陸澄

陸澄

陸澄は字を彦深といい、呉郡呉の人である。祖父の劭は臨海太守、父の瑗は州の従事であった。

澄は若くして学問を好み、広く書物を読み、知らないことがなく、歩くときも座るときも眠るときも食事するときも、手から書物を離さなかった。宋の泰始初年、尚書殿中郎となり、皇后の諱を下すにあたり、旧例に従って姓を称すべきであると議した。左丞の徐爰は司馬孚の議を引き、皇后は姓を称さず、春秋に王后を斉に迎えたときも、姓を言っていないと論じた。澄は己の考えで議を立てたため、官を免ぜられ、白衣のまま職務を掌った。

郎官は旧来、杖罰に処せられることがあったが、名ばかりで実態はなく、澄は在官中に前後合わせて罰を受けた数が千に及んだ。後に左丞を兼ねた。

泰始六年、詔して皇太子の朝服を袞冕九章とすると、澄は儀曹郎の丘仲起と議して言うには、「冕服を着けて朝することは、経文に明らかであり、秦が六冕を廃したが、漢の明帝が再び備えた。魏・晋以来、臣下に袞冕を着せることを望まず、故に公の位にある者に侍官を加えた。今、皇太子の礼は群臣を絶するものであるから、聖王の盛典に従い、近代の制度を改めるべきである」。累進して御史中丞となった。

斉の建元元年、驃騎諮議の沈憲らの家の奴僕や客が強盗を働き、子弟が弾劾されたが、憲らは平然としていた。左丞の任遐が澄が糾弾しなかったことを奏上し、澄の官を免ずるよう請うた。澄は上表して自らを弁明し、旧例に左丞が中丞を糾弾する義はないと述べた。詔して外に詳しく議させた。 尚書令 しょうしょれい の褚彦回が宋以来の事例を調べると、左丞が糾正し、中丞が糾弾せずに免官となった者は甚だ多く、澄を「浅聞薄見で、後世を惑わし、上は皇明を覆い隠し、下は朝議を籠絡する」と奏し、「現事をもって澄の居官を免ずることを請う」とした。詔して澄は白衣のまま職務を掌った。

永明元年、累進して度支尚書となり、まもなく国子博士を領した。 尚書令 しょうしょれい の王儉がこれについて言うには、「昔、曹志・繆悦がこの官にあったが、君をその系譜に連ねても、初めから恥じる点はない」。儉はかつて澄に問うて言うには、「崇礼門には鼓があるが、未だかつて鳴らされたことがない。その意義はどこにあるのか」。答えて言うには、「江左の草創期、崇礼闥はすべて茅葺きであったため、鼓を設け、火事があればこれを叩いて衆を集めた。それが伝えられて今に至る」。また儉に書を送り、「王弼の易注は玄学の宗とされる。今、儒を弘めようとするならば、鄭玄の注を廃してはならない。また左氏伝の杜預の学の長所を述べる。穀梁伝には旧来、麋信の注があったが、近くは范寧を加えても、両立させるに足りない。世に一つの孝経があり、題して鄭玄注とされるが、その用語を見ると、注書の類いとは似ていない。案ずるに、鄭玄の自序に注した多くの書物を挙げているが、孝経はない。また小学の類いであり、帝典の中に列すべきではない」。

儉は答えて言うには、「易の本体は微遠であり、実に群籍を貫くものである。どうして専ら王弼に拠るだけで該備できようか。旧来のまま鄭玄を存し、諸説と高く同じくする。杜預(元凱)の伝注は前儒を超えている。穀梁伝は小書であり、両注を俟つ必要はない。麋信を存し范寧を略するのは、旧式に従うものである。凡そこれらの諸議は、皆雅論と同じである。孝経が鄭玄の注でないことを疑うが、僕はこの書が百行の首を明らかにし、実に人倫の先たるものであり、七略・芸文志ともにこれを六芸の中に陳べており、蒼頡篇・凡将篇の類いとはしない。鄭注の虚実は、前代も嫌わなかった。意として安んずべきものとし、旧来のまま置く」。

儉は自ら博聞多識をもって任じ、読書量は澄を超えていた。澄はこれについて言うには、「僕は若い頃から他事がなく、ただ読書を業としてきた。かつ年齢も地位も既に高い。令君は若くから王事に鞅掌し、たとえ一覧して諳んじても、見た巻軸は必ずしも僕より多くはあるまい」。儉は学士の何憲らを集めて盛んに自ら論議したが、澄は儉の語が終わるのを待ち、その後、遺漏した数百十条を談じ、皆、儉の未だ見ざるところであった。儉は乃ち嘆服した。儉が尚書省で巾箱・几案・雑服飾を出し、学士で事務を多く担当する者に与えよと命じると、人人は各々一二の物を得た。澄が後から来て、さらに諸人の知らぬ事を出し、また各々数条ずつ述べ、併せて旧物を奪い去った。

転じて 散騎常侍 さんきじょうじ 、秘書監、呉郡中正、光禄大夫となり、給事中を加えられ、まもなく国子祭酒を領した。竟陵王の子良が古器を得た。小口で方腹、底は平らで七八升を容れることができ、澄に問うた。澄は言うには、「これは服匿という名で、単于が蘇武に与えたものである」。子良が器の底を詳しく見ると、字があり、彷徨として識別でき、澄の言う通りであった。

隆昌元年、老病のため、光禄大夫に転じ、 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられたが、拝せずに卒した。諡して静子といった。

澄は当世において碩学と称され、易を三年読んでも文義が解けず、宋書を撰そうとしたが遂に成さなかった。王儉が戯れて言うには、「陸公は書厨である」。家には多くの墳籍があり、人の見る所は稀であった。地理書及び雑伝を撰し、死後に出た。

澄の弟の鮮は、宋の世に罪を得て、死に当たった。澄が路で舎人の王道隆に会い、頭を叩いて流血したため、これによって原赦された。揚州主簿の顧測が二人の奴を鮮に質入れして銭を得たが、鮮が死ぬと、子の暉が買券であると誣った。澄が中丞であったため、測は遂に澄に抑えられ、世はこれをもって澄を軽んじた。

陸慧曉

陸慧曉は字を叔明といい、呉郡呉の人で、晋の太尉玩の玄孫である。玩から慧曉の祖父の万載に至るまで、代々侍中となり、皆名声と行いがあった。慧曉の伯父の仲元もまた侍中となり、当時の人はこれを金日磾・張安世の二族に比した。

父の子真は、宋に仕えて海陵太守となった。時に中書舎人の秋當が寵愛を受け、家は海陵にあり、仮を請うて父を葬ろうとしたが、子真は彼と連絡を取らなかった。當が人夫を発して橋を修理することを請うたが、また農事を妨げるとして許さなかった。彭城王義康はこれを聞いて賞賛した。王僧達は貴公子の子孫で、才をもって物に傲り、呉郡太守となった時、昌門に入って言うには、「あそこには人物がいる。顧琛は一公二掾、英英たる門戸。陸子真は五世内侍、我が流れの類いである」と。子真は臨海太守から眼疾のため帰り、中散大夫となり、卒した。

慧曉は清廉で節操正しく、交遊を濫りにせず、同郡の張緒がこれを称えて言うには、「江東の裴・楽である」と。初め州郡に辟召され、秀才に挙げられ、諸府の行参軍を歴任し、母が老いたため家に帰り侍養し、十余年間仕えなかった。

斉の高帝が政を輔けると、尚書殿中郎に除された。隣族が来て祝うと、慧曉は酒を挙げて言うには、「陸慧曉は年齢三十を過ぎ、婦人の父が選挙を領して、初めて尚書郎となった。卿ら輩がまた慶賀とするのか」と。

高帝が奢侈禁止の表を上奏すると、慧曉が詔答の草文を撰し、帝に賞賛され、太傅東閣祭酒に引かれた。斉の建元初年、太子洗馬に遷った。廬江の何點は常に「慧曉の心は鏡を照らすが如く、形に遇い物に触れて、朗然とせざるはない。王思遠は常に氷を懐くが如く、暑月にも霜気あり」と称した。当時これを実録と認めた。

慧曉と張融とは並んで宅しており、その間に池があり、池の上に二株の楊柳があった。點は歎じて言うには、「この池はすなわち醴泉、この木はすなわち交譲である」と。武陵王曄が会稽を守ると、上は精選して僚吏とし、慧曉を征虜功曹とし、府参軍の沛国の劉璡と共に述職に従った。璡は清廉な士であり、行って呉に至り、人に謂うには、「張融と慧曉とが並宅し、その間に水があると聞く。これには必ず異なる味があるだろう」と。故に駕を命じて往き酌んでこれを飲み、言うには、「この水を飲めば、鄙吝の萌しは尽きる」と。

何點が慧曉を 章王嶷に薦め、 司空 しくう 掾を補し、恩礼を加えられた。累遷して安西諮議、冠軍録事参軍を領した。

武帝の第三子の廬陵王子卿が南 州刺史となると、帝はその小名を称して 司徒 しと 竟陵王子良に謂うには、「烏熊は熊の如く痴であり、天下第一の人を行事とせずんば、一州を圧するに足らぬ」と。既にして言うには、「我、人を得たり」と。乃ち慧曉を長史・行事とした。別に帝が問うには、「卿は何をもって廬陵を輔持するか」と。答えて言うには、「静を以て身を修め、儉を以て性を養う。静なれば則ち人擾わず、儉なれば則ち人煩わさず」と。上は大いに悦んだ。

後に 司徒 しと 右長史となった。時に陳郡の謝朏が左長史であり、府公の竟陵王子良が王融に謂うには、「我が府の前世は誰に比すべきか」と。融曰く、「明公の二上佐は、天下の英奇であり、古来比類を見るに少ない」と。子良は西邸で書を抄し、慧曉にこれを参知せしめた。

尋いで西陽王征虜・巴陵王後軍・臨汝公輔国の三府長史に遷り、府州事を行った。また西陽王左軍長史となり、会稽郡丞を領し、郡事を行った。隆昌元年、 しん 熙王冠軍長史・江夏内史に徙り、 郢州 えいしゅう 事を行った。慧曉は五政を歴輔し、立身は清粛であり、僚佐以下が造詣すれば、必ず起って送った。或る者が慧曉に謂うには、「長史は貴重なり、妄りに自ら謙屈すべからず」と。答えて言うには、「我が性は人の無礼を悪み、礼を以て人に処さざるを得ざるなり」と。未だ嘗て士大夫を卿と呼ばず、或る者がその故を問うと、慧曉曰く、「貴人は卿とすべからず、賤者のみ卿とすべし。人生何ぞ軽重を懐抱に立つるを容れん」と。終身常に人の位を呼んだ。

建武初年、西中郎長史を除し、行事・内史は元の如し。俄かに黄門郎に征され、未だ拝せず、吏部郎に遷った。 尚書令 しょうしょれい の王晏は門生を選んで内外の要局に補したが、慧曉は数人を用いて止めた。晏はこれを恨んだ。女妓一人を送り、好みを申さんとしたが、慧曉は納れなかった。吏曹都令史は歴政以来選事を諮執してきたが、慧曉は己を任せて独行し、未だ嘗て語らなかった。帝は主書の単景雋を遣わして謂うには、「都令史は旧貫に諳悉す。共に参懐すべし」と。慧曉は景雋に謂うには、「六十の年、復た能く都令史に諮って吏部郎たらんとはせず。上若し身の堪えざるを謂わば、便ち当に衣を拂って退かん」と。帝は甚だこれを憚った。後に侍中に用いんとしたが、形が短小なるを以て遂に止めた。出て しん 安王鎮北司馬・征北長史・東海太守となり、府州事を行った。入って五兵尚書となり、揚州事を行った。崔慧景の事が平定すると、右軍将軍を領した。出て南徐州を監した。朝議また侍中とせんとしたが、王亮曰く、「済・河には人を須う。今しばらく朝廷よりこれを借り、以て南兗州を鎮せしめよ」と。王瑩・王志皆曰く、「侍中は弥に英華を須う。方鎮には猶お選ぶ者あるべし」と。亮曰く、「その二者を角すれば、則ち貂璫は緩く、寇を拒むは切なり。当今朝廷甚だ弱し。切なる者に従うべし」と。乃ち輔国将軍・南兗州刺史とし、督を加えた。鎮に至り、俄かに疾を以て帰った。卒し、太常を贈られた。

三子:僚・任・倕、並びに美名あり、当時の人はこれを三陸と謂った。初め慧曉に兗州を授けると、三子は次第に各々一つの譲表を作り、辞は並びに雅麗で、当時の人は歎伏した。

陸僚

僚は学問が子史に渉り、微言に長じた。姿容美しく、鬚眉画くが如し。位は西昌侯長史・蜀郡太守。

陸倕

倕は字を佐公といい、少より勤学し、文を属するに善かった。宅内に二つの茅屋を起し、往来を杜絶し、昼夜読書し、この如きこと数歳。読むこと一遍すれば、必ず口に誦した。嘗て人の漢書を借り、五行志四巻を失い、乃ち暗写してこれを返し、略々遺脱無し。幼くして外祖父の張岱に異とされた。岱は嘗て諸子に謂うには、「此の児は、汝が家の陽元なり」と。十七歳、本州の秀才に挙げられた。刺史竟陵王子良が西邸を開き、英俊を延べると、倕はこれに預かった。

梁の天監初年、右軍安成王の主簿となり、楽安の任昉と友誼を結び、知己を感ずる賦を作って昉に贈り、昉はこれにより名を以て報いた。昉が中丞となると、簪裾が輻湊し、その宴に預かる者は、殷芸、到溉、劉苞、劉孺、劉顯、劉孝綽及び倕のみであり、号して「龍門の遊」と言った。貴公子孫といえども預かることはできなかった。臨川王の東曹掾に遷った。

梁の武帝は倕の才能を殊に愛し、乃ち新漏刻銘の撰を勅し、その文は甚だ美しかった。太子中舎人に遷り、また詔して石闕銘を作らせ、勅してこれを褒め称え、絹三十匹を賜った。累遷して太常卿となり、卒した。子の纘は早くから聡明で、七歳にして経書に通じ、童子郎となったが、卒した。次ぎの緬は、倕に似ており、一見して殆ど区別がつかなかった。

陸繕

繕は字を士繻といい、倕の兄の子である。父の任は、御史中丞であった。繕は幼い時より志操があり、雅正をもって知られた。梁の承聖年間、中書侍郎となり、東宮の管記を掌った。魏が江陵を平定すると、繕は微服して建鄴に遁還した。

紹泰元年、 司徒 しと 右長史・御史中丞に除されたが、父の任がその職で終わったことを以て、固辞した。陳の武帝が輔政となると、 司徒 しと 司馬となった。武帝が受命すると、侍中の位にあった。出て新安太守となった。文帝が位を嗣ぐと、中庶子に徴され、歩兵 校尉 こうい を領し、東宮の管記を掌った。繕は儀表端麗で、進退は閑雅であり、趨歩躡履する様は、文帝が太子や諸王に皆これを則とさせた。

後に再び御史中丞に拝されたが、やはり父がその職で終わったことを以て固辞したが、許されず、乃ち仮に官舎を換え、移ってそこに居住させた。太建年間、度支尚書、侍中、太子詹事、尚書右僕射を歴任した。まもなく左僕射に遷り、選事を参掌した。別勅により徐陵ら七人と政事を参議した。卒し、特進を贈られ、諡して安子といった。繕が東宮の旧臣であったことを以て、特に祖奠を賜った。

繕の子の辯慧は、数歳の時、詔により殿内に引き入れられ、進止に父の風があり、宣帝はこれにより名を辯慧、字を敬仁と賜った。

繕の兄の子の見賢もまた方正雅量で、少府卿の位に至り、卒した。

陸閑

閑は字を遐業といい、慧曉の兄の子である。風概があり、人と交わるに苟も迎合せず、若くして同郡の張緒に知られた。仕えて揚州別駕に至った。斉の明帝が崩ずると、閑は親しい者に言った、「宮車晏駕し、百官は将に塚宰に聴かんとす。主王は地重くして才弱く、必ず振るわず、難将に至らん」。乃ち心疾を感じ、再び州事に預からなかった。

永元末、刺史始安王遙光が東府に拠って乱を起こすと、或る者が去ることを勧めた。閑は言った、「吾は人吏たり、何ぞ死を逃れん」。台軍が城を攻め陥とすと、閑は綱佐として収められ、杜姥宅に至り、 尚書令 しょうしょれい 徐孝嗣が閑は逆謀に預からなかったと啓上した。未だ報に及ばず、徐世標がこれを殺すことを命じた。閑に四子あり、厥、絳、完、襄である。絳は字を魏卿といい、時に閑に随い、頸を抱いて代わりに死ぬことを求めたが、得られず、遂に身を以て刀刃を蔽い、行刑者はともにこれを害した。

陸厥

厥は字を韓卿といい、若くして風概があり、文を属することを好んだ。斉の永明九年、詔して百官に士を挙げさせ、同郡の 司徒 しと 左西曹掾顧暠之が表を上って厥を推薦し、州は秀才に挙げた。

時に盛んに文章が作られ、呉興の沈約、陳郡の謝朓、琅邪の王融が気類を以て相推轂し、汝南の周顒は声韻を識るに善かった。約らの文は皆宮商を用い、平上去入の四声を以て、これにより韻を制し、平頭、上尾、蜂腰、鶴膝あり。五字の中、音韻悉く異なり、両句の内、角征同じからず、増減すべからず。世にこれを「永明体」と呼んだ。沈約が宋書謝霊運伝の後にまたこの事を論じると、厥は約に書を送って言った。

范詹事の自序に、「性宮商を別ち、清濁を識り、特能く軽重に適し、艱難を済す。古今の文人多く斯の処を全く了せず、縦ひ此れに会する者有りと雖も、必ずしも根本の中より来らず」と。尚書も亦云う、「霊均以来、此の秘未だ睹ず。或は暗に理と合ひ、思ひより至るに匪ず。張、蔡、曹、王曾て先覚無く、潘、陸、顔、謝之を去ること弥遠し」と。大旨は「宮商相変じ、低昂節を舛くし、若し前に浮声有らば、則ち後須らく切響有るべく、一簡の内、音韻尽く殊なり、両句の中、軽重悉く異なる」ことを欲す。辞既に美しく、理又善し。但だ歴代の衆賢を観るに、此の処に都て暗からざるに似たり。而るに「此の秘未だ睹ず」と云うは、誣いに近からずや。案ずるに范の云う「根本の中より来らず」、尚書の云う「思ひより至るに匪ず」とは、斯れ情を揣るに玄黄に謬り、句を擿するに其の音律を著すなり。范又云う「時に此れに会する者有り」、尚書云う「或は暗に理と合ふ」とは、則ち美詠清謳、辞章調韻する者有りと雖も、差謬有りと雖も、亦会合有り。此を推して往けば、言ふを得べし。夫れ思ひに合離有り、前哲同じく免れざる所、文に開塞有り、即ち事之無きを得ず。子建の人の譏弾を好む所以、士衡の篇を終へて恨みを遺す所以なり。既に遺恨と曰へば、尽美の作に非ず。理詆訶す可し。君子其の詆訶を執りて、便ち理に合ふを暗しと謂ふは、豈其の理に合ふを指して、詆訶を寄せて遺恨と為すに如かんや。

魏の文帝(曹丕)が論を著して以来、清濁を以て言うことを深くし、劉楨が書を奏して、体勢の致を大いに明らかにした。齟齬と妥怗との談、操末と續巔との説は、律呂に玄黄を興し、五色の相宣ぶるに比す。もしこの秘められたることを未だ睹ざれば、この論は何を指すところとするや。愚かには謂う、前の英傑は既に早く宮徴を識れりと。ただ未だ屈曲して指的にせず、今の論の申すところの如くならざるのみ。瑕を掩い疾を蔵し、合うこと少なく謬ること多きに至っては、則ち臨淄(曹植)の云うところ「人の著述は、病無き能わず」というものなり。知りて改めざるに非ず、改めざれば則ち知らずと謂う、これ曹・陸のまた「情を竭くすは悔多く、力を強いるべからず」と称する所以なり。今、病有り悔有りを以て言うことを許すならば、則ち必ず自ら悔無く病無きの地を知るべし。その了せず合わざるを引きて闇と為すは、何ぞ独りその一合し一了するの明を誣うるや。意うに、また質文時に異なり、今古好み殊なるか、将に急なるは情物に在りて、章句に緩やかなるか。情物は文の急とする所、美悪猶お且つ相半ばす。章句は意の緩む所、故に合うこと少なくして謬ること多し。義は斯に兼ねるも、必ず知らざるに非ざるは明らかなり。長門・上林は、殆ど一家の賦に非ず。洛神・池雁は、便ち二体の作と成る。孟堅(班固)は精正にして、詠史も東主(班固の「詠史詩」)に虧けず。平子(張衡)は恢富にして、羽獵も憑虚(張衡の「羽獵賦」)に累わさず。王粲の初征は、他の文未だ是に称する能わず。楊修の敏捷も、暑賦は弥日献ぜず。率意に寡尤なれば、則ち事は一日に促く、翳翳として愈伏すれば、而して理は七歩に賒し。一人の思、遅速天に懸け、一家の文、工拙壤に隔つ。何ぞ独り宮商律呂に必ずその一なることを責むるや。論者は乃ち未だその致を窮めざると言うべく、曾て先覚無しと言うべからず。約答えて曰く。

宮商の声には五あり、文字の別は累万なり。累万の繁を以て、五声の約に配せば、高下低昂、思力の学ぶ所に非ず、また止むこと斯の若きのみに非ず。十字の文、顛倒して相配すれば、字十を過ぎずとも、巧曆已に尽くす能わず、況んや復た此れを過ぐる者に於いてをや。霊均(屈原)以来、未だこれを懐抱に用いたること無く、固より其の髣髴を得る由無し。斯の如き妙にして、聖人尚ばざるは、何ぞや。これ蓋し曲折声韻の巧、訓義に当たらず、聖哲玄言の急とする所に非ざればなり。是を以て子雲(揚雄)は之を「彫虫篆刻」に譬え、「壮夫為さず」と云えり。古より辞人、豈に宮羽の殊、商徴の別を知らざらんや。五音の異を知ると雖も、而して其中の参差変動、昧くする所実に多し。故に鄙意の所謂「此の秘未だ睹ず」というものなり。此れを以て推すならば、則ち前世の文士、便ち未だ此の処を悟らざるを知る。若し文章の音韻を以て、弦管の声曲に同じくせば、美悪妍蚩、頓に相乖反するを得ず。譬えば猶お子野(師曠)の曲を操るが如く、安んぞ忽ち闡緩失調の声有らんや。洛神を以て陳思(曹植)の他の賦に比すれば、異手の作に似たる有り。故に天機啓なれば、則ち律呂自ずから調い、六情滞れば、則ち音律頓に舛うことを知る。士衡(陸機)は縟錦の若く煥たりと云うと雖も、寧んぞ江波に色を濯ぎ、其中に復た一片は衛文の服なる有らんや。此れ則ち陸生の言、即ち復た尽くさざる者なり。韻と不韻とは、復た精粗有り。輪扁言う能わず、老夫も亦た此れを尽く弁ぜず。約の四声を論ずるは、妙に詮弁有り。而して諸賦も亦た往々声韻に乖く。

時に王斌という者有り。何の許の人なるかを知らず。『四声論』を著して時に行わる。斌初め道人と為り、経籍に博く渉り、雅に才弁有り、文を属するに善くし、唱導能くすと雖も容儀を修めず。嘗て弊衣を瓦官寺にて雲法師の成実論を講ずるを聴くに、坐する処復た無く、唯だ僧正慧超尚お空席有り。斌直ちに其の側に坐す。慧超平らかならず、乃ち罵して曰く、「那ぞ此の道人を得ん、禄蔌隊父の似くして人を唐突す」と。因りて之を駆るを命ず。斌笑いて曰く、「既に叙勲僧正有り、何ぞ為ん隊父道人無からんや」と。動かず。而して機を撫でて問難すれば、辞理清挙にして、四座皆目を属す。後に還俗し、詩楽を以て自ら楽しむ。人能く之を名づく莫し。

永元元年、始安王遙光反す。厥の父閑誅せられ、厥坐して尚方に繋がる。尋いで赦有り。厥感慟して卒す。年二十八。文集世に行わる。

時に会稽の虞炎有り。文学を以て沈約と俱に文恵太子の遇う所と為り、意眄殊常なり。官 ぎょう 騎將軍に至る。

陸襄。

襄は字して師卿、厥の第四弟なり。本名は衰、字して趙卿。奏事する者有りて誤って字を襄と為す。梁の武帝乃ち襄と改めて字を師卿と為す。

天監三年、都官尚書范岫表を上て襄を薦む。起家して著作佐郎と為る。後、昭明太子統、襄の業行を聞き、武帝に啓して引いて遊処せしむ。廬陵王記室より除して太子洗馬と為り、遷って中舎人と為り、並びに管記を掌る。出でて揚州中従事と為る。父此の官に終わりしを以て、固く辞す。武帝許さず、府司馬と廨を換えて之に居ることを聴す。

昭明太子耆老を敬う。襄の母年将に八十に及ぶ。蕭琛・傅昭・陸杲と每月常に遣わして存問し、珍羞衣服を加えて賜う。襄の母常に卒然として心痛を患う。医方須いる所三升の粟漿。時に冬月、日又暮れに逼る。求索するも所無し。忽ち老人門に詣で漿を貨す。量方剤の如し。始めて直を酬いんと欲す。間も無く之を失う。時に襄の孝感の致す所と為す。

後、太子家令と為り、復た管記を掌る。母憂にて職を去る。襄年已に五十、毀頓礼を過ぐ。太子之を憂い、日使を遣わして誡喻す。

中大通七年、鄱陽内史と為る。是に先立ち郡人鮮于琮服食して道法を修め、常に山に入り薬を採る。五色の幡毦を拾い、又地中に石璽を得て、窃かに之を怪しむ。琮先ず妻と別室す。琮の処する所を望むに常に異気有り。益々以て神と為す。大同元年、遂に門徒を結び広晋令王筠を殺し、上願元年と号し、官属を署置す。其の党転相誑惑し、衆万余人有り。将に出でて郡を攻めんとす。襄先んじ已に人吏を率い城隍を修めて備えと為す。及び賊至りて之を破り、生け捕りに琮を得る。時に隣郡 章・安成等の守宰其の党与を案ず。因りて貨賄を求む。皆其の実を得ず。或は善人尽く室を以て禍に罹る有り。唯だ襄の郡は枉直濫る無し。人歌を作して曰く、「鮮于抄して後善悪分かる。人横死無きは陸君に頼む」と。

又た彭・李の二家有り。先ず忿争に因り、遂に相誣告す。襄之を内室に引き入れ、責誚を加えず。但だ和言を以て之を解喻す。二人恩を感じ、深く自ら悔咎す。乃ち酒食を設けて其の歓を尽くさしめ、酒罷みて同載して還る。因りて相親厚し。人又た歌して曰く、「陸君の政、怨家無し。闘既に罷み、讎共に車にす」と。政に在ること六年、郡中大いに寧し。郡人李睍等四百二十人闕に詣で表を拝し、襄の徳化を陳べ、郡に於いて碑を立てんことを求む。勅を降して之を許す。又た表して襄の留まることを乞う。襄固く還ることを乞う。

太清元年、度支尚書と為る。侯景台城を囲む。襄を以て侍中省に直せしむ。城陥つ。襄逃れて呉に還る。景の将宋子仙錢唐を進攻す。会うに海塩人陸黯義を挙げて郡を襲い、偽太守蘇単于を殺し、襄を推して郡事を行わしむ。時に淮南太守文成侯蕭寧賊を逃れて呉に入る。襄遣わして寧を迎えて盟主と為し、黯及び兄の子映公を遣わして衆を帥いて子仙を躡わしめ、と戦う。黯敗走す。呉下の軍之を聞きて亦た散ず。襄墓下に匿る。一夜憂憤して卒す。

襄弱冠にして家禍に遭う。服を釈するも猶お憂に居るが若く、終身蔬食布衣、音楽を聴かず、口に殺害を言わずこと五十年。侯景平ぐ。元帝侍中を贈り、余干県侯を追封す。

陸雲公。

雲公は字を子龍といい、襄の兄の完の子である。完は寧遠長史・琅邪彭城二郡丞の位にあった。

雲公は五歳で論語・毛詩を誦し、九歳で漢書を読み、おおよそ記憶することができた。従祖の倕が沛国の劉顯と十の事柄を質問したところ、雲公は答えに誤りがなく、劉顯は嘆異した。成長すると好学で才思があり、平西湘東王繹の行参軍となった。雲公は先に太伯廟碑を制作し、呉興太守の張纘が郡を罷めて途上でその文を読み、嘆じて言うには「今の蔡伯喈である」と。張纘が都に至って選挙を掌ると、武帝にこれを言上し、召されて尚書儀曹郎となり、寿光省に入って直し、本官のまま著作郎事を知った。累遷して中書黄門郎となり、兼ねて著作を掌った。

雲公は囲碁をよくし、かつて夜に侍坐した際、武冠が燭火に触れた。帝は笑って言うには「燭が卿の貂を焼いた」と。帝は侍中に用いようとしたので、このように戯れたのである。時に天泉池に新たに鯿魚舟を造り、形は広くて短く、帝は暇日に常にこの舟に泛し、朝中ではただ太常の劉之遴・国子祭酒の到溉・右衛の朱異を引き、雲公は時に年位なお軽かったがこれに預かった。

太清元年に卒した。張纘は時に湘州におり、雲公の叔父の襄の兄の晏子に書を送って言うには「都の信が至り、賢兄の子であり賢弟である黄門(雲公)が殞逝したと承る。貴門が宝を喪ったのみならず、実に識者も共に悲しむ」と。その士流に称え重んぜられることこのようであった。

雲公の従父兄の才子もまた才名があり、太子中庶子・廷尉の位にあり、雲公とともに文集が世に行われた。

陸瓊

雲公の子の瓊は字を伯玉といい、幼くして聡慧で思理があった。六歳で五言詩を作り、頗る詞采があった。大同の末、雲公が梁武帝の詔を受けて碁品を校定した際、到溉・朱異以下が皆集まった。瓊は時に八歳で、客の前で局を覆し、これにより都下では神童と号した。朱異が武帝に言上し、召見されると、瓊は風神警亮で進退詳審であり、帝は大いに異とした。

十一歳で父の憂に服し、毀瘠して至性があり、従祖の襄は嘆じて言うには「この児は必ずや門基を荷うであろう。いわゆる一も少なからずというものだ」と。侯景が逆をなすに及んで、母を携えて県の西郷に避地し、勤苦して書を読み、昼夜怠ることなく、遂に博学で文を属することを善くした。

陳の天嘉年間、文学をもって累遷して尚書殿中郎となった。瓊は平素より令名があり、深く陳の文帝に賞された。周迪・陳宝応らを討つに及んで、都官符および諸々の大手筆は、皆中敕により瓊に付された。新安王文学に遷り、東宮の管記を掌った。

宣帝が 司徒 しと となると、僚佐を妙簡し、吏部尚書の徐陵が瓊を宣帝に薦め、瓊について「識具優敏にして文史足用し、郎署に進んで居りながら歳月過ぎ淹なっている。左西掾が欠けており、まさにこの選に応えうる。階次は小踰するが、その屈滞はすでに積もっている」と述べた。そこで 司徒 しと 左西掾を除した。まもなく通直 散騎常侍 さんきじょうじ を兼ね、斉に聘された。

太建年間に給事黄門侍郎となり、中庶子に転じ、大著作を領して国史を撰した。後主が即位すると、中書省に直し、詔誥を掌った。至徳元年、度支尚書を除し、選事に参じ、誥詔を掌り、併せて廷尉・建康の二獄の事を判じた。初め、瓊の父の雲公が梁の武帝の敕を受けて嘉瑞記を撰し、瓊はその旨を述べてこれを継ぎ、永定より至徳に至るまで、一家の言を勒成した。吏部尚書に遷り、著作はもと通りとした。瓊は譜牒に詳練で、雅に識鑒があった。先に吏部尚書の宗元饒が卒し、尚書右僕射の袁憲が瓊を挙げたが、宣帝は未だ用いず、この時に至ってこれを居らしめ、称職と号された。

瓊は性謙儉で、自ら封植せず、位望日々隆盛ながらも志を執ることますます下った。園池室宇には改作するところなく、車馬衣服には鮮華を尚ばず、四時の禄俸は皆宗族に散じ、家に余財無し。暮年には深く止足を懐き、権要を避けんと思い、常に疾を謝して事を視ず。

まもなく母の憂に服した。初め瓊が東宮に侍した時、母は官舎に随っていたが、喪が郷里に還るに及び、詔して賻贈を加え、後主自ら志銘を製し、朝野これを栄とした。瓊は哀慕過ぎて毀え、至徳四年に卒した。集二十巻が世に行われた。

陸従典

子の従典は字を由儀といい、幼くして聡敏であった。八歳の時、沈約の集を読み、回文研銘を見て、筆を援ってこれを擬し、すなわち佳致があった。十二歳で柳賦を作り、その詞甚だ美しかった。従父の瑜は特に賞愛した。瑜が将に終わらんとするに及び、家中の墳籍を皆これに付すよう命じ、従典はすなわち瑜の文を集めて十巻とし、なお集序を製したが、その文甚だ工みであった。

従典は篤く学業を好み、広く群書に渉猟し、位は太子洗馬・ 司徒 しと 左西掾に至った。陳が滅びて隋に入り、位は著作佐郎となった。尚書右僕射楊素が従典に司馬遷の『史記』を隋に至るまで続けさせようと上奏したが、その書は未完成のうちに、弟が漢王諒の官職を受けたことに連座して免官された。後に南陽県主簿の任で卒した。

陸琰

琰は字を温玉といい、瓊の従父弟である。父は令公、梁の中軍宣城王記室参軍であった。

琰は幼くして孤となり、学問を好み、志操があり、州より秀才に挙げられた。累遷して宣恵始興王外兵参軍、直嘉徳殿学士となった。陳の文帝は政務の余暇に、頗る史籍に心を留め、琰が博学で、占誦を善くするのを以て、左右に引き置いた。嘗て刀銘を作らせたところ、琰は筆を取れば即座に成し、点竄する所なく、帝は久しく嗟賞し、衣一襲を賜った。間もなく通直 散騎常侍 さんきじょうじ を兼ね、琅邪王厚に副使として斉に聘し、鄴に至って厚が卒したので、琰が使主となった。時に年二十余り、風気は韶亮で、応対は閑敏であり、斉の士大夫は甚だ傾心した。太建初め、武陵王明威府功曹史となり、東宮管記を兼ねた。母の憂いに遭い官を去り、卒した。至徳二年、司農卿を追贈された。

琰は寡欲で、矜競することが少なく、心を経籍に遊ばせ、晏如としていた。制作した文筆は、多くは本を残さず、後主がその遺文を求め、二巻に撰成した。

陸瑜

弟の瑜は字を幹玉といい、少くして篤く学び、詞藻を美しくし、州より秀才に挙げられた。再遷して軍師晋安王外兵参軍、東宮学士となった。兄の琰が時に管記であり、共に才学を以て左右に侍して楽しませ、時人はこれを二応に比した。

太建年中、累遷して太子洗馬、中舎人となった。瑜は聡敏で強記であり、常に汝南周弘正より荘子・老子を受け、僧滔法師より成実論を学び、共に大旨を通じた。時に皇太子は学を好み、広く群書を博覧せんと欲し、子部・集部が繁多なるを以て、瑜に抄撰を命じたが、未だ成らざるうちに卒した。太子はそのために流涕し、親しく祭文を制し、仍って詹事江総と共にその美を論述し、詞は甚だ傷切であった。至徳二年、光禄卿を追贈された。集十巻がある。瑜に従父兄の玠、従父弟の琛がいた。玠は字を潤玉といい、梁の大匠卿晏子の子である。弘雅で識度があり、学を好み文を属することができた。後主が東宮に在った時、管記に徴され、仍って中舎人を兼ねた。間もなく疾を以て失明した。郷里に還らんとするに当たり、太子は衣を解いてこれを贈り、そのために流涕した。太建八年に卒し、至徳二年、少府卿を追贈された。集十巻がある。

陸琛

琛は字を潔玉といい、宣毅臨川王長史丘公の子である。少くして警俊で、後母に事えて孝を以て聞こえた。後主が位を嗣ぐと、給事黄門侍郎・中書舎人となり、機密に参掌した。琛の性質は頗る疎闊で、禁中の語を漏洩した罪に坐し、詔により死を賜った。

陸杲

陸杲は字を明霞といい、呉郡呉の人である。祖の徽は字を休猷といい、宋において建康令を補し、清平で私なく、文帝に善くされた。元嘉十五年、平越中郎将・広州刺史に除かれ、 都督 ととく を加えられ、清名は王鎮之に次ぎ、士庶に愛詠された。二十三年、益州刺史となり、亦 都督 ととく を加えられ、隠れたる者を恤うに方あり、威恵兼ね著しく、寇盗は静息し、人物は殷阜し、蜀土はこれを安んじた。官に卒し、身の亡き日の、家に余財無く、文帝は甚だこれを痛惜し、諡して簡子といった。父の叡は、揚州中従事であった。

杲は少くして学を好み、書画に工であり、舅の張融に高名があり、杲の風韻挙止は頗るこれに類し、時に称して「日下に対無く、唯だ舅と甥のみ」といった。尚書殿中曹郎となり、拝日の日、八座の丞郎共に上省に到って交礼したが、杲は遅く至り、時刻に及ばず、坐して免官された。後に 司徒 しと 従事中郎となった。梁の台が建つと、相国西曹掾となった。

天監五年、位は御史中丞となった。性質は婞直で、顧みる所無かった。時に山陰令虞肩が在任中に贓汙数百万を犯したので、杲はこれを収劾すべく奏上した。中書舎人黄睦之が肩の事を杲に托したが、杲は答えなかった。梁の武帝はこれを聞いて杲に問うと、杲は答えて「有り」といった。帝が「睦之を知るか」と問うと、答えて「臣はその人を知りません」といった。時に睦之は御側に在り、上は指し示して「この人これなり」といった。杲はこれに謂って「君は小人なり、何ぞ敢えて罪人を南司に属せん」といった。睦之は色を失った。領軍将軍張稷は杲の従舅であり、杲は嘗て公事を以て稷を弾劾したことがあり、稷は侍宴に因って帝に訴えて「陸杲は臣の親通なり、小事にて臣を弾劾して貸さず」といった。帝は「杲は職司として其事を行う、卿何ぞ嫌うことを得ん」といった。杲は台にあって、強禦を畏れざるを号した。

義興太守となり、郡にあって寛恵であり、下民に称せられた。左戸尚書、太常卿を歴任した。臨川内史として出され、発たんとするに当たり、武帝に辞し、座において啓を通じ、部曲を募ることを求めた。帝は何故所由に付して呈聞せざるかを問うた。杲は答えて所由が受け為さざるためと。帝は頗るこれを怪しみ、その路に臨むを以て咎め問わなかった。後に金紫光禄大夫・特進として入った。卒し、諡して質子といった。杲は素より仏法を信じ、戒を持すること甚だ精しく、『沙門伝』三十巻を著した。

陸煦

弟の煦は、学問に通じ思慮分別があり、太子家令の位に至り、晋書を撰したが未完成であった。また陸史十五巻、陸氏驪泉志一巻を著し、ともに当時に通行した。

子の罩は字を洞元といい、幼い頃より篤学で、広く書物を読み、文章をよくした。簡文帝が藩王であった時、記室参軍となり、帝の文集の序を撰した。次第に太子中庶子に昇進し、記録を管掌し、礼遇は甚だ厚かった。大同七年、母の老齢を理由に去職を求め、公卿以下が征虜亭で送別の宴を催し、皇太子は黄金五十斤を賜い、当時の人はこれを疏広に比した。母の喪の後、終に光禄卿の位に至った。

初め、簡文帝が雍州にいた時、法宝聯璧を撰し、罩は多くの賢才と共に数年にわたり抄録区分に当たった。中大通六年に書が完成し、湘東王に序を命じた。その作者は侍中国子祭酒南蘭陵の蕭子顕ら三十人であり、王象・劉邵の皇覧に比すべきものであった。

論じて曰く、陸澄は学問博古と称せられながら、その用は今に合わず。干将が時に重んぜられるのは、その立断する所以を貴ぶのであり、事に周務できなければ、書厨と讃せられるのも当然である。叔明は身を持するに検束あり、人望を得、雅道が相伝され、載徳の者と謂えよう。杲は諒直をもって称せられ、罩は文をもって達し、これまた美とするに足るであろうか。旧い陸徽の伝は、事蹟寡少であるゆえ、今これを孫の杲の上に附す。

原本を確認する(ウィキソース):南史 巻048