南史

巻五十八より巻五十九

巻五十八より巻五十九

南史

巻五十八より巻五十九

列伝第四十八

韋叡・裴邃

原文韋叡裴邃

韋叡は継母に仕えて孝行で知られた。祖父の韋祖征は累代郡守を務め、赴任するたびに叡を連れて行き、実の子のように遇した。当時、叡の母方の従兄王憕と姨弟の杜惲はともに郷里で盛名を有していた。祖征は叡に言った、「お前は自分で憕や惲と比べてどうだと思うか」。叡は謙遜して答えられなかった。祖征は言った、「お前の文章は少し劣るかもしれぬが、学識は彼らを超えている。しかし国家を治め、功業を成すことでは、皆お前に及ばぬであろう」。外兄の杜幼文が梁州刺史となった時、叡を誘って同行させた。梁州の地は富饒で、赴任者の多くは賄賂で失敗したが、叡は幼いながらも、ただ一人清廉で知られた。

原文叡事繼母以孝聞。祖征累為郡守,每攜叡之職,視之如子。時叡內兄王憕、姨弟杜惲並有鄉里盛名,祖征謂叡曰:「汝自謂何如憕、惲?」叡謙不敢對。祖征曰:「汝文章或小減,學識當過之。然幹國家,成功業,皆莫汝逮也。」外兄杜幼文為梁州刺史,要叡俱行。梁土富饒,往者多以賄敗,叡雖幼,獨以廉聞。

宋の永光の初め、袁顗が雍州刺史となって叡を見て異才と認め、主簿に抜擢した。袁顗が州に着任すると、鄧琬とともに兵を挙げた。叡は外任を願い出て義成郡太守となり、袁顗の禍に巻き込まれることを免れた。累進して斉興太守、本州別駕、長水校尉、右軍将軍となった。斉末は多難であったため、郷里に帰りたいと願い、上庸太守を求めた。

原文宋永光初,袁顗為雍州刺史,見而異之,引為主簿。顗到州,與鄧琬起兵,叡求出為義成郡,故免顗之禍。累遷齊興太守,本州別駕,長水校尉,右軍將軍。齊末多故,欲還鄉里,求為上庸太守。

ほどなく太尉陳顕達・護軍将軍崔慧景がたびたび建鄴に迫り、人心は恐れ騒いだ。西方の人士が叡に相談すると、叡は言った、「陳は旧将ではあるが高才ではなく、崔は多少は事を経ているが臆病で武勇に欠ける。天下の真の主は、おそらく我が州から興るであろう」。そこで二人の息子を遣わして梁武帝に結びつけた。挙兵の檄文が届くと、叡は郡民を率いて竹を伐り筏を作り、倍の速さで行軍して参じた。二千の兵と二百匹の馬を有していた。帝は叡を見て大いに喜び、机を撫でて言った、「かつては君の顔を見たが、今日は君の心を見た。我が事は成就するであろう」。軍が郢・魯を攻略し、加湖を平定した際、叡は多くの策略を建て、すべて採用された。

原文俄而太尉陳顯達、護軍將軍崔慧景頻逼建鄴,人心惶駭。西土人謀之,叡曰:「陳雖舊將,非高人才,崔頗更事,懦而不武。天下真人,殆興吾州矣。」乃遣其二子自結于梁武。及兵起檄至,叡率郡人伐竹為筏,倍道來赴,有眾二千,馬二百匹。帝見叡甚悅,撫幾曰:「佗日見君之面,今日見君之心,吾事就矣。」師克郢、魯,平加湖,叡多建策,皆見用。

大軍が郢を発し、留守の将を選ぶにあたり、帝は適任者に難渋した。しばらくして叡を見て言った、「騏驥を捨てて乗らず、どうして慌てて他を探す必要があろうか」。即日、叡を江夏太守とし、郢州えいしゅう府事を行わせた。初め、郢城が抗戦した時、男女合わせて十万近くが籠城し、一年を経て疫病で死者は十の七、八に及び、皆死体を床下に積み、生きている者はその上で寝起きし、どの家も満ちあふれていた。叡は選別し隠れた者を憐れみ、すべてを処理し、百姓は彼に頼った。

原文大軍發郢,謀留守將,上難其人。久之,顧叡曰:「棄騏驥而不乘,焉遑遑而更索。」即日以為江夏太守,行郢州府事。初,郢城之拒守也,男女垂十萬,閉壘經年,疾疫死者十七八,皆積屍於床下,而生者寢處其上,每屋盈滿。叡料簡隱恤,咸為營理,百姓賴之。

梁の朝廷が建てられると、大理に召された。武帝が即位すると、廷尉に遷り、都梁子に封ぜられた。天監二年、永昌侯に改封され、再び豫州刺史に遷り、歴陽太守を兼ねた。魏が兵を遣わして侵攻してきたが、叡は州兵を率いてこれを撃退した。

原文梁台建,徵為大理。武帝即位,遷廷尉,封都梁子。天監二年,改封永昌,再遷豫州刺史,領曆陽太守。魏遣眾來伐,叡率州兵擊走之。

四年、魏を侵攻するにあたり、詔により叡は諸軍を都督した。叡は長史王超宗・梁郡太守馮道根を遣わして魏の小峴城を攻撃させたが、陥落させられなかった。叡が囲みの柵を巡行すると、魏の城中から突然数百人が城外に出て陣を布いた。叡はこれを撃とうとした。諸将は皆言った、「先ほどは軽装で来ました。甲冑を取ってから戦うことを請います」。叡は言った、「魏の城中には二千余人がおり、門を閉じて堅守すれば自保に足る。今、理由もなく外に出てきたのは、必ずやその驍勇の者であろう。もしこれを挫くことができれば、城はおのずから陥ちる」。兵士たちはなおも躊躇したので、叡はその節(符節)を指して言った、「朝廷がこれを授けたのは、飾りとするためではない。韋叡の法は、犯すべからざるものである」。そこで進軍し、魏軍は敗れ、急いで攻撃したところ、夜明け前に城を陥落させた。そこで合肥を討つべく進軍した。

原文四年侵魏,詔叡都督眾軍。叡遣長史王超宗、梁郡太守馮道根攻魏小峴城,未能拔。叡巡行圍柵,魏城中忽出數百人陳於門外,叡欲擊之。諸將皆曰:「向本輕來,請還授甲而後戰。」叡曰:「魏城中二千餘人,閉門堅守,足以自保。今無故出人於外,必其驍勇,若能挫之,其城自拔。」眾猶遲疑,叡指其節曰:「朝廷授此,非以為飾,韋叡之法,不可犯也。」乃進兵,魏軍敗,因急攻之,中宿而城拔。遂進討合肥。

先に右軍司馬胡景略が合肥に至ったが、長く陥せなかった。叡は山川の地形を調べて言った、「『汾水をもって平陽を灌ぐことができる』と聞くが、まさにこれである」。そこで肥水に堰を築いた。ほどなく堰が完成し水路が通じ、舟艦が続々と到着した。魏は初め東西の二つの小城を築き、合肥を挟んでいた。叡はまずこの二城を攻撃した。やがて魏の援将楊霊胤が五万の軍を率いて急に到来し、兵士たちは敵わぬことを恐れ、増援を上表するよう請うた。叡は言った、「賊はすでに城下に至っているのに、今さら軍を求めるのか。しかも我が援軍を求めれば、彼らもまた兵を徴発するであろう。『師は和を以て克つ』とは、古人の教えである」。そこで戦い、これを破り、軍人はようやく安堵した。

原文先是右軍司馬胡景略至合肥,久未能下,叡案行山川,曰:「吾聞'汾水可以灌平陽',即此是也。」乃堰肥水。頃之堰成水通,舟艦繼至。魏初分築東西小城,夾合肥。叡先攻二城。既而魏援將楊靈胤帥軍五萬奄至,眾懼不敵,請表益兵。叡曰:「賊已至城下,方復求軍。且吾求濟師,彼亦征眾。'師克在和',古人之義也。」因戰,破之,軍人少安。

初め、肥水の堰が築かれると、軍主の王懐静に命じて岸に城を築かせ守らせたが、魏がこの城を攻め落とし、勝ちに乗じて叡の堤の下まで迫った。軍監の潘霊佑は叡に退いて巣湖に還るよう勧め、諸将もまた三釜に退いて守るよう請うた。叡は怒って言った、「将軍は退却の際に死すべきであり、前に進むのみで退くことはない」。そこで傘・扇・麾・幢を取って来させ、堤の下に立てて、動揺せぬ意志を示した。叡は元来病弱で、戦のたびに馬に乗らず、板輿に自ら乗り、諸軍を督励した。魏兵が堤を穿つと、叡は自ら争った。魏軍が退くと、堤に堡塁を築いて自らを固めた。さらに合肥城と同じ高さの戦艦を造り、四方から城に臨んだ。城は潰え、一万余りを捕虜とし、得た軍需物資は一切私せずに収めた。初め、胡景略と前軍の趙祖悦は同じ軍にありながら仲が悪く、互いに陥れようとしていた。景略は怒ると、自ら歯を噛み、歯はみな血を流した。叡は将帥の不和が禍を招くと考え、自ら酒を酌んで景略に勧めて言った、「どうか両将軍が私闘を繰り返さぬことを願う」。このため、この戦役の終わりまで害がなかった。

原文初,肥水堰立,使軍主王懷靜築城於岸守之,魏攻陷城,乘勝至叡堤下。軍監潘靈佑勸叡退還巢湖,諸將又請走保三釜。叡怒曰:「將軍死綏,有前無卻。」因令取傘扇麾幢樹之堤下,示無動志。叡素羸,每戰不嚐騎馬,以板輿自載,督勵眾軍。魏兵鑿堤,叡親與爭。魏軍卻,因築壘於堤以自固。起鬥艦高與合肥城等,四面臨之。城潰,俘獲萬餘,所獲軍實,無所私焉。初,胡景略與前軍趙祖悅同軍交惡,志相陷害,景略一怒,自齧其齒,齒皆流血。叡以將帥不和,將致患禍,酌酒自勸景略曰:「且願兩武勿復私鬥。」故終於此役得無害焉。

叡は昼は賓客や旅人と接し、夜は軍書を計算し、三更(深夜)に起きて灯をともし夜明けまで務め、兵士を慰撫激励することを常に怠らず、志願する兵士は争って彼のもとに帰した。赴任する先々では宿営地を整備し、館舎・垣根・壁などすべて規矩に合っていた。

原文叡每晝接客旅,夜算軍書,三更起張燈達曙,撫循其眾,常如不及,故投募之士爭歸之。所至頓舍修立,館宇藩籬墉壁皆應準繩。

合肥が平定されると、詔により軍を返すこととなった。魏軍に近いため、追撃されることを恐れた。叡はすべての輜重しちょうを先に行かせ、自らは小輿に乗って最後尾を守った。魏人は叡の威名を畏れ、遠くから見て敢えて迫らず、全軍は無事に帰還した。そこで豫州の州治を合肥に移した。

原文合肥既平,有詔班師,去魏軍既近,懼為所躡。叡悉遣輜重居前,身乘小輿殿后,魏人服叡威名,望之不敢逼,全軍而還。於是遷豫州於合肥。

五年、魏の中山王元英が北徐州を攻撃し、刺史の昌義之を鍾離に包囲した。兵は百万、連なる城は四十余りに及んだ。武帝は征北将軍曹景宗を遣わしてこれを防がせた。邵陽洲に駐屯し、堡塁を築いて対峙したが、進撃しようとしなかった。帝は怒り、詔を下して叡をこれに合流させ、龍環の御刀を賜って言った、「諸将で命令に従わぬ者があれば斬れ」。叡は合肥から陰陵の大沢を直行し、澗谷を過ぎるたびに飛橋を架けて軍を渡した。人々は魏軍の勢いを恐れ、多くは叡にゆっくり進むよう勧めた。叡は言った、「鍾離の者は今、穴を掘って住み、戸を背負って水を汲んでいる。車を走らせ兵を駆けてもなお遅いと恐れるのに、ましてゆっくりしていてよいものか」。十日で邵陽に到着した。初め、帝は景宗に命じて言った、「韋叡は卿の郷里の名望家である。よく敬うがよい」。景宗は叡に会うと非常に謹んで接した。帝はこれを聞いて言った、「二将が和すれば、軍は必ず成功するであろう」。叡は景宗の陣営の前二十里に、夜に長い塹壕を掘り、鹿角を立て、洲を分断して城とし、夜明けには陣営が完成した。元英は大いに驚き、杖で地面を叩いて言った、「これは何という神か」。景宗は城中の危惧を慮り、軍士の言文達・洪騏驎らを募り、密勅を持たせて城中に入れ、守りを固めさせるよう伝えさせた。彼らは水底を潜行し、東城に到達した。城中では戦いと守りに日々苦しんでいたが、ようやく援軍があることを知り、人々は百倍の勇気を得た。

原文五年,魏中山王元英攻北徐州,圍刺史昌義之於鍾離,眾兵百萬,連城四十餘。武帝遣征北將軍曹景宗拒之。次邵陽洲,築壘相守,未敢進。帝怒,詔叡會焉,賜以龍環禦刀,曰:「諸將有不用命者斬之。」叡自合肥徑陰陵大澤,過澗穀,輒飛橋以濟師。人畏魏軍盛,多勸叡緩行。叡曰:「鍾離今鑿穴而處,負戶而汲,車馳卒奔,猶恐其後,而況緩乎。」旬日而至邵陽。初,帝敕景宗曰:「韋叡卿鄉望,宜善敬之。」景宗見叡甚謹。帝聞曰:「二將和,師必濟矣。」叡于景宗營前二十里,夜掘長塹,樹鹿角,截洲為城,比曉而營立。元英大驚,以杖擊地曰:「是何神也!」景宗慮城中危懼,乃募軍士言文達、洪騏驎等齎敕入城,使固城守,潛行水底,得達東城。城中戰守日苦,始知有援,於是人百其勇。

魏の将軍楊大眼が一万余騎を率いて戦いに来た。大眼は勇気が三軍に冠たり、向かうところ皆靡いた。韋叡は車を結んで陣を為し、大眼は騎兵を集めてこれを囲んだ。韋叡は強弩二千を以て一時に俱に発し、甲冑を貫き中て、殺傷する者衆し。矢は大眼の右臂を貫き、亡魂して走った。明くる朝、元英自ら衆を率いて戦いに来た。韋叡は素木の輿に乗り、白角の如意を執って軍を麾し、一日に数度合戦し、英は其の強きを甚だ憚った。魏軍また夜来して城を攻め、飛矢雨の如く集まる。韋叡の子黯、城を下りて箭を避けんことを請うたが、韋叡は許さず。軍中驚き、韋叡城上に於いて厲声に呵して乃ち定まった。

原文魏將楊大眼將萬餘騎來戰,大眼以勇冠三軍,所向皆靡。叡結車為陣,大眼聚騎圍之。叡以強弩二千一時俱發,洞甲穿中,殺傷者眾。矢貫大眼右臂,亡魂而走。明旦,元英自率眾來戰,叡乘素木輿,執白角如意以麾軍,一日數合,英甚憚其強。魏軍又夜來攻城,飛矢雨集。叡子黯請下城以避箭,叡不許。軍中驚,叡於城上厲聲呵之乃定。

魏人は先だって邵陽洲の両岸に両橋を為し、柵を数百歩樹て、淮を跨いで通道とした。韋叡は大艦を装備し、梁郡太守馮道根・廬江太守裴邃・秦郡太守李文釗等をして水軍たらしめた。時に淮水暴漲し、韋叡即ち之を遣わし、闘艦競い発ち、皆賊の壘に臨んだ。小船に草を載せ、之に膏を灌ぎ、従って其の橋を焚く。風猛く火盛んで、敢死の士柵を抜き橋を斬り、水また漂疾にして、倏忽の間に、橋柵尽く壞れた。道根等は皆身自ら搏戦し、軍人奮勇し、呼聲天地を動かし、一も百に当たらざるは無かった。魏人大いに潰え、元英は身を脱して遁走した。魏軍水に趨って死する者十余万、斬首も亦之の如く、其の余甲を釋き稽顙して囚奴たらんことを乞う猶数十万。韋叡、昌義之に報ぜしめしに、義之は且つ悲しみ且つ喜び、答える暇なく、只叫んで曰く「更生!更生!」と。帝は中書郎周舍を遣わして淮上に於いて軍を労した。韋叡、獲たる所を軍門に積む。舍之を観て、韋叡に謂ひて曰く「君此の獲、復た熊耳山と等し」と。功を以て侯に進爵せられた。

原文魏人先于邵陽洲兩岸為兩橋,樹柵數百步,跨淮通道。叡裝大艦,使梁郡太守馮道根、廬江太守裴邃、秦郡太守李文釗等為水軍。會淮水暴長,叡即遣之,鬥艦競發,皆臨賊壘。以小船載草,灌之以膏,從而焚其橋。風怒火盛,敢死之士拔柵斫橋,水又漂疾,倏忽之間,橋柵盡壞。道根等皆身自搏戰,軍人奮勇,呼聲動天地,無不一當百。魏人大潰,元英脫身遁走。魏軍趨水死者十餘萬,斬首亦如之,其餘釋甲稽顙乞為囚奴猶數十萬。叡遣報昌義之,義之且悲且喜,不暇答,但叫曰:「更生!更生!」帝遣中書郎周舍勞軍於淮上。叡積所獲於軍門,舍觀之,謂叡曰:「君此獲復與熊耳山等矣。」以功進爵為侯。

七年、左衛將軍に遷り、俄かに安西長史・南郡太守となる。時に司州刺史馬仙琕が北より軍を還すに及び、魏人に躡はれ、三關擾動す。詔して韋叡に衆軍を督して援げしむ。韋叡安陸に至り、城を二丈余増築し、更に大塹を開き、高樓を起す。衆頗る其の弱を示すを譏る。韋叡曰く「然らず、将たる者は怯む時有るべし」と。是の時、元英復た仙琕を追ひ、将に邵陽の恥を復たんとし、韋叡の至るを聞いて乃ち退き、帝も亦詔して軍を罷めしむ。

原文七年,遷左衛將軍,俄為安西長史、南郡太守。會司州刺史馬仙琕自北還軍,為魏人所躡,三關擾動。詔叡督眾軍援焉。叡至安陸,增築城二丈餘,更開大塹,起高樓。眾頗譏其示弱,叡曰:「不然,為將當有怯時。」是時,元英復追仙琕,將復邵陽之恥,聞叡至乃退,帝亦詔罷軍。

十三年、丹陽尹となり、公事に坐して免ぜられる。十四年、雍州刺史となる。初め、韋叡郷中に兵を起すに当たり、客の陰雙光泣いて韋叡を止む。韋叡州に還り為るに及び、雙光道に候う。韋叡笑ひて曰く「若し公の言に従はば、路に於いて食を乞うて居たであろう」と。耕牛十頭を餉る。韋叡は故旧に惜しむ所無く、士大夫七十歳以上には、多く假板縣令を与へ、郷里甚だ之を懐いた。

原文十三年,為丹陽尹,以公事免。十四年,為雍州刺史。初,叡起兵鄉中,客陰雙光泣止叡,叡還為州,雙光道候。叡笑曰:「若從公言,乞食于路矣。」餉耕牛十頭。叡於故舊無所惜,士大夫年七十以上,多與假板縣令,鄉里甚懷之。

十五年、表を奉りて致仕を請ふ。優詔して許さず。徴されて護軍に拜せられ、鼓吹一部を給せられ、殿省に入り直す。朝廷に居ては恂恂として、未だ嘗て忤視せず、武帝甚だ之を禮敬した。性慈愛にして、孤兄の子を撫するに己が子を過ぎ、歴官する所得の祿賜は、皆之を親故に散じ、家に余財無し。後に護軍となり、家に居て事無く、萬石・陸賈の為人を慕ひ、因りて之を壁に畫きて以て自ら玩ぶ。時に雖も老ゆれども、暇日猶ほ諸兒を課して學ばしむ。第三子棱は經史に尤も明るく、世其の洽聞を稱す。韋叡每たび坐して棱に書を説かしむるに、其の発擿する所は、棱猶ほ之に逮ばず。武帝方に釋氏に銳意し、天下咸に風に從ひて化す。韋叡自ら信受素より薄く、位大臣に居るを以て、衆と俯仰するを欲せず、行ふ所略佗日の如し。

原文十五年,拜表致仕,優詔不許。徵拜護軍,給鼓吹一部,入直殿省。居朝廷恂恂,未嘗忤視,武帝甚禮敬之。性慈愛,撫孤兄子過於己子,曆官所得祿賜,皆散之親故,家無餘財。後為護軍,居家無事,慕萬石、陸賈之為人,因畫之於壁以自玩。時雖老,暇日猶課諸兒以學。第三子棱尤明經史,世稱其洽聞。叡每坐使棱說書,其所發擿,棱猶弗之逮。武帝方銳意釋氏,天下咸從風而化。叡自以信受素薄,位居大臣,不欲與眾俯仰,所行略如佗日。

普通元年、侍中・車騎将軍に遷る。未だ拜せずして、家に卒す。年七十九。遺令して薄葬を求め、時服を以て斂る。武帝即日臨器して甚だ慟し、車騎將軍・開府儀同三司を贈り、諡して嚴と曰ふ。

原文普通元年,遷侍中、車騎將車,未拜,卒於家,年七十九。遺令薄葬,斂以時服。武帝即日臨器甚慟,贈車騎將軍、開府儀同三司,諡曰嚴。

韋叡は雅に曠世の度有り、人に蒞むに愛惠を本とし、居る所必ず政績有り。兵を将するに仁愛を以てし、士卒の營幕未だ立たざれば終に肯て舍てず、井竈未だ成らざれば亦先だって食せず。被服必ず儒者に於いてし、陣に臨み交鋒するに雖も、常に緩服して輿に乗り、竹の如意を執って進止を麾し、裴邃と俱に梁世の名将たり、余人及ばず。

原文叡雅有曠世之度,蒞人以愛惠為本,所居必有政績。將兵仁愛,士卒營幕未立,終不肯舍,井灶未成,亦不先食。被服必於儒者,雖臨陣交鋒,常緩服乘輿,執竹如意以麾進止,與裴邃俱為梁世名將,余人莫及。

初め、邵陽の役に、昌義之は韋叡を甚だ德とし、曹景宗に請ひて韋叡と會せしめ、因りて錢二十万を設けて官賭す。景宗は擲して雉を得、韋叡は徐ろに擲して盧を得、遽かに一子を取りて之を反し、曰く「異事なり」と。遂に塞を作る。景宗は時に群帥と爭ひ先に捷を啓くに、韋叡獨り後れに居り、其の勝を尚ばざる率多く是の如し。世尤も此を以て之を賢とす。

原文初,邵陽之役,昌義之甚德叡,請曹景宗與叡會,因設錢二十萬官賭之。景宗擲得雉,叡徐擲得盧,遽取一子反之,曰:「異事」,遂作塞。景宗時與群帥爭先啟之捷,叡獨居後,其不尚勝率多如是,世尤以此賢之。

韋叡の兄纂・闡、並びに早く知名なり。纂は齊に仕へて司徒記室・特進の位に至り、沈約嘗て上に於いて纂を稱して曰く「陛下が此人と同時ならざるを恨む。其の學は臣輩に非ず」と。闡は建寧縣令たりし時、得たる俸祿百余万、家に還り悉く伯父に委ねて處分せしめ、郷里之を宗事す。通直郎の位に至る。

原文叡兄纂、闡,並早知名。纂仕齊位司徒記室、特進,沈約嘗稱纂於上曰:「恨陛下不與此人同時,其學非臣輩也。」闡為建寧縣,所得俸祿百餘萬,還家悉委伯父處分,鄉里宗事之。位通直郎。

韋叡の子放、字あざなは元直、身長七尺七寸、腰帶八圍、容貌甚だ偉なり。永昌縣侯の封を襲ぎ、竟陵太守の位に至る。郡に在りて和理、吏人に稱せらる。

原文叡子放字元直,身長七尺七寸,腰帶八圍,容貌甚偉。襲封永昌縣侯,位竟陵太守。在郡和理,為吏人所稱。

大通元年、武帝は兼領軍曹仲宗等を遣わして渦陽を攻めしめ、又韋放を以て明威將軍と為し、兵を總べて之に會せしむ。魏の大將軍費穆が衆を帥いて奄に至る。韋放の軍營未だ立たず、麾下に有るは二百余人のみ。韋放の從弟洵は驍果にして勇力有り、單騎にて擊刺し、屢々魏軍を折る。洵の馬も亦傷せられて進む能はず、韋放の胄も又三たび矢を貫かる。衆皆失色し、韋放に突き去らんことを請ふ。韋放は厲聲に叱して曰く「今日は唯だ死あるのみ」と。乃ち胄を免ぎて馬を下り、胡床に據りて處分す。士卒皆殊死しゅしに戦ひ、一も百に当たらざるは莫く、北を逐って渦陽に至る。魏は又常山王元昭・大將軍李獎・乞伏寶・費穆等五万人を遣わして來援す。韋放大いに之を破る。渦陽城主王緯、城を以て降る。魏人は諸營壘を棄て、一時に奔潰す。衆軍之に乘じ、斬獲略盡き、穆の弟超を禽え並びに王緯を建鄴に送る。還って太子右衛率となる。

原文大通元年,武帝遣兼領軍曹仲宗等攻渦陽,又以放為明威將軍,總兵會之。魏大將軍費穆帥眾奄至,放軍營未立,麾下止有二百餘人。放從弟洵驍果有勇力,單騎擊刺,屢折魏軍,洵馬亦被傷不能進,放胄又三貫矢。眾皆失色,請放突去。放厲聲叱之曰:「今日唯有死爾。」乃免胄下馬,據胡床處分。士卒皆殊死戰,莫不一當百,逐北至渦陽。魏又遣常山王元昭、大將軍李獎、乞伏寶、費穆等五萬人來援,放大破之。渦陽城主王緯以城降。魏人棄諸營壘,一時奔潰。眾軍乘之,斬獲略盡,禽穆弟超並王緯送建鄴,還為太子右衛率。

中大通二年、北徐州刺史に徙る。鎮に卒す。諡して宜侯と曰ふ。

原文中大通二年,徙北徐州刺史。卒於鎮,諡曰宜侯。

韋放の性は弘厚篤實にして、財を輕んじ施すを好み、諸弟に對して尤も雍穆なり。每たび遠別せんとし及び行役初めて還る時、常に一室に臥起を同じくし、時に之を三薑に比す。初め、韋放は吳郡の張率と共に側室懷孕す。因りて指して婚姻と為す。其の後各々男女を産む。未だ成長せずして率亡ぶ。遺嗣孤弱なり。韋放常に之を贈恤す。北徐州となるに及び、時に貴族婚姻を請ふ者有り。韋放曰く「吾は故友に失信せず」と。乃ち息の岐を以て率の女を娶り、又以て女を率の子に適せしむ。時に韋放の舊を篤くする能きを稱す。子に粲有り。

原文放性弘厚篤實,輕財好施,于諸弟尤雍穆。每將遠別及行役初還,常同一室臥起,時比之三薑。初,放與吳郡張率皆有側室懷孕,因指為昏姻。其後各產男女,未及成長而率亡,遺嗣孤弱,放常贈恤之。及為北徐州,時有貴族請昏者,放曰:「吾不失信于故友。」及以息岐娶率女,又以女適率子,時稱放能篤舊。子粲。

韋粲は字を長倩といい、幼少より父の風格があり、学問を好み気概を重んじ、身長八尺、容貌甚だ偉大であった。初め雲麾晋安王行参軍となり、後に外兵参軍兼中兵となった。当時潁川の庾仲容・呉郡の張率は先輩の才名あり、粲と同府にあり、ともに年齢を忘れて交誼を結んだ。王が皇太子となると、粲は記室より歩兵校尉に遷り、入って東宮領直となり、後に爵を襲い永昌県侯となり、累遷して左衛率、領直となった。粲は旧恩により、任寄は密接であり、職務は累次移ったが、常に宿衛に留まった。頗る権勢を擅にして傲慢であり、当時の人々に平らかにされなかった。右衛朱異は嘗て酒席において厳しい顔色で粲に謂って曰く、「卿はどうして既に領軍となって人に向かうのか」と。大同年間、帝は嘗て不豫であり、一日急に劇しくなり、皇太子以下皆入って侍疾し、内外皆帝の崩御を云った。粲は宮甲を率いて台を渡らんとし、微かに喜色があり、何故長梯を準備しないのかと問うた。大行が前殿に幸するに、長梯を以て復するを須いると為したのである。帝後にこれを聞き、怒って曰く、「韋粲は我が死を願う」と。有司は推問するを奏したが、帝は曰く、「各々其の主の為にあり、推すに足らず」と。故に出して衡州刺史と為した。皇太子は出て新亭に餞し、粲の手を執って曰く、「卿と久しき別れとは為さじ」と。久しくして、帝は復た召し還して散騎常侍と為した。

原文粲字長倩,少有父風,好學仗氣,身長八尺,容觀甚偉。初為雲麾晉安王行參軍,後為外兵參軍兼中兵。時潁川庾仲容、吳郡張率前輩才名,與粲同府,並忘年交好。及王為皇太子,粲自記室遷步兵校尉,入為東宮領直,後襲爵永昌縣侯,累遷左衛率,領直。粲以舊恩,任寄綢密,雖居職累徙,常留宿衛。頗擅權誕倨,不為時輩所平。右衛朱異嘗于酒席厲色謂粲曰:「卿何得已作領軍面向人!」大同中,帝嘗不豫,一日暴劇,皇太子以下併入侍疾,內外咸雲帝崩。粲將率宮甲度台,微有喜色,問所由那不見辦長梯。以為大行幸前殿,須長梯以復也。帝后聞之,怒曰:「韋粲願我死。」有司奏推之,帝曰:「各為其主,不足推。」故出為衡州刺史。皇太子出餞新亭,執粲手曰:「與卿不為久別。」久之,帝復召還為散騎常侍。

還って廬陵に至り、侯景の逆を為すを聞き、便ち部下を簡閲し、倍道して赴援せんとした。豫章に至り、即ち内史劉孝儀に就き共にこれを謀った。孝儀は曰く、「必ず此くの如くならば、当に勅有るべし、安んぞ軽々しく単使を信じ、妄りに相驚動すべきや。或いは恐らく然らず」と。時に孝儀は酒を置き、粲は怒って杯を以て地に抵して曰く、「賊は既に江を渡り、便ち宮闕に逼り、水陸阻絶せり、何の暇にか報有らん。仮令勅無くとも、豈に自ら安んずるを得んや。韋粲今日何の情か酒を飲まん」と。即ち馳馬して出で、部分して将に発せんとす。会に江州刺史当陽公大心が使者を遣わして粲を要し、粲は乃ち麾下を分かち第八弟助・第九弟警に配して前軍と為した。粲は馳せ往きて大心に見えて曰く、「上流の蕃鎮、江州は都に最も近し、殿下の情計、実に宜しく先に在るべし。但し中流の任重く、当に応接を須い、鎮を闕くべからず。今宜しく軍声を張り、鎮を盆城に移し、偏将を遣わして賜に随わしむれば、事に於いて便ち足る」と。大心は然りとし、中兵柳昕を遣わして兵二千を帥いて粲に随わしむ。粲は悉く家累を江州に留め、軽舸を以て路に就く。南洲に至り、粲の外弟司州刺史柳仲礼も亦歩騎万余人を帥いて横江に至る。粲は即ち糧仗を送りて之に給し、並びに私の金帛を散じて其の戦士を賞した。

原文還至廬陵,聞侯景作逆,便簡閱部下,倍道赴援。至豫章,即就內史劉孝儀共謀之。孝儀曰:「必如此,當有敕,安可輕信單使,妄相驚動。或恐不然。」時孝儀置酒,粲怒以杯抵地曰:「賊已度江,便逼宮闕,水陸阻斷,何暇有報;假令無敕,豈得自安。韋粲今日何情飲酒。」即馳馬出,部分將發。會江州刺史當陽公大心遣使要粲,粲乃分麾下配第八弟助、第九弟警為前軍。粲馳往見大心曰:「上游蕃鎮,江州去都最近,殿下情計,實宜在先。但中流任重,當須應接,不可闕鎮。今宜張軍聲勢,移鎮盆城,遣偏將賜隨,於事便足。」大心然之,遣中兵柳昕帥兵二千隨粲。粲悉留家累于江州,以輕舸就路。至南洲,粲外弟司州刺史柳仲禮亦帥步騎萬餘人至橫江。粲即送糧仗給之,並散私金帛以賞其戰士。

先に、安北鄱陽王範も亦合肥より自ら西豫州刺史裴之高と其の世子嗣に江西の衆を帥いて都に赴かしめ、張公洲に屯し、上流諸軍を待った。是に至り、之高は船を遣わして仲礼を渡し、粲と合軍して進み新林王游苑に屯す。粲は建議して仲礼を推して大都督と為し、下流衆軍に報ぜしむ。裴之高は自ら年位高きを以て、其の下に居るを恥じた。乃ち云う、「柳節下は已是れ州将なり、何ぞ須いん我が復た鞭板を為さんを」と。累日決せず。粲は乃ち衆に抗言して曰く、「今国難に同赴し、義は賊を除くに在り、柳司州を推する所以は、政に久しく辺疆を捍ぎ、先ず侯景に憚らるるが故なり。且つ士馬精鋭、其の前に出づる者無し。若し位次を論ずれば、柳は粲の下に在り、其の年歯を語れば、亦粲より少なし。直に社稷の計を以てするに、復た論ずるを得ず。今日の貴きは将和に在り、若し人心同じからずんば、大事去らん。裴公は朝の旧歯なり、豈に応に復た私を挟みて大計を阻むべけんや。粲は諸君の為に之を解釈せんことを請う」と。乃ち単舸にて之高の営に至り切に之を譲る。之高は泣いて曰く、「吾は国栄を荷い、自ら応に士卒を率先すべし、顧みるに衰老を恨み、効命する能わず、柳使君と共に凶逆を平げんことを企望す。前に衆議已に定まるを謂い、老夫を俟たず爾り。若し必ず疑い有らば、当に心を剖きて相示すべし」と。是に於いて諸将議を定め、仲礼方に進軍を得る。新亭に次ぎ、賊は中興寺に陣を列ね、相持して晚に至り各々解けて帰る。

原文先是,安北鄱陽王範亦自合肥遣西豫州刺史裴之高與其世子嗣帥江西之眾赴都,屯于張公洲,待上流諸軍。至是,之高遣船度仲禮,與粲合軍進屯新林王游苑。粲建議推仲禮為大都督,報下流眾軍。裴之高自以年位高,恥居其下。乃云:「柳節下已是州將,何須我復鞭板。」累日不決。粲乃抗言於眾曰:「今同赴國難,義在除賊,所以推柳司州者,政以久捍邊疆,先為侯景所憚。且士馬精銳,無出其前。若論位次,柳在粲下,語其年齒,亦少於粲,直以社稷之計,不得復論。今日貴在將和,若人心不同,大事去矣。裴公朝之舊齒,豈應復挾私以阻大計。粲請為諸君解釋之。」乃單舸至之高營切讓之。之高泣曰:「吾荷國榮,自應帥先士卒,顧恨衰老,不能效命,企望柳使君共平凶逆。前謂眾議已定,無俟老夫爾。若必有疑,當剖心相示。」於是諸將定議,仲禮方得進軍。次新亭,賊列陣于中興寺,相持至晚各解歸。

是の夜、仲礼は粲の営に入り衆軍を部分し、旦日に将に戦わんとし、諸将各々据守有り。粲をして青塘に頓せしめ、石頭の中路に当たらしむ。粲は柵壘未だ立たざるを慮り、賊之を争わんことを憚り、頗る之を以て憚りと為し、仲礼に謂いて曰く、「下官の才は侮を禦うるに非ず、直ちに身を以て国に徇わんと欲するのみ、節下宜しきを善く量り、致して虧喪有るべからず」と。仲礼は曰く、「青塘に営を立つるは、淮渚に迫近し、糧儲船乗を以て尽く之に就き迫らんと欲するなり。此の事大なり、兄に非ざれば可からず。若し兵少なきを疑わば、当に更に軍を差して相助けん」と。粲は帥る所の部を水陸倶に進ます。時に昏霧あり、軍人道を失い、青塘に及ぶ比、夜は已に半を過ぎ、壘柵は曉に至るも未だ合せず。景は禅霊寺の門に登り、粲の営の未だ立たざるを望み、便ち鋭卒を率いて来り攻む。軍敗れ、勝に乗じて営に入る。左右の高馮が粲を牽きて賊を避けんとすれども、粲は動かず、兵は死に略く尽き、遂に害せらる。粲の子尼及び三弟助・警・構、従弟昂皆戦死し、親戚死する者数百人。賊は粲の首を伝えて闕下に至らしめ、以て城内に示す。簡文之を聞きて流涕し、御史中丞蕭愷に謂いて曰く、「社稷の寄する所、唯だ韋公に在り、如何ぞ不幸、先に行陣に死する」と。詔して護軍将軍を贈る。元帝侯景を平げ、追諡して忠貞と曰う。

原文是夜,仲禮入粲營部分眾軍,旦日將戰,諸將各有據守。令粲頓青塘,當石頭中路。粲慮柵壘未立,賊爭之,頗以為憚,謂仲禮曰:「下官才非禦侮,直欲以身徇國,節下善量其宜,不可致有虧喪。」仲禮曰:「青塘立營,迫近淮渚,欲以糧儲船乘盡就迫之。此事大,非兄不可。若疑兵少,當更差軍相助。」粲帥所部水陸俱進。時昏霧,軍人失道,比及青塘,夜已過半,壘柵至曉未合。景登禪靈寺門,望粲營未立,便率銳卒來攻。軍敗,乘勝入營,左右高馮牽粲避賊,粲不動,兵死略盡,遂見害。粲子尼及三弟助、警、構、從弟昂皆戰死,親戚死者數百人。賊傳粲首闕下,以示城內。簡文聞之流涕,謂御史中丞蕭愷曰:「社稷所寄,唯在韋公,如何不幸,先死行陣。」詔贈護軍將軍。元帝平侯景,追諡忠貞。

子の諒は、学業を以て陳の始興王叔陵に引かれ、中録事参軍兼記室と為る。叔陵敗れ、伏誅す。放の弟正。

原文子諒,以學業為陳始興王叔陵所引,為中錄事參軍兼記室。叔陵敗,伏誅。放弟正。

正は字を敬直といい、位は襄陵太守に至る。初め、正は東海王僧孺と善し、僧孺が吏部郎となり、大選を参掌するに及び、賓友故人莫か傾意せざる者無かりしも、正独り澹然たり。僧孺が擯廢せらるるに及び、正は復た素分を篤くし、曩日に踰える有り、論者之を称す。給事黄門侍郎に卒す。子載。

原文正字敬直,位襄陵太守。初,正與東海王僧孺善,及僧孺為吏部郎,參掌大選,賓友故人莫不傾意,正獨澹然。及僧孺擯廢,正復篤素分,有踰曩日,論者稱焉。卒于給事黃門侍郎。子載。

載は字を徳基といい、少しく聰慧にして、志を篤くし学を好む。年十二、叔父棱に随い沛国劉顯に見え、顯が漢書十事を問うに、載は問に随い応じて疑滞無し。長ずるに及び、文史に博く渉り、沈敏にして器局有り。梁に仕えて尚書三公郎と為る。

原文載字德基,少聰慧,篤志好學。年十二,隨叔父棱見沛國劉顯,顯問漢書十事,載隨問應無疑滯。及長,博涉文史,沈敏有器局。仕梁為尚書三公郎。

侯景の乱、元帝承制し、以て中書侍郎と為す。尋いで尋陽太守と為り、都督王僧辯に随い東して侯景を討つ。景平ぎ、歴位して琅邪・義興太守。陳武帝王僧辯を誅し、乃ち周文育を遣わして載を襲わしむ。載は城を嬰して自ら守る。載の所属する県の卒は、並びに陳武の旧兵にして、多く弩を用いるに善く、載は数十人を得て収め、長鎖を以て系ぎ、親しむ所の者に監せしめ、して文育の軍を射しむ。約して曰く、「十発にして両中せざる者は死す」と。毎発輒ち中り、中る所皆斃る。相持すること数旬。陳武帝文育の軍利あらざるを聞き、書を以て載に諭して王僧辯を誅するの意を告げ、並びに梁敬帝の勅を奉じ、載に兵を解かしむるを勅す。載書を得て、乃ち衆を以て降る。陳武帝載を引いて恒に左右に置き、之と謀議ぼうぎす。

原文侯景之亂,元帝承制,以為中書侍郎。尋為尋陽太守,隨都督王僧辯東討侯景。景平,歷位琅邪、義興太守。陳武帝誅王僧辯,乃遣周文育襲載,載嬰城自守。載所屬縣卒,並陳武舊兵,多善用弩,載收得數十人,系以長鎖,令所親監之,使射文育軍。約曰:「十發不兩中者死。」每發輒中,所中皆斃,相持數旬。陳武帝聞文育軍不利,以書喻載以誅王僧辯意,並奉梁敬帝敕,敕載解兵。載得書,乃以眾降。陳武帝引載恒置左右,與之謀議。

徐嗣徽・任約等が斉軍を引きて江を済い、石頭城を据う。帝載に計を問う。載曰く、「斉軍若し兵を分かち先ず三呉の路を据え、地を略して東境せば、則ち時事去らん。今急ぎ淮南に於いて即ち侯景の故壘に城を築き、以て東道の転輸を通じ、別に軽兵を令して其の糧運を絶たしめ、進むに虜する所無く、退くに資する所無からしむれば、則ち斉将の首は、旬日にして致す可し」と。帝之に従う。

原文徐嗣徽、任約等引齊軍濟江,據石頭城,帝問計於載。載曰:「齊軍若分兵先據三吳之路,略地東境,則時事去矣。今可急於淮南即侯景故壘築城,以通東道轉輸,別令輕兵絕其糧運,使進無所虜,退無所資,則齊將之首,旬日可致。」帝從之。

永定年間、散騎常侍・太子右衛率の位にあった。天嘉元年、病により官を去った。韋載は田十余頃を有し、江乗県の白山にあり、ここに至って室を築きて住み、人事を屏絶し、吉凶慶弔、往来する所なく、籬門に入らざること幾十年に及んだ。家にて卒す。韋載の弟に韋鼎あり。韋鼎は字を超盛といい、少にして通暁し、経史に博く渉り、陰陽逆刺に明るく、特に相術を善くした。梁に仕えて起家し湘東王法曹参軍となった。父の憂いに遭い、水漿を口にせざること五日、哀毀礼を過ぎ、殆ど性を滅ぼさんとす。服闋して、邵陵王主簿となった。侯景の乱に、韋鼎の兄韋昂が京口にて戦死し、韋鼎は屍を負い出で、中興寺に寄せ、棺を求むるも得る所なし。韋鼎は哀憤慟哭す、忽ち江中に物の流れ来りて韋鼎の所に至るを見、窃かに之を異とし、往きて視れば乃ち新棺なり、因りて以て充斂とす。元帝之を聞き、精誠の感ずる所と為す。

原文永定中,位散騎常侍、太子右衛率。天嘉元年,以疾去官。載有田十餘頃,在江乘縣之白山,至是遂築室而居,屏絕人事,吉凶慶吊,無所往來,不入籬門者幾十載。卒於家。載弟鼎。鼎字超盛,少通曉,博涉經史,明陰陽逆剌,尤善相術。仕梁起家湘東王法曹參軍。遭父憂,水漿不入口者五日,哀毀過禮,殆將滅性。服闋,為邵陵王主簿。侯景之亂,鼎兄昂于京口戰死,鼎負屍出,寄于中興寺,求棺無所得。鼎哀憤慟哭,忽見江中有物流至鼎所,竊異之,往視乃新棺也,因以充斂。元帝聞之,以為精誠所感。

侯景平らぎ、司徒王僧辯之を以て戸曹属と為す。累遷して中書侍郎となる。陳武帝が南徐州に在りし時、韋鼎は気を望みて其の王たるべきを知り、遂に妻子を寄せたり。因りて陳武帝に謂ひて曰く、「明年に大臣誅死有り、後四歳、梁其れ終を代はらん。天の暦数、当に舜の後に帰すべし。昔周殷氏を滅ぼし、媯汭を宛丘に封ず、其の裔子孫、因りて陳氏と為す。僕明公を観るに、天縦の神武、絶統を継ぐ者は是に非ざるか」と。武帝陰に僧辯を図るの意有り、其の言を聞きて大いに喜び、因りて策を定む。及び禅を受くると、黄門侍郎を拝す。太建年中、廷尉卿を以て聘周使と為し、散騎常侍を加ふ。後に太府卿と為る。

原文侯景平,司徒王僧辯以為戶曹屬。累遷中書侍郎。陳武帝在南徐州,鼎望氣知其當王,遂寄孥焉。因謂陳武帝曰:「明年有大臣誅死,後四歲,梁其代終。天之歷數,當歸舜後。昔周滅殷氏,封媯汭于宛丘,其裔子孫,因為陳氏。僕觀明公,天縱神武,繼絕統者無乃是乎。」武帝陰有圖僧辯意,聞其言大喜,因而定策。及受禪,拜黃門侍郎。太建中,以廷尉卿為聘周使,加散騎常侍。後為太府卿。

至徳初め、韋鼎は田宅を尽く売り払ひ、僧寺に寓居す。友人大匠卿毛彪其の故を問ふ、答へて曰く、「江東の王気、此に尽きたり。吾と爾と当に長安に葬らるべし、期運将に及ばんとす、故に産を破る爾」と。

原文至德初,鼎盡貨田宅,寓居僧寺。友人大匠卿毛彪問其故,答曰:「江東王氣,盡於此矣。吾與爾當葬長安,期運將及,故破產爾。」

初め、韋鼎の周に聘せし時、嘗て隋文帝に遇ひ、謂ひて曰く、「公の容貌を観るに、久からずして必ず大貴す、貴なれば則ち天下一家なり。歳一周天すれば、老夫当に質を委ぬべし、願くは深く自ら愛せよ」と。及び陳亡び、駅に召し入京せしめ、上儀同三司を授け、待遇甚だ厚く、毎に公宴有れば、韋鼎恒に之に預かる。性簡貴にして、亡国の臣と雖も、未だ嘗て当世に俯仰せず。時に吏部尚書韋世康兄弟顕貴なり、隋文帝従容として韋鼎に謂ひて曰く、「世康と公とは遠近如何」と。対へて曰く、「臣が宗族南に徙り、昭穆は臣の知る所に非ず」と。帝曰く、「卿は百代の卿族なり、豈に本を忘れんや」と。命じて官に酒肴を給し、世康を遣はして韋鼎を請ひて杜陵に還らしむ。韋鼎乃ち楚の太傅韋孟以下二十余世より、並びに昭穆を考論し、韋氏譜七巻を作りて之を示す、歓飲すること十余日にして乃ち還る。時に蘭陵公主寡にして、上之が為に夫を求め、親衛柳述及び蕭瑒等を選びて以て韋鼎に示す、韋鼎曰く、「蕭瑒は侯に封ぜらるべしと雖も、貴妻の相無し。柳述も亦通顕すれども、位を守りて終はらず」と。上曰く、「位は我に由る爾」と。遂に以て主を柳述に降す。上又韋鼎に問ふ、諸児誰か嗣位すべきかと。答へて曰く、「至尊皇后の最も愛する所の者、当に之を与ふべし、臣の敢へて預め知る所に非ず」と。上笑ひて曰く、「肯へて顕言せざるか」と。

原文初,鼎之聘周也,嘗遇隋文帝,謂曰:「觀公容貌,不久必大貴,貴則天下一家。歲一周天,老夫當委質,願深自愛。」及陳亡,驛召入京,授上儀同三司,待遇甚厚,每公宴,鼎恒預焉。性簡貴,雖為亡國之臣,未嘗俯仰當世。時吏部尚書韋世康兄弟顯貴,隋文帝從容謂鼎曰:「世康與公遠近?」對曰:「臣宗族南徙,昭穆非臣所知。」帝曰:「卿百代卿族,豈忘本也。」命官給酒肴,遣世康請鼎還杜陵。鼎乃自楚太傅孟以下二十餘世,並考論昭穆,作韋氏譜七卷示之,歡飲十餘日乃還。時蘭陵公主寡,上為之求夫,選親衛柳述及蕭瑒等以示鼎,鼎曰:「瑒當封侯,而無貴妻之相;述亦通顯,而守位不終。」上曰:「位由我爾。」遂以主降述。上又問鼎,諸兒誰為嗣位。答曰:「至尊皇后所最愛者,當與之,非臣敢預知也。」上笑曰:「不肯顯言乎?」

開皇十三年、光州刺史を除かれ、仁義を以て教導し、務めて清静を弘む。州中に土豪有り、外は辺幅を修むるも、内に行ひ軌に不ならず、常に劫盗を為す。韋鼎都会の時に之に謂ひて曰く、「卿は好人なり、何ぞ忽ち賊を為す」と。因りて其の徒党の奸謀逗遛を条列す、其の人驚懼し、即ち自ら首伏す。又人有りて客遊し、主家の妾と通じ、其の還り去るに及び、妾珍物を盗み、夜に逃亡す、尋で草中に於て人の殺す所と為る。主家客の妾と通ずるを知り、因りて客の之を殺すを告ぐ。県司鞫問し、具に奸状を得、因りて客を死に断ず。獄成りて、韋鼎に上る、韋鼎之を覧みて曰く、「此の客実に奸有りと雖も、殺さず。乃ち某寺の僧妾の物を盗むを眩し、奴をして之を殺さしむ、贓は某処に在り」と。即ち此の客を放ち、人を遣はして僧を掩ひ、並びに贓物を獲たり。是より部内粛然たり、咸く其の神を称し、道に拾遺無し。尋で追ひて入京せしめ、頃くして、長安に於て卒す、年七十九。韋正の弟に韋棱あり。

原文開皇十三年,除光州刺史,以仁義教導,務弘清靜。州中有土豪,外修邊幅,而內行不軌,常為劫盜。鼎于都會時謂之曰:「卿是好人,那忽作賊。」因條其徒黨奸謀逗遛,其人驚懼,即自首伏。又有人客遊,通主家之妾,及其還去,妾盜珍物,於夜逃亡,尋於草中為人所殺。主家知客與妾通,因告客殺之。縣司鞫問,具得奸狀,因斷客死。獄成,上於鼎,鼎覽之,曰:「此客實奸,而不殺也。乃某寺僧眩妾盜物,令奴殺之,贓在某處。」即放此客,遣人掩僧,並獲贓物。自是部內肅然,咸稱其神,道無拾遺。尋追入京,頃之,而卒于長安,年七十九。正弟棱。

韋棱は字を威直といい、性恬素にして、書史を以て業と為し、博物強記、当世の士咸く就きて質疑す。位は光禄卿に終る。漢書続訓三巻を著す。韋棱の弟に韋黯あり。

原文棱字威直,性恬素,以書史為業,博物強記,當世士咸就質疑。位終光祿卿。著漢書續訓三卷。棱弟黯。

韋黯は字を務直といい、性强正にして、少より経史を習ひ、位は太府卿。侯景江を済すに及び、韋黯は六門に屯し、尋で都督城西面諸軍と改む。時に景は城外に東西二つの土山を起し、城内も亦之に応ず、簡文自ら土を負ひ、哀太子以下、躬ずから畚鍤を執る。韋黯は西土山を守り、昼夜苦戦す。功を以て軽車将軍を授けられ、持節を加へられ、城内に於て卒す。

原文黯字務直,性強正,少習經史,位太府卿。侯景濟江,黯屯六門,尋改為都督城西面諸軍。時景於城外起東西二土山,城內亦應之,簡文親自負土,哀太子以下,躬執畚鍤。黯守西土山,晝夜苦戰。以功授輕車將軍,加持節,卒於城內。

初め、韋黯は太僕卿たりし時、兄の子韋粲は左衛率たり、韋黯は故を以て常に怏怏たり、人に謂ひて曰く、「韋粲已に驊騮の前に落つ、朝廷是れ才を用ふるか否や」と。識者頗る此を以て之を窺ふ。

原文初,黯為太僕卿,而兄子粲為左衛率,黯以故常怏怏,謂人曰:「韋粲已落驊騮前,朝廷是能用才不?」識者頗以此窺之。

裴邃は字を深明といい、河東聞喜の人、魏の冀州刺史裴徽の後なり。祖は寿孫、寿陽に寓居し、宋の武帝の前軍長史と為る。父は仲穆、驍騎将軍。

原文裴邃字深明,河東聞喜人,魏冀州刺史徽之後也。祖壽孫,寓居壽陽,為宋武帝前軍長史。父仲穆,驍騎將軍。

裴邃十歳にして文を属する能く、左氏春秋を善くす。斉の東昏践祚し、始安王蕭遙光揚州刺史と為り、裴邃を引いて参軍と為す。遙光敗れ、裴邃は寿陽に還る、会ひ刺史裴叔業寿陽を以て魏に降る、裴邃遂に衆に随ひて北に徙る。魏の宣武帝雅く之を重んず。魏に仕えて魏郡太守と為る。魏は王肅を遣はして寿陽を鎮めしむ、裴邃固く肅に随ふを求め、密かに南帰を図る。梁の天監初め、自ら抜けて南還し、後軍諮議参軍を除かる。裴邃は辺境に自ら効せんことを求め、廬江太守と為さる。

原文邃十歲能屬文,善左氏春秋。齊東昏踐阼,始安王蕭遙光為揚州刺史,引邃為參軍。遙光敗,邃還壽陽,會刺史裴叔業以壽陽降魏,邃遂隨眾北徙。魏宣武帝雅重之。仕魏為魏郡太守。魏遣王肅鎮壽陽,邃固求隨肅,密圖南歸。梁天監初,自拔南還,除後軍諮議參軍。邃求邊境自效,以為廬江太守。

五年、邵陽洲を征し、魏人は長橋を為りて淮を断ちて以て済す、裴邃は壘を築きて橋に逼り、毎戦輒ち克つ、是に於て密かに没突艦を作る。会ひ甚だ雨有り、淮水暴溢す、裴邃は艦に乗じて径ちに橋側に造り、進撃し、大いに之を破る。功を以て夷陵県子に封ぜらる。

原文五年,征邵陽洲,魏人為長橋斷淮以濟,邃築壘逼橋,每戰輒克,於是密作沒突艦。會甚雨,淮水暴溢,邃乘艦徑造橋側,進擊,大破之。以功封夷陵縣子。

広陵太守に遷り、郷人と共に魏の武廟に入り、因りて帝王の功業を論ず。其の妻の甥王篆之密かに梁武帝に啓して云く、「裴邃多大言し、臣に不たらん跡有り」と。是に由りて始安太守に左遷さる。裴邃は志し辺陲に功を立てんとし、閑遠を願はず、乃ち呂僧珍に致書して曰く、「昔阮咸・顔延は二始の歎有り、吾が才古人に逮はず、今三始と為る、其の願に非ず、将に之を如何せん」と。後に竟陵太守と為り、屯田を開置し、公私之に便す。再び西戎校尉・北梁秦二州刺史に遷り、復た屯田数千頓を開創し、倉廩盈実し、辺運を省息し、人吏安んずるを得たり。乃ち相率ひて絹千余匹を餉る、裴邃従容として曰く、「汝等応に爾るべからず、吾又逆ふ可からず」と。其の二匹を納るるのみ。入りて大匠卿と為る。

原文遷廣陵太守,與鄉人共入魏武廟,因論帝王功業。其妻甥王篆之密啟梁武帝云:「裴邃多大言,有不臣跡。」由是左遷始安太守。邃志立功邊陲,不願閑遠,乃致書于呂僧珍曰:「昔阮咸、顏延有二始之歎,吾才不逮古人,今為三始,非其願也,將如之何!」後為竟陵太守,開置屯田,公私便之。再遷西戎校尉、北梁秦二州刺史,復開創屯田數千頓,倉廩盈實,省息邊運,人吏獲安。乃相率餉絹千餘匹,邃從容曰:「汝等不應爾,吾又不可逆。」納其二匹而已。入為大匠卿。

普通二年、義州刺史文僧明州を以て魏に入る、魏軍来りて援け、裴邃を以て信武将軍と為し、衆軍を督して討たしむ。裴邃深く魏の境に入り、其の不意に出づ。魏の署する所の義州刺史封寿は檀公峴に拠る、裴邃之を撃破し、遂に其の城を囲む。封寿降を請ふ、義州平ぐ。豫州刺史を除かれ、督を加へられ、合肥に鎮す。

原文普通二年,義州刺史文僧明以州入魏,魏軍來援,以邃為信武將軍,督眾軍討焉。邃深入魏境,出其不意。魏所署義州刺史封壽據檀公峴,邃擊破之,遂圍其城。壽請降,義州平。除豫州刺史,加督,鎮合肥。

四年、大軍が北へ侵攻し、邃に征討諸軍事を督させ、先ず寿陽を襲い、その外城を攻め、門を斬り破って進入し、一日に九度戦ったが、後軍の蔡秀成が道を失って到着せず、邃は援軍が絶えたため兵を引き返した。ここにおいて邃は再び兵を整え、士卒を収集し、諸将にそれぞれ服の色で区別させるよう命じた。邃は自ら黄袍騎と為り、先ず狄丘・甓城・黎漿を攻め落とし、また安成・馬頭・沙陵などの戍を屠った。翌年、地を略して汝・潁の間に至り、所在で呼応した。魏の寿陽守将長孫承業・河間王元琛が城を出て挑戦したので、邃は淮水に臨んで嘆いて言うには、「今日河間を破らねば、まさに謝玄に笑われよう。」と。乃ち四甄を為してこれを待った。直閣将軍李祖憐に偽って遁走させて承業を引き寄せ、承業らは衆を悉く挙げてこれを追い、四甄が競って発すると、魏の衆は大敗し、首級一万余を斬った。承業は奔走し、門を閉じて再び出てこようとしなかった。

原文四年,大軍北侵,以邃督征討諸軍事,先襲壽陽,攻其郛,斬門而入,一日戰九合,為後軍蔡秀成失道不至,邃以援絕拔還。於是邃復整兵,收集士卒,令諸將各以服色相別。邃自為黃袍騎,先攻拔狄丘、甓城、黎漿,又屠安成、馬頭、沙陵等戍。明年,略地至汝、潁間,所在回應。魏壽陽守將長孫承業、河間王元琛出城挑戰,邃臨淮歎曰:「今日不破河間,方為謝玄所笑。」乃為四甄以待之。令直閣將軍李祖憐偽遁以引承業,承業等悉眾追之,四甄競發,魏眾大敗,斬首萬餘級。承業奔走,閉門不敢復出。

軍中で病篤く、衆軍に守備を命じ、喪を送って合肥に還った。尋いで卒去し、侍中・左衛将軍を追贈され、爵を侯に進められ、諡して烈と曰う。

原文在軍疾篤,命眾軍守備,送喪還合肥。尋卒,贈侍中、左衛將軍,進爵為侯,諡曰烈。

邃は沈深にして思略有り、政を為すに寛明で、士心を得ることができ、身を居するに方正で、威重有り。将吏はこれを憚り、敢えて法を犯す者は少なかった。及び卒去すると、淮・肥の間で涙を流さぬ者はなく、邃が死なずば、必ずや大いに土宇を開拓したであろうと思った。子の之礼が嗣いだ。

原文邃沈深有思略,為政寬明,能得士心,居身方正,有威重。將吏憚之,少敢犯法。及卒,淮、肥間莫不流涕,以為邃不死,當大辟土宇。子之禮嗣。

之礼は字を子義と為し、容儀美しく、玄理を言うことができた。西豫州刺史と為る。母憂のため喪に居り、唯だ麦飯を食った。邃の廟は光宅寺の西に在り、堂宇は弘敞で、松柏鬱茂としていた。範雲の廟は三橋に在り、蓬蒿剪らず。梁の武帝が南郊の祭の時、道すがら二つの廟を経て、顧みて嘆いて言うには、「范は已に死し、裴は更に生く。」と。大同の初め、都下に旱蝗有り、四籬門の外の桐柏は凋み尽くしたが、唯だ邃の墓だけは犬牙も入らず、当時これを異とした。位を歴て黄門侍郎と為る。

原文之禮字子義,美容儀,能言玄理。為西豫州刺史。母憂居喪,唯食麥飯。邃廟在光宅寺西,堂宇弘敞,松柏鬱茂。範雲廟在三橋,蓬蒿不翦。梁武帝南郊,道經二廟,顧而歎曰:「范為已死,裴為更生。」大同初,都下旱蝗,四籬門外桐柏凋盡,唯邃墓犬牙不入,當時異之。歷位黃門侍郎。

武帝が無遮会を設けると、舞象が驚き、陛衛を排突し、王公は皆散ったが、唯だ之礼と散騎常侍臧盾は動じなかった。帝はこれを壮とし、之礼を壮勇将軍・北徐州刺史と為し、盾を兼中領軍将軍と為した。

原文武帝設無遮會,舞象驚,排突陛衛,王公皆散,唯之禮與散騎常侍臧盾不動。帝壯之,以之禮為壯勇將軍、北徐州刺史,盾兼中領軍將軍。

之礼は少府卿にて卒去し、諡して壮と曰う。子の政は、承聖中に位は給事黄門侍郎に至る。魏が江陵を克つと、例に随って長安に入った。

原文之禮卒於少府卿,諡曰壯。子政,承聖中位給事黃門侍郎。魏克江陵,隨例入長安。

之高は字を如山と為し、邃の兄中散大夫髦の子なり。頗る書を読み、少より意気を負い、常に叔父邃に従って征討し、所在で功を立て、甚だ邃に器重され、戎政は咸く之に委ねられた。寿陽の役、邃が軍中に卒すると、之高は夏侯夔に隷して寿陽を平らげ、仍って梁郡太守を除かれ、都城県男に封ぜられた。時に魏の汝陰が来附したので、勅して之高に応接させ、仍って潁州刺史を除かれた。父憂のため都に還り、起されて光遠将軍と為り、陰陵の盗賊を討ち平らげるよう命じられ、譙州刺史と為された。

原文之高字如山,邃兄中散大夫髦之子也。頗讀書,少負意氣,常隨叔父邃征討,所在立功,甚為邃所器重,戎政咸以委焉。壽陽之役,邃卒於軍所,之高隸夏侯夔平壽陽,仍除梁郡太守,封都城縣男。時魏汝陰來附,敕之高應接,仍除潁州刺史。父憂還都,起為光遠將軍,令討平陰陵盜,以為譙州刺史。

侯景の乱、之高は西豫州刺史と為り、衆を率いて入援した。南豫州刺史鄱陽嗣王範は之高に命じて江右援軍諸軍事を総督させ、張公洲に頓させた。柳仲礼が横江に至ると、之高は船舸を遣わして仲礼を迎え致し、韋粲らと俱に青塘に会した。及び城が陥落すると、之高は合肥に還り、鄱陽王範と共に西上した。元帝が召し遣わし、侍中・護軍将軍と為し、江陵に到った。

原文侯景之亂,之高為西豫州刺史,率眾入援。南豫州刺史鄱陽嗣王范命之高總督江右援軍諸軍事,頓張公洲。柳仲禮至橫江,之高遣船舸迎致仲禮,與韋粲等俱會青塘。及城陷,之高還合肥,與鄱陽王範西上。元帝遣召之,以為侍中、護軍將軍,到江陵。

時に之高の第六弟之悌が侯景の中に在った。或いは之悌が侯景を斬ったと伝え、元帝は兼中書舎人黄羅漢を遣わして之高に報ぜしめたが、之高は終に言無く、直ちに云うには、「賊自ら賊を殺す、之高の聞く所に非ず。」と。元帝は深くその介直を嗟んだ。承制により特進・金紫光禄大夫を除かれた。卒去し、諡して恭と曰う。

原文時之高第六弟之悌在侯景中。或傳之悌斬侯景,元帝使兼中書舍人黃羅漢報之高,之高竟無言,直云:「賊自殺賊,非之高所聞。」元帝深嗟其介直。承制除特進、金紫光祿大夫。卒,諡曰恭。

子の畿は、官は太子右衛率に至る。魏が江陵を克つ時、力戦して之に死す。

原文子畿,官至太子右衛率。魏克江陵,力戰死之。

之高の第五弟之平は字を如原と為し、少より倜儻として志略有り、軍功により費県侯に封ぜられた。承聖中、累遷して散騎常侍・太子詹事と為る。陳の文帝の初め、光禄大夫・慈訓宮衛尉を除かれたが、並びに就かず。乃ち山を築き池を穿ち、卉木を植え、其の中に居処し、終焉の志有り。天康元年卒去し、諡して僖子と曰う。子に忌有り。

原文之高第五弟之平字如原,少倜儻有志略,以軍功封費縣侯。承聖中,累遷散騎常侍、太子詹事。陳文帝初,除光祿大夫、慈訓宮衛尉,並不就。乃築山穿池,植以卉木,居處其中,有終焉志。天康元年卒,諡曰僖子。子忌。

忌は字を無畏と為し、少より聡敏で、識量有り、頗る史伝に渉り、当時に称せられた。侯景の乱、勇力を招集し、乃ち陳武帝に随って征討した。及び陳武帝が王僧辯を誅すると、僧辯の弟僧智が兵を挙げて呉郡を拠え、陳武帝は黄他を遣わして之を攻めさせたが、克つことができなかった。命じて忌に部下の精兵を率いさせ、自ら銭唐より直ちに呉郡に趣かせ、夜に城下に至り、鼓噪して之を薄めた。僧智は大軍の至りを疑い、軽舟で杜龕に奔り、忌は入って呉郡を拠えた。陳武帝は之を嘉し、表して呉郡太守を授けた。

原文忌字無畏,少聰敏,有識量,頗涉史傳,為當時所稱。侯景之亂,招集勇力,乃隨陳武帝征討。及陳武帝誅王僧辯,僧辯弟僧智舉兵據吳郡,陳武帝遣黃他攻之,不能克。命忌勒部下精兵,自錢唐直趣吳郡,夜至城下,鼓噪薄之。僧智疑大軍至,輕舟奔杜龕,忌入據吳郡。陳武帝嘉之,表授吳郡太守。

天嘉五年、累遷して衛尉卿と為り、東興県侯に封ぜられた。及び華皎が上流に兵を称するに及び、宣帝は時に録尚書として政を輔け、衆軍を尽く命じて出討させ、忌に委ねて中外城防諸軍事を総知させた。宣帝即位、楽安県侯に改封される。位を歴て都官尚書と為る。及び呉明徹が衆を督して北伐するに、詔して忌に本官を以て明徹の軍を監せしむ。淮南平らぎ、豫州刺史を授かる。忌は綏撫に善くし、甚だ人和を得た。及び明徹が彭・汴に進軍するに、忌を都督と為し、明徹と俱に進ませた。呂梁にて軍敗れ、周に囚われ、上開府を授かる。隋の開皇十四年、長安にて卒去し、年七十三。之高の第十二弟に之横有り。

原文天嘉五年,累遷衛尉卿,封東興縣侯。及華皎稱兵上流,宣帝時為錄尚書輔政,盡命眾軍出討,委忌總知中外城防諸軍事。宣帝即位,改封樂安縣侯。歷位都官尚書。及吳明徹督眾北伐,詔忌以本官監明徹軍。淮南平,授豫州刺史。忌善於綏撫,甚得人和。及明徹進軍彭、汴,以忌為都督,與明徹俱進。呂梁軍敗,見囚于周,授上開府。隋開皇十四年,卒于長安,年七十三。之高第十二弟之橫。

之横は字を如嶽と為し、少より賓遊を好み、気侠を重んじ、産業に事としなかった。之高はその縦誕を以て、乃ち狭い被と粗食を為して之を激厲した。之横は嘆いて言うには、「大丈夫富貴たらば、必ず百幅の被を作らん。」と。遂に僮属数百人と芍陂に於いて大いに田墅を営み、遂に殷積を致した。梁の簡文帝が東宮に在る時、聞いて之を要し、河東王常侍と為した。直合将軍に遷る。

原文之橫字如嶽,少好賓遊,重氣俠,不事產業。之高以其縱誕,乃為狹被蔬食以激厲之。之橫歎曰:「大丈夫富貴,必作百幅被。」遂與僮屬數百人於芍陂大營田墅,遂致殷積。梁簡文在東宮,聞而要之,以為河東王常侍。遷直合將軍。

侯景の乱、鄱陽王範に隷して景を討ち、景が江を済むと、仍って範の世子嗣と共に入って台城を援けた。城陥落し、退いて合肥に還る。侯景が任約を遣わして晋熙を逼ると、範は之横に命じて下って援けさせた。未だ至らざるに、範薨じ、之横は乃ち還った。時に尋陽王大心が江州に在り、範の副梅思立が密かに大心を要して盆城を襲わんとしたので、之横は思立を斬って大心を拒いだ。大心は州を以て侯景に降り、之横は兄之高と共に元帝に帰し、位は廷尉卿・河東内史と為り、王僧辯に随って侯景を拒いだ。景退き、東徐州刺史に遷り、豫甯侯に封ぜられた。又僧辯に随って景を破り、景が東奔すると、僧辯は之横と杜崱に命じて入って台城を守らせた。及び陸納が湘州を拠えて叛くと、又僧辯に隷して南討し、納の将李賢明を斬り、之を平らげた。又武陵王を峡口に破る。還って呉興太守を除かれ、乃ち百幅の被を作って其の志を成した。

原文侯景之亂,隸鄱陽王范討景,景濟江,仍與範世子嗣入援台城。城陷,退還合肥。侯景遣任約逼晉熙,範令之橫下援。未及至,範薨,之橫乃還。時尋陽王大心在江州,范副梅思立密要大心襲盆城,之橫斬思立而拒大心。大心以州降侯景,之橫與兄之高歸元帝,位廷尉卿、河東內史,隨王僧辯拒侯景。景退,遷東徐州刺史,封豫甯侯。又隨僧辯破景,景東奔,僧辯命之橫與杜崱入守台城。及陸納據湘州叛,又隸僧辯南討,斬納將李賢明,平之。又破武陵王於峽口。還除吳興太守,乃作百幅被以成其志。

魏が江陵を陥落させると、斉は上党王高渙を派遣し、貞陽侯蕭明を擁して東關を攻撃した。晉安王が制を承け、徐之橫を徐州刺史とし、諸軍を都督させて、蘄城を守備に出させた。之橫の営壘が未だ整わぬうちに、斉軍が大挙して至り、兵は尽き矢は窮し、遂に陣中にて没した。司空を追贈され、諡して忠壮といった。子の鳳寶が嗣いだ。

原文魏克江陵,齊遣上党王高渙挾貞陽侯明攻東關。晉安王承制,以之橫為徐州刺史,都督眾軍,出守蘄城。之橫營壘未周,而齊軍大至,兵盡矢窮,遂於陣沒。贈司空,諡曰忠壯。子鳳寶嗣。

論じて曰く、韋叡と裴邃は若年にして操を励まし、共に学問と志尚をもって自立し、晩節には駆け回り、各々戎馬の間に功を著した。韋叡の制勝の道を観れば、魁梧の傑と謂うべきであるが、しかしその体つきは甚だ羸瘠で、自ら鞍に跨がらず、板輿に乗って指揮し、敵国に対するが如く威厳があった。その器量と分際は備わっており、隆盛なる名声は豈に虚しく得たものであろうか。裴邃は自ら辺疆に効し、盛んな功績を挙げることができたが、その志は遂げられず、誠に悲しむべきである。両家の子弟は、各々名節を著し、梁と終始を共にし、隆大な家業をよく担った。「将門に将あり」、この言葉は豈に妄りと言えようか。

原文論曰:韋、裴少年勵操,俱以學尚自立,晚節驅馳,各著功於戎馬。觀叡制勝之道,謂為魁梧之傑,然而形甚羸瘠,身不跨鞍,板輿指麾,隱如敵國,其器分有在,隆名豈虛得乎。邃自效邊疆,盛績克舉,其志不遂,良可悲夫。二門子弟,各著名節,與梁終始,克荷隆構。「將門有將」,斯言豈曰妄乎。