南史

巻051

巻051

呉平侯景

原文呉平侯景

呉平侯景は字あざなを子昭といい、梁の武帝の従父弟である。祖父の道賜は礼譲をもって称され、郷里に住んで争訟があれば、専ら彼に頼ってこれを平らげ、またその急病を救済したので、郷里では「墟王」と号した。皆ひそかに言うには「その子孫は必ず大いなるであろう」と。宋に仕えて書侍御史で終わり、斉の末年に左光禄大夫を追贈された。三人の子あり、長男は尚之、次は文帝、次は崇之。尚之は敦厚にして器量があり、司徒建安王の中兵参軍となり、一府において長者と称された。歩兵校尉に遷り、官のまま卒した。梁の天監初年、文宣侯と追諡された。子の霊鈞は斉に仕えて広徳令となった。武帝が兵を起こすと、会稽郡の事務を行った。まもなく卒した。東昌県侯を追封された。子の謇が嗣いだ。崇之は斉に仕えて東陽太守に至り、幹能をもって顕れ、政治は厳厲を尚んだ。永明年間、銭唐の唐宇之が反乱を起こし、別働隊が東陽を破り、崇之は害に遇った。天監初年、忠簡侯と追諡された。

原文呉平侯景字子昭,梁武帝從父弟也。祖道賜以禮讓稱,居鄕有爭訟,專賴平之,又周其疾急,鄕里號曰「墟王」。皆竊言曰「其後必大」。仕宋終于書侍御史,齊末追贈左光祿大夫。三子:長曰尚之,次曰文帝,次曰崇之。尚之敦厚有器業,爲司徒建安王中兵參軍,一府稱爲長者。遷歩兵校尉,卒官。梁天監初,追諡曰文宣侯。子靈鈞,仕齊爲廣德令。武帝起兵,行會稽郡事。頃之,卒。追封東昌縣侯。子謇嗣。崇之仕齊官至東陽太守,以幹能顯,政尚嚴厲。永明中,錢唐唐宇之反,別衆破東陽,崇之遇害。天監初,追諡忠簡侯。

景は崇之の子である。八歳の時、父に従って郡に在り、喪に服して憔悴したことで知られた。成長して好学、才弁があり識断があった。斉に仕えて永寧令となり、政治は百城の最であった。永嘉太守の范述曾は郡に在って廉平と号され、雅に景の為政に服し、郡門に牓して曰く「諸県に疑滞ある者は、永寧令に就いて決すべし」と。病を以て官を去った。永嘉の人胡仲宣ら千人が闕に詣でて景を郡守とするよう表請したが、許されなかった。永元二年、長沙宣武王蕭懿の勲功により、歩兵校尉に除された。この冬、懿が害に遇うと、景もまた難を逃れた。

原文景,崇之子也。八歳,隨父在郡,居喪以毀聞。及長好學,才辯有識斷。仕齊爲永寧令,政爲百城最。永嘉太守范述曾居郡,號稱廉平,雅服景爲政,乃牓郡門曰:「諸縣有疑滯者,可就永寧令決。」以疾去官。永嘉人胡仲宣等千人詣闕表請景爲郡,不許。永元二年,以長沙宣武王懿勳,除歩兵校尉。是冬懿遇害,景亦逃難。

武帝が兵を起こすと、景を行南兗州事とした。当時天下未だ定まらず、沔北の傖楚は各々塢壁を拠としていた。景は威信を示すと、渠帥きょすいは相率いて面縛して罪を請い、旬日のうちに境内皆平らかになった。武帝が践祚すると、呉平県侯に封ぜられ、南兗州刺史となり、都督を加えられた。詔して景の母毛氏を国太夫人とし、礼は王国太妃の如く、金章紫綬を仮した。景は州にあって清恪、威裁あり、吏職を明解し、文案滞ることなく、下は敢えて欺かず、吏人は神の如く畏敬した。凶年に会い、戸口を計って振恤し、また路上に饘粥を設けてこれを賦与し、死者には棺具を給し、人々は大いに頼った。

原文武帝起兵,以景行南兗州事。時天下未定,沔北傖楚,各據塢壁。景示以威信,渠帥相率面縛請罪,旬日境内皆平。武帝踐阼,封呉平縣侯,南兗州刺史,加都督。詔景母毛氏爲國太夫人,禮如王國太妃,假金章紫綬。景居州淸恪,有威裁,明解吏職,文案無壅,下不敢欺,吏人畏敬如神。會年荒,計口振恤,又爲饘粥于路以賦之,死者給棺具,人甚賴焉。

天監七年、左驍騎将軍となり、兼ねて領軍将軍を領す。領軍は天下の兵要を管るが、宋の孝建以来、制局が用事し、領軍と権を分かち、典事以上は皆奏上でき、領軍は垂拱するのみであった。景が職に在って峻切であると、官曹は肅然とし、制局監は皆近幸であり、甚だ命に堪えず、これにより久しく中に留まれなかった。

原文天監七年,爲左驍騎將軍,兼領軍將軍。領軍管天下兵要,宋孝建以來,制局用事,與領軍分權,典事以上皆得呈奏,領軍垂拱而已。及景在職峻切,官曹肅然,制局監皆近幸,頗不堪命,以是不得久留中。

まもなく出て甯蛮校尉・雍州刺史となり、都督を加えられた。八年、魏の荊州刺史元志が潺溝を攻め、群蛮を駆迫すると、群蛮は悉く漢水を渡って来降した。議者は蛮が累ねて辺患となるとし、この機に除くべしとした。景は曰く「窮して我に帰するを誅するは不祥なり。且つ魏人の来侵するや、毎に矛楯となる。若し蛮を悉く誅せば、則ち魏軍に碍る所無く、長策に非ず」と。乃ち樊城を開いて降を受け、因って司馬朱思遠・甯蛮長史曹義宗・中兵参軍孟惠雋に命じて志を潺溝に撃たせ、大破した。景は初めて州に到ると、参迎の羽儀器服を省除し、吏人を煩擾せしめず。城塁を修葺し、辺備に警を申し、辞訟を理め、農桑を勧めた。郡県は皆節を改めて自ら励み、州内は清静、抄盗は絶跡した。

原文尋出爲甯蠻校尉、雍州刺史,加都督。八年,魏荊州刺史元志攻潺溝,驅迫群蠻,群蠻悉度漢水來降。議者以爲蠻累爲邊患,可因此除之。景曰:「窮來歸我,誅之不祥;且魏人來侵,毎爲矛楯,若悉誅蠻,則魏軍無礙,非長策也。」乃開樊城受降,因命司馬朱思遠、甯蠻長史曹義宗、中兵參軍孟惠雋撃志於潺溝,大破之。景初到州,省除參迎羽儀器服,不得煩擾吏人。修葺城壘,申警邊備,理辭訟,勸農桑。郡縣皆改節自勵,州内淸靜,抄盜絶跡。

十三年、再び領軍将軍となり、殿省に直し、十州の損益の事を知り、月に禄五万を加えられた。景は人となり雅に風力あり、辞令に長じていた。朝廷にあっては衆の瞻仰するところとなった。武帝に対しては従弟たるに属するも、礼寄甚だ隆く、軍国の大事は皆彼と議決した。

原文十三年,復爲領軍將軍,直殿省,知十州損益事,月加祿五萬。景爲人雅有風力,長於辭令。其在朝廷,爲衆所瞻仰。于武帝雖屬爲從弟,而禮寄甚隆,軍國大事皆與議決。

十五年、侍中を加えられた。太尉・揚州刺史臨川王蕭宏が法に坐して免ぜられると、詔して景を安右将軍として揚州を監せしめ、佐史を置き、即ち宅を府とした。景は親を越えて揚州に居ることを固く辞し、涕泣するに至ったが、帝は許さなかった。州にあって特に明断と称され、符教は厳整であった。田舎の老姥が符を得て訴え、県に還ったが、県吏が即時に発しなかった。姥は語って曰く「蕭監州の符は火の如し、汝の手何ぞ敢えてこれを留めんや」と。その人の畏敬されること此の如しであった。

原文十五年,加侍中。及太尉、揚州刺史臨川王宏坐法免,詔景以安右將軍監揚州,置佐史,卽宅爲府。景越親居揚州,固讓至於涕泣,帝弗許。在州尤稱明斷,符教嚴整。有田舍老姥訴得符,還至縣,縣吏未卽發,姥語曰:「蕭監州符如火,汝手何敢留之!」其爲人所畏敬如此。

都督・郢州えいしゅう刺史に遷った。出発に際し、帝は建興苑に幸して餞別し、之が為に流涕した。州にあってまた能名があった。斉安・竟陵郡は魏の界に接し、盗賊多かったが、景が移書して告示すると、魏は即ち塢戍を焼いて境を保ち、再び侵略しなかった。州において卒し、開府儀同三司を贈られ、諡して忠といった。子に勱あり。

原文遷都督、郢州刺史。將發,帝幸建興苑餞別,爲之流涕。在州復有能名。齊安、竟陵郡接魏界,多盜賊,景移書告示,魏卽焚塢戍保境,不復侵略。卒於州,贈開府儀同三司,諡曰忠。子勱。

景の子 勱

原文景子 勱

勱は字を文約といい、幼くして弄ぶことを好まず、喜慍色に形せず。太子洗馬に位し、母憂のため職を去り、喪に勝えぬほどであった。思い至る毎に、必ず徒歩で墓に至った。或いは風雨に遇い、途中で仆れ臥し、地に坐して号慟し、起きてまた前に進み、家人も禁じ得なかった。景は特に鍾愛し、曰く「我百年の後、其れ此の子無からんや」と。左右に命じて哭を節せしめた。服闋し、太子中舎人に除された。景が郢鎮で薨じると、或いは路遠を以て、その凶問を秘し、疾漸を以て辞とした。勱は乃ち奔波し、江夏に届き、水漿を進めざること七日。墓所に廬し、親友を隔絶した。叔父の曇が詔獄に下ると、勱は乃ち昆弟群従を率いて同しく大理に詣で、門生故吏といえども、之を識る者無し。後に呉平侯を襲封し、王人に対揚するに、悲慟嗚咽し、傍人も亦之が為に隕涕した。

原文勱字文約,弱不好弄,喜慍不形於色。位太子洗馬,母憂去職,殆不勝喪。毎一思至,必徒歩之墓。或遇風雨,僕臥中路,坐地號慟,起而復前,家人不能禁。景特所鍾愛,曰:「吾百年後,其無此子乎。」使左右節哭。服闋,除太子中舍人。景薨於郢鎭,或以路遠,秘其凶問,以疾漸爲辭。勱乃奔波,屆于江夏,不進水漿者七日。廬於墓所,親友隔絶。會叔父曇下詔獄,勱乃率昆弟群從同詣大理,雖門生故吏,莫能識之。後襲封呉平侯,對揚王人,悲慟嗚咽,傍人亦爲隕涕。

淮南太守に除かれ、善政を以て称された。宣城内史に遷り、郡に猛獣多く、常に人の患いとなったが、勱が任に在ると、獣の暴は止んだ。また豫章内史に遷り、道に遺物を拾わず、男女は路を異にした。広州刺史に徙り、郡を去る日、吏人は悲泣し、数百里の中、舟乗は填塞し、各々酒肴を齎して勱を送った。勱は人となり納受し、随って銭帛をこれに与えた。新淦県岓山村に至ると、一老姥が盤に鰍魚を擎げ、自ら舟側に送り奉げ、童児数十人が水に入り舟を扳い、或いは歌い或いは泣いた。

原文除淮南太守,以善政稱。遷宣城内史,郡多猛獸,常爲人患,及勱在任,獸暴爲息。又遷豫章内史,道不拾遺,男女異路。徙廣州刺史,去郡之日,吏人悲泣,數百里中,舟乘塡塞,各齎酒肴以送勱。勱人爲納受,隨以錢帛與之。至新淦縣岓山邨,有一老姥以盤擎鰍魚,自送舟側奉上之,童兒數十人入水扳舟,或歌或泣。

広州は海に辺り、旧より饒かで、外国の船が至れば、多くは刺史に侵され、毎年船の至るは三数に過ぎなかった。勱が至ると、纖豪も犯さず、歳に十余り至った。俚人は賓服せず、多く海暴を行ったが、勱が征討して獲た生口宝物は、軍賞の外、悉く台に送還した。前後の刺史は皆私蓄を営み、方物の貢は、少く天府に登った。勱が州に在ってより、歳中数度献じ、軍国に須る所、相継いで絶えなかった。武帝は歎じて曰く「朝廷は便ち是れ更に広州有り」と。詔有りて本号を以て還朝せしめんとしたが、西江の俚帥陳文徹が出寇して高要を侵し、また詔して勱に蕃任を重申せしめた。未だ幾ばくもせず、文徹は降附した。勱は南江の危険を以て、重鎮を立つべしとし、乃ち表して台に高涼郡に州を立つべしとす。勅して仍って高州と為し、西江督護孫固を刺史とした。徴されて太子左衛率となった。

原文廣州邊海,舊饒,外國舶至,多爲刺史所侵,毎年舶至不過三數。及勱至,纖豪不犯,歳十餘至。俚人不賓,多爲海暴,勱征討所獲生口寶物,軍賞之外,悉送還台。前後刺史皆營私蓄,方物之貢,少登天府。自勱在州,歳中數獻,軍國所須,相繼不絶。武帝歎曰:「朝廷便是更有廣州。」有詔以本號還朝,而西江俚帥陳文徹出寇髙要,又詔勱重申蕃任。未幾,文徹降附。勱以南江危險,宜立重鎭,乃表台于髙涼郡立州。敕仍以爲髙州,以西江督護孫固爲刺史。徴爲太子左衞率。

勱は性質率儉ながら、器度は寬裕であり、左右が嘗て羹を胸前に将いて之を翻したが、顏色異ならず、徐に更衣を呼んだ。書を聚めて三万巻に至り、披翫倦まず、特に『東観漢記』を好み、略皆誦憶した。劉顯が巻を執り策すと、酬応流るるが如く、乃ち巻次行数に至るも差失しなかった。少く交結し、唯だ河東の裴子野・范陽の張纘と善しとした。道中に卒し、侍中を贈られ、諡して光侯といった。勱の弟に勧あり。

原文勱性率儉,而器度寬裕,左右嘗將羹至胸前翻之,顏色不異,徐呼更衣。聚書至三萬巻,披翫不倦,尤好東觀漢記,略皆誦憶。劉顯執巻策勱,酬應如流,乃至巻次行數亦不差失。少交結,唯與河東裴子野、范陽張纘善。卒於道,贈侍中,諡曰光侯。勱弟勸。

勱の弟 勧

原文勱弟 勸

蕭勔は字を文肅といい、若くして清静をもって自らを立て、西鄕侯に封ぜられ、南康内史・太舟卿の位に至った。大寶元年、南康王蕭會理とともに侯景を誅殺しようと謀ったが、事が露見して害された。

原文勸字文肅,少以淸靜自立,封西鄕侯,位南康内史,太舟卿。大寶元年,與南康王會理謀誅侯景,事發遇害。

蕭勔の弟に蕭勉がいる。

原文勸弟 勉

蕭勔の弟の蕭勉は、字を文祗といい、東鄕侯に封ぜられ、太子洗馬の位に至り、蕭勔とともに害された。

原文勸弟勉。勉字文祗,封東鄕侯,位太子洗馬,及勸同見害。

蕭勉の弟に蕭勃がいる。

原文勉弟 勃

蕭勉の弟の蕭勃は、定州刺史の位にあり、曲江鄕侯に封ぜられた。大寶初年、広州刺史元景仲が侯景に呼応しようと謀ったとき、西江督護陳霸先が景仲を攻撃し、蕭勃を迎えて刺史とした。当時、湘東王蕭繹が荊州におり、制を承けて官職を授ける立場ではあったが、これを制する力がなく、やむなくこれに従った。蕭勃はそこで嶺南に鎮し、広州刺史となった。後に江表が平定されると、王琳が代わって広州となり、蕭勃は晉州刺史とされた。魏が江陵を陥落させると、蕭勃は再び広州を占拠した。敬帝が制を承けると、司徒を加えられた。紹泰年間、太尉となり、まもなく太保に進んだ。陳霸先が禅譲によって帝位を代える際、挙兵して従わず、まもなく敗れて害された。

原文勉弟勃,位定州刺史,封曲江鄕侯。大寶初,廣州刺史元景仲將謀應侯景,西江督護陳霸先攻景仲,迎勃爲刺史。時湘東王繹在荊州,雖承制授職,力不能制,遂從之。勃乃鎭嶺南,爲廣州刺史。後江表定,以王琳代爲廣州,以勃爲晉州刺史。魏克江陵,勃復據廣州。敬帝承制,加司徒。紹泰中,爲太尉,尋進爲太保。及陳武禪代之際,舉兵不從,尋敗,遇害。

蕭景の弟に蕭昌がいる。

原文景弟 昌

蕭昌は字を子建といい、蕭景の弟である。衡州刺史の位にあった。性来酒を好み、州にあっては毎回酔い、直接人家に出入りし、あるいは単身で草野に赴き、刑戮にはかなり期度がなかった。酔った時に殺した者を、醒めてから探し求めることもあったが、悔いることはなかった。累進して兼宗正卿となり、たびたび有司から弾劾された。長く都に留まり、ふさぎ込んで楽しまず、ついに酒にふけり虚悸を患った。石頭の東齋において、刀を引いて自らを刺して卒した。弟に蕭昂がいる。

原文昌字子建,景弟也。位衡州刺史。性好酒,在州毎醉,徑出入人家,或獨詣草野,刑戮頗無期度,醉時所殺,醒或求焉,亦無悔也。累遷兼宗正卿,屢爲有司所劾。久留都,忽忽不樂,遂縱酒虚悸。在石頭東齋,引刀自刺而卒。弟昂。

蕭昌の弟に蕭昂がいる。

原文昌弟 昂

蕭昂は字を子明といい、軽車将軍・監南兗州の位にあった。初め、兄の蕭景が再び兗州を治めたとき、徳恵が人々にあり、蕭昂が代わりに来たとき、当時の人はこれを馮氏になぞらえた。琅邪・彭城二郡太守に徴された。当時、二十歳ほどの女子がおり、髪を振り乱し黄衣を着て、武窟山の石室におり、特に修行することはなく、ただあまり食べなかった。時に人里に出て、少量の酒を飲み、鵞卵を一、二個食べる程度で、人々は聖姑と呼んだ。子を求めて彼女のもとに赴くと、しばしば効果があり、参詣する者が山谷に満ちた。蕭昂が呼び出して問うたが何も答えず、妖惑であるとして、二十回鞭打った。創はすぐに癒えたが、所在を失った。中大通元年、領軍将軍となった。久しくして、湘陰侯に封ぜられ、出向して江州刺史となった。卒し、諡して恭侯といった。

原文昂字子明,位輕車將軍,監南兗州。初,兄景再爲兗州,德惠在人,及昂來代,時人方之馮氏。徴爲琅邪、彭城二郡太守。時有女子年二十許,散髮黃衣,在武窟山石室中,無所修行,唯不甚食。或出人間,時飲少酒,鵝卵一兩枚,人呼爲聖姑。就求子往往有效,造者充滿山谷。昂呼問無所對,以爲祅惑,鞭之二十。創卽差,失所在。中大通元年,爲領軍將軍。久之,封湘陰侯,出爲江州刺史。卒,諡曰恭侯。

蕭昂の弟に蕭昱がいる。

原文昂弟 昱

蕭昂の弟の蕭昱は字を子眞といい、若くして狂狷で、礼度に拘らず、異様な服装に高い冠をかぶり、交遊は冗雑であった。特に牛を屠ることを得意とし、これを常業とした。宅内で酒を売った。騎射を好んだ。中書侍郎の位を歴任した。たびたび辺境の州で試みることを求めたが、武帝はその軽脱で威望がないとして、抑えて許さなかった。給事黄門侍郎に遷ったが、上表して自ら解任を請うたので、帝は手詔でこれを責め、官を免ぜられた。このため門を閉ざして朝覲を絶った。

原文昂弟昱字子眞,少而狂狷,不拘禮度,異服危冠,交遊冗雜。尤善屠牛,業以爲常。於宅内酤酒。好騎射。歴位中書侍郎。毎求試邊州,武帝以其輕脱無威望,抑而不許。遷給事黃門侍郎,上表請自解,帝手詔責之,坐免官。因此杜門絶朝覲。

普通五年、宅内で銭を鋳造した罪で、有司に奏上され、廷尉に下され、死罪を免れ、臨海郡に流された。上虞まで行ったとき、詔勅が追って還らせ、菩薩戒を受けるよう命じた。都に至ると、恭しく礼を尽くし、心を改めて道に従い、戒律を守ることも精潔であった。帝は大いにこれを嘉した。

原文普通五年,坐於宅内鑄錢,爲有司所奏,下廷尉,得免死,徙臨海郡。行至上虞,有敕追還,令受菩薩戒。旣至,恂恂盡禮,改意蹈道,持戒又精潔。帝甚嘉之。

晉陵太守とされ、着任すると名跡を励まし、煩苛を除き、法憲を明らかにし、奸吏に厳しく、十日ほどの間に郡内は大いに安んじた。まもなく急死した。百姓は道で号泣し巷で哭き、市里はこれがために喧沸し、郡庭で祭奠を設けた者は四百余人に及んだ。田舎に夏氏という百余歳の婦女がおり、曾孫を支えて郡に出て、悲泣して自らを抑えることができなかった。その恵化の感ずるところがこのようであった。百姓は相率いて廟を立て碑を建て、その徳を記念し、また都に赴いて表を上り、贈諡を求めた。詔して湘州刺史を追贈し、諡して恭子といった。

原文以爲晉陵太守,下車勵名跡,除煩苛,明法憲,嚴於奸吏,旬日之間,郡中大安。俄而暴卒,百姓行號巷哭,市里爲之喧沸,設祭奠於郡庭者四百餘人。田舍有婦女夏氏年百餘歳,扶曾孫出郡,悲泣不自勝。其惠化所感如此。百姓相率爲立廟建碑,以紀其德,又詣都表求贈諡。詔贈湘州刺史,諡曰恭子。

文帝の子

原文文帝子

文帝に十男あり。張皇后は長沙宣武王蕭懿・永陽昭王蕭敷・武帝・衡陽宣王蕭暢を生んだ。李太妃は桂陽簡王蕭融を生んだ。蕭融は東昏侯に害され、蕭敷・蕭暢は斉の建武年間に卒した。武帝が践祚すると、ともに郡王を追封された。陳太妃は臨川靖恵王蕭宏・南平元襄王蕭偉を生んだ。呉太妃は安成康王蕭秀・始興忠武王蕭憺を生んだ。費太妃は鄱陽忠烈王蕭恢を生んだ。

原文文帝十男:張皇后生長沙宣武王懿、永陽昭王敷、武帝、衡陽宣王暢。李太妃生桂陽簡王融。融爲東昏所害,敷、暢齊建武中卒,武帝踐阼,並追封郡王。陳太妃生臨川靖惠王宏、南平元襄王偉。呉太妃生安成康王秀、始興忠武王憺。費太妃生鄱陽忠烈王恢。

長沙王蕭懿

原文長沙王懿

長沙宣武王蕭懿は字を元達といい、文帝の長子である。幼少より名声があり、初めて官に就いて斉の安南邵陵王行参軍となり、臨湘県侯の爵位を襲封した。晋陵太守を歴任し、善政で称えられた。永明の末、梁・南秦二州刺史となり、都督を加えられた。この年、魏軍が漢中に入り、南鄭を包囲した。蕭懿は機に応じて防戦し、包囲を解かせて退却させた。また氐の首長楊元秀を遣わして魏の歴城など六つの戍を攻め取らせた。魏人は震え恐れ、辺境は平穏となった。

原文長沙宣武王懿字元達,文帝長子也。少有令譽,解褐齊安南邵陵王行參軍,襲爵臨湘縣侯。歴位晉陵太守,以善政稱。永明末,爲梁、南秦二州刺史,加督。是歳,魏軍入漢中,遂圍南鄭。懿隨機拒撃,乃解圍遁去。又遣氐帥楊元秀攻取魏暦城等六戍。魏人震懼,邊境遂寧。

永元二年、裴叔業が豫州を占拠して反乱を起こすと、蕭懿は豫州刺史として歴陽・南譙二郡太守を兼ねてこれを討伐し、叔業は恐れて魏に降った。武帝(蕭衍)は当時雍州におり、典籤の趙景悦を遣わして蕭懿を説き、晋陽の兵を起こして君側の奸を誅すよう勧めたが、蕭懿は答えなかった。やがて平西将軍崔慧景が侵入し、江夏王蕭宝玄を奉じて台城を包囲すると、斉の朝廷は大混乱に陥り、急使を送って蕭懿を召還した。蕭懿は食事中であったが、箸を投げて立ち上がり、精鋭三千人を率いて救援に向かった。武帝は虞安福を急ぎ都に下らせて蕭懿を説かせた。「賊を誅した後には、賞しきれない功績がある。明君賢主の下でさえ、身を立てるのは難しい。まして乱れた朝廷において、どうして自らを免れられようか。もし賊を滅ぼした後、引き続き兵を率いて宮中に入り、伊尹・霍光の故事を行えば、これは万世に一度の機会である。もしそれを望まないなら、すぐに上表して歴陽に戻り、外敵への防備を口実とすれば、威は内外に振るい、誰が従わないことがあろうか。一朝にして兵を解き、厚い爵位を受ければ、地位は高いが人望がなく、必ず後悔を生じるであろう。」長史の徐曜甫も苦しく諫めたが、いずれも従わなかった。慧景はその子崔覚を遣わして防がせたが、蕭懿はこれを撃ち大破し、勝ちに乗じて進軍した。慧景の軍は潰走し、追撃してこれを斬った。尚書令・都督征討水陸諸軍事に任じられた。

原文永元二年,裴叔業據豫州反,懿以豫州刺史領暦陽、南譙二郡太守討之,叔業懼,遂降魏。武帝時在雍州,遣典簽趙景悅説懿興晉陽之甲,誅君側之罪。懿不答。旣而平西將軍崔慧景入寇,奉江夏王寶玄圍台城,齊室大亂,馳信召懿。懿時方食,投箸而起,率鋭卒三千人入援。武帝馳遣虞安福下都説懿曰:「誅賊之後,則有不賞之功,當明君賢主,尚或難立;況於亂朝,何以自免。若賊滅之後,仍勒兵入宮,行伊、霍故事,此萬世一時。若不欲爾,便放表還暦陽,托以外拒爲事,則威振内外,誰敢不從。一朝放兵,受其厚爵,髙而無人,必生後悔。」長史徐曜甫亦苦勸,並不從。慧景遣其子覺來拒,懿撃大破之,乘勝而進,慧景衆潰,追斬之。授尚書令、都督征討水陸諸軍事。

当時、東昏侯(蕭宝巻)は暴虐をほしいままにし、茹法珍・王咺之らが政権を握り、古参の臣や旧将軍は皆誅殺された。蕭懿は功績が高く、ただ一人朝廷の重職にあったため、法珍らに深く畏れられ、東昏侯に讒言して残酷な迫害を加えようとした。徐曜甫はこれを知り、密かに江辺に舟を準備し、西へ逃亡するよう勧めた。蕭懿は従わず、「古より死はあるものだ。どうして尚書令が逃走などできようか」と言った。まもなく尚書省に留め置かれて毒薬を賜り、弟の蕭融と共に死んだ。使者に向かって言った。「私の弟(蕭衍)は雍州におり、朝廷のことを深く憂えている。」中興元年、司徒を追贈された。宣徳太后が臨朝すると、太傅に改めて追贈された。天監元年、丞相を追崇し、長沙郡王に封じられ、諡を宣武といった。九旒の鸞輅・黄屋左纛を賜り、葬儀は晋の安平王の故事に依った。

原文時東昏肆虐,茹法珍、王咺之等執政,宿臣舊將,並見誅夷。懿旣勳髙,獨居朝右,深爲法珍等所憚,乃説東昏,將加酷害。徐曜甫知之,密具舟江渚,勸令西奔。懿不從,曰:「古皆有死,豈有叛走尚書令邪?」尋見留省賜藥,與弟融倶殞。謂使者曰:「家弟在雍,深爲朝廷憂之。」中興元年,贈司徒。宣德太后臨朝,改贈太傅。天監元年,追崇丞相,封長沙郡王,諡曰宣武。給九旒鸞輅、黃屋左纛,葬禮依晉安平王故事。

蕭懿は名声と功業が元より重く、武帝(蕭衍)が本来崇敬していた人物であった。帝は天監元年四月丙寅に即位し、その日に早くも(蕭懿を)褒め崇めた。戊辰になって初めて第二兄の蕭敷・第四弟の蕭暢・第五弟の蕭融を追贈した。五月になって、有司がようやく皇考皇妣の尊号を追うことを奏上し、神主を太廟に遷した。帝は自ら奉じず、臨川王蕭宏に命じて侍従させた。七月、帝は殿前に臨み、兼太尉・散騎常侍の王份を遣わして策命を奉じ、太祖文皇帝・献皇后および徳皇后の尊号を上った。すでに卑しい者を先にし尊い者を後にした上、殿前に臨んで策命を命じたため、識者はこれを大いに譏り議論した。

原文懿名望功業素重,武帝本所崇敬。帝以天監元年四月丙寅卽位,是日卽見褒崇。戊辰,乃始贈第二兄敷、第四弟暢、第五弟融。至五月,有司方奏追皇考皇妣尊號,遷神主於太廟。帝不親奉,命臨川王宏侍從。七月,帝臨軒,遣兼太尉、散騎常侍王份奉策上太祖文皇帝、獻皇后及德皇后尊號。旣先卑後尊,又臨軒命策,識者頗致譏議焉。

蕭懿の子 蕭業

原文懿子 業

蕭懿の子蕭業は字を静曠といい、幼少より聡明で、斉に仕えて太子舎人となった。宣武王(蕭懿)の難に際し、二人の弟蕭藻・蕭象と共に王厳秀の家に逃げ隠れた。東昏侯はこれを知り、厳秀を捕らえて建康の獄に下し、拷問を極限まで加え、鉗で手の爪を抜いたが、死ぬまで口を開かず、ついに禍を免れた。

原文懿子業字靜曠,幼而明敏,仕齊爲太子舍人。宣武之難,與二弟藻、象倶逃匿于王嚴秀家。東昏知之,收嚴秀付建康獄,考掠備極,乃以鉗拔手爪,至死不言,竟以免禍。

天監二年、長沙王を襲封し、秘書監、侍中、都督南兗州刺史を歴任した。私邸の米を用い、人を雇って瓦を作らせて城を築き、武帝に賞賛された。湘州に転じ、特に善政で知られた。零陵には昔から二頭の猛虎が暴れていたが、理由もなく相枕して死んだ。郡人の唐睿が猛虎の傍らに一人の者がいて「刺史の徳が神明に感応し、二頭の猛虎が自ら死んだのだ」と言うのを見た。言い終わるとその者は見えなくなり、人々は皆これを怪しんだ。

原文天監二年,襲封長沙王,歴位秘書監,侍中,都督南兗州刺史。運私邸米,僦人作甓以砌城,武帝善之。徙湘州,尤著善政。零陵舊有二猛獸爲暴,無故相枕而死。郡人唐睿見猛獸傍一人曰:「刺史德感神明,所以兩猛獸自斃。」言訖不見,衆並異之。

蕭業は性質が篤実で、任地ごとに恵みを残した。普通四年、侍中・金紫光禄大夫となった。薨去し、諡を元王といった。文集が世に行われた。子の孝儼が嗣いだ。

原文業性敦篤,所在留惠。普通四年,爲侍中、金紫光祿大夫。薨,諡曰元王。文集行於世。子孝儼嗣。

蕭業の子 孝儼

原文業子 孝儼

孝儼は字を希荘といい、射策で甲科に及第し、秘書郎・太子舎人に任じられた。華林園に従駕し、座中で相風烏・華光殿・景陽山などの頌を献上した。その文は甚だ美しく、帝は深く賞賛し驚いた。薨去し、諡を章といった。子の蕭慎が嗣いだ。蕭業の弟に蕭藻がいる。

原文孝儼字希莊,射策甲科,除秘書郎、太子舍人。從幸華林園,於坐獻相風烏、華光殿、景陽山等頌,其文甚美,帝深賞異之。薨,諡曰章。子愼嗣。業弟藻。

蕭業の弟 蕭藻

原文業弟 藻

蕭藻は字を靖芸といい、斉に仕えて著作佐郎となった。天監元年、西昌県侯に封じられ、益州刺史となった。当時鄧元起が蜀におり、劉季連を平定した功績があると自負し、古参の将軍としての自負から蕭藻を軽んじたため、蕭藻は怒ってこれを殺した。天下は草創期で、辺境は未だ安定せず、州人の焦僧護が数万の衆を集め、郫・繁を占拠して反乱を起こした。蕭藻はまだ弱冠に満たない年齢であったが、僚佐を集めて議し、自らこれを討伐しようとした。ある者が不可と陳べると、蕭藻は大いに怒り、階段の脇でこれを斬った。そして平肩輿に乗り、賊の砦を巡行した。賊は弓を集めて乱射し、矢は雨のように降り注いだ。従者が楯を挙げて矢を防ごうとすると、また命じてこれを除かせた。これにより人心は大いに安んじ、賊は夜遁した。蕭藻は騎兵に命じて追撃させ、これを平定した。

原文藻字靖藝,仕齊位著作佐郎。天監元年,封西昌縣侯,爲益州刺史。時鄧元起在蜀,自以有克劉季連功,恃宿將,輕少藻,藻怒乃殺之。旣天下草創,邊徼未安,州人焦僧護聚衆數萬,據郫、繁作亂。藻年未弱冠,集僚佐議,欲自撃之。或陳不可,藻大怒,斬之階側。乃乘平肩輿,巡行賊壘。賊聚弓亂射,矢下如雨,從者舉楯禦箭,又命除之,由此人心大安,賊乃夜遁。藻命騎追撃,平之。

九年、召還されて太子中庶子となった。かつて鄧元起が蜀にいた時、収奪を重ね、財貨は山のように積まれていた。金玉珍宝や絹帛は一室に収め、内蔵と名付け、綺や羅紗、錦、毛織物は一室に収め、外府と号していた。蕭藻は外府を将帥に賜り、内蔵は王府に帰属させ、私することはなかった。この時、朝廷に還るに当たり、軽装で道についた。再び侍中に遷った。

原文九年,徴爲太子中庶子。初,鄧元起之在蜀也,崇於聚斂,財貨山積。金玉珍帛爲一室,名爲内藏;綺縠錦罽爲一室,號曰外府。藻以外府賜將帥,内藏歸王府,不有私焉。及是還朝,輕裝就路。再遷侍中。

蕭藻は謙虚で控えめな性質で、名声を求めず、文章をよくし、特に古体を好んだ。公の宴席でなければ、妄りに文章を作らず、たとえ短い文章でも、完成すればすぐに草稿を棄てた。雍州・兗州の二州刺史を歴任した。頻繁に州鎮を治め、人々や官吏は皆これを称えた。善を推して人に譲り、常に及ばないかのようにした。普通六年、軍師将軍となり、西豊侯蕭正徳と共に北へ侵攻して渦陽を攻めたが、勝手に軍を返したため、有司に奏上され、官を免じられ爵土を削られた。八年、再び爵位を封じられた。中大通三年、中軍将軍・太子詹事となり、出て丹陽尹となった。帝はしばしばその幼名を呼び、「子弟が皆迦葉(蕭藻の小字)のようであれば、私はまた何を憂えようか」と嘆いた。入朝して尚書左僕射となり、侍中を加えられたが、固辞したが許されなかった。大同五年、中衛将軍・開府儀同三司・中書令に遷り、侍中は元の通りであった。

原文藻性謙退,不求聞達,善屬文,尤好古體。自非公宴,未嘗妄有所爲,縱有小文,成輒棄本。暦雍、兗二州刺史。頻蒞州鎭,人吏咸稱之。推善下人,常如弗及。普通六年,爲軍師將軍,與西豐侯正德北侵渦陽,輒班師,爲有司奏,免官削爵土。八年,復封爵。中大通三年,爲中軍將軍,太子詹事,出爲丹陽尹。帝毎稱其小字,歎曰:「子弟並如迦葉,吾復何憂。」入爲尚書左僕射,加侍中,固辭,不許。大同五年,遷中衞將軍、開府儀同三司、中書令,侍中如故。

蕭藻は恬静な性質で、独り一室に居り、床には膝の痕があり、宗室の衣冠(貴族)はこれを楷則とせざるはなかった。常に爵禄が過ぎることを思い、退くことを考え、門庭は閑寂で、賓客は通ずること稀であった。簡文帝は特にこれを敬愛した。家禍に遭って以来、常に布衣蒲席を用い、鮮禽を食せず、公庭でなければ音楽を聴かず、武帝は毎にこれを称えた。

原文藻性恬靜,獨處一室,床有膝痕,宗室衣冠莫不楷則。常以爵祿太過,毎思摒退,門庭閑寂,賓客罕通。簡文尤敬愛之。自遭家禍,恒布衣蒲席,不食鮮禽,非公庭不聽音樂,武帝毎以此稱之。

南徐州刺史として出向した。侯景の乱に際し、藻は世子の彧に兵を率いて入援させた。城が開くと、散騎常侍を加えられた。侯景がその儀同蕭邕を遣わして代わりに京口を占拠させると、藻は気疾を患った。或る者が江北に奔ることを勧めたが、藻は言った、「我は国の台鉉(重臣)として、任寄は特に隆く、既に逆賊を誅翦できず、正に朝廷とともに死すべきである」と。そこで食を絶って薨じた。

原文出爲南徐州刺史。侯景亂,藻遣世子彧率兵入援。及城開,加散騎常侍。侯景遣其儀同蕭邕代之據京口,藻因感氣疾。或勸奔江北,藻曰:「吾國之台鉉,任寄特隆,旣不能誅翦逆賊,正當同死朝廷耳。」因不食而薨。

藻の弟、猷。

原文藻弟 猷

藻の弟の猷は、臨汝侯に封ぜられ、呉興郡守となった。性質は倜儻で、楚王廟の神と交わり、一斛こくまで飲んだ。毎に酹祀しては、歓を尽くし極めて酔い、神影にも酒色があり、祈るときは必ず従った。

原文藻弟猷,封臨汝侯,爲呉興郡守。性倜儻,與楚王廟神交,飲至一斛。毎酹祀,盡歡極醉,神影亦有酒色,所禱必從。

後に益州刺史、侍中、中護軍となった。時に江陽の人齊苟兒が反し、衆十万で州城を攻め、猷は兵糧ともに尽き、人に異心があった。そこで遥かに祈って救いを請うた。この日、田老が一騎の浴鉄(甲冑)の者が東方より来るに逢い、城まで幾里かと問うと、「百四十里」と言った。時に日は既に晡(申の刻)で、騎は矟を挙げて言った、「後から来る者には、速やかに馬を走らせ、日のあるうちに賊を破らんと欲す」と。俄かに数百騎が風の如く来り、一騎が通り過ぎて飲み物を請うた。田老が誰かと問うと、「呉興の楚王、臨汝侯を救いに来た」と言った。この時、廟中の請祈は験がなかった。十余日して、ようやく侍衛の土偶が皆泥で濡れ汗をかいたようであるのを見た。この日、猷は大いに苟児を破った。猷は州において頗る僭濫で、客筵の中に香橙を置き、連榻を設けなかった。武帝は末にこれを知り、これを愆とした。都に還り、憂愧して疾を成し、卒した。諡して霊と言う。神と交わったためである。

原文後爲益州刺史,侍中,中護軍。時江陽人齊苟兒反,衆十萬攻州城,猷兵糧倶盡,人有異心。乃遙禱請救。是日有田老逢一騎浴鐵從東方來,問去城幾裏,曰:「百四十」。時日已晡,騎舉矟曰:「後人來,可令之疾馬,欲及日破賊。」俄有數百騎如風,一騎過請飲,田老問爲誰,曰:「呉興楚王來救臨汝侯。」當此時,廟中請祈無驗。十餘日,乃見侍衞土偶皆泥濕如汗者。是日,猷大破苟兒。猷在州頗僭濫,客筵内遂有香橙,不置連榻。武帝末知之,以此爲愆。還都,以憂愧成疾,卒,諡曰靈,以與神交也。

猷の子、韶。

原文猷子 韶

猷の子の韶は字を徳茂といい、初め上甲県都郷侯に封ぜられた。太清の初めに舍人となり、城が陥落すると詔を奉じて西に奔った。江陵に至ると、人士多く尋ね求めて来て、城内の事を説くよう韶に命じた。韶は人人に説くことができず、そこで一巻に書き記し、客の問う者には便ちこれを示した。湘東王が聞いて取り寄せて見て、言った、「昔、王韶之が隆安紀十巻を作り、晋末の乱離を説いた。今の蕭韶もまた太清紀十巻と為すべし」と。韶はそこで更に太清紀を撰した。その諸議論は多く謝呉が為した。韶は既に旨を承けて撰著したが、多くは実録ではなかった。湘東王はこれを徳とし、超えて宣武王を継がせ、長沙王に封じ、遂に郢州刺史に至った。

原文猷子韶字德茂,初封上甲縣都鄕侯。太淸初爲舍人,城陷奉詔西奔。及至江陵,人士多往尋覓,令韶説城内事,韶不能人人爲説,乃疎爲一巻,客問者便示之。湘東王聞而取看,謂曰:「昔王韶之爲隆安紀十巻,説晉末之亂離。今之蕭韶亦可爲太淸紀十巻矣。」韶乃更爲太淸紀。其諸議論,多謝呉爲之。韶旣承旨撰著,多非實録,湘東王德之,改超繼宣武王,封長沙王,遂至郢州刺史。

韶は昔、幼童の時、庾信に愛され、断袖の歓(男色)があり、衣食の資は皆信が給した。客に遇うと、韶もまた信のために酒を伝えた。後に郢州となると、信は西上して江陵に至り、途江夏を経た。韶は信を甚だ薄く接し、青油幕の下に坐り、信を引いて宴に入らせ、信を別榻に坐らせ、自矜の色があった。信は稍々堪えず、酒酣に因り、径ちに韶の床に上り、肴饌を踏みつけ、直ちに韶の面を見て言った、「官(貴人)は今日の形容、大いに近日と異なる」と。時に賓客満坐し、韶は甚だ慚恥した。

原文韶昔爲幼童,庾信愛之,有斷袖之歡,衣食所資,皆信所給。遇客,韶亦爲信傳酒。後爲郢州,信西上江陵,途經江夏,韶接信甚薄,坐靑油幕下,引信入宴,坐信別榻,有自矜色。信稍不堪,因酒酣,乃徑上韶床,踐蹋肴饌,直視韶面,謂曰:「官今日形容大異近日。」時賓客滿坐,韶甚慚恥。

韶の弟、駿。

原文韶弟 駿

韶の弟の駿は字を徳款といい、草隸を善くし、文章に工で、晩年更に武を習い、膂力人に絶え、永安侯の確と相類した。位は尚書殿中郎、超武将軍に至り、南安侯に封ぜられた。城が陥落すると、賊の任約に礼遇された。鄱陽嗣王の範を召して約を襲わんと謀ったが、反って害された。

原文韶弟駿字德款,善草隸,工文章,晩更習武,膂力絶人,與永安侯確相類。位尚書殿中郎、超武將軍,封南安侯。城陷,爲賊任約所禮。謀召鄱陽嗣王範襲約,反爲所害。

猷の弟、朗。

原文猷弟 朗

猷の弟の朗は字を靖徹といい、天監五年、例により王子として侯に封ぜられた。太子洗馬、桂州刺史を歴任し、都督を加えられた。性質は倨傲で虐く、群下はこれを患った。記室の庾丹は忠諫を以て害せられ、帝はこれを聞き、嶺表に於いて功を以て自ら効せしめた。丹の父の景休は位は御史中丞であった。丹は少にして俊才があり、伏挺、何子朗とともに周舍に狎れられた。初め景休は巴東郡を罷めて頗る資産があり、丹は数百万の負債があり、責める者が門を填めた。景休は怒り、これを償わなかった。既にして朝賢が丹を之れ景休にせず、景休は悦び、乃ち悉くこれを還した。建康正となり、事に坐して広州に流された。

原文猷弟朗字靖徹,天監五年,例以王子封侯。暦太子洗馬,桂州刺史,加都督。性倨而虐,群下患之。記室庾丹以忠諫見害,帝聞之,使於嶺表以功自效。丹父景休位御史中丞。丹少有俊才,與伏挺、何子朗倶爲周舍所狎。初景休罷巴東郡頗有資産,丹負錢數百萬,責者塡門。景休怒,不爲之償。旣而朝賢之丹不之景休,景休悅,乃悉爲還之。爲建康正,坐事流廣州。

朗の弟、明。

原文朗弟 明

朗の弟の明は字を靖通といい、少くして武帝に親愛され、貞陽侯に封ぜられた。太清元年、豫州刺史となり、百姓が闕に詣でて表を拝し、その徳政を言い、州門内に碑を樹てた。碑匠が石を採るに出でて肥陵よりするや、明は広く厨帳を営み、多く人物を召し、躬自ら率いて牽きて州に至った。識者はこれを笑い、言った、「王自ら碑を立てるは、州人に非ざるなり」と。

原文朗弟明字靖通,少被武帝親愛,封貞陽侯。太淸元年,爲豫州刺史,百姓詣闕拜表,言其德政,樹碑於州門内。及碑匠採石出自肥陵,明乃廣營廚帳,多召人物,躬自率領牽至州。識者笑之,曰:「王自立碑,非州人也。」

武帝が既に侯景を納れ、大いに北侵を挙げ、南康王の会理に兵を総べさせると、明は乃ち表を拝して行くことを求めた。固く請うて、乃ちこれを許した。会理が既に宿預に至ると、詔して改めて明を以て代わり都督水陸諸軍と為し彭城に趣かせ、大いに進取を図らしめた。敕して曰く、「侯景は志、鄴・洛を清め、以て讎恥を雪がんとす。其れ先ず大軍を率い、機に随い撫定せよ。汝等衆軍は寒山に止まり堰を築き、清水を引いて以て彭城を灌ぐべし。大水一たび泛べば、孤城自ら殄ぶ。慎んで妄りに動くことなかれ」と。明の師は呂梁十八里に次いで、寒山堰を作りて彭城を灌ぎ、水は堞に及び、没せざるは三板のみであった。魏は将の慕容紹宗を遣わして赴救せしめ、明は謀略出でず、号令行なわれず。諸将が毎に事を諮ると、輒ち怒って曰く、「吾自ら臨機制変す、多く言うなかれ」と。衆は乃ち各々居人を掠め、明も亦制することができず、ただその一軍のみを禁じて侵掠すること無からしめた。

原文武帝旣納侯景,大舉北侵,使南康王會理總兵,明乃拜表求行。固請,乃許之。會理已至宿預,詔改以明代爲都督水陸諸軍趣彭城,大圖進取。敕曰:「侯景志淸鄴、洛,以雪讎恥。其先率大軍,隨機撫定。汝等衆軍可止於寒山築堰,引淸水以灌彭城。大水一泛,孤城自殄,愼勿妄動。」明師次呂梁十八里,作寒山堰以灌彭城,水及於堞,不沒者三板。魏遣將慕容紹宗赴救,明謀略不出,號令莫行。諸將毎諮事,輒怒曰:「吾自臨機制變,勿多言。」衆乃各掠居人,明亦不能制,唯禁其一軍無所侵掠。

紹宗が到着し、堰の水を決壊させると、蕭明は将を命じてこれを救わしめようとしたが、誰も出ようとしなかった。魏軍が転じて逼迫し、人の情は大いに驚いた。胡貴孫が趙伯超に言うには、「戦わずして何を待つのか。」伯超は恐れて答えることができなかった。貴孫はそこで陣中に入って苦戦し、伯超は衆を擁して敢えて救わず、言うには、「戦えば必ず敗れる。全軍を挙げて早く帰還するに如かず。」そこで良馬を整えさせ、その愛妾を載せて自ら従った。貴孫は遂に没した。伯超の子威方が戦いに赴かんとしたところ、伯超はその出撃を恐れ、人をやって召し寄せ、遂に共に南還した。

原文紹宗至,決堰水,明命將救之,莫肯出。魏軍轉逼,人情大駭。胡貴孫謂趙伯超曰:「不戰何待。」伯超懼不能對。貴孫乃入陳苦戰,伯超擁衆弗敢救,曰:「與戰必敗,不如全軍早歸。」乃使具良馬,載其愛妾自隨。貴孫遂沒。伯超子威方將赴戰,伯超懼其出,使人召之,遂相與南還。

蕭明は酔って起き上がることができず、衆軍は大敗し、蕭明は捕虜として捕らえられた。北人はその侵掠しなかったことを思い、彼を義王と呼んだ。魏に至ると、魏帝は蕭明及び諸将帥を引見し、その禁錮を解き、晋陽に送った。勃海王高澄は蕭明を非常に重んじて礼遇し、言うには、「先王と梁主は十余年和好しており、彼の礼仏文を聞くに、常に魏主並びに先王のために奉ずると云っていた。これは甚だ梁主の厚意である。一朝にして信を失い、この紛擾を致すとは謂わなかった。」そこで梁と通和しようとし、人をやって蕭明の書を以て武帝に告げさせ、ようやく書を致して高澄を慰めた。

原文明醉不能興,衆軍大敗,明見俘執。北人懷其不侵掠,謂之義王。及至魏,魏帝引見明及諸將帥,釋其禁,送晉陽。勃海王髙澄禮明甚重,謂曰:「先王與梁主和好十有餘年,聞彼禮佛文,常雲奉爲魏主並及先王,此甚是梁主厚意。不謂一朝失信,致此紛擾。」因欲與梁通和,使人以明書告武帝,方致書以慰髙澄。

東魏は蕭明を散騎常侍に任じた。社稷が淪蕩したと聞くと、昼夜を分かたず哀泣した。魏が江陵を平定すると、斉の文宣帝は人を遣わして蕭明を梁に送り届けさせ、併せて以前に捕獲した梁の将湛海珍らを皆蕭明に従って帰国することを許した。上党王高渙に衆を率いてこれを送ることを命じた。この時、太尉王僧辯・司空陳霸先が建康におり、晋安王方智を推して太宰・都督中外諸軍事とし、制を承けて百官を置いた。高渙の軍が漸次進むと、蕭明は僧辯に書を送って迎えを求め、僧辯は従わなかった。高渙が東関を破り、裴之横を斬ると、僧辯は恐れ、蕭明を受け入れた。ここにおいて梁の輿は東渡し、斉の師は北返した。

原文東魏除明散騎常侍。及聞社稷淪蕩,哀泣不舍晝夜。魏平江陵,齊文宣使送明至梁,並前所獲梁將湛海珍等皆聽從明歸。令上党王渙率衆送之。是時太尉王僧辯、司空陳霸先在建康,推晉安王方智爲太宰、都督中外諸軍事,承制置百官。渙軍漸進,明與僧辯書求迎,僧辯不從。及渙破東關,斬裴之橫,僧辯懼,乃納明。於是梁輿東度,齊師北反。

蕭明が到着し、朱雀門を望むと便ち慟哭し、居所に至るまで、道俗の参問には皆泣いて応対した。尊号を称し、承聖四年を改めて天成元年とし、境内を大赦した。方智を太子とし、王僧辯に大司馬を授け、その子蕭章を馳せて斉に赴かせて拝謝させた。斉は蕭明及び僧辯の使者を遇するに、館における供給宴会を豊厚にし、武帝の時の使者と全く同じであった。陳霸先が襲って僧辯を殺すと、再び晋安王を奉じ、これが敬帝であり、蕭明を太傅・建安王とした。斉に報じて云うには、「僧辯は陰謀を企てて篡逆しようとした故、これを誅した。」仍って斉に称臣することを請い、永く蕃国たらんとした。斉は行台司馬恭を遣わし、梁人と暦陽で盟を結んだ。明年、斉人は蕭明を召還しようとし、霸先はなお蕃を称し、使者を遣わして蕭明を送ろうとしたが、背中に疽が発して死んだ。時に王琳が霸先と相抗し、斉の文宣帝は兵を遣わして永嘉王蕭荘を納れ梁の祀を主たらしめ、蕭明を追諡して閔皇帝とした。

原文明至,望朱雀門便長慟,迄至所止,道俗參問,皆以哭對之。及稱尊號,改承聖四年爲天成元年,大赦境内。以方智爲太子,授王僧辯大司馬,遣其子章馳到齊拜謝。齊遇明及僧辯使人,在館供給宴會豐厚,一同武帝時使。及陳霸先襲殺僧辯,復奉晉安王,是爲敬帝,而以明爲太傅、建安王。報齊云:「僧辯陰謀篡逆,故誅之。」仍請稱臣于齊,永爲蕃國。齊遣行台司馬恭及梁人盟于暦陽。明年,齊人征明,霸先猶稱蕃,將遣使送明,疽發背死。時王琳與霸先相抗,齊文宣遣兵納永嘉王莊主梁祀,追諡明曰閔皇帝。

永陽王

原文永陽王

永陽昭王蕭敷は字を仲達といい、文帝の第二子である。少より学業があり、斉に仕えて随郡内史となった。遠近を招き懐け、士庶これを安んじ、前後の政はこれに及ぶものなしとした。明帝は徐孝嗣に謂って曰く、「学士は旧聞の例として理官を解せず。聞くところでは蕭随郡は唯だ酒を置き清言するのみなのに、路に遺物を拾わず。いかなる風化を行ってかここに至ったのか。」答えて曰く、「古は文徳を修めて以て遠人を来たす。況んや郡境を止むるのみにてや。」帝は善しと称した。廬陵王諮議参軍に徴されたが、卒した。武帝が即位すると、司空を追贈され、永陽郡王に封ぜられ、諡して昭といった。天監二年、子の伯游が嗣いだ。伯游は字を士仁といい、位は会稽太守に至り、薨じ、諡して恭といった。

原文永陽昭王敷字仲達,文帝第二子也。少有學業,仕齊爲隨郡内史。招懷遠近,士庶安之,以爲前後之政莫及。明帝謂徐孝嗣曰:「學士舊聞例不解理官,聞蕭隨郡唯置酒淸言,而路不拾遺,行何風化以至於此?」答曰:「古者修文德以來遠人,況止郡境而已。」帝稱善。徴爲廬陵王諮議參軍,卒。武帝卽位,贈司空,封永陽郡王,諡曰昭。天監二年,子伯游嗣。伯游字士仁,位會稽太守,薨,諡曰恭。

衡陽王

原文衡陽王

衡陽宣王蕭暢は、文帝の第四子である。美名があり、斉に仕えて位は太常、江陵県侯に封ぜられた。卒した。天監元年、開府儀同三司を追贈され、衡陽郡王に封ぜられ、諡して宣といった。

原文衡陽宣王暢,文帝第四子也。有美名,仕齊位太常,封江陵縣侯。卒。天監元年,追贈開府儀同三司,封衡陽郡王,諡曰宣。

三年、子の元簡は位は郢州刺史に至り、官において卒し、諡して孝といった。葬送の際、柩に声がしたので、議者は開いて視ようとした。王妃柳氏が曰く、「晋文公に既に前例あり。棺を開くとは聞かず。亡き者の生に益なく、徒らに生者の痛みを増すのみ。」遂に止めた。少子の蕭献が嗣いだ。

原文三年,子元簡位郢州刺史,卒于官,諡曰孝。葬將引,柩有聲,議者欲開視。王妃柳氏曰:「晉文已有前例,不聞開棺。無益亡者之生,徒增生者之痛。」遂止。少子獻嗣。

桂陽王

原文桂陽王

桂陽簡王蕭融は、文帝の第五子である。斉に仕えて位は太子洗馬、宣武王蕭懿と共に害に遇った。天監元年、撫軍大将軍を追贈され、桂陽郡王に封ぜられ、諡して簡といった。子がなく、詔して長沙宣武王の第九子蕭象を嗣がせた。

原文桂陽簡王融,文帝第五子也。仕齊位太子洗馬,與宣武王懿倶遇害。天監元年,贈撫軍大將軍,封桂陽郡王,諡曰簡。無子,詔以長沙宣武王第九子象嗣。

蕭象は字を世翼といい、容止は閑雅で、交遊を簡にし、生母に事えること孝をもって聞こえた。位は丹陽尹に至る。蕭象は深宮に生長し、初めて庶政に親しみ、挙措に失徳なく、朝廷これを称した。再び湘州刺史に遷り、都督を加えられた。湘州は旧来猛獣の暴が多いが、蕭象が州に任じた日より、四頭の猛獣が郭外で死に、ここより静息した。故老は皆徳政の感ずるところと称した。歴任して太常卿に至り、侍中を加えられ、秘書監に遷った。薨じ、諡して敦といった。子の蕭慥が嗣いだ。

原文象字世翼,容止閒雅,簡於交遊,事所生母以孝聞。位丹陽尹。象生長深宮,始親庶政,舉無失德,朝廷稱之。再遷湘州刺史,加都督。湘州舊多猛獸爲暴,及象任州日,四猛獸死于郭外,自此靜息,故老咸稱德政所感。歴位太常卿,加侍中,遷秘書監。薨,諡曰敦。子慥嗣。

蕭慥は字を元貞といい、位は信州刺史に至り、威厳と恵みがあった。太清二年、台城の救援に赴いたが、勅に遇って帰蕃した。まもなく張纘に陥れられ、書を送って湘東王に報じて曰く、「河東・桂陽の二蕃は、掎角して江陵を襲わんと欲す。」湘東王は水軍歩兵兼行して荊鎮に至った。蕭慥はなお江津に軍していたが、意に介さず、湘東王が到着すると、蕭慥を召し、深く慰喩を加え、蕭慥の心はようやく安んじた。後に省内に留め置かれると、蕭慥は禍の及ぶを知り、遂に醜言を肆にした。湘東王は大いに怒り、獄に付してこれを殺した。

原文慥字元貞,位元信州刺史,有威惠。太淸二年,赴援台城,遇敕還蕃。尋爲張纘所構,書報湘東王曰:「河東、桂陽二蕃,掎角欲襲江陵。」湘東乃水歩兼行至荊鎭。慥尚軍江津,不以爲意,湘東至,乃召慥,深加慰喩,慥心乃安。後留止省内,慥心知禍及,遂肆醜言。湘東大怒,付獄殺之。

臨川王蕭宏

原文臨川王宏

臨川靖恵王蕭宏は字を宣達といい、文帝の第六子である。身長八尺、鬚眉美しく、容止観るべきものあり。斉に仕えて北中郎桂陽王功曹史となった。宣武の難に、兄弟皆収められた。道人の釈恵思が蕭宏を匿った。武帝の師が下ると、蕭宏は新林に至って奉迎した。建康平定後、中護軍となり、石頭戍事を領した。天監元年、臨川郡王に封ぜられ、位は揚州刺史、都督を加えられた。

原文臨川靖惠王宏字宣達,文帝第六子也。長八尺,美鬚眉,容止可觀。仕齊爲北中郎桂陽王功曹史。宣武之難,兄弟皆被收。道人釋惠思藏宏。及武帝師下,宏至新林奉迎。建康平,爲中護軍,領石頭戍事。天監元年,封臨川郡王,位揚州刺史,加都督。

四年、武帝は詔を下し、蕭宏に諸軍を都督させて魏を侵攻させた。蕭宏は帝の介弟として、配下の兵士は皆器械が精新で、軍容は甚だ盛んであり、北人は百数十年間に未だ有りしこと無きものと為した。軍は洛口に駐屯し、前軍は梁城を攻略した。蕭宏の部署分掌は方に乖き、多く朝制に違い、諸将は勝に乗じて深入りせんと欲したが、蕭宏は魏の援軍が近しと聞き、畏懦して敢えて進まず、諸将を召して還師を議せんとした。呂僧珍曰く、「難を知って退くは、亦た善からずや」と。蕭宏曰く、「我も亦た然りと為す」と。柳惔曰く、「我が大衆の臨む所、何れの城か服さざらん、何を以て難と謂うや」と。裴邃曰く、「是の行は、固より敵を求むるなり、何の難を避けんや」と。馬仙琕曰く、「王何ぞ亡国の言を得ん。天子は境内を掃して以て王に属す、前に死すること一尺有り、却いて生くること一寸無し」と。昌義之は怒り髭を尽く磔げて曰く、「呂僧珍は斬るべし。豈に百万の師有りて、軽々しく退くべしと言わんや、何の面目を以て聖主に見ゆるを得んや」と。朱僧勇・胡辛生は剣を抜いて起ちて曰く、「退かんと欲すれば自ら退け、下官は前に向かって死を取らん」と。議する者は既に罷み、僧珍は諸将に謝して曰く、「殿下は昨来風動し、意は軍に在らず、深く大いに沮喪するを恐れ、全師して返らしめんと欲す」と。又裴邃に私かに曰く、「王は只全く経略無きに非ず、庸怯甚だ過ぎたり。吾と軍事を言うも、皆相入らず。此の形勢を観るに、豈に成功せんや」と。蕭宏は敢えて群議に違えず、軍を停めて進まず。魏人は其の武無きを知り、巾幗を遺して贈った。北軍は歌って曰く、「蕭娘と呂姥とを畏れず、但だ合肥に韋武有るを畏る」と。武とは韋叡を謂う。僧珍は歎じて曰く、「始興・呉平をして元帥と為し、我相毗輔せば、中原平らぐに足らず。今遂に敵人の此くの如くに見欺かるるに至る」と。乃ち裴邃を遣わして軍を分かち寿陽を取らしめ、大衆は洛口に停まらんと欲した。蕭宏は固執して聴かず、乃ち軍中に令して曰く、「人馬に前行する者有らば斬る」と。是より軍政和せず、人々憤怒を懐いた。

原文四年,武帝詔宏都督諸軍侵魏。宏以帝之介弟,所領皆器械精新,軍容甚盛,北人以爲百數十年所未之有。軍次洛口,前軍克梁城。巨集部分乖方,多違朝制,諸將欲乘勝深入,宏聞魏援近,畏懦不敢進,召諸將欲議旋師。呂僧珍曰:「知難而退,不亦善乎。」宏曰:「我亦以爲然。」柳惔曰:「自我大衆所臨,何城不服,何謂難乎?」裴邃曰:「是行也,固敵是求,何難之避?」馬仙琕曰:「王安得亡國之言。天子掃境内以屬王,有前死一尺,無卻生一寸。」昌義之怒須盡磔,曰:「呂僧珍可斬也。豈有百萬之師,輕言可退,何面目得見聖主乎!」朱僧勇、胡辛生拔劍而起曰:「欲退自退,下官當前向取死!」議者已罷,僧珍謝諸將曰:「殿下昨來風動,意不在軍,深恐大致沮喪,欲使全師而反。」又私裴邃曰:「王非止全無經略,庸怯過甚。吾與言軍事,都不相入。觀此形勢,豈能成功。」宏不敢便違群議,停軍不前。魏人知其不武,遺以巾幗。北軍歌曰:「不畏蕭娘與呂姥,但畏合肥有韋武。」武謂韋叡也。僧珍歎曰:「使始興、呉平爲元帥,我相毗輔,中原不足平。今遂敵人見欺如此。」乃欲遣裴邃分軍取壽陽,大衆停洛口。宏固執不聽,乃令軍中曰:「人馬有前行者斬。」自是軍政不和,人懷憤怒。

魏の奚康生は馳せて楊大眼を遣わし、元英に謂って曰く、「梁人は自ら梁城を克ちて已後、久しく進軍せず、其の勢いは見るべし、当に是れ我を懼るるなり。王若し進みて洛水を拠らば、彼自ら奔敗せん」と。元英曰く、「蕭臨川は雖も騃なり、其の下に好将韋・裴の属有り、亦た未だ当たるべからず。望気者は九月に賊退くと言う、今且く形勢を観て、未だ便ち与に交鋒すべからず」と。

原文魏奚康生馳遣楊大眼謂元英曰:「梁人自克梁城已後,久不進軍,其勢可見,當是懼我。王若進據洛水,彼自奔敗。」元英曰:「蕭臨川雖騃,其下有好將韋、裴之屬,亦未可當。望氣者言九月賊退,今且觀形勢,未可便與交鋒。」

張惠紹は下邳に駐屯し、号令厳明にして、至る所独り克ち、下邳の人多く来降せんと欲する者有り。惠紹曰く、「我若し城を得ば、諸卿は皆是れ国人なり;若し賊を破ること能わずんば、徒らに公等をして郷を失わしむるのみ、朝廷の人を弔う本意に非ず。今且く安堵して復業し、妄りに自ら辛苦する勿れ」と。降人は皆悦んだ。

原文張惠紹次下邳,號令嚴明,所至獨克,下邳人多有欲來降。惠紹曰:「我若得城,諸卿皆是國人;若不能破賊,徒令公等失鄕,非朝廷吊人本意也。今且安堵復業,勿妄自辛苦。」降人咸悅。

九月、洛口の軍潰え、蕭宏は衆を棄てて走った。其の夜暴風雨有り、軍驚き、蕭宏は数騎と逃亡した。諸将蕭宏を求むるも得ず、衆散じて帰った。甲を棄て戈を投げ、水陸に満ち、病者を捐棄し、強壮なる者は僅かに身を脱するを得た。蕭宏は小船に乗じて江を渡り、夜に白石塁に至り、城門を款いて入るを求めた。臨汝侯は城に登りて謂って曰く、「百万の師、一朝に奔潰し、国の存亡、未だ知るべからず。奸人の間を乗じて変を為すを恐る、城門は夜に開くべからず」と。蕭宏は辞無く以て対し、乃ち食を縋りて饋った。惠紹は洛口の敗を聞き、亦た軍を退いた。

原文九月,洛口軍潰,宏棄衆走。其夜暴風雨,軍驚,宏與數騎逃亡。諸將求宏不得,衆散而歸。棄甲投戈,塡滿水陸,捐棄病者,強壯僅得脱身。宏乘小船濟江,夜至白石壘,款城門求入。臨汝侯登城謂曰:「百萬之師,一朝奔潰,國之存亡,未可知也。恐奸人乘間爲變,城門不可夜開。」宏無辭以對,乃縋食饋之。惠紹聞洛口敗,亦退軍。

六年、司徒に遷り、太子太傅を領す。八年、司空・揚州刺史と為る。十一年正月、太尉と為る。其の年冬、公事を以て左遷され驃騎大将軍・開府同三司の儀と為り、未だ拝せず、揚州刺史に遷る。十二年、司空を加えられる。十五年、生母の陳太妃薨じ、職を去る。尋いで起きて中書監と為り、驃騎大将軍・揚州刺史は元の如し。

原文六年,遷司徒,領太子太傅。八年,爲司空、揚州刺史。十一年正月,爲太尉。其年冬,以公事左遷驃騎大將軍、開府同三司之儀,未拜,遷揚州刺史。十二年,加司空。十五年,所生母陳太妃薨,去職。尋起爲中書監,驃騎大將軍、揚州刺史如故。

蕭宏の妾の弟呉法寿は性粗狡にして、蕭宏を恃みて畏忌する所無く、輒ち人を殺した。死んだ家が訴え、勅有りて厳しく討たんとす。法寿は蕭宏の府内に在り、之を如何ともする無し。武帝は制して蕭宏に出ださしめ、即日に辜を償わしめた。南司は奏して蕭宏の司徒・驃騎・揚州刺史を免ぜんとす。武帝は注して曰く、「蕭宏を愛するは兄弟の私親なり、蕭宏を免ずるは王者の正法なり、奏する所可なり」と。

原文宏妾弟呉法壽性粗狡,恃宏無所畏忌,輒殺人。死家訴,有敕嚴討。法壽在宏府内,無如之何。武帝制宏出之,卽日償辜。南司奏免宏司徒、驃騎、揚州刺史。武帝注曰:「愛巨集者兄弟私親,免宏者王者正法,所奏可。」

蕭宏は洛口の敗より、常に愧憤を懐き、都下に窃発有る毎に、輒ち蕭宏を以て名と為し、屡々有司の奏する所と為り、帝は毎に之を赦した。十七年、帝将に光宅寺に幸せんとす、士有りて驃騎航に伏して帝の夜出を待つ。帝将に行かんとして心动き、乃ち朱雀航を過ぎた。事発し、蕭宏の使わしむる所と称す。帝は泣きて蕭宏に謂って曰く、「我が人才は汝に勝ること百倍、此に当たりて猶恐らくは顛墜せんとす、汝は何を為さんとする。我は周公・漢文と為ること能わざるに非ず、汝の愚かなるを念う故なり」と。蕭宏は頓首して曰く、「是れ無し、是れ無し」と。是を以て罪に坐して免ぜられる。而して恣に縱して悛めず、奢侈過度にして、第を修めて帝宮に擬し、後庭数百千人、皆天下の選を極む。所幸の江無畏の服玩は斉の東昏侯の潘妃に侔い、宝屧は直ち千万。鰿魚の頭を好んで食し、常日に三百を進め、其の他の珍膳盈溢し、後房之を食して尽くさず、諸の道路に棄つ。江は本より呉氏の女なり、世に国色有り、親従の子女遍く王侯の後宮に游び、男の免兄弟九人、権勢に因りて都下に横わる。

原文宏自洛口之敗,常懷愧憤,都下毎有竊發,輒以宏爲名,屢爲有司所奏,帝毎貰之。十七年,帝將幸光宅寺,有士伏於驃騎航待帝夜出。帝將行心動,乃於朱雀航過。事發,稱爲宏所使。帝泣謂宏曰:「我人才勝汝百倍,當此猶恐顛墜,汝何爲者。我非不能爲周公、漢文,念汝愚故。」宏頓首曰:「無是,無是。」於是以罪免。而縱恣不悛,奢侈過度,修第擬于帝宮,後庭數百千人,皆極天下之選。所幸江無畏服玩侔于齊東昏潘妃,寶屧直千萬。好食鰿魚頭,常日進三百,其佗珍膳盈溢,後房食之不盡,棄諸道路。江本呉氏女也,世有國色,親從子女遍游王侯後宮,男免兄弟九人,因權勢橫於都下。

蕭宏は未だ幾ばくもせずして復た司徒と為る。普通元年、太尉・揚州刺史に遷り、侍中は元の如し。七年四月薨ず。疾より薨ずるまで、輿駕七たび出でて臨視す。及び薨じ、詔して侍中・大将軍・揚州牧を贈り、黄鉞を仮し、並びに羽葆・鼓吹一部を給し、班劍を増して六十人と為し、諡して靖恵と曰う。

原文宏未幾復爲司徒。普通元年,遷太尉、揚州刺史,侍中如故。七年四月薨,自疾至薨,輿駕七出臨視。及薨,詔贈侍中、大將軍、揚州牧,假黃鉞,並給羽葆、鼓吹一部,增班劍爲六十人,諡曰靖惠。

蕭宏は介弟の貴きを以て、他の量能無く、恣意に聚斂す。庫室垂に百間有り、内堂の後に在り、関鑰甚だ厳し。鎧仗なるを疑う者有り、密かに以て聞こゆ。武帝は友于に甚だ厚く、殊に悦ばず。蕭宏の愛妾江氏は寝膳暫くも離るる能わず、上は他日盛饌を江に送りて曰く、「当に来りて汝に就きて歓宴せん」と。唯だ布衣の旧たる射声校尉丘佗卿を携えて往き、蕭宏及び江と大いに飲み、半酔の後謂って曰く、「我今汝が後房を行わんと欲す」と。便ち後合の輿を呼び径ちに屋所に往く。蕭宏は上其の賄貨を見るを恐れ、顏色怖懼す。上の意弥々是れ仗と信じ、屋屋を検視す。蕭宏の性は銭を愛し、百万一聚め、黄牓を以て之を標し、千万一庫に、一の紫標を懸く、此くの如く三十余間。帝と佗卿は指を屈して計り、見銭三億余万を見、余りの屋は布・絹・絲綿・漆・蜜・紵・蠟・朱沙・黄屑・雑貨を貯え、但だ庫に満つるを見るも、多少を知らず。帝始めて仗に非ざるを知り、大いに悦び、謂って曰く、「阿六、汝の生活大いに可なり」と。方に更に劇飲し、夜に至り燭を挙げて還る。兄弟の情方に更に敦睦す。

原文宏以介弟之貴,無佗量能,恣意聚斂。庫室垂有百間,在内堂之後,關鑰甚嚴。有疑是鎧仗者,密以聞。武帝于友于甚厚,殊不悅。宏愛妾江氏寢膳不能暫離,上佗日送盛饌與江曰:「當來就汝歡宴。」唯攜布衣之舊射聲校尉丘佗卿往,與宏及江大飲,半醉後謂曰:「我今欲履行汝後房。」便呼後合輿徑往屋所。宏恐上見其賄貨,顏色怖懼。上意彌信是仗,屋屋檢視。宏性愛錢,百萬一聚,黃牓標之,千萬一庫,懸一紫標,如此三十餘間。帝與佗卿屈指計見錢三億余萬,餘屋貯布絹絲綿漆蜜紵蠟朱沙黃屑雜貨,但見滿庫,不知多少。帝始知非仗,大悅,謂曰:「阿六,汝生活大可。」方更劇飲,至夜舉燭而還。兄弟情方更敦睦。

蕭宏は都下に数十の邸有りて懸銭を出し券を立て、毎に田宅・邸店を懸けて上に文券し、期訖れば便ち券主を駆り、其の宅を奪う。都下・東土の百姓、業を失うこと一に非ず。帝後に知り、制して懸券は復た駆奪すべからずとし、此の後より貧庶復た居業を失わず。晋の時に銭神論有り、豫章王蕭綜は蕭宏の貪吝を以て、遂に銭愚論を為し、其の文甚だ切なり。帝は知りて以て蕭宏を激すと、旨を宣して蕭綜に与えて曰く、「天下の文章何ぞ限らん、那ぞ忽ちに此れを作す」と。雖も急ぎ毀たしむるも、而して流布已に遠く、蕭宏深く之を病み、聚斂稍々改む。

原文宏都下有數十邸出懸錢立券,毎以田宅邸店懸上文券,期訖便驅券主,奪其宅。都下東土百姓,失業非一。帝后知,制懸券不得復驅奪,自此後貧庶不復失居業。晉時有錢神論,豫章王綜以宏貪吝,遂爲錢愚論,其文甚切。帝知以激宏,宣旨與綜:「天下文章何限,那忽作此?」雖令急毀,而流布已遠,宏深病之,聚斂稍改。

蕭宏はまた帝の娘永興公主と私通し、これにより遂に逆を弑さんと謀り、事が成れば彼女を皇后とすることを約した。帝がかつて三日間の斎戒を行った際、諸公主は皆これに参じたが、永興は二人の童僕に婢女の服を着せた。童僕が閾を跨いで履を失うと、合帥(宿衛の長)はこれを疑い、密かに丁貴嬪に言上し、上奏しようとしたが、あるいは信じられぬことを恐れ、宮帥に図らせた。帥は内輿人八人に命じ、純綿で身を固めさせて幕下に立たせた。斎座が散じ、公主は果たして密談を請うたので、帝はこれを許した。公主が階を昇ると、童僕が先に帝の背後に走り寄った。八人がこれを抱きかかえて捕らえると、帝は驚いて扆(屏風)の下に墜ちた。童僕を捜索して刀を得、その供述は蕭宏の指使によるものであった。帝はこれを秘し、二童僕を内で殺し、漆塗りの車で公主を外に送り出した。公主は憤死し、帝はついに臨問しなかった。帝の諸女である臨安公主、安吉公主、長城公主の三人は皆文才があり、安吉が最も令称を得た。

原文宏又與帝女永興主私通,因是遂謀弑逆,許事捷以爲皇后。帝嘗爲三日齋,諸主並豫,永興乃使二僮衣以婢服。僮踰閾失屨,合帥疑之,密言于丁貴嬪,欲上言懼或不信,乃使宮帥圖之。帥令内輿人八人,纏以純綿,立於幕下。齋坐散,主果請間,帝許之。主升階,而僮先趣帝后。八人抱而擒之,帝驚墜於扆。搜僮得刀,辭爲宏所使。帝秘之,殺二僮於内,以漆車載主出。主恚死,帝竟不臨之。帝諸女臨安、安吉、長城三主並有文才,而安吉最得令稱。

蕭宏は性、内を好み酒を楽しみ、声色に沈湎し、侍女千人、皆極めて綺麗であった。警衛を慎む方なく、故に屡々降免を招いた。

原文宏性好内樂酒,沈湎聲色,侍女千人,皆極綺麗。愼衞寡方,故屢致降免。

蕭宏の子 正仁

原文宏子 正仁

蕭宏の子は十人ほどいたが、知りうる者は七人、長子正仁は字を公業といい、秘書丞の位にあり、早世し、哀世子と諡された。正仁の弟正義が嗣いだ。

原文宏子十人許,可知者七人,長子正仁字公業,位秘書丞,早卒,諡哀世子。正仁弟正義嗣。

正仁の弟 正義

原文正仁弟 正義

正義は字を公威といい、初め王子として平楽侯に封ぜられ、太常卿、南徐州刺史の位にあった。武帝が朱方に行幸された際、正義は館舎を修繕して輿駕を待った。初め、京城の西に別嶺が江に入り、高さ数十丈、三面水に臨むところがあり、北固と号した。蔡謨がその上に楼を築き、軍実を置いた。その後崩壊し、頂上にはなお小亭があり、登降は甚だ狭かった。帝がこれを登られた時、輦を下りて歩いて進まれた。正義はその路を広げ、傍らに欄楯を施した。翌日、帝が行幸され、遂に小輿を通すことができた。帝は悦び、久しく登って望み、詔して曰く「この嶺は固守するに足らず、然れども京口の壮観は実にこれなり」と。乃ちこれを北顧と改めた。正義に束帛を賜う。後に東揚州刺史となり、薨じた。正義の弟は正徳である。

原文正義字公威,初以王子封平樂侯,位太常卿,南徐州刺史。屬武帝幸朱方,正義修解宇以待輿駕。初,京城之西有別嶺入江,髙數十丈,三面臨水,號曰北固。蔡謨起樓其上,以置軍實。是後崩壞,頂猶有小亭,登降甚狹。及上升之,下輦歩進。正義乃廣其路,傍施欄楯。翌日上幸,遂通小輿。上悅,登望久之,敕曰:「此嶺不足須固守,然京口實乃壯觀。」乃改曰北顧。賜正義束帛。後爲東揚州刺史,薨。正義弟正德。

正義の弟 正徳

原文正義弟 正德

正徳は字を公和といい、少にして凶悪で、亡命を招き集め、墳墓を破り牛を屠り、また弋猟を好んだ。斉の建武年中、武帝に胤嗣が未だ立たず、養子とした。建康平定後、昭明太子が生まれると、正徳は本姓に還った。天監初年、西豊県侯に封ぜられ、累遷して呉郡太守となった。正徳は自ら儲嫡たるべきと謂い、心に常に怏怏として、毎に言に形した。普通三年、黄門侍郎として軽車将軍となり、佐史を置いた。間もなく魏に奔った。初めて去るに当たり、詩一絶を作り、火籠の中に入れ、即ち竹火籠を詠じて曰く「楨幹屈曲尽き、蘭麝氛氳銷え、炭を懐く日を知らんと欲すれば、正に是れ履氷の朝なり」と。魏に至り、廃太子なりと称した。時に斉の蕭宝寅が先に魏におり、乃ち魏帝に上表して曰く「豈に伯が天子となり、父が揚州となりて、彼の密親を棄て、遠く佗国に投ぜんや。之を殺すに若かず」と。魏は既に礼せず、正徳は乃ち一小児を殺して己が子と称し、遠く葬地を営み、魏人は疑わず、又自ら魏より逃げ帰った。文徳殿で謁見し、庭に至り叩頭した。武帝は泣いてこれを誨え、特に本封を復した。

原文正德字公和,少而凶慝,招聚亡命,破塚屠牛,兼好弋獵。齊建武中,武帝胤嗣未立,養以爲子。及平建康,生昭明太子,正德還本。天監初,封西豐縣侯,累遷呉郡太守。正德自謂應居儲嫡,心常怏怏,毎形於言。普通三年,以黃門侍郎爲輕車將軍,置佐史。頃之奔魏。初去之始,爲詩一絶,内火籠中,卽詠竹火籠,曰:「楨幹屈曲盡,蘭麝氛氳銷,欲知懷炭日,正是履冰朝。」至魏稱是被廢太子。時齊蕭寶寅先在魏,乃上表魏帝曰:「豈有伯爲天子,父作揚州,棄彼密親,遠投佗國。不若殺之。」魏旣不禮之,正德乃殺一小兒稱爲己子,遠營葬地,魏人不疑,又自魏逃歸。見於文德殿,至庭叩頭。武帝泣而誨之,特復本封。

正徳の志行は悔い改めず、常に公然と剥掠を行った。時に東府には正徳及び楽山侯正則がおり、潮溝には董当門の子暹がおり、世にこれを董世子と謂い、南岸には夏侯夔の世子洪がいた。この四凶は百姓の巨蠹となり、多く亡命を聚め、黄昏に道で多く人を殺し、これを「打稽」と謂った。時に勲豪の子弟は多く縦恣にして、淫盗屠殺を業とし、父祖も制することができず、尉邏も御することができなかった。車服牛馬は、西豊の駱馬、楽山の烏牛と号した。董暹は金帖織成の戦襖を持ち、値は七百万であった。後に正則は劫を為し、沙門を殺し、嶺南に徙せられて死んだ。洪はその父夔が奏上して東冶に繋がれ、徒中に死んだ。暹は永陽王妃王氏と乱を為した罪に坐し、誅された。三人既に除かれて、百姓稍々安んず。正徳の淫虐は改まらず、尋いで給事黄門侍郎に除せられた。

原文正德志行無悛,常公行剝掠。時東府有正德及樂山侯正則;潮溝有董當門子暹,世謂之董世子者也;南岸有夏侯夔世子洪。此四凶者,爲百姓巨蠹,多聚亡命,黃昏多殺人於道,謂之「打稽」。時勳豪子弟多縱恣,以淫盜屠殺爲業,父祖不能制,尉邏莫能禦。車服牛馬,號西豐駱馬,樂山烏牛。董暹金帖織成戰襖,直七百萬。後正則爲劫,殺沙門,徙嶺南死。洪爲其父夔奏系東冶,死於徒。暹坐與永陽王妃王氏亂,誅。三人旣除,百姓少安。正德淫虐不革,尋除給事黃門侍郎。

六年、軽車将軍となり、豫章王に随い北侵した。正徳は輒ち軍を棄てて委せ走り、有司の奏上により獄に下された。帝はまた詔して曰く「汝は猶子として、情兼ねて常の愛あり、故に先んじて汝の兄を越え、符を剖きて郡を連ぬ。往年蜀に在りては、小人に昵近し、猶ほ少年、情志未だ定まらずと謂えり。更に呉郡にては無辜を殺戮し、財物を劫盗し、雅然として畏れなし。京師に還りては、専ら逋逃を為し、乃ち江乗の要道、湖頭にて路を断ち、遂に京邑の士女をして早く閉じ晏く開かしむ。又人妻妾を奪い、人子女を略し、徐敖は直にその配匹を失うのみならず、乃ち横屍道路にす。王伯敖は列卿の女を誘いて妾媵と為す。我毎に掩抑を加え、汝の自ら新たにせんことを冀えり。了て悛革無く、怨讎愈甚だし。遂に匹馬奔亡し、志に反噬を懐く。信を遣わして慰問し、汝の能く還らんことを冀えり。果たして能く来帰し、我が夙志を遂げしむ。汝の文史を好まず、志武功に在りと謂い、汝に節を杖せしめ、戎を董て前駆せしむ。豈に汝が狼心改めず、禍胎を包蔵し、志国計を覆敗せんと欲し、以て汝が心を快くせんとは謂わんや。今当に汝を遠くに宥し、房累の自ら随うを令さず。所在に勅して汝に稟餼を与えよ。王新婦、見理等は当に太尉の間に停め、汝が余の房累は悉く同行を許すべし」と。ここにおいて官を免じ爵土を削り、臨海郡に徙す。徙所に至らざる道、追ってこれを赦す。八年、また爵を封ず。

原文六年爲輕車將軍,隨豫章王北侵。正德輒棄軍委走,爲有司所奏下獄。帝復詔曰:「汝以猶子,情兼常愛,故越先汝兄,剖符連郡。往年在蜀,昵近小人,猶謂少年情志未定。更于呉郡殺戮無辜,劫盜財物,雅然無畏。及還京師,專爲逋逃,乃至江乘要道,湖頭斷路,遂使京邑士女,早閉晏開。又奪人妻妾,略人子女,徐敖非直失其配匹,乃橫屍道路;王伯敖列卿之女,誘爲妾媵。我毎加掩抑,冀汝自新,了無悛革,怨讎逾甚。遂匹馬奔亡,志懷反噬。遣信慰問,冀汝能還,果能來歸,遂我夙志。謂汝不好文史,志在武功,令汝杖節,董戎前驅。豈謂汝狼心不改,包藏禍胎,志欲覆敗國計,以快汝心。今當宥汝以遠,無令房累自隨。敕所在給汝稟餼。王新婦、見理等當停太尉間,汝余房累悉許同行。」於是免官削爵土,徙臨海郡。未至徙所,道追赦之。八年,復封爵。

正徳が北より還り、朱異に交わりを求めた。帝が既に昭明の諸子を封ずると、異は正徳の失職を言上した。中大通四年、特に臨賀郡王に封ぜられた。後に丹陽尹となり、管轄下に劫盗多く、また有司の奏上により、職を去った。南兗州刺史として出され、在任中苛酷で、人堪命せず。広陵は沃壤なりしが、遂にこれがため荒廃し、人相食噉むに至った。既に累次試みられて無能、ここより黜廢され、転じて憤恨を増し、乃ち陰かに死士を養い、常に国の釁を思った。米粟を聚蓄し、宅内五十間の室を皆倉となす。征虜亭より方山に至るまで、悉く略して墅となす。奴僮数百を蓄え、皆その面を黥す。

原文正德北還,求交朱異。帝旣封昭明諸子,異言正德失職。中大通四年,特封臨賀郡王。後爲丹陽尹,坐所部多劫盜,復爲有司所奏,去職。出爲南兗州,在任苛刻,人不堪命。廣陵沃壤,遂爲之荒,至人相食噉。旣累試無能,從是黜廢,轉增憤恨,乃陰養死士,常思國釁。聚蓄米粟,宅内五十間室,並以爲倉。自征虜亭至於方山,悉略爲墅。蓄奴僮數百,皆黥其面。

太清二年秋、侯景反し、その奸心あるを知った。景の党徐思玉は北において正徳と相知り、ここに至り景は思玉を建鄴に遣わし、事を具に告げさせた。また正徳に書を送りて曰く「今天子年尊く、奸臣国を乱す。景これを観るに、計日して必ず敗るべし。大王は儲貳に当たり、中に廢辱せられ、天下の義士、窃かに忿慨する所なり。大王豈にこの私情を顧み、茲の億兆を棄てんや。景武ならずと雖も、実に自奮を思う」と。正徳書を得て大いに喜び、曰く「侯景の意、暗に人と同じし、天我を賛すなり」と。遂にこれを許した。景の至るに及び、正徳は潜かに空舫を運び、詐りて荻を迎うと称し、以て景を済わしめた。朝廷はその謀を知らず、正徳を平北将軍とし、朱雀航に屯せしむ。景至ると、正徳は乃ち北に向かって闕を望み三拝跪辞し、歔欷流涕して、賊を宣陽門に引き入れた。景と馬上に揖を交え、退いて左衛府に拠る。先に、その軍は皆絳袍を著し、袍裏は皆碧なりしが、ここに至り悉くこれを反す。賊は正徳を天子とし、号して正平元年と曰う。初め童謠ありしに、故にこれに応ず。又世人相佷むれば、必ず正平と称せり。

原文太淸二年秋,侯景反,知其有奸心。景党徐思玉在北經與正德相知,至是景遣思玉至建鄴,具以事告。又與正德書曰:「今天子年尊,奸臣亂國,以景觀之,計日必敗。大王屬當儲貳,中被廢辱,天下義士,竊所忿慨。大王豈得顧此私情,棄茲億兆。景雖不武,實思自奮。」正德得書大喜,曰:「侯景之意,暗與人同,天贊我也。」遂許之。及景至,正德潛運空舫,詐稱迎荻,以濟景焉。朝廷未知其謀,以正德爲平北將軍,屯朱雀航。景至,正德乃北向望闕三拜跪辭,歔欷流涕,引賊入宣陽門。與景交揖馬上,退據左衞府。先是,其軍並著絳袍,袍裏皆碧,至是悉反之。賊以正德爲天子,號曰正平元年。初童謠有之,故以應也;又世人相佷,必稱正平耳。

正徳は長子の見理を太子とし、娘を侯景に娶せた。侯景は丞相となり、正徳と約して言うには、「城を平定した日には、二宮(皇帝と皇太子)を全うさせない」と。また、畿内の王侯で三日以内に出て来ない者は誅すと命じた。台城が開くと、正徳は兵を率いて刀を振るって入ろうとしたが、賊は先にその徒をして門を守らせたので、正徳は果たせなかった。そこで太清の年号を復し、正徳を侍中・大司馬に降格した。正徳が入って問訊し、拝して泣いた。武帝は言った、「その泣くこと惙々たり、何ぞ嗟くに及ばんや」と。正徳は賊に売られたことを知り、深く自ら咎め悔い、密かに書を鄱陽嗣王(蕭範)に送り、兵を入れることを約した。賊がこれを遮って書を得たので、詔を矯って彼を殺した。

原文正德乃以長子見理爲太子,以女妻景。景爲丞相,與約曰:「平城之日,不得全二宮。」又令畿内王侯三日不出者,誅之。及台城開,正德率衆揮刀欲入,賊先使其徒守門,故正德不果。乃復太淸之號,降正德爲侍中、大司馬。正德入問訊,拜且泣。武帝曰:「惙其泣矣,何嗟及矣。」正德知爲賊所賣,深自咎悔,密書與鄱陽嗣王契,以兵入。賊遮得書,乃矯詔殺之。

先に、正徳の妹の長楽公主は陳郡の謝禧に嫁いでいたが、正徳は彼女と姦通し、公主の邸宅を焼き、婢を一人縛り、玉の釧を手に加え、金宝を身に付けさせ、「公主が焼死した」と声をあげ、婢の屍体を検め取って金玉とともに葬った。なおも公主と通じ、柳夫人と呼び、二子を生んだ。月日がやや久しくなるにつれ、風声が次第に露わになった。後に黄門郎の張準が一つの雉媒おとりを持っていたが、正徳はこれを見て奪い取った。まもなく重雲殿で浄供(斎会)が行われ、皇太子以下がことごとく集まった。張準は衆中で吒罵して言うには、「張準の雉媒は長楽公主ではない、どうして略奪できようか」と。皇太子は帝に聞かれるのを恐れ、武陵王(蕭紀)に和めさせてやっと止んだ。退出するや、雉媒を送り返した。その後、梁室の傾覆が正徳に由来したので、百姓は臨賀郡の名を聞くことすらも好まず言おうとしなかった。童謡に云う、「五虎が市に入るに逢うとも、臨賀父子を見ることを欲せず」と。そのように悪まれたのである。

原文先是,正德妹長樂主適陳郡謝禧,正德奸之,燒主第,縛一婢,加玉釧於手,以金寶附身,聲雲主被燒死,檢取婢屍並金玉葬之。仍與主通,呼爲柳夫人,生二子焉。日月稍久,風聲漸露。後黃門郎張准有一雉媒,正德見而奪之。尋會重雲殿爲淨供,皇儲以下莫不畢集。准於衆中吒罵曰:「張准雉媒非長樂主,何可略奪!」皇太子恐帝聞之,令武陵王和止之乃休,及出,送雉媒還之。其後梁室傾覆旣由正德,百姓至聞臨賀郡名亦不欲道。童謠云:「寧逢五虎入市,不欲見臨賀父子。」其惡之如是。

見理は字を孟節といい、性質は甚だ凶暴で粗野であり、長剣に短衣、市井を出入りし、宗室から歯牙にもかけられなかった。逆を肆うに及んで、甚だ得意であった。群盗を招き集め、毎夜掠奪を繰り返し、大航で流れ矢に当たって死んだ。正徳の弟に正則がいる。

原文見理字孟節,性甚凶粗,長劍短衣,出入廛裏,不爲宗室所齒。及肆逆,甚得志焉。招聚群盜,毎夜輒掠劫,於大航爲流矢所中死。正德弟正則。

正徳の弟 正則

原文正德弟 正則

正則は字を公衡といい、天監の初め、王子として楽山侯に封ぜられた。累遷して太子洗馬・舍人となった。常に邸内で百姓を私的に拘束して馬を飼わせ、また銭を盗鋳した。大通二年、劫盗を匿った罪により、爵を削られて郁林に流された。帝は広州に命じて日々酒肉を与えさせたが、南中の官司はなお侯の礼で遇した。

原文正則字公衡,天監初,以王子封樂山侯。累遷太子洗馬、舍人。恒于第内私械百姓令養馬,又盜鑄錢。大通二年,坐匿劫盜,削爵徙郁林。帝敕廣州日給酒肉,南中官司猶處以侯禮。

正則は諸父(伯父・叔父)を怨み、西江督護の靳山顧と通室し、亡命を招き誘い、番禺を襲おうとした。期に及ばずして事が発覚し、鼓を鳴らして将を会し州城を攻めようとした。刺史の元景仲は長史の元孝深に命じて討伐させた。正則は敗れ、厠に逃げ、村人が縛って送った。詔して南海で斬らせた。有司が属籍を絶ち、妻子を収めることを請うたが、詔して属籍を絶つことを聴し、妻子は特に原宥した。正則の弟に正立がいる。

原文正則滋怨諸父,與西江督護靳山顧通室,招誘亡命,將襲番禺。未及期而事發,遂鳴鼓會將攻州城。刺史元景仲命長史元孝深討之。正則敗,逃於廁,邨人縛送之,詔斬於南海。有司請絶屬籍,收妻子。詔聽絶屬籍,妻子特原。正則弟正立。

正則の弟 正立

原文正則弟 正立

正立は字を公山といい、初め羅平侯に封ぜられた。母の江氏は寵愛を受けた。初め、正仁が亡くなると、蕭宏は情に溺れて曲制し、正立を世子とした。正立は微かに学があり、蕭宏が薨じた後、朝議に非ざるを知り、表して兄に譲ることを求め、帝は甚だ嘉した。諸侯の例は五百戸を封ずるが、正立は実土の建安県侯に改封され、食邑一千戸を与えられた。後に丹陽尹の位に至り、薨じ、諡して敏といった。子の賁が嗣いだ。

原文正立字公山,初封羅平侯。母江有寵。初,正仁之亡,宏溺情曲制,以正立爲世子。正立微有學,宏薨後,知非朝議,表求讓兄,帝甚嘉焉。諸侯例封五百戸,正立改封實土建安縣侯,食邑一千戸。後位丹陽尹,薨,諡曰敏。子賁嗣。

正立の子 賁

原文正立子 賁

賁は字を世文といい、性質は躁急で薄情であった。正徳が侯景に擁立されると、賁は出奔してこれに投じ、専ら攻具の造作を監督し、台城を攻め、常に賊の耳目となった。南康嗣王の蕭会理が侯景を襲おうと謀ると、賁と中宿世子の蕭子邕がこれを告げた。賊は詔を矯って賁を竟陵王に、子邕を随郡王に封じ、ともに侯姓に改めさせた。賁は宗正卿となり、子邕は都官尚書となり、専権して朝政を陵蔑し、常に昼間臥していたところ、柳敬礼と蕭勸が室に入って自分を追い出す夢を見、賁は驚き起きて恩を乞うた。やがて賊はその翻覆を憎み、彼を殺した。

原文賁字世文,性躁薄。正德爲侯景所立,賁出投之,專監造攻具,以攻台城,常爲賊耳目。南康嗣王會理謀襲景,賁與中宿世子子邕告之,賊矯封賁竟陵王,子邕隨郡王,並改姓侯氏。賁爲宗正卿,子邕都官尚書,專權陵蔑朝政,居嘗晝臥,見柳敬禮、蕭勸入室驅之,賁驚起乞恩。俄而賊惡其翻覆,殺之。

正立の弟 正表

原文正立弟 正表

正立の弟の正表は、封山侯に封ぜられ、後に楽山に奔った。正表の弟に正信がいる。

原文正立弟正表,封封山侯,後奔樂山。正表弟正信。

正表の弟 正信

原文正表弟 正信

正信は字を公理といい、武化侯に封ぜられた。正立と同母であり、蕭宏の鍾愛をも受けた。しかし幼くして慧くなく、常に白団扇を執り、湘東王(蕭繹)がこれに八字の銘を題して弄んだが、正信は嗤われているとも知らず、終始常に揺らぎ握っていた。給事中の位に至り、卒した。

原文正信字公理,封武化侯。與正立同生,亦被宏鍾愛。然幼不慧,常執白團扇,湘東王取題八字銘玩之。正信不知嗤之,終常搖握。位給事中,卒。