南史 巻五十二 列傳第四十二 梁宗室下

南史

巻五十二 列傳第四十二 梁宗室下

安成康王 秀

安成康王秀は字を彦達といい、文帝の第七子である。十三歳の時、呉太妃が亡くなり、秀の同母弟の始興王憺は当時九歳で、秀と共に孝行で知られた。喪に服して数日も飲食を進まず、文帝が自ら粥を取って与えた。早くに孤児となったのを哀れみ、側室の陳氏に命じて二人の子を母として養わせた。陳氏も子がなく、母としての徳があり、二人の子を我が子のように育てた。秀は風采が美しく、性格は方正で静かであり、左右の近侍であっても、衣冠を正さなければ会おうとせず、これによって親友や家人は皆敬った。斉に仕えて太子舎人となった。

長沙王懿が崔慧景を平定した後、 尚書令 しょうしょれい となり、朝廷の要職にあった。衡陽王暢は衛尉となり、宮門の鍵を管掌した。東昏侯は日夜遊びほうけ、人々は懿に廃立を勧めたが、懿は聞き入れなかった。東昏侯の側近は懿の功績が高いのを憎み、また廃立を恐れ、懿を讒言した。懿も危険を感じ、これより諸王族は皆備えをした。難が起こると、臨川王宏以下の諸弟や甥たちは皆民間に隠れ、発覚することは稀であったが、ただ桂陽王融だけが禍に遭った。武帝の軍が新林に至ると、秀と諸王族は皆自ら脱出して軍に赴いた。建康が平定されると、南徐州刺史となった。天監元年、安成郡王に封ぜられた。京口は崔慧景の乱後、累次兵乱に遭い、戸口は離散していたが、秀は招き慰めて受け入れ、恵みと慈愛を広く行き渡らせた。時に飢饉の年となり、私財をもって百姓を養い、救済するところ甚だ多かった。

六年、江州刺史となった。出発する際、主事の者が堅牢な船を求め、斎舎の船とした。秀は言った、「我はどうして財を愛して士を愛さぬことがあろうか」と。そこで命じて堅牢なものを参佐に与え、粗末なものに斎具を載せさせた。やがて風に遭い、斎舎の船は遂に破損した。州に到着すると、前任の刺史が隠士陶潜の曾孫を裏司に取ったと聞き、嘆いて言った、「陶潜の徳が、どうして後裔に及ばぬことがあろうか」と。即日に彼を西曹に辟召した。時に夏の水が増水し、渡し場や橋が断絶したので、外司が旧例に倣って渡し賃を徴収するよう請うた。秀は教令を下して言った、「刺史に徳がなく、水害が患いとなっているのに、利を求めてよいものか」と。船を与えただけだった。

七年、慈母の陳太妃の喪に遭い、詔によって視事を再開させられた。まもなく荊州刺史に遷り、 都督 ととく を加えられた。学校を立て、隠逸を招いた。処士の河東の韓懐明、南平の韓望、南郡の庾承先、河東の郭麻らを辟召した。この年、魏の懸瓠城の民が反乱し、 州刺史司馬悦を殺し、司州刺史馬仙琕を引き入れようとした。仙琕は荊州に文書を送り応援を求めた。人々は皆、朝廷からの返答を待つべきだと言った。秀は言った、「彼らは我を援けと待っている。援けは速やかにすべきで、詔勅を待つのは急を救うことではない」と。即ち兵を派遣して赴かせた。沮水が暴漲し、人々の田をかなり損なった時、秀は穀物二万斛をもってこれを養った。長史の蕭琛に命じて州内の貧しい老人や単丁の吏を選び、一日に百余人を解散・帰郷させ、百姓は大いに喜んだ。荊州はかつて旱魃に苦しみ、皆、市を移し渠を開こうとしたが、秀は自らを責め、自ら楚の望祭の神に祈った。間もなく慈雨が降り、豊作を得た。また武寧太守が弟に殺されたが、土着の民の反乱と偽った。秀はその奸悪を照らし出し、風の便りに服罪し、皆これを神の如しと言った。荊州に天居寺を建立した。これは武帝が遊んだ梁の館であった。任を去る時、大雷に至り、風波が暴起し、船や艫が沈没したが、秀の気にかかったのはただ人を傷つけることを恐れることであった。

十三年、 郢州 えいしゅう 刺史となり、 都督 ととく を加えられた。郢州は要衝の地にあり、賦役は重く煩わしく、人力は堪えられず、婦人にまで労役を供出させるほどであった。秀は倹約を旨とし、遊興費を省き、百姓は安堵し、境内は平穏であった。夏口は常に戦場となり、多く骸骨が曝されていたので、秀は黄鶴楼の下で祭りを営んでこれを埋葬した。一夜、数百人が夢に現れ礼をして去った。毎年冬には、常に襦袢や袴を作って凍える者に賜った。時に司州の叛蛮の田魯生、魯賢、超秀が蒙籠を拠点として降伏してきた。武帝は魯生を北司州刺史とし、魯賢を北 州刺史とし、超秀を定州刺史とし、北境の防壁とした。しかし魯生と超秀は互いに讒言し、離反の心があった。秀は慰撫し懐柔して受け入れ、それぞれに用い、当時これに頼った。

雍州刺史に遷る途上で薨去した。武帝はこれを聞き、甚だ痛み悼んだ。南康王績に命じて沿道で迎えさせた。初め、秀が西に向かった時、郢州の人々は国境まで見送り、その病を聞くと、百姓や商人は皆、命乞いをした。薨去すると、四州の人は衣を裂いて白帽を作り、哀哭して迎え送った。雍州の蛮も秀を迎えようとしたが、薨去を聞き、祭りを営んで哭し去った。喪が都に至ると、 司空 しくう を追贈され、諡して康といった。

秀は容姿が美しく、朝廷に在るときは、百官が注目した。性格は仁恕で、喜怒を顔色に表さなかった。側近が飼っていた鵠を石で打ち殺したことがあり、斎帥がその罪を糾明しようと請うた。秀は言った、「我はどうして鳥のために人を傷つけようか」と。都で公事に臨む朝、厨人が食事を進めたが、誤ってこぼしてしまい、秀は去って車に登り、朝中ずっと食事をせず、またそれを咎めもしなかった。当時諸王は皆士を礼遇したが、建安王と安成王の二王は特に人物を好み、世間は二安の士を重んずることを、「四豪」に比した。

秀は学術に精魂を傾け、経書や記録を収集し、学士の平原の劉孝標を招いて『類苑』を撰ばせた。書は未だ完成しないうちに、既に世に行われた。秀は武帝とは布衣の兄弟であったが、君臣となってからは、小心に畏敬し、疎遠な者や賤しい者以上であり、帝はますますこれをもって賢しとした。幼くして片親を亡くし、始興王憺に対しては特に篤かった。憺は長く荊州刺史を務め、常に得た俸禄を半分に分けて秀に与えたが、秀は心からこれを受け、多さを辞さなかった。兄弟の睦まじさは、当時の議論がこれを称えた。佐史の夏侯亶らが墓碑を立てることを上表し、詔はこれを許した。当世の高才で王の門に遊んだ者、東海の王僧孺、呉郡の陸倕、彭城の劉孝綽、河東の裴子野が、それぞれその文を制作し、どれかを選んで用いようとしたが、皆が実録であると称したので、遂に四つの碑を並べて建立した。世子の機が後を嗣いだ。

秀の子 機

機は字を智通といい、湘州刺史の位にあり、州で薨去した。機は姿形が美しく、吐納を善くし、家には既に多くの書があり、博学で記憶力が強かった。しかしながら、遊びを好み力を尚び、士子を遠ざけ小人を近づけた。州では専ら収斂に意を用い、政績はなく、頻繁に弾劾を受けた。葬ろうとする時、有司が諡を請うた。詔に曰く、「王は内寵を好み政を怠った。宜しく煬と諡すべし」と。著した詩賦は数千言に及ぶ。元帝がこれを集めて序を付けた。子の操が後を嗣いだ。

機の弟 推

機の弟の推は字を智進といい、若くして清敏で、文を属することを好み、深く簡文帝に親しく賞された。普通六年、王子として南浦侯に封ぜられ、淮南、 しん 陵、呉郡の太守を歴任した。赴任する地は必ず赤地千里の大旱となり、呉人は「旱母」と号した。侯景の乱の時、東府を守り、城が陥落すると、推は節を握って死んだ。

南平元襄王 蕭偉

南平元襄王蕭偉は字を文達といい、文帝の第八子である。幼少より聡明で学問を好み、斉に仕えて晋安王驃騎外兵参軍となった。武帝が雍州にいた時、天下が乱れんとしていることを憂慮し、蕭偉と始興王蕭憺を迎えようとした。やがて彼らが沔水に入ったと聞くと、帝は喜んで佐史に言った。「阿八(蕭偉)と十一(蕭憺)が来たので、我に憂いはなくなった」。挙兵の際には、蕭偉を留めて雍州州府の事務を行わせた。帝が郢・魯を平定し、尋陽を下し、建鄴を包囲すると、巴東太守蕭惠訓の子蕭璝と巴西太守魯休烈が兵を起こして荊州を脅かし、蕭穎胄は憂憤して急死し、西朝(江陵朝廷)は恐れおののき、蕭偉に援軍を求めた。蕭偉は州府の将吏を割いて始興王蕭憺に付けて赴かせた。蕭憺が到着すると、蕭璝らは皆降伏した。斉の和帝は詔して蕭偉を 都督 ととく ・雍州刺史とした。

天監元年、建安王に封ぜられた。初め、武帝が軍を東下させる際、費用が足りず、蕭偉は襄陽の寺の銅仏を取って銭に鋳直した。富裕な僧が銭を隠すと、多くは毒害を加えられ、後に悪疾にかかった。十三年、累進して左光祿大夫となり、親信四十人を加えられ、毎年米一万斛、薬代二百四十万銭、厨房供給月二十万銭、さらに二衛両営の雑役二百人、先に置いた防合・白直左右職局一百人を倍増させられた。病が重かったため、再び封国に出ずに俸禄を加増された。

十五年、生母の陳太妃が薨去すると、礼を過ぎるほどに憔悴し、数日にわたり水漿も口にしなかった。帝はたびたび臨幸して慰めた。蕭偉は詔には従ったが、ほとんど喪に堪えられず、悪疾がますます増し、それゆえに改封を求めた。十七年、南平郡に改封され、侍中・左光祿大夫・開府儀同三司の位についた。中大通四年、中書令・大司馬となった。薨去し、侍中・太宰を追贈され、諡は元襄といった。

蕭偉は性質が端正で雅やかであり、規範を守った。若くして学問を好み、誠実で思いやりがあった。賢者を尊び士を重んじ、常に及ばないかのようにしたので、四方の遊士や当時の知名の士はことごとく集まった。病が重くなって視力を失うと、もはや外出しなくなった。斉の世に青溪宮を芳林苑と改めたが、天監初年、蕭偉に邸宅として賜った。さらに穿ち築き、果樹や珍木を植え、彫琢の美を極め、自然の造物に匹敵した。遊客省を建て、寒暑に適し、冬には籠炉を設け、夏には飲扇を置き、しばしば賓客とそこで遊び、従事中郎蕭子範に記させた。梁の藩王の邸宅の盛んなこと、これを超えるものはなかった。しかし性質は恩恵に富み、特に貧窮を憐れんだ。常に腹心の左右を遣わして里巷を訪ねさせ、貧困で吉凶の際に事を挙げられない人士があれば、すぐに援助救済した。平原王曼穎が卒すると、家が貧しく葬儀ができず、友人の江革が弔問に行った。その妻子が江革に号泣して訴えると、江革は言った。「建安王(蕭偉)が知れば、必ず取り計らうだろう」。言葉が終わらないうちに蕭偉の使者が到着し、その喪事を給して、事が成った。寒さ厳しく雪の積もる折には、人を遣わして薪や米を運ばせ、困窮する者に応じて与えた。晚年は仏理を崇信し、特に玄学に精通し、二旨義を著し、性情論・幾神論などを撰した。その義について僧の寵や周舍・殷鈞・陸倕らは皆精解の名があったが、彼を屈服させられなかった。朝廷の得失について、時には匡正した。子や甥が邪な行いをすれば、道理をもって訓戒した。このような人物がこのような病にかかり、主君を助けて教化を興すことができず、梁の政治は次第に衰え、この公の薨去によって決定的となった。世子の蕭恪が後を嗣いだ。

蕭偉の子 蕭恪

世子蕭恪は字を敬則といい、弘雅で風範があり、姿容は端正で麗しかった。雍州刺史の位についた。若年で政務に通じておらず、群下に委ねたため、百姓が一つの訴えを通そうとするのに、数箇所に銭を送らなければ、聞き届けられなかった。賓客に江仲挙・蔡薳・王台卿・庾仲容の四人がおり、皆厚遇され、蓄財した。そこで世間では歌った。「江千万、蔡五百、王新車、庾大宅」。このことが武帝に伝わった。帝はそれを聞いて言った。「主人がぼんやりしていて客に及ばない」。まもなく廬陵王が代わって刺史となった。蕭恪が帰朝して拝謁すると、武帝は世間の言葉を問いただし、蕭恪は大いに慚愧し、一言も発しなかった。後に心を入れ替えて学問に励み、歴任した地で善政をもって称えられた。

太清年間、郢州刺史となった。乱が起こり、邵陵王が郢州に至ると、蕭恪は郊外に出迎え、位を譲ったが、邵陵王は受けなかった。王僧辯が郢州に至ると、蕭恪は荊州に帰った。元帝は彼を 尚書令 しょうしょれい 司空 しくう とした。賊が平定されると、揚州刺史となった。当時、帝は未だ都を遷しておらず、蕭恪が宗室で名声があったため、先に帰鎮させて社稷を守らせた。大寶三年、長沙で薨去した。赴任前であった。太尉を追贈され、諡は靖節王といった。

蕭恪の弟 蕭恭

蕭恪の弟蕭恭。蕭恭は字を敬範といい、天監八年、衡山県侯に封ぜられた。初め、楽山侯蕭正則が罪を得た時、諸王を戒める勅が下ったが、元襄王(蕭偉)に対してだけは言った。「汝の息子はただ過ちがないだけでなく、道義にもかなっている」。

歴任して南徐州の事務を監察した。当時、衡州刺史武会超が在任中、子や甥が暴虐をほしいままにし、州人朱朗が徒党を集めて反乱を起こした。武帝は蕭恭を刺史とした。当時、朱朗はすでに始興を包囲していたが、蕭恭は到着すると平服で賊中を巡行し、恩信を示した。賊徒らはその勇気に畏服し、その夜、三舎(九十里)退いて避けた。軍吏が追撃を請うたが、蕭恭は言った。「賊は政が苛酷であったために反乱したのであって、陳勝・呉広のような野心はない。緩やかにすれば自ずから潰え、急げば力を合わせるだろう。諸君は放っておけ」。翌日、朱朗は使者を遣わして降伏を請い、蕭恭は節杖を持ってこれを受け、一切問いたださなかった。即日、始興太守張宝生と武会超の弟の子蕭子仁を捕らえ、軍門で斬った。彼らが賄賂を取り虐げたためである。有司が蕭恭が罪人を放免し、二千石の官を専断で誅戮したと奏上したが、詔によって赦された。

湘州刺史に転じ、吏事に明るく、在任地で称えられた。しかし性質は華美奢侈を好み、広く邸宅を営み、重なる斎舎や歩廊の楼閣は、宮殿を模写した。特に賓客を好み、終日酒宴を開き、座客は筵を満たし、談論に倦むことがなかった。当時、元帝は藩王としており、名声に努め、著述に心を砕き、杯の酒も妄りに進めることはなかった。蕭恭はしばしば悠々として言った。「下官が時人を歴観するに、多くは歓興を好まず、仰向けに床に寝転がり、屋梁を見つめて書を著す。千秋万歳の後、誰がこれを伝えようか。精神を労し苦心して、ついに名を成さない。清風に臨み、朗月に対し、山に登り水に泛し、思いのままに酣歌するのに及ぶものか」。

まもなく寧蛮 校尉 こうい ・雍州刺史に任ぜられ、そのまま赴任した。簡文帝は若い頃蕭恭と交遊し、特に親しみを賞されたが、この時は手令で政事を励ますよう勧めた。蕭恭が州に至ると、政績に名声があり、百姓が城南に碑を立てて徳を頌することを請うた。詔はこれを許し、政徳碑と名付けた。その夜、数百人の大声が碑石の下から聞こえ、翌朝見ると、碑が一尺湧き上がっていた。蕭恭は命じて大柱を碑の上に置かせ、数十人の力士に押させたが下がらず、また酒や干し肉で祭祀し、人に守視させたが、やがて自然に元に戻り、見ていた者はついにその様を見ることができなかった。蕭恭はこれを聞いて嫌った。

先に、武帝は雍州を辺境の要鎮として、数州の粟を運んで倉庫を満たしていた。蕭恭は多く官米を取って私宅を養い、また典籤の陳保印が百姓から収奪した。荊州刺史廬陵王によって上奏され、詔によって召還された。都で朝謁する際、白服で列に従った。帝が「白衣の者は誰か」と問うと、答えて「前衡山侯蕭恭です」と言った。帝は厳しい顔色で言った。「我に陳保印を返さなければ、お前のことを白状させずにはおかないぞ」。しかし陳保印は実際には湘東王(後の元帝)に身を寄せ、王はその姓名を袁逢と改めさせた。蕭恭は結局叙用されなかった。侯景の乱の時、城中で卒去し、詔によって特例で本来の封爵を回復した。元帝は追諡して僖侯といった。

蕭恭の子 蕭靜

子の静は字を安仁といい、若くして美名があり、宗室の後進と称された。文才があり、篤志好学であった。既に内に財足り、多く経史を集め、散書は席に満ち、自ら手ずから校訂した。何敬容は娘を娶らせようとしたが、静はその盛んすぎるのを忌み、拒んで受け入れず、当時の論はこれを服した。しかし戯笑を好み、軽々しく人物を論じ、時にこれによって軽んじられた。位は給事黄門侍郎に至り、深く簡文帝に愛賞された。太清三年に卒し、侍中を追贈された。

恭の弟に祇あり。

恭の弟の祗は字を敬謨といい、風儀美しく、幼くして令誉があった。天監年間、定襄県侯に封ぜられた。後に歴任して北兗州刺史となった。侯景の乱に際し、従弟の湘潭侯退と謀り兵を起こして内援せんとしたが、会うところ州人が城を反して景に応じたため、祗は遂に東魏に奔った。

鄱陽忠烈王 恢

鄱陽忠烈王恢は字を弘達といい、文帝の第十子である。幼くして聡穎で、七歳にして孝経・論語の義を通じ、発擿遺れることなし。成長すると、風儀美しく、史籍に渉猟した。斉に仕えて北中郎外兵参軍、前軍主簿となった。宣武王の難に際し、都下に逃れた。武帝が兵を起こすと、恢は潜伏して免れた。大軍が新林に至ると、奉迎した。

天監元年、鄱陽郡王に封ぜられた。郢州刺史を除され、 都督 ととく を加えられた。初め、郢城内では疾疫による死者が多く、埋葬に及ばなかった。恢は下車して急ぎ埋瘞を命じ、また四つの使者を遣わして州部を巡行させ、境内は大いに寧まった。時に筒中布を進める者があったが、恢は奇貨異服として、即座に焼却を命じ、ここに百姓はその徳を仰いだ。累遷して 都督 ととく ・益州刺史となった。成都は新城から五百里離れ、陸路往来は全て私馬を徴発し、百姓はこれを患い、累政改めることができなかった。恢はそこで馬千匹を買い求め、徴発された家に預け、必要に応じて順次発するようにし、百姓はこれを頼りとした。再び開府儀同三司・ 都督 ととく ・荊州刺史に遷った。普通七年、州において薨じた。詔して侍中・ 司徒 しと を追贈し、諡して忠烈といった。

恢は容貌質素が美しく、談笑を善くし、文酒を愛し、士大夫の風則があった。在任した所では皎察はなかったが、また物を傷つけることもなかった。孝性があり、初めて蜀を鎮めた時、生母の費太妃はなお都に留まっていた。後に都で太妃が不 となったが、恢はこれを知らず、一夜、忽ち夢に見て還り侍疾した。覚めて後、憂惶して寝食を廃した。間もなく都からの便りが至り、太妃は既に癒えていた。後に目疾を患い、久しく視瞻を廃していた。道人の慧龍が療眼の術を得ていたので、恢はこれを請うた。慧龍が至ると、空中に忽ち聖僧を見た。慧龍が針を下すと、豁然として開朗し、皆、精誠の致すところであるといった。

恢の性格は寛恕に通じ、財を軽んじ施すことを好み、凡そ四州を歴任し、得た俸禄は随って散じた。荊州に在った時、嘗て従容として賓僚に問うて言った、「中山(靖王)は酒を好み、趙王(彭祖)は吏を好む、二者孰れが優れるか」。衆に対うる者なかった。顧みて長史の蕭琛に謂って言った、「漢の時の王侯は、蕃屏たるのみで、事を視て人に親しむは、自らその職あり。中山は楽を聴き、任せて性に得たり。彭祖は吏を代わり、官を侵すに近し。今の王侯は、蕃国を守らず、当に天子を佐けて人に臨むべし、清白こそその優れるところか」。座する者皆服した。男女百人あり、男子で侯に封ぜられた者は三十九人、女子で主となった者は三十八人。世子の範が嗣いだ。

恢の子 範

範は字を世儀といい、温和にして器識があった。 えい 尉卿となり、毎夜自ら巡警し、武帝はその労苦を嘉した。出て益州刺史となった。荊州に行き至った時、忠烈王が薨じたため、留まって自ら解任を願い出た。武帝は許さず、詔して荊州を権監させた。湘東王が至ると、範は旧に依って職を述べ、弟の湘潭侯退を遣わして喪に随って下らせた。大同元年、剣道を開通し、華陽を克復した功により増封された。尋ねて徴されて領軍将軍・侍中となった。

範は学術はなかったが、籌略を以て自ら任じた。奇翫古物を愛し、文才を招集し、率意に題章し、また時に奇致があった。嘗て旧琵琶を得て、題に「齊竟陵世子」とあった。範は人の往きて物存するを嗟き、筆を攬って詠じ、湘東王に示した。王はその辞を吟詠し、琵琶賦を作ってこれに和した。

後に 都督 ととく ・雍州刺史となった。範が牧として人に蒞むこと、甚だ時誉を得、将士を撫循して、歓心を尽くして得た。ここにおいて士馬を養い、城郭を修め、軍糧を私邸に聚めた。時に廬陵王が荊州にあり、既に 都督 ととく 府であり、また素より相能わず、乃ち啓して範の乱を謀ると称した。範も馳啓して自ら理を明らかにし、武帝はこれを恕した。時に論ずる者はなお範が賊たらんと欲すると謂った。また童謡に云う、「莫匆匆、且寬公、誰當作天子、草覆車邊已」。時に武帝は年高く、諸王は肯て相服さず。簡文帝は儲貳に居たが、また自ら安からず、 司空 しくう 邵陵王綸と特に相疑い阻んだ。綸は時に丹陽尹で、威は都下を震わせた。簡文帝は乃ち精兵を選んで以て宮内を えい らせた。兄弟相貳え、声は四方に聞こえた。範は名が謡言に応じて公を求めた。間もなく、開府儀同三司を加えられた。範は心密かに喜び、謡が験ったと思い、武帝若し崩ぜば、諸王必ず乱れ、範は既に衆を得、また重名あり、機に因って天下を定め得べしと謂った。乃ち更に士衆を収め、非常を希望した。

太清元年、大挙して北侵した。初め元帥を謀るに、帝は範を用いようとした。時に朱異が急用で外から還り、これを聞いて遽に入って言った、「嗣王は雄豪世に蓋い、人をして死力を得させるが、然し至る所残暴甚だしく、人を弔うの材にあらず。昔、陛下は北顧亭に登って望み、江右に反気有り、骨肉が戎首となると謂われました。今日の事は、特に詳しく択ぶべし」。帝は黙然として言った、「会理はどうか」。対えて言った、「陛下がこれを用いられれば、臣に恨み無し」。会理は懦弱にして謀無く、乗る所の襻輿に版屋を施し、牛皮を以て冠としていた。帝は聞いて悦ばず、行きて宿預に至ると、貞陽侯明が行くことを請い、また明を以て代え、範を征北大将軍とし、漢北征討諸軍事を総督させ、尋ねて南 州刺史に遷した。

侯景が渦陽に敗れ、退いて寿陽を保つと、乃ち範を合州刺史に改め、合肥に鎮させた。時に景の不臣の跡露わになり、範は屡々啓してこれを言ったが、朱異は毎度抑えて奏上しなかった。景が都を囲むに及んで、範は世子の嗣と裴之高らを遣わして入援させた。開府儀同三司に遷った。台城が守られず、範は乃ち合肥を棄て、東関を守り出で、魏に兵を請い、二子を人質として遣わした。魏人は合肥を占拠したが、竟に範を助けなかった。範は進退計無く、乃ち流れを溯って西上し、樅陽に軍し、信を遣わして尋陽王大心に告げた。大心は還って九江に来るよう要請し、共に兵を西上させようとした。範は書を得て大いに喜び、乃ち軍を引いて盆城に至り、晋熙を以て晋州とした。子の嗣を遣わして刺史とし、江州の郡県を、輒ち更改した。ここにおいて尋陽の政令の行わるる所、唯だ一郡を存するのみとなり、また範を疑い畏れて、市糴通ぜず。範は乃ちまたその弟の観寧侯永を遣わして兵を将い南川を通じさせ、莊鐵を助けさせた。時に二鎮相猜疑し、再び賊を図るの志無し。範の数万の衆は、皆再び食するもの無く、人多く餓死した。範は竟に背中に癰を発して薨じた。衆は秘して喪を発せず、弟の南安侯恬を奉じて主とし、数千の衆があった。範の将の侯瑱が 章において莊鐵を襲い、これを殺し、その軍を尽く併せた。乃ち喪を迎えて郡に往くに、松門にて風に遇い、柩は水に沈んだが、鉤ってこれを得た。于慶之が 章を逼るに及んで、侯瑱は範の子十六人を以て賊に降り、賊は尽く石頭の坑においてこれを殺した。

範の子 嗣

世子の蕭嗣は字を長胤といい、容貌は豊かで雄偉、腰帯は十圍(太い)であった。性質は ぎょう 勇果断にして胆略あり、倜儻として細行を顧みず、しかも身を傾けて士を養い、皆その死力を得た。蕭範の薨去のとき、蕭嗣はなお晋熙を拠点とし、城中の食糧は尽き、兵士は皆疲弊困窮していた。侯景が任約を派遣して蕭嗣を攻撃した。当時賊軍は盛んであり、皆がしばらく中止するよう勧めた。蕭嗣は剣に手をかけ叱って言った、「今日の戦いは、蕭嗣が命を尽くし節に死ぬ秋である」と。戦いにおいて、流れ矢が頸に当たったが、抜くことを許さず、矢をつけたまま手ずから数人を殺し、賊が退いて初めて抜くことを命じ、その時気絶した。妻子は任約に捕らえられた。初め、蕭範は既に尋陽王蕭大心と対峙しており、蕭嗣の死後も、なお蕭範の喪を発することを敢えてしなかった。

蕭範の弟、蕭諮。

蕭範の弟の蕭諮は字を世恭といい、位は衛尉卿、武林侯に封ぜられた。簡文帝が即位した後、侯景の周囲の警備が厳重となり、外の者は見ることができず、ただ蕭諮と王克、殷不害のみが文弱であることを理由に臥内に出入りし、朝夕側に侍り、天子とともに六芸を講論し、その時も絶えなかった。南康王蕭会理の事が失敗すると、王克、殷不害は禍を恐れて自ら距離を置いたが、蕭諮は帝を離れるに忍びず、朝覲を絶やさなかった。賊はこれを憎み、その仇人である刁戌に命じて蕭諮を広莫門外で刺殺させた。

蕭諮の弟、蕭脩。

蕭諮の弟の蕭脩は字を世和といい、宜豊侯に封ぜられた。器量と力は堅固で、風儀は厳粛整然としていた。九歳で論語を通じ、十一歳で文を綴ることができた。鴻臚卿の裴子野はこれを見て賞賛した。性質は至孝であり、十二歳のとき、実母の徐氏の喪に遭い、荊州から帰って葬る途中、長江の中流で風に遭い、前後の部隊の多くが沈没溺死したが、蕭脩は棺を抱いて長く号泣し、血の涙をともに流し、波に揺られ漂いながらも、ついに他事なく済んだ。葬り終えると、墓の傍らに廬を結んだ。以前は山中に猛獣が多かったが、この時を境に絶跡した。野鳥は馴れて親しみ、軒下に棲み宿った。武帝はこれを嘉し、文書をもって宗室に告げ知らせた。

兼衛尉卿となった。姿形が美しく、毎度兵を屯させて周囲を警衛させると、武帝はこれを見て輦車を動かした。初め、嗣王の蕭範が衛尉であったとき、夜中に城を巡行し、常に風の便りに乗じて宿衛の者を鞭打ち、帝に自分の勤勉さを知らせようとした。蕭脩が職に就くと、夜必ず二度巡行したが、人に知られたがらなかった。ある者がその理由を尋ねると、言った、「夜中の警戒巡邏は、確かに労苦がある。主上は慈愛深いゆえ、それを聞けばあるいは止めるよう賜わるかもしれない。詔に背くことはできないし、詔を奉じれば職務は廃れる。かつて胡質の清廉さでさえ、尚お人に知られることを恐れた。これは職務の常であり、何ら自ら顕示するに足らぬ」と。聞いた者は嘆服した。

当時、王子侯の多くは近畿の小郡に封ぜられ、幾度か試みて実績があって、初めて辺境の州に出ることができた。帝は蕭脩の識見と度量が広大であるとして、衛尉から出向させて鍾離を鎮守させ、梁・秦二州刺史に転任させた。漢中に七年間在任し、風俗を移し改め、人は慈父と称した。長史の范洪胄は田一頃を持っており、秋を迎えようとして蝗害に遭った。蕭脩は自ら田の場所に赴き、深く自らを咎め責めた。功曹史の琅邪の王廉が蕭脩に蝗を捕らえるよう勧めたが、蕭脩は言った、「これは刺史たる私に徳がないことによるものであり、捕らえても何の補いになろうか」。言葉が終わると、突然飛ぶ鳥の千群れが日を蔽って到来し、瞬く間に虫を食い尽くして去り、どの鳥か分からなかった。ちょうど台使がこれを見ており、詳しく帝に報告した。璽書をもって労い、手詔にて「犬牙(相互に侵入すること)も及ばぬ」と言わしめた。州人は碑を立てて徳を頌するよう上表した。嗣王の蕭範が盆城におり、かなり異論があり、武陵王蕭紀は疑いと警戒を生じ、流言が噂し合った。蕭脩は深く自らを弁明し、質子を送ることと、防衛の援助を求めた。武陵王はそこで従事中郎の蕭固を派遣し、当世の事について諮問し、蕭脩の意図を詳しく観察させた。蕭脩は涙を流して忠臣孝子の節を説き、王は敬ってこれを容れた。ゆえに蕭脩の在世中は、不義の行いをしなかった。ある夜、突然犬が蕭脩の寝床に据わって臥した。蕭脩は言った、「これは戎(兵事)の兆しか」と。そこで大いに城塁を修築した。

承聖元年、魏の将軍達奚武が攻めてきた。蕭脩は記室参軍の劉璠を益州に派遣し、武陵王蕭紀に救援を求め、将軍の楊幹運を派遣して援軍とし、蕭脩を随郡王に拝した。劉璠が嶓塚に戻ると、魏に降伏し、楊幹運は軍を返した。劉璠が城下に至り、城中を説いて魏に降るよう勧めた。蕭脩はこれを責めて言った、「卿は節に死ぬことができないばかりか、反って説客となるのか」と。射殺するよう命じた。間諜を派遣して荊州に至らせ、元帝に連絡させた。

蕭脩の中直兵参軍の陳晷は甚だ勇猛で弁舌に長け、偵察を求めて出向き、捕らえられ、言辞が激しかったため害された。そこで諮議の虞馨を派遣して達奚武に牛と酒を贈った。達奚武は言った、「梁は既に侯景に敗れた。王は何ゆえこの孤城を守るのか」。蕭脩は死をもって守り、断頭将軍となることを誓うと答えた。魏の相である安定公宇文泰は書を送って諭したが、力尽きて降伏した。安定公は彼を非常に厚く礼遇し、間もなく江陵に帰還させ、手厚く見送り、文武の家来千戸を綱紀の僕とした。元帝は彼が変を起こすことを憂慮し、中使を派遣して偵察させ、道に絶えなかった。到着の夜、襲撃して奪わせた。朝になると、蕭脩は上表して馬と兵器を献上し、その後帝は安心した。蕭脩が入朝して拝謁すると、宮殿を望んで悲しみに耐えず、元帝も慟哭し、朝廷の者全てが泣いた。

まもなく湘州刺史に拝された。長沙は頻繁に兵乱に遭い、戸口は衰え弊害していた。蕭脩は農耕を勧め業務を分担させると、一年も経たないうちに、流民が三千余家も到来した。元帝は猜疑心が強く、動けば誅殺や剪除を加えた。蕭脩は静粛恭順に自らを守り、名声を埋め跡を晦ました。元帝も宗室の年長者として、深く敬礼した。江陵が包囲されたとの報せが届くと、その日に舟に登って救援に赴いた。巴陵の西に至ったとき、江陵が覆滅した。敬帝が立つと、遠くから蕭脩を太尉に任じ、太保に遷した。当時王室は次第に衰微し、蕭脩は義挙を図ったが、力弱く自ら振るうことができず、ついに背中に癰ができて吐血し薨去した。五十二歳。

蕭脩の弟、蕭泰。

蕭脩の弟の蕭泰は字を世怡といい、豊城侯に封ぜられた。中書舎人などの官を歴任し、財産を傾け尽くして時の権要に仕え、抜擢されて譙州刺史となった。江北の人情は荒々しく強情で、前後の刺史は皆これを慰撫していた。蕭泰が州に着任すると、すぐに人丁を広く徴発し、腰輿や扇、傘などの物を担がせ、士庶を問わなかった。これを恥じる者は重く杖罰を加え、多く財貨を納める者は即座に免除した。そこで人々は皆乱を望んだ。侯景が到来すると、人々に戦う心がなく、先んじて敗北した。

始興忠武王 蕭憺。

始興忠武王蕭憺は字を僧達といい、文帝の第十一子である。斉に仕えて西中郎外兵参軍となった。武帝が兵を起こすと、蕭憺は相国従事中郎となり、南平王蕭偉とともに留守を守った。斉の和帝が即位すると、蕭憺を給事黄門侍郎とした。当時、巴東太守蕭惠訓の子の蕭璝らの兵が荊州に迫り、蕭穎冑が急死した。尚書僕射の夏侯詳が議して蕭憺を迎え荊州の事務を行わせた。蕭憺は雍州の将吏を率いて赴き、書を送って蕭璝らを諭すと皆降伏した。この冬、武帝が建鄴を平定した。翌年、和帝の詔により蕭憺を 都督 ととく ・荊州刺史とした。

天監元年、安西将軍を加えられ、始興郡王に封ぜられた。当時は軍旅の後で、公私ともに物資が乏しかった。蕭憺は精励して政治を行い、広く屯田を開き、力役を減省し、戦死者の家族を慰問してその窮乏を救い、人々は非常に安心した。この年、嘉禾が生え、一茎に六穂あり、甘露が黄闔に降った。四年、荊州は大旱魃に見舞われた。蕭憺は天井で祭祀を行わせると、長さ二丈の大蛇が現れて祠壇を巡り、間もなく大雨が降り、その年は大豊作となった。蕭憺は自ら若年で重任に就いたことを考え、物情を開導し、訴訟する者は皆立って符教を待ち、瞬時に決断し、官曹に滞留する事案なく、下に滞った獄事もなかった。

六年、州に大水あり、江は溢れて堤は崩壊せり。憺はみずから将吏を率い、雨を冒して丈尺を賦しこれを築く。雨は甚だしく水は壮にして、衆みな恐れ、あるいは避くべしと請う。憺曰く、「王尊すら尚お身を以て河堤を塞がんと欲す。我ひとり何の心あらんや、以て免れんと」と。すなわち堤に登りて嘆息し、終日膳を輟め、白馬を刑して江神に祭る。流れに酒を酹し、身を以て百姓の為に命を請う。言終はらざるに水退き堤立つ。邴洲は南岸にあり、数百家水の長ずるを見て驚き走り、屋に登り樹に縁る。憺は人を募りてこれを救わしめ、一口に賞一万を賜う。估客数十人応募す。洲人は皆免る。吏人は嘆服し、咸に神勇と称す。また諸郡に分遣し、水に遭いて死する者に棺槥を給し、田を失う者に糧種を与う。是歳、嘉禾州界に生ず。吏人は美を帰す。

七年、慈母陳太妃薨ず。水漿六日口に入れず、喪に居ること礼を過ぐ。武帝優詔を以てこれを勉め、州任を摂せしむ。是の冬、詔して征し本号を以て還朝せしむ。人の歌うところに曰く、「始興王は人の爹(徙我反)。人の急に赴くこと水火の如し。何れの時か復た来りて我を哺乳せん」と。荊土の方言、父を爹と謂う。故に云う。後に中衛将軍・中書令となり衛尉卿を領す。憺は性謙を好み、意を降して士に接し、常に賓客と連榻して坐す。時論これ称す。

九年、 都督 ととく ・益州刺史に拝す。旧き守宰丞尉は歳時乞食し、躬みずから村里を歴り、百姓これを苦しむ。習い以て常と為す。憺州に至り、停断厳切にして、百姓以て蘇る。また学校を興し、漢の蜀郡太守文翁を祭る。ここより人多く方に向う者あり。

十四年、 都督 ととく ・荊州刺史に遷る。同母兄安成王秀、雍州に将いんとし、道に薨ず。憺喪を聞き自ら地に投じ、席稿して哭泣し、飲まず食わざること数日、財産を傾けて賻送し、部伍の大小皆足ることを取る。天下その悌を称す。

十八年、侍中・中撫軍将軍・開府儀同三司・領軍将軍に徴ぜられ、即ち開府黄合す。薨ず。二宮悲惜し、輿駕臨幸すること七たびなり。 司徒 しと を贈り、諡して忠武と曰う。憺未だ薨ぜざる前、夢に改めて中山王に封ぜられ、策授すること他日の如し。意頗るこれを悪み、数旬にして卒す。憺は西土に恵みあり。荊州人薨ずるを聞き、皆巷に哭し、嫁娶に吉日あれば、移して以て哀を避く。子亮嗣ぐ。

憺の子 映。

亮の弟映、字は文明。年十二、国子生と為る。天監十七年、諸生に策に答うることを詔す。宗室は則ち否。帝映の聰解なるを知り、特に関策を令め、また口対す。並びに奇と見ゆ。祭酒袁昂に謂いて曰く、「吾が家の千里駒なり」と。

起家して淮南太守と為る。諸兄に除命未だあらず。乃ち表を抗して譲る。映は容儀を美くす。普通二年、広信県侯に封ぜらる。父憂に丁り、隆冬に席地し、哭して声を絶たず、穀粒を嚐めず、唯だ冷水を飲む。因りて癥結を患う。太子洗馬を除く。詔して憺の艱難王業を以て、国封を追増す。嗣王陳て譲る。既に許さるるを得ず、乃ち邑を諸弟に頒つことを乞う。帝許す。改めて新渝県侯に封ぜらる。後に太妃の憂に居りて泣血す。三年服闋し、呉興太守と為る。郡累ねて稔らず。中大通三年、野谷武康に生ず。凡そ二十二処。ここより豊穣たり。映嘉穀頌を制して以て聞かしむ。中詔称美す。

後に北徐州刺史と為り、任に在りて弘恕、人吏これを懐く。常に粟帛を載せて境内に遊び、貧者に遇えば、即ち以てこれを振う。勝境名山、多く尋履す。及び征将に還らんとし、鍾離の人顧思遠、叉を挺てて行部伍の中にあり。映見るに甚だ老ゆ。人をして問わしむ。対えて曰く、「年一百十二歳。凡そ七たび娶り、子十二人有り。死亡略く尽くす。今唯だ小なる者、年已に六十、また孫息無し。家養に闕け乏し。是を以て行役す」と。映大いにこれを異とし、召して食を賜う。食は人に兼ぬ。その頭を検するに肉角あり、長さ一寸。遂に後舟を命じて還都を載せ、天子に謁見せしむ。これと往事を言うに、多く伝うる所に異なり。散騎侍郎に擢で、奉宅を賜い、朝夕進見す。年百二十にして卒す。また普通中北に侵し、穣城を攻む。城内に人あり、年二百四十歳、復た能く穀を食せず、唯だ曾孫の婦の乳を飲む。簡文帝命じてこれを労い、束帛を賜う。荊州上津郷の人張元始、年一百十六歳、膂力人に過ぎ、進食異ならず。年九十七に至りて方に児を生む。児遂に影無し。将に亡ばんとし、人人に告別し、乃ち山林樹木の処処に履行し、少日にして終わる。時人命を知ると為す。湘東王奇を愛し異を重んず。遂にその枕を留む。

映後に歴りて給事黄門侍郎、衛尉卿、広州刺史、官に卒す。諡して寛侯と曰う。

映の弟 曄。

映の弟曄、字は通明。姿容を美くし、談吐を善くす。初め安陸侯に封ぜらる。憺特に鍾愛す。常に目を送りて之に曰く、「吾の深く憂うる所」と。左右その故を問う。答えて曰く、「その過ぎること俊発、恐らく必ず年無からん」と。及び憺 せず、疾に侍して衣帯を釈かず、言と淚並ぶ。憺薨ず。扶けて後に起つ。服闋し、改めて上黄侯に封ぜられ、位は宗正卿を兼ぬ。簡文監撫に入居す。曄儲徳頌を献じ、給事黄門侍郎に遷る。

出でて しん 陵太守と為る。美才仗気、言多く激揚す。常に折角の牛に乗り、榖木の履を穿き、被服必ず儒者に於いてす。名は海内に盛んで、宗室に推重せられ、特だ簡文の友愛を被る。新渝・建安・南浦と並び密宴に預かり、東宮四友と号す。簡文日に五六の使来往す。曄初めて郡に至り、旱に属す。躬自ら祈祷す。果たして甘潤を獲たり。郡の雀林村、旧く多く猛獸害を為す。曄政に在ること六年、この暴遂に息む。郡に卒す。初め、曄寝疾歴年、官曹壅滞す。有司案ずるに諡法に「言行相違うを替と曰う」。乃ち諡して替侯とす。

論す。

論じて曰く、昔より王者創業するは、広く親親を植え、州国を割裂し、子弟を封建せざるは莫し。是を以て大旆少帛は魯・衛に崇く、磐石犬牙は梁・楚に深く寄す。梁武遠く前軌に遵い、蕃屏懿親、枝戚に至るまで、咸に任遇を被る。若し蕭景の才弁、固より亦た梁の令望なる者か。臨川不才、頻りに重寄に叨る。古者睦親の道は、粲として殊ならず、之に重名を加うれば、則ち有り。而るに宏は屡び彝典を黷し、一たび師徒を撓す。梁の綱を挙げざる、これに於いて甚だし。正德穢行早く顕れ、逆心夙に構う。斉襄に比べて跡匹うべく、呉濞に似て勢侔わず。徒らに賊景の階梯と為り、竟に国敗れて身滅ぶを取る。哀しいかな。安成・南平・鄱陽・始興、俱に名跡を以て美を著わす。蓋し亦た梁の間・平なり。

原本を確認する(ウィキソース):南史 巻052