南史 卷五十 列傳第四十

南史

卷五十 列傳第四十

劉瓛

劉瓛は字を子珪といい、沛郡相の人である。 しん の丹陽 劉惔の六世の孫である。祖父の弘之は給事中であった。父の惠は臨賀太守であった。劉瓛は志を篤くして学を好み、訓義に博く通じた。五歳の時、母方の叔父の孔熙先が管寧伝を読むのを聞き、喜んで読みたがり、叔父は改めてこれを説き聞かせると、精意を込めて聴き受け、言うには「これは いた ぶことができる」と。宋の大明四年、秀才に挙げられ、兄の劉璲もまた名があり、先に州挙に応じていたが、この時、別駕の東海王元曾が劉瓛の父の劉惠に書を送って言うには「近年賢子が秀才に充てられ、州閭は人を得たと言えよう」と。

奉朝請に任ぜられたが就かず、兄弟三人で蓬室一間を共にしていたが、風に倒され、これを葺くことができなかった。怡然として自ら楽しみ、学業を習うことを廃さなかった。徒を聚めて教授し、常に数十人がいた。丹陽尹の 袁粲 えんさん 堂で夜集を開き、これを聞いて請い、聴事の前の古柳樹を指して劉瓛に言うには「人はこれを劉尹(劉惔)の時の樹だと言い、常に高風を想う。今また卿の清徳を見る、衰えずと言えよう」と。秘書郎に推薦したが、用いられなかった。

後に安成王撫軍行参軍に拝されたが、公事により免ぜられた。劉瓛は元来、宦情がなく、これ以後、再び仕えなかった。 袁粲 えんさん が誅されると、劉瓛は微服で往きて哭し、併せて賻助を致した。

齊の高帝が践祚すると、劉瓛を召して華林園に入れ談語し、 まさ 道を問うた。答えて言うには「政は孝経に在り。宋氏が亡びた所以、陛下がこれを得た所以はこれである」と。帝は咨嗟して言うには「儒者の言、万世に宝とすべきなり」と。また劉瓛に言うには「吾は天に応じて革命を為す、物議はこれを如何と為すか」と。劉瓛は言うには「陛下は前軌の失を戒め、これに寛厚を加えられれば、危うくとも安んずるを得る。若しその覆轍を循るならば、安んずるといえども必ず危うし」と。出でた後、帝は 司徒 しと の褚彥回に言うには「方 ただ なること乃ち爾り。学士は故に自ら人に過ぐ」と。劉瓛に命じて数え入らしめたが、劉瓛は詔による見召しでなければ、未だ嘗て宮門に到らなかった。

上は劉瓛を用いて中書郎と為さんと欲し、吏部尚書の何戢に旨を諭させた。何戢は劉瓛に言うには「上意は鳳池(中書省)を以て君を処せんと欲す、恨むらくは君の資が軽きを。且く前除(以前の官職)に就くべし。少日にして当に国子博士に転じ、便ち即ち所授と為すべし」と。劉瓛は笑って言うには「平生栄進の意無し、今中書郎を得て記室に拝せらると聞く、豈に本心ならんや」と。

後に母老いて養いを欠くを以て、彭城郡丞に拝されたが、 司徒 しと の褚彥回が旨を宣してこれを諭すと、答えて言うには「自ら省みるに廊廟の才無く、願う所は唯だ彭城丞を保つのみなり」と。上はまた劉瓛に総明観祭酒を兼ねさせ、 章王驃騎記室参軍を除し、丞は元の如しとしたが、劉瓛は終に就かなかった。武陵王蕭曄が会稽太守となると、上は劉瓛に蕭曄の為に講ぜしめんと欲し、会稽郡丞を除した。学徒でこれに従う者が転じて多くなった。

永明の初め、竟陵王蕭子良が征北 司徒 しと 記室に請うた。劉瓛は張融・王思遠に書を送って言うには、

教えを奉じて恭しく召され、会うに当たり公事を停むべし。但だ念うに生平の素抱、恩顧に乖く有り。吾が性は人間に拙く、仕進に習わず、昔嘗て行佐と為りし時、便ち以て公事に及ぶ能わずして免黜せられ、此れ眷者(知人)の共に知る所なり。己を量り分を審らかにし、栄を期するを敢えず、夙に貧困に嬰り、之に疏懶を加う、衣裳容髪、足るに駭くべき者有り。中に親老の供養を以て、裳を褰ぎて徒步し、脱爾として今に逮る、二代一紀(十二年)。先朝は其れ更に自ら修正せしめ、階級の次に於いて勉励せしめ、其の襤縷を見て、或いは復た衣裳を以て賜う。袁(粲)・褚(彥回)諸公、咸く勧励を加うれども、終に自ら反る能わざるなり。一たび復た為さず、安んぞ重ねて為さんや。昔人に冠を一たび免ずれば、重ねて首に加えざる者有り、毎に此れ進止の儀を得たりと謂う。又た上下年尊く、益々官次に居りて晨昏を廃すを願わず。先朝は此の為に、曲く従許を申し、故に連年拝せざるを得たり。既に此れに習うこと歳久しく、又た歯長く疾侵す、豈に河間の聴を摂斎し、東平の僚に廁跡すべけんや。本より絶俗の操無く、亦た偃蹇して高しと為す能わず、此れ又た聴覧の当に深く察すべき所なり。近く初めて教えを奉じ、便ち自ら希うに客遊の末に托跡するを得んとし、而して固より栄級を辞す、其の故何ぞや。古の王侯大人、或いは此れを以て四方の士を延く、申公・白生を追いて楚に入り、鄒陽・枚乗を羨んで梁に遊ぶ者有り。吾は敢えて曩賢に叨るに非ず、庶幾くは九九の遺跡に従わんと欲するのみ。既に聞道し泮に集うこと殊ならず、而して幸いに職司の拘礙無く、温凊を奉じ、私計を展ぶるを得ん。志は此れに在り。歩兵 校尉 こうい を除されたが拝さず。

劉瓛は姿状が纖小であったが、儒業は当時に冠たり、都下の士子貴游、席を下して業を受けざる者は無く、当世は其の大儒を推して、古の曹褒・鄭玄に比した。性は謙率で、高名を以て自ら居らず、人を詣でる時は、唯一人の門生が胡床を持って後に従うのみであった。主人が通じずとも、便ち門に坐して答を待った。檀橋に住み、瓦屋数間、上は皆穿漏していたが、学徒は敬慕し、敢えて指斥せず、青溪と呼んだ。竟陵王蕭子良は親しく往きて修謁した。七年、武帝に表して劉瓛の為に館を立てさせ、楊烈橋の故主の第宅を以て之に給し、生徒は皆賀した。劉瓛は言うには「室が美しいのは豈に人の為ならんや、此の華宇は豈に吾が宅ならんや。幸いに詔して講堂と作すべく、猶お害を見んことを恐る」と。未だ徙居せざるに、疾に遇う。蕭子良は劉瓛に学ぶ者である彭城の劉繪・順陽の範縝を遣わし、厨を劉瓛の宅に将いて斎を営ませた。卒するに及んで、門人で学を受けた者は並びに吊服して臨送した。

劉瓛は至性有り、祖母が疽を病み経年、手に膏薬を持ち、指を漬けて爛れた。母の孔氏は甚だ厳明で、親戚に謂うには「阿稱は便ち是れ今世の曾子なり」と。稱は劉瓛の小名である。四十余歳になっても、未だ婚対が無かった。建元中、高帝は 司徒 しと の褚彥回と共に劉瓛の為に王氏の女を娶らせた。王氏が壁を穿って履を掛けると、土が孔氏の床に落ち、孔氏は悦ばなかった。劉瓛は即ち其の妻を出した。母の憂いに居る時、墓下に住みて廬を出ず、足之が為に屈し、 するも起つ能わなかった。此の山には常に鴝鵒鳥がいたが、劉瓛が山にいる三年間は敢えて来ず、服が釋けて家に還ると、此の鳥は乃至った。

梁の武帝は少時に嘗て伏膺し、天監元年に詔を下して劉瓛の為に碑を立て、諡して貞簡先生と曰う。 いちじる する所の文集は世に行わる。

初め、劉瓛が月令を講じ終え、学生の嚴植之に謂うには「江左以来、陰陽律数の学は廃れた。吾が今此れを講ずるも、曾て其の彷彿を得ず」と。学者は其の退譲を美とした。時に濟陽の蔡仲熊は礼学に博聞で、人に謂うには「五音は本より中土に在り、故に気韻調平なり。今既に東南の土気偏詖なり、故に木石を感動する能わず」と。劉瓛も亦た然りと為した。蔡仲熊は経を執りて議論するに、往々にして時宰と合わず、亦た終に操を改めて同を求めず、故に坎稟して進まず、歴年を経て方に尚書左丞に至り、当時は其の遇わざるを恨んだ。

また東陽の婁幼瑜、字は季玉、『礼捃拾』三十巻を著す。

瓛の弟、璡。

瓛の弟の璡、字は子璥、行い正しく直く、儒雅の点では瓛に及ばないが文采はこれを超えていた。宋の泰 年間、明帝の挽郎となった。斉の建元初年、武陵王蕭曄の冠軍征虜参軍となった。曄が僚佐と飲み、自ら鵝の炙り肉を切り分けた。璡は言った、「刃を俎に応じて落とすのは、膳夫の仕事である。殿下がみずから鸞刀を執られること、下官は安座していられない」。そこで立ち上がって退出を請うた。友人会稽の孔逖と同舟して東に入り、塘の上で一人の女子に出会った。逖が目で送って言った、「美しくて艶やかだ」。璡は言った、「これは君子の言うべきことだろうか、もはやわが友ではない」。そこで裳を解いて自ら隔てた。ある説によれば、友人孔徹と同舟して東に入り、徹が岸上の女子を眺め留まった。璡は座席を挙げて自ら隔て、再び同座しなかった。兄の瓛が夜、壁を隔てて璡を呼んだが、璡は答えず、ようやく床から下りて衣を着け立ち、それから応じた。瓛がその遅さを怪しむと、璡は言った、「さきほど帯を締め終わっていなかったので」。その操行の厳正さはこのようであった。

文恵太子が璡を召して東宮に侍らせると、上事するごとに草稿を削った。まもなく射声 校尉 こうい を署せられ、官において卒した。

時に済陽の江重欣もまた清介であり、暗室にいるときも、厳かな賓客に対するようであったが、璡には及ばなかった。重欣は位は射声 校尉 こうい に至った。

瓛の族子、顕。

顕、字は嗣芳、瓛の族子である。父の琉、字は仲翔、博識で強く正しく、名行を自ら守った。幼くして外祖父の臧質に養育された。質は富盛であったので、常に音楽があった。質が亡くなった後、母が没して十余年たっても、琉は絲竹の音を聞くごとに、いつも歔欷して涙を流した。梁の天監初年、ついに晋安内史で終わった。

顕は幼くして聡敏であり、六歳で呂相の絶秦、賈誼の過秦を誦することができた。琅邪の王思遠、呉国の張融が見て称賞し、神童と号した。族伯の瓛は儒学で重名があったが、ついに嗣子がなく、斉の武帝は詔して顕を後継ぎとした。時に八歳であった。本名は頲であったが、斉の武帝はその字が識別しにくいとして、名を顕と改めさせた。天監初年、秀才に挙げられ、中軍臨川王行参軍に初任し、まもなく法曹を署せられた。

顕は広く渉猟し多く通じていた。任昉がある時一篇の欠簡を得たが、文字が零落しており、諸人に見せても識る者はいなかった。顕が見て言うには、これは古文尚書の削除された逸篇であるという。昉が周書を検べると、果たしてその言う通りであった。昉はそこで大いに賞異した。母の喪に服し、服喪が終わると、 尚書令 しょうしょれい の沈約が時に太子少傅を兼ねており、顕を引いて少傅五官とした。約が丹陽尹となった時、車駕を命じて彼を訪ねた。座において顕に経史十事を策問したが、顕はその九つに対答した。約は言った、「老夫は昏忘しているので、策問を受けることはできない。とはいえ、試みに数事を問うたが、十には至らなかった」。顕が五つを問うと、約はその二つに対答した。陸倕がこれを聞き、席を打って喜んで言った、「劉郎子はまさに人に優ると言えよう。わが家の平原(陸機)が張壮武(張華)を詣で、王粲が伯喈(蔡邕)を謁したとしても、必ずやこのような対答はなかったであろう」。その名流に推賞される様はこのようであった。

五兵尚書の傅昭が著作を掌り、国史を撰した時、顕は自ら廷尉正を兼ねていたが、引かれて佐となった。尚書五都の選任が改められると、顕は法曹を以て吏部郎を兼ねた。後に尚書儀曹郎となった。かつて上朝詩を作ったが、沈約が見てこれを賞美し、書の巧みな者に命じてその郊居の宅の壁に題させた。後に中書通事舎人を兼ね、再び驃騎鄱陽王記室に遷り、中書舎人を兼ねた。後に中書郎となり、舎人はもとのままであった。

顕は河東の裴子野、南陽の劉之遴、呉郡の顧協と禁中で連職し、互いに師友として、人々は慕わない者はなかった。顕は博聞強記で、裴、顧を超えていた。時に波斯が生きた獅子を献上した。帝が問うた、「獅子には何色があるか」。顕は答えた、「黄獅子の超は白獅子の超に及ばない」。魏人が古器を送ってきたが、浮き彫りの文字があり識る者がいなかった。顕はその文を調べて滞りなく読み、年月を考校すると一字も違わなかった。武帝は大いにこれを嘉した。

尚書左丞に遷り、国子博士を除かれた。時に沙門が田を争訟した。帝が大きく「貞」と署した。有司はその意味を弁えず、遍く問うても知る者がいなかった。顕は言った、「貞の字は文が『与上人』となっています」。帝はその才能を忌み、外任に出した。後に雲麾邵陵王長史、 まも 陽太守となった。魏の使者李諧が至ってこれを聞き、面識がないことを恨み、嘆いて言った、「梁の徳は衰えた。善人は国の紀であるのに、これを出したのは、よろしくなかろう」。王が鎮を 郢州 えいしゅう に遷すと、平西府諮議参軍を除かれ、長く府にあって志を得なかった。大同九年、夏口において終わり、時に六十三歳であった。

凡そ両府に佐け、ともに驕王に事えたが、人はこれを憂えたが、かえって礼遇され重んじられた。友人劉之遴が皇太子に啓して彼の銘志を作らせ、秣陵県の劉真長の旧塋に葬った。

子に莠、恁、臻がいた。臻は早くから有名で、『北史』に載せられている。

顕の従弟、㲄。

顕の従弟の㲄は字を仲寶といい、体つきは小さかったが、儒雅で学識が広く、文辞に優れ、湘東王に従って藩国に十数年間仕え、寵愛と信頼は非常に深かった。当時の文書や檄文はすべて彼が作成した。吏部尚書・国子祭酒の位に至った。魏が江陵を おとしい 落させると、長安に入った。

明僧紹

明僧紹は字を休烈といい、平原郡鬲県の人で、一字は承烈といった。その先祖は呉の太伯の末裔であり、百里奚の子の孟明が名を姓としたのがその後である。祖父の玩は州中従事、父の略は給事中であった。僧紹は経書に明るく儒術を修め、宋の元嘉年間に二度秀才に挙げられ、永光年間には鎮北府が功曹に辟召したが、いずれも就任しなかった。長広郡の嶗山に隠棲し、門徒を集めて学問を立てた。魏が淮北を占領すると、ついに長江を渡った。

升明年間、斉の高帝が太傅となったとき、教令を発して僧紹と顧歓・臧栄緒を辟召し、 あらわ 幣の礼をもって記室参軍に徴したが、赴任しなかった。僧紹の弟の慶符が青州刺史となると、僧紹は食糧に乏しく、慶符に従って鬱洲に赴き、弇榆山に住み、棲雲精舎に滞在して山水を楽しみ、ついに一度も州城に入らなかった。

泰始の末年、岷・益に山崩れがあり、淮水が斉郡で枯渇した。僧紹はひそかに弟に言った。「天地の気はその秩序を失わないが、もし陽が伏して泄れず、陰が迫って蒸さなければ、かくのごとく山崩れ川枯れる変事がある。昔、伊・洛が枯れて夏が滅び、黄河が枯れて殷が滅び、三川が枯れ岐山が崩れて周が滅び、五山が崩れて漢が滅びた。国は必ず山川に依って固めをなすもので、山川に異変が起これば、滅びないでどうしようか。今、宋の徳は四代の末世のようである。お前は私の言葉を心に留めて漏らすな。」果たしてその言う通りとなった。

斉の建元元年の冬、正員郎に徴されたが、病気と称して就任しなかった。その後、帝が崔祖思に書を送り、僧紹と慶符をともに帰還させるよう命じた。帝はまた言った。「周の粟を食わずに周の薇を食うなど、古えですら議論が起こった。今となってはどうして議論を止められようか。ただ笑い話としておくだけだ。」

慶符が任を解かれると、僧紹は従って帰り、江乗県の摂山に住んだ。僧紹は沙門の釈僧遠が古くから徳があると聞き、定林寺を訪ねて面会した。高帝が寺に出向いて会おうとしたとき、僧遠が僧紹に問うた。「天子が来られたなら、居士はどう対応なさいますか。」僧紹は言った。「山藪の人間は、まさに壁を穿って遁れるべきである。もし辞退が許されなければ、戴公の故事に従うまでだ。」やがて遁れて摂山に戻り、棲霞寺を建ててそこに住んだ。高帝はこれを非常に残念がった。昔、戴顒が窓の下で高臥し、山人の服を身に着けた故事があり、僧紹はそれになぞらえて言ったのである。

高帝は後に慶符に言った。「卿の兄はその事を高尚とし、堯の外臣のようなものである。朕は幽人を夢想し、すでに久しく心を寄せている。いわゆる『径路絶え、風雲通ず』というものだ。」そこで竹根の如意と筍の籜の冠を賜った。隠者たちはこれを栄誉とした。勃海の封延伯という高行の士がこれを聞き、嘆じて言った。「明居士は身は後ろにあって名は先に立つ。これも宋・斉の儒仲である。」永明年間、国子博士に徴されたが就任せず、死去した。

僧紹の長兄の僧胤は玄 ことわり を語ることができ、宋に仕えて江夏王義恭の参軍となった。王は別に榻を設け、徐孺子に比した。冀州刺史の位に至った。子の慧照は、元徽年間に斉の高帝の平南主簿となり、桂陽王の拒戦に従い、累進して驃騎中兵参軍となり、荀伯玉と対になって直を領した。建元元年、巴州刺史となり、蛮蜒を綏 おも した。上は益州刺史とすることを許したが、遷任せずに死去した。僧胤の次弟の僧暠も好学で、宋の大明年間に二度魏に使いした。当時はちょうど 司空 しくう 劉誕を誅殺したばかりであった。孝武帝が言った。「もし広陵のことを問われたら、どう答えるか。」答えて言った。「周の管・蔡、漢の淮南です。」帝は大いに喜んだ。魏に至ると、魏が問うた。「卿がこの使命を帯びるのは、上国に並ぶ者がいないからか。」答えて言った。「聡明特達の士は袖を挙げれば帷となり、家ごとの民も下僕はおりません。晏子のいわゆる『国を見て善悪を知る』です。故に再びこの庭を辱しめるのです。」位は青州刺史に至った。

僧紹の子の元琳・仲璋・山賓はいずれも家業を伝え、山賓が最も有名であった。

僧紹の子 山賓

山賓は字を孝若といい、七歳で名理を語ることができた。十三歳で経伝に広く通じ、喪に服して礼を尽くし、奉朝請として出仕した。兄の仲璋が難病を患い、家計がしばしば困窮したので、山賓は禄を求めて出仕し、後に広陽県令となったが、まもなく官を去った。詔によって公卿に士を挙げさせたとき、左衛将軍の江祏が上書して山賓の才は煩劇を処理するに堪えると推薦した。斉の明帝は学問を重んじず、祏に言った。「山賓が書を談じてやまないと聞くが、どうして官に堪えられようか。」ついに用いられなかった。

梁の朝廷が建てられると、累進して じょう 軍記室参軍となり、吉礼を掌った。当時、初めて五経博士が置かれると、山賓がまずその選に応じた。中書侍郎、国子博士、太子率更令、中庶子を歴任した。天監十五年、持節・ 都督 ととく 淮諸軍事・北兗州刺史として出向した。普通二年、太子右衛率に徴され、給事中を加えられた。御史中丞に遷ったが、公事により左遷されて黄門侍郎となった。四年、 散騎常侍 さんきじょうじ となった。東宮に新たに学士が置かれると、また山賓をこれに任じた。まもなく本官のまま国子祭酒を兼ねた。

初め、山賓が州にいたとき、管轄する平陸県が凶作となり、倉の米を出して百姓を救済するよう上奏した。後任の刺史が州の曹を検査したとき、帳簿がなくなり、山賓が米を消耗損耗させたとされた。有司が責任を追及し、その邸宅を没収して官有とした。山賓は自ら弁明せず、さらに土地を買って邸宅を造った。昭明太子が家屋の建築が完成していないと聞き、令を下して言った。「明祭酒は大藩を撫でるために出向し、旌を擁し轂を推し、金を珥し紫を拖しながら、常に家計が困窮している。家屋が未完成と聞くので、今、わずかな援助を送る。」併せて詩を贈って言った。「平仲は古えに奇と称えられ、夷吾は昔に美を擅にす。令は則ち伊賢に挺で、東秦固より多士なり。室を築くは道傍に非ず、宅を置くは仁里に帰す。庚桑方に系有り、原生今擬え易し。必ずや三径の人来たり、将に五経の士を招かん。」

山賓の性質は篤実で、家中がかつて困窮したとき、乗っていた牛を売った。すでに売って金を受け取ったが、買い主に言った。「この牛はかつて漏蹄の病にかかり、治療して治ってから久しいが、後日再発する恐れがあるので、告げずにはいられない。」買い主は急いで金を取り戻した。処士の阮孝緒がこれを聞き、嘆じて言った。「この言葉は十分に淳朴に返り、薄俗を激し止めて澆季を停めるものである。」

五年、また仮節を授かり北兗州の事を摂行し、後に官において卒し、侍中を追贈され、諡して質子といった。山賓は累ねて学官に居り、訓導の益甚だ有りしが、然し性頗る疏通にして、諸生に接するに多く狎比し、人皆之を愛した。著する所に吉禮儀注二百二十四巻、禮儀二十巻、孝経喪服義十五巻有り。

子の震は字を興道と云い、亦た父の業を伝え、位は太子舎人、尚書祠部郎、余姚令に至った。

山賓の弟少遐は字を処默と云い、亦た知名で、位は都官尚書に至った。簡文帝は人に謂って曰く、「我は明(少遐)が尚書を得るを喜ばず、更に朝廷が人を得るを喜ぶ」と。後に青州刺史を拝した。太清の乱に魏に奔り、北斉に仕え、太子中庶子の時に卒した。子の罕は 司空 しくう 記室に至った。

明氏は南渡は晩かったが、並びに名位有り、宋より梁に至るまで刺史となった者は六人である。

庾易

庾易は字を幼簡と云い、新野の人である。江陵に徙居した。祖父の玫は巴郡太守。父の道驥は安西参軍。

易は志性恬静にして、外物と交わらず、斉の臨川王蕭映が州に臨むに当たり、表して之を薦め、麦百斛を餉った。易は使人に謂って曰く、「走りて樵採麋鹿の伍に終わり、解毛の衣を保ち、馳騁する日月の車に乗り、自耕の禄を得て保つは、大王の恩に於いて亦た已に深し」と。辞して受けず、文義を以て自ら楽しんだ。安西長史袁彖は其の風を欽み、鹿角の書格、蚌盤、蚌研、白象牙の筆を贈った。併せて詩を贈って曰く、「白日清明、青雲遼亮、昔は巢・許を聞き、今は台・尚を睹る」と。易は連理の机、竹翹の書格を以て之に報いた。

建武三年、詔して 司空 しくう 主簿に徴すと為すも、就かず、卒した。子に黔婁有り。

易の子 黔婁

黔婁は字を子貞と云い、一字を貞正と云う。少より好学し、多くを講誦す。性至孝にして、曾て人に失色せず。南陽の高士劉虯・宗測並びに之を歎異した。斉に仕えて編令と為り、政に異績有り。先ず是れ県境に猛獣多く暴れ、黔婁の至るに及び、猛獣皆度りて臨沮の界に往き、時に仁化の感ずる所と為す。

孱陵令に徙る。県に到る未だ旬ならず、易が家に在りて疾に遘う。黔婁忽ち心惊き、身を挙げて流汗す。即日に官を棄て家に帰る。家人悉く其の忽ち至るを驚く。時に易の疾始めて二日、医云く、差劇を知らんと欲すれば、但だ糞を嘗めて甜苦を看よと。易泄利す、黔婁輒ち取りて之を嘗む。味転じて甜滑、心愈々憂苦す。夕に至る毎に、北辰に稽顙し、身を以て代わるを求む。俄かに空中に声有りて曰く、「征君の寿命尽き、復た延ぶ可からず。汝の誠祷既に至る、政に月末に至るを得ん」と。晦に及びて易亡す。黔婁喪に居するに礼を過ぎ、塚の側に廬す。

梁の台(朝廷)建つ。黔婁は西台尚書儀曹郎より、益州刺史鄧元起の表する所と為り、府長史・巴西梓潼二郡太守と為る。成都平らぐに及び、城中珍宝山積す。元起悉く之を僚佐に分ち与うるも、唯だ黔婁は一も取る所無し。元起其の衆に異なるを悪み、厲声して曰く、「長史何ぞ独り高きを為すや」と。黔婁違わざるを示し、数篋の書を請う。尋いで蜀郡太守を除かれ、職に在りて清素、百姓之に便す。元起蜀郡に死す。部曲皆散ず。黔婁身を以て殯斂を営み、喪柩を携持して郷里に帰る。

東宮建つ。中軍記室参軍を以て皇太子の読に侍し、甚だ知重せらる。詔して太子中庶子殷鈞・中舎人到洽・国子博士明山賓と遞日に太子に五経義を講ぜしむ。散騎侍郎に遷り、卒す。弟に於陵有り。

黔婁の弟 於陵

於陵は字を子介と云う。七歳にして玄理を言う能う。長ずるに及び、清警博学、才思有り。斉の随王蕭子隆荊州に在り、召して主簿と為し、謝朓・宗夬と群書を抄撰せしむ。子隆代わりて還るに、又以って送故主簿と為す。子隆明帝に害せらる。僚吏畏避して至る者莫し。唯だ於陵と夬独り留まりて喪事を經理す。永元末、東陽遂安令を除かれ、人吏の称する所と為る。

梁の天監初年、建康の獄平となり、尚書功論郎に遷り、文徳殿にて詔を待つ。後に中書通事舎人を兼ね、太子洗馬に拝された。旧来、東宮の官属は皆清選とされ、洗馬は文翰を掌り、特に清い者である。近代の用人は、皆甲族で才望ある者を取るが、時に於陵と周舍とが並んでこの職に抜擢された。武帝は言われた、「官は人によって清いのであり、どうして甲族に限られようか」。時の論はこれを美とした。累遷して中書黄門侍郎となり、舎人はもとのまま。後に鴻臚卿で終わった。弟は肩吾。

於陵の弟、肩吾。

肩吾、字は慎之、八歳にして詩を賦することができ、兄の於陵に友愛された。初め晋安王国常侍となり、王が鎮を移すごとに、肩吾は常に府に従った。雍州において命を受け、劉孝威・江伯搖・孔敬通・申子悦・徐防・徐摛・王囿・孔鑠・鮑至ら十人と共に諸々の典籍を抄撰し、果物や饌を豊かに与えられ、高齋学士と号した。王が皇太子となると、東宮通事舎人を兼ねた。後に安西湘東王の録事・諮議参軍、太子率更令、中庶子となった。簡文帝が文徳省を開いて学士を置くと、肩吾の子の信、徐摛の子の陵、呉郡の張長公、北地の傅弘、東海の鮑至らがその選に充てられた。斉の永明年中、王融・謝朓・沈約の文章が初めて四声を用い、新変と為したが、この頃に至って声韻に拘束されるようになり、ますます麗靡となり、往時をさらに超えた。簡文帝が湘東王に与えた書簡でこれを論じて言うには、

近頃、京師の文体を見るに、懦鈍でことのほか常ならず、競って浮疏を学び、争って闡緩を事とし、既に比興とは異なり、正に風騷に背いている。そもそも六典三礼は、施すところに地があり、吉凶嘉賓は、用いるに所がある。未だ吟詠情性して、かえって内則の篇を擬し、筆を操って志を書き、さらに酒誥の作を模すことなど聞いたことがない。遅遅たる春日を、翻って帰蔵に学び、湛湛たる江水を、遂に大伝と同じくする。

私は既に文を作るのに拙く、軽々しく指摘することはできないが、ただ当世の作品を、歴代の才人、遠くは楊雄・司馬相如・曹植・王粲、近くは潘岳・陸機・顔延之・謝霊運と比べてみると、その遣辞と用心を見て、全く似ていない。もし今の文を正しいとすれば、昔の賢者は誤りであり、もし昔の賢者を称えるべきとすれば、今の文体は棄てるべきである。ともに「盍各」であるならば、それは認められない。また時に謝康楽(謝霊運)や裴鴻臚(裴子野)の文を模倣する者があるが、これにも大いに惑う。なぜか。謝客(謝霊運)は言葉が天抜で、自然に出るものであり、時に拘束されないところがあるが、それは糟粕である。裴氏は良史の才であって、まったく詩文の美はない。つまり謝を学べばその精華には届かず、ただその冗長を得るだけであり、裴に師事すればその長所を蔑ろにし、ただその短所を得るだけである。謝は故に巧みで及ぶべからず、裴もまた質朴で慕うに足りない。故に胸を馳せ臆断する輩、名を好んで実を忘れる類は、謝生に決羽すれば、どうして三千の及ぶところか、裴氏に伏膺すれば、両唐(堯・舜)の伝わらぬことを恐れる。故に玉徽金銑は、かえって拙い目に嗤われ、巴人下俚は、さらに郢中の聴きに合う。陽春は高くして和せず、妙声は絶えて尋ねられない。ついに錙銢を精討せず、文質を覆量せず、巧心に異なり、終に妍手を愧じる。これにより、瑜を握り玉を懐く士は、鄭邦を瞻みて退くことを知り、章甫翠履の人(礼を重んじる者)は、閩郷を望んで歎息する。詩が既にこのようであるなら、筆(散文)もまた同様である。ただ煙墨はものを言わず、その駆染を受けるのみで、紙劄は無情で、その揺襞に任せるのみである。甚だしいかな、文章の横流、ここに至るまでに。

近世の謝朓・沈約の詩、任昉・陸倕の筆(散文)に至っては、これらは文章の冠冕、述作の楷模である。張士簡(張率)の賦、周升逸(周捨)の弁も、また佳手を成し、再び遇い難い。文章は未だ墜ちず、必ず英絶があり、これを領袖する者は、弟(湘東王)でなくて誰か。毎にこれを論じたいと思うが、語るべき相手がおらず、我が子建(曹植)を思うがごとく、共に商榷したい。この清濁を弁じて、涇・渭の如くならしめ、この月旦(人物評)を論じて、かの汝南(許劭)の類とせよ。朱白既に定まり、雌黄別あれば、鼠を懐く者(『戦国策』の故事)慚じるを知り、竽を濫る者(『韓非子』の故事)自ら恥じるであろう。相い思うも見えず、我が労い如何。

簡文帝が即位すると、肩吾を度支尚書とした。時に上流の蕃鎮は、皆州を拠りて侯景に拒んだが、景は詔を矯って肩吾を江州に遣わし、当陽公大心を諭させた。大心は賊に降り、肩吾は逃れて東に入った。後に賊の宋子仙が会稽を破り、肩吾を購い求めて殺そうとしたが、先に言った、「お前が詩を作れると聞く。今すぐ作れ。もしできれば、命を貸してやろう」。肩吾は筆を執ってすぐに成し、辞采甚だ美しかったので、子仙は釈放して建昌令とした。なお間道を経て江陵に奔り、江州刺史を歴任し、義陽太守を領し、武康県侯に封ぜられた。卒し、 散騎常侍 さんきじょうじ ・中書令を贈られた。子は信。

劉虬。

劉虬、字は霊預、一字は徳明、南陽涅陽の人、晋の 州刺史劉喬の七世孫である。江陵に徙居した。

虬は若くして節操を高くし学を好み、禄を得次第隠棲しようとした。宋の泰始年中、仕えて晋平王驃騎記室・当陽令に至った。官を罷めて家に帰り静かに処し、常に鹿皮の袷を服し、穀物を断ち、朮及び胡麻を餌とした。斉の建元初年、 章王蕭嶷が荊州となると、教えを下して虬を別駕に辟し、同郡の宗測・新野の庾易と共に書と礼を遺してこれを請うた。虬らは各々箋を修めて答えたが、命に応じなかった。

永明三年、刺史廬陵王蕭子卿が表を上し、虬及び同郡の宗測・宗尚之・庾易・劉昭の五人に対し、蒲車束帛の命を加えるよう請うた。詔して通直郎に徴したが、就かなかった。竟陵王が書を致して意を通じると、虬は答えて言った、「虬は四節臥病し、三時灌植を営み、山沢に余陰を暢け、魚鳥に暮情を托す。まさに唐・虞の重恩、周・邵の宏施にあらずや」。

虬は仏教を精信し、粗布を衣とし、礼仏長斎し、法華経に注し、自ら仏義を講じた。江陵西の沙洲は人里遠いため、遂にそこに徙居した。建武二年、詔して国子博士に徴したが、就かなかった。その冬、虬は病み、真昼に白雲が簷戸の内に徘徊し、また香気及び磬の声があった。その日に卒し、年五十八。虬の子は之遴。

虬の子、之遴。

之遴、字は思貞、八歳にして文を属することができた。虬は言った、「この児は必ず文をもって我が宗を興すであろう」。常に諸子に謂って言った、「顔氏(顔之推ら)に比べるならば、之遴は我が文を得た」。これにより州裏に称された。時に沙門の僧恵という者に異識があり、虬を訪れるごとに必ず之遴の小字を呼んで「僧伽の福德児」と言い、手を握って進めた。

十五歳の時、茂才に挙げられ、明経に対策し、沈約・任昉が見て異とした。吏部尚書王瞻がかつて任昉を訪ねた時、之遴が座にいるのに遇い、昉は瞻に言った、「これは南陽の劉之遴、学優れて未だ仕えず、水鏡(人物鑑識)の宜く甄擢すべき者である」。即ち太学博士に辟した。昉は言った、「美談とするより、面試に如かず」。時に張稷が新たに尚書僕射に除され、昉に譲表の作成を托したが、昉は之遴に代作させたところ、筆を執って立ちどころに成した。昉は言った、「荊南の秀気、果たして異才あり、後に仕えれば必ずや私を超えるであろう」。御史中丞楽藹は即ち之遴の舅であり、憲台の奏弾は皆之遴に草させた。後に荊州中従事となり、梁の簡文帝が荊州に臨むと、宣恵記室に遷った。之遴は篤学で明審、群籍を博覧し、時に劉顯・韋棱が共に強記と称されたが、之遴が毎に討論しても、皆及ばなかった。

累進して中書侍郎に遷り、後に南郡太守を除された。武帝は言った、「卿の母は年齢も徳も共に高い。故に卿に錦を衣て郷里に還らせ、栄養の理を尽くさせよう」と。西中郎湘東王繹の長史に転じ、太守は元の如し。初め、之遴が荊府に在った時、常に南郡に寄寓していたが、忽ち前の太守袁彖が夢に現れて言った、「卿は後に折臂太守となるであろう、即ち此の中に居する」と。之遴は後に牛が奔って車より墮ち、臂を折り、右手が偏って直し、再び屈伸を得ず、書くには手を以て筆に就け、歎いて言った、「豈に黥して王となるであろうか」。周舍は嘗て戯れて言った、「復た並坐して横たわる可しと雖も、政に陋巷に枕無きを恐る」と。後に連続して二王に相し、再び此の郡を為し、秘書監を歴任した。

出でて郢州行事となったが、之遴は出ることを願わず、固く辞して言った、「去年は命が巽を離れて絶え、敢えて東下せず、今年の忌む所は又西方に在り」と。武帝は手勅して言った、「朕聞く、妻子備われば孝は親に衰え、爵禄備われば忠は君に衰ゆと。卿は既に内足す、理として奉公の節を忘るべし」と。遂に有司に奏せられて免ぜられた。後に都官尚書、太常卿となった。

之遴は古を好み奇を愛し、荊州に在って古器数十百種を聚め、一つの器は甌の如くして一斛を容れ得、上に金錯の字有り、時に人として能く知る者無し。又た古器四種を東宮に献じた。其の第一種は、銅を鏤める鴟夷榼二枚、両耳に銀鏤有り、銘に云う、「建平二年造」。其の第二種は、金銀錯鏤の古鐏二枚、篆銘有りて云う、「秦容成侯楚に適するの歳造」。其の第三種は、外国の澡灌一口、銘に云う、「元封二年、龜茲国献ず」。其の第四種は、古制の澡盤一枚、銘に云う、「初平二年造」。

時に鄱陽嗣王范が班固の撰する所の漢書の真本を得て東宮に献じ、皇太子は之遴に張纘、到溉、陸襄等と参校して異同をさせ、之遴は其の異状数十事を録し、其の大略に云う、「古本漢書を案ずるに永平十六年五月二十一日己酉、郎班固上ると称し、而るに今本には上書の年月日子無し。又た古本を案ずるに叙伝は中篇と号し、今本は叙伝と称す。又た今本の叙伝は班彪の事行を載せるが、古本は云う、『彪自ら伝有り』。又た今本は紀及び表志列伝相合わざるを以て次と為し、而るに古本は相合うるを以て次と為し、総じて三十八巻を成す。又た今本は外戚を西域の後にし、古本は外戚を帝紀の下に次ぐ。又た今本は高五子、文三王、景十三王、孝武六子、 宣元六王雑 まじ って諸伝帙の中に在り、古本は諸王悉く外戚の下に次ぎ、陳項伝の上に在り。又た今本の韓彭英盧呉の述に云う、『信は れ餓隸、布は実に黥徒、越も亦た狗盗、芮は江湖を尹ぬ。雲起こり 龍驤 りょうじょう し、化して侯王と為る』。古本の述に云う、『 淮陰毅毅 ぎき 、剣を りて周章す、邦の傑子、実に彭、英を惟れ。化して侯王と為り、雲起こり龍驤す』。又た古本の第三十七巻は音を解し義を釈し、以て雅詁を助く。而るに今本には此の巻無し」。

之遴は属文を好み、多く古体を学び、河東の裴子野、沛国の劉顯と恒に古籍を討論し、因って交好した。時に周易、尚書、礼記、毛詩並びに武帝の義疏有り、唯だ左氏伝尚だ闕けたり。之遴乃ち春秋大意十科、左氏十科、三伝同異十科を著す。合せて三十事を上る。帝大いに悦び、詔を以て答えて曰く、「省みる所撰の春秋義、事を比し書を論じ、辞微にして旨遠し、編年の教、 言闡 ひら けて義繁し。丘明は洙泗の風を伝え、公羊は西河の学を宗とし、鐸椒の解は追わず、瑕丘の説は取る無し。胡母に踵を継ぎ、仲舒雲の盛え、谷梁に因循し、千秋最も篤し。張蒼の左氏を伝え、賈誼の荀卿を襲う、 源本分鑣 ぶんびょう し、指帰殊致す。詳略紛然たり、其の来り旧し。昔弱年に在り、久しく研味を経たり。一たび遺置してより、将に五紀に迄らんとす。兼ねて晩秋の 晷促 きそく く、 機事暇罕 まれ にし、夜分に衣を求めて、未だ いとま あらずして おお 括す。 つ夏景を待ち、試みに推尋せんと欲す。若し温故して求む可くば、別に問う所に酬いん」。

初め武帝は斉代に荊府諮議としており、時に之遴の父虬は百里洲に隠れ、早くより相知聞していた。 帝偶 たま たま匱乏し、虬の許に遣わして穀百斛を換えさせた。之遴時に父の側に在りて曰く、「蕭諮議は つまず く士、何ぞ能く うすひ くを得ん、願わくは其の米を与えよ」と。虬之に従う。及って帝即位し、常に之を懐いし。侯景初め蕭正徳を以て帝と為し、之遴時に景の所に落ち、将に璽紱を授けさせんとす。之遴予め知り、 って髪を剃り法服を披いて乃ち免る。是に先立ち、平昌の伏挺出家す。之遴詩を為りて之を嘲りて曰く、「伏不斗と伝え聞く、化して支道林と為る」と。之遴乱に遇うに及び、遂に染服を披く、時に人之を笑う。

尋なく難を避けて郷里に還る。湘東王繹嘗て其の才学を嫉み、其の西上して夏口に至るを聞き、乃ち密かに薬を送りて之を殺す。人に知らしめんと欲せず、乃ち自ら志銘を製し、其の賻贈を厚くす。前後文集五十巻。

之遴の子、三達。

子三達は字を三善とす。数歳にして清言及び属文能し。州将湘東王繹之を聞き、盛んに賓客を集め、召して之を試みる。義を説き詩を属するに、皆理致有り。年十二、江陵令賀革の礼を講ずるを聴きて還り、仍って覆述し、一句も遺さず。年十八にして卒す。之遴深く悼恨を懐き、乃ち墓に題して曰く、「梁の妙士」と。以て之を旌す。之遴の弟之亨。

之遴の弟、之亨。

之亨は字を嘉会とす。年四歳、出でて叔父嵩に後ぐ。長じて好学し、風姿美くしく、占対を善くす。武帝の荊州に臨むや、唯だ虬と談ず。虬之遴之亨を見す。帝曰く、「之遴は必ず文章を以て顕れ、之亨は当に功名を以て著しからん」と。後に州秀才を挙げ、大学博士を除かれ、仍って兄之遴に代わりて中書通事舍人と為る。累進して歩兵 校尉 こうい 、湘東王繹諮議参軍に遷り、勅して金策を賜い並びに詩を賜う。

大通六年、師を出して南鄭に至り、詔して湘東王に諸軍を節度せしむ。之亨は司農卿を以て行台承制と為り、途に本州北界を出で、総督眾軍し、節を杖きて西し、楼船戈甲甚だ盛んなり。老小岸に縁いて観て曰く、「是れ前に秀才を挙げし者なり」と。郷部之を だる。是の行、大いに克復に致し、軍士功有る者は皆録せらる。唯だ之亨は蘭欽に訟えられ、執政因りて之を陥る。故に封賞行わず、但だ本位を復するのみ。久しくして、帝陳湯伝を読み、其の功を絶域に立てて文吏に せらるるを恨む。宦者張僧胤曰く、「外聞の論者、 ひそか に劉之亨之に似たりと謂う」と。帝感悟し、乃ち臨江子に封ず。固く辞して拝せず。

之亨の美績嘉声は、朱異の右に在り。既に協わず、害せらるるを懼れ、故に美を出だし、以て之遴に代わりて安西東湘王繹長史、南郡太守と為す。上朱異に問うて曰く、「之亨兄に代わることを喜ばざるか。兄弟因循す、豈に直に大馮、小馮のみならんや」と。又た 尚書令 しょうしょれい 何敬容に謂いて曰く、「荊州長史、南郡太守は、皆僕射の出入りする所なり。今者の之亨は便ち九転なり」と。郡に在りて異績有り、吏人之を称す。卒す。荊土之を懐い、復た名を称せず、号して大南郡小南郡と為す。

之亨の子、広徳。

子の広徳もまた学問を好み、才気に任せて気概を持っていた。承聖年間(梁)、湘東太守の位にあった。魏が荊州を平定すると、王琳に依った。琳が平定されると、陳の太建年間、河東太守を歴任し、任地で没した。

之亨の弟に之遅がいる。

之亨の弟の之遅は、荊州中従事史の位にあった。子の仲威は、若くして志と気概があり、広く文史に通じた。梁の承聖年間、中書侍郎となった。蕭莊が尊号を称すると、彼を御史中丞とし、蕭莊に従って鄴中で終わった。

虬の従弟に坦がいる。

坦は字を徳度といい、虬の従弟である。斉に仕えて孱陵令、南中郎録事参軍を歴任し、在任地では事務処理の才に優れたと称された。

梁の武帝が兵を起こすと、当時輔国将軍楊公則が湘州刺史として、軍を率いて夏口に向かった。西朝(江陵の朝廷)で州の事務を代行する者を議論した際、坦が行くことを求め、輔国長史・長沙太守に任じられ、湘州刺史の事務を代行した。坦はかつて湘州に在任したことがあり、多くの旧恩があり、道で迎える者が非常に多かった。斉の東昏侯が安成太守劉希祖を遣わし、平都において西台(江陵朝廷)が選んだ太守范僧簡を破ると、希祖は湘州部内に檄文を移し、これにより始興内史王僧粲がこれに応じ、湘州部内の諸郡は、すべて蜂起した。州人は皆、舟に乗って逃げ去ろうとしたが、坦はすべて船を集めて焼き払った。前湘州鎮軍の鍾玄紹がひそかに僧粲に応じようとしていた。坦はその謀略を聞き、知らないふりをし、訴訟を処理するためと称して夜までかかり、城門を遂に閉めず、彼を疑わせた。玄紹はまだ発動するに至らず、翌朝、坦のもとに来てその理由を尋ねた。坦は長く彼を引き留めて語り、密かに親兵を遣わして彼の家を捜索させた。玄紹が座にいてまだ起たないうちに、捜索の兵が戻り、その文書の詳細をことごとく入手したことを報告した。玄紹はただちに自ら罪を認め、その場で斬られ、その文書は焼かれ、残党はすべて咎められなかった。

梁の天監初年、功績により論じられて 荔浦 れいほ 子に封じられた。三年、西中郎長史・蜀郡太守に遷り、益州の事務を代行した。蜀に至る前に、道中で没した。

論じて言う。劉瓛兄弟と僧紹父子は、ともに専門の学業に優れ、儒者の行いをもって身を飾り、己を保つ節操は、 かりそめ に得て失うことを患う者とは異なっている。庾易と劉虬は一代の高名を博したが、その己を行う所以は、隠者の徳を兼ねた事柄であった。諸子の学業の美は、それぞれ家の名声を顕著にした。顕および之遴は時の主君に嫉まれ、あるいは罪なくして斥けられ、あるいは病なくして亡くなった。これは古来の哲王が己を屈して賢者に下る道とは異なり、武帝(梁の武帝)の度量が広くなく、元后(武帝)の猜疑心が多かったことを知る所以がある。梁の国統が永続しなかったことも、また当然ではないか。

原本を確認する(ウィキソース):南史 巻050