南史 巻四十六より巻四十七

南史

巻四十六より巻四十七

列伝第三十六

李安人

李安人は、蘭陵郡承県の人である。祖父の李嶷は衛軍 まさ 軍であった。父の李欽之は薛県の県令であった。

安人は若くして大志を抱き、常に腿を叩いて嘆いて言った。「大丈夫が世に処するにあたり、富貴を望むべからず。三将五校を取るも、何の難きことがあろうか。」父に従って県にいた時、宋の元嘉年間に、県が魏に攻略されると、安人は間もなく部曲を率いて自ら抜け出し南帰した。

明帝の時、次第に昇進して武衛将軍となり、水軍を率いて晋安王劉子勛を討ち、向かうところ克捷した。事が平定されると、明帝は新亭楼で諸軍の主将を慰労する大会を開いた。樗蒲の官賭が行われ、安人は五投げ全てが盧であった。帝は大いに驚き、安人を見つめて言った。「卿の顔は四角く田の如し、封侯の相である。」安人は若い頃貧しく、一人の者が門前を通り過ぎ、彼の面相を見て言った。「君は後に大富貴を得て、天子と手を取り合って共に戯れるであろう。」この時になって、安人はこの者を探し求めたが、所在を知ることができなかった。

後に広陵太守となり、南兗州の事務を代行した。斉の高帝が淮陰にいた時、安人は遠くから結び付き事を奉じた。元徽の初め、司州刺史に任じられ、義陽太守を兼ねた。桂陽王劉休范が挙兵すると、安人は軍を派遣して都を救援した。建平王劉景素が兵を起こすと、安人は葛橋でその軍を撃破した。景素が誅殺されると、安人を留めて南徐州の事務を代行させた。城局参軍の王回素は安人に親しまれていたが、絹二匹を盗んだ。安人は涙を流して彼に言った。「我は卿と艱苦を共に備え嘗めてきた。今日王法を犯すは、乃ち卿が我に背いたのである。」軍門においてこれを斬り、手厚く葬儀と祭祀を行ったので、軍府は皆震え服した。東中郎司馬に転じ、会稽郡の事務を代行した。時に蒼梧王(後廃帝)が暴虐をほしいままにし、斉の高帝は憂慮し追い詰められて策がなかった。安人は高帝に申し出て、東方において江夏王 劉躋 りゅうせい を奉じて兵を起こそうとした。高帝は許さず、そこで止めた。

高帝が即位すると、中領軍となり、康楽侯に封じられた。宋の泰始年以来、内外に頻繁に賊寇があり、将帥以下がそれぞれ部曲を募り、都の下に屯聚していた。安人は上表し、淮北の常備軍以外は、その他の余軍は全て送り返すべきであり、もし親近の者で随身者を立てるのが適当な者は、人数を制限することを聴くべきであると論じた。上(高帝)はこれを採用し、故に詔を下して諸々の募集を断った。時に王敬則は勲功と誠心によって親しまれていたが、家国の密事については、上はただ安人と議論した。安人に言った。「上奏文に卿の名があれば、我は再び細かく覧ることはしない。」

間もなく領軍将軍となった。魏が寿春を攻めて馬頭に至ると、詔により安人がこれを防ぎ、魏軍が退くと、安人は淮水に沿って進み寿春に入った。先に宋の時に亡命の王元初が六合山に党を集め、大号を僭称した。自ら手を垂らせば膝を過ぎると言った。州郡が討伐しても捕らえることができず、十数年を経ていた。安人は生きてこれを捕らえ、建康の市で斬った。高帝が崩御し、遺詔により侍中を加えられた。武帝が即位すると、丹陽尹となり、尚書左僕射に遷った。安人は時にしばしば密謀を啓上して賞せられ、また 尚書令 しょうしょれい 王儉とよく結び付いたので、世間では王儉の啓上によってこの任があったと伝えられた。間もなく上表し、年老いて病み退任を求めて、呉興太守となった。家から米を車に載せて郡に赴き、当時の人々はその清廉を服した。呉興には項羽の神が郡の庁舎を護っており、太守が郡に着くと、必ず軛下の牛で祀らねばならなかった。安人は仏法を奉じ、神に牛を供えず、下駄を履いて庁舎に上がり、また庁舎で八関斎を行った。間もなく牛が死に廟の側に葬られたが、今は李公牛塚と呼んでいる。安人は間もなく卒去し、世間では神が祟りをなしたとされた。諡は粛侯。

安人の子、李元履

子の元履は、幼い頃から操行と学業に優れ、政体に非常に通暁し、 司徒 しと 竟陵王蕭子良の法曹参軍となった。王融と遊び親しんでいたが、王融が誅殺されると、郁林王(蕭昭業)は元履に右衛将軍王広之に従って北征するよう命じ、密かに北で彼を殺すよう命じた。広之は以前から安人に厚遇されており、また元履に過失がないことを知っていたので、非常にこれを擁護した。ちょうど郁林王が敗死したので、元履は広之に拝礼して謝し、言った。「二十二歳までは父母の賜り年、これより外は、丈人の賜りであります。」梁に仕えて呉郡太守、度支尚書、衡州・広州・青州・ のぞみ 州の四州刺史となった。

戴僧靜

戴僧靜は、会稽郡永興県の人である。若くして胆力があり、弓馬に巧みであった。刺史沈文秀に仕え、共に魏に捕虜とされたが、後に家族を率いて叛き淮陰に帰還した。斉の高帝は慰撫し養い、常に側近に置いた。後に都で密かに錦を持ち出し、事が発覚して南兗州の獄に繋がれた。高帝は薛深を遣わして僧静に酒食を贈り、刀子を魚の腹の中に置かせた。僧静は獄吏と酒を飲んで酔ったところで、刀で枷を刻み、自ら手で鎖を折り、屋根を破って出て、高帝のもとに帰った。帝は彼を書斎内に匿い、その家が貧しいので、年に穀物千斛を与えた。

ちょうど魏軍が到来し、僧静は応募して出戦し、単刀でまっすぐに前進した。魏軍は奔り退き、さらに追撃して三つの首級を斬った。時に天候が非常に寒かったので、衣を脱ぎ、口に三つの首をくわえ、浮き泳ぎして帰還した。

沈攸之の乱が起こると、高帝は朝堂に入り、僧静を遣わして腹心を率いて先に石頭に至り、 袁粲 えんさん を経略せしめた。時に蘇烈が倉城門を占拠していたので、僧静は書を射て烈に与え、夜に縋りて城に入った。粲は城の西南門に登り、燭火を列ねて坐し、台軍が至ってこれを射ると、火はついに消えた。回って東門に登ると、その党の孫曇瓘は ぎょう 勇にして戦いに長け、一たび合戦するごとに、大いに殺傷し、官軍の死者は百余人に及んだ。軍主の王天生が必死に拒戦したので、相持するを得た。亥の刻から丑の刻にかけて、赤色の流星が地を照らして城中に墜ち、僧静は力を率いて倉門を攻め、手ずから粲を東門で斬り、外軍は門を焼いて入った。功により前軍将軍・寧朔将軍に任ぜられた。

高帝が即位すると、建昌県侯に封ぜられ、位は太子左衛率に至った。武帝が践祚すると、出て北徐州刺史となった。牛を買い与えて貧しい人々に耕種させ、荒廃した情勢をよく治めた。後に南中郎司馬・淮南太守に任ぜられた。

永明八年、巴東王子響が僚佐を殺害すると、武帝は僧静を召して軍を率いて江陵に向かわせようとした。僧静は面会して上啓した。「巴東王は年少であり、長史・司馬がこれを捉えること急にして、忿りに難を思わざる故でございます。天子の児が過誤で人を殺したとして、何の大罪がありましょうか。今急に軍を西上させれば、人情惶懼し、あらゆる事態が起こりましょう。臣は敕命を奉じることはできません。」上は答えなかったが、心ではこれを善しとした。廬陵王中軍司馬・高平太守に転じた。卒し、諡して壮侯といった。

桓康

桓康は、北蘭陵の承県の人である。勇猛果敢で ぎょう 悍であった。宋の大明年間、斉の高帝に従って軍容となり、武帝に従って贛県に在った。泰始初め、武帝が義兵を起こすと、郡に捕らえられ、衆は皆散った。康は担ぎ荷を整え、一方に穆后を、他方に文恵太子及び竟陵王子良を貯め、自ら背負って山中に置いた。門客の蕭欣祖ら四十余人と結び、郡の獄を破って武帝を出した。郡の追兵が急であると、康らは死戦してこれを破った。武帝に従って起兵し、堅陣を摧き陥し、膂力は人に絶していた。経過する村邑においては、恣に暴害を行い、江南の人々はこれを畏れ、その名をもって小児を怖しめ、その形を寺中に画いた。瘧病の者はその形を写して床壁に貼れば、たちまちに癒えぬことはなかった。

後に襄賁県令に任ぜられた。桂陽王休範の乱が起こると、康は県を棄てて都に還り高帝に就いた。事が既に平らぐと、員外郎に任ぜられた。

元徽五年七月六日の夜、少帝が微行して領軍府に至ると、帝の左右の者が言った。「一府皆眠っております。何ぞ牆を縁って入らざる。」帝は言った。「我は今夕一処に適わんと欲する。明日の夜を待て。」康と高帝が養った健児の盧荒・向黒が門の間に在ってその語を聞き得た。明くる朝、王敬則が帝の首を将いて至り、府門を叩いた。康は変事と思い、荒・黒と白刃を抜いて出でんとし、やがて高帝に随って宮中に入った。

高帝が東府を鎮守すると、武陵王中兵・寧朔将軍に任ぜられ、蘭陵太守を帯び、常に左右を衛した。高帝が黄回を誅するに当たり、回は時に南兗州刺史であり、部曲数千を有し、収めんとすれば乱を為すことを恐れ、東府に召し入れ、外齋に停め、康に回の罪を数えさせて、然る後にこれを殺した。時に人はこれがために語って言った。「侜張せんと欲すれば、桓康に問え。」後軍将軍・直閤将軍・南濮陽太守に任ぜられた。

建元元年、呉平県侯に封ぜられた。高帝は康に言った。「卿は我に随うこと日久しいが、方伯を得ず。また我が意を解かざるであろう。正に卿と先ず共に虜を滅ぼさんと欲するのみである。」三年、魏軍が動き、康は淮陽において大いに魏軍を破った。武帝が即位すると、 ぎょう 騎将軍の任に卒した。

焦度

焦度は字を文績といい、南安の氐である。祖父の文珪は、難を避けて仇池に居た。宋の元嘉年間、裴方明が楊難当を平定すると、度の父の明は千余家を率いて襄陽に移住し、そこで天水郡略陽県を立ててこれに居住させた。

度は若くして気幹有り、弓馬に便であった。孝武帝の初め、青州刺史の顔師伯が出鎮するに当たり、台は度を差して幢主とし、これを送らせた。魏の豹皮公と遇い、槊を交えて戦い、豹皮公は地に墯ち、その具装馬を擒え、手ずから数十人を殺した。師伯は孝武帝に啓し、度の気力弓馬は並び人に絶えると称した。帝は召し還して左右に充てた。度の形状を見て、師伯に言った。「これは真の健人である。」

晋安王子勲の夾轂隊主に補せられ、江州鎮守に随った。子勲が起兵すると、度を龍驤将軍とした。前鋒として、向かうところ勝たざるはなかった。事敗れると、宮亭湖に逃れて賊となった。朝廷はその勇を聞き、甚だこれを患った。江州刺史の王景文を使わして誘降させた。景文はこれを己の鎮南参軍とし、中軍直兵を領させ、厚く待遇した。

景文に随って都に還り、常に府州内に在った。景文が害された夜、度は大いに怒り、景文に命に拒むことを勧めたが、景文は従わず、明帝は知らなかった。度の武勇をもって、晋熙王燮の防閤に補せられ、夏口鎮守に随った。武陵王贊が燮に代わって 郢州 えいしゅう となると、度は引き続き留鎮し、贊の前軍参軍となった。沈攸之の乱が起こると、度を転じて中直兵とした。斉の高帝もまた度に仮に輔国将軍・屯騎 校尉 こうい を授け、転じて右将軍とした。

度の容貌は壮醜で、皮膚は漆の如く、質直木訥にして、口より言を出すことができなかった。晋熙王の夾轂主の周彦と度は共に郢州に在ったが、彦に左右の者で度の父と同名の者がおり、彦は常にその名を呼んでこれを使役した。度は積忿し、彦を呵責して言った。「汝は我が諱が'明'であることを知りながら、恒に明と呼ぶのは何故か!」

また郢城に在った時は、特に沈攸之に憎まれた。攸之の大軍が夏口に至り、まさに都へ直進しようとし、偏師を留めて郢を守るのみであった。焦度は城楼の上で勝手気ままに罵り攸之を辱め、ついには自ら髪を振り乱し体を露わにして穢らわしく辱めたので、攸之は怒り、計画を改めて城を攻めた。度は自ら力戦し、攸之の兵が楯をかぶって登ろうとすると、度は穢物の入った器を投げつけるよう命じ、賊兵は敢えて進むことができず、後世この楼を焦度楼と呼んだ。事が収まると、度の功績が最も多かったため、東昌県子に封ぜられ、東宮直閤将軍となった。都に戻ると、貴戚たちが郢城の時に裾をまくり穢らわしいことをしたことを話題にし、その愚直さはこのようなものであった。

人となりは朴訥で口下手であり、高帝に州を求めて出仕しようとしたが、面会するに及んでも、ついに一言も口にしなかった。帝はその政事に通じていないのを見て、ついに用いなかった。後に竟陵郡を求めたが、どう言えばよいかわからず、親しい人が百餘言の言葉を授けると、度は数日間習い誦して、すべて口にすることができた。ちょうど高帝が石頭城を巡行した時、度は大勢の中で自ら申し上げようとしたが、その時急に教えられたことを忘れてしまい、大声で言った。「度、公に啓します。度、公に啓します。度、食うものがありません。」帝は笑って言った。「卿、何ぞ食うものなきを憂えん。」すぐに米百斛を賜った。建元四年、ようやく淮陵太守に任ぜられた。性質は酒を好み、酔うとしばしば激怒したので、上は常に人を遣わして制させた。年老いても気力は以前のままであり、遊撃将軍に任ぜられ、没した。

曹武

曹武は字を士威といい、下邳の人である。本名は虎頭といった。斉の高帝が東府を鎮守した時、武に戴僧静と共にそれぞれ白直三百人を率いさせた。後に屯騎 校尉 こうい となり、南城令を兼ねた。石頭が平定されると、羅江県男に封ぜられた。高帝が禅を受けると、監利県に改封された。武帝が即位すると、累進して ぎょう 騎将軍となった。帝は虎頭という名が卑しいとして、詔して改めさせた。郁林王が即位すると、前将軍の号を加えられた。隆昌元年、雍州刺史となった。建武二年、侯に爵位を進めた。東昏侯が即位すると、前将軍・鎮軍司馬となった。永元元年、始安王蕭遙光が反乱を起こすと、武は軍を率いて青溪大橋に駐屯し、事が収まると、 散騎常侍 さんきじょうじ ・右衛将軍に転じた。

武は体躯が非常にたくましく、人を誘い受け入れるのが巧みであった。晚年に雍州に在った時、現銭七千万を蓄え、いずれも厚く縁取りが大きく、他の物品もこれに相応しく、馬八百匹を有した。僕妾には粗食を食べさせ、食事に脂っこいものはなかった。かつて梅虫児や茹法珍のために女伎を設け、金翠が目を輝かせ、器物や衣服は精華を極め、虫児らはこれによって誣いて奪おうとした。

人々は伝えて、武は風光明媚な時にはいつも、庫を開いて拍張や武戯を招いたという。帝は武が旧将領であることを疑い、兼ねてその財産を欲し、新たに任官したが拝受するに及ばず、誅殺に遇った。兵が捕らえに来た時、嘆いて言った。「諸人は私に異心がないことを知っている。私を殺すのは、ただ私の財貨や伎女を取ろうとするだけだ。多くの人々に見せることができないのが残念だ。」子で成人した者は皆誅殺され、ただ子の世宗兄弟三人はまだ元服しておらず、尚方に繋がれ、梁武帝の兵が到着して免れた。

武は武士ではあったが、人を見抜く鑑識眼がかなりあった。梁武帝と崔慧景が襄陽にいた時、当時崔は大いに勢威を振るっていたが、武は性質が倹約で吝嗇であり、何も贈り物をしなかったが、ただ梁武帝にだけ贈り物をし、言った。「卿は必ず大いに貴くなるだろう。私はおそらくそれを見ることはできない。今、幼い子を託す。」常に密かに銭物や良馬を送った。当時帝は軍中で物資が乏しかったが、武に換え借りると、得られないことはなく、ついに十七万に至った。帝が即位すると、その恩恵を忘れた。天監二年、帝は突然、田のあぜ道を歩いている夢を見た。両側の水は深く底がなく、夢の中で非常に恐れた。突然、武が来て背負ってくれると、武帝は渡ることができ、言った。「卿は今や天下の主であるのに、どうして私の託した言葉を忘れたのか。我が子は飢え寒さに寄るべがなく、昔換えた十七万は、その市宅を返すがよい。」帝が目覚めると、すぐに主書を遣わして銭を返させ、それで市宅を買わせた。子の世澄・世宗はともに抜擢を受け、三二年の間に、重ねて大郡の太守となった。

曹武の子 世宗

世宗は性質が厳格で明察であり、兵勢をよく識り、ついに侯に封ぜられ富貴顕栄した。太子左衛率を歴任し、没すると、左 散騎常侍 さんきじょうじ ・左衛将軍を追贈され、諡して壮侯といった。

呂安国

呂安国は、広陵の人である。宋の大明の末、将領として任用され、沈着で重厚、才幹と見識があり、劉勔に称賛された。泰始二年、勔の軍副となり、殷琰を征討し、功により鍾武県男に封ぜられた。累進して兗州刺史となった。沈攸之の乱が起こると、斉の高帝は安国を湘州刺史とした。建元元年、侯に爵位を進め、右衛将軍に転じ、給事中を加えられた。後に湘郷侯に改封された。武帝が即位すると、累進して光禄大夫となり、 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられた。

安国は文官の任命を喜び、その子に言った。「お前は後で袴褶を着て駆使されるようなことはするな。単衣でさえまだふさわしくないと恨むのだから、朱衣の官になるべきだ。」都官尚書、太子左率、領軍将軍を歴任した。安国は累ねて将帥の地位にあり、朝廷では宿旧として遇された。まもなく 散騎常侍 さんきじょうじ ・金紫光禄大夫に遷り、扶を与えられた。永明八年に没し、諡して粛侯といった。

周山図

周山図は、字を すえ 寂といい、義興郡義郷の人である。家柄は寒賤で、十五六歳の時、気力が衆に絶し、食べる量は常に数人分を兼ねた。郷里で狩猟や遊戯が集まると、常に主帥となり、指揮や処分は皆従われた。産業に従事せず、常に将軍になることを願い、勇健ではあったが弓馬に熟練していなかった。書題は非常に拙く、謹直で口数が少なく、人の短所を言うことをしなかった。人と付き合うと、白髪になるまで変わらなかった。

宋の元嘉二十七年、魏軍が瓜歩に至ると、朝廷の かな によって健児を募集し、山図は応募して、白衣隊主を率いた。軍功により員外郎に任ぜられ、振武将軍を加えられた。鎮軍将軍張永が魏を侵すと、山図は二千人を率いて武原まで糧秣を迎えに行き、魏軍に追撃され、合戦して多く傷つき殺されたが、魏軍はその勇を称え、武原将と呼んだ。永の軍が大敗すると、山図は散卒を収めて下邳城を守った。帰還して給事中・冗従僕射・直閤将軍に任ぜられた。

山圖は酒を好み過失が多かったが、明帝はたびたび怒って責めた。後に自ら改めた。累進して淮南太守となった。時に盗賊が桓温の墓を発掘し、多くの宝物を得た。客が盗んで山圖に贈ったが、山圖は受け取らず、帳簿に記して官に還した。左中郎将に遷った。

斉の高帝が政務を補佐すると、山圖は密かに啓上して、沈攸之が久しく異心を抱いているので、備えをなすべきだと述べた。帝は笑ってこれを容れた。攸之の乱が起こると、武帝が西討 都督 ととく となり、山圖を軍副とするよう啓上した。攸之が郢城を攻めると、武帝は山圖にその形勢を測らせた。山圖は言った、「攸之の為人は、性質が険しく猜疑心が強く、士心を固く結ぶことができない。堅城の下に兵を とど めて攻めれば、まさに離散のきっかけとなるだけです」。攸之が敗れると、高帝は言った、「周公(山圖)の先の言葉は、事態を見通すのに明らかであったと言えよう」。

建元元年、 しん 興県男に封ぜられた。武帝が即位すると、竟陵王鎮北司馬に遷り、南平昌太守を兼ねた。盆城(の戦い)での旧縁により、宮 殿 しんがり や省(役所)に出入りし、非常に親信された。義郷県の長風廟の神は姓が鄧で、かつて県令を務め、死後に霊 しるし を現した。山圖は啓上して神位に輔国将軍を加えるよう乞うた。上(武帝)は答えて言った、「犬の肉で足りるのに、どうして位階が必要なのか」。

黄門郎に転じ、羽林監・四廂直衛を領した。山圖は新林に別荘を建て、朝晩往復した。上は言った、「卿は万人 都督 ととく を罷めていながら軽々しく郊外を行く。今より別荘に行くには仗身(護衛兵)を随行させ、不測の事態に備えよ」。病気になると、上は手詔を下して病状を問うた。まもなく卒去、六十四歳。

周盤龍

周盤龍は、北蘭陵の人である。胆気は人に優れ、特に弓馬に巧みであった。宋の泰始年間、軍功により しん 安子に封ぜられた。元徽二年、桂陽王が乱を起こすと、盤龍は当時冗従僕射であり、斉の高帝に従って新亭に駐屯した。次第に ぎょう 騎将軍に至り、沌陽侯に改封された。

高帝が即位すると、右将軍の号を進めた。建元元年、魏が寿春を攻めると、盤龍を軍主・仮節とし、 州刺史の垣崇祖を助けて魏を防がせ、大破した。上はこれを聞いて喜び、詔を下して称賛し、金の釵二十枚をその愛妾の杜氏に贈った。手詔に「周公の阿杜に賜う」とあった。翌年、魏が淮陽を攻め、角城を包囲した。先に、上は軍主の成買を角城に駐屯させたが、買は王儉に別れを告げて言った、「今度の出陣は、必ず死をもって報いるつもりです。粗末な家の戸は、朱を塗らずとも白くなるでしょう。この身分の低い者の息子は、一人は必ず得るでしょう」。儉がそのわけを尋ねると、答えて言った、「もし賊を殺さなければ、賊に殺されるだけです。息子が世子(跡継ぎ)にならなければ、孝子になります。孝子ならば門に白い塗料を塗り、世子ならば門に赤い塗料を塗るのです」。この時、買が包囲されると、上は領軍将軍の李安人を派遣して救援させ、盤龍に命じて馬軍・歩兵を率いて淮陽から下り、李安人のもとに赴かせた。買は魏と戦い、手ずから傷つけ殺した者は数えきれなかった。朝起きると手の中に突然数升の血があり、その日に戦死した。首は斬り落とされたが、なおも屍は鞍にすがって軍に奔り戻ってから倒れた。

盤龍の子の奉叔が単騎で二百余人を率いて敵陣に突入すると、魏軍一万余騎が左右の翼を広げて包囲した。一騎が走り戻り、奉叔が戦死したと報告した。盤龍は食事中で、箸を捨てた。馬を駆って矟を奮い、まっすぐに魏の陣に突進し、自ら「周公が来た」と叫んだ。魏人はもとより盤龍の勇猛な名を恐れており、なびかない者はなかった。時に奉叔はすでに大いに魏軍を殺し、外に出ることができていたが、盤龍は知らず、東西に突撃した。魏軍は敢えて当たる者なく、奉叔は父が久しく出てこないのを見て、再び馬を躍らせて陣に入った。父子二騎が数万人を翻弄し、魏軍は大敗した。盤龍父子はこれにより名を北国に轟かせた。体つきは甚だ痩せ衰えていたが、軍に臨むと勇猛果敢で、諸将は及ぶ者なかった。

永明五年、大司馬となり、征虜将軍・済陽太守を加えられた。武帝はたびたび武事を講じ、嘗て盤龍に馬軍を率いさせ、騎兵に矟を振るわせて検閲した。後に病気のため、光禄大夫となった。

まもなく出向して兗州刺史となり、侯に爵位を進めた。角城の戍将の張蒲が魏と密かに通じ、大霧に乗じて船で清中に入り薪を採り、魏人を載せてまっすぐ城の東門に向かったため、有司に奏劾され、詔により白衣(無官位)のまま職務を領することとなった。八座(高官)がまもなく再審議を奏上し、東平太守を兼ねることを加えた。盤龍は上表して年老いて才能が弱く、辺境を鎮めることはできないとし、職務の解除を求め、許された。

還朝して 散騎常侍 さんきじょうじ ・光禄大夫となった。武帝は戯れて言った、「卿は貂蟬(高官の冠飾り)を着けているが、 兜鍪 かぶと と比べてどうか」。盤龍は言った、「この貂蟬は兜鍪の中から生まれたものです」。まもなく病没、七十九歳。

盤龍の子 奉叔

子の奉叔は、勇力が人に絶し、若くして盤龍に従って征討し、行く先々で暴掠を行った。東宮直合将軍となった。郁林王が西州にいた時、奉叔は密かに自ら進出する道を得、即位すると、直合将軍の曹道剛とともに心膂となった。奉叔は馬術に優れ、帝は彼に騎馬を学び、特に親愛寵遇され、内裏に入ることができ、何の忌憚もなかった。朝士を陵轹し、 司空 しくう の王敬則のもとに赴いて米二百斛を換えようとした。敬則が百斛を与えると、受け取らなかった。敬則は大いに恐れ、さらに二百斛と金鉿などの物品を贈った。敬則に一人の内妓(私的な女楽)がいたが、帝は奉叔に求めさせた。奉叔は取り次ぎも通さずにまっすぐ前に進み、従者の持つ単刀は皆半分抜き身となった。敬則は裸足で内に走り入った。やがて免れられないと自ら考え、出てきて、遠くから奉叔に呼びかけて言った、「弟よ、どうして突然訪ねてくれたのか」。奉叔が妓を求める旨を あら すると、ようやく釈放された。綦母珍・曹道剛・朱隆之と共に唇歯の関係となり、威権を煽り弄んだ。奉叔は常に単刀二十口を脇に抱え、禁闈に出入りし、別の詔がなくとも門衛は敢えて咎める者はいなかった。しばしば人に語って言った、「周郎の刀は君を識らない」。武帝の御用の角(楽器)と輿(乗り物)を求め、また御仗(儀仗)を求めて左右に与えさせた。事は従わないものはなかった。また黄門郎を求めたが、明帝が補佐として執政し、固執して得られなかったため、蕭諶・蕭坦之に命じて帝を説き、奉叔を外鎮に出して腹心を植え付けさせた。また奉叔に方伯(地方長官)の重みを説かせ、奉叔はその言葉を容れた。隆昌元年、青・冀二州刺史として出向した。奉叔は帝に千戸侯を求め、帝は許した。明帝は不可とした。(奉叔は)突然蕭諶に言った、「もし千戸侯を与えられないなら、五百戸を減らすこともまた応じない。そうでなければ、周郎は刀の先で事を決めるだけだ」。まもなく曲江県男に封ぜられると、奉叔は大いに怒り、衆人の中で刀を振りかざし、目を怒らせ歯を噛みしめた。明帝が説得して諭すと、ようやく受けた。鎮守地に赴こうとする時、明帝は彼を再び制御できないことを慮り、早朝に入朝した際を捉え、後堂に引き入れ、廷尉に引き渡して誅殺した。

王廣之

王廣之は字を士林といい、一字は林之、沛郡相の人である。若くして弓馬を好み、敏捷で勇力があった。初め馬隊主となり、劉勉に従って殷琰を征討した。兵勢が盛んである上に、合肥の戍兵もまた兵を阻んで寇賊となった。勉は軍中に令を宣して合肥を征討する者を求め、大郡をもって賞とするとした。廣之は言った、「もし将軍の乗馬を得れば、必ずやこれを制することができます」。勉の幢主の皇甫肅が勉に言った、「廣之が節下(劉勉)の馬を奪おうとは、斬るべきです」。勉は言った、「その意気を見れば必ずや功を立てられるだろう」。すぐに鞍を押し下げて馬を与えた。出陣すると、合肥は果たして陥落し、勉は大いにこれを賞し、すぐに軍主に抜擢した。廣之は勉の前で肅に言った、「節下がもし卿の言葉に従っていたならば、壮士を斬っただけでなく、自ら賊を平定する術もなかっただろう。卿は才能を賞しないこと、ここに至るとは」。廣之はこれにより名を知られた。初め蒲圻子に封ぜられた。肅は学術があり、立ち居振る舞いに優れ、廣之もまた みやび に推し慕った。勉が亡くなると、肅はさらに廣之に寄り、廣之は盛大に賞遇し接遇し、武帝に啓上して東海太守とし、このように旧悪を念じなかった。

王広之はその後征伐の功により、給事中・冠軍将軍の位にあり、寧都県子に改封された。斉の高帝が蒼梧王を廃すると、広之を徐州刺史・鍾離太守として出させた。沈攸之の乱が起こると、広之は都に留まり、石頭の平定に参与し、引き続き高帝に従って新亭に駐屯した。高帝が黄回を誅殺すると、回の弟の駟および従弟の馬、兄の子の奴が逃亡した。高帝は広之に書を送り、「黄回はわずかな功績はあるが、罪過はますます容認しがたい。近ごろは大小二つの輿(轎)を刺史の服飾として用いることを願い出た。私は惜しむことなくその上奏を聞き届けたが、まさに輿を得てまた画輪車を求めることを恐れる。このほか罪は数えきれない。弟(広之)は自ら詳しく知っているであろう。今、法に基づいて処断することを上奏する」と言い、広之に江西で駟らを捜索捕縛するよう命じた。

建元元年(479年)、爵位を侯に進めた。武帝が即位すると、累進して右衛将軍、 散騎常侍 さんきじょうじ 、前軍将軍となった。延興元年(494年)、 州刺史となり、郁林王廃立に参与した。後に鎮南将軍・江州刺史に任じられ、応城県公に進封された。建武年間(494-498年)、侍中・鎮軍将軍の位にあり、扶(扶持)を与えられた。後に没し、車騎将軍を追贈され、諡は壮公といった。

広之の子、珍国。

子の珍国は字を徳重といい、斉に仕えて南譙太守となり、有能な名声があった。当時郡内は飢饉に苦しんでいたので、米を放出し財を散じて窮乏を救済した。高帝は手ずから詔勅を下し、「卿が人を愛し国を生かすことは、まことに我が意にかなう」と言った。

永明初年(483年以降)、桂陽内史に転じ、賊盗を討捕し、管内を粛清した。任を解かれて都に帰る途中、江州を経過した時、刺史の柳世隆が渚に臨んで餞別し、珍国の帰りの荷物が軽く質素なのを見て嘆息して言った、「これは真の良二千石である」。帰還して大司馬中兵参軍となった。武帝はかねてより彼を知賞しており、その父の広之に言った、「珍国は大用に堪えるべきである。卿は老蚌(年老いて珠を生む蚌)と言えよう」。広之は言った、「臣は辞退いたしません」。帝は大笑いした。帝はしばしば嘆じて言った、「近ごろの将家の子弟で珍国のようである者は少ない」。累進して遊撃将軍となったが、父の喪のため職を去った。

建武末年(498年)、魏軍が司州を包囲すると、明帝は徐州刺史裴叔業に渦陽を攻め落とさせ、援護の勢いとし、珍国を輔国將軍として起用してこれを助けさせた。魏の将軍楊大眼が大軍を率いて急に到来すると、叔業は恐れて軍を捨てて逃走した。珍国はその兵を率いて殿を務めたので、大敗には至らなかった。また会稽太守王敬則が反乱を起こすと、珍国はまた兵を率いてこれを防いだ。永元年間(499-501年)、北徐州刺史となり、将軍の位はもとのままだった。梁の武帝が兵を起こすと、東昏侯は珍国を召して兵を率いて都に帰還させ、朱雀門に駐屯させたが、王茂に敗れた。そこで城内に入り、密かに郗纂を遣わして明鏡を捧げて梁の武帝に誠意を献じた。帝は金を断ち割ってこれに報いた。当時、侍中・衛尉の張稷が諸軍を 都督 ととく していた。珍国は密かに稷の腹心の張齊と結んで稷を要請し、稷はこれを承諾した。十二月丙寅の朝、珍国は稷を衛尉府に導き、兵を率いて雲龍門から入り、内殿で東昏侯を殺害した。そして稷とともに尚書僕射王亮らと西鍾の下で会し、国子博士范雲らに東昏侯の首級を奉じさせて梁の武帝のもとに帰順させた。

後に宴席に侍した時、帝が言った、「卿の明鏡はまだあるが、昔の金(断金)はどこにあるか」。珍国は言った、「黄金は謹んで臣の肘(袖の内)にあり、失い落とすことはいたしません」。左衛将軍を歴任し、 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられ、灄陽侯に封じられた。都官尚書に転じた。初め、珍国は自ら東昏侯を廃殺したことで、三公(台鼎)の地位を望んでいた。先に梁・秦二州刺史として出された時、心に常に鬱怏(ふさぎ込んで不満)があり、酒の上で座中から啓上して言った、「臣は近ごろ梁山に入るとすぐに泣きました」。帝は大いに驚いて言った、「卿がもし東昏侯のために泣いたのならもう遅い。もし私のために泣いたのなら、私はまだ死んでいない」。珍国は起立して拝謝したが、ついに答えず、座はすぐに散じた。このため疎遠となり、久しくしてようやくこの昇進があった。天監五年(506年)、魏の任城王元澄が鍾離を攻撃すると、帝は珍国を援軍として派遣し、ついで賊を討つ方略を問うた。これに対し答えて言った、「臣は常に魏の兵が少ないことを憂い、その多いことを苦にしません」。武帝はその言葉を壮とし、節を仮(授)けて諸軍とともに赴かせた。魏軍が退くと、軍を返した。また南秦・梁二州刺史として出され、ちょうど梁州長史夏侯道遷が州を挙げて魏に降った時、珍国は歩道(山道)を進んで魏興から出て、これを襲おうとしたが果たせず、そこで留まって鎮守した。宜陽県侯に改封され、累進して丹陽尹となった。没し、車騎将軍を追贈され、諡は威といった。子の僧度が嗣いだ。

附 張齊

張齊は字を子向といい、 馮翊郡 ひょうよくぐん の人である。若い時から胆気があった。初め荊州司馬の垣歴生に仕えたが、歴生は酒に酔って部下に厳酷に接し、礼を尽くさなかった。また呉郡の張稷が荊府司馬となると、齊は再びこれに従い、大いに重んじられ、腹心とされた。齊は心を尽くして稷に仕え、稷が南兗州刺史となると、府中兵参軍に抜擢された。

梁の武帝が兵を起こすと、東昏侯は張稷を召還して宮城諸軍事を 都督 ととく させた。張齊は夜に珍国を引き連れて稷のもとに行き、齊自ら燭を執って謀を定めた。翌朝、稷・珍国とともに殿内で東昏侯を攻め、齊自ら手を下してこれを殺した。武帝が禅譲を受けると、齊を安昌侯に封じ、歴陽太守の位に就けた。齊は手で書を知らず、目で字を識別できなかったが、郡において清廉で整っており、吏事(行政)はよく整えられていた。

天監四年(505年)、魏の将軍王足が蜀を攻め、巴西を包囲した。帝は齊を輔国將軍として蜀救援に派遣したが、到着する前に王足は撤退した。齊は進んで南安を守り、巴西太守に転じた。

初め、南鄭が魏に陥落したため、益州の西に南梁州を設置した。州鎮は創設されたばかりで、すべて益州からの供給に頼っていた。齊は夷獠(異民族)から義租(自発的な租税)を徴収し、米二十万斛を得た。

十一年(512年)、仮節を進められ、益州外水諸軍を 都督 ととく した。齊は益州地方に累年おり、蛮獠を討撃して身の安まる年がなかった。軍中にあっては、自ら労苦や汚れに身を親しめ、士卒とともに勤苦を共にし、駐屯地や城塁の造営に至るまで、すべて細部にわたり便宜を得ていた。衣服・食糧・物資の調達供給は、人に困窮がなかった。すでに人心の帰するところとなり、蛮獠もまた敢えて侵犯しなかった。これによって威名は庸蜀(四川地方)に行き渡った。

巴西郡は益州の半分を占め、また東道(東方への通路)の要衝に当たるため、刺史が通過する際、軍府は遠く跋渉して多く窮乏した。齊は道沿いに食糧を蓄え、野菜を栽培し、通行する者がすべてこれを給与とした。南梁州刺史を歴任した。信武将軍・征西鄱陽王司馬・新興永寧二郡太守に転じたが、出発せずに卒した。諡は壮といった。

論じて曰く、宋氏の季に将に至らんとするや、乱離の兆し日に顕れ、家は逐鹿を懐き、人に異図あり。高帝は きん を観て深く視、将に興運に符わんとす。李安人・戴僧静・桓康・焦度・曹武・呂安国・周山図・周盤龍・王広之らは、或いは早く誠款を見せ、或いは心力を尽くし備わり、或いは方面に委を受け、或いは功を麾下に成す。其の栄寵に自ら致す所以のものは、夫れ豈に徒然ならんや、蓋し亦た人心の帰する所有るを験し、推すを楽むの妄ならざるを証す。語に云う、「勇にして礼無ければ則ち乱る」と。夫れ奉叔の進を取るの道を観るに、亦た乱に ちか からずや。其の屠戮を致すは、亦た其れ宜なり。珍国は明鏡在りと雖も、而も断金は験無く、報罵の義、理は則ち宜しく然るべし。台輔の冀、其れ何ぞ たが わんや。張齊は人位本より下り、志望は易く充たされ、績は のぞ む所に宣われ、其れ ほとん ど優れり。

原本を確認する(ウィキソース):南史 巻046