南史

巻六十一より巻六十二

巻六十一より巻六十二

南史

巻六十一より巻六十二

列伝第五十一

陳伯之

原文陳伯之

陳伯之は、済陰郡睢陵県の人である。十三、四歳の頃、獺の皮の冠を好んでかぶり、刺刀を帯び、近隣の田の稲が熟するのを待っては、しばしば盗み刈りした。かつて田主に見つかり、叱責されて「楚の奴め、動くな」と言われると、伯之は「あなたの稲は幸い多く、一担取ったところで何の苦があろう」と言った。田主が捕らえようとすると、刀を抜いて進み出て、「楚の奴め、いったいどうするつもりだ」と言った。田主は皆、逆に逃げ出し、伯之はゆっくりと稲を担いで帰った。年が長ずると、鍾離でたびたび強盗を働き、かつて顔を隠して人の船を窺ったところ、船人がこれを斬りつけ、その左耳を取られた。後に同郷の車騎将軍王広之に従い、広之はその勇を愛し、毎夜寝床の下に寝かせ、征伐の際には常に自ら率いて従わせた。たびたび戦功により、累進して驃騎司馬となり、魚復県伯に封ぜられた。

原文陳伯之,濟陰睢陵人也。年十三四,好著獺皮冠,帶刺刀,候鄰里稻熟,輒偷刈之。嘗為田主所見,呵之曰:「楚子莫動!」伯之曰:「君稻幸多,取一擔何苦。」田主將執之。因拔刀而進,曰:「楚子定何如!」田主皆反走,徐擔稻而歸。及年長,在鍾離數為劫盜,嘗授面覘人船,船人斫之,獲其左耳。後隨鄉人車騎將軍王廣之,廣之愛其勇,每夜臥下榻,征伐常將自隨。頻以戰功,累遷驃騎司馬,封魚復縣伯。

梁の武帝が兵を起こすと、東昏侯は伯之に節を与え、前駆諸軍事・豫州刺史を督させ、江州に転じて尋陽に拠り、梁の武帝に抵抗させた。郢城が平定されると、武帝は人を遣わして伯之を説得し、すぐに江州刺史とした。子の武牙は徐州刺史とした。伯之は命を受けたものの、なお両端を懐いていた。帝はそのためらいに付け込み、これを追い詰めると、伯之は南湖に退いて守り、その後帰順し、諸軍とともに東下した。建康城が未だ平定されないうち、降伏者が出るたびに、伯之は呼び寄せて耳打ちした。帝は彼が再び翻覆を企てているのではないかと疑い、おりしも東昏侯の将鄭伯倫が降伏したので、帝は彼を伯之のもとへ通わせ、「城中は卿を非常に恨んでおり、使いを遣わして卿を誘い、卿が降伏したならば、生きたまま卿の手足を切り刻もうとしている。卿が降伏しなければ、また刺客を遣わして卿を殺そうとしている」と言わせた。伯之は大いに恐れ、これ以降異心を抱かなくなった。城が平定されると、豊城県公に封ぜられ、鎮守に派遣された。

原文梁武起兵,東昏假伯之節,督前驅諸軍事、豫州刺史,轉江州,據尋陽以拒梁武。郢城平,武帝使說伯之,即以為江州刺史。子武牙為徐州刺史。伯之雖受命,猶懷兩端。帝及其猶豫逼之,伯之退保南湖,然後歸附,與眾軍俱下。建康城未平,每降人出,伯之輒喚與耳語。帝疑其復懷翻覆,會東昏將鄭伯倫降,帝使過伯之,謂曰:「城中甚忿卿,欲遣信誘卿,須卿降,當生割卿手腳。卿若不降,復欲遣刺客殺卿。」伯之大懼,自是無異志矣。城平,封豐城縣公,遣之鎮。

伯之は文字あざなを知らず、江州に戻ってからも、文書や訴訟の書類を得ても、ただ大きく「諾」と書くだけであった。用事があると、典簽が口頭で伝え、賞罰の決定は主な者に委ねられた。

原文伯之不識書,及還江州,得文牒辭訟,唯作大諾而已。有事,典簽傳口語,與奪決於主者。

伯之は豫章の人鄧繕、永興の人戴承忠とともに旧知の間柄であり、繕はかつて伯之の息子を匿って禍を免れさせたことがあり、伯之は特にその恩を感じていた。州に在任すると、繕を別駕に任用し、承忠を記室参軍とした。河南の褚緭は、都下で品行の卑しい者であったが、武帝が即位すると、たびたび尚書の范雲を訪ねた。雲は緭を好まず、堅く拒絶した。緭はますます怒り、知人に私的に語って言うには、「建武(斉の明帝の年号)以後、草莽の卑賤の者まで皆貴人となった。私は何の罪があって見捨てられるのか。今、天下は草創期で、喪乱がどうなるか分からない。陳伯之が強兵を擁して江州におり、代々仕えてきた臣下ではなく、自ら疑う心を持っている。しかもまた熒惑(火星)が南斗を守っているが、まさか私のために現れたのではあるまいか。今、一行して、事が成らなければ、魏に入ろう。河南郡の太守になるのに何の劣ることがあろうか」と。そこで伯之の書佐の王思穆に身を寄せて仕え、大いに親しくされた。また伯之の同郷の朱龍符が長流参軍となり、ともに伯之の愚昧につけ込み、好き勝手に奸悪なことを行った。

原文伯之與豫章人鄧繕、永興人戴承忠並有舊,繕經藏伯之息免禍,伯之尤德之。及在州,用繕為別駕,承忠為記室參軍。河南褚緭,都下之薄行者,武帝即位,頻造尚書范云。雲不好緭,堅拒之。緭益怒,私語所知曰:「建武以後,草澤底下悉成貴人,吾何罪而見棄。今天下草創,喪亂未可知。陳伯之擁強兵在江州,非代來臣,有自疑之意。且復熒惑守南斗,詎非為我出?今者一行,事若無成,入魏,何減作河南郡。」於是投伯之書佐王思穆事之,大見親狎。及伯之鄉人朱龍符為長流參軍,並乘伯之愚闇,恣行奸險。

伯之の子の武牙は当時直閤将軍であったが、武帝は龍符の罪状を自ら書き記して武牙に渡し、武牙は封をして伯之に見せた。帝はまた江州別駕の鄧繕の代官を派遣したが、伯之はともにこれを受けず、「龍符は健児であり、鄧繕は職務に実績がある。台(朝廷)が派遣した別駕は、中従事として任用させていただきたい」と言った。繕はそこで日夜、伯之に説いて言うには、「朝廷の府庫は空っぽで、もはや武器もなく、三倉(太倉・左右蔵)には米がない。これは万世に一度の機会であり、逃すべきではない」と。緭や承忠らもたびたびこれを支持した。伯之は繕に言った、「今度は卿のために上奏するが、もしまた認められなければ、卿とともに東下しよう」。使いが戻ると、武帝は管内の一郡に繕を処置するよう命じた。伯之はそこで府州の佐史を集め、言った、「斉の建安王(蕭寶寅)の教えを奉じ、江北の義勇十万を率いてすでに六合に駐屯し、江州の現有兵力で糧食を運び速やかに東下するよう、私を使者として遣わされた。私は明帝の厚恩を受け、死をもって報いることを誓う」。そして緭に蕭寶寅の偽の書簡を作らせて僚佐に見せ、聴事堂の前に壇を築き、生贄を殺して盟を結んだ。伯之がまず血をすすり、長史以下が順にすすった。緭は伯之に説いて言った、「今、大事を挙げるにあたり、人望を集めるべきである。程元沖は人と心を一つにせず、臨川内史の王観は王僧虔の孫で、人となりが悪くない。彼を召し出して長史とし、元沖の代わりとすべきである」。伯之はこれに従い、さらに緭を尋陽太守とし、承忠を輔義将軍、龍符を豫州刺史とした。

原文伯之子武牙時為直合將軍,武帝手疏龍符罪親付武牙,武牙封示伯之。帝又遣代江州別駕鄧繕,伯之並不受命,曰:「龍符健兒,鄧繕在事有績。台所遣別駕,請以為中從事。」繕於是日夜說伯之云:「台家府庫空竭,無復器仗,三倉無米。此萬世一時,機不可失。」緭、承忠等每贊成之。伯之謂繕:「今段啟卿,若復不得,便與卿共下。」使反,武帝敕部內一郡處繕。伯之於是集府州佐史,謂曰:「奉齊建安王教,率江北義勇十萬已次六合,見使以江州見力運糧速下。我荷明帝厚恩,誓以死報。」使緭詐為蕭寶寅書以示僚佐,於聽事前為壇,殺牲以盟。伯之先歃,長史以下次第歃。緭說伯之:「今舉大事,宜引人望。程元沖不與人同心;臨川內史王觀,僧虔之孫,人身不惡,可召為長史,以代元沖。」伯之從之,仍以緭為尋陽太守,承忠輔義將軍,龍符豫州刺史。

豫章太守の鄭伯倫は郡兵を起こして防戦した。程元沖は職を失った後、家で数百人を集め、伯之の典簽である呂孝通と戴元則を内応させた。伯之は毎朝、常に芸能を楽しみ、日が暮れるとすぐに寝てしまい、左右の仗身(護衛)も休息していた。元沖はその緩みに乗じ、北門から入り、まっすぐに聴事堂の前に至った。伯之は叫び声を聞き、自ら出て掃討した。元沖は力及ばず、逃れて廬山に走った。

原文豫章太守鄭伯倫起郡兵拒守。程元沖既失職,於家合率數百人,使伯之典簽呂孝通、戴元則為內應。伯之每旦常作伎,日晡輒臥,左右仗身皆休息。元沖因其解弛,從北門入,徑至聽事前。伯之聞叫,自率出蕩。元衝力不能敵,走逃廬山。

伯之は使いを遣わして武牙兄弟に返報させたが、武牙らは盱眙に逃げ、盱眙の人徐文安、莊興紹、張顯明がこれを迎え撃ったが、止めることができず、逆に殺された。武帝は王茂を遣わして伯之を討たせ、伯之は敗走し、間道から命からがら江北に逃れ出て、子の武牙および褚緭とともに魏に入った。魏は伯之を使持節・散騎常侍・都督淮南諸軍事・平南将軍・光禄大夫・曲江県侯とした。天監四年、詔により太尉臨川王蕭宏が北侵し、宏は記室の丘遲に命じて密かに伯之に手紙を書かせた。その文は以下の通りである。

原文伯之遣使還報武牙兄弟,武牙等走盱眙,盱眙人徐文安、莊興紹、張顯明邀擊之,不能禁,反見殺。武帝遣王茂討伯之,敗走,間道亡命出江北,與子武牙及褚緭俱入魏。魏以伯之為使持節、散騎常侍、都督淮南諸軍事、平南將軍、光祿大夫、曲江縣侯。天監四年,詔太尉臨川王巨集北侵,巨集命記室丘遲私與之書曰:

陳将軍の足下、恙なく、幸いである、幸いである。将軍の勇は三軍に冠たり、才は世に出でたるものなり。燕雀の毛羽を棄て、鴻鵠に慕いて高く翔らんことを願う。昔、機に因りて変化し、時主に遭遇し、功を立て事を立て、国を開きて孤を称し、朱輪に華轂を飾り、旄を擁して万里を治むること、何と壮んなるかな。如何ぞ一旦にして奔亡の虜となり、鳴鏑を聞いて股は戦い、穹廬に対し膝を屈するに至るや、又何と劣れることか。君が去就の際を尋ぬるに、他に故あるにあらず、ただ内に己を審らかにせず、外に流言を受け、沈迷して猖蹶し、以て此に至れるのみ。

原文陳將軍足下,無恙,幸甚,幸甚。將軍勇冠三軍,才為世出。棄燕雀之毛羽,慕鴻鵠以高翔。昔因機變化,遭遇時主,立功立事,開國稱孤,朱輪華轂,擁旄萬里,何其壯也!如何一旦為奔亡之虜,聞鳴鏑而股戰,對穹廬以屈膝,又何劣邪?尋君去就之際,非有他故,直以不能內審諸己,外受流言,沈迷猖蹶,以至於此。

聖朝は罪を赦し功を責め、瑕を棄てて用いを録し、赤心を天下に推し、反側を万物に安んず。これは将軍の知るところにして、僕が一二を談ずるに仮るにあらざるなり。昔、朱鮪は友于(兄弟)に血を渉ふみ、張繡は愛子に刃を倳たてしも、漢主は疑いとせず、魏君は旧の如く之を待つ。況んや将軍には昔人の罪なくして、勲は当代に重きを加うるに於いてをや。夫れ迷途に反るを知るは、往哲の是とするところ、遠からずして復るは、先典の高むる所なり。主上は法を屈して恩を申し、舟を吞むものも漏らす。将軍の松柏は翦られず、親戚は安らかに居り、高堂は未だ傾かず、愛妾は尚お在り。悠悠たる爾が心、亦何をか言わん。当今の功臣名将は、雁行の如く序あり、紫を佩び黄を懐き、帷幄の謀を賛し、軺に乗り節を建て、疆埸の任を奉ず。並びに刑馬して誓いを作し、子孫に伝う。将軍独り顔を靦きて命を借り、氈裘の長に駆馳するは、寧ろ哀しまざらんや。夫れ慕容超の強きを以てしても、身は東市に送られ、姚泓の盛んなるを以てしても、面は西都に縛さる。故に知る、霜露の均しくする所は、異類を育せず、姬漢の旧邦は、雑種を取らざることを。北虜は中原に号を僭し、多年を歴るも、悪積り禍盈ち、理、焦爛に至る。況んや偽りの孽よこしまなるもの昏く狡く、自ら相い夷戮し、部落は離れ携わり、酋豪は猜み貳す。まさに頸を蛮邸に繋ぎ、首を藁街に懸くべき時にあたりて、将軍は魚の沸鼎の中に游ぎ、燕の飛幕の上に巣くうが如く、亦惑わざらんや。

原文聖朝赦罪責功,棄瑕錄用,推赤心于天下,安反側於萬物,此將軍之所知,非假僕一二談也。昔朱鮪涉血于友于,張繡倳刃於愛子,漢主不以為疑,魏君待之若舊。況將軍無昔人之罪,而勳重於當代。夫迷塗知反,往哲是與,不遠而復,先典攸高。主上屈法申恩,吞舟是漏。將軍松柏不翦,親戚安居;高堂未傾,愛妾尚在。悠悠爾心,亦何可言。當今功臣名將,雁行有序,佩紫懷黃,贊帷幄之謀;乘軺建節,奉疆埸之任。並刑馬作誓,傳之子孫。將軍獨靦顏借命,驅馳氈裘之長,寧不哀哉!夫以慕容超之強,身送東市,姚泓之盛,面縛西都。故知霜露所均,不育異類,姬漢舊邦,無取雜種。北虜僭號中原,多歷年所,惡積禍盈,理至焦爛。況偽孽昏狡,自相夷戮,部落攜離,酋豪猜貳。方當系頸蠻邸,縣首藳街。而將軍魚游于沸鼎之中,燕巢於飛幕之上,不亦惑乎!

暮春三月、江南の草は長く、雑花は樹に生じ、群鸚乱れ飛ぶ。故国の旗鼓を見て、生平を疇日に感ず、弦を撫でて陴に登れば、豈に愴恨せざらんや。これゆえに廉公の趙将を思うは、呉子の西河に泣くは、人の情なり、将軍独り情無からんや。早く良規を励まし、自ら多福を求むるを想う。当今の皇帝盛明にして、天下安楽、白環は西より献じ、楛矢は東より来たり、夜郎・滇池は辮を解きて職を請い、朝鮮・昌海は角を蹶いて化を受く。ただ北狄のみ野心を抱き、沙塞の間に掘強して、歳月の命を延ばさんと欲するのみ。中軍臨川殿下は、明徳茂親にして、茲に戎重を総べ、方に人を洛汭に吊い、罪を秦中に伐たんとす。若し遂に改めずば、方に僕の言を思わん。聊か往懐を布し、君其れ之を詳にせよ。伯之書を得て、乃ち寿陽に於いて衆八千を擁して帰降す。武牙は魏人に殺さる。伯之既に至り、平北将軍・西豫州刺史・永新県侯と為す。未だ之に任ぜず。復た驍騎将軍と為り、又太中大夫と為る。久しくして、家に卒す。其の子猶お魏に在る者有り。

原文暮春三月,江南草長,雜花生樹,群鸚亂飛。見故國之旗鼓,感生平於疇日,撫弦登陴,豈不愴恨。所以廉公之思趙將,吳子之泣西河,人之情也,將軍獨無情哉?想早勵良規,自求多福。當今皇帝盛明,天下安樂,白環西獻,楛矢東來,夜郎、滇池解辮請職,朝鮮、昌海蹶角受化;唯北狄野心,掘強沙塞之間,欲延歲月之命耳。中軍臨川殿下,明德茂親,總茲戎重,方吊人洛汭,伐罪秦中,若遂不改,方思僕言。聊布往懷,君其詳之。伯之得書,乃于壽陽擁眾八千歸降。武牙為魏人所殺。伯之既至,以為平北將軍、西豫州刺史、永新縣侯。未之任。復為驍騎將軍,又為太中大夫。久之,卒於家。其子猶有在魏者。

褚緭は魏に在り、魏人之を用いんと欲す。魏の元会に、緭戯れに詩を為して曰く、「帽上に籠冠を著け、袴上に朱衣を著く、今是なるを知らず、昔非なるを知らず」と。魏人怒り、出して始平太守と為す。日日行猟し、馬より堕ちて死す。

原文褚緭在魏,魏人欲用之。魏元會,緭戲為詩曰:「帽上著籠冠,緭上著朱衣,不知是今是,不知非昔非。」魏人怒,出為始平太守。日日行獵,墮馬而死。

陳慶之

原文陳慶之

陳慶之、字は子雲、義興国山の人なり。幼くより梁の武帝に従う。帝は性碁を好み、毎に夜より旦に至るまで輟まず、等輩皆寐るも、唯だ慶之は寢ず、呼ばば即ち至り、甚だ親賞せらる。建鄴を平げるに従い、稍く主書と為り、財を散じ士を聚め、恒に立効を思う。奉朝請を除く。

原文陳慶之字子雲,義興國山人也。幼隨從梁武帝。帝性好碁,每從夜至旦不輟,等輩皆寐,唯慶之不寢,聞呼即至,甚見親賞。從平建鄴,稍為主書,散財聚士,恒思立效。除奉朝請。

普通年中、魏の徐州刺史元法僧、彭城に於いて内附を求めんとす。慶之を以て武威将軍と為し、胡龍牙・成景雋と諸軍を率いて応接す。還りて宣猛将軍・文德主帥を除し、仍く軍を率いて豫章王綜を徐州に入れて鎮せしむ。魏は安豊王元延明・臨淮王元彧を遣わし、衆十万を率いて来たりて拒ぐ。延明先ず其の別将丘大千を遣わし、兵を近境に観せしむ。慶之之を撃ち破る。後、豫章王軍を棄てて魏に奔る。慶之乃ち関を斬り夜退き、軍士全きを得る。

原文普通中,魏徐州刺史元法僧于彭城求入內附,以慶之為武威將軍,與胡龍牙、成景雋率諸軍應接。還除宣猛將軍、文德主帥,仍率軍送豫章王綜入鎮徐州。魏遣安豐王元延明、臨淮王元彧率眾十萬來拒。延明先遣其別將丘大千觀兵近境,慶之擊破之。後豫章王棄軍奔魏,慶之乃斬關夜退,軍士獲全。

普通七年、安西将軍元樹寿春に出征す。慶之に仮節・総知軍事を除す。魏の豫州刺史李憲、其の子長鈞を遣わし別に両城を築きて相拒ぐ。慶之之を攻め抜き、憲力屈して遂に降る。慶之入りて其の城を据う。転じて東宮直閤と為る。

原文普通七年,安西將軍元樹出征壽春,除慶之假節、總知軍事。魏豫州刺史李憲遣其子長鈞別築兩城相拒,慶之攻拔之,憲力屈遂降,慶之入據其城。轉東宮直合。

大通元年、領軍曹仲宗に隷し渦陽を伐つ。魏は常山王元昭等を遣わし来たりて援く。前軍駝澗に至り、渦陽を去ること四十里。韋放曰く、「賊の鋒必ず軽鋭なり、戦捷も功と為すに足らず。如し利あらずば、我が軍勢を沮す。撃たざるに如かず」と。慶之曰く、「魏人遠来し、皆已に疲倦せり。須らく其の気を挫くべし。必ず敗れざるの理無し」と。ここに於いて麾下五百騎を以て奔撃し、其の前軍を破る。魏人震恐す。慶之還りて諸将と共に連営して西進し、渦陽城を据え、魏と相持す。春より冬に至るまで、各数十百戦す。師老いて気衰え、魏の援兵復た軍後に於いて壘を築かんと欲す。仲宗等は腹背敵を受くるを恐れ、退くを謀る。慶之節を杖ちて軍門にて曰く、「須らく虜の囲み合うを待ち、然る後に戦うべし。若し班師せんと欲せば、慶之别に密勅有り」と。仲宗其の計を壮とし、乃ち之に従う。魏人は掎角して十三城を作る。慶之其の四壘を陥す。九城の兵甲猶お盛んなり。乃ち其の俘馘を陳べ、鼓噪して之を攻む。遂に奔潰し、斬獲略く尽き、渦水咽び流る。詔して渦陽の地を以て西徐州を置く。衆軍勝に乗じて前ち城父に頓す。武帝嘉しみて、手詔を以て之を慰勉す。

原文大通元年,隸領軍曹仲宗伐渦陽,魏遣常山王元昭等來援,前軍至駝澗,去渦陽四十里。韋放曰:「賊鋒必是輕銳,戰捷不足為功;如不利,沮我軍勢,不如勿擊。」慶之曰:「魏人遠來,皆已疲倦,須挫其氣,必無不敗之理。」於是與麾下五百騎奔擊,破其前軍,魏人震恐。慶之還共諸將連營西進,據渦陽城,與魏相持,自春至冬,各數十百戰。師老氣衰,魏之援兵復欲築壘於軍後。仲宗等恐腹背受敵,謀退。慶之杖節軍門,曰:「須虜圍合,然後與戰;若欲班師,慶之別有密敕。」仲宗壯其計,乃從之。魏人掎角作十三城,慶之陷其四壘。九城兵甲猶盛,乃陳其俘馘,鼓噪攻之,遂奔潰,斬獲略盡,渦水咽流。詔以渦陽之地置西徐州。眾軍乘勝前頓城父。武帝嘉焉,手詔慰勉之。

大通初め、魏の北海王元顥来たりて降る。武帝慶之を以て仮節・飆勇将軍と為し、顥を送りて還って北に至らしむ。顥渙水に於いて即ち魏帝の号を称し、慶之に前軍大都督を授く。銍県より進み、遂に睢陽に至る。魏将丘大千衆七万有り、分かちて九壘を築きて以て拒ぐ。慶之旦より申に至るまで、其の三を攻め陥し、大千乃ち降る。

原文大通初,魏北海王元顥來降,武帝以慶之為假節、飆勇將軍,送顥還北。顥于渙水即魏帝號,授慶之前軍大都督。自銍縣進,遂至睢陽。魏將丘大千有眾七萬,分築九壘以拒。慶之自旦至申,攻陷其三,大千乃降。

時に魏の済陰王元暉業、羽林庶子二万人を率いて来たりて梁・宋を救い、進みて考城に屯す。慶之其の城を攻め陥し、暉業を禽え、仍く大梁に趣く。顥慶之を徐州刺史・武都郡王に進め、仍く衆を率いて西す。

原文時魏濟陰王元暉業率羽林庶子二萬人來救梁、宋,進屯考城。慶之攻陷其城,禽暉業,仍趣大梁。顥進慶之徐州刺史、武都郡王,仍率眾而西。

魏の左僕射楊昱等、禦仗羽林宗子庶子の衆七万を率いて滎陽を据え顥を拒ぐ。兵強く城固し。魏将元天穆の大軍復た将に至らんとす。先ず其の驃騎将軍爾朱兆・騎将魯安等を遣わし楊昱を援け、又右僕射爾朱世隆・西荊州刺史王羆を遣わし虎牢を据う。時に滎陽未だ抜けず、士衆皆恐る。慶之乃ち鞍を解き馬に秣し、衆に宣げて曰く、「我らが才七千有るのみ。賊衆四十余万。今日の事、義存を図らず。須らく其の城壘を平げん」と。一鼓に悉く登城せしめ、壮士東陽の宋景休・義興の魚天湣堞を踰えて入り、遂に之を克つ。俄かに魏陣外に合す。慶之精兵三千を率いて大いに之を破る。魯安陣に於いて降を乞う。天穆・兆単騎にて免るるを得。進みて虎牢に赴く。爾朱世隆城を棄てて走る。魏の孝庄河北に出で居す。其の臨淮王彧・安豊王延明、百僚を率いて法駕を備え顥を迎えて洛陽宮に入れ、前殿に御し、元を改め大赦す。顥慶之を以て車騎大将軍と為す。

原文魏左僕射楊昱等率禦仗羽林宗子庶子眾七萬據滎陽拒顥,兵強城固,魏將元天穆大軍復將至,先遣其驃騎將軍爾朱兆、騎將魯安等援楊昱,又遣右僕射爾朱世隆、西荊州刺史王羆據虎牢。時滎陽未拔,士眾皆恐。慶之乃解鞍秣馬,宣喻眾曰:「我等才有七千,賊眾四十餘萬。今日之事,義不圖存,須平其城壘。」一鼓悉使登城,壯士東陽宋景休、義興魚天湣踰堞而入,遂克之。俄而魏陣外合,慶之率精兵三千大破之。魯安於陣乞降,天穆、兆單騎獲免。進赴虎牢,爾朱世隆棄城走。魏孝莊出居河北。其臨淮王彧、安豐王延明率百僚備法駕迎顥入洛陽宮,御前殿,改元大赦。顥以慶之為車騎大將軍。

魏の上党王元天穆又大梁を攻め抜き、分かちて王老生・費穆を遣わし虎牢を据え、刁宣・刁双を梁・宋に入らしむ。慶之方に随い掩襲し、並びに降る。天穆十余騎と共に北して河を度る。慶之の麾下悉く白袍を著け、向かう所靡かず。先に洛中に謡有りて曰く、「名軍大将自ら牢るる莫れ、千兵万馬白袍を避く」と。銍県を発し洛陽に至るまで、十四旬にして三十二城を平げ、四十七戦し、向かう所前に敵無し。

原文魏上党王元天穆又攻拔大梁,分遣王老生、費穆據虎牢,刁宣、刁雙入梁、宋,慶之隨方掩襲,並降,天穆與十餘騎北度河。慶之麾下悉著白袍,所向披靡。先是洛中謠曰:「名軍大將莫自牢,千兵萬馬避白袍。」自發銍縣至洛陽,十四旬平三十二城,四十七戰,所向無前。

初め、魏の荘帝単騎河を度り、宮衛嬪侍常に改まる無し。顥既に志を得て、酒色に荒み、復た事を視ず。安豊・臨淮と計りて将に梁に背かんとす。時に事未だ安からず、且つ慶之の力用を資く。慶之心に之を知り、乃ち顥に説きて曰く、「今遠来此に至り、未だ伏せざる尚ほ多し。宜しく天子に啓し、更に精兵を請うべし。並びに諸州に勒し、此に没する南人の有る者は、悉く部送を須うべし」と。

原文初,魏莊帝單騎度河,宮衛嬪侍無改于常。顥既得志,荒於酒色,不復視事,與安豐、臨淮計將背梁,以時事未安,且資慶之力用。慶之心知之,乃說顥曰:「今遠來至此,未伏尚多,宜啟天子,更請精兵;並勒諸州有南人沒此者,悉須部送。」

顥之に従わんと欲す。元延明顥に説きて曰く、「慶之の兵数千を出でず、已に自ら制し難し。今更に其の衆を増さば、寧く肯て用いられんや。魏の宗社、斯に於いて滅ぶ」と。顥是に由りて慶之を疑い、乃ち密かに武帝に啓して軍を停めしむ。洛下の南人一万を出でず、魏人は十倍す。軍副馬仏念慶之に言いて曰く、「勲高くして賞せられず、主を震わして身危うし。二事既に有り、将軍豈に慮無からんや。今将軍威中原に震い、声河塞に動く。顥を屠り洛を据うれば、則ち千載一時なり」と。慶之従わず。顥前に慶之を以て徐州刺史と為し、因りて之を鎮せんことを求む。顥心に之を憚り、遂に遣わさず。

原文顥欲從之,元延明說顥曰:「慶之兵不出數千,已自難制,今更增其眾,寧肯為用?魏之宗社,於斯而滅。」顥由是疑慶之,乃密啟武帝停軍。洛下南人不出一萬,魏人十倍。軍副馬佛念言于慶之曰:「勳高不賞,震主身危,二事既有,將軍豈得無慮?今將軍威震中原,聲動河塞,屠顥據洛,則千載一時。」慶之不從。顥前以慶之為徐州刺史,因求之鎮,顥心憚之,遂不遣。

魏の将軍爾朱栄、爾朱世隆、元天穆、爾朱兆ら、その衆号百万、魏帝を挟んで来たりて顥を攻む。顥は洛陽に拠ること六十五日、凡そ得たる城は一時に魏に帰す。慶之は河を渡りて北中郎城を守る。三日の間に十一戦し、傷殺甚だ衆し。栄は退き還らんとす。時に天文学に善き者劉霊助あり、栄に謂ひて曰く、「十日を出でずして、河南大いに定まれり」と。栄乃ち筏を為りて硤石より自ら済ひ、顥と河橋に戦ふ。顥大いに敗れ、走りて臨潁に至りて禽らる。洛陽復た魏に入る。慶之は馬歩数千を以て陣を結び東へ反る。栄自ら来たりて追ひ、軍人は死散す。慶之乃ち鬚髪を落として沙門と為り、間行して豫州に至る。州人程道雍ら潜かに送り出だして汝陰に至らしむ。都に至り、仍ひて功を以て右衛将軍を除し、永興侯に封ぜらる。

原文魏將爾朱榮、爾朱世隆、元天穆、爾朱兆等眾號百萬,挾魏帝來攻顥。顥據洛陽六十五日,凡所得城一時歸魏,慶之度河守北中郎城。三日十一戰,傷殺甚眾。榮將退還,時有善天文人劉靈助謂榮曰:「不出十日,河南大定。」榮乃為伐濟自硤石,與顥戰於河橋。顥大敗,走至臨潁被禽,洛陽復入魏。慶之馬步數千結陣東反,榮親自來追,軍人死散。慶之乃落鬚髮為沙門,間行至豫州,州人程道雍等潛送出汝陰。至都,仍以功除右衛將軍,封永興侯。

北兗州刺史・都督縁淮諸軍事として出づ。会に祅賊の沙門僧強自ら帝を称し、土豪蔡伯寵兵を起こして之に応じ、北徐州を攻め陥す。詔して慶之に討たしむ。慶之は伯寵・僧強を斬り、其の首を伝ふ。

原文出為北兗州刺史、都督緣淮諸軍事。會有祅賊沙門僧強自稱為帝,土豪蔡伯寵起兵應之,攻陷北徐州。詔慶之討焉。慶之斬伯寵、僧強,傳其首。

中大通二年、南北司二州刺史を除し、都督を加ふ。慶之鎮に至り、遂に縣瓠を囲み、魏の潁州刺史婁起・揚州刺史是雲寶を溱水に破る。又行台孫騰・豫州刺史堯雄・梁州刺史司馬恭を楚城に破る。義陽の鎮兵を罷め、水陸の転運を停め、江湘諸州並びに休息を得しむ。田六千頃を開き、二年の後、倉廩充実す。又表して南司州を省き、安陸郡を復し、上明郡を置く。

原文中大通二年,除南北司二州刺史,加都督。慶之至鎮,遂圍縣瓠,破魏潁州刺史婁起、揚州刺史是雲寶于溱水。又破行台孫騰、豫州刺史堯雄、梁州刺史司馬恭于楚城。罷義陽鎮兵,停水陸轉運,江湘諸州並得休息。開田六千頃,二年之後,倉廩充實。又表省南司州,復安陸郡,置上明郡。

大同二年、魏は将侯景を遣はして楚州を攻め下し、刺史桓和を執る。景仍ひて軍を進めて淮上に至る。慶之之を破る。時に大寒雪、景は輜重しちょうを棄てて走る。是の歳豫州饑ふ。慶之倉を開きて振給し、多く全済す。州人李升ら八百人表して碑を樹て徳を頌せんことを求め、詔して之を許す。五年卒す。諡して武と曰ふ。

原文大同二年,魏遣將侯景攻下楚州,執刺史桓和。景仍進軍淮上,慶之破之。時大寒雪,景棄輜重走。是歲豫州饑,慶之開倉振給,多所全濟。州人李升等八百人表求樹碑頌德,詔許焉。五年卒,諡曰武。

慶之の性祗慎にして、詔勅を奉ずる毎に、必ず沐浴して拝受す。儉素にして紈綺を衣とせず、絲竹を好まず。射は劄を穿たず、馬は便ならざるも、軍士を撫でるに善く、能く其の死力を得たり。長子昭嗣ぐ。

原文慶之性祗慎,每奉詔敕,必洗沐拜受。儉素不衣紈綺,不好絲竹。射不穿劄,馬非所便,而善撫軍士,能得其死力。長子昭嗣。

梁の世、寒門にして達する者は唯だ慶之と俞藥と有り。藥初め武帝の左右と為り、帝之に謂ひて曰く、「俞氏に先賢無し、世人『俞錢』と云ふ、君子の宜しくすべきに非ず、姓を改めて喻とせよ」と。藥曰く、「当に姓を臣に於いて自からせしむべし」と。歴位して雲旗将軍、安州刺史。

原文梁世寒門達者唯慶之與俞藥,藥初為武帝左右,帝謂曰:「俞氏無先賢,世人云'俞錢',非君子所宜,改姓喻。」藥曰:「當令姓自於臣。」歷位雲旗將軍,安州刺史。

慶之の第五子昕、字は君章、七歳にして騎射能くす。十二にして父に随ひて洛に入り、疾に遇ひて都に還り、鴻臚卿朱異に詣る。異北間の事を訪ふ。昕は土を聚めて城を畫き、指麾分別す。異甚だ之を奇とす。

原文慶之第五子昕字君章,七歲能騎射。十二隨父入洛,遇疾還都,詣鴻臚卿朱異。異訪北間事,昕聚土畫城,指麾分別,異甚奇之。

慶之縣瓠に在りし時、魏の驍将堯雄の子宝樂、特だ敢勇を為し、単騎に校戦を求めしに、昕は馬を躍らせて直ちに宝樂に趣く。雄即ち潰散す。後に臨川太守と為る。

原文慶之在縣瓠,魏驍將堯雄子寶樂特為敢勇,求單騎校戰,昕躍馬直趣寶樂,雄即潰散。後為臨川太守。

太清二年、侯景曆陽を囲む。勅して昕を召し還す。昕啓して云く、「採石急に重鎮を須ふ。王質の水軍軽弱、恐らくは虜必ず済はん」と。乃ち昕を板して雲騎将軍と為し質に代はらしむ。未だ渚を下らざるに、景已に江を度る。景に禽らる。部曲ぶきょくを収集して之を用ひんことを令す。昕誓して許さず。景其の儀同範桃棒をして厳しく之を禁ぜしむ。昕因りて桃棒を説き、率ひて所領をして帰降せしめ、王偉・宋子仙を襲ひ殺さしむ。桃棒之を許す。遂に盟を立てて城中に射し、昕を遣はして夜縋りて入らしむ。武帝大いに喜び、勅して即ち降を受くべし。簡文は疑ひを遲らせ、累日決せず。外に事泄る。昕之を知らず、猶ほ期に依りて下る。景邀へて之を得、昕を逼りて更に書を城中に射しむることを令す。云く、「桃棒且つ軽く将数十人を率ひて先に入らん」と。景は甲を裹きて之に随はんと欲す。昕従はず、遂に見害さる。

原文太清二年,侯景圍曆陽,敕召昕還。昕啟云:「採石急須重鎮,王質水軍輕弱,恐虜必濟。」乃板昕為雲騎將軍代質,未及下渚,景已度江,為景所禽。令收集部曲將用之,昕誓而不許。景使其儀同範桃棒嚴禁之,昕因說桃棒令率所領歸降,襲殺王偉、宋子仙。桃棒許之。遂立盟射城中,遣昕夜縋而入。武帝大喜,敕即受降。簡文遲疑,累日不決。外事泄,昕弗之知,猶依期而下。景邀得之,逼昕令更射書城中,云:「桃棒且輕將數十人先入」。景欲裹甲隨之。昕不從,遂見害。

少弟 暄

原文少弟 暄

少弟暄、学び師の受くるに師はず、文才俊逸なり。尤も酒を嗜み、節操無く、遍く王公の門を歴り、沈湎喧譊し、過差度を非とす。其の兄の子秀常に之を憂ひ、暄の友人何胥に書を致し、以て諷諫せんことを冀ふ。暄之を聞き、秀に与ふる書に曰く。

原文少弟暄,學不師受,文才俊逸。尤嗜酒,無節操,遍曆王公門,沈湎喧譊,過差非度。其兄子秀常憂之,致書于暄友人何胥,冀以諷諫。暄聞之,與秀書曰:

旦に汝の書孝典に与ふるを見る。吾が飲酒の過差を陳ぶ。吾此の好有ること五十餘年、昔吳國の張長公も亦耽嗜と称す。吾張を見し時、伊已に六十、自ら満を引くこと大いに少年の時に勝ると言ふ。吾今の進むる所も亦往日より多し。老いて弥篤し、唯だ吾と張季舒のみ。吾方に此の子と地下に交歓せんとす。汝吾が志を夭せんと欲するか。昔阮咸・阮籍同じく竹林に游ぶも、宣子は斯の言を聞かず。王湛能く玄言巧騎すれども、武子呼んで癡叔と為す。何ぞ陳留の風嗣がず、太原の気巋然たり、翻って怪しむ可きと成す。

原文旦見汝書與孝典,陳吾飲酒過差。吾有此好五十餘年,昔吳國張長公亦稱耽嗜,吾見張時,伊已六十,自言引滿大勝少年時。吾今所進亦多於往日。老而彌篤,唯吾與張季舒耳。吾方與此子交歡於地下,汝欲夭吾所志邪?昔阮咸、阮籍同游竹林,宣子不聞斯言。王湛能玄言巧騎,武子呼為癡叔。何陳留之風不嗣,太原之氣巋然,翻成可怪!

吾既に当世に寂漠たり、朽病の残年、産は顔原に異ならず、名は卿相に動かされず。若し日々醇酒を飲まずんば、復た安くにか帰らんと欲せん。汝は飲酒を以て非と為し、吾は飲酒せざるを以て過と為す。昔周伯仁江を度るに唯だ三日醒むるのみ、吾以て少なしとせず。鄭康成一飲三百杯、吾以て多しとせず。然れども洪酔の後、得有り失有り。塚養の志を成すは是れ其の得なり。次公の狂を為さしむるは是れ其の失なり。吾常に譬ふ酒の猶ほ水の如きを、亦舟を済す可く、亦舟を覆す可しと。故に江諮議言有り、「酒は猶ほ兵の如し。兵は千日を用ひずと雖も可なり、一日備へずと雖も不可なり。酒は千日飲まずと雖も可なり、一飲して酔はずと雖も不可なり」と。美なるかな江公、与に酒を論ず可し。汝は吾が墯馬侍中の門に驚き、池武陵の第に陷り、朝野に遍佈し、自ら焦悚を言ふを驚く。「丘や幸なり、苟くも過有らば、人必ず之を知る」。吾が生平の願、身没の後、吾が墓に題して云はしむ、「陳故の酒徒陳君の神道」と。斯の志意、豈に南征の復たせざるを避け、賈誼の慟哭する者を避けんや。何水曹は眼杯鐺を識らず、吾は口瓢杓を離れず。汝は寧ろ何と同日に醒め、吾と同日に酔はんか。政に其の醒むるは及ぶ可く、其の酔ふるは及ぶ可からざるを言ふ。速やかに糟丘を営め、吾将に老いんとす。爾多く言ふ無かれ、爾の及ぶ所に非ず。

原文吾既寂漠當世,朽病殘年,產不異于顏原,名未動於卿相,若不日飲醇酒,復欲安歸?汝以飲酒為非,吾以不飲酒為過。昔周伯仁度江唯三日醒,吾不以為少;鄭康成一飲三百杯,吾不以為多。然洪醉之後,有得有失。成塚養之志,是其得也;使次公之狂,是其失也。吾常譬酒之猶水,亦可以濟舟,亦可以覆舟。故江諮議有言:「酒猶兵也。兵可千日而不用,不可一日而不備。酒可千日而不飲,不可一飲而不醉。」美哉江公,可與共論酒矣。汝驚吾墯馬侍中之門,陷池武陵之第,遍佈朝野,自言焦悚。「丘也幸,苟有過,人必知之」。吾生平所願,身沒之後,題吾墓云:「陳故酒徒陳君之神道」。若斯志意,豈避南征之不復,賈誼之慟哭者哉。何水曹眼不識杯鐺,吾口不離瓢杓,汝甯與何同日而醒,與吾同日而醉乎?政言其醒可及,其醉不可及也。速營糟丘,吾將老焉。爾無多言,非爾所及。

暄は落魄として中正の品せざる所と為り、久しく調を得ず。陳の天康中、徐陵吏部尚書と為り、人物を精簡す。縉紳の士皆向慕す。暄は玉帽簪を以て髻に插し、紅絲布を以て頭を裹き、袍は踝に拂ひ、靴は膝に至り、爵裏を陳べず、直ちに上りて陵の坐に就く。陵之を識らず、吏を命じて持し下らしむ。暄徐歩して出で、挙止自若として、竟に怍るる容無し。書を作りて陵を謗る。陵甚だ之を病む。

原文暄以落魄不為中正所品,久不得調。陳天康中,徐陵為吏部尚書,精簡人物,縉紳之士皆向慕焉。暄以玉帽簪插髻,紅絲布裹頭,袍拂踝,靴至膝,不陳爵裏,直上陵坐。陵不之識,命吏持下。暄徐步而出,舉止自若,竟無怍容。作書謗陵,陵甚病之。

後主が東宮に在った時、陳暄を学士に引き立てた。即位すると、通直散騎常侍に昇進させ、義陽王叔達・尚書孔范・度支尚書袁権・侍中王瑳・金紫光祿大夫陳褒・御史中丞沈瓘・散騎常侍王儀らと共に常に禁中に入り、遊宴に陪侍し、狎客と呼ばれた。暄は元来通脱の性で、俳優を以て自ら任じ、文章は諧謬、言語に節度なく、後主は甚だ親昵しながらも軽侮した。嘗て梁に逆さに吊るし、刃を臨めて、賦を作らせ、なおかつ日時を限った。暄は筆を援れば即座に成し、これを病とせず、却って傲弄ますます甚だしくなった。後主は次第に容れることができなくなり、後に遂に艾を搏って帽とし、その首に加え、火を以て燃やし、然して髪に及んだ。暄は泣きながら哀願し、声は外に聞こえたが、後主はこれを釈放しなかった。時に衛尉卿柳莊が座に在り、急ぎ起きてこれを撥ね除け、拝謝して言うには、「陳暄に罪はありません。臣は陛下が人を弄ぶ過失があることを恐れ、即座に矯ってこれを赦します。軽率な罪は、謹んで刑罰をお待ちします」と。後主は元来莊を重んじていたので、怒りが少し解け、暄を引き出せと命じ、莊を就座させた。数日を経て、暄は心悸を発して死んだ。

原文後主之在東宮,引為學士。及即位,遷通直散騎常侍,與義陽王叔達、尚書孔范、度支尚書袁權、侍中王瑳、金紫光祿大夫陳褒、御史中丞沈瓘、散騎常侍王儀等恒入禁中陪侍遊宴,謂為狎客。暄素通脫,以俳優自居,文章諧謬,語言不節,後主甚親昵而輕侮之。嘗倒縣于梁,臨之以刃,命使作賦,仍限以晷刻。暄援筆即成,不以為病,而傲弄轉甚。後主稍不能容,後遂搏艾為帽,加於其首,火以爇之,然及於發,垂泣求哀,聲聞於外而弗之釋。會衛尉卿柳莊在坐,遽起撥之,拜謝曰:「陳暄無罪,臣恐陛下有翫人之失,輒矯赦之。造次之愆,伏待刑憲。」後主素重莊,意稍解,敕引暄出,命莊就坐。經數日,暄發悸而死。

蘭欽

原文蘭欽

蘭欽、字は休明、中昌魏の人である。幼少より果決で、趫捷人に過ぎた。宋末に父の子雲に従って洛陽に在り、常に市で駱駝に乗っていた。後に子雲が南に帰り、梁の天監年間に軍功によって冀州刺史に至った。欽は文德主帥を兼ね、南中の五郡諸洞の反乱する者を征討し、赴く所全て平定した。

原文蘭欽字休明,中昌魏人也。幼而果決,趫捷過人。宋末隨父子雲在洛陽,恒於市騎橐駝。後子雲還南,梁天監中以軍功至冀州刺史。欽兼文德主帥,征南中五郡諸洞反者,所至皆平。

欽は謀略有り、勇決にして戦を善くし、歩行一日に二百里、勇武人に過ぎた。撫馭を善くし、人の死力を得た。軍功によって安懷県男に封ぜられ、累遷して都督・梁南秦二州刺史となり、爵を侯に進めた。

原文欽有謀略,勇決善戰,步行日二百里,勇武過人。善撫馭,得人死力。以軍功封安懷縣男。累遷都督、梁南秦二州刺史,進爵為侯。

梁・漢を征討し、事が平定すると、智武將軍の号を進められた。都督・衡州刺史に改めて授けられた。述職に及ばない内に、西魏が南鄭を攻囲したため、梁州刺史杜懷寶が救援を請いに来た。欽は乃ち大いに魏軍を破り、斜穀に追い入り、斬り獲ること略んど尽きた。魏の相・安定公は馬二千匹を送り、隣好を結ぶことを請うた。欽は百日の内に再び魏軍を破り、威は鄰国に振るった。詔して散騎常侍を加え、なおかつ述職を命じた。

原文征梁、漢,事平,進號智武將軍。改授都督、衡州刺史。未及述職,會西魏攻圍南鄭,梁州刺史杜懷寶來請救,欽乃大破魏軍,追入斜穀,斬獲略盡。魏相安定公遣致馬二千疋,請結鄰好。欽百日之中再破魏軍,威振鄰國。詔加散騎常侍,仍令述職。

広州を経由し、俚帥の陳文徹兄弟を破り、併せてこれを擒らえた。衡州に至り、平南將軍の号を進められ、曲江県公に改封された。州にあっては恵政有り、吏民が闕に詣でて碑を立て徳を頌することを請うた。詔してこれを許した。

原文經廣州,因破俚帥陳文徹兄弟,並禽之。至衡州,進號平南將軍,改封曲江縣公。在州有惠政,吏人詣闕請立碑頌德,詔許焉。

後に広州刺史となった。前刺史の新渝侯蕭映が薨じ、南安侯蕭恬が州事を行い、即真を得ることを冀っていた。欽が嶺に至ったと聞くと、厨人に賄賂を贈り、刀に毒を塗り、瓜を削って進めた。欽及び愛妾は共に死んだ。帝は聞いて大いに怒り、檻車で恬を収め、爵土を削った。

原文後為廣州刺史。前刺史新渝侯映之薨,南安侯恬權行州事,冀得即真。及聞欽至嶺,原貨廚人,塗刀以毒,削瓜進之,欽及愛妾俱死。帝聞大怒,檻車收恬,削爵土。

欽の子の夏禮は、侯景が歴陽に至ると、その部曲を率いて景を邀え撃ち、兵敗れて死んだ。

原文欽子夏禮,侯景至曆陽,率其部曲邀景,兵敗死之。

論じて曰く、陳伯之は軽狡を心としながらも、勇勁自立し、その爵位に累なること、蓋し由有り。喪乱既に平らぎて後、去就已まず、卒にその死を得たるは、亦た幸いなるかな。慶之は初めは燕雀の遊を同じくし、終に鴻鵠の志を懐き、任委を見るに及んで、長駆して伊・洛に至る。前に強陣無く、攻むるに堅城靡かず。南風競わずと雖も、晩に傾覆を致すも、その克捷する所、亦た称すべきなり。蘭欽は戦に先鳴有り、位は虚受に非ず、終に鴆毒に逢う、唯だ命なるか。

原文論曰:陳伯之雖輕狡為心,而勇勁自立,其累至爵位,蓋有由焉。及喪亂既平,去就不已,卒得其死,亦為幸哉。慶之初同燕雀之遊,終懷鴻鵠之志,及乎一見任委,長驅伊、洛。前無強陣,攻靡堅城,雖南風不競,晚致傾覆,其所克捷,亦足稱之。蘭欽戰有先鳴,位非虛受,終逢鴆毒,唯命也夫。