南史
巻六十一より巻六十二
列伝第五十一
陳伯之
陳伯之は、済陰郡睢陵県の人である。十三、四歳の頃、獺の皮の冠を好んでかぶり、刺刀を帯び、近隣の田の稲が熟するのを待っては、しばしば盗み刈りした。かつて田主に見つかり、叱責されて「楚の奴め、動くな」と言われると、伯之は「あなたの稲は幸い多く、一担取ったところで何の苦があろう」と言った。田主が捕らえようとすると、刀を抜いて進み出て、「楚の奴め、いったいどうするつもりだ」と言った。田主は皆、逆に逃げ出し、伯之はゆっくりと稲を担いで帰った。年が長ずると、鍾離でたびたび強盗を働き、かつて顔を隠して人の船を窺ったところ、船人がこれを斬りつけ、その左耳を取られた。後に同郷の車騎将軍王広之に従い、広之はその勇を愛し、毎夜寝床の下に寝かせ、征伐の際には常に自ら率いて従わせた。たびたび戦功により、累進して驃騎司馬となり、魚復県伯に封ぜられた。
梁の武帝が兵を起こすと、東昏侯は伯之に節を与え、前駆諸軍事・ 豫 州刺史を督させ、江州に転じて尋陽に拠り、梁の武帝に抵抗させた。郢城が平定されると、武帝は人を遣わして伯之を説得し、すぐに江州刺史とした。子の武牙は徐州刺史とした。伯之は命を受けたものの、なお両端を懐いていた。帝はそのためらいに付け込み、これを追い詰めると、伯之は南湖に退いて守り、その後帰順し、諸軍とともに東下した。建康城が未だ平定されないうち、降伏者が出るたびに、伯之は呼び寄せて耳打ちした。帝は彼が再び翻覆を企てているのではないかと疑い、おりしも東昏侯の将鄭伯倫が降伏したので、帝は彼を伯之のもとへ通わせ、「城中は卿を非常に恨んでおり、使いを遣わして卿を誘い、卿が降伏したならば、生きたまま卿の手足を切り刻もうとしている。卿が降伏しなければ、また刺客を遣わして卿を殺そうとしている」と言わせた。伯之は大いに恐れ、これ以降異心を抱かなくなった。城が平定されると、豊城県公に封ぜられ、鎮守に派遣された。
伯之は文字を知らず、江州に戻ってからも、文書や訴訟の書類を得ても、ただ大きく「諾」と書くだけであった。用事があると、典簽が口頭で伝え、賞罰の決定は主な者に委ねられた。
伯之は 豫 章の人鄧繕、永興の人戴承忠とともに旧知の間柄であり、繕はかつて伯之の息子を匿って禍を免れさせたことがあり、伯之は特にその恩を感じていた。州に在任すると、繕を別駕に任用し、承忠を記室参軍とした。河南の褚緭は、都下で品行の卑しい者であったが、武帝が即位すると、たびたび尚書の范雲を訪ねた。雲は緭を好まず、堅く拒絶した。緭はますます怒り、知人に私的に語って言うには、「建武(斉の明帝の年号)以後、草莽の卑賤の者まで皆貴人となった。私は何の罪があって見捨てられるのか。今、天下は草創期で、喪乱がどうなるか分からない。陳伯之が強兵を擁して江州におり、代々仕えてきた臣下ではなく、自ら疑う心を持っている。しかもまた熒惑(火星)が南斗を守っているが、まさか私のために現れたのではあるまいか。今、一行して、事が成らなければ、魏に入ろう。河南郡の太守になるのに何の劣ることがあろうか」と。そこで伯之の書佐の王思穆に身を寄せて仕え、大いに親しくされた。また伯之の同郷の朱龍符が長流参軍となり、ともに伯之の愚昧につけ込み、好き勝手に奸悪なことを行った。
伯之の子の武牙は当時直閤将軍であったが、武帝は龍符の罪状を自ら書き記して武牙に渡し、武牙は封をして伯之に見せた。帝はまた江州別駕の鄧繕の代官を派遣したが、伯之はともにこれを受けず、「龍符は健児であり、鄧繕は職務に実績がある。台(朝廷)が派遣した別駕は、中従事として任用させていただきたい」と言った。繕はそこで日夜、伯之に説いて言うには、「朝廷の府庫は空っぽで、もはや武器もなく、三倉(太倉・左右蔵)には米がない。これは万世に一度の機会であり、逃すべきではない」と。緭や承忠らもたびたびこれを支持した。伯之は繕に言った、「今度は卿のために上奏するが、もしまた認められなければ、卿とともに東下しよう」。使いが戻ると、武帝は管内の一郡に繕を処置するよう命じた。伯之はそこで府州の佐史を集め、言った、「斉の建安王(蕭寶寅)の教えを奉じ、江北の義勇十万を率いてすでに六合に駐屯し、江州の現有兵力で糧食を運び速やかに東下するよう、私を使者として遣わされた。私は明帝の厚恩を受け、死をもって報いることを誓う」。そして緭に蕭寶寅の偽の書簡を作らせて僚佐に見せ、聴事堂の前に壇を築き、生贄を殺して盟を結んだ。伯之がまず血をすすり、長史以下が順にすすった。緭は伯之に説いて言った、「今、大事を挙げるにあたり、人望を集めるべきである。程元沖は人と心を一つにせず、臨川内史の王観は王僧虔の孫で、人となりが悪くない。彼を召し出して長史とし、元沖の代わりとすべきである」。伯之はこれに従い、さらに緭を尋陽太守とし、承忠を輔義将軍、龍符を 豫 州刺史とした。
豫 章太守の鄭伯倫は郡兵を起こして防戦した。程元沖は職を失った後、家で数百人を集め、伯之の典簽である呂孝通と戴元則を内応させた。伯之は毎朝、常に芸能を楽しみ、日が暮れるとすぐに寝てしまい、左右の仗身(護衛)も休息していた。元沖はその緩みに乗じ、北門から入り、まっすぐに聴事堂の前に至った。伯之は叫び声を聞き、自ら出て掃討した。元沖は力及ばず、逃れて廬山に走った。
伯之は使いを遣わして武牙兄弟に返報させたが、武牙らは盱眙に逃げ、盱眙の人徐文安、莊興紹、張顯明がこれを迎え撃ったが、止めることができず、逆に殺された。武帝は王茂を遣わして伯之を討たせ、伯之は敗走し、間道から命からがら江北に逃れ出て、子の武牙および褚緭とともに魏に入った。魏は伯之を使持節・ 散騎常侍 ・ 都督 淮南諸軍事・平南将軍・光禄大夫・曲江県侯とした。天監四年、詔により太尉臨川王蕭宏が北侵し、宏は記室の丘遲に命じて密かに伯之に手紙を書かせた。その文は以下の通りである。
陳将軍の足下、恙なく、幸いである、幸いである。将軍の勇は三軍に冠たり、才は世に出でたるものなり。燕雀の毛羽を棄て、鴻鵠に慕いて高く翔らんことを願う。昔、機に因りて変化し、時主に遭遇し、功を立て事を立て、国を開きて孤を称し、朱輪に華轂を飾り、旄を擁して万里を治むること、何と壮んなるかな。如何ぞ一旦にして奔亡の虜となり、鳴鏑を聞いて股は戦い、穹廬に対し膝を屈するに至るや、又何と劣れることか。君が去就の際を尋ぬるに、他に故あるにあらず、ただ内に己を審らかにせず、外に流言を受け、沈迷して猖蹶し、以て此に至れるのみ。
聖朝は罪を赦し功を責め、瑕を棄てて用いを録し、赤心を天下に推し、反側を万物に安んず。これは将軍の知るところにして、僕が一二を談ずるに仮るにあらざるなり。昔、朱鮪は友于(兄弟)に血を 渉 み、張繡は愛子に刃を 倳 てしも、漢主は疑いとせず、魏君は旧の如く之を待つ。況んや将軍には昔人の罪なくして、勲は当代に重きを加うるに於いてをや。夫れ迷途に反るを知るは、往哲の是とするところ、遠からずして復るは、先典の高むる所なり。主上は法を屈して恩を申し、舟を吞むものも漏らす。将軍の松柏は翦られず、親戚は安らかに居り、高堂は未だ傾かず、愛妾は尚お在り。悠悠たる爾が心、亦何をか言わん。当今の功臣名将は、雁行の如く序あり、紫を佩び黄を懐き、帷幄の謀を賛し、軺に乗り節を建て、疆埸の任を奉ず。並びに刑馬して誓いを作し、子孫に伝う。将軍独り顔を靦きて命を借り、氈裘の長に駆馳するは、寧ろ哀しまざらんや。夫れ慕容超の強きを以てしても、身は東市に送られ、姚泓の盛んなるを以てしても、面は西都に縛さる。故に知る、霜露の均しくする所は、異類を育せず、姬漢の旧邦は、雑種を取らざることを。北虜は中原に号を僭し、多年を歴るも、悪積り禍盈ち、理、焦爛に至る。況んや偽りの 孽 なるもの昏く狡く、自ら相い夷戮し、部落は離れ携わり、酋豪は猜み貳す。まさに頸を蛮邸に繋ぎ、首を藁街に懸くべき時にあたりて、将軍は魚の沸鼎の中に游ぎ、燕の飛幕の上に巣くうが如く、亦惑わざらんや。
暮春三月、江南の草は長く、雑花は樹に生じ、群鸚乱れ飛ぶ。故国の旗鼓を見て、生平を疇日に感ず、弦を撫でて陴に登れば、豈に愴恨せざらんや。これゆえに廉公の趙将を思うは、呉子の西河に泣くは、人の情なり、将軍独り情無からんや。早く良規を励まし、自ら多福を求むるを想う。当今の皇帝盛明にして、天下安楽、白環は西より献じ、楛矢は東より来たり、夜郎・滇池は辮を解きて職を請い、朝鮮・昌海は角を蹶いて化を受く。ただ北狄のみ野心を抱き、沙塞の間に掘強して、歳月の命を延ばさんと欲するのみ。中軍臨川殿下は、明徳茂親にして、茲に戎重を総べ、方に人を洛汭に吊い、罪を秦中に伐たんとす。若し遂に改めずば、方に僕の言を思わん。聊か往懐を布し、君其れ之を詳にせよ。伯之書を得て、乃ち寿陽に於いて衆八千を擁して帰降す。武牙は魏人に殺さる。伯之既に至り、平北将軍・西 豫 州刺史・永新県侯と為す。未だ之に任ぜず。復た 驍 騎将軍と為り、又太中大夫と為る。久しくして、家に卒す。其の子猶お魏に在る者有り。
褚緭は魏に在り、魏人之を用いんと欲す。魏の元会に、緭戯れに詩を為して曰く、「帽上に籠冠を著け、袴上に朱衣を著く、今是なるを知らず、昔非なるを知らず」と。魏人怒り、出して始平太守と為す。日日行猟し、馬より堕ちて死す。
陳慶之
陳慶之、字は子雲、義興国山の人なり。幼くより梁の武帝に従う。帝は性碁を好み、毎に夜より旦に至るまで輟まず、等輩皆寐るも、唯だ慶之は寢ず、呼ばば即ち至り、甚だ親賞せらる。建鄴を平げるに従い、稍く主書と為り、財を散じ士を聚め、恒に立効を思う。奉朝請を除く。
普通年中、魏の徐州刺史元法僧、彭城に於いて内附を求めんとす。慶之を以て武威将軍と為し、胡龍牙・成景雋と諸軍を率いて応接す。還りて宣猛将軍・文德主帥を除し、仍く軍を率いて 豫 章王綜を徐州に入れて鎮せしむ。魏は安豊王元延明・臨淮王元彧を遣わし、衆十万を率いて来たりて拒ぐ。延明先ず其の別将丘大千を遣わし、兵を近境に観せしむ。慶之之を撃ち破る。後、 豫 章王軍を棄てて魏に奔る。慶之乃ち関を斬り夜退き、軍士全きを得る。
普通七年、安西将軍元樹寿春に出征す。慶之に仮節・総知軍事を除す。魏の 豫 州刺史李憲、其の子長鈞を遣わし別に両城を築きて相拒ぐ。慶之之を攻め抜き、憲力屈して遂に降る。慶之入りて其の城を据う。転じて東宮直閤と為る。
大通元年、領軍曹仲宗に隷し渦陽を伐つ。魏は常山王元昭等を遣わし来たりて援く。前軍駝澗に至り、渦陽を去ること四十里。韋放曰く、「賊の鋒必ず軽鋭なり、戦捷も功と為すに足らず。如し利あらずば、我が軍勢を沮す。撃たざるに如かず」と。慶之曰く、「魏人遠来し、皆已に疲倦せり。須らく其の気を挫くべし。必ず敗れざるの理無し」と。ここに於いて麾下五百騎を以て奔撃し、其の前軍を破る。魏人震恐す。慶之還りて諸将と共に連営して西進し、渦陽城を据え、魏と相持す。春より冬に至るまで、各数十百戦す。師老いて気衰え、魏の援兵復た軍後に於いて壘を築かんと欲す。仲宗等は腹背敵を受くるを恐れ、退くを謀る。慶之節を杖ちて軍門にて曰く、「須らく虜の囲み合うを待ち、然る後に戦うべし。若し班師せんと欲せば、慶之别に密勅有り」と。仲宗其の計を壮とし、乃ち之に従う。魏人は掎角して十三城を作る。慶之其の四壘を陥す。九城の兵甲猶お盛んなり。乃ち其の俘馘を陳べ、鼓噪して之を攻む。遂に奔潰し、斬獲略く尽き、渦水咽び流る。詔して渦陽の地を以て西徐州を置く。衆軍勝に乗じて前ち城父に頓す。武帝嘉しみて、手詔を以て之を慰勉す。
大通初め、魏の北海王元顥来たりて降る。武帝慶之を以て仮節・飆勇将軍と為し、顥を送りて還って北に至らしむ。顥渙水に於いて即ち魏帝の号を称し、慶之に前軍大 都督 を授く。銍県より進み、遂に睢陽に至る。魏将丘大千衆七万有り、分かちて九壘を築きて以て拒ぐ。慶之旦より申に至るまで、其の三を攻め陥し、大千乃ち降る。
時に魏の済陰王元暉業、羽林庶子二万人を率いて来たりて梁・宋を救い、進みて考城に屯す。慶之其の城を攻め陥し、暉業を禽え、仍く大梁に趣く。顥慶之を徐州刺史・武都郡王に進め、仍く衆を率いて西す。
魏の左僕射楊昱等、禦仗羽林宗子庶子の衆七万を率いて 滎陽 を据え顥を拒ぐ。兵強く城固し。魏将元天穆の大軍復た将に至らんとす。先ず其の驃騎将軍爾朱兆・騎将魯安等を遣わし楊昱を援け、又右僕射爾朱世隆・西荊州刺史王羆を遣わし虎牢を据う。時に 滎陽 未だ抜けず、士衆皆恐る。慶之乃ち鞍を解き馬に秣し、衆に宣げて曰く、「我らが才七千有るのみ。賊衆四十余万。今日の事、義存を図らず。須らく其の城壘を平げん」と。一鼓に悉く登城せしめ、壮士東陽の宋景休・義興の魚天湣堞を踰えて入り、遂に之を克つ。俄かに魏陣外に合す。慶之精兵三千を率いて大いに之を破る。魯安陣に於いて降を乞う。天穆・兆単騎にて免るるを得。進みて虎牢に赴く。爾朱世隆城を棄てて走る。魏の孝庄河北に出で居す。其の臨淮王彧・安豊王延明、百僚を率いて法駕を備え顥を迎えて洛陽宮に入れ、前殿に御し、元を改め大赦す。顥慶之を以て車騎大将軍と為す。
魏の上党王元天穆又大梁を攻め抜き、分かちて王老生・費穆を遣わし虎牢を据え、刁宣・刁双を梁・宋に入らしむ。慶之方に随い掩襲し、並びに降る。天穆十余騎と共に北して河を度る。慶之の麾下悉く白袍を著け、向かう所靡かず。先に洛中に謡有りて曰く、「名軍大将自ら牢るる莫れ、千兵万馬白袍を避く」と。銍県を発し洛陽に至るまで、十四旬にして三十二城を平げ、四十七戦し、向かう所前に敵無し。
初め、魏の荘帝単騎河を度り、宮衛嬪侍常に改まる無し。顥既に志を得て、酒色に荒み、復た事を視ず。安豊・臨淮と計りて将に梁に背かんとす。時に事未だ安からず、且つ慶之の力用を資く。慶之心に之を知り、乃ち顥に説きて曰く、「今遠来此に至り、未だ伏せざる尚ほ多し。宜しく天子に啓し、更に精兵を請うべし。並びに諸州に勒し、此に没する南人の有る者は、悉く部送を須うべし」と。
顥之に従わんと欲す。元延明顥に説きて曰く、「慶之の兵数千を出でず、已に自ら制し難し。今更に其の衆を増さば、寧く肯て用いられんや。魏の宗社、斯に於いて滅ぶ」と。顥是に由りて慶之を疑い、乃ち密かに武帝に啓して軍を停めしむ。洛下の南人一万を出でず、魏人は十倍す。軍副馬仏念慶之に言いて曰く、「勲高くして賞せられず、主を震わして身危うし。二事既に有り、将軍豈に慮無からんや。今将軍威中原に震い、声河塞に動く。顥を屠り洛を据うれば、則ち千載一時なり」と。慶之従わず。顥前に慶之を以て徐州刺史と為し、因りて之を鎮せんことを求む。顥心に之を憚り、遂に遣わさず。
魏の将軍爾朱栄、爾朱世隆、元天穆、爾朱兆ら、その衆号百万、魏帝を挟んで来たりて顥を攻む。顥は洛陽に拠ること六十五日、凡そ得たる城は一時に魏に帰す。慶之は河を渡りて北中郎城を守る。三日の間に十一戦し、傷殺甚だ衆し。栄は退き還らんとす。時に天文学に善き者劉霊助あり、栄に謂ひて曰く、「十日を出でずして、河南大いに定まれり」と。栄乃ち筏を為りて硤石より自ら済ひ、顥と河橋に戦ふ。顥大いに敗れ、走りて臨潁に至りて禽らる。洛陽復た魏に入る。慶之は馬歩数千を以て陣を結び東へ反る。栄自ら来たりて追ひ、軍人は死散す。慶之乃ち鬚髪を落として沙門と為り、間行して 豫 州に至る。州人程道雍ら潜かに送り出だして汝陰に至らしむ。都に至り、仍ひて功を以て右衛将軍を除し、永興侯に封ぜらる。
北兗州刺史・ 都督 縁淮諸軍事として出づ。会に祅賊の沙門僧強自ら帝を称し、土豪蔡伯寵兵を起こして之に応じ、北徐州を攻め陥す。詔して慶之に討たしむ。慶之は伯寵・僧強を斬り、其の首を伝ふ。
中大通二年、南北司二州刺史を除し、 都督 を加ふ。慶之鎮に至り、遂に縣瓠を囲み、魏の潁州刺史婁起・揚州刺史是雲寶を溱水に破る。又行台孫騰・ 豫 州刺史堯雄・梁州刺史司馬恭を楚城に破る。義陽の鎮兵を罷め、水陸の転運を停め、江湘諸州並びに休息を得しむ。田六千頃を開き、二年の後、倉廩充実す。又表して南司州を省き、安陸郡を復し、上明郡を置く。
大同二年、魏は将侯景を遣はして楚州を攻め下し、刺史桓和を執る。景仍ひて軍を進めて淮上に至る。慶之之を破る。時に大寒雪、景は輜重を棄てて走る。是の歳 豫 州饑ふ。慶之倉を開きて振給し、多く全済す。州人李升ら八百人表して碑を樹て徳を頌せんことを求め、詔して之を許す。五年卒す。諡して武と曰ふ。
慶之の性祗慎にして、詔勅を奉ずる毎に、必ず沐浴して拝受す。儉素にして紈綺を衣とせず、絲竹を好まず。射は劄を穿たず、馬は便ならざるも、軍士を撫でるに善く、能く其の死力を得たり。長子昭嗣ぐ。
梁の世、寒門にして達する者は唯だ慶之と俞藥と有り。藥初め武帝の左右と為り、帝之に謂ひて曰く、「俞氏に先賢無し、世人『俞錢』と云ふ、君子の宜しくすべきに非ず、姓を改めて喻とせよ」と。藥曰く、「当に姓を臣に於いて自からせしむべし」と。歴位して雲旗将軍、安州刺史。
慶之の第五子昕、字は君章、七歳にして騎射能くす。十二にして父に随ひて洛に入り、疾に遇ひて都に還り、鴻臚卿朱異に詣る。異北間の事を訪ふ。昕は土を聚めて城を畫き、指麾分別す。異甚だ之を奇とす。
慶之縣瓠に在りし時、魏の 驍 将堯雄の子宝樂、特だ敢勇を為し、単騎に校戦を求めしに、昕は馬を躍らせて直ちに宝樂に趣く。雄即ち潰散す。後に臨川太守と為る。
太清二年、侯景曆陽を囲む。勅して昕を召し還す。昕啓して云く、「採石急に重鎮を須ふ。王質の水軍軽弱、恐らくは虜必ず済はん」と。乃ち昕を板して雲騎将軍と為し質に代はらしむ。未だ渚を下らざるに、景已に江を度る。景に禽らる。部曲を収集して之を用ひんことを令す。昕誓して許さず。景其の儀同範桃棒をして厳しく之を禁ぜしむ。昕因りて桃棒を説き、率ひて所領をして帰降せしめ、王偉・宋子仙を襲ひ殺さしむ。桃棒之を許す。遂に盟を立てて城中に射し、昕を遣はして夜縋りて入らしむ。武帝大いに喜び、勅して即ち降を受くべし。簡文は疑ひを遲らせ、累日決せず。外に事泄る。昕之を知らず、猶ほ期に依りて下る。景邀へて之を得、昕を逼りて更に書を城中に射しむることを令す。云く、「桃棒且つ軽く将数十人を率ひて先に入らん」と。景は甲を裹きて之に随はんと欲す。昕従はず、遂に見害さる。
少弟 暄
少弟暄、学び師の受くるに師はず、文才俊逸なり。尤も酒を嗜み、節操無く、遍く王公の門を歴り、沈湎喧譊し、過差度を非とす。其の兄の子秀常に之を憂ひ、暄の友人何胥に書を致し、以て諷諫せんことを冀ふ。暄之を聞き、秀に与ふる書に曰く。
旦に汝の書孝典に与ふるを見る。吾が飲酒の過差を陳ぶ。吾此の好有ること五十餘年、昔吳國の張長公も亦耽嗜と称す。吾張を見し時、伊已に六十、自ら満を引くこと大いに少年の時に勝ると言ふ。吾今の進むる所も亦往日より多し。老いて弥篤し、唯だ吾と張季舒のみ。吾方に此の子と地下に交歓せんとす。汝吾が志を夭せんと欲するか。昔阮咸・阮籍同じく竹林に游ぶも、宣子は斯の言を聞かず。王湛能く玄言巧騎すれども、武子呼んで癡叔と為す。何ぞ陳留の風嗣がず、太原の気巋然たり、翻って怪しむ可きと成す。
吾既に当世に寂漠たり、朽病の残年、産は顔原に異ならず、名は卿相に動かされず。若し日々醇酒を飲まずんば、復た安くにか帰らんと欲せん。汝は飲酒を以て非と為し、吾は飲酒せざるを以て過と為す。昔周伯仁江を度るに唯だ三日醒むるのみ、吾以て少なしとせず。鄭康成一飲三百杯、吾以て多しとせず。然れども洪酔の後、得有り失有り。塚養の志を成すは是れ其の得なり。次公の狂を為さしむるは是れ其の失なり。吾常に譬ふ酒の猶ほ水の如きを、亦舟を済す可く、亦舟を覆す可しと。故に江諮議言有り、「酒は猶ほ兵の如し。兵は千日を用ひずと雖も可なり、一日備へずと雖も不可なり。酒は千日飲まずと雖も可なり、一飲して酔はずと雖も不可なり」と。美なるかな江公、与に酒を論ず可し。汝は吾が墯馬侍中の門に驚き、池武陵の第に陷り、朝野に遍佈し、自ら焦悚を言ふを驚く。「丘や幸なり、苟くも過有らば、人必ず之を知る」。吾が生平の願、身没の後、吾が墓に題して云はしむ、「陳故の酒徒陳君の神道」と。斯の志意、豈に南征の復たせざるを避け、賈誼の慟哭する者を避けんや。何水曹は眼杯鐺を識らず、吾は口瓢杓を離れず。汝は寧ろ何と同日に醒め、吾と同日に酔はんか。政に其の醒むるは及ぶ可く、其の酔ふるは及ぶ可からざるを言ふ。速やかに糟丘を営め、吾将に老いんとす。爾多く言ふ無かれ、爾の及ぶ所に非ず。
暄は落魄として中正の品せざる所と為り、久しく調を得ず。陳の天康中、徐陵吏部尚書と為り、人物を精簡す。縉紳の士皆向慕す。暄は玉帽簪を以て髻に插し、紅絲布を以て頭を裹き、袍は踝に拂ひ、靴は膝に至り、爵裏を陳べず、直ちに上りて陵の坐に就く。陵之を識らず、吏を命じて持し下らしむ。暄徐歩して出で、挙止自若として、竟に怍るる容無し。書を作りて陵を謗る。陵甚だ之を病む。
後主が東宮に在った時、陳暄を学士に引き立てた。即位すると、通直 散騎常侍 に昇進させ、義陽王叔達・尚書孔范・度支尚書袁権・侍中王瑳・金紫光祿大夫陳褒・御史中丞沈瓘・ 散騎常侍 王儀らと共に常に禁中に入り、遊宴に陪侍し、狎客と呼ばれた。暄は元来通脱の性で、俳優を以て自ら任じ、文章は諧謬、言語に節度なく、後主は甚だ親昵しながらも軽侮した。嘗て梁に逆さに吊るし、刃を臨めて、賦を作らせ、なおかつ日時を限った。暄は筆を援れば即座に成し、これを病とせず、却って傲弄ますます甚だしくなった。後主は次第に容れることができなくなり、後に遂に艾を搏って帽とし、その首に加え、火を以て燃やし、然して髪に及んだ。暄は泣きながら哀願し、声は外に聞こえたが、後主はこれを釈放しなかった。時に衛尉卿柳莊が座に在り、急ぎ起きてこれを撥ね除け、拝謝して言うには、「陳暄に罪はありません。臣は陛下が人を弄ぶ過失があることを恐れ、即座に矯ってこれを赦します。軽率な罪は、謹んで刑罰をお待ちします」と。後主は元来莊を重んじていたので、怒りが少し解け、暄を引き出せと命じ、莊を就座させた。数日を経て、暄は心悸を発して死んだ。
蘭欽
蘭欽、字は休明、中昌魏の人である。幼少より果決で、趫捷人に過ぎた。宋末に父の子雲に従って洛陽に在り、常に市で駱駝に乗っていた。後に子雲が南に帰り、梁の天監年間に軍功によって冀州刺史に至った。欽は文德主帥を兼ね、南中の五郡諸洞の反乱する者を征討し、赴く所全て平定した。
欽は謀略有り、勇決にして戦を善くし、歩行一日に二百里、勇武人に過ぎた。撫馭を善くし、人の死力を得た。軍功によって安懷県男に封ぜられ、累遷して 都督 ・梁南秦二州刺史となり、爵を侯に進めた。
梁・漢を征討し、事が平定すると、智武將軍の号を進められた。 都督 ・衡州刺史に改めて授けられた。述職に及ばない内に、西魏が南鄭を攻囲したため、梁州刺史杜懷寶が救援を請いに来た。欽は乃ち大いに魏軍を破り、斜穀に追い入り、斬り獲ること略んど尽きた。魏の相・安定公は馬二千匹を送り、隣好を結ぶことを請うた。欽は百日の内に再び魏軍を破り、威は鄰国に振るった。詔して 散騎常侍 を加え、なおかつ述職を命じた。
広州を経由し、俚帥の陳文徹兄弟を破り、併せてこれを擒らえた。衡州に至り、平南將軍の号を進められ、曲江県公に改封された。州にあっては恵政有り、吏民が闕に詣でて碑を立て徳を頌することを請うた。詔してこれを許した。
後に広州刺史となった。前刺史の新渝侯蕭映が薨じ、南安侯蕭恬が州事を行い、即真を得ることを冀っていた。欽が嶺に至ったと聞くと、厨人に賄賂を贈り、刀に毒を塗り、瓜を削って進めた。欽及び愛妾は共に死んだ。帝は聞いて大いに怒り、檻車で恬を収め、爵土を削った。
欽の子の夏禮は、侯景が歴陽に至ると、その部曲を率いて景を邀え撃ち、兵敗れて死んだ。
論じて曰く、陳伯之は軽狡を心としながらも、勇勁自立し、その爵位に累なること、蓋し由有り。喪乱既に平らぎて後、去就已まず、卒にその死を得たるは、亦た幸いなるかな。慶之は初めは燕雀の遊を同じくし、終に鴻鵠の志を懐き、任委を見るに及んで、長駆して伊・洛に至る。前に強陣無く、攻むるに堅城靡かず。南風競わずと雖も、晩に傾覆を致すも、その克捷する所、亦た称すべきなり。蘭欽は戦に先鳴有り、位は虚受に非ず、終に鴆毒に逢う、唯だ命なるか。