南史 卷五十三 列傳第四十三 梁武帝諸子

南史

卷五十三 列傳第四十三 梁武帝諸子

武帝に八人の男子あり。丁貴嬪は昭明太子統・簡文皇帝・廬陵威王續を生む。阮修容は孝元皇帝を生む。吳淑媛は 章王綜を生む。董昭儀は南康簡王績を生む。丁充華は邵陵攜王綸を生む。葛修容は武陵王紀を生む。

昭明太子

昭明太子統、字は德施、小字は維摩、武帝の長子なり。斉の中興元年九月、襄陽にて生まる。武帝は既に強仕の年に垂れ、方に塚嗣有りし時、徐元瑜降り、また續より荊州の使至りて「蕭穎胄暴卒す」と云う。時に人これを三慶と謂う。少日にして建鄴平らぎ、識者は天命の集まる所を知る。

天監元年十一月、皇太子に立てらる。時に年幼く、旧に依りて内に居り、東宮の官属を拝し、文武皆永福省に入り直す。五年六月庚戌、出でて東宮に居る。

太子は生まれながらに聡叡にして、三歳にして孝経・論語を受け、五歳にして五経を遍く読み、悉く諷誦に通ず。性仁孝にして、宮を出でてより、恒に思恋して楽しまず。帝之を知り、毎に五日に一朝し、多く便ち永福省に留め、或いは五日三日にして乃ち宮に還る。八年九月、寿安殿に於いて孝経を講じ、大義を尽く通ず。講畢り、親臨して国学に釈奠す。

年十二、内省にて獄官の将に讞事せんとするを見る。左右に問いて曰く「是れ皁衣なる者、何を為すや」と。曰く「廷尉の官属なり」と。召して其の書を視しむ。曰く「是れ皆な念う可し、我判を得るや否や」と。有司、統の幼きを以て、紿えて曰く「得たり」と。其の獄皆な刑罪上る。統皆な杖五十と署す。有司、具獄を抱き、為す所を知らず、具に帝に言う。帝笑いて之に従う。是より数えて訟を聴かしめ、毎に寛縱せんと欲する者有らば、即ち太子をして之を決せしむ。建康県、誣いて人を誘口せしと讞す。獄翻る。県は太子の仁愛を以て、故に軽く杖四十に当つ。令して曰く「彼若し罪を得ば、便ち闔家孥戮せらる。今、其の罪を以て之を罪せずと雖も、豈に軽罰のみにて止むべきや。可く冶に付すること十年」と。

十四年正月朔旦、帝軒に臨み、太極殿にて太子に冠す。旧制、太子は遠遊冠・金蟬翠緌纓を著す。是に至り詔して金博山を加う。太子は姿容美しく、挙止に善く、読書数行並び下り、過目皆な憶す。毎に游宴祖道す。賦詩十数韻に至り、或いは劇韻を作るも、皆な思を属するに便ち成り、点易する所無し。帝大いに仏教を弘め、自ら講説す。太子亦た素より三宝を信じ、衆経を遍く覧る。乃ち宮内に別に慧義殿を立て、専ら法集の所と為す。名僧を招引し、自ら二諦・法身の義を立つ。普通元年四月、甘露慧義殿に降る。咸に至徳の感ずる所と為す。時に俗稍々奢り。太子は己を以て物に率いんと欲し、服御質素にし、身は浣衣を衣、膳は肉を兼ねず。

三年十一月、始興王憺薨ず。旧事、東宮の礼は傍親を絶つを以てし、書翰並びに常儀に依る。太子以て疑いと為し、僕劉孝綽をして其の事を議せしむ。孝綽議して曰く「張鏡の撰する東宮儀記を案ずるに、『三朝に哀を発する者は、月を踰えて楽を挙げず。鼓吹寝奏し、服限も亦然り』と称す。傍絶の義を尋ぬるに、義は服を去るに在り。服は奪う可しと雖も、情豈に悲無からんや。鐃歌輟奏するは、良く亦た此の為なり。既に悲情有り、宜しく兼慕と称すべし。卒哭の後、常に依りて楽を挙げ、悲竟ると称す。此の理例相符す。猶応に兼慕と称すべしと謂い、卒哭に至るを請う」と。僕射徐勉・左率周舍・家令陸襄並びに孝綽の議に同ず。太子令して曰く「張鏡の儀記に云う、『士礼に依り、服終の月は慕悼と称す』と。又云う、『凡そ三朝に哀を発する者は、月を踰えて楽を挙げず』と。劉僕の議に云う、『傍絶の義は、義は服を去るに在り。服は奪う可しと雖も、情豈に悲無からんや。卒哭の後、常に依りて楽を挙げ、悲竟ると称す。此の理例相符す』と。情悲の説を尋ぬれば、止む所卒哭の後に非ず。情を縁りて論ずれば、此れ自ら難き一なり。張鏡の『挙楽』を用い、張鏡の『称悲』を棄つ。一鏡の言、取捨異なる有り、此れ自ら難き二なり。陸家令は止だ『多年所を歴る』と云う。恐らくは事証に非ず。復た累稔用うと雖も、意常に安からず。近く亦た嘗て此を以て外に問う。由来の立意、猶応に慕悼の言有るべしと謂う。張豈に楽を挙ぐるを大と為し、悲を称するを事と為す小なるを知らざらんや。小を用いて大を忽にする所以のもの、良く亦た以て有り。元正の六佾の如きに至りては、事は国章と為り、情或いは安からずと雖も、礼は廃す可からず。鐃吹の軍楽、之に比するも亦然り。書疏之に方ぶれば、事は則ち小と成る。差しく心に縁る可し。声楽は外より自り、書疏は内より自る。楽は他より自り、書は自己より自る。劉僕の議は、即ち情安からず。諸賢をして更に共に詳衷せしむ可し」と。司農卿明山賓・歩兵 校尉 こうい 朱異議し、「慕悼の解は、宜しく服終の月とすべし」と称す。是に於いて典書に付して用い遵わしめ、以て永准と為す。

七年十一月、貴嬪疾有り。太子永福省に還り、朝夕疾に侍し、衣帯を解かず。薨ずるに及び、歩従して喪宮に還り、殯に至るまで、水漿口に入れず。哭する毎に輒ち慟絶す。武帝中書舎人顧協に勅して旨を宣せしめて曰く「毀は性を滅さずは、聖人の制なり。喪に勝たざるは不孝に比ぶ。我有りて在り、那ぞ自ら此くの如く毀するを得ん。即ち強いて粥を進むる可し」と。太子勅を奉じ、乃ち数合を進む。是より葬に至るまで、日ごとに麦粥一升を進む。武帝又勅して曰く「汝の進むる所の過少なるを聞く。転た就きて羸瘦す。我は比更に余病無し。政に汝の此くの如きが為に、胸中亦た填塞して疾と成る。故に応に強く饘粥を加うべし。我が恒爾に心を懸くるを俟たず」と。屡勅を奉じて勧逼せらるるも、喪終の日まで止だ一溢に止まり、菜果の味を嘗めず。体素より壮にして、腰帯十圍、是に至りて減削過半す。毎に朝に入る、士庶見る者下泣せざる莫し。

太子元服を加うるより、帝便ち万機を省せしむ。内外百司奏事する者前に填塞す。太子は庶事に明らかにして、毎に奏する所の謬誤巧妄なるもの、皆な即ち弁析し、其の可否を示し、徐に改正せしめ、嘗て一人を弾糾せず。法獄を平断し、多く全宥する所有り、天下皆な仁と称す。性寛和にして衆を容れ、喜慚色に形さず。才学の士を引納し、賞愛倦むこと無し。恒に自ら墳籍を討論し、或いは学士と古今を商榷し、文章著述を継ぐ。率ね以て常と為す。時に東宮に書幾三万卷有り、名才並び集い、文学の盛んなる、晋・宋以来未だ之有らざるなり。

性山水を愛し、玄圃に於いて穿築し、更に亭館を立て、朝士名素なる者と其の中に遊ぶ。嘗て後池に舟を泛べしとき、番禺侯軌盛に此の中宜しく女楽を奏すべしと称す。太子答えず、左思の招隠詩を詠じて云く「何ぞ必ずしも絲と竹とを要せん、山水清音有り」と。軌慚じて止む。宮を出でて二十余年、音声を畜えず。薨ぜず少時前に、勅して太楽の女伎一部を賜う。略ね好む所に非ず。

普通年間(520-527年)、大軍が北へ侵攻し、都下では米価が高騰した。皇太子はこれにより粗末な衣服を着て食事を減らすよう命じた。毎度、長雨や積雪の際には、腹心の左右を里巷に巡回させ、貧困の家や路上に流離する者を視察し、密かに米を施し与え、一人当たり十石とした。また、主衣(宮中の衣類管理)の絹帛を出し、毎年常に多く襦袢と袴を作らせ、各三千領とし、冬の月に寒さに苦しむ者に施し、人に知らせなかった。もし死亡して収殮する者がない場合は、棺槥を備えた。遠近の百姓が賦役に勤苦していると聞くたびに、顔色を改めて憂いの表情を浮かべた。常に戸口が実数に満たないことを重んじ、労役による煩わしさを問題とした。呉興郡はたびたび水害により不作となり、上奏して大いなる溝渠を開削して浙江に排水すべきであるという意見があった。中大通二年(530年)春、詔を下して前交州刺史の王弈に仮節を与え、呉・呉興・信義の三郡の人丁を徴発して工事に就かせた。皇太子は上疏して言った、「謹んで承りますに、王弈らを派遣して上東三郡の人丁を動員し漕運の溝渠を開削し、震沢(太湖)を導き泄らし、呉興一境をして再び水害なからしめ、一時の労苦をもって永劫の安楽を得、必ずや後日の利益を得るということであります。未だ萌芽せざる事態は見難く、私見を申し上げます。聞くところによれば、呉興は累年収穫を失い、人々は多く流移し、呉郡の十城もまた完全な豊作ではなく、ただ信義のみが去秋に実りがありましたが、これもまた恒常的な労役の民ではありません。即日、東境の穀物はなお高価で、劫盗がたびたび起こり、所在の役所は皆これを上奏しないと聞きます。今、征戍の兵は未だ帰らず、強壮な丁男は少なく、これは小規模な工事とはいえ、恐らくはまとまり難いのではないかと危惧します。役吏が一度戸を呼べば、たちまち民の蠹(害)となります。また、人丁を出す地域は遠近一様でなく、揃って集まるまでに、すでに養蚕と農作業を妨げます。去年は豊年と称されましたが、公私ともに未だ十分に食を満たすことができず、もしまた今年失業するならば、弊害がさらに深まることを慮ります。かつて草窃の徒は多く民間の虚実を窺っており、もし善良な民が労役に従えば、掠奪や盗賊はますます増加するでしょう。呉興は未だその利益を受けず、内陸の地はすでにその弊害に苦しむことになります。この工事を一時停止し、豊作の実りを待つことはできないでしょうか」。武帝は丁重な詔をもってこれを諭した。

皇太子は天性の孝順と謹直さを備え、毎朝入朝する際、五鼓(午前4時頃)に至らぬうちから城門の開くのを待った。東宮においては、内殿で安らかに過ごすときも、座るにしても立つにしても、常に西南の方角(皇帝の居る台城)に向かった。夜間に召し出されて入朝すべきときは、端座して夜明けを待った。

三年(中大通三年、531年)三月、後池に遊び、彫文を施した船に乗って芙蓉を摘んだ。寵姫が舟を漕いでいるうちに転覆し、溺れかけたが助け出され、その際に股を痛め、帝に心配をかけることを恐れ、厳しく口止めして言わず、寝病と称して奏上した。武帝が見舞いの使者を遣わすと、自ら力を振り絞って手書の啓(上奏文)を書いた。病状がやや重篤になると、側近たちは奏上しようとしたが、なおも許さず、「どうして至尊(皇帝)に私がこのような悪い状態であることを知らせようか」と言い、そのまま嗚咽した。四月乙巳の日、病状が急変し、武帝に急報を送ったが、到着する頃には既に薨去しており、時に三十一歳であった。帝は臨んで慟哭し、哀悼の限りを尽くし、詔して袞冕(皇帝の礼服)で収殮させ、諡して昭明太子と称した。五月庚寅、安寧陵に葬り、詔して 司徒 しと 左長史の王筠に哀冊文を作らせた。朝野は嘆き驚き、都下の男女は宮門に奔走し、号泣の声が道に満ちた。四方の民衆および辺境の人々も、喪を知って皆哀慟した。

皇太子は仁恕の性格で、宮中で荊の枝を持って警備している者を見て、尋ねると、清道(道路を清める)のため人を追い払うためだと答えた。太子は再び痛みを与えることを恐れ、手板を持たせて代用させた。食事中にたびたび蠅や虫の類を見つけると、密かに膳の傍らに置き、料理人が罪を得ることを恐れ、人に知らせなかった。また、後宮の小児が攤戯(賭博遊戯)をしているのを見て、後に属する役所が獄牒(裁判記録)で攤を行う者の法を調べると、士人は流刑または徒刑に処し、庶人は徒刑に処するとあった。太子は言った、「私銭で自ら遊ぶのは、公の物を犯すものではない。この科条は重すぎる」。刑を三年に止めるよう命じ、士人は免官とした。獄牒で死刑に相当する者は必ず長期の徒刑に減刑し、これ以下は全て半減させた。

著した文集二十巻、また古今の典誥文言を撰んで『正序』十巻、五言詩の善きものを『英華集』二十巻、『文選』三十巻を編纂した。

薨去後、長子の東中郎将・南徐州刺史・華容公の蕭歓は 章郡王に封ぜられ、次子の枝江公の蕭誉は河東郡王に、曲江公の蕭詧は岳陽郡王に、蕭譬は武昌郡王に、蕭鑒は義陽郡王に封ぜられ、各二千戸を領した。女子は皆正妃の待遇と同様とした。蔡妃の供侍は通常の儀礼と同じであったが、ただ別に金華宮を立てた点が異なっていた。帝は既に嫡子を廃し庶子を立てたため、海内に噂や非難が沸き起こったので、諸子をそれぞれ大郡に封じてその心を慰めた。岳陽王の蕭詧は涙を流して拝命し、数日間食事を取らなかった。

初め、丁貴嬪が薨じたとき、皇太子は人が良き墓地を求めて、草を刈ろうとしたところ、土地を売る者が宦官の俞三副を通じて売却を求め、もし三百万銭を得られれば、そのうち百万銭を三副に与えると約束した。三副は密かに武帝に啓上し、太子が得た土地は今得られる土地ほど帝にとって吉兆ではないと言った。帝は末年になって多くを忌み嫌うようになっており、すぐにその土地を買い取るよう命じた。葬儀が終わると、墓相に長けた道士が言うには、「この地は長子に不利である。もし 厭勝 まじない を施せば、あるいは延命できるかもしれない」。そこで蠟で作った鵝やその他の物を墓の側の長子の位置に埋めた。宮監の鮑邈之と魏雅という者がおり、二人は初め共に太子に寵愛されていたが、邈之は後に雅より疎遠になり、密かに武帝に啓上して「雅が太子のために厭禱(呪いの祈祷)を行っている」と告げた。帝は密かに検分して掘らせたところ、果たして鵝などの物を発見した。大いに驚き、事の真相を究明しようとしたが、徐勉が固く諫めて止めさせた。そこでただ道士を誅殺したのみで、これにより太子は終生このことを恥じ憤慨し、そのため後継者を立てることができなかった。後に邵陵王が丹陽郡を治めたとき、邈之が郷人と婢を争った事件があり、議して誘拐略取の罪として宮中に牒を送った。簡文帝(蕭綱)は太子の冤罪を追憶し、涙を揮って邈之を誅殺した。邈之の兄の子の僧隆は宮直(宮中の宿直)であったが、以前は邈之の甥であることを知らず、即日追放した。

これに先立ち、世間に謡謡が流れた、「鹿子開城門、城門鹿子開、當開復未開、使我心徘徊。城中諸少年、逐歡歸去來」。鹿子開とは、反語(二字の音を反転させて別の語を形成する修辞)で「來子哭」となり、帝が哭するという意味である。蕭歓は以前南徐州刺史であったが、太子が果たして薨じると、中書舎人の臧厥を遣わして崇正殿で蕭歓を追い、髪を解いて臨哭させた。蕭歓は嫡孫であり、次いで帝位を継ぐべきであったが、ためらい決断しなかった。帝は天下を新たにしたばかりであり、少主をもって大業を主宰させることはできないと恐れ、また心に恨みを抱いていたため、晋安王(蕭綱)を意とし、四月上旬から五月二十一日まで猶 した末に決断した。蕭歓はただ 章王に封ぜられて任地に戻された。以前の謡謡の「心徘徊」とは、未だ定まらぬことである。「城中諸少年、逐歡歸去來」とは、再び徐州の地に戻る象徴である。蕭歓は字を孟孫といい、位は雲麾将軍・江州刺史に至った。薨じ、諡して安王と称された。子の蕭棟が後を嗣いだ。

蕭棟は字を元吉という。簡文帝が廃位されると、侯景が彼を奉じて君主とした。蕭棟はちょうど妃の張氏と葵を鋤いているところに、法駕(皇帝の車駕)が突然到来し、蕭棟は驚いてどうすべきか分からず、泣きながら輿に乗った。即位すると武徳殿に昇ったが、突然、地から湧き起こる旋風があり、華蓋を翻し飛ばして、まっすぐ端門を出て行った。当時の人々は彼の終わりが良くないことを知った。そこで年号を天正とし、昭明太子を追尊して昭明皇帝とし、安王を安皇帝とし、金華敬妃の蔡氏を敬皇后とし、太妃の王氏を皇太后とし、妃を皇后とした。間もなく、禅譲の礼を行い、蕭棟は淮陰王に封ぜられ、二人の弟の蕭橋・蕭樛と共に密室に鎖で繋がれた。侯景が敗走すると、兄弟は互いに支え合って出て行き、途中で杜崱に会い、崱が彼らの鎖を外した。弟が言った、「今日やっと横死を免れた」。蕭棟は言った、「禍福は知り難く、私はなお恐れを抱いている」。初め、王僧辯が 都督 ととく となって出発する際、元帝(蕭繹)に諮って言った、「賊を平定した後、嗣君(蕭棟)をどうするか、どのような儀注があるか分かりません」。帝は言った、「六門(宮城)の内では、兵威を極めよ」。僧辯は言った、「賊を平定する謀略は、臣がその任を負いますが、成済(魏の曹髦を しい した人物)のようなことは、別に人を挙げてください」。これにより帝は別に宣猛将軍の朱買臣に命じて残忍な行為を行わせた。ちょうど簡文帝が既に害されていたので、蕭棟らは買臣と出会い、船に呼んで共に飲んだが、飲み終わらないうちに、皆水に沈められた。

河東王蕭譽は字を重孫といい、普通二年に枝江県公に封ぜられた。中大通三年、河東郡王に改封された。累遷して南中郎将・湘州刺史となった。間もなく、侯景が建鄴を寇すと、蕭譽は救援に入り、青草湖に至ったが、台城が陥落し、詔勅により軍を返すこととなった。蕭譽は湘州の鎮所に帰還した。

当時、元帝(蕭繹)は武城に軍を駐めていたが、新たに雍州刺史となった張纘が密かに元帝に報告して言うには、「河東(蕭譽)は兵を起こし、岳陽(蕭繹の弟蕭詧)は米を集め、将来江陵を襲おうとしている」と。元帝は大いに恐れ、米を沈め船の纜を断って帰還した。そこで諮議参軍の周弘直を蕭誉のもとに派遣し、その兵糧と兵士を監督させた。蕭誉は言った、「それぞれ軍府は別である。どうして突然他人の隷下とならねばならぬのか」と。使者を三度遣わしたが、蕭誉は従わなかった。元帝は大いに怒り、世子の蕭方等を派遣してこれを征討させたが、かえって蕭誉に敗れて戦死した。また信州刺史の鮑泉に命じて蕭誉を討伐させ、併せて禍福の道理を示した。蕭誉はこれに対して言った、「進みたければ進めばよい。多くを語る必要はない」と。鮑泉は石槨寺に軍を駐め、蕭誉は迎撃したが利あらずして帰還した。鮑泉が橘洲に進軍すると、蕭誉はこれを攻めたがまた敗れた。こうして遂に包囲した。蕭誉は幼少より ぎょう 勇で、馬上で弩を用い、兼ねて胆気があり、士卒を撫でてよく衆心を得た。元帝はまた領軍の王僧弁を派遣して鮑泉に代わり蕭誉を攻撃させた。蕭誉は包囲を突破して出ようとしたが、ちょうどその麾下の将軍慕容華が王僧弁を城内に引き入れたため、遂に捕らえられた。守衛に向かって言った、「私を殺さないでほしい。七官(元帝蕭繹)に一度会い、この讒賊を申し開きできれば、死んでも恨みはない」と。主たる者は言った、「命令により許されない」と。遂に首を斬り、荊州の鎮所に送った。元帝はその首を返して葬らせた。

初め、蕭誉の敗れようとする時、鏡を取って顔を映すと、その頭が見えなかった。また長身の人が屋根を葺き、両手で地を押さえてその臍を食らうのを見た。また白い犬が驢馬のように大きく、城から出て行くのを見たが、どこへ行ったか分からなかった。蕭誉はこれを大いに嫌い、間もなく城は陥落した。

章王

章王蕭綜は字を世謙といい、武帝(蕭衍)の第二子である。天監三年、 章郡王に封ぜられた。累遷して北中郎将・南徐州刺史となった。入朝して侍中・鎮右将軍となった。

初め、蕭綜の母の呉淑媛は斉の東昏侯(蕭宝巻)の宮中にあり、寵愛は潘妃・余妃に次ぐものであった。武帝の寵愛を受けるに至り、七月目に蕭綜を生んだので、宮中では多くこれを疑った。淑媛は寵愛が衰えると怨みを抱いた。蕭綜が十四、五歳になった時、常に夢で一人の若く肥満した男が自分の首を提げて蕭綜に対面するのを見た。このようなことが一度ではなく、蕭綜が成長するにつれ、心は驚き止まなかった。頻繁に密かに淑媛に尋ねた、「夢はどのようなものか」と。夢は既に一つではなく、淑媛が夢の中の形や色を尋ねると、それは東昏侯によく似ていた。そこで密かに彼に告げて言った、「お前は七月目に生まれた子である。どうして他の皇子たちと比べられようか。お前は今、太子に次ぐ弟である。幸いに富貴を保つがよい、漏らすな」と。蕭綜は抱き合って泣き、毎日毎夜常に涙を流した。また常に静かな部屋で戸を閉め、地面に藁を敷き、髪をほどいて座った。財を軽んじ士を好み、分け与えることを止めず、ただ身に着けた古い衣服だけを残し、外の部屋で客に接する時は粗末な服を分け与えた。厨房や倉庫は常に空乏に至った。常に内室で地面に砂を敷き、終日裸足で歩き、足の裏に胼胝ができ、一日に三百里を行くことができた。かつて王氏という人士が、困窮して蕭綜に投じ訴えた。当時は大いに物がなく、ただ寝台と古い黒い複帳(二重の帳)があっただけだったが、すぐにこれを下げ渡した。その身を低くして士に下る態度は、風雲の会を伺うためであり、諸侯・王妃・公主および外部の人々は皆この心中を知っていたが、ただ武帝だけは疑わなかった。

成長してからは才学があり、文章をよくした。武帝は諸子を礼をもって遇し、朝見はあまり頻繁ではなかった。蕭綜は常に知られないことを怨んだ。出鎮するたびに、淑媛は常にこれに従って鎮所に至った。当時十五歳であったが、まだ裸で前に戯れ、昼夜の別がなかった。妃の袁氏は、 尚書令 しょうしょれい 袁昂の娘である。淑媛は常に彼女の宿泊を制限し、袁妃に対しては特に道理を尽くさず、内外に淫らな評判があった。

蕭綜は後に徐州におり、政令と刑罰は残酷暴虐で、また勇力があり、走る馬を制し、子馬や子牛を暴虐に殺した。常に私服で微行し、烏絲布の帽子を被った。夜に出ることに期度がなく、道士を招き、数術を探求した。性質は聡敏で多くのことに通じ、武帝から詔勅や上疏が届くたびに、忿恚の色を顔に表した。帝の性質は厳格で、群臣は軽々しく得失を言えず、凡そ蕭綜の行ったことは、これを知らなかった。徐州から帰還した後、頻繁に上表して便宜を述べ、辺境の経略を求めた。帝は皆優れた詔勅でこれに答えた。徐州にあるすべての練樹(シナノキ)を、斬り殺すよう命じた。帝の幼名が「練」であったためである。累次にわたり尚書僕射の徐勉に意向を伝え、襄陽に出鎮することを求めた。徐勉は敢えて言わなかったため、これによって徐勉を怒り、白団扇を贈り、その上に『伐檀』の詩を図示した。これは彼が賄賂を受け取っていると述べたのである。

西州(揚州の州治)において、別室に年に一度席を設け、斉の七廟を祭祀した。また累次微行して曲阿に至り、斉の明帝(蕭鸞)の陵を拝した。しかしなお自信が持てず、俗説で生きている者の血を死者の骨に滴らせて滲めば、父子となるというのを聞いた。蕭綜は密かに斉の東昏侯の墓を発き、その骨を出し、血を滴らせて試した。既に徴証があったので、西州で次男を生んで一ヶ月余りたった時、密かにこれを殺した。埋葬した後、夜に人を遣わしてその骨を発き取り、また試した。その残酷で忍びないことこのようであった。東宮(太子)や諸王に対面するたびに、言辞と顔色が恭遜でなかった。年の改まった後、臨川王蕭宏を見舞ったことがあり、退出して中閤に至り、蕭宏の羊車に登り、その上で糞を遺して出て行った。都下に居た時の行いの多くはこのようなものであった。

普通四年、 都督 ととく ・南兗州刺史となった。事に勤勉であったが、賓客には会わなかった。訴訟は簾を隔てて処理した。方形の車で出行する時は、輿に帷を垂れ、常に悪人がその顔を識るのを嫌うと言った。

初め、斉の旧臣の建安王蕭宝寅が魏にいたが、蕭綜は北方から来た道人の釈法鸞を求めてこれを魏に入らせ、蕭宝寅に通問させ、叔父と呼んだ。襄陽人の梁話の母が死んだ時、法鸞は蕭綜に厚く賜わるよう説き、終には任用できると述べた。蕭綜は梁話に銭五万を贈った。葬儀が終わると、側近に引き入れた。法鸞は広陵におり、往来して魏に通じることは特に頻繁で、常に淮陰の苗文寵の家に宿泊した。苗文寵のことを蕭綜に言上すると、蕭綜はこれを国常侍に引き入れた。

六年、魏の将軍元法僧が彭城を以て降伏した。帝は蕭綜に命じて諸軍を 都督 ととく させ、暫く彭城を鎮守させ、併せて徐州府の事務を摂行させた。武帝は玄象を識別し、さらに敗軍失将があることを知り、蕭綜が北方に捕らえられることを恐れ、自筆の詔勅で蕭綜に軍を抜くよう命じた。常に前軍に居て、人の後ろに居てはならないと。蕭綜は帝に気付かれるのを恐れ、魏の安豊王元延明と対峙している時、夜に密かに梁話・苗文寵と三人で騎馬にて北門を開き、汴河を渡り、遂に蕭城に奔った。自ら隊主と称し、元延明に会って拝礼した。元延明は彼を座らせ、姓名を問うたが、答えず、言った、「殿下、物識りの者をお尋ねください」と。元延明は人を召して彼を見させると、言った、「 章王です」と。元延明は喜び、地面に下りてその手を執り、その拝礼に答礼し、洛陽に送った。夜明けになると、斎内の諸閣はまだ閉じたまま開かず、衆はその由を知らず、ただ城外の魏軍が叫ぶのを聞いた、「お前たちの 章王は昨夜既に我が軍中に来ている」と。城中は既に王の所在を失い、諸軍は退却し、帰還できぬ者が多かった。湘州益陽の人任煥は常に騅馬を持ち、これに乗って退走した。任煥の足は掠奪兵に傷つけられ、人馬ともに疲弊し、任煥は橋の下で休んだが、掠奪兵がまた至った。任煥は足が痛く再び馬に上がれず、そこで馬に向かって泣いて言った、「騅子よ、私はここで死ぬ」と。馬はそこでその前脚を跪かせ、任煥はようやく馬に上がり、遂に難を免れた。蕭綜の長史江革・太府卿祖恒はともに魏軍に捕らえられ、武帝はこれを聞いて驚駭した。

蕭綜は魏に至り、位は侍中・ 司空 しくう ・高平公・丹陽王となり、梁話・苗文寵はともに光禄大夫となった。蕭綜は名を贊、字を徳文と改め、斉の東昏侯のために斬衰の喪服を追って着用し、魏の太后および群臣はともに弔問した。

八月、有司が奏上して爵位と封土を削り、その属籍を絶ち、子の蕭直の姓を悖氏に改めることを求めた。十日も経たないうちに、詔勅があり属籍を復し、蕭直を永新侯に封じた。久しくしてから呉淑媛を策免し、間もなく毒を遇って卒去した。詔勅がありその品秩を復し、諡して敬とし、蕭直にその喪を主させた。

蕭寶寅が長安を拠点として反乱を起こすと、蕭綜は再び洛陽を去って彼のもとへ奔ろうとした。魏の法では、黄河の橋を渡る際に馬に乗ってはならなかったが、蕭綜は馬に乗って通行したため、橋の役人に捕らえられて洛陽へ送られた。魏の孝莊帝の初め、 司徒 しと ・太尉の官位を歴任し、帝の姉である寿陽長公主を娶った。陳慶之が洛陽に至った時、蕭綜は上書を送って帰国を求めた。その時、呉淑媛(蕭綜の母)はまだ存命であり、勅使が蕭綜の幼少時の衣を送って届けさせた。しかし手紙が届く前に陳慶之は敗れた。間もなく、蕭綜は魏で亡くなった。

初め、蕭綜は魏で志を得ず、『聴鍾鳴』『悲落葉』を作ってその志を述べたが、当時の人々はこれを悲しまなかった者はなかった。後に梁の者が彼の棺を盗んで帰国しようとしたが、武帝(蕭衍)はなおも子としての礼をもって陵の傍らに葬った。

蕭直は字を思方といい、晋陵太守、沙州刺史の位にあった。

南康王

南康簡王蕭績は字を世謹といい、小字を四果といい、武帝の第四子である。天監七年、南康郡王に封ぜられた。十年、南徐州刺史となった。時に七歳であり、担当の役人が賄賂を受けて解任文書を書き換えたが、長史の王僧孺はそれに気づかなかった。蕭績はこれを見て詰問し、役人はすぐに自白した。人々は皆その聡明さに感嘆した。

十七年、 都督 ととく ・南兗州刺史となり、州において善政で称えられた。まもなく詔が下って召還されることとなったが、百姓の曹楽ら三百七十人が宮廷に赴いて上表し、蕭績の特に優れた事績十五か条を挙げ、州の任に留まるよう乞うた。優詔が下り、これが許された。普通四年、侍中・雲麾將軍に召され、石頭戍軍事を領した。五年、江州刺史として出向した。董淑媛(母)の喪に服し、喪に過度の礼を取り、固く職務の解除を求めた。そこで安右將軍に任じられ、石頭戍軍事を領するよう召された。まもなく護軍を加えられた。病弱で、自ら政務を視ることがなかった。大通三年、病を得て任中で薨去した。開府儀同三司を追贈され、諡は簡といった。

蕭績は遊びや嗜みが少なく、欲望も少なく、住まいに僕妾もおらず、自ら倹約に努めた。すべての租税収入は、ことごとく朝廷の倉庫に預けていた。彼が亡くなった後、少府には南康国名義の名目のない銭が数千万あった。子の蕭会理が後を嗣いだ。

蕭会理は字を長才といい、幼少より聡明で、文史を好んだ。十一歳で孤児となったが、特に武帝に愛され、衣服や礼遇の等級は正規の王と変わらなかった。十五歳で湘州刺史となり、左右の者を多く信用した。行事の劉納がたびたびこれを禁じたため、蕭会理は心に不平を抱き、劉納を収賄の罪で告発し、建鄴に送還した。劉納は嘆いて言った。「私が一度天子にお目にかかれば、お前たちに分からせてやる。」蕭会理は多額の資金と食糧を送り、たびたび慰めの言葉を遣わした。そして腹心の者に命じて青草湖で盗賊を装わせ、劉納とその一族百人をことごとく殺害させた。累進して 都督 ととく ・南兗州刺史となった。太清元年、諸軍を督率して北征し、彭城に至ったが、魏軍に敗れて本鎮に退却した。

二年、侯景が城(台城)を包囲すると、蕭会理は入援した。その時、北徐州刺史の封山侯蕭正表がその兄の蕭正徳に応じようとしており、外見は援軍に向かうと称しながら、実は広陵を襲撃しようと謀っていた。蕭会理はこれを撃破して、ようやく進軍の路を得た。台城が陥落すると、蕭会理は帰鎮した。侯景は前臨江太守の董紹先を遣わし、武帝の手ずからの詔勅を持たせて蕭会理を召し出した。その幕僚たちは言った。「董紹先の持つ文書が天子の真意であろうか。」皆、拒むよう勧めた。蕭会理はその典簽である范子鸞の計を用い、言った。「天子はご高齢で、賊虜に制せられている。今、手ずからの詔勅で私を朝廷に召されている。臣子の心として、どうしてこれに背けようか。かつ江北にいては功業を成し難い。いっそ身を挺して京都に赴き、近くで図るのがよい。」そこで董紹先を受け入れた。董紹先が入ると、烏幡で兵を指揮し、蕭会理を単騎で都に送り届けた。侯景は彼を 司空 しくう 尚書令 しょうしょれい とした。賊の手中にあっても、蕭会理は常に国家を正すことを考え、西郷侯蕭勔らと密かに腹心を配し、壮士を結集しようとした。時に范陽の祖皓が董紹先を斬り、広陵城を拠点として義兵を挙げ、蕭会理を内応とすることを期した。祖皓が敗れると、その供述に関連して蕭会理の名が挙がった。侯景は詔を偽って蕭会理の官を免じたが、なおも白衣(無官の身)のまま 尚書令 しょうしょれい を領させた。

この冬、侯景が晋熙に向かうと、都は手薄となった。蕭会理は再び柳敬礼および北兗州司馬の成欽と謀議した。柳敬礼が言った。「大事を挙げるには必ず資するものが必要だ。今は寸兵もないのに、どうして動けようか。」蕭会理は言った。「湖熟に私の旧知三千人余りがいる。先日連絡があり、期日を定めて集まると約束した。賊の守備兵は千人に過ぎないと計算される。もし大軍が外から攻め、我々が内応すれば、ただちに王偉を捕らえ、事は必ず成る。たとえ侯景が後から帰ってきても、どうすることもできまい。」柳敬礼は言った。「よろしい。」当時、民衆は賊に飽きており、皆、命を捧げようと思っていた。建安侯蕭賁がこの謀議を王偉に告げたため、王偉は蕭会理とその弟の蕭通理を捕らえた。

時に銭唐の褚冕という者がおり、蕭会理の旧友であったが、同じく官省に囚われていた。尋問で事の起こりを問われ、千回に及ぶ拷問を受けたが、終に何も言わなかった。蕭会理は隣の部屋でこれを聞き、遠くから呼びかけた。「褚郎よ、卿は私のためにこれほどの苦しみを受けるのか。しかし言うな。」王偉が蕭会理らを害した時、褚冕は結局服従しなかったが、王偉は彼を赦した。蕭会理の弟、蕭通理は字を仲宣といい、太子洗馬の位にあり、祈陽侯に封ぜられていたが、この時もまた害された。

蕭通理の弟、蕭乂理は字を季英という。生後百日で簡王(蕭績)が薨去し、三歳になって言葉を話せるようになった時、宮人たちが別れ散っていくのを見て、涙を流して見送り、その理由を尋ねた。ある者が「これは簡王の宮人たちが喪が明けて去っていくのです」と言うと、蕭乂理は声をあげて泣き、悲しみに耐えられなかった。宮人たちはこれを見て、哀れに思わない者はなく、そのために立ち去るのをやめた者が三人いた。喪が明けて武帝に拝謁した時、殿上に昇ると、また悲しみに耐えられず、帝は彼のために涙をぬぐい、左右の者に言った。「この子は大きくなれば必ず並外れた人物となるだろう。」大同八年、安楽県侯に封ぜられた。

蕭乂理は慷慨として功名を立てることを慕い、読書して忠臣烈士の事績に接するたび、未だかつて巻を閉じて嘆息しないことはなく、「一生のうちに、古人に恥じないことがあってはならない」と言った。広く博覧し、多くのことを知り、文才があった。かつて孔文挙(孔融)の墓を祭り、併せて碑を建立し、撰んだ碑文は甚だ美しかった。

侯景が内寇すると、蕭乂理は食客を集めて南兗州に赴き、兄の蕭会理に従って入援した。城が陥落すると、また蕭会理に従って広陵に戻り、そこで北斉に入って人質となり援軍を請うた。二日進んだ時、侯景が董紹先を遣わして広陵を占拠したため、追いかけて捕らえられ、厳重に監禁されて兄と会うことができなかった。そこで偽ってまず都に戻ることを請い、母に別れを告げに入った際、その姉の安固主に言った。「兄上(蕭会理)がもし(都に)至られたなら、善く計らい自ら努められ、私のことを気にかけないでほしい。私も前途で功を立てようと思うが、ただ天命がどうなるか分からないだけだ。」都に至ると、魏の降人である元貞が忠正で孤児(=自分)を託すに足ると考え、玉柄の扇を贈った。元貞は怪しんで受け取らなかったが、蕭乂理は「後で思い出すでしょう」と言った。祖皓が起兵すると、蕭乂理は長蘆に奔ったが、侯景に害された。元貞はようやく彼の前言の意味を悟り、行って遺体を収めて葬った。

廬陵王

廬陵威王蕭續は字を世欣といい、武帝の第五子である。天監八年、廬陵王に封ぜられた。若い頃より英明果断で、膂力は人に絶し、馳射すれば応発して命中した。武帝は嘆じて言うには、「これは我が任城(曹彰)である」と。かつて帝の前で馳射し、蕭續は二頭の獐を射当て、諸人の冠たるものとなった。帝は大いに喜んだ。中大通二年、 都督 ととく ・雍州刺史・甯蠻 校尉 こうい となった。大同元年、江州刺史に転じ、また驃騎将軍・開府儀同三司となった。また 都督 ととく ・荊州刺史となった。薨じ、 司空 しくう を追贈され、諡して威といった。

初め元帝の母の阮修容が寵愛を得たのは、丁貴嬪の力によるものであった。故に元帝は簡文帝と仲睦まじく、廬陵王とは幼少より親しく交わり、成長してからは誹謗し合った。元帝が荊州に臨んだ時、宮人に李桃児という者がおり、才知と聡明さによって進用され、帰還の際には李氏を伴って行った。当時行宮の戸禁は厳重であり、蕭続は詳細な状況を上奏して報告した。元帝は使者に対し涙ながらに訴えて簡文帝に取りなしを求め、簡文帝が調停して事は収まった。元帝はなおも恐れ、李氏を荊州に送り返した。世にいう西帰内人である。これより二王の書信と問いは通じなくなった。蕭続が薨じた時、元帝は江州におり、訃報を聞くと、部屋に入って跳び上がり、履き物が破れた。まもなく江州から再び荊州に転じたが、荊州の人々が我が境で出迎えると、帝は責め立てて追い返し、吏民は失望した。

蕭続は多くの馬と兵器を集め、軽捷な勇士を蓄養し、女色に耽り財を愛し、意の儘に収斂を極め、倉庫の蔵は満ち溢れた。臨終に啓上を遺し、中録事参軍の謝宣融を遣わして献上する金銀器千余点を送らせた。武帝は初めてその富を知った。財多くして徳寡しと為し、宣融に問うて言うには、「王の金はこれで尽きるのか」と。宣融は言うには、「これを多しと謂うが、どうしてこれ以上ありましょうか。王の過ちは日月の蝕の如く、陛下に知らしめんが為に、終わりまで隠さなかったのです」と。帝の心は解けた。

世子の蕭憑は罪により前に誅殺され、次子の蕭応が嗣いだ。蕭応は愚鈍で、王が薨じると、内庫に至り珍物を閲覧し、金鋌を見て左右に問うて言うには、「これは食べられるか」と。答えて言うには、「食べられません」と。蕭応は言うには、「食べられないなら、全てお前にやる」と。他の事も皆この類であった。

邵陵王

邵陵攜王蕭綸は字を世調といい、小字を六真といい、武帝の第六子である。幼少より聡明穎悟で、博学にして文章をよくし、特に尺牘に巧みであった。天監十三年、邵陵郡王に封ぜられた。

普通五年、西中郎将として南徐州の事務を権摂した。州にあっては軽薄で危険、躁急で残忍、喜怒常ならず、車服は僭上を擬し、法に非なる行いをほしいままにした。市裏を遊び歩き、賤しい隷卒と雑じった。かつて羹を売る者に問うて言うには、「刺史はどうか」と。答えた者がその躁虐であると言うと、蕭綸は怒り、羹を飲ませて死なせた。これより百姓は恐れおののき、道で目を合わせるのみであった。かつて喪車に出逢い、孝子の喪服を奪って着用し、地に伏して号泣した。簽帥は罪を恐れ、密かに上聞した。帝は初めて厳しく責めたが、蕭綸は改めず、そこで代官を派遣した。蕭綸は悖逆傲慢ますます甚だしく、一人の背が低く痩せて帝に似た老人を捕らえ、袞冕を加えて高い座に置き、君主として朝拝し、自ら無罪を陳述した。そしてその座に就かせて衣を剥ぎ取り、庭で鞭打った。突然新しい棺を作り、司馬の崔会意を中に収め、驉車と輓歌で葬送の法を行い、老女に車に乗せて悲しみ号叫させた。会意は耐えられず、軽騎で都に戻り上奏した。帝は彼が逃亡するのを恐れ、禁兵をもって捕らえさせ、獄中で自尽を賜わんとした。昭明太子が涙を流して固く諫め、免ぜられ、官を免じ爵土を削られて邸宅に帰った。大通元年、再び封爵された。

中大通四年、揚州刺史となった。蕭綸は平素より驕慢放縦で、器服を盛大にしようと、人を遣わして市で錦・采・絲布数百匹を掛け買いし、左右の職局・防合の為の絳衫や内人の帳幔に充てようとした。百姓は皆邸店を閉じて出なかった。台は引き続き少府に買い付けさせたが、時を経ても得られず、勅責があり、府丞の何智通が詳細を上奏したため、責められて邸宅に帰された。常に腹心の馬容である戴子高・戴瓜・李撤・趙智英らを路上に遣わして智通を探させ、白馬巷で彼に出逢い、槊で刺し、刃が背中から出た。智通は血で壁に「邵陵」の字を書いて絶命した。そこで事が知れた。帝は百万銭を懸けて賊を購求した。西州の游軍将の宋鵲子が姓名を列挙して啓上した。勅により舍人の諸曇粲に命じ、齋仗五百人を率いて蕭綸の邸を包囲させ、内人の檻の中で戴瓜・李撤・趙智英を捕らえた。戴子高は ぎょう 勇で、牆を越えて包囲を突破し、遂に免れた。智通の子の敞之は彼らの肉を炙って食べ、即座に新亭に載せ出し、四面から火をあぶって焦げるほどに炙った。敞之は車に銭を載せ塩蒜を設け、百姓に李撤の肉一片を食べさせるごとに賞銭一千を雇った。徒党とその母の肉は遂に尽きた。

蕭綸は邸宅に鎖で繋がれ、舍人の諸曇粲と主帥が仗身を率いて看守した。庶人に免ぜられた。三十日を経て鎖が外れ、間もなく再び封爵された。後に衡州刺史の元慶和の餞別の宴に預かり、座において十二韻の詩を賦し、末句に「方に広川国と同じく、寂寞として久しく声無し」と詠んだ。武帝は大いに賞賛し、言うには、「汝の人才この如し、何ぞ声無きを憂えん」と。十日ほどの間に、 郢州 えいしゅう 刺史に任ぜられた。

太清二年、中衛将軍・開府儀同三司の位にあった。侯景が叛逆を構えると、征討大 都督 ととく を加えられ、衆を率いて侯景を討った。出発に際し、帝は戒めて言うには、「侯景は小豎なり、行陣に頗る習熟す。一戦にして即ち殄滅すべからず、歳月を以て図るべし」と。蕭綸は白下より出発し、中流で浪が立ち、物が舟を蕩かして覆らんとした。識者は特に怪しんだ。鍾離に駐屯した時、侯景は既に採石を渡り、蕭綸は昼夜兼行で道を急ぎ、軍を返して入援した。江を渡る時、中流で風が起こり、人馬の溺れるもの十の一二に及んだ。遂に西豊公の大春・新淦公の大成等を率いて歩騎三万を京口より発し、将軍の趙伯超は近道を直ちに鍾山に向かい、不意を衝くことを請うた。蕭綸はこれに従った。諸軍が急に至ったので、賊徒は大いに驚き、三道に分かれて蕭綸を攻めた。蕭綸はこれを大破した。翌日、賊がまた来攻し、日暮れに賊は少し退いた。南安侯の蕭駿が数十騎でこれを追撃すると、賊は戻って蕭駿を防ぎ、蕭駿の部隊は乱れ、賊は大軍に迫り、大軍は潰走した。蕭綸は鍾山で戦いに敗れ、京口に奔還した。軍主の霍俊が捕らえられ、賊は城下に送り、邵陵王を既に捕らえたと偽って脅した。霍俊は偽って承諾し、言うには、「王は小敗したのみで、糧食が尽きた為に京口に還ったのです。霍俊は斥候に捕らえられたのであって、軍が敗れたのではありません」と。賊は刀の背でその腿を打ったが、霍俊は色を変えず、賊は義として彼を放った。霍俊は中書舍人の霊超の子である。

三年正月、蕭綸は東揚州刺史の大連等と入援し驃騎洲に至り、 司空 しくう に進位した。台城が陥落すると、蕭綸は禹穴に奔り、東土は皆これに帰附した。臨城公の大連は害されんことを恐れ、蕭綸を図った。蕭綸は察知して去った。尋陽に至ると、尋陽公の大心は州を譲ろうとしたが、受けなかった。

大寶元年、蕭綸は郢州に至り、刺史の南平王蕭恪は州を蕭綸に譲ろうとしたが、蕭綸は受けなかった。そこで蕭綸を仮黄鉞・ 都督 ととく 中外諸軍事に上奏した。蕭綸はここに百官を置き、聴事を正陽殿と改め、内外の齋省に悉く題署した。しかし幾度も怪異が起こり、城隍神を祭る時、牛を烹らんとすると、赤い蛇が牛の口から出て巻きついた。南浦に帳幔を設けたが、間もなく風が起こり、江に漂い沈んだ。

時に元帝は河東王蕭譽を長沙に包囲すること既に久しく、蕭譽は蕭綸に救援を請うた。蕭綸は往きて救わんとしたが、軍糧が継続せず遂に止めた。乃ち元帝に書を送りて曰く、「道の斯く美なるは、和を以て貴しと為す。況んや天時地利は人和に及ばず。豈に手足肱支、自ら相屠害すべけんや。即日大敵猶お強く、天讐未だ雪がず。余と爾と昆弟、外に在ること三人、もし匡救せずんば、安んぞ臣子を用いん。もし逆寇未だ除かれず、家禍仍って構わば、今を訪ね古を料るに、未だ或いは亡びざるは莫からん。夫れ征戦の理は、義は克勝に在り。骨肉の戦に至りては、愈々勝つは愈々酷く、捷つれば則ち功に非ず、敗るれば則ち喪有り、兵を労し義を損ない、虧失多し。侯景の軍の未だ江外を窺わざる所以は、政に蕃屏盤固、宗鎮強密なるが為なり。もし自ら魚肉と為さば、是れ景に代わって師を行わしむと謂うべし。景は便ち兵力を労せず、坐して成效を致す。醜徒此を聞けば、何の快か是れの如からん」と。元帝復書し、蕭譽に罪有りて囲みを解くべからざる状を陳ぶ。蕭綸書を省みて流涕して曰く、「天下の事、一に斯くに至る」と。左右之を聞き、掩泣せざるは莫し。ここに於いて大いに器甲を修め、将に侯景を討たんとす。

元帝其の盛んなるを聞き、乃ち王僧弁を遣わし舟師一万を帥い以て蕭綸を逼る。蕭綸の将劉龍武等、僧弁に降る。蕭綸遂に子の蕭躓等十余人と軽舟にて武昌に走る。沙門法磬は蕭綸と旧有り、之を岩石の下に蔵す。時に蕭綸の長史韋質・司馬姜偉先ず外に在り、蕭綸の敗るるを聞き、馳せ往きて迎う。元帝復た将徐文盛を遣わし追いて之を攻む。蕭綸復た卒を収めて斉昌郡に屯し、将に魏軍を引きて共に南陽を攻めんとす。侯景の将任約、蕭綸を襲う。蕭綸敗走す。定州刺史田龍祖、蕭綸を迎う。蕭綸執わらるるを懼れ、復た斉昌に帰る。行きて兵を収め汝南に至る。魏の署する所の汝南城主李素孝なる者は、蕭綸の故吏にして、城を開きて之を納る。蕭綸乃ち城池を修復し、士卒を収集し、将に竟陵を攻めんとす。魏之を聞き、大将楊忠・儀同侯幾通を遣わし城を攻め破り、蕭綸を執る。蕭綸屈せず。侯幾通乃ち大鼓を臥せ、蕭綸をして其上に坐らしめて之を殺し、江岸に投ず。日に経るも色変ぜず、鳥獸敢えて近づく莫し。時に飛雪飄零し、屍道路に横たわるも、周回数歩、独り沾灑せず。旧主帥安陸の人郝破敵、之を襄陽に斂む。葬の日、黄雪雰糅すも、唯だ塚壙の所独り雪を下さず。楊忠知りて悔い、太牢を以て往きて祭殯せしむ。百姓之を憐れみ、祠廟を立てる。岳陽王蕭察、喪を迎え遣わし、襄陽の望楚山の南に葬る。太宰を贈り、諡して安と曰う。後、元帝議して諡を追加せんとし、尚書左丞劉彀議す。諡法に「怠政交外して携と曰う」と。之に従う。

蕭綸は任情卓越し、財を軽んじ士を愛し、人の利を競わず、府に儲積無し。聞けば即ち求め、得れば即ち散じ、士も亦此を以て之に帰す。初め京口を鎮むるに、大いに器甲を造り、既に声論に渉り、之を江に投ず。後に出征するに及び、戎備頗る闕く。乃ち歎いて曰く、「吾昔仗を造るは、本より非常に備う。事無くして疑いに渉り、遂に零散せしむ。今日抄を討つも、卒に資する所無し」と。初め、昭明の薨ずるに、簡文入り居て監撫す。蕭綸は徳挙と謂わずして云く、「時に 章無きが故に、以て次に立つ」と。廬陵の没するに及び、蕭綸の觖望滋甚し、ここに於いて兵を莽に伏せ、用て車駕を伺わしむ。而して台舎人張僧胤之を知り、其の謀頗る泄る。又た蕭綸、曲阿の酒百器を献ず。上以て寺人に賜う。之を飲みて斃る。上乃ち自ら安からず、頗る衛士を加え、以て宮内を警めしむ。ここに於いて伝うる者諸相疑阻し、而して蕭綸も亦懼れず。武帝竟に廃黜する所有ること能わず、卒に宗室の争競に至り、天下の笑いと為る。

長子の蕭堅は字を長白とす。大同元年、例に以て汝南侯に封ぜらる。亦た草隸を善くし、性頗る庸短なり。嘗て親しむ所の者に与えし書に、題して「嗣王」と云う。其の人書を得て大いに駭き、執りて蕭堅を諫む。蕭堅曰く、「前言は戯れのみ」と。人曰く、「願わくは此を以て戯れと為さざらんことを」と。侯景城を囲むに、蕭堅は太陽門に屯し、終日蒱飲し、軍政を撫でず。吏士功有るも、未だ嘗て申理せず、疫癘の加うる所も、亦た存恤せず、士皆憤怨す。太清三年、蕭堅の書佐董勳華・白曇朗等、蕭堅の私室に醞釀し、亟に烹宰有りて相沾及ばざるを以て、忿恨し、夜に賊を遣わし楼に登らしむ。城遂に陥り、蕭堅害に遇う。弟に蕭確有り。

蕭確は字を仲正とす。少より ぎょう 勇にして、文才有り、尤も楷隸を工みす。公家の碑碣皆之をして書かしむ。秘書丞を除く。武帝之に謂いて曰く、「汝が文能くするが為に、故に特此の授有り」と。大同二年、正階侯に封ぜられ、復た永安に徙封さる。常に第中に騎射を習い、兵法を学ぶ。時人狂と為す。左右或いは進みて諫む。蕭確曰く、「吾が国の為に賊を破るを聴け、汝をして知らしめん」と。

鍾山の役に、蕭確の向かう所披靡し、群賊之を憚る。蕭確は毎に陣に臨み敵に対し、意甚だ詳贍なり。甲を帯び鞍に拠り、朝より夕に及び、馳驟往反し、以て労と為さず。諸将其の壮勇に服す。軍敗るるや、賊之をして砲を負わしむ。之を知らず。蕭確は隙に因りて自ら抜け、朱方に達するを得たり。

後に侯景盟を乞うに及び、蕭確及び趙威方の外に在るを憚り、後患と為るを慮り、啓して確を召し入城せんことを求む。詔して乃ち蕭確を召し南中郎将・広州刺史と為す。蕭確は此の盟多く貳り、城必ず淪没すべきを知り、先ず趙威方を遣わし入らしめ、蕭確は因りて南奔せんと欲す。蕭綸之を聞き、蕭確を逼りて使いて入らしむ。蕭確猶お肯わず。蕭綸流涕して之に謂いて曰く、「汝は反かんと欲するか」と。時に台使周石珍坐に在り。蕭確曰く、「侯景は去らんと云うと雖も、而して長囲を解かず。意を以て推すに、其の事見るべし。今我を召し入るるは、未だ益を見ず」と。石珍曰く、「勅旨斯くの如し。侯豈に辞するを得んや」と。蕭確の執意猶お堅し。蕭綸大いに怒り、趙伯超に謂いて曰く、「譙州、卿我が為に之を斬れ。当に首を齎して闕に赴くべし」と。伯超は刃を揮い眄して曰く、「我は君を識るのみ。刀豈に君を識らんや」と。蕭確流涕して出で、遂に城に入る。侯景盟に背き復た城を囲むに及び、城陥る。蕭確は闥を排し入りて啓す。時に武帝方に寝す。蕭確曰く、「城已に陥れり」と。帝曰く、「猶お一戦すべからずや」と。対えて曰く、「人心すべからず。臣向かって格戦すれど禁ぜず、縋り下りて僅かに此に至るを得たり」と。武帝歎いて曰く、「我之を得、我之を失う。亦た復た何をか恨みん。幸いに子孫を累わさず」と。乃ち蕭確をして慰労の文を為さしめ、之に謂いて曰く、「爾速やかに去りて汝が父に謂え、二宮を以て念いと為す無かれ」と。

出でて侯景を見るに及び、侯景其の膂力を愛し、恒に左右に在らしむ。後に侯景に従い仰ぎて飛鳶を見る。群賊争いて射るも中たらず。蕭確之を射れば応弦即ち落つ。賊徒忿嫉し、皆之を除かんことを勧む。先に蕭綸は典签唐法隆を遣わし密かに蕭確を導かしむ。蕭確使者に謂いて曰く、「侯景は軽恌なり。一夫の力にて致すべし。蕭確は死を惜しまず、手ずから之を刃せんと欲す。卿還りて家王に啓せよ。願わくは一子を以て念いと為す無かれ」と。後に侯景と鍾山に狩し、同じく禽を逐う。弓を引き将に侯景を射んとす。弦断えて発するを得ず。賊覚えて之を殺す。

武陵王

武陵王蕭紀は字を世詢とす。武帝の第八子なり。少よりして寬和にして、喜怒色に形せず、勤学して文才有り。天監十三年、武陵王に封ぜらる。尋いで揚州刺史を授かる。中書の詔成るに、武帝四句を加えて曰く、「貞白儉素、是れ其の清なり。財に臨みて能く譲る、是れ其の廉なり。法を知りて犯さず、是れ其の慎なり。庶事留まる無し、是れ其の勤なり」と。蕭紀は特に関帝に愛せられ、故に先ず揚州に牧と作る。

大同三年、 都督 ととく ・益州刺史に任ぜられた。路遠きを以て固く辞す。帝曰く、「天下方に乱る。唯だ益州は免る可し。故に汝を処す。汝其れ之を勉めよ」と。紀は歔欷し、既に出でて復た入る。帝曰く、「汝嘗て我が老いりと言えり。我は猶ほ汝の益州に還るを見ん」と。紀は蜀に在りて、建寧・越嶲を開き、方物を貢献し、十倍前人なり。朝其の績を嘉し、開府儀同三司を加う。初め、天監中、太陽門震い、字を成して曰く、「紹宗梁位唯武王」と。解する者、武陵王を以て之に当たるとす。是に於いて朝野意を属す。侯景台城を陥すに及び、上甲侯韶西上して硤に至り、武帝の密勅を出し、紀に侍中・仮黄鉞・ 都督 ととく 征討諸軍事・驃騎大将軍・太尉・承制を加う。大寶元年六月辛酉、紀乃ち諸州征鎮に移告し、世子圓照を遣わして二蜀の精兵三万を領せしめ、湘東王繹の節度を受く。繹は圓照に命じて且く白帝に頓せしめ、未だ東下を許さず。七月甲辰、湘東王繹は鮑検を遣わし、武帝崩御の報を以て紀に報ず。十一月壬寅、紀は総戎して将に益鎮を発せんとす。繹は胡智監をして蜀に至らしめ、書を以て之を止めて曰く、「蜀中は斗絶し、動き易く安んじ難し。弟は之を鎮す可し。吾自ら賊を滅すべし」と。又別紙に云く、「地は孫・劉に擬し、各境界を安んず。情は魯・衛に深く、書信恒に通ず」と。

二年四月乙丑、紀は乃ち蜀に於いて僭号し、年を改めて天正と曰う。暗に蕭棟と同名なり。識者は之を尤む。文に於いて「天」は二人、「正」は一止と為すに以為り、各一年にして止むを言うなり。紀は又子の圓照を立てて皇太子と為し、圓正を西陽王と為し、圓満を竟陵王と為し、圓普を南譙王と為し、圓肅を宜都王と為す。巴西・梓潼二郡太守永豊侯撝を以て征西大将軍・益州刺史と為し、秦郡王に封ず。司馬王僧略・直兵参軍徐怦並びに固く諫む。皆之を殺す。僧略は僧辯の弟、怦は勉の従子なり。諫むるを以て、且つ怦が将帥に与うる書に「事事往人に口具す」と云えるを以て、己に反すと為し、之を誅す。永豊侯撝歎じて曰く、「王克つ可からず。夫れ善人は国の基なり。今乃ち之を誅す。亡びざる何をか待たん」と。又親しむ所に謂ひて曰く、「昔、桓玄の年号大亨、識者は『二月了』と謂えり。而して玄の敗れしは実に仲春に在り。今年を天正と曰う。文に於いて『一止』と為す。其れ能く久しからんや」と。丁卯、元帝は万州刺史宋簉を遣わし、白帝に於いて圓照を襲わしむ。圓照の弟圓正、時に西陽太守たり。召し至り、省内に鎖す。

初め、楊幹運は梁州刺史を求めて得ず。紀は之を潼州刺史と為す。楊法深は黎州刺史を求めて亦得ず。之を沙州刺史と為す。二人皆憾みて請う所を得ず。各使を遣わして西魏に通ず。魏軍の蜀を侵すを聞くに及び、紀は其の将譙淹を遣わし、軍を回らして赴援せしむ。魏将尉遅迥は涪水に逼る。楊幹運之に降る。迥は即ち成都に趨る。

五月己巳、紀は西陵に次ぐ。軍容甚だ盛ん。元帝は護軍将軍陸法和に命じ、峡口に二城を立て、七勝城と名づけ、江を鎖して以て峡を断つ。時に陸納未だ平らず、蜀軍復た逼る。元帝甚だ憂う。法和急を告ぐ。旬日相継ぐ。元帝は乃ち任約を獄より抜き、以て晋安王司馬と為し、禁兵を撤して以て之に配す。並びに宣猛将軍劉棻を遣わし、約と共に西赴せしむ。六月、紀は連城を築き、鉄鎖を攻めて絶つ。元帝は復た獄より謝答仁を抜き、歩兵 校尉 こうい と為し、衆一旅を配して上赴せしむ。紀の将に発せんとするや、江水は掲ぐ可し。前部行くを得ず。舟に登るに及び、雨無くして水六尺長ず。劉孝勝喜びて曰く、「殆ど天の賛するなり」と。将に峡に至らんとするに、黒龍有りて舟を負う。其の将帥皆天の助けと謂う。兵を頓すること日久しく、頻りに戦いて利あらず、師老い糧尽き、智力俱に殫く。又魏人剣閣に入り、成都虚弱なり。憂懣として為す所を知らず。

先に、元帝は既に侯景を平らげ、俘馘を執る所のものを、頻りに遣わして紀に報ず。世子圓照は巴東を鎮め、留め執して遣わさず。紀に啓して云く、「侯景未だ平らがず。宜しく急ぎ征討すべし。已に聞く、荊鎮は景の為に滅ぼされしと。疾く大軍を下せ」と。紀は実然りと謂い、故に仍って衆を率いて江に沿いて急進す。路に於いて方に侯景の既に平らげられたるを知り、便ち悔色有り。圓照を召して之を責む。圓照曰く、「侯景は誅せられたりと雖も、江陵未だ服せず。宜しく速やかに平蕩すべし」と。紀も亦既に尊位に居るを以て、衆に宣言し、敢えて諫むる者は死すとす。蜀中の将卒日夜帰を思う。署する所の江州刺史王開業進みて曰く、「宜しく根本に還り救い、更に後図を思うべし」と。諸将僉に然りと為す。圓照・劉孝勝独り不可と言う。紀は乃ち止む。既にして王琳の将に至らんとするを聞き、潜かに将軍侯叡を遣わし、険に傍いて法和の後に出で、水に臨みて壘を築き、琳及び法和を禦ぐ。元帝は書を遺わして紀にし、光州刺史鄭安中を遣わし往きて意を紀に喩えしむ。其の蜀に還り、崏方を専制するを許す。紀は命に従わず、報書は家人の礼の如し。既にして侯叡は任約・謝答仁の為に破られ、又陸納平らぎ、諸軍並びに西赴す。元帝は乃ち紀と書して曰く、「甚だ苦しきかな大智。季月煩暑、流金石を鑠かし、蚊を聚めて雷と成し、封狐千里。茲を以て玉体、辛苦行陣し、乃ち西を睠み顧みる。我が労如何。獯醜の憑陵し、羯胡の叛換するより、吾年一日の長有り、属に平乱の功有り。此の楽推に膺り、事は当璧に帰す。儻や使を遣わさば、良に希う所なり。如し然らずと曰わば、此に於いて筆を投ぜん。友于兄弟、形を分ち気を共にす。兄肥え弟痩せ、復た相代わるの期無し。棗を譲り梨を推す、長く歓愉の日を罷む。上林静かに拱し、四鳥の哀鳴を聞き、宣室図を披き、万始の長逝を嗟く。心乎愛す、書言を尽くさず」と。大智は紀の別字なり。帝は又詩を為りて曰く、「回首して荊門を望めば、驚浪且つ雷の奔るが如し。四鳥長別を嗟き、三声夜猿に悲しむ」と。圓正は獄中に在りて句を連ねて曰く、「水長じて二江急し、雲生じて三峡昏し。願わくは淮南の罪を貰い、思いて阜陵の恩に報ぜん」と。帝詩を見て泣く。

紀は頻りに敗れ、振わざるを知り、署する度支尚書楽奉業を遣わし、江陵に往きて和緝の計を論ぜしむ。元帝は紀必ず破るるを知り、遂に拒みて許さず。是に於いて両岸十余城遂に俱に降る。遊撃将軍樊猛、率いる所の領を紀の所に至らしむ。紀は船中に在りて床を遶りて走り、金を以て猛等に擲ちて曰く、「此れ卿に顧みて我をして一たび七官を見送らしむ。卿必ず富貴ならん」と。猛曰く、「天子何由かして見る可けん。足下を殺せば、此の金何にか之く」と。猶ほ逼ることを敢えず、囲みて之を守る。法和馳せて啓す。上密勅を樊猛に下して曰く、「生還は功を成さずなり」と。猛は甲士祝文簡・張天成を率い、刃を抜きて舟に昇る。猶ほ左右奔擲す。第五子圓満馳せ来りて父に就く。紀の首既に落つ。圓満の躯も亦分かる。法和は太子圓照兄弟三人を収む。圓照に問うて曰く、「阿郎何を以て此に至れる」と。圓照曰く、「計を失う。願わくは公の為に奴と作らん」と。法和は叱して之を遣わす。

圓照は字を明周といい、中大同の初めに、益州東齋郎・宋甯・宋興の二郡太守となった。遠方の鎮守諸王の世子は皆建鄴に人質として留められていたが、帝は特に紀を愛したので、彼を派遣して紀の副とさせた。紀が禍を構えたのは、全てその謀によるものであった。次弟の圓正は先に江陵に鎖されていたが、紀が既に兵をもって終わった時、元帝は使者を遣わして言わせた、「西軍は既に敗れた、汝の父は存亡を知らない」と。その意は彼に自裁させようとしたのである。而して圓正はこの問いを奉じて、便ち号哭して哀しみを尽くした。禍難の起こったこと皆圓照によるものとして、ここに唯世子を哭し、声を絶やさずに言った。上は圓正が問いを聞いて悲しみ感ずれば、必ず自殺するであろうと思い、頻りに見て死ぬことができないと知り、また廷尉の獄に付した。圓照を見て曰く、「阿兄、何ぞ乃ち人の骨肉を乱し、かくの如き酷痛をせしむるや」と。圓照は更に言うところ無く、唯「計誤れり」と云うのみであった。並びに命じて獄中で絶食させたが、臂を齧ってこれを啖い、十三日で死んだ。天下の人はこれを聞いて悲しんだ。

圓正は字を明允といい、紀の第二子である。風儀美しく、談論を善くし、寬和で施しを好み、士人を愛して接した。江安侯に封ぜられた。西陽太守を歴任し、惠政があった。既に上流に居たので、人附く者甚だ衆かった。侯景が逆を為すに及んで、圓正は兵衆を収めて且つ一萬に及び、後遂に中流で跋扈し、王命に従わなかった。景が破れたる後、また蜀に入らんと謀った。元帝は将にこれを図らんとし、平南将軍に署した。至るに及んで見えず、南平嗣王恪らをして酔わせてこれを囚えた。

時に紀は梁王と称した。紀が敗死するに及び、有司より奏請して紀の属籍を絶つことを得て、元帝はこれを許し、姓を饕餮氏と賜った。紀は最も武帝に愛せられた。武帝の諸子は公位に登ること稀であったが、唯紀は功業顕著なるを以て、先んじて黄扉を啓いた。兄の邵陵王綸は屡々罪を以て黜せられ、心毎に平らかならず。紀が征西となるを聞くに及んで、綸は枕を撫でて歎じて曰く、「武陵に何の功業かあって、位乃ち我に先んずるや。朝廷憒憒たり、人を知らざるに似たり」と。武帝これを聞きて、大いに怒りて曰く、「武陵には人を恤い境を拓くの勲あり、汝に何の績かある」と。

太清の初め、帝これを思い、善く画く者張僧繇をして蜀に至らせてその状を図らしめた。蜀に在ること十七年、南は寧州・越嶲を開き、西は資陵・吐谷渾に通じた。内には耕桑塩鉄の功を修め、外には商賈遠方の利を通じた。故に能くその財用を殖し、器甲殷積した。馬八千匹、上足の者は内廄に置き、寝殿を開いてこれに通じ、日暮れれば、輒ち出でて馬を歩ませた。便ち騎射に巧みで、特に舞矟を工みとした。九日に講武し、躬ら幢隊を領した。国難を聞くに及び、僚佐に謂いて曰く、「七官は文士、豈に匡済できようか」と。既に東下するや、黄金一斤を餅と為し、百餅を簉と為し、百簉あるに至り、銀はこれの五倍、その他の錦罽繒采もこれに称した。戦う毎に則ち金帛を懸けて将士に示したが、終に賞賜せず。寧州刺史陳知祖は金銀を散じて勇士を募らんことを請うたが、聴かず、慟哭して去った。ここより人に離心あり、肯て用いられる者無し。紀は頗る観占を学び、風角に善く、また復た済い得ざるを知った。気色を瞻望し、天道を歎吒し、床を椎つ声外に聞こえた。事を請う者有れば、疾を以て辞して見えず。既に死して、沙洲に埋められ、封ぜず櫬無し。元帝は劉孝勝を廷尉に付し、尋いでこれを免じた。

初め、紀将に号を僭せんとするに、祅怪一ならず、内寝柏殿の柱、節を繞りて花を生じ、その茎四十有六、靃靡として愛すべく、状荷花に似たり。識者曰く、「王敦の祅花、佳事に非ず」と。時に蜀の星を知る人、紀に説いて曰く、「官若し東下せば、当に申年を用うべし、太白西に出で、これに従いて利と為す。申歳蜀を発し、酉年荊に入る、失うべからず」と。蜀を発するの歳、太白西に在り、比して明年に及べば、則ち既に東に出でたり。

【論】

論じて曰く、甚だしいかな、讒佞の巧みなることよ。言は正直に附き、跡は恭敬に在り、目を悦ばせ心を会すれば、施すこと不可なる無し。至って乃ち父子を離し、兄弟を間し、楚の嫡を廃し、漢の嗣を疏んずるに至っては、太息すべく、良に一途に非ず。昭明の親にして賢なるを以て、梁武帝の愛して信ずるに、謗言一及びて、死に至るまで自ら明らかにすること能わず、況んやこれより下る者においてをや。綜は秦政の疑いに処り、尺を負うの志を懐き、狂悖を行い肆にして、卒いに奔亡を致す。廬陵は多財累いと為り、雄心自立す、未だ暴を騁えざるに及び、早く没するは幸いと為る。南康は政を為すに方あり、喪に居るに礼を以てし、惜しむらくは早夭し、危季を拯わず。邵陵は少にして險躁、人道頓に亡び、晩に勤王を致す、その殆ど優れたるか。武陵は地勢勝るに居り、卒いに傾覆を致し、才軽く志大なり、能く及ばざるあらんや。

原本を確認する(ウィキソース):南史 巻053