南史

巻五十二 列傳第四十二 梁宗室下

巻五十二 列傳第四十二 梁宗室下

南史

巻五十二 列傳第四十二 梁宗室下

安成康王 秀

原文安成康王 秀

安成康王秀は字あざなを彦達といい、文帝の第七子である。十三歳の時、呉太妃が亡くなり、秀の同母弟の始興王憺は当時九歳で、秀と共に孝行で知られた。喪に服して数日も飲食を進まず、文帝が自ら粥を取って与えた。早くに孤児となったのを哀れみ、側室の陳氏に命じて二人の子を母として養わせた。陳氏も子がなく、母としての徳があり、二人の子を我が子のように育てた。秀は風采が美しく、性格は方正で静かであり、左右の近侍であっても、衣冠を正さなければ会おうとせず、これによって親友や家人は皆敬った。斉に仕えて太子舎人となった。

原文安成康王秀字彥達,文帝第七子也。年十三,吳太妃亡,秀母弟始興王憺時年九歳,與秀並以孝聞。居喪累日不進飲,文帝親取粥授之。哀其早孤,命側室陳氏并母二子。陳亦無子,有母德,視二子如己生。秀美風儀,性方靜,雖左右近侍,非正衣冠弗之見,由是親友及家人咸敬焉。仕齊爲太子舍人。

長沙王懿が崔慧景を平定した後、尚書令となり、朝廷の要職にあった。衡陽王暢は衛尉となり、宮門の鍵を管掌した。東昏侯は日夜遊びほうけ、人々は懿に廃立を勧めたが、懿は聞き入れなかった。東昏侯の側近は懿の功績が高いのを憎み、また廃立を恐れ、懿を讒言した。懿も危険を感じ、これより諸王族は皆備えをした。難が起こると、臨川王宏以下の諸弟や甥たちは皆民間に隠れ、発覚することは稀であったが、ただ桂陽王融だけが禍に遭った。武帝の軍が新林に至ると、秀と諸王族は皆自ら脱出して軍に赴いた。建康が平定されると、南徐州刺史となった。天監元年、安成郡王に封ぜられた。京口は崔慧景の乱後、累次兵乱に遭い、戸口は離散していたが、秀は招き慰めて受け入れ、恵みと慈愛を広く行き渡らせた。時に飢饉の年となり、私財をもって百姓を養い、救済するところ甚だ多かった。

原文長沙王懿平崔慧景後,爲尚書令,居端右。衡陽王暢爲衞尉,掌管鑰。東昏日夕逸遊,眾頗勸懿廢之,懿弗聽。東昏左右惡懿勳高,又慮廢立,並間懿。懿亦危之,自是諸親咸爲之備。及難作,臨川王宏以下諸弟侄俱隱人間,罕有發洩,唯桂陽王融及禍。武帝兵至新林,秀及諸親並自拔赴軍。建康平,爲南徐州刺史。天監元年,封安成郡王。京口自崔慧景亂後,累被兵革,人戸流散,秀招懷撫納,惠愛大行。仍屬饑年,以私財贍百姓,所濟甚多。

六年、江州刺史となった。出発する際、主事の者が堅牢な船を求め、斎舎の船とした。秀は言った、「我はどうして財を愛して士を愛さぬことがあろうか」と。そこで命じて堅牢なものを参佐に与え、粗末なものに斎具を載せさせた。やがて風に遭い、斎舎の船は遂に破損した。州に到着すると、前任の刺史が隠士陶潜の曾孫を裏司に取ったと聞き、嘆いて言った、「陶潜の徳が、どうして後裔に及ばぬことがあろうか」と。即日に彼を西曹に辟召した。時に夏の水が増水し、渡し場や橋が断絶したので、外司が旧例に倣って渡し賃を徴収するよう請うた。秀は教令を下して言った、「刺史に徳がなく、水害が患いとなっているのに、利を求めてよいものか」と。船を与えただけだった。

原文六年,爲江州刺史。將發,主者求堅船以爲齋舫。秀曰:「吾豈愛財而不愛士。」乃教以牢者給參佐,下者載齋物。既而遭風,齋舫遂破。及至州,聞前刺史取征士陶潛曾孫爲裏司,歎曰:「陶潛之德,豈可不及後胤。」即日辟爲西曹。時夏水泛長,津梁斷絶,外司請依舊僦度,收其價。秀教曰:「刺史不德,水潦爲患,可利之乎。」給船而已。

七年、慈母の陳太妃の喪に遭い、詔によって視事を再開させられた。まもなく荊州刺史に遷り、都督を加えられた。学校を立て、隠逸を招いた。処士の河東の韓懐明、南平の韓望、南郡の庾承先、河東の郭麻らを辟召した。この年、魏の懸瓠城の民が反乱し、豫州刺史司馬悦を殺し、司州刺史馬仙琕を引き入れようとした。仙琕は荊州に文書を送り応援を求めた。人々は皆、朝廷からの返答を待つべきだと言った。秀は言った、「彼らは我を援けと待っている。援けは速やかにすべきで、詔勅を待つのは急を救うことではない」と。即ち兵を派遣して赴かせた。沮水が暴漲し、人々の田をかなり損なった時、秀は穀物二万斛こくをもってこれを養った。長史の蕭琛に命じて州内の貧しい老人や単丁の吏を選び、一日に百余人を解散・帰郷させ、百姓は大いに喜んだ。荊州はかつて旱魃に苦しみ、皆、市を移し渠を開こうとしたが、秀は自らを責め、自ら楚の望祭の神に祈った。間もなく慈雨が降り、豊作を得た。また武寧太守が弟に殺されたが、土着の民の反乱と偽った。秀はその奸悪を照らし出し、風の便りに服罪し、皆これを神の如しと言った。荊州に天居寺を建立した。これは武帝が遊んだ梁の館であった。任を去る時、大雷に至り、風波が暴起し、船や艫が沈没したが、秀の気にかかったのはただ人を傷つけることを恐れることであった。

原文七年,遭慈母陳太妃憂,詔起視事。尋遷荊州刺史,加都督。立學校,招隱逸。辟處士河東韓懷明、南平韓望、南郡庾承先、河東郭麻等。是歳,魏縣瓠城人反,殺豫州刺史司馬悅,引司州刺史馬仙琕,仙琕簽荊州求應赴。眾咸謂宜待台報。秀曰:「彼待我爲援,援之宜速,待敕非應急也。」即遣兵赴之。及沮水暴長,頗敗人田,秀以谷二萬斛贍之。使長史蕭琛簡州貧老單丁吏,一日散遣百餘人,百姓甚悅。荊州嘗苦旱,咸欲徙市開渠,秀乃責躬,親祈楚望。俄而甘雨即降,遂獲有年。又武甯太守爲弟所殺,乃偽雲土反,秀照其奸慝,望風首款,咸謂之神。於荊州起天居寺,以武帝游梁館也。及去任,行次大雷,風波暴起,船艫淪溺,秀所問唯恐傷人。

十三年、郢州えいしゅう刺史となり、都督を加えられた。郢州は要衝の地にあり、賦役は重く煩わしく、人力は堪えられず、婦人にまで労役を供出させるほどであった。秀は倹約を旨とし、遊興費を省き、百姓は安堵し、境内は平穏であった。夏口は常に戦場となり、多く骸骨が曝されていたので、秀は黄鶴楼の下で祭りを営んでこれを埋葬した。一夜、数百人が夢に現れ礼をして去った。毎年冬には、常に襦袢や袴を作って凍える者に賜った。時に司州の叛蛮の田魯生、魯賢、超秀が蒙籠を拠点として降伏してきた。武帝は魯生を北司州刺史とし、魯賢を北豫州刺史とし、超秀を定州刺史とし、北境の防壁とした。しかし魯生と超秀は互いに讒言し、離反の心があった。秀は慰撫し懐柔して受け入れ、それぞれに用い、当時これに頼った。

原文十三年,爲郢州刺史,加都督。郢州地居沖要,賦斂殷煩,人力不堪,至以婦人供作。秀務存約己,省去游費,百姓安堵,境內晏然。夏口常爲戰地,多暴露骸骨,秀於黃鶴樓下祭而埋之。一夜夢數百人拜謝而去。每冬月,常作襦褲以賜凍者。時司州叛蠻田魯生、魯賢、超秀據蒙籠來降,武帝以魯生爲北司州刺史,魯賢北豫州刺史,超秀定州刺史,爲北境捍蔽。而魯生、超秀互相讒毀,有去就心。秀撫喻懷納,各得其用,當時賴之。

雍州刺史に遷る途上で薨去した。武帝はこれを聞き、甚だ痛み悼んだ。南康王績に命じて沿道で迎えさせた。初め、秀が西に向かった時、郢州の人々は国境まで見送り、その病を聞くと、百姓や商人は皆、命乞いをした。薨去すると、四州の人は衣を裂いて白帽を作り、哀哭して迎え送った。雍州の蛮も秀を迎えようとしたが、薨去を聞き、祭りを営んで哭し去った。喪が都に至ると、司空を追贈され、諡して康といった。

原文遷雍州刺史,在路薨。武帝聞之,甚痛悼焉。遣南康王績緣道迎候。初,秀之西也,郢州人相送出境,聞其疾,百姓商賈咸爲請命。及薨,四州人裂裳爲白帽哀哭以迎送之。雍州蠻迎秀,聞薨,祭哭而去。喪至都,贈司空,諡曰康。

秀は容姿が美しく、朝廷に在るときは、百官が注目した。性格は仁恕で、喜怒を顔色に表さなかった。側近が飼っていた鵠を石で打ち殺したことがあり、斎帥がその罪を糾明しようと請うた。秀は言った、「我はどうして鳥のために人を傷つけようか」と。都で公事に臨む朝、厨人が食事を進めたが、誤ってこぼしてしまい、秀は去って車に登り、朝中ずっと食事をせず、またそれを咎めもしなかった。当時諸王は皆士を礼遇したが、建安王と安成王の二王は特に人物を好み、世間は二安の士を重んずることを、「四豪」に比した。

原文秀美容儀,每在朝,百僚屬目。性仁恕,喜慍不形於色。左右嘗以石擲殺所養鵠,齋帥請按其罪。秀曰:「吾豈以鳥傷人。」在都旦臨公事,廚人進食,誤覆之,去而登車,竟朝不飯,亦弗之誚也。時諸王並下士,建安、安成二王尤好人物,世以二安重士,方之「四豪」。

秀は学術に精魂を傾け、経書や記録を収集し、学士の平原の劉孝標を招いて『類苑』を撰ばせた。書は未だ完成しないうちに、既に世に行われた。秀は武帝とは布衣の兄弟であったが、君臣となってからは、小心に畏敬し、疎遠な者や賤しい者以上であり、帝はますますこれをもって賢しとした。幼くして片親を亡くし、始興王憺に対しては特に篤かった。憺は長く荊州刺史を務め、常に得た俸禄を半分に分けて秀に与えたが、秀は心からこれを受け、多さを辞さなかった。兄弟の睦まじさは、当時の議論がこれを称えた。佐史の夏侯亶らが墓碑を立てることを上表し、詔はこれを許した。当世の高才で王の門に遊んだ者、東海の王僧孺、呉郡の陸倕、彭城の劉孝綽、河東の裴子野が、それぞれその文を制作し、どれかを選んで用いようとしたが、皆が実録であると称したので、遂に四つの碑を並べて建立した。世子の機が後を嗣いだ。

原文秀精意學術,搜集經記,招學士平原劉孝標使撰類苑,書未及畢,而已行於世。秀於武帝布衣昆弟,及爲君臣,小心畏敬,過於疏賤者,帝益以此賢之。少偏孤,於始興王憺尤篤。憺久爲荊州刺史,常以所得奉中分秀,秀稱心受之,不辭多也。昆弟之睦,時議歸之。佐史夏侯亶等表立墓碑志,詔許焉。當世高才游王門者,東海王僧孺、吳郡陸倕、彭城劉孝綽、河東裴子野,各制其文,欲擇用之,而咸稱實錄,遂四碑並建。世子機嗣。

秀の子 機

原文秀子 機

機は字を智通といい、湘州刺史の位にあり、州で薨去した。機は姿形が美しく、吐納を善くし、家には既に多くの書があり、博学で記憶力が強かった。しかしながら、遊びを好み力を尚び、士子を遠ざけ小人を近づけた。州では専ら収斂に意を用い、政績はなく、頻繁に弾劾を受けた。葬ろうとする時、有司が諡を請うた。詔に曰く、「王は内寵を好み政を怠った。宜しく煬と諡すべし」と。著した詩賦は数千言に及ぶ。元帝がこれを集めて序を付けた。子の操が後を嗣いだ。

原文機字智通,位湘州刺史,薨於州。機美姿容,善吐納,家既多書,博學強記。然而好弄尚力,遠士子,邇小人。爲州專意聚斂,無政績,頻被案劾。將葬,有司請諡,詔曰:「王好內怠政,宜諡曰煬。」所著詩賦數千言。元帝集而序之。子操嗣。

機の弟 推

原文機弟 推

機の弟の推は字を智進といい、若くして清敏で、文を属することを好み、深く簡文帝に親しく賞された。普通六年、王子として南浦侯に封ぜられ、淮南、晉陵、呉郡の太守を歴任した。赴任する地は必ず赤地千里の大旱となり、呉人は「旱母」と号した。侯景の乱の時、東府を守り、城が陥落すると、推は節を握って死んだ。

原文機弟推字智進,少清敏,好屬文,深爲簡文所親賞。普通六年,以王子封南浦侯,曆淮南、晉陵、吳郡太守。所臨必赤地大旱,吳人號「旱母」焉。侯景之亂,守東府,城陷,推握節死之。

南平元襄王 蕭偉

原文南平元襄王 偉

南平元襄王蕭偉は字を文達といい、文帝の第八子である。幼少より聡明で学問を好み、斉に仕えて晋安王驃騎外兵参軍となった。武帝が雍州にいた時、天下が乱れんとしていることを憂慮し、蕭偉と始興王蕭憺を迎えようとした。やがて彼らが沔水に入ったと聞くと、帝は喜んで佐史に言った。「阿八(蕭偉)と十一(蕭憺)が来たので、我に憂いはなくなった」。挙兵の際には、蕭偉を留めて雍州州府の事務を行わせた。帝が郢・魯を平定し、尋陽を下し、建鄴を包囲すると、巴東太守蕭惠訓の子蕭璝と巴西太守魯休烈が兵を起こして荊州を脅かし、蕭穎胄は憂憤して急死し、西朝(江陵朝廷)は恐れおののき、蕭偉に援軍を求めた。蕭偉は州府の将吏を割いて始興王蕭憺に付けて赴かせた。蕭憺が到着すると、蕭璝らは皆降伏した。斉の和帝は詔して蕭偉を都督・雍州刺史とした。

原文南平元襄王偉字文達,文帝第八子也。幼清警好學,仕齊爲晉安王驃騎外兵參軍。武帝爲雍州,慮天下將亂,求迎偉及始興王憺。俄聞已入沔,帝欣然謂佐史曰:「阿八、十一行至,吾無憂矣。」及起兵,留行雍州州府事。及帝克郢、魯,下尋陽,圍建鄴,而巴東太守蕭惠訓子璝及巴西太守魯休烈起兵逼荊州,蕭穎胄憂憤暴卒,西朝兇懼,徵兵於偉。偉乃割州府將吏配始興王憺往赴之。憺至,璝等皆降。齊和帝詔以偉爲都督、雍州刺史。

天監元年、建安王に封ぜられた。初め、武帝が軍を東下させる際、費用が足りず、蕭偉は襄陽の寺の銅仏を取って銭に鋳直した。富裕な僧が銭を隠すと、多くは毒害を加えられ、後に悪疾にかかった。十三年、累進して左光祿大夫となり、親信四十人を加えられ、毎年米一万斛、薬代二百四十万銭、厨房供給月二十万銭、さらに二衛両営の雑役二百人、先に置いた防合・白直左右職局一百人を倍増させられた。病が重かったため、再び封国に出ずに俸禄を加増された。

原文天監元年,封建安王。初,武帝軍東下,用度不足,偉取襄陽寺銅佛,毀以爲錢。富僧藏鏹,多加毒害,後遂惡疾。十三年,累遷爲左光祿大夫,加親信四十人,歳給米萬斛,藥直二百四十萬,廚供月二十萬,並二衞兩營雜役二百人,倍先置防合、白直左右職局一百人。以疾甚,故不復出蕃而加奉秩。

十五年、生母の陳太妃が薨去すると、礼を過ぎるほどに憔悴し、数日にわたり水漿も口にしなかった。帝はたびたび臨幸して慰めた。蕭偉は詔には従ったが、ほとんど喪に堪えられず、悪疾がますます増し、それゆえに改封を求めた。十七年、南平郡に改封され、侍中・左光祿大夫・開府儀同三司の位についた。中大通四年、中書令・大司馬となった。薨去し、侍中・太宰を追贈され、諡は元襄といった。

原文十五年,所生母陳太妃薨,毀頓過禮,水漿不入口累日。帝每臨幸抑譬之。偉雖奉詔,而殆不勝喪,惡疾轉增,因求改封。十七年,改封南平郡,位侍中、左光祿大夫、開府儀同三司。中大通四年,爲中書令、大司馬。薨,贈侍中、太宰,諡曰元襄。

蕭偉は性質が端正で雅やかであり、規範を守った。若くして学問を好み、誠実で思いやりがあった。賢者を尊び士を重んじ、常に及ばないかのようにしたので、四方の遊士や当時の知名の士はことごとく集まった。病が重くなって視力を失うと、もはや外出しなくなった。斉の世に青溪宮を芳林苑と改めたが、天監初年、蕭偉に邸宅として賜った。さらに穿ち築き、果樹や珍木を植え、彫琢の美を極め、自然の造物に匹敵した。遊客省を建て、寒暑に適し、冬には籠炉を設け、夏には飲扇を置き、しばしば賓客とそこで遊び、従事中郎蕭子範に記させた。梁の藩王の邸宅の盛んなこと、これを超えるものはなかった。しかし性質は恩恵に富み、特に貧窮を憐れんだ。常に腹心の左右を遣わして里巷を訪ねさせ、貧困で吉凶の際に事を挙げられない人士があれば、すぐに援助救済した。平原王曼穎が卒すると、家が貧しく葬儀ができず、友人の江革が弔問に行った。その妻子が江革に号泣して訴えると、江革は言った。「建安王(蕭偉)が知れば、必ず取り計らうだろう」。言葉が終わらないうちに蕭偉の使者が到着し、その喪事を給して、事が成った。寒さ厳しく雪の積もる折には、人を遣わして薪や米を運ばせ、困窮する者に応じて与えた。晚年は仏理を崇信し、特に玄学に精通し、二旨義を著し、性情論・幾神論などを撰した。その義について僧の寵や周舍・殷鈞・陸倕らは皆精解の名があったが、彼を屈服させられなかった。朝廷の得失について、時には匡正した。子や甥が邪な行いをすれば、道理をもって訓戒した。このような人物がこのような病にかかり、主君を助けて教化を興すことができず、梁の政治は次第に衰え、この公の薨去によって決定的となった。世子の蕭恪が後を嗣いだ。

原文偉性端雅,持軌度。少好學,篤誠通恕。趨賢重士,常如弗及,由是四方遊士、當時知名者莫不畢至。疾亟喪明,便不復出。齊世青溪宮改爲芳林苑,天監初,賜偉爲第。又加穿築,果木珍奇,窮極雕靡,有侔造化。立遊客省,寒暑得宜,冬有籠爐,夏設飲扇,每與賓客遊其中,命從事中郎蕭子範爲之記。梁蕃邸之盛無過焉。而性多恩惠,尤湣窮乏。常遣腹心左右曆訪閭里,人士有貧困吉凶不舉者,即遣贍恤之。平原王曼穎卒,家貧無以殯,友人江革往哭之。其妻兒對革號訴,革曰:「建安王當知,必爲營理。」言未訖,而偉使至,給其喪事,得周濟焉。每祁寒積雪,則遣人載樵米,隨乏絶者賦給之。晚年崇信佛理,尤精玄學,著二旨義,制性情、幾神等論。其義僧寵及周舍、殷鈞、陸倕並名精解而不能屈。朝廷得失,時有匡正。子侄邪僻,義方訓誘。斯人斯疾,而不得助主興化,梁政漸替,自公薨焉。世子恪嗣。

蕭偉の子 蕭恪

原文偉子 恪

世子蕭恪は字を敬則といい、弘雅で風範があり、姿容は端正で麗しかった。雍州刺史の位についた。若年で政務に通じておらず、群下に委ねたため、百姓が一つの訴えを通そうとするのに、数箇所に銭を送らなければ、聞き届けられなかった。賓客に江仲挙・蔡薳・王台卿・庾仲容の四人がおり、皆厚遇され、蓄財した。そこで世間では歌った。「江千万、蔡五百、王新車、庾大宅」。このことが武帝に伝わった。帝はそれを聞いて言った。「主人がぼんやりしていて客に及ばない」。まもなく廬陵王が代わって刺史となった。蕭恪が帰朝して拝謁すると、武帝は世間の言葉を問いただし、蕭恪は大いに慚愧し、一言も発しなかった。後に心を入れ替えて学問に励み、歴任した地で善政をもって称えられた。

原文世子恪字敬則,弘雅有風則,姿容端麗。位雍州刺史。年少未閑庶務,委之群下,百姓每通一辭,數處輸錢,方得聞徹。賓客有江仲舉、蔡薳、王台卿、庾仲容四人,俱被接遇,並有蓄積。故人間歌曰:「江千萬,蔡五百,王新車,庾大宅。」遂達武帝。帝接之曰:「主人憒憒不如客。」尋以廬陵王代爲刺史。恪還奉見,武帝以人間語問之,恪大慚,不敢一言。後折節學問,所曆以善政稱。

太清年間、郢州刺史となった。乱が起こり、邵陵王が郢州に至ると、蕭恪は郊外に出迎え、位を譲ったが、邵陵王は受けなかった。王僧辯が郢州に至ると、蕭恪は荊州に帰った。元帝は彼を尚書令・司空とした。賊が平定されると、揚州刺史となった。当時、帝は未だ都を遷しておらず、蕭恪が宗室で名声があったため、先に帰鎮させて社稷を守らせた。大寶三年、長沙で薨去した。赴任前であった。太尉を追贈され、諡は靖節王といった。

原文太清中,爲郢州刺史。及亂,邵陵王至郢,恪郊迎之,讓位焉,邵陵不受。及王僧辯至郢,恪歸荊州。元帝以爲尚書令、司空。賊平,爲揚州刺史。時帝未遷都,以恪宗室令譽,故先使歸鎮社稷。大寶三年,薨於長沙,未之鎮也。贈太尉,諡曰靖節王。

蕭恪の弟 蕭恭

原文恪弟 恭

蕭恪の弟蕭恭。蕭恭は字を敬範といい、天監八年、衡山県侯に封ぜられた。初め、楽山侯蕭正則が罪を得た時、諸王を戒める勅が下ったが、元襄王(蕭偉)に対してだけは言った。「汝の息子はただ過ちがないだけでなく、道義にもかなっている」。

原文恪弟恭。恭字敬範,天監八年,封衡山縣侯。初,樂山侯正則有罪,敕讓諸王,獨謂元襄王曰:「汝兒非直無過,並有義方。」

歴任して南徐州の事務を監察した。当時、衡州刺史武会超が在任中、子や甥が暴虐をほしいままにし、州人朱朗が徒党を集めて反乱を起こした。武帝は蕭恭を刺史とした。当時、朱朗はすでに始興を包囲していたが、蕭恭は到着すると平服で賊中を巡行し、恩信を示した。賊徒らはその勇気に畏服し、その夜、三舎(九十里)退いて避けた。軍吏が追撃を請うたが、蕭恭は言った。「賊は政が苛酷であったために反乱したのであって、陳勝・呉広のような野心はない。緩やかにすれば自ずから潰え、急げば力を合わせるだろう。諸君は放っておけ」。翌日、朱朗は使者を遣わして降伏を請い、蕭恭は節杖を持ってこれを受け、一切問いたださなかった。即日、始興太守張宝生と武会超の弟の子蕭子仁を捕らえ、軍門で斬った。彼らが賄賂を取り虐げたためである。有司が蕭恭が罪人を放免し、二千石の官を専断で誅戮したと奏上したが、詔によって赦された。

原文歷位監南徐州事。時衡州刺史武會超在州,子侄縱暴,州人朱朗聚党反,武帝以恭爲刺史。時朗已圍始興,恭至緩服徇賊,示以恩信。群賊伏其勇,是夜退三舍以避。軍吏請追,恭曰:「賊以政苛致叛,非有陳、吳之心。緩之則自潰,急之則並力,諸君置之。」明日,朗遣使請降,恭杖節受之,一無所問。即日收始興太守張寶生及會超弟之子子仁斬之軍門,以其賄而虐也。有司奏恭縱罪人,專戮二千石,有詔宥之。

湘州刺史に転じ、吏事に明るく、在任地で称えられた。しかし性質は華美奢侈を好み、広く邸宅を営み、重なる斎舎や歩廊の楼閣は、宮殿を模写した。特に賓客を好み、終日酒宴を開き、座客は筵を満たし、談論に倦むことがなかった。当時、元帝は藩王としており、名声に努め、著述に心を砕き、杯の酒も妄りに進めることはなかった。蕭恭はしばしば悠々として言った。「下官が時人を歴観するに、多くは歓興を好まず、仰向けに床に寝転がり、屋梁を見つめて書を著す。千秋万歳の後、誰がこれを伝えようか。精神を労し苦心して、ついに名を成さない。清風に臨み、朗月に対し、山に登り水に泛し、思いのままに酣歌するのに及ぶものか」。

原文遷湘州刺史,善解吏事,所在見稱。而性尚華侈,廣營第宅,重齋步閣,模寫宮殿。尤好賓友,酣宴終辰,坐客滿筵,言談不倦。時元帝居蕃,頗事聲譽,勤心著述,卮酒未嘗妄進。恭每從容謂曰:「下官曆觀時人,多有不好歡興,乃仰眠床上,看屋梁而著書,千秋萬歳,誰傳此者。勞神苦思,竟不成名。豈如臨清風,對朗月,登山泛水,肆意酣歌也。」

まもなく寧蛮校尉・雍州刺史に任ぜられ、そのまま赴任した。簡文帝は若い頃蕭恭と交遊し、特に親しみを賞されたが、この時は手令で政事を励ますよう勧めた。蕭恭が州に至ると、政績に名声があり、百姓が城南に碑を立てて徳を頌することを請うた。詔はこれを許し、政徳碑と名付けた。その夜、数百人の大声が碑石の下から聞こえ、翌朝見ると、碑が一尺湧き上がっていた。蕭恭は命じて大柱を碑の上に置かせ、数十人の力士に押させたが下がらず、また酒や干し肉で祭祀し、人に守視させたが、やがて自然に元に戻り、見ていた者はついにその様を見ることができなかった。蕭恭はこれを聞いて嫌った。

原文尋除甯蠻校尉、雍州刺史,便道之鎮。簡文少與恭遊,特被賞狎,至是手令勖以政事。恭至州,政績有聲,百姓請於城南立碑頌德,詔許焉,名爲政德碑。是夜聞數百人大叫碑石下,明旦視之,碑湧起一尺。恭命以大柱置於碑上,使力士數十人抑之不下,又以酒脯祭之,使人守視,俄而自復,視者竟不見之。恭聞而惡焉。

先に、武帝は雍州を辺境の要鎮として、数州の粟を運んで倉庫を満たしていた。蕭恭は多く官米を取って私宅を養い、また典籤の陳保印が百姓から収奪した。荊州刺史廬陵王によって上奏され、詔によって召還された。都で朝謁する際、白服で列に従った。帝が「白衣の者は誰か」と問うと、答えて「前衡山侯蕭恭です」と言った。帝は厳しい顔色で言った。「我に陳保印を返さなければ、お前のことを白状させずにはおかないぞ」。しかし陳保印は実際には湘東王(後の元帝)に身を寄せ、王はその姓名を袁逢と改めさせた。蕭恭は結局叙用されなかった。侯景の乱の時、城中で卒去し、詔によって特例で本来の封爵を回復した。元帝は追諡して僖侯といった。

原文先是,武帝以雍爲邊鎮,運數州粟以實儲倉。恭乃多取官米,還贍私宅;又典簽陳保印侵克百姓,爲荊州刺史廬陵王所啟,被詔征還。在都朝謁,白服隨列。帝曰:「白衣者爲誰?「對曰:「前衡山侯恭。」帝厲色曰:「不還我陳保印,吾當白汝未已。」而保印實投湘東王,王改其姓名曰袁逢。恭竟不敘用。侯景亂,卒於城中,詔特復本封。元帝追諡曰僖侯。

蕭恭の子 蕭靜

原文恭子 靜

子の静は字を安仁といい、若くして美名があり、宗室の後進と称された。文才があり、篤志好学であった。既に内に財足り、多く経史を集め、散書は席に満ち、自ら手ずから校訂した。何敬容は娘を娶らせようとしたが、静はその盛んすぎるのを忌み、拒んで受け入れず、当時の論はこれを服した。しかし戯笑を好み、軽々しく人物を論じ、時にこれによって軽んじられた。位は給事黄門侍郎に至り、深く簡文帝に愛賞された。太清三年に卒し、侍中を追贈された。

原文子靜字安仁,少有美名,號爲宗室後進。有文才,而篤志好學。既內足於財,多聚經史,散書滿席,手自讎校。何敬容欲以女妻之,靜忌其太盛,拒而不納,時論服焉。然好戲笑,輕論人物,時以此少之。位給事黃門侍郎,深爲簡文所愛賞。太清三年卒,贈侍中。

恭の弟に祇あり。

原文恭弟 祇

恭の弟の祗は字を敬謨といい、風儀美しく、幼くして令誉があった。天監年間、定襄県侯に封ぜられた。後に歴任して北兗州刺史となった。侯景の乱に際し、従弟の湘潭侯退と謀り兵を起こして内援せんとしたが、会うところ州人が城を反して景に応じたため、祗は遂に東魏に奔った。

原文恭弟祗字敬謨,美風儀,幼有令譽。天監中,封定襄縣侯。後歷位北兗州刺史。侯景亂,與從弟湘潭侯退謀起兵內援,會州人反城應景,祗遂奔東魏。

鄱陽忠烈王 恢

原文鄱陽忠烈王 恢

鄱陽忠烈王恢は字を弘達といい、文帝の第十子である。幼くして聡穎で、七歳にして孝経・論語の義を通じ、発擿遺れることなし。成長すると、風儀美しく、史籍に渉猟した。斉に仕えて北中郎外兵参軍、前軍主簿となった。宣武王の難に際し、都下に逃れた。武帝が兵を起こすと、恢は潜伏して免れた。大軍が新林に至ると、奉迎した。

原文鄱陽忠烈王恢字弘達,文帝第十子也。幼聰穎,七歳能通孝經、論語義,發擿無遺。及長,美風儀,涉獵史籍。仕齊位北中郎外兵參軍,前軍主簿。宣武王之難,逃在都下。武帝起兵,恢藏伏得免。大軍至新林,乃奉迎。

天監元年、鄱陽郡王に封ぜられた。郢州刺史を除され、都督を加えられた。初め、郢城内では疾疫による死者が多く、埋葬に及ばなかった。恢は下車して急ぎ埋瘞を命じ、また四つの使者を遣わして州部を巡行させ、境内は大いに寧まった。時に筒中布を進める者があったが、恢は奇貨異服として、即座に焼却を命じ、ここに百姓はその徳を仰いだ。累遷して都督・益州刺史となった。成都は新城から五百里離れ、陸路往来は全て私馬を徴発し、百姓はこれを患い、累政改めることができなかった。恢はそこで馬千匹を買い求め、徴発された家に預け、必要に応じて順次発するようにし、百姓はこれを頼りとした。再び開府儀同三司・都督・荊州刺史に遷った。普通七年、州において薨じた。詔して侍中・司徒を追贈し、諡して忠烈といった。

原文天監元年,封鄱陽郡王。除郢州刺史,加都督。初,郢城內疾疫死者甚多,不及藏殯。恢下車遽命埋瘞,又遣四使巡行州部,境內大寧。時有進筒中布者,恢以奇貨異服,即命焚之,於是百姓仰德。累遷都督、益州刺史。成都去新城五百里,陸路往來,悉訂私馬,百姓患焉,累政不能改。恢乃市馬千匹以付所訂之家,須則以次發之,百姓賴焉。再遷開府儀同三司、都督、荊州刺史。普通七年,薨於州。詔贈侍中、司徒,諡曰忠烈。

恢は容貌質素が美しく、談笑を善くし、文酒を愛し、士大夫の風則があった。在任した所では皎察はなかったが、また物を傷つけることもなかった。孝性があり、初めて蜀を鎮めた時、生母の費太妃はなお都に留まっていた。後に都で太妃が不豫となったが、恢はこれを知らず、一夜、忽ち夢に見て還り侍疾した。覚めて後、憂惶して寝食を廃した。間もなく都からの便りが至り、太妃は既に癒えていた。後に目疾を患い、久しく視瞻を廃していた。道人の慧龍が療眼の術を得ていたので、恢はこれを請うた。慧龍が至ると、空中に忽ち聖僧を見た。慧龍が針を下すと、豁然として開朗し、皆、精誠の致すところであるといった。

原文恢美容質,善談笑,愛文酒,有士大夫風則。所在雖無皎察,亦不傷物。有孝性,初鎮蜀,所生費太妃猶停都。後於都不豫,恢未之知,一夜忽夢還侍疾。及覺,憂惶廢寢食。俄而都信至,太妃已瘳。後有目疾,久廢視瞻。有道人慧龍得療眼術,恢請之。及至,空中忽見聖僧。及慧龍下針,豁然開朗,咸謂精誠所致。

恢の性格は寛恕に通じ、財を軽んじ施すことを好み、凡そ四州を歴任し、得た俸禄は随って散じた。荊州に在った時、嘗て従容として賓僚に問うて言った、「中山(靖王)は酒を好み、趙王(彭祖)は吏を好む、二者孰れが優れるか」。衆に対うる者なかった。顧みて長史の蕭琛に謂って言った、「漢の時の王侯は、蕃屏たるのみで、事を視て人に親しむは、自らその職あり。中山は楽を聴き、任せて性に得たり。彭祖は吏を代わり、官を侵すに近し。今の王侯は、蕃国を守らず、当に天子を佐けて人に臨むべし、清白こそその優れるところか」。座する者皆服した。男女百人あり、男子で侯に封ぜられた者は三十九人、女子で主となった者は三十八人。世子の範が嗣いだ。

原文恢性通恕,輕財好施,凡曆四州,所得奉祿,隨而散之。在荊州,嘗從容問賓僚曰:「中山好酒,趙王好吏,二者孰愈?」眾未有對者。顧謂長史蕭琛曰:「漢時王侯,蕃屏而已,視事親人,自有其職。中山聽樂,可得任性;彭祖代吏,近於侵官。今之王侯,不守蕃國,當佐天子臨人,清白其優乎。」坐者咸服。有男女百人,男封侯者三十九人,女主三十八人。世子範嗣。

恢の子 範

原文恢子 範

範は字を世儀といい、温和にして器識があった。衞尉卿となり、毎夜自ら巡警し、武帝はその労苦を嘉した。出て益州刺史となった。荊州に行き至った時、忠烈王が薨じたため、留まって自ら解任を願い出た。武帝は許さず、詔して荊州を権監させた。湘東王が至ると、範は旧に依って職を述べ、弟の湘潭侯退を遣わして喪に随って下らせた。大同元年、剣道を開通し、華陽を克復した功により増封された。尋ねて徴されて領軍将軍・侍中となった。

原文范字世儀,溫和有器識。爲衞尉卿,每夜自巡警,武帝嘉其勞苦。出爲益州刺史。行至荊州而忠烈王薨,因停自解。武帝不許,詔權監荊州。及湘東王至,範依舊述職,遣弟湘潭侯退隨喪而下。大同元年,以開通劍道,克復華陽增封。尋徵爲領軍將軍、侍中。

範は学術はなかったが、籌略を以て自ら任じた。奇翫古物を愛し、文才を招集し、率意に題章し、また時に奇致があった。嘗て旧琵琶を得て、題に「齊竟陵世子」とあった。範は人の往きて物存するを嗟き、筆を攬って詠じ、湘東王に示した。王はその辞を吟詠し、琵琶賦を作ってこれに和した。

原文範雖無學術,而以籌略自命。愛奇翫古,招集文才,率意題章,亦時有奇致。嘗得舊琵琶,題云:「齊竟陵世子」。範嗟人往物存,攬筆爲詠,以示湘東王,王吟詠其辭,作琵琶賦和之。

後に都督・雍州刺史となった。範が牧として人に蒞むこと、甚だ時誉を得、将士を撫循して、歓心を尽くして得た。ここにおいて士馬を養い、城郭を修め、軍糧を私邸に聚めた。時に廬陵王が荊州にあり、既に都督府であり、また素より相能わず、乃ち啓して範の乱を謀ると称した。範も馳啓して自ら理を明らかにし、武帝はこれを恕した。時に論ずる者はなお範が賊たらんと欲すると謂った。また童謡に云う、「莫匆匆、且寬公、誰當作天子、草覆車邊已」。時に武帝は年高く、諸王は肯て相服さず。簡文帝は儲貳に居たが、また自ら安からず、司空邵陵王綸と特に相疑い阻んだ。綸は時に丹陽尹で、威は都下を震わせた。簡文帝は乃ち精兵を選んで以て宮内を衞らせた。兄弟相貳え、声は四方に聞こえた。範は名が謡言に応じて公を求めた。間もなく、開府儀同三司を加えられた。範は心密かに喜び、謡が験ったと思い、武帝若し崩ぜば、諸王必ず乱れ、範は既に衆を得、また重名あり、機に因って天下を定め得べしと謂った。乃ち更に士衆を収め、非常を希望した。

原文後爲都督、雍州刺史。範作牧蒞人,甚得時譽,撫循將士,盡獲歡心。於是養士馬,修城郭,聚軍糧於私邸。時廬陵王爲荊州,既是都督府,又素不相能,乃啟稱範謀亂。范亦馳啟自理,武帝恕焉。時論者猶謂範欲爲賊。又童謠云:「莫匆匆,且寬公,誰當作天子,草覆車邊已。」時武帝年高,諸王莫肯相服。簡文雖居儲貳,亦不自安,而與司空邵陵王綸特相疑阻。綸時爲丹陽尹,威震都下。簡文乃選精兵以衞宮內。兄弟相貳,聲聞四方。范以名應謠言而求爲公,未幾,加開府儀同三司。範心密喜,以爲謠驗,武帝若崩,諸王必亂,範既得眾,又有重名,謂可因機以定天下。乃更收士眾,希望非常。

太清元年、大挙して北侵した。初め元帥を謀るに、帝は範を用いようとした。時に朱異が急用で外から還り、これを聞いて遽に入って言った、「嗣王は雄豪世に蓋い、人をして死力を得させるが、然し至る所残暴甚だしく、人を弔うの材にあらず。昔、陛下は北顧亭に登って望み、江右に反気有り、骨肉が戎首となると謂われました。今日の事は、特に詳しく択ぶべし」。帝は黙然として言った、「会理はどうか」。対えて言った、「陛下がこれを用いられれば、臣に恨み無し」。会理は懦弱にして謀無く、乗る所の襻輿に版屋を施し、牛皮を以て冠としていた。帝は聞いて悦ばず、行きて宿預に至ると、貞陽侯明が行くことを請い、また明を以て代え、範を征北大将軍とし、漢北征討諸軍事を総督させ、尋ねて南豫州刺史に遷した。

原文太清元年,大舉北侵。初謀元帥,帝欲用範。時朱異取急外還,聞之遽入曰:「嗣王雄豪蓋世,得人死力,然所至殘暴非常,非吊人之材。昔陛下登北顧亭以望,謂江右有反氣,骨肉爲戎首。今日之事,尤宜詳擇。」帝默然曰:「會理何如?「對曰:「陛下得之,臣無恨矣。」會理懦而無謀,所乘襻輿施版屋,冠以牛皮。帝聞不悅,行至宿預,貞陽侯明請行,又以明代之,而以範爲征北大將軍,總督漢北征討諸軍事,尋遷南豫州刺史。

侯景が渦陽に敗れ、退いて寿陽を保つと、乃ち範を合州刺史に改め、合肥に鎮させた。時に景の不臣の跡露わになり、範は屡々啓してこれを言ったが、朱異は毎度抑えて奏上しなかった。景が都を囲むに及んで、範は世子の嗣と裴之高らを遣わして入援させた。開府儀同三司に遷った。台城が守られず、範は乃ち合肥を棄て、東関を守り出で、魏に兵を請い、二子を人質として遣わした。魏人は合肥を占拠したが、竟に範を助けなかった。範は進退計無く、乃ち流れを溯って西上し、樅陽に軍し、信を遣わして尋陽王大心に告げた。大心は還って九江に来るよう要請し、共に兵を西上させようとした。範は書を得て大いに喜び、乃ち軍を引いて盆城に至り、晋熙を以て晋州とした。子の嗣を遣わして刺史とし、江州の郡県を、輒ち更改した。ここにおいて尋陽の政令の行わるる所、唯だ一郡を存するのみとなり、また範を疑い畏れて、市糴通ぜず。範は乃ちまたその弟の観寧侯永を遣わして兵を将い南川を通じさせ、莊鐵を助けさせた。時に二鎮相猜疑し、再び賊を図るの志無し。範の数万の衆は、皆再び食するもの無く、人多く餓死した。範は竟に背中に癰を発して薨じた。衆は秘して喪を発せず、弟の南安侯恬を奉じて主とし、数千の衆があった。範の将の侯瑱が豫章において莊鐵を襲い、これを殺し、その軍を尽く併せた。乃ち喪を迎えて郡に往くに、松門にて風に遇い、柩は水に沈んだが、鉤ってこれを得た。于慶之が豫章を逼るに及んで、侯瑱は範の子十六人を以て賊に降り、賊は尽く石頭の坑においてこれを殺した。

原文侯景敗於渦陽,退保壽陽,乃改範爲合州刺史,鎮合肥。時景不臣跡露,範屢啟言之,朱異每抑而不奏。及景圍都,範遣世子嗣與裴之高等入援。遷開府儀同三司。台城不守,範乃棄合肥,出守東關,請兵於魏,遣二子爲質。魏人據合肥,竟不助範。范進退無計,乃泝流西上,軍於樅陽,遣信告尋陽王大心。大心要還九江,欲共兵西上。范得書大喜,乃引軍至盆城,以晉熙爲晉州。遣子嗣爲刺史,江州郡縣,輒更改易。於是尋陽政令所行,唯存一郡,又疑畏範,市糴不通。范乃復遣其弟觀甯侯永將兵通南川,助莊鐵。時二鎮相猜,無復圖賊之志。范數萬之眾,皆無復食,人多餓死。範竟發背而薨。眾秘不發喪,奉弟南安侯恬爲主,有眾數千。范將侯瑱襲莊鐵於豫章,殺之,盡並其軍。乃迎喪往郡,於松門遇風,柩沈於水,鉤求得之。及于慶之逼豫章,侯瑱以範子十六人降賊,賊盡於石頭坑殺之。

範の子 嗣

原文範子 嗣

世子の蕭嗣は字を長胤といい、容貌は豊かで雄偉、腰帯は十圍(太い)であった。性質は驍勇果断にして胆略あり、倜儻として細行を顧みず、しかも身を傾けて士を養い、皆その死力を得た。蕭範の薨去のとき、蕭嗣はなお晋熙を拠点とし、城中の食糧は尽き、兵士は皆疲弊困窮していた。侯景が任約を派遣して蕭嗣を攻撃した。当時賊軍は盛んであり、皆がしばらく中止するよう勧めた。蕭嗣は剣に手をかけ叱って言った、「今日の戦いは、蕭嗣が命を尽くし節に死ぬ秋である」と。戦いにおいて、流れ矢が頸に当たったが、抜くことを許さず、矢をつけたまま手ずから数人を殺し、賊が退いて初めて抜くことを命じ、その時気絶した。妻子は任約に捕らえられた。初め、蕭範は既に尋陽王蕭大心と対峙しており、蕭嗣の死後も、なお蕭範の喪を発することを敢えてしなかった。

原文世子嗣字長胤,容貌豐偉,腰帶十圍。性驍果,有膽略,倜儻不護細行,而復傾身養士,皆得死力。範之薨也,嗣猶據晉熙,城中食盡,士皆乏絶。侯景遣任約攻嗣。時賊方盛,咸勸且止。嗣按劍叱之曰:「今日之戰,蕭嗣效命死節之秋也。」及戰,遇流矢中頸,不許拔,帶箭手殺數人,賊退方命拔之,應時氣絶。妻子爲任約所禽。初,范既與尋陽王大心相持,及嗣之死,猶未敢發範喪。

蕭範の弟、蕭諮。

原文範弟 諮

蕭範の弟の蕭諮は字を世恭といい、位は衛尉卿、武林侯に封ぜられた。簡文帝が即位した後、侯景の周囲の警備が厳重となり、外の者は見ることができず、ただ蕭諮と王克、殷不害のみが文弱であることを理由に臥内に出入りし、朝夕側に侍り、天子とともに六芸を講論し、その時も絶えなかった。南康王蕭会理の事が失敗すると、王克、殷不害は禍を恐れて自ら距離を置いたが、蕭諮は帝を離れるに忍びず、朝覲を絶やさなかった。賊はこれを憎み、その仇人である刁戌に命じて蕭諮を広莫門外で刺殺させた。

原文范弟諮字世恭,位衞尉卿,封武林侯。簡文即位之後,景周衞轉嚴,外人莫得見,唯諮及王克、殷不害並以文弱得出入臥內,晨昏左右,天子與之講論六藝,不輟於時。及南康王會理事敗,克、不害懼禍乃自疏,諮不忍離帝,朝覲無絶。賊惡之,令其仇人刁戌刺殺諮於廣莫門外。

蕭諮の弟、蕭脩。

原文諮弟 脩

蕭諮の弟の蕭脩は字を世和といい、宜豊侯に封ぜられた。器量と力は堅固で、風儀は厳粛整然としていた。九歳で論語を通じ、十一歳で文を綴ることができた。鴻臚卿の裴子野はこれを見て賞賛した。性質は至孝であり、十二歳のとき、実母の徐氏の喪に遭い、荊州から帰って葬る途中、長江の中流で風に遭い、前後の部隊の多くが沈没溺死したが、蕭脩は棺を抱いて長く号泣し、血の涙をともに流し、波に揺られ漂いながらも、ついに他事なく済んだ。葬り終えると、墓の傍らに廬を結んだ。以前は山中に猛獣が多かったが、この時を境に絶跡した。野鳥は馴れて親しみ、軒下に棲み宿った。武帝はこれを嘉し、文書をもって宗室に告げ知らせた。

原文諮弟脩字世和,封宜豐侯。局力貞固,風儀嚴整。九歳通論語,十一能屬文。鴻臚卿裴子野見而賞之。性至孝,年十二,丁所生徐氏艱,自荊州反葬,中江遇風,前後部伍多致沈溺,脩抱柩長號,血淚俱下,隨波搖盪,終得無佗。葬訖,因廬墓次。先時山中多猛獸,至是絶跡。野鳥馴狎,棲宿簷宇。武帝嘉之,以班告宗室。

兼衛尉卿となった。姿形が美しく、毎度兵を屯させて周囲を警衛させると、武帝はこれを見て輦車を動かした。初め、嗣王の蕭範が衛尉であったとき、夜中に城を巡行し、常に風の便りに乗じて宿衛の者を鞭打ち、帝に自分の勤勉さを知らせようとした。蕭脩が職に就くと、夜必ず二度巡行したが、人に知られたがらなかった。ある者がその理由を尋ねると、言った、「夜中の警戒巡邏は、確かに労苦がある。主上は慈愛深いゆえ、それを聞けばあるいは止めるよう賜わるかもしれない。詔に背くことはできないし、詔を奉じれば職務は廃れる。かつて胡質の清廉さでさえ、尚お人に知られることを恐れた。これは職務の常であり、何ら自ら顕示するに足らぬ」と。聞いた者は嘆服した。

原文爲兼衞尉卿。美姿貌,每屯兵周衞,武帝視之移輦。初,嗣王范爲衞尉,夜中行城,常因風便鞭棰宿衞,欲令帝知其勤。及脩在職,夜必再巡,而不欲人知。或問其故,曰:「夜中警逴,實有其勞,主上慈愛,聞之容或賜止。違詔則不可,奉詔則廢事。且胡質之清,尚畏人知,此職司之常,何足自顯。」聞者嘆服。

当時、王子侯の多くは近畿の小郡に封ぜられ、幾度か試みて実績があって、初めて辺境の州に出ることができた。帝は蕭脩の識見と度量が広大であるとして、衛尉から出向させて鍾離を鎮守させ、梁・秦二州刺史に転任させた。漢中に七年間在任し、風俗を移し改め、人は慈父と称した。長史の范洪胄は田一頃を持っており、秋を迎えようとして蝗害こうがいに遭った。蕭脩は自ら田の場所に赴き、深く自らを咎め責めた。功曹史の琅邪の王廉が蕭脩に蝗を捕らえるよう勧めたが、蕭脩は言った、「これは刺史たる私に徳がないことによるものであり、捕らえても何の補いになろうか」。言葉が終わると、突然飛ぶ鳥の千群れが日を蔽って到来し、瞬く間に虫を食い尽くして去り、どの鳥か分からなかった。ちょうど台使がこれを見ており、詳しく帝に報告した。璽書をもって労い、手詔にて「犬牙(相互に侵入すること)も及ばぬ」と言わしめた。州人は碑を立てて徳を頌するよう上表した。嗣王の蕭範が盆城におり、かなり異論があり、武陵王蕭紀は疑いと警戒を生じ、流言が噂し合った。蕭脩は深く自らを弁明し、質子を送ることと、防衛の援助を求めた。武陵王はそこで従事中郎の蕭固を派遣し、当世の事について諮問し、蕭脩の意図を詳しく観察させた。蕭脩は涙を流して忠臣孝子の節を説き、王は敬ってこれを容れた。ゆえに蕭脩の在世中は、不義の行いをしなかった。ある夜、突然犬が蕭脩の寝床に据わって臥した。蕭脩は言った、「これは戎(兵事)の兆しか」と。そこで大いに城塁を修築した。

原文時王子侯多爲近畿小郡,曆試有績,乃得出爲邊州。帝以脩識量宏達,自衞尉出鎮鍾離,徙爲梁、秦二州刺史。在漢中七年,移風改俗,人號慈父。長史范洪胄有田一頃,將秋遇蝗,脩躬至田所,深自咎責。功曹史琅邪王廉勸脩捕之,脩曰:「此由刺史無德所致,捕之何補。」言卒,忽有飛鳥千群蔽日而至,瞬息之間,食蟲遂盡而去,莫知何鳥。適有台使見之,具言於帝,璽書勞問,手詔曰:「犬牙不入,無以過也。」州人表請立碑頌德。嗣王範在盆城,頗有異論,武陵王大生疑防,流言噂誻。脩深自分釋,求送質子,並請助防。武陵王乃遣從事中郎蕭固諮以當世之事,具觀脩意。脩泣涕爲言忠臣孝子之節,王敬納之。故終脩之時,不爲不義。一夕,忽有狗據脩所臥床而臥。脩曰:「此其戎乎。」因大修城壘。

承聖元年、魏の将軍達奚武が攻めてきた。蕭脩は記室参軍の劉璠を益州に派遣し、武陵王蕭紀に救援を求め、将軍の楊幹運を派遣して援軍とし、蕭脩を随郡王に拝した。劉璠が嶓塚に戻ると、魏に降伏し、楊幹運は軍を返した。劉璠が城下に至り、城中を説いて魏に降るよう勧めた。蕭脩はこれを責めて言った、「卿は節に死ぬことができないばかりか、反って説客となるのか」と。射殺するよう命じた。間諜を派遣して荊州に至らせ、元帝に連絡させた。

原文承聖元年,魏將達奚武來攻,脩遣記室參軍劉璠至益州,求救於武陵王紀,遣將楊幹運援之,拜脩隨郡王。璠還至嶓塚,乃降於魏,幹運班師。璠至城下,説城中降魏。脩數之曰:「卿不能死節,反爲説客邪!」命射之。間信遣至荊州,元帝遣與相聞。

蕭脩の中直兵参軍の陳晷は甚だ勇猛で弁舌に長け、偵察を求めて出向き、捕らえられ、言辞が激しかったため害された。そこで諮議の虞馨を派遣して達奚武に牛と酒を贈った。達奚武は言った、「梁は既に侯景に敗れた。王は何ゆえこの孤城を守るのか」。蕭脩は死をもって守り、断頭将軍となることを誓うと答えた。魏の相である安定公宇文泰は書を送って諭したが、力尽きて降伏した。安定公は彼を非常に厚く礼遇し、間もなく江陵に帰還させ、手厚く見送り、文武の家来千戸を綱紀の僕とした。元帝は彼が変を起こすことを憂慮し、中使を派遣して偵察させ、道に絶えなかった。到着の夜、襲撃して奪わせた。朝になると、蕭脩は上表して馬と兵器を献上し、その後帝は安心した。蕭脩が入朝して拝謁すると、宮殿を望んで悲しみに耐えず、元帝も慟哭し、朝廷の者全てが泣いた。

原文脩中直兵參軍陳晷甚勇有口,求爲覘候,見獲,以辭烈被害。乃遣諮議虞馨致武牛酒。武謂曰:「梁已爲侯景所敗,王何爲守此孤城?」脩答守之以死,誓爲斷頭將軍。魏相安定公宇文泰遣書喻之,力屈乃降。安定公禮之甚厚,未幾令還江陵,厚遣之,以文武千家爲綱紀之僕。元帝慮其爲變,中使覘伺,不絶於道。至之夕,命劫竊之。及旦,脩表輸馬仗而後帝安。脩入覲,望合悲不自勝,元帝亦慟,盡朝皆泣。

まもなく湘州刺史に拝された。長沙は頻繁に兵乱に遭い、戸口は衰え弊害していた。蕭脩は農耕を勧め業務を分担させると、一年も経たないうちに、流民が三千余家も到来した。元帝は猜疑心が強く、動けば誅殺や剪除を加えた。蕭脩は静粛恭順に自らを守り、名声を埋め跡を晦ました。元帝も宗室の年長者として、深く敬礼した。江陵が包囲されたとの報せが届くと、その日に舟に登って救援に赴いた。巴陵の西に至ったとき、江陵が覆滅した。敬帝が立つと、遠くから蕭脩を太尉に任じ、太保に遷した。当時王室は次第に衰微し、蕭脩は義挙を図ったが、力弱く自ら振るうことができず、ついに背中に癰ができて吐血し薨去した。五十二歳。

原文尋拜湘州刺史。長沙頻遇兵荒,人戸凋弊。脩勸穡務分,未期,流人至者三千餘家。元帝多忌,動加誅翦。脩靜恭自守,埋聲晦跡。元帝亦以宗室長年,深相敬禮。及江陵被圍問至,即日登舟赴救。至巴陵西,而江陵覆滅。敬帝立,遙授脩太尉,遷太保。時王室浸微,脩雖圖義舉,力弱不能自振,遂發背歐血而薨,年五十二。

蕭脩の弟、蕭泰。

原文脩弟:泰

蕭脩の弟の蕭泰は字を世怡といい、豊城侯に封ぜられた。中書舎人などの官を歴任し、財産を傾け尽くして時の権要に仕え、抜擢されて譙州刺史となった。江北の人情は荒々しく強情で、前後の刺史は皆これを慰撫していた。蕭泰が州に着任すると、すぐに人丁を広く徴発し、腰輿や扇、傘などの物を担がせ、士庶を問わなかった。これを恥じる者は重く杖罰を加え、多く財貨を納める者は即座に免除した。そこで人々は皆乱を望んだ。侯景が到来すると、人々に戦う心がなく、先んじて敗北した。

原文脩弟泰字世怡,封豐城侯。歷位中書舍人,傾竭財產,以事時要,超爲譙州刺史。江北人情獷強,前後刺史並綏撫之。泰至州,便遍發人丁,使擔腰輿扇傘等物,不限士庶。恥爲之者,重加杖責,多輸財者,即放免之,於是人皆思亂。及侯景至,人無戰心,乃先覆敗。

始興忠武王 蕭憺。

原文始興忠武王 憺

始興忠武王蕭憺は字を僧達といい、文帝の第十一子である。斉に仕えて西中郎外兵参軍となった。武帝が兵を起こすと、蕭憺は相国従事中郎となり、南平王蕭偉とともに留守を守った。斉の和帝が即位すると、蕭憺を給事黄門侍郎とした。当時、巴東太守蕭惠訓の子の蕭璝らの兵が荊州に迫り、蕭穎冑が急死した。尚書僕射の夏侯詳が議して蕭憺を迎え荊州の事務を行わせた。蕭憺は雍州の将吏を率いて赴き、書を送って蕭璝らを諭すと皆降伏した。この冬、武帝が建鄴を平定した。翌年、和帝の詔により蕭憺を都督・荊州刺史とした。

原文始興忠武王憺字僧達,文帝第十一子也。仕齊爲西中郎外兵參軍。武帝起兵,憺爲相國從事中郎,與南平王偉留守。齊和帝即位,以憺爲給事黃門侍郎。時巴東太守蕭惠訓子璝等兵逼荊州,蕭穎胄暴卒,尚書僕射夏侯詳議迎憺行荊州事。憺率雍州將吏赴之,以書喻璝等皆降。是冬,武帝平建鄴。明年,和帝詔以憺爲都督、荊州刺史。

天監元年、安西将軍を加えられ、始興郡王に封ぜられた。当時は軍旅の後で、公私ともに物資が乏しかった。蕭憺は精励して政治を行い、広く屯田を開き、力役を減省し、戦死者の家族を慰問してその窮乏を救い、人々は非常に安心した。この年、嘉禾が生え、一茎に六穂あり、甘露が黄闔に降った。四年、荊州は大旱魃に見舞われた。蕭憺は天井で祭祀を行わせると、長さ二丈の大蛇が現れて祠壇を巡り、間もなく大雨が降り、その年は大豊作となった。蕭憺は自ら若年で重任に就いたことを考え、物情を開導し、訴訟する者は皆立って符教を待ち、瞬時に決断し、官曹に滞留する事案なく、下に滞った獄事もなかった。

原文天監元年,加安西將軍,封始興郡王。時軍旅之後,公私匱乏,憺厲精爲政,廣辟屯田,減省力役,存問兵死之家,供其窮困,人甚安之。是歳嘉禾生,一莖六穗,甘露降於黃合。四年,荊州大旱,憺使祠於天井,有巨蛇長二丈出遶祠壇,俄而注雨,歳大豐。憺自以少年始居重任,開導物情,辭訟者皆立待符教,決於俄頃,曹無留事,下無滯獄。

六年、州に大水あり、江は溢れて堤は崩壊せり。憺はみずから将吏を率い、雨を冒して丈尺を賦しこれを築く。雨は甚だしく水は壮にして、衆みな恐れ、あるいは避くべしと請う。憺曰く、「王尊すら尚お身を以て河堤を塞がんと欲す。我ひとり何の心あらんや、以て免れんと」と。すなわち堤に登りて嘆息し、終日膳を輟め、白馬を刑して江神に祭る。流れに酒を酹し、身を以て百姓の為に命を請う。言終はらざるに水退き堤立つ。邴洲は南岸にあり、数百家水の長ずるを見て驚き走り、屋に登り樹に縁る。憺は人を募りてこれを救わしめ、一口に賞一万を賜う。估客数十人応募す。洲人は皆免る。吏人は嘆服し、咸に神勇と称す。また諸郡に分遣し、水に遭いて死する者に棺槥を給し、田を失う者に糧種を与う。是歳、嘉禾州界に生ず。吏人は美を帰す。

原文六年,州大水,江溢堤壞,憺親率將吏,冒雨賦丈尺築之,而雨甚水壯,眾皆恐,或請避焉。憺曰:「王尊尚欲身塞河堤,我獨何心以免。」乃登堤歎息,終日輟膳,刑白馬祭江神。酹酒於流,以身爲百姓請命,言終而水退堤立。邴洲在南岸,數百家見水長驚走,登屋緣樹。憺募人救之,一口賞一萬。估客數十人應募,洲人皆以免,吏人嘆服,咸稱神勇。又分遣諸郡遭水死者給棺槥,失田者與糧種。是歳嘉禾生於州界,吏人歸美焉。

七年、慈母陳太妃薨ず。水漿六日口に入れず、喪に居ること礼を過ぐ。武帝優詔を以てこれを勉め、州任を摂せしむ。是の冬、詔して征し本号を以て還朝せしむ。人の歌うところに曰く、「始興王は人の爹(徙我反)。人の急に赴くこと水火の如し。何れの時か復た来りて我を哺乳せん」と。荊土の方言、父を爹と謂う。故に云う。後に中衛将軍・中書令となり衛尉卿を領す。憺は性謙を好み、意を降して士に接し、常に賓客と連榻して坐す。時論これ称す。

原文七年,慈母陳太妃薨,水漿不入口六日,居喪過禮,武帝優詔勉之,使攝州任。是冬,詔征以本號還朝。人歌曰:「始興王,人之爹〈徙我反〉。赴人急,如水火。何時復來哺乳我?」荆土方言謂父爲爹,故云。後爲中衞将軍、中書令領衞尉卿。憺性好謙,降意接士,常與賔客連榻坐,時論稱之。

九年、都督・益州刺史に拝す。旧き守宰丞尉は歳時乞食し、躬みずから村里を歴り、百姓これを苦しむ。習い以て常と為す。憺州に至り、停断厳切にして、百姓以て蘇る。また学校を興し、漢の蜀郡太守文翁を祭る。ここより人多く方に向う者あり。

原文九年,拜都督、益州刺史。舊守宰丞尉歳時乞丐,躬曆村裏,百姓苦之,習以爲常。憺至州,停斷嚴切,百姓以蘇。又興學校,祭漢蜀郡太守文翁,由是人多向方者。

十四年、都督・荊州刺史に遷る。同母兄安成王秀、雍州に将いんとし、道に薨ず。憺喪を聞き自ら地に投じ、席稿して哭泣し、飲まず食わざること数日、財産を傾けて賻送し、部伍の大小皆足ることを取る。天下その悌を称す。

原文十四年,遷都督、荊州刺史。同母兄安成王秀將之雍州,薨於道。憺聞喪自投於地,席稿哭泣,不飲不食者數日,傾財產賻送,部伍大小皆取足焉,天下稱其悌。

十八年、侍中・中撫軍将軍・開府儀同三司・領軍将軍に徴ぜられ、即ち開府黄合す。薨ず。二宮悲惜し、輿駕臨幸すること七たびなり。司徒を贈り、諡して忠武と曰う。憺未だ薨ぜざる前、夢に改めて中山王に封ぜられ、策授すること他日の如し。意頗るこれを悪み、数旬にして卒す。憺は西土に恵みあり。荊州人薨ずるを聞き、皆巷に哭し、嫁娶に吉日あれば、移して以て哀を避く。子亮嗣ぐ。

原文十八年,徵爲侍中、中撫軍將軍、開府儀同三司、領軍將軍,即開府黃合。薨,二宮悲惜,輿駕臨幸者七焉。贈司徒,諡曰忠武。憺未薨前,夢改封中山王,策授如他日,意頗惡之,數旬而卒。憺有惠西土,荊州人聞薨,皆哭於巷,嫁娶有吉日,移以避哀。子亮嗣。

憺の子 映。

原文憺子 映

亮の弟映、字は文明。年十二、国子生と為る。天監十七年、諸生に策に答うることを詔す。宗室は則ち否。帝映の聰解なるを知り、特に関策を令め、また口対す。並びに奇と見ゆ。祭酒袁昂に謂いて曰く、「吾が家の千里駒なり」と。

原文亮弟映字文明,年十二,爲國子生。天監十七年,詔諸生答策,宗室則否。帝知映聰解,特令問策,又口對,並見奇。謂祭酒袁昂曰:「吾家千里駒也。」

起家して淮南太守と為る。諸兄に除命未だあらず。乃ち表を抗して譲る。映は容儀を美くす。普通二年、広信県侯に封ぜらる。父憂に丁り、隆冬に席地し、哭して声を絶たず、穀粒を嚐めず、唯だ冷水を飲む。因りて癥結を患う。太子洗馬を除く。詔して憺の艱難王業を以て、国封を追増す。嗣王陳て譲る。既に許さるるを得ず、乃ち邑を諸弟に頒つことを乞う。帝許す。改めて新渝県侯に封ぜらる。後に太妃の憂に居りて泣血す。三年服闋し、呉興太守と為る。郡累ねて稔らず。中大通三年、野谷武康に生ず。凡そ二十二処。ここより豊穣たり。映嘉穀頌を制して以て聞かしむ。中詔称美す。

原文起家淮南太守,諸兄未有除命,乃抗表讓焉。映美容儀。普通二年,封廣信縣侯。丁父憂,隆冬席地,哭不絶聲,不嚐穀粒,唯飲冷水,因患癥結。除太子洗馬。詔以憺艱難王業,追增國封。嗣王陳讓,既不獲許,乃乞頒邑諸弟。帝許之,改封新渝縣侯。後居太妃憂泣血,三年服闋,爲吳興太守。郡累不稔,中大通三年,野谷生武康,凡二十二處,自此豐穰。映制嘉谷頌以聞,中詔稱美。

後に北徐州刺史と為り、任に在りて弘恕、人吏これを懐く。常に粟帛を載せて境内に遊び、貧者に遇えば、即ち以てこれを振う。勝境名山、多く尋履す。及び征将に還らんとし、鍾離の人顧思遠、叉を挺てて行部伍の中にあり。映見るに甚だ老ゆ。人をして問わしむ。対えて曰く、「年一百十二歳。凡そ七たび娶り、子十二人有り。死亡略く尽くす。今唯だ小なる者、年已に六十、また孫息無し。家養に闕け乏し。是を以て行役す」と。映大いにこれを異とし、召して食を賜う。食は人に兼ぬ。その頭を検するに肉角あり、長さ一寸。遂に後舟を命じて還都を載せ、天子に謁見せしむ。これと往事を言うに、多く伝うる所に異なり。散騎侍郎に擢で、奉宅を賜い、朝夕進見す。年百二十にして卒す。また普通中北に侵し、穣城を攻む。城内に人あり、年二百四十歳、復た能く穀を食せず、唯だ曾孫の婦の乳を飲む。簡文帝命じてこれを労い、束帛を賜う。荊州上津郷の人張元始、年一百十六歳、膂力人に過ぎ、進食異ならず。年九十七に至りて方に児を生む。児遂に影無し。将に亡ばんとし、人人に告別し、乃ち山林樹木の処処に履行し、少日にして終わる。時人命を知ると為す。湘東王奇を愛し異を重んず。遂にその枕を留む。

原文後爲北徐州刺史,在任弘恕,人吏懷之。常載粟帛游於境內,遇有貧者,即以振焉。勝境名山,多所尋履。及征將還,鍾離人顧思遠挺叉行部伍中。映見甚老,使人問,對曰:「年一百一十二歳。凡七娶,有子十二,死亡略盡。今唯小者,年已六十,又無孫息,家闕養乏,是以行役。」映大異之,召賜之食,食兼於人。檢其頭有肉角長寸,遂命後舟載還都,謁見天子。與之言往事,多異所傳,擢爲散騎侍郎,賜以奉宅,朝夕進見,年百二十卒。又普通中北侵,攻穰城,城內有人年二百四十歳,不復能食穀,唯飲曾孫婦乳。簡文帝命勞之,賜以束帛。荊州上津鄉人張元始年一百一十六歳,膂力過人,進食不異,至年九十七方生兒,兒遂無影。將亡,人人告別,乃至山林樹木處處履行,少日而終,時人以爲知命。湘東王愛奇重異,遂留其枕。

映後に歴りて給事黄門侍郎、衛尉卿、広州刺史、官に卒す。諡して寛侯と曰う。

原文映後曆給事黃門侍郎,衞尉卿,廣州刺史,卒官,諡曰寬侯。

映の弟 曄。

原文映弟 曄

映の弟曄、字は通明。姿容を美くし、談吐を善くす。初め安陸侯に封ぜらる。憺特に鍾愛す。常に目を送りて之に曰く、「吾の深く憂うる所」と。左右その故を問う。答えて曰く、「その過ぎること俊発、恐らく必ず年無からん」と。及び憺豫せず、疾に侍して衣帯を釈かず、言と淚並ぶ。憺薨ず。扶けて後に起つ。服闋し、改めて上黄侯に封ぜられ、位は宗正卿を兼ぬ。簡文監撫に入居す。曄儲徳頌を献じ、給事黄門侍郎に遷る。

原文映弟曄字通明,美姿容,善談吐。初封安陸侯。憺特所鍾愛,常目送之曰:「吾所深憂。」左右問其故,答曰:「其過俊發,恐必無年。」及憺不豫,侍疾衣不釋帶,言與淚並。憺薨,扶而後起。服闋,改封上黃侯,位兼宗正卿。簡文入居監撫,曄獻儲德頌,遷給事黃門侍郎。

出でて晉陵太守と為る。美才仗気、言多く激揚す。常に折角の牛に乗り、榖木の履を穿き、被服必ず儒者に於いてす。名は海内に盛んで、宗室に推重せられ、特だ簡文の友愛を被る。新渝・建安・南浦と並び密宴に預かり、東宮四友と号す。簡文日に五六の使来往す。曄初めて郡に至り、旱に属す。躬自ら祈祷す。果たして甘潤を獲たり。郡の雀林村、旧く多く猛獸害を為す。曄政に在ること六年、この暴遂に息む。郡に卒す。初め、曄寝疾歴年、官曹壅滞す。有司案ずるに諡法に「言行相違うを替と曰う」。乃ち諡して替侯とす。

原文出爲晉陵太守。美才仗氣,言多激揚。常乘折角牛,榖木履,被服必於儒者。名盛海內,爲宗室推重,特被簡文友愛。與新渝、建安、南浦並預密宴,號東宮四友。簡文日有五六使來往。曄初至郡,屬旱,躬自祈禱,果獲甘潤。郡雀林村舊多猛獸爲害,曄在政六年,此暴遂息。卒於郡。初,曄寢疾歷年,官曹壅滯,有司案諡法「言行相違曰替」,乃諡替侯。

論す。

原文論

論じて曰く、昔より王者創業するは、広く親親を植え、州国を割裂し、子弟を封建せざるは莫し。是を以て大旆少帛は魯・衛に崇く、磐石犬牙は梁・楚に深く寄す。梁武遠く前軌に遵い、蕃屏懿親、枝戚に至るまで、咸に任遇を被る。若し蕭景の才弁、固より亦た梁の令望なる者か。臨川不才、頻りに重寄に叨る。古者睦親の道は、粲として殊ならず、之に重名を加うれば、則ち有り。而るに宏は屡び彝典を黷し、一たび師徒を撓す。梁の綱を挙げざる、これに於いて甚だし。正德穢行早く顕れ、逆心夙に構う。斉襄に比べて跡匹うべく、呉濞に似て勢侔わず。徒らに賊景の階梯と為り、竟に国敗れて身滅ぶを取る。哀しいかな。安成・南平・鄱陽・始興、俱に名跡を以て美を著わす。蓋し亦た梁の間・平なり。

原文論曰:自昔王者創業,莫不廣植親親,割裂州國,封建子弟。是以大旆少帛,崇於魯、衞,磐石犬牙,寄深梁、楚。梁武遠遵前軌,蕃屏懿親,至於戚枝,咸被任遇。若蕭景才辯,固亦梁之令望者乎。臨川不才,頻叨重寄,古者睦親之道,粲而不殊,加之重名,則有之矣。而宏屢黷彝典,一撓師徒,梁之不綱,於斯爲甚。正德穢行早顯,逆心夙構,比齊襄而跡可匹,似吳濞而勢不侔,徒爲賊景之階梯,竟取國敗而身滅,哀哉!安成、南平、鄱陽、始興俱以名跡著美,蓋亦有梁之間、平也。