南史

卷五十 列傳第四十

卷五十 列傳第四十

南史

卷五十 列傳第四十

劉瓛

原文劉瓛

劉瓛は字あざなを子珪といい、沛郡相の人である。晉の丹陽尹う劉惔の六世の孫である。祖父の弘之は給事中であった。父の惠は臨賀太守であった。劉瓛は志を篤くして学を好み、訓義に博く通じた。五歳の時、母方の叔父の孔熙先が管寧伝を読むのを聞き、喜んで読みたがり、叔父は改めてこれを説き聞かせると、精意を込めて聴き受け、言うには「これは及いたぶことができる」と。宋の大明四年、秀才に挙げられ、兄の劉璲もまた名があり、先に州挙に応じていたが、この時、別駕の東海王元曾が劉瓛の父の劉惠に書を送って言うには「近年賢子が秀才に充てられ、州閭は人を得たと言えよう」と。

原文劉瓛字子珪,沛郡相人。晉丹陽尹惔六世孫也。祖弘之,給事中。父惠,臨賀太守。瓛篤志好學,博通訓義。年五歲,聞舅孔熙先讀管甯傳,欣然欲讀,舅更爲説之,精意聽受,曰:「此可及也。」宋大明四年,舉秀才,兄璲亦有名,先應州舉,至是別駕東海王元曾與瓛父惠書曰:「比歲賢子充秀,州閭可謂得人。」

奉朝請に任ぜられたが就かず、兄弟三人で蓬室一間を共にしていたが、風に倒され、これを葺くことができなかった。怡然として自ら楽しみ、学業を習うことを廃さなかった。徒を聚めて教授し、常に数十人がいた。丹陽尹の袁粲が後つ堂で夜集を開き、これを聞いて請い、聴事の前の古柳樹を指して劉瓛に言うには「人はこれを劉尹(劉惔)の時の樹だと言い、常に高風を想う。今また卿の清徳を見る、衰えずと言えよう」と。秘書郎に推薦したが、用いられなかった。

原文除奉朝請不就,兄弟三人共處蓬室一間,爲風所倒,無以葺之。怡然自樂,習業不廢。聚徒教授,常有數十。丹陽尹袁粲於後堂夜集,聞而請之,指聽事前古柳樹謂瓛曰:「人謂此是劉尹時樹,每想高風;今復見卿清德,可謂不衰矣。」薦爲秘書郎,不見用。

後に安成王撫軍行参軍に拝されたが、公事により免ぜられた。劉瓛は元来、宦情がなく、これ以後、再び仕えなかった。袁粲が誅されると、劉瓛は微服で往きて哭し、併せて賻助を致した。

原文後拜安成王撫軍行參軍,公事免。瓛素無宦情,自此不復仕。袁粲誅,瓛微服往哭,並致賻助。

齊の高帝が践祚すると、劉瓛を召して華林園に入れ談語し、政まさ道を問うた。答えて言うには「政は孝経に在り。宋氏が亡びた所以、陛下がこれを得た所以はこれである」と。帝は咨嗟して言うには「儒者の言、万世に宝とすべきなり」と。また劉瓛に言うには「吾は天に応じて革命を為す、物議はこれを如何と為すか」と。劉瓛は言うには「陛下は前軌の失を戒め、これに寛厚を加えられれば、危うくとも安んずるを得る。若しその覆轍を循るならば、安んずるといえども必ず危うし」と。出でた後、帝は司徒の褚彥回に言うには「方直ただなること乃ち爾り。学士は故に自ら人に過ぐ」と。劉瓛に命じて数え入らしめたが、劉瓛は詔による見召しでなければ、未だ嘗て宮門に到らなかった。

原文齊高帝踐阼,召瓛入華林園談語,問以政道。答曰:「政在孝經。宋氏所以亡,陛下所以得之是也。」帝咨嗟曰:「儒者之言,可寶萬世。」又謂瓛曰:「吾應天革命,物議以爲何如?」瓛曰:「陛下戒前軌之失,加之以寬厚,雖危可安;若循其覆轍,雖安必危。」及出,帝謂司徒褚彥回曰:「方直乃爾。學士故自過人。」敕瓛使數入,而瓛自非詔見,未嘗到宮門。

上は劉瓛を用いて中書郎と為さんと欲し、吏部尚書の何戢に旨を諭させた。何戢は劉瓛に言うには「上意は鳳池(中書省)を以て君を処せんと欲す、恨むらくは君の資が軽きを。且く前除(以前の官職)に就くべし。少日にして当に国子博士に転じ、便ち即ち所授と為すべし」と。劉瓛は笑って言うには「平生栄進の意無し、今中書郎を得て記室に拝せらると聞く、豈に本心ならんや」と。

原文上欲用瓛爲中書郎,使吏部尚書何戢喻旨。戢謂瓛曰:「上意欲以鳳池相處,恨君資輕,可且就前除。少日當轉國子博士,便即所授。」瓛笑曰:「平生無榮進意,今聞得中書郎而拜記室,豈本心哉。」

後に母老いて養いを欠くを以て、彭城郡丞に拝されたが、司徒の褚彥回が旨を宣してこれを諭すと、答えて言うには「自ら省みるに廊廟の才無く、願う所は唯だ彭城丞を保つのみなり」と。上はまた劉瓛に総明観祭酒を兼ねさせ、豫章王驃騎記室参軍を除し、丞は元の如しとしたが、劉瓛は終に就かなかった。武陵王蕭曄が会稽太守となると、上は劉瓛に蕭曄の為に講ぜしめんと欲し、会稽郡丞を除した。学徒でこれに従う者が転じて多くなった。

原文後以母老闕養,拜彭城郡丞,司徒褚彥回宣旨喻之,答曰:「自省無廊廟才,所願唯保彭城丞耳。」上又以瓛兼總明觀祭酒,除豫章王驃騎記室參軍,丞如故。瓛終不就。武陵王曄爲會稽太守,上欲令瓛爲曄講,除會稽郡丞。學徒從之者轉眾。

永明の初め、竟陵王蕭子良が征北司徒記室に請うた。劉瓛は張融・王思遠に書を送って言うには、

原文永明初,竟陵王子良請爲征北司徒記室,瓛與張融、王思遠書曰:

教えを奉じて恭しく召され、会うに当たり公事を停むべし。但だ念うに生平の素抱、恩顧に乖く有り。吾が性は人間に拙く、仕進に習わず、昔嘗て行佐と為りし時、便ち以て公事に及ぶ能わずして免黜せられ、此れ眷者(知人)の共に知る所なり。己を量り分を審らかにし、栄を期するを敢えず、夙に貧困に嬰り、之に疏懶を加う、衣裳容髪、足るに駭くべき者有り。中に親老の供養を以て、裳を褰ぎて徒步し、脱爾として今に逮る、二代一紀(十二年)。先朝は其れ更に自ら修正せしめ、階級の次に於いて勉励せしめ、其の襤縷を見て、或いは復た衣裳を以て賜う。袁(粲)・褚(彥回)諸公、咸く勧励を加うれども、終に自ら反る能わざるなり。一たび復た為さず、安んぞ重ねて為さんや。昔人に冠を一たび免ずれば、重ねて首に加えざる者有り、毎に此れ進止の儀を得たりと謂う。又た上下年尊く、益々官次に居りて晨昏を廃すを願わず。先朝は此の為に、曲く従許を申し、故に連年拝せざるを得たり。既に此れに習うこと歳久しく、又た歯長く疾侵す、豈に河間の聴を摂斎し、東平の僚に廁跡すべけんや。本より絶俗の操無く、亦た偃蹇して高しと為す能わず、此れ又た聴覧の当に深く察すべき所なり。近く初めて教えを奉じ、便ち自ら希うに客遊の末に托跡するを得んとし、而して固より栄級を辞す、其の故何ぞや。古の王侯大人、或いは此れを以て四方の士を延く、申公・白生を追いて楚に入り、鄒陽・枚乗を羨んで梁に遊ぶ者有り。吾は敢えて曩賢に叨るに非ず、庶幾くは九九の遺跡に従わんと欲するのみ。既に聞道し泮に集うこと殊ならず、而して幸いに職司の拘礙無く、温凊を奉じ、私計を展ぶるを得ん。志は此れに在り。歩兵校尉を除されたが拝さず。

原文奉教使恭召,會當停公事;但念生平素抱,有乖恩顧。吾性拙人間,不習仕進,昔嘗爲行佐,便以不能及公事免黜,此眷者所共知也。量己審分,不敢期榮,夙嬰貧困,加以疏懶,衣裳容發,有足駭者。中以親老供養,褰裳徒步,脫爾逮今,二代一紀。先朝使其更自修正,勉勵於階級之次,見其襤縷,或復賜以衣裳。袁、褚諸公,咸加勸勵,終於不能自反也。一不復爲,安可重爲哉。昔人有以冠一免,不重加於首,每謂此得進止之儀。又上下年尊,益不願居官次廢晨昏也。先朝爲此,曲申從許,故得連年不拜。既習此歲久,又齒長疾侵,豈宜攝齋河間之聽,廁跡東平之僚?本無絶俗之操,亦非能偃蹇爲高,此又聽覽所當深察者也。近初奉教,便自希得托跡客遊之末,而固辭榮級,其故何邪?以古之王侯大人,或以此延四方之士,有追申、白而入楚,羨鄒、枚而游梁,吾非敢叨夫曩賢,庶欲從九九之遺跡,既于聞道集泮不殊,而幸無職司拘礙,可得奉溫凊,展私計,志在此耳。除步兵校尉,不拜。

劉瓛は姿状が纖小であったが、儒業は当時に冠たり、都下の士子貴游、席を下して業を受けざる者は無く、当世は其の大儒を推して、古の曹褒・鄭玄に比した。性は謙率で、高名を以て自ら居らず、人を詣でる時は、唯一人の門生が胡床を持って後に従うのみであった。主人が通じずとも、便ち門に坐して答を待った。檀橋に住み、瓦屋数間、上は皆穿漏していたが、学徒は敬慕し、敢えて指斥せず、青溪と呼んだ。竟陵王蕭子良は親しく往きて修謁した。七年、武帝に表して劉瓛の為に館を立てさせ、楊烈橋の故主の第宅を以て之に給し、生徒は皆賀した。劉瓛は言うには「室が美しいのは豈に人の為ならんや、此の華宇は豈に吾が宅ならんや。幸いに詔して講堂と作すべく、猶お害を見んことを恐る」と。未だ徙居せざるに、疾に遇う。蕭子良は劉瓛に学ぶ者である彭城の劉繪・順陽の範縝を遣わし、厨を劉瓛の宅に将いて斎を営ませた。卒するに及んで、門人で学を受けた者は並びに吊服して臨送した。

原文瓛姿狀纖小,儒業冠於當時,都下士子貴游,莫不下席受業,當世推其大儒,以比古之曹、鄭。性謙率,不以高名自居,之詣於人,唯一門生持胡床隨後。主人未通,便坐門待答。住在檀橋,瓦屋數間,上皆穿漏,學徒敬慕,不敢指斥,呼爲青溪焉。竟陵王子良親往修謁。七年,表武帝爲瓛立館,以楊烈橋故主第給之,生徒皆賀。瓛曰:「室美豈爲人哉,此華宇豈吾宅邪?幸可詔作講堂,猶恐見害也。」未及徙居,遇疾。子良遣從瓛學者彭城劉繪、順陽範縝將廚于瓛宅營齋。及卒,門人受學者並吊服臨送。

劉瓛は至性有り、祖母が疽を病み経年、手に膏薬を持ち、指を漬けて爛れた。母の孔氏は甚だ厳明で、親戚に謂うには「阿稱は便ち是れ今世の曾子なり」と。稱は劉瓛の小名である。四十余歳になっても、未だ婚対が無かった。建元中、高帝は司徒の褚彥回と共に劉瓛の為に王氏の女を娶らせた。王氏が壁を穿って履を掛けると、土が孔氏の床に落ち、孔氏は悦ばなかった。劉瓛は即ち其の妻を出した。母の憂いに居る時、墓下に住みて廬を出ず、足之が為に屈し、杖つするも起つ能わなかった。此の山には常に鴝鵒鳥がいたが、劉瓛が山にいる三年間は敢えて来ず、服が釋けて家に還ると、此の鳥は乃至った。

原文瓛有至性,祖母病疽經年,手持膏藥,漬指爲爛。母孔氏甚嚴明,謂親戚曰:「阿稱便是今世曾子。」稱,瓛小名也。年四十餘,未有婚對。建元中,高帝與司徒褚彥回爲瓛娶王氏女。王氏穿壁掛履,土落孔氏床上,孔氏不悅。瓛即出其妻。及居母憂,住墓下不出廬,足爲之屈,杖不能起。此山常有鴝鵒鳥,瓛在山三年不敢來,服釋還家,此鳥乃至。

梁の武帝は少時に嘗て伏膺し、天監元年に詔を下して劉瓛の為に碑を立て、諡して貞簡先生と曰う。著いちじるする所の文集は世に行わる。

原文梁武帝少時嘗經伏膺,及天監元年下詔爲瓛立碑,諡曰貞簡先生。所著文集行於世。

初め、劉瓛が月令を講じ終え、学生の嚴植之に謂うには「江左以来、陰陽律数の学は廃れた。吾が今此れを講ずるも、曾て其の彷彿を得ず」と。学者は其の退譲を美とした。時に濟陽の蔡仲熊は礼学に博聞で、人に謂うには「五音は本より中土に在り、故に気韻調平なり。今既に東南の土気偏詖なり、故に木石を感動する能わず」と。劉瓛も亦た然りと為した。蔡仲熊は経を執りて議論するに、往々にして時宰と合わず、亦た終に操を改めて同を求めず、故に坎稟して進まず、歴年を経て方に尚書左丞に至り、当時は其の遇わざるを恨んだ。

原文初,瓛講月令畢,謂學生嚴植之曰:「江左以來,陰陽律數之學廢矣,吾今講此,曾不得其彷佛。」學者美其退讓。時濟陽蔡仲熊禮學博聞,謂人曰:「五音本在中土,故氣韻調平。今既東南土氣偏詖,故不能感動木石。」瓛亦以爲然。仲熊執經議論,往往與時宰不合,亦終不改操求同,故坎稟不進,歷年方至尚書左丞,當時恨其不遇。

また東陽の婁幼瑜、字は季玉、『礼捃拾』三十巻を著す。

瓛の弟、璡。

原文瓛弟 璡

瓛の弟の璡、字は子璥、行い正しく直く、儒雅の点では瓛に及ばないが文采はこれを超えていた。宋の泰豫年間、明帝の挽郎となった。斉の建元初年、武陵王蕭曄の冠軍征虜参軍となった。曄が僚佐と飲み、自ら鵝の炙り肉を切り分けた。璡は言った、「刃を俎に応じて落とすのは、膳夫の仕事である。殿下がみずから鸞刀を執られること、下官は安座していられない」。そこで立ち上がって退出を請うた。友人会稽の孔逖と同舟して東に入り、塘の上で一人の女子に出会った。逖が目で送って言った、「美しくて艶やかだ」。璡は言った、「これは君子の言うべきことだろうか、もはやわが友ではない」。そこで裳を解いて自ら隔てた。ある説によれば、友人孔徹と同舟して東に入り、徹が岸上の女子を眺め留まった。璡は座席を挙げて自ら隔て、再び同座しなかった。兄の瓛が夜、壁を隔てて璡を呼んだが、璡は答えず、ようやく床から下りて衣を着け立ち、それから応じた。瓛がその遅さを怪しむと、璡は言った、「さきほど帯を締め終わっていなかったので」。その操行の厳正さはこのようであった。

原文瓛弟璡字子璥,方軌正直,儒雅不及瓛而文采過之。宋泰豫中,爲明帝挽郎。齊建元初,爲武陵王曄冠軍征虜參軍。曄與僚佐飲,自割鵝炙。璡曰:「應刃落俎,是膳夫之事。殿下親執鸞刀,下官未敢安席。」因起請退。與友人會稽孔逖同舟入東,於塘上遇一女子,逖目送曰:「美而豔。」璡曰:「斯豈君子所宜言乎,非吾友也。」於是解裳自隔。或曰:與友孔徹同舟入東,徹留目觀岸上女子。璡舉席自隔,不復同坐。兄瓛夜隔壁呼璡,璡不答,方下床著衣立,然後應。瓛怪其久,璡曰:「向束帶未竟。」其立操如此。

文恵太子が璡を召して東宮に侍らせると、上事するごとに草稿を削った。まもなく射声校尉を署せられ、官において卒した。

原文文惠太子召璡入侍東宮,每上事輒削草。尋署射聲校尉,卒于官。

時に済陽の江重欣もまた清介であり、暗室にいるときも、厳かな賓客に対するようであったが、璡には及ばなかった。重欣は位は射声校尉に至った。

原文時濟陽江重欣亦清介,雖處闇室,如對嚴賓,而不及璡也。重欣位至射聲校尉。

瓛の族子、顕。

原文瓛族子 顯

顕、字は嗣芳、瓛の族子である。父の琉、字は仲翔、博識で強く正しく、名行を自ら守った。幼くして外祖父の臧質に養育された。質は富盛であったので、常に音楽があった。質が亡くなった後、母が没して十余年たっても、琉は絲竹の音を聞くごとに、いつも歔欷して涙を流した。梁の天監初年、ついに晋安内史で終わった。

原文顯字嗣芳,瓛族子也。父琉字仲翔,博識強正,名行自居。幼爲外祖臧質所鞠養。質既富盛,恒有音樂。質亡後,母沒十許年,琉每聞絲竹之聲,未嘗不歔欷流涕。梁天監初,終於晉安內史。

顕は幼くして聡敏であり、六歳で呂相の絶秦、賈誼の過秦を誦することができた。琅邪の王思遠、呉国の張融が見て称賞し、神童と号した。族伯の瓛は儒学で重名があったが、ついに嗣子がなく、斉の武帝は詔して顕を後継ぎとした。時に八歳であった。本名は頲であったが、斉の武帝はその字が識別しにくいとして、名を顕と改めさせた。天監初年、秀才に挙げられ、中軍臨川王行参軍に初任し、まもなく法曹を署せられた。

原文顯幼而聰敏,六歲能誦呂相絶秦、賈誼過秦。琅邪王思遠、吳國張融見而稱賞,號曰神童。族伯瓛儒學有重名,卒無嗣,齊武帝詔顯爲後,時年八歲。本名頲,齊武以字難識,改名顯。天監初,舉秀才,解褐中軍臨川王行參軍,俄署法曹。

顕は広く渉猟し多く通じていた。任昉がある時一篇の欠簡を得たが、文字が零落しており、諸人に見せても識る者はいなかった。顕が見て言うには、これは古文尚書の削除された逸篇であるという。昉が周書を検べると、果たしてその言う通りであった。昉はそこで大いに賞異した。母の喪に服し、服喪が終わると、尚書令の沈約が時に太子少傅を兼ねており、顕を引いて少傅五官とした。約が丹陽尹となった時、車駕を命じて彼を訪ねた。座において顕に経史十事を策問したが、顕はその九つに対答した。約は言った、「老夫は昏忘しているので、策問を受けることはできない。とはいえ、試みに数事を問うたが、十には至らなかった」。顕が五つを問うと、約はその二つに対答した。陸倕がこれを聞き、席を打って喜んで言った、「劉郎子はまさに人に優ると言えよう。わが家の平原(陸機)が張壮武(張華)を詣で、王粲が伯喈(蔡邕)を謁したとしても、必ずやこのような対答はなかったであろう」。その名流に推賞される様はこのようであった。

原文顯博涉多通。任昉嘗得一篇缺簡,文字零落,示諸人莫能識者,顯見雲是古文尚書所刪逸篇。昉檢周書,果如其説。昉因大相賞異。丁母憂,服闋,尚書令沈約時領太子少傅,引爲少傅五官。約爲丹陽尹,命駕造焉。于坐策顯經史十事,顯對其九。約曰:「老夫昏忘,不可受策;雖然,聊試數事,不可至十。」顯問其五,約對其二。陸倕聞之擊席喜曰:「劉郎子可謂差人,雖吾家平原詣張壯武,王粲謁伯喈,必無此對。」其爲名流推賞如此。

五兵尚書の傅昭が著作を掌り、国史を撰した時、顕は自ら廷尉正を兼ねていたが、引かれて佐となった。尚書五都の選任が改められると、顕は法曹を以て吏部郎を兼ねた。後に尚書儀曹郎となった。かつて上朝詩を作ったが、沈約が見てこれを賞美し、書の巧みな者に命じてその郊居の宅の壁に題させた。後に中書通事舎人を兼ね、再び驃騎鄱陽王記室に遷り、中書舎人を兼ねた。後に中書郎となり、舎人はもとのままであった。

原文五兵尚書傅昭掌著作,撰國史,顯自兼廷尉正,被引爲佐。及革選尚書五都,顯以法曹兼吏部郎。後爲尚書儀曹郎。嘗爲上朝詩,沈約見而美之,命工書人題之于郊居宅壁。後兼中書通事舍人,再遷驃騎鄱陽王記室,兼中書舍人。後爲中書郎,舍人如故。

顕は河東の裴子野、南陽の劉之遴、呉郡の顧協と禁中で連職し、互いに師友として、人々は慕わない者はなかった。顕は博聞強記で、裴、顧を超えていた。時に波斯が生きた獅子を献上した。帝が問うた、「獅子には何色があるか」。顕は答えた、「黄獅子の超は白獅子の超に及ばない」。魏人が古器を送ってきたが、浮き彫りの文字があり識る者がいなかった。顕はその文を調べて滞りなく読み、年月を考校すると一字も違わなかった。武帝は大いにこれを嘉した。

原文顯與河東裴子野、南陽劉之遴、吳郡顧協連職禁中,遞相師友,人莫不慕之。顯博聞強記,過於裴、顧。時波斯獻生師子,帝問曰:「師子有何色?」顯曰:「黃師子超不及白師子超。」魏人送古器,有隱起字無識者,顯案文讀之無滯,考校年月,一字不差。武帝甚嘉焉。

尚書左丞に遷り、国子博士を除かれた。時に沙門が田を争訟した。帝が大きく「貞」と署した。有司はその意味を弁えず、遍く問うても知る者がいなかった。顕は言った、「貞の字は文が『与上人』となっています」。帝はその才能を忌み、外任に出した。後に雲麾邵陵王長史、尋まも陽太守となった。魏の使者李諧が至ってこれを聞き、面識がないことを恨み、嘆いて言った、「梁の徳は衰えた。善人は国の紀であるのに、これを出したのは、よろしくなかろう」。王が鎮を郢州えいしゅうに遷すと、平西府諮議参軍を除かれ、長く府にあって志を得なかった。大同九年、夏口において終わり、時に六十三歳であった。

原文遷尚書左丞,除國子博士。時有沙門訟田,帝大署曰:「貞「。有司未辯,遍問莫知。顯曰:「貞字文爲與上人。」帝因忌其能,出之。後爲雲麾邵陵王長史、尋陽太守。魏使李諧至聞之,恨不相識。歎曰:「梁德衰矣。善人國之紀也,而出之,無乃不可乎。」王遷鎮郢州,除平西府諮議參軍,久在府不得志。大同九年終於夏口,時年六十三。

凡そ両府に佐け、ともに驕王に事えたが、人はこれを憂えたが、かえって礼遇され重んじられた。友人劉之遴が皇太子に啓して彼の銘志を作らせ、秣陵県の劉真長の旧塋に葬った。

原文凡佐兩府,並事驕王,人爲之憂,而反見禮重。友人劉之遴啟皇太子爲之銘志,葬於秣陵縣劉真長舊塋。

子に莠、恁、臻がいた。臻は早くから有名で、『北史』に載せられている。

原文子莠、恁、臻。臻早有名,載《北史》。

顕の従弟、㲄。

原文顯從弟 㲄

顕の従弟の㲄は字を仲寶といい、体つきは小さかったが、儒雅で学識が広く、文辞に優れ、湘東王に従って藩国に十数年間仕え、寵愛と信頼は非常に深かった。当時の文書や檄文はすべて彼が作成した。吏部尚書・国子祭酒の位に至った。魏が江陵を陥おとしい落させると、長安に入った。

原文顯從弟㲄字仲寶。形貌短小,儒雅博洽,善辭翰,隨湘東王在蕃十餘年,寵寄甚深。當時文檄皆其所爲。位吏部尚書、國子祭酒。魏克江陵,入長安。

明僧紹

原文明僧紹

明僧紹は字を休烈といい、平原郡鬲県の人で、一字は承烈といった。その先祖は呉の太伯の末裔であり、百里奚の子の孟明が名を姓としたのがその後である。祖父の玩は州中従事、父の略は給事中であった。僧紹は経書に明るく儒術を修め、宋の元嘉年間に二度秀才に挙げられ、永光年間には鎮北府が功曹に辟召したが、いずれも就任しなかった。長広郡の嶗山に隠棲し、門徒を集めて学問を立てた。魏が淮北を占領すると、ついに長江を渡った。

原文明僧紹字休烈,平原鬲人,一字承烈。其先吳太伯之裔,百里奚子孟明,以名爲姓,其後也。祖玩,州中從事。父略,給事中。僧紹明經有儒術,宋元嘉中,再舉秀才,永光中,鎮北府辟功曹,並不就。隱長廣郡嶗山,聚徒立學。魏克淮北,乃度江。

升明年間、斉の高帝が太傅となったとき、教令を発して僧紹と顧歓・臧栄緒を辟召し、旌あらわ幣の礼をもって記室参軍に徴したが、赴任しなかった。僧紹の弟の慶符が青州刺史となると、僧紹は食糧に乏しく、慶符に従って鬱洲に赴き、弇榆山に住み、棲雲精舎に滞在して山水を楽しみ、ついに一度も州城に入らなかった。

原文升明中,齊高帝爲太傅,教辟僧紹及顧歡、臧榮緒,以旌幣之禮,徵爲記室參軍,不至。僧紹弟慶符爲青州,僧紹乏糧食,隨慶符之鬱洲,住弇榆山,棲雲精舍,欣玩水石,竟不一入州城。

泰始の末年、岷・益に山崩れがあり、淮水が斉郡で枯渇した。僧紹はひそかに弟に言った。「天地の気はその秩序を失わないが、もし陽が伏して泄れず、陰が迫って蒸さなければ、かくのごとく山崩れ川枯れる変事がある。昔、伊・洛が枯れて夏が滅び、黄河が枯れて殷が滅び、三川が枯れ岐山が崩れて周が滅び、五山が崩れて漢が滅びた。国は必ず山川に依って固めをなすもので、山川に異変が起これば、滅びないでどうしようか。今、宋の徳は四代の末世のようである。お前は私の言葉を心に留めて漏らすな。」果たしてその言う通りとなった。

原文泰始季年,岷、益有山崩,淮水竭齊郡,僧紹竊謂其弟曰:「夫天地之氣,不失其序,若夫陽伏而不泄,陰迫而不蒸,於是乎有山崩川竭之變。昔伊、洛竭而夏亡,河竭而殷亡,三川竭岐山崩而周亡,五山崩而漢亡。夫有國必依山川而爲固,山川作變,不亡何待?今宋德如四代之季,爾志吾言而勿泄也。」竟如其言。

斉の建元元年の冬、正員郎に徴されたが、病気と称して就任しなかった。その後、帝が崔祖思に書を送り、僧紹と慶符をともに帰還させるよう命じた。帝はまた言った。「周の粟を食わずに周の薇を食うなど、古えですら議論が起こった。今となってはどうして議論を止められようか。ただ笑い話としておくだけだ。」

原文齊建元元年冬,徵爲正員郎,稱疾不就。其後帝與崔祖思書,令僧紹與慶符俱歸。帝又曰:「不食周粟而食周薇,古猶發議,在今甯得息談邪?聊以爲笑。」

慶符が任を解かれると、僧紹は従って帰り、江乗県の摂山に住んだ。僧紹は沙門の釈僧遠が古くから徳があると聞き、定林寺を訪ねて面会した。高帝が寺に出向いて会おうとしたとき、僧遠が僧紹に問うた。「天子が来られたなら、居士はどう対応なさいますか。」僧紹は言った。「山藪の人間は、まさに壁を穿って遁れるべきである。もし辞退が許されなければ、戴公の故事に従うまでだ。」やがて遁れて摂山に戻り、棲霞寺を建ててそこに住んだ。高帝はこれを非常に残念がった。昔、戴顒が窓の下で高臥し、山人の服を身に着けた故事があり、僧紹はそれになぞらえて言ったのである。

原文慶符罷任,僧紹隨歸住江乘攝山。僧紹聞沙門釋僧遠夙德,往候定林寺。高帝欲出寺見之,僧遠問僧紹曰:「天子若來,居士若爲相對?」僧紹曰:「山藪之人,政當鑿壞以遁;若辭不獲命,便當依戴公故事。」既而遁還攝山、建棲霞寺而居之,高帝甚以爲恨。昔戴顒高臥牖下,以山人之服加其身,僧紹故云。

高帝は後に慶符に言った。「卿の兄はその事を高尚とし、堯の外臣のようなものである。朕は幽人を夢想し、すでに久しく心を寄せている。いわゆる『径路絶え、風雲通ず』というものだ。」そこで竹根の如意と筍の籜の冠を賜った。隠者たちはこれを栄誉とした。勃海の封延伯という高行の士がこれを聞き、嘆じて言った。「明居士は身は後ろにあって名は先に立つ。これも宋・斉の儒仲である。」永明年間、国子博士に徴されたが就任せず、死去した。

原文高帝后謂慶符曰:「卿兄高尚其事,亦堯之外臣。朕夢想幽人,固已勤矣。所謂'徑路絶,風雲通'。」仍賜竹根如意、筍籜冠,隱者以爲榮焉。勃海封延伯者,高行士也,聞之歎曰:「明居士身彌後而名彌先,亦宋、齊之儒仲也。」永明中,征國子博士不就,卒。

僧紹の長兄の僧胤は玄理ことわりを語ることができ、宋に仕えて江夏王義恭の参軍となった。王は別に榻を設け、徐孺子に比した。冀州刺史の位に至った。子の慧照は、元徽年間に斉の高帝の平南主簿となり、桂陽王の拒戦に従い、累進して驃騎中兵参軍となり、荀伯玉と対になって直を領した。建元元年、巴州刺史となり、蛮蜒を綏懐おもした。上は益州刺史とすることを許したが、遷任せずに死去した。僧胤の次弟の僧暠も好学で、宋の大明年間に二度魏に使いした。当時はちょうど司空劉誕を誅殺したばかりであった。孝武帝が言った。「もし広陵のことを問われたら、どう答えるか。」答えて言った。「周の管・蔡、漢の淮南です。」帝は大いに喜んだ。魏に至ると、魏が問うた。「卿がこの使命を帯びるのは、上国に並ぶ者がいないからか。」答えて言った。「聡明特達の士は袖を挙げれば帷となり、家ごとの民も下僕はおりません。晏子のいわゆる『国を見て善悪を知る』です。故に再びこの庭を辱しめるのです。」位は青州刺史に至った。

原文僧紹長兄僧胤能言玄,仕宋爲江夏王義恭參軍,王別爲立榻,比之徐孺子。位冀州刺史。子慧照,元徽中,爲齊高帝平南主簿,從拒桂陽,累至驃騎中兵參軍,與荀伯玉對領直。建元元年,爲巴州刺史,綏懷蠻蜒,上許爲益州刺史,未遷卒。僧胤次弟僧暠亦好學,宋大明中再使魏,于時新誅司空劉誕。孝武謂曰:「若問廣陵之事,何以答之?」對曰:「周之管、蔡,漢之淮南。」帝大悅。及至魏,魏問曰:「卿銜此命,當緣上國無相踰者邪?」答曰:「聰明特達,舉袂成帷,比屋之甿,又無下僕。晏子所謂'看國善惡。'故再辱此庭。」位至青州刺史。

僧紹の子の元琳・仲璋・山賓はいずれも家業を伝え、山賓が最も有名であった。

原文僧紹子元琳、仲璋、山賓並傳家業,山賓最知名。

僧紹の子 山賓

原文僧紹子 山賓

山賓は字を孝若といい、七歳で名理を語ることができた。十三歳で経伝に広く通じ、喪に服して礼を尽くし、奉朝請として出仕した。兄の仲璋が難病を患い、家計がしばしば困窮したので、山賓は禄を求めて出仕し、後に広陽県令となったが、まもなく官を去った。詔によって公卿に士を挙げさせたとき、左衛将軍の江祏が上書して山賓の才は煩劇を処理するに堪えると推薦した。斉の明帝は学問を重んじず、祏に言った。「山賓が書を談じてやまないと聞くが、どうして官に堪えられようか。」ついに用いられなかった。

原文山賓字孝若,七歲能言名理。十三,博通經傳,居喪盡禮,起家奉朝請。兄仲璋痼疾,家道屢空,山賓乃行幹祿,後爲廣陽令,頃之去官。會詔使公卿舉士,左衞將軍江祏上書薦山賓才堪理劇。齊明帝不重學,謂祏曰:「聞山賓談書不輟,何堪官邪。」遂不用。

梁の朝廷が建てられると、累進して右じょう軍記室参軍となり、吉礼を掌った。当時、初めて五経博士が置かれると、山賓がまずその選に応じた。中書侍郎、国子博士、太子率更令、中庶子を歴任した。天監十五年、持節・都督縁そ淮諸軍事・北兗州刺史として出向した。普通二年、太子右衛率に徴され、給事中を加えられた。御史中丞に遷ったが、公事により左遷されて黄門侍郎となった。四年、散騎常侍となった。東宮に新たに学士が置かれると、また山賓をこれに任じた。まもなく本官のまま国子祭酒を兼ねた。

原文梁台建,累遷右軍記室參軍,掌吉禮。時初置五經博士,山賓首應其選。曆中書侍郎,國子博士,太子率更令,中庶子。天監十五年,出爲持節、都督緣淮諸軍事、北兗州刺史。普通二年,徵爲太子右衞率,加給事中。遷御史中丞,以公事左遷黃門侍郎。四年,爲散騎常侍。東宮新置學士,又以山賓居之。俄以本官兼國子祭酒。

初め、山賓が州にいたとき、管轄する平陸県が凶作となり、倉の米を出して百姓を救済するよう上奏した。後任の刺史が州の曹を検査したとき、帳簿がなくなり、山賓が米を消耗損耗させたとされた。有司が責任を追及し、その邸宅を没収して官有とした。山賓は自ら弁明せず、さらに土地を買って邸宅を造った。昭明太子が家屋の建築が完成していないと聞き、令を下して言った。「明祭酒は大藩を撫でるために出向し、旌を擁し轂を推し、金を珥し紫を拖しながら、常に家計が困窮している。家屋が未完成と聞くので、今、わずかな援助を送る。」併せて詩を贈って言った。「平仲は古えに奇と称えられ、夷吾は昔に美を擅にす。令は則ち伊賢に挺で、東秦固より多士なり。室を築くは道傍に非ず、宅を置くは仁里に帰す。庚桑方に系有り、原生今擬え易し。必ずや三径の人来たり、将に五経の士を招かん。」

原文初,山賓在州,所部平陸縣不稔,啟出倉米以振百姓。後刺史檢州曹,失簿,以山賓爲耗損。有司追責,籍其宅入官。山賓不自理,更市地造宅。昭明太子聞築室不就,有令曰:「明祭酒雖出撫大蕃,擁旌推轂,珥金拖紫,而恒事屢空。聞構宇未成,今送薄助。」並詒詩曰:「平仲古稱奇,夷吾昔擅美,令則挺伊賢,東秦固多士。築室非道傍,置宅歸仁裏。庚桑方有系,原生今易擬。必來三徑人,將招五經士。」

山賓の性質は篤実で、家中がかつて困窮したとき、乗っていた牛を売った。すでに売って金を受け取ったが、買い主に言った。「この牛はかつて漏蹄の病にかかり、治療して治ってから久しいが、後日再発する恐れがあるので、告げずにはいられない。」買い主は急いで金を取り戻した。処士の阮孝緒がこれを聞き、嘆じて言った。「この言葉は十分に淳朴に返り、薄俗を激し止めて澆季を停めるものである。」

原文山賓性篤實,家中嘗乏困,貨所乘牛。既售受錢,乃謂買主曰:「此牛經患漏蹄,療差已久,恐後脫髮,無容不相語。」買主遽追取錢。處士阮孝緒聞之,歎曰:「此言足使還淳反朴,激薄停澆矣。」

五年、また仮節を授かり北兗州の事を摂行し、後に官において卒し、侍中を追贈され、諡して質子といった。山賓は累ねて学官に居り、訓導の益甚だ有りしが、然し性頗る疏通にして、諸生に接するに多く狎比し、人皆之を愛した。著する所に吉禮儀注二百二十四巻、禮儀二十巻、孝経喪服義十五巻有り。

原文五年,又假節攝北兗州事,後卒官,贈侍中,諡曰質子。山賓累居學官,甚有訓導之益,然性頗疏通,接于諸生多狎比,人皆愛之。所著吉禮儀注二百二十四卷,禮儀二十卷,孝經喪服義十五卷。

子の震は字を興道と云い、亦た父の業を伝え、位は太子舎人、尚書祠部郎、余姚令に至った。

原文子震字興道,亦傳父業,位太子舍人,尚書祠部郎,余姚令。

山賓の弟少遐は字を処默と云い、亦た知名で、位は都官尚書に至った。簡文帝は人に謂って曰く、「我は明(少遐)が尚書を得るを喜ばず、更に朝廷が人を得るを喜ぶ」と。後に青州刺史を拝した。太清の乱に魏に奔り、北斉に仕え、太子中庶子の時に卒した。子の罕は司空記室に至った。

原文山賓弟少遐字處默,亦知名,位都官尚書。簡文謂人曰:「我不喜明得尚書,更喜朝廷得人。」後拜青州刺史。太清之亂奔魏,仕北齊,卒于太子中庶子。子罕,司空記室。

明氏は南渡は晩かったが、並びに名位有り、宋より梁に至るまで刺史となった者は六人である。

原文明氏南度雖晚,並有名位,自宋至梁爲刺史者六人。

庾易

原文庾易

庾易は字を幼簡と云い、新野の人である。江陵に徙居した。祖父の玫は巴郡太守。父の道驥は安西参軍。

原文庾易字幼簡,新野人也,徙居江陵。祖玫,巴郡太守。父道驥,安西參軍。

易は志性恬静にして、外物と交わらず、斉の臨川王蕭映が州に臨むに当たり、表して之を薦め、麦百斛こくを餉った。易は使人に謂って曰く、「走りて樵採麋鹿の伍に終わり、解毛の衣を保ち、馳騁する日月の車に乗り、自耕の禄を得て保つは、大王の恩に於いて亦た已に深し」と。辞して受けず、文義を以て自ら楽しんだ。安西長史袁彖は其の風を欽み、鹿角の書格、蚌盤、蚌研、白象牙の筆を贈った。併せて詩を贈って曰く、「白日清明、青雲遼亮、昔は巢・許を聞き、今は台・尚を睹る」と。易は連理の机、竹翹の書格を以て之に報いた。

原文易志性恬靜,不交外物,齊臨川王映臨州,表薦之,餉麥百斛。易謂使人曰:「走樵采麋鹿之伍,終其解毛之衣,馳騁日月之車,得保自耕之祿,于大王之恩亦已深矣。」辭不受,以文義自樂。安西長史袁彖欽其風,贈以鹿角書格、蚌盤、蚌研、白象牙筆。並贈詩曰:「白日清明,青雲遼亮,昔聞巢、許,今睹台、尚。」易以連理幾、竹翹書格報之。

建武三年、詔して司空主簿に徴すと為すも、就かず、卒した。子に黔婁有り。

原文建武三年,詔徵爲司空主簿,不就,卒。子黔婁。

易の子 黔婁

原文易子 黔婁

黔婁は字を子貞と云い、一字を貞正と云う。少より好学し、多くを講誦す。性至孝にして、曾て人に失色せず。南陽の高士劉虯・宗測並びに之を歎異した。斉に仕えて編令と為り、政に異績有り。先ず是れ県境に猛獣多く暴れ、黔婁の至るに及び、猛獣皆度りて臨沮の界に往き、時に仁化の感ずる所と為す。

原文黔婁字子貞,一字貞正。少好學,多所講誦。性至孝,不曾失色於人。南陽高士劉虯、宗測並歎異之。仕齊爲編令,政有異績。先是縣境多猛獸暴,黔婁至,猛獸皆度往臨沮界,時以爲仁化所感。

孱陵令に徙る。県に到る未だ旬ならず、易が家に在りて疾に遘う。黔婁忽ち心惊き、身を挙げて流汗す。即日に官を棄て家に帰る。家人悉く其の忽ち至るを驚く。時に易の疾始めて二日、医云く、差劇を知らんと欲すれば、但だ糞を嘗めて甜苦を看よと。易泄利す、黔婁輒ち取りて之を嘗む。味転じて甜滑、心愈々憂苦す。夕に至る毎に、北辰に稽顙し、身を以て代わるを求む。俄かに空中に声有りて曰く、「征君の寿命尽き、復た延ぶ可からず。汝の誠祷既に至る、政に月末に至るを得ん」と。晦に及びて易亡す。黔婁喪に居するに礼を過ぎ、塚の側に廬す。

原文徙孱陵令,到縣未旬,易在家遘疾,黔婁忽心驚,舉身流汗,即日棄官歸家。家人悉驚其忽至。時易疾始二日,醫雲欲知差劇,但嘗糞甜苦。易泄利,黔婁輒取嘗之,味轉甜滑,心愈憂苦。至夕,每稽顙北辰,求以身代。俄聞空中有聲曰:「征君壽命盡,不復可延。汝誠禱既至,政得至月末。」及晦而易亡。黔婁居喪過禮,廬於塚側。

梁の台(朝廷)建つ。黔婁は西台尚書儀曹郎より、益州刺史鄧元起の表する所と為り、府長史・巴西梓潼二郡太守と為る。成都平らぐに及び、城中珍宝山積す。元起悉く之を僚佐に分ち与うるも、唯だ黔婁は一も取る所無し。元起其の衆に異なるを悪み、厲声して曰く、「長史何ぞ独り高きを為すや」と。黔婁違わざるを示し、数篋の書を請う。尋いで蜀郡太守を除かれ、職に在りて清素、百姓之に便す。元起蜀郡に死す。部曲ぶきょく皆散ず。黔婁身を以て殯斂を営み、喪柩を携持して郷里に帰る。

原文梁台建,黔婁自西台尚書儀曹郎爲益州刺史鄧元起表爲府長史、巴西梓潼二郡太守。及成都平,城中珍寶山積,元起悉分與僚佐,唯黔婁一無所取。元起惡其異眾,厲聲曰:「長史何獨爲高?」黔婁示不違之,請書數篋。尋除蜀郡太守,在職清素,百姓便之。元起死於蜀郡,部曲皆散,黔婁身營殯斂,攜持喪柩歸鄉里。

東宮建つ。中軍記室参軍を以て皇太子の読に侍し、甚だ知重せらる。詔して太子中庶子殷鈞・中舎人到洽・国子博士明山賓と遞日に太子に五経義を講ぜしむ。散騎侍郎に遷り、卒す。弟に於陵有り。

原文東宮建,以中軍記室參軍侍皇太子讀,甚見知重。詔與太子中庶子殷鈞、中舍人到洽、國子博士明山賓遞日爲太子講五經義。遷散騎侍郎,卒。弟於陵。

黔婁の弟 於陵

原文黔婁弟 於陵

於陵は字を子介と云う。七歳にして玄理を言う能う。長ずるに及び、清警博学、才思有り。斉の随王蕭子隆荊州に在り、召して主簿と為し、謝朓・宗夬と群書を抄撰せしむ。子隆代わりて還るに、又以って送故主簿と為す。子隆明帝に害せらる。僚吏畏避して至る者莫し。唯だ於陵と夬独り留まりて喪事を經理す。永元末、東陽遂安令を除かれ、人吏の称する所と為る。

原文於陵字子介,七歲能言玄理。及長,清警博學,有才思。齊隨王子隆爲荊州,召爲主簿,使與謝朓、宗夬抄撰群書。子隆代還,又以爲送故主簿。子隆爲明帝所害,僚吏畏避莫至,唯於陵與夬獨留經理喪事。永元末,除東陽遂安令,爲人吏所稱。

梁の天監初年、建康の獄平となり、尚書功論郎に遷り、文徳殿にて詔を待つ。後に中書通事舎人を兼ね、太子洗馬に拝された。旧来、東宮の官属は皆清選とされ、洗馬は文翰を掌り、特に清い者である。近代の用人は、皆甲族で才望ある者を取るが、時に於陵と周舍とが並んでこの職に抜擢された。武帝は言われた、「官は人によって清いのであり、どうして甲族に限られようか」。時の論はこれを美とした。累遷して中書黄門侍郎となり、舎人はもとのまま。後に鴻臚卿で終わった。弟は肩吾。

原文梁天監初,爲建康獄平,遷尚書功論郎,待詔文德殿。後兼中書通事舍人,拜太子洗馬。舊東宮官屬通爲清選,洗馬掌文翰,尤其清者。近代用人,皆取甲族有才望者,時於陵與周舍並擢充此職。武帝曰:「官以人清,豈限甲族。」時論以爲美。累遷中書黃門侍郎,舍人如故。後終於鴻臚卿。弟肩吾。

於陵の弟、肩吾。

原文於陵弟 肩吾

肩吾、字は慎之、八歳にして詩を賦することができ、兄の於陵に友愛された。初め晋安王国常侍となり、王が鎮を移すごとに、肩吾は常に府に従った。雍州において命を受け、劉孝威・江伯搖・孔敬通・申子悦・徐防・徐摛・王囿・孔鑠・鮑至ら十人と共に諸々の典籍を抄撰し、果物や饌を豊かに与えられ、高齋学士と号した。王が皇太子となると、東宮通事舎人を兼ねた。後に安西湘東王の録事・諮議参軍、太子率更令、中庶子となった。簡文帝が文徳省を開いて学士を置くと、肩吾の子の信、徐摛の子の陵、呉郡の張長公、北地の傅弘、東海の鮑至らがその選に充てられた。斉の永明年中、王融・謝朓・沈約の文章が初めて四声を用い、新変と為したが、この頃に至って声韻に拘束されるようになり、ますます麗靡となり、往時をさらに超えた。簡文帝が湘東王に与えた書簡でこれを論じて言うには、

原文肩吾字慎之,八歲能賦詩,爲兄於陵所友愛。初爲晉安王國常侍,王每徙鎮,肩吾常隨府。在雍州被命與劉孝威、江伯搖、孔敬通、申子悅、徐防、徐摛、王囿、孔鑠、鮑至等十人抄撰眾籍,豐其果饌,號高齋學士。王爲皇太子,兼東宮通事舍人。後爲安西湘東王錄事、諮議參軍,太子率更令,中庶子。簡文開文德省置學士,肩吾子信、徐摛子陵、吳郡張長公、北地傅弘、東海鮑至等充其選。齊永明中,王融、謝朓、沈約文章始用四聲,以爲新變,至是轉拘聲韻,彌爲麗靡,復踰往時。簡文與湘東王書論之曰:

近頃、京師の文体を見るに、懦鈍でことのほか常ならず、競って浮疏を学び、争って闡緩を事とし、既に比興とは異なり、正に風騷に背いている。そもそも六典三礼は、施すところに地があり、吉凶嘉賓は、用いるに所がある。未だ吟詠情性して、かえって内則の篇を擬し、筆を操って志を書き、さらに酒誥の作を模すことなど聞いたことがない。遅遅たる春日を、翻って帰蔵に学び、湛湛たる江水を、遂に大伝と同じくする。

原文比見京師文體,懦鈍殊常,競學浮疏,爭事闡緩,既殊比興,正背風騷。若夫六典三禮,所施則有地,吉凶嘉賓,用之則有所,未聞吟詠情性,反擬內則之篇,操筆寫志,更模酒誥之作。遲遲春日,翻學歸藏,湛湛江水,遂同大傳。

私は既に文を作るのに拙く、軽々しく指摘することはできないが、ただ当世の作品を、歴代の才人、遠くは楊雄・司馬相如・曹植・王粲、近くは潘岳・陸機・顔延之・謝霊運と比べてみると、その遣辞と用心を見て、全く似ていない。もし今の文を正しいとすれば、昔の賢者は誤りであり、もし昔の賢者を称えるべきとすれば、今の文体は棄てるべきである。ともに「盍各」であるならば、それは認められない。また時に謝康楽(謝霊運)や裴鴻臚(裴子野)の文を模倣する者があるが、これにも大いに惑う。なぜか。謝客(謝霊運)は言葉が天抜で、自然に出るものであり、時に拘束されないところがあるが、それは糟粕である。裴氏は良史の才であって、まったく詩文の美はない。つまり謝を学べばその精華には届かず、ただその冗長を得るだけであり、裴に師事すればその長所を蔑ろにし、ただその短所を得るだけである。謝は故に巧みで及ぶべからず、裴もまた質朴で慕うに足りない。故に胸を馳せ臆断する輩、名を好んで実を忘れる類は、謝生に決羽すれば、どうして三千の及ぶところか、裴氏に伏膺すれば、両唐(堯・舜)の伝わらぬことを恐れる。故に玉徽金銑は、かえって拙い目に嗤われ、巴人下俚は、さらに郢中の聴きに合う。陽春は高くして和せず、妙声は絶えて尋ねられない。ついに錙銢を精討せず、文質を覆量せず、巧心に異なり、終に妍手を愧じる。これにより、瑜を握り玉を懐く士は、鄭邦を瞻みて退くことを知り、章甫翠履の人(礼を重んじる者)は、閩郷を望んで歎息する。詩が既にこのようであるなら、筆(散文)もまた同様である。ただ煙墨はものを言わず、その駆染を受けるのみで、紙劄は無情で、その揺襞に任せるのみである。甚だしいかな、文章の横流、ここに至るまでに。

原文吾既拙于爲文,不敢輕有掎摭,但以當世之作,曆方古之才人,遠則楊、馬、曹、王,近則潘、陸、顏、謝,觀其遣辭用心,了不相似。若以今文爲是,則昔賢爲非,若以昔賢可稱,則今體宜棄。俱爲盍各,則未之敢許。又時有效謝康樂、裴鴻臚文者,亦頗有惑焉。何者?謝客吐言天拔,出於自然,時有不拘,是其糟粕。裴氏乃是良史之才,了無篇什之美。是爲學謝則不屆其精華,但得其冗長;師裴則蔑絶其所長,唯得其所短。謝故巧不可階,裴亦質不宜慕。故胸馳臆斷之侶,好名忘實之類,決羽謝生,豈三千之可及,伏膺裴氏,懼兩唐之不傳。故玉徽金銑,反爲拙目所嗤,巴人下俚,更合郢中之聽。陽春高而不和,妙聲絶而不尋。竟不精討錙銖,覆量文質,有異巧心,終愧妍手。是以握瑜懷玉之士,瞻鄭邦而知退,章甫翠履之人,望閩鄉而歎息。詩既若此,筆又如之。徒以煙墨不言,受其驅染,紙劄無情,任其搖襞。甚矣哉,文章橫流,一至於此。

近世の謝朓・沈約の詩、任昉・陸倕の筆(散文)に至っては、これらは文章の冠冕、述作の楷模である。張士簡(張率)の賦、周升逸(周捨)の弁も、また佳手を成し、再び遇い難い。文章は未だ墜ちず、必ず英絶があり、これを領袖する者は、弟(湘東王)でなくて誰か。毎にこれを論じたいと思うが、語るべき相手がおらず、我が子建(曹植)を思うがごとく、共に商榷したい。この清濁を弁じて、涇・渭の如くならしめ、この月旦(人物評)を論じて、かの汝南(許劭)の類とせよ。朱白既に定まり、雌黄別あれば、鼠を懐く者(『戦国策』の故事)慚じるを知り、竽を濫る者(『韓非子』の故事)自ら恥じるであろう。相い思うも見えず、我が労い如何。

原文至如近世謝朓、沈約之詩,任昉、陸倕之筆,斯文章之冠冕,述作之楷模。張士簡之賦,周升逸之辯,亦成佳手,難可復遇。文章未墜,必有英絶,領袖之者,非弟而誰。每欲論之,無可與語,思吾子建,一共商榷。辨茲清濁,使如涇、渭,論茲月旦,類彼汝南。朱白既定,雌黃有別,使夫懷鼠知慚,濫竽自恥。相思不見,我勞如何!

簡文帝が即位すると、肩吾を度支尚書とした。時に上流の蕃鎮は、皆州を拠りて侯景に拒んだが、景は詔を矯って肩吾を江州に遣わし、当陽公大心を諭させた。大心は賊に降り、肩吾は逃れて東に入った。後に賊の宋子仙が会稽を破り、肩吾を購い求めて殺そうとしたが、先に言った、「お前が詩を作れると聞く。今すぐ作れ。もしできれば、命を貸してやろう」。肩吾は筆を執ってすぐに成し、辞采甚だ美しかったので、子仙は釈放して建昌令とした。なお間道を経て江陵に奔り、江州刺史を歴任し、義陽太守を領し、武康県侯に封ぜられた。卒し、散騎常侍・中書令を贈られた。子は信。

原文及簡文即位,以肩吾爲度支尚書。時上流蕃鎮,並據州拒侯景,景矯詔遣肩吾使江州喻當陽公大心。大心乃降賊,肩吾因逃入東。後賊宋子仙破會稽,購得肩吾欲殺之,先謂曰:「吾聞汝能作詩,今可即作,若能,將貸汝命。」肩吾操筆便成,辭采甚美,子仙乃釋以爲建昌令。仍間道奔江陵,曆江州刺史,領義陽太守,封武康縣侯。卒,贈散騎常侍、中書令。子信。

劉虬。

原文劉虬

劉虬、字は霊預、一字は徳明、南陽涅陽の人、晋の豫州刺史劉喬の七世孫である。江陵に徙居した。

原文劉虬字靈預,一字德明,南陽涅陽人,晉豫州刺史喬七世孫也。徙居江陵。

虬は若くして節操を高くし学を好み、禄を得次第隠棲しようとした。宋の泰始年中、仕えて晋平王驃騎記室・当陽令に至った。官を罷めて家に帰り静かに処し、常に鹿皮の袷を服し、穀物を断ち、朮及び胡麻を餌とした。斉の建元初年、豫章王蕭嶷が荊州となると、教えを下して虬を別駕に辟し、同郡の宗測・新野の庾易と共に書と礼を遺してこれを請うた。虬らは各々箋を修めて答えたが、命に応じなかった。

原文虬少而抗節好學,須得祿便隱。宋泰始中,仕至晉平王驃騎記室、當陽令。罷官歸家靜處,常服鹿皮袷,斷穀,餌術及胡麻。齊建元初,豫章王嶷爲荊州,教辟虬爲別駕,與同郡宗測、新野庾易並遺書禮請之。虬等各修箋答而不應命。

永明三年、刺史廬陵王蕭子卿が表を上し、虬及び同郡の宗測・宗尚之・庾易・劉昭の五人に対し、蒲車束帛の命を加えるよう請うた。詔して通直郎に徴したが、就かなかった。竟陵王が書を致して意を通じると、虬は答えて言った、「虬は四節臥病し、三時灌植を営み、山沢に余陰を暢け、魚鳥に暮情を托す。まさに唐・虞の重恩、周・邵の宏施にあらずや」。

原文永明三年,刺史廬陵王子卿表虬及同郡宗測、宗尚之、庾易、劉昭五人,請加蒲車束帛之命。詔徵爲通直郎,不就。竟陵王致書通意,虬答曰:「虬四節臥疾病,三時營灌植,暢餘陰於山澤,托暮情於魚鳥,甯非唐、虞重恩,周、邵宏施。」

虬は仏教を精信し、粗布を衣とし、礼仏長斎し、法華経に注し、自ら仏義を講じた。江陵西の沙洲は人里遠いため、遂にそこに徙居した。建武二年、詔して国子博士に徴したが、就かなかった。その冬、虬は病み、真昼に白雲が簷戸の内に徘徊し、また香気及び磬の声があった。その日に卒し、年五十八。虬の子は之遴。

原文虬精信釋氏,衣粗布,禮佛長齋,注法華經,自講佛義。以江陵西沙洲去人遠,乃徙居之。建武二年,詔征國子博士,不就。其冬虬病,正晝有白雲徘徊簷戶之內,又有香氣及磬聲。其日卒,年五十八。虬子之遴。

虬の子、之遴。

原文虬子 之遴

之遴、字は思貞、八歳にして文を属することができた。虬は言った、「この児は必ず文をもって我が宗を興すであろう」。常に諸子に謂って言った、「顔氏(顔之推ら)に比べるならば、之遴は我が文を得た」。これにより州裏に称された。時に沙門の僧恵という者に異識があり、虬を訪れるごとに必ず之遴の小字を呼んで「僧伽の福德児」と言い、手を握って進めた。

原文之遴字思貞,八歲能屬文。虬曰:「此兒必以文興吾宗。」常謂諸子曰:「若比之顏氏,之遴得吾之文。」由是州裏稱之。時有沙門僧惠有異識,每詣虬必呼之遴小字曰:「僧伽福德兒。」握手而進之。

十五歳の時、茂才に挙げられ、明経に対策し、沈約・任昉が見て異とした。吏部尚書王瞻がかつて任昉を訪ねた時、之遴が座にいるのに遇い、昉は瞻に言った、「これは南陽の劉之遴、学優れて未だ仕えず、水鏡(人物鑑識)の宜く甄擢すべき者である」。即ち太学博士に辟した。昉は言った、「美談とするより、面試に如かず」。時に張稷が新たに尚書僕射に除され、昉に譲表の作成を托したが、昉は之遴に代作させたところ、筆を執って立ちどころに成した。昉は言った、「荊南の秀気、果たして異才あり、後に仕えれば必ずや私を超えるであろう」。御史中丞楽藹は即ち之遴の舅であり、憲台の奏弾は皆之遴に草させた。後に荊州中従事となり、梁の簡文帝が荊州に臨むと、宣恵記室に遷った。之遴は篤学で明審、群籍を博覧し、時に劉顯・韋棱が共に強記と称されたが、之遴が毎に討論しても、皆及ばなかった。

原文年十五,舉茂才,明經對策,沈約、任昉見而異之。吏部尚書王瞻嘗候任昉,遇之遴在坐,昉謂瞻曰:「此南陽劉之遴,學優未仕,水鏡所宜甄擢。」即辟爲太學博士。昉曰:「爲之美談,不如面試。」時張稷新除尚書僕射,托昉爲讓表,昉令之遴代作,操筆立成。昉曰:「荊南秀氣,果有異才,後仕必當過僕。」御史中丞樂藹即之遴之舅,憲台奏彈,皆令之遴草焉。後爲荊州中從事,梁簡文臨荊州,仍遷宣惠記室。之遴篤學明審,博覽群籍,時劉顯、韋棱並稱強記,之遴每與討論,咸不過也。

累進して中書侍郎に遷り、後に南郡太守を除された。武帝は言った、「卿の母は年齢も徳も共に高い。故に卿に錦を衣て郷里に還らせ、栄養の理を尽くさせよう」と。西中郎湘東王繹の長史に転じ、太守は元の如し。初め、之遴が荊府に在った時、常に南郡に寄寓していたが、忽ち前の太守袁彖が夢に現れて言った、「卿は後に折臂太守となるであろう、即ち此の中に居する」と。之遴は後に牛が奔って車より墮ち、臂を折り、右手が偏って直し、再び屈伸を得ず、書くには手を以て筆に就け、歎いて言った、「豈に黥して王となるであろうか」。周舍は嘗て戯れて言った、「復た並坐して横たわる可しと雖も、政に陋巷に枕無きを恐る」と。後に連続して二王に相し、再び此の郡を為し、秘書監を歴任した。

原文累遷中書侍郎,後除南郡太守。武帝謂曰:「卿母年德並高,故令卿衣錦還鄉,盡榮養之理。」轉西中郎湘東王繹長史,太守如故。初,之遴在荊府,常寄居南郡,忽夢前太守袁彖謂曰:「卿後當爲折臂太守,即居此中。」之遴後牛奔墮車折臂,右手偏直,不復得屈伸,書則以手就筆,歎曰:「豈黥而王乎?」周舍嘗戲之曰:「雖復並坐可橫,政恐陋巷無枕。」後連相兩王,再爲此郡,曆秘書監。

出でて郢州行事となったが、之遴は出ることを願わず、固く辞して言った、「去年は命が巽を離れて絶え、敢えて東下せず、今年の忌む所は又西方に在り」と。武帝は手勅して言った、「朕聞く、妻子備われば孝は親に衰え、爵禄備われば忠は君に衰ゆと。卿は既に内足す、理として奉公の節を忘るべし」と。遂に有司に奏せられて免ぜられた。後に都官尚書、太常卿となった。

原文出爲郢州行事,之遴意不願出,固辭曰:「去歲命絶離巽,不敢東下;今年所忌又在西方。」武帝手敕曰:「朕聞妻子具,孝衰於親,爵祿具,忠衰於君。卿既內足,理忘奉公之節。」遂爲有司奏免。後爲都官尚書、太常卿。

之遴は古を好み奇を愛し、荊州に在って古器数十百種を聚め、一つの器は甌の如くして一斛を容れ得、上に金錯の字有り、時に人として能く知る者無し。又た古器四種を東宮に献じた。其の第一種は、銅を鏤める鴟夷榼二枚、両耳に銀鏤有り、銘に云う、「建平二年造」。其の第二種は、金銀錯鏤の古鐏二枚、篆銘有りて云う、「秦容成侯楚に適するの歳造」。其の第三種は、外国の澡灌一口、銘に云う、「元封二年、龜茲国献ず」。其の第四種は、古制の澡盤一枚、銘に云う、「初平二年造」。

原文之遴好古愛奇,在荊州聚古器數十百種,有一器似甌可容一斛,上有金錯字,時人無能知者。又獻古器四種於東宮。其第一種,鏤銅鴟夷榼二枚,兩耳有銀鏤,銘云:「建平二年造。」其第二種,金銀錯鏤古鐏二枚,有篆銘云:「秦容成侯適楚之歲造。」其第三種,外國澡灌一口,有銘云:「元封二年,龜茲國獻。」其第四種,古制澡盤一枚,銘云:「初平二年造。」

時に鄱陽嗣王范が班固の撰する所の漢書の真本を得て東宮に献じ、皇太子は之遴に張纘、到溉、陸襄等と参校して異同をさせ、之遴は其の異状数十事を録し、其の大略に云う、「古本漢書を案ずるに永平十六年五月二十一日己酉、郎班固上ると称し、而るに今本には上書の年月日子無し。又た古本を案ずるに叙伝は中篇と号し、今本は叙伝と称す。又た今本の叙伝は班彪の事行を載せるが、古本は云う、『彪自ら伝有り』。又た今本は紀及び表志列伝相合わざるを以て次と為し、而るに古本は相合うるを以て次と為し、総じて三十八巻を成す。又た今本は外戚を西域の後にし、古本は外戚を帝紀の下に次ぐ。又た今本は高五子、文三王、景十三王、孝武六子、宣元六王雑まじって諸伝帙の中に在り、古本は諸王悉く外戚の下に次ぎ、陳項伝の上に在り。又た今本の韓彭英盧呉の述に云う、『信は惟これ餓隸、布は実に黥徒、越も亦た狗盗、芮は江湖を尹ぬ。雲起こり龍驤りょうじょうし、化して侯王と為る』。古本の述に云う、『淮陰毅毅ぎき、剣を仗とりて周章す、邦の傑子、実に彭、英を惟れ。化して侯王と為り、雲起こり龍驤す』。又た古本の第三十七巻は音を解し義を釈し、以て雅詁を助く。而るに今本には此の巻無し」。

原文時鄱陽嗣王范得班固所撰漢書真本獻東宮,皇太子令之遴與張纘、到溉、陸襄等參校異同,之遴錄其異狀數十事,其大略云:「案古本漢書稱永平十六年五月二十一日己酉,郎班固上,而今本無上書年月日子。又案古本敘傳號爲中篇,今本稱爲敘傳,又今本敘傳載班彪事行,而古本云:「彪自有傳」。又今本紀及表志列傳不相合爲次,而古本相合爲次,總成三十八卷。又今本外戚在西域後,古本外戚次帝紀下。又今本高五子、文三王、景十三王、孝武六子、宣元六王雜在諸傳帙中,古本諸王悉次外戚下,在陳項傳上。又今本韓彭英盧吳述云:「信惟餓隸,布實黥徒,越亦狗盜,芮尹江湖。雲起龍驤,化爲侯王。」古本述云:「淮陰毅毅,仗劍周章,邦之傑子,實惟彭、英。化爲侯王,雲起龍驤。」又古本第三十七卷解音釋義,以助雅詁;而今本無此卷也。」

之遴は属文を好み、多く古体を学び、河東の裴子野、沛国の劉顯と恒に古籍を討論し、因って交好した。時に周易、尚書、礼記、毛詩並びに武帝の義疏有り、唯だ左氏伝尚だ闕けたり。之遴乃ち春秋大意十科、左氏十科、三伝同異十科を著す。合せて三十事を上る。帝大いに悦び、詔を以て答えて曰く、「省みる所撰の春秋義、事を比し書を論じ、辞微にして旨遠し、編年の教、言闡ひらけて義繁し。丘明は洙泗の風を伝え、公羊は西河の学を宗とし、鐸椒の解は追わず、瑕丘の説は取る無し。胡母に踵を継ぎ、仲舒雲の盛え、谷梁に因循し、千秋最も篤し。張蒼の左氏を伝え、賈誼の荀卿を襲う、源本分鑣ぶんびょうし、指帰殊致す。詳略紛然たり、其の来り旧し。昔弱年に在り、久しく研味を経たり。一たび遺置してより、将に五紀に迄らんとす。兼ねて晩秋の晷促きそくく、機事暇罕まれにし、夜分に衣を求めて、未だ遑いとまあらずして披おお括す。須まつ夏景を待ち、試みに推尋せんと欲す。若し温故して求む可くば、別に問う所に酬いん」。

原文之遴好屬文,多學古體,與河東裴子野、沛國劉顯恒共討論古籍,因爲交好。時周易、尚書、禮記、毛詩並有武帝義疏,唯左氏傳尚闕,之遴乃著春秋大意十科,左氏十科,三傳同異十科。合三十事上之。帝大悅,詔答曰:「省所撰春秋義,比事論書,辭微旨遠,編年之教,言闡義繁。丘明傳洙、泗之風,公羊宗西河之學,鐸椒之解不追,瑕丘之説無取。繼踵胡母,仲舒雲盛,因循谷梁,千秋最篤。張蒼之傳左氏,賈誼之襲荀卿,源本分鑣,指歸殊致,詳略紛然,其來舊矣。昔在弱年,久經研味,一從遺置,迄將五紀。兼晚秋晷促,機事罕暇,夜分求衣,未遑披括。須待夏景,試欲推尋,若溫故可求,別酬所問也。」

初め武帝は斉代に荊府諮議としており、時に之遴の父虬は百里洲に隠れ、早くより相知聞していた。帝偶たまたま匱乏し、虬の許に遣わして穀百斛を換えさせた。之遴時に父の側に在りて曰く、「蕭諮議は躓つまずく士、何ぞ能く舂うすひくを得ん、願わくは其の米を与えよ」と。虬之に従う。及って帝即位し、常に之を懐いし。侯景初め蕭正徳を以て帝と為し、之遴時に景の所に落ち、将に璽紱を授けさせんとす。之遴予め知り、仍よって髪を剃り法服を披いて乃ち免る。是に先立ち、平昌の伏挺出家す。之遴詩を為りて之を嘲りて曰く、「伏不斗と伝え聞く、化して支道林と為る」と。之遴乱に遇うに及び、遂に染服を披く、時に人之を笑う。

原文始武帝于齊代爲荊府諮議,時之遴父虬隱在百里洲,早相知聞。帝偶匱乏,遣就虬換穀百斛。之遴時在父側,曰:「蕭諮議躓士,云何能得舂,願與其米。」虬從之。及帝即位常懷之。侯景初以蕭正德爲帝,之遴時落景所,將使授璽紱。之遴預知,仍剃髮披法服乃免。先是,平昌伏挺出家,之遴爲詩嘲之曰:「傳聞伏不鬥,化爲支道林。」及之遴遇亂,遂披染服,時人笑之。

尋なく難を避けて郷里に還る。湘東王繹嘗て其の才学を嫉み、其の西上して夏口に至るを聞き、乃ち密かに薬を送りて之を殺す。人に知らしめんと欲せず、乃ち自ら志銘を製し、其の賻贈を厚くす。前後文集五十巻。

原文尋避難還鄉,湘東王繹嘗嫉其才學,聞其西上至夏口,乃密送藥殺之。不欲使人知,乃自製志銘,厚其賻贈。前後文集五十卷。

之遴の子、三達。

原文之遴子 三達

子三達は字を三善とす。数歳にして清言及び属文能し。州将湘東王繹之を聞き、盛んに賓客を集め、召して之を試みる。義を説き詩を属するに、皆理致有り。年十二、江陵令賀革の礼を講ずるを聴きて還り、仍って覆述し、一句も遺さず。年十八にして卒す。之遴深く悼恨を懐き、乃ち墓に題して曰く、「梁の妙士」と。以て之を旌す。之遴の弟之亨。

原文子三達字三善,數歲能清言及屬文。州將湘東王繹聞之,盛集賓客,召而試之。説義屬詩,皆有理致。年十二,聽江陵令賀革講禮還,仍覆述,不遺一句。年十八卒。之遴深懷悼恨,乃題墓曰:「梁妙士。」以旌之。之遴弟之亨。

之遴の弟、之亨。

原文之遴弟 之亨

之亨は字を嘉会とす。年四歳、出でて叔父嵩に後ぐ。長じて好学し、風姿美くしく、占対を善くす。武帝の荊州に臨むや、唯だ虬と談ず。虬之遴之亨を見す。帝曰く、「之遴は必ず文章を以て顕れ、之亨は当に功名を以て著しからん」と。後に州秀才を挙げ、大学博士を除かれ、仍って兄之遴に代わりて中書通事舍人と為る。累進して歩兵校尉、湘東王繹諮議参軍に遷り、勅して金策を賜い並びに詩を賜う。

原文之亨字嘉會,年四歲,出後叔父嵩。及長好學,美風姿,善占對。武帝之臨荊州,唯與虬談。虬見之遴之亨,帝曰:「之遴必以文章顯,之亨當以功名著。」後州舉秀才,除大學博士,仍代兄之遴爲中書通事舍人。累遷步兵校尉,湘東王繹諮議參軍,敕賜金策並賜詩焉。

大通六年、師を出して南鄭に至り、詔して湘東王に諸軍を節度せしむ。之亨は司農卿を以て行台承制と為り、途に本州北界を出で、総督眾軍し、節を杖きて西し、楼船戈甲甚だ盛んなり。老小岸に縁いて観て曰く、「是れ前に秀才を挙げし者なり」と。郷部之を偉いだる。是の行、大いに克復に致し、軍士功有る者は皆録せらる。唯だ之亨は蘭欽に訟えられ、執政因りて之を陥る。故に封賞行わず、但だ本位を復するのみ。久しくして、帝陳湯伝を読み、其の功を絶域に立てて文吏に抵ふせらるるを恨む。宦者張僧胤曰く、「外聞の論者、窃ひそかに劉之亨之に似たりと謂う」と。帝感悟し、乃ち臨江子に封ず。固く辞して拝せず。

原文大通六年,出師南鄭,詔湘東王節度諸軍。之亨以司農卿爲行台承制,途出本州北界,總督眾軍,杖節而西,樓船戈甲甚盛。老小緣岸觀曰:「是前舉秀才者。」鄉部偉之。是行也,大致克復,軍士有功皆錄,唯之亨爲蘭欽所訟,執政因而陷之,故封賞不行,但復本位而已。久之,帝讀陳湯傳,恨其立功絶域而爲文吏所抵。宦者張僧胤曰:「外聞論者,竊謂劉之亨似之。」帝感悟,乃封爲臨江子。固辭不拜。

之亨の美績嘉声は、朱異の右に在り。既に協わず、害せらるるを懼れ、故に美を出だし、以て之遴に代わりて安西東湘王繹長史、南郡太守と為す。上朱異に問うて曰く、「之亨兄に代わることを喜ばざるか。兄弟因循す、豈に直に大馮、小馮のみならんや」と。又た尚書令何敬容に謂いて曰く、「荊州長史、南郡太守は、皆僕射の出入りする所なり。今者の之亨は便ち九転なり」と。郡に在りて異績有り、吏人之を称す。卒す。荊土之を懐い、復た名を称せず、号して大南郡小南郡と為す。

原文之亨美績嘉聲,在朱異之右,既不協,懼爲所害,故美出之,以代之遴爲安西東湘王繹長史、南郡太守。上問朱異曰:「之亨代兄喜不?兄弟因循,豈直大馮、小馮而已。」又謂尚書令何敬容曰:「荊州長史、南郡太守,皆是僕射出入。今者之亨便是九轉。」在郡有異績,吏人稱之。卒,荊土懷之,不復稱名,號爲大南郡小南郡。

之亨の子、広徳。

原文之亨子 廣德

子の広徳もまた学問を好み、才気に任せて気概を持っていた。承聖年間(梁)、湘東太守の位にあった。魏が荊州を平定すると、王琳に依った。琳が平定されると、陳の太建年間、河東太守を歴任し、任地で没した。

原文子廣德,亦好學,負才任氣。承聖中,位湘東太守。魏平荊州,依于王琳。琳平,陳太建中,曆河東太守,卒官。

之亨の弟に之遅がいる。

原文之亨弟 之遲

之亨の弟の之遅は、荊州中従事史の位にあった。子の仲威は、若くして志と気概があり、広く文史に通じた。梁の承聖年間、中書侍郎となった。蕭莊が尊号を称すると、彼を御史中丞とし、蕭莊に従って鄴中で終わった。

原文之亨弟之遲,位荊州中從事史。子仲威,少有志氣,頗涉文史。梁承聖中,爲中書侍郎。蕭莊稱尊號,以爲御史中丞,隨莊終鄴中。

虬の従弟に坦がいる。

原文虬從弟 坦

坦は字を徳度といい、虬の従弟である。斉に仕えて孱陵令、南中郎録事参軍を歴任し、在任地では事務処理の才に優れたと称された。

原文坦字德度,虬從弟也。仕齊曆孱陵令,南中郎錄事參軍,所居以幹濟稱。

梁の武帝が兵を起こすと、当時輔国将軍楊公則が湘州刺史として、軍を率いて夏口に向かった。西朝(江陵の朝廷)で州の事務を代行する者を議論した際、坦が行くことを求め、輔国長史・長沙太守に任じられ、湘州刺史の事務を代行した。坦はかつて湘州に在任したことがあり、多くの旧恩があり、道で迎える者が非常に多かった。斉の東昏侯が安成太守劉希祖を遣わし、平都において西台(江陵朝廷)が選んだ太守范僧簡を破ると、希祖は湘州部内に檄文を移し、これにより始興内史王僧粲がこれに応じ、湘州部内の諸郡は、すべて蜂起ほうきした。州人は皆、舟に乗って逃げ去ろうとしたが、坦はすべて船を集めて焼き払った。前湘州鎮軍の鍾玄紹がひそかに僧粲に応じようとしていた。坦はその謀略を聞き、知らないふりをし、訴訟を処理するためと称して夜までかかり、城門を遂に閉めず、彼を疑わせた。玄紹はまだ発動するに至らず、翌朝、坦のもとに来てその理由を尋ねた。坦は長く彼を引き留めて語り、密かに親兵を遣わして彼の家を捜索させた。玄紹が座にいてまだ起たないうちに、捜索の兵が戻り、その文書の詳細をことごとく入手したことを報告した。玄紹はただちに自ら罪を認め、その場で斬られ、その文書は焼かれ、残党はすべて咎められなかった。

原文梁武帝起兵,時輔國將軍楊公則爲湘州刺史,帥師赴夏口。西朝議行州事者,坦求行,乃除輔國長史、長沙太守,行湘州刺史。坦嘗在湘州,多舊恩,道迎者甚眾。齊東昏遣安成太守劉希祖破西台所選太守范僧簡于平都,希祖移檄湘部,於是始興內史王僧粲應之,湘部諸郡,悉皆蜂起。州人咸欲泛舟逃走,坦悉聚船焚之。前湘州鎮軍鍾玄紹潛應僧粲,坦聞其謀,偽爲不知,因理訟至夜,城門遂不閉以疑之。玄紹未及發,明旦詣坦問其故。久留與語,密遣親兵收其家。玄紹在坐未起,而收兵已報具得其文書本末。玄紹即首伏,於坐斬之,焚其文書,餘党悉無所問。

梁の天監初年、功績により論じられて荔浦子に封じられた。三年、西中郎長史・蜀郡太守に遷り、益州の事務を代行した。蜀に至る前に、道中で没した。

原文梁天監初,論功封荔浦子。三年,遷西中郎長史、蜀郡太守,行益州事。未至蜀,道卒。

論

原文論

論じて言う。劉瓛兄弟と僧紹父子は、ともに専門の学業に優れ、儒者の行いをもって身を飾り、己を保つ節操は、苟かりそめに得て失うことを患う者とは異なっている。庾易と劉虬は一代の高名を博したが、その己を行う所以は、隠者の徳を兼ねた事柄であった。諸子の学業の美は、それぞれ家の名声を顕著にした。顕および之遴は時の主君に嫉まれ、あるいは罪なくして斥けられ、あるいは病なくして亡くなった。これは古来の哲王が己を屈して賢者に下る道とは異なり、武帝(梁の武帝)の度量が広くなく、元后(武帝)の猜疑心が多かったことを知る所以がある。梁の国統が永続しなかったことも、また当然ではないか。

原文論曰:劉瓛弟兄,僧紹父子,並業盛專門,飾以儒行,持身之節,異夫苟得患失者焉。庾易、劉虬取高一代,其所以行己,事兼隱德,諸子學業之美,各著家聲。顯及之遴見嫉時主,或以非罪而斥,或以非疾而亡,異夫自古哲王屈己下賢之道,有以知武皇之不弘,元後之多忌。梁祚之不永也,不亦宜哉。