南史
巻五十七より巻五十八
列傳第四十七
沈約
先祖
秦の末に沈逞あり、丞相に徴せられしも就かず。漢の初め、逞の曾孫保は竹邑侯に封ぜらる。保の子遵は本国より九江の壽春に遷り居し、官は齊王太傅に至り、敷德侯に封ぜらる。遵は驃騎將軍達を生み、達は 尚書令 幹を生み、幹は南陽太守弘を生み、弘は河內太守勖を生み、勖は御史中丞奮を生み、奮は將作大匠恪を生み、恪は尚書關內侯謙を生み、謙は濟陽太守靖を生み、靖は戎を生む。戎は字を威卿とし、州の從事に仕え、劇賊尹良を説き降し、漢の光武その功を嘉し、海昏縣侯に封ぜんとす、辞して受けず、因って地を避けて會稽烏程縣の餘不鄉に徙り居し、遂に家す。順帝永建元年、會稽を分ちて吳郡と為し、復た吳郡の人と為る。霊帝初平五年、烏程・余杭を分ちて永安縣と為し、呉の孫皓宝鼎二年、吳郡を分ちて吳興郡と為す。晋の太康三年、永安を改めて武康縣と為し、復た吳興武康の人と為る。邦邑屢改まるといえども、室を築くこと遷らず。
戎の子酆は字を聖通とし、位は零陵太守、黄龍芝草の瑞を致す。第二子仲高は安平相、少子景は河間相、演之・慶之・曇慶・懷文は其の後なり。仲高の子鸞は字を建光とし、少にして高名有り、州は茂才を挙げ、公府は州別駕從事史に辟す。時に廣陵太守陸稠は、鸞の舅なり、義烈政績を以て漢朝に名を顕わし、復た女を以て鸞に妻せしむ、早卒す。又直は字を伯平とし、州は茂才を挙げ、亦た清名有り、卒す。子の瑜・儀は倶に少にして至行有り。瑜十歳、儀九歳にして父亡び、喪に居り毀瘁すること、成人に過ぐ。外祖會稽の盛孝章は、漢末の名士なり、深く憂傷を加え、毎に之を撫慰し、曰く「汝等並びに黄中英爽にして、終に奇器を成すべし、何ぞ遽に制を踰え自ら殄滅を取らんや」と。三年の礼畢り、殆ど性を滅ぼすに至る、故に兄弟並びに孝を以て著る。瑜は早卒す。儀は字を仲則とし、篤学にして雅才有り、儒素を以て自ら業とす。時に海内大乱し、兵革並び起こり、経術廃弛し、士全き行少なし。而して儀は淳深隠黙、道を守りて移らず、風操貞整、妄りに交納せず、唯だ族子の仲山・叔山及び呉郡の陸公紀と善くす。州郡礼請し、二府交辟し、公車徴す、並びに屈せず、寿を以て終わる。子曼は字を元禪とし、左中郎・新都都尉・定陽侯、才志は呉朝に顕わる。子矯は字を仲桓とし、節気を以て名を立て、仕えて立武 校尉 ・偏將軍と為る。孫皓の時、将帥の称有り。呉平らぎ、郁林・長沙二郡太守と為る、就かず。太康の末に卒す。子陵は字を景高とし、晋の元帝の鎮東將軍たる時、参軍事を命ぜらる。子延は字を思長とし、潁川太守、始めて縣東鄉の博陸里餘烏村に居す。延の子賀は字を子寧とし、桓沖の南中郎参軍。
高祖 警
賀の子警は字を世明とし、惇篤にして行業有り、学は左氏春秋に通じ、家産千金を累ぬ。後將軍謝安は参軍を命じ、甚だ相敬重す。警は内に財に足り、東南の豪士と為り、進仕の意無く、病を謝して帰る。安固く留めて止まず、乃ち謂いて曰く「沈参軍、卿に独善の志有り、亦た高からずや」と。警曰く「使君道を以て物を禦ふ、前に以て徳を懐いて至る所以なり、既に時を佐くる用無く、故に遂に飲啄の願を爾るのみ」と。家に還り積載し、素業を以て自ら娯しむ。前將軍王恭京口に鎮し、警と旧好有り、復た参軍を引く。手書殷勤、苦しく相招致す、已むを得ずして之に応ず。尋いで復た謝して去る。
曾祖 穆夫
子穆夫は字を彥和とし、少しく好学、左氏春秋に通ず。王恭は前將軍主簿を命じ、警に謂いて曰く「足下既に抜くべからざるの志を執り、東南に高臥す、故に賢子を屈して共に事とせしむ、吏職の之を嬰くに非ざるなり」と。
初め、錢唐の人杜炅は字を子恭とし、霊に通じ道術有り、東土の豪家及び都下の貴望並びに之に事えて弟子と為り、三に在るの敬を執る。警は累世道に事え、亦た子恭を敬事す。子恭死し、門徒孫泰・泰の弟子恩其の業を伝え、警復た之に事う。隆安三年、恩會稽に於いて乱を作し、自ら征東將軍と称し、三呉皆応ず。穆夫會稽に在り、恩は余姚令と為す。恩の劉牢之に破られしに及び、穆夫害せらる。是に先立ち穆夫の宗人沈預は穆夫の父警と協わず、是に至りて警及び穆夫の弟仲夫・任夫・預夫・佩夫を告げ、並びに害せらる。唯だ穆夫の子深子・雲子・田子・林子・虔子は全きを得。田子・林子は名を知らる。
従祖 田子
田子は字を敬光とし、武帝に従い京城を克ち、進みて建鄴を平らげ、鎮軍事に参じ、營道縣五等侯に封ぜらる。帝北伐して廣固に至り、田子は偏師を領し龍驤將軍孟龍符と前鋒と為る。龍符戦沒し、田子力戦して之を破る。盧循都を逼るに及び、帝は田子を遣わし建威將軍孫季高と海道より廣州を襲い破り、還りて除くに太尉参軍・淮陵内史、爵を都鄉侯に賜う。義熙八年、従い劉毅を討つ。十一年、従い司馬休之を討ち、除くに振武將軍・扶風太守。十二年、武帝北伐し、田子は順陽太守傅弘之と各別軍を領し、武関より入り、青泥に屯據す。姚泓将に自ら大軍を禦えんとし、田子其の後を襲わんことを慮り、先ず田子を平らげ、然る後に国を傾けて東に出でんと欲す。乃ち歩騎数万を率い、奄に青泥に至る。田子本疑兵と為し、領する所裁数百、之を撃たんと欲す。傅弘之曰く「彼衆我寡、与に敵すべからず」と。田子曰く「師は奇を用いるを貴ぶ、必ずしも衆に在らず」と。弘猶固執す、田子曰く「衆寡相傾き、勢両立せず、若し賊の囲み既に固くし、人情喪沮せば、事便ち去らん。其の未だ整わざるに及び、之を薄すれば必ず克つ、所謂先人として人の志を奪うなり」と。便ち独り領する所を率い、鼓噪して進む。賊数重を合圍し、田子乃ち糧を棄て舎を毀ち、躬ら士卒を勒し、前後奮撃し、賊衆一時潰散し、殺す所万余人、泓の偽の乗輿服御を得る。武帝其の状を表言す。長安既に平らぎ、武帝文昌殿に燕し、酒を挙げて田子に賜いて曰く「咸陽の平らぐは、卿の功なり、即ち咸陽を以て相賞す」と。即ち咸陽・始平二郡太守を授く。
大軍が既に還ると、桂陽公劉義真は長安に留まって鎮守し、田子を安西中兵参軍・龍驤将軍・始平太守とした。時に赫連勃勃が来寇し、田子は安西司馬王鎮悪と共に北地に出てこれを防いだ。初め、武帝が還ろうとした時、田子及び傅弘之らは皆、鎮悪の家が関中にあるので、保証できず信用できないと、度々言上した。帝は「今、卿ら文武の将士・精兵一万人を留め置く。彼がもし不善を為そうとすれば、正に自滅するに足るのみ。重ねて多くを言うな」と言った。及んで共に北地に出ると、論者は鎮悪が諸々の南人を皆殺しにし、数十人で義真を南に送還させ、因って関中に拠って反乱しようとしていると言った。田子は乃ち弘之の営内で鎮悪を招いて事を計り、宗人の敬仁に座においてこれを殺させ、左右の数十人を率いて自ら義真のもとに帰った。長史王修は田子を長安の稿倉門外で捕らえて殺した。これは十四年正月十五日のことであった。武帝は天子に上表し、田子が卒然として狂易を発したもので、深く罪に問わないとした。
祖父は林子である。
林子は字を敬士といい、少にして大度あり、数歳の時、祖父に従って京口におり、王恭はこれを見て奇とし、「この児は王子師の流れなり」と言った。嘗て衆人と共に遺宝を見た時、皆争ってこれに向かったが、林子は直ちに去って顧みなかった。十三歳の時、家禍に遇い、既に家門は祅党に陥り、兄弟は皆誅に従うべきであったが、沈預の家は甚だ強富で、志は相陷滅することにあり、林子兄弟は山沢に沈伏し、投ずる所がなかった。会に孫恩が屡々会稽に出ると、武帝は討伐を致し、林子は乃ち自ら帰って陳情し、老弱を率いて罪に帰し命を請い、因って流涕哽咽したので、三軍はこれに感動した。帝は甚だこれを奇とし、乃ち別船に載せ、遂に家室を尽くして京口に移し、帝は宅を分けて与えた。
林子は衆書を博覧し、文義に留心し、京城を克つに従い、進んで都邑を平らげた。時に十八歳、身長七尺五寸。沈預は林子が害を為すことを慮り、常に甲を被り戈を持ったが、ここに至り林子は兄田子と共に東に還って讎を報いた。五月の夏節日に至り、預は正に大いに集会し、子弟は堂に盈ちた。林子兄弟は挺身して直ちに入り、預の首を斬り、男女は長幼を論ぜず悉くこれを屠り、預の首をもって父祖の墓に祭った。及んで帝が揚州となると、辟いて従事とし、建熙令を領し、資中県五等侯に封じた。慕容超を伐つに従い、盧循を平らげ、並びに軍功を著した。後に劉毅を征するに従い、太尉軍事に参じた。また司馬休之を討つに従った。武帝は征討する毎に、林子は輒ち鋒を推して前に居た。時に賊党の郭亮之が蛮・晋を招集し、武陵に屯拠し、武陵太守王鎮悪は出奔した。林子は軍を率いてこれを討ち、亮之を七里澗で斬り、鎮悪を納れた。武陵が既に平らぐと、また石城において魯軌を討ち、軌は衆を棄てて襄陽に走り、またこれを追躡した。襄陽が既に定まると、権りに江陵を留守した。
武帝が姚泓を伐つと、また征西軍事に参じ、建武将軍を加えられ、軍を統べて前鋒と為り、汴より河に入った。偽の 并 州刺史・河東太守尹昭は蒲阪に拠り、林子は陝城において冠軍檀道済と共に蒲阪を攻め、龍驤王鎮悪は潼関を攻めた。姚泓は大軍の至るを聞き、偽の東平公姚紹を遣わして潼関を争って拠らせた。林子は道済に言った、「潼関は天険にして、所謂形勝の地なり。鎮悪は孤軍にして、勢い危く力屈す。若し姚紹をしてこれを拠らしめば、則ち図り難からん。その未だ至らざるに及び、当に力を併せてこれを争うべし。若し潼関の事捷かば、尹昭は戦わずして服せん」。道済はこれに従った。及んで至ると、紹は関右の衆を挙げ、重囲を設け、林子及び道済・鎮悪らを囲んだ。道済は議して河を渡ってその鋒を避けんと欲し、或いは輜重を棄捐して還り武帝に赴かんと欲した。林子は剣を按じて言った、「下官が今日の事は、自ら将軍の為にこれを弁ず。然れども二三の君子は或いは艱難を同じくし、或いは恩を荷って極まり無く、これをもって退撓せば、亦何をもって相公の旗鼓を見んや」。井を塞ぎ舎を焚き、全き志無きを示した。麾下数百人を率い、その西北を犯した。紹の衆は小しく靡き、その乱に乗じてこれを薄くし、紹は乃ち大いに潰え、俘虜は千数を以って数え、紹の器械資実を悉く獲た。時に諸将は賊を破るに皆その首級を多くしたが、林子は捷書を献上するに至り、毎に実を以って聞かせた。武帝はその故を問うと、林子は言った、「夫れ王者の師は、本より征有りて戦無し。豈に復た虜獲を増張し、以て誇誕を示すべけんや。昔、魏尚は盈級を以って罰を受けしが、これもまた後乗の良轍なり」。武帝は言った、「乃ち卿に望む所なり」。
初め、紹が退走し、還って定城を守ると、偽の武衛将軍姚鸞に精兵を率いさせて嶮を守らせた。林子は枚を銜んで夜襲し、即ちその城を屠り、鸞を劓しその衆を坑にした。紹はまた撫軍将軍姚贊に兵を将いて河上に屯せしめ、林子は連破した。紹はまた長史姚伯子らを遣わして九泉に屯拠せしめ、河に憑り険を固め、以って糧援を絶たんとした。武帝はまた林子を遣わして累戦して大いにこれを破り、即ち伯子を斬り、俘獲した所は悉く以って紹に還し、王師の弘大なるを知らしめた。紹は志節沈勇であったが、林子は戦う毎に輒ち勝ち、武帝に白して言った、「姚紹は気は関右を蓋うも力は勢いを以って屈す。但だ凶命先尽きて、釁を以って斉斧に当たらざるを恐るるのみ」。尋で紹は疽が背に発して死んだ。武帝は林子の験を以って、乃ち書を賜いてこれを嘉美した。ここにおいて贊は後軍を統べてまた林子を襲ったが、林子はこれを禦ぎ、連戦して皆捷した。
帝が閿郷に至ると、姚泓は境内の兵を掃いて嶢柳に屯した。時に田子は武関より北に入り、軍を藍田に屯し、泓は自ら大衆を率いてこれを攻めた。帝は衆寡敵せざるを慮り、林子を遣わして歩みて秦嶺より相接援せしめた。比して至ると、泓は既に破れて走っていた。田子は窮追して進み長安を取らんと欲したが、林子はこれを止めて言った、「往きて長安を取るは、指掌の如きのみ。復た賊城を克てば、便ち独り一国を平らぐるとなり、賞せられざるの功なり」。田子は乃ち止めた。
林子の威は関中に震い、豪右は風望して請い附かんとした。帝は林子・田子が綏略方有るを以って、頻りに書を賜いて褒美し、並びに深く慰納することを令した。長安が既に平らぐと、姚氏の十余万口は西に隴上に奔り、林子は追討して寡婦水に至り、転闘して槐里に至った。大軍が東に帰ると、林子は水軍を領して石門において声援と為した。還って彭城に至ると、帝は林子に勳勤を差次し、才に随って授用することを令した。
文帝が荊州に出て鎮すると、議して林子及び謝晦を蕃佐と為さんとした。帝は言った、「吾は頓に二人無かるべからず。林子が出れば則ち晦は出づるに宜しからず」。乃ち林子を西中郎中兵参軍と為し、新興太守を領せしめた。林子は行役久しく、士に帰心有るを以って、乃ち事の宜しきを深く陳べた。並びに言った、「聖王の戒慎祗肅する所以は、威を崇め武を立つるを以ってするに非ず、実に国を経え甿を長くせんとす。宜しく蕃屏を広く建て、宿衛を崇厳すべし」。武帝は深く相酬納した。俄かに謝翼が謀反すると、帝は歎じて言った、「林子の見ること、何ぞ其れ明らかなるや」。
文帝が鎮西に進号すると、府に随って転じ、建威将軍・河東太守を加えられた。時に武帝は方隅未だ静まらざるを以って、復た親ら戎せんと欲したが、林子は固く諫めた。帝は答えて言った、「吾は輒ち当に復た自ら行かざらん」。帝が践阼すると、佐命の功を以って、漢寿県伯に封じられたが、固く譲って許されず。永初三年に卒し、征虜将軍を追贈された。元嘉二十五年、諡して懷と言う。少子の璞が嗣いだ。
父は璞である。
璞は字を道真といい、幼少の時より神意閑かに審らかであった。文帝が召し出して見ると、璞の応対を奇として、林子に謂って曰く、「これは並みの児ではない」と。初め南平王の左常侍に除され、文帝が引見して、之に謂って曰く、「吾れ昔に弱年を以て蕃に出でし時、卿の家は親要を以て見輔せられ、今日の授けは、意は薄からざるに在り。王家の事は、一もって相委す。国官清塗に乖くを以て罔罔たるなかれ」と。元嘉十七年、始興王の浚が揚州刺史となり、寵愛殊に異なり、主簿と為す。時に順陽の范曄が長史として州事を行い、曄の性頗る疎なり。文帝は璞に謂って曰く、「范曄は性疎なり、必ず多く同じからず、卿は腹心の寄せし所、当に密かに意に在らしむべし。彼が行事するは、其れ実に卿なり」と。璞は任遇既に深しと為し、懐く所は輒ち密啓を以てし、毎に施行に至るまで、必ず中より出づ。曄は政を聖明の留察と謂い、故に深く更に恭慎を加え、而して其の際を見ること莫かりき。職に在ること八年、神州大いに寧んじ、人謗黷無く、璞力有り。二十二年、范曄事に坐して誅せらる。時に浚は親覧と曰えども、州事は一もって璞に付す。浚年既に長じ、璞固より辞事を求む。璞を以て浚の始興国大農と為し、累遷して淮南太守となる。
三十年、元凶 弑 逆して立ち、璞は奉迎の遅きを以て殺さる。子有り、曰く約、其の制自序は大略此の如し。
約
約十三にして家難に遭い、潜竄し、赦に会いて乃ち免る。既にして流寓孤貧、篤志好学し、昼夜巻を釈かず。母は其の労を以て疾を生ずるを恐れ、常に油を減らし火を滅すことを遣わす。而して昼の読む所は、夜輒ち之を誦し、遂に群籍に博通し、文を属するに善し。済陽の蔡興宗其の才を聞きて之を善しとし、 郢州 と為るに及び、引いて安西外兵参軍、兼ねて記室と為す。興宗常に其の諸子に謂いて曰く、「沈記室は人倫の師表なり、宜しく善く之に師すべし」と。荊州と為るに及び、又征西記室と為り、厥西令を帯ぶ。
斉の初め征虜記室と為り、襄陽令を帯び、奉ずる主は即ち斉の文恵太子なり。太子東宮に入居し、歩兵 校尉 と為り、書記を管し、永寿省に直し、四部図書を校す。時に東宮に多士有り、約特だ親遇せられ、毎旦入見し、景斜めて方に出づ。時に王侯宮に到るも或いは進むを得ず、約毎に之を言と為す。太子曰く、「吾れ生平懶く起き、是れ卿の悉くする所なり、卿の談論を得て、然る後に寝を忘る。卿我を夙く興さしめんと欲せば、恒に早く入るべし」と。太子家令に遷る。後に 司徒 右長史・黄門侍郎と為る。時に竟陵王士を招き、約は蘭陵の蕭琛・琅邪の王融・陳郡の謝朓・南郷の范雲・楽安の任昉等と皆之に遊ぶ。当世之を号して人を得たりとす。
隆昌元年、吏部郎を除かれ、出でて東陽太守と為る。斉の明帝即位し、徴さられて五兵尚書と為り、国子祭酒に遷る。明帝崩じ、政は塚宰に帰す。 尚書令 徐孝嗣、約を使い遺詔を撰定せしむ。永元中、復た 司徒 左長史と為り、征虜将軍・南清河太守の号を進む。
初め、梁武西邸に在りし時、約と遊旧たり。建康城平らぎ、引いて驃騎司馬と為す。時に帝の勲業既に就き、天人允に属す。約嘗て其の端を扣く、帝黙然として応ぜず。佗日又進みて曰く、「今は古と異なり、淳風を以て万物を期すべからず。士大夫龍に攀じ鳳に附く者は、皆尺寸の功有るを望み、以て其の福禄を保たんとす。今童児牧豎斉の祚の終わるを知り、且つ天文人事革運の徴を表し、永元以来、尤も彰著なり。讖に云う、『行中水、天子を作す』と。此れ又歴然として記に在り。天心違うべからず、人情失うべからず」と。帝曰く、「吾れ方に之を思わんとす」と。約曰く、「公初め樊・沔に兵を起こせし時、此の時に応に思うべし。今日王業已に就けり、何の復た思う所か有らん。昔武王紂を伐ち、始めて人に入りて便ち吾が君と曰えり。武王人の意に違わず、亦思う所無かりき。公自ら京邑に至りてより、已に気序を移せり、周武に比すれば、遅速同じからず。若し早く大業を定めずして、天人の望みを稽え、脱一人異を立てば、便ち威徳を損なわん。且つ人金石に非ず、時事保ち難し、豈に建安の封を以て、之を子孫に遺さんや。若し天子都に還り、公卿位に在らば、則ち君臣分定まり、復た異図無からん。君上に明らかにして、臣下に忠なれば、豈に復た人方に更に公と賊を作さんや」と。帝之を然りとす。約出で、范雲を召して之に告ぐ。雲の対略ね約の旨と同じ。帝曰く、「智者乃ち爾くの如く暗に同じ、卿明朝休文を将いて更に来たれ」と。雲出でて約に語る。約曰く、「卿必ず我を待て」と。雲諾す。而して約先んじて期に入る。帝事を草せしむるを令す。約乃ち懐中より詔書並びに諸の選置を出だす。帝初め改むる所無し。俄にして雲外より来たり、殿門に至りて入るを得ず、寿光合の外に徘徊し、但だ云く、「咄咄」と。約出づ。雲問うて曰く、「何を以て処せしむるか」と。約手を挙げて左に向かう。雲笑いて曰く、「望む所に乖かず」と。有りて頃、帝雲を召して謂いて曰く、「生平沈休文と群居し、異人の処有るを覚えず、今日才智縦横、明識と謂うべし」と。雲曰く、「公今約を知るは、約今公を知るに異ならず」と。帝曰く、「我兵を起こすこと今より三年なり、功臣諸将実に其の労有り、然れども帝業を成す者は乃ち卿二人なり」と。
梁台建つ、 散騎常侍 ・吏部尚書、兼ねて右僕射と為る。禅を受くるに及び、尚書僕射と為り、建昌県侯に封ぜらる。又約の母謝を拝して建昌国太夫人と為す。策を奉ずるの日、吏部尚書范雲等二十余人皆来りて拝を致し、朝野栄と為す。俄に左僕射に遷る。天監二年、母憂に遭う。輿駕親しく出でて臨吊し、約年衰え、毀に致すに宜しからざるを以て、中書舎人を遣わして客を断ち節哭せしむ。起きて鎮軍将軍・丹陽尹と為り、佐史を置く。服闋し、侍中・右光禄大夫に遷り、太子詹事を領し、尚書八条事を奏す。 尚書令 に遷る。累表陳譲し、左僕射に改授され、中書令を領す。尋いで 尚書令 に遷り、太子少傅を領す。九年、左光禄大夫に転ず。
初め、約久しく端揆に処し、台司を志し、論者皆宜しと謂う。而して帝終に用いず。乃ち外出を求め、又許さるるを見ず。徐勉と素より善し、遂に書を以て情を勉に陳べ、己が老病なるを言い、「百日数旬、革帯常に孔を移す応あり、手を以て臂を握れば、率ね計るに月小半分」と。事を謝し、帰老の秩を求めんと欲す。勉為に帝に言い、三司の儀を請う。許さず、但だ鼓吹を加うるのみ。
沈約は酒を飲まず、若い頃から嗜欲が少なく、時に重遇を受けても住居は質素であった。東田に邸宅を建て、郊外の丘陵を眺め、常に『郊居賦』を作ってその事を序した。まもなく特進を加えられ、中軍将軍・丹陽尹に転じ、侍中・特進はもとのままである。天監十二年、官で没し、七十三歳、諡は隠といった。沈約の左目には重瞳があり、腰に紫の痣があり、聡明で人に優れ、古書を好み、書物を集めて二万巻に至り、都下に比類がなかった。幼くして孤貧であり、沈約が宗族から米数百斛を得た時、宗人に侮辱され、米を覆して去った。貴くなってからも恨みとせず、その者を郡の部傳に用いた。かつて宴に侍した時、妓婢の師が斉の文恵太子の宮人であった。帝が「座中の客を知っているか」と問うと、「ただ沈家令だけは知っています」と答えた。沈約は地に伏して涙を流し、帝も悲しみ、そのために酒宴を止めた。沈約は三代に仕え、旧章に通暁し、博物洽聞で、当世の模範とされた。謝玄暉は詩をよくし、任彥升は文章に巧みであったが、沈約は両方を兼ね備えていた。しかし彼らを超えることはできなかった。自ら高才を負いながら栄利に暗く、時勢に乗じて権勢を求めたため、清談家としての評判をやや損なった。宰相の地位に就くと、少しは足るを知るようになり、官を進めるごとに懇ろに退任を請うたが、結局去ることができず、論者は山濤に比した。政権を執ること十数年、一度も人を推薦・登用せず、政治の得失については唯々諾々とするだけであった。
初め、武帝は張稷に遺恨があり、その死後、沈約とそのことについて語った。沈約が「左僕射が出て辺境の州刺史となったことは、過ぎ去ったことで、どうしてまた論じるに足りましょうか」と言うと、帝は沈約が姻戚のためにお互いをかばっていると思い、怒って「卿の言うことはこれである。忠臣と言えようか」と言った。そして輦に乗って内殿に帰った。沈約は恐れ、帝が立ち上がったことに気づかず、依然として座ったままだった。帰ってから、床に至らないうちに、戸口の下で虚空に倒れ、病となった。夢に斉の和帝が剣でその舌を断ち、巫を召して占わせると、巫の言葉は夢と同じであった。そこで道士を呼んで天に赤章を奏上させ、禅譲の事は自分の出したものではないと称した。これより先、沈約が宴に侍した時、 豫 州から栗が献上され、直径一寸半であった。帝はこれを奇とし、栗に関する故事の多寡を問い、沈約とそれぞれに記憶するものを書き出させたところ、沈約は帝より三つ少なかった。沈約が出て人に言うには、「この方は人に先を譲られぬお方で、譲らなければ恥ずかしさのあまり死んでしまうだろう」と。帝はその言葉が不遜であるとして罪に当てようとしたが、徐勉が固く諫めて止めた。病の時、上は主書の黄穆之に看病を専管させた。穆之が夜に帰ると、病状の増減をすぐに奏上せず、罪を恐れて、ひそかに赤章の事を上省の医師徐奘を通じて聞かせ、また以前の過失が積もった。帝は大いに怒り、中使を遣わして数回にわたり譴責した。沈約は恐れて遂に卒した。有司が諡を「文」と擬したが、帝は「情を懐いて尽くさざるを隠という」と言い、故に隠と改めた。
沈約は若い頃、晋の一代に全書がないことを常に遺憾とし、二十歳頃から撰述の意を持っていた。宋の泰始初め、征西将軍蔡興宗が上奏し、明帝が勅許した。ここから二十年余りを経て、撰した書がようやく完成し、凡そ百余巻であった。条流は挙げたが、採集はまだ完備していなかった。永明初めに盗難に遭い、第五帙を失った。また斉の建元四年に勅されて国史を撰し、永明二年には著作郎を兼ね、起居注を撰次した。五年春にまた勅されて『宋書』を撰し、六年二月に完成し、表を奉って上奏した。その撰した国史は『斉紀』二十巻である。天監年間に、また『梁武紀』十四巻を撰し、また『邇言』十巻、『諡例』十巻、『文章志』三十巻、『文集』一百巻を撰し、皆世に行われた。また『四声譜』を撰し、「昔の詞人は千年を累ねても悟らず、ただ我が胸襟に独り得て、その妙旨を窮めた」と考えた。自ら入神の作と称した。武帝は元来これを好まず、かつて周捨に「四声とは何か」と問うた。捨は「『天子聖哲』これなり」と答えた。しかし帝は結局沈約の説をあまり遵用しなかった。
沈約の子、沈旋。
子の旋は、字を士規といい、爵を襲い、 司徒 右長史・太子僕に至った。母の喪のため官を去り、蔬食・辟穀し、喪が明けてもなお粳粱を絶った。南康内史で終わり、諡は恭といった。『邇言』に集注を施し、世に行われた。旋の弟の趨は字を孝鯉といい、また知名で、黄門郎に至った。旋が卒すると、子の寔が嗣いだ。寔の弟に衆がいる。
旋の子の寔の弟、衆。
衆は字を仲師といい、学を好み、文詞に優れていた。梁に仕えて太子舎人となった。時に梁武帝が千字文の詩を作ると、衆はこれに注解を施した。陳郡の謝景と同時に文徳殿に召見され、帝は衆に竹賦を作らせた。賦が完成して奏上すると、手勅で答えて「卿の文体は翩翩として、爾が祖に恥じないと言えよう」と言った。
累遷して太子中舎人、兼 散騎常侍 となり、魏に聘使として赴き、帰って驃騎廬陵王諮議参軍となった。侯景の乱の時、上表して呉興に還り故義の部曲を召募して賊を討つことを請い、梁武帝はこれを許した。侯景が台城を包囲すると、衆は宗族と義附五千余人を率いて都に入援し、軍容は甚だ整っており、侯景は深く憚った。梁武帝は城内から遥かに太子右衛率を授けた。台城が陥落すると、衆は侯景に降った。侯景が平定されると、元帝は 司徒 左長史とした。魏が江陵を陥とすと、捕虜となったが、まもなく逃げ帰った。
陳の武帝が天命を受けると、中書令の位に至った。帝は衆が州里で知名であるため、甚だ敬重し、賞賜は時輩を超えていた。性吝嗇で、財帛は億を数えたが、分け与えることはなかった。自らの生活は甚だ質素で、毎回朝会では、衣裳が破れていたり、自ら冠や履を提げたりした。永定二年、起部尚書を兼ね、太極殿造営を監した。常に布袍と芒屩を着け、麻繩を帯とし、また麦飯を囊に入れて鉢で食べ、朝士は皆その行いを嘲笑した。衆の性は狷急で、忿恨のため、遂に歴々と公卿を誹謗し、朝廷を非毀した。武帝は大いに怒り、衆が素来令望があるため、顕に誅することを欲せず、その休暇で武康に還る機に乗じて、呉中において死を賜った。
范雲。
范雲は字を彦龍といい、南郷舞陰の人で、晋の平北将軍范汪の六世の孫である。祖父の璩之は、宋の中書侍郎であった。雲は六歳でその姑夫の袁叔明について毛詩を読み、一日に九紙を誦した。陳郡の殷琰は人を見抜くことで名があり、叔明を訪れて雲を見て、「公輔の才なり」と言った。
雲の性は機警で、識見と才覚があり、文をよくし、筆を下せばたちまち完成したので、当時の人はしばしば彼が前もって構想していたのではないかと疑った。父の抗が郢府参軍であった時、雲は郢に随っていた。時に呉興の沈約、新野の庾杲之が抗と同府であり、雲を見て友とした。
郢州西曹書佐として起家し、法曹行参軍に転じた。まもなく沈攸之が兵を挙げて郢城を包囲した。抗は当時府の長流であり、城に入って固守し、家族は外に留めた。雲は軍人に捕らえられ、攸之が召して語ると、声色は甚だ厳しかった。雲は容貌を変えず、徐々に自らを陳説した。攸之は笑って「卿は確かに好ましい人物だ。さあ出て宿舎に行け」と言った。翌朝また雲を召し、書を城内に送ることを命じ、武陵王に酒一石と犢一頭を贈り、長史の柳世隆に鱠魚二十頭を贈ったが、皆その頭を除いていた。城内で雲を誅しようとする者もいたが、雲は「老母と弱弟の命は、沈氏に懸かっています。もしその命に背けば、禍は必ず親に及びます。今日戮せられるのは、甘心して薺の如しです」と言った。世隆は平素から雲と親しかったので、これを免じた。
後に員外散騎郎に任ぜられた。斉の建元初年、竟陵王蕭子良が会稽太守となると、范雲は府主簿となった。王はまだ彼を知らなかった。後に日を定めて秦望山に登ることとなり、そこでようやく范雲を呼んだ。范雲は山の上に秦の始皇帝の刻石があり、その文は三句で一韻を踏むのに、人々は多く二句で読んでおり、韻も合わず、また皆大篆で、人々は多く識らないことを知っていたので、夜に『史記』を取って読み、口に馴染ませた。翌日山に登り、子良が賓客僚属に読ませると、皆茫然として識らなかった。最後に范雲に問うと、雲は言った、「下官はかつて『史記』を読み、この刻石の文を見たことがあります。」そこで進み出て流れるように読み上げた。子良は大いに喜び、これにより上賓とした。これより府朝において寵愛は群を抜いた。王が丹陽尹となると、再び主簿とし、深く親任した。時に斉の高帝に拝謁した折、ちょうだ白烏が献上され、帝はこれが何の瑞祥かと問うた。范雲は位が低く最後に答えて言った、「臣は聞きます、王者が宗廟を敬うならば白烏が至ると。」時に宗廟参拝が終わったばかりであり、帝は言った、「卿の言う通りである。感応の理は、ここまで至るのか。」
子良が南徐州、南兗州の刺史となると、范雲はともに府に随従して転任し、毎度子良に対して朝政の得失を陳べた。まもなく尚書殿中郎に任ぜられた。子良が范雲のために禄を求めたところ、斉の武帝は言った、「范雲が汝に諂っていると聞く。まさに流刑にすべきだ。」子良は答えて言った、「雲が臣に事えるにあたり、動きに応じて箴言諫言し、諫書が残っているものは百余紙あります。」帝が求め見ると、言葉は皆痛切であり、しばらく感嘆して言った、「范雲がかくの如きとは思わなかった。今より汝を補弼させよう。」
子良が 司徒 となると、また記室を補任した。時に巴東王蕭子響が荊州におり、上佐を殺害し、都下は騒然として、人々に異心を抱く者が多かった。そして 豫 章王蕭嶷が東府を鎮めていたが、多く私邸に帰り、動けば十日もかかった。子良は西郊に邸宅を築き、遊戯するのみであった。一方梁の武帝(当時は蕭衍)は時に南郡王文学であり、范雲とともに子良に礼遇されていた。梁武帝は子良に石頭城に戻るよう勧め、また大司馬( 豫 章王嶷)も東府に戻るべきだと述べたが、子良は受け入れなかった。梁武帝はこれを范雲に告げた。時に廷尉平の王植が斉の武帝に親昵されており、范雲は王植に言った、「西夏(荊州方面)が静かならず、人情も甚だ悪い。大司馬がどうして久しく私邸に帰っていられようか。 司徒 もまた石頭を鎮めるべきである。卿は入内することも多く、言いやすいだろう。」王植はそこで范雲に啓を作らせ、自らこれを呈した。間もなく二王はそれぞれ一城を鎮めることとなった。
文恵太子(蕭長懋)がかつて東田に行幸して稲刈りを見た折、范雲は時に従っていた。文恵は范雲を顧みて言った、「この刈り取りは甚だ速い。」范雲は言った、「三時の農務は、また甚だ勤労であります。願わくは殿下が農耕の艱難を知り、一朝の安逸にふけることなきように。」文恵は顔色を改めて謝した。退出する時、侍中蕭緬は以前面識がなかったが、車に近寄って范雲の手を握り言った、「今日また讜言を見るとは思わなかった。」
永明十年、北魏に使節として赴いた。北魏の使者李彪が命を宣べに来て、范雲の所に至り、大いに称賛した。李彪は甘蔗、黄甘(黄柑)、粽を設け、尽きるに従ってまた添えた。李彪は笑って言った、「范散騎は少し倹約家だな、一度尽きてしまえば再び得られないのだから。」使節から戻り、再び転じて零陵内史となった。初め、零陵の旧政では、公田の奉米のほかに、別に雑調四千石を徴収していた。范雲が郡に至ると、その半ばに止め、百姓はこれを喜んだ。深く斉の明帝に知られ、還って正員郎に任ぜられた。
時に高帝、武帝の王侯たちは皆大禍を恐れていた。范雲は明帝の召しに応じて次に言った、「昔、太宰文宣王(蕭子良)が臣に語り、かつて一つの高い山の上に夢を見たと言われました。上に深い坑があり、文恵太子が先に墜ち、次に武帝、次に文宣王(子良自身)が墜ちるのを見た。そして僕射(明帝)が室の中に坐って御床にあり、王者の羽儀を備えているのを望見した。これは何の夢か分からない、卿は慎んで人に語るな、と。」明帝は涙を流して言った、「文宣王のこの恩恵もまた負い難い。」ここにおいて昭胄兄弟を他の宗室とは異なる処遇とした。
范雲が子良に寵遇されていた時、江祏が范雲の娘との婚姻を求めた。酒が酣になった時、巾箱の中から剪刀を取り出して范雲に与え、「暫くこれを聘礼としよう。」と言った。范雲は笑って受け取った。この時(明帝の時)に至り江祏が貴顕となると、范雲はまた酒酣の折に言った、「昔、将軍とともに黄鵠であったが、今将軍は鳳皇と化した。荊釵布裙の家は、道理として華やかな家柄とは隔たりがあります。」そこで剪刀を取り出して返した。江祏もまた他族と姻戚を結んだ。後に江祏が敗れると、妻子は離散流離したが、范雲は常に彼らを引き取り世話した。
また始興内史となった。旧来の郡の境界内で逃亡奴婢を得ると、悉く労役場に付していた。部曲であればすぐに売り払い、銀を買って官に納めさせた。范雲はまず百姓がこれを所有することを認め、もし百日間主人がなければ、判決に従って朝廷に送るようにした。また郡では後堂に雑工の仕事を引き継いでいたが、范雲は悉くこれを廃止して役務に戻し、ともに帝(明帝)に賞賛された。郡には豪猾な大姓が多く、二千石(郡守)で不善な者がいれば、すぐに共に殺害し、さもなければ追放した。辺境は蛮俚と接し、特に盗賊が多かったため、前の内史たちは皆兵刃で自衛していた。范雲が境に入ると、恩徳をもって撫慰し、亭候を廃止した。商人たちは野宿するようになり、郡中では神明と称された。
広州刺史、平越中郎将に遷った。任地に至ると、使者を遣わして孝子である南海の羅威・唐頌、蒼梧の丁密・頓琦などの墓を祭らせた。時に江祏の姨弟の徐藝が曲江令であり、江祏は深く范雲に託していた。譚儼という者がおり、県の豪族であったが、徐藝が彼を鞭打ち、儼はこれを恥じて、都に行き范雲に訴えた。范雲はこれに連座して召還され獄に下されたが、赦令に会って免罪となった。
初め、梁の武帝が 司徒 祭酒であった時、范雲とともに竟陵王の西邸におり、情誼は甚だ歓ばしかった。永明の末、梁武帝は兄の蕭懿と東郊の外に居を卜し、范雲もまた屋舎を築いて隣り合った。梁武帝が范雲の所に来る度、その妻は常に蹕(警蹕)の声を聞いた。またかつて梁武帝とともに顧暠之の舎に同宿したことがあり、暠之の妻がちょうど出産しようとしていた時、外に鬼がいて言った、「ここの中に王と相とがいる。」范雲は起き上がって言った、「王は仰いで(武帝に)属し、相は(私に)帰するであろう。」これにより心を尽くして推戴に事とした。帝が兵を起こし、都に至らんとした時、范雲は官職がなかったが、自ら帝と平素からの親交があることを思い、昏主(東昏侯)に疑われることを憂慮し、城に入ろうとして、先に車で太原の孫伯翳を迎えて謀った。伯翳は言った、「今、天文が上に顕れ、災変が下に応じている。蕭征東(蕭衍)は世を済わす雄武を以てし、天子を挟んで諸侯に令する。天時と人事、どうして多くを待つ必要があろうか。」范雲は言った、「これはまさに我が心に会う。今、羽翮は未だ備わらず、籠檻に就かざるを得ない。足下がよくこれを聞き入れてくれることを願う。」城に入ると、国子博士に任ぜられたが、拝受せず、東昏侯が 弑 殺された。侍中張稷が范雲を使者として石頭城に赴かせた。梁武帝は恩待は旧の如く、遂に謀略に参与し、大業を補佐した。やがて黄門侍郎を拝し、沈約と心を同じくして輔佐した。間もなく大司馬諮議参軍に遷り、録事を領した。
梁の台府が建てられると、侍中に遷った。武帝が斉の東昏侯の余妃を納れると、政事を頗る妨げた。范雲はかつてこれを諫言したが、聞き入れられなかった。後に王茂とともに臥内に入り、范雲がまた諫めると、王茂は因って起き上がり拝して言った、「范雲の言う通りです。公は必ず天下を念頭に置かれ、留め惜しむべきではありません。」帝は黙然とした。范雲はすぐに上疏して余氏を王茂に賜わるよう命じ、帝はその心意を賢しとして許した。翌日、范雲と王茂にそれぞれ百万銭を賜った。帝が禅を受けて皇帝となり、南郊で柴燎の礼を行うと、范雲は侍中として参乗した。礼が終わり、帝が輦に昇って范雲に言った、「朕の今日は、いわゆる朽ちた索で六馬を馭するが如く慄く思いである。」范雲は答えて言った、「また陛下が一日一日を慎まれることを願います。」帝はその言葉を善しとし、即日に 散騎常侍 、吏部尚書に遷した。佐命の功により、霄城県侯に封ぜられた。
范雲は旧恩により、超えて佐命の臣となり、誠を尽くして補佐し、知る限りのことは全て行った。帝もまた心を推して彼を頼りとし、奏上したことは多く允可された。范雲は本来武帝より十三歳年長であり、かつて宴に侍した際、帝は臨川王蕭宏・鄱陽王蕭恢に言った、「我は范尚書と年少の頃親しく交わり、四海の敬礼を交わした。今は天下の主となって、この礼は既に改まったが、汝らは代わって我がために范を兄と呼べ」。二王は席を下りて拝礼し、范雲と同車で尚書下省に還った。当時の人はこれを栄誉とした。帝はかつて范雲と旧事を語り、「朕が司州から還った時、三橋の邸宅にいた。門生の王道が衣を引いて言うには、『外で図讖が述べられていると聞きます。斉の祚は久しからず、別に王者が応ずるべきであると。官は富貴を得るべきであると』。朕は斎中に坐して書を読み、内にその言葉を感じながら外の行跡は怪しまざるを得ず、人を呼んで縛らせようとしたところ、王道は頭を叩いて哀願したので、再び敢えて言わなかった。今、王道は羽林監・文德主帥となり、管鑰を知っている」。范雲は言った、「これは天意が王道に発せしめたのです」。帝はまた言った、「布衣の時、かつて夢に二人の旧妾を拝して六宮とし、天下を得た。この嫗は既に卒し、拝した者はもはやその人ではないので、常にこれを恨みとしている」。
その年、范雲は本官のまま太子中庶子を領した。二年、尚書右僕射に遷り、なお吏部を領した。間もなく、詔に違いて人を用いた罪により、吏部を免ぜられたが、なお右僕射であった。
范雲の性質は篤実で睦まじく、寡婦の嫂に仕えて礼を尽くし、家事は必ず諮問してから行った。節義を好み奇行を尚び、専ら人の急難に赴いた。年少の時、領軍長史王畡と親善であった。范雲が新たに邸宅を建て、移住を始めて終わった時、王畡が官舎で亡くなり、屍の帰する所がなかった。范雲は東廂をこれに与えた。屍を門から移し入れ、自ら営み含玉を入れ、招魂復魄の礼を行った。当時の人はこれを難事とした。選官の任に就くと、任寄は重く、書牘は机に満ち、賓客は門に満ちたが、范雲は応答流るるが如く、滞るところなく、官曹の文墨は、発擿すること神の如く、当時の人は皆その明察博識に服した。性質は頗る激しく厳しく、威重に欠け、是非があると、軽率な言動に表れ、士人の中にはこれをもって彼を軽んじる者もいた。初め、范雲は郡守として廉潔と称されたが、貴重となるに及んで、頗る饋遺を通じた。しかし家に蓄積はなく、親友に随時散じた。
武帝の九錫が出た時、范雲は突然病に中り、二日半経って、医師の徐文伯を召して診させた。文伯は言った、「緩やかにすれば一月で回復するが、速やかにすれば即時に癒える。ただ二年後には再び救い難くなる恐れがある」。范雲は言った、「朝に聞きて夕に死すとも、況や二年をや」。文伯はそこで火を下して壮とし、重ねた衣で覆った。しばらくして、汗が背中に流れ出ると、即座に起きた。二年後に果たして卒した。帝は涙を流し、即日、輿駕を臨めて殯し、詔して侍中・衛将軍を追贈した。礼官が諡を宣と請うたが、勅して諡を文と賜った。文集三十巻あり。子の孝才が嗣いだ。
孫伯翳は、太原の人、晋の秘書監孫盛の玄孫である。曾祖父の孫放は、晋の国子博士・長沙太守。父の孫康は起部郎となり、貧しく常に雪明かりで書を読み、清介で、交遊は雑ならなかった。伯翳は位は驃騎鄱陽王参軍事に終わった。
従父兄に范縝がいる。
范雲の従父兄に范縝がいる。縝は字を子真という。父の范蒙は奉朝請となり、早く卒した。縝は少くして孤貧であり、母に仕えて孝謹であった。弱冠に至らず、沛国の劉瓛に師事し、瓛は大いにこれを奇とし、親しく冠礼を行った。瓛の門下に積年おり、常に草鞋に布衣で、徒歩で道を行った。瓛の門下には車馬の貴遊が多かったが、縝はその間にあって、少しも恥じ愧じるところがなかった。長ずるに及んで、経術に博通し、特に三礼に精通した。性質は質直で、危言高論を好み、士友に安んぜられなかった。ただ外弟の蕭琛と親善で、蕭琛は口辯と名高いが、常に范縝の簡潔にして詣った議論に服した。二十九歳の時、髪が白く皤然となり、『傷暮詩』・『白髪詠』を作って自ら嗟いた。
斉に仕えて尚書殿中郎の位に至った。永明年中、魏氏と和親し、才学の士を選んで行人とし、范縝及び従弟の范雲・蕭琛・琅邪の顔幼明・河東の裴昭明が相次いで使命を帯び、皆隣国に著名であった。
時に竟陵王蕭子良が盛んに賓客を招き、范縝もまたこれに預かった。かつて子良に侍した時、子良は精しく仏教を信じていたが、范縝は盛んに仏の無いことを称した。子良が問うて言った、「君は因果を信じないが、どうして富貴貧賤があるのか」。范縝は答えて言った、「人生は樹の花が同じく発するが如く、風に随って堕ちる。自ら簾幌を払って茵席の上に墜ちるものあり、自ら籬牆に関して糞溷の中に落ちるものあり。茵席に墜ちる者は殿下であり、糞溷に落ちる者は下官である。貴賤は復た途を殊にするが、因果は果たして何処にあるのか」。子良は屈服させることができなかったが、深くこれを怪しんだ。退いてその理を論じ、『神滅論』を著した。それによれば、「神は即ち形であり、形は即ち神である。形が存すれば神は存し、形が謝すれば神は滅する。形は神の質であり、神は形の用である。すなわち形はその質を称し、神はその用を言う。形と神とは、相異なるを得ない。神の質に対するは、利の刀に対するが如く、形の用に対するは、刀の利に対するが如し。利の名は刀ではなく、刀の名は利ではない。しかし利を捨てて刀無く、刀を捨てて利無し。刀没して利存するを聞かず、豈に形亡して神在るを容れんや」。この論が出ると、朝野喧嘩した。子良は僧を集めて難じたが、屈服させることができなかった。太原の王琰は論を著して范縝を譏り、「嗚呼范子よ、曾てその先祖の神霊の在る所を知らざるか」と言い、范縝の後の応対を杜がんとした。范縝はまた対して言った、「嗚呼王子よ、その祖先の神霊の在る所を知りながら、身を殺してこれに従うことができないのか」。その険詣な議論は皆この類である。子良は王融を使わして言わせた、「神滅は既に理に非ず、而して卿は堅くこれを執る。恐らくは名教を傷つけん。卿の大美を以てすれば、何ぞ中書郎に至らざるを患えん。而して故に乖刺として此れを行い、可ならば便ちこれを毀棄せよ」。范縝は大笑して言った、「范縝に論を売って官を取らしめば、已に令僕に至っているであろう。何ぞただ中書郎のみならんや」。
後に宜都太守となった。性質として神鬼を信ぜず、時に夷陵には伍相廟・唐漢三神廟・胡裏神廟があったが、范縝は教令を下して祠らないことを断じた。後に母の憂いにより職を去った。南州に居住した。梁武帝が至ると、范縝は墨縗で迎えた。武帝は范縝と西邸での旧交があり、これを見て甚だ悦んだ。建康城が平定されると、范縝を晋安太守とし、郡にあって清廉倹約で、公祿を資とするのみであった。尚書左丞に遷り、還るに及んで、親戚にも遺す所なく、ただ前 尚書令 の王亮に贈った。范縝は斉の時に、王亮と同台で郎となり、旧より相友愛であった。この時、王亮は家に擯棄されていた。范縝は自ら率先して武帝を迎え、権軸を志していたが、所懐が満たされず、また怏怏としていた。故にひそかに親しく結び、時流を矯正しようとした。ついに王亮の事に坐して広州に徙された。南方に累年あり、追って中書郎・国子博士とされ、卒した。文集十五巻。
范縝の子に范胥がいる。
子の胥は字を長才といい、父の業を伝え、位は国子博士となり、口辯があった。大同年中、常に主客郎を兼ね、北使の応接に当たり、鄱陽内史の任で卒した。
論
論うに、斉の徳将に謝えんとし、昏虐の君臨するに及び、喋喋たる黔黎は、命は晷刻に懸かる。梁武帝はこの帰運を撫で、風雲を嘯召した。范雲は恩は龍潜に結び、沈約は情は惟旧に深く、並びにこの文義を以て、首として帷幄に居り、乱傑を追跡し、各々その時の遇いであった。而して沈約は高才博洽を以て、名は董(仲舒)・遷(司馬遷)に亜ぎ、末跡躓くを為すは、亦た鳳徳の衰えであろうか。范縝の婞直の節は、終始に著しく、その王亮を尤とするも、亦た非とするに足らぬ。