に参じた。賀琛は前後職に居り、凡そ郊廟諸儀多く創定する所有り、毎に進見して武帝と語るに、常に晷刻を移し、故に省中の語に曰く、「上殿して下らざるは賀雅有り」と。賀琛は容止閒雅なり、故に時人之を呼ぶ。遷って散騎常侍となり、禮儀に参ずること先の如し。

原文琛性貪嗇,多受賕賂,家產既豐,買主第爲宅,爲有司奏,坐免官。後爲通直散騎常侍,領尚書左丞,參禮儀事。琛前後居職,凡郊廟諸儀多所創定,每進見武帝,與語常移晷刻,故省中語曰:「上殿不下有賀雅。」琛容止閒雅,故時人呼之。遷散騎常侍,參禮儀如故。

時に武帝は年齢が高く、職に任ずる者は奸諂を飾り立て、時政を深く害していた。賀琛は事条を陳べて封奏し、大略は次の通りである。その一事は、「今、北辺は稽服しているが、まさに生聚教訓の時であるのに、天下の戸口は減落しており、誠に当今の急務である。国家が関外に対しては、賦税は微少であるが、年常の租調に至っては、動もすれば逋積を来たし、人が安居を失っているのは、寧ろ牧守の過ちではないか」。

原文時武帝年高,任職者緣飾奸諂,深害時政。琛啟陳事條封奏,大略:其一事曰,「今北邊稽服,政是生聚教訓之時,而天下戶口減落,誠當今之急務。國家之于關外,賦稅蓋微,乃至年常租調,動致逋積,而人失安居,寧非牧守之過」。其二事曰,「今天下宰守所以皆尚貪殘,罕有廉白者,良由風俗侈靡使之然也。欲使人守廉隅,吏尚清白,安可得邪?今誠宜嚴爲禁制,導之以節儉,貶黜雕飾,糾奏浮華,使眾皆知變其耳目,改其好惡,則易於反掌」。其三事曰,「斗筲之人,詭競求進,運挈瓶之智,徼分外之求,以深刻爲能,以繩逐爲務,長弊增奸,實由於此。今誠願責其公平之效,黜其殘愚之心,則下安上謐,無徼幸之患矣」。其四事曰,「自征伐北境,帑藏空虛,今天下無事,而猶日不暇給者,良有以也。夫國弊則省其事而息其費,事省則養人,費息則財聚。若言小費不足害財,則終年不息矣,以小役不足妨人,則終年不止矣」。書奏,武帝大怒,召主書於前,口受敕責琛曰:「朕有天下四十餘年,公車讜言,日聞聽覽。每苦倥傯,更增惛惑。卿珥貂紆組,博問洽聞,不宜同於闒茸,止取名字,言我能上事,恨朝廷不能受。卿雲'今北邊稽服,政是生聚教訓之時,而人失安居,牧守之過'。但大澤之中有龍有蛇,縱不盡善,不能皆惡。卿可分明顯出其人。卿雲'宜導之以節儉'。又云'至道者必以淳素爲先'。此言大善。夫子言'其身正,不令而行,其身不正,雖令不從'。朕絕房室三十餘年,不與女人同屋而寢亦三十餘年,于居處不過一床之地,雕飾之物不入于宮,此亦人所共知。受生不飲酒,受生不好音聲,所以朝中曲宴未嘗奏樂。朕三更出理事,隨事多少。事或少,中前得竟,事多,至日昃方得就食。既常一食,若晝若夜,無有定時,疾苦之日,或亦再食。昔腰過於十圍,今之瘦削,裁二尺餘。舊帶猶存,非爲妄説。爲誰爲之?救物故也。書雲,'股肱惟人,良臣惟聖'。向使朕有股肱,可得中主,今乃不免居九品之下。'不令而行',徒虛言耳。卿又云'百司莫不奏事,詭競求進'。今不許外人呈事,於義可否?以噎廢餐,此之謂也。若斷呈事,誰屍其任?專委之人,云何可得?是故古人云,'專聽生奸,獨任成亂'。何者是宜,具以奏聞。」琛奉敕但謝過而已,不敢有所指斥。

その二事は、「今天下の宰守が皆貪残を尚ぶのは、廉白なる者が稀なのは、良く風俗の侈靡がこれを然らしめているのである。人をして廉隅を守らしめ、吏をして清白を尚ばしめんと欲するも、安んぞ得んや。今誠に厳に禁制を為し、節儉をもって導き、彫飾を貶黜し、浮華を糾奏して、衆をして皆その耳目を変え、その好悪を改めしめれば、掌を反すが如く容易であろう」。

原文太清二年,爲中軍宣城王長史。侯景陷城,琛被創未死,賊求得之,輿至闕下,求見僕射王克、領軍朱異,勸開城納賊。克等讓之,涕泣而止。賊復輿送莊嚴寺療之。明年,臺城不守,琛逃歸鄉里。其年,賊寇會稽,復執琛送出都,以爲金紫光祿大夫。卒。琛所撰三禮講疏、五經滯義及諸儀注凡百餘篇。子翊,位巴山太守。

その三事は、「斗筲の人が詭競して進を求め、挈瓶の智を運らし、分け外の求を徼り、深刻を以て能と為し、繩逐を以て務と為す。弊を長じ奸を増すは、実にこれに由る。今誠にその公平の効を責め、その残愚の心を黜すれば、下は安らぎ上は謐かで、徼幸の患いは無かろう」。

原文司馬褧

その四事は、「北境を征伐して以来、帑蔵は空虚である。今天下は事無いのに、猶日も暇あらず給するのは、良く以て然る所以がある。国が弊すればその事を省きその費を息む。事を省けば人を養い、費を息めば財が聚まる。もし小費は財を害するに足らずと言えば、終年息むことが無く、小役は人を妨げるに足らずと言えば、終年止むことが無い」。

原文司馬褧字元表,河內溫人也。曾祖純之,晉大司農高密敬王。祖讓之,員外常侍。父燮,善三禮,仕齊位國子博士。

書が奏上されると、武帝は大いに怒り、主書を前に召して、口で敕を授けて賀琛を責めて言った、「朕は天下を有すること四十余年、公車の讜言は日々聞き覧る。毎に倥傯を苦しみ、更に惛惑を増す。卿は貂紆組を珥し、博問洽聞であるから、闒茸と同じくすべきではなく、ただ名を取って、我は上事できると言い、朝廷が受け入れないのを恨む。卿は『今北辺は稽服し、まさに生聚教訓の時であるのに、人が安居を失うのは牧守の過ちである』と言う。

原文褧少傳家業,強力專精,手不釋卷。沛國劉瓛爲儒者宗,嘉其學,深相賞好。與樂安任昉善,昉亦推重之。梁天監初,詔通儒定五禮,有舉褧修嘉禮,除尚書祠部郎。時創定禮樂,褧所建議,多見施行。兼中書通事舍人,每吉凶禮,當時名儒明山賓、賀瑒等疑不能斷者,皆取決焉。累遷御史中丞。

しかし大沢の中には龍もいれば蛇もいる。全て善では無いにしても、皆悪ではあり得ない。卿は分明にその人を顕出せよ。卿は『節儉をもって導くべきである』と言い、また『至道なる者は必ず淳素を以て先と為す』と言う。この言葉は大いに善い。夫子は言う、『其身正しければ、令せずして行わる。其身正しからざれば、令すと雖も従わず』と。朕は房室を絶つこと三十余年、女人と同屋に寝ること無しも三十余年、居処に過ぎるは一床の地に過ぎず、彫飾の物は宮に入れず、これも人の共に知る所である。

原文十六年,出爲宣毅南康王長史,行府國並石頭戍軍事。褧雖居外官,有敕預文德、武德二殿長名問訊,不限日。遷晉安王長史,卒。王命記室庾肩吾集其文爲十卷。所撰嘉禮儀注一百一十六卷。

生を受けて酒を飲まず、生を受けて音声を好まず、故に朝中の曲宴には未だ嘗て楽を奏さず。朕は三更に出て事を理め、事の多少に随う。事少なければ、中前に終わり、事多ければ、日昃に至って方に就食する。既に常に一食、昼か夜か定時無く、疾苦の日は或いは再食することもある。昔、腰は十圍を過ぎたが、今の瘦削は裁二尺余り。旧帯猶存す、妄説に非ず。誰が為に之を為すか。物を救うが故である。

原文朱異

書に云う、『股肱惟れ人にあり、良臣惟れ聖にあり』。向使朕に股肱有らば、中主を得べし。今乃ち免れずして九品の下に居る。『令せずして行わる』は徒に虚言のみ。卿又云う『百司、事を奏せざる莫し、詭競して進を求む』。今、外人の事を呈するを許さざるは、義に於いて可否か。噎えて餐を廃する、これを謂う。もし呈事を断たば、誰かその任を屍するか。専ら委するの人、云何ぞ得ん。是の故に古人云う、『専聴は奸を生じ、独任は乱を成す』と。何れか是れ宜しきか、具に以て奏聞せよ」。

原文朱異字彥和,吳郡錢唐人也。祖昭之,以學解稱於鄉。叔父謙之字處光,以義烈知名。年數歲,所生母亡,昭之假葬于田側,爲族人朱幼方燎火所焚。同產姊密語之,謙之雖小,便哀感如持喪,長不昏娶。齊永明中,手刃殺幼方,詣獄自系。縣令申靈勖表上之。齊武帝嘉其義,慮相報復,乃遣謙之隨曹武西行。將發,幼方子懌于津陽門伺殺謙之。謙之兄巽之,即異父也,又刺殺懌。有司以聞。武帝曰:「此皆是義事,不可問。」悉赦之。吳興沈顗聞而歎曰:「弟死于孝,兄殉于義,孝友之節,萃此一門。」巽之字處林,有志節,著辯相論。幼時,顧歡見而異之,以女妻焉。仕齊官至吳平令。

賀琛は敕を奉じてただ過ちを謝するのみで、敢えて指斥する所が無かった。

原文異年數歲,外祖顧歡撫之,謂其祖昭之曰:「此兒非常器,當成卿門戶。」年十餘,好群聚蒱博,頗爲鄉黨所患。及長,乃折節從師。梁初開五館,異服膺于博士明山賓。居貧,以傭書自業,寫畢便誦。遍覽五經,尤明禮、易。涉獵文史,兼通雜藝,博弈書算,皆其所長。年二十,出都詣尚書令沈約,面試之,因戲異曰:「卿年少,何乃不廉?」異逡巡未達其旨,約乃曰:「天下唯有文義棋書,卿一時將去,可謂不廉也。」尋上書言建康宜置獄司,比廷尉。敕付尚書詳議,從之。

旧制では、二十五歳にして初めて官服を着ることができたが、当時朱異は二十一歳であったので、特別に詔勅を下して揚州議曹従事史に抜擢された。まもなく詔を下して異能の士を求めると、五経博士の明山賓が表を奉って朱異を推薦した。「年齢はなお若いが、徳は老成を備え、独り居ても散逸の思いなく、暗所にあっても賓客に対する顔色あり。器宇は弘大深遠、神采は峰のように峻厳である。金山万丈、攀じ登るには未だ至らず、玉海千尋、窺い映すも測り難し。これに圭璋新たに琢かれ、錦組初めて構えられたるを加えれば、触れて響けば鏗鏘とし、彩りに遇えば便ち発する。その信行を観るに、十室の邑に稀なるのみならず、もし重きを負わせて遥かな途を行かせば、必ず千里の用あり。」武帝は召し出して、孝経と周易の義を説かせると、大いに喜び、左右の者に言った。「朱異は実に異なる者である。」後に明山賓に会って言った。「卿の推挙は殊に人を得ている。」そこで直ちに西省に直させ、まもなく太学博士を兼ねさせた。その年、帝自ら孝経を講じ、朱異に読ませた。尚書儀曹郎に遷り、入って中書通事舎人を兼ねた。後に中書郎に除されると、秋の日、拝命したばかりの時、飛蝉がちょうど朱異の武冠の上に集まったので、当時皆これを蝉珥の兆しと言った。太子右衛率に遷った。

原文舊制,年二十五方得釋褐,時異適二十一,特敕擢爲揚州議曹從事史。尋有詔求異能之士,五經博士明山賓表薦異:「年時尚少,德備老成,在獨無散逸之想,處闇有對賓之色。器宇弘深,神表峰峻。金山萬丈,緣陟未登;玉海千尋,窺映不測。加以珪璋新琢,錦組初構,觸響鏗鏘,遇采便發。觀其信行,非唯十室所稀,若使負重遙途,必有千里之用。」武帝召見,使説孝經、周易義,甚悅之,謂左右曰:「朱異實異。」後見明山賓曰:「卿所舉殊得人。」仍召直西省,俄兼太學博士。其年,帝自講孝經,使異執讀。遷尚書儀曹郎,入兼中書通事舍人。後除中書郎,時秋日,始拜,有飛蟬正集異武冠上,時咸謂蟬珥之兆。遷太子右衞率。

普通五年、大いに挙兵して北へ侵攻すると、魏の徐州刺史元法僧が使者を遣わして領地を挙げて内属を請うたので、詔を下して有司にその虚実を議させた。朱異は言った。「王師が北討して以来、勝利と捕獲が相継ぎ、徐州の地は次第に弱体化し、皆罪に帰することを願っている。法僧は禍を恐れており、その降伏は必ずや偽りではない。」帝はそこで朱異を遣わして法僧に返答させ、併せて諸軍に応接するよう命じ、朱異の節度を受けるようにさせた。到着すると、法僧は朝廷の旨に従い、朱異の策の通りであった。散騎常侍に遷った。

原文普通五年,大舉北侵,魏徐州刺史元法僧遣使請舉地內屬,詔有司議其虛實。異曰:「自王師北討,克獲相繼,徐州地轉削弱,咸願歸罪。法僧懼禍,其降必非偽也。」帝仍遣異報法僧,並敕眾軍應接,受異節度。及至,法僧遵承朝旨,如異策焉。遷散騎常侍。

朱異の容貌は魁偉で、挙措をよくし、諸生の出身ではあったが、軍国故実に甚だ通暁していた。周捨が卒して後、朱異が代わって機密を掌り、軍旅の謀議ぼうぎ、方鎮の改換、朝儀国典、詔誥勅書を併せて典掌した。四方からの表疏、当局の簿領、諮問審議や裁断の請いが、前へと押し寄せてくると、朱異は文辞を綴り紙に落とし、事を覧て議を下し、縦横に敏速で豊かで、筆を暫しも停めることなく、瞬く間に諸事を済ませた。

原文異容貌魁梧,能舉止,雖出自諸生,甚閑軍國故實。自周舍卒後,異代掌機密,其軍旅謀謨,方鎮改換,朝儀國典,詔誥敕書,並典掌之。每四方表疏,當局簿領,諮詳請斷,填委於前,異屬辭落紙,覽事下議,縱橫敏贍,不暫停筆,頃刻之間,諸事便了。

右衛将軍に遷った。儀賢堂において武帝の老子義を奉述することを求めると、勅許された。講義が始まると、朝士及び道俗の聴衆は千余人に及び、一時の盛況となった。当時、城西にはまた士林館を開いて学士を招き、朱異は左丞の賀琛と交替で武帝の礼記中庸義を述べた。皇太子もまた朱異を玄圃に召して易を講じさせた。

原文遷右衞將軍。啟求於儀賢堂奉述武帝老子義,敕許之。及就講,朝士及道俗聽者千餘人,爲一時之盛。時城西又開士林館以延學士,異與左丞賀琛遞日述武帝禮記中庸義。皇太子又召異于玄圃講易。

大同八年、侍中に加えられた。朱異は博識で多芸多才、囲碁は上品であったが、財を貪り賄賂を冒し、視聴を欺き、君主の意を伺って、賢を進め悪を退けることを肯んじなかった。四方からの贈り物を、推し拒むことはなく、故に遠近から憤り憎まれる者がなかった。東陂に邸宅を建て、その美しさを極め、夕日に臨んで、その中で酣に飲んだ。毎夕暮れが迫り、台門が閉じられようとするのを慮り、鹵簿を引き連れて自宅から城まで行き、城門を押さえて管鑰を留めさせた。やがてその勢威は内外に熏灼し、財産は羊侃と相匹敵した。飲食を好み、滋味と声色の歓楽を極め、子鵝や炰鰌を口に絶やすことなく、朝謁の時でさえ、車中に必ず飴や餌を携えた。そして朝の賢者を軽んじ傲り、貴戚をも避けなかった。ある人がこれを諫めると、朱異は言った。「私は寒士である。遭逢して今日に至った。諸貴は皆枯骨を恃んで私を軽んじる。私が彼らに下れば、蔑ろにされることは更に甚だしい。それ故に私は先んじるのだ。」

原文大同八年,改加侍中。異博解多藝,圍碁上品,而貪財冒賄,欺罔視聽,以伺候人主意,不肯進賢黜惡。四方餉饋,曾無推拒,故遠近莫不忿疾。起宅東陂,窮乎美麗,晚日來下,酣飲其中。每迫曛黃,慮台門將闔,乃引其鹵簿自宅至城,使捉城門停留管鑰。既而聲勢所驅,熏灼內外,產與羊侃相埒。好飲食,極滋味聲色之娛,子鵝炰鰌不輟於口,雖朝謁,從車中必齎飴餌。而輕傲朝賢,不避貴戚。人或誨之,異曰:「我寒士也,遭逢以至今日。諸貴皆恃枯骨見輕,我下之,則爲蔑尤甚。我是以先之。」

徐勉・周捨が卒して後、外朝では何敬容、内省では朱異が権勢を握った。敬容は質朴で誠実だが文飾がなく、綱紀維持を己れの任とした。朱異は文華に富み敏速で、世の称誉を曲げて営んだ。二人は行いが異なるが共に寵幸を受けた。朱異は内省に十余年いて、一度も譴責を受けなかった。司農卿の傅岐がかつて朱異に言った。「今、聖上が君に政を委ねておられるのに、どうして毎事ごとに上意に従うことができようか。近頃、外間では甚だ異論がある。」朱異は言った。「正に私が諫争できないと言っているのであろう。当今天子は聖明である。私はどうして聞いたところをもって天聴を干し忤えることができようか。」

原文自徐勉、周舍卒後,外朝則何敬容,內省則異。敬容質愨無文,以綱維爲己任,異文華敏洽,曲營世譽,二人行異而俱見幸。異在內省十餘年,未嘗被譴。司農卿傅岐嘗謂異曰:「今聖上委政于君,安得每事從旨。頃者外聞殊有異論。」異曰:「政言我不能諫爭耳。當今天子聖明,吾豈可以其所聞幹忤天聽。」

太清二年、中領軍となり、舎人は元の通りであった。初め、武帝が中原が悉く平定された夢を見て、朝廷挙げて慶賀し、大いに喜び、朱異に語って言った。「私は平生夢を少なく見るが、夢は必ず実現する。」朱異は言った。「これは宇内がまさに一つになる兆しです。」侯景が降伏した時、勅を下して群臣を召し廷議させると、尚書僕射の謝挙らは許すべからずと以為った。武帝はこれを容れようとしたが、決断できず、かつて早朝に武徳閤口まで行き、独り言った。「我が国家は金甌の如く、一つの傷欠もなく、太平がこのようであるのに、今すぐに土地を受け入れれば、果たして事の宜しきであろうか。もし紛紜に至れば、悔いても及ばない。」朱異は帝の微かな意向を探り、答えて言った。「聖明の御宇、上は蒼玄に応じ、北土の遺黎、誰か慕い仰がないことがあろうか。機会がないため、その心に達していないだけです。今、侯景は魏国の大半を分かち、遠く聖朝に帰順しようとしています。もし容れ受けなければ、恐らく後来の者の望みを絶つことになりましょう。」帝は深く朱異の言葉を容れ、また前の夢に感じて、遂にこれを容れた。貞陽侯が敗没すると、帝は憂えて言った。「今、晋の故事を繰り返すことになるのではないか。」まもなく貞陽侯が魏から使者を遣わし、魏の相国高澄が和睦を申し出たいと述べさせた。勅を下して有司に議を定めさせた。朱異はまた和議を妥当とする議を立て、帝はこれに従った。その年六月、建康令の謝挺と通直郎の徐陵を遣わして北へ通好させた。当時、侯景は寿春を鎮守し、疑念と恐れを抱き、累次上啓して和議を絶つよう請い、また朱異に書を送って金二百両を贈り、さらに制局監の周石珍に書を送って詳細に上聞するよう求めた。朱異はその金を受け取ったが北使を止めず、侯景は遂に反逆した。

原文太清二年,爲中領軍,舍人如故。初,武帝夢中原盡平,舉朝稱慶,甚悅,以語異曰:「吾生平少夢,夢必有實。」異曰:「此宇內方一之征。」及侯景降,敕召群臣廷議,尚書僕射謝舉等以爲不可許。武帝欲納之,未決,嘗夙興至武德合口,獨言:「我國家猶若金甌,無一傷缺,承平若此,今便受地,詎是事宜?脫至紛紜,悔無所及。」異探帝微旨,答曰:「聖明禦宇,上應蒼玄,北土遺黎,誰不慕仰,爲無機會,未達其心。今侯景分魏國太半,遠歸聖朝;若不容受,恐絕後來之望。」帝深納異言,又感前夢,遂納之。及貞陽侯敗沒,帝憂曰:「今勿作晉家事乎?」尋而貞陽自魏遣使述魏相高澄欲申和睦。敕有司定議。異又議以和爲允,帝從之。其年六月,遣建康令謝挺、通直郎徐陵使北通好。時侯景鎮壽春,疑懼,累啟請絕和,及致書與異餉金二百兩,又致書於制局監周石珍令具申聞。異納其金而不停北使,景遂反。

初め、侯景が謀反を企てた時、合州刺史の鄱陽王蕭範と司州刺史の羊鴉仁が共に累次上啓して聞かせた。朱異は侯景が孤立して命を寄せているのだから、必ずやそうすることはあるまいと思い、使者に言った。「鄱陽王は遂に国家に一人の客も許さないのか。」併せて聞き奏上することもしなかった。賊が板橋に至ると、前寿州司馬の徐思玉を先に遣わして上への謁見を求めさせた。上は召し出して問うと、思玉は偽って反賊であると称し、閑を請うて事を陳べたいと言った。上は左右を退けようとしたが、舎人の高善宝が言った。「思玉は賊の中から来た者で、真偽測り難く、どうして彼を独り殿上に置くことができましょう。」その時、朱異が侍坐していたので、言った。「徐思玉が刺客であろうか。何と偏ったことを言うのか。」善宝は言った。「思玉は既に臨賀王を北へ入らせたのです。どうして軽々しく信じられましょう。」言い終わらないうちに、思玉は果たして賊の啓を出し、朱異は大いに慚じた。賊は遂に朱異と陸験を討つことを名目とした。侯景が城下に至ると、また啓を射て言った。「朱異らは朝権を蔑み弄び、軽々しく威福をなす。臣は讒臣に陥れられ、屠戮を加えられようとしている。陛下が朱異らを誅すれば、臣は轡を収めて北へ帰る。」帝は簡文帝に問うた。「そのようなことがあるか。」答えて言った。「然り。」帝は有司を召して誅そうとしたが、簡文帝が言った。「賊はただ朱異らを名目としているだけです。今日朱異を殺しても、急を救うには足らず、ただ将来の笑いを残すだけです。妖気が既に収まってから、誅しても遅くはありません。」帝はそこで止めた。

原文初,景謀反,合州刺史鄱陽王范、司州刺史羊鴉仁並累有啟聞。異以景孤立寄命,必不應爾,乃謂使曰:「鄱陽王遂不許國家有一客!」並不爲聞奏。及賊至板橋,使前壽州司馬徐思玉先至求見於上,上召問之,思玉紿稱反賊,請閑陳事。上將屏左右,舍人高善寶曰:「思玉從賊中來,情偽難測,安可使其獨在殿上。」時異侍坐,乃曰:「徐思玉豈是刺客邪?何言之僻。」善寶曰:「思玉已將臨賀入北,詎可輕信。」言未卒,思玉果出賊啟,異大慚。賊遂以討異及陸驗爲名。及景至城下,又射啟言:「朱異等蔑弄朝權,輕作威福,臣爲讒臣所陷,欲加屠戮。陛下誅異等,臣斂轡北歸」。帝問簡文曰:「有是乎?」對曰:「然」。帝召有司將誅之,簡文曰:「賊特以異等爲名耳,今日殺異,無救於急,適足貽笑將來。若祅氛既息,誅之未晚。」帝乃止。

朱異が寵愛を受けている時、朝廷において彼を睨まない者はなく、皇太子でさえも不平を抱いた。この時、城内の人々は皆朱異を非難し、簡文帝は四言の湣乱詩を作って言った、「あの坂の田を憐れみ、この妖気を嘆く。謀りごとが善からず、我が王の法度を乱す。」また囲城賦を作り、末章に云う、「あの高冠と厚履、並びに鼎食して肥馬に乗る者。紫霄の丹地に昇り、玉殿の金扉を排す。謀謨を陳べて啓沃し、政刑を宣べて福威を振るう。四郊これによって多壘、万邦これによって未だ綏ならず。豺狼と問う、その何者ぞ?虺蜴と訪う、誰を為すか?」これらは皆朱異を指したものである。また帝が南楼に登って賊を望み、顧みて朱異に言った、「四郊に多くの堡塁があるが、誰の罪か?」朱異は汗を流して答えられなかった。慚愧と憤りから発病して卒去した。時に六十七歳。詔して尚書右僕射を追贈した。旧来、尚書官は贈官とされなかったが、朱異が卒すると、武帝は悼み惜しみ、贈官の事を議していたところ、左右に朱異に好意を持つ者がおり、啓上して言った、「朱異が平生に願っていたのは、執法の任を得ることでした。」帝はその宿志に因り、特にこの贈官を行った。

原文異之方幸,在朝莫不側目,雖皇太子亦不能平。至是城內咸尤異,簡文爲四言湣亂詩曰:「湣彼阪田,嗟斯氛霧。謀之不臧,褰我王度。」又制圍城賦,末章云:「彼高冠及厚履,並鼎食而乘肥。升紫霄之丹地,排玉殿之金扉。陳謀謨之啟沃,宣政刑之福威。四郊以之多壘,萬邦以之未綏。問豺狼其何者?訪虺蜴之爲誰?」並以指異。又帝登南樓望賊,顧謂異曰:「四郊多壘,誰之罪歟?」異流汗不能對。慚憤發病卒,時年六十七。詔贈尚書右僕射。舊尚書官不以爲贈,及異卒,武帝悼惜之,方議贈事,左右有善異者,乃啟曰:「異生平所懷,願得執法。」帝因其宿志,特有此贈。

朱異は権要の地位に三十年余り在り、上手く上の意を承けて、特に寵愛任用された。歴任した官は員外常侍から侍中まで、四つの官は皆貂尾を挿し、右衛率から領軍まで、四つの職は並んで鹵簿を駆り、近代未だかってこれ有らざるものであった。朱異及び諸子は潮溝から青溪まで邸宅を並べ、その中には台池や遊興の施設があり、暇ある日には賓客と共に遊んだ。四方からの贈り物は財貨が充ち積もり、性質は吝嗇で、かつて施し散らしたことはなかった。厨房の珍味は常に腐敗し、毎月常に十数車を棄てたが、諸子の別房にも分け与えなかった。撰した礼・易の講疏及び儀注・文集百余篇。

原文異居權要三十餘年,善承上旨,故特被寵任。曆官自員外常侍至侍中,四官皆珥貂,自右衞率至領軍,四職並驅鹵簿,近代未之有也。異及諸子自潮溝列宅至青溪,其中有台池翫好,每暇日與賓客遊焉。四方饋遺,財貨充積,性吝嗇,未嘗有散施。廚下珍羞恒腐爛,每月常棄十數車,雖諸子別房亦不分贍。所撰禮、易講疏及儀注文集百餘篇。

朱異の子 朱肅

原文異子 肅

子の朱肅は国子博士の位にあり、次に朱閏は司徒掾であった。共に乱に遭って卒去した。

原文子肅,位國子博士;次閏,司徒掾。並遇亂卒。

顧協

原文顧協

顧協は字を正礼といい、呉郡呉の人、晋の司空顧和の六世孫である。幼くして孤となり、母に従って外戚の家で養われた。外従祖の右光禄大夫張永がかつて内外の孫や甥を連れて虎丘山に遊んだ時、顧協は数歳であったが、張永が撫でて言った、「児は何をして遊びたいか?」顧協は言った、「児はまさに石を枕にし流れに漱ぎたい。」張永は嘆息して言った、「顧氏はこの子によって興るだろう。」成長して好学、精力に優れると称された。外戚の張氏には賢達が多く、識鑑があり、内弟の張率は特に推重した。

原文顧協字正禮,吳郡吳人,晉司空和六世孫也。幼孤,隨母養於外氏。外從祖右光祿大夫張永嘗攜內外孫侄游虎丘山,拹年數歲,永撫之曰:「兒欲何戲?」協曰:「兒政欲枕石漱流。」永歎息曰:「顧氏興於此子。」及長好學,以精力稱。外氏諸張多賢達,有識鑒,內弟率尤推重焉。

初め揚州議曹従事となり、秀才に挙げられた。尚書令沈約はその策を見て嘆じて言った、「江左以来、このような作品はなかった。」兼廷尉正となった。太尉臨川王がその名を聞き、召して書記を掌らせ、引き続き西豊侯蕭正德の読書に侍った。蕭正德が巴西・梓潼郡の太守となると、顧協はその管轄下の新安令に任じられた。県に着かぬうちに母の憂いに遭い、刺史始興王が厚く資を送って、喪を送って還った。峡江で風に遭い、同旅は皆漂流溺死したが、顧協の一つの船だけが石に触れて停泊できた。皆、精誠の致すところであると言った。張率がかつて帝に推薦した時、帝が顧協の年齢を問うと、張率は三十五歳と答えた。帝は言った、「北方は高く涼しく、四十で強仕だが、南方は低く湿り、三十で既に衰える。顧協の如きは既に老いたと言えるが、その事親に孝、友と信あり、草沢に遺すこともできない。卿は便宣に詔を称して呼び出せ。」ここにおいて顧協を兼太学博士とした。累遷して湘東王参軍、兼記室となった。

原文初爲揚州議曹從事,舉秀才。尚書令沈約覽其策而歎曰:「江左以來,未有斯作。」爲兼廷尉正。太尉臨川王聞其名,召掌書記,仍侍西豐侯正德讀。正德爲巴西、梓潼郡,協除所部新安令。未至縣遭母憂,刺史始興王厚資遣之,送喪還。于峽江遇風,同旅皆漂溺,唯協一舫觸石得泊焉。咸謂精誠所致。張率嘗薦之於帝,問協年,率言三十有五。帝曰:「北方高涼,四十強仕,南方卑濕,三十已衰。如協便爲已老,但其事親孝,與友信,亦不可遺於草澤。卿便稱敕喚出。」於是以協爲兼太學博士。累遷湘東王參軍,兼記室。

普通年間、詔して士を挙げるに及び、湘東王が表を上って推薦したので、即ち召して通直散騎侍郎に拝し、兼中書通事舎人とした。大通三年、雷が大航の華表を撃ち焼き尽くした。建康県が馳せて啓上したが、顧協は吉祥ならずとして、直ちに呈上して聞かせなかった。後に帝が知って言った、「雷の撃つところは、一つには悪龍を罰し、二には朕の過ち有ることを顕わす。顧協は悪を掩い善を揚げる、忠公とは言えない。」これによって免官された。後に鴻臚卿を守り、員外散騎常侍となり、卿・舎人は並びに元の如くであった。

原文普通中,有詔舉士,湘東王表薦之,即召拜通直散騎侍郎,兼中書通事舍人。大通三年,霆擊大航華表然盡。建康縣馳啟,協以爲非吉祥,未即呈聞。後帝知之,曰:「霆之所擊,一本罰惡龍,二彰朕之有過。協掩惡揚善,非曰忠公。」由是見免。後守鴻臚卿,員外散騎常侍,卿、舍人並如故。

近臣となって以来、頻繁に機密に関わり、制を述べる毎に、詔の前に顧協に示し、当時の人々はこれを栄誉とした。官に卒する時、衾なくして斂うるものなく、士人に嘆かれた。武帝は悼み惜しみ、哀悼の礼を挙げた。散騎常侍を追贈し、諡して温子といった。

原文自爲近臣,便繁幾密,每有述制,敕前示協,時輩榮之。卒官無衾以斂,爲士子所嗟歎。武帝悼惜之,爲舉哀。贈散騎常侍,諡曰溫子。

顧協は若い頃清介で、志操があり、初めて廷尉正となった時、冬服が薄く、寺卿の蔡法度は襦を解いて与えようとしたが、その清厳を憚って口に出せず、人に言った、「我は身上の襦を解いて顧郎に与えたいが、顧郎は衣食に難がある者だ。」結局敢えて与えなかった。舎人となった時、同官は皆家を潤したが、顧協は省に十六年在っても、器服飲食は常のまま改めなかった。門生が初めて顧協に仕えようとし、その廉潔を知って、厚く贈ることを敢えず、ただ銭二千を送ったが、顧協は怒り、杖二十を加え、このため仕える者は贈り物を絶った。艱憂に遭って以来、終身布衣蔬食であった。若い時に舅の娘と婚約したが、未だ婚礼を挙げずに顧協の母が亡くなり、喪が明けた後も再び娶らなかった。六十余歳になっても、この女はまだ他に嫁がず、顧協は義によって迎えた。晩年に合卺したが、遂に子孫はなかった。

原文協少清介,有志操,初爲廷尉正,冬服單薄,寺卿蔡法度欲解襦與之,憚其清嚴,不敢發口,謂人曰:「我願解身上襦與顧郎,顧郎難衣食者。」竟不敢以遺之。及爲舍人,同官者皆潤屋,協在省十六載,器服飲食不改于常。有門生始來事協,知其廉潔,不敢厚餉,止送錢二千,協發怒,杖二十,因此事者絕於饋遺。自丁艱憂,遂終身布衣蔬食。少時將娉舅息女,未成昏而協母亡,免喪後不復娶。年六十餘,此女猶未他適,協義而迎之。晚雖判合,卒無胤嗣。

顧協は群書を博く極め、文字及び禽獣草木に特に精詳と称され、異姓苑五巻、瑣語十巻、文集十巻を撰し、並びに世に行われた。

原文協博極群書,於文字及禽獸草木尤稱精詳,撰異姓苑五卷,瑣語十卷,文集十卷,並行於世。

徐摛

原文徐摛

徐摛は字を士秀といい、東海郯の人、一字を士繢という。祖父の徐憑道は宋の海陵太守。父の徐超之は梁の天監初年に員外散騎常侍の位にあった。

原文徐摛字士秀,東海郯人也,一字士繢。祖憑道,宋海陵太守。父超之,梁天監初位員外散騎常侍。

徐摛は幼くして好学、成長して経史を遍く覧み、文を作るに新変を好み、旧体に拘らなかった。晋安王蕭綱が石頭に出戍すると、武帝は周舎に言った、「我がために一人を求めよ、文学共に長じ、行い有る者を、晋安王と遊び処まわしめたい。」周舎は言った、「臣の外弟の徐摛は、形質陋小で、衣に勝えぬようだが、この選に堪えます。」帝は言った、「必ずや仲宣の才があれば、容貌も選ばない。」ここにおいて徐摛を侍読とした。大通初年、王が軍を総べて北侵するに及び、徐摛を兼ねて寧蛮府長史とし、戎政に参賛たすけさせ、教命軍書は多く徐摛から出た。王が入って皇太子となると、家令に転じ、兼管記、まもなく領直を兼ねた。

原文摛幼好學,及長,遍覽經史,屬文好爲新變,不拘舊體。晉安王綱出戍石頭,武帝謂周舍曰:「爲我求一人,文學俱長,兼有行者,欲令與晉安遊處。」舍曰:「臣外弟徐摛,形質陋小,若不勝衣,而堪此選。」帝曰:「必有仲宣之才,亦不簡貌。」乃以摛爲侍讀。大通初,王總戎北侵,以摛兼寧蠻府長史,參贊戎政,教命軍書,多自摛出。王入爲皇太子,轉家令,兼管記,尋帶領直。

徐摛の文体は既に別格で、春坊は皆これを学び、「宮体」の号はここから始まった。帝がこれを聞いて怒り、徐摛を召して譴責を加えようとしたが、会ってみると応対明敏、辞義見るべきものがあり、意を解いた。そこで五経の大義を問い、次に歴代史及び百家雑記を問い、末に釈教を論じた。徐摛は縦横に商較し、響きに応ずる如く応答したので、帝は大いに嘆異し、更に親狎され、寵遇日々に隆盛となった。領軍朱異は快く思わず、親しい者に言った、「徐叟は両宮に出入りし、漸く逼って来る、我は早く処置を為さねば。」遂に隙を承けて帝に白して言った、「徐摛は年老い、また泉石を愛し、一郡で自ら養いたいと思っています。」帝は徐摛がそれを望むと思い、徐摛を召して言った、「新安は大いに山水が良い、任昉らが皆これを治めた、卿は我のためにこの郡を臨め。」中大通三年、遂に出て新安太守となった。政は清静で、人に礼義を教え、農桑を勧課し、一ヶ月で風俗が改まった。任期が満ちて、中庶子となった。

原文摛文體既別,春坊盡學之,「宮體」之號,自斯而始。帝聞之怒,召摛將加誚責,及見,應對明敏,辭義可觀,乃意釋。因問五經大義,次問歷代史及百家雜記,末論釋教。摛商較從橫,應答如響,帝甚加歎異,更被親狎,寵遇日隆。領軍朱異不悅,謂所親曰:「徐叟出入兩宮,漸來見逼,我須早爲之所。」遂承閑白帝曰:「摛年老,又愛泉石,意在一郡自養。」帝謂摛欲之,乃召摛曰:「新安大好山水,任昉等並經爲之,卿爲我臨此郡。」中大通三年,遂出爲新安太守。爲政清靜,教人禮義,勸課農桑,期月風俗便改。秩滿,爲中庶子。

時に臨城公(蕭大器)が夫人王氏(即ち簡文帝妃の姪女)を娶るに当たり、晋・宋以来の慣例として、婚礼三日目に新婦が舅姑に拝謁し、賓客も皆列席して見物する。春秋の義を引いて『丁丑、夫人姜氏至る。戊寅、公、大夫宗婦をして幣を用いて覿まみえしむ』とある。戊寅は丁丑の翌日であるから、礼官はこれに拠って皆『旧来の観覧の儀を踏襲すべし』と云う。簡文帝が徐摛に意見を求めると、摛は議して曰く、『儀礼に「質明(夜明け)に賛見す、婦を舅姑に見えしむ」とあり、雑記にも「婦、舅姑に見えるや、兄弟姊妹皆堂下に立つ」とある。これは正に婦が外宗(他家の出身)であるため、未だ閨門の令(家内の礼法)に通じていないから、舅は外客を招き、姑は内賓を率い、堂下の儀礼を以て盛礼を備えるのである。近代では婦と舅姑は元来戚属(親族関係)があり、互いに見知らぬ者ではない。夫人は妃の姪女であり、他の姻戚とは異なる。覿見の儀礼は略すべきであると謂うべきである』。簡文帝はその議に従った。摛は太子左衛率に任ぜられた。

原文時臨城公納夫人王氏,即簡文妃侄女。晉、宋以來,初昏三日,婦見舅姑,眾賓皆列觀,引春秋義云:「丁丑,夫人姜氏至。戊寅,公使大夫宗婦覿用幣」。戊寅即丁丑之明日,故禮官據此皆云:「宜依舊觀」。簡文問摛,摛議曰:「儀禮云:'質明贊見婦于舅姑。'雜記又云:'婦見舅姑,兄弟姊妹皆立于堂下。'政言婦是外宗,未審澗令,所以舅延外客,姑率內賓,堂下之儀,以備盛禮。近代婦于舅姑本有戚屬,不相瞻者。夫人乃妃侄女,有異他姻,覿見之儀,謂應可略。」簡文從其議。除太子左衞率。

侯景が台城を攻め落とした時、簡文帝は永福省に居た。賊の兵衆が駆け込むと、侍衛は散り散りに逃げ、一人も残る者は無かった。摛のみが独り侍立して動かず、徐ろに景に謂って曰く、『侯公は礼を以て謁見すべきであり、どうしてこのような有様か』。凶暴な威勢は遂に挫かれ、侯景は拝礼した。これにより景は常に摛を畏れた。簡文帝が帝位を継ぐと、左衛将軍に進めて授けようとしたが、固辞して拝受しなかった。簡文帝が幽閉されると、摛は朝謁することが叶わず、気疾を感じて卒した。享年七十八。侍中・太子詹事を追贈され、諡して貞子と曰う。長子の徐陵が最も著名である。

原文及侯景攻陷臺城,時簡文居永福省。賊眾奔入,侍衞走散,莫有存者。摛獨侍立不動,徐謂景曰:「侯公當以禮見,何得如此。」凶威遂折,侯景乃拜。由是常憚摛。簡文嗣位,進授左衞將軍,固辭不拜。簡文被閉,摛不獲朝謁,因感氣疾而卒,年七十八。贈侍中、太子詹事,諡貞子。長子陵,最知名。

徐摛の子、徐陵。

原文摛子 陵

陵は字を孝穆と曰う。母の臧氏は、嘗て五色の雲が鳳と化して左肩に集まる夢を見、間もなく陵を生んだ。数歳の時、家人が連れて沙門の釈宝志を訪ねると、宝志はその頂を摩って曰く、『天上の石麒麟なり』。光宅寺の慧雲法師は常に陵の早熟を嘆賞し、顔回と称した。八歳で文を綴り、十三歳で荘子・老子の義理を通曉した。成長すると、史籍に広く渉猟し、縦横の弁舌を有した。父の摛が晋安王(蕭綱)の諮議参軍となると、王は更に陵を召して寧蛮府軍事に参与させた。王が皇太子に立てられると、東宮に学士を置き、陵はその選に充てられた。稍々に尚書度支郎に遷った。

原文陵字孝穆。母臧氏,嘗夢五色雲化爲鳳,集左肩上,已而誕陵。年數歲,家人攜以候沙門釋寶志,寶志摩其頂曰:「天上石麒麟也。」光宅寺慧雲法師每嗟陵早就,謂之顏回。八歲屬文,十三通莊、老義。及長,博涉史籍,從橫有口辯。父摛爲晉安王諮議,王又引陵參寧蠻府軍事。王立爲皇太子,東宮置學士,陵充其選。稍遷尚書度支郎。

上虞県令として出向した。御史中丞の劉孝儀は陵と先に遺恨があり、風聞を以て陵が県令在任中に贓汙(収賄汚職)があったと弾劾し、これに坐して免官された。久しくして、通直散騎侍郎となった。梁の簡文帝が東宮に在った時、長春殿義記を撰し、陵に序を為させた。また少傅府において自らが作った荘子義を講述させた。

原文出爲上虞令。御史中丞劉孝儀與陵先有隙,風聞劾陵在縣贓汙,因坐免。久之,爲通直散騎侍郎。梁簡文在東宮,撰長春殿義記,使陵爲序。又令于少傅府述己所制莊子義。

太清二年、通直散騎常侍を兼ねて魏に使し、魏人は賓館を授けて賓客を宴した。この日は甚だ暑く、その主客の魏収が陵を嘲って曰く、『今日の暑さは、徐常侍が来られた由縁であろう』。陵は即座に答えて曰く、『昔、王肅が此処に至り、魏の為に初めて礼儀を制定した。今、我が聘問に来て、卿に再び寒暑を知らしめるのである』。収は大いに慚じた。斉の文襄帝(高澄)が宰相として、収の失言を以て、数日間彼を拘禁した。

原文太清二年,兼通直散騎常侍使魏,魏人授館宴賓。是日甚熱,其主客魏收嘲陵曰:「今日之熱,當由徐常侍來。」陵即答曰:「昔王肅至此,爲魏始制禮儀;今我來聘,使卿復知寒暑。」收大慚。齊文襄爲相,以收失言,囚之累日。

侯景が侵入した時、陵の父の摛は先に囲まれた城の中に在った。陵は家からの便りを受けず、蔬食布衣にて、喪に服するが如き生活を送った。丁度斉が魏の禅譲を受けると、梁の元帝が江陵において制(皇帝の権限)を承け、再び斉と使者を通わせた。陵は累次に渡り帰国復命を求めたが、終に拘留されて遣わされず、遂に僕射の楊遵彦に書を致したが、返答は無かった。魏が江陵を平定し、斉が貞陽侯蕭淵明を梁の後継として送還するに及んで、初めて陵を随行させて帰した。太尉の王僧辯は初め国境で拒んで受け入れず、淵明が往復して送った書状は、皆陵の文辞であった。淵明が入国すると、僧辯は陵を得て大いに喜び、尚書吏部郎とし、詔誥の執筆を兼掌させた。その年、陳武帝(陳霸先)が僧辯を誅殺し、引き続き韋載を討伐したが、任約・徐嗣徽が虚に乗じて石頭城を襲撃した。陵は僧辯の旧恩に感じ、任約の下に赴いた。任約が平定されると、武帝は陵を釈放して問わず、尚書左丞とした。

原文及侯景入寇,陵父摛先在圍城之內,陵不奉家信,便蔬食布衣,若居哀恤。會齊受魏禪,梁元帝承制於江陵,復通使于齊。陵累求復命,終拘留不遣,乃致書于僕射楊遵彥,不報。及魏平江陵,齊送貞陽侯明爲梁嗣,乃遣陵隨還。太尉王僧辯初拒境不納,明往復致書,皆陵辭也。及明入,僧辯得陵大喜,以爲尚書吏部郎,兼掌詔誥。其年陳武帝誅僧辯,仍進討韋載,而任約、徐嗣徽乘虛襲石頭,陵感僧辯舊恩,往赴約。約平,武帝釋陵不問,以爲尚書左丞。

紹泰二年、再び斉に使した。帰朝して給事黄門侍郎・秘書監に任ぜられた。陳が禅譲を受けると、散騎常侍を加えられた。天嘉四年、五兵尚書となり、大著作を領した。六年、散騎常侍・御史中丞に任ぜられた。時に安成王陳頊が司空として、帝弟の尊をもって権勢が朝野を傾けた。直兵の鮑僧叡が王の威風を仮り、訴訟を抑圧塞ぎ、大臣も敢えて言う者無かったが、陵は乃ちこれを弾劾する上奏をした。文帝(陳蒨)は陵の服章が厳粛で、犯し難きが如きを見て、顔を引き締めて正坐した。陵が進み出て奏状を読み上げると、時に安成王は殿上に侍立していたが、文帝を仰ぎ見て流汗し顔色を失い、陵は殿中郎に命じて王を殿下に引き下ろさせた。此れより朝廷は粛然とした。

原文紹泰二年,又使齊。還除給事黃門侍郎,秘書監。陳受禪,加散騎常侍。天嘉四年,爲五兵尚書,領大著作。六年,除散騎常侍,御史中丞。時安成王頊爲司空,以帝弟之尊,權傾朝野。直兵鮑僧叡假王威風,抑塞辭訟,大臣莫敢言,陵乃奏彈之。文帝見陵服章嚴肅,若不可犯,爲斂容正坐。陵進讀奏狀,時安成王殿上侍立,仰視文帝,流汗失色,陵遣殿中郎引王下殿。自是朝廷肅然。

吏部尚書に遷り、大著作を領した。陵は梁末以来、選挙授官が多くその適所を失っていると考え、於是に綱維を提げ挙げ、名実を綜覈した。時に冒進して官を求め、奔走競い止まぬ者があると、乃ち書を為してこれを宣示し、曰く、『永定の時、聖朝は草創し、干戈未だ息まず、尚ほ条序無し。府庫空虚にして賞賜乏しく、白銀は得難く、黄劄(任命書)は営み易し。権りに官階を以て、錢絹に代え、義は撫接に在りて、多少を計らざりき。致す所、員外常侍は路上に比肩し、諮議参軍は市中に数無し、豈に朝章かくの如くあるべきや。今や衣冠礼楽、日に富み年に華やぎて、何ぞ猶ほ旧意を為し、非理に望まんや。見る所、諸君多くは本分を踰え、猶ほ大いに屈すと言い、高き懐(朝廷の厚意)を諭さず。若し梁朝の朱領軍(朱異)も卿相と為ったと問わば、此れ其の本分を踰えざるか。此れは天子の抜擢する所にして、選序に関せず。梁武帝は云う「世間の人言に目色(目を掛ける)有りと、我は特に範悌に目色せず」と。宋文帝も亦云う「人豈に運命無からんや、毎に好官の缺くる有れば、輒ち羊玄保を憶う」と。此れ則ち清階顕職は選挙によらざるなり。既に衡流(選挙の任)を忝くす、諸賢深く鄙意を明らかにせよ』。是より衆皆服した。時の論は之を毛玠に比した。

原文遷吏部尚書,領大著作。陵以梁末以來,選授多失其所,於是提舉綱維,綜核名實。時有冒進求官,馳競不已者,乃爲書宣示之,曰:「永定之時,聖朝草創,干戈未息,尚無條序。府庫空虛,賞賜懸乏,白銀難得,黃劄易營。權以官階,代于錢絹,義在撫接,無計多少。致令員外常侍,路上比肩,諮議參軍,市中無數,豈是朝章應其如此。今衣冠禮樂,日富年華,何可猶作舊意,非理望也。所見諸君多踰本分,猶言大屈,未諭高懷。若問梁朝朱領軍異亦爲卿相,此不踰其本分耶?此是天子所拔,非關選序。梁武帝云:'世間人言有目色,我特不目色範悌。'宋文帝亦云:'人豈無運命,每有好官缺,輒憶羊玄保。'此則清階顯職,不由選也。既忝衡流,諸賢深明鄙意。」自是眾咸服焉。時論比之毛玠。

宣帝(陳頊)が輔政に入り、異志を抱く者を廃そうと謀り、陵を引き入れてその議に参与させた。宣帝が即位すると、建昌県侯に封ぜられた。太建年中、尚書左僕射となり、上表して周弘正・王勱等を推挙した。帝は内殿に召し入れて曰く、『卿は何ぞ固く辞して人を挙げるか』。陵曰く、『弘正は旧藩の長史、王勱は太平中の相府長史、張種は帝郷の賢戚なり。若し賢旧を選ばば、臣は宜しく後に居るべし』。累日に渡り固辞し、乃ち詔を奉じた。

原文及宣帝入輔,謀黜異志者,引陵預其議。宣帝即位,封建昌縣侯。太建中,爲尚書左僕射,抗表推周弘正、王勱等。帝召入內殿,曰:「卿何爲固辭而舉人乎?」陵曰:「弘正舊蕃長史,王勱太平中相府長史,張種帝鄉賢戚,若選賢舊,臣宜居後。」固辭累日,乃奉詔。

朝議において北侵が論じられると、宣帝は元帥を挙げるよう命じ、衆議は淳于量に在ったが、陵独り曰く、『然らず。呉明徹の家は淮左に在り、彼の地の風俗を悉くし、将略人才、当今に彼に過ぐる者無し』。於是に数日間争論して決せず、都官尚書の裴忌が曰く、『臣は徐僕射に同ず』。陵は応声して曰く、『明徹のみが良将ならず、忌こそ即ち良き副将なり』。この日、詔して明徹を大都督とし、忌に軍事を監させ、遂に淮南数十州の地を攻克した。宣帝は因って酒宴を設け、杯を挙げて陵に属して曰く、『卿の人を知るを賞す』。

原文及朝議北侵,宣帝命舉元帥,眾議在淳於量,陵獨曰:「不然。吳明徹家在淮左,悉彼風俗,將略人才,當今無過者。」於是爭論數日不能決,都官尚書裴忌曰:「臣同徐僕射。」陵應聲曰:「非但明徹良將,忌即良副也。」是日詔明徹爲大都督,令忌監軍事,遂克淮南數十州地。宣帝因置酒,舉杯屬陵曰:「賞卿知人。」

七年、国子祭酒を領し、公事に坐して侍中・僕射を免ぜられた。間もなく侍中を加えられ、扶(扶持)を給された。十三年、中書監となり、太子詹事を領した。年老いを以て累表して致事(引退)を求め、宣帝も亦優礼を以てし、詔して将作に命じ大なる邸宅を造らせ、陵に第宅において政事を摂行させた。後主(陳叔宝)が即位すると、左光禄大夫・太子少傅に遷った。至徳元年に卒し、享年七十七。詔して特進を追贈した。初め、後主が文を陵に見せ、他人の作と偽った。陵は嗤って曰く、『全く辞句を成さず』。後主は之を恨みに含み、此に至り諡して章偽侯と曰う。

原文七年,領國子祭酒,以公事免侍中、僕射。尋加侍中,給扶。十三年,爲中書監,領太子詹事。以年老累表求致事,宣帝亦優禮之,詔將作爲造大齋,令陵就第攝事。後主即位,遷左光祿大夫、太子少傅。至德元年卒,年七十七,詔贈特進。初,後主爲文示陵,雲他人所作。陵嗤之曰:「都不成辭句。」後主銜之,至是諡曰章偽侯。

徐陵は器量が深遠であり、容姿・挙措は見るべきものがあった。性質は清廉簡素で、営利を求めず、俸禄は親族と共有した。太建年間、建昌県の封戸を食み、戸から米が水辺まで送られてくると、貧窮している親戚を皆呼び寄せて取らせたので、数日で尽きた。徐陵の家はやがて困窮に陥った。府の僚属が怪しんでその理由を問うと、陵は言った。「私には車・牛・衣裳があって売れるが、あなた方の家には売れるものがあるか?」そのように周囲を救済したのである。

原文陵器局深遠,容止可觀,性又清簡,無所營樹,俸祿與親族共之。太建中,食建昌戶,戶送米至水次,親戚有貧匱者,皆召令取焉,數日便盡。陵家尋致乏絕。府僚怪問其故,陵云:「我有車牛衣裳可賣,餘家有可賣不?」其周給如此。

若い頃から仏教を深く信奉し、経論を多く解釈した。後主が東宮にいた時、陵に『大品経』を講義させると、義学の名僧が遠方から雲のごとく集まり、講筵で議論が交わされるたび、四座で抗しうる者はなかった。目に青精(瞳の澄んだ様)があり、当時の人はこれを聡慧の相と見なした。陳が創業して以来、文檄・軍書および受禅の詔策は、すべて陵が起草し、一代の文宗とされた。また人を軽んじることもなく、かつて作者を誹謗・非難したこともなかった。後進に対しては、倦むことなく引き立てた。文帝・宣帝の時代、国家に大手筆(重要な文章)があると、必ず陵に草稿させた。その文章は旧来の文体をかなり変え、構成が巧みで綿密であり、新意が多い。一つの文章が出るごとに、好事の者が伝写して暗誦し、ついに周・斉にまで伝わり、家ごとにその写本を持った。後に喪乱に遭い、多くは散失し、現存するものは三十巻である。陵には四人の子がいた。儉・份・儀・僔である。

原文少而崇信釋教,經論多所釋解。後主在東宮,令陵講大品經,義學名僧,自遠雲集,每講筵商較,四坐莫能與抗。目有青精,時人以爲聰慧之相也。自陳創業,文檄軍書及受禪詔策,皆陵所制,爲一代文宗。亦不以矜物,未嘗詆訶作者。其於後進,接引無倦。文、宣之時,國家有大手筆,必命陵草之。其文頗變舊體,緝裁巧密,多有新意。每一文出,好事者已傳寫成誦,遂傳于周、齊,家有其本。後逢喪亂,多散失,存者三十卷。陵有四子:儉、份、儀、僔。

陵の子 儉

原文陵子 儉

儉は一名を報といい、幼い頃から背が高く立ち、学問に勤勉で志操があった。汝南の周弘直はその人柄を重んじ、娘を妻として与えた。梁の元帝が召し出して尚書金部郎中とした。しばしば侍宴して詩を賦すると、元帝は賞賛して言った。「徐氏の子に、また文才がある。」魏が江陵を平定した後、建鄴に戻り、累進して中書侍郎となった。

原文儉一名報,幼而修立,勤學有志操。汝南周弘直重其爲人,妻之以女。梁元帝召爲尚書金部郎中。常侍宴賦詩,元帝歎賞之,曰:「徐氏之子,復有文矣。」魏平江陵,還建鄴,累遷中書侍郎。

太建初年、広州刺史の歐陽紇が兵を挙げて反乱を起こすと、宣帝は儉に節を持たせて旨を諭させた。紇は儉と会うと、盛大に儀仗・護衛を並べ、言辞が恭しくなかった。儉は言った。「呂嘉の事は、確かにすでに遠い昔だが、将軍は周迪・陳寶応のことをご覧にならなかったのか?」紇は黙って答えなかった。儉が衆の志を沮喪させることを恐れ、城に入ることを許さず、儉を孤園寺に置いた。紇がかつて出てきて儉に会うと、儉は言った。「将軍はすでに挙兵なさった。儉は天子に復命しなければならない。儉の性命は将軍の手中にあるが、将軍の成敗は儉にかかっているのではない。どうか引き留めないでいただきたい。」紇はそこで儉を帰した。儉は間道から馳せて戻った。宣帝は章昭達に紇を討たせ、儉に昭達の軍を監させた。紇が平定されると、兼中書通事舍人となった。

原文太建初,廣州刺史歐陽紇舉兵反,宣帝令儉持節喻旨。紇見儉,盛列仗衞,言辭不恭。儉曰:「呂嘉之事,誠當已遠,將軍獨不見周迪、陳寶應乎?」紇默然不答。懼儉沮眾,不許入城,置儉於孤園寺。紇嘗出見儉,儉謂曰:「將軍業已舉事,儉須還報天子。儉之性命雖在將軍,將軍成敗不在於儉。幸不見留。」紇於是遣儉。從間道馳還。宣帝乃命章昭達討紇,以儉監昭達軍。紇平,爲兼中書通事舍人。

後主が立つと、累進して尋陽内史となり、政治は厳明で、盗賊は静まった。散騎常侍に転じ、建昌侯の爵を襲封した。入朝して御史中丞となった。儉は公平で誰にも阿附せず、尚書令の江總は一時声望が高かったが、儉に弾劾され、後主は深く儉を信任した。禎明二年に卒した。

原文後主立,累遷尋陽內史,爲政嚴明,盜賊靜息。遷散騎常侍,襲封建昌侯。入爲御史中丞。儉公平無所阿附,尚書令江總望重一時,爲儉所劾,後主深委任焉。禎明二年卒。

陵の子 份

原文陵子 份

份は幼い頃から父の風があった。九歳で『夢賦』を作り、陵はこれを見て、親しい者に言った。「私が幼い頃に文を作った時も、これには及ばなかった。」海塩令となり、政績があった。入朝して太子洗馬となった。性質は孝悌に厚く、陵がかつて重病になった時、份は香を焚き涙を流し、跪いて『孝経』を誦し、日夜休むことなく、三日間そのようにしたところ、陵の病はたちまち癒えた。親戚は皆、份の孝心の感応によるものだと言った。陵より先に卒した。

原文份少有父風。九歲爲夢賦,陵見之,謂所親曰:「吾幼屬文亦不加此。」爲海鹽令,有政績。入爲太子洗馬。性孝弟,陵嘗疾篤,份燒香泣涕,跪誦孝經,日夜不息,如是者三日,陵疾豁然而愈,親戚皆謂份孝感所致。先陵卒。

陵の子 儀

原文陵子 儀

儀は幼い頃から聡明で機敏であり、陳に仕えて尚書殿中郎の位に至った。陳が滅亡すると、銭唐の赭山に隠棲した。隋の煬帝が召し出して学士とし、まもなく著作佐郎に任じた。大業四年に卒した。

原文儀少聰警,仕陳位尚書殿中郎。陳亡,隱于錢唐之赭山。隋煬帝召爲學士,尋除著作佐郎。大業四年卒。

陵の弟 孝克

原文陵弟 孝克

陵の弟の孝克は、弁舌に優れ、玄理を談ずることができた。性質は至孝で、父の喪に遭い、ほとんど喪に堪えられなかった。生母の陳氏に仕え、養いの道を尽くした。梁の末、侯景の乱が起こると、孝克は母を養ったが、粥さえ十分に与えられなかった。妻は東莞の臧氏で、領軍將軍の臧盾の娘であり、非常に容色があった。孝克はそこで妻に言った。「今このように飢饉がひどく、母の供養が欠乏している。あなたを富人に嫁がせ、互いに救われたいと思うが、あなたはどう思うか?」臧氏は承諾しなかった。時に孔景行という者がおり、侯景の将となっており、多くの部下を従えて臧氏を強引に迎えに来た。臧氏は泣いて去り、得た穀物や絹布はすべて母に与えた。孝克はまた髪を剃って沙門となり、名を法整と改め、乞食を兼ねて供給を補った。臧氏もまた旧恩を深く思い、たびたび密かに食物を送ったので、困窮することはなかった。後に景行が戦死すると、臧氏は道中で孝克を待ち伏せ、数日してようやく会い、孝克に言った。「かつてのことは、あなたを裏切るためではなかった。今や脱することができたので、帰って供養しなければならない。」孝克は黙って答えなかった。そこで俗に戻り、再び夫婦となった。

原文陵弟孝克,有口辯,能談玄理。性至孝,遭父憂殆不勝喪。事所生母陳氏,盡就養之道。梁末,侯景寇亂,孝克養母,饘粥不能給。妻東莞臧氏,領軍將軍盾女也,甚有容色。孝克乃謂曰:「今饑荒如此,供養交闕,欲嫁卿與富人,望彼此俱濟,於卿如何?」臧氏弗許之。時有孔景行者,爲侯景將,多從左右逼而迎之,臧氏涕泣而去,所得穀帛,悉以遺母。孝克又剃髮爲沙門,改名法整,兼乞食以充給焉。臧氏亦深念舊恩,數私致饋餉,故不乏絕。後景行戰死,臧氏伺孝克於途中,累日乃見,謂孝克曰:「往日之事,非爲相負,今既得脫,當歸供養。」孝克默然無答。於是歸俗,更爲夫妻。

後に東に遊び、銭唐の佳義里に住み、諸僧と仏典を討論し、ついに三論に通じた。毎日二時に講義し、朝は仏経を講じ、夕方は礼伝を講じ、僧俗の受業者は数百人に及んだ。天嘉年間、剡県令に任じられたが、好みではなく、まもなく職を去った。太建四年、秘書丞に徴されたが、就任しなかった。そこで蔬食の長斎を行い、菩薩戒を持ち、昼夜『法華経』を講誦した。宣帝はその操行を大いに称賛した。後に国子祭酒となった。孝克は毎度侍宴しても、何も食べず、宴席が散じる時、彼の前の膳羞は減っていた。帝は密かに記して中書舍人の管斌に問うた。斌はそれ以来うかがっていると、孝克が珍果を取って紳帯の中に納めるのを見た。斌は当時その意図が分からなかったが、後になって尋ねてみると、母に与えるためだと知った。斌がこれを啓上すると、宣帝はしばらく嘆息し、勅して今後宴享では、孝克の前の饌はすべて持ち帰らせ、その母に与えさせた。当時の論はこれを称えた。

原文後東游,居錢唐之佳義裏,與諸僧討論釋典,遂通三論。每日二時講,旦講佛經,晚講禮傳,道俗受業者數百人。天嘉中,除剡令,非其好,尋去職。太建四年,徵爲秘書丞,不就。乃蔬食長齋,持菩薩戒,晝夜講誦法華經。宣帝甚嘉其操行。後爲國子祭酒。孝克每侍宴,無所食噉,至席散,當其前膳羞損減。帝密記以問中書舍人管斌,斌自是伺之,見孝克取珍果納紳帶中。斌當時莫識其意,後尋訪,方知其以遺母。斌以啟,宣帝嗟歎良久,乃敕自今宴享,孝克前饌,並遣將還,以餉其母。時論美之。

至徳年間、皇太子が学に入り釈奠を行うと、百官が陪列した。孝克が『孝経』の題を発すると、後主は詔して皇太子に北面して敬意を表させた。禎明元年、入朝して都官尚書となった。晋以来、尚書の官僚は皆、家眷を連れて省に住んでいた。省は臺城内の下舎門の中にあり、東西に跨る閣道があり、朝堂に通じていた。その第一が都官省であり、西は閣道に接していた。年代が久しく、多くの鬼怪があった。毎夜、黄昏の頃、理由なく音や光があり、あるいは衣冠を着た人が井戸から出てきて、しばらくしてまた沈むのを見たり、あるいは門や戸が自然に開閉したりした。ここに住む者は多く死亡し、尚書の周確がこの省で卒した。孝克が確に代わると、すぐにここに住んだ。二年経つと、妖変はすべて止み、当時の人は皆、貞正によるものだと考えた。

原文至德中,皇太子入學釋奠,百司陪列。孝克發孝經題,後主詔皇太子北面致敬。禎明元年,入爲都官尚書。自晉以來,尚書官僚,皆攜家屬居省。省在臺城內下舍門中,有閣道東西跨路,通於朝堂。其第一即都官省,西抵閣道,年代久遠,多有鬼怪。每夜昏之際,無故有聲光,或見人著衣冠從井中出,須臾復沒;或閘合自然開閉。居多死亡,尚書周確卒於此省。孝克代確,便即居之,經兩載,祅變皆息,時人咸以爲貞正所致。

孝克の性質は清素で、施しを好んだので、飢えと寒さを免れなかった。後主は勅して石頭津の税を彼に与えたが、孝克はすべて斎会を設け経を写すのに用い、すぐに尽きた。

原文孝克性清素,好施惠,故不免饑寒。後主敕以石頭津稅給之,孝克悉用設齋寫經,隨盡。

二年、散騎常侍となり、東宮に侍した。陳が滅びると、例に従って長安に入った。家は貧しく、生母が病に罹り、粳米で粥を作りたいと望んだが、常に用意することができなかった。母が亡くなった後、孝克は常に麦を食べるようになり、粳米を贈る者がいると、孝克はそれに向かって悲しみ泣き、生涯再び食することはなかった。

原文二年,爲散騎常侍,侍東宮。陳亡,隨例入長安。家道壁立,所生母患,欲粳米爲粥,不能常辦。母亡後,孝克遂常噉麥,有遺粳米者,孝克對而悲泣,終身不復食焉。

開皇十二年、長安に疫病が流行し、隋の文帝はその名声と行いを聞き、召し出して尚書都堂で金剛般若経を講じさせた。まもなく国子博士に任じられ、後に東宮に侍して、礼伝を講じた。

原文開皇十二年,長安疾疫,隋文帝聞其名行,召令于尚書都堂講金剛般若經。尋授國子博士,後侍東宮,講禮傳。

十九年、病により卒した。七十三歳であった。臨終に正坐して念仏し、室内には尋常ならざる香気があり、隣里は皆驚き怪しんだ。子の万載は、太子洗馬の位に至った。

原文十九年,以疾卒,年七十三。臨終政坐念佛,室內有非常香氣,鄰里皆驚異之。子萬載,位太子洗馬。

鮑泉

原文鮑泉

鮑泉、字は潤岳、東海の人である。父の幾、字は景玄、家は貧しく、母が老いているため吏部尚書王亮に禄を求めた。亮は一見して賞賛し、挙げて舂陵令とした。後に明山賓に推薦され、太常丞となった。外兄の傅昭が太常となったため、制度により緦服の親族は互いに臨むことができず、尚書郎に改められ、湘東王諮議参軍で終わった。

原文鮑泉字潤岳,東海人也。父幾字景玄,家貧,以母老詣吏部尚書王亮干祿,亮一見嗟賞,舉爲舂陵令。後爲明山賓所薦,爲太常丞。以外兄傅昭爲太常,依制緦服不得相臨,改爲尚書郎,終於湘東王諮議參軍。

泉は鬚髯が美しく、挙止に優れ、身長八尺、性質は甚だ機敏であった。広く史伝に渉猟し、文筆も兼ね備えていた。若くして元帝に仕えて国常侍となり、早くから抜擢任用され、帝は「我が文の外に卿を出す者なし」と言った。後に通直侍郎となった。常に高幰車に乗り、数十人の従者を従え、傘蓋や服玩は甚だ精緻であった。道で国子祭酒王承に出会い、承は旧来の貴人ではないかと疑い、訪ねさせると、泉の従者が答えて「鮑通直です」と言った。承は怪しみ、さらに辱めようと、人を遣わして車に迫り問うた。「鮑通直とはまた何者か、このようであるとは!」都の若者はこれを口実とし、豪華な人を見ると、互いに戯れて「鮑通直とはまた何者か、このようである」と言い、笑いの種とした。

原文泉美鬚髯,善舉止,身長八尺,性甚警悟。博涉史傳,兼有文筆。少事元帝爲國常侍,早見擢任,謂曰:「我文之外無出卿者。」後爲通直侍郎。常乘高幰車,從數十左右,傘蓋服玩甚精。道逢國子祭酒王承,承疑非舊貴,遣訪之,泉從者答曰:「鮑通直」。承怪焉,復欲辱之,遣逼車問:「鮑通直復是何許人,而得如此!」都下少年遂爲口實,見尚豪華人,相戲曰:「鮑通直復是何許人,而得如此」,以爲笑謔。

元帝が制を承けると、累遷して信州刺史に至った。方等が敗れると、元帝は大いに怒り、泉と王僧辯にこれを討たせた。僧辯が「計はどう出すか」と言うと、泉は「事は雪を沃ぐが如し、何ぞ多く慮る所あらん」と言った。僧辯は「君の言は文士の常談に過ぎぬ。河東(蕭繹)には少し武幹があり、精兵一万なければ行くべからず。竟陵の甲卒は間もなく到着するはず、まだ再考できる。卿と共に入って言おう」と言った。泉は承諾したが、僧辯が先の言葉通りに言うと、泉は黙然として続けなかった。元帝は大いに怒り、ここに僧辯を械にかけて拘禁した。当時の人は泉を酈寄に比した。

原文及元帝承制,累遷至信州刺史。方等之敗,元帝大怒,泉與王僧辯討之。僧辯曰:「計將安出?」泉曰:「事等沃雪,何所多慮。」僧辯曰:「君言文士常談耳,河東少有武幹,非精兵一萬不可以往。竟陵甲卒不久當至,猶可重申。欲與卿入言之。」泉許諾,及僧辯如向言,泉默然不繼。元帝大怒,於是械系僧辯,時人比泉爲酈寄。

泉は長沙を専征したが、久しくして勝てなかった。元帝はついに泉の二十の罪を数え、書を為して責めて言った。「面は冠玉の如し、なお木偶を疑わしめ、鬚は蝟毛の如し、徒らに喙を繞らすに労す。」ここにおいて獄中から王僧辯を起用し、泉に代えて都督とし、舍人羅重歡に齋仗三百人を率いさせて僧辯と共に行かせた。長沙に至り、泉に通じて言った。「羅舍人は命を受けて王竟陵をお送りしました。」泉は愕然とし、左右を顧みて言った。「王竟陵が我が経略を助けてくれるなら、賊を平らげるに足らぬ。」ここに席を払って坐し、これを待った。僧辯が入ると、背を泉に向けて坐し言った。「鮑郎、卿には罪がある。令旨により卿を鎖するよう命じられた。故意をもって期待するなかれ。」重歡に命じて令を示させ、泉を床下に鎖した。泉の顔色は自若として、少しも恐れる様子がなく、言った。「王師を稽緩させた罪は甘んじて受ける。ただ後人が更に鮑泉の昏憒を思うことを恐れるのみ。」僧辯の表情は甚だ穏やかでなかった。泉はついに淹遅の罪を啓上陳述した。元帝はまもなくその任に復し、僧辯らと共に東進して邵陵王を郢州えいしゅうに逼迫させよと命じた。

原文泉既專征長沙,久而不克。元帝乃數泉二十罪,爲書責之曰:「面如冠玉,還疑木偶,須似蝟毛,徒勞繞喙。」乃從獄中起王僧辯代泉爲都督,使舍人羅重歡領齋仗三百人與僧辯往。乃至長沙,遣通泉曰:「羅舍人被令送王竟陵來。」泉愕然,顧左右曰:「得王竟陵助我經略,賊不足平矣。」乃拂席坐而待之。僧辯入,乃背泉而坐曰:「鮑郎,卿有罪,令旨使我鎖卿,卿勿以故意見期。」命重歡出令示泉,鎖之床下。泉顏色自若,了無懼容,曰:「稽緩王師,罪乃甘分,但恐後人更思鮑泉之憒憒耳。」僧辯色甚不平,泉乃啟陳淹遲之罪。元帝尋復其任,令與僧辯等東逼邵陵王於郢州。

郢州が平定されると、元帝は世子の方諸を刺史とし、泉を長史として州府の事を行わせた。方諸は泉が温和で弱いのを見て、諮問陳情があっても用いず、泉に床に伏せて背中に騎り馬とならせ、その衣に姓名を書いた。これにより州府はことごとく欺くようになった。侯景が密かに将の宋子仙・任約を遣わして襲撃させた。方諸と泉は軍政を顧みず、ただ樗蒲と酒で自ら楽しみ、「賊がどうして来られようか」と言った。やがて伝え告げる者が多くなり、ようやく門を閉ざすよう命じた。城は陥落し、賊は方諸と泉を捕らえて景のもとに送った。後に景が王僧辯を巴陵で攻めて勝てず、敗れて還ると、泉を江夏で殺し、その屍を黄鶴磯に沈めた。

原文郢州平,元帝以世子方諸爲刺史,泉爲長史,行州府事。方諸見泉和弱,每有諮陳未嘗用,使泉伏床騎背爲馬,書其衣作其姓名,由是州府盡相欺。侯景密遣將宋子仙、任約襲之。方諸與泉不恤軍政,唯蒱酒自樂,云:「賊何由得至」。既而傳告者眾,始命闔門。城陷,賊執方諸及泉送之景所。後景攻王僧辯于巴陵不克,敗還,乃殺泉于江夏,沈其屍于黃鶴磯。

初め、泉は朱衣を着て水上を行く夢を見た。死ぬと、全身に血を帯びて江に沈み、その夢の通りであった。泉は儀礼に特に明るく、新儀三十巻を撰して世に行われた。

原文初,泉夢著朱衣行水上,及死,舉身帶血而沈于江如其夢。泉于儀禮尤明,撰新儀三十卷行於世。

附 鮑行卿

原文附 鮑行卿

当時また鮑行卿が博学大才をもって称され、後軍臨川王録事、兼中書舎人に位し、歩兵校尉に遷った。玉璧の銘を献上し、武帝は詔を発して褒賞した。韻語を好み、歩兵校尉に拝された時、面と向かって帝に謝して言った。「舎人を作れば貧しさ免れず、五校を得れば実に大校。」例は皆このようであった。集二十巻がある。皇室儀十三巻、乗輿龍飛記二巻を撰した。

原文時又有鮑行卿以博學大才稱,位後軍臨川王錄事,兼中書舍人,遷步兵校尉。上玉璧銘,武帝發詔褒賞。好韻語,及拜步兵,面謝帝曰:「作舍人,不免貧,得五校,實大校。」例皆如此。有集二十卷。撰皇室儀十三卷,乘輿龍飛記二卷。

行卿の弟 客卿

原文行卿弟 客卿

弟の客卿は南康太守の位に至った。客卿に三人の子、検・正・至があり、皆才芸で知られ、ともに湘東王の五佐となった。正は交遊を好み、一日も人に適わぬ日はなく、人はこれについて語って言った。「至らぬ所なく烏の噪くに逢わず、至らぬ所なく鮑佐に逢わず。」正は湘東王に知られず、書を献じて告退した。王はこれを恨んだ。建鄴城が陥落すると、正は尚書外兵郎で、病み起き上がれなかった。景は死屍の中に混ぜて焼いた。王はこれを聞いて言った。「忠は紀信にあらず、利は象歯にあらず。焚き棄つること、ここにおいて得たり。」君子はこれによって湘東王の不仁を知る。検は湘東鎮西府中記室となり、蜀に使いし、武陵王に屈せず、害された。

原文弟客卿位南康太守。客卿三子,檢、正、至,並才藝知名,俱爲湘東王五佐。正好交遊,無日不適人,人爲之語曰:「無處不逢烏噪,無處不逢鮑佐。」正不爲湘東王所知,獻書告退。王恨之。及建鄴城陷,正爲尚書外兵郎,病不能起。景雜於死屍焚之。王聞之曰:「忠非紀信,利非象齒,焚如棄如,於是乎得。」君子以此知湘東王不仁。檢爲湘東鎮西府中記室,使蜀,不屈于武陵王,見害。

論

原文論

論じて曰く、夏侯勝が云う、「士は経術を明らかにせざるを患う、経術明らかなれば、青紫を取ること地芥を拾うが如し」と。賀瑒・賀琛・朱異・司馬褧はこれを得たり。而して異は遂に寵倖を徼り、事に任じ権に居り、道を以て時に佐くる能わず、苟くも容媚を取る。寇を延いて国を敗るに及んでは、実に異の由る所、禍難既に彰るるも、其の罪を明らかにせず、亦既に身死すとも、寵贈猶ほ殊なり。罰既に加えられず、賞亦斯に濫る。夫れ太清の乱は、固より其れ宜なり。顧協は清介にして、以て古人を追跡するに足る。徐摛は貞正にして、仁者は信乎に勇有り。孝穆は聰明特達にして、興王を締構し、献替謀猷、亮直斯に在り。泉本は文房の士にして、毎に荷戈の任に処る、材に非ざるの責、勝任すること亦た難からずや。

原文論曰:夏侯勝云,「士患不明經術,經術明,取青紫如拾地芥耳」。于賀瑒、賀琛、朱異、司馬褧其得之矣。而異遂徼寵倖,任事居權,不能以道佐時,苟取容媚。及延寇敗國,實異之由,禍難既彰,不明其罪,亦既身死,寵贈猶殊。罰既弗加,賞亦斯濫。夫太清之亂,固其宜矣。顧協清介,足以追蹤古人,徐摛貞正,仁者信乎有勇。孝穆聰明特達,締構興王,獻替謀猷,亮直斯在。泉本文房之士,每處荷戈之任,非材之責,勝任不亦難乎。