南史

巻五十四 列傳第四十四

巻五十四 列傳第四十四

南史

巻五十四 列傳第四十四

簡文帝の子

原文簡文子

簡文帝に二十人の子があった。王皇后は哀太子大器と南郡王大連を生んだ。陳淑容は尋陽王大心を生んだ。左夫人は南海王大臨と安陸王大春を生んだ。謝夫人は瀏陽公大雅を生んだ。張夫人は新興王大莊を生んだ。包昭華は西陽王大鈞を生んだ。范夫人は武寧王大威を生んだ。褚修華は建平王大球を生んだ。陳夫人は義安王大昕を生んだ。朱夫人は綏建王大摯を生んだ。その臨川王大款、桂陽王大成、汝南王大封、樂良王大圜は、母を知らない。潘美人は皇子大訓を生んだが、早世して封を受けなかった。その他は知られず記されていない。

原文簡文二十子。王皇后生哀太子大器、南郡王大連。陳淑容生尋陽王大心。左夫人生南海王大臨、安陸王大春。謝夫人生瀏陽公大雅。張夫人生新興王大莊。包昭華生西陽王大鈞。范夫人生武甯王大威。褚修華生建平王大球。陳夫人生義安王大昕。朱夫人生綏建王大摯。其臨川王大款、桂陽王大成、汝南王大封、樂良王大圜,並不知母氏。潘美人生皇子大訓,早亡無封。其餘不知不載。

哀太子

原文哀太子

哀太子大器は字あざなを仁宗といい、簡文帝の嫡長子である。中大通四年、宣城郡王に封ぜられた。太清二年十月、侯景が建鄴を寇すると、詔勅により太子は台内大都督となった。三年五月、簡文帝が即位した。六月丁亥、皇太子に立てられた。

原文哀太子大器字仁宗,簡文嫡長子也。中大通四年,封宣城郡王。太清二年十月,侯景寇建鄴,敕太子為台內大都督。三年五月,簡文即位。六月丁亥,立為皇太子。

大寶二年八月、侯景は簡文帝を廃し、太子を害そうとした。時に侯景の党が侯景の命令として召すと称した。太子はちょうど老子を講じていて、床から降りようとしたところ、刑人が押し寄せた。太子は顔色を変えず、ゆるやかに言った。「このことはかねてより知っていた。遅かったと嘆くのみである。」刑人は衣帯で絞め殺そうとした。太子は言った。「これでは殺されない。」そこで帳竿の下の縄を指さし、それを持ってきて絞めるよう命じ、絶命した。時に二十八歳であった。

原文大寶二年八月,景廢簡文,將害太子。時景党稱景命召之,太子方講老子,將下床而刑人掩至。太子顏色不變,徐曰:「久知此事,嗟其晚耳。」刑者將以衣帶絞之,太子曰:「此不能見殺。」乃指系帳竿下繩,命取絞之而絕。時年二十八。

太子は性質寛和であり、また精神の働きは端正で聡明であり、賊中にあって常に屈従する意思を示さなかった。左右がひそかにその理由を尋ねると、答えて言った。「賊が殺す必要がなければ、たとえ陵辱し傲然と叱りつけても、結局は敢えて言わないであろう。害される時が来れば、たとえ一日に百回拝礼しても、死には益がない。」問う者がまた言った。「貴殿は今憂いと逼迫の中にあるのに、神態容貌は怡よろこ然としている。この意味が分かりません。」答えて言った。「私は死が必ず賊の前に来ると考えている。もし諸叔父が外から来て、羯の寇を平定すれば、必ず先に殺され、それから死ぬであろう。もし上流を開拓すれば、必ず先に殺され、後に富貴を得るであろう。どうして益のない愁いをもって、必ず死ぬ運命を横に憂えることができようか。」侯景が西上する時、太子を連れて同行した。敗れて帰る時、船はしばしば互いに離れた。乗った船が樅陽浦に入ると、舟中の腹心は皆これに乗じて北に入るよう勧めた。太子は言った。「国家が喪乱して以来、生きることを図る志はない。主上が蒙塵しているのに、どうして忍んで離れられようか。私が今去るならば、それは父に叛くことであり、賊を避けることではない。天下に父のない国があろうか。」そこで涙を流して嗚咽し、ただちに前進するよう命じた。賊は太子に器量と度量があるのを、常に恐れた。後患となることを恐れ、故に先んじて禍に及んだ。承聖元年四月、哀太子と追諡され、太廟の陰室に合祀された。

原文太子性寬和,兼神用端嶷,在賊中每不屈意。左右竊問其故,答曰:「賊若未須見殺,雖復陵傲呵叱,其終不敢言。若見害時至,雖一日百拜,無益於死。」問者又曰:「官今憂逼而神貌怡然,未喻此意。」答曰:「吾自度死必在賊前,若諸叔外來,平夷羯寇,必前見殺,然後就死。若其遂開拓上流,必先見殺,後取富貴。何能以無益之愁,橫憂必死之命。」景之西上,攜太子同行,及敗歸,船往往相失。所乘船入樅陽浦,舟中腹心並勸因此入北。太子曰:「自國家喪敗,志不圖生。主上蒙塵,寧忍違離。吾今若去,乃是叛父,非謂避賊。天下豈有無父之國。」便涕泗鳴咽,命即前進。賊以太子有器度,每憚之。恐為後患,故先及禍。承聖元年四月,追諡哀太子,祔太廟陰室。

尋陽王

原文尋陽王

尋陽王大心は字を仁恕といい、簡文帝の第二子である。幼くして聡明で朗らかであり、文章を作ることを善くした。中大通四年、皇孫として當陽縣公に封ぜられた。大同元年、都督・郢州えいしゅう刺史となり、時に十三歳であった。簡文帝はその幼さを戒めて言った。「事の大小を問わず、全て行事に委ねよ。」大心は州の事務に親しく関わらなかったが、発言は常に道理に合い、人々は皆驚き服した。太清元年、雲麾將軍・江州刺史となった。財貨を貪り、百姓を安んじ受け入れることができなかった。二年、侯景が都を寇すると、大心は士卒を招集し、上流の諸軍と共に宮闕へ赴援した。三年、台城が陥落し、上甲侯蕭韶が南奔して密詔を伝えると、散騎常侍を加えられ、平南將軍に進号した。大寶元年、尋陽王に封ぜられた。

原文尋陽王大心字仁恕,簡文第二子也。幼而聰朗,善屬文。中大通四年,以皇孫封當陽縣公。大同元年,為都督、郢州刺史,時年十三。簡文以其幼,戒之曰:「事無大小,悉委行事。」大心雖不親州務,發言每合於理,眾皆驚服。太清元年,為雲麾將軍、江州刺史。貪冒財賄,不能綏接百姓。二年,侯景寇都,大心招集士卒,與上流諸軍赴援宮闕。三年,台城陷,上甲侯蕭韶南奔宣密詔,加散騎常侍,進號平南將軍。大寶元年,封尋陽王。

初め、曆陽太守莊鐵が城を挙げて侯景に降ったが、後にまたその母を奉じて来奔した。大心は莊鐵が旧将であるとして、礼を厚くし、軍旅の事は全て彼に委ね、豫章内史とした。侯景はしばしば軍を西上させて寇掠したが、大心は常に莊鐵に命じてこれを撃破させ、その将趙加婁を生け捕りにし、賊を進ませなかった。時に鄱陽王蕭範が衆を率いて合肥を棄て、柵口に屯し、援兵が総集するのを待ち、共に進もうとしていた。大心はこれを聞き、人を遣わして蕭範を西上に招き、盆城に彼を置き、糧食の供給を非常に厚くし、力を合わせて共に禍難を除こうとした。ちょうど莊鐵が豫章に拠って反すると、大心は中兵參軍韋約に命じてこれを討たせ、莊鐵は敗れて降伏を請うた。鄱陽王の世子蕭嗣は先に莊鐵と親しくしていたので、蕭範に言った。「かつて莊鐵と交遊したが、その人の才略は縦横である。もし江州に降れば、必ずその首領を全うできないでしょう。どうか彼を救援してください。」そこで将軍侯瑱を遣わして莊鐵を救い、夜に韋約らの陣営を破った。大心は大いに恐れた。ここに二藩の争いが起こった。

原文初,曆陽太守莊鐵以城降侯景,既而又奉其母來奔。大心以鐵舊將,厚為其禮,軍旅之事,悉以委之,以為豫章內史。景數遣軍西上寇抄,大心輒令鐵擊破之,禽其將趙加婁,賊不能進。時鄱陽王範率眾棄合肥,屯於柵口,待援兵總集,欲俱進。大心聞之,遣要範西上,以盆城處之,廩饋甚厚,欲與戮力共除禍難。會鐵據豫章反,大心令中兵參軍韋約討之,鐵敗乞降。鄱陽世子嗣先與鐵善,乃謂範曰:「昔與鐵遊處,其人才略從橫,若降江州,必不全其首領,請援之。」乃遣將侯瑱救鐵,夜破韋約等營。大心大懼。於是二蕃釁起。

侯景の将任約が地を略して盆城に至ると、大心は司馬韋質を遣わして拒戦させたが敗北した。時に帳下にはなお勇士千余人がいたが、皆言った。「既に糧食の備つぶさ蓄がなく、守りを固めるのは難しい。もし軽騎で建州へ赴き、後の挙兵を図るならば、上策です。」その母陳淑容は従わず、胸を撫でて慟哭したので、大心はやめ、遂に任約と和睦した。二年、害されようとした時、床を巡って賊の廂公王僧貴に言った。「私は全州を挙げて帰順したのに、どうして苦しめることを忍ぶのか。」そこで射られて倒れた。

原文景將任約略地至盆城,大心遣司馬韋質拒戰敗績,時帳下猶有勇士千餘人,咸說曰:「既無糧儲,難以守固,若輕騎往建州,以圖後舉,策之上也。」其母陳淑容不從,撫胸慟哭,大心乃止,遂與約和。二年,將遇害,遶床謂賊廂公王僧貴曰:「我以全州歸命,何忍相苦。」乃見射而殞。

臨川王

原文臨川王

臨川王大款は字を仁師といい、簡文帝の第三子である。初め石城縣公に封ぜられ、中書侍郎の位にあった。太清三年、簡文帝が即位すると、江夏郡王に封ぜられた。大寶元年、江陵に奔り、湘東王が制を承けると、臨川王に改封された。魏が江陵を陥とし、害された。

原文臨川王大款字仁師,簡文第三子也。初封石城縣公,位中書侍郎。太清三年,簡文即位,封江夏郡王。大寶元年,奔江陵,湘東王承制,改封臨川王。魏克江陵,遇害。

南海王

原文南海王

南海王大臨は字を仁宣といい、簡文帝の第四子である。大同二年、甯國縣公に封ぜられた。幼少より聡明で慧く、十一歳の時、左夫人の喪に遭い、哭泣して身を痩せ衰えさせ、孝行で知られた。後に國學に入り、明経射策で甲科に及第し、中書侍郎に任ぜられ、給事黃門侍郎に遷った。十一年、長兼侍中となり、琅邪・彭城二郡の太守として出向した。侯景の乱の時、端門に駐屯し、城南諸軍事を都督した。大寶元年、南海郡王に封ぜられ、都督・東揚州刺史として出向し、また呉郡太守を拝命した。時に張彪が會稽で義兵を挙げると、呉人の陸令公・潁川の庾孟卿らが大臨に彼に投ずるよう勧めた。大臨は言った、「彪が成功すれば、我が力を借りず、もし敗れれば、我を以て言い訳とするであろう。行くべからず」と。二年に遇害した。

原文南海王大臨字仁宣,簡文帝第四子也。大同二年,封甯國縣公。少而敏慧。年十一,遭左夫人憂,哭泣毀瘠,以孝聞。後入國學,明經射策甲科,拜中書侍郎,遷給事黃門侍郎。十一年,長兼侍中,出為琅邪、彭城二郡太守。侯景亂,屯端門,都督城南諸軍事。大寶元年,封南海郡王,出為都督、東揚州刺史,又除吳郡太守。時張彪起義於會稽,吳人陸令公、潁川庾孟卿等勸大臨投之。大臨曰:「彪若成功,不藉我力;如其撓敗,以我說焉,不可往也。」二年遇害。

南郡王

原文南郡王

南郡王大連は字を仁靖といい、簡文帝の第五子である。若くして俊爽で、文を綴ることができた。挙止は風流、雅に巧思があり、音楽に妙達し、丹青を兼ねて善くした。大同二年、臨城縣公に封ぜられた。七年、南海王と共に國學に入り、共に射策で甲科に及第し、皆中書侍郎に任ぜられた。十年、武帝が朱方に行幸した時、大連は兄の大臨と共に従った。武帝が問うて言った、「汝らは騎馬を習っているか」と。答えて言った、「臣らは詔を受けず、敢えて習っておりません」と。勅して馬を与えて試させた。大連兄弟は鞍に据わって往還し、各々馳驟の節を得た。帝は大いに喜び、即ち乗っていた馬を賜った。啓を為して謝するに及んで、その文辞もまた甚だ美しかった。帝は他日に簡文に謂って言った、「昨日大臨・大連を見たが、風韻愛すべきものがあり、我が老年を慰めるに足る」と。給事黃門侍郎に遷り、侍中に転じた。

原文南郡王大連字仁靖,簡文第五子也。少俊爽,能屬文。舉止風流,雅有巧思,妙達音樂,兼善丹青。大同二年,封臨城縣公。七年,與南海王俱入國學,並射策甲科,皆拜中書侍郎。十年,武帝幸朱方,大連與兄大臨並從。武帝問曰:「汝等習騎不?」對曰:「臣等未奉詔,不敢輒習。」敕令給馬試之。大連兄弟據鞍往還,各得馳驟之節。帝大說,即賜所乘馬。及為啟謝,辭又甚美。帝他日謂簡文曰:「昨見大臨、大連,風韻可愛,足慰吾老年。」遷給事黃門侍郎,轉侍中。

太清元年、東揚州刺史として出向した。侯景が建鄴に侵入した時、大連は四万の兵を率いて来援した。台城が陥落すると、援軍は散って東揚州に還った。會稽は豊沃で、糧食・兵器が山のように積まれ、東人は侯景の苛虐を懲り、皆喜んで用いられようとしたが、大連は常に酒に沈湎していた。宋子仙がこれを攻めると、大連は城を棄てて逃走し、信安県で追い及ばれたが、大連はまだ酔ってそれに気づかなかった。ここに三呉は悉く賊の有するところとなった。大寶元年、南郡王に封ぜられた。賊が将の趙伯超・劉神茂を遣わして攻めて来ると、大連は専ら部将の留異に委ね、城を以て賊に応じ、大連は棄てて逃走したが、賊に捕らえられた。侯景は彼を江州刺史とした。二年に遇害した。

原文太清元年,出為東揚州刺史。侯景入寇建鄴,大連率眾四萬來赴。及台城沒,援軍散還東揚州。會稽豐沃,糧仗山積,東人懲景苛虐,咸樂為用,而大連恒沈湎於酒。宋子仙攻之,大連棄城走,追及于信安縣,大連猶醉弗之覺。於是三吳悉為賊有。大寶元年,封南郡王。賊遣將趙伯超、劉神茂來攻。大連專委部將留異,以城應賊,大連棄走,為賊所獲。侯景以為江州刺史。二年遇害。

安陸王

原文安陸王

安陸王大春は字を仁經といい、簡文帝の第六子である。若くして書記に広く渉猟し、笙を吹くことを善くした。天性孝謹で、体貌は瑰偉、腰帯は十圍あった。大同六年、西豐縣公に封ぜられ、中書侍郎に任ぜられた。後に甯遠將軍となり、石頭戍軍事を知った。侯景が内寇すると、大春は京口に奔り、邵陵王に従って入援し、鍾あつ山で戦った。軍は敗れ、肥大で行くことができず、賊に捕らえられた。大寶元年、安陸郡王に封ぜられ、東揚州刺史として出向した。二年に遇害した。

原文安陸王大春字仁經,簡文第六子也。少博涉書記,善吹笙。天性孝謹,體貌瑰偉,腰帶十圍。大同六年,封西豐縣公,拜中書侍郎。後為甯遠將軍,知石頭戍軍事。侯景內寇,大春奔京口,隨邵陵王入援,戰於鍾山。軍敗,肥大不能行,為賊所獲。大寶元年,封安陸郡王,出為東揚州刺史。二年遇害。

桂陽王

原文桂陽王

桂陽王大成は字を仁和といい、簡文帝の第八子である。初め新淦公に封ぜられた。太清三年、簡文が即位すると、山陽郡王に封ぜられた。大寶元年、江陵に奔った。湘東王が制を承け、桂陽王に改封した。大成の性質は甚だ凶暴で粗野、兼ねて弓馬に便であった。江陵に至り、甲を着て夜に出たところ、人に賊と誤認され、斬りつけられて、遂に左の髻を失った。魏が江陵を陥落させた時、遇害した。

原文桂陽王大成字仁和,簡文第八子也。初封新淦公。太清三年,簡文即位,封山陽郡王。大寶元年,奔江陵。湘東王承制,改封桂陽王。大成性甚凶粗,兼便弓馬。至江陵,被甲夜出,人謂為劫,斫之,遂失左髻。魏克江陵,遇害。

汝南王

原文汝南王

汝南王大封は字を仁叡といい、簡文帝の第九子である。初め臨汝公に封ぜられた。太清三年、簡文が即位すると、宜都郡王に封ぜられた。大寶元年、江陵に奔った。湘東王が制を承け、汝南王に封ぜた。魏が江陵を陥落させた時、遇害した。

原文汝南王大封字仁叡,簡文第九子也。初封臨汝公。太清三年,簡文即位,封宜都郡王。大寶元年,奔江陵。湘東王承制,封汝南王。魏克江陵,遇害。

瀏陽公

原文瀏陽公

瀏陽公大雅は字を仁風といい、簡文帝の第十二子である。大同九年、瀏陽縣公に封ぜられた。若くして聡明で機敏、姿儀が美しく、特に武帝に愛された。台城が陥落した時、大雅はなお左右に命じて格闘させた。賊が次第に多くなると、自ら縋り下り、発憤して病を感じて薨じた。

原文瀏陽公大雅字仁風,簡文第十二子也。大同九年,封瀏陽縣公。少聰警,美姿儀,特為武帝所愛。台城陷,大雅猶命左右格戰。賊至漸眾,乃自縋而下,發憤感疾薨。

新興王

原文新興王

新興王大莊は字を仁禮といい、簡文帝の第十三子である。性質は躁動であった。大同九年、高唐縣公に封ぜられた。大寶元年、新興郡王に封ぜられ、南徐州刺史の位にあった。二年に遇害した。

原文新興王大莊字仁禮,簡文第十三子也。性躁動。大同九年,封高唐縣公。大寶元年,封新興郡王,位南徐州刺史。二年遇害。

西陽王

原文西陽王

西陽王蕭大鈞は字を仁博といい、簡文帝の第十四子である。性質は重厚で、みだりに戯れ弄ぶことはなかった。七歳の時、武帝が嘗て何の書を読むかと問うと、詩を学ぶと答えた。そこで諷誦を命じると、即座に周南を誦し、音韻は清雅であった。帝はこれを重んじ、王羲之の書一卷を賜った。大寶元年、西陽郡王に封ぜられ、丹陽尹の位に就いた。二年、揚州を監し、害に遇う。

原文西陽王大鈞字仁博,簡文第十四子也。性厚重,不妄戲弄。年七歲,武帝嘗問讀何書,對曰學詩。因令諷誦,即誦周南,音韻清雅。帝重之,因賜王羲之書一卷。大寶元年,封西陽郡王,位丹陽尹。二年,監揚州,遇害。

武甯王

原文武甯王

武甯王蕭大威は字を仁容といい、簡文帝の第十五子である。風儀は美しく、眉目は画の如し。大寶元年、武甯郡王に封ぜられる。二年、丹陽尹となり、害に遇う。

原文武甯王大威字仁容,簡文第十五子也。美風儀,眉目如畫。大寶元年,封武甯郡王。二年,為丹陽尹,遇害。

大訓

原文大訓

皇子蕭大訓は字を仁德といい、簡文帝の第十六子である。幼少より脚に疾あり、履を躡むことを敢えなかった。太清三年、未だ封を受けずして亡くなり、年十歳。

原文皇子大訓字仁德,簡文第十六子也。少而腳疾,不敢躡履。太清三年,未封而亡,年十歲。

建平王

原文建平王

建平王蕭大球は字を仁玉といい、簡文帝の第十七子である。大寶元年、建平郡王に封ぜられる。性質は明慧にして夙に成る。初め、侯景が台城を囲んだ時、武帝は平素より心を釈教に帰し、毎たび誓願を発して常に云う、「もし衆生にして諸の苦を受くべきあらば、衍(武帝の名)の身代わりに当たるべし」と。時に大球は年甫め七歳、これを聞き驚いて母に謂いて曰く、「官家(天子)すら尚おかくの如し、児安んぞ敢えて辞せんや」と。乃ち六時に仏を礼し、亦た云う、「凡そ衆生にして苦報を獲るべきは、悉く大球代わりに受く」と。その早慧、かくの如し。二年、害に遇う。

原文建平王大球字仁玉,簡文帝第十七子也。大寶元年,封建平郡王。性明慧夙成。初,侯景圍台城,武帝素歸心釋教,每發誓願,恒云:「若有眾生應受諸苦,衍身代當。」時大球年甫七歲,聞而驚謂母曰:「官家尚爾,兒安敢辭。」乃六時禮佛,亦云:「凡有眾生應獲苦報,悉大球代受。」其早慧如此。二年遇害。

義安王

原文義安王

義安王蕭大昕は字を仁朗といい、簡文帝の第十八子である。年四歳の時、母の陳夫人が卒すと、便ち哀毀して成人の若く有り、晨夕涕泣し、眼之が為に傷つく。武帝が崩ずるに及び、大昕は簡文(簡文帝)を奉慰し、嗚噎して自勝えず、左右掩泣せざる者なし。大寶元年、義安郡王に封ぜられる。二年、害に遇う。

原文義安王大昕字仁朗,簡文帝第十八子也。年四歲,母陳夫人卒,便哀毀有若成人,晨夕涕泣,眼為之傷。及武帝崩,大昕奉慰簡文,嗚噎不自勝,左右莫不掩泣。大寶元年,封義安郡王。二年遇害。

綏建王

原文綏建王

綏建王蕭大摯は字を仁瑛といい、簡文帝の第十九子である。幼くして雄壮にして胆気有り、台城陥落に及び、乃ち歎じて曰く、「大丈夫会に当に虜属を滅すべし」と。奶媼驚きて其の口を掩い、曰く、「妄りに言う勿れ、禍将に及ばん」と。大摯笑って曰く、「禍の至るは此れに由るに非ず」と。大寶元年に封ぜられ、二年に害に遇う。

原文綏建王大摯字仁瑛,簡文第十九子也。幼雄壯有膽氣,及台城陷,乃歎曰:「大丈夫會當滅虜屬。」奶媼驚掩其口,曰:「勿妄言,禍將及。」大摯笑曰:「禍至非由此。」大寶元年封,二年遇害。

楽良王

原文樂良王

楽良王蕭大圜は、簡文帝の第二十子である。大寶元年に封ぜられる。後に周に入る。隋に仕えて位は内史侍郎。

原文樂良王大圜,簡文第二十子也。大寶元年封。後入周。仕隋位內史侍郎。

元帝子

原文元帝子

元帝の諸子。徐妃は武烈世子蕭方等を生む。王貴嬪は貞惠世子蕭方諸、始安王蕭方略を生む。袁貴人は湣懷太子蕭方矩を生む。夏貴妃は敬皇帝(敬帝蕭方智)を生む。その余は顕れず。

原文元帝諸子。徐妃生武烈世子方等。王貴嬪生貞惠世子方諸、始安王方略。袁貴人生湣懷太子方矩。夏貴妃生敬皇帝。自餘不顯。

武烈世子

原文武烈世子

武烈世子方等、字は實相、元帝の長子である。幼少より聡明で、俊才あり、騎射を善くし、特に巧思に長じた。性は林泉を愛し、特に散逸を好んだ。かつて論を著して曰く、「人生処世するは、白駒の隙を過ぐるが如し。一壺の酒は以て性を養うに足り、一簞の食は以て形を怡ばしむるに足る。蒿蓬に生まれ、溝壑に葬られんも、瓦棺石槨、何を以て茲これに異ならん。吾嘗て魚となるを夢み、因りて鳥と化す。其の夢める時に当たりては、何の楽しみか之が如くんば有らん、其の覚むるに及びては、何の憂いか斯の類の如からん、良に吾の魚鳥に及ばざる者遠きに由る。故に魚鳥の飛び浮かぶは、其の志性に任す、吾が進退は、恒に掌握に在り。首を挙ぐれば触るるを懼れ、足を揺すれば堕つるを恐る。若し吾をして終に魚鳥と同遊するを得しめば、則ち人間を去ること屣を脱ぐが如きのみ」と。初め、徐妃は嫉妒を以て寵を失い、方諸の母王氏は冶容を以て幸嬖せられた。王夫人の終(没)するに及び、元帝は徐妃に帰咎し、方等は意自ら安からず。元帝之を聞き、又方等を悪み、方等益々懼れ、故に此の論を述べて以て其の志を申べた。

原文武烈世子方等字實相,元帝長子也。少聰敏,有俊才,善騎射,尤長巧思。性愛林泉,特好散逸。嘗著論曰:「人生處世,如白駒過隙耳。一壺之酒,足以養性,一簞之食,足以怡形。生在蒿蓬,死葬溝壑,瓦棺石槨,何以異茲。吾嘗夢為魚,因化為鳥。方其夢也,何樂如之,及其覺也,何憂斯類,良由吾之不及魚鳥者遠矣。故魚鳥飛浮,任其志性,吾之進退,恒在掌握。舉首懼觸,搖足恐墮。若使吾終得與魚鳥同遊,則去人間如脫屣耳。」初,徐妃以嫉妒失寵,方諸母王氏以冶容幸嬖。及王夫人終,元帝歸咎徐妃,方等意不自安。元帝聞之,又惡方等,方等益懼,故述此論以申其志。

時に武帝年高く、諸王の長子を見んと欲した。元帝は方等を遣わし、方等は欣然として舟に昇り、憂辱を免れんことを冀った。行きて繇水に至り、侯景の乱に遇う。元帝之を召すと、方等啓して曰く、「昔、申生其の死を愛さず、方等豈に其の生を顧みんや」と。元帝書を省みて嘆息し、還る意無きを知り、乃ち歩騎一万を配し、台城を援けしむ。賊毎に来りて攻むるに、方等必ず身を以て矢石に当たる。城陥ち、方等は荊州に帰り、士馬を收集し、甚だ衆和を得た。元帝始めて其の能を歎じた。方等又城柵を修築して、不虞に備うるを勧め、既に成るや、楼雉相望み、周回七十余里。元帝之を観て甚だ悦び、入りて徐妃に謂ひて曰く、「若し更に一子此の如き有らば、吾復た何をか憂えん」と。徐妃答えず、泣きを垂れて退く。元帝之を忿り、因りて其の穢行を疏しょして大合に牓かかげしむ。方等入りて見、益々以て自ら危うしとす。

原文時武帝年高,欲見諸王長子。元帝遣方等,方等欣然升舟,冀免憂辱。行至繇水,遇侯景亂,元帝召之,方等啟曰:「昔申生不愛其死,方等豈顧其生。」元帝省書歎息,知無還意,乃配步騎一萬,使援台城。賊每來攻,方等必身當矢石。城陷,方等歸荊州,收集士馬,甚得眾和。元帝始歎其能。方等又勸修築城柵,以備不虞,既成,樓雉相望,周回七十餘里。元帝觀之甚說,入謂徐妃曰:「若更有一子如此,吾復何憂。」徐妃不答,垂泣而退。元帝忿之,因疏其穢行牓於大合,方等入見,益以自危。

時に河東王は湘州刺史たり、令を受けず。方等之を征せんことを求め、元帝之に謂ひて曰く、「汝に水厄有り、深く之を慎むべし」と。都督に拝し、南討を令す。方等臨行に所親に謂ひて曰く、「吾が此の段出征するは、必ず死して二つ無く、死して所を獲ば、吾豈に生を愛せんや」と。麻溪に至るに及び、軍敗れて溺死し、屍を求むるも得ず。元帝之を聞きて心喜び、以て戚とせず。後其の才を追思し、侍中・中軍將軍・揚州刺史を贈り、諡して忠壯世子と曰ひ、並びに魂を招きて以て之を葬る。

原文時河東王為湘州刺史,不受令。方等求征之,元帝謂曰:「汝有水厄,深宜慎之。」拜為都督,令南討。方等臨行謂所親曰:「吾此段出征,必死無二,死而獲所,吾豈愛生。」及至麻溪,軍敗溺死,求屍不得。元帝聞之心喜,不以為戚。後追思其才,贈侍中、中軍將軍、揚州刺史,諡忠壯世子,並招魂以葬之。

方等は范曄の後漢書に注し、未だ就かず。撰する所の三十國春秋及び篤靜子は世に行わる。

原文方等注范曄後漢書,未就。所撰三十國春秋及篤靜子行於世。

元帝即位し、改めて諡して武烈世子と曰ふ。子の莊を封じて永嘉王とす。魏の江陵を克つに及び、莊年甫わずか七歳、人家に匿さる。後、王琳迎へて建鄴に送る。敬帝立つに及び、斉に出質す。敬帝太平二年、陳武帝将に禅を受けんとす。王琳、斉に請うて莊を以て梁の嗣を主たらしめ、盆城より江を済わたる。二月、即ち帝位に即くこと郢州に於て、年号天啓、百官を置く。王琳其の軍国を総ぶ。明年、莊は陳人に敗れ、其の御史中丞劉仲威奉じて寿陽に奔り、遂に斉に入る。斉の武平元年、特進・開府儀同三司を授けられ、梁王に封ぜらる。斉朝は興復を許すも、竟に果たさずして斉亡び、莊は鄴に在りて気を飲みて死す。

原文元帝即位,改諡武烈世子。封子莊為永嘉王。及魏克江陵,莊年甫七歲,為人家所匿。後王琳迎送建鄴。及敬帝立,出質于齊。敬帝太平二年,陳武帝將受禪,王琳請莊于齊以主梁嗣,自盆城濟江。二月,即帝位於郢州,年號天啟,置百官。王琳總其軍國。明年,莊為陳人所敗,其御史中丞劉仲威奉以奔壽陽,遂入齊。齊武平元年,授特進、開府儀同三司,封梁王。齊朝許以興復,竟不果而齊亡,莊在鄴飲氣而死。

貞惠世子

原文貞惠世子

貞惠世子方諸、字は明智、元帝の第二子である。幼くして聰警博學、老・易に明るく、玄を談ずるを善くし、風采清越、特に元帝に愛せられ、母王氏又寵有り。方等の敗れたる後に及び、元帝之に謂ひて曰く、「廃する所有らざれば、其れ何を以て興らん。汝の兄を以て念ふこと勿れ」と。因りて中撫軍將軍を拝して以て自ら副えしむ。又出でて郢州刺史と為り、江夏を鎮め、鮑泉を行事とす。時に元帝は徐文盛を遣わして侯景の将任約と相持たしむ。方諸年十五、童心未だ革あらたまらず、文盛の近きに在るを恃み、軍政を恤おもんぱからず、日々鮑泉と蒱酒を以て楽しましむ。侯景之を知り、乃ち其の将宋子仙を遣わして間道より之を襲わしむ。百姓奔りて告ぐるも、方諸と鮑泉並びに信ぜず、曰く、「文盛大軍下に在り、虜安んぞ来たらんや」と。始めて門を閉ぜしむるを命ずるも、賊已に城に入る。方諸方に泉の腹に踞すわり、五色の毦じゅうもうを以て其の須ひげを辮あむ。子仙方諸を執して帰る。王僧辯の軍蔡洲に至り、景遂に之を害す。元帝追諡して貞惠世子と曰ふ。

原文貞惠世子方諸字明智,元帝第二子也。幼聰警博學,明老、易,善談玄,風采清越,特為元帝所愛,母王氏又有寵。及方等敗後,元帝謂曰:「不有所廢,其何以興。勿以汝兄為念。」因拜中撫軍將軍以自副。又出為郢州刺史,鎮江夏,以鮑泉為行事。時元帝遣徐文盛與侯景將任約相持,方諸年十五,童心未革,恃文盛在近,不恤軍政,日與鮑泉蒱酒為樂。侯景知之,乃遣其將宋子仙從間道襲之。百姓奔告,方諸與鮑泉並不信,曰:「文盛大軍在下,虜安得來?」始命閉門,賊已入城。方諸方踞泉腹,以五色毦辮其須。子仙執方諸以歸。王僧辯軍至蔡洲,景遂害之。元帝追諡貞惠世子。

湣懷太子

原文湣懷太子

湣懷太子方矩、字は德規、元帝の第四子である。少しく勤學し、容止美し。初め南安侯に封ぜらる。太清の初め、累遷して侍中、中衛將軍。元帝制を承け、王太子に拝し、名を元良と改む。承聖元年十一月丙子、皇太子に立てらる。儲位に昇るに及び、群下に昵狎し、微服を著するを好む。嘗て朝に入り、公服の中に碧絲布の袴を著け、衣を摳かかげて高し。元帝之を見て大いに怪しみ、尚書周弘正を遣わして之を責め、因りて太子をして弘正に師たらしむ。佗日、弘正謁見す。元帝問ひて曰く、「太子比ちかごろ頗る卿の導きを受くや否や」と。対へて曰く、「太子の聖德乃ち未だ日新に極まらず、幸いに大過無し」と。帝曰く、「卿は我が父子の故を以て未だ直言せず、従容の間に、和嶠の対を失ふこと無かれ」と。便ち廃立の計有り。未だ行はれざるに江陵喪亡し、害に遇ふ。太子は聰穎にして凶暴猜忍、俱に元帝の風有り。敬帝制を承け、追諡して湣懷太子と曰ふ。

原文湣懷太子方矩字德規,元帝第四子也。少勤學,美容止。初封南安侯。太清初,累遷侍中,中衛將軍。元帝承制,拜王太子,改名元良。承聖元年十一月丙子,立為皇太子。及升儲位,昵狎群下,好著微服。嘗入朝,公服中著碧絲布袴,摳衣高,元帝見之大怪,遣尚書周弘正責之,因使太子師弘正。佗日,弘正謁見,元帝問曰:「太子比頗受卿導不?」對曰:「太子聖德乃未極日新,幸無大過。」帝曰:「卿以我父子故未直言,從容之間,無失和嶠之對。」便有廢立計。未及行而江陵喪亡,遇害。太子聰穎凶暴猜忍,俱有元帝風。敬帝承制,追諡湣懷太子。

始安王

原文始安王

始安王方略、元帝の第十子、貞惠世子の母弟なり。母王氏は王琳の次姉、元帝即位し、貴嬪に拝し、次妹又良人と為り、並びに寵倖を蒙り、方略益々鍾愛せらる。侯景乱に及び、元帝は魏と好を結び、方略年数歳にして便ち関中に入らしむ。元帝親しく近畿に送り、手を執りて歔欷す。既にして駕を旋めぐらして之を憶ひ、詩を賦して曰く、「如何いかんぞ吾が幼子、勝衣已に別離す、十日宴ふる由無く、千里遠垂を送る」と。長安に至りて即ち還るを得、贈遺甚だ厚し。江陵喪亡し、害に遇ふ。貴嬪・良人並びに更に子を誕むれども、未だ合(宮)を出でず、封無く名を失ふ。

原文始安王方略,元帝第十子,貞惠世子母弟也。母王氏,王琳之次姊,元帝即位,拜貴嬪,次妹又為良人,並蒙寵倖,方略益鍾愛。侯景亂,元帝結好于魏,方略年數歲便遣入關。元帝親送近畿,執手歔欷,既而旋駕憶之,賦詩曰:「如何吾幼子,勝衣已別離,十日無由宴,千里送遠垂。」至長安即得還,贈遺甚厚。江陵喪亡,遇害。貴嬪、良人並更誕子,未出合,無封失名。

【論】

原文【論】

論じて曰く、簡文は寇戎を提挈し、元帝は崎嶇として危乱に処す。諸子の艱棘を備に践むは、蓋し時運の鍾むる所か。武烈は幹蠱の材を以て、塚嗣の任に居るも、竟に当年擯落せらる。通塞亦た命と云ふべし、哀しきかな。

原文論曰:簡文提挈寇戎,元帝崎嶇危亂,諸子之備踐艱棘,蓋時運之所鍾乎。武烈以幹蠱之材,居塚嗣之任,竟亦當年擯落,通塞亦云命也,哀哉!