王敬則・陳顯達・張敬兒・崔慧景
王敬則
王敬則は、臨淮郡射陽県の人である。晋陵郡南沙県に僑居した。母は女巫であり、常に人に言うには、「敬則が生まれた時の胞衣は紫色であった。鼓角を鳴らすに相応しい。」人が笑って言うには、「汝の子が人のために角を吹く者となることができればよい。」と。
敬則が年長になると、両腋の下に乳が生じ、それぞれ数寸の長さがあった。五色の獅子に騎乗する夢を見た。性質は倜儻として羈絆されず、刀剣を好み、かつて暨陽県の吏と争い、これに謂うには、「我もし暨陽県を得たら、汝が小吏の背を鞭打つであろう。」と。吏はその顔に唾して言うには、「汝が暨陽県を得るならば、我もまた司徒公を得るであろう。」と。狗を屠り商販することを業とし、三呉に遍く行った。高麗に使いし、その国の女子と私通し、それにより還ることを肯ぜず、収録されて後に返った。
拍張を善くし、刀戟左右に補せられた。宋の前廃帝は敬則に跳刀をさせたところ、白虎幢より五六尺高く跳び、受けても外れることがなかった。なおも股を撫で拍張し、甚だ軽捷であった。侠轂隊主に補せられ、細鎧左右を領し、寿寂之とともに前廃帝を殺した。明帝が即位すると、直閤将軍と為し、重安県子に封ぜられた。
敬則は少時に草中で射猟していたところ、烏豆の如き虫がその身に集まり、払い去ってようやく離れたが、その処は皆流血した。敬則はこれを悪み、道士に詣でて卜うと、道士は言うには、「これは封侯の瑞である。」と。敬則はこれを聞いて喜び、故に出都して自ら効力を尽くした。
後に暨陽県令に補せられ、昔日争った吏は亡命していたが、これを出頭するよう勒令し、遇すること甚だ厚かった。言うには、「我は既に暨陽県を得た。汝はいつ司徒公を得るのか。」と。初めて暨陽県の陸主山の下に至った時、宗族の仲間十余りの船が共に出発したが、敬則の船だけは進まなかった。そこで弟に命じて水に入り推させると、烏漆の棺を見た。敬則は祝して言うには、「もし吉ならば、船を速やかに進ませよ。我富貴したならば、必ずや汝を改葬しよう。」と。船は須臾にして去り、県に入ってこの棺を収めて葬った。
当時は軍乱の後であり、県に一部の賊が山中に逃れて人々の患いとなっていた。敬則は人を遣わして賊の帥に意を致し、出頭するよう促し、必ず上申して論ずると伝えた。城下の廟の神は甚だ酷烈で、百姓はこれを信じていた。敬則は神を引き合いに出して誓い、必ずや背かないと約した。賊帥が出頭すると、敬則は廟中に酒会を設け、座中でこれを収縛して言うには、「我は神に啓した。もし誓いに背くならば、神に十頭の牛を返すと。今、誓いに背くことはできない。」と。即座に十頭の牛を殺して神に解き、併せて諸賊を斬った。百姓はこれを喜んだ。
敬則は書を識らず、ただ署名するのみであったが、然し決断に甚だ長けていた。齊の台が建てられると、中領軍となった。高帝が禅を受けんとする時、材官が太極殿の柱を取り替えるよう進言した。順帝は上(高帝)を避けようとし、宮を出て位を譲ることを肯ぜず。明日に臨軒の儀が行われることとなったが、順帝はまた宮内に逃れた。敬則は輿を将いて入り、帝を迎え、譬えを啓して出るよう命じ、導いて車に昇らせた。順帝は即座に上ることを肯ぜず、涙を収めて敬則に謂うには、「殺されようとするのか。」と。敬則は答えて言うには、「別宮に出居されるだけです。官(先代の宋)が先に司馬家(晋)から取った時もまたこのようでした。」と。順帝は泣いて指を弾き、「ただ願わくは後身、生生世世、再び天王となる因縁を作らざらんことを。」と。宮内は尽く哭き、声は外に徹した。順帝は敬則の手を拍って言うには、「必ずや過慮することなかれ。輔国(敬則)に十万銭を餉おう。」と。
後に王儉と俱に本号に即いて開府儀同三司となる。時に徐孝嗣崇禮門に於いて儉を候ひ、因りて之を嘲りて曰く「今日は連璧と謂ふ可し」と。儉曰く「老子遂に韓非と伝を同じくするを意ひけず」と。人の敬則に告ぐる有り。敬則欣然として曰く「我は南沙県の吏、徼幸して細鎧左右を得、風雲に逮うして此に至る。遂に王衛軍と同日に三公を拝す。王敬則復た何の恨みか有らん」と。了て恨色無し。朝士此を以て之を多とす。
敬則は旧将として事を挙ぐ。百姓篙を擔ぎ鍤を荷ひて之に随逐すること十余万衆。武進陵口に至り慟哭し、肩輿に乗じて前に進む。興盛・山陽の二柴に遇ひ、力を尽くして之を攻む。官軍敵せず、退かんと欲するも囲み開かず、各死戦す。胡松馬軍を領ひて其の後を突く。白丁器仗無く、皆驚き散ず。敬則大いに叫び馬を索む。再び上るも上ること得ず。興盛の軍容袁文曠之を斬り首を伝う。
是の時上疾已に篤し。敬則倉卒東より起こる。朝廷震懼す。東昏侯東宮に在り議して叛かんと欲し、人をして屋に上りて望ましむ。征虜亭の失火するを見て、敬則至れりと謂ひ、急装して走らんと欲す。敬則に告ぐる者あり。敬則曰く「檀公三十六策、走るは上計なり。汝父子唯だ応に急ぎ走るべし」と。蓋し檀道濟の魏を避くる事を譏るなり。
陳顯達
陳顯達は、南彭城の彭城の人である。宋に仕えて軍功により彭沢県子に封ぜられ、位は羽林監・濮陽太守となり、斉の高帝に隷属して新亭の塁において桂陽の賊を討った。劉勔が大桁で敗れると、賊は杜姥宅に進んだ。休范が死ぬと、顯達は杜姥宅から出て、宣陽の津陽門において大戦し、賊を大破したが、矢が左目に中り鏃は出なかった。地黄村の潘嫗は禁呪を善くし、先ず釘で柱を打ち、嫗が禹歩して気をなすと、釘は即ち出たので、乃ち顯達の目中の鏃を禁じて出させた。事が平らぎ、豊城侯に封ぜられ、再び平越中郎将・広州刺史に遷り、都督を加えられた。
沈攸之の事が起こると、顯達は軍を派遣して朝廷を援けようとしたが、長史の到遁・司馬の諸葛導が顯達に境を保ち衆を蓄え、密かに彼我を通じるよう勧めた。顯達は座において手ずからこれを斬り、表疏を遣わして斉の高帝に帰順の心を示した。帝が即位すると、護軍将軍に拝された。後に御膳に牲を宰らなかったが、顯達は熊蒸一盤を献上し、上は即ちこれを以て飯に充てた。後に都督・益州刺史に拝された。
武帝が即位すると、鎮西将軍の号を進められた。益州の地は山険しく、多く服従しなかった。大度村の獠は、前刺史が制することができず、顯達は使者を遣わしてその租賧を責めた。獠の帥は言った、「両眼の刺史でさえ尚お我を調べようとはしない。」遂にその使者を殺した。顯達は部将・吏を分かち、声をして狩りに出るとし、夜に往き襲い、男女少長なく皆これを斬った。これより山夷は震えて服した。
顯達は謙虚で厚く智計があり、自ら人微にして位重きを以て、官に遷る毎に常に愧懼の色があった。子十余人に誡めて言った、「我が本意はここに及ばず、汝ら富貴を以て人に陵ぐことなかれ。」家は既に豪富であり、諸子は王敬則の諸児と共に車牛を競い、服飾を麗しくした。当世の快牛は陳世子の青・王三郎の烏・呂文顯の折角・江瞿曇の白鼻と称され、而して皆陳の舎に集まった。顯達はこれを知って悦ばなかった。子の休尚が郢府の主簿となり、九江を過ぎて拝別した時、顯達は言った、「凡そ奢侈なる者は敗れざるは鮮く、麈尾蠅拂は王・謝の家の物なり、汝は此れを捉えて自ら逐うことを須いず。」即ち前より取りて焼き除けた。その静退この如し。
顯達は建武の世、心中安からず、深く自ら貶退し、車乗は朽ち敗れ、導従の鹵簿は皆羸小なるを用いた。侍宴し、酒後に上に枕を借りることを啓上すると、帝はこれに与えることを命じた。顯達は枕を撫でて言った、「臣年既に老い、富貴已に足り、唯枕を枕して死ぬることを少くし、特ちに陛下にこれを乞う。」上は色を失い言った、「公酔えり。」年老いて退くことを告げたが、許されなかった。
顯達は江州において疾に遇い、療せずして癒え、意甚だ悦ばず。是時連冬大雪、梟首朱雀にして雪集まらず、諸子皆伏誅せられた。
張敬兒
張敬兒は、南陽冠軍の人である。父の醜は郡の将軍となり、官は節府参軍に至った。敬兒は年少より弓馬に便で、胆気有り、猛獣を射るを好み、発して中らざるは無かった。南陽新野の風俗は騎射を出すが、敬兒は特に膂力多し。稍々官は寧蛮行参軍に至り、随郡の人劉胡に従って襄陽の諸山の蛮を伐ち、険阻に深入りし、向かう所皆破った。又胡陽蛮を撃つと、官軍は引き退いたが、敬兒は単馬で後に在り、賊抗うこと能わず。
山陽王休佑が寿陽に鎮し、善き騎射の士を求めたので、敬兒及び襄陽の俞湛が応選した。敬兒は人に事えることを善くし、遂に寵見され、長兼行参軍となった。泰始初め、府に随って驃騎参軍に転じ、中兵を署し、軍を領いて義嘉の賊を討ち、劉胡と鵲尾洲において相拒み、明帝に本郡を乞うことを啓上した。事平らぎ、南陽太守を除かれた。
敬兒が襄陽府の将であった時、家貧しく、毎回休暇には輒ち傭賃して自給した。嘗て城東の呉泰の家に水を担ぎ、泰の愛する婢と通じた。事発し、将に泰に殺されんとしたが、逃げて棺材の中に売られ、蓋を以て加え、乃ち免れた。鵲尾洲に在った時、明帝に啓上して云う、「泰は絲を以て雍州刺史袁顗の弩弦を助け、党同して逆を為す、若し事平の日には、其の家財を乞わん。」帝はこれを許した。ここに至り呉氏を収籍し、唯家人裸身にして出るを得、僮役の財貨は数千万に値し、敬兒皆これを有した。先に通じた婢は、即ちこれを以て妾とした。
後に越騎校尉となり、桂陽王の乱が起こると、斉の高帝に従って新亭に駐屯した。賊の矢石が既に交わると、休範は白服で車に乗り、楼の下を慰労した。敬児は黄回と共に高帝に詐降して休範を取ることを求めた。高帝は言った、「卿が事を成し遂げれば、本州を与えよう」。敬児らは共に城南に出て、武器を捨てて走り、大声で降伏を称した。休範は喜び、車の側に召し寄せた。回は偽って高帝の密意を伝え、休範はこれを信じた。回が敬児に目配せすると、敬児は休範の防身刀を奪い取ってこれを斬り、その左右の百人余りは皆散った。敬児は首を持って新亭に帰った。驍騎将軍に任じられ、輔国将軍を加えられた。高帝は酒宴を設けて敬児に言った、「卿の功績がなければ今日はなかった」。
高帝は敬児の家柄と地位が軽いため、すぐに襄陽の重鎮としようとはしなかった。敬児が止むことなく求めたので、ついに高帝を微かに動かして言った、「沈攸之が荊州におりますが、公は彼が何をしようとしているかご存知です。敬児を出してこれを防がなければ、公の利益にはならないでしょう」。帝は笑って何も言わず、ついに雍州刺史に任じ、都督を加え、襄陽県侯に封じた。部隊が沔口に泊まると、敬児は舴艋に乗って長江を渡り、晋熙王劉燮のもとへ赴いた。江中で風に遭い船が転覆し、左右の壮健な者はそれぞれ泳いで逃げ、残る二人の小史が船の下で敬児を救い求めると、敬児は両脇に彼らを抱え、船が仰向けになったまま水上に浮かび、このように転覆しながら数十里を行き、ようやく迎えを受けた。持っていた節を失い、新たにこれを給された。
任地に着くと、攸之と厚く結び、その動静を得ては密かに高帝に報告し、終始二心がなかった。また攸之の司馬劉攘兵と情誼を通じた。蒼梧王が廃されると、敬児は攸之がこれによって挙兵するだろうと疑い、密かに攘兵に問うと、攘兵は何も言わず、敬児に馬鐙一隻を送った。敬児はそこで備えをした。
攸之は郢城に至って敗走し、その子元琰と兼長史江乂、別駕傅宣らは江陵に帰還した。敬児の軍が白水に至ると、元琰は城外の鶴の鳴き声を叫び声と思い、恐れて逃げ出そうとした。その夜、乂と宣が門を開いて出奔し、城は陥落し、元琰は寵洲に奔って殺された。敬児が江陵に至ると、攸之の親族や与党を誅し、その財物数千万を没収したが、良いものは悉く私物とし、朝廷に送ったのは百分の一にも満たなかった。攸之は湯渚村で自縊死し、住民がその首を荊州に送った。敬児は楯にそれを掲げさせ、青傘で覆い、市街を引き回した後、建鄴に送った。爵位を公に進めた。
敬児は雍州で貪欲で残忍であり、世の中で一つでも使える物があれば、奪い取らぬものはなかった。襄陽城の西に邸宅を建て、物資を集め、邸宅の大きさはほぼ襄陽に匹敵した。また羊叔子の堕涙碑を移し、その場所に台を設けようとした。綱紀が諫めて言った、「これは羊太傅の遺徳であり、移すべきではありません」。敬児は言った、「太傅とは誰か、私は知らない」。
斉が禅譲を受けると、侍中・中軍将軍に転じ、散騎常侍・車騎将軍に遷り、佐史を置いた。高帝が崩御すると、遺詔により開府儀同三司を加えられた。家で密かに泣いて言った、「官家の大老天子は惜しい、太子は年少で、かつて私が及ばなかったことだ」。拝命の時、王敬則が戯れて、彼を褚彥回と呼んだ。敬児は言った、「私は馬上で得たもので、終に華林閣の勲功は作れない」。敬則はこれを大いに恨んだ。
初め、敬児が微賤の時、妻の毛氏がおり、子の道門を生んだが、郷里の尚氏の娘に色よい容貌があり、敬児はこれを悦び、遂に毛氏を棄てて尚氏を娶って妻とした。三司の地位に就くと、尚氏はなお襄陽の邸宅に住んでいた。再び外出しないことを慮り、家族を迎えて悉く都に下し、武帝に奏上したが、労問を受けることはなかった。敬児は内心疑った。垣崇祖が死ぬと、ますます恐懼した。性来、卜術を好み、夢を信じること特に甚だしく、初めて荊州を征した時、諸将帥に会う度に、余計な計略を述べる暇もなく、ただ夢を語って言った、「未だ貴くない時、村に住む夢を見た。社の樹が突然数十丈高くなった。雍州におった時、また社の樹が真っ直ぐ天に届く夢を見た」。これをもって配下を誘い説き、自ら貴いことは言うに及ばぬと称した。これにより自らを測り知らず、無知であった。また郷里で謠言を作らせ、子供たちに歌わせて言った、「天子は何処に在る? 邸宅は赤谷口に在り。天子は誰ぞ? 猪に非ずして狗の如し」。敬児の家は冠軍にあり、邸宅の前に赤谷という地名があった。開府を得た後、また班剣を望み、人に語って言った、「我が車の傍にはまだ班蘭(班剣)の物が少ない」。
敬児は初め文字を知らなかったが、方伯となってから、学び習って孝経・論語を読んだ。初めて護軍に徴された時、密かに密室で人を屏い、揖譲と応対を学び、空中で俯仰し、妾や侍女がこっそり覗いて笑った。三司に拝される時、妻の兄嫁に言った、「私は拝された後、府で黄閣を開く」。そこで口ずさんで鼓の音を立てた。初めて鼓吹を得た時、恥ずかしがってすぐには奏さなかった。また新林の慈姥廟で妾のために子を祈り神に祝い、口ずさんで三公と自称した。その鄙俚なことこのようであった。
初め、その母が田の中で臥していると、角のある犬の子が舐める夢を見、後に妊娠して敬児を生んだので、初めの名を苟児とした。また一子を生み、苟児の名に因んで猪児と名付けた。宋の明帝は苟児の名が鄙しいのを嫌い、敬児と改めさせたので、猪児もまた恭児と改めさせられた。正員郎の位にあり、病と称して本県に帰り、常に上保村に住み、出仕を肯まず、住民と異ならなかった。敬児と愛友甚だ篤く、敬児の敗北を聞くと、蛮地に逃げ込んだ。後に自首して出頭し、その罪を許された。
崔慧景
崔慧景、字は君山、清河郡東武城県の人である。祖父の構は、奉朝請であった。父の系之は、州の別駕であった。
慧景は若くして志業があり、宋に仕えて長水校尉となった。斉の高帝が淮陰におられた時、慧景は同族の祖思と同時に自ら結び付いた。高帝が禅譲を受けると、楽安県子に封じられ、都督・梁南秦二州刺史となった。永明四年、司州刺史となった。母の喪に服したが、詔により本任に復帰した。慧景は州を去る度に、資産を傾けて献上し、数百万に及んだ。武帝はこれにより彼を嘉した。十年、都督・豫州刺史となった。
郁林王が即位すると、慧景は少主が新たに立ったため、密かに魏と通じ、朝廷はこれを疑った。明帝が政を補佐すると、梁武帝を寿春に遣わして彼を慰撫させた。慧景は密かに啓を送って誠意を示し、帝位につくよう勧めた。建武四年、度支尚書となり、太子左率を領した。
東昏侯が即位すると、護軍となった。時に輔国将軍徐世標が権勢を専らにし号令を発し、慧景は備員に過ぎなかった。帝が将相を誅戮し、旧臣が皆尽きた後、慧景は自ら年功が高く位も重いとして、かえって自ら不安を覚えた。裴叔業が寿陽を以て魏に降ると、即座に慧景を平西将軍に任じ、仮節・侍中・護軍は元の如くとした。軍を率いて水路より寿陽を征討せしめた。軍は白下に駐屯し出発せんとした時、帝は長囲を屏除し、琅邪城を出てこれを送った。帝は戎服を着て楼上に坐し、慧景を召して騎兵で囲いの中に進ませたが、一人も従者は付けず、僅かに数言交わしただけで、拝礼して辞去した。慧景は出て白下に至り大いに喜び、曰く「頸はもはや小豎どもが折れるものではない」と。子の覚は直閤将軍であり、慧景は密かに彼と期を約した。
時に江夏王宝玄が京口を鎮守していたが、慧景が北行すると聞き、側近の余文興を遣わして説かせた、「朝廷は群小を任用し、忠賢を猜み害し、江・劉・徐・沈(の誅殺)は君の見たところ、身は魯・衛のごとき親族であっても、滅亡がいつかも知れぬ。君の今度の挙兵は、功有っても死す、功無くても死す、どうして免れようと求めるのか。機は失うべからず、今強兵を擁し、北は広陵を取って呉・楚の勁卒を収めよ。身は州を挙げて相応じ、大功を取ること反掌の如し」と。慧景は常に不安を抱いていたので、この言葉に応じた。
当時、廬陵王長史蕭寅・司馬崔恭祖が広陵城を守っていた。慧景は宝玄の件を恭祖に告げた。恭祖は以前から宿縁がなく、口では相和したが、心実は同ぜず。戻って事を蕭寅に告げ、共に城を閉ざす計略を為した。蕭寅は心の中で恭祖が慧景と同調していると思い、謂って曰く「昏君を廃し明君を立てるは、人情の楽しむところ、どうして違え拒めようか」と。恭祖はなお異なる意見を執った。間もなく慧景が到着すると、恭祖は門を閉ざして敢えて出なかった。慧景は彼が己と異なることを知り、数行の涙を流して去った。
中兵参軍張慶延・明岩卿らが慧景を勧めて広陵を襲撃して奪取せしめ、密かに軍主劉霊運を遣わして間道より突入させた。慧景は間もなく到着し、遂にその城を占拠した。子の覚が到着すると、引き続き兵を領して京口を襲撃させた。宝玄は本来大軍が共に来ると考えていたが、人の少ないのを見て、極めて失望し、覚を拒み、撃退した。恭祖及び覚の精兵八千が江を渡った。恭祖の心は本来反逆に同調せず、蒜山に至り、覚を斬って軍を率いて京口に降ろうとしたが、事既に果たせず止んだ。
覚らの軍は兵器が精良で厳重であり、柳憕・沈佚之らが宝玄に謂って曰く「崔護軍は威名既に重く、誠意も見える。既に唇歯の関係なのに、忽ち中途で異を立てる。彼は楽しく帰するの衆を以て、江を乱して渡れば、誰が拒ぎ得ようか」と。ここにおいて北固楼に登り、千本の蝋燭を並べて烽火とし、挙げて覚に応じた。帝は変事を聞き、右衛将軍左興盛に仮節を与え、都下の水陸諸軍を督せしめた。慧景は二日間停頓し、便ち大衆を率いて一時に俱に江を渡り、京口に向かった。宝玄は引き続き覚を前鋒とし、恭祖を次とし、慧景は大都督を領して諸軍の節度を為した。東府・石頭・白下・新亭の諸城は皆潰え、左興盛は逃げ、宮中に入れず、淮渚の荻船の中に逃れ、慧景に捕らえられ殺された。慧景は宣徳皇后の令を称し、帝を廃して呉王とした。
時に柳憕は別に宝玄を推し、恭祖は宝玄の羽翼となって、再び承奉せず、慧景はこれを嫌った。巴陵王昭冑は先に民間に逃れ、出て慧景に投じたので、慧景の意は更に彼に向かい、故に猶予して誰を立てるか知らず、この声は頗る漏れた。憕・恭祖は始めて慧景に二心を抱いた。また恭祖は慧景を勧めて火箭を射て北掖楼を焼かんとしたが、慧景は大事垂成に定まり、後で更に造れば費用功労が多いとして、その計に従わなかった。(慧景は)性、談義を好み、兼ねて仏理を解し、法輪寺に頓駐し、客に対し高談したので、恭祖は深く怨望を懐いた。
先に、衛尉蕭懿が豫州刺史として、歴陽より歩道を経て寿陽を征討していた。帝は密使を遣わして告げた。懿は軍主胡松・李居士らを率いて採石より岸を渡り、越城に駐屯して烽火を挙げると、台城中では鼓を打ち叫んで慶賀を称えた。恭祖は先に慧景を勧めて二千人を遣わし西岸の軍を断ち、渡らせぬようにさせたが、慧景は城は旦夕に降るであろう、外からの救援は自然に散じるだろうとして、許さなかった。恭祖が義師を撃つことを請うたが、また許さなかった。乃ち子の覚に精鋭の甲兵数千人を将いて南岸に渡らせた。義師は昧旦に進戦し、覚は大敗した。慧景の人心は離散し沮喪した。
恭祖は軍を興皇寺に駐屯させ、東宮で掠めた女妓を得た。覚が来て強奪したので、ここにおいて忿恨した。その夜、崔恭祖と驍将劉霊運は城に詣でて降った。慧景は乃ち腹心数人を将いて潜かに去り、北へ江を渡らんとした。城北の諸軍は知らず、猶も拒戦した。城内より出撃し、数百人を殺し、慧景の残衆は皆奔った。
慧景の城包囲は凡そ十二日、軍旅は都下に散在し、営壘を為さなかった。逃走するに及んで、衆は道中で次第に散り、単馬で蟹浦に至り、漁夫の太叔栄之に投じた。栄之は以前慧景の門人であったが、時に蟹浦の戍にあり、慧景に謂って曰く「吾は楽を与えん、汝は吾が為に酒を求めよ」と。既にして栄之に斬られ、首を魷籃の中に入れて担いで都に送られた。
恭祖は慧景の同族であり、驍勇果断で馬韒に便で、気力人に絶し、頻りに軍陣を経た。王敬則を討った時、左興盛の軍容袁文曠と敬則の首級を争い、明帝に訴えて曰く「恭祖は禿馬に絳衫を着て、手ずから敬則を刺し倒したので、文曠がその首を斬り得た。死を以て勲功に易えたのに枉げて奪われる。若しこの勲功を失えば、必ずや左興盛を刺殺せん」と。帝はその勇健を以て、興盛に謂って曰く「どうして恭祖に文曠と功を争わせることを許すのか」と。慧景平定後、恭祖は尚方に繋がれ、間もなく殺された。覚は亡命して道人となり、捕らえられて法に伏した。
先に、東陽の女子婁逞が服を変え詐って丈夫と為り、粗く囲棋を知り、文義を解し、遍く公卿に遊び、仕えて揚州議曹従事に至った。事発し、明帝は駆り立てて東に還らせた。逞は始めて婦人の服を着て去り、歎じて曰く「此の如き伎倆を持ちながら、還って老嫗となるとは、豈惜しむべからざるか」と。これは人妖である。陰にして陽たらんと欲し、事果たせず故に泄れたのであり、敬則・遙光・顕達・慧景の応である。旧史に裴叔業の伝有り、事は魏に終わるので、今はこれを略す。
論じて曰く、光武の功臣が終身名を保ち得た所以は、豈に職事に任じざるのみならず、また章帝・明帝を継奉し、心に正嫡を存したからである。王・陳(敬則・顕達)は跡を抜き奮飛すれば則ち建元・永明の運にあり、身が鼎将に極まれば則ち建武・永元の朝に在った。勲功は往時に非ず、位は昔の等を踰え、礼遇授けられしは雖も重く、情分は交わらず。これに主の猜疑と政の混乱を加え、危亡の慮り及び、手を挙げて頭を払い、人は自ら免れんと考える。干戈既に用いられ、誠に犯上の跡に淪ち、敵国は同舟より起こる。況んや又これより疎なるにおいてをや。敬児は震主の勇を挟み、鳥尽きの運に当たり、内に邪夢に惑い、跡は覬覦に渉る。その殲滅に至るも、亦その理なり。慧景は乱を以て乱を済さんとし、能く及ばざるがあらんや。