韋叡・裴邃
韋叡は継母に仕えて孝行で知られた。祖父の韋祖征は累代郡守を務め、赴任するたびに叡を連れて行き、実の子のように遇した。当時、叡の母方の従兄王憕と姨弟の杜惲はともに郷里で盛名を有していた。祖征は叡に言った、「お前は自分で憕や惲と比べてどうだと思うか」。叡は謙遜して答えられなかった。祖征は言った、「お前の文章は少し劣るかもしれぬが、学識は彼らを超えている。しかし国家を治め、功業を成すことでは、皆お前に及ばぬであろう」。外兄の杜幼文が梁州刺史となった時、叡を誘って同行させた。梁州の地は富饒で、赴任者の多くは賄賂で失敗したが、叡は幼いながらも、ただ一人清廉で知られた。
宋の永光の初め、袁顗が雍州刺史となって叡を見て異才と認め、主簿に抜擢した。袁顗が州に着任すると、鄧琬とともに兵を挙げた。叡は外任を願い出て義成郡太守となり、袁顗の禍に巻き込まれることを免れた。累進して斉興太守、本州別駕、長水校尉、右軍将軍となった。斉末は多難であったため、郷里に帰りたいと願い、上庸太守を求めた。
ほどなく太尉陳顕達・護軍将軍崔慧景がたびたび建鄴に迫り、人心は恐れ騒いだ。西方の人士が叡に相談すると、叡は言った、「陳は旧将ではあるが高才ではなく、崔は多少は事を経ているが臆病で武勇に欠ける。天下の真の主は、おそらく我が州から興るであろう」。そこで二人の息子を遣わして梁武帝に結びつけた。挙兵の檄文が届くと、叡は郡民を率いて竹を伐り筏を作り、倍の速さで行軍して参じた。二千の兵と二百匹の馬を有していた。帝は叡を見て大いに喜び、机を撫でて言った、「かつては君の顔を見たが、今日は君の心を見た。我が事は成就するであろう」。軍が郢・魯を攻略し、加湖を平定した際、叡は多くの策略を建て、すべて採用された。
大軍が郢を発し、留守の将を選ぶにあたり、帝は適任者に難渋した。しばらくして叡を見て言った、「騏驥を捨てて乗らず、どうして慌てて他を探す必要があろうか」。即日、叡を江夏太守とし、郢州府事を行わせた。初め、郢城が抗戦した時、男女合わせて十万近くが籠城し、一年を経て疫病で死者は十の七、八に及び、皆死体を床下に積み、生きている者はその上で寝起きし、どの家も満ちあふれていた。叡は選別し隠れた者を憐れみ、すべてを処理し、百姓は彼に頼った。
四年、魏を侵攻するにあたり、詔により叡は諸軍を都督した。叡は長史王超宗・梁郡太守馮道根を遣わして魏の小峴城を攻撃させたが、陥落させられなかった。叡が囲みの柵を巡行すると、魏の城中から突然数百人が城外に出て陣を布いた。叡はこれを撃とうとした。諸将は皆言った、「先ほどは軽装で来ました。甲冑を取ってから戦うことを請います」。叡は言った、「魏の城中には二千余人がおり、門を閉じて堅守すれば自保に足る。今、理由もなく外に出てきたのは、必ずやその驍勇の者であろう。もしこれを挫くことができれば、城はおのずから陥ちる」。兵士たちはなおも躊躇したので、叡はその節(符節)を指して言った、「朝廷がこれを授けたのは、飾りとするためではない。韋叡の法は、犯すべからざるものである」。そこで進軍し、魏軍は敗れ、急いで攻撃したところ、夜明け前に城を陥落させた。そこで合肥を討つべく進軍した。
先に右軍司馬胡景略が合肥に至ったが、長く陥せなかった。叡は山川の地形を調べて言った、「『汾水をもって平陽を灌ぐことができる』と聞くが、まさにこれである」。そこで肥水に堰を築いた。ほどなく堰が完成し水路が通じ、舟艦が続々と到着した。魏は初め東西の二つの小城を築き、合肥を挟んでいた。叡はまずこの二城を攻撃した。やがて魏の援将楊霊胤が五万の軍を率いて急に到来し、兵士たちは敵わぬことを恐れ、増援を上表するよう請うた。叡は言った、「賊はすでに城下に至っているのに、今さら軍を求めるのか。しかも我が援軍を求めれば、彼らもまた兵を徴発するであろう。『師は和を以て克つ』とは、古人の教えである」。そこで戦い、これを破り、軍人はようやく安堵した。
初め、肥水の堰が築かれると、軍主の王懐静に命じて岸に城を築かせ守らせたが、魏がこの城を攻め落とし、勝ちに乗じて叡の堤の下まで迫った。軍監の潘霊佑は叡に退いて巣湖に還るよう勧め、諸将もまた三釜に退いて守るよう請うた。叡は怒って言った、「将軍は退却の際に死すべきであり、前に進むのみで退くことはない」。そこで傘・扇・麾・幢を取って来させ、堤の下に立てて、動揺せぬ意志を示した。叡は元来病弱で、戦のたびに馬に乗らず、板輿に自ら乗り、諸軍を督励した。魏兵が堤を穿つと、叡は自ら争った。魏軍が退くと、堤に堡塁を築いて自らを固めた。さらに合肥城と同じ高さの戦艦を造り、四方から城に臨んだ。城は潰え、一万余りを捕虜とし、得た軍需物資は一切私せずに収めた。初め、胡景略と前軍の趙祖悦は同じ軍にありながら仲が悪く、互いに陥れようとしていた。景略は怒ると、自ら歯を噛み、歯はみな血を流した。叡は将帥の不和が禍を招くと考え、自ら酒を酌んで景略に勧めて言った、「どうか両将軍が私闘を繰り返さぬことを願う」。このため、この戦役の終わりまで害がなかった。
叡は昼は賓客や旅人と接し、夜は軍書を計算し、三更(深夜)に起きて灯をともし夜明けまで務め、兵士を慰撫激励することを常に怠らず、志願する兵士は争って彼のもとに帰した。赴任する先々では宿営地を整備し、館舎・垣根・壁などすべて規矩に合っていた。
合肥が平定されると、詔により軍を返すこととなった。魏軍に近いため、追撃されることを恐れた。叡はすべての輜重を先に行かせ、自らは小輿に乗って最後尾を守った。魏人は叡の威名を畏れ、遠くから見て敢えて迫らず、全軍は無事に帰還した。そこで豫州の州治を合肥に移した。
五年、魏の中山王元英が北徐州を攻撃し、刺史の昌義之を鍾離に包囲した。兵は百万、連なる城は四十余りに及んだ。武帝は征北将軍曹景宗を遣わしてこれを防がせた。邵陽洲に駐屯し、堡塁を築いて対峙したが、進撃しようとしなかった。帝は怒り、詔を下して叡をこれに合流させ、龍環の御刀を賜って言った、「諸将で命令に従わぬ者があれば斬れ」。叡は合肥から陰陵の大沢を直行し、澗谷を過ぎるたびに飛橋を架けて軍を渡した。人々は魏軍の勢いを恐れ、多くは叡にゆっくり進むよう勧めた。叡は言った、「鍾離の者は今、穴を掘って住み、戸を背負って水を汲んでいる。車を走らせ兵を駆けてもなお遅いと恐れるのに、ましてゆっくりしていてよいものか」。十日で邵陽に到着した。初め、帝は景宗に命じて言った、「韋叡は卿の郷里の名望家である。よく敬うがよい」。景宗は叡に会うと非常に謹んで接した。帝はこれを聞いて言った、「二将が和すれば、軍は必ず成功するであろう」。叡は景宗の陣営の前二十里に、夜に長い塹壕を掘り、鹿角を立て、洲を分断して城とし、夜明けには陣営が完成した。元英は大いに驚き、杖で地面を叩いて言った、「これは何という神か」。景宗は城中の危惧を慮り、軍士の言文達・洪騏驎らを募り、密勅を持たせて城中に入れ、守りを固めさせるよう伝えさせた。彼らは水底を潜行し、東城に到達した。城中では戦いと守りに日々苦しんでいたが、ようやく援軍があることを知り、人々は百倍の勇気を得た。
魏の将軍楊大眼が一万余騎を率いて戦いに来た。大眼は勇気が三軍に冠たり、向かうところ皆靡いた。韋叡は車を結んで陣を為し、大眼は騎兵を集めてこれを囲んだ。韋叡は強弩二千を以て一時に俱に発し、甲冑を貫き中て、殺傷する者衆し。矢は大眼の右臂を貫き、亡魂して走った。明くる朝、元英自ら衆を率いて戦いに来た。韋叡は素木の輿に乗り、白角の如意を執って軍を麾し、一日に数度合戦し、英は其の強きを甚だ憚った。魏軍また夜来して城を攻め、飛矢雨の如く集まる。韋叡の子黯、城を下りて箭を避けんことを請うたが、韋叡は許さず。軍中驚き、韋叡城上に於いて厲声に呵して乃ち定まった。
魏人は先だって邵陽洲の両岸に両橋を為し、柵を数百歩樹て、淮を跨いで通道とした。韋叡は大艦を装備し、梁郡太守馮道根・廬江太守裴邃・秦郡太守李文釗等をして水軍たらしめた。時に淮水暴漲し、韋叡即ち之を遣わし、闘艦競い発ち、皆賊の壘に臨んだ。小船に草を載せ、之に膏を灌ぎ、従って其の橋を焚く。風猛く火盛んで、敢死の士柵を抜き橋を斬り、水また漂疾にして、倏忽の間に、橋柵尽く壞れた。道根等は皆身自ら搏戦し、軍人奮勇し、呼聲天地を動かし、一も百に当たらざるは無かった。魏人大いに潰え、元英は身を脱して遁走した。魏軍水に趨って死する者十余万、斬首も亦之の如く、其の余甲を釋き稽顙して囚奴たらんことを乞う猶数十万。韋叡、昌義之に報ぜしめしに、義之は且つ悲しみ且つ喜び、答える暇なく、只叫んで曰く「更生!更生!」と。帝は中書郎周舍を遣わして淮上に於いて軍を労した。韋叡、獲たる所を軍門に積む。舍之を観て、韋叡に謂ひて曰く「君此の獲、復た熊耳山と等し」と。功を以て侯に進爵せられた。
七年、左衛將軍に遷り、俄かに安西長史・南郡太守となる。時に司州刺史馬仙琕が北より軍を還すに及び、魏人に躡はれ、三關擾動す。詔して韋叡に衆軍を督して援げしむ。韋叡安陸に至り、城を二丈余増築し、更に大塹を開き、高樓を起す。衆頗る其の弱を示すを譏る。韋叡曰く「然らず、将たる者は怯む時有るべし」と。是の時、元英復た仙琕を追ひ、将に邵陽の恥を復たんとし、韋叡の至るを聞いて乃ち退き、帝も亦詔して軍を罷めしむ。
韋叡は雅に曠世の度有り、人に蒞むに愛惠を本とし、居る所必ず政績有り。兵を将するに仁愛を以てし、士卒の營幕未だ立たざれば終に肯て舍てず、井竈未だ成らざれば亦先だって食せず。被服必ず儒者に於いてし、陣に臨み交鋒するに雖も、常に緩服して輿に乗り、竹の如意を執って進止を麾し、裴邃と俱に梁世の名将たり、余人及ばず。
初め、邵陽の役に、昌義之は韋叡を甚だ德とし、曹景宗に請ひて韋叡と會せしめ、因りて錢二十万を設けて官賭す。景宗は擲して雉を得、韋叡は徐ろに擲して盧を得、遽かに一子を取りて之を反し、曰く「異事なり」と。遂に塞を作る。景宗は時に群帥と爭ひ先に捷を啓くに、韋叡獨り後れに居り、其の勝を尚ばざる率多く是の如し。世尤も此を以て之を賢とす。
韋叡の兄纂・闡、並びに早く知名なり。纂は齊に仕へて司徒記室・特進の位に至り、沈約嘗て上に於いて纂を稱して曰く「陛下が此人と同時ならざるを恨む。其の學は臣輩に非ず」と。闡は建寧縣令たりし時、得たる俸祿百余万、家に還り悉く伯父に委ねて處分せしめ、郷里之を宗事す。通直郎の位に至る。
韋叡の子放、字は元直、身長七尺七寸、腰帶八圍、容貌甚だ偉なり。永昌縣侯の封を襲ぎ、竟陵太守の位に至る。郡に在りて和理、吏人に稱せらる。
韋放の性は弘厚篤實にして、財を輕んじ施すを好み、諸弟に對して尤も雍穆なり。每たび遠別せんとし及び行役初めて還る時、常に一室に臥起を同じくし、時に之を三薑に比す。初め、韋放は吳郡の張率と共に側室懷孕す。因りて指して婚姻と為す。其の後各々男女を産む。未だ成長せずして率亡ぶ。遺嗣孤弱なり。韋放常に之を贈恤す。北徐州となるに及び、時に貴族婚姻を請ふ者有り。韋放曰く「吾は故友に失信せず」と。乃ち息の岐を以て率の女を娶り、又以て女を率の子に適せしむ。時に韋放の舊を篤くする能きを稱す。子に粲有り。
韋粲は字を長倩といい、幼少より父の風格があり、学問を好み気概を重んじ、身長八尺、容貌甚だ偉大であった。初め雲麾晋安王行参軍となり、後に外兵参軍兼中兵となった。当時潁川の庾仲容・呉郡の張率は先輩の才名あり、粲と同府にあり、ともに年齢を忘れて交誼を結んだ。王が皇太子となると、粲は記室より歩兵校尉に遷り、入って東宮領直となり、後に爵を襲い永昌県侯となり、累遷して左衛率、領直となった。粲は旧恩により、任寄は密接であり、職務は累次移ったが、常に宿衛に留まった。頗る権勢を擅にして傲慢であり、当時の人々に平らかにされなかった。右衛朱異は嘗て酒席において厳しい顔色で粲に謂って曰く、「卿はどうして既に領軍となって人に向かうのか」と。大同年間、帝は嘗て不豫であり、一日急に劇しくなり、皇太子以下皆入って侍疾し、内外皆帝の崩御を云った。粲は宮甲を率いて台を渡らんとし、微かに喜色があり、何故長梯を準備しないのかと問うた。大行が前殿に幸するに、長梯を以て復するを須いると為したのである。帝後にこれを聞き、怒って曰く、「韋粲は我が死を願う」と。有司は推問するを奏したが、帝は曰く、「各々其の主の為にあり、推すに足らず」と。故に出して衡州刺史と為した。皇太子は出て新亭に餞し、粲の手を執って曰く、「卿と久しき別れとは為さじ」と。久しくして、帝は復た召し還して散騎常侍と為した。
先に、安北鄱陽王範も亦合肥より自ら西豫州刺史裴之高と其の世子嗣に江西の衆を帥いて都に赴かしめ、張公洲に屯し、上流諸軍を待った。是に至り、之高は船を遣わして仲礼を渡し、粲と合軍して進み新林王游苑に屯す。粲は建議して仲礼を推して大都督と為し、下流衆軍に報ぜしむ。裴之高は自ら年位高きを以て、其の下に居るを恥じた。乃ち云う、「柳節下は已是れ州将なり、何ぞ須いん我が復た鞭板を為さんを」と。累日決せず。粲は乃ち衆に抗言して曰く、「今国難に同赴し、義は賊を除くに在り、柳司州を推する所以は、政に久しく辺疆を捍ぎ、先ず侯景に憚らるるが故なり。且つ士馬精鋭、其の前に出づる者無し。若し位次を論ずれば、柳は粲の下に在り、其の年歯を語れば、亦粲より少なし。直に社稷の計を以てするに、復た論ずるを得ず。今日の貴きは将和に在り、若し人心同じからずんば、大事去らん。裴公は朝の旧歯なり、豈に応に復た私を挟みて大計を阻むべけんや。粲は諸君の為に之を解釈せんことを請う」と。乃ち単舸にて之高の営に至り切に之を譲る。之高は泣いて曰く、「吾は国栄を荷い、自ら応に士卒を率先すべし、顧みるに衰老を恨み、効命する能わず、柳使君と共に凶逆を平げんことを企望す。前に衆議已に定まるを謂い、老夫を俟たず爾り。若し必ず疑い有らば、当に心を剖きて相示すべし」と。是に於いて諸将議を定め、仲礼方に進軍を得る。新亭に次ぎ、賊は中興寺に陣を列ね、相持して晚に至り各々解けて帰る。
是の夜、仲礼は粲の営に入り衆軍を部分し、旦日に将に戦わんとし、諸将各々据守有り。粲をして青塘に頓せしめ、石頭の中路に当たらしむ。粲は柵壘未だ立たざるを慮り、賊之を争わんことを憚り、頗る之を以て憚りと為し、仲礼に謂いて曰く、「下官の才は侮を禦うるに非ず、直ちに身を以て国に徇わんと欲するのみ、節下宜しきを善く量り、致して虧喪有るべからず」と。仲礼は曰く、「青塘に営を立つるは、淮渚に迫近し、糧儲船乗を以て尽く之に就き迫らんと欲するなり。此の事大なり、兄に非ざれば可からず。若し兵少なきを疑わば、当に更に軍を差して相助けん」と。粲は帥る所の部を水陸倶に進ます。時に昏霧あり、軍人道を失い、青塘に及ぶ比、夜は已に半を過ぎ、壘柵は曉に至るも未だ合せず。景は禅霊寺の門に登り、粲の営の未だ立たざるを望み、便ち鋭卒を率いて来り攻む。軍敗れ、勝に乗じて営に入る。左右の高馮が粲を牽きて賊を避けんとすれども、粲は動かず、兵は死に略く尽き、遂に害せらる。粲の子尼及び三弟助・警・構、従弟昂皆戦死し、親戚死する者数百人。賊は粲の首を伝えて闕下に至らしめ、以て城内に示す。簡文之を聞きて流涕し、御史中丞蕭愷に謂いて曰く、「社稷の寄する所、唯だ韋公に在り、如何ぞ不幸、先に行陣に死する」と。詔して護軍将軍を贈る。元帝侯景を平げ、追諡して忠貞と曰う。
子の諒は、学業を以て陳の始興王叔陵に引かれ、中録事参軍兼記室と為る。叔陵敗れ、伏誅す。放の弟正。
正は字を敬直といい、位は襄陵太守に至る。初め、正は東海王僧孺と善し、僧孺が吏部郎となり、大選を参掌するに及び、賓友故人莫か傾意せざる者無かりしも、正独り澹然たり。僧孺が擯廢せらるるに及び、正は復た素分を篤くし、曩日に踰える有り、論者之を称す。給事黄門侍郎に卒す。子載。
載は字を徳基といい、少しく聰慧にして、志を篤くし学を好む。年十二、叔父棱に随い沛国劉顯に見え、顯が漢書十事を問うに、載は問に随い応じて疑滞無し。長ずるに及び、文史に博く渉り、沈敏にして器局有り。梁に仕えて尚書三公郎と為る。
侯景の乱、元帝承制し、以て中書侍郎と為す。尋いで尋陽太守と為り、都督王僧辯に随い東して侯景を討つ。景平ぎ、歴位して琅邪・義興太守。陳武帝王僧辯を誅し、乃ち周文育を遣わして載を襲わしむ。載は城を嬰して自ら守る。載の所属する県の卒は、並びに陳武の旧兵にして、多く弩を用いるに善く、載は数十人を得て収め、長鎖を以て系ぎ、親しむ所の者に監せしめ、して文育の軍を射しむ。約して曰く、「十発にして両中せざる者は死す」と。毎発輒ち中り、中る所皆斃る。相持すること数旬。陳武帝文育の軍利あらざるを聞き、書を以て載に諭して王僧辯を誅するの意を告げ、並びに梁敬帝の勅を奉じ、載に兵を解かしむるを勅す。載書を得て、乃ち衆を以て降る。陳武帝載を引いて恒に左右に置き、之と謀議す。
徐嗣徽・任約等が斉軍を引きて江を済い、石頭城を据う。帝載に計を問う。載曰く、「斉軍若し兵を分かち先ず三呉の路を据え、地を略して東境せば、則ち時事去らん。今急ぎ淮南に於いて即ち侯景の故壘に城を築き、以て東道の転輸を通じ、別に軽兵を令して其の糧運を絶たしめ、進むに虜する所無く、退くに資する所無からしむれば、則ち斉将の首は、旬日にして致す可し」と。帝之に従う。
侯景平らぎ、司徒王僧辯之を以て戸曹属と為す。累遷して中書侍郎となる。陳武帝が南徐州に在りし時、韋鼎は気を望みて其の王たるべきを知り、遂に妻子を寄せたり。因りて陳武帝に謂ひて曰く、「明年に大臣誅死有り、後四歳、梁其れ終を代はらん。天の暦数、当に舜の後に帰すべし。昔周殷氏を滅ぼし、媯汭を宛丘に封ず、其の裔子孫、因りて陳氏と為す。僕明公を観るに、天縦の神武、絶統を継ぐ者は是に非ざるか」と。武帝陰に僧辯を図るの意有り、其の言を聞きて大いに喜び、因りて策を定む。及び禅を受くると、黄門侍郎を拝す。太建年中、廷尉卿を以て聘周使と為し、散騎常侍を加ふ。後に太府卿と為る。
至徳初め、韋鼎は田宅を尽く売り払ひ、僧寺に寓居す。友人大匠卿毛彪其の故を問ふ、答へて曰く、「江東の王気、此に尽きたり。吾と爾と当に長安に葬らるべし、期運将に及ばんとす、故に産を破る爾」と。
初め、韋鼎の周に聘せし時、嘗て隋文帝に遇ひ、謂ひて曰く、「公の容貌を観るに、久からずして必ず大貴す、貴なれば則ち天下一家なり。歳一周天すれば、老夫当に質を委ぬべし、願くは深く自ら愛せよ」と。及び陳亡び、駅に召し入京せしめ、上儀同三司を授け、待遇甚だ厚く、毎に公宴有れば、韋鼎恒に之に預かる。性簡貴にして、亡国の臣と雖も、未だ嘗て当世に俯仰せず。時に吏部尚書韋世康兄弟顕貴なり、隋文帝従容として韋鼎に謂ひて曰く、「世康と公とは遠近如何」と。対へて曰く、「臣が宗族南に徙り、昭穆は臣の知る所に非ず」と。帝曰く、「卿は百代の卿族なり、豈に本を忘れんや」と。命じて官に酒肴を給し、世康を遣はして韋鼎を請ひて杜陵に還らしむ。韋鼎乃ち楚の太傅韋孟以下二十余世より、並びに昭穆を考論し、韋氏譜七巻を作りて之を示す、歓飲すること十余日にして乃ち還る。時に蘭陵公主寡にして、上之が為に夫を求め、親衛柳述及び蕭瑒等を選びて以て韋鼎に示す、韋鼎曰く、「蕭瑒は侯に封ぜらるべしと雖も、貴妻の相無し。柳述も亦通顕すれども、位を守りて終はらず」と。上曰く、「位は我に由る爾」と。遂に以て主を柳述に降す。上又韋鼎に問ふ、諸児誰か嗣位すべきかと。答へて曰く、「至尊皇后の最も愛する所の者、当に之を与ふべし、臣の敢へて預め知る所に非ず」と。上笑ひて曰く、「肯へて顕言せざるか」と。
韋棱は字を威直といい、性恬素にして、書史を以て業と為し、博物強記、当世の士咸く就きて質疑す。位は光禄卿に終る。漢書続訓三巻を著す。韋棱の弟に韋黯あり。
韋黯は字を務直といい、性强正にして、少より経史を習ひ、位は太府卿。侯景江を済すに及び、韋黯は六門に屯し、尋で都督城西面諸軍と改む。時に景は城外に東西二つの土山を起し、城内も亦之に応ず、簡文自ら土を負ひ、哀太子以下、躬ずから畚鍤を執る。韋黯は西土山を守り、昼夜苦戦す。功を以て軽車将軍を授けられ、持節を加へられ、城内に於て卒す。
初め、韋黯は太僕卿たりし時、兄の子韋粲は左衛率たり、韋黯は故を以て常に怏怏たり、人に謂ひて曰く、「韋粲已に驊騮の前に落つ、朝廷是れ才を用ふるか否や」と。識者頗る此を以て之を窺ふ。
裴邃は字を深明といい、河東聞喜の人、魏の冀州刺史裴徽の後なり。祖は寿孫、寿陽に寓居し、宋の武帝の前軍長史と為る。父は仲穆、驍騎将軍。
裴邃十歳にして文を属する能く、左氏春秋を善くす。斉の東昏践祚し、始安王蕭遙光揚州刺史と為り、裴邃を引いて参軍と為す。遙光敗れ、裴邃は寿陽に還る、会ひ刺史裴叔業寿陽を以て魏に降る、裴邃遂に衆に随ひて北に徙る。魏の宣武帝雅く之を重んず。魏に仕えて魏郡太守と為る。魏は王肅を遣はして寿陽を鎮めしむ、裴邃固く肅に随ふを求め、密かに南帰を図る。梁の天監初め、自ら抜けて南還し、後軍諮議参軍を除かる。裴邃は辺境に自ら効せんことを求め、廬江太守と為さる。
五年、邵陽洲を征し、魏人は長橋を為りて淮を断ちて以て済す、裴邃は壘を築きて橋に逼り、毎戦輒ち克つ、是に於て密かに没突艦を作る。会ひ甚だ雨有り、淮水暴溢す、裴邃は艦に乗じて径ちに橋側に造り、進撃し、大いに之を破る。功を以て夷陵県子に封ぜらる。
広陵太守に遷り、郷人と共に魏の武廟に入り、因りて帝王の功業を論ず。其の妻の甥王篆之密かに梁武帝に啓して云く、「裴邃多大言し、臣に不たらん跡有り」と。是に由りて始安太守に左遷さる。裴邃は志し辺陲に功を立てんとし、閑遠を願はず、乃ち呂僧珍に致書して曰く、「昔阮咸・顔延は二始の歎有り、吾が才古人に逮はず、今三始と為る、其の願に非ず、将に之を如何せん」と。後に竟陵太守と為り、屯田を開置し、公私之に便す。再び西戎校尉・北梁秦二州刺史に遷り、復た屯田数千頓を開創し、倉廩盈実し、辺運を省息し、人吏安んずるを得たり。乃ち相率ひて絹千余匹を餉る、裴邃従容として曰く、「汝等応に爾るべからず、吾又逆ふ可からず」と。其の二匹を納るるのみ。入りて大匠卿と為る。
四年、大軍が北へ侵攻し、邃に征討諸軍事を督させ、先ず寿陽を襲い、その外城を攻め、門を斬り破って進入し、一日に九度戦ったが、後軍の蔡秀成が道を失って到着せず、邃は援軍が絶えたため兵を引き返した。ここにおいて邃は再び兵を整え、士卒を収集し、諸将にそれぞれ服の色で区別させるよう命じた。邃は自ら黄袍騎と為り、先ず狄丘・甓城・黎漿を攻め落とし、また安成・馬頭・沙陵などの戍を屠った。翌年、地を略して汝・潁の間に至り、所在で呼応した。魏の寿陽守将長孫承業・河間王元琛が城を出て挑戦したので、邃は淮水に臨んで嘆いて言うには、「今日河間を破らねば、まさに謝玄に笑われよう。」と。乃ち四甄を為してこれを待った。直閣将軍李祖憐に偽って遁走させて承業を引き寄せ、承業らは衆を悉く挙げてこれを追い、四甄が競って発すると、魏の衆は大敗し、首級一万余を斬った。承業は奔走し、門を閉じて再び出てこようとしなかった。
軍中で病篤く、衆軍に守備を命じ、喪を送って合肥に還った。尋いで卒去し、侍中・左衛将軍を追贈され、爵を侯に進められ、諡して烈と曰う。
邃は沈深にして思略有り、政を為すに寛明で、士心を得ることができ、身を居するに方正で、威重有り。将吏はこれを憚り、敢えて法を犯す者は少なかった。及び卒去すると、淮・肥の間で涙を流さぬ者はなく、邃が死なずば、必ずや大いに土宇を開拓したであろうと思った。子の之礼が嗣いだ。
之礼は字を子義と為し、容儀美しく、玄理を言うことができた。西豫州刺史と為る。母憂のため喪に居り、唯だ麦飯を食った。邃の廟は光宅寺の西に在り、堂宇は弘敞で、松柏鬱茂としていた。範雲の廟は三橋に在り、蓬蒿剪らず。梁の武帝が南郊の祭の時、道すがら二つの廟を経て、顧みて嘆いて言うには、「范は已に死し、裴は更に生く。」と。大同の初め、都下に旱蝗有り、四籬門の外の桐柏は凋み尽くしたが、唯だ邃の墓だけは犬牙も入らず、当時これを異とした。位を歴て黄門侍郎と為る。
武帝が無遮会を設けると、舞象が驚き、陛衛を排突し、王公は皆散ったが、唯だ之礼と散騎常侍臧盾は動じなかった。帝はこれを壮とし、之礼を壮勇将軍・北徐州刺史と為し、盾を兼中領軍将軍と為した。
之礼は少府卿にて卒去し、諡して壮と曰う。子の政は、承聖中に位は給事黄門侍郎に至る。魏が江陵を克つと、例に随って長安に入った。
之高は字を如山と為し、邃の兄中散大夫髦の子なり。頗る書を読み、少より意気を負い、常に叔父邃に従って征討し、所在で功を立て、甚だ邃に器重され、戎政は咸く之に委ねられた。寿陽の役、邃が軍中に卒すると、之高は夏侯夔に隷して寿陽を平らげ、仍って梁郡太守を除かれ、都城県男に封ぜられた。時に魏の汝陰が来附したので、勅して之高に応接させ、仍って潁州刺史を除かれた。父憂のため都に還り、起されて光遠将軍と為り、陰陵の盗賊を討ち平らげるよう命じられ、譙州刺史と為された。
侯景の乱、之高は西豫州刺史と為り、衆を率いて入援した。南豫州刺史鄱陽嗣王範は之高に命じて江右援軍諸軍事を総督させ、張公洲に頓させた。柳仲礼が横江に至ると、之高は船舸を遣わして仲礼を迎え致し、韋粲らと俱に青塘に会した。及び城が陥落すると、之高は合肥に還り、鄱陽王範と共に西上した。元帝が召し遣わし、侍中・護軍将軍と為し、江陵に到った。
子の畿は、官は太子右衛率に至る。魏が江陵を克つ時、力戦して之に死す。
忌は字を無畏と為し、少より聡敏で、識量有り、頗る史伝に渉り、当時に称せられた。侯景の乱、勇力を招集し、乃ち陳武帝に随って征討した。及び陳武帝が王僧辯を誅すると、僧辯の弟僧智が兵を挙げて呉郡を拠え、陳武帝は黄他を遣わして之を攻めさせたが、克つことができなかった。命じて忌に部下の精兵を率いさせ、自ら銭唐より直ちに呉郡に趣かせ、夜に城下に至り、鼓噪して之を薄めた。僧智は大軍の至りを疑い、軽舟で杜龕に奔り、忌は入って呉郡を拠えた。陳武帝は之を嘉し、表して呉郡太守を授けた。
之横は字を如嶽と為し、少より賓遊を好み、気侠を重んじ、産業に事としなかった。之高はその縦誕を以て、乃ち狭い被と粗食を為して之を激厲した。之横は嘆いて言うには、「大丈夫富貴たらば、必ず百幅の被を作らん。」と。遂に僮属数百人と芍陂に於いて大いに田墅を営み、遂に殷積を致した。梁の簡文帝が東宮に在る時、聞いて之を要し、河東王常侍と為した。直合将軍に遷る。
侯景の乱、鄱陽王範に隷して景を討ち、景が江を済むと、仍って範の世子嗣と共に入って台城を援けた。城陥落し、退いて合肥に還る。侯景が任約を遣わして晋熙を逼ると、範は之横に命じて下って援けさせた。未だ至らざるに、範薨じ、之横は乃ち還った。時に尋陽王大心が江州に在り、範の副梅思立が密かに大心を要して盆城を襲わんとしたので、之横は思立を斬って大心を拒いだ。大心は州を以て侯景に降り、之横は兄之高と共に元帝に帰し、位は廷尉卿・河東内史と為り、王僧辯に随って侯景を拒いだ。景退き、東徐州刺史に遷り、豫甯侯に封ぜられた。又僧辯に随って景を破り、景が東奔すると、僧辯は之横と杜崱に命じて入って台城を守らせた。及び陸納が湘州を拠えて叛くと、又僧辯に隷して南討し、納の将李賢明を斬り、之を平らげた。又武陵王を峡口に破る。還って呉興太守を除かれ、乃ち百幅の被を作って其の志を成した。
魏が江陵を陥落させると、斉は上党王高渙を派遣し、貞陽侯蕭明を擁して東關を攻撃した。晉安王が制を承け、徐之橫を徐州刺史とし、諸軍を都督させて、蘄城を守備に出させた。之橫の営壘が未だ整わぬうちに、斉軍が大挙して至り、兵は尽き矢は窮し、遂に陣中にて没した。司空を追贈され、諡して忠壮といった。子の鳳寶が嗣いだ。
論じて曰く、韋叡と裴邃は若年にして操を励まし、共に学問と志尚をもって自立し、晩節には駆け回り、各々戎馬の間に功を著した。韋叡の制勝の道を観れば、魁梧の傑と謂うべきであるが、しかしその体つきは甚だ羸瘠で、自ら鞍に跨がらず、板輿に乗って指揮し、敵国に対するが如く威厳があった。その器量と分際は備わっており、隆盛なる名声は豈に虚しく得たものであろうか。裴邃は自ら辺疆に効し、盛んな功績を挙げることができたが、その志は遂げられず、誠に悲しむべきである。両家の子弟は、各々名節を著し、梁と終始を共にし、隆大な家業をよく担った。「将門に将あり」、この言葉は豈に妄りと言えようか。