南史

巻048

巻048

陸澄

原文陸澄

陸澄は字あざなを彦深といい、呉郡呉の人である。祖父の劭は臨海太守、父の瑗は州の従事であった。

原文陸澄字彥深,吳郡吳人也。祖劭,臨海太守。父瑗,州從事。

澄は若くして学問を好み、広く書物を読み、知らないことがなく、歩くときも座るときも眠るときも食事するときも、手から書物を離さなかった。宋の泰始初年、尚書殿中郎となり、皇后の諱いみなを下すにあたり、旧例に従って姓を称すべきであると議した。左丞の徐爰は司馬孚の議を引き、皇后は姓を称さず、春秋に王后を斉に迎えたときも、姓を言っていないと論じた。澄は己の考えで議を立てたため、官を免ぜられ、白衣のまま職務を掌った。

原文澄少好學,博覽無所不知,行坐眠食,手不釋卷。宋泰始初,為尚書殿中郎,議皇后諱班下應依舊稱姓。左丞徐爰案司馬孚議皇后不稱姓,春秋逆王后于齊,並不言姓。澄以意立議,坐免官,白衣領職。

郎官は旧来、杖罰に処せられることがあったが、名ばかりで実態はなく、澄は在官中に前後合わせて罰を受けた数が千に及んだ。後に左丞を兼ねた。

原文郎官舊坐杖,有名無實,澄在官積前後罰凡至千數。後兼左丞。

泰始六年、詔して皇太子の朝服を袞冕九章とすると、澄は儀曹郎の丘仲起と議して言うには、「冕服を着けて朝することは、経文に明らかであり、秦が六冕を廃したが、漢の明帝が再び備えた。魏・晋以来、臣下に袞冕を着せることを望まず、故に公の位にある者に侍官を加えた。今、皇太子の礼は群臣を絶するものであるから、聖王の盛典に従い、近代の制度を改めるべきである」。累進して御史中丞となった。

原文泰始六年,詔皇太子朝服袞冕九章,澄與儀曹郎丘仲起議:「服冕以朝,實著經文,秦除六冕,漢明還備。魏、晉以來,不欲令臣下服袞冕,故位公者加侍官。今皇太子禮絕群後,宜遵聖王盛典,革近代之制。」累遷御史中丞。

斉の建元元年、驃騎諮議の沈憲らの家の奴僕や客が強盗を働き、子弟が弾劾されたが、憲らは平然としていた。左丞の任遐が澄が糾弾しなかったことを奏上し、澄の官を免ずるよう請うた。澄は上表して自らを弁明し、旧例に左丞が中丞を糾弾する義はないと述べた。詔して外に詳しく議させた。尚書令の褚彦回が宋以来の事例を調べると、左丞が糾正し、中丞が糾弾せずに免官となった者は甚だ多く、澄を「浅聞薄見で、後世を惑わし、上は皇明を覆い隠し、下は朝議を籠絡する」と奏し、「現事をもって澄の居官を免ずることを請う」とした。詔して澄は白衣のまま職務を掌った。

原文齊建元元年,驃騎諮議沈憲等家奴客為劫,子弟被劾,憲等晏然。左丞任遐奏澄不糾,請免澄官。上表自理,言舊例無左丞糾中丞之義。詔外詳議。尚書令褚彥回檢宋以來左丞糾正而中丞不糾免官者甚眾,奏澄「謏聞膚見,貽撓後昆,上掩皇明,下籠朝議。請以見事免澄所居官」。詔澄以白衣領職。

永明元年、累進して度支尚書となり、まもなく国子博士を領した。尚書令の王儉がこれについて言うには、「昔、曹志・繆悦がこの官にあったが、君をその系譜に連ねても、初めから恥じる点はない」。儉はかつて澄に問うて言うには、「崇礼門には鼓があるが、未だかつて鳴らされたことがない。その意義はどこにあるのか」。答えて言うには、「江左の草創期、崇礼闥はすべて茅葺きであったため、鼓を設け、火事があればこれを叩いて衆を集めた。それが伝えられて今に至る」。また儉に書を送り、「王弼の易注は玄学の宗とされる。今、儒を弘めようとするならば、鄭玄の注を廃してはならない。また左氏伝の杜預の学の長所を述べる。穀梁伝には旧来、麋信の注があったが、近くは范寧を加えても、両立させるに足りない。世に一つの孝経があり、題して鄭玄注とされるが、その用語を見ると、注書の類いとは似ていない。案ずるに、鄭玄の自序に注した多くの書物を挙げているが、孝経はない。また小学の類いであり、帝典の中に列すべきではない」。

原文永明元年,累遷度支尚書,尋領國子博士。尚書令王儉謂之曰:「昔曹志、繆悅為此官,以君系之,始無慚德。」儉嘗問澄曰:「崇禮門有鼓而未嘗鳴,其義安在?」答曰:「江左草創,崇禮闥皆是茅茨,故設鼓,有火則扣以集眾,相傳至今。」又與儉書陳:「王弼注易,玄學之所宗。今若弘儒,鄭注不可廢。並言左氏杜學之長。谷梁舊有麋信,近益以范寧,不足兩立。世有一孝經,題為鄭玄注,觀其用辭,不與注書相類。案玄自序所注眾書,亦無孝經。且為小學之類,不宜列在帝典。」

儉は答えて言うには、「易の本体は微遠であり、実に群籍を貫くものである。どうして専ら王弼に拠るだけで該備できようか。旧来のまま鄭玄を存し、諸説と高く同じくする。杜預(元凱)の伝注は前儒を超えている。穀梁伝は小書であり、両注を俟つ必要はない。麋信を存し范寧を略するのは、旧式に従うものである。凡そこれらの諸議は、皆雅論と同じである。孝経が鄭玄の注でないことを疑うが、僕はこの書が百行の首を明らかにし、実に人倫の先たるものであり、七略・芸文志ともにこれを六芸の中に陳べており、蒼頡篇・凡将篇の類いとはしない。鄭注の虚実は、前代も嫌わなかった。意として安んずべきものとし、旧来のまま置く」。

原文儉答曰:「易體微遠,實貫群籍,豈可專據小王便為該備,依舊存鄭,高同來說。元凱注傳,超邁前儒,谷梁小書,無俟兩注。存麋略範,率由舊式。凡此諸議,並同雅論。疑孝經非鄭所注,僕以此書明百行之首,實人倫所先,七略、藝文並陳之六藝,不與蒼頡、凡將之流也。鄭注虛實,前代不嫌,意謂可安,仍舊立置。」

儉は自ら博聞多識をもって任じ、読書量は澄を超えていた。澄はこれについて言うには、「僕は若い頃から他事がなく、ただ読書を業としてきた。かつ年齢も地位も既に高い。令君は若くから王事に鞅掌し、たとえ一覧して諳んじても、見た巻軸は必ずしも僕より多くはあるまい」。儉は学士の何憲らを集めて盛んに自ら論議したが、澄は儉の語が終わるのを待ち、その後、遺漏した数百十条を談じ、皆、儉の未だ見ざるところであった。儉は乃ち嘆服した。儉が尚書省で巾箱・几案・雑服飾を出し、学士で事務を多く担当する者に与えよと命じると、人人は各々一二の物を得た。澄が後から来て、さらに諸人の知らぬ事を出し、また各々数条ずつ述べ、併せて旧物を奪い去った。

原文儉自以博聞多識,讀書過澄。澄謂曰:「僕少來無事,唯以讀書為業;且年位已高。令君少便鞅掌王務,雖復一覽便諳,然見卷軸未必多僕。」儉集學士何憲等盛自商略,澄待儉語畢,然後談所遺漏數百十條,皆儉所未睹。儉乃嘆服。儉在尚書省出巾箱几案雜服飾,令學士隸事事多者與之,人人各得一兩物。澄後來,更出諸人所不知事,復各數條,並舊物奪將去。

転じて散騎常侍、秘書監、呉郡中正、光禄大夫となり、給事中を加えられ、まもなく国子祭酒を領した。竟陵王の子良が古器を得た。小口で方腹、底は平らで七八升を容れることができ、澄に問うた。澄は言うには、「これは服匿という名で、単于が蘇武に与えたものである」。子良が器の底を詳しく見ると、字があり、彷徨として識別でき、澄の言う通りであった。

原文轉散騎常侍,秘書監,吳郡中正,光祿大夫,加給事中,尋領國子祭酒。竟陵王子良得古器,小口方腹,而底平可容七八升,以問澄。澄曰:「此名服匿,單于以與蘇武。」子良詳視器底有字,彷佛可識,如澄所言。

隆昌元年、老病のため、光禄大夫に転じ、散騎常侍を加えられたが、拝せずに卒した。諡して静子といった。

原文隆昌元年,以老疾,轉光祿大夫,加散騎常侍,未拜,卒,諡靜子。

澄は当世において碩学と称され、易を三年読んでも文義が解けず、宋書を撰そうとしたが遂に成さなかった。王儉が戯れて言うには、「陸公は書厨である」。家には多くの墳籍があり、人の見る所は稀であった。地理書及び雑伝を撰し、死後に出た。

原文澄當世稱為碩學,讀易三年不解文義,欲撰宋書竟不成。王儉戲之曰:「陸公,書廚也。」家多墳籍,人所罕見,撰地理書及雜傳,死後乃出。

澄の弟の鮮は、宋の世に罪を得て、死に当たった。澄が路で舎人の王道隆に会い、頭を叩いて流血したため、これによって原赦された。揚州主簿の顧測が二人の奴を鮮に質入れして銭を得たが、鮮が死ぬと、子の暉が買券であると誣った。澄が中丞であったため、測は遂に澄に抑えられ、世はこれをもって澄を軽んじた。

原文澄弟鮮,得罪宋世,當死。澄于路見舍人王道隆叩頭流血,以此見原。揚州主簿顧測以兩奴就鮮質錢,鮮死,子暉誣為買券。澄為中丞,測遂為澄所抑,世以此少之。

陸慧曉

原文陸慧曉

陸慧曉は字を叔明といい、呉郡呉の人で、晋の太尉玩の玄孫である。玩から慧曉の祖父の万載に至るまで、代々侍中となり、皆名声と行いがあった。慧曉の伯父の仲元もまた侍中となり、当時の人はこれを金日磾・張安世の二族に比した。

原文陸慧曉字叔明,吳郡吳人,晉太尉玩之玄孫也。自玩至慧曉祖萬載,世為侍中,皆有名行。慧曉伯父仲元,又為侍中,時人方之金、張二族。

父の子真は、宋に仕えて海陵太守となった。時に中書舎人の秋當が寵愛を受け、家は海陵にあり、仮を請うて父を葬ろうとしたが、子真は彼と連絡を取らなかった。當が人夫を発して橋を修理することを請うたが、また農事を妨げるとして許さなかった。彭城王義康はこれを聞いて賞賛した。王僧達は貴公子の子孫で、才をもって物に傲り、呉郡太守となった時、昌門に入って言うには、「あそこには人物がいる。顧琛は一公二掾、英英たる門戸。陸子真は五世内侍、我が流れの類いである」と。子真は臨海太守から眼疾のため帰り、中散大夫となり、卒した。

原文父子真,仕宋為海陵太守。時中書舍人秋當見幸,家在海陵,假還葬父,子真不與相聞。當請發人修橋,又以妨農不許。彭城王義康聞而賞之。王僧達貴公子孫,以才傲物,為吳郡太守,入昌門曰:「彼有人焉。顧琛一公兩掾,英英門戶;陸子真五世內侍,我之流亞。」子真自臨海太守眼疾歸,為中散大夫,卒。

慧曉は清廉で節操正しく、交遊を濫りにせず、同郡の張緒がこれを称えて言うには、「江東の裴・楽である」と。初め州郡に辟召され、秀才に挙げられ、諸府の行参軍を歴任し、母が老いたため家に帰り侍養し、十余年間仕えなかった。

原文慧曉清介正立,不雜交遊,同郡張緒稱之曰:「江東裴、樂也。」初應州郡辟,舉秀才,曆諸府行參軍,以母老還家侍養,十餘年不仕。

斉の高帝が政を輔けると、尚書殿中郎に除された。隣族が来て祝うと、慧曉は酒を挙げて言うには、「陸慧曉は年齢三十を過ぎ、婦人の父が選挙を領して、初めて尚書郎となった。卿ら輩がまた慶賀とするのか」と。

原文齊高帝輔政,除為尚書殿中郎。鄰族來相賀,慧曉舉酒曰:「陸慧曉年踰三十,婦父領選,始作尚書郎,卿輩乃復以為慶邪?」

高帝が奢侈禁止の表を上奏すると、慧曉が詔答の草文を撰し、帝に賞賛され、太傅東閣祭酒に引かれた。斉の建元初年、太子洗馬に遷った。廬江の何點は常に「慧曉の心は鏡を照らすが如く、形に遇い物に触れて、朗然とせざるはない。王思遠は常に氷を懐くが如く、暑月にも霜気あり」と称した。当時これを実録と認めた。

原文高帝表禁奢侈,慧曉撰答詔草,為帝所賞,引為太傅東合祭酒。齊建元初,遷太子洗馬。廬江何點常稱「慧曉心如照鏡,遇形觸物,無不朗然。王思遠恒如懷冰,暑月亦有霜氣」。當時以為實錄。

慧曉と張融とは並んで宅しており、その間に池があり、池の上に二株の楊柳があった。點は歎じて言うには、「この池はすなわち醴泉、この木はすなわち交譲である」と。武陵王曄が会稽を守ると、上は精選して僚吏とし、慧曉を征虜功曹とし、府参軍の沛国の劉璡と共に述職に従った。璡は清廉な士であり、行って呉に至り、人に謂うには、「張融と慧曉とが並宅し、その間に水があると聞く。これには必ず異なる味があるだろう」と。故に駕を命じて往き酌んでこれを飲み、言うには、「この水を飲めば、鄙吝の萌しは尽きる」と。

原文慧曉與張融並宅,其間有池,池上有二株楊柳。點歎曰:「此池便是醴泉,此木便是交讓。」及武陵王曄守會稽,上為精選僚吏,以慧曉為征虜功曹,與府參軍沛國劉璡同從述職。璡清介士也,行至吳,謂人曰:「吾聞張融與慧曉並宅,其間有水,此必有異味。」故命駕往酌而飲之。曰:「飲此水,則鄙吝之萌盡矣。」

何點が慧曉を豫章王嶷に薦め、司空掾を補し、恩礼を加えられた。累遷して安西諮議、冠軍録事参軍を領した。

原文何點薦慧曉于豫章王嶷,補司空掾,加以恩禮。累遷安西諮議、領冠軍錄事參軍。

武帝の第三子の廬陵王子卿が南豫州刺史となると、帝はその小名を称して司徒竟陵王子良に謂うには、「烏熊は熊の如く痴であり、天下第一の人を行事とせずんば、一州を圧するに足らぬ」と。既にして言うには、「我、人を得たり」と。乃ち慧曉を長史・行事とした。別に帝が問うには、「卿は何をもって廬陵を輔持するか」と。答えて言うには、「静を以て身を修め、儉を以て性を養う。静なれば則ち人擾わず、儉なれば則ち人煩わさず」と。上は大いに悦んだ。

原文武帝第三子廬陵王子卿為南豫州刺史,帝稱其小名謂司徒竟陵王子良曰:「烏熊癡如熊,不得天下第一人為行事,無以壓一州。」既而曰:「吾思得人矣。」乃使慧曉為長史、行事。別帝,問曰:「卿何以輔持廬陵?」答曰:「靜以修身,儉以養性。靜則人不擾,儉則人不煩。」上大悅。

後に司徒右長史となった。時に陳郡の謝朏が左長史であり、府公の竟陵王子良が王融に謂うには、「我が府の前世は誰に比すべきか」と。融曰く、「明公の二上佐は、天下の英奇であり、古来比類を見るに少ない」と。子良は西邸で書を抄し、慧曉にこれを参知せしめた。

原文後為司徒右長史。時陳郡謝朏為左長史,府公竟陵王子良謂王融曰:「我府前世誰比?」融曰:「明公二上佐,天下英奇,古來少見其比。」子良西邸抄書,令慧曉參知其事。

尋いで西陽王征虜・巴陵王後軍・臨汝公輔国の三府長史に遷り、府州事を行った。また西陽王左軍長史となり、会稽郡丞を領し、郡事を行った。隆昌元年、晉熙王冠軍長史・江夏内史に徙り、郢州えいしゅう事を行った。慧曉は五政を歴輔し、立身は清粛であり、僚佐以下が造詣すれば、必ず起って送った。或る者が慧曉に謂うには、「長史は貴重なり、妄りに自ら謙屈すべからず」と。答えて言うには、「我が性は人の無礼を悪み、礼を以て人に処さざるを得ざるなり」と。未だ嘗て士大夫を卿と呼ばず、或る者がその故を問うと、慧曉曰く、「貴人は卿とすべからず、賤者のみ卿とすべし。人生何ぞ軽重を懐抱に立つるを容れん」と。終身常に人の位を呼んだ。

原文尋遷西陽王征虜、巴陵王后軍、臨汝公輔國三府長史,行府州事。復為西陽王左軍長史,領會稽郡丞,行郡事。隆昌元年,徙為晉熙王冠軍長史、江夏內史,行郢州事。慧曉曆輔五政,立身清肅,僚佐以下造詣,必起送之。或謂慧曉曰:「長史貴重,不宜妄自謙屈。」答曰:「我性惡人無禮,不容不以禮處人。」未嘗卿士大夫,或問其故,慧曉曰:「貴人不可卿,而賤者乃可卿,人生何容立輕重於懷抱。」終身常呼人位。

建武初年、西中郎長史を除し、行事・内史は元の如し。俄かに黄門郎に征され、未だ拝せず、吏部郎に遷った。尚書令の王晏は門生を選んで内外の要局に補したが、慧曉は数人を用いて止めた。晏はこれを恨んだ。女妓一人を送り、好みを申さんとしたが、慧曉は納れなかった。吏曹都令史は歴政以来選事を諮執してきたが、慧曉は己を任せて独行し、未だ嘗て語らなかった。帝は主書の単景雋を遣わして謂うには、「都令史は旧貫に諳悉す。共に参懐すべし」と。慧曉は景雋に謂うには、「六十の年、復た能く都令史に諮って吏部郎たらんとはせず。上若し身の堪えざるを謂わば、便ち当に衣を拂って退かん」と。帝は甚だこれを憚った。後に侍中に用いんとしたが、形が短小なるを以て遂に止めた。出て晉安王鎮北司馬・征北長史・東海太守となり、府州事を行った。入って五兵尚書となり、揚州事を行った。崔慧景の事が平定すると、右軍将軍を領した。出て南徐州を監した。朝議また侍中とせんとしたが、王亮曰く、「済・河には人を須う。今しばらく朝廷よりこれを借り、以て南兗州を鎮せしめよ」と。王瑩・王志皆曰く、「侍中は弥に英華を須う。方鎮には猶お選ぶ者あるべし」と。亮曰く、「その二者を角すれば、則ち貂璫は緩く、寇を拒むは切なり。当今朝廷甚だ弱し。切なる者に従うべし」と。乃ち輔国将軍・南兗州刺史とし、督を加えた。鎮に至り、俄かに疾を以て帰った。卒し、太常を贈られた。

原文建武初,除西中郎長史,行事、內史如故。俄征黃門郎,未拜,遷吏部郎。尚書令王晏選門生補內外要局,慧曉為用數人而止。晏恨之。送女妓一人,欲與申好,慧曉不納。吏曹都令史曆政來諮執選事,慧曉任己獨行,未嘗與語。帝遣主書單景雋謂曰:「都令史諳悉舊貫,可共參懷。」慧曉謂景雋曰:「六十之年,不復能諮都令史為吏部郎也。上若謂身不堪,便當拂衣而退。」帝甚憚之。後欲用為侍中,以形短小乃止。出為晉安王鎮北司馬、征北長史、東海太守,行府州事。入為五兵尚書,行揚州事。崔慧景事平,領右軍將軍。出監南徐州。朝議又欲以為侍中,王亮曰:「濟、河須人,今且就朝廷借之,以鎮南兗州。」王瑩、王志皆曰:「侍中彌須英華,方鎮猶應有選者。」亮曰:「角其二者,則貂璫緩,拒寇切。當今朝廷甚弱,宜從切者。」乃以為輔國將軍、南兗州刺史,加督。至鎮,俄爾以疾歸。卒,贈太常。

三子:僚・任・倕、並びに美名あり、当時の人はこれを三陸と謂った。初め慧曉に兗州を授けると、三子は次第に各々一つの譲表を作り、辞は並びに雅麗で、当時の人は歎伏した。

原文三子:僚、任、倕並有美名,時人謂之三陸。初授慧曉兗州,三子依次第各作一讓表,辭並雅麗,時人歎伏。

陸僚

原文陸僚

僚は学問が子史に渉り、微言に長じた。姿容美しく、鬚眉画くが如し。位は西昌侯長史・蜀郡太守。

原文僚學涉子史,長於微言。美姿容,鬚眉如畫。位西昌侯長史、蜀郡太守。

陸倕

原文陸倕

倕は字を佐公といい、少より勤学し、文を属するに善かった。宅内に二つの茅屋を起し、往来を杜絶し、昼夜読書し、この如きこと数歳。読むこと一遍すれば、必ず口に誦した。嘗て人の漢書を借り、五行志四巻を失い、乃ち暗写してこれを返し、略々遺脱無し。幼くして外祖父の張岱に異とされた。岱は嘗て諸子に謂うには、「此の児は、汝が家の陽元なり」と。十七歳、本州の秀才に挙げられた。刺史竟陵王子良が西邸を開き、英俊を延べると、倕はこれに預かった。

原文倕字佐公,少勤學,善屬文。於宅內起兩茅屋,杜絕往來,晝夜讀書,如此者數歲。所讀一遍,必誦於口。嘗借人漢書,失五行志四卷,乃暗寫還之,略無遺脫。幼為外祖張岱所異。岱嘗謂諸子曰:「此兒,汝家陽元也。」十七,舉本州秀才。刺史竟陵王子良開西邸,延英俊,倕預焉。

梁の天監初年、右軍安成王の主簿となり、楽安の任昉と友誼を結び、知己を感ずる賦を作って昉に贈り、昉はこれにより名を以て報いた。昉が中丞となると、簪裾が輻湊し、その宴に預かる者は、殷芸、到溉、劉苞、劉孺、劉顯、劉孝綽及び倕のみであり、号して「龍門の遊」と言った。貴公子孫といえども預かることはできなかった。臨川王の東曹掾に遷った。

原文梁天監初,為右軍安成王主簿,與樂安任昉友,為感知己賦以贈昉,昉因此名以報之。及昉為中丞,簪裾輻湊,預其燕者,殷芸、到溉、劉苞、劉孺、劉顯、劉孝綽及倕而已,號曰:「龍門之遊。」雖貴公子孫不得預也。遷臨川王東曹掾。

梁の武帝は倕の才能を殊に愛し、乃ち新漏刻銘の撰を勅し、その文は甚だ美しかった。太子中舎人に遷り、また詔して石闕銘を作らせ、勅してこれを褒め称え、絹三十匹を賜った。累遷して太常卿となり、卒した。子の纘は早くから聡明で、七歳にして経書に通じ、童子郎となったが、卒した。次ぎの緬は、倕に似ており、一見して殆ど区別がつかなかった。

原文梁武帝雅愛倕才,乃敕撰新漏刻銘,其文甚美。遷太子中舍人,又詔為石闕銘,敕褒美之,賜絹三十匹。累遷太常卿,卒。子纘早慧,七歲通經,為童子郎,卒。次緬,有似於倕,一看殆不能別。

陸繕

原文陸繕

繕は字を士繻といい、倕の兄の子である。父の任は、御史中丞であった。繕は幼い時より志操があり、雅正をもって知られた。梁の承聖年間、中書侍郎となり、東宮の管記を掌った。魏が江陵を平定すると、繕は微服して建鄴に遁還した。

原文繕字士繻,倕兄子也。父任,御史中丞。繕幼有志尚,以雅正知名。梁承聖中,為中書侍郎,掌東宮管記。魏平江陵,繕微服遁還建鄴。

紹泰元年、司徒右長史・御史中丞に除されたが、父の任がその職で終わったことを以て、固辞した。陳の武帝が輔政となると、司徒司馬となった。武帝が受命すると、侍中の位にあった。出て新安太守となった。文帝が位を嗣ぐと、中庶子に徴され、歩兵校尉を領し、東宮の管記を掌った。繕は儀表端麗で、進退は閑雅であり、趨歩躡履する様は、文帝が太子や諸王に皆これを則とさせた。

原文紹泰元年,除司徒右長史、御史中丞,以父任所終,固辭。陳武帝作輔,為司徒司馬。及受命,位侍中。出為新安太守。文帝嗣位,徵為中庶子,領步兵校尉,掌東宮管記。繕儀錶端麗,進退閒雅,趨步躡履,文帝使太子諸王咸取則焉。

後に再び御史中丞に拝されたが、やはり父がその職で終わったことを以て固辞したが、許されず、乃ち仮に官舎を換え、移ってそこに居住させた。太建年間、度支尚書、侍中、太子詹事、尚書右僕射を歴任した。まもなく左僕射に遷り、選事を参掌した。別勅により徐陵ら七人と政事を参議した。卒し、特進を贈られ、諡して安子といった。繕が東宮の旧臣であったことを以て、特に祖奠を賜った。

原文後復拜御史中丞,猶以父所終,固辭,不許,乃權換廨宇,徙以居之。太建中,曆度支尚書,侍中,太子詹事,尚書右僕射。尋遷左僕射,參掌選事。別敕與徐陵等七人參議政事。卒,贈特進,諡曰安子。以繕東宮舊臣,特賜祖奠。

繕の子の辯慧は、数歳の時、詔により殿内に引き入れられ、進止に父の風があり、宣帝はこれにより名を辯慧、字を敬仁と賜った。

原文繕子辯慧,年數歲,詔引入殿內,進止有父風,宣帝因賜名辯慧字敬仁。

繕の兄の子の見賢もまた方正雅量で、少府卿の位に至り、卒した。

原文繕兄子見賢亦方雅,位少府卿,卒。

陸閑

原文陸閑

閑は字を遐業といい、慧曉の兄の子である。風概があり、人と交わるに苟も迎合せず、若くして同郡の張緒に知られた。仕えて揚州別駕に至った。斉の明帝が崩ずると、閑は親しい者に言った、「宮車晏駕し、百官は将に塚宰に聴かんとす。主王は地重くして才弱く、必ず振るわず、難将に至らん」。乃ち心疾を感じ、再び州事に預からなかった。

原文閑字遐業,慧曉兄子也。有風概,與人交不苟合,少為同郡張緒所知。仕至揚州別駕。齊明帝崩,閑謂所親人曰:「宮車晏駕,百司將聽塚宰。主王地重才弱,必不能振,難將至矣。」乃感心疾,不復預州事。

永元末、刺史始安王遙光が東府に拠って乱を起こすと、或る者が去ることを勧めた。閑は言った、「吾は人吏たり、何ぞ死を逃れん」。台軍が城を攻め陥とすと、閑は綱佐として収められ、杜姥宅に至り、尚書令徐孝嗣が閑は逆謀に預からなかったと啓上した。未だ報に及ばず、徐世標がこれを殺すことを命じた。閑に四子あり、厥、絳、完、襄である。絳は字を魏卿といい、時に閑に随い、頸を抱いて代わりに死ぬことを求めたが、得られず、遂に身を以て刀刃を蔽い、行刑者はともにこれを害した。

原文永元末,刺史始安王遙光據東府作亂,或勸去之。閑曰:「吾為人吏,何可逃死。」台軍攻陷城,閑以綱佐被收,至杜姥宅,尚書令徐孝嗣啟閑不預逆謀。未及報,徐世標命殺之。閑四子:厥、絳、完、襄也。絳字魏卿,時隨閑,抱頸求代死,不獲,遂以身蔽刀刃,行刑者俱害之。

陸厥

原文陸厥

厥は字を韓卿といい、若くして風概があり、文を属することを好んだ。斉の永明九年、詔して百官に士を挙げさせ、同郡の司徒左西曹掾顧暠之が表を上って厥を推薦し、州は秀才に挙げた。

原文厥字韓卿,少有風概,好屬文。齊永明九年,詔百官舉士,同郡司徒左西曹掾顧暠之表薦厥,州舉秀才。

時に盛んに文章が作られ、呉興の沈約、陳郡の謝朓、琅邪の王融が気類を以て相推轂し、汝南の周顒は声韻を識るに善かった。約らの文は皆宮商を用い、平上去入の四声を以て、これにより韻を制し、平頭、上尾、蜂腰、鶴膝あり。五字の中、音韻悉く異なり、両句の内、角征同じからず、増減すべからず。世にこれを「永明体」と呼んだ。沈約が宋書謝霊運伝の後にまたこの事を論じると、厥は約に書を送って言った。

原文時盛為文章,吳興沈約、陳郡謝朓、琅邪王融以氣類相推轂,汝南周顒善識聲韻。約等文皆用宮商,將平上去入四聲,以此制韻,有平頭、上尾、蜂腰、鶴膝。五字之中,音韻悉異,兩句之內,角征不同,不可增減。世呼為「永明體」。沈約宋書謝靈運傳後又論其事,厥與約書曰:

范詹事の自序に、「性宮商を別ち、清濁を識り、特能く軽重に適し、艱難を済す。古今の文人多く斯の処を全く了せず、縦ひ此れに会する者有りと雖も、必ずしも根本の中より来らず」と。尚書も亦云う、「霊均以来、此の秘未だ睹ず。或は暗に理と合ひ、思ひより至るに匪ず。張、蔡、曹、王曾て先覚無く、潘、陸、顔、謝之を去ること弥遠し」と。大旨は「宮商相変じ、低昂節を舛くし、若し前に浮声有らば、則ち後須らく切響有るべく、一簡の内、音韻尽く殊なり、両句の中、軽重悉く異なる」ことを欲す。辞既に美しく、理又善し。但だ歴代の衆賢を観るに、此の処に都て暗からざるに似たり。而るに「此の秘未だ睹ず」と云うは、誣いに近からずや。案ずるに范の云う「根本の中より来らず」、尚書の云う「思ひより至るに匪ず」とは、斯れ情を揣るに玄黄に謬り、句を擿するに其の音律を著すなり。范又云う「時に此れに会する者有り」、尚書云う「或は暗に理と合ふ」とは、則ち美詠清謳、辞章調韻する者有りと雖も、差謬有りと雖も、亦会合有り。此を推して往けば、言ふを得べし。夫れ思ひに合離有り、前哲同じく免れざる所、文に開塞有り、即ち事之無きを得ず。子建の人の譏弾を好む所以、士衡の篇を終へて恨みを遺す所以なり。既に遺恨と曰へば、尽美の作に非ず。理詆訶す可し。君子其の詆訶を執りて、便ち理に合ふを暗しと謂ふは、豈其の理に合ふを指して、詆訶を寄せて遺恨と為すに如かんや。

原文范詹事自序:「性別宮商,識清濁,特能適輕重,濟艱難。古今文人多不全了斯處,縱有會此者,不必從根本中來。」尚書亦云:「自靈均以來,此秘未睹。或暗與理合,匪由思至。張、蔡、曹、王曾無先覺,潘、陸、顏、謝去之彌遠。」大旨欲「宮商相變,低昂舛節,若前有浮聲,則後須切響,一簡之內,音韻盡殊,兩句之中,輕重悉異」。辭既美矣,理又善焉;但觀歷代眾賢似不都闇此處,而云:「此秘未睹」,近於誣乎。案范云:「不從根本中來」,尚書云:「匪由思至」,斯則揣情謬于玄黃,擿句著其音律也。范又云:「時有會此者」,尚書云:「或闇與理合」。則美詠清謳,有辭章調韻者,雖有差謬,亦有會合。推此以往,可得而言。夫思有合離,前哲同所不免,文有開塞,即事不得無之。子建所以好人譏彈,士衡所以遺恨終篇。既曰遺恨,非盡美之作。理可詆訶,君子執其詆訶,便謂合理為闇,豈如指其合理,而寄詆訶為遺恨邪。

魏の文帝(曹丕)が論を著して以来、清濁を以て言うことを深くし、劉楨が書を奏して、体勢の致を大いに明らかにした。齟齬と妥怗との談、操末と續巔との説は、律呂に玄黄を興し、五色の相宣ぶるに比す。もしこの秘められたることを未だ睹ざれば、この論は何を指すところとするや。愚かには謂う、前の英傑は既に早く宮徴を識れりと。ただ未だ屈曲して指的にせず、今の論の申すところの如くならざるのみ。瑕を掩い疾を蔵し、合うこと少なく謬ること多きに至っては、則ち臨淄(曹植)の云うところ「人の著述は、病無き能わず」というものなり。知りて改めざるに非ず、改めざれば則ち知らずと謂う、これ曹・陸のまた「情を竭くすは悔多く、力を強いるべからず」と称する所以なり。今、病有り悔有りを以て言うことを許すならば、則ち必ず自ら悔無く病無きの地を知るべし。その了せず合わざるを引きて闇と為すは、何ぞ独りその一合し一了するの明を誣うるや。意うに、また質文時に異なり、今古好み殊なるか、将に急なるは情物に在りて、章句に緩やかなるか。情物は文の急とする所、美悪猶お且つ相半ばす。章句は意の緩む所、故に合うこと少なくして謬ること多し。義は斯に兼ねるも、必ず知らざるに非ざるは明らかなり。長門・上林は、殆ど一家の賦に非ず。洛神・池雁は、便ち二体の作と成る。孟堅(班固)は精正にして、詠史も東主(班固の「詠史詩」)に虧けず。平子(張衡)は恢富にして、羽獵も憑虚(張衡の「羽獵賦」)に累わさず。王粲の初征は、他の文未だ是に称する能わず。楊修の敏捷も、暑賦は弥日献ぜず。率意に寡尤なれば、則ち事は一日に促く、翳翳として愈伏すれば、而して理は七歩に賒し。一人の思、遅速天に懸け、一家の文、工拙壤に隔つ。何ぞ独り宮商律呂に必ずその一なることを責むるや。論者は乃ち未だその致を窮めざると言うべく、曾て先覚無しと言うべからず。約答えて曰く。

原文自魏文屬論,深以清濁為言,劉楨奏書,大明體勢之致。齟齬妥怗之談,操末續巔之說,興玄黃於律呂,比五色之相宣。苟此秘未睹,茲論為何所指邪?愚謂前英已早識宮征,但未屈曲指的,若今論所申。至於掩瑕藏疾,合少謬多,則臨淄所云:「人之著述,不能無病。」者也。非知之而不改,謂不改則不知,斯曹、陸又稱「竭情多悔,不可力強。」者也。今許以有病有悔為言,則必自知無悔無病之地。引其不了不合為闇,何獨誣其一合一了之明乎?意者亦質文時異,今古好殊,將急在情物,而緩於章句。情物,文之所急,美惡猶且相半;章句,意之所緩,故合少而謬多。義兼於斯,必非不知明矣。長門、上林,殆非一家之賦,洛神、池雁,便成二體之作。孟堅精正,詠史無虧於東主,平子恢富,羽獵不累於憑虛。王粲初征,他文未能稱是,楊修敏捷,暑賦彌日不獻。率意寡尤,則事促乎一日,翳翳愈伏,而理賒于七步。一人之思,遲速天懸,一家之文,工拙壤隔,何獨宮商律呂必責其如一邪?論者乃可言未窮其致,不得言曾無先覺也。約答曰:

宮商の声には五あり、文字の別は累万なり。累万の繁を以て、五声の約に配せば、高下低昂、思力の学ぶ所に非ず、また止むこと斯の若きのみに非ず。十字の文、顛倒して相配すれば、字十を過ぎずとも、巧曆已に尽くす能わず、況んや復た此れを過ぐる者に於いてをや。霊均(屈原)以来、未だこれを懐抱に用いたること無く、固より其の髣髴を得る由無し。斯の如き妙にして、聖人尚ばざるは、何ぞや。これ蓋し曲折声韻の巧、訓義に当たらず、聖哲玄言の急とする所に非ざればなり。是を以て子雲(揚雄)は之を「彫虫篆刻」に譬え、「壮夫為さず」と云えり。古より辞人、豈に宮羽の殊、商徴の別を知らざらんや。五音の異を知ると雖も、而して其中の参差変動、昧くする所実に多し。故に鄙意の所謂「此の秘未だ睹ず」というものなり。此れを以て推すならば、則ち前世の文士、便ち未だ此の処を悟らざるを知る。若し文章の音韻を以て、弦管の声曲に同じくせば、美悪妍蚩、頓に相乖反するを得ず。譬えば猶お子野(師曠)の曲を操るが如く、安んぞ忽ち闡緩失調の声有らんや。洛神を以て陳思(曹植)の他の賦に比すれば、異手の作に似たる有り。故に天機啓なれば、則ち律呂自ずから調い、六情滞れば、則ち音律頓に舛うことを知る。士衡(陸機)は縟錦の若く煥たりと云うと雖も、寧んぞ江波に色を濯ぎ、其中に復た一片は衛文の服なる有らんや。此れ則ち陸生の言、即ち復た尽くさざる者なり。韻と不韻とは、復た精粗有り。輪扁言う能わず、老夫も亦た此れを尽く弁ぜず。約の四声を論ずるは、妙に詮弁有り。而して諸賦も亦た往々声韻に乖く。

原文宮商之聲有五,文字之別累萬。以累萬之繁,配五聲之約,高下低昂,非思力所學,又非止若斯而已。十字之文,顛倒相配,字不過十,巧曆已不能盡,何況復過於此者乎?靈均以來,未經用之於懷抱,固無從得其髣佛矣。若斯之妙,而聖人不尚,何耶?此蓋曲折聲韻之巧,無當於訓義,非聖哲玄言之所急也,是以子雲譬之「雕蟲篆刻」,云:「壯夫不為」。自古辭人豈不知宮羽之殊、商征之別。雖知五音之異,而其中參差變動,所昧實多,故鄙意所謂「此秘未睹。」者也。以此而推,則知前世文士,便未悟此處。若以文章之音韻,同弦管之聲曲,美惡妍蚩,不得頓相乖反,譬猶子野操曲,安得忽有闡緩失調之聲。以洛神比陳思他賦,有似異手之作,故知天機啟,則律呂自調,六情滯,則音律頓舛也。士衡雖云煥若縟錦,寧有濯色江波,其中復有一片是衛文之服。此則陸生之言,即復不盡者矣。韻與不韻,復有精粗,輪扁不能言之,老夫亦不盡辯此。約論四聲,妙有詮辯,而諸賦亦往往與聲韻乖。

時に王斌という者有り。何の許の人なるかを知らず。『四声論』を著して時に行わる。斌初め道人と為り、経籍に博く渉り、雅に才弁有り、文を属するに善くし、唱導能くすと雖も容儀を修めず。嘗て弊衣を瓦官寺にて雲法師の成実論を講ずるを聴くに、坐する処復た無く、唯だ僧正慧超尚お空席有り。斌直ちに其の側に坐す。慧超平らかならず、乃ち罵して曰く、「那ぞ此の道人を得ん、禄蔌隊父の似くして人を唐突す」と。因りて之を駆るを命ず。斌笑いて曰く、「既に叙勲僧正有り、何ぞ為ん隊父道人無からんや」と。動かず。而して機を撫でて問難すれば、辞理清挙にして、四座皆目を属す。後に還俗し、詩楽を以て自ら楽しむ。人能く之を名づく莫し。

原文時有王斌者,不知何許人。著《四聲論》行于時。斌初為道人,博涉經籍,雅有才辯,善屬文,能唱導而不修容儀。嘗弊衣於瓦官寺聽雲法師講成實論,無復坐處,唯僧正慧超尚空席,斌直坐其側。慧超不能平,乃罵曰:「那得此道人,祿蔌似隊父唐突人。」因命驅之。斌笑曰:「既有敘勳僧正,何為無隊父道人。」不為動。而撫機問難,辭理清舉,四座皆屬目。後還俗,以詩樂自樂,人莫能名之。

永元元年、始安王遙光反す。厥の父閑誅せられ、厥坐して尚方に繋がる。尋いで赦有り。厥感慟して卒す。年二十八。文集世に行わる。

原文永元元年,始安王遙光反,厥父閑被誅,厥坐系尚方。尋有赦,厥感慟而卒,年二十八。文集行於世。

時に会稽の虞炎有り。文学を以て沈約と俱に文恵太子の遇う所と為り、意眄殊常なり。官驍騎將軍に至る。

原文時有會稽虞炎以文學與沈約俱為文惠太子所遇,意眄殊常,官至驍騎將軍。

陸襄。

原文陸襄

襄は字して師卿、厥の第四弟なり。本名は衰、字して趙卿。奏事する者有りて誤って字を襄と為す。梁の武帝乃ち襄と改めて字を師卿と為す。

原文襄字師卿,厥第四弟也。本名衰字趙卿,有奏事者誤字為襄,梁武帝乃改為襄字師卿。

天監三年、都官尚書范岫表を上て襄を薦む。起家して著作佐郎と為る。後、昭明太子統、襄の業行を聞き、武帝に啓して引いて遊処せしむ。廬陵王記室より除して太子洗馬と為り、遷って中舎人と為り、並びに管記を掌る。出でて揚州中従事と為る。父此の官に終わりしを以て、固く辞す。武帝許さず、府司馬と廨を換えて之に居ることを聴す。

原文天監三年,都官尚書范岫表薦襄,起家著作佐郎。後昭明太子統聞襄業行,啟武帝引與遊處。自廬陵王記室除太子洗馬,遷中舍人,並掌管記。出為揚州中從事,以父終此官,固辭。武帝不許,聽與府司馬換廨居之。

昭明太子耆老を敬う。襄の母年将に八十に及ぶ。蕭琛・傅昭・陸杲と每月常に遣わして存問し、珍羞衣服を加えて賜う。襄の母常に卒然として心痛を患う。医方須いる所三升の粟漿。時に冬月、日又暮れに逼る。求索するも所無し。忽ち老人門に詣で漿を貨す。量方剤の如し。始めて直を酬いんと欲す。間も無く之を失う。時に襄の孝感の致す所と為す。

原文昭明太子敬耆老,襄母年將八十,與蕭琛、傅昭、陸杲每月常遣存問,加賜珍羞衣服。襄母常卒患心痛,醫方須三升粟漿。時冬月,日又逼暮,求索無所,忽有老人詣門貨漿量如方劑。始欲酬直,無何失之,時以襄孝感所致。

後、太子家令と為り、復た管記を掌る。母憂にて職を去る。襄年已に五十、毀頓礼を過ぐ。太子之を憂い、日使を遣わして誡喻す。

原文後為太子家令,復掌管記,母憂去職。襄年已五十,毀頓過禮,太子憂之,日遣使誡喻。

中大通七年、鄱陽内史と為る。是に先立ち郡人鮮于琮服食して道法を修め、常に山に入り薬を採る。五色の幡毦を拾い、又地中に石璽を得て、窃かに之を怪しむ。琮先ず妻と別室す。琮の処する所を望むに常に異気有り。益々以て神と為す。大同元年、遂に門徒を結び広晋令王筠を殺し、上願元年と号し、官属を署置す。其の党転相誑惑し、衆万余人有り。将に出でて郡を攻めんとす。襄先んじ已に人吏を率い城隍を修めて備えと為す。及び賊至りて之を破り、生け捕りに琮を得る。時に隣郡豫章・安成等の守宰其の党与を案ず。因りて貨賄を求む。皆其の実を得ず。或は善人尽く室を以て禍に罹る有り。唯だ襄の郡は枉直濫る無し。人歌を作して曰く、「鮮于抄して後善悪分かる。人横死無きは陸君に頼む」と。

原文中大通七年,為鄱陽內史。先是郡人鮮于琮服食修道法,常入山采藥,拾得五色幡毦,又於地中得石璽,竊怪之。琮先與妻別室,望琮所處常有異氣,益以為神。大同元年,遂結門徒殺廣晉令王筠,號上願元年,署置官屬。其黨轉相誑惑,有眾萬餘人,將出攻郡。襄先已率人吏修城隍為備,及賊至破之,生獲琮。時鄰郡豫章、安成等守宰案其黨與,因求貨賄,皆不得其實。或有善人盡室罹禍,唯襄郡枉直無濫。人作歌曰:「鮮于抄後善惡分,人無橫死賴陸君。」

又た彭・李の二家有り。先ず忿争に因り、遂に相誣告す。襄之を内室に引き入れ、責誚を加えず。但だ和言を以て之を解喻す。二人恩を感じ、深く自ら悔咎す。乃ち酒食を設けて其の歓を尽くさしめ、酒罷みて同載して還る。因りて相親厚し。人又た歌して曰く、「陸君の政、怨家無し。闘既に罷み、讎共に車にす」と。政に在ること六年、郡中大いに寧し。郡人李睍等四百二十人闕に詣で表を拝し、襄の徳化を陳べ、郡に於いて碑を立てんことを求む。勅を降して之を許す。又た表して襄の留まることを乞う。襄固く還ることを乞う。

原文又有彭、李二家,先因忿爭,遂相誣告。襄引入內室,不加責誚,但和言解喻之。二人感恩,深自悔咎。乃為設酒食令其盡歡,酒罷同載而還,因相親厚。人又歌曰:「陸君政,無怨家。鬥既罷,讎共車。」在政六年,郡中大寧。郡人李睍等四百二十人詣闕拜表,陳襄德化,求於郡立碑,降敕許之。又表乞留襄,襄固乞還。

太清元年、度支尚書と為る。侯景台城を囲む。襄を以て侍中省に直せしむ。城陥つ。襄逃れて呉に還る。景の将宋子仙錢唐を進攻す。会うに海塩人陸黯義を挙げて郡を襲い、偽太守蘇単于を殺し、襄を推して郡事を行わしむ。時に淮南太守文成侯蕭寧賊を逃れて呉に入る。襄遣わして寧を迎えて盟主と為し、黯及び兄の子映公を遣わして衆を帥いて子仙を躡わしめ、と戦う。黯敗走す。呉下の軍之を聞きて亦た散ず。襄墓下に匿る。一夜憂憤して卒す。

原文太清元年,為度支尚書。侯景圍台城,以襄直侍中省。城陷,襄逃還吳。景將宋子仙進攻錢唐,會海鹽人陸黯舉義襲郡,殺偽太守蘇單于,推襄行郡事。時淮南太守文成侯蕭寧逃賊入吳,襄遣迎寧為盟主,遣黯及兄子映公帥眾躡子仙,與戰,黯敗走,吳下軍聞之亦散。襄匿於墓下,一夜憂憤卒。

襄弱冠にして家禍に遭う。服を釈するも猶お憂に居るが若く、終身蔬食布衣、音楽を聴かず、口に殺害を言わずこと五十年。侯景平ぐ。元帝侍中を贈り、余干県侯を追封す。

原文襄弱冠遭家禍,釋服猶若居憂,終身蔬食布衣,不聽音樂,口不言殺害五十年。侯景平,元帝贈侍中,追封余干縣侯。

陸雲公。

原文陸雲公

雲公は字を子龍といい、襄の兄の完の子である。完は寧遠長史・琅邪彭城二郡丞の位にあった。

原文雲公字子龍,襄兄完子也。完位甯遠長史、琅邪彭城二郡丞。

雲公は五歳で論語・毛詩を誦し、九歳で漢書を読み、おおよそ記憶することができた。従祖の倕が沛国の劉顯と十の事柄を質問したところ、雲公は答えに誤りがなく、劉顯は嘆異した。成長すると好学で才思があり、平西湘東王繹の行参軍となった。雲公は先に太伯廟碑を制作し、呉興太守の張纘が郡を罷めて途上でその文を読み、嘆じて言うには「今の蔡伯喈である」と。張纘が都に至って選挙を掌ると、武帝にこれを言上し、召されて尚書儀曹郎となり、寿光省に入って直し、本官のまま著作郎事を知った。累遷して中書黄門郎となり、兼ねて著作を掌った。

原文雲公五歲誦論語、毛詩,九歲讀漢書,略能記憶。從祖倕與沛國劉顯質問十事,雲公對無所失,顯歎異之。及長,好學,有才思,為平西湘東王繹行參軍。雲公先制太伯廟碑,吳興太守張纘罷郡經途,讀其文歎曰:「今之蔡伯喈也。」纘至都掌選,言之武帝,召為尚書儀曹郎,入直壽光省,以本官知著作郎事。累遷中書黃門郎,兼掌著作。

雲公は囲碁をよくし、かつて夜に侍坐した際、武冠が燭火に触れた。帝は笑って言うには「燭が卿の貂を焼いた」と。帝は侍中に用いようとしたので、このように戯れたのである。時に天泉池に新たに鯿魚舟を造り、形は広くて短く、帝は暇日に常にこの舟に泛し、朝中ではただ太常の劉之遴・国子祭酒の到溉・右衛の朱異を引き、雲公は時に年位なお軽かったがこれに預かった。

原文雲公善弈碁,嘗夜侍坐,武冠觸燭火。帝笑謂曰:「燭燒卿貂。」帝將用為侍中,故以此戲之。時天泉池新制鯿魚舟,形闊而短,帝暇日常泛此舟,朝中唯引太常劉之遴、國子祭酒到溉、右衛朱異,雲公時年位尚輕亦預焉。

太清元年に卒した。張纘は時に湘州におり、雲公の叔父の襄の兄の晏子に書を送って言うには「都の信が至り、賢兄の子であり賢弟である黄門(雲公)が殞逝したと承る。貴門が宝を喪ったのみならず、実に識者も共に悲しむ」と。その士流に称え重んぜられることこのようであった。

原文太清元年卒,張纘時為湘州,與雲公叔襄兄晏子書曰:「都信至,承賢兄子賢弟黃門殞逝,非唯貴門喪寶,實有識同悲。」其為士流稱重如此。

雲公の従父兄の才子もまた才名があり、太子中庶子・廷尉の位にあり、雲公とともに文集が世に行われた。

原文雲公從父兄才子,亦有才名,位太子中庶子、廷尉,與雲公並有文集行於世。

陸瓊

原文陸瓊

雲公の子の瓊は字を伯玉といい、幼くして聡慧で思理があった。六歳で五言詩を作り、頗る詞采があった。大同の末、雲公が梁武帝の詔を受けて碁品を校定した際、到溉・朱異以下が皆集まった。瓊は時に八歳で、客の前で局を覆し、これにより都下では神童と号した。朱異が武帝に言上し、召見されると、瓊は風神警亮で進退詳審であり、帝は大いに異とした。

原文雲公子瓊字伯玉,幼聰慧,有思理。六歲為五言詩,頗有詞采。大同末,雲公受梁武帝詔校定碁品,到溉、朱異以下並集。瓊時年八歲,於客前覆局,由是都下號曰神童。異言之武帝,召見,瓊風神警亮,進退詳審,帝甚異之。

十一歳で父の憂に服し、毀瘠して至性があり、従祖の襄は嘆じて言うには「この児は必ずや門基を荷うであろう。いわゆる一も少なからずというものだ」と。侯景が逆をなすに及んで、母を携えて県の西郷に避地し、勤苦して書を読み、昼夜怠ることなく、遂に博学で文を属することを善くした。

原文十一,丁父憂,毀瘠有至性,從祖襄歎曰:「此兒必荷門基,所謂一不為少。」及侯景作逆,攜母避地於縣之西鄉,勤苦讀書,晝夜無怠,遂博學善屬文。

陳の天嘉年間、文学をもって累遷して尚書殿中郎となった。瓊は平素より令名があり、深く陳の文帝に賞された。周迪・陳宝応らを討つに及んで、都官符および諸々の大手筆は、皆中敕により瓊に付された。新安王文学に遷り、東宮の管記を掌った。

原文陳天嘉中,以文學累遷尚書殿中郎。瓊素有令名,深為陳文帝所賞。及討周迪、陳寶應等,都官符及諸大手筆,並中敕付瓊。遷新安王文學,掌東宮管記。

宣帝が司徒となると、僚佐を妙簡し、吏部尚書の徐陵が瓊を宣帝に薦め、瓊について「識具優敏にして文史足用し、郎署に進んで居りながら歳月過ぎ淹なっている。左西掾が欠けており、まさにこの選に応えうる。階次は小踰するが、その屈滞はすでに積もっている」と述べた。そこで司徒左西掾を除した。まもなく通直散騎常侍を兼ね、斉に聘された。

原文及宣帝為司徒,妙簡僚佐,吏部尚書徐陵薦瓊于宣帝,言瓊「識具優敏,文史足用,進居郎署,歲月過淹,左西掾缺,允膺茲選,雖階次小踰,其屈滯已積」。乃除司徒左西掾。尋兼通直散騎常侍,聘齊。

太建年間に給事黄門侍郎となり、中庶子に転じ、大著作を領して国史を撰した。後主が即位すると、中書省に直し、詔誥を掌った。至徳元年、度支尚書を除し、選事に参じ、誥詔を掌り、併せて廷尉・建康の二獄の事を判じた。初め、瓊の父の雲公が梁の武帝の敕を受けて嘉瑞記を撰し、瓊はその旨を述べてこれを継ぎ、永定より至徳に至るまで、一家の言を勒成した。吏部尚書に遷り、著作はもと通りとした。瓊は譜牒に詳練で、雅に識鑒があった。先に吏部尚書の宗元饒が卒し、尚書右僕射の袁憲が瓊を挙げたが、宣帝は未だ用いず、この時に至ってこれを居らしめ、称職と号された。

原文太建中為給事黃門侍郎,轉中庶子,領大著作,撰國史。後主即位,直中書省,掌詔誥。至德元年,除度支尚書,參選事,掌誥詔,並判廷尉、建康二獄事。初,瓊父雲公奉梁武敕撰嘉瑞記,瓊述其旨而續焉,自永定訖於至德,勒成一家之言。遷吏部尚書,著作如故。瓊詳練譜牒,雅有識鑒。先是吏部尚書宗元饒卒,尚書右僕射袁憲舉瓊,宣帝未之用,至是居之,號為稱職。

瓊は性謙儉で、自ら封植せず、位望日々隆盛ながらも志を執ることますます下った。園池室宇には改作するところなく、車馬衣服には鮮華を尚ばず、四時の禄俸は皆宗族に散じ、家に余財無し。暮年には深く止足を懐き、権要を避けんと思い、常に疾を謝して事を視ず。

原文瓊性謙儉,不自封植,雖位望日隆,而執志逾下。園池室宇,無所改作,車馬衣服,不尚鮮華,四時祿俸,皆散之宗族,家無餘財。暮年深懷止足,思避權要,恒謝疾不視事。

まもなく母の憂に服した。初め瓊が東宮に侍した時、母は官舎に随っていたが、喪が郷里に還るに及び、詔して賻贈を加え、後主自ら志銘を製し、朝野これを栄とした。瓊は哀慕過ぎて毀え、至徳四年に卒した。集二十巻が世に行われた。

原文俄丁母憂。初瓊之侍東宮,母隨在官舍,及喪還鄉,詔加賻贈,後主自製志銘,朝野榮之。瓊哀慕過毀,以至德四年卒。有集二十卷行於世。

陸従典

原文陸從典

子の従典は字を由儀といい、幼くして聡敏であった。八歳の時、沈約の集を読み、回文研銘を見て、筆を援ってこれを擬し、すなわち佳致があった。十二歳で柳賦を作り、その詞甚だ美しかった。従父の瑜は特に賞愛した。瑜が将に終わらんとするに及び、家中の墳籍を皆これに付すよう命じ、従典はすなわち瑜の文を集めて十巻とし、なお集序を製したが、その文甚だ工みであった。

原文子從典,字由儀,幼聰敏。年八歲,讀沈約集,見回文研銘,援筆擬之,便有佳致。十二作柳賦,其詞甚美。從父瑜特所賞愛。及瑜將終,命家中墳籍皆付之,從典乃集瑜文為十卷,仍制集序,其文甚工。

従典は篤く学業を好み、広く群書に渉猟し、位は太子洗馬・司徒左西掾に至った。陳が滅びて隋に入り、位は著作佐郎となった。尚書右僕射楊素が従典に司馬遷の『史記』を隋に至るまで続けさせようと上奏したが、その書は未完成のうちに、弟が漢王諒の官職を受けたことに連座して免官された。後に南陽県主簿の任で卒した。

原文從典篤好學業,博涉群書,位太子洗馬、司徒左西掾。陳亡入隋,位著作佐郎。尚書右僕射楊素奏從典續司馬遷史記迄于隋,其書未就,坐弟受漢王諒職免。後卒於南陽縣主簿。

陸琰

原文陸琰

琰は字を温玉といい、瓊の従父弟である。父は令公、梁の中軍宣城王記室参軍であった。

原文琰字溫玉,瓊之從父弟也。父令公,梁中軍宣城王記室參軍。

琰は幼くして孤となり、学問を好み、志操があり、州より秀才に挙げられた。累遷して宣恵始興王外兵参軍、直嘉徳殿学士となった。陳の文帝は政務の余暇に、頗る史籍に心を留め、琰が博学で、占誦を善くするのを以て、左右に引き置いた。嘗て刀銘を作らせたところ、琰は筆を取れば即座に成し、点竄する所なく、帝は久しく嗟賞し、衣一襲を賜った。間もなく通直散騎常侍を兼ね、琅邪王厚に副使として斉に聘し、鄴に至って厚が卒したので、琰が使主となった。時に年二十余り、風気は韶亮で、応対は閑敏であり、斉の士大夫は甚だ傾心した。太建初め、武陵王明威府功曹史となり、東宮管記を兼ねた。母の憂いに遭い官を去り、卒した。至徳二年、司農卿を追贈された。

原文琰幼孤,好學,有志操,州舉秀才。累遷宣惠始興王外兵參軍,直嘉德殿學士。陳文帝聽覽餘暇,頗留心史籍,以琰博學,善占誦,引置左右。嘗使制刀銘,琰援筆即成,無所點竄,帝嗟賞久之,賜衣一襲。俄兼通直散騎常侍,副琅邪王厚聘齊,至鄴而厚卒,琰為使主。時年二十餘,風氣韶亮,占對閑敏,齊士大夫甚傾心焉。太建初,為武陵王明威府功曹史,兼東宮管記。丁母憂去官,卒。至德二年,追贈司農卿。

琰は寡欲で、矜競することが少なく、心を経籍に遊ばせ、晏如としていた。制作した文筆は、多くは本を残さず、後主がその遺文を求め、二巻に撰成した。

原文琰寡欲,鮮矜競,遊心經籍,晏如也。所制文筆,多不存本,後主求其遺文,撰成二卷。

陸瑜

原文陸瑜

弟の瑜は字を幹玉といい、少くして篤く学び、詞藻を美しくし、州より秀才に挙げられた。再遷して軍師晋安王外兵参軍、東宮学士となった。兄の琰が時に管記であり、共に才学を以て左右に侍して楽しませ、時人はこれを二応に比した。

原文弟瑜字幹玉,少篤學,美詞藻,州舉秀才。再遷軍師晉安王外兵參軍,東宮學士。兄琰時為管記,並以才學娛侍左右,時人比之二應。

太建年中、累遷して太子洗馬、中舎人となった。瑜は聡敏で強記であり、常に汝南周弘正より荘子・老子を受け、僧滔法師より成実論を学び、共に大旨を通じた。時に皇太子は学を好み、広く群書を博覧せんと欲し、子部・集部が繁多なるを以て、瑜に抄撰を命じたが、未だ成らざるうちに卒した。太子はそのために流涕し、親しく祭文を制し、仍って詹事江総と共にその美を論述し、詞は甚だ傷切であった。至徳二年、光禄卿を追贈された。集十巻がある。瑜に従父兄の玠、従父弟の琛がいた。玠は字を潤玉といい、梁の大匠卿晏子の子である。弘雅で識度があり、学を好み文を属することができた。後主が東宮に在った時、管記に徴され、仍って中舎人を兼ねた。間もなく疾を以て失明した。郷里に還らんとするに当たり、太子は衣を解いてこれを贈り、そのために流涕した。太建八年に卒し、至徳二年、少府卿を追贈された。集十巻がある。

原文太建中,累遷太子洗馬,中舍人。瑜聰敏強記,常受莊、老于汝南周弘正,學成實論于僧滔法師,並通大旨。時皇太子好學,欲博覽群書,以子集繁多,命瑜抄撰,未就而卒。太子為之流涕,親制祭文,仍與詹事江總論述其美,詞甚傷切。至德二年,追贈光祿卿。有集十卷。瑜有從父兄玠,從父弟琛。玠字潤玉,梁大匠卿晏子之子也。弘雅有識度,好學能屬文。後主在東宮,徵為管記,仍兼中舍人。尋以疾失明。將還鄉里,太子解衣贈之,為之流涕。太建八年卒,至德二年,追贈少府卿。有集十卷。

陸琛

原文陸琛

琛は字を潔玉といい、宣毅臨川王長史丘公の子である。少くして警俊で、後母に事えて孝を以て聞こえた。後主が位を嗣ぐと、給事黄門侍郎・中書舎人となり、機密に参掌した。琛の性質は頗る疎闊で、禁中の語を漏洩した罪に坐し、詔により死を賜った。

原文琛字潔玉,宣毅臨川王長史丘公之子也。少警俊,事後母以孝聞。後主嗣位,為給事黃門侍郎、中書舍人,參掌機密。琛性頗疏,坐漏泄禁中語,詔賜死。

陸杲

原文陸杲

陸杲は字を明霞といい、呉郡呉の人である。祖の徽は字を休猷といい、宋において建康令を補し、清平で私なく、文帝に善くされた。元嘉十五年、平越中郎将・広州刺史に除かれ、都督を加えられ、清名は王鎮之に次ぎ、士庶に愛詠された。二十三年、益州刺史となり、亦都督を加えられ、隠れたる者を恤うに方あり、威恵兼ね著しく、寇盗は静息し、人物は殷阜し、蜀土はこれを安んじた。官に卒し、身の亡き日の、家に余財無く、文帝は甚だこれを痛惜し、諡して簡子といった。父の叡は、揚州中従事であった。

原文陸杲字明霞,吳郡吳人也。祖徽字休猷,宋補建康令,清平無私,為文帝所善。元嘉十五年,除平越中郎將、廣州刺史,加督,清名亞王鎮之,為士庶所愛詠。二十三年,為益州刺史,亦加督,恤隱有方,威惠兼著,寇盜靜息,人物殷阜,蜀土安之。卒於官,身亡之日,家無餘財,文帝甚痛惜之,諡曰簡子。父叡,揚州中從事。

杲は少くして学を好み、書画に工であり、舅の張融に高名があり、杲の風韻挙止は頗るこれに類し、時に称して「日下に対無く、唯だ舅と甥のみ」といった。尚書殿中曹郎となり、拝日の日、八座の丞郎共に上省に到って交礼したが、杲は遅く至り、時刻に及ばず、坐して免官された。後に司徒従事中郎となった。梁の台が建つと、相国西曹掾となった。

原文杲少好學,工書畫,舅張融有高名,杲風韻舉止頗類,時稱曰。「無對日下,唯舅與甥」。為尚書殿中曹郎,拜日,八坐丞郎並到上省交禮,而杲至晚,不及時刻,坐免官。後為司徒從事中郎。梁台建,為相國西曹掾。

天監五年、位は御史中丞となった。性質は婞直で、顧みる所無かった。時に山陰令虞肩が在任中に贓汙数百万を犯したので、杲はこれを収劾すべく奏上した。中書舎人黄睦之が肩の事を杲に托したが、杲は答えなかった。梁の武帝はこれを聞いて杲に問うと、杲は答えて「有り」といった。帝が「睦之を知るか」と問うと、答えて「臣はその人を知りません」といった。時に睦之は御側に在り、上は指し示して「この人これなり」といった。杲はこれに謂って「君は小人なり、何ぞ敢えて罪人を南司に属せん」といった。睦之は色を失った。領軍将軍張稷は杲の従舅であり、杲は嘗て公事を以て稷を弾劾したことがあり、稷は侍宴に因って帝に訴えて「陸杲は臣の親通なり、小事にて臣を弾劾して貸さず」といった。帝は「杲は職司として其事を行う、卿何ぞ嫌うことを得ん」といった。杲は台にあって、強禦を畏れざるを号した。

原文天監五年,位御史中丞。性婞直,無所顧望。時山陰令虞肩在任贓汙數百萬,杲奏收劾之。中書舍人黃睦之以肩事托杲,杲不答。梁武聞之以問杲,杲答曰:「有之。」帝曰:「識睦之不?」答曰:「臣不識其人。」時睦之在禦側,上指示曰:「此人是也。」杲謂曰:「君小人,何敢以罪人屬南司。」睦之失色。領軍將軍張稷是杲從舅,杲嘗以公事彈稷,稷因侍宴訴帝曰:「陸杲是臣親通,小事彈臣不貸。」帝曰:「杲職司其事,卿何得為嫌。」杲在台,號不畏強禦。

義興太守となり、郡にあって寛恵であり、下民に称せられた。左戸尚書、太常卿を歴任した。臨川内史として出され、発たんとするに当たり、武帝に辞し、座において啓を通じ、部曲ぶきょくを募ることを求めた。帝は何故所由に付して呈聞せざるかを問うた。杲は答えて所由が受け為さざるためと。帝は頗るこれを怪しみ、その路に臨むを以て咎め問わなかった。後に金紫光禄大夫・特進として入った。卒し、諡して質子といった。杲は素より仏法を信じ、戒を持すること甚だ精しく、『沙門伝』三十巻を著した。

原文為義興太守,在郡寬惠,為下所稱。曆左戶尚書,太常卿。出為臨川內史,將發,辭武帝,於坐通啟,求募部曲。帝問何不付所由呈聞。杲答所由不為受。帝頗怪之,以其臨路不咎問。後入為金紫光祿大夫、特進。卒,諡質子。杲素信佛法,持戒甚精,著沙門傳三十卷。

陸煦

原文陸煦

弟の煦は、学問に通じ思慮分別があり、太子家令の位に至り、晋書を撰したが未完成であった。また陸史十五巻、陸氏驪泉志一巻を著し、ともに当時に通行した。

原文弟煦,學涉有思理,位太子家令,撰晉書未就。又著陸史十五卷,陸氏驪泉志一卷,並行于時。

子の罩は字を洞元といい、幼い頃より篤学で、広く書物を読み、文章をよくした。簡文帝が藩王であった時、記室参軍となり、帝の文集の序を撰した。次第に太子中庶子に昇進し、記録を管掌し、礼遇は甚だ厚かった。大同七年、母の老齢を理由に去職を求め、公卿以下が征虜亭で送別の宴を催し、皇太子は黄金五十斤を賜い、当時の人はこれを疏広に比した。母の喪の後、終に光禄卿の位に至った。

原文子罩字洞元,少篤學,多所該覽,善屬文。簡文居蕃,為記室參軍,撰帝集序。稍遷太子中庶子,掌管記,禮遇甚厚。大同七年,以母老求去,公卿以下祖道於征虜亭,皇太子賜黃金五十斤,時人方之疏廣。母終,後位終光祿卿。

初め、簡文帝が雍州にいた時、法宝聯璧を撰し、罩は多くの賢才と共に数年にわたり抄録区分に当たった。中大通六年に書が完成し、湘東王に序を命じた。その作者は侍中国子祭酒南蘭陵の蕭子顕ら三十人であり、王象・劉邵の皇覧に比すべきものであった。

原文初,簡文在雍州,撰法寶聯璧,罩與群賢並抄掇區分者數歲。中大通六年而書成,命湘東王為序。其作者有侍中國子祭酒南蘭陵蕭子顯等三十人,以比王象、劉邵之皇覽焉。

論じて曰く、陸澄は学問博古と称せられながら、その用は今に合わず。干将が時に重んぜられるのは、その立断する所以を貴ぶのであり、事に周務できなければ、書厨と讃せられるのも当然である。叔明は身を持するに検束あり、人望を得、雅道が相伝され、載徳の者と謂えよう。杲は諒直をもって称せられ、罩は文をもって達し、これまた美とするに足るであろうか。旧い陸徽の伝は、事蹟寡少であるゆえ、今これを孫の杲の上に附す。

原文論曰:陸澄學稱博古,而用不合今。夫干將見重于時,貴其所以立斷,于事未能周務,書廚得所譏矣。叔明持身有檢,殆為人望,雅道相傳,可謂載德者也。杲諒直見稱,罩文以取達,亦足美乎?舊陸徽著傳,事蹟蓋寡,今以附孫杲上云。