呉平侯景
武帝が兵を起こすと、景を行南兗州事とした。当時天下未だ定まらず、沔北の傖楚は各々塢壁を拠としていた。景は威信を示すと、渠帥は相率いて面縛して罪を請い、旬日のうちに境内皆平らかになった。武帝が践祚すると、呉平県侯に封ぜられ、南兗州刺史となり、都督を加えられた。詔して景の母毛氏を国太夫人とし、礼は王国太妃の如く、金章紫綬を仮した。景は州にあって清恪、威裁あり、吏職を明解し、文案滞ることなく、下は敢えて欺かず、吏人は神の如く畏敬した。凶年に会い、戸口を計って振恤し、また路上に饘粥を設けてこれを賦与し、死者には棺具を給し、人々は大いに頼った。
天監七年、左驍騎将軍となり、兼ねて領軍将軍を領す。領軍は天下の兵要を管るが、宋の孝建以来、制局が用事し、領軍と権を分かち、典事以上は皆奏上でき、領軍は垂拱するのみであった。景が職に在って峻切であると、官曹は肅然とし、制局監は皆近幸であり、甚だ命に堪えず、これにより久しく中に留まれなかった。
まもなく出て甯蛮校尉・雍州刺史となり、都督を加えられた。八年、魏の荊州刺史元志が潺溝を攻め、群蛮を駆迫すると、群蛮は悉く漢水を渡って来降した。議者は蛮が累ねて辺患となるとし、この機に除くべしとした。景は曰く「窮して我に帰するを誅するは不祥なり。且つ魏人の来侵するや、毎に矛楯となる。若し蛮を悉く誅せば、則ち魏軍に碍る所無く、長策に非ず」と。乃ち樊城を開いて降を受け、因って司馬朱思遠・甯蛮長史曹義宗・中兵参軍孟惠雋に命じて志を潺溝に撃たせ、大破した。景は初めて州に到ると、参迎の羽儀器服を省除し、吏人を煩擾せしめず。城塁を修葺し、辺備に警を申し、辞訟を理め、農桑を勧めた。郡県は皆節を改めて自ら励み、州内は清静、抄盗は絶跡した。
十五年、侍中を加えられた。太尉・揚州刺史臨川王蕭宏が法に坐して免ぜられると、詔して景を安右将軍として揚州を監せしめ、佐史を置き、即ち宅を府とした。景は親を越えて揚州に居ることを固く辞し、涕泣するに至ったが、帝は許さなかった。州にあって特に明断と称され、符教は厳整であった。田舎の老姥が符を得て訴え、県に還ったが、県吏が即時に発しなかった。姥は語って曰く「蕭監州の符は火の如し、汝の手何ぞ敢えてこれを留めんや」と。その人の畏敬されること此の如しであった。
都督・郢州刺史に遷った。出発に際し、帝は建興苑に幸して餞別し、之が為に流涕した。州にあってまた能名があった。斉安・竟陵郡は魏の界に接し、盗賊多かったが、景が移書して告示すると、魏は即ち塢戍を焼いて境を保ち、再び侵略しなかった。州において卒し、開府儀同三司を贈られ、諡して忠といった。子に勱あり。
景の子 勱
勱は字を文約といい、幼くして弄ぶことを好まず、喜慍色に形せず。太子洗馬に位し、母憂のため職を去り、喪に勝えぬほどであった。思い至る毎に、必ず徒歩で墓に至った。或いは風雨に遇い、途中で仆れ臥し、地に坐して号慟し、起きてまた前に進み、家人も禁じ得なかった。景は特に鍾愛し、曰く「我百年の後、其れ此の子無からんや」と。左右に命じて哭を節せしめた。服闋し、太子中舎人に除された。景が郢鎮で薨じると、或いは路遠を以て、その凶問を秘し、疾漸を以て辞とした。勱は乃ち奔波し、江夏に届き、水漿を進めざること七日。墓所に廬し、親友を隔絶した。叔父の曇が詔獄に下ると、勱は乃ち昆弟群従を率いて同しく大理に詣で、門生故吏といえども、之を識る者無し。後に呉平侯を襲封し、王人に対揚するに、悲慟嗚咽し、傍人も亦之が為に隕涕した。
淮南太守に除かれ、善政を以て称された。宣城内史に遷り、郡に猛獣多く、常に人の患いとなったが、勱が任に在ると、獣の暴は止んだ。また豫章内史に遷り、道に遺物を拾わず、男女は路を異にした。広州刺史に徙り、郡を去る日、吏人は悲泣し、数百里の中、舟乗は填塞し、各々酒肴を齎して勱を送った。勱は人となり納受し、随って銭帛をこれに与えた。新淦県岓山村に至ると、一老姥が盤に鰍魚を擎げ、自ら舟側に送り奉げ、童児数十人が水に入り舟を扳い、或いは歌い或いは泣いた。
広州は海に辺り、旧より饒かで、外国の船が至れば、多くは刺史に侵され、毎年船の至るは三数に過ぎなかった。勱が至ると、纖豪も犯さず、歳に十余り至った。俚人は賓服せず、多く海暴を行ったが、勱が征討して獲た生口宝物は、軍賞の外、悉く台に送還した。前後の刺史は皆私蓄を営み、方物の貢は、少く天府に登った。勱が州に在ってより、歳中数度献じ、軍国に須る所、相継いで絶えなかった。武帝は歎じて曰く「朝廷は便ち是れ更に広州有り」と。詔有りて本号を以て還朝せしめんとしたが、西江の俚帥陳文徹が出寇して高要を侵し、また詔して勱に蕃任を重申せしめた。未だ幾ばくもせず、文徹は降附した。勱は南江の危険を以て、重鎮を立つべしとし、乃ち表して台に高涼郡に州を立つべしとす。勅して仍って高州と為し、西江督護孫固を刺史とした。徴されて太子左衛率となった。
勱は性質率儉ながら、器度は寬裕であり、左右が嘗て羹を胸前に将いて之を翻したが、顏色異ならず、徐に更衣を呼んだ。書を聚めて三万巻に至り、披翫倦まず、特に『東観漢記』を好み、略皆誦憶した。劉顯が巻を執り策すと、酬応流るるが如く、乃ち巻次行数に至るも差失しなかった。少く交結し、唯だ河東の裴子野・范陽の張纘と善しとした。道中に卒し、侍中を贈られ、諡して光侯といった。勱の弟に勧あり。
勱の弟 勧
蕭勔の弟に蕭勉がいる。
蕭勔の弟の蕭勉は、字を文祗といい、東鄕侯に封ぜられ、太子洗馬の位に至り、蕭勔とともに害された。
蕭勉の弟に蕭勃がいる。
蕭勉の弟の蕭勃は、定州刺史の位にあり、曲江鄕侯に封ぜられた。大寶初年、広州刺史元景仲が侯景に呼応しようと謀ったとき、西江督護陳霸先が景仲を攻撃し、蕭勃を迎えて刺史とした。当時、湘東王蕭繹が荊州におり、制を承けて官職を授ける立場ではあったが、これを制する力がなく、やむなくこれに従った。蕭勃はそこで嶺南に鎮し、広州刺史となった。後に江表が平定されると、王琳が代わって広州となり、蕭勃は晉州刺史とされた。魏が江陵を陥落させると、蕭勃は再び広州を占拠した。敬帝が制を承けると、司徒を加えられた。紹泰年間、太尉となり、まもなく太保に進んだ。陳霸先が禅譲によって帝位を代える際、挙兵して従わず、まもなく敗れて害された。
蕭景の弟に蕭昌がいる。
蕭昌は字を子建といい、蕭景の弟である。衡州刺史の位にあった。性来酒を好み、州にあっては毎回酔い、直接人家に出入りし、あるいは単身で草野に赴き、刑戮にはかなり期度がなかった。酔った時に殺した者を、醒めてから探し求めることもあったが、悔いることはなかった。累進して兼宗正卿となり、たびたび有司から弾劾された。長く都に留まり、ふさぎ込んで楽しまず、ついに酒にふけり虚悸を患った。石頭の東齋において、刀を引いて自らを刺して卒した。弟に蕭昂がいる。
蕭昌の弟に蕭昂がいる。
蕭昂の弟に蕭昱がいる。
蕭昂の弟の蕭昱は字を子眞といい、若くして狂狷で、礼度に拘らず、異様な服装に高い冠をかぶり、交遊は冗雑であった。特に牛を屠ることを得意とし、これを常業とした。宅内で酒を売った。騎射を好んだ。中書侍郎の位を歴任した。たびたび辺境の州で試みることを求めたが、武帝はその軽脱で威望がないとして、抑えて許さなかった。給事黄門侍郎に遷ったが、上表して自ら解任を請うたので、帝は手詔でこれを責め、官を免ぜられた。このため門を閉ざして朝覲を絶った。
普通五年、宅内で銭を鋳造した罪で、有司に奏上され、廷尉に下され、死罪を免れ、臨海郡に流された。上虞まで行ったとき、詔勅が追って還らせ、菩薩戒を受けるよう命じた。都に至ると、恭しく礼を尽くし、心を改めて道に従い、戒律を守ることも精潔であった。帝は大いにこれを嘉した。
晉陵太守とされ、着任すると名跡を励まし、煩苛を除き、法憲を明らかにし、奸吏に厳しく、十日ほどの間に郡内は大いに安んじた。まもなく急死した。百姓は道で号泣し巷で哭き、市里はこれがために喧沸し、郡庭で祭奠を設けた者は四百余人に及んだ。田舎に夏氏という百余歳の婦女がおり、曾孫を支えて郡に出て、悲泣して自らを抑えることができなかった。その恵化の感ずるところがこのようであった。百姓は相率いて廟を立て碑を建て、その徳を記念し、また都に赴いて表を上り、贈諡を求めた。詔して湘州刺史を追贈し、諡して恭子といった。
文帝の子
文帝に十男あり。張皇后は長沙宣武王蕭懿・永陽昭王蕭敷・武帝・衡陽宣王蕭暢を生んだ。李太妃は桂陽簡王蕭融を生んだ。蕭融は東昏侯に害され、蕭敷・蕭暢は斉の建武年間に卒した。武帝が践祚すると、ともに郡王を追封された。陳太妃は臨川靖恵王蕭宏・南平元襄王蕭偉を生んだ。呉太妃は安成康王蕭秀・始興忠武王蕭憺を生んだ。費太妃は鄱陽忠烈王蕭恢を生んだ。
長沙王蕭懿
長沙宣武王蕭懿は字を元達といい、文帝の長子である。幼少より名声があり、初めて官に就いて斉の安南邵陵王行参軍となり、臨湘県侯の爵位を襲封した。晋陵太守を歴任し、善政で称えられた。永明の末、梁・南秦二州刺史となり、都督を加えられた。この年、魏軍が漢中に入り、南鄭を包囲した。蕭懿は機に応じて防戦し、包囲を解かせて退却させた。また氐の首長楊元秀を遣わして魏の歴城など六つの戍を攻め取らせた。魏人は震え恐れ、辺境は平穏となった。
蕭懿の子 蕭業
蕭懿の子蕭業は字を静曠といい、幼少より聡明で、斉に仕えて太子舎人となった。宣武王(蕭懿)の難に際し、二人の弟蕭藻・蕭象と共に王厳秀の家に逃げ隠れた。東昏侯はこれを知り、厳秀を捕らえて建康の獄に下し、拷問を極限まで加え、鉗で手の爪を抜いたが、死ぬまで口を開かず、ついに禍を免れた。
蕭業は性質が篤実で、任地ごとに恵みを残した。普通四年、侍中・金紫光禄大夫となった。薨去し、諡を元王といった。文集が世に行われた。子の孝儼が嗣いだ。
蕭業の子 孝儼
孝儼は字を希荘といい、射策で甲科に及第し、秘書郎・太子舎人に任じられた。華林園に従駕し、座中で相風烏・華光殿・景陽山などの頌を献上した。その文は甚だ美しく、帝は深く賞賛し驚いた。薨去し、諡を章といった。子の蕭慎が嗣いだ。蕭業の弟に蕭藻がいる。
蕭業の弟 蕭藻
九年、召還されて太子中庶子となった。かつて鄧元起が蜀にいた時、収奪を重ね、財貨は山のように積まれていた。金玉珍宝や絹帛は一室に収め、内蔵と名付け、綺や羅紗、錦、毛織物は一室に収め、外府と号していた。蕭藻は外府を将帥に賜り、内蔵は王府に帰属させ、私することはなかった。この時、朝廷に還るに当たり、軽装で道についた。再び侍中に遷った。
蕭藻は恬静な性質で、独り一室に居り、床には膝の痕があり、宗室の衣冠(貴族)はこれを楷則とせざるはなかった。常に爵禄が過ぎることを思い、退くことを考え、門庭は閑寂で、賓客は通ずること稀であった。簡文帝は特にこれを敬愛した。家禍に遭って以来、常に布衣蒲席を用い、鮮禽を食せず、公庭でなければ音楽を聴かず、武帝は毎にこれを称えた。
南徐州刺史として出向した。侯景の乱に際し、藻は世子の彧に兵を率いて入援させた。城が開くと、散騎常侍を加えられた。侯景がその儀同蕭邕を遣わして代わりに京口を占拠させると、藻は気疾を患った。或る者が江北に奔ることを勧めたが、藻は言った、「我は国の台鉉(重臣)として、任寄は特に隆く、既に逆賊を誅翦できず、正に朝廷とともに死すべきである」と。そこで食を絶って薨じた。
藻の弟、猷。
藻の弟の猷は、臨汝侯に封ぜられ、呉興郡守となった。性質は倜儻で、楚王廟の神と交わり、一斛まで飲んだ。毎に酹祀しては、歓を尽くし極めて酔い、神影にも酒色があり、祈るときは必ず従った。
後に益州刺史、侍中、中護軍となった。時に江陽の人齊苟兒が反し、衆十万で州城を攻め、猷は兵糧ともに尽き、人に異心があった。そこで遥かに祈って救いを請うた。この日、田老が一騎の浴鉄(甲冑)の者が東方より来るに逢い、城まで幾里かと問うと、「百四十里」と言った。時に日は既に晡(申の刻)で、騎は矟を挙げて言った、「後から来る者には、速やかに馬を走らせ、日のあるうちに賊を破らんと欲す」と。俄かに数百騎が風の如く来り、一騎が通り過ぎて飲み物を請うた。田老が誰かと問うと、「呉興の楚王、臨汝侯を救いに来た」と言った。この時、廟中の請祈は験がなかった。十余日して、ようやく侍衛の土偶が皆泥で濡れ汗をかいたようであるのを見た。この日、猷は大いに苟児を破った。猷は州において頗る僭濫で、客筵の中に香橙を置き、連榻を設けなかった。武帝は末にこれを知り、これを愆とした。都に還り、憂愧して疾を成し、卒した。諡して霊と言う。神と交わったためである。
猷の子、韶。
猷の子の韶は字を徳茂といい、初め上甲県都郷侯に封ぜられた。太清の初めに舍人となり、城が陥落すると詔を奉じて西に奔った。江陵に至ると、人士多く尋ね求めて来て、城内の事を説くよう韶に命じた。韶は人人に説くことができず、そこで一巻に書き記し、客の問う者には便ちこれを示した。湘東王が聞いて取り寄せて見て、言った、「昔、王韶之が隆安紀十巻を作り、晋末の乱離を説いた。今の蕭韶もまた太清紀十巻と為すべし」と。韶はそこで更に太清紀を撰した。その諸議論は多く謝呉が為した。韶は既に旨を承けて撰著したが、多くは実録ではなかった。湘東王はこれを徳とし、超えて宣武王を継がせ、長沙王に封じ、遂に郢州刺史に至った。
韶は昔、幼童の時、庾信に愛され、断袖の歓(男色)があり、衣食の資は皆信が給した。客に遇うと、韶もまた信のために酒を伝えた。後に郢州となると、信は西上して江陵に至り、途江夏を経た。韶は信を甚だ薄く接し、青油幕の下に坐り、信を引いて宴に入らせ、信を別榻に坐らせ、自矜の色があった。信は稍々堪えず、酒酣に因り、径ちに韶の床に上り、肴饌を踏みつけ、直ちに韶の面を見て言った、「官(貴人)は今日の形容、大いに近日と異なる」と。時に賓客満坐し、韶は甚だ慚恥した。
韶の弟、駿。
韶の弟の駿は字を徳款といい、草隸を善くし、文章に工で、晩年更に武を習い、膂力人に絶え、永安侯の確と相類した。位は尚書殿中郎、超武将軍に至り、南安侯に封ぜられた。城が陥落すると、賊の任約に礼遇された。鄱陽嗣王の範を召して約を襲わんと謀ったが、反って害された。
猷の弟、朗。
猷の弟の朗は字を靖徹といい、天監五年、例により王子として侯に封ぜられた。太子洗馬、桂州刺史を歴任し、都督を加えられた。性質は倨傲で虐く、群下はこれを患った。記室の庾丹は忠諫を以て害せられ、帝はこれを聞き、嶺表に於いて功を以て自ら効せしめた。丹の父の景休は位は御史中丞であった。丹は少にして俊才があり、伏挺、何子朗とともに周舍に狎れられた。初め景休は巴東郡を罷めて頗る資産があり、丹は数百万の負債があり、責める者が門を填めた。景休は怒り、これを償わなかった。既にして朝賢が丹を之れ景休にせず、景休は悦び、乃ち悉くこれを還した。建康正となり、事に坐して広州に流された。
朗の弟、明。
武帝が既に侯景を納れ、大いに北侵を挙げ、南康王の会理に兵を総べさせると、明は乃ち表を拝して行くことを求めた。固く請うて、乃ちこれを許した。会理が既に宿預に至ると、詔して改めて明を以て代わり都督水陸諸軍と為し彭城に趣かせ、大いに進取を図らしめた。敕して曰く、「侯景は志、鄴・洛を清め、以て讎恥を雪がんとす。其れ先ず大軍を率い、機に随い撫定せよ。汝等衆軍は寒山に止まり堰を築き、清水を引いて以て彭城を灌ぐべし。大水一たび泛べば、孤城自ら殄ぶ。慎んで妄りに動くことなかれ」と。明の師は呂梁十八里に次いで、寒山堰を作りて彭城を灌ぎ、水は堞に及び、没せざるは三板のみであった。魏は将の慕容紹宗を遣わして赴救せしめ、明は謀略出でず、号令行なわれず。諸将が毎に事を諮ると、輒ち怒って曰く、「吾自ら臨機制変す、多く言うなかれ」と。衆は乃ち各々居人を掠め、明も亦制することができず、ただその一軍のみを禁じて侵掠すること無からしめた。
紹宗が到着し、堰の水を決壊させると、蕭明は将を命じてこれを救わしめようとしたが、誰も出ようとしなかった。魏軍が転じて逼迫し、人の情は大いに驚いた。胡貴孫が趙伯超に言うには、「戦わずして何を待つのか。」伯超は恐れて答えることができなかった。貴孫はそこで陣中に入って苦戦し、伯超は衆を擁して敢えて救わず、言うには、「戦えば必ず敗れる。全軍を挙げて早く帰還するに如かず。」そこで良馬を整えさせ、その愛妾を載せて自ら従った。貴孫は遂に没した。伯超の子威方が戦いに赴かんとしたところ、伯超はその出撃を恐れ、人をやって召し寄せ、遂に共に南還した。
蕭明は酔って起き上がることができず、衆軍は大敗し、蕭明は捕虜として捕らえられた。北人はその侵掠しなかったことを思い、彼を義王と呼んだ。魏に至ると、魏帝は蕭明及び諸将帥を引見し、その禁錮を解き、晋陽に送った。勃海王高澄は蕭明を非常に重んじて礼遇し、言うには、「先王と梁主は十余年和好しており、彼の礼仏文を聞くに、常に魏主並びに先王のために奉ずると云っていた。これは甚だ梁主の厚意である。一朝にして信を失い、この紛擾を致すとは謂わなかった。」そこで梁と通和しようとし、人をやって蕭明の書を以て武帝に告げさせ、ようやく書を致して高澄を慰めた。
東魏は蕭明を散騎常侍に任じた。社稷が淪蕩したと聞くと、昼夜を分かたず哀泣した。魏が江陵を平定すると、斉の文宣帝は人を遣わして蕭明を梁に送り届けさせ、併せて以前に捕獲した梁の将湛海珍らを皆蕭明に従って帰国することを許した。上党王高渙に衆を率いてこれを送ることを命じた。この時、太尉王僧辯・司空陳霸先が建康におり、晋安王方智を推して太宰・都督中外諸軍事とし、制を承けて百官を置いた。高渙の軍が漸次進むと、蕭明は僧辯に書を送って迎えを求め、僧辯は従わなかった。高渙が東関を破り、裴之横を斬ると、僧辯は恐れ、蕭明を受け入れた。ここにおいて梁の輿は東渡し、斉の師は北返した。
永陽王
衡陽王
桂陽王
蕭象は字を世翼といい、容止は閑雅で、交遊を簡にし、生母に事えること孝をもって聞こえた。位は丹陽尹に至る。蕭象は深宮に生長し、初めて庶政に親しみ、挙措に失徳なく、朝廷これを称した。再び湘州刺史に遷り、都督を加えられた。湘州は旧来猛獣の暴が多いが、蕭象が州に任じた日より、四頭の猛獣が郭外で死に、ここより静息した。故老は皆徳政の感ずるところと称した。歴任して太常卿に至り、侍中を加えられ、秘書監に遷った。薨じ、諡して敦といった。子の蕭慥が嗣いだ。
臨川王蕭宏
四年、武帝は詔を下し、蕭宏に諸軍を都督させて魏を侵攻させた。蕭宏は帝の介弟として、配下の兵士は皆器械が精新で、軍容は甚だ盛んであり、北人は百数十年間に未だ有りしこと無きものと為した。軍は洛口に駐屯し、前軍は梁城を攻略した。蕭宏の部署分掌は方に乖き、多く朝制に違い、諸将は勝に乗じて深入りせんと欲したが、蕭宏は魏の援軍が近しと聞き、畏懦して敢えて進まず、諸将を召して還師を議せんとした。呂僧珍曰く、「難を知って退くは、亦た善からずや」と。蕭宏曰く、「我も亦た然りと為す」と。柳惔曰く、「我が大衆の臨む所、何れの城か服さざらん、何を以て難と謂うや」と。裴邃曰く、「是の行は、固より敵を求むるなり、何の難を避けんや」と。馬仙琕曰く、「王何ぞ亡国の言を得ん。天子は境内を掃して以て王に属す、前に死すること一尺有り、却いて生くること一寸無し」と。昌義之は怒り髭を尽く磔げて曰く、「呂僧珍は斬るべし。豈に百万の師有りて、軽々しく退くべしと言わんや、何の面目を以て聖主に見ゆるを得んや」と。朱僧勇・胡辛生は剣を抜いて起ちて曰く、「退かんと欲すれば自ら退け、下官は前に向かって死を取らん」と。議する者は既に罷み、僧珍は諸将に謝して曰く、「殿下は昨来風動し、意は軍に在らず、深く大いに沮喪するを恐れ、全師して返らしめんと欲す」と。又裴邃に私かに曰く、「王は只全く経略無きに非ず、庸怯甚だ過ぎたり。吾と軍事を言うも、皆相入らず。此の形勢を観るに、豈に成功せんや」と。蕭宏は敢えて群議に違えず、軍を停めて進まず。魏人は其の武無きを知り、巾幗を遺して贈った。北軍は歌って曰く、「蕭娘と呂姥とを畏れず、但だ合肥に韋武有るを畏る」と。武とは韋叡を謂う。僧珍は歎じて曰く、「始興・呉平をして元帥と為し、我相毗輔せば、中原平らぐに足らず。今遂に敵人の此くの如くに見欺かるるに至る」と。乃ち裴邃を遣わして軍を分かち寿陽を取らしめ、大衆は洛口に停まらんと欲した。蕭宏は固執して聴かず、乃ち軍中に令して曰く、「人馬に前行する者有らば斬る」と。是より軍政和せず、人々憤怒を懐いた。
魏の奚康生は馳せて楊大眼を遣わし、元英に謂って曰く、「梁人は自ら梁城を克ちて已後、久しく進軍せず、其の勢いは見るべし、当に是れ我を懼るるなり。王若し進みて洛水を拠らば、彼自ら奔敗せん」と。元英曰く、「蕭臨川は雖も騃なり、其の下に好将韋・裴の属有り、亦た未だ当たるべからず。望気者は九月に賊退くと言う、今且く形勢を観て、未だ便ち与に交鋒すべからず」と。
張惠紹は下邳に駐屯し、号令厳明にして、至る所独り克ち、下邳の人多く来降せんと欲する者有り。惠紹曰く、「我若し城を得ば、諸卿は皆是れ国人なり;若し賊を破ること能わずんば、徒らに公等をして郷を失わしむるのみ、朝廷の人を弔う本意に非ず。今且く安堵して復業し、妄りに自ら辛苦する勿れ」と。降人は皆悦んだ。
九月、洛口の軍潰え、蕭宏は衆を棄てて走った。其の夜暴風雨有り、軍驚き、蕭宏は数騎と逃亡した。諸将蕭宏を求むるも得ず、衆散じて帰った。甲を棄て戈を投げ、水陸に満ち、病者を捐棄し、強壮なる者は僅かに身を脱するを得た。蕭宏は小船に乗じて江を渡り、夜に白石塁に至り、城門を款いて入るを求めた。臨汝侯は城に登りて謂って曰く、「百万の師、一朝に奔潰し、国の存亡、未だ知るべからず。奸人の間を乗じて変を為すを恐る、城門は夜に開くべからず」と。蕭宏は辞無く以て対し、乃ち食を縋りて饋った。惠紹は洛口の敗を聞き、亦た軍を退いた。
蕭宏の妾の弟呉法寿は性粗狡にして、蕭宏を恃みて畏忌する所無く、輒ち人を殺した。死んだ家が訴え、勅有りて厳しく討たんとす。法寿は蕭宏の府内に在り、之を如何ともする無し。武帝は制して蕭宏に出ださしめ、即日に辜を償わしめた。南司は奏して蕭宏の司徒・驃騎・揚州刺史を免ぜんとす。武帝は注して曰く、「蕭宏を愛するは兄弟の私親なり、蕭宏を免ずるは王者の正法なり、奏する所可なり」と。
蕭宏は洛口の敗より、常に愧憤を懐き、都下に窃発有る毎に、輒ち蕭宏を以て名と為し、屡々有司の奏する所と為り、帝は毎に之を赦した。十七年、帝将に光宅寺に幸せんとす、士有りて驃騎航に伏して帝の夜出を待つ。帝将に行かんとして心动き、乃ち朱雀航を過ぎた。事発し、蕭宏の使わしむる所と称す。帝は泣きて蕭宏に謂って曰く、「我が人才は汝に勝ること百倍、此に当たりて猶恐らくは顛墜せんとす、汝は何を為さんとする。我は周公・漢文と為ること能わざるに非ず、汝の愚かなるを念う故なり」と。蕭宏は頓首して曰く、「是れ無し、是れ無し」と。是を以て罪に坐して免ぜられる。而して恣に縱して悛めず、奢侈過度にして、第を修めて帝宮に擬し、後庭数百千人、皆天下の選を極む。所幸の江無畏の服玩は斉の東昏侯の潘妃に侔い、宝屧は直ち千万。鰿魚の頭を好んで食し、常日に三百を進め、其の他の珍膳盈溢し、後房之を食して尽くさず、諸の道路に棄つ。江は本より呉氏の女なり、世に国色有り、親従の子女遍く王侯の後宮に游び、男の免兄弟九人、権勢に因りて都下に横わる。
蕭宏は介弟の貴きを以て、他の量能無く、恣意に聚斂す。庫室垂に百間有り、内堂の後に在り、関鑰甚だ厳し。鎧仗なるを疑う者有り、密かに以て聞こゆ。武帝は友于に甚だ厚く、殊に悦ばず。蕭宏の愛妾江氏は寝膳暫くも離るる能わず、上は他日盛饌を江に送りて曰く、「当に来りて汝に就きて歓宴せん」と。唯だ布衣の旧たる射声校尉丘佗卿を携えて往き、蕭宏及び江と大いに飲み、半酔の後謂って曰く、「我今汝が後房を行わんと欲す」と。便ち後合の輿を呼び径ちに屋所に往く。蕭宏は上其の賄貨を見るを恐れ、顏色怖懼す。上の意弥々是れ仗と信じ、屋屋を検視す。蕭宏の性は銭を愛し、百万一聚め、黄牓を以て之を標し、千万一庫に、一の紫標を懸く、此くの如く三十余間。帝と佗卿は指を屈して計り、見銭三億余万を見、余りの屋は布・絹・絲綿・漆・蜜・紵・蠟・朱沙・黄屑・雑貨を貯え、但だ庫に満つるを見るも、多少を知らず。帝始めて仗に非ざるを知り、大いに悦び、謂って曰く、「阿六、汝の生活大いに可なり」と。方に更に劇飲し、夜に至り燭を挙げて還る。兄弟の情方に更に敦睦す。
蕭宏は都下に数十の邸有りて懸銭を出し券を立て、毎に田宅・邸店を懸けて上に文券し、期訖れば便ち券主を駆り、其の宅を奪う。都下・東土の百姓、業を失うこと一に非ず。帝後に知り、制して懸券は復た駆奪すべからずとし、此の後より貧庶復た居業を失わず。晋の時に銭神論有り、豫章王蕭綜は蕭宏の貪吝を以て、遂に銭愚論を為し、其の文甚だ切なり。帝は知りて以て蕭宏を激すと、旨を宣して蕭綜に与えて曰く、「天下の文章何ぞ限らん、那ぞ忽ちに此れを作す」と。雖も急ぎ毀たしむるも、而して流布已に遠く、蕭宏深く之を病み、聚斂稍々改む。
蕭宏はまた帝の娘永興公主と私通し、これにより遂に逆を弑さんと謀り、事が成れば彼女を皇后とすることを約した。帝がかつて三日間の斎戒を行った際、諸公主は皆これに参じたが、永興は二人の童僕に婢女の服を着せた。童僕が閾を跨いで履を失うと、合帥(宿衛の長)はこれを疑い、密かに丁貴嬪に言上し、上奏しようとしたが、あるいは信じられぬことを恐れ、宮帥に図らせた。帥は内輿人八人に命じ、純綿で身を固めさせて幕下に立たせた。斎座が散じ、公主は果たして密談を請うたので、帝はこれを許した。公主が階を昇ると、童僕が先に帝の背後に走り寄った。八人がこれを抱きかかえて捕らえると、帝は驚いて扆(屏風)の下に墜ちた。童僕を捜索して刀を得、その供述は蕭宏の指使によるものであった。帝はこれを秘し、二童僕を内で殺し、漆塗りの車で公主を外に送り出した。公主は憤死し、帝はついに臨問しなかった。帝の諸女である臨安公主、安吉公主、長城公主の三人は皆文才があり、安吉が最も令称を得た。
蕭宏は性、内を好み酒を楽しみ、声色に沈湎し、侍女千人、皆極めて綺麗であった。警衛を慎む方なく、故に屡々降免を招いた。
蕭宏の子 正仁
蕭宏の子は十人ほどいたが、知りうる者は七人、長子正仁は字を公業といい、秘書丞の位にあり、早世し、哀世子と諡された。正仁の弟正義が嗣いだ。
正仁の弟 正義
正義は字を公威といい、初め王子として平楽侯に封ぜられ、太常卿、南徐州刺史の位にあった。武帝が朱方に行幸された際、正義は館舎を修繕して輿駕を待った。初め、京城の西に別嶺が江に入り、高さ数十丈、三面水に臨むところがあり、北固と号した。蔡謨がその上に楼を築き、軍実を置いた。その後崩壊し、頂上にはなお小亭があり、登降は甚だ狭かった。帝がこれを登られた時、輦を下りて歩いて進まれた。正義はその路を広げ、傍らに欄楯を施した。翌日、帝が行幸され、遂に小輿を通すことができた。帝は悦び、久しく登って望み、詔して曰く「この嶺は固守するに足らず、然れども京口の壮観は実にこれなり」と。乃ちこれを北顧と改めた。正義に束帛を賜う。後に東揚州刺史となり、薨じた。正義の弟は正徳である。
正義の弟 正徳
正徳の志行は悔い改めず、常に公然と剥掠を行った。時に東府には正徳及び楽山侯正則がおり、潮溝には董当門の子暹がおり、世にこれを董世子と謂い、南岸には夏侯夔の世子洪がいた。この四凶は百姓の巨蠹となり、多く亡命を聚め、黄昏に道で多く人を殺し、これを「打稽」と謂った。時に勲豪の子弟は多く縦恣にして、淫盗屠殺を業とし、父祖も制することができず、尉邏も御することができなかった。車服牛馬は、西豊の駱馬、楽山の烏牛と号した。董暹は金帖織成の戦襖を持ち、値は七百万であった。後に正則は劫を為し、沙門を殺し、嶺南に徙せられて死んだ。洪はその父夔が奏上して東冶に繋がれ、徒中に死んだ。暹は永陽王妃王氏と乱を為した罪に坐し、誅された。三人既に除かれて、百姓稍々安んず。正徳の淫虐は改まらず、尋いで給事黄門侍郎に除せられた。
六年、軽車将軍となり、豫章王に随い北侵した。正徳は輒ち軍を棄てて委せ走り、有司の奏上により獄に下された。帝はまた詔して曰く「汝は猶子として、情兼ねて常の愛あり、故に先んじて汝の兄を越え、符を剖きて郡を連ぬ。往年蜀に在りては、小人に昵近し、猶ほ少年、情志未だ定まらずと謂えり。更に呉郡にては無辜を殺戮し、財物を劫盗し、雅然として畏れなし。京師に還りては、専ら逋逃を為し、乃ち江乗の要道、湖頭にて路を断ち、遂に京邑の士女をして早く閉じ晏く開かしむ。又人妻妾を奪い、人子女を略し、徐敖は直にその配匹を失うのみならず、乃ち横屍道路にす。王伯敖は列卿の女を誘いて妾媵と為す。我毎に掩抑を加え、汝の自ら新たにせんことを冀えり。了て悛革無く、怨讎愈甚だし。遂に匹馬奔亡し、志に反噬を懐く。信を遣わして慰問し、汝の能く還らんことを冀えり。果たして能く来帰し、我が夙志を遂げしむ。汝の文史を好まず、志武功に在りと謂い、汝に節を杖せしめ、戎を董て前駆せしむ。豈に汝が狼心改めず、禍胎を包蔵し、志国計を覆敗せんと欲し、以て汝が心を快くせんとは謂わんや。今当に汝を遠くに宥し、房累の自ら随うを令さず。所在に勅して汝に稟餼を与えよ。王新婦、見理等は当に太尉の間に停め、汝が余の房累は悉く同行を許すべし」と。ここにおいて官を免じ爵土を削り、臨海郡に徙す。徙所に至らざる道、追ってこれを赦す。八年、また爵を封ず。
正徳が北より還り、朱異に交わりを求めた。帝が既に昭明の諸子を封ずると、異は正徳の失職を言上した。中大通四年、特に臨賀郡王に封ぜられた。後に丹陽尹となり、管轄下に劫盗多く、また有司の奏上により、職を去った。南兗州刺史として出され、在任中苛酷で、人堪命せず。広陵は沃壤なりしが、遂にこれがため荒廃し、人相食噉むに至った。既に累次試みられて無能、ここより黜廢され、転じて憤恨を増し、乃ち陰かに死士を養い、常に国の釁を思った。米粟を聚蓄し、宅内五十間の室を皆倉となす。征虜亭より方山に至るまで、悉く略して墅となす。奴僮数百を蓄え、皆その面を黥す。
正徳は長子の見理を太子とし、娘を侯景に娶せた。侯景は丞相となり、正徳と約して言うには、「城を平定した日には、二宮(皇帝と皇太子)を全うさせない」と。また、畿内の王侯で三日以内に出て来ない者は誅すと命じた。台城が開くと、正徳は兵を率いて刀を振るって入ろうとしたが、賊は先にその徒をして門を守らせたので、正徳は果たせなかった。そこで太清の年号を復し、正徳を侍中・大司馬に降格した。正徳が入って問訊し、拝して泣いた。武帝は言った、「その泣くこと惙々たり、何ぞ嗟くに及ばんや」と。正徳は賊に売られたことを知り、深く自ら咎め悔い、密かに書を鄱陽嗣王(蕭範)に送り、兵を入れることを約した。賊がこれを遮って書を得たので、詔を矯って彼を殺した。
先に、正徳の妹の長楽公主は陳郡の謝禧に嫁いでいたが、正徳は彼女と姦通し、公主の邸宅を焼き、婢を一人縛り、玉の釧を手に加え、金宝を身に付けさせ、「公主が焼死した」と声をあげ、婢の屍体を検め取って金玉とともに葬った。なおも公主と通じ、柳夫人と呼び、二子を生んだ。月日がやや久しくなるにつれ、風声が次第に露わになった。後に黄門郎の張準が一つの雉媒を持っていたが、正徳はこれを見て奪い取った。まもなく重雲殿で浄供(斎会)が行われ、皇太子以下がことごとく集まった。張準は衆中で吒罵して言うには、「張準の雉媒は長楽公主ではない、どうして略奪できようか」と。皇太子は帝に聞かれるのを恐れ、武陵王(蕭紀)に和めさせてやっと止んだ。退出するや、雉媒を送り返した。その後、梁室の傾覆が正徳に由来したので、百姓は臨賀郡の名を聞くことすらも好まず言おうとしなかった。童謡に云う、「五虎が市に入るに逢うとも、臨賀父子を見ることを欲せず」と。そのように悪まれたのである。
見理は字を孟節といい、性質は甚だ凶暴で粗野であり、長剣に短衣、市井を出入りし、宗室から歯牙にもかけられなかった。逆を肆うに及んで、甚だ得意であった。群盗を招き集め、毎夜掠奪を繰り返し、大航で流れ矢に当たって死んだ。正徳の弟に正則がいる。
正徳の弟 正則
正則は諸父(伯父・叔父)を怨み、西江督護の靳山顧と通室し、亡命を招き誘い、番禺を襲おうとした。期に及ばずして事が発覚し、鼓を鳴らして将を会し州城を攻めようとした。刺史の元景仲は長史の元孝深に命じて討伐させた。正則は敗れ、厠に逃げ、村人が縛って送った。詔して南海で斬らせた。有司が属籍を絶ち、妻子を収めることを請うたが、詔して属籍を絶つことを聴し、妻子は特に原宥した。正則の弟に正立がいる。
正則の弟 正立
正立は字を公山といい、初め羅平侯に封ぜられた。母の江氏は寵愛を受けた。初め、正仁が亡くなると、蕭宏は情に溺れて曲制し、正立を世子とした。正立は微かに学があり、蕭宏が薨じた後、朝議に非ざるを知り、表して兄に譲ることを求め、帝は甚だ嘉した。諸侯の例は五百戸を封ずるが、正立は実土の建安県侯に改封され、食邑一千戸を与えられた。後に丹陽尹の位に至り、薨じ、諡して敏といった。子の賁が嗣いだ。
正立の子 賁
賁は字を世文といい、性質は躁急で薄情であった。正徳が侯景に擁立されると、賁は出奔してこれに投じ、専ら攻具の造作を監督し、台城を攻め、常に賊の耳目となった。南康嗣王の蕭会理が侯景を襲おうと謀ると、賁と中宿世子の蕭子邕がこれを告げた。賊は詔を矯って賁を竟陵王に、子邕を随郡王に封じ、ともに侯姓に改めさせた。賁は宗正卿となり、子邕は都官尚書となり、専権して朝政を陵蔑し、常に昼間臥していたところ、柳敬礼と蕭勸が室に入って自分を追い出す夢を見、賁は驚き起きて恩を乞うた。やがて賊はその翻覆を憎み、彼を殺した。
正立の弟 正表
正立の弟の正表は、封山侯に封ぜられ、後に楽山に奔った。正表の弟に正信がいる。
正表の弟 正信
正信は字を公理といい、武化侯に封ぜられた。正立と同母であり、蕭宏の鍾愛をも受けた。しかし幼くして慧くなく、常に白団扇を執り、湘東王(蕭繹)がこれに八字の銘を題して弄んだが、正信は嗤われているとも知らず、終始常に揺らぎ握っていた。給事中の位に至り、卒した。