南史
巻五十五より巻五十六
列伝第四十五
王茂
王茂は字を休連といい、一字は茂先、太原郡祁県の人である。祖父の深は北中郎司馬であった。父の天生は宋の末年に列将となり、 司徒 袁粲 を攻め落とし、その勲功により郡守の位を歴任し、上黄県男に封ぜられた。
王茂が数歳の時、大父の深に異才を見出され、常々「これは我が家の千里駒、門戸を成す者は必ずこの児であろう」と言った。成長すると、兵書を好んで読み、その大旨を究めた。性格は沈潜して交遊せず、身長八尺、潔白で容姿端麗であった。斉の武帝が布衣の時に彼を見て、嘆じて「王茂先は若くして堂堂たる風采、必ず公輔となるであろう」と言った。
後に台郎となったが、累年昇進しなかった。また斉が滅亡することを知り、辺境の職を求めた。久しくして雍州長史・襄陽太守となった。梁の武帝は早くから彼を王佐の器と認め、事の大小を問わず彼に諮った。ある者が王茂が謀反すると讒言したが、帝は信じなかった。讒言する者が繰り返し言うので、その甲冑と矛を視察させると、虫が網を張っていた。そこで讒言者を誅した。あるいは王茂が帝と不仲であると言い、帝の腹心たちは皆、彼を除くよう勧めた。しかし王茂は若い頃から勇猛な名声があり、帝はまたその才を惜しみ、「大事を挙げようとする時に、健将を害するのは上策ではない」と言った。そこで腹心の鄭紹叔を遣わして彼を見舞わせた。鄭紹叔は彼が臥しているのに出会い、病を問うた。王茂は「私の病は大丈夫だ」と言った。紹叔は「都では殺害が日増しに甚だしく、使君の家門は塗炭に苦しんでいる。今、義兵を起こそうとしているのに、長史はどうしてまだ臥しているのか」と言った。王茂は枕を投げ捨てて起き上がり、直ちに袴褶を着て紹叔に従い入見した。武帝は大いに喜び、床から下りて迎え、兄弟の契りを結び、赤心を推されて、遂に力を尽くすこととなった。
雍州より出発し、王茂を前駆として遣わした。郢・魯が平定されると、武帝に従って東下し、軍の先鋒となった。軍が秣陵に駐屯した時、東昏侯は大将王珍国に命じ朱雀門に大軍を集め、その数は二十万と号した。戦いになると、梁武帝の軍は退却した。王茂は下馬して単刀を執りまっしぐらに前進し、甥の韋欣慶は勇力人に絶し、鉄を纏った矛を執って王茂を翼護しながら進んだ。故に大破したのである。王茂の勲功は第一であったが、それは欣慶の力によるものであった。建康城が平定されると、王茂を護軍将軍とし、侍中・領軍将軍に遷した。時に東昏侯の妃潘玉児は国色であった。武帝は彼女を留め置こうと思い、王茂に意見を求めた。王茂は「斉を亡ぼした者はこの者です。留め置けば、恐らく外部の議論を招くでしょう」と言った。帝はそこで彼女を外に出した。軍主の田安が彼女を妻に賜わるよう願い出た。玉児は泣いて言った。「昔は君主に見初められた身、今どうして非類の者に匹儔たりえよう。死して後已むのみ、義として辱しめを受けない」と言った。縊殺されると、潔く美しく生きているようであった。輿に乗せて出されると、尉吏が皆非礼を行おうとした。そこで余妃を王茂に賜ったが、これも潘妃に次ぐものであった。
群盗が神獣門を焼いた時、王茂は率いる兵を率いて応援に赴き、盗賊に射られた。王茂は馬を躍らせて進み、群盗は反って逃げた。王茂は奸盗を遏止できなかったとして、自ら上表して職を解くことを請うたが、詔を優渥にして許さなかった。鎮軍将軍を加えられ、望蔡県公に封ぜられた。
この年、江州刺史陳伯之が叛いた。王茂は外任として江州刺史となり、南征してこれを討った。伯之は魏に奔った。時に九江は戦乱を新たに経たばかりであったが、王茂は農業に努め、徭役を省き、百姓は安堵した。四年、魏が漢中を攻めたので、王茂は詔を受けて西征し防禦した。魏はそこで兵を返した。侍中、中衛将軍、太子詹事、車騎将軍、開府儀同三司、丹陽尹の位を歴任した。時に天下は事なく、武帝は文雅を重んじていた。王茂の心はやや怏怏として、侍宴の際に酔った後は、毎回言葉や表情に現れた。武帝はこれを寛容にし、責めなかった。 司空 に進位した。
王茂の性格は寛厚で、官に在っては美誉こそ無かったが、吏民に安んじられた。居処は方正で、一室に在っても衣冠は整然とし、僕妾といえどもその怠惰な容姿を見ることはなかった。姿形は瑰麗で、鬚眉は絵の如く、衆人の瞻望の的であった。驃騎将軍・開府同三司之儀・江州刺史に転じた。州にあっては俸禄を受け取らず、獄に滞囚はなく、居処や衣服は儒者のようであった。州で薨去した。武帝は大いに悼み惜しみ、詔して太尉を追贈し、諡して忠烈公といった。
初め、王茂は元勲として、武帝より鍾磬の楽を賜わっていた。王茂が州に在った時、夢に鍾磬が架けられていて、故なくして自ら堕ちるのを見、心に嫌った。覚醒して楽を奏させると、既に列を成した時、鍾磬が架けられていて、果たして故なくして編み糸が皆絶えて地に堕ちた。王茂は長史の江詮に言った。「この楽は、天子が労臣を恵み労うためのものである。楽が既に極まったならば、憂いが無くてよいだろうか。」間もなく病没した。
子の貞秀が嗣いだが、喪に在って礼を失ったため、有司に奏劾され、越州に流された。後に詔して広州に留め置かれた。魏の降人杜景と共に州城を襲おうと謀り、刺史蕭昂に斬られた。
曹景宗
曹景宗は字を子震といい、新野の人である。父の欣之は、宋に仕えて徐州刺史の位に至った。
景宗は幼少より騎射を善くし、狩猟を好み、常に少年数十人と沢中で獐鹿を追った。多くの騎手が鹿に向かうと、鹿と馬が入り乱れ、景宗はその中でこれを射る。人々は皆、馬の足に当たることを恐れたが、鹿は弦に応じて即ち斃れ、これを楽しみとした。弱冠に至らず、父の欣之が新野において彼を州から出し、一騎で数人を率いさせた。中路で突然、蛮賊数百に出会い囲まれた。景宗は百余りの矢を帯び、一矢ごとに蛮を殺し、蛮は遂に散走した。これにより胆勇をもって知られた。史書を頗る愛し、穣苴・楽毅の伝を読むごとに、巻を放って嘆息して言うには、「丈夫たる者はかくあるべし」と。若い時、州里の張道門と親しくした。道門は車騎将軍敬児の少子で、武陵太守であった。敬児が誅せられると、道門は郡において法に伏し、親族故吏は敢えて収める者なし。景宗は襄陽より船を武陵に遣わし、その屍を収め、迎えて殯葬した。郷里はこれをもって彼を義士とした。
斉に仕えて軍功により累進して遊撃将軍となった。建武四年、太尉陳顕達に従って北に馬圈を囲み、奇兵二千をもって魏の援軍中山王英の四万人を破った。馬圈を克つと、顕達は功を論じ、景宗を後位とした。景宗は退いて怨言を発さず。魏の孝文帝が大軍を率いて至ると、顕達は夜遁し、景宗は山道に導いたため、顕達父子は全きを得た。
梁の武帝が雍州刺史となると、景宗は深く自ら結び付き、しばしば帝にその宅を臨むよう請うた。時、天下は乱れ始めており、帝も厚く意を加え、竟陵太守に表した。帝が兵を起こすと、景宗は衆を聚め、併せて五服内の子弟三百人を率いて従軍し、親しい者杜思沖を遣わし、先んじて南康王を襄陽に迎えて即位させるよう勧めたが、武帝は従わなかった。竟陵に至ると、景宗を軍鋒とした。道中江寧に次ぎ、東昏侯の将李居士が重兵をもって新亭を鎮守した。景宗は甲を被って馳戦し、居士は甲を棄てて奔走し、景宗はこれを皆獲た。また王茂・呂僧珍と掎角し、大航において王珍国を破った。景宗の軍士は皆、桀黠にして無頼の徒であり、御道の左右は富室に非ざるなく、財物を掠め、子女を略奪したが、景宗はこれを禁じ得なかった。武帝が西城に入って頓すると、厳しく号令を申し、その後ようやく止んだ。城が平らぐと、湘西県侯に封ぜられ、 郢州 刺史を除され、 都督 を加えられた。天監元年、竟陵県侯に改封された。景宗は州にあって、貨を売り聚斂し、城南に宅を起こし、長堤より東、夏口より北に、街を開き門を列ね、東西数里に及んだ。しかし部曲は残横で、人々は頗るこれを厭った。
二年十月、魏が司州を攻め、刺史蔡道恭を囲んだ。城中は板を負って水を汲んだが、景宗は関門を望んで出ず、ただ軍を耀かし遊猟するのみであった。司州城が陥落すると、御史中丞任昉に奏された。帝は功臣を以て問わず、右衛将軍に徴した。
五年、魏の中山王英が鍾離を攻め、徐州刺史昌義之を囲んだ。武帝は景宗に詔して衆軍を督し義之を援げさせ、 豫 州刺史韋叡もまた援軍したが、景宗の節度を受けた。詔して景宗を道人洲に頓させ、衆軍が斉しく集まるを待って俱に進ませた。景宗はその功を専らにせんと欲し、乃ち勅に違いて進み、暴風が突然起こり、多く沈溺する者があり、復た先の頓に還って守った。帝はこれを聞きて言うには、「これ賊を破る所以なり。景宗が進まぬは、蓋し天意か。若し孤軍独り往かば、城は時に立たず、必ず狼狽を見ん。今衆軍の同進を待つを得て、始めて大捷すべし」と。韋叡が至ると、景宗と進んで邵陽洲に頓し、壘を立てて魏の城と相去ること百余歩とした。魏は連戦して却けること能わず、傷殺する者十二三に及び、これより魏軍は敢えて逼らざりき。景宗等の器甲は精新にして、魏人は望んで気を奪われた。魏の将楊大眼は橋の北岸に対し城を立て、糧運を通じた。牧人が毎に岸を過ぎて芻藁を伐つと、皆大眼に略奪された。景宗は乃ち勇敢の士千余人を募り、径ちに大眼の城南数里に度り壘を築き、自ら築きを挙げた。大眼が来攻すると、景宗はこれを破り、因って壘の成るを得た。別将の趙草にこれを守らせ、因って趙草城と謂った。これより後、恣に芻牧して馬を放った。大眼が抄掠を遣わすと、輒ち趙草に獲られた。
先に、景宗等に詔して高艦を預め装わせ、魏の橋と等しくし、火攻の計と為した。景宗と叡に各々一橋を攻めさせた。叡はその南を攻め、景宗はその北を攻めた。六年三月、春水の生ずるに因り、淮水は暴に六七尺長じた。叡はその督する将馮道根・李文釗・裴邃・韋寂等を遣わし、艦に乗って岸に登り、魏の洲上の軍を撃ちて尽く殪した。景宗は衆軍をして復た鼓噪して乱れ諸城に登らせ、呼声は天地を震わし、大眼は西岸に於いて営を焼き、英は東岸より城を棄てて走り、諸壘は相次いで土崩し、悉くその器甲を棄て、争って水に投じて死に、淮水はこれが為に流れざりき。景宗は軍主の馬広に命じ、大眼を濊水上四十余里に躡わしめ、伏屍は枕を相いだ。義之は出でて英を洛口に逐い、英は一騎で梁城に入り、淮に沿う百余里は屍骸相藉けた。虜五万余人を獲、その軍糧器械は山積し、牛馬驢騾は称計すべからざりき。景宗は乃ち得たる生口万余人、馬千匹を捜し、献捷に遣わした。
先に旱魃甚だしく、詔して蔣帝神に祈り雨を求めしも、十旬降らず。帝怒り、荻を載せて蔣廟並びに神影を焚かんと命ず。その日開朗し、火を起こさんとす。神の上に忽ち雲傘の如き有り、倏忽として驟雨の如く写し、台中の宮殿は皆自ら振動す。帝懼れ、馳せて詔を追い停めしむ。少時して還り静かなり。これより帝の畏信遂に深し。践祚以来、未だ嘗て躬自ら廟に到らず、ここに法駕を備え将朝臣を率いて修謁す。この時、魏軍が鍾離を攻め囲みしに、蔣帝神が勅に報い、必ず扶助を許さんとす。既にして雨水無くとも長じ、遂に敵を挫きしも、亦た神の力なり。凱旋の後、廟中の人馬の脚に尽く泥湿有り、当時並びに目撃せり。
景宗が軍を振るい凱旋して入ると、帝は華光殿に於いて宴飲し連句し、左僕射沈約に韻を賦せしむ。景宗は韻を得ず、意色平らかならず、啓して詩を賦するを求む。帝曰く、「卿が伎能は甚だ多く、人才英抜なり、必ずしも一詩に止まること無かれ」と。景宗は既に酔い、作るを求めて已まず、詔して約に韻を賦せしむ。時に韻は既に尽き、唯だ余るは競・病の二字のみ。景宗は便ち筆を操り、斯須にして成る。その辞に曰く、「去る時は児女悲しみ、帰り来たりては笳鼓競う。行路人に借問す、何如ぞ霍去病に」と。帝は嘆息して已まず。約及び朝賢は驚嗟して竟日し、詔して左史に上らしむ。ここに於いて爵を進めて公と為し、侍中・領軍将軍を拝す。
景宗は人となり自ら恃み尚勝をなし、毎に書字を作るに、解せざる有れば、人に問うを以てせず、皆意を以て造り、公卿と雖も推す所無し。唯だ韋叡を以て年長く、且つ州里の勝流なるを以て、特に関り敬重し、同じく宴御筵に在りても、亦た曲躬して謙遜す。武帝はこれに因りて之を嘉した。
景宗は女色を好み、妓妾は数百に及び、錦繡を極めた。性は躁動で、沈黙することができなかった。外出の際には常に車の帷幔を開けようとしたが、左右の者は位望が隆重で、人々が皆見ているから、そうすべきではないと諫めた。景宗は親しい者に言った、「私は昔、郷里にいた時、快馬に乗って龍の如く、若い者数十騎と共に、弓弦を引き絞って霹靂の音を立て、矢は飢えた鳶の叫びの如く、平らな沢で獐を追い、数本の肋骨を射て、渇けばその血を飲み、飢えればその肉を食らい、甘露の漿の如く甘かった。耳の後ろに風が生じ、鼻の先から火が出るのを覚え、この楽しみは人をして死を忘れさせ、老いの将至るを知らしめなかった。今、揚州に来て貴人となり、動くにも転ずるにも自由が得られない。道を行くのに車の幔を開けようとすれば、小人がすぐに不可と言う。車の中に閉じ込められては、三日目の新婦の如く、この鬱々たる気持ちは人をして気力を尽きさせんばかりだ」。人となりは酒を嗜み楽しみを好み、臘月には宅中で人に邪呼をさせて逐除を行い、遍く人家を巡って酒食を乞うた。本来は戯れとしていたが、部下には軽薄な者が多く、人々の婦女を弄び、財貨を奪うことがあった。帝はこれをかなり知っており、景宗は恐れて止めた。
帝はしばしば功臣を宴に招き、共に旧交を語り合った。景宗は酒後に妄言を吐き、時には誤って下官と称した。帝は敢えてこれを咎めず、笑いの種とした。後に江州刺史となり、赴任の途中で卒去した。雍州刺史・開府儀同三司を追贈され、諡して壮といった。子の皎が後を嗣いだ。
景宗は斉の永元の初めに竟陵郡太守に任ぜられた時、その九番目の弟の義宗は年少で、位官がなく、雍州に住んでいた。既に方伯(景宗)の弟であり、また豪強の家門であった。市場の辺りの富人で姓が向の者が現銭百万を以て義宗に付け入ろうとし、妹を娶らせようとした。義宗は人を遣わして書を竟陵に送り景宗に諮った。景宗は書の後に題して答えて言った、「買うことすら未だ得ていないのに、どうして既に売ったと言えようか」。義宗は銭に貪り、遂に縁組を成した。後に武帝に従って西下し、梁・秦二州刺史の位を歴任した。向家の兄弟は曹氏(景宗・義宗の一族)に憑依し、列卿の位に登った。後に義宗が 都督 となり、穣城を征討したが、軍は敗れ、魏に捕らえられ、卒去した。
席闡文
席闡文は、安定郡臨涇県の人である。孤貧であったが、書史に広く通じた。斉の初め、雍州刺史蕭赤斧の中兵参軍となり、これによってその子の穎胄と親しくなった。さらに西中郎中兵参軍を歴任し、城局を領した。梁の武帝が兵を起こそうとした時、闡文は穎胄に同道するよう勧め、さらに客の田祖恭を遣わして密かに帝に報告させ、併せて銀装の刀を献上した。帝は金の如意で答えた。
和帝が尊号を称すると、 衞 尉卿となった。穎胄が急死すると、州府は騒擾した。闡文は和帝が幼弱で、中流の任が重いことから、時に始興王蕭憺が雍部に留まって鎮守していたので、西朝の群臣と共に憺を迎えて州の事を総括させた。故にこれによって寧輯を得たのである。
帝が禅を受けると、都官尚書に任ぜられ、山陽伯に封ぜられ、出向して東陽太守となった。郡において有能な名声があった。冬至には、獄中の囚人を悉く放ち、期日に従って戻って来た。湘西侯に改封された。官の任上で卒去し、諡して威といった。
夏侯詳
夏侯詳は字を叔業といい、譙郡譙県の人である。十六歳の時に父の喪に遭い、喪に服して哀毀し、三年間墓の側に廬を結んだ。かつて三本足の雀がその廬の戸に来て集まったことがあり、人々は皆これを異とした。
宋に仕えて新汲県令となり、政績に異なるものがあった。 豫 州刺史段佛栄が境内に布告を下し、属城の模範とした。中従事史に転じ、さらに別駕に遷った。八人の将軍に仕え、州部で称えられた。
斉の明帝が刺史であった時、大いに器遇された。輔政するに及んで、詳と裴叔業を引き寄せ日夜語り合ったが、詳は応じなかった。帝が叔業に問うと、叔業は詳に告げた。詳は言った、「福の始めとならず、禍の先とならず」。これによって少し忤うところがあった。出向して征虜長史・義陽太守となった。
南康王が荊州刺史となると、詳は西中郎司馬・新興太守となった。梁の武帝が兵を起こすと、長史蕭穎胄は共に大挙を創始したが、詳が同調しないことを慮り、柳忱に告げた。忱は言った、「易しいことです。近頃、詳が婚姻を求めたが許されていません。今、婚姻を成立させてから告げれば、異を立てることを憂うるには及びません」。そこで娘をその子の夔に娶わせた。大事業がまさに建てられようとする時、西台は詳を中領軍とし、 散騎常侍 ・南郡太守を加えた。凡そ軍国の大事は、穎胄は多く詳に決させた。間もなく穎胄が卒去すると、梁武帝の弟の始興王蕭憺が襄陽に留まって守っていたので、詳は使者を遣わして憺を迎え、共に軍国に参じさせた。侍中・尚書右僕射に遷り、まもなく荊州刺史を授けられたが、詳はまた固く憺に譲った。
天監元年、侍中・車騎將軍に徴され、甯都県侯に封ぜられた。詳は累次譲ったので、改めて右光祿大夫を授けられ、侍中は元の如く、親信二十人を与えられ、豊城県公に改封された。三年、湘州刺史に遷った。詳は吏事に長け、州において四年間、百姓に称えられた。州城の南、水に臨むところに峻峰があり、旧来の伝えに、「刺史がこの山に登ればすぐに代わる」と言われ、これによって歴代の政(刺史)は敢えて至らなかった。詳はその地に台榭を築き、僚属を招き、損挹(謙退)の志を表した。後に尚書左僕射・金紫光祿大夫に徴されたが、道中で病没した。上(武帝)は素服で哀悼し、開府儀同三司を追贈し、諡して景といった。子の亶が後を嗣いだ。
詳の子 亶
亶は字を世龍といい、斉の永元の末、父の詳が西中郎南康王司馬となり、府に従って荊州を鎮めたが、亶は都下に留まり、東昏侯の聴政主帥となった。崔慧景が乱を起こすと、亶は防禦の功により、 驍 騎將軍に任ぜられた。梁の武帝が兵を起こすと、詳は長史蕭穎胄と協同し、密かに人を遣わして亶を迎えさせた。亶は宣徳皇后の令を携え、南康王に大統を継承せしめる令を伝えた。建鄴が平定されると、亶を尚書吏部郎とし、まもなく侍中に遷し、璽を奉じて帝に献じた。
天監六年、累進して南郡太守に遷る。父の憂いにより解職し、喪に服して礼を尽くし、墓の側に廬を結び、遺財は悉く諸弟に推譲す。八年、起用されて司州刺史となり、安陸太守を領す。服喪終わり、豊城県公を襲封す。州に在ること甚だ威恵あり、辺境の人々に悦服せらる。都官尚書を歴任し、給事中・右衛将軍に遷る。累進して呉興太守となる。郡に在りてまた恵政あり、吏人はその像を図し、碑を立ててその美を頌す。
普通五年、中護軍となる。六年、大いに挙兵して北侵し、先ず 豫 州刺史裴邃を遣わし、譙州刺史湛僧智らを率いて南道より寿陽を攻めしも、未だ克たずして邃卒す。乃ち亶に使持節を加えて邃に代わり、魏の将軍河間王元琛・臨淮王元彧らと相拒し、頻りに戦いて克捷す。尋で勅ありて合肥に班師し、堰の成るを待ちて復た進む。七年夏、淮堰の水盛んにして、寿陽城将に没せんとす。武帝また北道軍元樹を遣わし、彭宝孫・陳慶之らを率いて稍々進む。亶は湛僧智・魚弘・張澄らを率いて清流澗を通り、将に淮・肥に入らんとす。魏軍は肥を挟んで城を築き、亶の後に出づ。亶は僧智と還りてこれを襲い破る。黎漿を攻め、貞威将軍韋放が北道より会す。両軍既に合し、向かう所皆降り、凡そ城五十二を降し、男女口七万五千人を獲たり。詔して寿陽を以て前代に依り 豫 州を置き、合肥鎮を改めて南 豫 州とし、亶を以て 豫 ・南 豫 二州刺史とし、 都督 を加う。寿春は久しく兵乱に離れ、百姓多く流散す。亶は刑を軽くし賦を薄くし、農に務め役を省き、頃くして人戸充実復興す。州鎮に卒す。帝これを聞き、即日素服して哀を挙げ、車騎将軍を贈り、諡して襄と曰う。州人夏侯簡ら表して亶の為に碑を立て祠を置くことを請う。詔してこれを許す。
亶は風儀美しく、寛厚にして器量あり、文史に渉猟し、専対に能くす。宗人の夏侯溢が衡陽内史となる時、辞する日に、亶は御坐に侍す。帝、亶に謂いて曰く、「夏侯溢は卿に疏近か」と。亶答えて云く、「是れ臣が従弟なり」と。帝、溢が亶に於いて既に疏なるを知り、乃ち曰く、「卿は傖人なり、如何にして族従を弁えざる」と。亶対して曰く、「臣聞く、服属は疏に易し、故に族と言うに忍びざるなり」と。時に以て能しと為す。
亶は六郡三州を歴任し、産業を為さず、禄賜の所得は、随って親故に散ず。性倹率にして、居処服用は充足するのみにて、華侈を事とせず。晚年は頗る音楽を好み、妓妾十数人有り、並びに被服姿容無し。客有る毎に、常に簾を隔ててこれを奏す。時に簾を夏侯妓衣と謂う。子の誼、豊城県公を襲封す。
亶の弟 夔
亶の弟夔、字は季龍、位は大匠卿、累進して司州刺史に遷り、安陸太守を領す。壮武将軍裴之礼・直閣将軍任思祖を率いて義陽道より出で、平静・穆陵・陰山の三関を攻め、これを克つ。時に譙州刺史湛僧智が東 豫 州刺史元慶和を広陵に囲み、その郛に入る。魏の将軍元顕伯が軍を率いて赴援す。僧智は逆撃してこれを破る。夔は武陽より出でて僧智に会し、魏軍の帰路を断つ。慶和は内に柵を築き自ら固め、及び夔の至るに及び遂に降を請う。凡そ男女口一万余人を降す。顕伯これを聞き夜遁す。衆軍これを追虜し二万余人、斬獲数うるに勝えず。是によりて義陽北道は遂に魏と絶つ。及び郢州刺史元願達降るに及び、詔してこれを北司州と改め、夔を以て刺史とし、司州を兼ねて督し、保城県侯に封ず。
中大通六年、 豫 州刺史となり、督を加う。 豫 州は積年連兵し、人多く失業す。夔は乃ち軍人を率いて蒼陵に堰を立て、田千余頃を溉ぎ、歳に谷百余万石を収め、以て儲備を充たし、兼ねて貧人を贍い、境内これに頼る。夔の兄亶先にこの任を経たり。是に至りて夔またここに居る。兄弟並びに恩恵を郷里に有す。百姓歌いて曰く、「我が州有るは、頻りに夏侯を得たり。前は兄、後は弟、布政優優たり」と。夔は州に在ること七年、遠近多くこれに附き、部曲万人、馬二千匹有り、並びに服習精強にして、当時の盛んなりと為す。性奢豪にして、後房の伎妾羅綺を曳き金翠を飾る者百数。人士を愛好し、貴位を以て自ら高くせず、文武の賓客常に満坐す。時またこれを以て称す。州に卒す。諡して桓と曰う。子の撰嗣ぎ、官は太僕卿に至る。
夔の子 譒
撰の弟譒、少より粗険薄行にして、常に郷里に停まり、その父の部曲を領し、州の助防と為る。刺史貞陽侯蕭明、これを引きて府長史と為す。明、魏に囚われ、復た侯景の長史と為る。景反す。譒は前駆として江を済み、兵を士林館に頓え、邸第及び居人の富室を破り、子女財貨尽く略取す。明が州に在りて四妾章・于・王・阮有り、並びに国色たり。明、魏に囚わるるや、その妾並びに都第に還る。譒至りて第を破りこれを納る。
附 魚弘
魚弘、襄陽の人。身長八尺、白澈にして姿容美し。累ねて征討に従い、常に軍鋒と為る。南譙・盱眙・竟陵太守を歴任す。嘗て人に謂いて曰く、「我が郡を為すに四尽有り。水中の魚鱉尽き、山中の獐鹿尽き、田中の米穀尽き、村里の人庶尽く。丈夫の生は軽塵の弱草に棲むが如く、白駒の隙を過ぐるが如し。人生ただ歓楽すべし、富貴は何時に在る」と。是に於いて恣意に酣賞す。侍妾百余り、金翠に勝えず、服翫車馬、皆窮一時の驚絶。眠床一張有り、皆これ蹙柏、四面周匝して一も異なる無く、通用して銀鏤金花の寿福両重を以て脚と為す。
湘東王の鎮西司馬と為り、職を述べて西上す。道中食乏しく、路に沿いて菱を採り、菱米飯を作りて所部に給す。弘の度る所、後人一菱をも得ず。又た窮洲の上に於いて、数百の獼猴を捕え、膊して脯と為し、以て酒食に供す。江陵に及ぶに比し、資食復た振るう。勅に逢い瑞像を迎う。王、像を下都に送ることを令す。弘は部曲数百を率い、悉く錦袍を衣し、赫弈として道に満ち、頗る人の慕う所と為る。塗りて夏首を経る。李抗その為人を斆う。抗の舅元法僧これを聞き、抗を杖つこと三百。後に新興・永寧太守と為り、官に卒す。
吉士瞻
吉士瞻、字は梁容、馮翊蓮勺の人なり。少より志気有り、生業を事とせず。時に征士呉苞その姿容を見て、経学を以て勧む。因りて鮑照の詩を誦して云く、「豎儒一経を守り、未だ行蔵を識るに足らず」と。衣を拂い顧みず。年四十を逾え、忽忽として志を得ず。乃ち江陵の卜者王先生に就きて禄命を計る。王生曰く、「君は旄を擁し節を杖つこと一州に非ず、後一年にして当に戎馬の大郡を得べし」と。及び梁武帝兵を起こすや、義陽太守王撫之・天門太守王智遜・武陵太守蕭強ら並びに命に従わず。鎮軍蕭穎冑、士瞻を遣わしてこれを討平す。斉の和帝即位し、領軍司馬と為す。士瞻少時嘗て南蛮府中に於いて擲博し、褌無くして露はだし、儕輩の侮る所と為る。及び魯休烈の軍を平げ、絹三万疋を得、乃ち百褌を作り、その外は並びに軍士に賜い、以て室に入れず。軍功を以て、輔国将軍・歩兵 校尉 を除く。建康平らぎ、巴東相・建平太守と為る。
初め、士瞻は荊府城局参軍と為り、万人仗庫の防池を浚い、一の金革鉤を得たり。隠起して鏤ること甚だ精巧なり。篆文に曰く、「爾に金鉤を錫し、且つ公且つ侯」と。士瞻は夏侯詳の兄の女を娶る。女窃かにこれを以て詳に与う。詳喜びてこれを佩ぶ。及び是に革命有り、詳果たして侯に封ぜられ、而して士瞻は茅土を錫られず。
天監二年(五〇三)、入朝して直閤将軍となり、秦州・梁州の二州刺史を歴任し、 都督 を加えられた。後に太子右衛率となり、また出向して西陽・武昌の二郡太守となった。郡において清廉倹約であり、家に私的な蓄えはなかった。初め、士瞻は夢で一積みの鹿の皮を得、それを数えると十一枚あった。目覚めて喜んで言うには、「鹿は禄である。私は十一の禄に居るべきであろうか」と。その仕進してから任じられた所は既に九つであり、二郡を除かれると、心にこれを嫌い、病に遇っても治療を肯んじなかった。普通七年(五二六)、郡において卒した。左衛将軍を追贈され、諡して鬍子といった。子の琨は当時軍役にあり、訃報を聞いて一躍して気絶し、久しくしてようやく蘇った。軍制を顧みず、すぐに所部を離れ、これにより孝行で知られた。詔が下りてこれを表彰した。
蔡道恭
蔡道恭は字を懷儉といい、南陽冠軍の人である。父の那は、宋の益州刺史であった。
道恭は若い頃から寛厚で大度量があり、斉に仕えて西中郎中兵参軍となり、輔国将軍を加えられた。梁の武帝が兵を起こすと、蕭穎冑は道恭が平素より威略に優れているとして、特に委任した。斉の和帝が即位すると、右衛将軍となった。出向して司州刺史となった。梁の天監初年、功績により漢壽縣伯に封ぜられ、平北将軍の号を進めた。
三年(五〇四)、魏が司州を包囲した。当時城中の兵は五千人に満たず、食糧は半年分しかなかった。魏軍が攻撃し、昼夜を分かたず、そこで大車に土を積み、四方から一斉に前進し、塹壕を埋めようとした。道恭は塹壕の内側に蒙衝・闘艦を並べて待ち受けた。魏人は進むことができず、また密かに伏道を作って塹壕の水を決壊させようとしたが、道恭は土を積んでこれを塞いだ。百日余り相持し、前後で斬り捕らえた数は計り知れなかった。魏は大いに梯衝を作り、攻囲は日に日に急を告げた。道恭は四石の烏漆大弓を用いて射ると、当たった所は皆鎧を貫き矢羽まで飲み込み、一発で時に二人を貫くこともあり、敵は弓を見るだけで皆萎縮した。また城内に土山を築き、多くの大矟(長矛)を作り、長さ二丈五尺、長い刃を付け、壮士に執らせて魏人を刺させた。魏軍はこれを大いに恐れ、退却しようとした。ちょうど道恭が病篤くなり、兄の子の僧勰、従弟の靈恩および将帥を呼んで言うには、「私の苦しむ勢いは長く続かぬ。汝らは死をもって節を固く守り、我が死後に遺恨を残さぬようにせよ」と。また持っていた節を取って僧勰に授け、「命を受けて疆域を出たが、既に朝廷に奉じて還ることができず、まさにこれを携えて共に逝かんとしている。棺柩に随わせよ」と言った。皆涙を流した。その年五月に卒した。魏は道恭の死を知り、攻撃を一層急にした。先に朝廷は郢州刺史曹景宗を救援に赴かせたが、景宗は前進しなかった。八月に至り、城内の食糧が尽き、魏がこれを陥落させた。鎮西将軍を追贈し、併せて喪櫬(棺)を求め購い求めた。八年(五〇九)、魏は道恭の喪を還すことを許し、その家は女楽(女の楽人)と交換した。襄陽に葬った。封国は孫の固に伝わったが、早世し、封国は除かれた。
楊公則
楊公則は字を君翼といい、天水西縣の人である。父の仲懷は、宋の 豫 州刺史殷琰の将であった。琰が叛くと、輔国将軍劉勔が琰を討ち、仲懷は力戦し、横塘で戦死した。公則は父に従って軍中におり、弱冠に満たぬ年齢で、敵陣を冒して屍を抱き、号哭して気絶し久しくして蘇った。勔は仲懷の首を還すよう命じた。公則は収斂を終えると、徒歩で喪を負って郷里に帰り、これにより著名となった。
後に梁州刺史范柏年が板授(臨時の任命)して宋熙太守とし、白馬戍主を領せしめた。時に氐の賊李烏奴が白馬を攻め、公則は矢尽き糧竭き、賊に陥ったが、声を張り上げて賊を罵った。烏奴はこれを壮とし、共に事を為さんと誘った。公則は偽って許し、これを図ろうとしたが、謀が漏れ、単騎で逃げ帰った。斉の高帝は詔を下して褒め称えた。 晉 壽太守に除かれ、在任中は清廉自守した。扶風太守に遷り、母の憂いで官を去った。雍州刺史陳顯達が起用して甯朔将軍とし、再び太守を領せしめた。間もなく、荊州刺史巴東王子響が乱を構えると、公則は進んで討伐した。事が平定され、武甯太守に遷り、百姓はこれを便利とした。入朝して前軍将軍となった。
和帝が荊州刺史となると、公則は西中郎中兵参軍となった。蕭穎冑が梁の武帝に協同すると、公則を輔国将軍とし、西中郎諮議参軍を領せしめ、兵を率いて東下させた。和帝が即位すると、湘州刺史を授けられた。梁武帝の軍が沔口に駐屯すると、公則は湘州府の兵眾を率いて夏口で合流した。当時荊州の諸軍は悉く公則の節度を受け、蕭穎達のような宗室の貴人であってもその隷下となった。郢城が平定されると、武帝は諸軍に即日俱下を命じ、公則は命を受けて先駆けとなった。江州が既定すると、連旌して東下し、直ちに建鄴に迫った。公則は号令厳明で、秋毫も犯さず、所在の地で頼られない所はなかった。
大軍が新林に至ると、公則は越城から移って領軍府の塁の北楼に屯し、南掖門と相対した。嘗て楼に登って戦いを望見すると、城中から遥かに麾蓋が見え、神鋒弩を放って射ると、矢が胡床を貫き、左右は皆色を失った。公則は「虜はほとんど我が脚に当たるところであった」と言い、談笑して初めの如くであった。東昏侯は夜に勇士を選んで公則の柵を攻め、軍中は驚擾した。公則は堅く臥して起きず、徐に撃つことを命じると、東昏侯の軍は退いた。公則が率いる兵は多くは湘溪の人で、性質懦怯であり、城内の者はこれを軽んじ、容易に対処できると思い、出撃する度に、必ず先ず公則の塁を犯した。公則は軍士を奨励し、克獲はより多かった。城が平定されると、城内から出て来る者は或いは略奪されたが、公則は親しく麾下を率い、陣を列ねて東掖門に立ち、公卿士庶を護衛送迎したので、出て来る者の多くは公則の営を経由した。左将軍の号を進められ、南藩に還って鎮した。
初め、公則が東下した時、湘州部の諸郡は多く未だ従わなかったが、公則が州に還ると、その後諸屯聚は皆散じた。天監元年(五〇二)、平南将軍の号を進められ、甯都縣侯に封ぜられた。湘州は寇乱が累年続き、人は多く流散していた。公則は刑を軽くし賦斂を薄くし、間もなく戸口は充実回復した。政を行うには威厳はなかったが、己を励まし廉慎であり、吏人に喜ばれた。湘州の俗では単門(寒門)の多くは賄賂を以て州の職を求めたが、公則が至ると皆これを断ち、辟召した者は皆州郡の著姓であった。武帝は諸州に下してこれを法とさせた。
三年(五〇四)、中護軍に征された。交代の者が至ると、二艘の舸に乗ってすぐに出発し、送故の贈り物は一切受け取らなかった。 衞 尉卿に遷った。当時朝廷は初めて北侵を議し、公則は威名が平素より著しく、都に至ると、詔により仮節し、先ず洛口に屯した。公則は命を受けて将に出発せんとしたが、疾に罹り、親しい者に言うには、「昔、廉頗・馬援は年老いて見遺されたが、猶みずから力を請いて用いられた。今、国家は我が朽懦を以てせず、前駆として任じている。古人に比べて、知遇は重い。途上で疾苦に臨んでも、どうして努力を惜しんで事を辞しようか。馬革に裹まれて還葬される、これが我が志である」と。遂に強いて起きて舟に登り、洛口に至ると、壽春の士女で帰降する者が数千戸あった。魏の 豫 州刺史薛恭度が長史石榮らを前鋒として派遣し接戦すると、即ち石榮を斬り、敗走を追って壽春に至り、城を去ること数十里にして返った。疾篤く、師中に卒した。武帝は深く痛惜し、即日に哀悼の礼を行い、諡して烈侯といった。
公則は人となり敦厚慈愛であり、家に居ては篤く睦まじく、兄の子を己の子以上に見て、家財を悉く委ねた。性好学であり、軍旅に居ながらも手から巻物を離さず、士大夫はこれをもって称えた。
子の瞟が嗣いだが、罪有りて封国は除かれた。帝は公則が勲臣であるとして、特に庶長子の眺に嗣がせることを聴した。眺は固く辞讓すること数年、乃ち受けた。
鄧元起
鄧元起は字を仲居といい、南郡當陽の人である。若い頃より胆力と才幹があり、性は任俠を好み、斉に仕えて武寧太守となった。梁の武帝が兵を起こすと、蕭穎冑が書を送って招いたので、即日に上道し、兵を率いて武帝と夏口で会合した。斉の和帝が即位すると、広州刺史に任ぜられた。中興元年、益州刺史となり、引き続き前軍を率いた。建康城が平定されると、征虜将軍の号を加えられた。天監の初め、當陽県侯に封ぜられ、ここに初めて職務に就いた。
初め、梁の武帝が挙兵した時、益州刺史の劉季連は両端を持していた。鄧元起が到着すると聞いて、遂に兵を発して守りを拒んだ。元起が巴西に至ると、巴西太守の朱士略は門を開いて迎えた。以前より蜀人は多く逃亡していたが、この時競って出て元起に投じ、皆、起義して朝廷に応じたと称した。元起は道中が長く、軍糧が乏しくなった。ある者が説いて言うには、「蜀郡の政務は緩慢である。もし巴西一郡の戸籍を検査し、それによって罰すれば、得る所は必ず厚いであろう。」元起はこれをよしとした。涪県令の李膺が諫めて言うには、「使君には前に厳しい敵があり、後には継ぐ援軍がない。山の民はようやく付き従い、我が方の徳を見ている。もし厳しく取り締まれば、人々は必ず耐えられない。衆心が一旦離れれば、後悔しても及ばない。李膺は出てこれを図ることを請う。資糧の不足を憂うることはない。」元起は言った、「善い。全て卿に委せよう。」李膺は退き、富人が軍資の米を献上するよう率い、間もなく三万斛を得た。
元起は進んで西平に駐屯し、季連はようやく城を守って自らを守った。当時、益州の兵乱は既に久しく、人々は耕作を廃し、内外苦しんで飢え、人々は多く互いに食らい、道路は断絶した。季連は計略が尽きた。時に翌年、武帝が季連の罪を赦す使者を遣わし、降伏を許すと、季連は即日に城を開いて元起を迎え入れ、元起は季連を建康に送った。
元起は同郷の庾黔婁を録事参軍とし、また荊州刺史蕭遙欣の旧客であった蔣光濟を得て、共に厚く待遇し、州の政務を任せた。黔婁は甚だ清廉潔白であり、光濟は計謀多く、共に善政を行うよう勧めた。元起が季連を平定した時、城内の財宝を私することなく、人事を勧め恤み、口に財や色を論じなかった。性来酒を飲むことができ、一斛飲んでも乱れなかったが、この時は絶ち、蜀土の人々に称えられた。元起の母方の従兄弟の子である梁矜孫は性が軽薄で、庾黔婁と志操行いが異なり、元起に言うには、「城中では三刺史がいると称しています。節下はどうしてこれに堪えられましょうか。」元起はこれによって黔婁を疎んじ、政績は次第に損なわれた。
政に在ること二年、母が老いたので帰って供養することを乞うと、詔はこれを許した。右衛将軍に徴され、西昌侯蕭藻が代わった。時に梁州長史の夏侯道遷が南鄭で叛き、魏の将軍王景胤・孔陵を引き入れ、東・西 晉 壽を攻め、共に告急を遣わした。衆人は元起に急いで救援するよう勧めた。元起は言った、「朝廷は万里の遠く、軍は直ちには至らない。もし寇賊が浸淫すれば、初めて討伐すべきであり、監督の任は、我をおいて他に誰があろうか。何事を急いで催促するのか。」黔婁らが苦諫したが、皆従わなかった。武帝もまた元起に節を仮授し、征討諸軍を 都督 させ、漢中を救おうとした。これに及んで、魏は既に両 晉 壽を攻め落とした。
蕭藻が将に到らんとする時、元起は帰りの装備をかなり整え、糧食の備蓄や器械は少しも残さなかった。蕭藻が城に入り、その良馬を求めた。元起は言った、「若い郎子が、何に馬を用いるのか。」蕭藻は怒り、酔って彼を殺した。元起の麾下は城を囲み、泣きながらその故を問うた。蕭藻は恐れて言った、「天子に詔がある。」衆はようやく散った。遂に反逆の罪を誣で、帝は疑った。有司が追劾して爵土を削り、詔は封邑を半減し、松滋県侯に封じた。旧吏の広漢の羅研が宮闕に詣でてこれを訟うと、帝は言った、「果たして我が量った通りであった。」使者をして蕭藻を譴責させて言った、「元起は汝のために仇を報いた。汝は仇のために仇を報いた。忠孝の道はどうなのか。」乃ち蕭藻の号を冠軍将軍に貶した。元起に征西将軍を追贈し、鼓吹を与え、諡して忠侯といった。
附 羅研
羅研は字を深微といい、若い頃より才弁があった。元起が蜀を平定すると、主簿に辟召され、後に信安県令となった。旧例として観農謁者を置き、桑を囲み田を測り、百姓を労り煩わせた。羅研はその弊害を除くよう請うと、帝は従った。鄱陽忠烈王蕭恢が蜀に臨むと、その名を聞き、別駕に請うた。西昌侯蕭藻が再び刺史となった時、州人は彼のことを恐れたが、羅研は挙止自若であった。侯は言った、「我なくしては卿を容れる者なく、卿なくしては我に仕える者なし。」斉の苟児の役の時、臨汝侯が嘲って言った、「卿ら蜀人は禍を楽しみ乱を貪り、このように至ったのか。」答えて言った、「蜀中の積弊は、実に一朝一夕ではない。百家で一村となっても、食のある家は数家に過ぎず、窮迫した人は十に八九、束縛される使役は旬に二三である。乱を貪り禍を楽しむのは、多く怪しむに足りない。もし家に五母の鶏を飼い、一母の豚を飼い、床に百銭の布被があり、甑に数升の麦飯があれば、たとえ蘇秦・張儀が巧みに説き、韓信・白起が剣を按じて後ろにいても、一人の夫をして盗賊たらしめることはできず、ましてや乱を貪ることなどできようか。」
大通二年、散騎侍郎となった。嗣王の蕭範が西に向かう時、忠烈王蕭恢は言った、「我が昔蜀に在った時、何事も羅研に委せた。汝はこれに従って失うな。」蕭範が到ると、再び別駕とし、堂に升って母を拝し、蜀人はこれを栄誉とした。数年して官で卒した。蜀土で文によって達した者は、羅研と同郡の李膺のみであった。
附 李膺
李膺は字を公胤といい、才弁があった。西昌侯蕭藻が益州となると、主簿とした。都に使いとして至ると、武帝はこれを悦び、言った、「今の李膺は昔の李膺に比べてどうか。」答えて言った、「今は昔に勝ります。」その故を問うと、答えて言った、「昔は桓帝・霊帝の主に仕え、今は堯・舜の君に逢っています。」帝はその答えを嘉し、如意で座席を打つこと久しかった。乃ち益州別駕とした。『益州記』三巻を著し、世に行われた。
初め、元起が荊州に在った時、刺史の随王が元起を板授して従事別駕としたが、庾蓽が堅く執って不可としたので、元起はこれを恨んだ。大軍が都に至ると、庾蓽は城内で甚だ恐れた。城が平定されると、元起は先に人を遣わして庾蓽を迎えさせ、人に語って言った、「庾別駕がもし乱兵に殺されたら、我は自らを明らかにする術がない。」因って厚く物を贈った。若い頃、また嘗てその西沮の田舎家に至った時、沙門が訪ねてきて乞うた。元起には二千斛ほどの稲があったが、全てこれを施した。時に人はこの二つのことを称えて大度であるといった。元起が初めて益州に赴く時、江陵で母を迎えた。母は道教を奉じて館に居り、出ようとしなかった。元起は拝して同行を請うた。母は言った、「汝は貧賤の家の子が突然富貴を得たが、どうして長く保てようか。我は寧ろここで死に、汝と共に禍敗に入ることはできない。」巴東に至ると、蜀の乱を聞き、蔣光濟に占わせると、蹇の卦を得た。喟然として嘆いて言った、「我はどうして鄧艾のようになってこのような目に遭うのか。」後、果たして占いの通りとなった。子の鄧鏗が嗣いだ。
張惠紹
張惠紹は字を徳継といい、義陽の人である。若い頃より武幹があり、斉に仕えて竟陵横桑の戍主となった。母の喪のため郷里に帰った。梁の武帝が兵を起こすと聞き、乃ち自ら帰順し、累ねて戦功があった。武帝が践祚すると、石陽県侯に封ぜられ、 驍 騎将軍・直閤・左細仗主の位にあった。時に東昏侯の余党数百人が南・北掖門に潜入し、夜に神獣門を焼き、衛尉の張弘策を害した。惠紹は馳せて率いる所領を率いて戦いに赴き、賊は散走した。太子右衛率に遷り、軍功によって累ねて爵邑を増やした。衛尉卿、左衛将軍、司州刺史を歴任し、安陸太守を領した。州にあっては温和に治め、吏人は親しみ愛した。征還されて左衛将軍となり、通直 散騎常侍 を加えられ、甲仗百人を付けられ、殿中を直衛した。卒し、諡して忠といった。
惠紹の子 張登
子の登が後を嗣ぐ。数々の戦功を重ね、湛僧智・胡紹世・魚弘とともに当時の 驍 将とされた。官は衛尉卿・太子左衛率を歴任し、任地で卒した。諡は湣。
馮道根
馮道根は字を巨基といい、広平郡酇県の人である。幼くして孤となり、家は貧しく、雇われて働き母を養った。道中で美味な食べ物を得れば、未だ先に食することなく、必ず急いで帰って母に与えた。十三歳の時、孝行で知られた。郡が主簿に召したが、就かず、「私は封侯され廟に祀られるべき者である。どうして文吏などになれようか」と言った。
十六歳の時、同郷の蔡道班が湖陽の戍主となり、蛮の錫城を攻めたが、逆に蛮に包囲された。道根がこれを救い、単騎で転戦し、双剣を提げて左右に奮撃し、殺傷甚だ多く、道班は難を免れた。これにより名を知られた。
斉の建武末、魏の孝文帝が南陽など五郡を陥落させた。明帝は太尉陳顕達を遣わしてこれを争わせた。軍が汮口に入ると、道根は顕達に説いて言った、「汮水は流れが急です。船を全て酇城に捨て、陸路を歩いて進む方がよいでしょう」。顕達は聞き入れず、道根はなお私的に従軍した。顕達が敗れて夜に逃走した時、道根が道を指し示したおかげで全うできた。まもなく汮口の戍副となった。
母の喪のため家に帰った。梁の武帝が兵を起こしたと聞き、親しい者に言った、「金革の礼は古人も避けなかった。後世に名を揚げることは、孝ではないか」。そこで郷人を率いて武帝に帰順し、王茂の配下となり、常に前鋒を務めた。武帝が即位すると、 驍 騎將軍となり、増城県男に封ぜられた。
天監二年、南梁太守となり、阜陵城の守備を兼ねた。初めて阜陵に着くと、城と堀を修築し、遠くまで斥候を出し、敵が来るかのようにした。人々は大いに笑った。道根は言った、「防ぐ時は怯み、戦う時は勇む、というのはこのことだ」。城の修築が未だ終わらないうちに、魏の将党法宗・傅豎眼が二万の兵を率いて突然城下に至り、道根の塹壕と堡塁は固まらず、城中の兵は少なく、誰もが顔色を失った。道根は城門を開けさせ、ゆったりとした服で城に登り、精鋭二百人を選んで出て魏軍と戦い、これを破った。魏軍はそこで退いた。輔国將軍に遷った。
六年、魏が鍾離を攻めると、武帝は 豫 州刺史韋叡に救援を命じた。道根は叡の先鋒となり、徐州に至り、邵陽洲を占拠する計略を立て、堡塁を築き塹壕を掘って魏城に迫った。道根は馬を走らせて土地を測り、馬の歩数で工事量を割り当て、城と堀はたちまち完成した。淮水が増水すると、道根は戦艦に乗って魏軍の連絡橋を断ち切り、魏軍は大敗した。爵位を伯に進められ、 豫 寧県に改封された。八年、 豫 州刺史に任ぜられ、汝陰太守を兼ねた。政治は清廉簡素で、管内は安らかであった。累進して右衛將軍となった。
道根の性格は謹厚で、無口で言葉少なく、将として部下を統制できた。通る村里では、将士は略奪を敢えてしなかった。征伐のたびに終始功績を口にせず、部下の中には不満を言う者もいた。道根は諭して言った、「明主は自ら功の多少を察知される。私が何をしようか」。武帝はかつて道根を指して 尚書令 沈約に示し、その口に勲功を論じないことを称賛した。約は言った、「これは陛下の大樹将軍です」。州郡を歴任するも、和やかで静謐であり、下の者に慕われた。朝廷にあっては貴顕であったが、性格は倹約で、住む邸宅は壁や屋根を修繕せず、器物や服飾、侍 衞 もなく、室内に入れば蕭然として貧賤の素士のようであった。当世はその清廉で退譲な態度に敬服し、武帝もまた大いに重んじた。微賤の時は学ばなかったが、貴くなってから粗く書物を読み、自ら文が少ないと称し、常に周勃の器量を慕った。
十六年、再び 豫 州の任についた。出発に際し、武帝は朝臣を引き連れ武徳殿で道根のために送別の宴を開き、画工を召してその姿を描かせた。道根は恐縮して謝して言った、「臣が国家に報いることができるのは、ただ一死を捧げることのみです。しかし天下が太平で、死に場所がないのが残念です」。 豫 州の地は再び道根を得て、人々は皆喜んだ。武帝はしばしば称して言った、「馮道根がいる所では、朝廷は一州のことを再び思い出す必要がなくなる」。
州にいて間もなく病気にかかり、帰還を願い出た。朝廷は 散騎常侍 ・左軍將軍に召した。任地で卒した。この日、皇帝の車駕は春の祠りで二廟に参り、宮殿を出たところで、役人がその死を報告した。帝は中書舎人朱異に問うた、「吉事と凶事が同日であるが、今行ってもよいか」。異は答えて言った、「昔、柳莊が病臥した時、衛の献公は祭りの最中であったが、屍に請うて言った、『臣の柳莊は、寡人の臣ではなく、社稷の臣である。その死を聞いたので、往きたい』。祭服を脱がずに赴き、そこで衣をかけて弔ったのです。道根はまだ社稷の臣とは言えませんが、王室に功労はあります。臨むのは礼です」。帝はすぐに車駕をその邸宅に向かわせ、慟哭した。諡は威。子の懐が後を嗣ぐ。
康絢
康絢は字を長明といい、華山郡藍田県の人である。その先祖は康居国に出自する。初め、漢が都護を置き西域をことごとく臣下とすると、康居もまた侍子を遣わして河西に詔を待ち、そこで留まって去らず、その後その氏とした。晋の時、隴右が乱れ、藍田に移った。絢の曾祖父の因は苻堅の太子詹事となり、穆を生んだ。穆は姚萇の河南尹となった。宋の永初年中、穆は郷族三千余家を率いて襄陽の峴山の南に入り、宋は華山郡藍田県を置き、襄陽に仮に設置し、穆を秦・梁二州刺史とした。拝命せずに卒した。絢の伯父の元隆、父の元撫はともに流民に推され、相次いで華山太守となった。
絢は若い頃から倜儻として志気があり、斉に仕えて華山太守となり、誠意をもって撫慰し、荒廃した民も喜んで従った。梁の武帝が兵を起こすと、絢は郡を挙げて応じた。天監元年、南陽県男に封ぜられ、竟陵太守に任ぜられた。累進して太子左衛率となり、武装兵百人を率い、領軍の蕭景とともに殿内を守った。絢は身長八尺、容貌は群を抜き、顕職にあってもなお武芸を習った。帝が徳陽殿で馬を走らせて遊ぶ時、絢に馬射を命じると、弦を撫でて的を貫き、見る者は喜んだ。その日、帝は画工に絢の姿を描かせ、中使に持たせて絢に問わせた、「卿はこの絵を識るか」。これほど親しまれたのである。
当時、魏から降った者王足が計略を述べ、淮水に堰を築いて寿陽を水攻めにすることを求めた。足は北方の童謡を引いて言った、「荊山を上格とし、浮山を下格とし、潼沱を激溝とし、ともに鉅野沢を灌ぐ」。帝はこれをよしとし、水工の陳承伯と材官將軍の祖暅に地形を視察させたが、皆、淮水内の砂土は軽く流れやすく堅固でなく、その工事は成就できないと言った。帝は聞き入れず、徐州・揚州の人々を徴発し、二十戸ごとに五丁を取ってこれを築かせた。絢に節を仮授し、淮上諸軍事を 都督 させ、また堰の工事に従事する者と戦士を監督させ、二十万の兵衆をもって、鍾離の南の浮山から北の巉石に至るまで、岸に沿って土を築き、中流で合流させた。十四年四月、堰がまさに合わんとする時、淮水の流れが急で、再び決壊した。人々はこれを憂えた。ある者が言うには、江淮には蛟が多く、風雨に乗じて崖岸を決壊させることができ、その性質は鉄を嫌うと。そこで東西の二冶の鉄器を引き入れ、大は釜や鬲、小は鋘や鋤、数千万斤を堰の場所に沈めたが、なお合わなかった。そこで樹木を伐って井幹とし、巨石を填め、その上に土を加えた。淮に沿う百里の内の岡陵の木石は大小を問わず必ず使い尽くし、担ぐ者は肩が磨り減った。夏には疫病が流行し、死者は枕を並べ、蝿や虫の声が昼夜に響き合った。武帝はこれを哀れみ、尚書右僕射の袁昂と侍中の謝挙に節を仮授して慰労させ、また租税の免除・復除を加えた。この冬は大変寒く、淮・泗はことごとく凍りつき、士卒の死者は十のうち七八に及んだ。帝は衣袴を賜って遣わした。
十一月、魏は将軍楊大眼を派遣し、堰を決壊させるという風説を流した。康絢は諸軍に命じて営舎を撤去し、野営してこれを待った。その子の康悦を遣わして挑戦させ、魏の咸陽王府司馬徐方興を斬り、魏軍は少し退いた。天監十五年四月、堰は完成した。その長さは九里、下幅は百四十丈、上幅は四十五丈、高さは二十丈、深さは十九丈五尺であり、両側を堤防で挟み、共に杞柳を植えた。軍人は安堵し、その上に列居した。その水は清潔で、下を見下ろせば邑居や墳墓が、明らかに皆その下にあるのが見えた。ある者が康絢に言うには、「四瀆は天がその気を調節し宣べるものであり、長く塞ぐことはできない。もし湫(堰の一部)を開鑿して東に注げば、遊波は寛緩となり、堰は壊れずに済むだろう」と。康絢はこれを然りとし、湫を開いて東に注がせた。また魏に対して反間を放ち、「梁が恐れるのは湫を開かれることだ」と言った。魏人はこれを信じ、果たして山を五丈深く鑿ち、湫を開いて北に注がせた。水は日夜分流したが、湫の水はまだ減らなかった。その月、魏軍はついに潰走して帰った。水の及んだ所は、淮水を挟んで方数百里の地に及んだ。魏の寿陽城の戍兵は次第に八公山に移り駐屯した。この南の住民は散り散りになって岡や塚に避難した。
初め、堰は徐州の境界から築き始められた。刺史の張豹子は、自分が必ずその事を主宰するものと思っていた。ところが康絢が他の官として来て監作することとなり、豹子は甚だ慚いた。これにより、豹子は康絢が魏と通じていると讒言した。帝(武帝)は採用しなかったが、それでも事が終わったことを理由に康絢を召還した。まもなく司州刺史に任じ、安陸太守を領した。
康絢が征還されると、張豹子は堰を修繕せず、その秋に至り、淮水が暴漲し、堰は壊れて奔流は海に至り、数万人を殺した。その響きは雷のようで、三百里に聞こえた。水中の怪物が流れに従って下り、あるものは人頭魚身、あるものは龍形馬首で、種類が異なり形状が奇怪で、名を挙げ尽くせなかった。祖揯(堰の工事に関わった者か)は罪に坐して獄に下された。康絢は州において三年の間、城隍を大修し、厳整と号された。
普通元年、衛尉卿に任じられたが、拝命せずに卒去した。輿駕(皇帝)は即日臨哭し、諡して壮といった。康絢は寛和で喜びや恐れが少なく、朝廷において人を見るとまるで言葉が出ないようであり、長厚と号された。省中では寒月ごとに、省官で襤褸の者を見れば、いつも繻衣を贈って与えた。その好施はこのようなものであった。子の康悦が嗣いだ。
昌義之
昌義之は、歴陽郡烏江県の人である。若くして武幹があり、馮翊戍主となった。梁武帝が雍州にいた時、事によって帝に仕え、帝もまた厚く遇した。起兵すると、板授により輔国将軍・軍主となった。戦うごとに必ず勝利した。
天監元年、永豊侯に封ぜられ、累遷して北徐州刺史となり、鍾離を鎮守した。四年、大挙して北へ侵攻し、臨川王蕭宏が衆軍を督して洛口に向かい、義之は前軍として魏の梁城戍を攻め、これを陥れた。五年の冬、武帝は征役が久しいことを以て、詔して班師させた。魏の中山王元英が勢いに乗じて追撃し、馬頭などの城を攻め陥した。城内の糧食貯蔵は、魏が悉く北へ移し帰ったので、議者は皆、再び南に向かうことはないと言った。帝は言った、「これは必ず進軍するものであり、その実ではない」と。そこで鍾離城を修築させ、義之に戦守の備えを命じた。この冬、元英は果たして数十万の衆を率いて鍾離を包囲し、衝車で西の城壁を破壊した。当時城中の兵はわずか三千で、義之が督帥し、状況に応じて抗戦防禦し、前後して殺傷は万を数え、魏軍の死者は城と平らかになった。
六年、帝は曹景宗と韋叡を遣わし、二十万の衆を率いて救援させ、大いに魏軍を破った。義之は軽兵を率いて洛口まで追撃して帰還した。功により軍師将軍の号を進められ、再び 都督 ・南兗州刺史に遷った。禁物を蕃(任地)から出すことで罪に坐し、有司に奏上されて免官された。
十三年、累遷して左衛将軍となった。この冬、帝は太子右衛率康絢を遣わし、衆軍を督して荊山堰を築かせた。魏の将軍李曇定が大衆を率いて荊山に迫り、堰を決壊させると声を揚げた。詔により義之に節を仮し、康絢を救援させたが、軍が到着する前に、康絢らは既に魏軍を破っていた。魏はまた大将軍李平を遣わして硤石を攻撃したので、義之はまた朱衣直閤の王神念を率いてこれを救援した。魏が硤石を陥すと、義之は班師したが、有司に奏上され、帝はその功臣であるとして問わなかった。
十五年、北徐州刺史を授かった。義之は書を識らず、識る字は十を超えなかった。性質は寛厚で、将として人の死力を得ることができた。藩任に居ると、吏民は安んじた。営道県侯に改封された。護軍将軍に徴されたが、官において卒去した。帝は深く痛惜し、諡して烈といった。子の昌宝景が嗣いだ。
論
論じて言う。永元の末季、時に主上は昏狂であったが、荊・雍の二州には、まだ隙がなかった。武皇(梁武帝)の跡は家の酷い出来事に縁り、まず孟津の師を唱え、王茂らは昌期に運を接ぎ、自ら勤王の挙を致した。もし天人が期を啓かなければ、どうしてこのように速やかであり得ただろうか。その隆名と顕級も、またそれぞれ風雲の感会であった。元起は勤めて胥附となり、功はただ国土を開くにあり、労を図らず、禍機に先んじて陥った。冠軍(の位を貶されたこと)の貶は、罰としては既に軽く、梁の政刑はここに失があった。私戚の端緒はここから啓かれ、年寿が永くないのは、また宜なることではなかったか。張惠紹・馮道根・康絢・昌義之の攀附の始め、その功は末であった。群盗が門を焚くに及び、張は力戦して自ら顕著となった。鍾離・邵陽の逼迫においては、馮・昌の労効が居多かった。浮山の役において、康絢は実にその事を主管した。互いにその労があり、寵進は宜しかった。先に鎮星が天江を守ると堰が実に興り、退舎すると決壊した。これは人事であろうか、それは天道である。