南史

巻五十六 列傳第四十六

巻五十六 列傳第四十六

南史

巻五十六 列傳第四十六

張弘策

原文張弘策

張弘策は字あざなを真簡といい、范陽郡方城県の人であり、梁の文獻皇后の従父弟である。父の安之は、青州主簿・南蠻行參軍を務めた。

原文張弘策字真簡,范陽方城人,梁文獻皇后之從父弟也。父安之,青州主簿、南蠻行參軍。

弘策は幼少より孝行で知られ、母がかつて病気にかかり、五日間食事をとらなかったとき、弘策もまた食事をとらなかった。母が無理に粥をすすめたので、弘策はようやく母の残したものを食べた。母の喪に遭うと、三年間塩や菜を食べず、ほとんど命を落とすほどであった。兄弟は仲睦まじく、しばしの別れも忍びなかった。それぞれに家室はあったが、常に同じ寝床で寝起きし、世間は彼らを姜肱兄弟に比した。

原文弘策幼以孝聞,母嘗有疾,五日不食,弘策亦不食。母強為進粥,弘策乃食母所餘。遭母憂,三年不食鹽菜,幾至滅性。兄弟友愛,不忍暫離。雖各有室,常同臥起,世比之姜肱兄弟。

弘策は梁の武帝と年齢が近く、幼い頃から親しく交わり、常に帝に従って遊び歩いた。帝の部屋に入るたび、常に雲気が漂っているのを感じ、身が引き締まる思いがしたので、弘策はこれによって特に敬い畏れた。建武の末、兄の弘胄とともに武帝のもとに宿泊し、酒が酣になったとき、座を星の下に移し、時事について語った。帝は言った、「天下はまさに乱れようとしている。舅上はご存知か。冬に魏軍が動き出せば、漢北は失われる。王敬則は猜疑の心を久しく抱いており、隙に乗じて挙兵するであろう」。弘策は言った、「敬則は目を赤くして見張っているだけで、どうして事を成し得ましょうか」。帝は言った、「敬則は凡庸な才で、天下に先駆けて声をあげるだけである。主上の運命は来年に尽き、国の権柄は江・劉に帰するであろう。しかし江は甚だ狭量であり、劉はまた愚昧で弱い。都下は大乱となり、死人は乱麻のようになるであろう。斉の天命はここから尽きる。梁・楚・漢の地には英雄が興るであろう」。弘策は言った、「烏の止まる所は、いずれの屋根であろうか」。帝は笑って言った、「光武帝が言ったように、『どうして私でないとわかろうか』」。弘策は起ち上がって言った、「今夜の言葉は天意です。どうか君臣の分を定めてください」。帝は言った、「舅上は鄧晨にならおうというのか」。

原文弘策與梁武帝年相輩,幼見親狎,恒隨帝遊處。每入室,常覺有雲氣,體輒肅然,弘策由此特加敬異。建武末,與兄弘胄從武帝宿,酒酣,移席星下,語及時事。帝曰:「天下方亂,舅知之乎?冬下魏軍方動,則亡漢北。王敬則猜嫌已久,當乘間而作。」弘策曰:「敬則張兩赤眼,容能立事?」帝曰:「敬則庸才,為天下唱先爾。主上運祚盡于來年,國權當歸江、劉。而江甚隘,劉又闇弱,都下當大亂,死人如亂麻。齊之歷數自茲亡矣。梁、楚、漢當有英雄興。」弘策曰:「瞻烏爰止,於誰之屋?」帝笑曰:「光武所雲,'安知非僕'。」弘策起曰:「今夜之言,是天意也,請定君臣之分。」帝曰:「舅欲斅鄧晨乎?」

この冬、魏軍が新野を攻めると、斉の明帝は密かに詔を下し、武帝に曹武に代わって雍州の事務を監督させた。弘策はこれを聞いて心喜び、帝に言った、「夜中の言葉が験するでしょう」。帝は笑って言った、「しばらく多くを語るな」。弘策は帝に従って西行し、引き続き帷幄に参画し、自ら労役に身を挺し、辛苦を厭わなかった。斉の明帝が崩御し、遺詔によって帝が雍州刺史となると、弘策を録事参軍に任じ、襄陽令を兼ねさせた。帝は海内がまさに乱れているのを見て、天下を匡救しようとする志を抱き、密かに準備を蓄えた。謀略の及ぶところは、弘策ただ一人であった。

原文是冬,魏軍攻新野,齊明帝密詔武帝代曹武監雍州事。弘策聞之心喜,謂帝曰:「夜中言當驗。」帝笑曰:「且勿多言。」弘策從帝西行,仍參帷幄,身親勞役,不憚辛苦。齊明帝崩,遺詔以帝為雍州刺史,乃表弘策為錄事參軍,帶襄陽令。帝觀海內方亂,有匡濟之心,密為儲備。謀猷所及,唯弘策而已。

当時、帝の長兄の懿が益州を罷免されて帰還し、西中郎長史・行郢州えいしゅう事となっていた。帝は弘策を郢州に派遣し、懿に計略を述べさせた、「昔、晋の恵帝は庸主であり、諸王が権力を争い、遂に内難が九度起こり、外寇が三度発生した。方今の喪乱はこれよりも甚だしく、六貴が権力を争い、それぞれが王法を握り、主上を制して詔勅を画策し、各々専断を欲している。しかも嗣主は宮中にいた頃から良い評判はなく、身近な左右の者を寵愛し、蜂のような目をした残忍な人物である。一旦万機を預かれば、その欲望のままに振る舞い、どうして虚しく座って主上の諾を承り、政務を朝臣に委ねることを肯じようか。積もり積もった猜疑と不和は、必ずや大規模な誅戮を招く。始安王(蕭遙光)は趙王倫のようになろうとしており、その形跡は既に露わである。跛者が天に登るようなもので、確かにその道理はない。しかもその性は甚だ猜疑心が強く狭量で、ただ禍の機会を招くのみである。権力の座につき得る者は、江・劉だけである。江祏は臆病で決断力がなく、劉暄は弱くて才能がない。鼎の足が折れ、食物を載せた鼎が覆る事態は、足を上げて待つばかりである。蕭坦は胸中に猜忌を抱き、言葉を発するたびに人を傷つける。徐孝嗣の才は柱石となるものではなく、人の鼻を穿つように操られる。もし隙間が開き、争いが起これば、必ずや内外から土崩するであろう。今、外藩を得たことは幸いである。身の計らいを図るべきである。今のうちに猜疑と防備が生じる前に、諸弟を召し、時を以って集結させるべきである。郢州は荊・湘を控え帯び、西は漢・沔に注ぐ。雍州の兵馬は、呼吸の間に数万に及ぶ。時が安らかであれば本朝に誠を尽くし、時が乱れれば国のために暴を除く。もし早く図らなければ、後悔しても及ばない」。懿はこれを聞いて顔色を変え、心の中では同意しなかった。

原文時帝長兄懿罷益州還,為西中郎長史、行郢州事。帝使弘策到郢,陳計於懿曰:「昔晉惠庸主,諸王爭權,遂內難九興,外寇三作。方今喪亂有甚於此,六貴爭權,人握王憲,制主畫敕,各欲專成。且嗣主在宮本無令譽,媟近左右,蜂目忍人。一居萬機,恣其所欲,豈肯虛坐主諾,委政朝臣。積相嫌貳,必大誅戮。始安欲為趙倫,形跡已露,蹇人上天,信無此理。且性甚猜狹,徒取禍機,所可當軸,江、劉而已。祏怯而無斷,暄弱而不才,折鼎覆餗,跂踵可待。蕭坦胸懷猜忌,動言相傷。徐孝嗣才非柱石,聽人穿鼻。若隙開釁起,必中外土崩。今得外藩,幸圖身計。及今猜防未生,宜召諸弟,以時聚集。郢州控帶荊、湘,西注漢、沔。雍州士馬,呼吸數萬。時安則竭誠本朝,時亂則為國翦暴,如不早圖,悔無及也。」懿聞之變色,心未之許。

懿が禍に遭うと、帝は兵を起こそうとし、夜に弘策と呂僧珍を召し入れて議を定め、朝になって兵を発した。弘策を輔国将軍・軍主とし、一万人を率いて後部の事務を監督させた。郢城が平定されると、蕭穎達・楊公則ら諸将は皆、夏口に軍を駐屯させようとしたが、帝は勝ちに乗じて長駆すべきであり、直ちに建鄴を指すべきと考え、弘策は帝の意に合致した。また甯朔将軍の庾域に諮ると、域もまた同意した。即日進発し、凡そ磯浦や村落、軍の行軍や宿営、駐屯地の設定に至るまで、弘策は事前に図を描き、すべて目に収めていた。城が平定されると、帝は弘策と呂僧珍を先に派遣して宮殿を清め、府庫を封鎖検査させた。当時城内には珍宝が山積みされていたが、弘策は部曲ぶきょくを厳しく戒め、秋毫も犯さなかった。衛尉卿に遷り、給事中を加えられた。天監の初め、散騎常侍を加えられ、洮陽県侯に封ぜられた。弘策は上に忠を尽くし、知る限りのことは何でも行い、交友や旧知の者を、その才能に応じて推薦抜擢したので、縉紳は皆彼のもとに趨った。

原文及懿遇禍,帝將起兵,夜召弘策、呂僧珍入定議,旦乃發兵。以弘策為輔國將軍、軍主,領萬人督後部事。及郢城平,蕭穎達、楊公則諸將皆欲頓軍夏口,帝以為宜乘勝長驅,直指建鄴,弘策與帝意合。又訪甯朔將軍庾域,域又同。即日上道,凡磯浦、村落,軍行宿次,立頓處所,弘策預為圖,皆在目中。城平,帝遣弘策與呂僧珍先往清宮,封檢府庫。于時城內珍寶委積,弘策申勒部曲,秋毫無犯。遷衛尉卿,加給事中。天監初,加散騎常侍,封洮陽縣侯。弘策盡忠奉上,知無不為,交友故舊,隨才薦拔,縉紳皆趨焉。

当時、東昏侯の残党である孫文明らは、初めて赦令に遇ったばかりで、多くはまだ安心していなかった。文明はまたかつて、馬に乗って雲龍門に至る夢を見、その夢に心惑わされ、遂に乱を起こした。数百人を率い、葦の炬束を運ぶふりをして武器を隠し、南・北掖門に入り、夜に神獣門・総章観を焼き、衛尉府に入った。弘策は垣を越えて龍廄に隠れたが、賊に遭遇して害された。賊はさらに進んで尚書省や閣道の雲龍門を焼き、前軍司馬の呂僧珍が殿省に直宿し、羽林兵を率いて迎撃したが、退けることができなかった。上(武帝)は戎服を着て前殿に臨み、僧珍に言った、「賊は夜来たので、数は少ない。夜が明ければ逃げるであろう」。五鼓を打つよう命じた。賊は既に夜が明けたと思い、散り散りになった。官軍は文明を捕らえ東市で斬り、張氏の親族はその肉を切り刻んで食べた。帝は慟哭して言った、「痛ましいかな衛尉!天下の事をまた誰と論じようか」。詔を下して車騎将軍を追贈し、諡を閔侯とした。弘策は人となり寛厚で率直、旧交を篤くした。重職に就いても、貴い地位を以って自ら高ぶることなく、旧知の賓客には布衣の時と同じように接し、俸禄や賜物はすべて親友に分け与えた。害に遇ったとき、痛み惜しまない者はなかった。子の緬が後を嗣いだ。

原文時東昏餘党孫文明等初逢赦令,多未自安。文明又嘗夢乘馬至雲龍門,心惑其夢,遂作亂。帥數百人,因運荻炬束仗,得入南、北掖門,至夜燒神獸門、總章觀,入衛尉府,弘策踰垣匿于龍廄,遇賊見害。賊又進燒尚書省及閣道雲龍門,前軍司馬呂僧珍直殿省,帥羽林兵邀擊不能卻。上戎服御前殿,謂僧珍曰:「賊夜來是眾少,曉則走矣。」命打五鼓。賊謂已曉,乃散,官軍捕文明斬於東市,張氏親屬臠食之。帝哭之慟,曰:「痛哉衛尉!天下事當復與誰論?」詔贈車騎將軍,諡曰閔侯。弘策為人寬厚通率,篤舊故。及居隆重,不以貴地自高,故人賓客接之如布衣,祿賜皆散之親友。及遇害,莫不痛惜焉。子緬嗣。

緬は字を元長といい、数歳の時、外祖父の中山の劉仲德が彼を異才として、「この児は並々ならぬ器であり、ただ張氏の宝となるだけでなく、まさに海内に令名を轟かせるであろう」と言った。斉の永元の末に兵乱が起こると、弘策は武帝に従って都に向かい、緬を襄陽に残した。年はわずか十歳であったが、軍の勝敗を聞くたびに、憂喜が顔色に現れた。弘策が害に遇うと、緬は礼を超えて喪に服し、武帝はたびたび慰めの言葉を遣わした。喪が明けると、洮陽県侯の爵を襲封した。秘書郎として起家し、出て淮南太守となった。時に年十八歳、武帝はその年少を疑い、吏事に慣れていないと考え、主書を派遣して郡曹の文書案を取り寄せたところ、その判断決断が妥当であるのを見て、大いに賞賛した。再び雲麾外兵参軍に遷った。

原文緬字元長,年數歲,外祖中山劉仲德異之曰:「此兒非常器,非止為張氏寶,方為海內令名也。」齊永元末兵起,弘策從武帝向都,留緬襄陽,年始十歲,每聞軍有勝負,憂喜形於顏色。及弘策遇害,緬喪過於禮,武帝每遣喻之。服闋,襲封洮陽縣侯。起家秘書郎,出為淮南太守。時年十八,武帝疑其年少,未閑吏事,遣主書封取郡曹文案,見其斷決允愜,甚稱賞之。再遷雲麾外兵參軍。

緬は若い頃から学問に勤勉で、自ら課して書を読み、手から巻物を離さなかった。疑問を質す者がいれば、問いに応じて即座に答え、少しも遺漏がなかった。殿中郎の官が欠員となると、帝は徐勉に言った、「この曹は以前から文学の才を用い、かつ雁行の先頭である。詳しくその人選をすべきである」。勉は緬を推挙して選に充てた。間もなく、武陵太守となり、還って太子洗馬・中舎人に任ぜられた。緬の母の劉氏は、父が没して家が貧しかったため、葬礼に不備があったことを理由に、終生正室に住まず、子に従って官府に入らなかった。緬は郡で得た俸禄を敢えて用いず、妻子さえ衣服を替えず、都に戻ると、すべて母に供えて親族に施し与えた。何年も蓄えたものであっても、一朝にして使い尽くし、緬の私室は常に貧しい者のように寂しかった。

原文緬少勤學,自課讀書,手不輟卷。有質疑者,隨問便對,略無遺失。殿中郎缺,帝謂徐勉曰:「此曹舊用文學,且雁行之首,宜詳擇其人。」勉舉緬充選。頃之,為武陵太守,還拜太子洗馬、中舍人。緬母劉氏以父沒家貧,葬禮有闕,遂終身不居正室,不隨子入官府。緬在郡所得俸祿不敢用,至乃妻子不易衣裳,及還都,並供之母振遺親屬。雖累載所蓄,一朝隨盡,緬私室常閼然如貧素者。

累遷して豫章内史となった。緬は政を行うに恩恵を施し、巧みな手管を用いず、吏民はその徳に感化され、また敢えて欺くこともなかった。古老は皆言った、「数十年間、このような者はなかった」。

原文累遷豫章內史。緬為政任恩惠,不設鉤距,吏人化其德,亦不敢欺。故老咸云:「數十年未有也」。

後に御史中丞となったが、人を収捕したことが外国の使者との争いに関わったとして坐し、黄門に左遷され、先の職務を兼ねたが、間もなく旧任に復した。緬が憲司(御史台)に在職したとき、法の縄を引き締めるのに顧みることがなく、勁直と号された。武帝はその姿を台省に描かせ、在官者を励ました。侍中に遷ったが、拝受せずに卒去した。詔により直ちに哀悼の礼を行い、昭明太子もまた臨哭した。

原文後為御史中丞,坐收捕人與外國使鬥,左降黃門,兼領先職,俄復舊任。緬居憲司,推繩無所顧望,號為勁直。武帝乃遣圖其形於台省,以勵當官。遷侍中,未拜卒,詔便舉哀。昭明太子亦往臨哭。

張緬は後漢書・晋書の諸家の異同を抄して『後漢紀』四十巻、『晋抄』三十巻を成し、また江左の文集を抄するも未だ成らず、文集五巻あり。緬の弟は纘である。

原文緬抄後漢、晉書眾家異同為後漢紀四十卷,晉抄三十卷,又抄江左集未及成,文集五卷。緬弟纘。

張纘は字を伯緒といい、従伯の張弘籍の後を継いだ。弘籍は武帝の母の弟なり、梁の初めに廷尉卿を追贈された。纘は十一歳の時、武帝の第四皇女富陽公主に尚し、駙馬都尉に拝され、利亭侯に封ぜられた。召されて国子生に補せられ、初めて秘書郎に起家し、時に年十七、身長七尺四寸、眉目は疏朗にして、神采は爽やかに発した。武帝はこれを異とし、嘗て曰く、「張壮武(張華)が『後八世に吾に逮ぶ者あらん』と言ったのは、この子であろうか」と。纘は学を好み、兄の緬に書万余巻あり、昼夜これを披読し、殆ど手を輟めず。秘書郎は四員、宋・斉以来、甲族の起家の選と為り、待次して入補し、その居職は例え数十日を経ずして便ち遷任す。纘は固く移らざるを求め、閣内の書籍を遍く観んと欲した。嘗て四部書目を執りて曰く、「若し此れを読み畢わば、優れて仕うるを言うべし」と。かくの如く三載にして、方に太子舎人に遷り、洗馬、中舎人に転じ、並びに記を管掌す。

原文纘字伯緒,出繼從伯弘籍。武帝舅也,梁初贈廷尉卿。纘年十一,尚武帝第四女富陽公主,拜駙馬都尉,封利亭侯。召補國子生。起家秘書郎,時年十七,身長七尺四寸,眉目疏朗,神采爽發。武帝異之,嘗曰:「張壯武雲'後八世有逮吾者',其此子乎。」纘好學,兄緬有書萬餘卷,晝夜披讀,殆不輟手。秘書郎四員,宋、齊以來,為甲族起家之選,待次入補,其居職例不數十日便遷任。纘固求不徙,欲遍觀閣內書籍。嘗執四部書目曰:「若讀此畢,可言優仕矣。」如此三載,方遷太子舍人,轉洗馬,中舍人,並掌管記。

張纘は琅邪の王錫と名を斉しくす。普通の初め、魏の使い彭城の人劉善明が和を通じ、纘と錫を識らんことを求む。纘は時に年二十三、善明これを見て嗟服す。累遷して尚書吏部郎となり、俄かに長兼侍中と為り、時人は早達と為す。河東の裴子野曰く、「張吏部には喉唇の任あり、已にその晩きを恨む」と。子野は性曠達にして、自ら雲う、年三十を出でては復た人に詣わずと。初め未だ纘と遇わざるに、便ち虚しく相推重し、因りて忘年の交と為る。大通の中、呉興太守と為り、郡に居て煩苛を省き、務めて清静にし、人吏これを便とす。

原文纘與琅邪王錫齊名。普通初,魏使彭城人劉善明通和,求識纘與錫。纘時年二十三,善明見而嗟服。累遷尚書吏部郎,俄而長兼侍中,時人以為早達。河東裴子野曰:「張吏部有喉唇之任,已恨其晚矣。」子野性曠達,自雲年出三十不復詣人。初未與纘遇,便虛相推重,因為忘年之交。大通中,為吳興太守,居郡省煩苛,務清靜,人吏便之。

大同二年、徴されて吏部尚書と為る。後門寒素の一介なる者も、皆見え引抜かれ、貴門に屈意せず、人士翕然としてこれを称す。その才気を負い、与に譲る所無し。定襄侯蕭祗は学術無く、頗る文性あり、兄の衡山侯蕭恭と俱に皇太子の愛賞を受く。時に纘の従兄の張謐・張聿は並びに学問せず、性また凡愚なり。恭・祗嘗て東宮の盛集に預かる。太子戯れて纘に曰く、「丈人(張纘)の謐・聿は皆何れにか在る」と。纘従容として曰く、「纘に謐・聿有り、亦た殿下の衡・定なり」と。太子色慚じたり。或いは云う、纘の従兄の聿及び弼は愚短なり、湘東王(蕭繹)坐に在り、纘に問うて曰く、「丈人の二従(従兄弟)の聿・弼の芸業は如何」と。纘曰く、「下官の従弟は並びに多くは無けれども、猶お殿下の衡・定有るに賢れり」と。挙坐愕然たり、その物に忤うこと此の如し。

原文大同二年,徵為吏部尚書。後門寒素一介者,皆見引拔,不為貴門屈意,人士翕然稱之。負其才氣,無所與讓。定襄侯祗無學術,頗有文性,與兄衡山侯恭俱為皇太子愛賞。時纘從兄謐、聿並不學問,性又凡愚。恭、祗嘗預東宮盛集,太子戲纘曰:「丈人謐、聿皆何在?」纘從容曰:「纘有謐、聿,亦殿下之衡、定。」太子色慚。或云纘從兄聿及弼愚短,湘東王在坐,問纘曰:「丈人二從聿、弼藝業何如?」纘曰:「下官從弟雖並無多,猶賢殿下之有衡、定。」舉坐愕然,其忤物如此。

五年、武帝詔して曰く、「纘は外氏の英華、朝中の領袖、司空(張弘策)の後、名は范陽に冠たり。尚書僕射と為すべし」と。纘は本より寒門なり、外戚を以て顕重され、高く自ら倫を擬す。而して詔に「司空范陽」の言有り、深く以て狭しと為す。朱異の詔を草するを以て、異と平らかならず。初め、纘は参掌の何敬容と意趣協わず、敬容権軸に居り、賓客輻湊す。有って纘に詣る者あれば、纘は輒ち距みて前せず、曰く、「吾は何敬容の残客に対す能わず」と。及び是に遷るに及び、譲表を為りて曰く、「自ら出でて股肱を守り、入りて衡尺に居りてより、以て首を仰ぎ眉を伸べ、是非を論列すべき者なり。而るに寸衿の滞る所、近く耳目を蔽い、深浅清濁、豈に能く預かる有らんや。加うるに心を矯め貌を飾るは、酷く閑かざる所、俗人を喜ばず、之と事を共にす」と。此言は以て敬容を指すなり。職に在りて議す、南郊に禦するに素輦に乗るは、古今の衷に適うと。又議す、印綬の官若し朝服を備うれば、宜しく並びに綬を著すべしと。時に並びに施行さる。

原文五年,武帝詔曰:「纘外氏英華,朝中領袖,司空已後,名冠范陽。可尚書僕射。」纘本寒門,以外戚顯重,高自擬倫,而詔有「司空范陽。」之言,深用為狹。以朱異草詔,與異不平。初,纘與參掌何敬容意趣不協,敬容居權軸,賓客輻湊,有過詣纘,纘輒距不前,曰:「吾不能對何敬容殘客。」及是遷,為讓表曰:「自出守股肱,入居衡尺,可以仰首伸眉,論列是非者矣。而寸衿所滯,近蔽耳目,深淺清濁,豈有能預。加以矯心飾貌,酷非所閑,不喜俗人,與之共事。」此言以指敬容也。在職議南郊禦乘素輦,適古今之衷。又議印綬官若備朝服,宜並著綬。時並施行。

湘州刺史に改めらる。職に述ぶる途に経て、『南征賦』を作る。初め、呉興の呉規は頗る才学有り、邵陵王蕭綸引きて賓客と為し、深く礼遇す。及び綸郢蕃に牧と作るに及び、規は江夏に随従す。纘の湘鎮に出づるに遇い、路郢服を経る。綸之を南浦に餞る。纘規の坐に在るを見て、意平らかならず、忽ち杯を挙げて曰く、「呉規、此の酒は汝の今宴に陪するを得るを慶ぶ」と。規尋ち起ちて還る。その子の翁孺、父の悦ばざるを見て、問いて之を知る。翁孺因りて気結し、爾の夜便ち卒す。規は纘を恨みて児を慟し、憤哭兼ねて至り、信次の間に又た致す殞す。規の妻は深く夫・子を痛み、翌日又た亡ぶ。時人謂う、張纘一杯の酒は呉氏三人を殺すと。その軽傲皆此の類なり。

原文改為湘州刺史,述職經塗,作南征賦。初,吳興吳規頗有才學,邵陵王綸引為賓客,深相禮遇。及綸作牧郢蕃,規隨從江夏。遇纘出之湘鎮,路經郢服,綸餞之南浦。纘見規在坐,意不能平,忽舉杯曰:「吳規,此酒慶汝得陪今宴。」規尋起還,其子翁孺見父不悅,問而知之,翁孺因氣結,爾夜便卒。規恨纘慟兒,憤哭兼至,信次之間又致殞。規妻深痛夫、子,翌日又亡。時人謂張纘一杯酒殺吳氏三人,其輕傲皆此類也。

州に至りて務めて公平にし、十郡を遣わして慰労し、老疾の吏役を解放し、及び関市の戍邏・先に防ぐ所の人を、一に皆省併す。州界の零陵・衡陽等の郡に莫徭蛮と為る者有り、山険に依りて居と為し、歴政賓服せず、此に因りて向化す。益陽県の人田を作ること二頃、皆な畝を異にし穎を同じくす。政に在ること四年、流人は自ら帰し、戸口十余万を増し、州境大いに寧し。晩年頗る積聚を好み、図書数万巻を多く写し、油二百斛こく、米四千石有り、佗の物も是に称す。

原文至州務公平,遣十郡慰勞,解放老疾吏役,及關市戍邏、先所防人,一皆省並,州界零陵、衡陽等郡有莫徭蠻者,依山險為居,曆政不賓服,因此向化。益陽縣人作田二頃,皆異畝同穎。在政四年,流人自歸,戶口增十餘萬,州境大寧。晚頗好積聚,多寫圖書數萬卷,有油二百斛,米四千石,佗物稱是。

太清二年、徙めて領軍を授けらる。俄かに雍州刺史に改む。初め邵陵王蕭綸が己に代わりて湘州と為るべしと聞き、その後更に河東王蕭誉を用う。纘は素より少王を軽んじ、州府の候迎及び資待甚だ薄し。誉深く之を銜む。及び州に至るに及び、誉は遂に疾を托して纘を見ず、仍く州府の庶事を検括し、纘を留めて遣わさず。会うに侯景の建鄴を寇すを聞く。誉は当に下りて援くべし。湘東王(蕭繹)時に江陵を鎮む。纘と旧有り、纘将に之に因りて以て誉兄弟を斃さんとす。時に湘東王は誉及び信州刺史桂陽王蕭慥と各々率いる所の領を以て台を援けんと入り、硤を下りて江津に至る。誉は江口に次し、湘東王は郢州の武城に届く。属するに侯景已に和を請う。武帝詔して援軍を罷む。誉は江口より将に湘鎮に旋らんとし、湘東王の至るを待ち、督府に謁し、方に州に還らんと欲す。纘は乃ち湘東王に書を貽して曰く、「河東(蕭誉)は檣を戴きて上水し、江陵を襲わんと欲す。岳陽(蕭察)は雍に在り、共に不逞を謀る」と。江陵の游軍主朱榮又た使いを遣わして報じて云く、「桂陽(蕭慥)は此に住して誉・察に応ぜんと欲す」と。湘東王之を信じ、乃ち船を鑿ち米を沈め、纜を斬って帰る。江陵に至りて慥を収め殺す。荊・湘因りて嫌隙を構う。

原文太清二年,徙授領軍,俄改雍州刺史。初聞邵陵王綸當代己為湘州,其後更用河東王譽。纘素輕少王,州府候迎及資待甚薄。譽深銜之。及至州,譽遂托疾不見纘,仍檢括州府庶事,留纘不遣。會聞侯景寇建鄴,譽當下援。湘東王時鎮江陵,與纘有舊,纘將因之以斃譽兄弟。時湘東王與譽及信州刺史桂陽王慥各率所領入援台,下硤至江津,譽次江口,湘東王屆郢州之武城。屬侯景已請和,武帝詔罷援軍。譽自江口將旋湘鎮,欲待湘東至,謁督府,方還州。纘乃貽湘東書曰:「河東戴檣上水,欲襲江陵;岳陽在雍,共謀不逞。」江陵游軍主朱榮又遣使報云:「桂陽住此欲應譽、察。」湘東信之,乃鑿船沈米,斬纜而歸。至江陵收慥殺之。荊、湘因構嫌隙。

張纘尋ちその部曲を棄て、その二女を携え、単舸にて江陵に赴く。湘東王は使いを遣わして誉を責め譲り、纘の部下を索め、仍く纘をして雍州に向かわしむ。前刺史の岳陽王蕭察は推遷して未だ鎮を去らず、但だ城西の白馬寺を以て之を処す。会うに賊の台城を陷すを聞く。察は因りて代を受けず。州の助防杜岸、纘に紿いて曰く、「岳陽王の使君(張纘)を容れざるを観る。使君は素より物情を得たり。若し西山に走り入り義挙せば、事済まざる無し」と。纘然りと為す。因りて岸兄弟と盟し、乃ち雍州の人席引等を要して西山に衆を聚む。乃ち婦人の衣を服し、青布の輿に乗り、親信十余人与に引等に奔る。杜岸馳せて察に告ぐ。察は中兵参軍尹正等を令して追討せしむ。纘は期に赴くものと以為い、大喜す。及び至るに並びに之を禽す。纘は免れざるを懼れ、沙門と為ることを請う。名を法緒とす。察江陵を襲うに、常に纘を載せて後に随い、逼りて檄を為らしむ。固く疾を以て辞す。及び軍退き敗るるに及び、行きて湕水の南に至る。纘を防守する者、追兵の至るを慮り、遂に之を害し、屍を棄てて去る。元帝(蕭繹)制を承け、開府儀同三司を贈り、諡して簡憲公と曰う。

原文纘尋棄其部曲,攜其二女,單舸赴江陵。湘東遣使責讓譽,索纘部下,仍遣纘向雍州。前刺史岳陽王察推遷未去鎮,但以城西白馬寺處之。會聞賊陷台城,察因不受代。州助防杜岸紿纘曰:「觀岳陽不容使君,使君素得物情,若走入西山義舉,事無不濟。」纘以為然。因與岸兄弟盟,乃要雍州人席引等於西山聚眾。乃服婦人衣,乘青布輿,與親信十餘人奔引等。杜岸馳告察,察令中兵參軍尹正等追討。纘以為赴期,大喜,及至並禽之。纘懼不免,請為沙門,名法緒。察襲江陵,常載纘隨後,逼使為檄,固辭以疾。及軍退敗,行至湕水南,防守纘者慮追兵至,遂害之,棄屍而去。元帝承制,贈開府儀同三司,諡簡憲公。

元帝の少時、纘は便ち推誠して委結す。及び帝即位し、之を追思し、嘗て詩序を為りて云く、「簡憲の人と為りや、王侯に事えず、才を負い気に任す。余を見れば則ち申旦達夕し、已む能わず。夫人の徳を懐い、何れの日か之を忘れん」と。纘著す『鴻宝』一百巻、文集二十巻。

原文元帝少時,纘便推誠委結,及帝即位,追思之,嘗為詩序云:「簡憲之為人也,不事王侯,負才任氣。見余則申旦達夕,不能已已。懷夫人之德,何日忘之。」纘著鴻寶一百卷,文集二十卷。

初めに、纘が雍州へ赴く際、資産は悉く江陵に留めた。性貪婪にして、南中の財貨が積み重なっていた。死ぬと、湘東王は皆これを収めさせ、書二万巻は併せて齋へ運び戻し、珍宝財物は悉く庫に納め、粽蜜の類はその家に返した。

原文初,纘之往雍州,資產悉留江陵。性既貪婪,南中貲賄填積。及死,湘東王皆使收之,書二萬卷並摙還齋,珍寶財物悉付庫,以粽蜜之屬還其家。

次子の希は字を子顔といい、早くから名を知られ、簡文帝の第九女海鹽公主を娶った。承聖初年、侍中の位に至る。纘の弟に綰がいる。

原文次子希字子顏,早知名,尚簡文第九女海鹽公主。承聖初,位侍中。纘弟綰。

綰は字を孝卿といい、若い頃兄の纘と並び称された。湘東王繹がかつて百事を策問したところ、綰はそのうち六つを欠いて答え、百六公と号された。員外散騎常侍・中軍宣城王長史の位に就く。御史中丞に遷る。武帝はその弟の中書舍人絢を遣わし旨を宣して言わせた。「国の急務は、ただ法を執り直くすることにあり、人を用いる根本は、昇降に限りがあるわけではない。晋・宋の時、周閔・蔡廓が共に侍中としてこれを務めた。卿は左遷と疑うなかれ。」当時宣城王府の声望が重かったため、このような旨があったのである。大同四年の元日、旧制では僕射と中丞の座席は東西相応じていた。時に綰の兄纘が僕射であったので、百官が列に就く時、兄弟並んで導騎に分かれて両陛に趨き、前代未だ有らず、当時の人はこれを栄誉とした。豫章内史として出向し、郡において制旨礼記正言義を講述し、四姓の衣冠士子で聴講する者は常に数百人に及んだ。

原文綰字孝卿,少與兄纘齊名。湘東王繹嘗策之百事,綰對闕其六,號為百六公。位員外散騎常侍、中軍宣城王長史。遷御史中丞。武帝遣其弟中書舍人絢宣旨曰:「為國之急,唯在執憲直繩,用人之本,不限升降。晉、宋時,周閔、蔡廓兼以侍中為之,卿勿疑是左遷。」時宣城王府望重,故有此旨焉。大同四年元日,舊制僕射中丞坐位東西相當,時綰兄纘為僕射,及百司就列,兄弟並導騶分趨兩陛,前代未有,時人榮之。出為豫章內史,在郡述制旨禮記正言義,四姓衣冠士子聽者常數百人。

八年、安成人の劉敬宮が妖道を挟み、遂に徒党を集めて郡を攻め、進んで豫章を寇す。刺史湘東王は司馬王僧辯を遣わして賊を討たせ、綰の節度を受けた。旬月の間に、賊党は悉く平定された。

原文八年,安成人劉敬宮挾祅道,遂聚黨攻郡,進寇豫章,刺史湘東王遣司馬王僧辯討賊,受綰節度。旬月間,賊党悉平。

十年、再び御史中丞となる。綰が再び憲司となると、弾劾糾挙に回避するところなく、豪族権勢はこれを畏れた。時に城西に士林館を開いて学者を集め、綰は右衛朱異・太府卿賀琛と交替で制旨礼記中庸義を講述した。太清三年、吏部尚書となり、宮城陥落後、江陵に奔り、尚書右僕射の位に至る。魏が江陵を陥すと、朝士は皆捕虜として関中に入ったが、綰は病により免れ、江陵で卒した。

原文十年,復為御史中丞。綰再為憲司,彈糾無所回避,豪右憚之。時城西開士林館聚學者,綰與右衛朱異、太府卿賀琛遞述制旨禮記中庸義。太清三年,為吏部尚書,宮城陷,奔江陵,位尚書右僕射。魏克江陵,朝士皆俘入關,綰以疾免,卒於江陵。

次子の交は字を少游といい、簡文帝の第十一女定陽公主を娶った。承聖二年、官は秘書丞に至り、東宮の管記を掌った。

原文次子交,字少游,尚簡文第十一女定陽公主。承聖二年,官至秘書丞,掌東宮管記。

庾域

原文庾域

庾域は字を司大といい、新野の人である。若くして沈静、郷里に名を知られた。梁文帝が郢州にあった時、主簿に辟召し、その才を歎美して言った。「荊南の杞梓、其れ斯くの如きか。」恩礼を加えた。長沙宣武王が梁州にあった時、録事参軍とし、華陽太守を帯びた。時に魏軍が南鄭を攻囲し、州中に空倉が数十あったが、域は自ら封題し、将士に指し示して言った。「此の中の粟は皆満ちており、二年を支えるに足る。ただ努力して堅守せよ。」衆心これにより安んず。軍が退くと、功により羽林監に拝された。長沙王が益州となると、域はこれに従い懐寧太守となった。任を罷めて家に還ると、妻子はなお井臼に事としていたが、域の着るものは大布であり、余った俸禄は専ら供養に充てた。母は鶴の鳴く声を好んだので、域は在官中にこれを求め、孜孜として怠らず、ある日一双の鶴が来て下り、論者は孝の感応によるものとした。

原文庾域字司大,新野人也。少沈靜,有名鄉曲。梁文帝為郢州,辟為主簿,歎美其才,曰:「荊南杞梓,其在斯乎。」加以恩禮。長沙宣武王為梁州,以為錄事參軍,帶華陽太守。時魏軍攻圍南鄭,州有空倉數十所,域手自封題,指示將士曰:「此中粟皆滿,足支二年。但努力堅守。」眾心以安。軍退,以功拜羽林監。及長沙王為益州,域隨為懷甯太守。罷任還家,妻子猶事井臼,而域所衣大布,餘奉專充供養。母好鶴唳,域在位營求,孜孜不怠,一旦雙鶴來下,論者以為孝感所致。

永元初年、南康王が板授により西中郎諮議参軍としたが、母憂により去職した。梁武帝が兵を挙げると、甯朔将軍として起用され、行選を領した。武帝が東下し、軍が楊口に次ぐと、和帝は御史中丞宗夬を遣わして軍を労った。域は夬を諷して言った。「黄鉞未だ加わらず、これをもって侯伯を総率すべからず。」夬が戻ると、西台は即座に武帝に黄鉞を授けた。蕭穎胄が既に中外諸軍事を都督すると、論者は武帝が箋を致すべきと言ったが、域は争って聞き入れず、遂に止んだ。郢城が平定されると、域及び張弘策の議は武帝の意と同く、即ち命じて衆軍をして便ち下らしめ、域の謀は多く採用された。霸府が初めて開かれると、諮議参軍となった。

原文永元初,南康王板西中郎諮議參軍,母憂去職。梁武帝舉兵,起為甯朔將軍,領行選。武帝東下,師次楊口,和帝遣御史中丞宗夬勞軍。域乃諷夬曰:「黃鉞未加,非所以總率侯伯。」夬反,西台即授武帝黃鉞。蕭穎胄既都督中外諸軍事,論者謂武帝應致箋,域爭不聽,乃止。郢城平,域及張弘策議與武帝意同,即命眾軍便下,域謀多被納用。霸府初開,為諮議參軍。

天監初年、広牧県子に封ぜられ、後軍司馬となる。甯朔将軍・巴西梓潼二郡太守として出向する。梁州長史夏侯道遷が魏に降ると、魏は巴西を襲い、域は固守した。城中の糧尽き、将士は皆草を齕んで食とし、離心する者無し。魏軍退き、爵を進めて伯となる。当時は兵乱の後で人飢え、域は上表して賑貸を請うたが、報を待たずに倉を開いたため、有司に糾弾された。上は域を西中郎司馬・輔国将軍・甯蜀太守に遷した。官にて卒す。子に子輿あり。

原文天監初,封廣牧縣子、後軍司馬。出為甯朔將軍、巴西梓潼二郡太守。梁州長史夏侯道遷降魏,魏襲巴西,域固守。城中糧盡,將士皆齕草供食,無有離心。魏軍退,進爵為伯。于時兵後人饑,域上表振貸,不待報輒開倉,為有司所糾。上遷域西中郎司馬、輔國將軍、甯蜀太守。卒於官。子子輿。

子輿は字を孝卿といい、幼くして岐嶷たり。五歳で孝経を読み、手を巻から離さず。或る人が言う。「この書は文句多くないのに、何ぞ自ら苦しむ。」答えて言う。「孝は徳の本なり、何ぞ多からずと言わんや。」斉の永明末、州主簿に除された。時に父が梁州で病に遇い、子輿は奔って侍し医薬に当たり、言葉と涙は常に並び出た。長沙宣武王が病を見舞いこれを見て、顧みて言う。「庾録事は危殆なりといえども、憂うべきは更に子輿にあり。」間もなく母憂に遭い、哀至れば嘔血し、父は滅性を戒めたので、その哭泣を禁じた。梁初めに尚書郎となる。

原文子輿字孝卿,幼而歧嶷。五歲讀孝經,手不釋卷。或曰:「此書文句不多,何用自苦?」答曰:「孝,德之本,何謂不多。」齊永明末,除州主簿。時父在梁州遇疾,子輿奔侍醫藥,言淚恒並。長沙宣武王省疾見之,顧曰:「庾錄事雖危殆,可憂更在子輿。」尋丁母憂,哀至輒嘔血,父戒以滅性,乃禁其哭泣。梁初為尚書郎。

天監三年、父が巴西を守るため出向すると、子輿は蜀の路険難なるを以て、侍従を求めることを啓上し、孝養を以て許された。父が甯蜀に遷ると、子輿もこれに相随った。父は路中で心疾を感じ、痛み至る毎に必ず叫び、子輿もまた悶絶した。父が卒すると、哀慟して絶えんとする者再び。喪を奉じて郷に還る、秋水なお壮なり。巴東に淫預あり、石高さ二十許丈、秋至れば則ちかろうじて見えるばかり、次に瞿塘の大灘あり、行旅これを忌む。部伍ここに至るも、石はなお見えず。子輿は胸を撫でて長く叫ぶ、その夜五更に水忽ち退き減じ、安流して南下す。渡り終えると、水は旧に復し、行人之がために語りて曰く。「淫預は襥の如く本通り難く、瞿塘水退くは庾公のため。」初め蜀を発つ時、双鳩舟中に巣くい、至るに及びまた廬の側に棲み、毎に哭泣の声を聞けば、必ず飛翔して簷宇に至り、悲鳴激切なり。

原文天監三年,父出守巴西,子輿以蜀路險難,啟求侍從,以孝養獲許。父遷甯蜀,子輿亦相隨。父于路感心疾,每痛至必叫,子輿亦悶絕。及父卒,哀慟將絕者再。奉喪還鄉,秋水猶壯。巴東有淫預,石高出二十許丈,及秋至,則才如見焉,次有瞿塘大灘,行旅忌之,部伍至此,石猶不見。子輿撫心長叫,其夜五更水忽退減,安流南下。及度,水復舊,行人為之語曰:「淫預如襥本不通,瞿塘水退為庾公。」初發蜀,有雙鳩巢舟中,及至又棲廬側,每聞哭泣之聲,必飛翔簷宇,悲鳴激切。

父のために仏寺を建立せんと欲し、未だ定処無し。夢に僧有りて謂う。「将に勝業を修せんとす、嶺南の原即ち営造すべし。」明くる日往きて履歴す、果たして標度の処所を見る、人の功の如き有り、因りて精舎を立つ。墓所に居りて以て喪を終え、服闋すれども、手足枯攣し、人を待ちて起つ。なお布衣蔬食し、志を墳墓を守るに置く。叔の該謂う。「汝もし志を固くせば、吾もまた簪を抽かん。」ここにおいて始めて仕う。嫡長として爵を襲ぐといえども、国秩は尽く諸弟に推す。累遷して兼中郎司馬となる。

原文欲為父立佛寺,未有定處。夢有僧謂曰:「將修勝業,嶺南原即可營造。」明往履歷,果見標度處所,有若人功,因立精舍。居墓所以終喪,服闋,手足枯攣,待人而起。仍布衣蔬食,志守墳墓。叔該謂曰:「汝若固志,吾亦抽簪。」於是始仕。雖以嫡長襲爵,國秩盡推諸弟。累遷兼中郎司馬。

大通二年、巴陵内史に除され、便道にて官に赴く、路中に疾に遇う。或る人が郡に上り医に就くことを勧むるも、子輿曰く。「吾が疾患危重、全済理難し。豈に官を貪り、屍を公廨に陳すべけんや。」因りて門生に勒して勝手に城市に入ることを得ざらしめ、即ち渚次にて卒す。遺令して単衣帢履を以て斂し、酒脯を施して霊とすのみ。

原文大通二年,除巴陵內史,便道之官,路中遇疾。或勸上郡就醫,子輿曰:「吾疾患危重,全濟理難,豈可貪官,陳屍公廨。」因勒門生不得輒入城市,即於渚次卒。遺令單衣帢履以斂,酒脯施靈而已。

鄭紹叔

原文鄭紹叔

鄭紹叔は字を仲明といい、滎陽郡開封県の人である。数代にわたり壽陽に居住した。祖父の琨は、宋の高平郡太守であった。

原文鄭紹叔字仲明,滎陽開封人也。累世居壽陽。祖琨,宋高平太守。

紹叔は二十歳余りの時、安豊県令となり、有能な名があった。後に本州の中従事史となった。時に刺史の蕭誕の弟の諶が誅殺され、朝廷が誕を捕らえようと兵士を派遣し、急に兵が到着すると、左右の者は驚いて散り散りになったが、紹叔だけはただちに馳せつけた。誕が死ぬと、喪柩を送ることに侍し、人々は皆これを称えた。都に到着すると、司空の徐孝嗣はこれを見て異とし、「祖逖の流れである」と言った。

原文紹叔年二十餘,為安豐令,有能名。後為本州中從事史。時刺史蕭誕弟諶被誅,台遣收誕,兵使卒至,左右驚散,紹叔獨馳赴焉。誕死,侍送喪柩,眾咸稱之。到都,司空徐孝嗣見而異之,曰:「祖逖之流也」。

梁の武帝が司州を治めた時、中兵参軍に任じ、長流を兼ねさせた。これにより厚く自ら結び付いた。帝が州を罷めて都に還ると、賓客に謝して遣わしたが、紹叔だけは固く請い留まることを願った。帝は言った、「卿の才は幸い自ら用いるところがある。私は今、益とすることはできぬ。宜しく更に他の道を思うべし」と。固く許さなかった。そこで壽陽に還った。刺史の蕭遙昌は苦しく要請して引き入れようとしたが、紹叔は終に命を受けなかった。遙昌は彼を囚えようとしたが、郷人が救って解き免れた。帝が雍州刺史となると、紹叔は間道を経て西に帰り、甯蠻長史・扶風太守を補任された。東昏侯が朝宰を害した後、帝を頗る疑った。紹叔の兄の植は東昏侯の直後であった。東昏侯は彼を雍州に遣わし、紹叔を訪ねることに託けて、密かに刺客とさせようとした。紹叔はこれを知り、密かに帝に告げた。植が到着すると、帝は紹叔の処で酒宴を設け、植に戯れて言った、「朝廷が卿を遣わして私を図らせた。今日の閑宴は、取る良き会である」と。賓主大笑した。植に城壁に登らせ、周囲に府署・士卒・器械・舟艦・戎馬を見せると、富実でないものはなかった。植は退いて紹叔に言った、「雍州の実力は、図り易からぬ」と。紹叔は言った、「兄は還って詳しく天子に言うがよい。兄がもし雍州を取らんとすれば、紹叔はこの衆をもって一戦を請う」と。兄を南峴まで送り、互いに抱き合って慟哭して別れた。続いてまた主帥の杜伯符を遣わし、これも刺客たらんとしたが、使者と偽って来た。上(武帝)も密かに知り、宴して接すること平常の如くであった。伯符は恐れて発することができなかった。上は後に即位し、五百字の詩を作ってことごとくこれに及んだ。

原文梁武帝臨司州,命為中兵參軍,領長流。因是厚自結附。帝罷州還都,謝遣賓客,紹叔獨固請願留。帝曰:「卿才幸自有用,我今未能相益,宜更思佗塗。」固不許。於是乃還壽陽。刺史蕭遙昌苦要引,紹叔終不受命。遙昌將囚之,鄉人救解得免。及帝為雍州,紹叔間道西歸,補甯蠻長史、扶風太守。東昏既害朝宰,頗疑於帝。紹叔兄植為東昏直後,東昏遣至雍州,托候紹叔,潛使為刺客。紹叔知之,密白帝。及植至,帝于紹叔處置酒宴之,戲植曰:「朝廷遣卿見圖,今日閑宴,是見取良會也。」賓主大笑。令植登城隍,周觀府署,士卒器械,舟艫戎馬,莫不富實。植退謂紹叔曰:「雍州實力,未易圖也。」紹叔曰:「兄還具為天子言之,兄若取雍州,紹叔請以此眾一戰。」送兄于南峴,相持慟哭而別。續復遣主帥杜伯符亦欲為刺客,詐言作使,上亦密知,宴接如常。伯符懼不敢發。上後即位,作五百字詩具及之。

挙兵の初め、紹叔は冠軍將軍となり、驍騎將軍に改め、東下に従った。江州が平定されると、紹叔を留めて州事を監させ、言った、「昔、蕭何が関中を鎮め、漢祖は山東の業を成すことを得、寇恂が河内を守り、光武は河北の基を建てた。今の九江は、昔の河内である。我、故に卿を留めて羽翼と為さん。前途に捷からずば、我その咎を当てん。糧運継がずば、卿その責を任せよ」と。紹叔は涙を流して拝辞し、ここに江・湘の糧運を督して欠乏すること無かった。

原文初起兵,紹叔為冠軍將軍,改驍騎將軍,從東下。江州平,留紹叔監州事,曰:「昔蕭何鎮關中,漢祖得成山東之業;寇恂守河內,光武建河北之基。今之九江,昔之河內,我故留卿以為羽翼。前途不捷,我當其咎,糧運不繼,卿任其責。」紹叔流涕拜辭,於是督江、湘糧運無闕乏。

天監の初め、入朝して衛尉卿となった。紹叔は幼くして孤貧であり、母及び祖母に事えて孝で聞こえ、兄に奉じて恭謹であった。顕要な地位に居るようになると、糧賜の所得及び四方からの贈り物は、悉く兄の家に帰した。上に事えて忠であり、聞くところの些細なことでも隠さなかった。毎度帝に事を言う時、善ければ「臣愚にして及ばず、これ皆聖主の策なり」と言い、善からざれば「臣が智慮浅短にして、その事かくの如くあるべしと思い、これによって朝廷を誤るに至りました。臣の罪深し」と言った。帝は甚だ親信した。母の憂いで職を去った。紹叔には至性があり、帝は常に人を遣わしてその哭を節させた。間もなく、營道縣侯に封ぜられ、再び衛尉卿となった。營道縣の戸が凋弊しているため、東興縣侯に改封された。

原文天監初,入為衛尉卿。紹叔少孤貧,事母及祖母以孝聞,奉兄恭謹。乃居顯要,糧賜所得及四方遺餉,悉歸之兄室。忠於事上,所聞纖豪無隱。每為帝言事,善則曰:「臣愚不及,此皆聖主之策。」不善,則曰:「臣智慮淺短,以為其事當如是,殆以此誤朝廷也。臣之罪深矣。」帝甚親信之。母憂去職。紹叔有至性,帝常使人節其哭。頃之,封營道縣侯,復為衛尉卿。以營道縣戶凋弊,改封東興縣侯。

三年、魏が合肥を囲むと、紹叔は本官のまま衆軍を督して東関を鎮めた。事が平らぎ、再び衛尉となった。やがて義陽が魏に入り、司州の鎮所が関南に移ると、紹叔を司州刺史とした。紹叔が到着すると、城壁を創立し、兵を繕い穀を積み、流民百姓を安んじた。性頗る矜躁で、権勢を以て自ら居ったが、然し能く心を傾けて人物に接し、多く挙薦した。士もまたこれによって彼に帰した。

原文三年,魏圍合肥,紹叔以本號督眾軍鎮東關。事平,復為衛尉。既而義陽入魏,司州移鎮關南,以紹叔為司州刺史。紹叔至,創立城隍,繕兵積穀,流人百姓安之。性頗矜躁,以權勢自居,然能傾心接物,多所舉薦。士亦以此歸之。

左衛將軍に徴されたが、家に至って病篤く、詔により宅で拝授し、輿に載せて府に還った。中使が医薬を送り、一日に数度至った。府舎で卒した。帝はその殯に臨まんとしたが、紹叔の宅の巷が陋しく、輿駕を容れることができず、止めた。詔して散騎常侍・護軍將軍を追贈し、諡して忠といった。紹叔の卒した後、帝は嘗て潸然として朝臣に謂って言った、「鄭紹叔は志を立てて忠烈、善は必ず君を称し、過ちは則ち己に帰す。当今殆どその比無し」と。その賞惜されることかくの如しであった。子の貞が嗣いだ。

原文徵為左衛將軍,至家疾篤,詔於宅拜授,輿載還府。中使醫藥,一日數至。卒於府舍。帝將臨其殯,紹叔宅巷陋,不容輿駕,乃止。詔贈散騎常侍、護軍將軍,諡曰忠。紹叔卒後,帝嘗潸然謂朝臣曰:「鄭紹叔立志忠烈,善必稱君,過則歸己,當今殆無其比。」其見賞惜如此。子貞嗣。

呂僧珍

原文呂僧珍

呂僧珍は字を元瑜といい、東平郡範県の人である。代々廣陵に居住し、家は甚だ寒微であった。童児の時、師に従って学び、相工が諸生を歴観し、僧珍を指して言った、「この児は奇声あり、封侯の相なり」と。梁の文帝に事えて門下書佐となった。身長七尺七寸、容貌甚だ偉く、同輩皆これを敬した。文帝が豫州刺史となると、典簽とし、蒙縣令を兼ねさせた。帝が領軍將軍に遷ると、主簿を補任した。祅賊の唐宇之が東陽を寇すと、文帝は衆を率いて東討し、僧珍に行軍衆局の事を行わせた。僧珍の宅は建陽門の東にあったが、命を受けて行くべきとなってからは、毎日建陽門の道を通り、私室には寄らなかった。文帝は益々これによって彼を知った。司空の陳顯達が沔北に出軍した時、彼を見て座に呼び、謂って言った、「卿には貴相あり、後には減ぜられぬことあらん。深く自ら努力せよ」と。

原文呂僧珍字元瑜,東平範人也。世居廣陵,家甚寒微。童兒時從師學,有相工曆觀諸生,指僧珍曰:「此兒有奇聲,封侯相也。」事梁文帝為門下書佐。身長七尺七寸,容貌甚偉,曹輩皆敬之。文帝為豫州刺史,以為典簽,帶蒙令。帝遷領軍將軍,補主簿。祅賊唐宇之寇東陽,文帝率眾東討,使僧珍知行軍眾局事。僧珍宅在建陽門東,自受命當行,每日由建陽門道,不過私室。文帝益以此知之。司空陳顯達出軍沔北,見而呼坐,謂曰:「卿有貴相,後當不見減,深自努力。」

建武二年、魏軍が南攻し、五道並びに進んだ。武帝が師を帥いて義陽を援け、僧珍は軍中に従った。時に長沙宣武王が梁州刺史であったが、魏軍が連月囲み守り、義陽と雍州の道が断たれた。武帝は使を襄陽に遣わし、梁州の消息を求めようとしたが、衆は敢えて行く者無かった。僧珍は固く請い使を充たし、即日単舸で道に上った。襄陽に至ると、援軍を督して遣わし、且つ宣武王の書を得て帰った。武帝は甚だこれを嘉した。

原文建武二年,魏軍南攻,五道並進。武帝帥師援義陽,僧珍從在軍中。時長沙宣武王為梁州刺史,魏軍圍守連月,義陽與雍州路斷。武帝欲遣使至襄陽,求梁州問,眾莫敢行。僧珍固請充使,即日單舸上道。及至襄陽,督遣援軍,且獲宣武王書而反,武帝甚嘉之。

東昏侯が即位し、司空の徐孝嗣が朝政を管み、僧珍を要して共に事えようとした。僧珍は久しからずして敗れることを知り、遂に往かなかった。武帝が雍州を治めると、僧珍は固く西帰を求め、邔縣令を補任された。到着すると、武帝は中兵参軍に命じ、心膂として委ねた。僧珍は密かに死士を養い、帰する者甚だ多かった。武帝は武猛を頗る招き、士庶響應し、会する者万余りに及んだ。そこで城西の空地を行き巡らせ、数千間の屋を建てて止舎とせんと命じた。多く材竹を伐り、檀溪に沈め、茅を積み蓋うこと山阜の如くしたが、皆未だ用いなかった。僧珍のみその旨を悟り、密かに櫓数百張を具えた。兵が起こると、悉く檀溪の材竹を取り、船艦に装い、茅をもって葺き、並びに立ちどころに整った。衆軍将に発せんとする時、諸将は櫓を多く必要とした。僧珍は乃ち先に具えたものを出し、毎船に二張ずつ付与すると、争う者は乃ち止んだ。

原文東昏即位,司空徐孝嗣管朝政,欲要僧珍與共事。僧珍知不久當敗,竟弗往。武帝臨雍州,僧珍固求西歸,得補邔令。及至,武帝命為中兵參軍,委以心膂。僧珍陰養死士,歸之者甚眾。武帝頗招武猛,士庶響從,會者萬餘人。因命按行城西空地,將起數千間屋為止舍。多伐材竹,沈于檀溪,積茅蓋若山阜,皆未之用。僧珍獨悟其指,因私具櫓數百張。及兵起,悉取檀溪材竹,裝為船艦,葺之以茅,並立辦。眾軍將發,諸將須櫓甚多,僧珍乃出先所具,每船付二張,爭者乃息。

武帝は僧珍を輔國將軍・歩兵校尉とし、臥内に出入りさせ、意旨を宣通させた。大軍が江寧に駐屯すると、武帝は僧珍と王茂に精兵を率い先んじて赤鼻邏に登らせた。その日、東昏侯の将の李居士が来戦し、僧珍らはこれを大破し、乃ち茂と共に白板橋に進んだ。塁が立つと、茂は頓を越城に移し、僧珍は白板を守った。李居士は城中の衆少なるを知り、直ちに来たりて城に迫った。僧珍は将士に謂って言った、「今力敵せず、戦うべからず。亦遥かに射ることも勿れ。塹裏に至るを須ち、当に力を併せてこれを破らん」と。俄かに皆塹を越え、僧珍は人を分けて城に上らせ、自ら馬歩三百人を率いてその後を出で、内外斉しく撃つと、居士らは時に応じて奔散した。武帝が禅を受けると、冠軍將軍・前軍司馬となり、平固縣侯に封ぜられた。再び左衛將軍に遷り、散騎常侍を加えられ、秘書省に入直し、宿衛を総知した。

原文武帝以僧珍為輔國將軍、步兵校尉,出入臥內,宣通意旨。大軍次江甯,武帝使僧珍與王茂率精兵先登赤鼻邏。其日,東昏將李居士來戰,僧珍等大破之,乃與茂進白板橋。壘立,茂移頓越城,僧珍守白板。李居士知城中眾少,直來薄城。僧珍謂將士曰:「今力不敵,不可戰,亦勿遙射。須至塹裏,當並力破之。」俄而皆越塹,僧珍分人上城,自率馬步三百人出其後,內外齊擊,居士等應時奔散。及武帝受禪,為冠軍將軍、前軍司馬,封平固縣侯。再遷左衛將軍,加散騎常侍,入直秘書省,總知宿衛。

天監四年、大いに挙げて北侵し、ここより僧珍は昼は中書省に直し、夜は秘書省に還った。五年に軍を旋すと、本官のまま太子中庶子を領した。

原文天監四年,大舉北侵,自是僧珍晝直中書省,夜還秘書。五年旋軍,以本官領太子中庶子。

僧珍は家を離れて久しく、上表して墓参りを請うた。武帝は彼を本州で栄えさせようと欲し、南兗州刺史に任じた。僧珍は任にあたり、士大夫の迎送が礼を過ごすのを見て、公平な心で下に臨み、親戚を私せず。兄弟は皆外堂におり、ともに座ることを得なかった。客席を指して言うには、「これは兗州刺史の座であり、呂僧珍の寝台ではない」と。別室では膝を交えて旧の如くであった。従父兄の子は先に葱を売ることを業としていたが、僧珍が着任すると、業を棄てて州の官を求めた。僧珍は言う、「私は国の重恩を蒙り、報効する術がない。汝らには自ら常の分がある。どうして妄りに求め越分を貪ることができようか。速やかに葱の店に戻るがよい」と。僧珍の旧宅は市の北にあり、前に督郵の官舎があった。郷人は皆官舎を移してその宅を広げるよう勧めた。僧珍は怒って言う、「どうして官舎を移して我が私宅を広げることができようか」と。姉は于氏に嫁ぎ、市の西の小路に面した小屋に住み、店舗と雑居していた。僧珍は常に先導の儀仗を従えてその宅に至ったが、恥とはしなかった。

原文僧珍去家久,表求拜墓,武帝欲榮以本州,乃拜南兗州刺史。僧珍在任,見士大夫迎送過禮,平心率下,不私親戚。兄弟皆在外堂,並不得坐。指客位謂曰:「此兗州刺史坐,非呂僧珍床。」及別室促膝如故。從父兄子先以販蔥為業,僧珍至,乃棄業求州官。僧珍曰:「吾荷國重恩,無以報效,汝等自有常分,豈可妄求叨越。當速反蔥肆耳。」僧珍舊宅在市北,前有督郵廨,鄉人咸勸徙廨以益其宅。僧珍怒曰:「豈可徙官廨以益吾私宅乎。」姊適於氏,住市西小屋臨路,與列肆雜。僧珍常導從鹵簿到其宅,不以為恥。

州にあって百日、召されて領軍將軍となり、先の如く秘書省に直した。常に私車で水を運び御路に撒いた。僧珍は既に大功があり、心膂を総べて任じられ、性質は甚だ恭順慎重であった。禁中に直すときは、盛暑でも衣を解かず。毎度御座に侍するときは、息を潜めて身を屈め、果物や食物に対しても箸を挙げたことがなかった。酔った後に一つ甘いものを取って食べたことがあり、武帝は笑って言う、「卿は今日大いに進歩した」と。禄俸の外に、また月に十万銭を給し、その他の賜物は時を絶つことがなかった。初め、

原文在州百日,徵為領軍將軍,直秘書省如先。常以私車輦水灑御路。僧珍既有大勳,任總心膂,性甚恭慎。當直禁中,盛暑不敢解衣。每侍御坐,屏氣鞠躬,對果食未嘗舉箸。因醉後取一甘食,武帝笑謂曰:「卿今日便是大有所進。」祿俸外,又月給錢十萬,其餘賜賚不絕于時。初

武帝が兵を起こしたとき、郢州を攻めて久しく下らず、皆北へ走らんと欲した。僧珍のみ肯わず、数日を経てようやく従われることとなった。一夜、僧珍は突然頭痛と高熱を発し、明け方には額の骨がますます大きくなり、その骨相は蓋し異なるものがあった。

原文,武帝起兵,攻郢州久不下,咸欲走北。僧珍獨不肯,累日乃見從。一夜,僧珍忽頭痛壯熱,及明而顙骨益大,其骨法蓋有異焉。

十年、病に罹り、車駕が臨幸し、中使の医薬は日に数四度あった。僧珍は親旧に語る、「私は昔、蒙県で熱病を患い髪が黄ばんだとき、必ず助からぬと思われた。主上は見て言われた、『卿には富貴の相がある。必ず死なぬであろう』と。間もなく果たして癒えた。私は今既に富貴であるのに、再び髪が黄ばみ、苦しむところは昔と全く同じである。必ず再び起つことはないであろう」と。果たしてその言の如く領軍の官舎で卒した。武帝は即日に臨んで殯し、驃騎將軍・開府儀同三司を贈り、諡して忠敬といった。武帝は痛惜し、言うに涙を流した。子の淡が嗣いだ。

原文十年,疾病,車駕臨幸,中使醫藥日有數四。僧珍語親舊曰:「吾昔在蒙縣熱病髮黃,時必謂不濟。主上見語,'卿有富貴相,必當不死'。俄而果愈。吾今已富貴,而復髮黃,所苦與昔政同,必不復起。」竟如言卒于領軍官舍。武帝即日臨殯,贈驃騎將軍、開府儀同三司,諡曰忠敬。武帝痛惜之,言為流涕。子淡嗣。

初め、宋季雅が南康郡を罷めると、宅を買って僧珍の宅の隣に住んだ。僧珍が宅の価を問うと、「一千一百万」と言う。その高価なのを怪しむと、季雅は言う、「一百万は宅を買い、千万は隣を買うのである」と。僧珍が子を生んだとき、季雅が往って賀し、函に「銭一千」と記した。門番は少ないとして通そうとせず、強いてようやく進ませた。僧珍はその故を疑い、自ら開くと、それは金銭であった。そこで帝に言上し、その才能を陳べて、壮武將軍・衡州刺史に任じた。行くに当たり、親しい者に言う、「呂公に背くことはできない」と。州において大いに政績があった。

原文初,宋季雅罷南康郡,市宅居僧珍宅側。僧珍問宅價,曰:「一千一百萬」。怪其貴,季雅曰:「一百萬買宅,千萬買鄰。」及僧珍生子,季雅往賀,署函曰:「錢一千」。閽人少之,弗為通,強之乃進。僧珍疑其故,親自發,乃金錢也。遂言于帝,陳其才能,以為壯武將軍、衡州刺史。將行,謂所親曰:「不可以負呂公。」在州大有政績。

樂藹

原文樂藹

樂藹は字を蔚遠といい、南陽淯陽の人、晋の尚書令樂廣の六世の孫である。家は江陵に住んだ。頤は方形で鼻は高く、挙動は穏やかでゆったりしていた。その舅の雍州刺史宗愨が嘗て器物を並べ、諸甥姪を試した。藹は当時まだ幼く、何も取らなかったので、愨はこれによって彼を奇とした。また史伝を各一卷取り、藹らに授け、読み終えて記すところを言わせた。藹は軽く読み全てを挙げたので、愨はますます彼を善しとした。

原文樂藹字蔚遠,南陽淯陽人,晉尚書令廣之六世孫也。家居江陵。方頤隆准,舉動醞藉。其舅雍州刺史宗愨嘗陳器物,試諸甥侄。藹時尚幼,而無所取,愨由此奇之。又取史傳各一卷授藹等,使讀畢言所記。藹略讀具舉,愨益善之。

齊の豫章王蕭嶷が荊州刺史となったとき、藹を驃騎行參軍とし、州主簿を領せしめ、州事に参知させた。嶷が嘗て藹に城隍の風俗・山川の険易を問うと、藹は問いに随って立ちどころに答え、図牒を案ずるが如くであったので、嶷はますます重んじた。州人はこれを嫉み、ある者は藹の官舎の門が市の如しと讒した。嶷が覗かせると、ちょうど藹が戸を閉めて書を読んでいるのを見た。後に大司馬記室となった。

原文齊豫章王嶷為荊州刺史,以藹為驃騎行參軍,領州主簿,參知州事。嶷嘗問藹城隍風俗、山川險易,藹隨問立對,若案圖牒,嶷益重焉。州人嫉之,或譖藹廨門如市,嶷遣覘之,方見藹閉合讀書。後為大司馬記室。

永明八年、荊州刺史巴東王蕭子響が兵を称して反し、敗れた後、府舎を焼き、官曹の文書は一時に蕩尽した。齊の武帝が藹に会い、西の事を問うと、藹は応対が詳細敏速であったので、帝は喜び、荊州中從事に用い、府州を修復する事を付託するよう勅した。藹は州に還り、官舎数百区を修繕し、間もなく全て完了した。豫章王蕭嶷が薨じると、藹は官を解いて喪に赴き、荊・湘二州の故吏を率いて墓所に碑を建てた。南康王が西中郎となると、藹を諮議參軍とした。蕭穎胄は藹及び宗夬・劉坦を引き入れ、経略を任せた。

原文永明八年,荊州刺史巴東王子響稱兵反,及敗,焚燒府舍,官曹文書一時蕩盡。齊武帝見藹,問以西事,藹占對詳敏,帝悅,用為荊州中從事,敕付以修復府州事。藹還州,繕修廨署數百區,頃之咸畢。豫章王嶷薨,藹解官赴喪,率荊、湘二州故吏建碑墓所。南康王為西中郎,以藹為諮議參軍。蕭穎胄引藹及宗夬、劉坦任以經略。

天監の初め、累遷して御史中丞となった。初め、藹が江陵を発つとき、故なくして船の中で八車の輻を得た。それは中丞の健歩が道を避ける者のようであり、ここに至って果たして遷任したのである。性質は公正で強直、憲台に居て甚だ称職であった。時に長沙宣武王の葬送が行われようとしたとき、車府が突然庫の中で油絡を失った。主たる者を推問しようとした。藹は言う、「昔、晋の武庫が火災に遭ったとき、張華は積油万石があれば必ず燃えると考えた。今、庫に灰があれば、吏の罪ではない」と。既にこれを検査すると、果たして積灰があった。時にその博物と寛大を称えた。

原文天監初,累遷御史中丞。初,藹發江陵,無故於船得八車輻,如中丞健步避道者,至是果遷焉。性公強,居憲台甚稱職。時長沙宣武王將葬,而車府忽於庫失油絡,欲推主者。藹曰:「昔晉武庫火,張華以為積油萬石必然,今庫若灰,非吏罪也。」既而檢之,果有積灰,時稱其博物弘恕。

二年、出て平越中郎將・廣州刺史となった。前刺史徐元瑜が罷めて帰る途中、始興の人士の反乱に遇い、内史崔睦舒を逐い、元瑜の財産を掠奪した。元瑜は走って廣州に帰り、藹に兵を借り、賊を討たんと託けて、実は藹を襲おうと謀った。藹は覚ってこれを誅した。間もなく官において卒した。藹の姉は征士同郡の劉虯に嫁ぎ、また明識あり礼訓があった。藹が州にあって、姉を迎えて官舎に住まわせ、禄秩の三分を供した。西土の人はこれを称えた。子に法才あり。

原文二年,出為平越中郎將、廣州刺史。前刺史徐元瑜罷歸,遇始興人士反,逐內史崔睦舒,因掠元瑜財產。元瑜走歸廣州,借兵於藹,托欲討賊,而實謀襲藹。藹覺誅之。尋卒於官。藹姊適征士同郡劉虯,亦明識有禮訓。藹為州,迎姊居官舍,三分祿秩以供焉,西土稱之。子法才。

法才は字を元備といい、幼いとき弟の法藏と共に美名があった。沈約がこれを見て言う、「法才は実に才子である」と。建康令となり、俸禄を受けず、去る時に至るまで百金に及んだ。県の曹司が啓して台庫に納めさせた。武帝はその清節を嘉し、言う、「職に居てこのようであるならば、百城の模範とすることができる」と。太舟卿に遷り、間もなく南康内史に任じられた。譲った俸禄で名を受けることを恥じ、辞して拝さなかった。少府卿、江夏太守を歴任し、代えられることにより、表して便道で郷里に還ることを求めた。家に至り、宅を割いて寺とし、心を物の表に棲ませた。間もなく卒した。法藏は征西錄事參軍の位に至り、早く亡くなった。

原文法才字元備,幼與弟法藏俱有美名。沈約見之曰:「法才實才子。」為建康令,不受奉秩,比去將至百金,縣曹啟輸台庫。武帝嘉其清節,曰:「居職若斯,可以為百城表矣」。遷太舟卿,尋除南康內史。恥以讓奉受名,辭不拜。歷位少府卿,江夏太守,因被代,表求便道還鄉。至家,割宅為寺,棲心物表。尋卒。法藏位征西錄事參軍,早亡。

子の子雲は容貌美しく、挙止に優れた。江陵令の位にあり、元帝が制を承けると、光祿卿に任じられた。魏が江陵を攻克すると、衆は奔散し、子雲を呼んだ。子雲は言う、「結局虜となるならば、死節を守るに如かず」と。遂に地に仆れ、馬蹄の下に卒した。

原文子子雲,美容貌,善舉止。位江陵令,元帝承制,除光祿卿。魏克江陵,眾奔散,呼子云。子雲曰:「終為虜矣,不如守以死節。」遂僕地,卒於馬蹄之下。

【論】

原文【論】

論じて言う。張弘策は惇厚で慎密、最初に帝の図謀に預かり、その位遇の隆盛は、ただ外戚であるというだけであろうか。至って太清の板蕩に至り、親属が離反すると、纘は蕃嶽を協和させ、温嶠・陶侃の功を成すことができず、苟くも私怨を懐いて、釁隙の首となるに至った。風格がこのようでありながら、梁の乱階となったのは、惜しいことである。庾域・鄭紹叔・呂僧珍らは、或いは忠誠亮藎、或いは恪勤して懈らず、王業を締構するに、皆力があった。僧珍の禁省に肅恭なること、紹叔の勤誠にして貳心なきことは、蓋し人臣の節有る者である。藹は帷幄の勲は異なるも、また雲雷の業を賛け、その官に当たり事を任せるに、寵秩を受けることも亦宜なることではなかったか。

原文論曰:張弘策惇厚慎密,首預帝圖,其位遇之隆,豈徒外戚云爾。至如太清板蕩,親屬離貳,纘不能協和蕃嶽,克濟溫、陶之功;而苟懷私怨,以成釁隙之首。風格若此,而為梁之亂階,惜乎!庾域、鄭紹叔、呂僧珍等,或忠誠亮藎,或恪勤匪懈,締構王業,皆有力焉。僧珍之肅恭禁省,紹叔之勤誠靡貳,蓋有人臣之節矣。藹雖異帷幄之勳,亦贊雲雷之業,其當官任事,寵秩不亦宜乎。