南史

巻六十より巻六十一

巻六十より巻六十一

南史

巻六十より巻六十一

列伝第五十

范岫

原文范岫

范岫は、字あざなを懋賓といい、済陽郡考城県の人である。高祖父の范宣は、晋の征士であった。父の范羲は、宋の尚書殿中郎、本州の別駕を務めた。竟陵王劉誕が反乱を起こしたとき、范羲は城内におり、乱が平定された後に誅殺された。范岫は幼くして学問を好み、早くに父を亡くし、母に仕えて孝行で知られた。外祖父の顔延之は早くから彼を評価し、内外に誇る宝であると考えた。蔡興宗が荊州に赴任したとき、彼を主簿に抜擢した。蔡が亡くなりそうになったとき、范岫が貧しいことを慮り、遺言で銭二十万を賜ろうとしたが、固辞して受け取らなかった。

原文范岫,字懋宾,济阳考城人也。高祖宣,晋征士。父羲,宋尚书殿中郎,本州别驾。竟陵王诞反,羲在城中,事平遇诛。岫幼而好學,早孤,事母以孝聞。外祖顏延之早相題目,以為中外之寶。蔡興宗臨荊州,引為主簿。及蔡將卒,以岫貧乏,遺旨賜錢二十萬,固辭拒之。

斉に仕えて太子家令となった。文恵太子が東宮にいたとき、沈約らは文才によって引き立てられたが、范岫もその中に加わった。范岫の文章は沈約には及ばなかったが、名声と行いは当時の人々から認められた。広く学問に通じ、特に魏・晋以来の吉凶に関する故事に詳しかった。沈約は常に「范公は好事家で学識が広く、胡広でもこれ以上ではあるまい」と称賛した。南郷の范雲は人に言った。「諸君が進退や威儀について知りたければ、范長頭(范岫)に問うべきだ」と。范岫が前代の旧事に詳しかったからである。

原文仕齊為太子家令。文惠太子之在東宮,沈約之徒以文才見引,岫亦預焉。岫文雖不逮約,而名行為時輩所與。博涉多通,尤悉魏、晉以來吉凶故事。約常稱曰:「范公好事該博,胡廣無以加。」南鄉範雲謂人曰:「諸君進止威儀,當問範長頭。」以岫多識前代舊事也。

国子博士に転じた。范岫の身長は七尺八寸あり、姿形は並外れて立派であった。永明年間、魏の使者が来たとき、詔により朝廷の士で弁舌に優れた者を選び、国境で使者を迎えることとなり、范岫が淮陰長史を兼ねてこれを迎えた。内に入って尚書左丞となった。母の喪に服し、喪に過度に礼を尽くした。朝廷はたびたび官に復帰させようとしたが、いずれも拝命しなかった。朝廷はその哀悼の誠を理解し、喪に服する期間を全うさせた。外に出て安成内史となり、鈞折行倉を創設し、公私ともに大きな利益をもたらした。黄門侍郎に徴され、御史中丞を兼ねたが、役人たちが贈り物を届けても一切受け取らなかった。永元末年、輔国将軍・冠軍晋安王長史となり、南徐州の事務を代行した。梁の武帝が建鄴を平定し、詔を承って尚書吏部郎に徴され、大規模な官吏選抜に参与した。天監五年、散騎常侍・光禄大夫となり、皇太子に侍し、扶持を受けた。累進して祠部尚書、金紫光禄大夫となった。在官のまま死去した。

原文遷國子博士。岫長七尺八寸,姿容奇偉。永明中,魏使至,詔妙選朝士有辭辯者,接使於界首,故以岫兼淮陰長史迎焉。入為尚書左丞。丁母憂,居喪過禮。朝廷頻起,並不拜。朝廷亮其哀款,得終喪制。出為安成內史,創立鈞折行倉,公私弘益。征黃門侍郎,兼御史中丞,吏將送一無所納。永元末,為輔國將軍、冠軍晉安王長史,行南徐州事。梁武帝平建鄴,承制徵為尚書吏部郎,參大選。天監五年,為散騎常侍、光祿大夫,侍皇太子,給扶。累遷祠部尚書,金紫光祿大夫。卒官。

范岫は恭しく慎み深く、立ち居振る舞いは礼に従い、親の喪の後は、生涯を通じて粗食と布衣を貫いた。常に任官した職では、清廉潔白で知られた。長城県令のとき、梓材で作った巾箱があり、数十年経っても、貴くなっても改めなかった。晋陵にいたときは、象牙の筆管を一対作っただけで、それでも贅沢だと思った。著した文集、『礼論』、『雑儀』、『字訓』が世に行われた。二人の子は范褒、范偉である。

原文岫恭敬儼恪,進止以禮,自親喪後,蔬食布衣以終身。每所居官,恒以廉潔著稱。為長城令時,有梓材巾箱,至數十年,經貴遂不改易。在晉陵唯作牙管筆一雙,猶以為費。所著文集、禮論、雜儀、字訓行於世。二子褒、偉。

傅昭

原文傅昭

傅昭は字を茂遠といい、北地郡霊州の人で、晋の司隷校尉傅咸の七世の孫である。祖父の傅和之、父の傅淡は三礼に通じ、宋の時代に名を知られた。傅淡は宋の竟陵王劉誕に仕え、劉誕の反乱に連座して誅殺された。

原文傅昭字茂遠,北地靈州人,晉司隸校尉咸七世孫也。祖和之,父淡,善三禮,知名宋世。淡事宋竟陵王誕,誕反坐誅。

傅昭は六歳で孤児となり、成人のように悲しみ衰え、外祖父に養われた。十歳のとき、朱雀航で暦を売っていたが、雍州刺史の袁顗がこれを見て非凡だと思った。袁顗がかつて傅昭のところに来たとき、傅昭は平然と読書を続け、神色も変わらなかった。袁顗は嘆息して言った。「この子は神情が凡ならず、必ずや立派な人物になるだろう。」司徒建安王劉休仁がこれを聞いて喜び、どうしても傅昭を招こうとした。傅昭は宋の朝廷に変事が多いことを理由に、遂に行かなかった。ある人が廷尉の虞願に傅昭を称賛したので、虞願は車を遣わして傅昭を迎えさせた。そのとき虞願の同族の虞通之が同席しており、ともに当時の名流であった。虞通之は傅昭に詩を贈った。「英妙は山東に擅り、才子は洛陽を傾け、清塵誰か能く嗣がん、爾及びて遺芳に遘わん。」太原の王延秀が丹陽尹の袁粲に傅昭を推薦し、深く礼遇され、郡主簿に辟召され、袁粲の子らが傅昭に学問を授かった。明帝が崩御したとき、袁粲が哀策文を作ることになり、傅昭を招いてその文章を定めさせたが、その半分は傅昭の作であった。袁粲は傅昭の家の前を通るたびに嘆じて言った。「その戸を経れば寂として人の無きが若く、その帷を披けばその人斯に在り、豈に名賢ならずや。」まもなく総明学士、奉朝請となった。

原文昭六歲而孤,哀毀如成人,為外祖所養。十歲,於朱雀航賣曆日,雍州刺史袁顗見而奇之。顗嘗來昭所,昭讀書自若,神色不改。顗歎曰:「此兒神情不凡,必成佳器。」司徒建安王休仁聞而悅之,固欲致昭。昭以宋氏多故,遂不往。或有稱昭于廷尉虞願,乃遣車迎昭。時願宗人通之在坐,並當時名流。通之貽昭詩曰:「英妙擅山東,才子傾洛陽,清塵誰能嗣,及爾遘遺芳。」太原王延秀薦昭于丹陽尹袁粲,深見禮,辟為郡主簿,使諸子從昭受學。會明帝崩,粲造哀策文,乃引昭定其所制,昭有其半焉。粲每經昭戶,輒歎曰:「經其戶寂若無人,披其帷其人斯在,豈非名賢。」尋為總明學士、奉朝請。

斉の永明年間、累進して尚書儀曹郎となった。以前、御史中丞の劉休が斉の武帝に傅昭を推薦しており、永明初年、傅昭を南郡王侍読とした。南郡王が帝位を継ぐと、かつての臣下たちは争って権勢と寵愛を求めたが、傅昭と南陽の宗夬だけが身を保ったのみで、正道を守ってこれに参与せず、ついに禍に遭わなかった。明帝が即位すると、傅昭を中書通事舎人に抜擢した。当時この職にあった者は皆、天下に権勢を振るったが、傅昭だけは清廉で静かで何にも干渉せず、器物や衣服は質素で、身は粗末な衣食に安んじた。常に燭を板床に挿していたので、明帝はこれを聞き、漆塗りの燭台を賜り、詔して言った。「卿には古人之風があるゆえ、古人の物を卿に賜う。」累進して尚書左丞となった。

原文齊永明中,累遷尚書儀曹郎。先是御史中丞劉休薦昭于齊武帝,永明初,以昭為南郡王侍讀。王嗣帝位,故時臣隸爭求權寵,唯昭及南陽宗夬保身而已,守正無所參入,竟不罹禍。明帝踐阼,引昭為中書通事舍人。時居此職者,皆權傾天下,昭獨廉靜無所幹豫,器服率陋,身安粗糲。常插燭板床,明帝聞之,賜漆合燭盤,敕曰:「卿有古人之風,故賜卿古人之物。」累遷尚書左丞。

梁の武帝は平素から傅昭を重んじ、梁の朝廷が建てられると、給事黄門侍郎とし、著作を領させ、御史中丞を兼ねさせた。天監三年、五兵尚書を兼ね、官吏選抜に参与した。四年に正式に五兵尚書となった。左戸尚書、安成内史を歴任した。安成郡は宋以来、戦乱が続き、官舎は不吉とされていた。朝夕のたびに、人と鬼が接触し、任に就いた者はめったに無事に終わらなかった。傅昭が着任すると、ある人が夜に武装した兵士が出てくるのを見て、「傅公は善人である、侵してはならぬ」と言い、虚空に飛び去った。しばらくして風雨が激しく起こり、郡庁の正堂が堀の中に吹き飛ばされたが、これ以来郡には災いがなくなり、皆傅昭の貞正さによるものだと考えた。郡の川には魚がいなかったが、ある暑い月に傅昭に魚を献上する者がいた。傅昭は受け取らず、また拒むこともできず、門の傍らで飼ってしまった。郡には猛獣の害が多かったので、常に檻や落とし穴を設けていたが、傅昭は言った。「人が猛獣を害さなければ、猛獣も人を害さない。」そこで檻や落とし穴を取り除くよう命じると、猛獣はついに害をなさなかった。

原文梁武帝素重昭,梁台建,以為給事黃門侍郎,領著作,兼御史中丞。天監三年,兼五兵尚書,參選事。四年即真。歷位左戶尚書,安成內史。郡自宋來,兵亂相接,府舍稱凶。每昏旦間,人鬼相觸,在任者鮮以吉終。及昭至,有人夜見甲兵出,曰:「傅公善人,不可侵犯。」乃騰虛而去。有頃風雨總至,飄郡聽事入隍中,自是郡遂無患,咸以昭貞正所致。郡溪無魚,或有暑月薦昭魚者,昭既不納,又不欲拒,遂餧於門側。郡多猛獸為害,常設檻阱,昭曰:「人不害猛獸,猛獸亦不害人。」乃命去檻阱,猛獸竟不為害。

秘書監、太常卿を歴任し、臨海太守に転じた。郡には蜜岩があり、前後の太守は皆これを封鎖して独占し、その利益を専有していた。傅昭は、周の文王の園囿でさえ百姓と共有したのだから、大きな道理は小さなことにも通じるとして、封鎖しないよう教え諭した。県令がかつて栗を贈り物として届け、絹を敷物の下に置いていたが、傅昭は笑ってこれを返した。普通五年、散騎常侍・金紫光禄大夫となった。

原文曆秘書監,太常卿,遷臨海太守。郡有蜜岩,前後太守皆自封固,專收其利。昭以周文之囿,與百姓共之,大可喻小,乃教勿封。縣令嘗餉栗,置絹于薄下,昭笑而還之。普通五年,為散騎常侍、金紫光祿大夫。

傅昭が官に就いたところでは、常に清静を旨として政治を行い、厳格さを尊ばなかった。朝廷にあっては、私的な請託や謁見をせず、私的な門下生を養わず、私利のために交際しなかった。終日端座して、書物を読むことを楽しみとし、年老いても衰えなかった。古今に広く通じ、特に人物に詳しく、魏・晋以来の官職の記録、家柄、内外の婚姻関係などを挙げて論じ、遺漏することがなく、世に学府と称された。性格は特に誠実で慎み深く、子の嫁が家から送られてきた牛肉を傅昭に差し出したことがあった。傅昭はその子を呼んで言った。「食べれば法を犯すことになるし、告発するわけにもいかない。取って埋めてしまえ。」自らを律し行動するにあたり、暗室であっても良心に恥じることがなく、このようなことが多かった。後進の者たちはその学問を宗とし、その道を重んじ、誰もが自分は及ばないと思った。死去し、諡して貞といった。

原文昭所蒞官,常以清靜為政,不尚嚴肅。居朝廷,無所請謁,不畜私門生,不交私利。終日端居,以書記為樂,雖老不衰。博極古今,尤善人物,魏、晉以來,官宦簿閥,姻通內外,舉而論之,無所遺失,世稱為學府。性尤篤慎,子婦嘗得家餉牛肉以進昭,昭召其子曰:「食之則犯法,告之則不可。取而埋之。」其居身行己,不負闇室,類皆如此。後進宗其學,重其道,人人自以為不逮。卒,諡曰貞。

子は諝。

原文子 諝

長子の諝は、尚書郎・湘東王外兵参軍の位にあった。諝の子の准は文才があり、梁の宣帝の時に度支尚書の位にあった。

原文長子諝,位尚書郎,湘東王外兵參軍。諝子准有文才,梁宣帝時,位度支尚書。

弟は映。

原文弟 映

昭の弟の映は字を徽遠といい、三歳で孤となった。兄弟は友愛睦まじく、身を修め行いを励み、礼に合わぬことはしなかった。初め昭が臨海を守る時、陸倕がこれを餞別し、賓主ともに歓び、日暮れても帰らなかった。映は昭が高齢であるため、夜通し楽しみ尽くすべきでないと考え、自ら出向いて迎え、同じ車に乗って帰った。兄弟ともに既に白髪であったが、当時の人々はこれを称え敬服した。昭が亡くなると、映は父に対するように喪に服し、七十歳を過ぎても哀傷の情は礼を超え、喪服の期間は終わったが、語るごとに必ず慟哭した。天監年間、烏程令の位にあり、太中大夫の任で没した。子は弘。

原文昭弟映字徽遠,三歲而孤。兄弟友睦,修身勵行,非禮不動。始昭之守臨海,陸倕餞之,賓主俱歡,日暮不反。映以昭年高,不可連夜極樂,乃自往候接,同乘而歸。兄弟並已斑白,時人美而服焉。及昭卒,映喪之如父,年踰七十,哀戚過禮,服制雖除,每言輒慟。天監中,位烏程令,卒于太中大夫。子弘。

孔休源。

原文孔休源

孔休源は字を慶緒といい、会稽山陰の人であり、晋の尚書孔沖の八世の孫である。孔沖はすなわち開府儀同三司孔愉の伯父である。曾祖父の遙之は、宋の尚書水部郎であった。父の佩は、斉の通直郎であった。

原文孔休源字慶緒,會稽山陰人,晉尚書沖之八世孫,沖即開府儀同三司愉之世父也。曾祖遙之,宋尚書水部郎。父佩,齊通直郎。

休源は十一歳で孤となり、喪に服するに礼を尽くし、父の手で書かれた書物を見るごとに、必ず哀慟流涕して自らを抑えることができず、見る者は皆これに涙を流した。後に呉興の沈麟士に経書を学び、大義を通じた。州から秀才に挙げられ、太尉徐孝嗣がその策文を審査し、深くこれを賞賛し、同席者に言った。「董仲舒や華令思もどうしてこれに及ぼうか。後進の規範というべきである。これを見れば王佐の才と称するに足る。」琅邪の王融は大いに親しくし、司徒竟陵王に推薦して、西邸の学士とした。

原文休源十一而孤,居喪盡禮,每見父手所寫書,必哀慟流涕不能自勝,見者莫不為之垂泣。後就吳興沈麟士受經,略通大義。州舉秀才,太尉徐孝嗣省其策,深善之,謂同坐曰:「董仲舒、華令思何以尚此,可謂後生之准的也。觀此足稱王佐之才。」琅邪王融雅相友善,乃薦之于司徒竟陵王,為西邸學士。

梁の朝廷が建てられると、南陽の劉之遴とともに太学博士となり、当時は美しい選任とされた。休源が初めて都に到着した時、同族の少府孔登の家に寄寓した。かつて祠事で宗廟に入った時、侍中の範雲が一度これと出会い、深く褒め賞して言った。「思いがけず清らかな顔に会い、たちまち鄙吝の心が取り除かれた。天を仰ぎ霧を払うとは、今日を以て実証された。」後に範雲が車を少府に向けると、孔登はすぐに座席を整え帯を正し、自分を訪ねて来るものと思い、水陸の珍味を用意した。範雲は箸を止めて休源を呼び寄せ、休源が到着すると、その常食を取らせたところ、赤倉米飯と蒸し鮑魚だけがあった。範雲は休源の食事を食べ、主人の饌には手を付けなかった。終日高談し、同じ車に乗って帰宅した。孔登は深く恥じ入った。尚書令の沈約は朝廷で貴顕であり、車馬が門に満ちていたが、休源が時折遅れて来ると、必ず襟を虚しくして迎え入れ、座右に置いて、文義を論じ合った。そのように通人に推重されたのである。

原文梁台建,與南陽劉之遴同為太學博士,當時以為美選。休源初到都,寓於宗人少府孔登。曾以祠事入廟,侍中範雲一與相遇,深加褒賞,曰:「不期忽覯清顏,頓祛鄙吝,觀天披霧,驗之今日。」後雲命駕到少府,登便拂筵整帶,謂當詣己,備水陸之品。雲駐箸命休源,及至,命取其常膳,止有赤倉米飯,蒸鮑魚。雲食休源食,不舉主人之饌。高談盡日,同載還家。登深以為愧。尚書令沈約當朝貴顯,軒蓋盈門,休源或時後來,必虛襟引接,處之坐右,商略文義。其為通人所推如此。

武帝がかつて吏部尚書の徐勉に、学芸に通じ朝儀を理解する者を求めて尚書儀曹郎にしようとすると、徐勉は言った。「孔休源は識見が清く通達し、故事に詳しく練達しており、晋・宋の起居注を暗誦して口に上らせるほどです。」武帝も平素から聞いていたので、即日に兼尚書儀曹郎に任じた。当時は改作が多く、前例について尋ねられるたびに、休源は暗誦記憶していることに従って機に応じて判断決断し、少しも滞ることがなかった。吏部郎の任昉は常に彼を「孔独誦」と呼んだ。

原文武帝嘗問吏部尚書徐勉求一有學藝解朝儀者,為尚書儀曹郎,勉曰:「孔休源識見清通,詳練故事,自晉、宋起居注,誦略上口。」武帝亦素聞之,即日除兼尚書儀曹郎。時多所改作,每逮訪前事,休源即以所誦記隨機斷決,曾無疑滯。吏部郎任昉常謂之為「孔獨誦」。

建康獄正に遷り、冤罪を平反し事理を弁析し、当時冤罪を受ける者は稀であった。後に獄司に選ばれる者があった時、帝は常に休源を引き合いに出して励ました。中書舎人に任じられた。後に尚書左丞となり、礼闈を弾劾粛正し、朝廷の声望に雅くかなった。当時周舎が礼の疑義を撰しており、漢・魏から斉・梁に至るまで広く採録し、休源のすべての奏議も編録に加えられた。再び遷って長兼御史中丞となり、顔色を正して直く法を適用し、避けるところなく、百官はこれを畏れた。

原文遷建康獄正,平反辯析,時罕冤人。後有選人為獄司者,帝常引休源以勵之。除中書舍人。後為尚書左丞,彈肅禮闈,雅允朝望。時周舍撰禮疑義,自漢、魏至於齊、梁,並皆搜采,休源所有奏議,咸預編錄。再遷長兼御史中丞,正色直繩,無所回避,百僚憚之。

後に晋安王長史・南郡太守となり、荊州府州事を行った。帝は言った。「荊州は上流の要衝を総べ、分陝の義は重い。今十歳の児を卿に委ねる。善くこれを輔翼せよ。周昌の諫めを憚るなかれ。」そして晋安王に勅して言った。「孔休源は人倫の儀表である。汝はまだ幼いので、何事にも彼を師とすべきである。」まもなく始興王蕭憺が代わって荊州を鎮守すると、再び蕭憺の府の長史となり、太守・行府事はもとどおりであった。州において累政の間、甚だ政績があり、心を平らかにして決断し、私的な依頼は行われなかった。帝は深くこれを嘉した。秘書監を歴任し、再び晋安王府長史・南蘭陵太守となり、別勅により南徐州事を専行した。休源は累ねて名高い藩鎮を補佐し、人の称誉を得ること甚だしく、王は深く倚仗し、常に中斎に別に一つの榻を設け、「これは孔長史の座である」と言い、他の者は預かることはできなかった。そのように敬われたのである。都官尚書を歴任した。

原文後為晉安王長史、南郡太守,行荊州府州事。帝謂曰:「荊州總上流沖要,義高分陝,今以十歲兒委卿,善匡翼之,勿憚周昌之舉也。」乃敕晉安王曰:「孔休源人倫儀錶,汝年尚幼,當每事師之。」尋始興王憺代鎮荊州,復為憺府長史,太守、行府事如故。在州累政,甚有政績,平心決斷,請托弗行。帝深嘉之。曆秘書監,復為晉安王府長史、南蘭陵太守,別敕專行南徐州事。休源累佐名蕃,甚得人譽,王深相倚仗,常於中齋別施一榻,云:「此是孔長史坐」,人莫得預焉,其見敬如此。曆都官尚書。

普通七年、揚州刺史の臨川王蕭宏が薨じると、武帝は群臣と代わって州の任に就く者を議論した。当時貴戚王公は皆この任への遷授を望んだ。帝は言った。「朕は既に人を得た。孔休源は才識が通達敏捷で、実にこの選に応える。」そこで宣恵将軍・監揚州事を授けた。休源は初め臨川王の行佐であったが、王が薨じて州の任を管轄することとなり、当時の論評はこれを栄誉とした。神州の都会であり、文書事務は殷繁であったが、休源は流れるように裁断し、傍らに私的な請謁はなかった。

原文普通七年,揚州刺史臨川王宏薨,武帝與群臣議代居州任者,時貴戚王公咸望遷授。帝曰:「朕已得人,孔休源才識通敏,實應此選。」乃授宣惠將軍、監揚州事。休源初為臨川王行佐,及王薨而管州任,時論榮之。神州都會,簿領殷繁,休源剖斷如流,傍無私謁。

中大通二年、金紫光禄大夫を加えられた。州にあっては昼は訴訟を裁決し、夜は典籍を閲覧した。車駕が巡幸するたびに、常に軍国事を彼に委ねた。昭明太子が薨じると、勅命により夜に休源を召し出して宴居殿に入れ、群公とともに謀議ぼうぎを参定し、晋安王蕭綱を皇太子に立てた。公卿が貂を珥し筆を挿して休源の前で奏決するに及んでも、休源は怡然として慙愧の色がなく、当時の人々はこれを兼天子と呼んだ。四年、卒した。遺言は薄葬を命じ、節朔には野菜粗食を供えるだけであった。帝はこのために涙を流し、謝挙を顧みて言った。「孔休源は職に在って清廉忠実であり、まさに共に政道を康んじようとしていたのに、突然逝去した。朕は甚だ痛む。」謝挙は言った。「この人は清介で強直でありました。臣はひそかに陛下のために惜しみます。」諡して貞子といった。

原文中大通二年,加金紫光祿大夫。在州晝決辭訟,夜覽墳籍。每車駕巡幸,常以軍國事委之。昭明太子薨,有敕夜召休源入宴居殿與群公參定謀議,立晉安王綱為皇太子。自公卿珥貂插筆奏決於休源前,休源怡然無愧,時人名為兼天子。四年,卒,遺令薄葬,節朔薦蔬菲而已。帝為之流涕,顧謝舉曰:「孔休源居職清忠,方欲共康政道,奄至隕沒,朕甚痛之。」舉曰:「此人清介強直,臣竊為陛下惜之。」諡曰貞子。

休源は風範が強く正しく、政体に明らかに練達し、常に天下を己が任とした。武帝は深く彼を委仗した。累ねて顕職に在ったが、性質は緻密で、禁中の事を口にしたことはなかった。書物を集めて七千巻に満ち、自ら校練した。奏議弾文を凡そ十五巻に編纂した。

原文休源風範強正,明練政體,常以天下為己任。武帝深委仗之。累居顯職,性縝密,未嘗言禁中事。聚書盈七千卷,手自校練。凡奏議彈文勒成十五卷。

長子は雲。

原文長子 雲

長子の雲章は頗る父の風有り、位は東揚州別駕に至る。

原文長子雲章頗有父風,位東揚州別駕。

少子は宗。

原文少子 宗

少子の宗范は聡敏にして識度有り、位は中書郎に至る。

原文少子宗范聰敏有識度,位中書郎。

江革。

原文江革

江革は字を休映と云い、済陽考城の人なり。祖父の齊之は、宋の都水使者・尚書金部郎。父の柔之は、斉の尚書倉部郎、孝行有り、母の憂いにより毀瘠して卒す。

原文江革字休映,濟陽考城人也。祖齊之,宋都水使者,尚書金部郎。父柔之,齊尚書倉部郎,有孝行,以母憂毀卒。

革は幼にして聡敏、早くより才思有り、六歳にして便ち文を属することを解す。柔之は深く賞器を加え、曰く「此の児必ず吾が門を興さん」と。九歳にして父の艱に遭い、第四弟の観と同生、少くして孤貧、傍らに師友無く、兄弟自ら相訓勖し、書を読み精力倦まず。十六にして母に喪し、孝を以て聞こゆ。服闋し、観と俱に太学に詣い、国子生を補し、高第を挙ぐ。斉の中書郎王融・吏部郎謝朓は雅に相欽重す。朓嘗て行き還り過ぎて革を候う、時に大寒雪、革の弊絮単席なるを見、而して学に耽り倦まず、嗟歎すること久し、乃ち其の著する襦を脱ぎ、並びに手ずから半氈を割きて革に与え臥具に充てて去る。司徒竟陵王其の名を聞き、引いて西邸学士と為す。

原文革幼而聰敏,早有才思,六歲便解屬文。柔之深加賞器,曰:「此兒必興吾門。」九歲丁父艱,與第四弟觀同生,少孤貧,傍無師友,兄弟自相訓勖,讀書精力不倦。十六喪母,以孝聞。服闋,與觀俱詣太學,補國子生,舉高第。齊中書郎王融、吏部郎謝朓雅相欽重。朓嘗行還過候革,時大寒雪,見革弊絮單席,而耽學不倦,嗟歎久之,乃脫其所著襦,並手割半氈與革充臥具而去。司徒竟陵王聞其名,引為西邸學士。

弱冠にして南徐州秀才を挙ぐ。時に豫章の胡諧之州事を行い、王融は諧之に書を与えて革を薦めしむ。諧之は方に琅邪の王泛を貢せんとし、便ち革を以て之に代う。僕射江祏は深く引接し、祏は太子詹事と為り、革を啓して丞と為す。祏は時に権右に傾き、革の才経国に堪うるを以て、機務に参掌せしめ、詔誥文檄皆以て具するを委ぬ。革は形跡を防杜し、外人知らず。祏誅せられ、賓客皆其の罪に罹るも、革独り智を以て免る。尚書駕部郎を除く。

原文弱冠舉南徐州秀才。時豫章胡諧之行州事,王融與諧之書令薦革。諧之方貢琅邪王泛,便以革代之。僕射江祏深相引接,祏為太子詹事,啟革為丞。祏時權傾朝右,以革才堪經國,令參掌機務,詔誥文檄皆委以具。革防杜形跡,外人不知。祏誅,賓客皆罹其罪,革獨以智免。除尚書駕部郎。

中興元年、梁武帝石頭に入る、時に呉興太守袁昂郡に拠り義を拒み従わず、革は制書を昂に与え、坐に於いて立ち成り、辞義典雅、帝深く賞歎し、徐勉と同しく書記を掌らしむ。建安王雍州刺史と為り、表して管記を求め、革を以て征北記室参軍と為し、中廬令を帯ぶ。弟の観と少長共に居り、離別を忍びず、苦しく同行を求む。観を以て征北行参軍と為し、記室を兼ぬ。時に呉興の沈約・楽安の任昉は革に書して云く「比聞く雍府英才を妙選し、文房の職、卿の昆季を総ぶ、二龍を長途に馭し、騏驥を千里に騁うるを謂う可し」と。途次江夏、観卒す。革は雍州に在り、府王の礼せらるる所と為り、款ること布衣の若し。後に建康正と為り、頻りに秣陵・建康令に遷り、政を為すこと明肅、豪強之を憚る。中書舎人、尚書左丞、晋安王長史・尋陽太守を歴、江州府事を行る。廬陵王長史に徙り、太守・行事は旧の如し。清厳を以て属城に憚らしむ。時に少王の行事は、多く意を簽帥に傾く、革は正直を以て自ら居り、典簽趙道智と坐せず。道智因りて還都し事を啓し、面して革の事を堕し酒を好むを陳べ、琅邪の王曇聰を以て代わりて行事と為す。南州の士庶之が為に語りて曰く「故人は道智を道わず、新人是れ散騎に佞う、度あらずや知らず、新人は故に如かず」と。御史中丞に遷り、豪権を弾奏し、一も避くる所無し。

原文中興元年,梁武帝入石頭,時吳興太守袁昂據郡拒義不從,革制書與昂,于坐立成,辭義典雅,帝深賞歎之,令與徐勉同掌書記。建安王為雍州刺史,表求管記,以革為征北記室參軍,帶中廬令。與弟觀少長共居,不忍離別,苦求同行。以觀為征北行參軍,兼記室。時吳興沈約、樂安任昉與革書云:「比聞雍府妙選英才,文房之職,總卿昆季,可謂馭二龍於長途,騁騏驥於千里。」途次江夏,觀卒。革在雍州,為府王所禮,款若布衣。後為建康正,頻遷秣陵、建康令,為政明肅,豪強憚之。曆中書舍人,尚書左丞,晉安王長史、尋陽太守,行江州府事。徙廬陵王長史,太守、行事如故。以清嚴為屬城所憚。時少王行事,多傾意于簽帥,革以正直自居,不與典簽趙道智坐。道智因還都啟事,面陳革墮事好酒,以琅邪王曇聰代為行事。南州士庶為之語曰:「故人不道智,新人佞散騎,莫知度不度,新人不如故。」遷御史中丞,彈奏豪權,一無所避。

後に鎮北豫章王長史・広陵太守と為る。時に魏の徐州刺史元法僧降附し、革は勅を被り府王に随い彭城を鎮む。城既に失守し、革は素より馬に便せず、舟に泛して還る。途下邳を経て、魏人の執る所と為る。魏の徐州刺史安豊王延明は革の才名を聞き、厚く接待を加う。革は脚疾を称して拝せず、延明将に之を害せんとす、革の辞色厳正なるを見、更加え敬重す。時に祖搄同じく拘縶せらる、延明は搄を使いて欹器漏刻の銘を作らしむ、革は搄に唾罵して曰く「卿は国の厚恩に荷い、已に報答無し、乃ち虜の為に銘を立て、朝廷に孤負す」と。延明之を聞き、乃ち革に丈八寺碑並びに彭祖を祭る文を作らしむ、革は囚執既に久しく、復た心思無しを以て辞す。延明将に棰撲を加えんとす、革は厲色して曰く「江革行年六十、能く身を殺し主に報いず、今日死を得るを幸いと為し、誓って人の為に筆を執らじ」と。延明屈す可からざるを知り乃ち止む。日に脱粟三升を給し、僅かに性命を餘す。会うに魏帝中山王元略の北に反するを請う、乃ち革及び祖搄を放ち還朝せしむ。上大いに宴し、酒を挙げて革を勧めて曰く「卿は那ぞ畏れずして延明害せん」と。対えて曰く「臣行年六十、死すとて夭ならず、豈に延明を畏れんや」と。帝曰く「今日始めて蘇武の節を見る」と。ここに於いて太尉臨川王長史と為す。

原文後為鎮北豫章王長史、廣陵太守。時魏徐州刺史元法僧降附,革被敕隨府王鎮彭城。城既失守,革素不便馬,泛舟而還。途經下邳,為魏人所執。魏徐州刺史安豐王延明聞革才名,厚加接待。革稱腳疾不拜,延明將害之,見革辭色嚴正,更加敬重。時祖搄同被拘縶,延明使搄作欹器漏刻銘,革唾駡搄曰:「卿荷國厚恩,已無報答,乃為虜立銘,孤負朝廷。」延明聞之,乃令革作丈八寺碑並祭彭祖文,革辭以囚執既久,無復心思。延明將加棰撲,革厲色曰:「江革行年六十,不能殺身報主,今日得死為幸,誓不為人執筆。」延明知不可屈乃止。日給脫粟三升,僅餘性命。會魏帝請中山王元略反北,乃放革及祖搄還朝。上大宴,舉酒勸革曰:「卿那不畏延明害?」對曰:「臣行年六十,死不為夭,豈畏延明。」帝曰:「今日始見蘇武之節。」於是以為太尉臨川王長史。

時に帝は仏教に惑い、朝賢多く啓して戒を受くるを求む。革は因果を精信す、而して帝未だ知らず、革の仏法を奉ぜざるを謂い、乃ち革に覚意詩五百字を賜い、云く「唯だ当に勤め精進し、自ら強いて勝修を行い、豈に底突を作す可けんや、彼の必死の囚の如く。此を以て江革に告げ、並びに諸の貴遊に及ぼす」と。又手勅して曰く「果報は信ぜざる可からず、豈に底突を得て元延明に対するが如くせんや」と。革因りて菩薩戒を受くるを乞う。

原文時帝惑於佛教,朝賢多啟求受戒。革精信因果,而帝未知,謂革不奉佛法,乃賜革覺意詩五百字,云:「唯當勤精進,自強行勝修,豈可作底突,如彼必死囚。以此告江革,並及諸貴遊。」又手敕曰:「果報不可不信,豈得底突如對元延明邪。」革因乞受菩薩戒。

時に武陵王紀は東州に在り、頗る驕縱す、上は臧盾の性弱く、能く匡正せざるを以て、革を召し慰め遣わし、乃ち武陵王長史・会稽郡丞を除き、府州事を行わしむ。革の門生故吏の家多く東に在り、革の応に至るを聞き、並びに賚持して道縁に迎候す。革曰く「我は通じて餉を受けず、独り故人の筐篚に当たるを容れず」と。鎮に至るに唯だ公俸を資とし、食は味を兼ねず。郡境は殷広、辞訟日に数百、革は分判辯析し、曾て疑滞無く、人安んじ吏畏れ、百城震恐す。琅邪の王騫は山陰令と為り、贓貨狼籍、風を望みて自ら解く。府王之を憚る。毎に燕に侍し、言論必ず詩・書を以てす、王此に因りて学に耽り文を好む。典簽沈熾文は王の制する詩を以て武帝に呈す、帝は僕射徐勉に謂いて曰く「革は果たして職に称す」と。乃ち都官尚書を除く。将に還らんとし、贈遺一も受けず、送故旧に依りて舫を訂すも、革は並びに納れず、唯だ台の給する一舸に乗る。舸艚偏欹し、安臥を得ず。或いは請う江を済い重き物を徙して軽き艚を迮めんと、革既に物無し、乃ち西陵の岸に石十余片を取り以て之を実す。其の清貧此の如し。

原文時武陵王紀在東州,頗驕縱,上以臧盾性弱,不能匡正,召革慰遣,乃除武陵王長史、會稽郡丞,行府州事。革門生故吏家多在東,聞革應至,並賚持緣道迎候。革曰:「我通不受餉,不容獨當故人筐篚。」至鎮唯資公俸,食不兼味。郡境殷廣,辭訟日數百,革分判辯析,曾無疑滯,人安吏畏,百城震恐。琅邪王騫為山陰令,贓貨狼籍,望風自解。府王憚之。每侍燕,言論必以詩、書,王因此耽學好文。典簽沈熾文以王所制詩呈武帝,帝謂僕射徐勉曰:「革果稱職。」乃除都官尚書。將還,贈遺一無所受,送故依舊訂舫,革並不納,唯乘台所給一舸。舸艚偏欹,不得安臥。或請濟江徙重物以迮輕艚,革既無物,乃於西陵岸取石十餘片以實之。其清貧如此。

尋いで呉郡を監す、時に境内荒儉し、劫盗公行す。革の郡に至るに唯だ公給の仗身二十人有るのみ、百姓皆懼えて能く寇を静めず、革反って游軍尉を省す、百姓逾って恐る。革乃ち広く恩恵を施し、盗賊静息す。

原文尋監吳郡,時境內荒儉,劫盜公行。革至郡唯有公給仗身二十人,百姓皆懼不能靜寇,革反省游軍尉,百姓逾恐。革乃廣施恩惠,盜賊靜息。

武陵王江州に出鎮し、乃ち曰く「我は江革の文を得、革の清貧を得、豈に一日之を忘れんや、当に其と同飽せん」と。乃ち表して革同行せしむ。南中郎長史・尋陽太守を除く。征入りて度支尚書と為る。閭閻を奨進するを好み、後生の為に誉を延べ、是に由りて衣冠の士子翕然として之に帰す。時に尚書令何敬容選を掌り、序用多く其の人に非ず。革の性强直、毎に朝宴恒に褒貶有り、此を以て権貴に疾まれる所と為る。乃ち病を謝して家に還り、光禄大夫を除かれ、優遊閑放し、文酒を以て自ら娯しむ。卒す、諡して強子と曰う。集二十巻世に行わる。革は歴官八府長史、四王行事、三たび二千石と為り、傍らに姬侍無く、家は徒らに壁立す、時に此を以て之を高し。長子の行敏は早く卒し、次子は德藻。

原文武陵王出鎮江州,乃曰:「我得江革文,得革清貧,豈能一日忘之,當與其同飽。」乃表革同行。除南中郎長史、尋陽太守。征入為度支尚書。好獎進閭閻,為後生延譽,由是衣冠士子翕然歸之。時尚書令何敬容掌選,序用多非其人。革性強直,每朝宴恒有褒貶,以此為權貴所疾。乃謝病還家,除光祿大夫,優遊閑放,以文酒自娛。卒,諡曰強子。有集二十卷行於世。革曆官八府長史,四王行事,三為二千石,傍無姬侍,家徒壁立,時以此高之。長子行敏早卒,次子德藻。

子は德藻。

原文子 德藻

德藻は字を德藻と云い、学を好み、風儀美く、身長七尺四寸。性至孝、親に事うるに礼を尽くす。異産の昆弟と居り、恩恵甚だ篤し。経籍に渉猟し、善く文を属す。梁に仕えて尚書比部郎と為り、父の憂いを以て職を去る。服闋後、容貌毀瘠し、喪に居る時の如し。

原文德藻字德藻,好學,美風儀,身長七尺四寸。性至孝,事親盡禮。與異產昆弟居,恩惠甚篤。涉獵經籍,善屬文。仕梁為尚書比部郎,以父憂去職。服闋後,容貌毀瘠,如居喪時。

陳の武帝が禅譲を受けると、秘書監となり、尚書左丞を兼ねた。まもなく本官のまま中書舎人を兼ねた。天嘉年間、散騎常侍を兼ね、中書郎の劉師知とともに斉に使いし、『北征道里記』三巻を著した。帰還して太子中庶子に任ぜられた。御史中丞に転じたが、公事に坐して免官された。後に自ら県宰を求め、新渝県令に補せられた。政治は恩恵を重んじ、かなり異なる業績があった。官で没し、文帝は散騎常侍を追贈した。文筆十五巻。子の椿もまた文をよくし、位は尚書右丞に至った。

原文及陳武帝受禪,為秘書監,兼尚書左丞。尋以本官兼中書舍人。天嘉中,兼散騎常侍,與中書郎劉師知使齊,著北征道里記三卷。還除太子中庶子。遷御史中丞,坐公事免。後自求宰縣,補新渝令。政尚恩惠,頗有異績。卒于官,文帝贈散騎常侍。文筆十五卷。子椿亦善屬文,位尚書右丞。

徳藻の弟、従簡。

原文德藻弟 從簡

徳藻の弟の従簡は、若くして文才があり、十七歳の時、『采荷調』を作って何敬容を諷刺し、当時に賞賛された。位は司徒従事中郎に至った。侯景の乱の時、任約に害された。子の兼は、

原文德藻弟從簡,少有文情,年十七,作采荷調以刺何敬容,為當時所賞。位司徒從事中郎。侯景亂,為任約所害。子兼叩

頭を叩いて血を流し、父の命に代わることを乞い、身をもって刃を蔽い、遂に共に殺され、天下はこれを痛んだ。

原文頭流血,乞代父命,以身蔽刃,遂俱見殺,天下痛之。

徐勉。

原文徐勉

徐勉、字は修仁、東海郡郯県の人である。祖父の長宗は、宋の武帝の霸府行参軍であった。父の融は、南昌相であった。

原文徐勉字修仁,東海郯人也。祖長宗,宋武帝霸府行參軍。父融,南昌相。

勉は幼くして孤貧であったが、早くから清節を励ました。六歳の時、長雨が続き、家人が晴れを祈った折、率直に文を作り、古老に称賛された。成長して学を好み、同族の孝嗣はこれを見て嘆じて言うには、「これはいわゆる人の中の騏驥で、必ず千里を致すであろう」と。またかつて諸子に言うには、「この人は師である、お前たちはこれに倣って行え」と。十八歳の時、召されて国子生となり、帷を下ろして専ら学び、精力を怠らなかった。同時の同輩は恭しく敬った。祭酒の王儉は毎回見るたびに、常に目で送り、言うには、「この子は並々の器ではない」と。毎度宰輔の器量があると称した。射策で甲科に及第し、初任は王国侍郎、太学博士に補せられた。当時、議定があるたびに、勉は道理を明らかにし、妥当であり、貶し奪うことができず、同官は皆これに則を取った。臨海王西中郎田曹行参軍に転じ、まもなく署都曹に移った。当時、琅邪の王融は一時の才俊であり、特に慕悦し、かつて交わりを請うた。勉は親しい者に言うには、「王郎は名声は高いが、望みは短く、軽々しく衣裾を霹くことは難しい」と。融は後に果たして法に陥り、これによって識鑒が推された。累進して領軍長史に至った。

原文勉幼孤貧,早勵清節。年六歲,屬霖雨,家人祈霽,率爾為文,見稱耆宿。及長好學,宗人孝嗣見之歎曰:「此所謂人中之騏驥,必能致千里。」又嘗謂諸子曰:「此人師也,爾等則而行之。」年十八,召為國子生,便下帷專學,精力無怠。同時儕輩肅而敬之。祭酒王儉每見,常目送之,曰:「此子非常器也。」每稱有宰輔之量。射策甲科,起家王國侍郎,補太學博士。時每有議定,勉理證明允,莫能貶奪,同官咸取則焉。遷臨海王西中郎田曹行參軍,俄徙署都曹。時琅邪王融一時才俊,特相慕悅,嘗請交焉。勉謂所親曰:「王郎名高望促,難可輕霹衣裾。」融後果陷於法,以此見推識鑒。累遷領軍長史。

初め長沙宣武王と交遊し、梁の武帝は深く器賞した。武帝の軍が建鄴に至ると、勉は新林で謁見し、帝は大いに恩礼を加え、書記を管掌させた。帝が即位すると、中書侍郎に拝され、進んで中書通事舎人を領し、内省に直した。臨川王後軍諮議、尚書左丞に転じた。枢憲を掌るようになってから、多く糾挙し、当時の論は称職と見なした。

原文初與長沙宣武王游,梁武帝深器賞之,及武帝兵至建鄴,勉于新林謁見,帝甚加恩禮,使管書記。及帝即位,拜中書侍郎,進領中書通事舍人,直內省。遷臨川王后軍諮議、尚書左丞。自掌樞憲,多所糾舉,時論以為稱職。

天監三年、給事黄門侍郎、尚書吏部郎に任ぜられ、大選を参掌した。侍中に転じた。当時、軍は魏を侵し、駅伝の文書が充満した。勉は軍書を参掌し、日夜労苦し、動もすれば数十日を経て、ようやく一度家に帰った。群犬が驚いて吠え、勉は嘆じて言うには、「我は国を憂い家を忘れ、ここに至った。もし我が亡き後、これも伝中の一事であろう」と。

原文天監三年,除給事黃門侍郎,尚書吏部郎,參掌大選。遷侍中。時師方侵魏,候驛填委。勉參掌軍書,劬勞夙夜,動經數旬,乃一還家。群犬驚吠,勉歎曰:「吾憂國忘家,乃至於此。若吾亡後,亦是傳中一事。」

六年、給事中、五兵尚書に任ぜられ、吏部尚書に転じた。勉が選官に居ると、彝倫に序があった。尺牘に通じ、また辞令に優れ、文案が積もり、座客が満ちていても、応対は流れる如く、手は筆を停めなかった。また百家を総括し、皆その諱いみなを避けた。かつて門人と夜集した時、客の虞暠が詹事五官を求めた。勉は正色して答えて言うには、「今夕はただ風月を談ずるべく、公事に及ぶべからず」と。故に当時の人はその無私に服した。天監初め、官名は互いに省置があり、勉は選簿を撰立して奏上し、詔により施行された。その制は九品を開いて十八班とし、これより貪冒苟進の者は財貨によって取り通り、道を守って淪退する者は貧寒によって没せられることとなった。

原文六年,除給事中、五兵尚書,遷吏部尚書。勉居選官,彝倫有序。既閑尺牘,兼善辭令,雖文案填積,坐客充滿,應對如流,手不停筆。又該綜百氏,皆避其諱。嘗及閘人夜集,客有虞暠求詹事五官。勉正色答云:「今夕止可談風月,不宜及公事。」故時人服其無私。天監初,官名互有省置,勉撰立選簿奏之,有詔施用。其制開九品為十八班,自是貪冒苟進者以財貨取通,守道淪退者以貧寒見沒矣。

後に左衛将軍となり、太子中庶子を領し、東宮に侍した。昭明太子はまだ幼く、宮事を知ることを勅され、太子はこれを非常に重んじ、何事も諮謀した。かつて殿中で孝経を講じた時、臨川王宏、尚書令沈約が二傅を備え、勉と国子祭酒張充が執経となり、王瑩、張稷、柳憕、王暕が侍講となった。当時、選は極めて親賢を尽くし、人誉を妙に尽くした。勉は数度辞譲を陳べ、また沈約に書を送り、侍講を換えることを求めたが、詔は許さず、その後就任した。旧来、揚州、徐州では主簿を迎えるのに、国華中正を尽くして選び、勉の子の崧を取って南徐州の選首に充てた。帝はこれを勅して言うには、「卿は寒士であるが、子が王志の子と共に迎えられるのは、偃王以来未だかつてなかったことである」と。勉はその先祖を戯れることを恥じ、答旨は恭しくなかった。これによって散騎常侍に左遷され、遊撃将軍を領した。

原文後為左衛將軍,領太子中庶子,侍東宮。昭明太子尚幼,敕知宮事,太子禮之甚重,每事詢謀。嘗於殿講孝經,臨川王宏、尚書令沈約備二傅,勉與國子祭酒張充為執經,王瑩、張稷、柳憕、王暕為侍講。時選極親賢,妙盡人譽。勉陳讓數四,又與沈約書,求換侍講,詔弗許,然後就焉。舊揚、徐首迎主簿,盡選國華中正,取勉子崧充南徐選首。帝敕之曰:「卿寒士,而子與王志子同迎,偃王以來未之有也。」勉恥以其先為戲,答旨不恭,由是左遷散騎常侍,領遊擊將軍。

後に太子詹事となり、また尚書右僕射に転じ、詹事は元の通りであった。当時、世間の喪事は多く礼に従わず、朝に終わり夕に殯し、速さを尚ぶことを相競った。勉は上疏して言うには、「礼記問喪に云う、'三日にして後に斂するは、その生を俟つためなり。三日にして生ぜざれば、また生ぜざるなり'と。近頃この制に従わず、送終の礼は、殯を期日にす。潤屋の豪家は、あるいは半日ですらある。衣衾棺槨は、速さを以て栄とす。親戚徒隷は、各々休反を念う。故に属纊やっと終わり、灰釘すでに具わる。狐鼠の顧歩を忘れ、燕雀の徊翔を媿じ、情を傷み理を滅すること、これより大なるはない。かつ人子が衾を承ける時、志は懣え心は絶え、喪事の資する所は、悉く他手に関わる。愛憎の深浅は、事実原め難し。もし覘視に爽いがあれば、存没違濫し、万に一つのことがあれば、怨酷すでに多く、いずくんぞその告斂の辰を緩め、その望生の冀を申べしめんや。請う、今より士庶は宜しく悉く古に依り、三日に大斂すべし。もしこれに奉ぜざれば、糾繩を加えん」と。詔はその奏を可とした。

原文後為太子詹事,又遷尚書右僕射,詹事如故。時人間喪事多不遵禮,朝終夕殯,相尚以速。勉上疏曰:「禮記問喪云:'三日而後斂者,以俟其生也。三日而不生,亦不生矣。'頃來不遵斯制,送終之禮,殯以期日。潤屋豪家,乃或半晷。衣衾棺槨,以速為榮。親戚徒隸,各念休反。故屬纊才畢,灰釘已具。忘狐鼠之顧步,媿燕雀之徊翔,傷情滅理,莫此為大。且人子承衾之時,志懣心絕,喪事所資,悉關他手。愛憎深淺,事實難原。如覘視或爽,存沒違濫,使萬有其一,怨酷已多,豈若緩其告斂之辰,申其望生之冀。請自今士庶宜悉依古,三日大斂。如其不奉,加以糾繩。」詔可其奏。

また尚書僕射、中衛将軍に任ぜられた。勉は旧恩によって、重位に継ぎ昇り、心を尽くして上に奉じ、知ることは為さざるなし。小選よりこの職に至るまで、常に衡石を参掌し、甚だ士心を得た。禁省中の事は、未だ漏洩したことなく、表奏があるたびに、稿草を焚いた。経史に博通し、前載を多く識った。斉の世の王儉が職に居て以来、及ぶ者なし。朝儀国典、昏冠吉凶、勉は皆預かり図議した。

原文又除尚書僕射、中衛將軍。勉以舊恩,繼升重位,盡心奉上,知無不為。爰自小選迄於此職,常參掌衡石,甚得士心。禁省中事,未嘗漏泄,每有表奏,輒焚稿草。博通經史,多識前載。齊世王儉居職已後,莫有逮者。朝儀國典,昏冠吉凶,勉皆預圖議。

初め、勉は詔を受けて五礼の撰知を命ぜられ、普通六年に功を畢え、表を上して言うには、

原文初,勉受詔知撰五禮,普通六年功畢,表上之曰:

礼は上を安んじ人を化し、風を弘め俗を訓み、国家を経め、後嗣を利するものである。唐、虞、三代は、皆必ずこれによる。周に在っては、憲章特に備わり、殷に因り夏を革め、損益知るべし。経礼三百、曲礼三千と復すといえども、経文三百、威儀三千、その大帰は五あり、すなわち宗伯の掌る所の典礼、吉を上とし、凶これに次ぎ、賓これに次ぎ、軍これに次ぎ、嘉を下とす。故に祠祭礼を以てせざれば、則ち斉からず荘からず、喪紀礼を以てせざれば、則ち死に背き生を忘るる者衆く、賓客礼を以てせざれば、則ち朝覲その儀を失い、軍旅礼を以てせざれば、則ち師律に乱を致し、冠昏礼を以てせざれば、則ち男女その時を失う。国を為め身を修むるは、ここに急なるものなり。周室大いに壊れ、王道既に衰えてより、官はこの文を守るも、日々その序を失う。暴秦は学を滅ぼし、掃地して余り無し。漢氏鬱然として興り、日暇あらずと雖も、なお叔孫を外野に命じて、方に帝王の貴きを知る。末葉紛綸し、遞に興毀あり。東京の曹褒、南宮に制述し、その散略を集めて、百余篇あり。尺簡に写すと雖も、而も終に平奏を闕く。その後兵革相尋い、異端互いに起り、章句既に淪び、俎豆斯に輟む。方領矩歩の容は、事は旌鼓に滅び、蘭台石室の典は、用は帷蓋に尽きる。晋氏に至りて、爰に新礼を定め、荀顗前にこれを制し、摯虞末にこれを刪す。既にして中原喪乱し、罕に遺す所あり、江左草創し、因循するのみ。厘革の風は、是れ未だ暇あらず。

原文夫禮以安上化人,弘風訓俗,經國家,利後嗣者也。唐、虞、三代,咸必由之。在乎有周,憲章尤備,因殷革夏,損益可知。雖復經禮三百,曲禮三千,經文三百,威儀三千,其大歸有五,即宗伯所掌典禮,吉為上,凶次之,賓次之,軍次之,嘉為下也。故祠祭不以禮,則不齊不莊;喪紀不以禮,則背死忘生者眾;賓客不以禮,則朝覲失其儀;軍旅不以禮,則致亂于師律;冠昏不以禮,則男女失其時。為國修身,於斯攸急。洎周室大壞,王道既衰,官守斯文,日失其序。暴秦滅學,掃地無餘。漢氏鬱興,日不暇給,猶命叔孫于外野,方知帝王之為貴。末葉紛綸,遞有興毀。及東京曹褒,南宮制述,集其散略,百有餘篇。雖寫以尺簡,而終闕平奏。其後兵革相尋,異端互起,章句既淪,俎豆斯輟。方領矩步之容,事滅於旌鼓,蘭台石室之典,用盡于帷蓋。至乎晉氏,爰定新禮,荀顗制之於前,摯虞刪之於末。既而中原喪亂,罕有所遺,江左草創,因循而已。厘革之風,是則未暇。

伏して惟うに、陛下は叡明にして運を啓き、天に先んじて物を改め、乱を撥ねるは惟だ武にあり、俗を経るは文を以てす。楽を作すは功成るに在りて、礼を制すは業定まるに弘し。伏して尋ぬるに、定めし五礼は、斉の永明二年に起こり、太子歩兵校尉伏曼容が表して一代の礼楽を制せんことを求む。時に参議し、新旧の学士十人を置き、止めて五礼を修め、衛将軍丹陽尹王儉に諮稟し、学士も亦た郡中に分住し、制作歴年、猶未だ克く就かず。及び文憲(王儉)薨じ、遺文散逸し、又た事を国子祭酒何胤に付す。経て九載、猶復未だ畢らず。建武四年、胤は東山に還り、斉の明帝は尚書令徐孝嗣に委ぬるを敕し、旧事の本末は、南第に随う。永元の中、孝嗣は此に於て禍に遇い、又多く零落す。当時に鳩集する所の余りを、権に尚書左丞蔡仲熊・驍騎将軍何佟之に付して共に其の事を掌らしむ。時に礼局は国子学の中門外に住す。東昏の時、頻りに軍火有り、其の散失する所、又た太半を踰ゆ。天監元年、佟之は省置の宜しきを審らかにするを啓し、外に詳らかにするを敕す。時に尚書参詳し、天地初めて革まり、庶務権輿す、宜しく隆平を俟ち、徐に刪撰を議すべしと。且く礼局を省き、並びに尚書儀曹に還さんと欲す。詔旨に云く、「礼壊れ楽缺く、故に国異なり家殊なり、実に宜しく時に以て修定し、以て永き准と為すべし」と。是に於て尚書僕射沈約等参議し、五礼各に旧学士一人を置き、人各自ら学士二人を挙げて相助け、抄撰せしむるを請う。疑有る者は前漢の石渠・後漢の白虎に依り、源に随いて以て聞こえ、旨を請うて断決せしむ。乃ち旧学士右軍記室参軍明山賓に吉礼を掌らしめ、中軍騎兵参軍厳植之に凶礼を掌らしめ、中軍田曹行参軍兼太常丞賀瑒に賓礼を掌らしめ、征虜記室参軍陸璉に軍礼を掌らしめ、右軍参軍事司馬褧に嘉礼を掌らしめ、尚書右丞何佟之に総て其の事を参せしむ。佟之亡き後、鎮北諮議参軍伏揯を以て之に代う。後又た揯を以て厳植之に代わり凶礼を掌らしむ。揯尋いで官に遷り、五経博士繆昭に凶礼を掌らしむ。復た礼儀深広にして、記載残缺す、宜しく須らく博論し、共に其の致を尽くすべく、更に鎮軍将軍丹陽尹沈約・太常卿張充及び臣三人をして同に其の務に参せしめ、臣又た別敕を奉じて総て其の事を知る。末に又た中書侍郎周舍・庾於陵の二人をして復た参知せしむ。若し疑義有らば、所掌の学士当職先ず議を立て、通じて五礼の旧学士及び参知に諮り各言同異し、条牒して啓聞し、制旨に決す。疑事既に多く、歳時又た積もり、制旨裁断、其の数少なからず。網羅経誥せざる莫く、玉振り金声す。凡そ諸の奏決は、皆篇首に載せ、具に聖旨を列ね、不刊の則と為す。寧ぞ孝宣の能く擬すべく、豈に孝章の足りて云わんや。

原文伏惟陛下睿明啟運,先天改物,撥亂惟武,經俗以文。作樂在乎功成,制禮弘於業定。伏尋所定五禮,起齊永明二年,太子步兵校尉伏曼容表求制一代禮樂。于時參議,置新舊學士十人,止修五禮,諮稟衛將軍丹陽尹王儉,學士亦分住郡中,製作歷年,猶未克就。及文憲薨,遺文散逸,又以事付國子祭酒何胤,經涉九載,猶復未畢。建武四年,胤還東山,齊明帝敕委尚書令徐孝嗣,舊事本末,隨在南第。永元中,孝嗣於此遇禍,又多零落。當時鳩集所余,權付尚書左丞蔡仲熊、驍騎將軍何佟之共掌其事。時禮局住在國子學中門外,東昏之時,頻有軍火,其所散失,又踰太半。天監元年,佟之啟審省置之宜,敕使外詳。時尚書參詳,以天地初革,庶務權輿,宜俟隆平,徐議刪撰。欲且省禮局,並還尚書儀曹。詔旨云:「禮壞樂缺,故國異家殊,實宜以時修定,以為永准。」於是尚書僕射沈約等參議,請五禮各置舊學士一人,人各自舉學士二人相助,抄撰其中。有疑者依前漢石渠、後漢白虎,隨源以聞,請旨斷決。乃以舊學士右軍記室參軍明山賓掌吉禮,中軍騎兵參軍嚴植之掌凶禮,中軍田曹行參軍兼太常丞賀瑒掌賓禮,征虜記室參軍陸璉掌軍禮,右軍參軍事司馬褧掌嘉禮,尚書右丞何佟之總參其事。佟之亡後,以鎮北諮議參軍伏揯代之。後又以揯代嚴植之掌凶禮。揯尋遷官,以五經博士繆昭掌凶禮。復以禮儀深廣,記載殘缺,宜須博論,共盡其致,更使鎮軍將軍丹陽尹沈約、太常卿張充及臣三人同參厥務,臣又奉別敕總知其事。末又使中書侍郎周舍、庾於陵二人復豫參知。若有疑義,所掌學士當職先立議,通諮五禮舊學士及參知各言同異,條牒啟聞,決之制旨。疑事既多,歲時又積,制旨裁斷,其數不少。莫不網羅經誥,玉振金聲。凡諸奏決,皆載篇首,具列聖旨,為不刊之則。甯孝宣之能擬,豈孝章之足云。

五礼の職、事に繁簡有り、及び其の列畢するに至り、同時を得ず。嘉礼儀注は天監六年五月七日に尚書に上る、合せて十有二帙、一百一十六巻、五百三十六条。賓礼儀注は天監六年五月二十日に尚書に上る、合せて十有七帙、一百三十三巻、五百四十五条。軍礼儀注は天監九年十月二十九日に尚書に上る、合せて十有八帙、一百八十九巻、二百四十条。吉礼儀注は天監十一年十一月十日に尚書に上る、合せて二十有六帙、二百二十四巻、一千五条。凶礼儀注は天監十一年十一月十七日に尚書に上る、合せて四十有七帙、五百一十四巻、五千六百九十三条。大凡そ一百二十帙、一千一百七十六巻、八千一十九条。又た副を秘閣及び五経典書に列ね各一通、繕写校定し、普通五年二月を以て始めて洗畢を獲たり。窃かに以て、履礼を撰正するは、歴代罕に就く、皇明運に在り、厥の功克く成る。周代三千、其の盈数を挙ぐ、今の八千、事に随いて附益す。質文相変じ、故に其の数兼ねて倍し、猶お八卦の爻の如く、因りて之を重ね、錯綜して六十四と成すが如し。臣、庸識を以て、謬りて其の任を司り、淹留歴稔、允かに斯の責に当たる。兼ねて勒成の初、未だ遑あって表上せず、実に才軽く務広く、思力周からざるに由る。永く言う慚惕、寤寐に忘れず。今春より輿駕将に親しく六師し、軍礼を搜尋し、其の条章を閲すに、該備せざる靡く、以て諸れを日月に懸け、之を天下に頒つべし。詔して有司に案じて以て遵行せしむ。

原文五禮之職,事有繁簡,及其列畢,不得同時。嘉禮儀注以天監六年五月七日上尚書,合十有二帙,一百一十六卷,五百三十六條。賓禮儀注以天監六年五月二十日上尚書,合十有七帙,一百三十三卷,五百四十五條。軍禮儀注以天監九年十月二十九日上尚書,合十有八帙,一百八十九卷,二百四十條。吉禮儀注以天監十一年十一月十日上尚書,合二十有六帙,二百二十四卷,一千五條。凶禮儀注以天監十一年十一月十七日上尚書,合四十有七帙,五百一十四卷,五千六百九十三條。大凡一百二十帙,一千一百七十六卷,八千一十九條。又列副秘閣及五經典書各一通,繕寫校定,以普通五年二月始獲洗畢。竊以撰正履禮,歷代罕就,皇明在運,厥功克成。周代三千,舉其盈數,今之八千,隨事附益。質文相變,故其數兼倍,猶如八卦之爻,因而重之,錯綜成六十四也。臣以庸識,謬司其任,淹留曆稔,允當斯責。兼勒成之初,未遑表上,實由才輕務廣,思力不周,永言慚惕,無忘寤寐。自今春輿駕將親六師,搜尋軍禮,閱其條章,靡不該備,可以懸諸日月,頒之天下者矣。詔有司案以遵行。

尋いで中書令を加えらる。勉、疾を以て内任を解かんことを求め、詔して許さず、乃ち下省に停まるを令し、三日に一朝し、事有れば主書を遣わして論決せしむ。脚の患い転た劇しく、久しく朝覲を闕き、固く解任を陳べ、詔して疾差えて省に還るを許す。

原文尋加中書令,勉以疾求解內任,詔不許,乃令停下省,三日一朝,有事遣主書論決。患腳轉劇,久闕朝覲,固陳求解,詔許疾差還省。

勉、顕職に居るも、産業を営まず、家に畜積無く、奉禄を分けて親族の貧乏なる者を贍う。門人故旧或いは従容として言を致す、勉乃ち答えて曰く、「人は子孫に財を遺す、我は之に清白を遺す。子孫才有らば、則ち自ら輜軿を致す。如し才無からば、終に佗れの有と為らん」と。嘗て書を為りて其の子崧を戒めて曰く。

原文勉雖居顯職,不營產業,家無畜積,奉祿分贍親族之貧乏者。門人故舊或從容致言,勉乃答曰:「人遺子孫以財,我遺之清白。子孫才也,則自致輜軿;如不才,終為佗有。」嘗為書戒其子崧曰:

吾が家は本清廉なり、故に常に貧素に居る。産業の事に至りては、未だ嘗て言わず、直に経営せざるのみに非ず。薄躬遭逢し、遂に今日に至る。尊官厚禄、備えたりと謂うべし。毎に念う竊かに斯の若きは、豈に才に由りて致すや、仰いで先門の風範及び福慶に藉り、故に此に臻るのみ。古人の所謂く「清白を以て子孫に遺す、亦た厚からずや」。又た云く「子に黄金満籯を遺すは、一経に如かず」。詳しく此の言を求めれば、信に徒語に非ず。吾は不敏と雖も、実に本志有り、庶幾くは斯の義に遵奉し、敢えて墜失せざらんことを得ん。是を以て顕貴以来、将に三十載、門人故旧、便宜を承けて薦むる有り、或いは田園を創闢せしめ、或いは邸店を興立せんことを勧め、又た舳艫を以て運致せんと欲し、亦た貨殖聚斂せしめんと欲す。若し此の衆事は、皆距絶して納れず。葵を抜き織を去ると謂うに非ず、且つ紛紜を省息せんと欲するのみ。

原文吾家本清廉,故常居貧素。至於產業之事,所未嘗言,非直不經營而已。薄躬遭逢,遂至今日,尊官厚祿,可謂備之。每念叨竊若斯,豈由才致,仰藉先門風範及以福慶,故臻此爾,古人所謂「以清白遺子孫,不亦厚乎?」。又云:「遺子黃金滿籯,不如一經」。詳求此言,信非徒語。吾雖不敏,實有本志,庶得遵奉斯義,不敢墜失。所以顯貴以來,將三十載,門人故舊,承薦便宜,或使創辟田園,或勸興立邸店;又欲舳艫運致,亦令貨殖聚斂。若此眾事,皆距而不納。非謂拔葵去織,且欲省息紛紜。

中年になって東田に小さな園を営むのは、種をまいて利益を得ようとするのではなく、ただ池を掘り樹を植え、少し情趣を寄せ楽しむためである。また郊外は閑曠で、いずれは住まいとすることができ、もし懸車致事(引退)を得るならば、まさにここで歌い泣きたいと思う。慧日・十住らは婚礼を営む必要があり、また住居も要する。わが清明門の宅には相容れる余地がない。そうした所以には、また理由がある。以前西辺を割いて宣武寺に施したので、西廂を失い、もはや方形ではなくなった。これもまた旅館のようなものだと思い、何ぞ華美を要せん。常に恨むのは、世の人がこれをわが宅と謂うことである。古往今来、豪富は踵を継ぎ、高門甲第、連闥洞房も、彼らが死ねば、いったい誰の室となるのか。ただ培塿の山を作らずにはいられず、石を集め果樹を移し、花卉を交えて、休沐の楽しみとし、性霊を託すのである。手近に架構し、広大を求めず、ただ功徳を施す所は小さくとも良しとし、それゆえ内は逼迫し、もはや房宇はない。近ごろ東辺の児孫二宅を修築したが、それは十住が南還する資金を借りたもので、その中で要するものはなお少なくない。既に引き留められず、また中途で止めることもできず、郊間の園は遂に保てず、韋黯に売って百金を得た。二つの宅を成し遂げて、既にその半を費やした。園の代価で得たものは、どうしてこれほどになるのか。わが経始してより数年、粗く成立し、桃李は茂密、桐竹は陰を成し、畦道は交通し、渠畎は相連なる。華楼迥榭には、臨眺の美頗るあり、孤峰叢薄には、糾紛の興無からず。瀆中には苻役多く、湖裏には芰蓮殊に富む。人外と云うも、城闕は密邇し、韋生がこれを欲するのも、また雅に情趣有り。この事を追述するのは、吝む心があるのではなく、事の趣きがここに至ったのである。謝霊運の山家詩に云う「中為天地物、今成鄙夫有」を憶う。わがこの園はこれを有すること二十載、今は天地の物となる。物と我と、相い校ぶること幾何ぞ。これはただ余ったもので、今これを分けて汝に小田舎を営ませる。親族累属既に多く、理もまたこれを須う。且つ釈氏の教えでは、財物を外命と謂う。外典も亦「何を以て人を聚む、財を曰う」と称する。況んや汝の常情、安んぞこれを忘れ得ん。聞くところ汝の買いし湖熟の田地は、甚だ舄鹵(塩分多く瘠せた土地)なりと。いよいよ安んずべき所以は、物競の故ではない。事は寝丘に異なるも、聊か髣髴すべし。孔子曰く「居家して事を理むるは、官に移すべし」。既にこれを営む以上、宜しく成立せしむべし。進退両亡すれば、更に恥笑を貽す。若し収穫有らば、汝自ら分かち内外大小を贍い、宜しく得所ならしむべし。わが知るところではなく、また諸女に応じて沾うべきである。汝既に長に居る故、この事に及ぶのである。

原文中年聊于東田開營小園者,非存播藝以要利,政欲穿池種樹,少寄情賞。又以郊際閑曠,終可為宅,儻獲懸車致事,實欲歌哭於斯。慧日、十住等既應營昏,又須住止。吾清明門宅無相容處,所以爾者,亦復有以。前割西邊施宣武寺,既失西廂,不復方幅,意亦謂此逆旅舍爾,何事須華。常恨時人謂是我宅。古往今來,豪富繼踵,高門甲第,連闥洞房,宛其死矣,定是誰室?但不能不為培塿之山,聚石移果,雜以花卉,以娛休沐,用托性靈。隨便架立,不存廣大,唯功德處小以為好,所以內中逼促,無復房宇。近修東邊兒孫二宅,乃藉十住南還之資,其中所須,猶為不少。既牽挽不至,又不可中途而輟,郊間之園,遂不辦保,貨與韋黯,乃獲百金。成就兩宅,已消其半。尋園價所得,何以至此?由吾經始歷年,粗已成立,桃李茂密,桐竹成陰,塍陌交通,渠畎相屬。華樓迥榭,頗有臨眺之美,孤峰叢薄,不無糾紛之興。瀆中並饒苻役,湖裏殊富芰蓮。雖云人外,城闕密邇,韋生欲之,亦雅有情趣。追述此事,非有吝心,蓋是事意所至爾。憶謝靈運山家詩云:「中為天地物,今成鄙夫有。」吾此園有之二十載,今為天地物。物之與我,相校幾何哉。此直所餘,今以分汝營小田舍,親累既多,理亦須此。且釋氏之教,以財物謂之外命。外典亦稱「何以聚人曰財」。況汝常情,安得忘此。聞汝所買湖熟田地,甚為舄鹵,彌復可安,所以如此,非物競故也。雖事異寢丘,聊可髣佛。孔子曰:「居家理事,可移於官。」既已營之,宜使成立,進退兩亡,更貽恥笑。若有所收穫,汝可自分贍內外大小,宜令得所,非吾所知,又復應沾之諸女爾。汝既居長,故有此及。

凡そ人の長たるは、殊にまた易からず。中外を諧え緝め、人に間言無く、物を先にし己を後にして、然る後に貴ぶべし。老生云く「其の身を後にすれば而も身先んず」。若し能く爾らば、更に巨利を招く。汝自ら勖め、賢を見ては斉しきを思うべし。忽略して日を棄つるに宜しからず。日を棄つるは即ち身を棄つるなり。身名の美悪、豈に大ならずや。慎まざるべけんや。今の敕す所は、略く此の意を言う。政に家を為して以来、資産に事えず、暨びて墅舎を立てるは、旧業に乖くに似たりと謂う。其の始末を陳ぶれば、懐抱に愧じること無し。兼ねて吾が年時朽暮、心力稍く単なり。牽課して公に奉ずるも、略く挙げるに克たず。其の中の余暇、裁ちて自ら休むべし。或いは復た冬日の陽、夏日の陰、良辰美景、文案の間隙に、杖を負い履を躡み、陋館に逍遙し、池に臨み魚を観、林を披き鳥を聴き、濁酒一杯、琴一曲を弾じ、数刻の暫楽を求め、庶幾くは常に居りて終を待たん。家間の細務を復た労するに宜しからず。汝が交関既に定まり、此の書又行わるれば、凡そ資すべき須い、別の如く付給す。茲より以後、吾復た田事に言及せず、汝も亦復た吾にこれを言う勿れ。仮令い堯の水害、湯の旱害有らば、豈に之を如何せん。若し其れ満庾盈箱ならば、爾が幸遇なり。斯の如き事は、並びに吾をして知らしむるを俟たず。記に云く「夫れ孝なる者は、人の志を善く継ぎ、人の事を善く述ぶ」。今且く汝に吾が此の志を全うするを望めば、則ち恨む所無し。

原文凡為人長,殊復不易,當使中外諧緝,人無間言,先物後己,然後可貴。老生云:「後其身而身先。」若能爾者,更招巨利。汝當自勖,見賢思齊,不宜忽略以棄日也。棄日乃是棄身,身名美惡,豈不大哉,可不慎歟!今之所敕,略言此意。政謂為家以來,不事資產,暨立墅舍,似乖舊業,陳其始末,無愧懷抱。兼吾年時朽暮,心力稍單,牽課奉公,略不克舉,其中餘暇,裁可自休。或復冬日之陽,夏日之陰,良辰美景,文案間隟,負杖躡履,逍遙陋館,臨池觀魚,披林聽鳥,濁酒一杯,彈琴一曲,求數刻之暫樂,庶居常以待終,不宜復勞家間細務。汝交關既定,此書又行,凡所資須,付給如別。自茲以後,吾不復言及田事,汝亦勿復與吾言之。假使堯水湯旱,豈如之何。若其滿庾盈箱,爾之幸遇,如斯之事,並無俟令吾知也。記云:「夫孝者善繼人之志,善述人之事。」今且望汝全吾此志,則無所恨矣。

第二子の悱が卒す。痛悼甚だ至り、久しく王務を廃するを欲せず、乃ち客に答えて以て自ら喩す。普通の末、武帝自ら算え択びて後宮の呉声・西曲の女妓各一部、並びに華少なるを、勉に賜う。此れに因りて頗る声酒を好む。禄奉の外、月別に銭十万を給し、信遇の深きこと、故に匹する者無し。

原文第二子悱卒,痛悼甚至,不欲久廢王務,乃為答客以自喻焉。普通末,武帝自算擇後宮吳聲、西曲女妓各一部,並華少,賚勉,因此頗好聲酒。祿奉之外,月別給錢十萬,信遇之深,故無與匹。

中大通の中、又疾を以て自ら陳べ、移して特進・右光禄大夫・侍中・中衛将軍を授けられ、佐史を置き、余は旧の如し。親信四十人を増す。両宮参問、冠蓋轍を結ぶ。敕有りて毎に臨幸せんと欲すれども、勉は拜伏に虧有りを以て、頻りに停出を啓し、詔して之を許し、遂に輿駕を停む。及び卒す、帝聞きて流涕す。即日車駕殯に臨み、右光禄大夫・開府儀同三司を贈る。皇太子も亦朝堂に挙哀す。有司奏して諡して「居敬行簡を簡と曰う」とす。帝「執心決断を肅と曰う」を益し、因りて簡肅公と諡す。勉は骨鯁範雲に及ばざれども、亦阿意苟合せず。後に政事を知る者及ぶ莫く、梁世の相を言う者は范・徐を称す。文を属するに善くし、著述に勤しみ、機務に当たりながらも、下筆休まず。常に起居注の煩雑を以て、乃ち流別起居注六百六十巻を撰す。左丞彈事五巻。選曹に在りて、選品三巻を撰す。斉時に太廟祝文二巻を撰す。孔・釈二教の殊途同帰を以て、会林五十巻を撰す。凡そ著す所前後二集五十巻、又人の為に章表集十巻。

原文中大通中,又以疾自陳,移授特進、右光祿大夫、侍中、中衛將軍,置佐史,餘如故。增親信四十人。兩宮參問,冠蓋結轍。有敕每欲臨幸,勉以拜伏有虧,頻啟停出,詔許之,遂停輿駕。及卒,帝聞而流涕。即日車駕臨殯,贈右光祿大夫、開府儀同三司。皇太子亦舉哀朝堂。有司奏諡「居敬行簡曰簡」,帝益「執心決斷曰肅」,因諡簡肅公。勉雖骨鯁不及範雲,亦不阿意苟合,後知政事者莫及,梁世之言相者稱范、徐云。善屬文,勤著述,雖當機務,下筆不休。常以起居注煩雜,乃撰為流別起居注六百六十卷,左丞彈事五卷。在選曹,撰選品三卷。齊時撰太廟祝文二卷。以孔、釋二教殊途同歸,撰會林五十卷。凡所著前後二集五十卷,又為人章表集十卷。

大同三年、故佐史尚書左丞劉覽等、闕に詣でて勉の行状を陳べ、石を刊し徳を紀するを請う。即ち詔を降し碑を墓に立つ。

原文大同三年,故佐史尚書左丞劉覽等詣闕陳勉行狀,請刊石紀德,即降詔立碑於墓焉。

子に悱有り。

原文子 悱

悱は字を敬業とす。幼くして聡敏、文を属する能くし、位は太子舎人、書記を掌る。累遷して洗馬、中舎人となり、猶書記を管す。宮坊に出入りする者歴稔。足疾を以て出でて湘東王友と為り、俄かに晉安内史に遷る。

原文悱字敬業,幼聰敏,能屬文,位太子舍人,掌書記。累遷洗馬,中舍人,猶管書記。出入宮坊者曆稔。以足疾出為湘東王友,俄遷晉安內史。

許懋

原文許懋

許懋は字を昭哲とす。高陽新城の人、魏の鎮北将軍允の九世孫なり。五世祖は詢、晉の征士。祖は珪、宋の給事中、著作郎、桂陽太守。父は勇慧、斉の太子家令、冗従僕射。

原文許懋字昭哲,高陽新城人,魏鎮北將軍允九世孫也。五世祖詢,晉征士。祖珪,宋給事中,著作郎,桂陽太守。父勇慧,齊太子家令,冗從僕射。

懋は少くして孤、性至孝、父の憂いに居り喪を執ること礼を過ぐ。志を篤くして学を好み、州党に称さる。十四にして太学に入り、毛詩を受け、朝に師説を領し、夕に覆講し、座下の聴者常に数十百人、因りて風雅比興義十五巻を撰し、時に盛行す。尤も故事に明るく、儀注学と称せらる。

原文懋少孤,性至孝,居父憂執喪過禮。篤志好學,為州黨所稱。十四入太學,受毛詩,旦領師說,晚而覆講,坐下聽者常數十百人,因撰風雅比興義十五卷,盛行于時。尤明故事,稱為儀注學。

起家して後軍豫章王行参軍、転じて法曹。秀才に挙げられ、驃騎大将軍儀同中記室に遷る。文恵太子聞きて之を召し、崇明殿に侍講せしむ。後兼ねて国子博士、司馬褧と同志友善す。僕射江祏甚だ之を推重し、経史笥と号す。

原文起家後軍豫章王行參軍,轉法曹。舉秀才,遷驃騎大將軍儀同中記室。文惠太子聞而召之,侍講於崇明殿。後兼國子博士,與司馬褧同志友善。僕射江祏甚推重之,號為經史笥。

梁の天監初年、吏部尚書の范雲が沈懋を推挙して五礼の審議に参与させ、征西鄱陽王諮議参軍に任じ、著作郎を兼ね、文徳省に待詔した。時に会稽で封禅を行うことを請う者があった。武帝は儒学士を集めて封禅の儀礼を起草させ、実行しようとしたが、懋のみが反対の建議を提出した。帝はその議を見て、嘉納し、これにより遂に中止した。十年、太子家令に転じた。凡そ諸々の礼儀は多く刊正された。足疾のため、出向して始平太守となり、政務に能名があり、散騎常侍を加えられ、天門太守に転じた。中大通三年、皇太子が召して諸儒と共に長春義記を編纂させた。四年、中庶子に任じられた。この年に卒した。撰述行記四巻、文集十五巻がある。子に亨がある。

原文梁天監初,吏部尚書范雲舉懋參詳五禮,除征西鄱陽王諮議參軍,兼著作郎,待詔文德省。時有請會稽封禪者,武帝因集儒學士草封禪儀,將行焉,懋建議獨以為不可。帝見其議,嘉納之,由是遂停。十年,轉太子家令。凡諸禮儀,多所刊正。以足疾,出為始平太守,政有能名,加散騎常侍,轉天門太守。中大通三年,皇太子召與諸儒錄長春義記。四年,拜中庶子。是歲卒。撰述行記四卷,有集十五卷。子亨。

子 亨

原文子 亨

亨は字を亨道といい、幼少より家業を伝え、孤高で節操があった。群書に博通し、前代の旧事に多く通じ、甚だ南陽の劉之遴に重んぜられた。梁の太清初年、西中郎記室となり、太常丞を兼ねた。侯景の乱の際、郢州えいしゅうに避難した。時に梁の邵陵王が東より至り、諮議参軍に抜擢した。王僧辯が郢州を襲撃した時、平素よりその名を聞き、儀同従事中郎に召した。太尉従事中郎に遷り、呉興の沈炯と共に書記を掌り、府政と朝務は全て彼に委ねられた。晋安王が制を承けると、給事黄門侍郎を授けられた。

原文亨字亨道,少傳家業,孤介有節行。博通群書,多識前代舊事,甚為南陽劉之遴所重。梁太清初,為西中郎記室,兼太常丞。侯景之亂,避地郢州。會梁邵陵王自東至,引為諮議參軍。王僧辯之襲郢州,素聞其名,召為儀同從事中郎。遷太尉從事中郎,與吳興沈炯對掌書記,府政朝務,一以委之。晉安王承制,授給事黃門侍郎。

陳の武帝が禅譲を受けると、太中大夫となり、大著作を領し、梁史の編纂を管掌した。初め僧辯が誅殺された時、所司が僧辯とその子の頠の屍体を収め、方山に同一の穴に埋めたが、この時まで敢えて言う者はいなかった。亨は旧吏として上表してその埋葬を請うた。旧義の徐陵、張種、孔奐らと相率いて家財を以て葬儀を営み、凡そ七つの棺を全て改葬した。

原文陳武帝受禪,為太中大夫,領大著作,知梁史事。初僧辯之誅也,所司收僧辯及其子頠屍,于方山同坎埋瘞,至是無敢言者,亨以故吏抗表請葬之。與故義徐陵、張種、孔奐等相率以家財營葬,凡七柩,皆改窆焉。

光大年間、宣帝が輔政に入ると、亨が貞正で古人の風があることを以て、甚だ欽重し、常に師礼を以てこれに事えた。到仲挙の謀略により宣帝を出そうとした時、宣帝が亨に問うと、亨は詔を奉じぬよう勧めた。宣帝が即位すると、衛尉卿に任じられた。官にて卒した。

原文光大中,宣帝入輔,以亨貞正有古人風,甚相欽重,常以師禮事之。及到仲舉之謀出宣帝,宣帝問亨,亨勸勿奉詔。宣帝即位,拜衛尉卿。卒於官。

亨は初め斉書並びに志五十巻を撰したが、乱に遇って亡失した。後に梁史を撰し、完成したものは五十八巻である。梁の太清以後、制作した文筆は六巻。子の善心は、尚書度支侍郎の位に至った。

原文亨初撰齊書並志五十卷,遇亂亡失。後撰梁史,成者五十八卷。梁太清之後,所制文筆六卷。子善心,位尚書度支侍郎。

殷鈞

原文殷鈞

殷鈞は字を季和といい、陳郡長平の人、晋の荊州刺史殷仲堪の五世孫である。曾祖父の元素は、宋の南康相となり、元凶の事件に連座して誅殺された。元素は尚書僕射琅邪の王僧朗の女を娶り、子の寧を生んだが早逝した。寧の遺腹子として叡を生んだが、これもまた誅戮に従うべきであった。僧朗が孝武帝に啓上して救い、免れることができた。叡は弁舌に優れ、司徒の褚彥回は甚だこれを重んじ、「諸殷は荊州以来、卿より優れた者はいない」と言った。叡は顔色を正して答えて曰く、「殷の一族は衰悴し、誠に昔に及ばず。もしこの旨が虚ならば、故に降るに足らず。この旨が実ならば、ますます聞くべからず」。斉に仕えて司徒従事中郎を歴任した。叡の妻は琅邪の王奐の女であり、奐が雍州刺史となると、叡を啓上して府長史とした。奐が誅殺されると、叡もまた害された。

原文殷鈞字季和,陳郡長平人,晉荊州刺史仲堪五世孫也。曾祖元素,宋南康相,坐元凶事誅。元素娶尚書僕射琅邪王僧朗女,生子寧早卒,寧遺腹生子叡,亦當從戮,僧朗啟孝武救之得免。叡有口辯,司徒褚彥回甚重之,謂曰:「諸殷自荊州以來無出卿。」叡斂容答曰:「殷族衰悴,誠不如昔,若此旨為虛,故不足降,此旨為實,彌不可聞。」仕齊曆司徒從事中郎。叡妻琅邪王奐女,奐為雍州刺史,啟叡為府長史。奐誅,叡亦見害。

鈞は九歳にして孝行で知られ、成長すると、恬静で交遊を簡素にし、学を好み思理あり、隷書を善くし、当時の楷法となった。南郷の范雲、楽安の任昉は共にこれを称美した。梁の武帝は叡と幼少より故旧であり、女の永興公主を鈞に娶せ、駙馬都尉に任じた。秘書丞を歴任し、在職中に秘閣の四部書の校定を啓上し、新たに目録を作成した。また詔を受けて西省の法書古跡を調査検討し、品目として列挙した。累遷して侍中、東宮学士となった。

原文鈞九歲以孝聞,及長,恬靜簡交遊,好學有思理,善隸書,為當時楷法。南鄉范雲、樂安任昉並稱美之。梁武帝與叡少故舊,以女永興公主妻鈞,拜駙馬都尉。曆秘書丞,在職啟校定秘閣四部書,更為目錄。又受詔料檢西省法書古跡,列為品目。累遷侍中,東宮學士。

宋、斉以来、公主は多く驕淫で品行が悪かったが、永興公主はこれに加えて陰険で残忍であった。鈞は形貌が短小であり、公主に憎まれ、召し入れられる度に、先ず壁一面に殷叡の字を書かせ、鈞はいつも涙を流して退出した。公主は婢に命じて縛って引き戻させた。鈞は怒りに耐えかねて帝に言上すると、帝は犀の如意で公主の背中を打ち砕いたが、それでもなお鈞を恨んだ。

原文自宋、齊以來,公主多驕淫無行,永興主加以險虐。鈞形貌短小,為主所憎,每被召入,先滿壁為殷叡字,鈞輒流涕以出,主命婢束而反之。鈞不勝怒而言於帝,帝以犀如意擊主碎於背,然猶恨鈞。

侍中より出て王府諮議となり、後に明威将軍、臨川内史となった。鈞は体が弱く病多く、門を閉じて臥しながら政務を執ったが、百姓はその徳に感化され、劫盗は皆境外に奔った。嘗て賊の首領を捕らえたが、拷掠を加えず、穏やかな言葉で責めた。賊の首領は額を地に付けて過ちを改めることを乞うたので、鈞は命じて釈放した。後に善人となった。郡には従来山瘧(山岳地帯の瘧疾)が多く、暑さが変わると必ず発生したが、鈞が在任して以来、郡内には再び瘧疾がなくなった。

原文自侍中出為王府諮議,後為明威將軍、臨川內史。鈞體羸多疾,閉合臥理,而百姓化其德,劫盜皆奔出境。嘗禽劫帥,不加考掠,和言誚責。劫帥稽顙乞改過,鈞便命遣之,後遂為善人。郡舊多山瘧,更暑必動,自鈞在任,郡境無復瘧疾。

母の喪により職を去り、喪に服すること礼を過ぎた。昭明太子はこれを憂い、自ら手紙を書いて戒め諭した。喪が明けると、散騎常侍となり、歩兵校尉を領し、東宮に侍した。中庶子を領するよう改め、後に国子祭酒となった。卒し、諡して貞といった。二子は構、渥。鈞の同族に芸がある。

原文母憂去職,居喪過禮,昭明太子憂之,手書誡喻。服闋,為散騎常侍,領步兵校尉,侍東宮。改領中庶子,後為國子祭酒。卒,諡貞。二子構、渥。鈞宗人芸。

宗人 芸

原文宗人 芸

芸は字を灌蔬といい、倜儻として細行に拘らず、然しながら妄りに交遊せず、門に雑客無し。精励して学に勤しみ、群書に博洽した。幼少の時、廬江の何憲がこれを見て、深く賞賛した。天監年間、秘書監、司徒左長史の位に至った。後に東宮学士省に直し、卒した。

原文芸字灌蔬,倜儻不拘細行,然不妄交遊,門無雜客。勵精勤學,博洽群書。幼而廬江何憲見之,深相歎賞。天監中,位秘書監、司徒左長史。後直東宮學士省,卒。

論

原文論

論ずるに、范懋賓(范雲)の徳の美しさ、傅茂遠(傅昭)の清廉な令名、孔休源の政事、江休映(江淹)の剛直さ、これらに学殖を加え、文采をもって飾り、時に主君に重んぜられたのは、徒然ならぬ所以である。徐勉は少にして志を励まし、食を忘れて発憤し、身を修め行いを慎み、運は興王(武帝)に属し、日月の光に依り、公輔の位に至り、衡を提げ端を執り、時に異議なく、梁氏の宗臣たり、まことに美なり。許懋は業芸をもって経笥と見做され推され、亨(許亨)は道を懐き古を好み、博覧をもって誉れに帰し、その封禅の議を折り、僧辯の葬を求むる所以は、正直存するもの、ただ文義のみにあらず。古人云う「仁者は勇あり」、この言近し。殷鈞は徳業自ら居し、またこれに政績を加え、文質斌斌たり、また足りて称すべし。

原文論曰:范懋賓之德美,傅茂遠之清令,孔休源之政事,江休映之強直,並加之以學植,飾之以文采,其所以取高時主,豈徒然哉。徐勉少而勵志,發憤忘食,修身慎行,運屬興王,依光日月,致位公輔,提衡端執,時無異議,為梁氏宗臣,信為美矣。許懋業藝,以經笥見推,亨懷道好古,以博覽歸譽,其所以折議封禪,求葬僧辯,正直存焉,豈唯文義而已。古人云:「仁者有勇」,斯言近之。殷鈞德業自居,又加之以政績,文質斌斌,亦足稱也。