南史 巻五十九・巻六十

そうし

巻五十九・巻六十

江淹

江淹、字は文通、済陽郡考城県の人である。父の康之は南沙県令で、優れた才思があった。淹は幼くして孤貧であり、常に司馬長卿や梁伯鸞の為人を慕い、章句の学に事とせず、文章に心を留めた。早くから高平の檀超に認められ、常に上席に昇らせ、甚だ礼を加えられた。

初め南徐州の従事として起家し、奉朝請に転じた。宋の建平王景素は士を好み、淹は景素に従って南兗州にいた。広陵県令郭彦文が罪を得、その供述に淹が連座し、金を受け取ったと言い、淹は獄に繋がれた。獄中より上書して曰く。

昔、賤臣が心を叩けば飛霜が燕の地を撃ち、 ちか 女が天に告げれば振風が斉の台を襲う。下官はその書を読む毎に、未だ嘗て巻を廃して涙を流さざるはなかった。何となれば、士には一定の論あり、女には不易の行あり。信じて疑われ、貞にして戮せられる、これをもって壮夫義士が死を伏して顧みざる所以である。下官は聞く、仁は恃むべからず、善は依るべからずと、虚語に過ぎぬと言うも、今にして知る。伏して願わくは大王、暫く左右を停め、少しく矜察を加えられんことを。

下官は元より蓬戸桑枢の人、布衣韋帯の士であり、退いては詩書を飾って愚を驚かさず、進んでは天下に声名を買わず。日 しばら 、誤って承明の闕に昇降し、金華の殿に出入りするを得、何ぞ嘗て影を局めて厳に凝り、身を側くして禁を扃さざらんや。窃かに大王の義を慕い、復た門下の賓となり、鳴盗の浅術の余を備え、三五の賤伎の末に預かる。大王は恩光を以て恵み、顔色を以て顧み、実に荊卿の黄金の賜を佩び、窃かに 譲の国士の分に感じる。常に纓を結び剣に伏して、万一に謝し、心を剖き踵を摩して、天と為す所に報いんと欲す。図らず小人固陋にして、坐して謗缺を貽し、跡は あきら 憲に墜ち、身は幽圄に限られ、影を履み心を吊い、鼻を酸ませ骨を痛む。下官は聞く、名を虧すを辱と為し、形を虧すはこれに次ぐと、是をもって一たび念い来る毎に、忽ちとして のこ るが若し有り、これに旬月を渉り、季秋に迫るを加うれば、天光沈陰し、左右色無く、身は木石に非ず、獄吏を伍と為す。これ少卿の天を仰ぎ心を捶ち、泣き尽くして血を以て継ぐ所以である。下官は郷曲の誉に乏しと雖も、然れども嘗て君子の行を聞けり。其の上は則ち簾肆の間に隠れ、岩石の下に臥し、次は則ち綬を結び金馬の庭に、高く議して けいうん 台の上にし、退くは則ち南越の君を虜とし、単于の頸を係ぐ。俱に丹冊を啓き、並びに青史に図る。寧ろ分寸の末を争い、錐刀の利を競わんや。下官は聞く、 そし を積めば金を銷し、讒を積めば骨を摩すと。遠くは則ち じき 生、盗金に疑いを取られ、近くは則ち伯魚、不義に名せらる。彼の二才すら猶お或いは是の如し、況や下官においてをや、 ここ ぞ自ら免れん。昔、上将の恥、絳侯幽獄、名臣の羞、史遷下室、下官に至りては、当に何を言わんや。夫れ魯連の智を以てして禄を辞して反らず、接輿の賢を以てして歌を行いて帰を忘れ、子陵は東越に関を閉ざし、仲蔚は西秦に門を杜つも、亦た良く知るべし。若し下官の事虚しからず、罪実を得るとも、亦た当に口を鉗み舌を吞み、匕首に伏して身を殞さん。何を以てか斉魯の奇節の人、燕趙の悲歌の士に見えん。

方今聖曆欽明、天下楽業し、青雲は洛に浮かび、栄光は河を塞ぎ、西は臨洮・狄道に洎ぎ、北は飛狐・陽原に距るまで、仁に浸り義を沐し、景を照らし醴を飲まざるは莫く、而下官は痛みを抱きて圜門に、憤みを含みて獄戸に在り、一物の微なるも、悲しむに足る者有り。仰いで惟うに大王少しく明白を垂れ給わば、則ち梧丘の魂は沈首に愧じず、鵠亭の鬼は灰骨に恨み無からん。景素は書を覧み、即日に之を出だした。尋いで南徐州の秀才に挙げられ、対策上第し、再び府の主簿に遷る。

景素が荊州となると、淹はこれに従って鎮した。少帝即位し、多く失徳有り、景素は上流を専拠し、皆これに因って挙事を勧めた。淹は毎に従 として進諫するも、景素は納れず。京口を鎮するに及び、淹は鎮軍参軍となり、南東海郡丞を領した。景素は腹心と日夜謀議す。淹は禍機将に発せんとするを知り、乃ち詩十五首を贈って以て諷した。会うところ東海太守陸澄が艱に丁り、淹は自ら郡丞として郡事を行うべきと謂うも、景素は司馬柳世隆を用いた。淹は固くこれを求む。景素大いに怒り、選部に言い、建安郡呉興県令に貶す。

斉の高帝が政を輔けるに及び、其の才を聞き、召して尚書駕部郎・驃騎参軍事とした。 しばら かに荊州刺史沈攸之乱を作す。高帝、淹に謂いて曰く「天下紛紛として是の如し、君は何如と謂うや」淹曰く「昔、項強くして劉弱く、袁衆くして曹 すく なりしも、羽は卒に一剣の辱を受け、紹は終に奔北の虜と為る。此れ所謂『徳に在りて鼎に在らず』、公何ぞ疑わんや」帝曰く「試みに我が為に之を言え」淹曰く「公は雄武にして奇略有り、一の勝ちなり。寛容にして仁恕、二の勝ちなり。賢能力を畢くす、三の勝ちなり。人望の帰する所、四の勝ちなり。天子を奉じて叛逆を伐つ、五の勝ちなり。彼は志鋭くして器小さい、一の敗れなり。威有りて恩無し、二の敗れなり。士卒解体す、三の敗れなり。搢紳懐かず、四の敗れなり。兵を数千里に懸けて同悪相済む無し、五の敗れなり。豺狼十万と雖も、終に我が為に獲らるるなり」帝笑いて曰く「君の談過ぎたり」。

桂陽の役、朝廷周章し、詔檄久しく未だ就かず。斉高帝、淹を引き入れ中書省に、先ず酒食を賜う。淹は素より能く飲啖し、鵝の炙を食い垂んと尽くし、酒数升を進め終わり、文誥も亦た辦ず。相府建つや、記室参軍を補す。高帝の九錫及び諸の章表を譲るは、皆淹の制なり。斉、禅を受くると、復た驃騎 章王嶷の記室参軍となる。

建元二年、始めて史官を置く。淹は 司徒 しと 左長史檀超と共に其の任を掌る。為す所の条例は、並びに王儉に駁され、其の言行われず。淹は任に性に文雅、著述を懐に在らしめず、撰する所の十三篇竟に次序無し。又た東武県令を領し、詔策を参掌す。後に中書侍郎拝す。王儉嘗て謂いて曰く「卿年三十五、已に中書侍郎と為る。才学此の如し、何ぞ尚書金紫に至らざるを憂えん。所謂富貴卿自ら之を取る、但だ年寿何如なるかを問うのみ」淹曰く「明公の眷の重きを見るを悟らず」。

永明三年、尚書左丞を兼ぬ。時に襄陽人古塚を開き、玉鏡及び竹簡の古書を得る。字識るべからず。王僧虔は字体を識るに善くするも、亦た諳んぜず、直ちに云う科斗の書に似たりと。淹は科斗の字を以て之を推すと、則ち周の宣王以前なり。簡は殆ど新しきが如し。

少帝の初め、御史中丞を兼ねる。明帝が宰相となると、江淹に謂いて曰く、「君は昔、尚書中に在りし時、公事に非ざれば妄りに行わず、官に在りては寛猛能く折衷す。今、南司と為るは、以て百僚を振粛するに足るなり」と。淹曰く、「今日の事は、当官にして行うと謂うべし、更に明 むね に仰称するに足らざるを恐るるのみ」と。ここに於いて中書令謝朏、 司徒 しと 左長史王繢、護軍長史庾弘遠を弾劾し、並びに疾を托して山陵の公事に預からざるを以てす。又、前益州刺史劉悛、梁州刺史陰智伯を収むるを奏し、並びに贓貨巨万にして、輒ち収めて廷尉に付す。臨海太守沈昭略、永 よみ 太守庾曇隆及び諸郡の二千石並びに大県の官長、多く劾せられ、内外粛然たり。明帝謂いて曰く、「宋以来、復た厳明なる中丞有らず、君今日は近世独歩と謂うべし」と。累遷して秘書監、侍中、衛尉卿となる。初め、淹年十三の時、孤貧にして、常に薪を採りて以て母を養い、 かつ て樵採中に貂蟬一具を得、将に ひさ いで供養せんとす。其の母曰く、「此れ故に汝の休徴なり、汝の才行此の如し、豈に長く貧賤ならんや、留めて侍中を得て之を著くるを待つべし」と。是に至りて果たして母の言の如し。

永元中、崔慧景兵を挙げて都を囲むや、衣冠悉く名刺を投ずるも、淹は疾を称して往かず。事平ぎて後、時人其の先見に服す。

東昏の末、淹は秘書監として衛尉を兼ね、又副えて領軍王瑩を領す。梁武帝新林に至るや、淹は微服して来奔し、位は相国右長史となる。天監元年、 散騎常侍 さんきじょうじ ・左衛将軍と為り、臨沮県伯に封ぜらる。淹乃ち子弟に謂いて曰く、「吾は本より素宦にして、富貴を求めず、今の忝窃、遂に此に至る。平生、止足の事を言うも、亦以て備われり。人生楽を行わんには、須いずれの時に富貴をか。吾が功名既に立ち、正に身を草萊に帰さんと欲するのみ」と。疾を以て金紫光禄大夫に遷り、改めて醴陵伯に封ぜられ、卒す。武帝は素服して哀を挙げ、諡して憲と曰う。

淹は少くして文章を以て顕れ、晩節に至り才思微かに退く。云う、宣城太守として時に罷めて帰るや、始めて禅霊寺の渚に泊す。夜、一人夢に見え、自ら張景陽と称し、謂いて曰く、「前に一匹の錦を相寄す、今見還すべし」と。淹懐中を探りて数尺を得て之に与う。此の人大いに恚りて曰く、「那ぞ割截して都く尽くすを得ん」と。顧みて丘遅を見て謂いて曰く、「余此の数尺は既に用うる所無し、以て君に遺す」と。此れより なんぢ 来、淹の文章躓く。又嘗て冶亭に宿るに、一丈夫夢に見え、自ら郭璞と称し、淹に謂いて曰く、「吾が卿の処に筆有ること多年、以て見還すべし」と。淹乃ち懐中を探りて五色の筆一を得て以て之に授く。爾後、詩を為すに絶えて美句無く、時人これを才尽きたると謂う。凡そ著述する所、自ら前後集を撰し、並びに斉史十志、並びに世に行わる。嘗て赤県経を為さんと欲して山海の闕を補わんとすも、竟に成らず。子蒍嗣ぐ。

任昉

任昉、字は彦升、楽安博 あきらか の人なり。父は遙、斉の中散大夫。遙の兄遐、字は景遠、少くして学業を敦くし、家行甚だ謹み有り、位は御史中丞・金紫光禄大夫。永明中、遐は罪を以て将に荒裔に徙らんとす。遙は名を懐きて請訴し、言と涙交えて下る。斉武帝聞きて之を哀しみ、竟に免るるを得たり。

遙の妻は河東の裴氏、高明にして德行有り。嘗て昼に臥すに、夢に五色の采旗蓋、四角に鈴を懸け、天より墜つ有り。其の一の鈴、懐中に落ち入る。心悸えて因りて娠有り。占う者曰く、「必ず才子を生むべし」と。昉を生むに及び、身長七尺五寸、幼にして聡敏、早く神悟と称せらる。四歳にして詩数十篇を誦し、八歳にして能く文を属し、自ら月儀を製し、辞義甚だ美なり。褚彦回嘗て遙に謂いて曰く、「卿に令子有ると聞く、相為に之を喜ぶ。所謂ひ百も多からず、一も少からずと謂うものなり」と。是れより声聞藉甚たり。年十二、従叔の晷は人の量を知る有り、見て其の小名を称して曰く、「阿堆、吾が家の千里駒なり」と。昉は孝友純至にして、親の疾に侍る毎に、衣は帯を解かず、言は涙と並び、湯薬飲食は必ず先ず口を経る。

初め奉朝請と為り、兗州の秀才に挙げられ、太学博士に拝せらる。永明の初め、衛将軍王儉丹陽尹を領す、復た主簿に引く。儉其の文を見る毎に、必ず三復殷勤にして、以て当時に輩無しと為し、曰く、「傅季友以来、始めて復た任子に見る。若し孔門を用うれば、其れ入室升堂せん」と。ここに於いて昉に一文を作らしむ。及び見て曰く、「正に吾が腹中の欲を得たり」と。乃ち自ら文を出だし、昉に点正せしむ。昉因りて数位を定む。儉几を拊して歎じて曰く、「後世誰か子の吾が文を定むるを知らんや」と。其れ知らるること此の如し。

後、 司徒 しと 竟陵王の記室参軍と為る。時に琅邪の王融才俊有り、自ら当時に対するもの無しと謂う。昉の文を見て、怳然として自失す。父の喪を以て官を去り、泣血三年、杖して後ち起つ。斉武帝、昉の伯父の遐に謂いて曰く、「昉の哀瘠礼を過ぐるを聞く、人をして之を憂わしむ。直ちに卿の宝を亡うすのみに非ず、亦た時の才惜しむべし。宜しく深く相全譬すべし」と。遐、進めて飲食せしむ。当時に勉励すれども、回りて即ち嘔出す。昉の父遙は本より檳榔を重んずる性にして、以て常の餌と為す。臨終に嘗て之を求め、百許り口を剖くも、好なる者を得ず。昉も亦た嗜好する所、深く以て恨みと為し、遂に終身檳榔を嚐めず。継母の憂いに遭う。昉は先ず毀瘠に以てし、毎に一たび慟絶すれば、良久にして乃ち蘇る。因りて墓側に廬し、以て喪礼を終う。哭泣の地は、草生ぜず。昉は素より強壮にして、腰帯甚だ充つ。服闋の後は復た識るべからず。

斉明帝深く器異を加え、大いに相擢引せんと欲すれども、愛憎に白せらるる所有りて、乃ち太子歩兵 校尉 こうい を除し、東宮の書記を掌る。斉明帝、郁林王を廃すに及び、始めて侍中・ 中書監 ちゅうしょかん ・驃騎大将軍・開府儀同三司・揚州刺史・録尚書事と為り、宣城郡公に封ぜらる。昉に草を具えしむ。帝其の辞の斥するを悪み、甚だ慍る。昉も亦た是れより建武中、位は列校を過ぎず。

昉は とが も筆を長ずることを為し、頗る傅亮の才思無窮なるを慕う。当時、王公の表奏、昉に請わざるは無し。昉は草を起せば即ち成り、点竄を加えず。沈約は一代の辞宗たり、深く推挹す。永元中、意を梅蟲児に紆らす。東昏の中旨に用いられて中書郎と為る。 尚書令 しょうしょれい 王亮に謝す。亮曰く、「卿は宜しく梅に謝すべし、那ぞ忽ち我に謝する」と。昉慚じて退く。末に 司徒 しと 右長史と為る。

梁武帝建鄴を克つ。霸府初めて開く。以て驃騎記室参軍と為し、専ら文翰を主る。制書の草を作る毎に、沈約は輒ち同署を求む。嘗て急召せらる。昉出でて約在り。是れより後の文筆は、約参制す。

初め梁武帝、昉と竟陵王の西邸に遇う。従容として昉に謂いて曰く、「我三府に登らば、当に卿を以て記室と為さん」と。昉も亦た帝に戯れて曰く、「我若し三事に登らば、当に卿を以て騎兵と為さん」と。帝の騎を善くするを以てなり。是に至りて昉を引くに、昔の言に符す。昉箋を奉じて云く、「昔清宴を承け、緒言有るに属す。提挈の旨、善謔に形わる。豈に多幸を謂わんや、 の言渝らず」と。蓋し此れの為なり。梁台建つ。禅譲の文誥は、多く昉の具うる所なり。

世叔父母に奉ずるに厳親に異ならず。兄嫂に事うるに恭謹なり。外氏は貧闕なれども、恒に営奉して供養す。禄奉の収むる所、四方の餉遺は、皆親戚に班ち、即日に 便 すなは ち尽く。性通脱にして、儀形に事えず、喜慍未だ嘗て色に形せず、車服も亦た鮮明ならず。

武帝が即位すると、給事黄門侍郎、吏部郎を歴任した。出 じょきょう して義興太守となった。凶作で民が離散すると、私財の米豆で粥を作り、三千余人を救った。当時、子を産んでも育てない者がいたので、昉は制度を厳しくし、殺人と同罪とした。妊婦には費用を供給し、救われた家は千戸に及んだ。郡で得た公田の俸禄八百余石を、昉は五分の一を監督し、残りは全て免除し、自身の子供や妾は麦を食うのみであった。友人彭城の到溉とその弟の洽が昉と共に山水を遊覧した。交代されて船に乗る時には、絹七匹、米五石しかなかった。都に着いて衣類がなく、鎮軍将軍沈約が裙衫を送って迎えた。

再び吏部郎に任じられ、大選を参掌したが、職務にふさわしくなかった。まもなく御史中丞、秘書監に転じた。斉の永元以来、秘閣の四部は篇巻が紛雑していたが、昉は自ら校訂し、これによって篇目が定まった。

出向して新安太守となり、郡では身なりを気にせず、気ままに杖を引きずり、徒歩で城下を歩いた。訴訟を申し立てる者がいれば、道端で裁決した。政治は清廉で簡素であり、官吏や民衆に便利であった。官で死去し、桃花米二十石があるのみで、葬儀の用意ができなかった。遺言で新安の物を一切都に持ち帰ることを許さず、雑木の棺を用い、洗った衣で納棺するよう命じた。郡中が痛惜し、百姓は共に城南に祠堂を建て、毎年祭祀を行った。武帝は訃報を聞いた時、西苑の緑沈瓜を食べており、皿に投げつけ、悲しみに耐えられなかった。指を折りながら言った、「昉は若い頃、常に五十歳まで生きられぬことを恐れていた。今四十九歳、天命を知ったと言えよう」。即日に哀悼の礼を行い、非常に慟哭した。太常を追贈し、諡して敬子といった。

昉は交際を好み、士人や友人を奨励して推挙し、従わない者については称賛せず、その推挙を受けた者は多く昇進した。故に貴族や名士は多く彼と親交を結び、座上の客は常に数十人いた。当時の人は彼を慕い、任君と号した。漢の三君のようだと言うのである。郡では特に清廉潔白で著名であり、八十歳以上の百姓には戸曹掾を遣わして安否を訪ねさせた。かつて仏事の斎会を営もうとし、楓香二石を調達したが、三斗が納入されただけで、すぐに長く断つよう教令を出し、「取捨は自分で決め、後人に遺したくない」と言った。郡には蜜嶺と楊梅があり、以前は太守が採っていたが、昉は危険が多く死傷者が出るとして、即時に停止し、官吏や民衆は皆、百余年なかったことだと言った。家訓を作り、懇切でよく条理が通っていた。陳郡の殷芸が建安太守の到溉に書を送り、「哲人逝きて、模範は永く謝す。元亀は何に寄せ、指南は何に托すべきか」と言った。彼が士人や友人に推重されたのはこのような次第である。

昉は生業に励まず、住む家屋さえなかった。時に多く借金をすると嘲笑されたが、それもまたすぐに親戚や旧知に分け与え、常に自ら嘆いて言った、「我を知る者も叔則(任昉の字)をもってし、我を知らざる者も叔則をもってす」。文才で知られるようになると、当時の人は「任の筆、沈の詩」と言った。昉は聞いて非常に気に病んだ。晩年は転じて詩を作ることを好み、沈約を凌駕しようとしたが、故事を引用しすぎて、文章が流暢でなくなった。以来、都の士人は彼を慕い、穿鑿に転じ、ここに才尽きたという話が生まれた。博学で、書物で見ないものはなく、家は貧しいながらも、書物を集めて万余巻に及び、多くは異本であった。死去後、武帝は学士の賀縦に沈約と共にその書目を校勘させ、官にないものはその家から取らせた。著した文章は数十万言に及び、当時に盛行した。東海の王僧孺がかつて論じて、「董生(董仲 のび )や揚子(揚雄)を超えている。昉は人の楽しみを楽しみ、人の憂いを憂い、虚心で訪れ実を得て帰り、貧しさを忘れ吝嗇を去り、行いは風俗を励まし、義は人倫を厚くし、貪る者をして取らせず、懦夫をして自立せしめる」と言った。彼が重んじられたのはこのような次第である。

子に東裏、西華、南容、北叟があったが、いずれも学問や技芸がなく、家の名声を墜とした。兄弟は離散して自ら立ち上がることができず、生前の旧交で収容し救済する者はいなかった。西華は冬に葛の帔と綀の裙を着て、道で平原の劉孝標に出会い、涙を流して哀れみ、「私が卿のために計らおう」と言った。そこで『広絶交論』を著してその旧交を風刺した。

客が主人に問うて言う、「朱公叔(朱穆)の『絶交論』は是か、非か」。主人が言う、「客はどうしてこのようなことを問うのか」。客が言う、「草蟲が鳴けば阜螽が躍り、雕虎が嘯けば清風が起こる。故に気が相感じて霧湧き雲蒸し、嚶鳴が相召して星流れ電激す。これにより王陽が登用されれば貢公が喜び、 まれ 生が逝けば国子が悲しむ。かつ心は琴瑟の如く同じくし、言は蘭茞に鬱々とし、道は膠漆に協い、志は塤篪に婉孌たり。聖賢はこれにより金板を鏤り盤盂に鐫り、玉牒に書き鍾鼎に刻む。もし匠石が成風の妙巧を輟み、伯牙が流波の雅引を息め、范・張が下泉に款款たり、尹・班が永夕に陶陶たりするならば、駱驛として縦横し、煙霏として雨散し、巧曆も知らず、心計も測れない。しかるに朱益州(朱穆)は彝叙を乱し、謨訓を離れ、直切を捶ち、交遊を絶ち、黔首を鷹鸇の如く視、人霊を豺虎に比す。蒙かに猜疑あり、その惑いを弁ぜんことを請う」。主人は笑って言う、「客の言う弦を撫でて徽音を出すとは、燥湿による響きの変化に達せず、羅を張りて沮沢にすとは、鴻雁の高飛ぶを見ざるなり。そもそも聖人は金鏡を握り、風烈を闡き、龍驤し蠖屈し、道の汚隆に従う。日月は連璧となり、亹亹たる弘致を賛し、雲飛び雷薄きは、棣華の微旨を顕わす。五音の変化の如く、九成の妙曲を成すがごとし。これ朱生が赤水に玄珠を得、神睿を謨して言と為す所以なり。およそ仁義を組織し、道徳を琢磨し、その愉楽を歓び、その陵夷を恤み、通じるを霊台の下に寄せ、跡を江湖の上に遺し、風雨急なれどもその音を輟めず、霜雪零れどもその色を渝えざる、これ賢達の素交にして、万古を歴て一遇するなり。叔世に逮びて人訛り、狙詐飆起し、溪谷もその険を踰えず、鬼神もその変を究めず、毛羽の軽きを競い、錐刀の末に趨く。ここに素交尽き、利交興り、天下蚩蚩として、鳥驚き雷駭す。然りといえども利交は同源にして、派流は則ち異なり、その略を較べて言えば、五術あり。

もしその寵が董賢・石顕に均しく、権が梁冀・竇憲を圧し、百工を雕刻し、万物を炉錘し、吐嗽して雲雨を興し、呼吸して霜露を下し、九域その風塵に聳え、四海その熏灼を たた すならば、影を望んで星奔し、響きに藉りて川 はし せざるはない。雞人始めて唱え、鶴蓋陰を成し、高門旦に開け、流水軫に接す。皆、頂より踵まで摩し、胆を隳し腸を抽さんことを願い、 もと 離が妻子を焚くに同じく約し、荊卿に殉じて七族を湛んずると誓う。これを勢交と曰い、その一流なり。

富は陶朱公・白圭に埒し、財は程鄭・羅裒に巨し、山に銅陵を擅にし、家に金穴を蔵し、平原に出でて騎を聯ね、里閈に居て鍾を鳴らす。ここに窮巷の賓、繩樞の士あり、宵燭の末光を冀い、潤屋の微澤を邀う。魚貫し鳧踴し、颯遝として鱗萃し、雁鶩の稻粱を分かち、玉斝の われ 瀝を沾う。恩遇を銜み、款誠を進め、青松を援りて心を示し、白水を指して信を旌す。これを賄交と曰い、その二流なり。

陸大夫(陸賈)は西都で宴喜し、郭有道(郭 やす )は東国で人倫を弁じ、公卿はその籍甚たるを貴び、搢紳はその登仙を羨む。これに頤を顩め頞を蹙め、涕唾流沫し、黄馬の劇談を騁け、碧雞の雄弁を縱うするを加うれば、溫燠を敘すれば寒谷暄となり、嚴苦を論ずれば春叢葉を零す。飛沈その顧指に出で、榮辱その一言に定まる。ここに弱冠の王孫、綺紈の公子あり、道は通人に掛からず、聲は雲閣に遒せず、その鱗翼に攀じ、その餘論を丐い、騏驥の旄端に附し、碣石に歸鴻を軼す。これを談交と曰い、その三流なり。

陽は舒き陰は いた み、生霊の大情、憂ひは合ひ歡は離れ、品物の恒性なり。故に魚は泉涸れて 呴沫 くばつ し、鳥は将死にして哀鳴す。同病相憐み、河上の悲曲を つづ り、恐懼を懐に置き、穀風の盛典を昭かにす。斯れ則ち断金は 湫隘 しゅうあい に由り、刎頸は 苫蓋 せんがい に起る。是を以て伍員は 宰嚭 さいひ 濯溉 たくがい せられ、張王は陳相に 撫翼 ぶよく せらる。是を窮交と曰ひ、其の流四なり。

馳鶩 ちぼう の俗、 澆薄 ぎょうはく の倫、權衡を操らず、 纖纊 せんきょう を執らざるは無し。衡は以て其の輕重を はか り、纊は以て其の鼻息を ぐ。若し衡舉ぐること能はず、纊飛ぶこと能はざれば、顏・ がんぜん 龍翰鳳鶵 りゅうかんほうすう たりと雖も、曾・史 蘭熏雪白 らんくんせっぱく たりと雖も、舒・向 金玉泉海 きんぎょくせんかい たりと雖も、卿・雲 黼黻河漢 ふふつかかん たりと雖も、遊塵の若く視、 さまたげ どこう に同じく遇ひ、其の 半菽 はんしゅく を費やすを がえん ぜず、其の一毛を落とすこと罕なり。若し 衡錙銖 ししゅ を重くし、 纊彯撇 ひょうへつ 微なりと雖も、共工の 搜慝 そうとく 驩兜 かんとう の掩義、南荊の跋扈、東陵の巨猾、皆な 匍匐委蛇 ほふくいだ し、 折枝舐痔 せっししじ す。 金膏翠羽 きんこうすいう 其の意を び、 脂韋便辟 しいべんぺき 其の誠を導く。故に輪蓋の遊ぶ所、必ず夷・惠の室に非ず、 包苴 ほうしょ の入る所、實に張・霍の家を行ふ。謀して後動き、 芒豪 ぼうごう 寡なく たが ふ。是を量交と曰ひ、其の流五なり。

凡そ斯の五交は、 義賈鬻 こしょく に同じ。故に桓譚は之を 闤闠 かんかい に譬へ、林回は之を 甘醴 かんれい に諭す。夫れ 寒暑遞 たが ひ進み、盛衰相襲ひ、或は前榮にして 後悴 し、或は始め富みて終に貧しく、或は初め存して末に亡び、或は古は約にして今は泰し。回圈翻覆、 はや きこと波瀾の若し。此れ則ち利に したが ふの情未だ嘗て異ならず、變化の道一たるを得ず。是に由りて觀れば、張・陳の凶終する所以、蕭・朱の隙末する所以、斷然として知るべし。而して 翟公方 まさ に規規然として門を とざ して以て客を いさ めしは、何ぞ見る所の晚きや。然れども此の五交に因りて、是れ三釁を生ず。德を敗り義を つ、 禽獸相若 あいごと し、一釁なり。固くし難く たも ち易く、 讎訟 しゅうしょう あつ まる所、二釁なり。 名饕餮 とうてつ に陷り、貞介の羞づる所、三釁なり。古人三釁の梗となるを知り、五交の速やかに尤を爲すを懼れ、故に王丹は子を 榎楚 かそ にて威し、朱穆は言を昌にしてして絕つことを示せり。旨有る哉、旨有る哉。

近世樂安任昉有り、海内の 髦傑 ぼうけつ 、早く銀黄を わん じ、 つと に人 を昭かにす。 遒文麗藻 しゅうぶんれいそう 、曹・王に 方駕 ほうが し、 英跱俊邁 えいちしゅんまい 、許・郭に 聯衡 れんこう す。田文の客を愛するに類ひ、鄭莊の賢を好むに同じ。一善を見れば則ち 盱衡扼腕 くこうやくわん し、一才に遇へば則ち 揚眉 ようびししょう す。 雌黃 しこう 其の唇吻より出で、朱紫其の 月旦 げったん に由る。是に於て 冠蓋輻湊 ふくそう し、衣裳雲合し、 輜軿 しへい せい を擊ち、坐客恒に滿つ。其の 閫閾 こんいき を蹈むは、 闕里 けんり の堂に升るが若く、其の 隩隅 おうぐう に入るは、龍門の阪に登るを謂ふ。 顧眄 こべん に至りては其の倍價を增し、 翦拂 せんふつ して其の長鳴を爲さしむ。 彯組 ひょうそ 雲台する者は肩を摩し、 趨走丹墀 たんち する者は跡を疊む。恩狎を締め、 綢繆 ちゅうびゅう を結ばざる莫し。惠・莊の清塵を想ひ、羊・左の 徽烈 きれつ に庶からんとす。及んで東粵に瞑目し、洛浦に骸を歸すに、 繐帳 すいちょう 猶ほ懸り、門に漬酒の 彥罕 まれ にし、墳未だ宿草せず、野に動輪の賓絕ゆ。 藐爾 ばくじ たる諸孤、朝に夕を謀らず、大海の南に流離し、 瘴癘 しょうれい の地に命を寄す。昔より把臂の英、金蘭の友、曾て羊舌の下泣の仁無く、 いづ くんぞ 郈成 こうせい の分宅の德を慕はんや。嗚呼、 世路嶮歧 けんき 、一に此に至る。太行孟門、豈に 鏩絕 ざんぜつ せんと云はんや。是を以て耿介の士、其の斯の若きを疾み、裳を裂きて足を つつ み、之を棄てて長く鶩る。獨立して高山の頂に在り、歡びて麋鹿と群を同じくし、 曒曒然 こうこうぜん として其の 雰濁 ふんだく を絕つは、誠に之を恥づるなり、誠に之を畏るるなり。」到溉其の論を見て、 を地に抵し、終身之を恨む。昉雜傳二百四十七卷を撰し、地記二百五十二卷、文章三十三卷有り。東裏位は尚書外兵郎。

王僧孺

王僧孺、字は僧孺、 東海郯 たん の人なり。魏の衛將軍肅の八世の孫なり。曾祖雅、 しん の左光祿大夫・儀同三司。祖准之、宋の 司徒 しと 左長史。父延年、員外常侍、拜せずして卒す。

僧孺幼くして聰慧、年五歳にして便ち機警、初め孝經を讀み、授くる者に問ひて曰く、「此の書何の述ぶる所ぞ。」曰く、「忠孝の二事を論ず。」僧孺曰く、「若し爾らば、願はくは常に之を讀まん。」又其の父に冬李を おく る者有り、先づ一を以て之に與ふ。僧孺受けず、曰く、「大人未だ見ず、容れずして先づ嘗む。」七歳にして十萬言を讀むことを能くし、長ずるに及びて篤く墳籍を愛す。家貧しく、常に書を やとは れて以て母を養ひ、寫し畢りて諷誦するも 亦了 おは る。

齊に仕へて太學博士と爲り、尚書僕射王晏深く相賞好す。晏丹陽尹と爲り、召して功曹を補はしめ、東宮新記を撰せしむ。 司徒 しと 竟陵王子良西邸を開き、文學を招く。僧孺太學生虞羲・丘國賓・蕭文琰・丘令楷・江洪・劉孝孫と並びに善く辭藻を以て焉に遊ぶ。而して僧孺高平の徐夤と俱に學林と爲る。文惠太子以て宮僚と爲さんと欲し、乃ち召し入れて崇明殿に直せしむ。會ひて薨ず。出でて しん 安郡丞と爲り、 りて候官令を除く。建武初め士を舉ぐ。始安王遙光の薦むる所と爲り、儀曹郎を除き、書侍御史に遷り、出でて錢唐令と爲る。初め僧孺樂安任昉と竟陵王の西邸に遇ひ、文學を以て友を會す。縣に將かんとするに及び、昉詩を贈りて曰く、「唯だ子見知られ、唯だ餘子を知る。行を觀言を視、終を要むるも猶ほ始めの如し。之を敬し之を重くす、蘭の如く芷の如し。形應じ影隨ふ、 さき に行き今止む。百行の首、人を立つる斯れ著し。子之を有てば、誰か毀り誰か譽めん。修名既に立ち、老至ること何ぞ には かならん。誰か其の鞭を執らん、吾子が爲に ぎょ せん。劉略班藝、虞志荀錄、 の昔懷ひ有り、交はり 相欣勖 きんきく す。下帷倦むこと無く、 升高屬 く有り。嘉しむ爾が晨に登るを、惜しむ餘が夜の燭を。」其の士友に推重せらるること此の如し。

梁の天監初め、臨川王后軍記室を除き、文德省に待詔す。出でて南海太守と爲る。南海の俗牛を殺すこと、曾て限忌無し。僧孺至れば便ち禁斷す。又外國の舶物・高涼の生口、歲數至る。皆な外國の賈人、貨易を通ずるを以てす。舊時州郡市に就き、回りて即ち賣り、其の利數倍す。曆政以て常と爲す。僧孺歎じて曰く、「昔人蜀部長史と爲り、終身蜀の物無し。吾子孫に遺さんと欲する者、越裝に在らず。」並びに取る所無し。事に視ること二歲、聲績聞こゆ。詔して征し將に還らんとす。郡中の道俗六百人闕に詣りて留め請ふ。許さず。至りて中書侍郎を拜し、著作を領し、復た文德省に直る。起居注・中表簿を撰し、尚書左丞に遷り、俄くして御史中丞を兼ぬ。僧孺幼く貧しく、其の母紗布を鬻ぎて以て自ら業と爲す。嘗て僧孺を攜へて市に至る。道中丞の鹵簿に遇ひ、驅迫せられて溝中に墜つ。是に及びて拜する日、 すう を引いて道を清め、悲感自ら勝へず。頃くして即眞す。

時に武帝は春景明志詩五百字を制し、沈約以下の辞人に勅して同作せしむ。帝は僧孺の作を工とす。少府卿を歴任し、尚書吏部郎となり、大選に参じ、請謁行はれず。出でて仁威南康王長史・蘭陵太守となり、府・州・国事を行ふ。初め、帝僧孺に妾媵の数を問ふ。対へて曰く「臣の室に傾視無し」と。南徐州に在りし時、友人の妾を寓せしむ。行きて還るに及び、妾遂に孕む。王典籤湯道湣に糾され、南司に逮詣し、官を免ぜらる。久しく調せず。友人廬江の何炯猶ほ王府記室たり。僧孺乃ち炯に書を与へて其の意を見す。後に安成王参軍事・鎮右中記室参軍となる。

僧孺は文を属するに工にして、楷隷を善くし、古事を多く識る。侍郎全元起素問を注せんと欲し、砭石を以て訪ふ。僧孺答へて曰く「古人は当に石を以て針と為すべし、必ずしも鉄を用ひず。説文に此の砭の字有り。許慎云ふ『石を以て病を刺すなり』と。東山経に『高氏の山は針石多し』と。郭璞云ふ『以て砭針と為すべし』と。春秋に『美疢は悪石に如かず』と。服子慎注に云ふ『石は砭石なり』と。季世には復た佳石無し、故に鉄を以て之に代ふるのみ」と。

北中郎諮議参軍に転じ、西省に入り直し、譜事の撰を知る。是に先だち、 尚書令 しょうしょれい 沈約以爲く「 しん の咸和の初め、蘇峻乱を作し、文籍遺ること無し。後に咸和二年より起りて宋に至るまで、書する所並びに皆詳実なり。並びに下省左戸曹前廂に在り、之を しん 籍と謂ひ、東西二庫有り。此の籍は既に精詳を並せ、実に宝惜す可し。位宦の高卑、皆案に依る可し。宋の元嘉二十七年、始めて七条を以て徴発す。既に此の科を立て、人奸互ひに起り、偽状巧籍、歳月に滋く広し。斉に至りて、其の実ならざるを患へ、是に於て東堂に籍を校し、郎令史を置きて以て之を掌らしむ。競ひて奸貨を行ひ、新を以て故に換ふ。昨日は卑細、今日便に士流と成る。凡そ此の奸巧は、並びに愚下より出づ。年号を弁へず、官階を識らず。或は隆安を注して元興の後に在り、或は義熙を以て寧康の前に在りとす。此時此の府無く、此時此の国無し。元興に唯だ三年有るのみにて、猥りに四・五と称す。詔書の甲子、長暦と相応せず。籍を校する諸郎も亦覚えず、不才の令史固より言を忘る。臣謂ふ、宋・斉二代、士庶分たず、雑役減闕するは、職是に由るなりと。窃かに晋籍の余る所を以て、宜しく宝愛を加ふべしとす」と。武帝是を以て譜籍に留意し、州郡多く其の罪を離る。因りて詔して僧孺に百家譜を改定せしむ。始め しん の太元中、員外散騎侍郎平陽の賈弼簿状を篤く好み、乃ち広く衆家を集め、群族を大いに搜し、撰する所十八州一百一十六郡、合せて七百一十二巻。凡そ諸の大品、略ね遺闕無く、秘閣に蔵し、左戸に副ふ。弼の子太宰参軍匪之・匪之の子長水 校尉 こうい 深世其の業を伝ふ。太保王弘・領軍将軍劉湛並びに其の書を好む。弘は日に千客に対し、一人の諱を犯さず。湛は選曹と為り、始めて百家を撰して銓序を助く。而して寡略に傷つく。斉の衛将軍王儉復た去取を加へ、繁省の衷を得たり。僧孺の撰は、范陽張等九族を通して以て雁門解等九姓に代ふ。其の東南の諸族は別に一部と為し、百家の数に在らず。普通二年卒す。

僧孺は墳籍を好み、書を聚めて万余巻に至る。率ね多く異本なり。沈約・任昉の家書と埒し。少しく志を篤くし精力を尽くし、書に睹ざる所無し。其の文は麗逸にして、多く新事を用ふ。人の未だ見ざる所、時に其の富博を重んず。十八州譜七百一十巻を集む。百家譜集抄十五巻。東南譜集抄十巻。文集三十巻。両台弾事は集に入れず、別に五巻と為す。及び東宮新記並びに世に行はる。

虞羲は字は士光、会稽余姚の人。才藻盛んにして、晋安王侍郎に卒す。丘国賓は呉興の人。才志を以て遇はれず、書を著して揚雄を譏る。蕭文琰は蘭陵の人。丘令楷は呉興の人。江洪は済陽の人。竟陵王子良嘗て夜に学士を集め、燭を刻みて詩と為す。四韻の者は則ち一寸を刻む。此を以て率と為す。文琰曰く「一寸の燭を頓に焼きて、四韻の詩を成す、何の難きか有らん」と。乃ち令楷・江洪等と共に銅缽を打ちて韻を立て、響滅すれば則ち詩成る。皆観覧す可し。劉孝孫は彭城の人。博学通敏なり。而して仕へ多く遂げず。常に歎きて曰く「古人或は一説を開きて卿相に致り、談を立つる間に白璧を降す。書籍妄りなるのみ」と。徐夤は高平の人。学行有り。父栄祖は位は秘書監。嘗て罪有りて獄に繋がる。旦日に之を原く。而して髪皓白す。斉の武其の故を問ふ。曰く「臣は愆を内に思ひ、而して発は外に変ず」と。当時に之を称す。

【論】

論ずるに曰く、二漢は士を求め、先づ経術に率ひ、近代は人を取るに、多く文史に由る。江・任の効用する所以を観るに、蓋し亦其の時に会ふなり。而して淹は実に先覚にして、之に沈静を以て加ふ。昉は乃ち旧恩にして、之を内行を以て持す。其の名位自ら畢る所以は、各其の宜なるか。僧孺は碩学なり。而して中年に躓きに遭ふ。不遇と為さず、斯れ乃ち窮通の数なり。

原本を確認する(ウィキソース):南史 巻059