呉平侯景

呉平侯景

呉平侯景は字を子昭といい、梁の武帝の従父弟である。祖父の道賜は礼譲をもって称され、郷里に住んで争訟があれば、専ら彼に頼ってこれを平らげ、またその急病を救済したので、郷里では「墟王」と号した。皆ひそかに言うには「その子孫は必ず大いなるであろう」と。宋に仕えて書侍御史で終わり、斉の末年に左光禄大夫を追贈された。三人の子あり、長男は尚之、次は文帝、次は崇之。尚之は敦厚にして器量があり、 司徒 しと 建安王の中兵参軍となり、一府において長者と称された。歩兵 校尉 こうい に遷り、官のまま卒した。梁の天監初年、文宣侯と追諡された。子の霊鈞は斉に仕えて広徳令となった。武帝が兵を起こすと、会稽郡の事務を行った。まもなく卒した。東昌県侯を追封された。子の謇が嗣いだ。崇之は斉に仕えて東陽太守に至り、幹能をもって顕れ、政治は厳厲を尚んだ。永明年間、銭唐の唐宇之が反乱を起こし、別働隊が東陽を破り、崇之は害に遇った。天監初年、忠簡侯と追諡された。

景は崇之の子である。八歳の時、父に従って郡に在り、喪に服して憔悴したことで知られた。成長して好学、才弁があり識断があった。斉に仕えて永寧令となり、政治は百城の最であった。永嘉太守の范述曾は郡に在って廉平と号され、雅に景の為政に服し、郡門に牓して曰く「諸県に疑滞ある者は、永寧令に就いて決すべし」と。病を以て官を去った。永嘉の人胡仲宣ら千人が闕に詣でて景を郡守とするよう表請したが、許されなかった。永元二年、長沙宣武王蕭懿の勲功により、歩兵 校尉 こうい に除された。この冬、懿が害に遇うと、景もまた難を逃れた。

武帝が兵を起こすと、景を行南兗州事とした。当時天下未だ定まらず、沔北の傖楚は各々塢壁を拠としていた。景は威信を示すと、渠帥は相率いて面縛して罪を請い、旬日のうちに境内皆平らかになった。武帝が践祚すると、呉平県侯に封ぜられ、南兗州刺史となり、 都督 ととく を加えられた。詔して景の母毛氏を国太夫人とし、礼は王国太妃の如く、金章紫綬を仮した。景は州にあって清恪、威裁あり、吏職を明解し、文案滞ることなく、下は敢えて欺かず、吏人は神の如く畏敬した。凶年に会い、戸口を計って振恤し、また路上に饘粥を設けてこれを賦与し、死者には棺具を給し、人々は大いに頼った。

天監七年、左 ぎょう 騎将軍となり、兼ねて領軍将軍を領す。領軍は天下の兵要を管るが、宋の孝建以来、制局が用事し、領軍と権を分かち、典事以上は皆奏上でき、領軍は垂拱するのみであった。景が職に在って峻切であると、官曹は肅然とし、制局監は皆近幸であり、甚だ命に堪えず、これにより久しく中に留まれなかった。

まもなく出て甯蛮 校尉 こうい ・雍州刺史となり、 都督 ととく を加えられた。八年、魏の荊州刺史元志が潺溝を攻め、群蛮を駆迫すると、群蛮は悉く漢水を渡って来降した。議者は蛮が累ねて辺患となるとし、この機に除くべしとした。景は曰く「窮して我に帰するを誅するは不祥なり。且つ魏人の来侵するや、毎に矛楯となる。若し蛮を悉く誅せば、則ち魏軍に碍る所無く、長策に非ず」と。乃ち樊城を開いて降を受け、因って司馬朱思遠・甯蛮長史曹義宗・中兵参軍孟惠雋に命じて志を潺溝に撃たせ、大破した。景は初めて州に到ると、参迎の羽儀器服を省除し、吏人を煩擾せしめず。城塁を修葺し、辺備に警を申し、辞訟を理め、農桑を勧めた。郡県は皆節を改めて自ら励み、州内は清静、抄盗は絶跡した。

十三年、再び領軍将軍となり、殿省に直し、十州の損益の事を知り、月に禄五万を加えられた。景は人となり雅に風力あり、辞令に長じていた。朝廷にあっては衆の瞻仰するところとなった。武帝に対しては従弟たるに属するも、礼寄甚だ隆く、軍国の大事は皆彼と議決した。

十五年、侍中を加えられた。太尉・揚州刺史臨川王蕭宏が法に坐して免ぜられると、詔して景を安右将軍として揚州を監せしめ、佐史を置き、即ち宅を府とした。景は親を越えて揚州に居ることを固く辞し、涕泣するに至ったが、帝は許さなかった。州にあって特に明断と称され、符教は厳整であった。田舎の老姥が符を得て訴え、県に還ったが、県吏が即時に発しなかった。姥は語って曰く「蕭監州の符は火の如し、汝の手何ぞ敢えてこれを留めんや」と。その人の畏敬されること此の如しであった。

都督 ととく 郢州 えいしゅう 刺史に遷った。出発に際し、帝は建興苑に幸して餞別し、之が為に流涕した。州にあってまた能名があった。斉安・竟陵郡は魏の界に接し、盗賊多かったが、景が移書して告示すると、魏は即ち塢戍を焼いて境を保ち、再び侵略しなかった。州において卒し、開府儀同三司を贈られ、諡して忠といった。子に勱あり。

景の子 勱

勱は字を文約といい、幼くして弄ぶことを好まず、喜慍色に形せず。太子洗馬に位し、母憂のため職を去り、喪に勝えぬほどであった。思い至る毎に、必ず徒歩で墓に至った。或いは風雨に遇い、途中で仆れ臥し、地に坐して号慟し、起きてまた前に進み、家人も禁じ得なかった。景は特に鍾愛し、曰く「我百年の後、其れ此の子無からんや」と。左右に命じて哭を節せしめた。服闋し、太子中舎人に除された。景が郢鎮で薨じると、或いは路遠を以て、その凶問を秘し、疾漸を以て辞とした。勱は乃ち奔波し、江夏に届き、水漿を進めざること七日。墓所に廬し、親友を隔絶した。叔父の曇が詔獄に下ると、勱は乃ち昆弟群従を率いて同しく大理に詣で、門生故吏といえども、之を識る者無し。後に呉平侯を襲封し、王人に対揚するに、悲慟嗚咽し、傍人も亦之が為に隕涕した。

淮南太守に除かれ、善政を以て称された。宣城内史に遷り、郡に猛獣多く、常に人の患いとなったが、勱が任に在ると、獣の暴は止んだ。また 章内史に遷り、道に遺物を拾わず、男女は路を異にした。広州刺史に徙り、郡を去る日、吏人は悲泣し、数百里の中、舟乗は填塞し、各々酒肴を齎して勱を送った。勱は人となり納受し、随って銭帛をこれに与えた。新淦県岓山村に至ると、一老姥が盤に鰍魚を擎げ、自ら舟側に送り奉げ、童児数十人が水に入り舟を扳い、或いは歌い或いは泣いた。

広州は海に辺り、旧より饒かで、外国の船が至れば、多くは刺史に侵され、毎年船の至るは三数に過ぎなかった。勱が至ると、纖豪も犯さず、歳に十余り至った。俚人は賓服せず、多く海暴を行ったが、勱が征討して獲た生口宝物は、軍賞の外、悉く台に送還した。前後の刺史は皆私蓄を営み、方物の貢は、少く天府に登った。勱が州に在ってより、歳中数度献じ、軍国に須る所、相継いで絶えなかった。武帝は歎じて曰く「朝廷は便ち是れ更に広州有り」と。詔有りて本号を以て還朝せしめんとしたが、西江の俚帥陳文徹が出寇して高要を侵し、また詔して勱に蕃任を重申せしめた。未だ幾ばくもせず、文徹は降附した。勱は南江の危険を以て、重鎮を立つべしとし、乃ち表して台に高涼郡に州を立つべしとす。勅して仍って高州と為し、西江督護孫固を刺史とした。徴されて太子左衛率となった。

勱は性質率儉ながら、器度は寬裕であり、左右が嘗て羹を胸前に将いて之を翻したが、顏色異ならず、徐に更衣を呼んだ。書を聚めて三万巻に至り、披翫倦まず、特に『東観漢記』を好み、略皆誦憶した。劉顯が巻を執り策すと、酬応流るるが如く、乃ち巻次行数に至るも差失しなかった。少く交結し、唯だ河東の裴子野・范陽の張纘と善しとした。道中に卒し、侍中を贈られ、諡して光侯といった。勱の弟に勧あり。

勱の弟 勧

蕭勔は字を文肅といい、若くして清静をもって自らを立て、西鄕侯に封ぜられ、南康内史・太舟卿の位に至った。大寶元年、南康王蕭會理とともに侯景を誅殺しようと謀ったが、事が露見して害された。

蕭勔の弟に蕭勉がいる。

蕭勔の弟の蕭勉は、字を文祗といい、東鄕侯に封ぜられ、太子洗馬の位に至り、蕭勔とともに害された。

蕭勉の弟に蕭勃がいる。

蕭勉の弟の蕭勃は、定州刺史の位にあり、曲江鄕侯に封ぜられた。大寶初年、広州刺史元景仲が侯景に呼応しようと謀ったとき、西江督護陳霸先が景仲を攻撃し、蕭勃を迎えて刺史とした。当時、湘東王蕭繹が荊州におり、制を承けて官職を授ける立場ではあったが、これを制する力がなく、やむなくこれに従った。蕭勃はそこで嶺南に鎮し、広州刺史となった。後に江表が平定されると、王琳が代わって広州となり、蕭勃は しん 州刺史とされた。魏が江陵を陥落させると、蕭勃は再び広州を占拠した。敬帝が制を承けると、 司徒 しと を加えられた。紹泰年間、太尉となり、まもなく太保に進んだ。陳霸先が禅譲によって帝位を代える際、挙兵して従わず、まもなく敗れて害された。

蕭景の弟に蕭昌がいる。

蕭昌は字を子建といい、蕭景の弟である。衡州刺史の位にあった。性来酒を好み、州にあっては毎回酔い、直接人家に出入りし、あるいは単身で草野に赴き、刑戮にはかなり期度がなかった。酔った時に殺した者を、醒めてから探し求めることもあったが、悔いることはなかった。累進して兼宗正卿となり、たびたび有司から弾劾された。長く都に留まり、ふさぎ込んで楽しまず、ついに酒にふけり虚悸を患った。石頭の東齋において、刀を引いて自らを刺して卒した。弟に蕭昂がいる。

蕭昌の弟に蕭昂がいる。

蕭昂は字を子明といい、軽車将軍・監南兗州の位にあった。初め、兄の蕭景が再び兗州を治めたとき、徳恵が人々にあり、蕭昂が代わりに来たとき、当時の人はこれを馮氏になぞらえた。琅邪・彭城二郡太守に徴された。当時、二十歳ほどの女子がおり、髪を振り乱し黄衣を着て、武窟山の石室におり、特に修行することはなく、ただあまり食べなかった。時に人里に出て、少量の酒を飲み、鵞卵を一、二個食べる程度で、人々は聖姑と呼んだ。子を求めて彼女のもとに赴くと、しばしば効果があり、参詣する者が山谷に満ちた。蕭昂が呼び出して問うたが何も答えず、妖惑であるとして、二十回鞭打った。創はすぐに癒えたが、所在を失った。中大通元年、領軍将軍となった。久しくして、湘陰侯に封ぜられ、出向して江州刺史となった。卒し、諡して恭侯といった。

蕭昂の弟に蕭昱がいる。

蕭昂の弟の蕭昱は字を子眞といい、若くして狂狷で、礼度に拘らず、異様な服装に高い冠をかぶり、交遊は冗雑であった。特に牛を屠ることを得意とし、これを常業とした。宅内で酒を売った。騎射を好んだ。中書侍郎の位を歴任した。たびたび辺境の州で試みることを求めたが、武帝はその軽脱で威望がないとして、抑えて許さなかった。給事黄門侍郎に遷ったが、上表して自ら解任を請うたので、帝は手詔でこれを責め、官を免ぜられた。このため門を閉ざして朝覲を絶った。

普通五年、宅内で銭を鋳造した罪で、有司に奏上され、廷尉に下され、死罪を免れ、臨海郡に流された。上虞まで行ったとき、詔勅が追って還らせ、菩薩戒を受けるよう命じた。都に至ると、恭しく礼を尽くし、心を改めて道に従い、戒律を守ることも精潔であった。帝は大いにこれを嘉した。

しん 陵太守とされ、着任すると名跡を励まし、煩苛を除き、法憲を明らかにし、奸吏に厳しく、十日ほどの間に郡内は大いに安んじた。まもなく急死した。百姓は道で号泣し巷で哭き、市里はこれがために喧沸し、郡庭で祭奠を設けた者は四百余人に及んだ。田舎に夏氏という百余歳の婦女がおり、曾孫を支えて郡に出て、悲泣して自らを抑えることができなかった。その恵化の感ずるところがこのようであった。百姓は相率いて廟を立て碑を建て、その徳を記念し、また都に赴いて表を上り、贈諡を求めた。詔して湘州刺史を追贈し、諡して恭子といった。

文帝の子

文帝に十男あり。張皇后は長沙宣武王蕭懿・永陽昭王蕭敷・武帝・衡陽宣王蕭暢を生んだ。李太妃は桂陽簡王蕭融を生んだ。蕭融は東昏侯に害され、蕭敷・蕭暢は斉の建武年間に卒した。武帝が践祚すると、ともに郡王を追封された。陳太妃は臨川靖恵王蕭宏・南平元襄王蕭偉を生んだ。呉太妃は安成康王蕭秀・始興忠武王蕭憺を生んだ。費太妃は鄱陽忠烈王蕭恢を生んだ。

長沙王蕭懿

長沙宣武王蕭懿は字を元達といい、文帝の長子である。幼少より名声があり、初めて官に就いて斉の安南邵陵王行参軍となり、臨湘県侯の爵位を襲封した。晋陵太守を歴任し、善政で称えられた。永明の末、梁・南秦二州刺史となり、 都督 ととく を加えられた。この年、魏軍が漢中に入り、南鄭を包囲した。蕭懿は機に応じて防戦し、包囲を解かせて退却させた。また氐の首長楊元秀を遣わして魏の歴城など六つの戍を攻め取らせた。魏人は震え恐れ、辺境は平穏となった。

永元二年、裴叔業が 州を占拠して反乱を起こすと、蕭懿は 州刺史として歴陽・南譙二郡太守を兼ねてこれを討伐し、叔業は恐れて魏に降った。武帝(蕭衍)は当時雍州におり、典籤の趙景悦を遣わして蕭懿を説き、晋陽の兵を起こして君側の奸を誅すよう勧めたが、蕭懿は答えなかった。やがて平西将軍崔慧景が侵入し、江夏王蕭宝玄を奉じて台城を包囲すると、斉の朝廷は大混乱に陥り、急使を送って蕭懿を召還した。蕭懿は食事中であったが、箸を投げて立ち上がり、精鋭三千人を率いて救援に向かった。武帝は虞安福を急ぎ都に下らせて蕭懿を説かせた。「賊を誅した後には、賞しきれない功績がある。明君賢主の下でさえ、身を立てるのは難しい。まして乱れた朝廷において、どうして自らを免れられようか。もし賊を滅ぼした後、引き続き兵を率いて宮中に入り、伊尹・霍光の故事を行えば、これは万世に一度の機会である。もしそれを望まないなら、すぐに上表して歴陽に戻り、外敵への防備を口実とすれば、威は内外に振るい、誰が従わないことがあろうか。一朝にして兵を解き、厚い爵位を受ければ、地位は高いが人望がなく、必ず後悔を生じるであろう。」長史の徐曜甫も苦しく諫めたが、いずれも従わなかった。慧景はその子崔覚を遣わして防がせたが、蕭懿はこれを撃ち大破し、勝ちに乗じて進軍した。慧景の軍は潰走し、追撃してこれを斬った。 尚書令 しょうしょれい 都督 ととく 征討水陸諸軍事に任じられた。

当時、東昏侯(蕭宝巻)は暴虐をほしいままにし、茹法珍・王咺之らが政権を握り、古参の臣や旧将軍は皆誅殺された。蕭懿は功績が高く、ただ一人朝廷の重職にあったため、法珍らに深く畏れられ、東昏侯に讒言して残酷な迫害を加えようとした。徐曜甫はこれを知り、密かに江辺に舟を準備し、西へ逃亡するよう勧めた。蕭懿は従わず、「古より死はあるものだ。どうして 尚書令 しょうしょれい が逃走などできようか」と言った。まもなく尚書省に留め置かれて毒薬を賜り、弟の蕭融と共に死んだ。使者に向かって言った。「私の弟(蕭衍)は雍州におり、朝廷のことを深く憂えている。」中興元年、 司徒 しと を追贈された。宣徳太后が臨朝すると、太傅に改めて追贈された。天監元年、丞相を追崇し、長沙郡王に封じられ、諡を宣武といった。九旒の鸞輅・黄屋左纛を賜り、葬儀は晋の安平王の故事に依った。

蕭懿は名声と功業が元より重く、武帝(蕭衍)が本来崇敬していた人物であった。帝は天監元年四月丙寅に即位し、その日に早くも(蕭懿を)褒め崇めた。戊辰になって初めて第二兄の蕭敷・第四弟の蕭暢・第五弟の蕭融を追贈した。五月になって、有司がようやく皇考皇妣の尊号を追うことを奏上し、神主を太廟に遷した。帝は自ら奉じず、臨川王蕭宏に命じて侍従させた。七月、帝は殿前に臨み、兼太尉・ 散騎常侍 さんきじょうじ の王份を遣わして策命を奉じ、太祖文皇帝・献皇后および徳皇后の尊号を上った。すでに卑しい者を先にし尊い者を後にした上、殿前に臨んで策命を命じたため、識者はこれを大いに譏り議論した。

蕭懿の子 蕭業

蕭懿の子蕭業は字を静曠といい、幼少より聡明で、斉に仕えて太子舎人となった。宣武王(蕭懿)の難に際し、二人の弟蕭藻・蕭象と共に王厳秀の家に逃げ隠れた。東昏侯はこれを知り、厳秀を捕らえて建康の獄に下し、拷問を極限まで加え、鉗で手の爪を抜いたが、死ぬまで口を開かず、ついに禍を免れた。

天監二年、長沙王を襲封し、秘書監、侍中、 都督 ととく 南兗州刺史を歴任した。私邸の米を用い、人を雇って瓦を作らせて城を築き、武帝に賞賛された。湘州に転じ、特に善政で知られた。零陵には昔から二頭の猛虎が暴れていたが、理由もなく相枕して死んだ。郡人の唐睿が猛虎の傍らに一人の者がいて「刺史の徳が神明に感応し、二頭の猛虎が自ら死んだのだ」と言うのを見た。言い終わるとその者は見えなくなり、人々は皆これを怪しんだ。

蕭業は性質が篤実で、任地ごとに恵みを残した。普通四年、侍中・金紫光禄大夫となった。薨去し、諡を元王といった。文集が世に行われた。子の孝儼が嗣いだ。

蕭業の子 孝儼

孝儼は字を希荘といい、射策で甲科に及第し、秘書郎・太子舎人に任じられた。華林園に従駕し、座中で相風烏・華光殿・景陽山などの頌を献上した。その文は甚だ美しく、帝は深く賞賛し驚いた。薨去し、諡を章といった。子の蕭慎が嗣いだ。蕭業の弟に蕭藻がいる。

蕭業の弟 蕭藻

蕭藻は字を靖芸といい、斉に仕えて著作佐郎となった。天監元年、西昌県侯に封じられ、益州刺史となった。当時鄧元起が蜀におり、劉季連を平定した功績があると自負し、古参の将軍としての自負から蕭藻を軽んじたため、蕭藻は怒ってこれを殺した。天下は草創期で、辺境は未だ安定せず、州人の焦僧護が数万の衆を集め、郫・繁を占拠して反乱を起こした。蕭藻はまだ弱冠に満たない年齢であったが、僚佐を集めて議し、自らこれを討伐しようとした。ある者が不可と陳べると、蕭藻は大いに怒り、階段の脇でこれを斬った。そして平肩輿に乗り、賊の砦を巡行した。賊は弓を集めて乱射し、矢は雨のように降り注いだ。従者が楯を挙げて矢を防ごうとすると、また命じてこれを除かせた。これにより人心は大いに安んじ、賊は夜遁した。蕭藻は騎兵に命じて追撃させ、これを平定した。

九年、召還されて太子中庶子となった。かつて鄧元起が蜀にいた時、収奪を重ね、財貨は山のように積まれていた。金玉珍宝や絹帛は一室に収め、内蔵と名付け、綺や羅紗、錦、毛織物は一室に収め、外府と号していた。蕭藻は外府を将帥に賜り、内蔵は王府に帰属させ、私することはなかった。この時、朝廷に還るに当たり、軽装で道についた。再び侍中に遷った。

蕭藻は謙虚で控えめな性質で、名声を求めず、文章をよくし、特に古体を好んだ。公の宴席でなければ、妄りに文章を作らず、たとえ短い文章でも、完成すればすぐに草稿を棄てた。雍州・兗州の二州刺史を歴任した。頻繁に州鎮を治め、人々や官吏は皆これを称えた。善を推して人に譲り、常に及ばないかのようにした。普通六年、軍師将軍となり、西豊侯蕭正徳と共に北へ侵攻して渦陽を攻めたが、勝手に軍を返したため、有司に奏上され、官を免じられ爵土を削られた。八年、再び爵位を封じられた。中大通三年、中軍将軍・太子詹事となり、出て丹陽尹となった。帝はしばしばその幼名を呼び、「子弟が皆迦葉(蕭藻の小字)のようであれば、私はまた何を憂えようか」と嘆いた。入朝して尚書左僕射となり、侍中を加えられたが、固辞したが許されなかった。大同五年、中衛将軍・開府儀同三司・中書令に遷り、侍中は元の通りであった。

蕭藻は恬静な性質で、独り一室に居り、床には膝の痕があり、宗室の衣冠(貴族)はこれを楷則とせざるはなかった。常に爵禄が過ぎることを思い、退くことを考え、門庭は閑寂で、賓客は通ずること稀であった。簡文帝は特にこれを敬愛した。家禍に遭って以来、常に布衣蒲席を用い、鮮禽を食せず、公庭でなければ音楽を聴かず、武帝は毎にこれを称えた。

南徐州刺史として出向した。侯景の乱に際し、藻は世子の彧に兵を率いて入援させた。城が開くと、 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられた。侯景がその儀同蕭邕を遣わして代わりに京口を占拠させると、藻は気疾を患った。或る者が江北に奔ることを勧めたが、藻は言った、「我は国の台鉉(重臣)として、任寄は特に隆く、既に逆賊を誅翦できず、正に朝廷とともに死すべきである」と。そこで食を絶って薨じた。

藻の弟、猷。

藻の弟の猷は、臨汝侯に封ぜられ、呉興郡守となった。性質は倜儻で、楚王廟の神と交わり、一斛まで飲んだ。毎に酹祀しては、歓を尽くし極めて酔い、神影にも酒色があり、祈るときは必ず従った。

後に益州刺史、侍中、中護軍となった。時に江陽の人齊苟兒が反し、衆十万で州城を攻め、猷は兵糧ともに尽き、人に異心があった。そこで遥かに祈って救いを請うた。この日、田老が一騎の浴鉄(甲冑)の者が東方より来るに逢い、城まで幾里かと問うと、「百四十里」と言った。時に日は既に晡(申の刻)で、騎は矟を挙げて言った、「後から来る者には、速やかに馬を走らせ、日のあるうちに賊を破らんと欲す」と。俄かに数百騎が風の如く来り、一騎が通り過ぎて飲み物を請うた。田老が誰かと問うと、「呉興の楚王、臨汝侯を救いに来た」と言った。この時、廟中の請祈は験がなかった。十余日して、ようやく侍衛の土偶が皆泥で濡れ汗をかいたようであるのを見た。この日、猷は大いに苟児を破った。猷は州において頗る僭濫で、客筵の中に香橙を置き、連榻を設けなかった。武帝は末にこれを知り、これを愆とした。都に還り、憂愧して疾を成し、卒した。諡して霊と言う。神と交わったためである。

猷の子、韶。

猷の子の韶は字を徳茂といい、初め上甲県都郷侯に封ぜられた。太清の初めに舍人となり、城が陥落すると詔を奉じて西に奔った。江陵に至ると、人士多く尋ね求めて来て、城内の事を説くよう韶に命じた。韶は人人に説くことができず、そこで一巻に書き記し、客の問う者には便ちこれを示した。湘東王が聞いて取り寄せて見て、言った、「昔、王韶之が隆安紀十巻を作り、晋末の乱離を説いた。今の蕭韶もまた太清紀十巻と為すべし」と。韶はそこで更に太清紀を撰した。その諸議論は多く謝呉が為した。韶は既に旨を承けて撰著したが、多くは実録ではなかった。湘東王はこれを徳とし、超えて宣武王を継がせ、長沙王に封じ、遂に郢州刺史に至った。

韶は昔、幼童の時、庾信に愛され、断袖の歓(男色)があり、衣食の資は皆信が給した。客に遇うと、韶もまた信のために酒を伝えた。後に郢州となると、信は西上して江陵に至り、途江夏を経た。韶は信を甚だ薄く接し、青油幕の下に坐り、信を引いて宴に入らせ、信を別榻に坐らせ、自矜の色があった。信は稍々堪えず、酒酣に因り、径ちに韶の床に上り、肴饌を踏みつけ、直ちに韶の面を見て言った、「官(貴人)は今日の形容、大いに近日と異なる」と。時に賓客満坐し、韶は甚だ慚恥した。

韶の弟、駿。

韶の弟の駿は字を徳款といい、草隸を善くし、文章に工で、晩年更に武を習い、膂力人に絶え、永安侯の確と相類した。位は尚書殿中郎、超武将軍に至り、南安侯に封ぜられた。城が陥落すると、賊の任約に礼遇された。鄱陽嗣王の範を召して約を襲わんと謀ったが、反って害された。

猷の弟、朗。

猷の弟の朗は字を靖徹といい、天監五年、例により王子として侯に封ぜられた。太子洗馬、桂州刺史を歴任し、 都督 ととく を加えられた。性質は倨傲で虐く、群下はこれを患った。記室の庾丹は忠諫を以て害せられ、帝はこれを聞き、嶺表に於いて功を以て自ら効せしめた。丹の父の景休は位は御史中丞であった。丹は少にして俊才があり、伏挺、何子朗とともに周舍に狎れられた。初め景休は巴東郡を罷めて頗る資産があり、丹は数百万の負債があり、責める者が門を填めた。景休は怒り、これを償わなかった。既にして朝賢が丹を之れ景休にせず、景休は悦び、乃ち悉くこれを還した。建康正となり、事に坐して広州に流された。

朗の弟、明。

朗の弟の明は字を靖通といい、少くして武帝に親愛され、貞陽侯に封ぜられた。太清元年、 州刺史となり、百姓が闕に詣でて表を拝し、その徳政を言い、州門内に碑を樹てた。碑匠が石を採るに出でて肥陵よりするや、明は広く厨帳を営み、多く人物を召し、躬自ら率いて牽きて州に至った。識者はこれを笑い、言った、「王自ら碑を立てるは、州人に非ざるなり」と。

武帝が既に侯景を納れ、大いに北侵を挙げ、南康王の会理に兵を総べさせると、明は乃ち表を拝して行くことを求めた。固く請うて、乃ちこれを許した。会理が既に宿預に至ると、詔して改めて明を以て代わり 都督 ととく 水陸諸軍と為し彭城に趣かせ、大いに進取を図らしめた。敕して曰く、「侯景は志、鄴・洛を清め、以て讎恥を雪がんとす。其れ先ず大軍を率い、機に随い撫定せよ。汝等衆軍は寒山に止まり堰を築き、清水を引いて以て彭城を灌ぐべし。大水一たび泛べば、孤城自ら殄ぶ。慎んで妄りに動くことなかれ」と。明の師は呂梁十八里に次いで、寒山堰を作りて彭城を灌ぎ、水は堞に及び、没せざるは三板のみであった。魏は将の慕容紹宗を遣わして赴救せしめ、明は謀略出でず、号令行なわれず。諸将が毎に事を諮ると、輒ち怒って曰く、「吾自ら臨機制変す、多く言うなかれ」と。衆は乃ち各々居人を掠め、明も亦制することができず、ただその一軍のみを禁じて侵掠すること無からしめた。

紹宗が到着し、堰の水を決壊させると、蕭明は将を命じてこれを救わしめようとしたが、誰も出ようとしなかった。魏軍が転じて逼迫し、人の情は大いに驚いた。胡貴孫が趙伯超に言うには、「戦わずして何を待つのか。」伯超は恐れて答えることができなかった。貴孫はそこで陣中に入って苦戦し、伯超は衆を擁して敢えて救わず、言うには、「戦えば必ず敗れる。全軍を挙げて早く帰還するに如かず。」そこで良馬を整えさせ、その愛妾を載せて自ら従った。貴孫は遂に没した。伯超の子威方が戦いに赴かんとしたところ、伯超はその出撃を恐れ、人をやって召し寄せ、遂に共に南還した。

蕭明は酔って起き上がることができず、衆軍は大敗し、蕭明は捕虜として捕らえられた。北人はその侵掠しなかったことを思い、彼を義王と呼んだ。魏に至ると、魏帝は蕭明及び諸将帥を引見し、その禁錮を解き、晋陽に送った。勃海王高澄は蕭明を非常に重んじて礼遇し、言うには、「先王と梁主は十余年和好しており、彼の礼仏文を聞くに、常に魏主並びに先王のために奉ずると云っていた。これは甚だ梁主の厚意である。一朝にして信を失い、この紛擾を致すとは謂わなかった。」そこで梁と通和しようとし、人をやって蕭明の書を以て武帝に告げさせ、ようやく書を致して高澄を慰めた。

東魏は蕭明を 散騎常侍 さんきじょうじ に任じた。社稷が淪蕩したと聞くと、昼夜を分かたず哀泣した。魏が江陵を平定すると、斉の文宣帝は人を遣わして蕭明を梁に送り届けさせ、併せて以前に捕獲した梁の将湛海珍らを皆蕭明に従って帰国することを許した。上党王高渙に衆を率いてこれを送ることを命じた。この時、太尉王僧辯・ 司空 しくう 陳霸先が建康におり、晋安王方智を推して太宰・ 都督 ととく 中外諸軍事とし、制を承けて百官を置いた。高渙の軍が漸次進むと、蕭明は僧辯に書を送って迎えを求め、僧辯は従わなかった。高渙が東関を破り、裴之横を斬ると、僧辯は恐れ、蕭明を受け入れた。ここにおいて梁の輿は東渡し、斉の師は北返した。

蕭明が到着し、朱雀門を望むと便ち慟哭し、居所に至るまで、道俗の参問には皆泣いて応対した。尊号を称し、承聖四年を改めて天成元年とし、境内を大赦した。方智を太子とし、王僧辯に大司馬を授け、その子蕭章を馳せて斉に赴かせて拝謝させた。斉は蕭明及び僧辯の使者を遇するに、館における供給宴会を豊厚にし、武帝の時の使者と全く同じであった。陳霸先が襲って僧辯を殺すと、再び晋安王を奉じ、これが敬帝であり、蕭明を太傅・建安王とした。斉に報じて云うには、「僧辯は陰謀を企てて篡逆しようとした故、これを誅した。」仍って斉に称臣することを請い、永く蕃国たらんとした。斉は行台司馬恭を遣わし、梁人と暦陽で盟を結んだ。明年、斉人は蕭明を召還しようとし、霸先はなお蕃を称し、使者を遣わして蕭明を送ろうとしたが、背中に疽が発して死んだ。時に王琳が霸先と相抗し、斉の文宣帝は兵を遣わして永嘉王蕭荘を納れ梁の祀を主たらしめ、蕭明を追諡して閔皇帝とした。

永陽王

永陽昭王蕭敷は字を仲達といい、文帝の第二子である。少より学業があり、斉に仕えて随郡内史となった。遠近を招き懐け、士庶これを安んじ、前後の政はこれに及ぶものなしとした。明帝は徐孝嗣に謂って曰く、「学士は旧聞の例として理官を解せず。聞くところでは蕭随郡は唯だ酒を置き清言するのみなのに、路に遺物を拾わず。いかなる風化を行ってかここに至ったのか。」答えて曰く、「古は文徳を修めて以て遠人を来たす。況んや郡境を止むるのみにてや。」帝は善しと称した。廬陵王諮議参軍に徴されたが、卒した。武帝が即位すると、 司空 しくう を追贈され、永陽郡王に封ぜられ、諡して昭といった。天監二年、子の伯游が嗣いだ。伯游は字を士仁といい、位は会稽太守に至り、薨じ、諡して恭といった。

衡陽王

衡陽宣王蕭暢は、文帝の第四子である。美名があり、斉に仕えて位は太常、江陵県侯に封ぜられた。卒した。天監元年、開府儀同三司を追贈され、衡陽郡王に封ぜられ、諡して宣といった。

三年、子の元簡は位は郢州刺史に至り、官において卒し、諡して孝といった。葬送の際、柩に声がしたので、議者は開いて視ようとした。王妃柳氏が曰く、「晋文公に既に前例あり。棺を開くとは聞かず。亡き者の生に益なく、徒らに生者の痛みを増すのみ。」遂に止めた。少子の蕭献が嗣いだ。

桂陽王

桂陽簡王蕭融は、文帝の第五子である。斉に仕えて位は太子洗馬、宣武王蕭懿と共に害に遇った。天監元年、撫軍大将軍を追贈され、桂陽郡王に封ぜられ、諡して簡といった。子がなく、詔して長沙宣武王の第九子蕭象を嗣がせた。

蕭象は字を世翼といい、容止は閑雅で、交遊を簡にし、生母に事えること孝をもって聞こえた。位は丹陽尹に至る。蕭象は深宮に生長し、初めて庶政に親しみ、挙措に失徳なく、朝廷これを称した。再び湘州刺史に遷り、 都督 ととく を加えられた。湘州は旧来猛獣の暴が多いが、蕭象が州に任じた日より、四頭の猛獣が郭外で死に、ここより静息した。故老は皆徳政の感ずるところと称した。歴任して太常卿に至り、侍中を加えられ、秘書監に遷った。薨じ、諡して敦といった。子の蕭慥が嗣いだ。

蕭慥は字を元貞といい、位は信州刺史に至り、威厳と恵みがあった。太清二年、台城の救援に赴いたが、勅に遇って帰蕃した。まもなく張纘に陥れられ、書を送って湘東王に報じて曰く、「河東・桂陽の二蕃は、掎角して江陵を襲わんと欲す。」湘東王は水軍歩兵兼行して荊鎮に至った。蕭慥はなお江津に軍していたが、意に介さず、湘東王が到着すると、蕭慥を召し、深く慰喩を加え、蕭慥の心はようやく安んじた。後に省内に留め置かれると、蕭慥は禍の及ぶを知り、遂に醜言を肆にした。湘東王は大いに怒り、獄に付してこれを殺した。

臨川王蕭宏

臨川靖恵王蕭宏は字を宣達といい、文帝の第六子である。身長八尺、鬚眉美しく、容止観るべきものあり。斉に仕えて北中郎桂陽王功曹史となった。宣武の難に、兄弟皆収められた。道人の釈恵思が蕭宏を匿った。武帝の師が下ると、蕭宏は新林に至って奉迎した。建康平定後、中護軍となり、石頭戍事を領した。天監元年、臨川郡王に封ぜられ、位は揚州刺史、 都督 ととく を加えられた。

四年、武帝は詔を下し、蕭宏に諸軍を 都督 ととく させて魏を侵攻させた。蕭宏は帝の介弟として、配下の兵士は皆器械が精新で、軍容は甚だ盛んであり、北人は百数十年間に未だ有りしこと無きものと為した。軍は洛口に駐屯し、前軍は梁城を攻略した。蕭宏の部署分掌は方に乖き、多く朝制に違い、諸将は勝に乗じて深入りせんと欲したが、蕭宏は魏の援軍が近しと聞き、畏懦して敢えて進まず、諸将を召して還師を議せんとした。呂僧珍曰く、「難を知って退くは、亦た善からずや」と。蕭宏曰く、「我も亦た然りと為す」と。柳惔曰く、「我が大衆の臨む所、何れの城か服さざらん、何を以て難と謂うや」と。裴邃曰く、「是の行は、固より敵を求むるなり、何の難を避けんや」と。馬仙琕曰く、「王何ぞ亡国の言を得ん。天子は境内を掃して以て王に属す、前に死すること一尺有り、却いて生くること一寸無し」と。昌義之は怒り髭を尽く磔げて曰く、「呂僧珍は斬るべし。豈に百万の師有りて、軽々しく退くべしと言わんや、何の面目を以て聖主に見ゆるを得んや」と。朱僧勇・胡辛生は剣を抜いて起ちて曰く、「退かんと欲すれば自ら退け、下官は前に向かって死を取らん」と。議する者は既に罷み、僧珍は諸将に謝して曰く、「殿下は昨来風動し、意は軍に在らず、深く大いに沮喪するを恐れ、全師して返らしめんと欲す」と。又裴邃に私かに曰く、「王は只全く経略無きに非ず、庸怯甚だ過ぎたり。吾と軍事を言うも、皆相入らず。此の形勢を観るに、豈に成功せんや」と。蕭宏は敢えて群議に違えず、軍を停めて進まず。魏人は其の武無きを知り、巾幗を遺して贈った。北軍は歌って曰く、「蕭娘と呂姥とを畏れず、但だ合肥に韋武有るを畏る」と。武とは韋叡を謂う。僧珍は歎じて曰く、「始興・呉平をして元帥と為し、我相毗輔せば、中原平らぐに足らず。今遂に敵人の此くの如くに見欺かるるに至る」と。乃ち裴邃を遣わして軍を分かち寿陽を取らしめ、大衆は洛口に停まらんと欲した。蕭宏は固執して聴かず、乃ち軍中に令して曰く、「人馬に前行する者有らば斬る」と。是より軍政和せず、人々憤怒を懐いた。

魏の奚康生は馳せて楊大眼を遣わし、元英に謂って曰く、「梁人は自ら梁城を克ちて已後、久しく進軍せず、其の勢いは見るべし、当に是れ我を懼るるなり。王若し進みて洛水を拠らば、彼自ら奔敗せん」と。元英曰く、「蕭臨川は雖も騃なり、其の下に好将韋・裴の属有り、亦た未だ当たるべからず。望気者は九月に賊退くと言う、今且く形勢を観て、未だ便ち与に交鋒すべからず」と。

張惠紹は下邳に駐屯し、号令厳明にして、至る所独り克ち、下邳の人多く来降せんと欲する者有り。惠紹曰く、「我若し城を得ば、諸卿は皆是れ国人なり;若し賊を破ること能わずんば、徒らに公等をして郷を失わしむるのみ、朝廷の人を弔う本意に非ず。今且く安堵して復業し、妄りに自ら辛苦する勿れ」と。降人は皆悦んだ。

九月、洛口の軍潰え、蕭宏は衆を棄てて走った。其の夜暴風雨有り、軍驚き、蕭宏は数騎と逃亡した。諸将蕭宏を求むるも得ず、衆散じて帰った。甲を棄て戈を投げ、水陸に満ち、病者を捐棄し、強壮なる者は僅かに身を脱するを得た。蕭宏は小船に乗じて江を渡り、夜に白石塁に至り、城門を款いて入るを求めた。臨汝侯は城に登りて謂って曰く、「百万の師、一朝に奔潰し、国の存亡、未だ知るべからず。奸人の間を乗じて変を為すを恐る、城門は夜に開くべからず」と。蕭宏は辞無く以て対し、乃ち食を縋りて饋った。惠紹は洛口の敗を聞き、亦た軍を退いた。

六年、 司徒 しと に遷り、太子太傅を領す。八年、 司空 しくう ・揚州刺史と為る。十一年正月、太尉と為る。其の年冬、公事を以て左遷され驃騎大将軍・開府同三司の儀と為り、未だ拝せず、揚州刺史に遷る。十二年、 司空 しくう を加えられる。十五年、生母の陳太妃薨じ、職を去る。尋いで起きて 中書監 ちゅうしょかん と為り、驃騎大将軍・揚州刺史は元の如し。

蕭宏の妾の弟呉法寿は性粗狡にして、蕭宏を恃みて畏忌する所無く、輒ち人を殺した。死んだ家が訴え、勅有りて厳しく討たんとす。法寿は蕭宏の府内に在り、之を如何ともする無し。武帝は制して蕭宏に出ださしめ、即日に辜を償わしめた。南司は奏して蕭宏の 司徒 しと ・驃騎・揚州刺史を免ぜんとす。武帝は注して曰く、「蕭宏を愛するは兄弟の私親なり、蕭宏を免ずるは王者の正法なり、奏する所可なり」と。

蕭宏は洛口の敗より、常に愧憤を懐き、都下に窃発有る毎に、輒ち蕭宏を以て名と為し、屡々有司の奏する所と為り、帝は毎に之を赦した。十七年、帝将に光宅寺に幸せんとす、士有りて驃騎航に伏して帝の夜出を待つ。帝将に行かんとして心动き、乃ち朱雀航を過ぎた。事発し、蕭宏の使わしむる所と称す。帝は泣きて蕭宏に謂って曰く、「我が人才は汝に勝ること百倍、此に当たりて猶恐らくは顛墜せんとす、汝は何を為さんとする。我は周公・漢文と為ること能わざるに非ず、汝の愚かなるを念う故なり」と。蕭宏は頓首して曰く、「是れ無し、是れ無し」と。是を以て罪に坐して免ぜられる。而して恣に縱して悛めず、奢侈過度にして、第を修めて帝宮に擬し、後庭数百千人、皆天下の選を極む。所幸の江無畏の服玩は斉の東昏侯の潘妃に侔い、宝屧は直ち千万。鰿魚の頭を好んで食し、常日に三百を進め、其の他の珍膳盈溢し、後房之を食して尽くさず、諸の道路に棄つ。江は本より呉氏の女なり、世に国色有り、親従の子女遍く王侯の後宮に游び、男の免兄弟九人、権勢に因りて都下に横わる。

蕭宏は未だ幾ばくもせずして復た 司徒 しと と為る。普通元年、太尉・揚州刺史に遷り、侍中は元の如し。七年四月薨ず。疾より薨ずるまで、輿駕七たび出でて臨視す。及び薨じ、詔して侍中・大将軍・揚州牧を贈り、黄鉞を仮し、並びに羽葆・鼓吹一部を給し、班劍を増して六十人と為し、諡して靖恵と曰う。

蕭宏は介弟の貴きを以て、他の量能無く、恣意に聚斂す。庫室垂に百間有り、内堂の後に在り、関鑰甚だ厳し。鎧仗なるを疑う者有り、密かに以て聞こゆ。武帝は友于に甚だ厚く、殊に悦ばず。蕭宏の愛妾江氏は寝膳暫くも離るる能わず、上は他日盛饌を江に送りて曰く、「当に来りて汝に就きて歓宴せん」と。唯だ布衣の旧たる射声 校尉 こうい 丘佗卿を携えて往き、蕭宏及び江と大いに飲み、半酔の後謂って曰く、「我今汝が後房を行わんと欲す」と。便ち後合の輿を呼び径ちに屋所に往く。蕭宏は上其の賄貨を見るを恐れ、顏色怖懼す。上の意弥々是れ仗と信じ、屋屋を検視す。蕭宏の性は銭を愛し、百万一聚め、黄牓を以て之を標し、千万一庫に、一の紫標を懸く、此くの如く三十余間。帝と佗卿は指を屈して計り、見銭三億余万を見、余りの屋は布・絹・絲綿・漆・蜜・紵・蠟・朱沙・黄屑・雑貨を貯え、但だ庫に満つるを見るも、多少を知らず。帝始めて仗に非ざるを知り、大いに悦び、謂って曰く、「阿六、汝の生活大いに可なり」と。方に更に劇飲し、夜に至り燭を挙げて還る。兄弟の情方に更に敦睦す。

蕭宏は都下に数十の邸有りて懸銭を出し券を立て、毎に田宅・邸店を懸けて上に文券し、期訖れば便ち券主を駆り、其の宅を奪う。都下・東土の百姓、業を失うこと一に非ず。帝後に知り、制して懸券は復た駆奪すべからずとし、此の後より貧庶復た居業を失わず。晋の時に銭神論有り、 章王蕭綜は蕭宏の貪吝を以て、遂に銭愚論を為し、其の文甚だ切なり。帝は知りて以て蕭宏を激すと、旨を宣して蕭綜に与えて曰く、「天下の文章何ぞ限らん、那ぞ忽ちに此れを作す」と。雖も急ぎ毀たしむるも、而して流布已に遠く、蕭宏深く之を病み、聚斂稍々改む。

蕭宏はまた帝の娘永興公主と私通し、これにより遂に逆を しい さんと謀り、事が成れば彼女を皇后とすることを約した。帝がかつて三日間の斎戒を行った際、諸公主は皆これに参じたが、永興は二人の童僕に婢女の服を着せた。童僕が閾を跨いで履を失うと、合帥(宿衛の長)はこれを疑い、密かに丁貴嬪に言上し、上奏しようとしたが、あるいは信じられぬことを恐れ、宮帥に図らせた。帥は内輿人八人に命じ、純綿で身を固めさせて幕下に立たせた。斎座が散じ、公主は果たして密談を請うたので、帝はこれを許した。公主が階を昇ると、童僕が先に帝の背後に走り寄った。八人がこれを抱きかかえて捕らえると、帝は驚いて扆(屏風)の下に墜ちた。童僕を捜索して刀を得、その供述は蕭宏の指使によるものであった。帝はこれを秘し、二童僕を内で殺し、漆塗りの車で公主を外に送り出した。公主は憤死し、帝はついに臨問しなかった。帝の諸女である臨安公主、安吉公主、長城公主の三人は皆文才があり、安吉が最も令称を得た。

蕭宏は性、内を好み酒を楽しみ、声色に沈湎し、侍女千人、皆極めて綺麗であった。警衛を慎む方なく、故に屡々降免を招いた。

蕭宏の子 正仁

蕭宏の子は十人ほどいたが、知りうる者は七人、長子正仁は字を公業といい、秘書丞の位にあり、早世し、哀世子と諡された。正仁の弟正義が嗣いだ。

正仁の弟 正義

正義は字を公威といい、初め王子として平楽侯に封ぜられ、太常卿、南徐州刺史の位にあった。武帝が朱方に行幸された際、正義は館舎を修繕して輿駕を待った。初め、京城の西に別嶺が江に入り、高さ数十丈、三面水に臨むところがあり、北固と号した。蔡謨がその上に楼を築き、軍実を置いた。その後崩壊し、頂上にはなお小亭があり、登降は甚だ狭かった。帝がこれを登られた時、輦を下りて歩いて進まれた。正義はその路を広げ、傍らに欄楯を施した。翌日、帝が行幸され、遂に小輿を通すことができた。帝は悦び、久しく登って望み、詔して曰く「この嶺は固守するに足らず、然れども京口の壮観は実にこれなり」と。乃ちこれを北顧と改めた。正義に束帛を賜う。後に東揚州刺史となり、薨じた。正義の弟は正徳である。

正義の弟 正徳

正徳は字を公和といい、少にして凶悪で、亡命を招き集め、墳墓を破り牛を屠り、また弋猟を好んだ。斉の建武年中、武帝に胤嗣が未だ立たず、養子とした。建康平定後、昭明太子が生まれると、正徳は本姓に還った。天監初年、西豊県侯に封ぜられ、累遷して呉郡太守となった。正徳は自ら儲嫡たるべきと謂い、心に常に怏怏として、毎に言に形した。普通三年、黄門侍郎として軽車将軍となり、佐史を置いた。間もなく魏に奔った。初めて去るに当たり、詩一絶を作り、火籠の中に入れ、即ち竹火籠を詠じて曰く「楨幹屈曲尽き、蘭麝氛氳銷え、炭を懐く日を知らんと欲すれば、正に是れ履氷の朝なり」と。魏に至り、廃太子なりと称した。時に斉の蕭宝寅が先に魏におり、乃ち魏帝に上表して曰く「豈に伯が天子となり、父が揚州となりて、彼の密親を棄て、遠く佗国に投ぜんや。之を殺すに若かず」と。魏は既に礼せず、正徳は乃ち一小児を殺して己が子と称し、遠く葬地を営み、魏人は疑わず、又自ら魏より逃げ帰った。文徳殿で謁見し、庭に至り叩頭した。武帝は泣いてこれを誨え、特に本封を復した。

正徳の志行は悔い改めず、常に公然と剥掠を行った。時に東府には正徳及び楽山侯正則がおり、潮溝には董当門の子暹がおり、世にこれを董世子と謂い、南岸には夏侯夔の世子洪がいた。この四凶は百姓の巨蠹となり、多く亡命を聚め、黄昏に道で多く人を殺し、これを「打稽」と謂った。時に勲豪の子弟は多く縦恣にして、淫盗屠殺を業とし、父祖も制することができず、尉邏も御することができなかった。車服牛馬は、西豊の駱馬、楽山の烏牛と号した。董暹は金帖織成の戦襖を持ち、値は七百万であった。後に正則は劫を為し、沙門を殺し、嶺南に徙せられて死んだ。洪はその父夔が奏上して東冶に繋がれ、徒中に死んだ。暹は永陽王妃王氏と乱を為した罪に坐し、誅された。三人既に除かれて、百姓稍々安んず。正徳の淫虐は改まらず、尋いで給事黄門侍郎に除せられた。

六年、軽車将軍となり、 章王に随い北侵した。正徳は輒ち軍を棄てて委せ走り、有司の奏上により獄に下された。帝はまた詔して曰く「汝は猶子として、情兼ねて常の愛あり、故に先んじて汝の兄を越え、符を剖きて郡を連ぬ。往年蜀に在りては、小人に昵近し、猶ほ少年、情志未だ定まらずと謂えり。更に呉郡にては無辜を殺戮し、財物を劫盗し、雅然として畏れなし。京師に還りては、専ら逋逃を為し、乃ち江乗の要道、湖頭にて路を断ち、遂に京邑の士女をして早く閉じ晏く開かしむ。又人妻妾を奪い、人子女を略し、徐敖は直にその配匹を失うのみならず、乃ち横屍道路にす。王伯敖は列卿の女を誘いて妾媵と為す。我毎に掩抑を加え、汝の自ら新たにせんことを冀えり。了て悛革無く、怨讎愈甚だし。遂に匹馬奔亡し、志に反 ぜい を懐く。信を遣わして慰問し、汝の能く還らんことを冀えり。果たして能く来帰し、我が夙志を遂げしむ。汝の文史を好まず、志武功に在りと謂い、汝に節を杖せしめ、戎を董て前駆せしむ。豈に汝が狼心改めず、禍胎を包蔵し、志国計を覆敗せんと欲し、以て汝が心を快くせんとは謂わんや。今当に汝を遠くに宥し、房累の自ら随うを令さず。所在に勅して汝に稟餼を与えよ。王新婦、見理等は当に太尉の間に停め、汝が余の房累は悉く同行を許すべし」と。ここにおいて官を免じ爵土を削り、臨海郡に徙す。徙所に至らざる道、追ってこれを赦す。八年、また爵を封ず。

正徳が北より還り、朱異に交わりを求めた。帝が既に昭明の諸子を封ずると、異は正徳の失職を言上した。中大通四年、特に臨賀郡王に封ぜられた。後に丹陽尹となり、管轄下に劫盗多く、また有司の奏上により、職を去った。南兗州刺史として出され、在任中苛酷で、人堪命せず。広陵は沃壤なりしが、遂にこれがため荒廃し、人相食噉むに至った。既に累次試みられて無能、ここより黜廢され、転じて憤恨を増し、乃ち陰かに死士を養い、常に国の釁を思った。米粟を聚蓄し、宅内五十間の室を皆倉となす。征虜亭より方山に至るまで、悉く略して墅となす。奴僮数百を蓄え、皆その面を黥す。

太清二年秋、侯景反し、その奸心あるを知った。景の党徐思玉は北において正徳と相知り、ここに至り景は思玉を建鄴に遣わし、事を具に告げさせた。また正徳に書を送りて曰く「今天子年尊く、奸臣国を乱す。景これを観るに、計日して必ず敗るべし。大王は儲貳に当たり、中に廢辱せられ、天下の義士、窃かに忿慨する所なり。大王豈にこの私情を顧み、茲の億兆を棄てんや。景武ならずと雖も、実に自奮を思う」と。正徳書を得て大いに喜び、曰く「侯景の意、暗に人と同じし、天我を賛すなり」と。遂にこれを許した。景の至るに及び、正徳は潜かに空舫を運び、詐りて荻を迎うと称し、以て景を済わしめた。朝廷はその謀を知らず、正徳を平北将軍とし、朱雀航に屯せしむ。景至ると、正徳は乃ち北に向かって闕を望み三拝跪辞し、歔欷流涕して、賊を宣陽門に引き入れた。景と馬上に揖を交え、退いて左衛府に拠る。先に、その軍は皆絳袍を著し、袍裏は皆碧なりしが、ここに至り悉くこれを反す。賊は正徳を天子とし、号して正平元年と曰う。初め童謠ありしに、故にこれに応ず。又世人相佷むれば、必ず正平と称せり。

正徳は長子の見理を太子とし、娘を侯景に娶せた。侯景は丞相となり、正徳と約して言うには、「城を平定した日には、二宮(皇帝と皇太子)を全うさせない」と。また、畿内の王侯で三日以内に出て来ない者は誅すと命じた。台城が開くと、正徳は兵を率いて刀を振るって入ろうとしたが、賊は先にその徒をして門を守らせたので、正徳は果たせなかった。そこで太清の年号を復し、正徳を侍中・大司馬に降格した。正徳が入って問訊し、拝して泣いた。武帝は言った、「その泣くこと惙々たり、何ぞ嗟くに及ばんや」と。正徳は賊に売られたことを知り、深く自ら咎め悔い、密かに書を鄱陽嗣王(蕭範)に送り、兵を入れることを約した。賊がこれを遮って書を得たので、詔を矯って彼を殺した。

先に、正徳の妹の長楽公主は陳郡の謝禧に嫁いでいたが、正徳は彼女と姦通し、公主の邸宅を焼き、婢を一人縛り、玉の釧を手に加え、金宝を身に付けさせ、「公主が焼死した」と声をあげ、婢の屍体を検め取って金玉とともに葬った。なおも公主と通じ、柳夫人と呼び、二子を生んだ。月日がやや久しくなるにつれ、風声が次第に露わになった。後に黄門郎の張準が一つの 雉媒 おとり を持っていたが、正徳はこれを見て奪い取った。まもなく重雲殿で浄供(斎会)が行われ、皇太子以下がことごとく集まった。張準は衆中で吒罵して言うには、「張準の雉媒は長楽公主ではない、どうして略奪できようか」と。皇太子は帝に聞かれるのを恐れ、武陵王(蕭紀)に和めさせてやっと止んだ。退出するや、雉媒を送り返した。その後、梁室の傾覆が正徳に由来したので、百姓は臨賀郡の名を聞くことすらも好まず言おうとしなかった。童謡に云う、「五虎が市に入るに逢うとも、臨賀父子を見ることを欲せず」と。そのように悪まれたのである。

見理は字を孟節といい、性質は甚だ凶暴で粗野であり、長剣に短衣、市井を出入りし、宗室から歯牙にもかけられなかった。逆を肆うに及んで、甚だ得意であった。群盗を招き集め、毎夜掠奪を繰り返し、大航で流れ矢に当たって死んだ。正徳の弟に正則がいる。

正徳の弟 正則

正則は字を公衡といい、天監の初め、王子として楽山侯に封ぜられた。累遷して太子洗馬・舍人となった。常に邸内で百姓を私的に拘束して馬を飼わせ、また銭を盗鋳した。大通二年、劫盗を匿った罪により、爵を削られて郁林に流された。帝は広州に命じて日々酒肉を与えさせたが、南中の官司はなお侯の礼で遇した。

正則は諸父(伯父・叔父)を怨み、西江督護の靳山顧と通室し、亡命を招き誘い、番禺を襲おうとした。期に及ばずして事が発覚し、鼓を鳴らして将を会し州城を攻めようとした。刺史の元景仲は長史の元孝深に命じて討伐させた。正則は敗れ、厠に逃げ、村人が縛って送った。詔して南海で斬らせた。有司が属籍を絶ち、妻子を収めることを請うたが、詔して属籍を絶つことを聴し、妻子は特に原宥した。正則の弟に正立がいる。

正則の弟 正立

正立は字を公山といい、初め羅平侯に封ぜられた。母の江氏は寵愛を受けた。初め、正仁が亡くなると、蕭宏は情に溺れて曲制し、正立を世子とした。正立は微かに学があり、蕭宏が薨じた後、朝議に非ざるを知り、表して兄に譲ることを求め、帝は甚だ嘉した。諸侯の例は五百戸を封ずるが、正立は実土の建安県侯に改封され、食邑一千戸を与えられた。後に丹陽尹の位に至り、薨じ、諡して敏といった。子の賁が嗣いだ。

正立の子 賁

賁は字を世文といい、性質は躁急で薄情であった。正徳が侯景に擁立されると、賁は出奔してこれに投じ、専ら攻具の造作を監督し、台城を攻め、常に賊の耳目となった。南康嗣王の蕭会理が侯景を襲おうと謀ると、賁と中宿世子の蕭子邕がこれを告げた。賊は詔を矯って賁を竟陵王に、子邕を随郡王に封じ、ともに侯姓に改めさせた。賁は宗正卿となり、子邕は都官尚書となり、専権して朝政を陵蔑し、常に昼間臥していたところ、柳敬礼と蕭勸が室に入って自分を追い出す夢を見、賁は驚き起きて恩を乞うた。やがて賊はその翻覆を憎み、彼を殺した。

正立の弟 正表

正立の弟の正表は、封山侯に封ぜられ、後に楽山に奔った。正表の弟に正信がいる。

正表の弟 正信

正信は字を公理といい、武化侯に封ぜられた。正立と同母であり、蕭宏の鍾愛をも受けた。しかし幼くして慧くなく、常に白団扇を執り、湘東王(蕭繹)がこれに八字の銘を題して弄んだが、正信は嗤われているとも知らず、終始常に揺らぎ握っていた。給事中の位に至り、卒した。

原本を確認する(ウィキソース):南史 巻051