南史

巻五十五より巻五十六

巻五十五より巻五十六

南史

巻五十五より巻五十六

列伝第四十五

王茂

原文王茂

王茂は字あざなを休連といい、一字は茂先、太原郡祁県の人である。祖父の深は北中郎司馬であった。父の天生は宋の末年に列将となり、司徒袁粲を攻め落とし、その勲功により郡守の位を歴任し、上黄県男に封ぜられた。

原文王茂字休連,一字茂先,太原祁人也。祖深,北中郎司馬。父天生,宋末爲列將,克司徒袁粲,以勳歷位郡守,封上黃縣男。

王茂が数歳の時、大父の深に異才を見出され、常々「これは我が家の千里駒、門戸を成す者は必ずこの児であろう」と言った。成長すると、兵書を好んで読み、その大旨を究めた。性格は沈潜して交遊せず、身長八尺、潔白で容姿端麗であった。斉の武帝が布衣の時に彼を見て、嘆じて「王茂先は若くして堂堂たる風采、必ず公輔となるであろう」と言った。

原文茂年數歲,爲大父深所異,常曰:「此吾家千里駒,成門戶者必此兒也。」及長,好讀兵書,究其大指。性隱不交遊,身長八尺,潔白美容儀。齊武帝布衣時嘗見之,歎曰:「王茂先年少堂堂如此,必爲公輔。」

後に台郎となったが、累年昇進しなかった。また斉が滅亡することを知り、辺境の職を求めた。久しくして雍州長史・襄陽太守となった。梁の武帝は早くから彼を王佐の器と認め、事の大小を問わず彼に諮った。ある者が王茂が謀反すると讒言したが、帝は信じなかった。讒言する者が繰り返し言うので、その甲冑と矛を視察させると、虫が網を張っていた。そこで讒言者を誅した。あるいは王茂が帝と不仲であると言い、帝の腹心たちは皆、彼を除くよう勧めた。しかし王茂は若い頃から勇猛な名声があり、帝はまたその才を惜しみ、「大事を挙げようとする時に、健将を害するのは上策ではない」と言った。そこで腹心の鄭紹叔を遣わして彼を見舞わせた。鄭紹叔は彼が臥しているのに出会い、病を問うた。王茂は「私の病は大丈夫だ」と言った。紹叔は「都では殺害が日増しに甚だしく、使君の家門は塗炭に苦しんでいる。今、義兵を起こそうとしているのに、長史はどうしてまだ臥しているのか」と言った。王茂は枕を投げ捨てて起き上がり、直ちに袴褶を着て紹叔に従い入見した。武帝は大いに喜び、床から下りて迎え、兄弟の契りを結び、赤心を推されて、遂に力を尽くすこととなった。

原文後爲台郎,累年不調。亦知齊之將亡,求爲邊職。久之,爲雍州長史、襄陽太守。梁武便以王佐許之,事無大小皆詢焉。人或譖茂反,帝弗之信。譖者驟言之,遣視其甲矟,則蟲網焉,乃誅言者。或云茂與帝不睦,帝諸腹心並勸除之。而茂少有驍名,帝又惜其用,曰:「將舉大事,便害健將,此非上策。」乃令腹心鄭紹叔往候之。遇其臥,因問疾。茂曰:「我病可耳。」紹叔曰:「都下殺害日甚,使君家門塗炭,今欲起義,長史那猶臥。」茂因擲枕起,即袴褶隨紹叔入見。武帝大喜,下床迎,因結兄弟,被推赤心,遂得盡力。

雍州より出発し、王茂を前駆として遣わした。郢・魯が平定されると、武帝に従って東下し、軍の先鋒となった。軍が秣陵に駐屯した時、東昏侯は大将王珍国に命じ朱雀門に大軍を集め、その数は二十万と号した。戦いになると、梁武帝の軍は退却した。王茂は下馬して単刀を執りまっしぐらに前進し、甥の韋欣慶は勇力人に絶し、鉄を纏った矛を執って王茂を翼護しながら進んだ。故に大破したのである。王茂の勲功は第一であったが、それは欣慶の力によるものであった。建康城が平定されると、王茂を護軍将軍とし、侍中・領軍将軍に遷した。時に東昏侯の妃潘玉児は国色であった。武帝は彼女を留め置こうと思い、王茂に意見を求めた。王茂は「斉を亡ぼした者はこの者です。留め置けば、恐らく外部の議論を招くでしょう」と言った。帝はそこで彼女を外に出した。軍主の田安が彼女を妻に賜わるよう願い出た。玉児は泣いて言った。「昔は君主に見初められた身、今どうして非類の者に匹儔たりえよう。死して後已むのみ、義として辱しめを受けない」と言った。縊殺されると、潔く美しく生きているようであった。輿に乗せて出されると、尉吏が皆非礼を行おうとした。そこで余妃を王茂に賜ったが、これも潘妃に次ぐものであった。

原文發雍部,遣茂爲前驅。郢、魯既平,從武帝東下爲軍鋒。師次秣陵,東昏遣大將王珍國盛兵朱雀門,眾號二十萬。及戰,梁武軍引卻,茂下馬單刀直前,外甥韋欣慶勇力絶人,執鐵纏矟翼茂而進,故大破之。茂勳第一,欣慶力也。建康城平,以茂爲護軍將軍,遷侍中、領軍將軍。時東昏妃潘玉兒有國色,武帝將留之,以問茂。茂曰:「亡齊者此物,留之恐貽外議。」帝乃出之。軍主田安啟求爲婦,玉兒泣曰:「昔者見遇時主,今豈下匹非類。死而後已,義不受辱。」及見縊,潔美如生。輿出,尉吏俱行非禮。乃以餘妃賜茂,亦潘之亞也。

群盗が神獣門を焼いた時、王茂は率いる兵を率いて応援に赴き、盗賊に射られた。王茂は馬を躍らせて進み、群盗は反って逃げた。王茂は奸盗を遏止できなかったとして、自ら上表して職を解くことを請うたが、詔を優渥にして許さなかった。鎮軍将軍を加えられ、望蔡県公に封ぜられた。

原文群盜之燒神獸門,茂率所領應赴,爲盜所射。茂躍馬而進,群盜反走。茂以不能式遏奸盜,自表解職,優詔不許。加鎮軍將軍,封望蔡縣公。

この年、江州刺史陳伯之が叛いた。王茂は外任として江州刺史となり、南征してこれを討った。伯之は魏に奔った。時に九江は戦乱を新たに経たばかりであったが、王茂は農業に努め、徭役ようえきを省き、百姓は安堵した。四年、魏が漢中を攻めたので、王茂は詔を受けて西征し防禦した。魏はそこで兵を返した。侍中、中衛将軍、太子詹事、車騎将軍、開府儀同三司、丹陽尹の位を歴任した。時に天下は事なく、武帝は文雅を重んじていた。王茂の心はやや怏怏として、侍宴の際に酔った後は、毎回言葉や表情に現れた。武帝はこれを寛容にし、責めなかった。司空に進位した。

原文是歲,江州刺史陳伯之叛,茂出爲江州刺史,南討之。伯之奔魏。時九江新經軍寇,茂務農省役,百姓安之。四年,魏攻漢中,茂受詔西禦,魏乃班師。歷位侍中,中衞將軍,太子詹事,車騎將軍,開府儀同三司,丹陽尹。時天下無事,武帝方敦文雅,茂心頗怏怏,侍宴醉後,每見言色。武帝宥而不責。進位司空。

王茂の性格は寛厚で、官に在っては美誉こそ無かったが、吏民に安んじられた。居処は方正で、一室に在っても衣冠は整然とし、僕妾といえどもその怠惰な容姿を見ることはなかった。姿形は瑰麗で、鬚眉は絵の如く、衆人の瞻望の的であった。驃騎将軍・開府同三司之儀・江州刺史に転じた。州にあっては俸禄を受け取らず、獄に滞囚はなく、居処や衣服は儒者のようであった。州で薨去した。武帝は大いに悼み惜しみ、詔して太尉を追贈し、諡して忠烈公といった。

原文茂性寬厚,居官雖無美譽,亦爲吏人所安。居處方正,在一室衣冠儼然,雖僕妾莫見其惰容。姿表瑰麗,鬚眉如畫,爲眾所瞻望。徙驃騎將軍、開府同三司之儀、江州刺史。在州不取奉,獄無滯囚,居處被服,同於儒者。薨於州。武帝甚悼惜之,詔贈太尉,諡曰忠烈公。

初め、王茂は元勲として、武帝より鍾磬の楽を賜わっていた。王茂が州に在った時、夢に鍾磬が架けられていて、故なくして自ら堕ちるのを見、心に嫌った。覚醒して楽を奏させると、既に列を成した時、鍾磬が架けられていて、果たして故なくして編み糸が皆絶えて地に堕ちた。王茂は長史の江詮に言った。「この楽は、天子が労臣を恵み労うためのものである。楽が既に極まったならば、憂いが無くてよいだろうか。」間もなく病没した。

原文初,茂以元勳,武帝賜鍾磬之樂。茂在州,夢鍾磬在格,無故自墮,心惡之。及覺,命奏樂,既成列,鍾磬在格,果無故編皆絶墮地。茂謂長史江詮曰:「此樂,天子所以惠勞臣也。樂既極矣,能無憂乎。」俄而病卒。

子の貞秀が嗣いだが、喪に在って礼を失ったため、有司に奏劾され、越州に流された。後に詔して広州に留め置かれた。魏の降人杜景と共に州城を襲おうと謀り、刺史蕭昂に斬られた。

原文子貞秀嗣,以居憂無禮,爲有司所奏,徙越州,後詔留廣州。與魏降人杜景欲襲州城,刺史蕭昂斬之。

曹景宗

原文曹景宗

曹景宗は字を子震といい、新野の人である。父の欣之は、宋に仕えて徐州刺史の位に至った。

原文曹景宗字子震,新野人也。父欣之,仕宋位徐州刺史。

景宗は幼少より騎射を善くし、狩猟を好み、常に少年数十人と沢中で獐鹿を追った。多くの騎手が鹿に向かうと、鹿と馬が入り乱れ、景宗はその中でこれを射る。人々は皆、馬の足に当たることを恐れたが、鹿は弦に応じて即ち斃れ、これを楽しみとした。弱冠に至らず、父の欣之が新野において彼を州から出し、一騎で数人を率いさせた。中路で突然、蛮賊数百に出会い囲まれた。景宗は百余りの矢を帯び、一矢ごとに蛮を殺し、蛮は遂に散走した。これにより胆勇をもって知られた。史書を頗る愛し、穣苴・楽毅の伝を読むごとに、巻を放って嘆息して言うには、「丈夫たる者はかくあるべし」と。若い時、州里の張道門と親しくした。道門は車騎将軍敬児の少子で、武陵太守であった。敬児が誅せられると、道門は郡において法に伏し、親族故吏は敢えて収める者なし。景宗は襄陽より船を武陵に遣わし、その屍を収め、迎えて殯葬した。郷里はこれをもって彼を義士とした。

原文景宗幼善騎射,好畋獵,常與少年數十人澤中逐獐鹿,每眾騎赴鹿,鹿馬相亂,景宗於眾中射之,人皆懼中馬足,鹿應弦輒斃,以此爲樂。未弱冠,欣之於新野遣出州,以匹馬將數人,于中路卒逢蠻賊數百圍之。景宗帶百餘箭,每箭殺蠻,蠻遂散走。因以膽勇聞。頗愛史書,每讀穰苴、樂毅傳,輒放卷歎息曰:「丈夫當如是!」少與州里張道門善,道門,車騎將軍敬兒少子也,爲武陵太守。敬兒誅,道門於郡伏法,親屬故吏莫敢收。景宗自襄陽遣船到武陵,收其屍,迎還殯葬。鄕里以此義之。

斉に仕えて軍功により累進して遊撃将軍となった。建武四年、太尉陳顕達に従って北に馬圈を囲み、奇兵二千をもって魏の援軍中山王英の四万人を破った。馬圈を克つと、顕達は功を論じ、景宗を後位とした。景宗は退いて怨言を発さず。魏の孝文帝が大軍を率いて至ると、顕達は夜遁し、景宗は山道に導いたため、顕達父子は全きを得た。

原文仕齊以軍功累加遊擊將軍。建武四年,隨太尉陳顯達北圍馬圈,以奇兵二千破魏援中山王英四萬人。及克馬圈,顯達論功,以景宗爲後。景宗退無怨言。魏孝文率眾大至,顯達宵奔,景宗導入山道,故顯達父子獲全。

梁の武帝が雍州刺史となると、景宗は深く自ら結び付き、しばしば帝にその宅を臨むよう請うた。時、天下は乱れ始めており、帝も厚く意を加え、竟陵太守に表した。帝が兵を起こすと、景宗は衆を聚め、併せて五服内の子弟三百人を率いて従軍し、親しい者杜思沖を遣わし、先んじて南康王を襄陽に迎えて即位させるよう勧めたが、武帝は従わなかった。竟陵に至ると、景宗を軍鋒とした。道中江寧に次ぎ、東昏侯の将李居士が重兵をもって新亭を鎮守した。景宗は甲を被って馳戦し、居士は甲を棄てて奔走し、景宗はこれを皆獲た。また王茂・呂僧珍と掎角し、大航において王珍国を破った。景宗の軍士は皆、桀黠にして無頼の徒であり、御道の左右は富室に非ざるなく、財物を掠め、子女を略奪したが、景宗はこれを禁じ得なかった。武帝が西城に入って頓すると、厳しく号令を申し、その後ようやく止んだ。城が平らぐと、湘西県侯に封ぜられ、郢州えいしゅう刺史を除され、都督を加えられた。天監元年、竟陵県侯に改封された。景宗は州にあって、貨を売り聚斂し、城南に宅を起こし、長堤より東、夏口より北に、街を開き門を列ね、東西数里に及んだ。しかし部曲ぶきょくは残横で、人々は頗るこれを厭った。

原文梁武爲雍州刺史,景宗深自結附,數請帝臨其宅。時天下方亂,帝亦厚加意焉,表爲竟陵太守。及帝起兵,景宗聚眾並率五服內子弟三百人從軍,遣親人杜思沖勸先迎南康王於襄陽即位,武帝不從。及至竟陵,以景宗爲軍鋒。道次江寧,東昏將李居士以重兵鎮新亭,景宗被甲馳戰,居士棄甲奔走,景宗皆獲之。又與王茂、呂僧珍掎角,破王珍國於大航。景宗軍士皆桀黠無賴,御道左右莫非富室,抄掠財物,略奪子女,景宗不能禁。及武帝入頓西城,嚴申號令,然後稍息。城平,封湘西縣侯,除郢州刺史,加都督。天監元年,改封竟陵縣侯。景宗在州,鬻貨聚斂,于城南起宅,長堤以東,夏口以北,開街列門,東西數里。而部曲殘橫,人頗厭之。

二年十月、魏が司州を攻め、刺史蔡道恭を囲んだ。城中は板を負って水を汲んだが、景宗は関門を望んで出ず、ただ軍を耀かし遊猟するのみであった。司州城が陥落すると、御史中丞任昉に奏された。帝は功臣を以て問わず、右衛将軍に徴した。

原文二年十月,魏攻司州,圍刺史蔡道恭。城中負板而汲,景宗望關門不出,但耀軍遊獵而已。及司州城陷,爲御史中丞任昉所奏。帝以功臣不問,徵爲右衞將軍。

五年、魏の中山王英が鍾離を攻め、徐州刺史昌義之を囲んだ。武帝は景宗に詔して衆軍を督し義之を援げさせ、豫州刺史韋叡もまた援軍したが、景宗の節度を受けた。詔して景宗を道人洲に頓させ、衆軍が斉しく集まるを待って俱に進ませた。景宗はその功を専らにせんと欲し、乃ち勅に違いて進み、暴風が突然起こり、多く沈溺する者があり、復た先の頓に還って守った。帝はこれを聞きて言うには、「これ賊を破る所以なり。景宗が進まぬは、蓋し天意か。若し孤軍独り往かば、城は時に立たず、必ず狼狽を見ん。今衆軍の同進を待つを得て、始めて大捷すべし」と。韋叡が至ると、景宗と進んで邵陽洲に頓し、壘を立てて魏の城と相去ること百余歩とした。魏は連戦して却けること能わず、傷殺する者十二三に及び、これより魏軍は敢えて逼らざりき。景宗等の器甲は精新にして、魏人は望んで気を奪われた。魏の将楊大眼は橋の北岸に対し城を立て、糧運を通じた。牧人が毎に岸を過ぎて芻藁を伐つと、皆大眼に略奪された。景宗は乃ち勇敢の士千余人を募り、径ちに大眼の城南数里に度り壘を築き、自ら築きを挙げた。大眼が来攻すると、景宗はこれを破り、因って壘の成るを得た。別将の趙草にこれを守らせ、因って趙草城と謂った。これより後、恣に芻牧して馬を放った。大眼が抄掠を遣わすと、輒ち趙草に獲られた。

原文五年,魏中山王英攻鍾離,圍徐州刺史昌義之,武帝詔景宗督眾軍援義之,豫州刺史韋叡亦援焉,而受景宗節度。詔景宗頓道人洲,待眾軍齊集俱進。景宗欲專其功,乃違敕而進,遇暴風卒起,頗有沈溺,復還守先頓。帝聞之曰:「此所以破賊也。景宗不進,蓋天意乎。若孤軍獨往,城不時立,必見狼狽。今得待眾軍同進,始可大捷矣。」及韋叡至,與景宗進頓邵陽洲,立壘與魏城相去百餘步。魏連戰不能卻,傷殺者十二三,自是魏軍不敢逼。景宗等器甲精新,魏人望而奪氣。魏將楊大眼對橋北岸立城,以通糧運。每牧人過岸伐芻藳,皆爲大眼所略。景宗乃募勇敢士千餘人,徑度大眼城南數里築壘,親自舉築。大眼來攻,景宗破之,因得壘成。使別將趙草守之,因謂爲趙草城。是後恣芻牧馬。大眼遣抄掠,輒爲趙草所獲。

先に、景宗等に詔して高艦を預め装わせ、魏の橋と等しくし、火攻の計と為した。景宗と叡に各々一橋を攻めさせた。叡はその南を攻め、景宗はその北を攻めた。六年三月、春水の生ずるに因り、淮水は暴に六七尺長じた。叡はその督する将馮道根・李文釗・裴邃・韋寂等を遣わし、艦に乗って岸に登り、魏の洲上の軍を撃ちて尽く殪えいした。景宗は衆軍をして復た鼓噪して乱れ諸城に登らせ、呼声は天地を震わし、大眼は西岸に於いて営を焼き、英は東岸より城を棄てて走り、諸壘は相次いで土崩し、悉くその器甲を棄て、争って水に投じて死に、淮水はこれが為に流れざりき。景宗は軍主の馬広に命じ、大眼を濊水上四十余里に躡わしめ、伏屍は枕を相いだ。義之は出でて英を洛口に逐い、英は一騎で梁城に入り、淮に沿う百余里は屍骸相藉けた。虜五万余人を獲、その軍糧器械は山積し、牛馬驢騾は称計すべからざりき。景宗は乃ち得たる生口万余人、馬千匹を捜し、献捷に遣わした。

原文先是,詔景宗等預裝高艦,使與魏橋等,爲火攻計。令景宗與叡各攻一橋。叡攻其南,景宗攻其北。六年三月,因春水生,淮水暴長六七尺。叡遣所督將馮道根、李文釗、裴邃、韋寂等乘艦登岸,擊魏洲上軍盡殪。景宗使眾軍復鼓噪亂登諸城,呼聲震天地,大眼於西岸燒營,英自東岸棄城走,諸壘相次土崩,悉棄其器甲,爭投水死,淮水爲之不流。景宗命軍主馬廣躡大眼至濊水上四十餘里,伏屍相枕。義之出逐英至洛口,英以匹馬入梁城,緣淮百餘里屍骸相藉。虜五萬餘人,收其軍糧器械山積,牛馬驢騾不可稱計。景宗乃搜所得生口萬餘人,馬千匹,遣獻捷。

先に旱魃甚だしく、詔して蔣帝神に祈り雨を求めしも、十旬降らず。帝怒り、荻を載せて蔣廟並びに神影を焚かんと命ず。その日開朗し、火を起こさんとす。神の上に忽ち雲傘の如き有り、倏忽として驟雨の如く写し、台中の宮殿は皆自ら振動す。帝懼れ、馳せて詔を追い停めしむ。少時して還り静かなり。これより帝の畏信遂に深し。践祚以来、未だ嘗て躬自ら廟に到らず、ここに法駕を備え将朝臣を率いて修謁す。この時、魏軍が鍾離を攻め囲みしに、蔣帝神が勅に報い、必ず扶助を許さんとす。既にして雨水無くとも長じ、遂に敵を挫きしも、亦た神の力なり。凱旋の後、廟中の人馬の脚に尽く泥湿有り、当時並びに目撃せり。

原文先是旱甚,詔祈蔣帝神求雨,十旬不降。帝怒,命載荻欲焚蔣廟並神影。爾日開朗,欲起火,當神上忽有雲如傘,倏忽驟雨如寫,台中宮殿皆自振動。帝懼,馳詔追停,少時還靜。自此帝畏信遂深。自踐阼以來,未嘗躬自到廟,於是備法駕將朝臣修謁。是時,魏軍攻圍鍾離,蔣帝神報敕,必許扶助。既而無雨水長,遂挫敵人,亦神之力焉。凱旋之後,廟中人馬腳盡有泥濕,當時並目睹焉。

景宗が軍を振るい凱旋して入ると、帝は華光殿に於いて宴飲し連句し、左僕射沈約に韻を賦せしむ。景宗は韻を得ず、意色平らかならず、啓して詩を賦するを求む。帝曰く、「卿が伎能は甚だ多く、人才英抜なり、必ずしも一詩に止まること無かれ」と。景宗は既に酔い、作るを求めて已まず、詔して約に韻を賦せしむ。時に韻は既に尽き、唯だ余るは競・病の二字のみ。景宗は便ち筆を操り、斯須にして成る。その辞に曰く、「去る時は児女悲しみ、帰り来たりては笳鼓競う。行路人に借問す、何如ぞ霍去病に」と。帝は嘆息して已まず。約及び朝賢は驚嗟して竟日し、詔して左史に上らしむ。ここに於いて爵を進めて公と為し、侍中・領軍将軍を拝す。

原文景宗振旅凱入,帝于華光殿宴飲連句,令左僕射沈約賦韻。景宗不得韻,意色不平,啟求賦詩。帝曰:「卿伎能甚多,人才英拔,何必止在一詩。」景宗已醉,求作不已,詔令約賦韻。時韻已盡,唯餘競病二字。景宗便操筆,斯須而成,其辭曰:「去時兒女悲,歸來笳鼓競。借問行路人,何如霍去病。」帝歎不已。約及朝賢驚嗟竟日,詔令上左史。於是進爵爲公,拜侍中、領軍將軍。

景宗は人となり自ら恃み尚勝をなし、毎に書字を作るに、解せざる有れば、人に問うを以てせず、皆意を以て造り、公卿と雖も推す所無し。唯だ韋叡を以て年長く、且つ州里の勝流なるを以て、特に関り敬重し、同じく宴御筵に在りても、亦た曲躬して謙遜す。武帝はこれに因りて之を嘉した。

原文景宗爲人自恃尚勝,每作書字,有不解,不以問人,皆以意造,雖公卿無所推;唯以韋叡年長,且州里勝流,特相敬重,同宴御筵,亦曲躬謙遜。武帝以此嘉之。

景宗は女色を好み、妓妾は数百に及び、錦繡を極めた。性は躁動で、沈黙することができなかった。外出の際には常に車の帷幔を開けようとしたが、左右の者は位望が隆重で、人々が皆見ているから、そうすべきではないと諫めた。景宗は親しい者に言った、「私は昔、郷里にいた時、快馬に乗って龍の如く、若い者数十騎と共に、弓弦を引き絞って霹靂の音を立て、矢は飢えた鳶の叫びの如く、平らな沢で獐を追い、数本の肋骨を射て、渇けばその血を飲み、飢えればその肉を食らい、甘露の漿の如く甘かった。耳の後ろに風が生じ、鼻の先から火が出るのを覚え、この楽しみは人をして死を忘れさせ、老いの将至るを知らしめなかった。今、揚州に来て貴人となり、動くにも転ずるにも自由が得られない。道を行くのに車の幔を開けようとすれば、小人がすぐに不可と言う。車の中に閉じ込められては、三日目の新婦の如く、この鬱々たる気持ちは人をして気力を尽きさせんばかりだ」。人となりは酒を嗜み楽しみを好み、臘月には宅中で人に邪呼をさせて逐除を行い、遍く人家を巡って酒食を乞うた。本来は戯れとしていたが、部下には軽薄な者が多く、人々の婦女を弄び、財貨を奪うことがあった。帝はこれをかなり知っており、景宗は恐れて止めた。

原文景宗好內,妓妾至數百,窮極錦繡。性躁動,不能沈默。出行常欲褰車帷幔,左右輒諫以位望隆重,人所具瞻,不宜然。景宗謂所親曰:「我昔在鄕里,騎快馬如龍,與年少輩數十騎,拓弓弦作礔靂聲,箭如餓鴟叫,平澤中逐獐,數肋射之,渴飲其血,饑食其脯,甜如甘露漿。覺耳後生風,鼻頭出火,此樂使人忘死,不知老之將至。今來揚州作貴人,動轉不得。路行開車幔,小人輒言不可。閉置車中,如三日新婦,此邑邑使人氣盡。」爲人嗜酒好樂,臘月於宅中使人作邪呼逐除,遍往人家乞酒食。本以爲戲,而部下多剽輕,因弄人婦女,奪人財貨。帝頗知之,景宗懼乃止。

帝はしばしば功臣を宴に招き、共に旧交を語り合った。景宗は酒後に妄言を吐き、時には誤って下官と称した。帝は敢えてこれを咎めず、笑いの種とした。後に江州刺史となり、赴任の途中で卒去した。雍州刺史・開府儀同三司を追贈され、諡して壮といった。子の皎が後を嗣いだ。

原文帝數宴見功臣,共道故舊。景宗酒後謬妄,或誤稱下官。帝故縱之,以爲笑樂。後爲江州刺史,赴任卒於道。贈雍州刺史、開府儀同三司,諡曰壯。子皎嗣。

景宗は斉の永元の初めに竟陵郡太守に任ぜられた時、その九番目の弟の義宗は年少で、位官がなく、雍州に住んでいた。既に方伯(景宗)の弟であり、また豪強の家門であった。市場の辺りの富人で姓が向の者が現銭百万を以て義宗に付け入ろうとし、妹を娶らせようとした。義宗は人を遣わして書を竟陵に送り景宗に諮った。景宗は書の後に題して答えて言った、「買うことすら未だ得ていないのに、どうして既に売ったと言えようか」。義宗は銭に貪り、遂に縁組を成した。後に武帝に従って西下し、梁・秦二州刺史の位を歴任した。向家の兄弟は曹氏(景宗・義宗の一族)に憑依し、列卿の位に登った。後に義宗が都督となり、穣城を征討したが、軍は敗れ、魏に捕らえられ、卒去した。

原文景宗齊永元初任竟陵郡,其第九弟義宗年少,未有位宦,居在雍州。既方伯之弟,又是豪強之門。市邊富人姓向以見錢百萬欲埤義宗,以妹適之。義宗遣人送書竟陵諮景宗,景宗題書後答曰:「買猶未得,云何已賣。」義宗貪鏹遂成。後隨武帝西下,歷位梁、秦二州刺史。向家兄弟憑附曹氏,位登列卿。後義宗爲都督,征穰城,軍敗,見獲于魏,卒。

席闡文

原文席闡文

席闡文は、安定郡臨涇県の人である。孤貧であったが、書史に広く通じた。斉の初め、雍州刺史蕭赤斧の中兵参軍となり、これによってその子の穎胄と親しくなった。さらに西中郎中兵参軍を歴任し、城局を領した。梁の武帝が兵を起こそうとした時、闡文は穎胄に同道するよう勧め、さらに客の田祖恭を遣わして密かに帝に報告させ、併せて銀装の刀を献上した。帝は金の如意で答えた。

原文席闡文,安定臨涇人也。孤貧,涉獵書史。齊初,爲雍州刺史蕭赤斧中兵參軍,由是與其子穎胄善。復曆西中郎中兵參軍,領城局。梁武帝之將起兵,闡文勸穎胄同焉,仍遣客田祖恭私報帝,並獻銀裝刀,帝報以金如意。

和帝が尊号を称すると、衞尉卿となった。穎胄が急死すると、州府は騒擾した。闡文は和帝が幼弱で、中流の任が重いことから、時に始興王蕭憺が雍部に留まって鎮守していたので、西朝の群臣と共に憺を迎えて州の事を総括させた。故にこれによって寧輯を得たのである。

原文和帝稱尊號,爲衞尉卿。穎胄暴卒,州府騷擾,闡文以和帝幼弱,中流任重,時始興王憺留鎮雍部,乃與西朝群臣迎憺總州事,故賴以寧輯。

帝が禅を受けると、都官尚書に任ぜられ、山陽伯に封ぜられ、出向して東陽太守となった。郡において有能な名声があった。冬至には、獄中の囚人を悉く放ち、期日に従って戻って来た。湘西侯に改封された。官の任上で卒去し、諡して威といった。

原文帝受禪,除都官尚書,封山陽伯,出爲東陽太守。在郡有能名。冬至,悉放獄中囚,依期而至。改封湘西侯。卒官,諡曰威。

夏侯詳

原文夏侯詳

夏侯詳は字を叔業といい、譙郡譙県の人である。十六歳の時に父の喪に遭い、喪に服して哀毀し、三年間墓の側に廬を結んだ。かつて三本足の雀がその廬の戸に来て集まったことがあり、人々は皆これを異とした。

原文夏侯詳字叔業,譙郡譙人也。年十六遭父艱,居喪哀毀,三年廬於墓側。嘗有三足雀來集其廬戶,眾咸異焉。

宋に仕えて新汲県令となり、政績に異なるものがあった。豫州刺史段佛栄が境内に布告を下し、属城の模範とした。中従事史に転じ、さらに別駕に遷った。八人の将軍に仕え、州部で称えられた。

原文仕宋爲新汲令,政有異績。豫州刺史段佛榮班下境內,爲屬城表。轉中從事史,仍遷別駕。曆事八將,州部稱之。

斉の明帝が刺史であった時、大いに器遇された。輔政するに及んで、詳と裴叔業を引き寄せ日夜語り合ったが、詳は応じなかった。帝が叔業に問うと、叔業は詳に告げた。詳は言った、「福の始めとならず、禍の先とならず」。これによって少し忤うところがあった。出向して征虜長史・義陽太守となった。

原文齊明帝爲刺史,雅相器遇。及輔政,引詳及裴叔業日夜與語,詳輒不酬。帝以問叔業,叔業以告詳。詳曰:「不爲福始,不爲禍先。」由此微有忤。出爲征虜長史、義陽太守。

南康王が荊州刺史となると、詳は西中郎司馬・新興太守となった。梁の武帝が兵を起こすと、長史蕭穎胄は共に大挙を創始したが、詳が同調しないことを慮り、柳忱に告げた。忱は言った、「易しいことです。近頃、詳が婚姻を求めたが許されていません。今、婚姻を成立させてから告げれば、異を立てることを憂うるには及びません」。そこで娘をその子の夔に娶わせた。大事業がまさに建てられようとする時、西台は詳を中領軍とし、散騎常侍・南郡太守を加えた。凡そ軍国の大事は、穎胄は多く詳に決させた。間もなく穎胄が卒去すると、梁武帝の弟の始興王蕭憺が襄陽に留まって守っていたので、詳は使者を遣わして憺を迎え、共に軍国に参じさせた。侍中・尚書右僕射に遷り、まもなく荊州刺史を授けられたが、詳はまた固く憺に譲った。

原文及南康王爲荊州,詳爲西中郎司馬、新興太守。梁武帝起兵,長史蕭穎胄同創大舉,慮詳不同,以告柳忱。忱曰:「易耳。近詳求昏未之許,令成昏而告之,不憂立異。」於是以女適其子夔。大事方建,西台以詳爲中領軍,加散騎常侍、南郡太守。凡軍國大事,穎胄多決於詳。頃之穎胄卒,梁武弟始興王憺留守襄陽,詳乃遣使迎憺共參軍國。遷侍中、尚書右僕射,尋授荊州刺史,詳又固讓於憺。

天監元年、侍中・車騎將軍に徴され、甯都県侯に封ぜられた。詳は累次譲ったので、改めて右光祿大夫を授けられ、侍中は元の如く、親信二十人を与えられ、豊城県公に改封された。三年、湘州刺史に遷った。詳は吏事に長け、州において四年間、百姓に称えられた。州城の南、水に臨むところに峻峰があり、旧来の伝えに、「刺史がこの山に登ればすぐに代わる」と言われ、これによって歴代の政(刺史)は敢えて至らなかった。詳はその地に台榭を築き、僚属を招き、損挹(謙退)の志を表した。後に尚書左僕射・金紫光祿大夫に徴されたが、道中で病没した。上(武帝)は素服で哀悼し、開府儀同三司を追贈し、諡して景といった。子の亶が後を嗣いだ。

原文天監元年,徵爲侍中、車騎將軍,封甯都縣侯。詳累讓,乃更授右光祿大夫,侍中如故,給親信二十人,改封豐城縣公。三年,遷湘州刺史。詳善吏事,在州四載,爲百姓所稱。州城南臨水有峻峰,舊傳云:「刺史登此山輒代」,由是曆政莫敢至,詳於其地起台榭,延僚屬,以表損挹之志。後徵爲尚書左僕射、金紫光祿大夫,道病卒。上爲素服舉哀,贈開府儀同三司,諡曰景。子亶嗣。

詳の子 亶

原文詳子 亶

亶は字を世龍といい、斉の永元の末、父の詳が西中郎南康王司馬となり、府に従って荊州を鎮めたが、亶は都下に留まり、東昏侯の聴政主帥となった。崔慧景が乱を起こすと、亶は防禦の功により、驍騎將軍に任ぜられた。梁の武帝が兵を起こすと、詳は長史蕭穎胄と協同し、密かに人を遣わして亶を迎えさせた。亶は宣徳皇后の令を携え、南康王に大統を継承せしめる令を伝えた。建鄴が平定されると、亶を尚書吏部郎とし、まもなく侍中に遷し、璽を奉じて帝に献じた。

原文亶字世龍,齊永元末,父詳爲西中郎南康王司馬,隨府鎮荊州,亶留都下,爲東昏聽政主帥。及崔慧景作亂,亶以捍禦功,除驍騎將軍。及梁武起兵,詳與長史蕭穎胄協同,密遣迎亶。亶乃齎宣德皇后令,令南康王纂承大統。建鄴平,以亶爲尚書吏部郎,俄遷侍中,奉璽於帝。

天監六年、累進して南郡太守に遷る。父の憂いにより解職し、喪に服して礼を尽くし、墓の側に廬を結び、遺財は悉く諸弟に推譲す。八年、起用されて司州刺史となり、安陸太守を領す。服喪終わり、豊城県公を襲封す。州に在ること甚だ威恵あり、辺境の人々に悦服せらる。都官尚書を歴任し、給事中・右衛将軍に遷る。累進して呉興太守となる。郡に在りてまた恵政あり、吏人はその像を図し、碑を立ててその美を頌す。

原文天監六年,累遷南郡太守。父憂解職,居喪盡禮,廬於墓側,遺財悉推諸弟。八年,起爲司州刺史,領安陸太守。服闋,襲封豐城縣公。居州甚有威惠,爲邊人悅服。曆都官尚書,遷給事中、右衞將軍。累遷吳興太守。在郡復有惠政,吏人圖其像,立碑頌美焉。

普通五年、中護軍となる。六年、大いに挙兵して北侵し、先ず豫州刺史裴邃を遣わし、譙州刺史湛僧智らを率いて南道より寿陽を攻めしも、未だ克たずして邃卒す。乃ち亶に使持節を加えて邃に代わり、魏の将軍河間王元琛・臨淮王元彧らと相拒し、頻りに戦いて克捷す。尋で勅ありて合肥に班師し、堰の成るを待ちて復た進む。七年夏、淮堰の水盛んにして、寿陽城将に没せんとす。武帝また北道軍元樹を遣わし、彭宝孫・陳慶之らを率いて稍々進む。亶は湛僧智・魚弘・張澄らを率いて清流澗を通り、将に淮・肥に入らんとす。魏軍は肥を挟んで城を築き、亶の後に出づ。亶は僧智と還りてこれを襲い破る。黎漿を攻め、貞威将軍韋放が北道より会す。両軍既に合し、向かう所皆降り、凡そ城五十二を降し、男女口七万五千人を獲たり。詔して寿陽を以て前代に依り豫州を置き、合肥鎮を改めて南豫州とし、亶を以て豫・南豫二州刺史とし、都督を加う。寿春は久しく兵乱に離れ、百姓多く流散す。亶は刑を軽くし賦を薄くし、農に務め役を省き、頃くして人戸充実復興す。州鎮に卒す。帝これを聞き、即日素服して哀を挙げ、車騎将軍を贈り、諡して襄と曰う。州人夏侯簡ら表して亶の為に碑を立て祠を置くことを請う。詔してこれを許す。

原文普通五年,爲中護軍。六年,大舉北侵,先遣豫州刺史裴邃帥譙州刺史湛僧智等自南道攻壽陽,未克而邃卒,乃加亶使持節代邃,與魏將河間王琛、臨淮王彧等相拒,頻戰克捷。尋敕班師合肥,須堰成復進。七年夏,淮堰水盛,壽陽城將沒,武帝復遣北道軍元樹帥彭寶孫、陳慶之等稍進。亶帥湛僧智、魚弘、張澄等通清流澗將入淮、肥。魏軍夾肥築城出亶後,亶與僧智還襲破之。進攻黎漿,貞威將軍韋放自北道會焉。兩軍既合,所向皆降,凡降城五十二,獲男女口七萬五千人。詔以壽陽依前代置豫州,合肥鎮改爲南豫州,以亶爲豫、南豫二州刺史,加都督。壽春久離兵荒,百姓多流散,亶輕刑薄賦,務農省役,頃之人戶充復。卒於州鎮。帝聞之,即日素服舉哀,贈車騎將軍,諡曰襄。州人夏侯簡等表請爲亶立碑置祠,詔許之。

亶は風儀美しく、寛厚にして器量あり、文史に渉猟し、専対に能くす。宗人の夏侯溢が衡陽内史となる時、辞する日に、亶は御坐に侍す。帝、亶に謂いて曰く、「夏侯溢は卿に疏近か」と。亶答えて云く、「是れ臣が従弟なり」と。帝、溢が亶に於いて既に疏なるを知り、乃ち曰く、「卿は傖人なり、如何にして族従を弁えざる」と。亶対して曰く、「臣聞く、服属は疏に易し、故に族と言うに忍びざるなり」と。時に以て能しと為す。

原文亶美風儀,寬厚有器量,涉獵文史,能專對。宗人夏侯溢爲衡陽內史,辭日,亶侍御坐,帝謂亶曰:「夏侯溢於卿疏近?」亶答云:「是臣從弟。」帝知溢於亶已疏,乃曰:「卿傖人,如何不辨族從?」亶對曰:「臣聞服屬易疏,所以不忍言族。」時以爲能。

亶は六郡三州を歴任し、産業を為さず、禄賜の所得は、随って親故に散ず。性倹率にして、居処服用は充足するのみにて、華侈を事とせず。晚年は頗る音楽を好み、妓妾十数人有り、並びに被服姿容無し。客有る毎に、常に簾を隔ててこれを奏す。時に簾を夏侯妓衣と謂う。子の誼、豊城県公を襲封す。

原文亶曆六郡三州,不爲產業,祿賜所得,隨散親故。性儉率,居處服用充足而已,不事華侈。晚年頗好音樂,有妓妾十數人,並無被服姿容。每有客,常隔簾奏之,時謂簾爲夏侯妓衣。子誼襲封豐城縣公。

亶の弟 夔

原文亶弟 夔

亶の弟夔、字は季龍、位は大匠卿、累進して司州刺史に遷り、安陸太守を領す。壮武将軍裴之礼・直閣将軍任思祖を率いて義陽道より出で、平静・穆陵・陰山の三関を攻め、これを克つ。時に譙州刺史湛僧智が東豫州刺史元慶和を広陵に囲み、その郛に入る。魏の将軍元顕伯が軍を率いて赴援す。僧智は逆撃してこれを破る。夔は武陽より出でて僧智に会し、魏軍の帰路を断つ。慶和は内に柵を築き自ら固め、及び夔の至るに及び遂に降を請う。凡そ男女口一万余人を降す。顕伯これを聞き夜遁す。衆軍これを追虜し二万余人、斬獲数うるに勝えず。是によりて義陽北道は遂に魏と絶つ。及び郢州刺史元願達降るに及び、詔してこれを北司州と改め、夔を以て刺史とし、司州を兼ねて督し、保城県侯に封ず。

原文亶弟夔字季龍,位大匠卿,累遷司州刺史,領安陸太守。帥壯武將軍裴之禮、直閣將軍任思祖出義陽道,攻平靜、穆陵、陰山三關,克之。時譙州刺史湛僧智圍東豫州刺史元慶和於廣陵,入其郛。魏將元顯伯率軍赴援,僧智逆擊破之。夔自武陽出會僧智,斷魏軍歸路。慶和於內築柵自固,及夔至遂請降,凡降男女口萬餘人。顯伯聞之夜遁,眾軍追虜二萬餘人,斬獲不可勝數,由是義陽北道遂與魏絶。及郢州刺史元願達降,詔改爲北司州,以夔爲刺史,兼督司州,封保城縣侯。

中大通六年、豫州刺史となり、督を加う。豫州は積年連兵し、人多く失業す。夔は乃ち軍人を率いて蒼陵に堰を立て、田千余頃を溉ぎ、歳に谷百余万石を収め、以て儲備を充たし、兼ねて貧人を贍い、境内これに頼る。夔の兄亶先にこの任を経たり。是に至りて夔またここに居る。兄弟並びに恩恵を郷里に有す。百姓歌いて曰く、「我が州有るは、頻りに夏侯を得たり。前は兄、後は弟、布政優優たり」と。夔は州に在ること七年、遠近多くこれに附き、部曲万人、馬二千匹有り、並びに服習精強にして、当時の盛んなりと為す。性奢豪にして、後房の伎妾羅綺を曳き金翠を飾る者百数。人士を愛好し、貴位を以て自ら高くせず、文武の賓客常に満坐す。時またこれを以て称す。州に卒す。諡して桓と曰う。子の撰嗣ぎ、官は太僕卿に至る。

原文中大通六年,爲豫州刺史,加督。豫州積歲連兵,人頗失業,夔乃率軍人于蒼陵立堰,溉田千餘頃,歲收谷百餘萬石,以充儲備,兼贍貧人,境內賴之。夔兄亶先經此任,至是夔又居焉,兄弟並有恩惠於鄕里。百姓歌曰:「我之有州,頻得夏侯。前兄後弟,布政優優。」夔在州七年,遠近多附之,有部曲萬人,馬二千匹,並服習精強,爲當時之盛。性奢豪,後房伎妾曳羅綺飾金翠者百數。愛好人士,不以貴位自高,文武賓客常滿坐,時亦以此稱之。卒於州,諡曰桓。子撰嗣,官至太僕卿。

夔の子 譒

原文夔子 譒

撰の弟譒、少より粗険薄行にして、常に郷里に停まり、その父の部曲を領し、州の助防と為る。刺史貞陽侯蕭明、これを引きて府長史と為す。明、魏に囚われ、復た侯景の長史と為る。景反す。譒は前駆として江を済み、兵を士林館に頓え、邸第及び居人の富室を破り、子女財貨尽く略取す。明が州に在りて四妾章・于・王・阮有り、並びに国色たり。明、魏に囚わるるや、その妾並びに都第に還る。譒至りて第を破りこれを納る。

原文撰弟譒,少粗險薄行,常停鄕里,領其父部曲,爲州助防。刺史貞陽侯明引爲府長史。明被魏囚,復爲侯景長史。景反,譒前驅濟江,頓兵士林館,破邸第及居人富室,子女財貨盡略有之。明在州有四妾章、于、王、阮,並有國色。明被魏囚,其妾並還都第,譒至破第納焉。

附 魚弘

原文附 魚弘

魚弘、襄陽の人。身長八尺、白澈にして姿容美し。累ねて征討に従い、常に軍鋒と為る。南譙・盱眙・竟陵太守を歴任す。嘗て人に謂いて曰く、「我が郡を為すに四尽有り。水中の魚鱉尽き、山中の獐鹿尽き、田中の米穀尽き、村里の人庶尽く。丈夫の生は軽塵の弱草に棲むが如く、白駒の隙を過ぐるが如し。人生ただ歓楽すべし、富貴は何時に在る」と。是に於いて恣意に酣賞す。侍妾百余り、金翠に勝えず、服翫車馬、皆窮一時の驚絶。眠床一張有り、皆これ蹙柏、四面周匝して一も異なる無く、通用して銀鏤金花の寿福両重を以て脚と為す。

原文魚弘,襄陽人。身長八尺,白澈美姿容。累從征討,常爲軍鋒。曆南譙、盱眙、竟陵太守。嘗謂人曰:「我爲郡有四盡:水中魚鱉盡,山中獐鹿盡,田中米穀盡,村里人庶盡。丈夫生如輕塵棲弱草,白駒之過隙。人生但歡樂,富貴在何時。」於是恣意酣賞。侍妾百餘人,不勝金翠,服翫車馬,皆窮一時之驚絶。有眠床一張,皆是蹙柏,四面周匝,無一有異,通用銀鏤金花壽福兩重爲腳。

湘東王の鎮西司馬と為り、職を述べて西上す。道中食乏しく、路に沿いて菱を採り、菱米飯を作りて所部に給す。弘の度る所、後人一菱をも得ず。又た窮洲の上に於いて、数百の獼猴を捕え、膊して脯と為し、以て酒食に供す。江陵に及ぶに比し、資食復た振るう。勅に逢い瑞像を迎う。王、像を下都に送ることを令す。弘は部曲数百を率い、悉く錦袍を衣し、赫弈として道に満ち、頗る人の慕う所と為る。塗りて夏首を経る。李抗その為人を斆う。抗の舅元法僧これを聞き、抗を杖つこと三百。後に新興・永寧太守と為り、官に卒す。

原文爲湘東王鎮西司馬,述職西上,道中乏食,緣路采菱,作菱米飯給所部。弘度之所,後人覓一菱不得。又於窮洲之上,捕得數百獼猴,膊以爲脯,以供酒食。比及江陵,資食復振。逢敕迎瑞像,王令送像下都,弘率部曲數百,悉衣錦袍,赫弈滿道,頗爲人所慕。塗經夏首,李抗斅其爲人,抗舅元法僧聞之,杖抗三百。後爲新興、永甯太守,卒官。

吉士瞻

原文吉士瞻

吉士瞻、字は梁容、馮翊蓮勺の人なり。少より志気有り、生業を事とせず。時に征士呉苞その姿容を見て、経学を以て勧む。因りて鮑照の詩を誦して云く、「豎儒一経を守り、未だ行蔵を識るに足らず」と。衣を拂い顧みず。年四十を逾え、忽忽として志を得ず。乃ち江陵の卜者王先生に就きて禄命を計る。王生曰く、「君は旄を擁し節を杖つこと一州に非ず、後一年にして当に戎馬の大郡を得べし」と。及び梁武帝兵を起こすや、義陽太守王撫之・天門太守王智遜・武陵太守蕭強ら並びに命に従わず。鎮軍蕭穎冑、士瞻を遣わしてこれを討平す。斉の和帝即位し、領軍司馬と為す。士瞻少時嘗て南蛮府中に於いて擲博し、褌無くして露はだし、儕輩の侮る所と為る。及び魯休烈の軍を平げ、絹三万疋を得、乃ち百褌を作り、その外は並びに軍士に賜い、以て室に入れず。軍功を以て、輔国将軍・歩兵校尉を除く。建康平らぎ、巴東相・建平太守と為る。

原文吉士瞻字梁容,馮翊蓮勺人也。少有志氣,不事生業。時征士吳苞見其姿容,勸以經學,因誦鮑照詩云:「豎儒守一經,未足識行藏。」拂衣不顧。年逾四十,忽忽不得志,乃就江陵卜者王先生計祿命,王生曰:「君擁旄杖節非一州,後一年當得戎馬大郡。」及梁武起兵,義陽太守王撫之、天門太守王智遜、武陵太守蕭強等並不從命,鎮軍蕭穎胄遣士瞻討平之。齊和帝即位,以爲領軍司馬。士瞻少時嘗于南蠻府中擲博,無褌褰露,爲儕輩所侮。及平魯休烈軍,得絹三萬疋,乃作百褌,其外並賜軍士,不以入室。以軍功,除輔國將軍、步兵校尉。建康平,爲巴東相、建平太守。

初め、士瞻は荊府城局参軍と為り、万人仗庫の防池を浚い、一の金革鉤を得たり。隠起して鏤ること甚だ精巧なり。篆文に曰く、「爾に金鉤を錫し、且つ公且つ侯」と。士瞻は夏侯詳の兄の女を娶る。女窃かにこれを以て詳に与う。詳喜びてこれを佩ぶ。及び是に革命有り、詳果たして侯に封ぜられ、而して士瞻は茅土を錫られず。

原文初,士瞻爲荊府城局參軍,浚萬人仗庫防池,得一金革鉤,隱起鏤甚精巧。篆文曰:「錫爾金鉤,且公且侯。」士瞻娶夏侯詳兄女,女竊以與詳,詳喜佩之。及是革命,詳果封侯,而士瞻不錫茅土。

天監二年(五〇三)、入朝して直閤将軍となり、秦州・梁州の二州刺史を歴任し、都督を加えられた。後に太子右衛率となり、また出向して西陽・武昌の二郡太守となった。郡において清廉倹約であり、家に私的な蓄えはなかった。初め、士瞻は夢で一積みの鹿の皮を得、それを数えると十一枚あった。目覚めて喜んで言うには、「鹿は禄である。私は十一の禄に居るべきであろうか」と。その仕進してから任じられた所は既に九つであり、二郡を除かれると、心にこれを嫌い、病に遇っても治療を肯んじなかった。普通七年(五二六)、郡において卒した。左衛将軍を追贈され、諡して鬍子といった。子の琨は当時軍役にあり、訃報を聞いて一躍して気絶し、久しくしてようやく蘇った。軍制を顧みず、すぐに所部を離れ、これにより孝行で知られた。詔が下りてこれを表彰した。

原文天監二年,入爲直合將軍,歷位秦、梁二州刺史,加都督。後爲太子右衞率,又出爲西陽、武昌二郡太守。在郡清約,家無私積。始士瞻夢得一積鹿皮,從而數之,有十一領。及覺喜曰:「鹿者祿也,吾當居十一祿乎。」自其仕進所蒞已九,及除二郡,心惡之,遇疾不肯療。普通七年卒於郡,贈左衞將軍,諡曰鬍子。子琨時在戎役,聞問一踴而絶,良久乃蘇。不顧軍制,輒離所部,遂以孝聞。詔下旌異。

蔡道恭

原文蔡道恭

蔡道恭は字を懷儉といい、南陽冠軍の人である。父の那は、宋の益州刺史であった。

原文蔡道恭字懷儉,南陽冠軍人也。父那,宋益州刺史。

道恭は若い頃から寛厚で大度量があり、斉に仕えて西中郎中兵参軍となり、輔国将軍を加えられた。梁の武帝が兵を起こすと、蕭穎冑は道恭が平素より威略に優れているとして、特に委任した。斉の和帝が即位すると、右衛将軍となった。出向して司州刺史となった。梁の天監初年、功績により漢壽縣伯に封ぜられ、平北将軍の号を進めた。

原文道恭少寬厚有大量,仕齊爲西中郎中兵參軍,加輔國將軍。梁武帝起兵,蕭穎胄以道恭素著威略,專相委任。齊和帝即位,爲右衞將軍。出爲司州刺史。梁天監初,論功封漢壽縣伯,進號平北將軍。

三年(五〇四)、魏が司州を包囲した。当時城中の兵は五千人に満たず、食糧は半年分しかなかった。魏軍が攻撃し、昼夜を分かたず、そこで大車に土を積み、四方から一斉に前進し、塹壕を埋めようとした。道恭は塹壕の内側に蒙衝・闘艦を並べて待ち受けた。魏人は進むことができず、また密かに伏道を作って塹壕の水を決壊させようとしたが、道恭は土を積んでこれを塞いだ。百日余り相持し、前後で斬り捕らえた数は計り知れなかった。魏は大いに梯衝を作り、攻囲は日に日に急を告げた。道恭は四石の烏漆大弓を用いて射ると、当たった所は皆鎧を貫き矢羽まで飲み込み、一発で時に二人を貫くこともあり、敵は弓を見るだけで皆萎縮した。また城内に土山を築き、多くの大矟(長矛)を作り、長さ二丈五尺、長い刃を付け、壮士に執らせて魏人を刺させた。魏軍はこれを大いに恐れ、退却しようとした。ちょうど道恭が病篤くなり、兄の子の僧勰、従弟の靈恩および将帥を呼んで言うには、「私の苦しむ勢いは長く続かぬ。汝らは死をもって節を固く守り、我が死後に遺恨を残さぬようにせよ」と。また持っていた節を取って僧勰に授け、「命を受けて疆域を出たが、既に朝廷に奉じて還ることができず、まさにこれを携えて共に逝かんとしている。棺柩に随わせよ」と言った。皆涙を流した。その年五月に卒した。魏は道恭の死を知り、攻撃を一層急にした。先に朝廷は郢州刺史曹景宗を救援に赴かせたが、景宗は前進しなかった。八月に至り、城内の食糧が尽き、魏がこれを陥落させた。鎮西将軍を追贈し、併せて喪櫬(棺)を求め購い求めた。八年(五〇九)、魏は道恭の喪を還すことを許し、その家は女楽(女の楽人)と交換した。襄陽に葬った。封国は孫の固に伝わったが、早世し、封国は除かれた。

原文三年,魏圍司州,時城中眾不滿五千人,食裁半歲。魏軍攻之,晝夜不息,乃作大車載土,四面俱前,欲以填塹。道恭塹內列艨艟鬥艦以待之。魏人不得進,又潛作伏道以決塹水,道恭載土屯塞之。相持百餘日,前後斬獲不可勝計。魏大造梯沖,攻圍日急。道恭用四石烏漆大弓射,所中皆洞甲飲羽,一發或貫兩人,敵人望弓皆靡。又于城內作土山,多作大矟,長二丈五尺,施長刃,使壯士執以刺魏人。魏軍甚憚之,將退。會道恭疾篤,乃呼兄子僧勰、從弟靈恩及將率謂曰:「吾所苦勢不能久,汝等當以死固節,無令吾沒有遺恨。」又令取所持節授僧勰曰:「稟命出疆,既不得奉以還朝,方欲攜之同逝。可與棺柩相隨。」眾皆流涕。其年五月卒。魏知道恭死,攻之轉急。先是,朝廷遣郢州刺史曹景宗赴援,景宗不前。至八月,城內糧盡,魏克之。贈鎮西將軍,並尋購喪櫬。八年,魏許還道恭喪,其家以女樂易之。葬襄陽。傳國至孫固,早卒,國除。

楊公則

原文楊公則

楊公則は字を君翼といい、天水西縣の人である。父の仲懷は、宋の豫州刺史殷琰の将であった。琰が叛くと、輔国将軍劉勔が琰を討ち、仲懷は力戦し、横塘で戦死した。公則は父に従って軍中におり、弱冠に満たぬ年齢で、敵陣を冒して屍を抱き、号哭して気絶し久しくして蘇った。勔は仲懷の首を還すよう命じた。公則は収斂を終えると、徒歩で喪を負って郷里に帰り、これにより著名となった。

原文楊公則字君翼,天水西縣人也。父仲懷,爲宋豫州刺史殷琰將。琰叛,輔國將軍劉勉討琰,仲懷力戰,死於橫塘。公則隨父在軍,年未弱冠,冒陣抱屍,號哭氣絶良久。勉命還仲懷首。公則斂畢,徒步負喪歸鄕里,由此著名。

後に梁州刺史范柏年が板授(臨時の任命)して宋熙太守とし、白馬戍主を領せしめた。時に氐の賊李烏奴が白馬を攻め、公則は矢尽き糧竭き、賊に陥ったが、声を張り上げて賊を罵った。烏奴はこれを壮とし、共に事を為さんと誘った。公則は偽って許し、これを図ろうとしたが、謀が漏れ、単騎で逃げ帰った。斉の高帝は詔を下して褒め称えた。晉壽太守に除かれ、在任中は清廉自守した。扶風太守に遷り、母の憂いで官を去った。雍州刺史陳顯達が起用して甯朔将軍とし、再び太守を領せしめた。間もなく、荊州刺史巴東王子響が乱を構えると、公則は進んで討伐した。事が平定され、武甯太守に遷り、百姓はこれを便利とした。入朝して前軍将軍となった。

原文後梁州刺史范柏年板爲宋熙太守、領白馬戍主。時氐賊李烏奴攻白馬,公則矢盡糧竭,陷於寇,抗聲罵賊,烏奴壯之,耍與同事。公則偽許而圖之,謀泄,單馬逃歸。齊高帝下詔褒美。除晉壽太守,在任清潔自守。遷扶風太守,母憂去官。雍州刺史陳顯達起爲甯朔將軍,復領太守。頃之,荊州刺史巴東王子響構亂,公則進討。事平,遷武甯太守,百姓便之。入爲前軍將軍。

和帝が荊州刺史となると、公則は西中郎中兵参軍となった。蕭穎冑が梁の武帝に協同すると、公則を輔国将軍とし、西中郎諮議参軍を領せしめ、兵を率いて東下させた。和帝が即位すると、湘州刺史を授けられた。梁武帝の軍が沔口に駐屯すると、公則は湘州府の兵眾を率いて夏口で合流した。当時荊州の諸軍は悉く公則の節度を受け、蕭穎達のような宗室の貴人であってもその隷下となった。郢城が平定されると、武帝は諸軍に即日俱下を命じ、公則は命を受けて先駆けとなった。江州が既定すると、連旌して東下し、直ちに建鄴に迫った。公則は号令厳明で、秋毫も犯さず、所在の地で頼られない所はなかった。

原文和帝爲荊州刺史,公則爲西中郎中兵參軍。及蕭穎胄協同梁武,以公則爲輔國將軍,領西中郎諮議參軍,率兵東下。和帝即位,授湘州刺史。梁武軍次沔口,公則率湘府之眾會于夏口。時荊州諸軍悉受公則節度,雖蕭穎達宗室之貴亦隸焉。郢城平,武帝命眾軍即日俱下,公則受命先驅。江州既定,連旌東下,直造建鄴。公則號令嚴明,秋豪不犯,所在莫不賴焉。

大軍が新林に至ると、公則は越城から移って領軍府の塁の北楼に屯し、南掖門と相対した。嘗て楼に登って戦いを望見すると、城中から遥かに麾蓋が見え、神鋒弩を放って射ると、矢が胡床を貫き、左右は皆色を失った。公則は「虜はほとんど我が脚に当たるところであった」と言い、談笑して初めの如くであった。東昏侯は夜に勇士を選んで公則の柵を攻め、軍中は驚擾した。公則は堅く臥して起きず、徐に撃つことを命じると、東昏侯の軍は退いた。公則が率いる兵は多くは湘溪の人で、性質懦怯であり、城内の者はこれを軽んじ、容易に対処できると思い、出撃する度に、必ず先ず公則の塁を犯した。公則は軍士を奨励し、克獲はより多かった。城が平定されると、城内から出て来る者は或いは略奪されたが、公則は親しく麾下を率い、陣を列ねて東掖門に立ち、公卿士庶を護衛送迎したので、出て来る者の多くは公則の営を経由した。左将軍の号を進められ、南藩に還って鎮した。

原文大軍至新林,公則自越城移屯領軍府壘北樓,與南掖門相對。嘗登樓望戰,城中遙見麾蓋,縱神鋒弩射之,矢貫胡床,左右皆失色。公則曰:「虜幾中吾腳。」談笑如初。東昏夜選勇士攻公則柵,軍中驚擾。公則堅臥不起,徐命擊之,東昏軍乃退。公則所領多是湘溪人,性懦怯,城內輕之,以爲易與,每出蕩,輒先犯公則壘。公則獎厲軍士,克獲更多。及城平,城內出者或被剝奪,公則親率麾下,列陳東掖門,衞送公卿士庶,故出者多由公則營焉。進號左將軍,還鎮南藩。

初め、公則が東下した時、湘州部の諸郡は多く未だ従わなかったが、公則が州に還ると、その後諸屯聚は皆散じた。天監元年(五〇二)、平南将軍の号を進められ、甯都縣侯に封ぜられた。湘州は寇乱が累年続き、人は多く流散していた。公則は刑を軽くし賦斂を薄くし、間もなく戸口は充実回復した。政を行うには威厳はなかったが、己を励まし廉慎であり、吏人に喜ばれた。湘州の俗では単門(寒門)の多くは賄賂を以て州の職を求めたが、公則が至ると皆これを断ち、辟召した者は皆州郡の著姓であった。武帝は諸州に下してこれを法とさせた。

原文初,公則東下,湘部諸郡多未賓從,及公則還州,然後諸屯聚並散。天監元年,進號平南將軍,封甯都縣侯。湘州寇亂累年,人多流散。公則輕刑薄斂,頃之戶口充復。爲政雖無威嚴,然勵己廉慎,爲吏人所悅。湘俗單門多以賂求州職,公則至皆斷之,所辟皆州郡著姓。武帝班下諸州以爲法。

三年(五〇四)、中護軍に征された。交代の者が至ると、二艘の舸に乗ってすぐに出発し、送故の贈り物は一切受け取らなかった。衞尉卿に遷った。当時朝廷は初めて北侵を議し、公則は威名が平素より著しく、都に至ると、詔により仮節し、先ず洛口に屯した。公則は命を受けて将に出発せんとしたが、疾に罹り、親しい者に言うには、「昔、廉頗・馬援は年老いて見遺されたが、猶みずから力を請いて用いられた。今、国家は我が朽懦を以てせず、前駆として任じている。古人に比べて、知遇は重い。途上で疾苦に臨んでも、どうして努力を惜しんで事を辞しようか。馬革に裹まれて還葬される、これが我が志である」と。遂に強いて起きて舟に登り、洛口に至ると、壽春の士女で帰降する者が数千戸あった。魏の豫州刺史薛恭度が長史石榮らを前鋒として派遣し接戦すると、即ち石榮を斬り、敗走を追って壽春に至り、城を去ること数十里にして返った。疾篤く、師中に卒した。武帝は深く痛惜し、即日に哀悼の礼を行い、諡して烈侯といった。

原文三年,征中護軍。代至,乘二舸便發,送故一無所取。遷衞尉卿。時朝廷始議北侵,公則威名素著,至都,詔假節,先屯洛口。公則受命將發,遘疾,謂親人曰:「昔廉頗、馬援以年老見遺,猶自力請用。今國家不以吾朽懦,任以前驅,方于古人,見知重矣。雖臨塗疾苦,豈可僶俛辭事。馬革還葬,此吾志也。」遂強起登舟,至洛口,壽春士女歸降者數千戶。魏豫州刺史薛恭度遣長史石榮等前鋒接戰,即斬石榮,逐北至壽春,去城數十里而返。疾篤,卒于師。武帝深痛惜之,即日舉哀,諡烈侯。

公則は人となり敦厚慈愛であり、家に居ては篤く睦まじく、兄の子を己の子以上に見て、家財を悉く委ねた。性好学であり、軍旅に居ながらも手から巻物を離さず、士大夫はこれをもって称えた。

原文公則爲人敦厚慈愛,居家篤睦,視兄子過於己子,家財悉委焉。性好學,雖居軍旅,手不輟卷,士大夫以此稱之。

子の瞟が嗣いだが、罪有りて封国は除かれた。帝は公則が勲臣であるとして、特に庶長子の眺に嗣がせることを聴した。眺は固く辞讓すること数年、乃ち受けた。

原文子瞟嗣,有罪國除。帝以公則勳臣,特聽庶長子眺嗣。眺固讓歷年,乃受。

鄧元起

原文鄧元起

鄧元起は字を仲居といい、南郡當陽の人である。若い頃より胆力と才幹があり、性は任俠を好み、斉に仕えて武寧太守となった。梁の武帝が兵を起こすと、蕭穎冑が書を送って招いたので、即日に上道し、兵を率いて武帝と夏口で会合した。斉の和帝が即位すると、広州刺史に任ぜられた。中興元年、益州刺史となり、引き続き前軍を率いた。建康城が平定されると、征虜将軍の号を加えられた。天監の初め、當陽県侯に封ぜられ、ここに初めて職務に就いた。

原文鄧元起字仲居,南郡當陽人也。少有膽幹,性任俠,仕齊爲武甯太守。梁武起兵,蕭穎胄與書招之,即日上道,率眾與武帝會于夏口。齊和帝即位,拜廣州刺史。中興元年,爲益州刺史,仍爲前軍。建康城平,進號征虜將軍。天監初,封爲當陽縣侯,始述職焉。

初め、梁の武帝が挙兵した時、益州刺史の劉季連は両端を持していた。鄧元起が到着すると聞いて、遂に兵を発して守りを拒んだ。元起が巴西に至ると、巴西太守の朱士略は門を開いて迎えた。以前より蜀人は多く逃亡していたが、この時競って出て元起に投じ、皆、起義して朝廷に応じたと称した。元起は道中が長く、軍糧が乏しくなった。ある者が説いて言うには、「蜀郡の政務は緩慢である。もし巴西一郡の戸籍を検査し、それによって罰すれば、得る所は必ず厚いであろう。」元起はこれをよしとした。涪県令の李膺が諫めて言うには、「使君には前に厳しい敵があり、後には継ぐ援軍がない。山の民はようやく付き従い、我が方の徳を見ている。もし厳しく取り締まれば、人々は必ず耐えられない。衆心が一旦離れれば、後悔しても及ばない。李膺は出てこれを図ることを請う。資糧の不足を憂うることはない。」元起は言った、「善い。全て卿に委せよう。」李膺は退き、富人が軍資の米を献上するよう率い、間もなく三万斛こくを得た。

原文初,梁武之起,益州刺史劉季連持兩端。及聞元起至,遂發兵拒守。元起至巴西,巴西太守朱士略開門以待。先時蜀人多逃亡,至是競出投元起,皆稱起義應朝廷。元起在道久,軍糧乏絶,或説之曰:「蜀郡政慢,若檢巴西一郡籍注,因而罰之,所獲必厚。」元起然之。涪令李膺諫曰:「使君前有嚴敵,後無繼援,山人始附,於我觀德。若糾以刻薄,人必不堪。眾心一離,雖悔無及。膺請出圖之,不患資糧不足也。」元起曰:「善,一以委卿。」膺退,率富人上軍資米,俄得三萬斛。

元起は進んで西平に駐屯し、季連はようやく城を守って自らを守った。当時、益州の兵乱は既に久しく、人々は耕作を廃し、内外苦しんで飢え、人々は多く互いに食らい、道路は断絶した。季連は計略が尽きた。時に翌年、武帝が季連の罪を赦す使者を遣わし、降伏を許すと、季連は即日に城を開いて元起を迎え入れ、元起は季連を建康に送った。

原文元起進屯西平,季連始嬰城自守。時益州兵亂既久,人廢耕農,內外苦饑,人多相食,道路斷絶。季連計窮。會明年武帝使赦季連罪,許之降,季連即日開城納元起,元起送季連于建康。

元起は同郷の庾黔婁を録事参軍とし、また荊州刺史蕭遙欣の旧客であった蔣光濟を得て、共に厚く待遇し、州の政務を任せた。黔婁は甚だ清廉潔白であり、光濟は計謀多く、共に善政を行うよう勧めた。元起が季連を平定した時、城内の財宝を私することなく、人事を勧め恤み、口に財や色を論じなかった。性来酒を飲むことができ、一斛飲んでも乱れなかったが、この時は絶ち、蜀土の人々に称えられた。元起の母方の従兄弟の子である梁矜孫は性が軽薄で、庾黔婁と志操行いが異なり、元起に言うには、「城中では三刺史がいると称しています。節下はどうしてこれに堪えられましょうか。」元起はこれによって黔婁を疎んじ、政績は次第に損なわれた。

原文元起以鄕人庾黔婁爲錄事參軍,又得荊州刺史蕭遙欣故客蔣光濟,並厚待之,任以州事。黔婁甚清潔,光濟多計謀,並勸爲善政。元起之克季連也,城內財寶無所私,勸恤人事,口不論財色。性能飲酒,至一斛不亂,及是絶之,爲蜀土所稱。元起舅子梁矜孫性輕脫,與庾黔婁志行不同,乃言於元起曰:「城中稱有三刺史,節下何以堪之。」元起由此疏黔婁而政跡稍損。

政に在ること二年、母が老いたので帰って供養することを乞うと、詔はこれを許した。右衛将軍に徴され、西昌侯蕭藻が代わった。時に梁州長史の夏侯道遷が南鄭で叛き、魏の将軍王景胤・孔陵を引き入れ、東・西晉壽を攻め、共に告急を遣わした。衆人は元起に急いで救援するよう勧めた。元起は言った、「朝廷は万里の遠く、軍は直ちには至らない。もし寇賊が浸淫すれば、初めて討伐すべきであり、監督の任は、我をおいて他に誰があろうか。何事を急いで催促するのか。」黔婁らが苦諫したが、皆従わなかった。武帝もまた元起に節を仮授し、征討諸軍を都督させ、漢中を救おうとした。これに及んで、魏は既に両晉壽を攻め落とした。

原文在政二年,以母老乞歸供養,詔許焉。徵爲右衞將軍,以西昌侯蕭藻代之。時梁州長史夏侯道遷以南鄭叛,引魏將王景胤、孔陵,攻東、西晉壽,並遣告急。眾勸元起急救之。元起曰:「朝廷萬里,軍不卒至,若寇賊浸淫,方須撲討,董督之任,非我而誰?何事匆匆便相催督。」黔婁等苦諫之,皆不從。武帝亦假元起節、都督征討諸軍,將救漢中。比是,魏已攻克兩晉壽。

蕭藻が将に到らんとする時、元起は帰りの装備をかなり整え、糧食の備蓄や器械は少しも残さなかった。蕭藻が城に入り、その良馬を求めた。元起は言った、「若い郎子が、何に馬を用いるのか。」蕭藻は怒り、酔って彼を殺した。元起の麾下は城を囲み、泣きながらその故を問うた。蕭藻は恐れて言った、「天子に詔がある。」衆はようやく散った。遂に反逆の罪を誣で、帝は疑った。有司が追劾して爵土を削り、詔は封邑を半減し、松滋県侯に封じた。旧吏の広漢の羅研が宮闕に詣でてこれを訟うと、帝は言った、「果たして我が量った通りであった。」使者をして蕭藻を譴責させて言った、「元起は汝のために仇を報いた。汝は仇のために仇を報いた。忠孝の道はどうなのか。」乃ち蕭藻の号を冠軍将軍に貶した。元起に征西将軍を追贈し、鼓吹を与え、諡して忠侯といった。

原文蕭藻將至,元起頗營還裝,糧儲器械略無遺者。蕭藻入城,求其良馬。元起曰:「年少郎子,何用馬爲。」藻恚,醉而殺之。元起麾下圍城,哭且問其故。藻懼曰:「天子有詔。」眾乃散。遂誣以反,帝疑焉。有司追劾削爵土,詔減邑之半,封松滋縣侯。故吏廣漢羅研詣闕訟之,帝曰:「果如我所量也。」使讓藻曰:「元起爲汝報讎,汝爲讎報讎,忠孝之道如何?「乃貶藻號爲冠軍將軍。贈元起征西將軍,給鼓吹,諡忠侯。

附 羅研

原文附 羅研

羅研は字を深微といい、若い頃より才弁があった。元起が蜀を平定すると、主簿に辟召され、後に信安県令となった。旧例として観農謁者を置き、桑を囲み田を測り、百姓を労り煩わせた。羅研はその弊害を除くよう請うと、帝は従った。鄱陽忠烈王蕭恢が蜀に臨むと、その名を聞き、別駕に請うた。西昌侯蕭藻が再び刺史となった時、州人は彼のことを恐れたが、羅研は挙止自若であった。侯は言った、「我なくしては卿を容れる者なく、卿なくしては我に仕える者なし。」斉の苟児の役の時、臨汝侯が嘲って言った、「卿ら蜀人は禍を楽しみ乱を貪り、このように至ったのか。」答えて言った、「蜀中の積弊は、実に一朝一夕ではない。百家で一村となっても、食のある家は数家に過ぎず、窮迫した人は十に八九、束縛される使役は旬に二三である。乱を貪り禍を楽しむのは、多く怪しむに足りない。もし家に五母の鶏を飼い、一母の豚を飼い、床に百銭の布被があり、甑に数升の麦飯があれば、たとえ蘇秦・張儀が巧みに説き、韓信・白起が剣を按じて後ろにいても、一人の夫をして盗賊たらしめることはできず、ましてや乱を貪ることなどできようか。」

原文羅研字深微,少有材辯。元起平蜀,辟爲主簿,後爲信安令。故事置觀農謁者,圍桑度田,勞擾百姓。研請除其弊,帝從之。鄱陽忠烈王恢臨蜀,聞其名,請爲別駕。及西昌侯藻重爲刺史,州人爲之懼,研舉止自若。侯謂曰:「非我無以容卿,非卿無以事我。」齊苟兒之役,臨汝侯嘲之曰:「卿蜀人樂禍貪亂,一至於此。」對曰:「蜀中積弊,實非一朝。百家爲村,不過數家有食,窮迫之人,什有八九,束縛之使,旬有二三。貪亂樂禍,無足多怪。若令家畜五母之雞,一母之豕,床上有百錢布被,甑中有數升麥飯,雖蘇、張巧説于前,韓、白按劍於後,將不能使一夫爲盜,況貪亂乎?」

大通二年、散騎侍郎となった。嗣王の蕭範が西に向かう時、忠烈王蕭恢は言った、「我が昔蜀に在った時、何事も羅研に委せた。汝はこれに従って失うな。」蕭範が到ると、再び別駕とし、堂に升って母を拝し、蜀人はこれを栄誉とした。数年して官で卒した。蜀土で文によって達した者は、羅研と同郡の李膺のみであった。

原文大通二年,爲散騎侍郎。嗣王範將西,忠烈王恢謂曰:「吾昔在蜀,每事委羅研,汝遵而勿失。」範至,復以爲別駕,升堂拜母,蜀人榮之。數年卒官。蜀土以文達者,唯研與同郡李膺。

附 李膺

原文附 李膺

李膺は字を公胤といい、才弁があった。西昌侯蕭藻が益州となると、主簿とした。都に使いとして至ると、武帝はこれを悦び、言った、「今の李膺は昔の李膺に比べてどうか。」答えて言った、「今は昔に勝ります。」その故を問うと、答えて言った、「昔は桓帝・霊帝の主に仕え、今は堯・舜の君に逢っています。」帝はその答えを嘉し、如意で座席を打つこと久しかった。乃ち益州別駕とした。『益州記』三巻を著し、世に行われた。

原文膺字公胤,有才辯。西昌侯藻爲益州,以爲主簿。使至都,武帝悅之,謂曰:「今李膺何如昔李膺?」對曰:「今勝昔。」問其故,對曰:「昔事桓、靈之主,今逢堯、舜之君。」帝嘉其對,以如意擊席者久之。乃以爲益州別駕。著益州記三卷行於世。

初め、元起が荊州に在った時、刺史の随王が元起を板授して従事別駕としたが、庾蓽が堅く執って不可としたので、元起はこれを恨んだ。大軍が都に至ると、庾蓽は城内で甚だ恐れた。城が平定されると、元起は先に人を遣わして庾蓽を迎えさせ、人に語って言った、「庾別駕がもし乱兵に殺されたら、我は自らを明らかにする術がない。」因って厚く物を贈った。若い頃、また嘗てその西沮の田舎家に至った時、沙門が訪ねてきて乞うた。元起には二千斛ほどの稲があったが、全てこれを施した。時に人はこの二つのことを称えて大度であるといった。元起が初めて益州に赴く時、江陵で母を迎えた。母は道教を奉じて館に居り、出ようとしなかった。元起は拝して同行を請うた。母は言った、「汝は貧賤の家の子が突然富貴を得たが、どうして長く保てようか。我は寧ろここで死に、汝と共に禍敗に入ることはできない。」巴東に至ると、蜀の乱を聞き、蔣光濟に占わせると、蹇の卦を得た。喟然として嘆いて言った、「我はどうして鄧艾のようになってこのような目に遭うのか。」後、果たして占いの通りとなった。子の鄧鏗が嗣いだ。

原文初,元起在荊州,刺史隨王板元起爲從事別駕,庾蓽堅執不可,元起恨之。及大軍至都,蓽在城內甚懼。城平,而元起先遣迎蓽,語人曰:「庾別駕若爲亂兵所殺,我無以自明。」因厚遺之。少時又嘗至其西沮田舍,有沙門造之乞,元起有稻幾二千斛,悉以施之,時人稱其二者有大度。元起初爲益州,過江陵迎其母,母事道方居館,不肯出。元起拜請同行,母曰:「汝貧賤家兒忽得富貴,詎可久保。我寧死此,不能與汝共入禍敗。」及至巴東,聞蜀亂,使蔣光濟筮之遇蹇,喟然歎曰:「吾豈鄧艾而及此乎。」後果如筮。子鏗嗣。

張惠紹

原文張惠紹

張惠紹は字を徳継といい、義陽の人である。若い頃より武幹があり、斉に仕えて竟陵横桑の戍主となった。母の喪のため郷里に帰った。梁の武帝が兵を起こすと聞き、乃ち自ら帰順し、累ねて戦功があった。武帝が践祚すると、石陽県侯に封ぜられ、驍騎将軍・直閤・左細仗主の位にあった。時に東昏侯の余党数百人が南・北掖門に潜入し、夜に神獣門を焼き、衛尉の張弘策を害した。惠紹は馳せて率いる所領を率いて戦いに赴き、賊は散走した。太子右衛率に遷り、軍功によって累ねて爵邑を増やした。衛尉卿、左衛将軍、司州刺史を歴任し、安陸太守を領した。州にあっては温和に治め、吏人は親しみ愛した。征還されて左衛将軍となり、通直散騎常侍を加えられ、甲仗百人を付けられ、殿中を直衛した。卒し、諡して忠といった。

原文張惠紹字德繼,義陽人也。少有武幹,仕齊爲竟陵橫桑戍主。母喪歸鄕里。聞梁武帝起兵,乃自歸,累有戰功。武帝踐阼,封石陽縣侯,位驍騎將軍、直合、左細仗主。時東昏餘黨數百人竊入南、北掖門,夜燒神獸門,害衞尉張弘策。惠紹馳率所領赴戰,賊乃散走。遷太子右衞率,以軍功累增爵邑。歷位衞尉卿,左衞將軍,司州刺史,領安陸太守。在州和理,吏人親愛之。征還爲左衞將軍,加通直散騎常侍,甲仗百人,直衞殿中。卒,諡曰忠。

惠紹の子 張登

原文惠紹子 登

子の登が後を嗣ぐ。数々の戦功を重ね、湛僧智・胡紹世・魚弘とともに当時の驍将とされた。官は衛尉卿・太子左衛率を歴任し、任地で卒した。諡は湣。

原文子登嗣。累有戰功,與湛僧智、胡紹世、魚弘並爲當時驍將。曆官衞尉卿,太子左衞率。卒官,諡曰湣。

馮道根

原文馮道根

馮道根は字を巨基といい、広平郡酇県の人である。幼くして孤となり、家は貧しく、雇われて働き母を養った。道中で美味な食べ物を得れば、未だ先に食することなく、必ず急いで帰って母に与えた。十三歳の時、孝行で知られた。郡が主簿に召したが、就かず、「私は封侯され廟に祀られるべき者である。どうして文吏などになれようか」と言った。

原文馮道根字巨基,廣平酇人也。少孤,家貧,傭賃以養母。行得甘肥,未嘗先食,必遽還以遺母。年十三,以孝聞。郡召爲主簿,不就,曰:「吾當使封侯廟食,安能爲儒吏邪。」

十六歳の時、同郷の蔡道班が湖陽の戍主となり、蛮の錫城を攻めたが、逆に蛮に包囲された。道根がこれを救い、単騎で転戦し、双剣を提げて左右に奮撃し、殺傷甚だ多く、道班は難を免れた。これにより名を知られた。

原文年十六,鄕人蔡道班爲湖陽戍主,攻蠻錫城,反爲蠻困。道根救之、匹馬轉戰,提雙劍左右奮擊,殺傷甚多,道班以免,由是知名。

斉の建武末、魏の孝文帝が南陽など五郡を陥落させた。明帝は太尉陳顕達を遣わしてこれを争わせた。軍が汮口に入ると、道根は顕達に説いて言った、「汮水は流れが急です。船を全て酇城に捨て、陸路を歩いて進む方がよいでしょう」。顕達は聞き入れず、道根はなお私的に従軍した。顕達が敗れて夜に逃走した時、道根が道を指し示したおかげで全うできた。まもなく汮口の戍副となった。

原文齊建武末,魏孝文攻陷南陽等五郡。明帝遣太尉陳顯達爭之,師入汮口,道根説顯達曰:「汮水急,不如悉棄船於酇城,方道步進。」顯達不聽,道根猶以私屬從軍。及顯達敗夜走,賴道根指路以全。尋爲汮口戍副。

母の喪のため家に帰った。梁の武帝が兵を起こしたと聞き、親しい者に言った、「金革の礼は古人も避けなかった。後世に名を揚げることは、孝ではないか」。そこで郷人を率いて武帝に帰順し、王茂の配下となり、常に前鋒を務めた。武帝が即位すると、驍騎將軍となり、増城県男に封ぜられた。

原文以母喪還家。聞梁武帝起兵,乃謂所親曰:「金革奪禮,古人不避,揚名後世,豈非孝乎。」因率鄕人歸武帝,隸于王茂,常爲前鋒。武帝即位,爲驍騎將軍,封增城縣男。

天監二年、南梁太守となり、阜陵城の守備を兼ねた。初めて阜陵に着くと、城と堀を修築し、遠くまで斥候を出し、敵が来るかのようにした。人々は大いに笑った。道根は言った、「防ぐ時は怯み、戦う時は勇む、というのはこのことだ」。城の修築が未だ終わらないうちに、魏の将党法宗・傅豎眼が二万の兵を率いて突然城下に至り、道根の塹壕と堡塁は固まらず、城中の兵は少なく、誰もが顔色を失った。道根は城門を開けさせ、ゆったりとした服で城に登り、精鋭二百人を選んで出て魏軍と戦い、これを破った。魏軍はそこで退いた。輔国將軍に遷った。

原文天監二年,爲南梁太守,領阜陵城戍。初到阜陵,修城隍,遠斥候,如敵將至者。眾頗笑之。道根曰:「怯防勇戰,此之謂也。」修城未畢,魏將党法宗、傅豎眼率眾二萬,奄至城下,道根塹壘未固,城中眾少,莫不失色。道根命開城門,緩服登城,選精銳二百人出與魏軍戰,敗之,魏軍因退。遷輔國將軍。

六年、魏が鍾離を攻めると、武帝は豫州刺史韋叡に救援を命じた。道根は叡の先鋒となり、徐州に至り、邵陽洲を占拠する計略を立て、堡塁を築き塹壕を掘って魏城に迫った。道根は馬を走らせて土地を測り、馬の歩数で工事量を割り当て、城と堀はたちまち完成した。淮水が増水すると、道根は戦艦に乗って魏軍の連絡橋を断ち切り、魏軍は大敗した。爵位を伯に進められ、豫寧県に改封された。八年、豫州刺史に任ぜられ、汝陰太守を兼ねた。政治は清廉簡素で、管内は安らかであった。累進して右衛將軍となった。

原文六年,魏攻鍾離,武帝詔豫州刺史韋叡救之。道根爲叡前驅,至徐州,建計據邵陽洲,築壘掘塹逼魏城。道根能走馬步地,計馬足以賦功,城隍立辦。及淮水長,道根乘戰艦斷魏連橋,魏軍敗績。進爵爲伯,改封豫寧縣。八年,拜豫州刺史,領汝陰太守。爲政清簡,境內安之。累遷右衞將軍。

道根の性格は謹厚きんこうで、無口で言葉少なく、将として部下を統制できた。通る村里では、将士は略奪を敢えてしなかった。征伐のたびに終始功績を口にせず、部下の中には不満を言う者もいた。道根は諭して言った、「明主は自ら功の多少を察知される。私が何をしようか」。武帝はかつて道根を指して尚書令沈約に示し、その口に勲功を論じないことを称賛した。約は言った、「これは陛下の大樹将軍です」。州郡を歴任するも、和やかで静謐であり、下の者に慕われた。朝廷にあっては貴顕であったが、性格は倹約で、住む邸宅は壁や屋根を修繕せず、器物や服飾、侍衞もなく、室内に入れば蕭然として貧賤の素士のようであった。当世はその清廉で退譲な態度に敬服し、武帝もまた大いに重んじた。微賤の時は学ばなかったが、貴くなってから粗く書物を読み、自ら文が少ないと称し、常に周勃の器量を慕った。

原文道根性謹厚,木訥少言,爲將能檢禦部曲。所過村陌,將士不敢虜掠。每征伐終不言功,其部曲或怨非之。道根喻曰:「明主自鑒功之多少,吾將何事。」武帝嘗指道根示尚書令沈約,美其口不論勳。約曰:「此陛下之大樹將軍也。」曆處州郡,和理清靜,爲下所懷。在朝廷雖貴顯,而性儉約,所居宅不修牆屋,無器服侍衞,入室則蕭然如素士之貧賤者。當世服其清退,武帝亦雅重之。微時不學,既貴粗讀書,自謂少文,常慕周勃之器量。

十六年、再び豫州の任についた。出発に際し、武帝は朝臣を引き連れ武徳殿で道根のために送別の宴を開き、画工を召してその姿を描かせた。道根は恐縮して謝して言った、「臣が国家に報いることができるのは、ただ一死を捧げることのみです。しかし天下が太平で、死に場所がないのが残念です」。豫州の地は再び道根を得て、人々は皆喜んだ。武帝はしばしば称して言った、「馮道根がいる所では、朝廷は一州のことを再び思い出す必要がなくなる」。

原文十六年,復爲豫州。將行,武帝引朝臣宴別道根于武德殿,召畫工使圖其形,道根踧踖謝曰:「臣所可報國家,唯餘一死,但天下太平,恨無可死之地。」豫部重得道根,人皆喜悅。武帝每稱曰:「馮道根所在,能使朝廷不復憶有一州。」

州にいて間もなく病気にかかり、帰還を願い出た。朝廷は散騎常侍・左軍將軍に召した。任地で卒した。この日、皇帝の車駕は春の祠りで二廟に参り、宮殿を出たところで、役人がその死を報告した。帝は中書舎人朱異に問うた、「吉事と凶事が同日であるが、今行ってもよいか」。異は答えて言った、「昔、柳莊が病臥した時、衛の献公は祭りの最中であったが、屍に請うて言った、『臣の柳莊は、寡人の臣ではなく、社稷の臣である。その死を聞いたので、往きたい』。祭服を脱がずに赴き、そこで衣をかけて弔ったのです。道根はまだ社稷の臣とは言えませんが、王室に功労はあります。臨むのは礼です」。帝はすぐに車駕をその邸宅に向かわせ、慟哭した。諡は威。子の懐が後を嗣ぐ。

原文居州少時遇疾,乞還。朝廷徵爲散騎常侍、左軍將軍。卒於官。是日,輿駕春祠二廟,及出宮,有司以聞。帝問中書舍人朱異曰:「吉凶同日,今可行乎?」對曰:「昔柳莊寢疾,衞獻公當祭,請屍曰:'有臣柳莊,非寡人之臣,社稷之臣也。聞其死,請往。'不釋祭服而往,遂以襚之。道根雖未爲社稷臣,亦有勞王室,臨之禮也。」帝即駕幸其宅,哭之甚慟。諡曰威。子懷嗣。

康絢

原文康絢

康絢は字を長明といい、華山郡藍田県の人である。その先祖は康居国に出自する。初め、漢が都護を置き西域をことごとく臣下とすると、康居もまた侍子を遣わして河西に詔を待ち、そこで留まって去らず、その後その氏とした。晋の時、隴右が乱れ、藍田に移った。絢の曾祖父の因は苻堅の太子詹事となり、穆を生んだ。穆は姚萇の河南尹となった。宋の永初年中、穆は郷族三千余家を率いて襄陽の峴山の南に入り、宋は華山郡藍田県を置き、襄陽に仮に設置し、穆を秦・梁二州刺史とした。拝命せずに卒した。絢の伯父の元隆、父の元撫はともに流民に推され、相次いで華山太守となった。

原文康絢字長明,華山藍田人也。其先出自康居。初,漢置都護,盡臣西域,康居亦遣侍子待詔河西,因留不去,其後遂氏焉。晉時隴右亂,遷于藍田。絢曾祖因爲苻堅太子詹事,生穆。穆爲姚萇河南尹。宋永初中,穆率鄕族三千餘家入襄陽之峴南,宋爲置華山郡藍田縣,寄立於襄陽,以穆爲秦、梁二州刺史。未拜,卒。絢伯元隆、父元撫,並爲流人所推,相繼爲華山太守。

絢は若い頃から倜儻として志気があり、斉に仕えて華山太守となり、誠意をもって撫慰し、荒廃した民も喜んで従った。梁の武帝が兵を起こすと、絢は郡を挙げて応じた。天監元年、南陽県男に封ぜられ、竟陵太守に任ぜられた。累進して太子左衛率となり、武装兵百人を率い、領軍の蕭景とともに殿内を守った。絢は身長八尺、容貌は群を抜き、顕職にあってもなお武芸を習った。帝が徳陽殿で馬を走らせて遊ぶ時、絢に馬射を命じると、弦を撫でて的を貫き、見る者は喜んだ。その日、帝は画工に絢の姿を描かせ、中使に持たせて絢に問わせた、「卿はこの絵を識るか」。これほど親しまれたのである。

原文絢少俶儻有志氣,仕齊爲華山太守,推誠撫循,荒餘悅服。梁武起兵,絢舉郡以應。天監元年,封南陽縣男,除竟陵太守。累遷太子左衞率,甲仗百人,與領軍蕭景直殿內。絢身長八尺,容貌絶倫,雖居顯職,猶習武藝。帝幸德陽殿戲馬,敕絢馬射,撫弦貫的,觀者悅之。其日,上使畫工圖絢形,遣中使持以問絢曰:「卿識此圖不?」其見親如此。

当時、魏から降った者王足が計略を述べ、淮水に堰を築いて寿陽を水攻めにすることを求めた。足は北方の童謡を引いて言った、「荊山を上格とし、浮山を下格とし、潼沱を激溝とし、ともに鉅野沢を灌ぐ」。帝はこれをよしとし、水工の陳承伯と材官將軍の祖暅に地形を視察させたが、皆、淮水内の砂土は軽く流れやすく堅固でなく、その工事は成就できないと言った。帝は聞き入れず、徐州・揚州の人々を徴発し、二十戸ごとに五丁を取ってこれを築かせた。絢に節を仮授し、淮上諸軍事を都督させ、また堰の工事に従事する者と戦士を監督させ、二十万の兵衆をもって、鍾離の南の浮山から北の巉石に至るまで、岸に沿って土を築き、中流で合流させた。十四年四月、堰がまさに合わんとする時、淮水の流れが急で、再び決壊した。人々はこれを憂えた。ある者が言うには、江淮には蛟が多く、風雨に乗じて崖岸を決壊させることができ、その性質は鉄を嫌うと。そこで東西の二冶の鉄器を引き入れ、大は釜や鬲、小は鋘や鋤、数千万斤を堰の場所に沈めたが、なお合わなかった。そこで樹木を伐って井幹とし、巨石を填め、その上に土を加えた。淮に沿う百里の内の岡陵の木石は大小を問わず必ず使い尽くし、担ぐ者は肩が磨り減った。夏には疫病が流行し、死者は枕を並べ、蝿や虫の声が昼夜に響き合った。武帝はこれを哀れみ、尚書右僕射の袁昂と侍中の謝挙に節を仮授して慰労させ、また租税の免除・復除を加えた。この冬は大変寒く、淮・泗はことごとく凍りつき、士卒の死者は十のうち七八に及んだ。帝は衣袴を賜って遣わした。

原文時魏降人王足陳計,求堰淮水以灌壽陽。足引北方童謠曰:「荊山爲上格,浮山爲下格,潼沱爲激溝,並灌钜野澤。」帝以爲然,使水工陳承伯、材官將軍祖揯視地形,咸謂淮內沙土漂輕,不堅實,其功不可就。帝弗納,發徐、揚人率二十戶取五丁以築之。假絢節、都督淮上諸軍事,並護堰作役人及戰士,有眾二十萬,于鍾離南起浮山,北抵巉石,依岸築土,合脊于中流。十四年四月,堰將合,淮水漂疾,復決潰。眾患之。或謂江、淮多蛟,能乘風雨決壞崖岸,其性惡鐵。因是引東西二冶鐵器,大則釜鬲,小則鋘鋤,數千萬斤沈於堰所,猶不能合。乃伐樹爲井幹,填以巨石,加土其上。緣淮百里內岡陵木石無巨細必盡,負擔者肩穿。夏日疾疫,死者相枕,蠅蟲晝夜聲合。武帝湣之,遣尚書右僕射袁昂、侍中謝舉假節慰勞,並加蠲復。是冬寒甚,淮、泗盡凍,士卒死者十七八。帝遣賜以衣褲。

十一月、魏は将軍楊大眼を派遣し、堰を決壊させるという風説を流した。康絢は諸軍に命じて営舎を撤去し、野営してこれを待った。その子の康悦を遣わして挑戦させ、魏の咸陽王府司馬徐方興を斬り、魏軍は少し退いた。天監十五年四月、堰は完成した。その長さは九里、下幅は百四十丈、上幅は四十五丈、高さは二十丈、深さは十九丈五尺であり、両側を堤防で挟み、共に杞柳を植えた。軍人は安堵し、その上に列居した。その水は清潔で、下を見下ろせば邑居や墳墓が、明らかに皆その下にあるのが見えた。ある者が康絢に言うには、「四瀆は天がその気を調節し宣べるものであり、長く塞ぐことはできない。もし湫(堰の一部)を開鑿して東に注げば、遊波は寛緩となり、堰は壊れずに済むだろう」と。康絢はこれを然りとし、湫を開いて東に注がせた。また魏に対して反間を放ち、「梁が恐れるのは湫を開かれることだ」と言った。魏人はこれを信じ、果たして山を五丈深く鑿ち、湫を開いて北に注がせた。水は日夜分流したが、湫の水はまだ減らなかった。その月、魏軍はついに潰走して帰った。水の及んだ所は、淮水を挟んで方数百里の地に及んだ。魏の寿陽城の戍兵は次第に八公山に移り駐屯した。この南の住民は散り散りになって岡や塚に避難した。

原文十一月,魏遣將楊大眼揚聲決堰,絢命諸軍撤營露次以待之。遣其子悅挑戰,斬魏咸陽王府司馬徐方興,魏軍小卻。十五年四月,堰成,其長九里,下闊一百四十丈,上廣四十五丈,高二十丈,深十九丈五尺,夾之以堤,並樹杞柳,軍人安堵,列居其上。其水清潔,俯視邑居墳墓,了然皆在其下。或謂絢曰:「四瀆天所以節宣其氣,不可久塞,若鑿湫東注,則遊波寬緩,堰得不壞。」絢然之,開湫東注。又縱反間于魏曰:「梁所懼開湫。」魏人信之,果鑿山深五丈,開湫北注。水日夜分流,湫猶不減。其月,魏軍竟潰而歸。水之所及,夾淮方數百里地。魏壽陽城戍稍徙頓八公山。此南居人散就岡壟。

初め、堰は徐州の境界から築き始められた。刺史の張豹子は、自分が必ずその事を主宰するものと思っていた。ところが康絢が他の官として来て監作することとなり、豹子は甚だ慚いた。これにより、豹子は康絢が魏と通じていると讒言した。帝(武帝)は採用しなかったが、それでも事が終わったことを理由に康絢を召還した。まもなく司州刺史に任じ、安陸太守を領した。

原文初,堰起徐州界,刺史張豹子謂己必屍其事。既而絢以佗官來監作,豹子甚慚,由是譖絢與魏交通。帝雖不納,猶以事畢征絢。尋除司州刺史,領安陸太守。

康絢が征還されると、張豹子は堰を修繕せず、その秋に至り、淮水が暴漲し、堰は壊れて奔流は海に至り、数万人を殺した。その響きは雷のようで、三百里に聞こえた。水中の怪物が流れに従って下り、あるものは人頭魚身、あるものは龍形馬首で、種類が異なり形状が奇怪で、名を挙げ尽くせなかった。祖揯(堰の工事に関わった者か)は罪に坐して獄に下された。康絢は州において三年の間、城隍を大修し、厳整と号された。

原文絢征還,豹子不修堰,至其秋,淮水暴長,堰壞,奔流於海,殺數萬人。其聲若雷,聞三百里。水中怪物,隨流而下,或人頭魚身,或龍形馬首,殊類詭狀,不可勝名。祖揯坐下獄。絢在州三年,大修城隍,號爲嚴整。

普通元年、衛尉卿に任じられたが、拝命せずに卒去した。輿駕(皇帝)は即日臨哭し、諡して壮といった。康絢は寛和で喜びや恐れが少なく、朝廷において人を見るとまるで言葉が出ないようであり、長厚と号された。省中では寒月ごとに、省官で襤褸の者を見れば、いつも繻衣を贈って与えた。その好施はこのようなものであった。子の康悦が嗣いだ。

原文普通元年,除衞尉卿,未拜卒。輿駕即日臨哭,諡曰壯。絢寬和少喜懼,在朝廷見人如不能言,號爲長厚。在省每寒月,見省官有襤縷者,輒遣遺以繻衣,其好施如此。子悅嗣。

昌義之

原文昌義之

昌義之は、歴陽郡烏江県の人である。若くして武幹があり、馮翊戍主となった。梁武帝が雍州にいた時、事によって帝に仕え、帝もまた厚く遇した。起兵すると、板授により輔国将軍・軍主となった。戦うごとに必ず勝利した。

原文昌義之,曆陽烏江人也。少有武幹,爲馮翊戍主。梁武帝爲雍州,因事帝,帝亦厚遇之。及起兵,板爲輔國將軍、軍主。每戰必捷。

天監元年、永豊侯に封ぜられ、累遷して北徐州刺史となり、鍾離を鎮守した。四年、大挙して北へ侵攻し、臨川王蕭宏が衆軍を督して洛口に向かい、義之は前軍として魏の梁城戍を攻め、これを陥れた。五年の冬、武帝は征役が久しいことを以て、詔して班師させた。魏の中山王元英が勢いに乗じて追撃し、馬頭などの城を攻め陥した。城内の糧食貯蔵は、魏が悉く北へ移し帰ったので、議者は皆、再び南に向かうことはないと言った。帝は言った、「これは必ず進軍するものであり、その実ではない」と。そこで鍾離城を修築させ、義之に戦守の備えを命じた。この冬、元英は果たして数十万の衆を率いて鍾離を包囲し、衝車で西の城壁を破壊した。当時城中の兵はわずか三千で、義之が督帥し、状況に応じて抗戦防禦し、前後して殺傷は万を数え、魏軍の死者は城と平らかになった。

原文天監元年,封永豐侯,累遷北徐州刺史,鎮鍾離。四年,大舉北侵,臨川王宏督眾軍向洛口,義之爲前軍,攻魏梁城戍,克之。五年冬,武帝以征役久,詔班師。魏中山王元英乘勢追躡,攻沒馬頭等城。城內糧貯,魏悉移歸北,議者咸謂無復南向。帝曰:「此必進兵,非其實也。」乃遣修鍾離城,敕義之爲戰守備。是冬,英果率眾數十萬圍鍾離,沖車毀西墉。時城中眾才三千,義之督帥,隨方抗禦,前後殺傷萬計,魏軍死者與城平。

六年、帝は曹景宗と韋叡を遣わし、二十万の衆を率いて救援させ、大いに魏軍を破った。義之は軽兵を率いて洛口まで追撃して帰還した。功により軍師将軍の号を進められ、再び都督・南兗州刺史に遷った。禁物を蕃(任地)から出すことで罪に坐し、有司に奏上されて免官された。

原文六年,帝遣曹景宗、韋叡率眾二十萬救焉,大破魏軍。義之率輕兵追至洛口而還。以功進號軍師將軍,再遷都督、南兗州刺史。坐以禁物出蕃,爲有司所奏免。

十三年、累遷して左衛将軍となった。この冬、帝は太子右衛率康絢を遣わし、衆軍を督して荊山堰を築かせた。魏の将軍李曇定が大衆を率いて荊山に迫り、堰を決壊させると声を揚げた。詔により義之に節を仮し、康絢を救援させたが、軍が到着する前に、康絢らは既に魏軍を破っていた。魏はまた大将軍李平を遣わして硤石を攻撃したので、義之はまた朱衣直閤の王神念を率いてこれを救援した。魏が硤石を陥すと、義之は班師したが、有司に奏上され、帝はその功臣であるとして問わなかった。

原文十三年,累遷左衞將軍。是冬,帝遣太子右衞率康絢督眾軍作荊山堰,魏將李曇定大眾逼荊山,揚聲決堰。詔假義之節救絢,軍未至,絢等已破魏軍。魏又遣大將軍李平攻硤石,義之又率朱衣直合王神念救之。魏克硤石,義之班師,爲有司所奏,帝以其功臣不問。

十五年、北徐州刺史を授かった。義之は書を識らず、識る字は十を超えなかった。性質は寛厚で、将として人の死力を得ることができた。藩任に居ると、吏民は安んじた。営道県侯に改封された。護軍将軍に徴されたが、官において卒去した。帝は深く痛惜し、諡して烈といった。子の昌宝景が嗣いだ。

原文十五年,授北徐州刺史。義之不知書,所識不過十字。性寬厚,爲將能得人死力。及居藩任,吏人安之。改封營道縣侯。徵爲護軍將軍,卒于官。帝深痛惜之,諡曰烈。子寶景嗣。

論

原文論

論じて言う。永元の末季、時に主上は昏狂であったが、荊・雍の二州には、まだ隙がなかった。武皇(梁武帝)の跡は家の酷い出来事に縁り、まず孟津の師を唱え、王茂らは昌期に運を接ぎ、自ら勤王の挙を致した。もし天人が期を啓かなければ、どうしてこのように速やかであり得ただろうか。その隆名と顕級も、またそれぞれ風雲の感会であった。元起は勤めて胥附となり、功はただ国土を開くにあり、労を図らず、禍機に先んじて陥った。冠軍(の位を貶されたこと)の貶は、罰としては既に軽く、梁の政刑はここに失があった。私戚の端緒はここから啓かれ、年寿が永くないのは、また宜なることではなかったか。張惠紹・馮道根・康絢・昌義之の攀附の始め、その功は末であった。群盗が門を焚くに及び、張は力戦して自ら顕著となった。鍾離・邵陽の逼迫においては、馮・昌の労効が居多かった。浮山の役において、康絢は実にその事を主管した。互いにその労があり、寵進は宜しかった。先に鎮星が天江を守ると堰が実に興り、退舎すると決壊した。これは人事であろうか、それは天道である。

原文論曰:永元之季,雖時主昏狂,荊、雍二州,尚未有釁。武皇跡緣家酷,首唱孟津之師,王茂等運接昌期,自致勤王之舉。若非天人啟期,豈得若斯之速乎。其隆名顯級,亦各風雲之感會也。元起勤乃胥附,功惟辟土,勞之不圖,禍機先陷。冠軍之貶,於罰已輕,梁之政刑,於斯爲失。私戚之端,自斯而啟,年之不永,不亦宜乎。張惠紹、馮道根、康絢、昌義之攀附之始,其功則末。及群盜焚門,張以力戰自著。鍾離、邵陽之逼,馮、昌勞效居多。浮山之役,而康絢實典其事。互有厥勞,寵進宜矣。先是鎮星守天江而堰實興,退舍而決,豈人事乎,其天道也。