庾杲之

庾杲之

杲之は幼少より孝行があり、宋の 司空 しくう 劉勉は彼を見て奇異とし、言うには、「卿を見れば江漢の崇望を足らしめ、杞梓の発声をさせる」と。解褐して奉朝請となり、次第に尚書駕部郎に遷った。清貧を自ら業とし、食うものはただ韭葅・瀹韭・生韭・雑菜のみであった。任昉はかつて戯れて言うには、「誰かが庾郎は貧しいと言うが、食鮭には二十七 を嘗めるという」と。

累遷して尚書左丞となった。王儉は人に謂って曰く、「昔、袁公が衛軍となった時、我を長史に用いようとしたが、就くことは得なかったとはいえ、意向はこのようなものであった。今もまた我が輩のような人を必要とするはずである」と。そこで杲之を衛将軍長史に用いた。安陸侯蕭緬は儉に書を送りて曰く、「盛府の元僚は、実にその選び難し。庾景行(杲之)が緑水に泛び、芙蓉に依る、何と麗しいことか」と。時に人は儉の府に入ることを蓮花池と称したので、緬の書はこれを称美したのである。

位して黄門吏部郎、御史中丞となり、大選に参じた。 まさ 貌は美しく、言葉と笑みを善くした。かつて侍中を兼ねて夾侍し、柳世隆が御座に在って、 ととの の武帝に謂って曰く、「庾杲之は蟬冕に映えて、ますます華采あり、陛下は故にまさに彼に即真を与うべきです」と。上は大いに悦んだ。王儉はなお曰く、「国家は杲之の清美を以て、その故に仮職を許すのである。もし彼を即真とするならば、まさに胡諧の後に在るべきです」と。武帝はかつて朝臣と謀略し、酒後に群臣に謂って曰く、「我が後には何の諡を得るであろうか」と。群臣に答える者無し。王儉は因って杲之に目をやり、従容として曰く、「陛下の寿は南山に等しく、方に日月と斉明ならんとし、千載の後、豈に臣子の軽々に仰ぎ量る所ならんや」と。時に人は雅にその弁答を歎じた。

杲之はかつて主客郎を兼ねて魏の使に対し、使は杲之に問うて曰く、「百姓はどうして家家門帖に題して宅を売るのか」と。答えて曰く、「朝廷は既に京洛を掃蕩し、神州を 復せんと欲するので、家家宅を売るのです」と。魏の使は鼻を縮めて答えなかった。

時に諸王は年少で、妄りに人に接することを得ず、杲之及び済陽の江淹に勅して五日に一度諸王に詣り、遊好を さしめた。再び尚書吏部郎に遷り、大選事に参じ、太子右衛率となり、通直常侍を加えられた。九年に卒し、上は大いにこれを惜しみ、諡して貞子と曰う。

杲之の叔 蓽

蓽は字を休野と曰い、杲之の叔父である。斉に仕えて驃騎功曹史となった。群書に博く渉り、口弁があった。永明中に魏と和親し、蓽を以て 散騎常侍 さんきじょうじ を兼ねさせ、使を報じて還り、散騎侍郎・知東宮管記事に拝された。

後に荊州別駕となり、前後の紀綱は皆富饒を致したが、蓽は再びこれを為し、身を清くして下を率い、請 かこつ を杜絶し、布被蔬食、妻子も飢寒を免れなかった。斉の明帝は聞いてこれを嘉し、手勅を以て褒美し、州裏これを栄とした。初め、梁州の人益州刺史鄧元起は功勳甚だ著しく、名地は卑瑣であったが、名を士流に掛けんことを願った。時に始興忠武王蕭憺が州将となり、元起の位は既に高く、解巾して先ず州官にせざれば、郷里に悉くされず、元起は上籍して出身州の従事となることを乞うた。憺は蓽に命じてこれを用いさせたが、蓽は従わなかった。憺は大いに怒り、蓽を召して責めて曰く、「元起は既に我が府を経ている、卿は何ぞ苟くも従事を惜しむのか」と。蓽曰く、「府は尊府、州は蓽が州、宜しく品藻を もち うべし」と。憺は折ることができず、遂に止めた。

累遷して会稽郡丞となり、郡府事を行った。時に雕弊の後を承け、百姓は凶荒に陁り、米一斗は数千に至り、人多く流散した。蓽は撫循すること甚だ理あり、ただ公祿を守り、清節ますます厲しく、日に経て火を挙げざるに至った。太守永陽王は聞いてこれを饋ったが、蓽は謝して受けなかった。

天監元年に卒し、屍を停めて れん むるに以て無く、柩は帰ることができなかった。梁の武帝はこれを聞き、詔して絹百疋、穀五百斛を賜う。

初め、蓽は西楚の望族であり、兄の子杲之はまた斉の武帝に寵有り、蓽は早く顕官を歴任した。郷人の楽藹は幹用有り、素より蓽と平らかでなく、互いに陵競した。藹は斉の 章王蕭嶷に事え、嶷が薨じると、藹は仕えて志を得ず、自ら歩兵 校尉 こうい より助けを求めて戍を帰り荊州に至った。時に蓽は州別駕であり、益々藹を忽せにした。梁の武帝が践祚すると、藹は西朝の勳を以て、御史中丞となり、蓽は始めて会稽行事を得たが、既にこれを恥じた。会うに職事微かに譴り有り、帝は藹がその郷人であるを以て、旨を宣してこれを誨えしめた。蓽は大いに憤り、故に病を発して卒した。

蓽の子 喬

子の喬はまた仕えて荊州別駕となり、時に元帝が荊州刺史であったが、州人の範興話は寒賤を以て仕えて九流を叨り、選ばれて州主簿となり、また皇太子の令がこれに及んだので、元帝は喬に勒して興話の到職を聴かしめた。元日に属して、府州朝賀するに及び、喬は列に就くことを肯わず、曰く、「庾喬は端右を忝くすも、小人範興話と雁行することを得ず」と。元帝は聞き、乃ち喬を進めて興話を停めた。興話は羞慚して家に還り憤死した。世は喬を以て家風を墜とさざりと為す。

喬の子 夐

喬の子の夐は幼少より聡明で、家は財産に富み、賓客を好み、食事には必ず鼎を列ねた。また容貌は豊かで美しく、頤頰が開張していたので、人々は皆、夐は必ず方伯となり、飢えに苦しむ心配はないと言った。しかし魏が江陵を陥落させると、ついに餓死に至った。当時また水軍 都督 ととく の褚蘿は顔つきが非常に尖って危うく、皺が口に入る相があったが、結局は衣食を保って終わった。

王諶

王諶は字を仲和といい、東海郡郯県の人で、晋の少傅王雅の玄孫である。祖父の慶は員外常侍であった。父の元閔は護軍司馬であった。

宋の大明年間、沈曇慶が徐州刺史となった時、王諶を迎主簿に辟召し、また州の迎従事、湘東王劉彧の国常侍、鎮北行参軍とした。劉彧が帝位につくと、これが明帝であるが、 司徒 しと 参軍に任じ、薛県令を帯び、兼中書舎人とした。王諶は学問と道理に通じ、親しく遇され、常に左右に侍った。帝の行うところは残酷で偏っていたので、王諶はたびたび諫めたが聞き入れられず、退任を請うたが、このことで尚方に拘禁された。

後に中書侍郎に任じられた。明帝は囲碁を好み、囲碁州邑を設置し、建安王劉休仁を囲碁州都大中正とし、王諶と太子右率沈勃、尚書水部郎庾珪之、彭城丞王抗の四人を小中正とし、朝請の褚思莊と傅楚之を清定訪問とした。後に尚書左丞となり、東観祭酒を領じた。これは明帝が設置した総明観である。黄門郎に遷った。

斉の永明初年、累進して 章王の太尉司馬となった。武帝は王諶と宋の明帝の世に遇い、非常に信任していた。黄門郎を歴任し、 ぎょう 騎将軍を領し、太子中庶子となった。

王諶は貞正で和やかで謹直であり、朝廷では善人と称され、多くの人々が彼と厚く交わった。八年、冠軍将軍・長沙王の車騎長史に転じ、廬江王の中軍長史に移り、また西陽王蕭子明の征虜長史に移り、南兗府州事を行った。王諶は若い頃貧しく、常に自ら紡績していたが、貴顕に通じて後も、しばしば人にそのことを語り、世間はその達観を称えた。九年に卒去した。

王諶の従叔 王摛

王諶の従叔の王摛は、博学で知られた。 尚書令 しょうしょれい 王儉がかつて才学の士を集め、虚実を総合的に校定し、物事を類別して隷属させた。これを隷事と言い、これが始まりである。王儉はかつて賓客に隷事をさせ、多い者に賞を与えた。事柄は皆尽き、ただ廬江の何憲が勝ち、五花簟と白団扇を賞として与えられた。何憲は簟に座り扇を執り、顔色は非常に得意であった。王摛が後から到着すると、王儉は隷事の内容を示して言った、「卿はこれを奪えるか」。王摛は筆を執ってすぐに成し、文章はすでに深遠で、言葉も華美であり、座中の者皆が賞賛した。王摛は左右に命じて何憲の簟を引き抜かせ、自ら手で扇を掴み取り、車に登って去った。王儉は笑って言った、「いわゆる大力の者これを負いて趨るというものだ」。竟陵王蕭子良が諸学士を校試したが、ただ王摛だけは問うて答えられないことがなかった。

秣陵令となり、清廉で正直であり、私的な請託は行わなかった。羽林隊主の潘敞は二宮(皇帝と皇太子)の寵愛を受け、その勢いは人主を傾けるほどであった。妻の弟が法を犯したので、潘敞は彼のために王摛に請うたが、王摛は書状を地に投げ捨て、さらに四十回鞭打った。潘敞は怒って讒言し、王摛は翌日には代官に替えられた。

永明八年、天が忽然と黄色く地を照らし、衆人は誰も解することができなかった。 司徒 しと 法曹の王融が金天頌を上奏した。王摛は言った、「これは金天ではなく、いわゆる栄光である」。武帝は大いに喜び、彼を永陽郡太守に任用した。後に尚書左丞の任で卒去した。

付録 何憲

何憲は字を子思といい、廬江郡灊県の人である。広く渉猟して該博に通じ、あらゆる典籍を読み尽くし、天閣(宮中書庫)の宝秘や、民間に散逸したものも、 おく 漏するところがなかった。任昉と劉渢が共に秘閣の四部書を手に取り、その知っていることを試しに問うたところ、甲から丁まで、書物について一事ずつ説き、併せてその著述の体裁を叙述し、幾日も夜を継いでも、遺漏しているところが見られなかった。同族の何遁は、退譲の士であったが、これを見て賞賛し、友となりたいと願った。

何憲は本州の別駕、国子博士の位にあった。永明十年に魏への使者となった。

付録 孔逷

時にまた孔逷(字は世遠)あり、会稽山陰の人なり。典故の学を好み、王儉と至交たり。昇明年中に斉台尚書儀曹郎となり、しばしば礼の欠点を諫め、多く信じられ採用された。上(蕭道成)は王儉に謂いて曰く、「逷は真に儀曹と謂うべき者、その職に辱しめず」と。儉が宰相となると、逷は常に帷幄で謀議し、選用に及ぶごとに、多く郷里の情を失うことあり。儉は従容として上に啓して曰く、「臣に孔逷あり、猶お陛下に臣ありが如し」と。永明年中に太子家令となりて卒す。時に人、孔逷・何憲を呼んで王儉の三公と為す。及び卒すや、儉これを惜しみ、祭文を撰す。

孔珪

孔珪、字は徳璋、会稽山陰の人なり。祖父の道隆は侍中の位にあり。父の霊産は泰始年中に晋安太守となり、隠遁の志あり。禹井山に館を立て、道に事えて精しく篤くす。吉日には静屋において四方に朝拝し、涕泣滂沱たり。東に出でて銭唐の北郭を過ぐれば、輙ち舟中にて遥かに杜子恭の墓を拝す。ここより都に至るまで、東に向かって坐し、敢えて背き側めず。元徽年中、中散大夫となり、星文を頗る解し、術数を好む。斉の高帝(蕭道成)が まさ を輔けるに及び、沈攸之が兵を起こすと、霊産は高帝に白して曰く、「攸之の兵衆は強しと雖も、天時冥数を以て観れば、為す能うこと無し」と。高帝その言を験し、 えら んで光禄大夫に遷し、簏(籠)を以て霊産を盛りて霊台に上らしめ、其の占候を令す。霊産に白羽扇・素隠几(白木の机)を餉りて曰く、「君は古人之風有り、故に古人の服を贈る」と。当世これを栄しとす。

珪は少より学渉し美誉有り、太守の王僧虔これを見て重んじ、主簿に引く。秀才に挙げられ、再び殿中郎に遷る。高帝が驃騎将軍となると、記室参軍に取り、江淹と対して辞筆を掌る。尚書左丞となり、父の憂いにより官を去る。兄の仲智と共に父の山舎に還り居る。仲智の妾の李氏は驕妬にして礼無く、珪は太守の王敬則に白してこれを殺さしむ。

永明年中、歴任して黄門郎・太子中庶子・廷尉となる。江左では晋の時の張斐・杜預の律二十巻を用いていたが、武帝(蕭賾)は法令に心を留め、数え囚徒を訊き、獄官に詔して旧注を詳しく正さしむ。先に尚書刪定郎の王植が律を撰定し、これを奏上し、その煩害を削り、その允衷(妥当なところ)を録し、張斐の注七百三十一条を取り、杜預の注七百九十一条を取り、或いは二家が両様に解釈して義が備わるものはまた百七条を取り、その注が同じものは百三条を取り、一書に集めて凡そ千七百三十二条、二十巻と為す。外に付して詳しく校せしめ、その違謬を摘ましむことを請う。詔してこれに従う。ここにおいて公卿八座が参議し、旧注を考正す。軽重の処あるに、竟陵王の子良は下意して多く軽きに従わしむ。その中で朝議して断じ難きものは、則ち制旨を以て平らかに決す。九年に至り、珪は おもて を上して律文二十巻・録序一巻を献じ、また律学助教を立て、五経の例に依らんことを請う。詔して報じてこれに従う。事竟に行われず。御史中丞に転ず。

建武初め、平西長史・南郡太守となる。珪は魏が連年南伐し、百姓死傷するを以て、表を上して通和の策を陳ぶ。帝従わず。侍中に征すも行かず、本任に留まる。珪は風韻清疎にして、文詠を好み、酒を七八斗飲む。外兄の張融と情趣相得、また琅邪の王思遠・廬江の何点・点の弟の胤と並びに款交し、世務を楽しまず。居宅に山水を盛んに営み、机に憑りて独り酌み、傍らに雑事無し。門庭の内、草萊を剪らず。中に蛙鳴く有り、或る人これに問いて曰く、「陳蕃たらんと欲するか」と。珪笑って答えて曰く、「我れこれを以て両部の鼓吹と当てつ、何ぞ必ずしも蕃に效わんや」と。王晏嘗て鼓吹を鳴らしてこれを候う。群蛙の鳴くを聞きて曰く、「これは殊に人耳を聒す」と。珪曰く、「我れ鼓吹を聴くも、殆どこれに及ばず」と。晏甚だ慚色有り。永元元年、都官尚書となり、太子詹事に遷り、 散騎常侍 さんきじょうじ を加う。三年、珪疾え、東昏侯(蕭宝巻)が屏除(清道)するに、床を以てこれを舁ぎて走らしむ。ここにより疾い甚だしく、遂に卒す。金紫光禄大夫を贈られる。

劉懷珍

劉懷珍、字は道玉、平 ゆる の人、漢の膠東康王劉寄の後なり。その先の劉植が平原太守となり、ここに因りて家す。祖父の昶は慕容徳に従って南し黄河を渡り、ここに因りて北海都昌に家す。宋の武帝が斉を平らぐると、これを青州中従事と為し、位は員外常侍に至る。伯父の奉伯は宋の世に位は陳・南頓二郡太守に至る。

懷珍は幼くして奉伯に従い寿陽に至る。 州刺史の趙伯符が狩りに出づ。百姓集まって観る中、懷珍独り避けて視ず。奉伯これを異とし、曰く、「此の児方に吾が家を興さん」と。本州より主簿に辟す。

元嘉二十八年、亡命の司馬順則が党を東陽に聚む。州は懷珍を遣わし数千人を将いて討ち平らぐ。宋の文帝、賊を破れる事を問う。懷珍は功を譲りて肯て当たらず。親人怪しみて問う。懷珍曰く、「昔、国子尼(国淵)は河間の級(首級)を陳ぶるを恥じたり。吾れ豈に邦域の捷を論ぜんや」と。時に人これを称す。

江夏王の義恭が盱眙に出鎮するに、道すがら懷珍に遇い、 まさ 対を見て重んじ、驃騎長史兼墨曹行参軍に取る。孝建初め、義恭の大司馬参軍・直閤将軍となり、府に随いて転じて太宰参軍となる。

大明二年、軍功を以て楽陵・河間二郡太守に拝され、広晋県侯の爵を賜う。 司空 しくう 竟陵王の誕、反す。郡人の王弼は門族甚だ盛んにして、懷珍を勧めて兵を起こし誕を助けしむ。懷珍これを殺す。帝その誠を嘉し、 章王の子尚の車騎参軍を除し、母の憂いにより職を去る。服闋(喪明け)して、江夏王の義恭に見ゆ。義恭曰く、「別れて多年、何ぞ老いざらんや」と。対えて曰く、「公の恩未だ報いず、何ぞ敢えて 便 すなわ ち老いんや」と。義恭その対を善しとす。

累遷して黄門郎となり、虎賁中郎将を領す。桂陽王の休範、反す。懷珍に前将軍を加え、石頭を守らしむ。出でて 州刺史となり、 都督 ととく を加う。建平王の景素、反す。懷珍は子の霊哲を遣わし兵を領して建鄴に赴かしむ。沈攸之が荊楚に在り、使人の許天保を遣わし説きて懷珍を結ばんとす。これを斬り、首を斉の高帝に送る。中宿県侯に封ぜられ、平南将軍に進み、二州の 都督 ととく を増す。

初め、宋の孝武帝の世、斉の高帝が舎人たりし時、懷珍は直閤たり。早くより旧知なり。懷珍が仮(休暇)を請い青州に還らんとする時、高帝に白驄馬有り。人を齧みて騎すべからず。別れに懷珍に送る。懷珍は報いて百匹の絹を上る。或る人懷珍に謂いて曰く、「蕭公の此の馬は騎すに中らず、是を以て君に与うるのみ。君百匹を報いる、亦多からずや」と。懷珍曰く、「蕭君の局量堂堂たり、寧くんぞ人に此の絹を負わん。吾れ方に身名を以て之に托さんと欲するのみ。豈に銭物の多少を計らんや」と。

高帝が政を輔けるに及び、懷珍の内資(蓄え)未だ多からざるを以て、都官尚書に徴し、前将軍を領す。第四子の晃を以て代わりに 州刺史と為す。或る人は懷珍が代わりを受けざるを疑う。高帝曰く、「我れ布衣の時、懷珍は便ち推 なつ 投款す。況んや今日においてをや、寧くんぞ異有らんや」と。晃が発して経日すれども、疑論止まず。上乃ち軍主の房霊人を遣わし百騎を領して進みて晃を送らしむ。霊人に謂いて曰く、「論者は懷珍必ず異同有らんと謂う。我れ之を期すること素より有り、必ず応に爾らず。卿は其の郷里なり、故に卿を行かしむ。新しきを衛うのみならず、亦故きを迎えんと為すなり」と。懷珍還り、乃ち相国右司馬を授く。

斉の朝廷が建てられると、朝士は人々争って臣下の吏となろうとしたが、懐珍は宋の朝廷の右衛に任ぜられた。懐珍は帝に言うには、「人々は皆新しいものを迎えようとしますが、臣はただ古いものを送るのみです。これは臣が本に篤実であるからでしょうか」と。斉の建元元年、左衛将軍に転じ、給事中を加えられ、霄城侯に改封された。

懐珍は年老いて、禁軍の勤務が辛労であったため、閑職を求め、光禄大夫に転じ、卒した。遺言は薄葬であった。雍州刺史を追贈され、諡して敬侯という。

懐珍の子、霊哲。

子の霊哲は字を文明といい、斉郡太守・前軍将軍の位にあった。霊哲の生母がかつて病にかかったとき、霊哲は自ら祈禱し、黄衣の老人が薬を与えて夢に見て言うには、「これを取って食せよ、疾はたちまち癒えよう」と。霊哲は驚いて目覚め、枕の間にそれを見つけ、言う通りにすると病は癒えた。薬は竹の根に似ており、斎舎の前に植えると、葉は鳧茈に似ていた。

嫡母の崔氏および兄の子の景煥は、泰始年中に魏に捕らえられた。霊哲は布衣の身であり、音楽を聴かなかった。懐珍が卒すると、爵位を継ぐべきであったが、霊哲は固く辞し、兄の子が魏におり、存亡が測れないので、みだりに爵土を越えて当たることはできないとした。朝廷はその義を認めた。

霊哲は財産を傾けて嫡母と景煥を贖おうとしたが、累年得ることができなかった。武帝はこれを哀れみ、北朝の使者に請わせると、魏人はこれを送り返して南に帰らせ、懐珍の封爵を継がせた。霊哲は兗州刺史の位にあり、隆昌元年に卒した。

懐珍の従父弟、峻。

峻は字を孝標といい、本名は法武、懐珍の従父弟である。父の琁之は、宋に仕えて始興内史となった。

峻が生まれて一ヶ月で琁之が卒し、その母の許氏は峻とその兄の法鳳を連れて郷里に帰った。宋の泰始初年、魏が青州を攻略し、峻は時に八歳で、人に略されて奴隷となり中山に至った。中山の富人劉寶は峻を哀れみ、束帛をもってこれを贖い、書学を教えた。魏人は彼が江南に親族があると聞き、さらに代都に移した。貧しくして自立できず、母とともに出家して尼僧となったが、やがて還俗した。峻は学問を好み、人の屋根の下に寄宿し、自ら課して読書し、常に麻の炬を燃やし、夕べから朝に至った。時に昏睡して、その鬚髪を焼くこともあったが、覚めるとまた読み、その精力はこのようであった。時に魏の孝文帝は人物の声望を尽くして選び、江南の人士で才学の徒は、皆引き抜かれたが、峻兄弟は選抜されなかった。

斉の永明年中、ともに江南に奔り、名を峻、字を孝標と改めた。自ら少時に悟りが開けず、晩年さらに精を励み、明慧人に過ぎた。見聞が広くないことを苦にし、異書があると聞けば、必ず借りを請いに行った。清河の崔慰祖はこれを「書淫」と呼んだ。ここにおいて群書を博く極め、文藻は秀でた。故にその自序に云う、「黌中に済々として皆堂に昇るあり、亦た愚者ありて衣裳を解く」と。その少年時の魯鈍を言うのである。時に竟陵王の子良が学士を招くと、峻は人に因って子良の国職を求めた。吏部尚書の徐孝嗣が抑えて許さず、南海王侍郎に用いようとしたが、就かなかった。斉の明帝の時に至り、蕭遙欣が 州となると、府の刑獄に引き入れ、礼遇は甚だ厚かった。遙欣はまもなく卒し、久しく調官されなかった。

梁の天監初年、西省に召し入れられ、学士の賀蹤とともに秘閣の書を校訂した。峻の兄の孝慶は時に青州刺史であり、峻は休暇を請いてこれを見舞い、禁物を私的に載せた罪で、有司に奏上されて官を免ぜられた。安成王の秀は峻を重んじ、安成王が荊州に遷ると、戸曹参軍に引き入れ、その書籍を与え、類苑を撰ばせた。未だ成らぬうちに、また病で去り、東陽の紫岩山に遊び、室を築いて住んだ。山棲志を作り、その文は甚だ美しかった。

初め、梁の武帝は文学の士を招き、高才の者は多く引き入れられ、次を超えて抜擢された。峻は率性に動き、衆に随って沈浮することができなかった。武帝はしばしば文士を集めて経史の事を策問し、時に范雲・沈約の徒は皆短を引き長を推し、帝は悦び、その賞賜を加えた。錦被の事を策問した際、皆言い尽くしたとすると、帝は試みに峻を呼んで問うた。峻は時に貧しく憔悴し冗散であったが、忽ち紙筆を請い、十余の事を疎らに挙げ、座客は皆驚き、帝は覚えず色を失った。ここよりこれを憎み、再び引見しなかった。峻の類苑が成ると、凡そ百二十巻、帝は即ち諸学士に命じて華林遍略を撰ばせてこれを圧倒させ、遂に用いられなかった。ここにおいて辯命論を著してその思いを寄せた。論が成ると、中山の劉沼が書を致してこれを難じ、凡そ再び反論し、峻は併せて申し析いてこれに答えた。沼が卒し、峻の後の返報を見ないうちに、峻は書を作ってその事を序した。その文論は多く載せられていない。

峻はまたかつて自序を作り、その略は次のように云う。

峻は元来将門であり、兄の法鳳は北より帰り、名を孝慶、字を仲昌と改めた。早くから幹略があり、斉の末に兗州刺史となり、兵を挙げて梁武帝に応じ、餘幹男に封ぜられ、官歴は顕重であった。峻は独り篤志好学し、東陽に住み、呉・会の人士は多くその学に従った。普通三年に卒し、年六十。門人は諡して玄靖先生という。

附 劉沼

劉沼は字を明信といい、中山郡魏昌県の人である。六世の祖は輿、晋の驃騎将軍であった。沼は幼くして文を綴ることを善くし、成長すると博学となり、位は秣陵令に終わった。

懷珍の 從子 おい に懷慰あり。

懷慰は字を彦泰といい、懷珍の從子である。祖父は奉伯、宋の元嘉年間に冠軍長史となった。父は乘人、冀州刺史となり、義嘉の事変にて死す。懷慰は喪に服し醯(酢)や醬を用いず、冬の日も綿入れの衣を用いず、孤となった弟妹を養い、寡婦となった叔母に仕えて、皆恩義があった。宋に仕えて尚書駕部郎となった。懷慰の同族の善明らは斉の高帝の心腹となり、懷慰もまたこれに預かった。

斉国が建てられると、上(高帝)は都の下に斉郡を置かんとした。議者は江右の土地が肥沃で、流民の帰するところであるとして、瓜歩にこれを置き、懷慰を輔国将軍・斉郡太守とした。上は懷慰に謂って曰く、「斉邦は王業の基づくところ、吾はまさにこれを顕要な任とせんと欲し、経理の事は一切卿に委ねる」と。また手敕して曰く、「文事あれば必ず武備あり、今卿に玉環刀一口を賜う」と。

懷慰が郡に至ると、城郭を修め、住民を安集し、廃田二百頃を開墾し、沈湖を決して灌漑した。礼謁を受けず、人が新米一斛を贈る者があれば、懷慰は自ら食する麦飯を示して曰く、「食うに余りあり、幸いにこれを煩わさず」と。ここに廉吏論を著してその意を達した。高帝これを聞き、手敕して褒賞した。秦・沛二郡の督を兼ねて進められ、妻子は都に在り、米三百石を賜う。兗州刺史柳世隆は懷慰に書を送りて曰く、「膠東(の龔遂)が流化をなし、潁川(の黄霸)が美を致したというが、今をもって古になぞらえても、何ぞ足らんや」と。

懷慰は本名を聞慰といったが、武帝即位の際、舅の名と同なるを以て、敕してこれを改めさせた。後に安陸王の北中郎司馬を兼ね、卒す。明帝即位の際、僕射徐孝嗣に謂って曰く、「劉懷慰がもし在らば、朝廷に清吏なきを憂えず」と。子に霽・杳・歊あり。

懷慰の子に霽あり。

霽は字を士湮といい、九歳にして左氏伝を誦することができた。十四歳で父の憂に服し、至性あり、哭くごとに血を嘔した。家貧しく、弟の杳・歊と共に志を励まし勤学した。成長すると、広く渉猟し多く通じた。梁の天監年間、西昌相、尚書主客侍郎、海塩令を歴任した。霽は前後二邑を宰とし、並びに和理をもって称された。後に建康令に除されたが、拝さず。

母の明氏が病臥すると、霽は年すでに五十、衣を解かず帯を緩めざること七十日、観世音経を数万遍誦した。夜中に夢を感じ、一僧を見て曰く、「夫人の算(寿命)尽きたり、君の精誠篤志、まさに相い為に申し延べん」と謂う。後六十余日にして乃ち亡くなった。霽は墓の側に廬し、哀慟礼を過ぎ、常に双の白鶴が廬の側を循い翔けり、処士阮孝緒が書を致して抑え譬えた。霽は思慕やまず、喪終わらざるに卒した。釋俗語八巻、文集十巻を著す。

懷慰の子に杳あり。

杳は字を士深といい、数歳の時、征士明僧紹これを見て、撫でて言うには、「この児は実に千里の駒なり」と。十三歳で父の憂に服し、哭くごとに、哀しみ行路の人を感動させた。梁の天監年間、宣恵 章王の行参軍となった。

杳は群書を博く綜べ、沈約・任昉以下は遺忘あるごとに、皆これを訪問した。嘗て約の座にて宗廟の犧樽に語及び、約云く、「鄭玄が張逸に答えて画鳳皇の尾の婆娑たるを謂うとす。今は復た此の器無ければ、則ち古に依らざるなり」と。杳曰く、「この言未だ必ずしも安んずべからず。古は樽彝皆木を刻みて鳥獣と為し、頂及び背を鑿ちて以て酒を出内す。魏の時魯郡の地中に斉の大夫子尾の女を送る器を得、犧樽ありて犧牛の形を為す。晋の永嘉年中、賊曹嶷が青州にて斉の景公の塚を発き又に二樽を得、形も亦た牛象を為す。二処皆古の遺器、虚ならざるを知る」と。約大いに以て然りと為す。約又云く、「何承天の纂文奇博、その書に張仲師及び長頸王の事を載す、これ何の出づる所ぞ」と。杳曰く、「仲師は長さ二寸、唯だ論衡に出づ。長頸は毗騫王、朱建安の扶南以南記に云く、'古来より今に至るまで死せず'と」と。約即ち二書を取りて尋検す、一に杳の言う如し。約が郊居の宅に時新たに閣斎を構うるや、杳は賛二首を為し、並びに撰ぶ所の文章を約に呈す、約即ち工書の人に命じてその賛を壁に題せしむ。 って杳に書を報い、共に相い歎美す。又任昉の座に在りし時、人が昉に沖酒を餉るもって搌の字を作る、昉杳に問う此の字是なるかと、杳曰く、「葛洪の字苑に木旁右に作る」と。昉又曰く、「酒に千日酔あり、当に虚言たるべし」と。杳曰く、「桂陽程郷に千里酒あり、これを飲みて家に至りて酔う。亦た其の例なり」と。昉大いに驚きて曰く、「吾自ら遺忘すべく、実に此れを憶えず」と。杳云く、「楊元鳳の撰する所の置郡事に出づ。元鳳は魏代の人、この書仍ち其の賦'三重五品、商溪況裏'を載す」と。昉即ち楊記を検す、言皆差えず。王僧孺は使を被りて譜を撰せんとし、杳に血脈の因る所を訪う。杳云く、「桓譚の新論に云く、'太史の三代世表は旁行邪上し、並びに周譜に效う'と。此れを以て推すに、当に周代に起るべし」と。僧孺歎じて曰く、「未だ聞かざるを得たりと謂うべし」と。周舍又杳に問う尚書の紫荷橐を著くる、相伝えて挈囊と云う、竟に何の出づる所ぞと。「杳曰く、「張安世伝に云く、'橐を おも ち筆を簪き、孝武皇帝に事うること数十年'と。韋昭・張晏の注並びに曰く、'橐は囊なり。筆を簪きて顧問を待つ'と」と。範岫は字書音訓を撰して又杳に訪う。尋いで周舍を佐けて国史を撰す。

出でて臨津令となり、善き績あり、秩満すると、県の三百余人 に詣でて留まることを請い、敕して許す。後に詹事徐勉が杳及び顧協ら五人を挙げて華林に入らせ遍略を撰せしめ、書成るや、晋安王府参軍を以て廷尉正を兼ね、足疾を以て解く。ここに林庭賦を著す、王僧孺見て歎じて曰く、「郊居(の賦)以後、復た此の作無し」と。累遷して尚書儀曹郎、僕射徐勉は台閣の文議を専ら杳に委ねた。出でて余姚令となり、県に在りて清潔なり。湘東王繹は教を発してこれを褒美す。

大通元年、歩兵 校尉 こうい となり、東宮通事舎人を兼ねる。昭明太子謂いて曰く、「酒は卿の好む所に非ざれど、酒厨の職を為すは、政に卿古人に愧じざるが為なり」と。太子に瓠の食器あり、因りてこれを賜いて曰く、「卿に古人之風あり、故に卿に古人之器を遺す」と。俄かに敕ありて裴子野に代わり著作郎事を知る。昭明太子薨じ、新宮建つや、旧人は例として留まる者無しと雖も、敕して特だ杳を留めしむ。僕射何敬容奏して杳を転じて王府諮議とせんとす、武帝曰く、「劉杳は須らく先ず中書を経るべし」と。仍って中書侍郎を除す。尋いで平西湘東諮議参軍となり、舎人・著作は旧の如く兼ねる。尚書左丞に遷り、卒す。

杳は清儉にして嗜好する所無く、母の憂に居るより、便ち長く腥膻を断ち、斎を保ち蔬食す。臨終遺命す、「法服を以て斂め、露車を以て載せ、旧墓に還葬し、随いて一地を得、棺を容るるのみとせよ。 霊筵 れいえん 及び祭醊を設くることを得ず」と。其の子これを行う。

『撰要雅』五巻、『楚辭草木疎』一巻、『髙士傳』二巻、『東宮新舊記』三十巻、『古今四部書目』五巻、文集十五巻、並びに世に行はる。

懷慰の子は歊。

歊は字を士光と云ふ。生まれた夕べ香気有り、氛氳として室に満つ。幼くして識慧有り、四歳にして父に喪ひ、群兒と同處するも、獨り戲弄せず。六歳にして論語・毛詩を誦し、意の解せざる所有れば、便ち問難す。十二にして莊子逍遙篇を讀みて曰く、「此れ解く可し」と。客之を問ふに、問ふに隨ひて答へ、皆情理有り、家人毎に之を異とし、神童と謂ふ。長ずるに及び、博學にして文才有り、娶らず仕へず、族弟の訏と並びに隱居して志を求め、林澤に遨遊し、山水書籍を以て相娯ぶるのみ。

母兄に奉じて孝悌を以て稱せられ、寢食左右を離れず。母意に須ふる所有り、口未だ言はざるに、歊已に先知し、手自ら營辦し、狼狽して供奉す。母毎に疾病有れば、歊の藥を進むるを夢み、翌日に轉じて間效有り、其の誠の感ふるや此の如し。性興樂を重んじ、尤も山水を愛し、危に登り嶮を履めば、必ず幽遐を盡くし、人及ぶ莫く、皆其の濟勝の具を有するを歎ず。常に人世を避けんと欲すれども、母老ゆるを以て忍びて違はず。毎に兄の霽・杳に隨ひて宦に從ふ。

少時施すを好み、務めて人の急を周し、人或ひは之を遺るも、亦拒まず。久しくして歎じて曰く、「人を受くる者は必ず報ず。然らざれば則ち人に愧づ有り。吾固より人に報ずるに以て無し。豈に常に愧を有す可けんや」と。天監十七年、忽ち革終論を著す。 以爲 おもえらく く、

形は無知の質、神は有知の性なり。有知は獨り存せず、無知に依りて自ら立つ。故に形の神に於けるは、逆旅の館のみ。其の死するに及び、神此の館を去り、速朽して理を得。是を以て子羽は川に沈み、漢伯は方壙し、文楚は黄壤に、士安は麻索す。此の四子は理を得たり。若し四子に從ひて游ばば、則ち平生の志を得ん。然れども積習は常を生じ、卒ちに改革し難く、一朝志を ほしいまま はせば、儻は從はれざるを見ん。今煩厚を翦截し、務めて儉易を存せんと欲す。進んでは裸屍せず、退いては常俗に異なり、存者の念を傷けず、至人の道に合はんとす。且つ張奐は止だ幅巾を用ひ、王肅は唯だ手足を盥し、范冉は斂畢りて便ち葬り、爰珍は筵几を設けず、文度は故舟を棺と爲し、子廉は牛車に柩を載せ、叔起は墳隴を絶つを誡め、康成は吉を卜はしめず。此の數公は、尚ほ或は之の如し。況んや吾人の爲りて、尚ほ華泰を尚ぶや。今景行に髣佛して、以て軌則と爲さんと欲す。氣絶すれば復魂を須ひず、盥漱して斂む。一千錢を以て成棺を市ひ、單なる故の裙衫、衣巾枕履。此の外送往の具、棺中の常物、一も施す所有るを得ず。世多く李・彭の言を信ず、惑ひと謂ふ可し。余は孔・釋を師と爲し、差はく此の惑無し。斂訖り、露車に載せて、舊山に歸り、隨ひて一地を得、地坎と爲るに足り、坎棺を容るるに足る。磚甓を須ひず、封樹を勞せず、祭饗を設けず、几筵を置かず。其の蒸嘗繼嗣は、言象の絶つ所、事身を餘すに止まり、世教を傷けず。

初め、訏の疾有りし時、歊心を盡くして救療し、卒するに及び哀傷し、之が爲に誄し、又た悲友賦を著して以て哀情を序す。忽ち老人有りて因無くして至り、謂ひて曰く、「君心力堅猛、必ず死生を破らん。但だ運會の至る所、一方に久しく留まるを得ず」と。彈指して去る。歊心其の異なるを知り、試みに遣りて之を尋ぬるも、其の在る所を知る莫し。是に於て信心彌篤し。既にして寢疾し、母に憂ひを貽すを恐れ、乃ち自ら笑言し、湯藥を勉めて進む。兄の霽・杳に謂ひて曰く、「兩兄祿仕し、供養を伸ぶるに足る。歊の泉に歸る、復た何の憾か有らん。願くは無益の悲を深く割かん」と。十八年、年三十二にして卒す。

初め沙門釋寶志、歊に興皇寺に遇ひ、驚き起ちて曰く、「隱居學道、淸淨登仙」と。此の如く三たび説く。歊未だ死せざるの春、人其の庭中に柿を栽ふ。歊兄の子弇に謂ひて曰く、「吾此の實を見ず、爾其れ言ふ勿れ」と。秋に至りて亡ぶ。人以て命を知ると爲す。親故其の行跡を誄し、諡して貞節處士と曰ふ。

先づ是に太中大夫琅邪の王敬胤、天監八年に卒す有り。遺命して「復魄旌旐を設くるを得ず、一の蘆笰を以て下に藉け、一枚を以て上を覆ふ。吾氣絶すれば便ち沐浴し、籃輿に屍を載せ、忠侯大夫の隧中に還る。若し此を行はざれば、則ち吾が屍を九泉に戮せよ」と。敬胤の外甥許慧詔、阮研に因りて以て聞こゆ。詔して曰く、「敬胤其の息崇素に令す、氣絶すれば便ち沐浴し、二蘆笰を以て藉け、地を鑿ちて身を周し、忠侯に歸葬せしむ。此れ達生の格言、賢夫の玉匣石槨遠し。然れども子の父命に於けるも、亦從ふ所有り從はざる所有り。今崇素若し遺意を信ぜば、土周淺薄、屬辟施さず、一朝狐鼠に見侵され、戮屍已に甚だし。父は以て子を訓ふ可く、子も亦之を行ふ可からず。外内棺を易ふるは、此れ自ら親に奉ずるの情、土を藉けて葬るは、亦ち通人の意なり。宜しく兩に舍て兩に取り、以て父子の志を達すべし。棺は身に周し、土は槨に周し、其の牲奠を去り、時服を以て斂む。一は以て情を申す可く、二は以て家に稱す可し。禮教違ふ無く、生死辱しむる無く、此れ故に安きと爲す可きなり」と。

懷珍の從孫は訏。

訏は字を彦度と云ふ。懷珍の從孫なり。祖は承宗、宋の太宰參軍。父は靈眞、齊の鎭西諮議・武昌太守。

訏幼くして純孝と稱せらる。數歳にして父母相繼ぎて卒す。吁喪に居りて哭泣孺慕し、幾くば滅性に至らんとす。吊に赴く者傷まざる莫し。後伯父に養はれ、伯母及び昆姊に事へ孝友篤至にして、宗族に稱せらる。自ら早く孤なるを傷み、人其の諱に誤り觸るる者有れば、未だ嘗て感結して流涕せざること無し。長兄の絜、妻を娉す。克日して婚を成さんとす。訏聞きて逃匿し、事息みて乃ち還る。

本州刺史の張稷、之を辟して主簿と爲す。主者檄を以て訏を召す。乃ち檄を樹に掛けて逃ぐ。陳留の阮孝緒博學隱居し、當世と交はらず、恒に一の鹿床に居り、竹木を環植し、其中に寢處す。時人之を造るも、未だ嘗て見ること無し。訏一たび造るを經て、孝緒即ち顧みて神交を以てす。訏の族兄の歊又た髙操を履み、三人日夕招攜す。故に都下之を三隱と謂ふ。

訏玄言に善くし、尤も意を釋典に精す。曾て歊と與に鍾山諸寺に講を聽き、因りて共に宋熙寺東澗に卜築し、終 ここ の志有り。尚書郎の何炯嘗て之に路に遇ひて曰く、「此人風神穎俊、蓋し荀奉倩・ えい 叔寶の流なり」と。命駕して門を造るも、拒みて見えず。族祖の孝標書を與へて之を稱して曰く、「訏超超越俗、半天の朱霞の如し。歊矯矯出塵、云中の白鶴の如し。皆儉歳の粱稷、寒年の纖纊なり」と。

訏嘗て穀皮巾を著け、納衣を披き、毎に山澤に遊ぶに、輒ち留連して返るを忘る。神理閑正、姿貌甚だ華なり。林穀の間に在りて、意氣彌遠し。或は之に遇ふ者有れば、皆神人と謂ふ。家甚だ貧苦にして、並日して食し、隆冬の月、或は氈絮無し。訏之に處するに晏然として、人其の饑寒なるを覺えず。少より長に至るまで、喜慍の色無し。毎に競ふ可きの地に於て、輒ち競はざるを以て之に勝つ。或は之に加ふるに陵する者有れば、退きて愧服せざる莫く、是に由りて衆論咸に歸重す。

天監十七年、歊の家にて卒す。臨終に歊の手を執りて曰く、「気絶すれば便ち斂し、斂畢れば即ち埋めよ、霊筵は一つも須いず立てるに及ばず。 饗祀 きょうし を設くる勿れ、継嗣を求むる無かれ」と。歊従ひて之を行ふ。 宗人 そうじん より至友に至るまで、相与に石を きざ み銘を立て、諡して玄貞処士と曰ふ。

懷珍の族弟 善明

善明は、懷珍の族弟なり。父は懷人、宋に仕えて斉・北海二郡の太守と為る。元嘉の末、青州饑荒し、人相食む。善明の家に積粟有り、 みずか 饘粥 せんしゅく を食し、倉を開きて救ひ、郷里多く 全済 ぜんさい を得、百姓其の家の田を呼んで続命田と為す。

善明少にして静処にて書を読み、刺史杜驥其の名を聞きて候ふも、辞して相見えず。年四十、 刺史劉道隆辟 して中従事と為す。懷人善明に謂ひて曰く、「我已に汝の身を立つるを知れり、復た汝の官を立つるを見んと欲す」と。善明辟に応じ、仍りて秀才を挙ぐ。宋の孝武帝其の策の強直なるを見て、甚だ之を異とす。

泰始初、徐州刺史薛安都反し、青州刺史沈文秀之に応ず。時に州は東陽城に居り、善明の家は郭内に在りて、自ら抜くる能はず。 伯父彌之詭 いつは りて文秀に説き自効を求め、文秀軍主の張霊慶等に五千人を領かしめて安都を援けしむ。彌之門を出で、密かに部曲に謂ひて曰く、「始めて禍坑を免れぬ」と。下邳に行き至りて、乃ち文秀に背く。善明の従伯懷恭は北海太守と為り、郡を りて相応ず。善明密かに ちぎ り、門宗部曲を収集し、三千人を得。夜に関を斬りて北海に奔る。族兄乗人又衆を勃海に聚めて以て朝廷に応ず。而して 彌之尋 まもな く薛安都に殺さる。明帝青州刺史を贈る。乗人を以て冀州刺史と為し、善明を以て北海太守と為し、尚書金部郎を除す。乗人病みて卒す。仍りて善明を以て冀州刺史と為す。文秀既に降り、善明を除して海陵太守と為す。郡境は海に ひ、樹木無し。善明人に課して 楡檟 ゆか 雑果を種えしめ、遂に其の利を得。還りて直閤将軍と為る。

五年、魏青州を克ち、善明の母其の中に在り、代郡に移し置く。善明布衣蔬食し、 哀戚 あいせき 喪に持むるが如し。明帝毎に見て、之が為に嘆息す。転じて巴西・梓潼二郡太守と為る。善明母の魏に在るを以て、西行を願はず、 泣涕 きゅうてい 固く請ひ、許さる。朝廷多く善明の心事を哀しみ、元徽初め北使を遣はし、朝議善明に人を挙げしむ。善明州郷の北平田恵紹を挙げて魏に使はし、母を贖ひて還らしむ。

時に宋の後廃帝新たに立ち、群臣政を執る。善明独り斉の高帝に事へ、身を委ね誠を帰す。出でて西海太守と為り、青・冀二州刺史を行ふ。善明の従弟僧副は善明と倶に郷里に於いて知名なり。泰始初、魏淮北を攻む。僧副部曲二千人を将ひて東に依り海島に往く。斉の高帝淮陰に在り、其の為す所を壮とし、召して相見え、引いて安成王撫軍参軍と為す。後廃帝暴を肆にす。高帝憂懼し、常に僧副に微行せしめ、声論を伺ひ察せしむ。使ひ密かに善明及び東海太守垣崇祖に告げしめ、魏兵を動かさしむ。善明静かにして之を待つを勧む。高帝之を納る。廃帝殺さる。善明高帝の驃騎諮議・南東海太守と為り、南徐州事を行ふ。沈攸之反す。高帝深く之を憂ふ。善明計を献じて曰く、「沈攸之八州を控引し、情を ほしいまま にし蓄斂し、賊志を 苞蔵 ほうぞう すること、焉に十年なり。性既に険躁にして、才持重に非ず。逆を起して累旬、遅回して進まず。豈に応に待つ所有らんや。一には兵機に闇く、二には人情離怨し、三には 掣肘 せいちゅう の患ひ有り、四には天其の魄を奪ふ。本より其の軽速を疑ひ、掩襲して未だ備はらざらんとす。今六師斉しく奮ひ、諸侯同く挙る。此れ已に籠の鳥なるのみ」と。事平ぐ。高帝善明を召し還都し、謂ひて曰く、「卿の沈攸之を策するは、張良・陳平と雖も たまたま 此の如きのみ」と。仍りて太尉右司馬に遷す。

斉臺建つ。右衛将軍と為る。疾を辞して拝せず。 司空 しくう 褚彦回善明に謂ひて曰く、「高尚の事は、乃ち卿の従来の素意なり。今朝廷方に相委待せんとす。 に便ち松・喬に学ばんや」と。善明答へて曰く、「我本より宦情無し。既に知己に逢ひ、以て 戮力 りくりょく して馳駆す。天地廓淸し、 朝廷済済 せいせい たり。 鄙吝 ひりん 既に申べ、敢へて富貴に くら きこと無し」と。

高帝践祚す。善明の勲誠を以て、之と禄を与へんと欲し、召して謂ひて曰く、「淮南は近畿、国の形勝、親賢に非ざれば居らず。卿我と臥して之を治めよ」と。乃ち明帝に代はりて淮南・宣城二郡太守と為す。使を遣はし拝授し、新淦伯に封ず。善明郡に至り、表を上して事を陳ぶ凡そ一十一条。其の一は以爲、「天地開創し、宜しく遠方を存問し、広く慈沢を宣ぶべし」。其の二は以爲、「京都は遠近の帰する所、宜しく医薬を遣はし、其の疾苦を問ひ、年九十以上及び六疾自ら存する能はざる者に、宜しきに随ひ量りて賜ふべし」。其の三は以爲、「宋氏の赦令、蒙り原さるる者寡し。愚謂ふ今赦書を下すに、宜しく事実相副はしむべし」。其の四は以爲、「劉昶猶ほ存す。容に能く死を送り境上すべし。諸城宜しく応に厳備すべし」。其の五は以爲、「宜しく宋氏の大明以来の苛政細制を除き、以て簡易を崇むべし」。其の六は以爲、「凡そ諸の土木の費は、且く しばら く停むべし」。其の七は以爲、「帝子王女は、宜しく儉約を崇むべし」。其の八は以爲、「宜しく百官及び府州郡県に詔し、 各讜言 とうげん たてまつ らしめ、以て唐・虞の美を弘広すべし」。其の九は以爲、「忠貞孝悌は、宜しく殊階を以て擢ぶべく、清儉苦節は、応に政務を以て授くべし」。其の十は以爲、「 革命惟 れ始め、宜しく才を択びて北使せしむべし」。其の十一は以爲、「交州は 険夐 けんけい にして、要荒の表なり。宋末政苛にして、遂に怨叛に至る。今宜しく恩徳を以て懐くべく、未だ応に遠く将士を労し、 辺甿 へんぼう を揺動すべからず」。又賢聖雑語を撰びて之を奏し、托けて諷諫す。上優詔を以て之に答ふ。

又宣陽門を起すを諫め、表を上して陳ぶ、「宜しく守宰の賞罰を明らかにし、学校を立て、礼を斉へ制し、賓館を開きて以て鄰国に接すべし」と。上答へて曰く、「夫れ賞罰を以て守宰を こら し、館を飾りて以て 遐荒 かこう を待つは、皆古の善政、吾の宜しく勉むべき所なり。更に新礼を撰ぶは、或いは制し易からず。国学の美は、已に公卿に勅す。宣陽門は今勅して停む。寡徳多く闕け、復た聞く有らんことを思ふ」と。

善明身長七尺九寸、質素にして声色を好まず。居る所の茅斎、斧木のみ。床榻几案、劃削を加へず。少くして節行を立て、常に云く、「家に在りては当に孝、吏と為りては当に清、 子孫楷栻 かいしょく 足れり」と。累ねて州郡と為るに及び、頗る財賄を けが す。崔祖思怪しみて之を問ふ。答へて曰く、「管子云ふ、鮑叔我を知る」と。因りて流涕して曰く、「方寸乱る。豈に廉を為る暇あらんや」と。得る所の金銭は皆以て母を贖ふ。母の至るに及び、清節方に峻し。歴る所の職、廉簡にして煩はさず、俸禄は親友に散ず。

崔祖思と友善し。祖思出でて青・冀二州と為る。善明書を遺りて旧を叙し、因りて 相勗 つと めて忠概を以てす。祖思の死を聞き、慟哭し、仍りて病を得。建元二年卒す。遺命して薄く ひん せしむ。左将軍・ 州刺史を贈り、諡して烈伯と曰ふ。子滌嗣ぐ。

善明の家に 遺儲 いちょ 無く、唯だ書八千巻有り。高帝其の清貧を聞き、滌の家に葛塘屯の穀五百斛を賜ひ、曰く、「葛屯も亦吾が垣下なり。後世に其の異を見るを知らしめよ」と。

善明の従弟僧副は字を士雲といい、前将軍の位にあり、豊陽男に封ぜられ、巴西・梓潼二郡太守の任にて卒した。上(皇帝)は功臣の画像と賛を図し、僧副もまたその中にあった。

兄の法護は字を士伯といい、学業あり、済陰太守の位にあった。

論に曰く、詩に「抑抑たる威儀、惟れ人の則なり」と称し、また云う「其の 儀忒 たが わず、正に是れ四国なり」と。夫れ杲之の風流の得るところ、休野の己を行う度、蓋し其れ有らんか。仲和の性履の遵うところ、徳璋の業尚の守るところ、殆ど人望なり。懷珍の宗族は文質斌斌たり、宋より梁に至るまで、時移り三代、或は隠節を以て高きを取り、或は文雅を以て重んぜらる。古人云う「言を立て徳を立てる」と、斯の門其れ之れ有らんか。

原本を確認する(ウィキソース):南史 巻049