荀伯玉

荀伯玉

斉の高帝が淮陰に鎮した時、伯玉は高帝の冠軍刑獄参軍となった。高帝が宋の明帝に疑われ、黄門郎に召された時、深く憂慮し、平らな沢に群鶴がいるのを見て、筆を執って詠んだ。「八風舞遙翮、九野弄清音、一摧雲間志、爲君苑中禽。」伯玉に深意を示すと、伯玉は高帝に数十騎を魏の境界に入れ、標榜を設置するよう勧めた。魏は果たして数百の遊騎を派遣して境界上を巡行し、高帝はこれを上奏した。それでも留まれぬことを恐れ、伯玉に占わせた。伯玉は行かないと述べ、帝はついに元の任に復した。これにより親しく遇された。高帝に旧吏の東莞の竺景秀がかつて過失で作部に繋がれたことがあり、高帝が伯玉に「卿は近ごろ景秀を見たか」と問うと、答えて「数度往って見舞い、備えて責め諫めました。『もし某に自新を許すならば、必ず刀を呑んで腸を刮ぎ、灰を飲んで胃を洗う』と申しました」と言った。帝はその答えを良しとし、すぐに釈放し、ついに忠信の士となった。

後に高帝に従って都に還り、奉朝請に任じられた。高帝は家事を主管させた。武帝が広興を罷めて還ると、別宅を建て、人を大宅に遣わして数本の樹を掘らせたが、伯玉は与えず、馳せて報告した。高帝はこれを良しとした。高帝が南兗州刺史となると、伯玉は従って鎮軍中兵参軍に転じ、広陵令を帯びた。初め、高帝が淮陰にいた時、伯玉が休暇で広陵に還り、広陵城南楼に上る夢を見た。楼の上に二人の青衣の小児がいて伯玉に言う。「草中に肅あり、九五相い追逐す。」伯玉が城下の人を見ると、頭に皆草があった。泰始七年、また高帝が船に乗り広陵北の渚にいる夢を見た。両腋の下に翼があるが伸びていない。伯玉がいつ伸びるかと問うと、帝は「三年後」と言った。伯玉は夢の中で自らを咒師と思い、六度唾をして咒うと、六龍が出て、両腋下の翼が皆伸び、また元に戻った。元徽二年、高帝が桂陽を破り、威名大いに震い、五年にして蒼梧王を廃した時、伯玉に「卿の夢が今や効いた」と言った。

升明の初め、引き続き高帝の驃騎中兵参軍となり、済陽太守を帯びた。覇業が既に建てられると、伯玉は忠勤を尽くし、常に左右を衛し、前将軍を加えられ、大いに信任された。斉の建元元年、南豊県子に封ぜられ、 章王 司空 しくう 諮議となり、太守は元の通り。

時に武帝が東宮にいたが、自ら年長を以て、高帝と共に大業を創めたので、朝事の大小全てを専断し、多く制度に違った。側近の張景真は偏って任用され、また多く僭越で奢侈であった。武帝が陵を拝して還ると、景真は白服で画舴艋に乗り、胡床に座った。見る者は皆太子かと疑い、内外畏敬し、敢えて言う者はいなかった。 ぎょう 騎将軍陳胤叔は先に景真及び太子の前後の得失を陳べていたが、伯玉は武帝が陵拝の後、密かにこれを啓上した。上は大いに怒った。 章王蕭嶷は平素から寵愛されていたが、政事は武帝が長嫡であり、また南郡王兄弟が並列していたので、武帝が太子となったが、この時になって改易の意があった。武帝が東に還ると、文恵太子・聞喜公蕭子良に勅を宣して詰責させ、併せて景真の罪状を示し、太子の令を以て景真を収めて殺させた。胤叔は武帝に告げ、皆伯玉が上聞したと言った。武帝は憂懼し、病気と称して一ヶ月余り。上の怒りは解けず、昼に太陽殿に臥すと、王敬則が直入して叩頭し、東宮に行って太子を慰めるよう請うた。高帝は無言、敬則は大声で東宮に行く旨を宣し、装束を命じた。また太官に饌を設けさせ、密かに人を遣わして武帝に報じ、奉迎させた。そこで左右を呼んで輿を求めると、高帝は全く動く気配がない。敬則は衣を求めて高帝に着せ、引き上げて輿に乗せた。ついに東宮に行幸し、諸王を召して宴飲し、玄圃園に遊んだ。長沙王蕭晃が華蓋を捉え、臨川王蕭映が雉尾扇を執り、聞喜公蕭子良が酒槍を持ち、南郡王が酒を行い、武帝と 章王蕭嶷及び敬則が自ら肴饌を捧げた。高帝は大いに飲み、武帝以下に酒を賜い、皆大いに酔って歓を尽くし、日暮れになって去った。この日、敬則がなければ、東宮は廃されるところであった。

高帝は伯玉の尽力を重んじ、ますます信任し、軍国の密事を掌らせ、権勢は朝廷の右に動かした。暫く外で休む時は、軒蓋が門を埋めた。かつて母の憂いに遭い、喪服を着ける日、左率蕭景先・侍中王晏が共に車に乗って弔問した。五更に巾車で出たが、伯玉の宅から二里ほど手前で、王侯朝士が既に巷に満ち、下鼓になってもまだ前に進めず、 司徒 しと 褚彦回・衛軍王儉が共に進んで後に続いてようやく前に出、また応接所に倚って久しく待った。中詔で中書舎人徐希秀を遣わし、哭を断ち客を止めさせ、久しくしてようやく弔問できた。出る頃には二人は飢え疲れ、息も絶え絶えで、歯ぎしりして声と容貌に現れた。翌日宮中に入り、すぐに言うには「臣らの見た二宮の門及び斎閣と荀伯玉の宅は、雀羅を張るに丁度よい」と。続けてまた言うには「外論では、千の勅万の令も、荀公の一命に及ばない」と。

武帝は伯玉を深く怨んだ。高帝が臨終に際し、伯玉を指して武帝に託した。武帝が即位すると、伯玉は憂懼した。上はこれを聞き、彼が垣崇祖と親しいことから、崇祖の田業が江西にあるので、互いに扇動して乱を為すことを慮り、意を加えて慰撫したので、伯玉は安んじた。永明元年、崇祖と共に誣告されて誅され、胤叔は太子左率となった。呂文顯は嘆いて「伯玉は太祖に謀ることはできても自らを謀ることはできなかった。豈に天ならずや」と言った。

初め、伯玉が微賤の時、墓相の上手な者がその父に言った。「君の墓は暴貴する者を出すが、ただ久しからず。また品行を失う女子を出す」と。伯玉はこれを聞いて「朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり」と言った。間もなく、伯玉の姉が嫁ぐべき時、明日出立するはずだったが、その晩逃げて人に従い去り、家で探し求めたが見つからなかった。後には出家して尼となった。伯玉はついに敗亡した。

崔祖思

崔祖思、字は敬元、清河東武城の人、魏の中尉崔琰の七世の孫である。祖父の諲は宋の冀州刺史。父の僧護は州の秀才。

祖思は若くして志気有り、読書を好んだ。十八歳で都昌令となり、青州刺史垣護之に従って堯廟に入った。廟には蘇侯神の偶像が座っていた。護之が「唐堯は聖人であるのに蘇侯神と共に座っている。今これを正そうと思うがどうか」と言うと、祖思は「使君がもしこの座を清蕩なされば、則ち堯廟が重ねて四凶を去るようなもの」と言った。これにより諸雑神は共に除かれた。

斉の高帝が淮陰にいた時、祖思は風聞して自ら結びつき、上輔国主簿となり、大いに親しく遇され、謀議に参与した。宋朝が初め高帝を梁公に封じることを議した時、祖思は高帝に啓上して「讖に『金刀利刃斉刈之』とあります。今は斉と称すべきで、実に天命に応じます」と言った。これに従った。相国従事中郎から斉国内史に遷った。

高帝が斉王となった時、酒を設けて楽しんだ。羹膾が既に来ると、祖思は「この味は故に南北に推される」と言った。侍中沈文季が「羹膾は呉の食であり、祖思の解する所ではない」と言うと、祖思は「炰鱉鱠鯉は、句呉の詩に似ず」と言った。文季は「千里の蓴羹は、豈に魯・衛に関せんや」と言った。帝は大いに悦び、「蓴羹は故に沈に還るべきである」と言った。

帝(蕭道成)が輔政のとき、衆議は九錫を加えようとし、内外皆これに賛成したが、祖思のみは言う、「公は仁恕をもって社稷を匡べくし、股肱の義を執る。君子は人を愛するに徳を以てす、かくの如くあるべからず」と。帝はこれを聞いて非とし、「祖思は遠く荀令(荀彧)と同じくす、豈に孤の望むところならんや」と言う。これにより再び任職の官に処せず、礼見は甚だ重んぜられた。垣崇祖は密旨を受けて朝臣を参訪し、光禄大夫垣閎は言う、「身は宋氏の厚恩を受け、また明公の眷接を蒙る、進んでは敢えて同じくせず、退いては敢えて異ならず」と。祖思また言う、「公の退譲誠節、故に礼を以てこれを受くべし」と。次に冠軍将軍崔文仲を問う、文仲は崇祖に問う、「卿の意は如何」と。対えて言う、「聖人云う'幾を知るは其れ神なり'と。また云う'幾を見て作す'と」と。文仲は髀を撫でて言う、「政に吾が意と同じし」と。崇祖は具にこれを説く。及び帝が禅を受けるに及び、閎は故爵を存し、文仲・崇祖は皆侯に封ぜられ、祖思は官を加えられたのみである。給事中・黄門侍郎に除せられた。

武帝(蕭賾)即位すると、祖思は政事を啓陳し、以て「古より物を開き務めを成すには、必ず教学を以て先とす。宜しく太廟の南に文序を弘修し、司農の北に武校を広開すべし」とす。また言う、「劉備は帳鉤の銅を取って銭を鋳、以て国用に充つ。魏武(曹操)は女に皁帳を遣わし、婢十人。東阿(曹植)の婦は繡衣を以て賜死せしめらる。王景興(王朗)は折米を以て誚られ。宋武(劉裕)は節儉人に過ぎ、張妃の房には唯だ碧綃の蚊幬・三斉の苮席・五盞盤の桃花米飯あり。殷仲文は伎を畜うるを勧むると、答えて云う、'我は声を解せず'と。仲文曰く、'但だ畜えば自ら解す'と。また答えて、'解するを畏るるが故に畜わず'と。歴観するに帝王は、未だ嘗て約素を以て興らずして侈麗を以て亡びざるはなし。伏して惟うに陛下は唐を体して儉を成し、虞に踵いて樸を為し、寝殿は則ち素木卑構、膳器は則ち陶瓢充御せらる。瓊簪玉笏は、砕きて塵と為し、珍裘繡服は、焚きて草の如くす。宜しく朝士に柴車蓬館ある者を察し、高く以て殊等にし、禽に馳せ色に荒むる者は、長く清編に違うべし。則ち風を調え俗を変うるは、終日を俟たず」と。また言う、「憲律の重きは、由来尚し。実に宜しく廷尉を清置し、三官を茂簡すべし。漢より律を習うに家あり、子孫並びに其の業を伝う。今の廷尉の律生は、乃ち令史の門戸、刑の厝かざるは、抑も此れに由る」と。また言う、「案ずるに前漢の編戸千万、太楽の伶官方八百二十九人、孔光等奏して経法に合わざる者四百四十一人を罷め、正楽定員は唯だ三百八十八人を置く。今戸口百万に及ばずして、太楽の雅鄭、元徽の時に校試するに千有余人、後堂の雑伎は其の数に在らず。力役を糜費し、風俗を傷敗す。今邪を撥きて道に帰せんと欲すれば、雑伎を罷むるに若くは莫し。王庭には唯だ鍾篽羽戚登歌を置くのみ」と。上詔して報答す。

後に青・冀二州刺史となり、政に在りて清勤にして、而して謙卑に士に下り、言議未だ嘗て時事に及ばず、上更に以てこれを敬重す。未だ幾もせずして卒す。上深く嘆惜を加う。

祖思の叔父 景真

祖思の叔父景真は、平昌太守の位にあり、恵政有り、常に一つの蒲鞭を懸けて未だ嘗て用いず。任を去るの日、土人これを思いて祠を立てしむ。

景真の子 元祖

子元祖は学行有り、文を属するを好み、仕えて射声 校尉 こうい に至る。武帝これを取りて延昌主帥と為す。駕に従いて何美人の墓に至り、上悼亡の詩を為す。特詔して元祖に和せしむ。善しと称す。

永明九年、魏の使李道固及び蒋少游至る。元祖言う、臣が甥少游は班・倕の功有り、今来れば必ず宮掖を模写せしむべし、未だ反すべからずと。上従わず。少游果たして図画して帰る。元祖は歴位して ぎょう 騎将軍、出でて東海太守と為る。上毎にこれを思い、時節恒に手敕を賜い、賞賜有加なり。時に青州刺史張冲啓す、「淮北は頻年に熟せず、今秋始めて稔る。此の境は戎寇に隣接し、弥に沃実を須う。乞う権に穀の淮南を過ぐるを断つべし」と。而して徐・兗・ ・司諸州また各々穀米を私断し、出境を聴かず。是より江北は荒儉にして、流亡の弊有り。元祖乃ち上書し、謂う宜しく豊儉を均うすべしと。書奏して従わるを見る。

祖思の宗人 文仲

祖思の宗人文仲は、徐州刺史の位にあり、建陽県子に封ぜられ、政に在りて百姓に懼れらる。黄門侍郎に除せられ、越騎 校尉 こうい を領し、徙封して随県とす。嘗て高帝に纏須の繩一枚を献ず。上納受す。後に汝陰太守に卒す。徐州刺史を贈られ、諡して襄子と曰う。

蘇侃

蘇侃は字を休烈と曰い、武邑の人なり。祖は護、本郡太守。父は端、州中従事。

侃は書伝に渉猟す。薛安都反すとき、侃を引きて其の府参軍と為し、書記を掌らしむ。侃は自ら抜けて南帰す。斉の高帝は淮上に在り、便ち自ら委結す。高帝淮陰に鎮するとき、取りて冠軍録事参軍と為す。

時に高帝は兵に在ること久しく疑われ、乃ち『塞客吟』を作りて以て志を喩す曰く。

侃は高帝の此の旨に達し、更に自ら勤厲し、遂に府事を委するを見られ、深く知待せらる。桂陽の難に、帝は侃を以て平南録事と為し、軍主を領し、従いて新亭に頓し、金銀を分かち賜いて将士に賦するをさせしむ。後に帝の太尉諮議と為る。侃は高帝に事うること既に久しく、起居を備悉す。乃ち丘巨源とともに蕭太尉記を撰し、帝の征伐の功を載す。新建県侯に封ぜらる。

斉の朝廷が建てられると、黄門郎となり、射声 校尉 こうい を兼任し、心膂として任用された。帝が即位すると、侃は『聖皇瑞命記』一卷を撰して奏上した。建元元年に卒去し、上はこれを惜しむこと甚だしく、質侯と諡した。

虞悰

虞悰、字は景 、会稽郡余姚県の人である。祖父は嘯父、晋の左戸尚書。父は秀之、黄門郎。

悰は若くして孝行で知られ、父が病み人に会いたがらず、子弟といえども近づくことを許さなかった。時に悰は十二、三歳、昼夜を問わず戸の外に伏して内の小者の消息を尋ねた。知らせが得られないと、転じて嗚咽して涙を流し、このようなことが百余日続いた。父が亡くなると、喪が明ける日まで一日に麦鉡二枚だけを食べた。宋に仕えて黄門郎となった。宋の明帝が山陽王休佑を誅殺し、葬儀の日には寒さと雪が三尺も積もり、旧知の者は一人も来なかったが、ただ悰一人が参列した。初め、斉の武帝が官途に就いた頃、家はまだ貧しく、悰はしばしば分け与えて援助した。外出の度に必ず帝を呼んで同乗させ、帝は大いにその恩を感じた。斉の建元初年、太子中庶子となり、累進して 章内史となった。悰の家は財産に富み、美味を調えることを得意とした。 章王嶷が盛大な饗宴を開いて賓客をもてなした時、悰に言った。「料理に何か不足はないか。」悰は答えて言った。「何曾の食疏に黄頷臛というものがあるが、それが無いのが残念だ。」累進して太子右率となった。永明八年に大水があり、百官は戎服を着て太廟を救護したが、悰は朱衣を着て車に乗り、鹵簿を従え、宣陽門外の行馬内で人を追い立て、奏上されて糾弾されたが、許された。上は悰が布衣の頃からの旧交であることから、平然として悰に言った。「私は卿に先祖の官職(尚書)を復活させよう。」侍中に転じ、朝廷は皆その栄誉に驚いた。祠部尚書に遷った。武帝が芳林園に行幸し、悰に美味を求めたところ、悰は粣や雑多な肴を数十輿も献上し、太官の鼎の味も及ばなかった。上は悰に諸々の飲食の調理法を求めたが、悰は秘密にして出さなかった。上が酔って後に体の調子が悪いと、悰はただ醒酒鯖鮓の調理法一つを献上しただけだった。

郁林王が立つと、大匠卿を兼任し、休安陵を造営した。陵の工事現場で役所の下僚から牛酒を受け取った罪で、官を免ぜられた。隆昌元年、白衣の身分で職務を管掌した。郁林王が廃されると、悰はひそかに嘆いて言った。「王(晏)や徐(孝嗣)が遂に袴を縛って天子を廃した。天下にこのような道理があろうか。」延興元年、右軍将軍を管掌した。明帝が立つと、悰は病気と称して陪位しなかった。帝は 尚書令 しょうしょれい 王晏に廃立の事情を示す文書を持たせて悰に見せ、悰が旧臣であることから、佐命の功に参与させようとした。悰は王晏に言った。「主上は聖明であり、公卿が力を合わせている。どうして朽ちた老人を頼って維新を輔弼する必要があろうか。お言葉に従うことはできない。」そして慟哭して自らを制することができなかった。朝議は彼を糾弾しようとしたが、僕射徐孝嗣が「これもまた古に伝わる直臣の風である」と言い、衆議はやんだ。

悰は病気が重いと称して東の故郷に帰り、詔によって百日の休暇を賜った。給事中・光禄大夫に転じ、まもなく正員常侍を加えられ、卒去した。悰の性格は篤実で、人と知り合うと必ず訪ねて安否を確かめ、親しい者も疎遠な者も終始を全うした。世間はこれをもって彼を称えた。

胡諧之

胡諧之、 章郡南昌県の人である。祖父は廉之、書侍御史。父は翼之、州から召されたが就任しなかった。

諧之は宋に仕えて邵陵王の左軍諮議となった。斉の武帝が江州刺史であった時、諧之を別駕とし、事任を委ねた。

建元二年、給事中・ ぎょう 騎将軍となった。上は貴族との盛んな婚姻をもって彼を奨励しようとし、諧之の家族の言葉が傒音(江西の方言)で正しくないのを聞いて、宮中の者四、五人を諧之の家に遣わして子女に言葉を教えさせた。二年後、帝が尋ねて言った。「卿の家族の言葉はもう正しくなったか。」諧之は答えて言った。「宮人は少なく、臣の家族は多いので、ただ正しい音を習得できないだけでなく、かえって宮人たちが頓に傒語を話すようになってしまいました。」帝は大笑いし、朝臣に遍くこの話をした。

永明五年、左衛将軍となり、給事中を加えられた。諧之は風采が立派で潤いがあり、身の処し方をよくわきまえ、また旧恩によって遇されたので、朝士の多くが彼と交遊した。六年、都官尚書に遷った。上は諧之を昇進させようと思い、かつて平然として言った。「江州に侍中は何人いたか。」答えて言った。「近世では程道惠ただ一人だけです。」上は言った。「二人にさせよう。」後にこのことを 尚書令 しょうしょれい 王儉に話すと、王儋はさらに異なる考えを持ち、太子中庶子とし、左衛率を管掌させた。

諧之には識見と才覚があり、朝廷の官職に欠員が出たり、昇進や交代がある度に、密かに上(皇帝)が用いる人を推量し、皆その言う通りになった。虞悰はこれをもって彼に感服した。権要の地位に就くと、多く求めるところがあった。梁州刺史范柏年に良馬を求めたところ、柏年はこれを憂い、使者に言った。「馬は狗の子ではない。どうして際限のない要求に応じられようか。」使者を粗略に扱ったので、使者は恨みを抱いて帰り、諧之に言った。「柏年は言いました。『胡諧之は何たる傒狗(江西の田舎者)か。飽くことを知らぬ要求をしやがって』と。」諧之は歯ぎしりして憤った。時に王玄邈が柏年の後任となったが、柏年は病気と称して遷任を遅らせ、時を定めずに任地に戻らなかった。諧之は帝に言上した。「柏年はその山川の険固を恃み、衆を聚めて一州を擅にしようとしています。」柏年が都に下った時、帝は問わないつもりだったが、諧之はまた言った。「獣を捕らえておきながら山に放すようなものです。」そこで柏年は死を賜った。

十年、諧之は度支尚書に転じ、衛尉を管掌した。翌年に卒去し、肅侯と諡した。

范柏年

柏年は本来梓潼郡の人であったが、土断によって梁州華陽郡に属した。初め州の将軍となり、劉亮が彼を都に遣わして事を諮問させた時、宋の明帝に謁見した。帝は話の流れで広州の貪泉に言及し、柏年に尋ねた。「卿の州にもまたこのような水があるか。」答えて言った。「梁州には文川・武郷、廉泉・譲水があるだけです。」また尋ねた。「卿の宅はどこにあるか。」言った。「臣の住まいは廉と譲の間です。」帝はその巧みな答えを感嘆し、これによって知遇を得た。内外の官職を歴任し、ついに梁州刺史となった。

虞玩之

虞玩之は字を茂瑤といい、會稽郡余姚縣の人である。祖父の虞宗は、 しん の尚書庫部郎であった。父の虞玫は、通直常侍であった。

玩之は若い頃から文書の才に通じ、広く書物や歴史に涉獵した。宋に仕えて烏程縣令となった。路太后の外戚である朱仁彌が罪を犯した時、玩之は法に基づいてこれを取り調べた。太后が孝武帝に訴えて怨んだため、官を免ぜられた。

元徽年間(473-477)、尚書右丞となった。齊の高帝(蕭道成)が政務に參與すると、玩之に手紙を送って言った。「張華が度支尚書となったのは、理由なくしてのことではない。今、輸送・貯蔵に不足がある。そなたが右丞に居るならば、既に金や穀物が蓄積できると感じている。」玩之は上表し、府庫の錢帛、器械、労役の力が、不足するものが次第に多く、用途が広がっていることを述べ、一年を支えられぬことを憂慮した。朝廷の議論はこれを優れた返答として報いた。高帝が東府を鎮守すると、朝廷は敬意を表した。玩之は少府であったが、依然として履物(屐)を履いて席に赴いた。高帝はその履物を取り上げて自ら見ると、歪んで黒ずみ、先が尖り、藁の紐が切れて芒で継いであった。尋ねて言った。「卿のこの履物はもう何年になるのか。」玩之は答えて言った。「初めて官に就き、征北行佐に拜した時に買ったもので、履いてからもう三十年になります。貧しい士人は、とうとう新調することができませんでした。」高帝は嘆息し、そこで新しい履物を賜った。玩之は受け取らなかった。帝がその理由を問うと、答えて言った。「今日の賜り物は、恩も華やかさも共に重いものですが、ただ、古びた簪や破れた席も、また捨て去ることはできません。それゆえに敢えて受け取ることができないのです。」帝はこれを良しとした。驃騎諮議參軍に拜された。霸府(高帝の府)が開かれた当初、賓客が輻湊したが、高帝は人選して接遇することに留意した。玩之と樂安の任遐は共に応対に席上の美(優れた風采)があり、齊名して遇せられた。玩之は黃門郎に遷った。

以前より、宋の時代の戸籍は偽りが多かった。高帝が即位すると、玩之に ぎょう 騎將軍傅堅意と共にこれを検査・確定するよう命じた。建元二年(480)、詔を下して朝臣に言った。「黃籍は人の大綱であり、国の政務の根本である。近頃、民衆の風俗が巧みに偽り、ついには爵位を窃み注ぎ、年月を盗み改め、三つの状(戸籍の記載事項)を増減し、取引・襲用は万の端緒がある。あるいは戸は存するが文書は既に絶え、あるいは人はいるのに却って死や反逆を仮託し、私的に留まっていながら隷役にあると言い、身体は強壮なのに六疾(重病)と称する。これらは皆、政治の大いなる害悪であり、教化の深い疵である。もし刑罰でこれを制約すれば、人の偽りは既に遠く、もし徳でこれを安んじれば、残虐を克服することは容易ではない。諸賢は皆、政体を深く明らかにし、それぞれ良策を献じてほしい。」玩之は上表して適切な意見を述べ、多くが採用された。そこで朝廷は別に校籍官を置き、令史を置き、一日に数件の不正を摘発することを定め、懈怠を防いだ。連年続くうちに、賄賂が密かに通じ、百姓は怨み望んだ。

富陽の人唐宇之は桐廬に僑居し、父祖代々墓相を見ることを業としていた。宇之は自ら、その家の墓に王気があると言った。山中で金印を得て、互いに誑かし惑わした。永明二年(484)の冬、宇之は徒党を集め、遂に富陽を陥落させた。錢唐に至って僭號し、太子を置いた。賊は遂に郡を占拠し、また偽りの會稽太守孫泓を遣わして山陰を取らせた。時に會稽太守王敬則は朝廷に正月の挨拶に出ていたので、宇之は虚を衝いて襲えると思ったのである。泓が浦陽江に至ると、郡丞の張思祖が浹口の戍主楊休武を遣わして防戦させ、大いにこれを破った。朝廷は禁兵を遣わして東討させ、錢唐に至ると、一戦で散り散りになり、宇之を生け捕りにして斬首した。進軍して諸郡縣を平定したが、台軍(朝廷軍)が勝ちに乗じて、百姓は多く略奪を受けた。軍が還ると、上(武帝)はこれを聞き、軍主・前軍將軍陳天福を捕らえて市で斬首に処した。天福は馬矟(馬上の矛)に優れ、諸将の模範であり、上の寵愛する将であった。誅殺されると、内外震え肅然としない者はなかった。

玩之は長く官にあり老病のため、上表して退任を願い出て、許された。玩之は人物の善悪を論じることを好み、宋の末、王儉が員外郎の孔逖を挙げて魏に使わそうとした時、玩之の言論は容赦がなく、孔逖と王儉は共にこれを恨んだ。この時、玩之が東に帰る際、王儉は見送りに出ず、朝廷に餞別をする者もいなかった。中丞の劉休が親しい者に手紙を書いて言った。「虞公は海の隅に散髮して帰り、古人の美に同じうするのに、東都(建康)の送別は、甚だ藹藹たるものではない。」

玩之は家に帰って数年で卒去した。その後、員外郎の孔瑄が王儉に會稽の五官(五官掾か)を求めた。王儉がちょうど手を洗っている時、皁莢を地面に投げつけて言った。「卿の郷里の風俗は悪い。虞玩之は死ぬまで人を煩わせる。」

劉休

劉休は字を弘明といい、沛郡相縣の人である。初め駙馬都尉となり、宋の明帝が藩王であった時、休は湘東國常侍となったが、帝に知られることはなかった。祖父の封(南鄉侯)を襲い、友人である陳郡の謝儼が丞相劉義宣の反乱に同調したため、休はこれを匿った罪に坐し、尚方に拘禁された。孝武帝が崩御して初めて出ることができた。

泰始初年(465)、諸州が反乱した時、休は元来占筮ができ、明帝が勝つことを知り、静かに処して異謀に參與しなかった。休が尚方に拘禁されていた時、尚方令の吳喜はその才能を愛し、後に吳喜に身を寄せ、喜の輔師府錄事參軍となった。吳喜が休を明帝に推挙し、左右に侍ることができるようになり、板授で桂陽王征北參軍となった。

帝はかなり好尚があり、特に飲食を嗜んだ。休は多くの技芸に優れ、ついには鼎の味(調理)に至るまで、通じていないものはなく、遂に親しく賞され、長く殿内に直した。後宮に妊娠する者がいると、帝は休に占わせて男女を占わせたが、占い通りにならないことはなかった。帝は婦人の嫉妬を憎み、尚書右丞の勞彥遠は囲碁が上手いことで親しまれたが、妻の嫉妬で顔面を傷つけられた。帝は言った。「私が卿のためにこれを断とう、どうか。」彥遠は軽率にその旨に従った。その夜、遂に薬を賜ってその妻を殺させた。休の妻の王氏も嫉妬深かった。帝はこれを聞き、休に妾を賜い、王氏に二十回の杖刑を加えるよう命じた。休に宅の後ろに小さな店を開かせ、王氏に自ら皁莢や箒を売らせ、これをもって辱しめた。このように親しく遇せられたのである。

まもなく員外郎に除され、輔國司馬を領し、中書通事舍人となり、南城令を帯びた。後に都水使者、南康相となった。政体を談ずることは上手かったが、郡において特に優れた業績はなかった。齊の建元初年(479)、御史中丞となった。ほどなく上言した。「宋の世は祀(年)を載せること六十、この任に就いた者は五十有三、その年月を較べれば、一年を満たさない。臣のような不適格者が濫りに居るのは、骸骨を請うべきです。」四年(482)、 章內史として出向し、卒去した。

宋の末、指南車を造った時、高帝は休に思理(考案の才)があるとして、王僧虔と共に監督・試験させた。また、元嘉年間(424-453)、羊欣が王子敬(王獻之)の正隷書を重んじ、世は共にこれを尊んだ。右軍(王羲之)の書体はやや軽んじられ、再び貴ばれることはなかった。休が初めて右軍の法を好み、このため大いに流行するようになったという。

江祏

江祏は字を弘業といい、済陽郡考城県の人である。祖父の江遵は寧朔参軍であった。父の江徳驎は 司徒 しと 右長史であった。江祏の姑は斉の高帝の兄である始安貞王蕭道生の妃となり、追諡して景皇后とされ、斉の明帝を生んだ。江祏は年少の頃より明帝に親しまれ、恩は兄弟の如くであった。明帝が呉興郡太守となった時、江祏を郡丞とした。後に通直郎に任ぜられ、南徐州別駕を補任された。明帝が政務を補佐するに及んで、腹心として委ねられ、驃騎諮議参軍に引き立てられ、南平昌太守を兼ねた。

当時、海陵王が新たに立てられたが、人心は未だ服していなかった。江祏はしばしば君臣の大節を以て明帝に説いたが、明帝は顧みて言葉を発しなかった。明帝の肩甲骨の上には赤い痣があり、常に秘密にして人に伝えなかったが、やがて江祏が帝に勧めて人に見せるようにした。晋寿太守の王洪範が任を罷めて帰還した時、帝は肌を脱いでこれを見せて言うには、「人皆これが日月の相であるという。卿、幸いにこれを漏らすな」と。洪範は言うには、「公の日月は御身に在り、どうして隠すことができましょうか。却って公卿に言うべきです」と。帝は大いに喜んだ。折しも直後(宿直の近侍)の張伯・尹瓚らがたびたびひそかに発起を謀った。江祏は憂慮して策がなく、毎晩ことごとく事を託して外出した。明帝が帝位を継ぐ議が定まると、江祏に寧朔将軍を加えた。

明帝が宣城王となった時、太史が密かに図緯を奏上して言うには、「一つの号(年号)で十四年を得る」と。江祏が入ると、帝は喜んで江祏に示して言うには、「これを得て、また何を望もうか」と。即位すると、守衛尉に遷り、安陸県侯に封ぜられた。江祏の祖父の江遵は后の父として金紫光禄大夫を追贈され、父の江徳驎は帝の舅として光禄大夫を追贈された。建武二年、左衛将軍に遷り、甲仗(武器)の廉察を掌った。四年、太子詹事に転じた。江祏は外戚として親しく要職にあり、権勢は当時に冠たった。魏軍が南伐すると、明帝は劉暄を雍州刺史にしようとした。劉暄は当時ちょうど内職(朝廷内の官職)を望んでおり、遠役を願わず、江祏に頼った。江祏は明帝に言うには、「昔、人が劉暄を見れば一州を得て躓いた。今雍州とすれば、もしかすると相(人相)に中るでしょうか」と。帝は黙然とした。やがて梁の武帝(当時は蕭衍)を召して言うには、「今、卿を雍州とす。閫外(軍事)のことは一切卿に委ねる」と。江祏は任用された後、遠方より贈り物を届けさせ、あるいは諸王の名書や好物を取ったが、家の行いは甚だ睦まじく、子や甥に恩があった。

永泰元年、明帝が病に臥すと、江祏を侍中・中書令に転じ、殿省に出仕させた。崩御すると、遺詔により尚書左僕射に転じ、江祏の弟で衛尉の江祀を侍中とし、皇后の弟の劉暄を衛尉とし、始安王蕭遙光・徐孝嗣・蕭坦之らと共に政務を補佐させた。(明帝は)東昏侯に誡めて言うには、「五年の間は汝、意を用いるな。これを過ぎれば自ら覧よ。再び人に委ねるな」と。即位すると、江祏は選事(官吏任用)を参掌した。明帝は顧命の群臣を託したが、意は多く江祏兄弟に寄せており、この時より更に殿内に直し、動静を諮問した。

永元元年、太子詹事を兼ね、劉暄は 散騎常侍 さんきじょうじ ・右衛将軍に遷った。帝は次第に己の意を行おうとし、徐孝嗣はこれを阻むことができなかった。蕭坦之は時に異同があったが、江祏は堅く意を執って制し、帝は深くこれを忌んだ。徐孝嗣が江祏に言うには、「主上は少し異同があるが、どうしてこれに背反できようか」と。江祏は言うには、「ただ我に任せられよ。必ず憂い無からん」と。左右の小人、会稽の茹法珍・呉興の梅蟲児・東海の祝霊勇・東冶の軍人俞霊韻・右衛の軍人豊勇之らは、皆帝に委任された。江祏は常にこれを裁断し抑えたので、群小は歯ぎしりした。

帝の失徳が既に顕わになると、江祏は議して江夏王蕭宝玄を立てようとした。劉暄は初め宝玄の 郢州 えいしゅう 行事(代理)としており、執事が過刻であった。ある人が馬を献上すると、宝玄はこれを見ようとしたが、劉暄は言うには、「馬を見るに何の用があろう」と。妃が煮た豚の腿を求めると、帳下が劉暄に諮ると、劉暄は言うには、「朝に既に鵞鳥を煮た。煩わしくまたこれをせよ」と。宝玄は憤って言うには、「舅はまったく渭陽の情が無い」と。劉暄はこれを聞いても喜ばなかった。この時、江祏の議に同ぜず、建安王蕭宝寅を立てようとした。蕭遙光に密謀すると、遙光は自ら年長を以て、鼎命(帝位)に当たるべきとし、微かな旨をもって江祏を動かした。江祏の弟の江祀は少主(東昏侯)は保ち難いと考え、江祏に遙光を立てるよう勧めた。劉暄は遙光がもし立てば、己が元舅としての望みを失うと考え、同意しなかった。故に江祏は疑いを抱き、久しく決断しなかった。遙光は大いに怒り、左右の黄曇慶を青溪橋の道中に遣わして劉暄を刺殺させようとした。曇慶は劉暄の配下の者が多いのを見て、敢えて発しなかった。事が発覚すると、劉暄は江祏の謀を告げ、帝は処分して江祏兄弟を収監した。江祀は当時殿内に直しており、異変を疑い、使いを遣わして江祏に報せて言うには、「劉暄に謀があるようだ。今、如何なる計らいをなすべきか」と。江祏は言うには、「まさに静かにしてこれを鎮めよ」と。やがて江祏が召されて入見し、中書省に留め置かれた。先に、直斎の袁文曠は王敬則の勲功により封を受けるべきであったが、江祏が執って与えなかった。帝は文曠に江祏を取らせ、刀の環でその心臓を突き刺して言うには、「また我が封を奪うことができるか」と。江祏・江祀は同日に誅殺された。江祏は任寄(信任と委任)は重かったが、財利を忘れず、論者はこれを以て軽んじた。

江祏らが誅殺されると、帝は恣意に遊び歩き、単騎で奔馳し、左右に謂うには、「江祏は常に我が騎馬を禁じた。あの小僧がもし在れば、我どうしてこのようにできようか」と。因って江祏の親族で残っている者は誰かと問うと、答えて言うには、「江祥は今なお冶(牢獄)に在ります」と。乃ち馬上にて勅を作り、江祥に死を賜うた。

江祏の弟 江祀

江祀は字を景昌といい、歴任して晋安王鎮北長史、南東海太守となり、府州の事を行った。江祀の弟の江禧は早くに卒した。子に江廞があり、字は偉卿、十二歳の時、収監の報せを聞き、家人に謂うには、「伯(江祏)が既にこのようである以上、独り存する心無し」と。井戸に赴いて死んだ。

附 劉暄

劉暄は字を士穆といい、彭城の人である。江祏らが誅殺されたと聞くと、眠中に大いに驚き、戸外に飛び出した。左右に問うて、「捕吏は来たか」と。良久くして意が定まり、還って座に着き、大いに悲しんで言うには、「江(祏)を思わず、自ら痛むのみ」と。

蕭遙光の乱が起こると、劉暄を討つことを名目とした。事が平定されると、劉暄は領軍将軍に遷り、平都県侯に封ぜられた。その年、茹法珍・梅蟲児・徐世標が劉暄に異志があると讒言した。帝は言うには、「領軍は我が舅である。どうしてこのようなことがあろうか」と。世標は言うには、「明帝は武帝(斉の武帝蕭賾)の同堂(従兄弟)であり、恩遇はこのようであったが、尚、都を滅ぼし害を尽くしました。舅はどうして信じられましょうか」と。乃ちこれを誅した。

劉暄は人となり軟弱であり、枢軸に居て政を執るも、毎事江祏に譲り、群弟(弟たち)は官に進むことができなかった。死ぬ日、皆これを怨んだ。

和帝の中興元年、江祏に衛将軍を、劉暄に 散騎常侍 さんきじょうじ ・撫軍将軍を追贈し、並びに開府儀同三司を贈り、江祀に 散騎常侍 さんきじょうじ ・太常卿を追贈した。

論じて曰く、「君老いて太子に事えず」とは、義烈の遺訓なり、夫の専心して奉ずる所を欲し、節に在りて二つ無からんことを。伯玉始めて其の事に遵い、旋って誅夷に及び、以て「行うこと惟れ艱し」を験する有り、且つ斉武の弘量に非ざるを知る。高帝淮・兗に作牧し、将に霸業を興さんとす、崔・蘇微を睹て著を知り、自ら奔走に同じくす。虞悰笥餌の恩、諧の心腹の寄せ、並びに光を攀じて日月に得、亦た各時運の躋る所か。玩之の臧否の尤、懸車の日に著る、是れ嗣宗の誡むる所、蓋し亦た遠く致す有るを知る。江祏辟を立てて時に非ず、竟に龍逄の血を蹈む、「人の僻きこと多し」とは、蓋し詩人の深く懼るる所なり。

原本を確認する(ウィキソース):南史 巻047