南史

巻四十四 列傳第三十四

巻四十四 列傳第三十四

南史

巻四十四 列傳第三十四

武帝の子

原文武帝子

武帝に二十三男あり。穆皇后は文恵太子長懋・竟陵文宣王子良を生み、張淑妃は廬陵王子卿・魚復侯子響を生み、周淑儀は安陸王子敬・建安王子真を生み、阮淑媛は晉安王子懋・衡陽王子峻を生み、王淑儀は隨郡王子隆を生み、蔡婕妤は西陽王子明を生み、楽容華は南海王子罕を生み、傅充華は巴陵王子倫を生み、謝昭儀は邵陵王子貞を生み、江淑儀は臨賀王子岳を生み、庾昭容は西陽王子文を生み、荀昭華は南康王子琳を生み、顔婕妤は永陽王子瑉を生み、宮人謝氏は湘東王子建を生み、何充華は南郡王子夏を生む。第六・第十二・第十五・第二十二の皇子は早く亡くなり、子瑉は衡陽元王の後を継ぐ。

原文武帝二十三男:穆皇后生文惠太子、竟陵文宣王子良,張淑妃生廬陵王子卿、魚復侯子響,周淑儀生安陸王子敬、建安王子真,阮淑媛生晉安王子懋、衡陽王子峻,王淑儀生隨郡王子隆,蔡婕妤生西陽王子明,樂容華生南海王子罕,傅充華生巴陵王子倫,謝昭儀生邵陵王子貞,江淑儀生臨賀王子岳,庾昭容生西陽王子文,荀昭華生南康王子琳,顏婕妤生永陽王子瑉,宮人謝生湘東王子建,何充華生南郡王子夏。第六、第十二、第十五、第二十二皇子早亡;子瑉繼衡陽元王后。

文恵皇太子長懋、字あざなは雲喬、小字は白澤、武帝の長子である。武帝が弱冠に満たぬ年に太子を生み、姿容は豊かで美しく、高帝に愛された。宋の元徽の末、秘書郎に任ぜられたが拝せず、板授により輔国将軍となり、晉熙王撫軍主簿に遷る。事が平らぎ、武帝は太子を都に還らせた。高帝はまさに覇業を創めんとし、嫡嗣を心に留め、太子に謂いて「汝が還れば、我が事は成る」と言う。府の東齋に処し、文武の賓客を通ずることを命じた。荀伯玉に謂いて「我が出行する日、城中の軍は悉く長懋の節度を受くべし。我は行かずとも、内外の直防及び諸門の甲兵は、悉く長懋に時々履行せしめよ」と言う。

原文文惠皇太子長懋,字雲喬,小字白澤,武帝長子也。武帝年未弱冠而生太子,姿容豐美,為高帝所愛。宋元徽末,除秘書郎,不拜,板輔國將軍,遷晉熙王撫軍主簿。事甯,武帝遣太子還都。高帝方創霸業,心存嫡嗣,謂太子曰:「汝還,吾事辦矣。」處之府東齋,令通文武賓客。謂荀伯玉曰:「我出行日,城中軍悉受長懋節度。我雖不行,內外直防及諸門甲兵,悉令長懋時時履行。」

秘書丞に転じたが、宣帝の諱いみなと同字のため、就任しなかった。中書・黄門侍郎を歴任する。昇明三年、高帝が禅を受けんとするに当たり、襄陽は兵馬の重鎮であるため、他族を処することを欲せず、太子を出して雍州刺史とし、都督・北中郎将・寧蛮校尉を加える。建元元年、南郡王に封ぜられる。江左において嫡皇孫が王に封ぜられるのは、これより始まる。

原文轉秘書丞,以與宣帝諱同,不就。曆中書、黃門侍郎。升明三年,高帝將受禪,以襄陽兵馬重鎮,不欲處他族,出太子為雍州刺史,加都督、北中郎將、甯蠻校尉。建元元年,封南郡王,江左嫡皇孫封王,始自此也。

先に、梁州刺史范柏年は頗る威名を著わし、沈攸之の事が起こると、形勢を候望した。事が平らぎ、朝廷は王玄邈を遣わして代えさせた。玄邈が既に至ったが、柏年は魏興に遅滞し下らなかった。太子はその変を為すを慮り、乃ち人を遣わして説き、府の長史とすることを啓上することを許した。襄陽に至ると、因ってこれを捕らえて誅した。

原文先是,梁州刺史范柏年頗著威名,沈攸之事起,候望形勢,事平,朝廷遣王玄邈代之。玄邈已至,柏年遲回魏興不肯下,太子慮其為變,乃遣說之,許啟為府長史。及至襄陽,因執誅之。

二年、侍中・中軍将軍に徴され、府を置き、石頭に鎮す。穆妃が薨じ、成服の日、車駕が出でて喪に臨む。朝議は太子が門を出でて迎えるべきか疑う。左僕射王儉曰く、「礼記服問を尋ぬるに、『君の主と為す所は夫人・妻・太子の嫡婦』と。国君が此の三人の為に主喪と為すと言うなり。今鑾輿が臨降するは、自ら主喪として至るなり。事に因って撫慰すと雖も、義は弔に在らず。南郡王以下は門を出でて奉迎すべからず。但し尊極の臨む所、礼に変革あり、杖絰を去り、戸外に移り立つは、情敬を表するに足り、哭を止むる煩わしさ無し。皇太子は既に一宮の主たり、自ら車駕を以て宮に幸し、常に依りて奉候すべし。既に成服の日に当たる、吉凶は相い干さず、衰幘を以て事を行い、望拝して哭を止め、旧章に率うべし。尊駕は臨弔を以てせず、奉迎は則ち惟だ常体を求む。情礼に求めれば、安んずるに可しと為す」と。又た其の年九月に閏あり、小祥は閏を計るべきか疑わしい。儉又た議し、以て「三百六旬は、尚書に明義あり、文公の幣を納るるは、春秋に譏を致す。故に先儒は期喪には歳数閏を没し、大功以下には月数閏を数う。是を以て呉商云う、『閏を含めて以て期を正すは、情理に允協す』と。閏を没するの理は、固に言の先に在り」と。並びにこれに従う。

原文二年,徵為侍中、中軍將軍,置府,鎮石頭。穆妃薨,成服日,車駕出臨喪,朝議疑太子應出門迎。左僕射王儉曰:「尋禮記服問:'君所主夫人、妻、太子嫡婦。 '言國君為此三人為主喪也。今鑾輿臨降,自以主喪而至,雖因事撫慰,義不在吊,南郡以下不應出門奉迎。但尊極所臨,禮有變革,權去杖絰,移立戶外,足表情敬,無煩止哭。皇太子既一宮之主,自應以車駕幸宮,依常奉候。既當成服之日,吉凶不相干,宜以衰幘行事,望拜止哭,率由舊章。尊駕不以臨吊,奉迎則惟常體,求之情禮,如為可安。」又其年九月有閏,小祥疑應計閏。儉又議,以為「三百六旬,尚書明義,文公納幣,春秋致譏。故先儒期喪,歲數沒閏,大功以下,月數數閏。所以吳商云:'含閏以正期,允協情理。'沒閏之理,固在言先」。並從之。

武帝が即位すると、皇太子となる。初め高帝は左氏春秋を好み、太子は旨を承けて諷誦し、口実と為した。東宮に正位するに及び、名尚を立てることを善くし、声律を解し、射を工み、酒を数斗に至るまで飲むも、未だ嘗て杯を挙げず。従容として風儀有り、音韻和らぎ弁じ、朝士を引接して、人々自ら得意と為すを覚えしむ。文武の士多く招集し、会稽の虞炎・済陽の範岫・汝南の周顒・陳郡の袁廓、並びに学行才能を以て、左右に応対す。而して武人略陽の垣歴生・襄陽の蔡道貴は、拳勇秀出し、当時に於いて関羽・張飛に比す。其の余の安定の梁天恵・平原の劉孝慶・河東の王世興・趙郡の李居士・襄陽の黄嗣祖・魚文・康絢の徒は、並びに後の名将と為る。

原文武帝即位,為皇太子。初高帝好左氏春秋,太子承旨諷誦,以為口實。及正位東儲,善立名尚,解聲律,工射,飲酒至數斗,而未嘗舉杯。從容有風儀,音韻和辯,引接朝士,人人自以為得意。文武士多所招集,會稽虞炎、濟陽範岫、汝南周顒、陳郡袁廓,並以學行才能,應對左右。而武人略陽垣曆生、襄陽蔡道貴,拳勇秀出,當時以比關羽、張飛。其餘安定梁天惠、平原劉孝慶、河東王世興、趙郡李居士、襄陽黃嗣祖、魚文、康絢之徒,並為後來名將。

永明三年、崇正殿に於いて孝経を講じ、少傅王儉は太子僕周顒に命じて義疏を撰せしむ。五年冬、太子は国学に臨み、親ら諸生を策試し、坐に於いて少傅王儉に曲礼の「無不敬」の義を問う。儉及び竟陵王子良等各々酬答有り。太子又た此の義を諸学生に問い、謝幾卿等一十人、並びに筆を以て対す。太子、王儉に問う、「周易の幹卦は本より天位に施す、而るに説卦に云う『帝は震より出づ』と。震は本より天の義に非ず、豈に相い主たるに当たらんや」と。儉曰く、「幹は健なり、震は動なり。天は運を以て徳と為す、故に『帝は震より出づ』と言うなり」と。儉又た太子に孝経の「仲尼居たり曾子侍す」の義を諮り、臨川王映は「孝は徳の本なり」の義を諮る。太子並びに機に応じて酬答し、甚だ条貫有り。

原文永明三年,於崇正殿講孝經,少傅王儉令太子僕周顒撰為義疏。五年冬,太子臨國學,親臨策試諸生,於坐問少傅王儉曲禮云:「無不敬。」義,儉及竟陵王子良等各有酬答。太子又以此義問諸學生,謝幾卿等一十人,並以筆對。太子問王儉:「周易幹卦本施天位,而說卦雲'帝出乎震',震本非天義,豈當相主?」儉曰:「幹健震動,天以運為德,故言'帝出乎震。」儉又諮太子孝經「仲尼居曾子侍。」義,臨川王映諮「孝為德本。」義,太子並應機酬答,甚有條貫。

明年、上将に丹陽の領する囚及び南北二百里内の獄を訊らんとし、詔して太子に玄圃園の宣猷堂に於いて三署の囚を録せしめ、原宥各々差やや有り。上は晚年游宴を好み、尚書曹の事も、亦た分けて太子に送り省視せしむ。

原文明年,上將訊丹陽所領囚及南北二百里內獄,詔太子于玄圃園宣猷堂錄三署囚,原宥各有差。上晚年好游宴,尚書曹事,亦分送太子省視。

太子は竟陵王子良と倶に釈氏を好み、六疾館を立てて窮人を養う。而して性頗る奢麗を好み、宮内の殿堂は皆彫飾精綺にして、上宮を過ぐ。玄圃園を開拓して台城北塹に等しくし、其の中に土山池閣楼観塔宇を起こし築き、奇を窮め麗を極め、費やす所千万を以てす。多く異石を聚め、山水を妙に極む。上宮中より望見せらるるを慮り、乃ち旁らに修竹を列ね、外に高鄣を施す。遊牆数百間を造り、諸の機巧を施し、須らく鄣蔽すべく、須臾の内に成立し、若し毀撤すべくんば、手に応じて遷徙す。珍玩の物を制し、孔雀の毛を織りて裘と為し、光採金翠、雉頭を過ぐること遠し。晉の明帝が太子たりし時に西池を立てしを以て、乃ち武帝に啓して前例を引き、東田に小苑を起こすことを求め、上許す。

原文太子與竟陵王子良俱好釋氏,立六疾館以養窮人。而性頗奢麗,宮內殿堂,皆雕飾精綺,過於上宮。開拓玄圃園與台城北塹等,其中起出土山池閣樓觀塔宇,窮奇極麗,費以千萬。多聚異石,妙極山水。慮上宮中望見,乃旁列修竹,外施高鄣。造遊牆數百間,施諸機巧,宜須鄣蔽,須臾成立,若應毀撤,應手遷徙。制珍玩之物,織孔雀毛為裘,光採金翠,過於雉頭遠矣。以晉明帝為太子時立西池,乃啟武帝引前例,求于東田起小苑,上許之。

永明の中、二宮の兵力全く実り、太子は宮中の将吏を使い番を更えて築役せしめ、城を営み巷を包み、制度の盛んなること、観る者都を傾く。上は性厳しと雖も、太子の為す所、敢えて啓する者無し。後、上豫章王の宅に幸し、還りて太子の東田を過ぎ、其の弥亘華遠なるを見、壮麗目を極む。於いて大いに怒り、監作の主帥を収む。太子懼れ、皆之を蔵匿す。是に由りて責め見らる。

原文永明中,二宮兵力全實,太子使宮中將吏更番築役,營城包巷,制度之盛,觀者傾都。上性雖嚴,太子所為,無敢啟者。後上幸豫章王宅,還過太子東田,見其彌亙華遠,壯麗極目,於是大怒,收監作主帥,太子懼,皆藏之,由是見責。

太子は元来疾有り、体又た過ぎて壮んにし、常に宮内に在り、遨遊に簡にして、羽儀を玩弄し、多く僭擬す。咫尺の宮禁と雖も、而上終に知らず。又た徐文景に輦及び乗輿の禦物虎賁雲罕の類を造らしむ。上嘗て東宮に幸す。匆匆として暇あらずして輦を蔵せず。文景乃ち佛像を輦の中に内す。故に上疑わず。文景の父陶仁、時に給事中たり。文景に謂いて「終に滅門すべし、政まさめて墓を掃いて喪を待つのみ」と言い、乃ち家を移して之を避く。其の後文景竟に死を賜う。陶仁遂に哭せず。時人古人の風有りと為す。

原文太子素疾,體又過壯,常在宮內,簡於遨遊,玩弄羽儀,多所僭擬。雖咫尺宮禁,而上終不知。又使徐文景造輦及乘輿禦物虎賁雲罕之屬,上嘗幸東宮,匆匆不暇藏輦,文景乃以佛像內輦中,故上不疑。文景父陶仁時為給事中,謂文景曰:「終當滅門,政當掃墓待喪耳。」及移家避之。其後文景竟賜死,陶仁遂不哭,時人以為有古人風。

十年、豫章王蕭嶷が薨去すると、太子は上(武帝)の兄弟愛が極めて厚いことを見て、碑文を作り奏上したが、まだ刻石するには至らなかった。十一年春正月、太子は病に罹り、上は自ら見舞いに行き、憂いの色を見せた。病が重篤になると、上表して辞世を告げ、東宮の崇明殿で薨去した。時に三十六歳。

原文十年,豫章王嶷薨,太子見上友于既至,造碑文奏之,未及鐫勒。十一年春正月,太子有疾,上自臨視,有憂色。疾篤,上表告辭,薨於東宮崇明殿,時年三十六。

太子の年齢は三十を少し過ぎたばかりで、長く儲宮(東宮)にあり、政事に参与することができた。内外の百官は皆、遅かれ早かれ帝位を継ぐものとひそかに思っていたが、薨去すると、朝野は驚き惜しんだ。上は東宮に行幸し、慟哭して哀悼の意を尽くし、詔して袞冕の服で収めるように命じ、諡して文惠とし、崇安陵に葬った。有司が奏上した喪服の期間は、皇帝は期年(一年)、朝臣は斉衰三月、南郡国の臣は斉衰期年、臨汝・曲江両国の臣はともに喪服を着用せず、六宮は従って喪に服さない。

原文太子年始過立,久在儲宮,得參政事,內外百司私咸謂旦暮繼體,及薨,朝野驚惋焉。上幸東宮,臨哭盡哀,詔斂以袞冕之服,諡曰文惠,葬崇安陵。有司奏御服期,朝臣齊衰三月,南郡國臣齊衰期,臨汝、曲江國臣並不服,六宮不從服。

武帝が東宮を巡行した際、太子の服飾や玩好が制度を過ぎているのを見て、大いに怒り、有司に命じて事に従って取り壊し撤去させ、東田の殿堂のあった場所を崇虚館とした。鬱林王が立つと、追尊して文帝とし、廟号を世宗と称した。

原文武帝履行東宮,見太子服玩過制,大怒,敕有司隨事毀除,以東田殿堂處為崇虛館。鬱林立,追尊為文帝,廟稱世宗。

初め、太子(文惠太子)は明帝(蕭鸞)を憎み、ひそかに竟陵王蕭子良に言った。「私の心中は特にこの人を快く思わない。彼の福徳が薄いことによるのだろう」。子良は苦労して救い解こうとした。後に明帝が立つと、果たして大いに誅殺害することがあった。

原文初,太子惡明帝,密謂竟陵王子良曰:「我意色中殊不悅此人,當由其福德薄所致。」子良便苦救解,後明帝立,果大相誅害。

竟陵文宣王蕭子良は字を雲英といい、武帝の第二子である。幼少より聡明であった。武帝が贛県令の時、裴后と不和になり、人を遣わし船で后を都に送り返した。すでに道に登った時、子良はまだ幼く、庭の前で不機嫌であった。帝が「汝はどうして書を読まないのか」と言うと、子良は「母上は今どこにおられますか。どうして読書が必要でしょうか」と答えた。帝はこれを異とし、すぐに后を召し戻して県に帰した。

原文竟陵文宣王子良字雲英,武帝第二子也。幼聰敏。武帝為贛縣時,與裴後不諧,遣人船送後還都,已登路,子良時年小,在庭前不悅。帝謂曰:「汝何不讀書?」子良曰:「娘今何處?何用讀書。」帝異之,即召後還縣。

宋に仕えて邵陵王友となった。当時は宋の国運が衰え、諸王も微弱であったため、この官は廃されなかった。升明三年、会稽太守となり、五郡を都督した。聞喜公に封ぜられた。宋の元嘉年間には、全ての事は郡県に責任を負わせて成し遂げさせたが、孝武帝以後は、徴求が急を要し、郡県の対応が遅いため、台使(朝廷の使者)を派遣し始め、これ以降公役が煩わしくなった。高帝が即位すると、子良はこれを陳べ、その弊害を止めるよう請うた。

原文仕宋為邵陵王友。時宋道衰謝,諸王微弱,故不廢此官。升明三年,為會稽太守,都督五郡。封聞喜公。宋元嘉中,凡事皆責成郡縣,孝武后,徵求急速,以郡縣遲緩,始遣台使,自此公役勞擾。高帝踐阼,子良陳之,請息其弊。

子良は義を重んじ古を愛し、郡人の朱百年は至高の行いがあったが先に死去していたので、その妻に米百斛こくを賜い、一人の賦役を免除し、薪を与えた。郡の官舎の下に虞翻の旧い寝台があったので、任を解かれて帰還する際、持ち帰った。後に西邸に古斎を建て、多く古人の器物や服飾を集めてこれを充実させた。夏禹廟では盛んに祈祷祭祀が行われていたが、子良は言った。「禹は罪を泣いて仁を表し、粗食を以って倹約を示した。服飾や玩好、果物や粽などは、誠意を致すには十分である」。歳ごとに扇と簟すだれを献上させるだけにした。

原文子良敦義愛古,郡人朱百年有至行,先卒,賜其妻米百斛,蠲一人,給其薪蘇。郡合下有虞翻舊床,罷任還,乃致以歸。後於西邸起古齋,多聚古人器服以充之。夏禹廟盛有禱祀,子良曰:「禹泣辜表仁,菲食旌約,服玩果粽,足以致誠。」使歲獻扇簟而已。

時に山陰の人孔平が子良の下に赴き、嫂が米を買って代金を返さないと訴えた。子良は嘆いて言った。「昔、高文通(高鳳)が寡婦の嫂と田を争って訴訟したが、その義はこれとは異なる」。そこで米と銭を賜って孔平に償わせた。

原文時有山陰人孔平詣子良訟嫂市米負錢不還。子良歎曰:「昔高文通與寡嫂訟田,義異於此。」乃賜米錢以償平。

建元二年、穆妃が薨去すると、官を去り、やがて丹陽尹となり、私倉を開いて属県の貧民を救済した。先に太妃が七月に薨じ、子良は八月に凶報を受けた。小祥(十三月忌)に際し、南郡王(蕭長懋、後の文惠太子)が待つべきかどうか疑義が生じた。尚書左僕射王儉が議して「礼には順序があり、義は無駄に設けられるものではない。もし遠い者は待たず、近い者は必ず待つべきだとすれば、礼の例に背き、心の拠り所とはならない。もし兄弟同居で吉凶が入り混じることを懸念するなら、遠く離れて帰還した子は、自ら別門を開いて喪事を終えるべきであり、霊筵の祭奠は家にいる者に従い、再期(二十五か月)で除喪すべきである。庶子が家にいる場合も嫡子を待たない。ましてや儲妃は王室の正体であり、中軍将軍(南郡王)は長嫡の重みがある。天朝もまた権宜の制を行っているので、進退はさらに疑うべきではない。互いに待つべきではないと思う。中軍将軍が祥縞(小祥の喪服)の日には、聞喜公(子良)は哀悼の意を表すだけで、弔慰を受けない。聞喜公が変除(喪服を変え除く)する時には、兄弟も互いに近づいて心情を書き記すべきで、客に対応すべきではない」と言った。これに従った。

原文建元二年,穆妃薨,去官,仍為丹陽尹,開私倉振屬縣貧人。先是太妃以七月薨,子良以八月奉凶問。及小祥,疑南郡王應相待。尚書左僕射王儉議以為「禮有倫序,義無徒設。如令遠則不待,近必相須,禮例既乖,即心無取。若疑兄弟同居,吉凶舛雜,則遠還之子,自應開立別門,以終喪事,靈筵祭奠,隨在家之人,再期而毀。庶子在家,亦不待嫡。而況儲妃正體王室,中軍長嫡之重,天朝又行權制,進退彌復非疑。謂應不相待,中軍祥縞之日,聞喜致哀而已,不受吊慰。至聞喜變除,昆弟亦宜相就寫情,不對客」。從之。

武帝が即位すると、竟陵郡王・南徐州刺史に封ぜられ、都督を加えられた。永明二年、護軍将軍、兼司徒となった。四年、車騎将軍に進号した。子良は若い時から清らかな志操を持ち、礼を重んじ才を好み、疑われることのない地位にあり、心を尽くして賓客に接したため、天下の才学ある者は皆ここに遊び集まった。勝れた事柄を立てることを善とし、夏の月に客が来ると、瓜の飲み物や甘い果物を設け、これを文教に著した。士子の文章や朝貴の辞翰(詩文)は、皆その教えに発して撰録された。

原文武帝即位,封竟陵郡王、南徐州刺史,加都督。永明二年,為護軍將軍,兼司徒。四年,進號車騎將軍。子良少有清尚,禮才好士,居不疑之地,傾意賓客,天下才學皆遊集焉。善立勝事,夏月客至,為設瓜飲及甘果,著之文教。士子文章及朝貴辭翰,皆發教撰錄。

この時、上(武帝)は新たに政務を視ており、水害旱害が時を失していた。子良は密かに上啓して、滞納した租税を免除するよう請うた。また、刑を寛大にし役を休め、賦税を軽くし徭役ようえきを省くことを陳べた。併せて「銭貨の鋳造は年が遠く、多くは切り取られたり削られたりしている。江東の大銭は、十銭のうち一つも残っていない。公家が受け取るには、必ず輪郭が完全でなければならず、遂には元々一千のものを、七百を加えて買い、請い求める余地がなく、鞭打ちの刑が相次いだ。間もなく完全なものが用いられるようになったが、既に両方を兼ねることはなく、再び取引が変わり、蓄積されるものではなかった。ただ小人(庶民)をして常に困苦に陥らせるだけである。かつ銭と布が半分ずつという制度は永久のものであるが、あるいは長官が現銭での納入を命じていると聞く。進んでは旧い規定に背き、退いては奸利を許容している」。

原文是時上新視政,水旱不時,子良密啟請原除逋租。又陳寬刑息役,輕賦省徭。並陳「泉鑄歲遠,類多翦鑿,江東大錢,十不一在,公家所受,必須輪郭完全,遂買本一千,加子七百,求請無地,捶革相繼。尋完者為用,既不兼兩,回復遷貿,會非委積,徒令小人每嬰困苦。且錢布相半,為制永久,或聞長宰須令輸直,進違舊科,退容奸利」。

五年、司徒に正位し、班剣二十人を与えられ、侍中は元の通りであった。鶏籠山の西邸に移り住み、学士を集めて五経百家を抄録し、『皇覧』の例に倣って『四部要略』千巻を編纂した。名僧を招致し、仏法を講論し、経唄の新声を作った。僧俗の盛況は、江左に未曾有であった。

原文五年,正位司徒,給班劍二十人,侍中如故。移居雞籠山西邸,集學士抄五經百家,依皇覽例為四部要略千卷。招致名僧,講論佛法,造經唄新聲,道俗之盛,江左未有。

武帝は雉を射ることを好んだ。子良は上啓して諫めた。先に左衛殿中将軍邯鄲超が上書して雉射を諫めたため、武帝は止めたが、久しくして超は結局誅殺された。永明末、上は再び雉を射ろうとした。子良は再び諫め、前後にわたって陳べたことを、上は全ては採用しなかったが、深く寵愛された。

原文武帝好射雉,子良啟諫。先是左衛殿中將軍邯鄲超上書諫射雉,武帝為止,久之,超竟被誅。永明末,上將復射雉,子良復諫,前後所陳,上雖不盡納,而深見寵愛。

また文惠太子とともに釈氏(仏教)を好み、非常に仲が良く兄弟愛に厚かった。子良の敬信は特に篤く、しばしば邸宅の園で斎戒を営み、朝臣や多くの僧侶を大いに集め、食を配り水を行くこと(施餓鬼・布施)に至っては、自らその事に躬親することもあり、世間は大いに宰相の体面を失うものと見なした。人に善を勧めることを、倦むことなく、これによって終に盛名を得た。

原文又與文惠太子同好釋氏,甚相友悌。子良敬信尤篤,數于邸園營齋戒,大集朝臣眾僧,至賦食行水,或躬親其事,世頗以為失宰相體。勸人為善,未嘗厭倦,以此終致盛名。

八年、三望車を与えられた。九年、都下で大水があり、吳興は特にひどかった。子良は倉を開いて救済し、貧しく病んで立ち上がれない者を、邸宅の北に役所を建てて収容養育し、衣服と薬を与えた。十年、尚書令・揚州刺史を領し、本官は元の通りであった。間もなく尚書令を解かれ、中書監を加えられた。

原文八年,給三望車。九年,都下大水,吳興偏劇,子良開倉振救貧病不能立者,於第北立廨收養,給衣及藥。十年,領尚書令、揚州刺史,本官如故。尋解尚書令,加中書監。

文惠太子が薨去すると、武帝は東宮を検分し、太子の服飾・車駕・儀仗が多く制度を超過しているのを見て、大いに怒り、子良が太子と親しかったのに啓上しなかったことをもって、ひどく嫌疑をかけ責めた。

原文文惠太子薨,武帝檢行東宮,見太子服御羽儀,多過制度,上大怒,以子良與太子善,不啟聞,頗加嫌責。

武帝が病に伏すと、詔して子良に甲仗を帯びて延昌殿に入り、医薬の世話をさせた。子良は啓上して沙門を殿戸の前で経を誦させ、武帝は感応して夢に優曇鉢華を見た。子良は仏経に基づき旨を宣し、御府に銅で花を作らせ、御床の四隅に挿させた。日夜殿内にあり、太孫は一日おきに参内した。武帝の病状が急変し、内外が恐れ騒ぎ、百官は皆すでに喪服に着替え、世論は子良を立てることを疑った。しばらくして蘇生し、太孫の所在を問い、そこで東宮の器甲を皆召し入れ、遺詔して子良に政を輔弼させ、明帝に尚書事を知らしめた。子良はもとより仁厚で、時務を好まず、そこで明帝を推した。詔に「事の大小を問わず、悉く鸞(明帝)と参酌せよ」とあるのは、子良の志すところであった。太孫は幼少の頃子良の妃袁氏に養われ、大いに慈愛を受けたが、前に立つことができなかったことを恐れ、これより深く子良を忌むようになった。大行(武帝の遺体)が太極殿を出ると、子良は中書省に居り、帝は虎賁中郎将潘敞に二百人の兵仗を率いさせ、太極殿西階の下に駐屯させた。喪服を着た後、諸王は皆退出したが、子良は山陵(武帝の陵)に至るまで留まることを乞うたが、許されなかった。

原文武帝不豫,詔子良甲仗入延昌殿侍醫藥。子良啟進沙門於殿戶前誦經,武帝為感夢見優曇缽花。子良案佛經宣旨,使禦府以銅為花,插御床四角。日夜在殿內,太孫間日入參。武帝暴漸,內外惶懼,百僚皆已變服,物議疑立子良。俄頃而蘇,問太孫所在,因召東宮器甲皆入,遺詔使子良輔政,明帝知尚書事。子良素仁厚,不樂時務,乃推明帝。詔云:「事無大小,悉與鸞參懷」,子良所志也。太孫少養于子良妃袁氏,甚著慈愛,既懼前不得立,自此深忌子良。大行出太極殿,子良居中書省,帝使虎賁中郎將潘敞二百人仗,屯太極西階之下。成服後,諸王皆出,子良乞停至山陵,不許。

位を進めて太傅とし、班剣を増やして三十人とし、本官はもとのままとし、侍中を解かれた。隆昌元年、殊礼を加えられ、剣を履き殿に上り、朝に入るに趨らず、拝礼を唱えるに名を称せず、南徐州の都督を進めた。その年病篤く、左右に謂って「門外には異変があるはずだ」と言い、人を遣わして見させると、淮中の魚が数え切れず、皆浮き上がって水上にあり城門に向かっていた。まもなく薨去し、年三十五。

原文進位太傅,增班劍為三十人,本官如故,解侍中。隆昌元年,加殊禮,劍履上殿,入朝不趨,贊拜不名,進督南徐州。其年疾篤,謂左右曰:「門外應有異。」遣人視,見淮中魚無算,皆浮出水上向城門。尋薨,年三十五。

帝は常に子良に異心あることを憂慮し、その薨去に際し、大いに悦んだ。詔して東園の温明秘器を給し、袞冕の服で殯し、東府に喪位を設け、大鴻臚に節を持たせ監護させ、太官に朝夕祭を送らせた。また詔して仮黄鉞・侍中・都督中外諸軍事・大宰・領大将軍・揚州牧を追崇し、緑綟綬を賜い、九服錫命の礼を備え、使持節・中書監・王はもとのままとした。九旒鸞輅・黄屋左纛・轀輬車・前後部羽葆・鼓吹、輓歌二部、虎賁班剣百人を給し、葬礼は晋の安平王司馬孚の故事に依った。初め、豫章王蕭嶷は金牛山に葬られ、文惠太子は夾石に葬られた。子良は臨送の際、祖硎山を望み悲しみ感嘆して言うには、「北に我が叔(蕭嶷)を瞻り、前に我が兄(文惠太子)を望む。死して知有らば、請う茲の地に葬らん」。及び薨去し、遂にそこに葬られた。

原文帝常慮子良異志,及薨,甚悅。詔給東園溫明秘器,斂以袞冕之服,東府施喪位,大鴻臚持節監護,太官朝夕送祭。又詔追崇假黃鉞、侍中、都督中外諸軍事、大宰、領大將軍、揚州牧,綠綟綬,備九服錫命之禮,使持節、中書監、王如故。給九旒鸞輅、黃屋左纛、轀輬車、前後部羽葆、鼓吹,輓歌二部,虎賁班劍百人,葬禮依晉安平王孚故事。初,豫章王嶷葬金牛山,文惠太子葬夾石。子良臨送,望祖硎山悲感歎曰:「北瞻吾叔,前望吾兄,死而有知,請葬茲地。」及薨,遂葬焉。

内外の文筆数十巻を著し、文采は無いが、多くは勧戒であった。子良が既に亡くなると、故人皆来り奔赴し、陸惠曉が邸門で袁彖に逢い、之に問うて曰く、「近頃云々するは、定めてまた何を謂うか。王融は殺され、而して魏准は胆を破る。道路に籍籍として、又云う竟陵(子良)は天年を永くせず、之有りや」。答えて曰く、「斉氏微弱にして、已に数年なり。爪牙柱石の臣は皆尽き、命の余す所は、政に風流名士のみ。若し長君を立てずんば、以て四海を鎮安すべからず。王融は身の為に計るも、実に社稷を安んず。其の事を断ぜざるを恨む、以て此に至る。道路の談は、自ら虚説たるのみ。蒼生方に塗炭す、政に耳を瀝して之を聴くべし」。建武年中、故吏範雲が上表して子良の碑を立てることを請うたが、事は行われず。子の昭胄が嗣いだ。

原文所著內外文筆數十卷,雖無文采,多是勸戒。子良既亡,故人皆來奔赴,陸惠曉于邸門逢袁彖,問之曰:「近者云云,定復何謂?王融見殺,而魏准破膽。道路籍籍,又云竟陵不永天年,有之乎?」答曰:「齊氏微弱,已數年矣,爪牙柱石之臣都盡,命之所餘,政風流名士耳。若不立長君,無以鎮安四海。王融雖為身計,實安社稷,恨其不能斷事,以至於此。道路之談,自為虛說耳,蒼生方塗炭矣,政當瀝耳聽之。」建武中,故吏範雲上表為子良立碑,事不行。子昭胄嗣。

昭胄は字を景胤といい、書史に広く渉猟し、父の風有り、位は太常に至った。封境が魏に接するため、永元元年、巴陵王に改封された。

原文昭胄字景胤,泛涉書史,有父風,位太常。以封境邊魏,永元元年,改封巴陵王。

先に、王敬則の事が起こると、南康侯子恪が呉郡におり、明帝は同異あることを慮り、諸王侯を召して宮中に入れ、晋安王宝義及び江陵公宝覧は中書省に住まわせ、高帝・武帝の諸孫は西省に住まわせ、勅して人各両名の左右を自ら随えさせ、これを過ぎれば軍法に依る;幼児は乳母が随って入った。その夜並びに害を加えようとしたが、子恪が至ったことにより免れた。建武以来、高帝・武帝の王侯は、常に震え怖れ、朝に夕を保たず、これに至り特に甚しかった。

原文先是,王敬則事起,南康侯子恪在吳郡,明帝慮有同異,召諸王侯入宮,晉安王寶義及江陵公寶覽住中書省,高、武諸孫住西省,敕人各兩左右自隨,過此依軍法;孩抱者乳母隨入。其夜並將加害,賴子恪至乃免。自建武以來,高、武王侯,居常震怖,朝不保夕,至是尤甚。

及び陳顕達が挙兵すると、王侯は再び宮中に入り、昭胄は往時の懼れを懲り、弟の永新侯昭穎と共に江西に逃奔し、姿を変えて道人となった。崔慧景が兵を挙げると、昭胄兄弟は出てこれに投じた。慧景が敗れると、昭胄兄弟は真っ先に出て台軍の主将胡松に投降し、各々王侯として邸に還ったが、自ら安んぜず、身の計らいを謀った。子良の故防閤桑偃が梅虫児の軍副となり、前巴西太守蕭寅と結び、昭胄を立てることを謀った。昭胄は事が成れば寅を尚書左僕射・護軍に用いることを許諾し、寅に部曲ぶきょく有るを以て、大事は皆之に委ねた。時に胡松が軍を領して新亭におり、寅は人を遣わして説き、松は諾した。又張欣泰は嘗て雍州に在り、亦部曲有り、昭胄は又房天宝を遣わして謀を告げ、欣泰は命を聞き応じた。蕭寅の左右華永達が其の謀を知り、以て禦刀朱光尚に告げた。光尚は左道を挟みて東昏侯を惑わし、因って東昏侯に謂って曰く、「昨蒋王を見るに、云う巴陵王外に在りて党を結び反せんと欲す、官(帝)の出行を須い、仍って万春門より入らんとす、事量るべからず」。時に東昏侯は日々遊走し、此の説を聞き大いに懼れ、四十余日も出ず。偃等は健児百余を募り、万春門より入り、突いて之を取ることを議した。昭胄は以て不可と為した。偃の同党王山沙は事久しく成らずんばと慮り、事を以て禦刀徐僧重に告げ、寅は人を遣わし山沙を路上で殺した。吏が麝幐の中に其事蹟を得、昭胄兄弟と同党は皆誅に伏した。

原文及陳顯達起事,王侯復入宮,昭胄懲往時之懼,與弟永新侯昭穎逃奔江西,變形為道人。崔慧景舉兵,昭胄兄弟出投之。慧景敗,昭胄兄弟首出投台軍主胡松,各以王侯還第,不自安,謀為身計。子良故防合桑偃為梅蟲兒軍副,結前巴西太守蕭寅,謀立昭胄。昭胄許事克用寅為尚書左僕射、護軍,以寅有部曲,大事皆委之。時胡松領軍在新亭,寅遣人說之,松許諾。又張欣泰嘗為雍州,亦有部曲,昭胄又遣房天寶以謀告之,欣泰聞命回應。蕭寅左右華永達知其謀,以告禦刀朱光尚。光尚挾左道以惑東昏,因謂東昏曰:「昨見蔣王,雲巴陵王在外結黨欲反,須官出行,仍從萬春門入,事不可量。」時東昏日游走,聞此說大懼,不復出四十餘日。偃等議募健兒百餘人,從萬春門入,突取之。昭胄以為不可。偃同黨王山沙慮事久無成,以事告禦刀徐僧重,寅遣人殺山沙于路。吏於麝幐中得其事蹟,昭胄兄弟與同黨皆伏誅。

梁が禅を受け、昭胄の子同を降封して監利侯とした。

原文梁受禪,降封昭胄子同為監利侯。

同の弟賁は字を文奐といい、身長六尺に満たず、神識は耿介であった。幼より学を好み、文才有り、能く書を書き善く画き、扇の上に山水を図れば、咫尺の内に、便ち万里を遥かなりと覚えしめた。矜慎して伝えず、自ら娯しむのみ。著述を好み、嘗て西京雑記六十巻を著す。起家して湘東王の法曹参軍となり、一府の歓心を得た。及乱、王が檄を作ると、賁は読みて「偃師南望すれば、復た儲胥露寒無く、河陽北臨すれば、或は穹廬氈帳有らん」に至り、乃ち曰く、「聖制此の句は、過似の為に非ず、朝廷を体目するが如く、賊を序するに非ず」。王之を聞き大いに怒り、収めて獄に付し、遂に餓死に終わった。又賁の屍を追って戮し、乃ち懐旧伝を著して之を謗り、極言して誣毀した。

原文同弟賁字文奐,形不滿六尺,神識耿介。幼好學,有文才,能書善畫,於扇上圖山水,咫尺之內,便覺萬里為遙。矜慎不傳,自娛而已。好著述,嘗著西京雜記六十卷。起家湘東王法曹參軍,得一府歡心。及亂,王為檄,賁讀至「偃師南望,無復儲胥露寒,河陽北臨,或有穹廬氈帳」,乃曰:「聖制此句,非為過似,如體目朝廷,非關序賊。」王聞之大怒,收付獄,遂以餓終。又追戮賁屍,乃著懷舊傳以謗之,極言誣毀。

廬陵王子卿は字を雲長といい、武帝の第三子である。建元元年、臨汝県公に封ぜられた。武帝即位の後、郢州えいしゅう刺史となり、都督を加えられた。子卿は諸子の中に徳無く、又魚復侯子響と同母生まれであったので、寵愛を受けなかった。都督・荊州刺史に転じた。始興王が益州となると、子卿は都督を解かれた。

原文廬陵王子卿字雲長,武帝第三子也。建元元年,封臨汝縣公。武帝即位,為郢州刺史,加都督。子卿諸子中無德,又與魚復侯子響同生,故無寵。徙都督、荊州刺史。始興王為益州,子卿解督。

子卿は鎮に在り、服飾を営造するに、多く制度に違い、玳瑁の乗具を作った。詔して之を責め、速やかに都に送ることを命じた;又銀の鐙・金薄で箭脚を包むものを作り、亦便ち速やかに壊れ去らせた。凡そ諸の服章、今より啓上せず専ら輒みだりに作る者は、痛杖に当たるべし。又曰く、「汝比(近頃)学を読ましむるを令す、今年転じて成長す、学既に就かず、敕を得ること風の耳を過ぐるが如し、吾をして気を失わしむ」。

原文子卿在鎮,營造服飾,多違制度,作玳瑁乘具。詔責之,令速送都;又作銀鐙、金薄裹箭腳,亦便速壞去。凡諸服章,自今不啟專輒作者,當得痛杖。又曰:「汝比令讀學,今年轉成長,學既勿就,得敕如風過耳,使吾失氣。」

永明十年、都督・南豫州刺史となった。之鎮の途上、部伍を戯れて水軍と為し、上聞きて大いに怒り、其の典籤を殺した。宜都王蕭鏗を遣わして之に代わらせた。子卿は邸に還り、崩御に至るまで相見えず。

原文永明十年,為都督、南豫州刺史。之鎮,道中戲部伍為水軍,上聞大怒,殺其典簽。遣宜都王鏗代之。子卿還第,至崩不與相見。

隆昌元年、衛将軍・開府儀同三司となり、兵佐を置いた。鄱陽王蕭鏘が害されると、子卿を以て代わりに司徒とした。居る屋の梁柱の際より血が出て地に溜まり、旬日にして殺害された。

原文隆昌元年,為衛將軍、開府儀同三司,置兵佐。鄱陽王鏘見害,以子卿代為司徒。所居屋梁柱際血出溜於地,旬日而見殺。

魚復侯蕭子響は字を雲音といい、武帝の第四子である。豫章王蕭嶷に子がなかったので、子響を養子とした。後に蕭嶷に実子が生まれたため、上表して子響を嫡子として留め置くことを願い出た。武帝が即位すると、南彭城・臨淮二郡太守となった。

原文魚復侯子響字雲音,武帝第四子也。豫章王嶷無子,養子響。後嶷有子,表留為嫡。武帝即位,為南彭城、臨淮二郡太守。

子響は勇力が人に絶しており、四斛の力で弓を開き、しばしば園池の中で馬にまたがり竹や木の下を馳せ走りながらも、身体に傷一つ負わなかった。既に他家へ出継いだ後は、車や服飾が諸王と異なり、朝廷に入るたびに憤慨して拳で車の壁を打ったので、武帝はこれを知り、車服を皇子と同じにするよう命じた。

原文子響勇力絕人,開弓四斛力,數在園池中帖騎馳走竹樹下,身無虧傷。既出繼,車服異諸王,每入朝輒忿,拳打車壁,武帝知之,令車服與皇子同。

永明六年、役人が子響を本家に戻すべきと上奏したため、巴東郡王に封ぜられた。七年、都督・荊州刺史となった。直閤将軍の董蠻は少し気力があったので、子響は同行を求めた。董蠻が言うには、「殿下は雷のように癇癪がおありです。どうして付き従えましょうか」。子響は笑って言った。「君がこのような言葉を口にできるとは、これまた奇なる癇癪持ちだ」。武帝はこれを聞いて快く思わず、「人の名が『蠻(野蛮)』では、どうして含蓄などありえようか」と言い、名を仲舒と改めさせた。子響は董蠻に言った。「今日の仲舒は、昔の仲舒(董仲舒)と比べてどうか」。答えて言うには、「昔の仲舒は私的な庭から出ましたが、今日の仲舒は天帝から降りました。この点から言えば、昔よりはるかに勝っております」。武帝はこれを称賛した。

原文永明六年,有司奏子響宜還本,乃封巴東郡王。七年,為都督、荊州刺史。直合將軍董蠻粗有氣力,子響要與同行。蠻曰:「殿下癲如雷,敢相隨邪?」子響笑曰:「君敢出此語,亦復奇癲。」上聞而不悅,曰:「人名蠻,復何容得蘊藉。」乃改名為仲舒。謂曰:「今日仲舒,何如昔日仲舒?」答曰:「昔日仲舒,出自私庭,今日仲舒,降自天帝,以此言之,勝昔遠矣。」上稱善。

子響は若い頃から武を好み、武装した側近六十人を従えていたが、皆胆力と才幹があり、しばしば内斎で牛を殺し酒を設け、彼らと集まって楽しんだ。私的に錦の袍や深紅の襖を作らせ、蛮族に贈って武器と交易しようとした。長史の劉寅らは連名で密かに上奏した。武帝が厳重に調査するよう命じると、劉寅らは恐れて、これを秘匿しようとした。子響は朝廷の使者が来たと聞き、詔勅を見ないうちに、劉寅および司馬の席恭穆、諮議参軍の江悆・殷曇粲、中兵参軍の周彦、典籤の呉修之・王賢宗・魏景深らをことごとく呼び入れ、琴台の下でいっせいに斬った。武帝はこれを聞いて怒り、衛尉の胡諧之・遊撃将軍の尹略・中書舎人の茹法亮に羽林兵三千人を率いさせ、一味を検挙捕縛させた。詔勅に「子響が自ら手を縛して帰参すれば、その命を全うさせよう」とあった。胡諧之らが江津に到着し、燕尾洲に城を築いた。子響は白服で城に登り、たびたび使者を送って伝言させ、「天下にどうして子が反逆することがあろうか。わが身は賊ではない。ただ粗略であっただけだ。今すぐ単艦で都に帰るのに、どうして城を築いて捕らえようとするのか」と言った。尹略だけが答えて言った。「お前のような父に反逆する者と誰が語らうものか」。子響はこれを聞いてただ涙を流した。また牛数十頭、酒二百石、果物や料理を三十輿送ったが、尹略はこれを江に流し捨てた。子響の胆力ある士である王沖天は憤りに耐えかね、ついに配下を率いて洲を渡り陣営を攻めて尹略を斬り、胡諧之と茹法亮は単艇で逃げ去った。

原文子響少好武,帶仗左右六十人,皆有膽幹,數在內齋殺牛置酒,與之聚樂。令私作錦袍絳襖,欲餉蠻交易器仗。長史劉寅等連名密啟,上敕精檢,寅等懼,欲秘之。子響聞台使至,不見敕,乃召寅及司馬席恭穆、諮議參軍江悆、殷曇粲、中兵參軍周彥、典簽吳修之、王賢宗、魏景深等俱入,於琴台下並斬之。上聞之怒,遣衛尉胡諧之、遊擊將軍尹略、中書舍人茹法亮領羽林三千人檢捕群小。敕「子響若束手自歸,可全其性命」。諧之等至江津,築城燕尾洲。子響白服登城,頻遣信與相聞,曰:「天下豈有兒反,身不作賊,直是粗疏。今便單舸還闕,何築城見捉邪?」尹略獨答曰:「誰將汝反父人共語。」子響聞之唯灑泣。又送牛數十頭,酒二百石,果饌三十輿,略棄之江流。子響膽力之士王沖天不勝忿,乃率黨度洲攻壘斬略,而諧之、法亮單艇奔逸。

武帝はさらに丹陽尹の蕭順之に兵を率いて続かせた。子響はその日、白衣の側近三十人を率い、小船に乗って中流を下り都へ向かった。初め、蕭順之が出発しようとした時、文恵太子は平素から子響を忌んでいたので、密かに帰還を許さず、その場で始末するよう命じていた。子響が蕭順之と面会し、自ら申し開きをしようとしたが、蕭順之は許さず、射堂で絞殺した。役人が子響の属籍(皇族籍)を絶つよう上奏したので、蛸氏を賜った。

原文上又遣丹陽尹蕭順之領兵繼之,子響即日將白衣左右三十人,乘舴艋中流下都。初,順之將發,文惠太子素忌子響,密遣不許還,令便為之所。子響及見順之,欲自申明,順之不許,於射堂縊之。有司奏絕子響屬籍,賜為蛸氏。

子響は密かに数紙の上奏文を作り、妃の王氏の裙の腰の中に隠し、詳しく自らの事情を申し述べ、「軽舟で帰都することができず、この苦しみは深い。ただ哀れみを願い、竹帛(史書)に斉に父に反逆する子あり、父に子を害する名ありと記させないでほしい」と記していた。蕭順之が帰還すると、武帝の心中は非常に怪しみ恨んだ。百日の忌みに華林園で子響のために斎会を行い、武帝自ら香をたき、諸々の朝士に対して顔をしかめた。蕭順之と面会した時には、しばらく嗚咽し、左右の者は涙をぬぐわぬ者はいなかった。ある日景陽山に出て、一匹の猿が悲しげに鳴きながら跳ねるのを見て、後堂丞に「この猿はどうしたのか」と問うた。答えて言うには、「猿の子が先日崖から落ちて死に、その母が探しても見つからないので、このようになっております」。武帝はそこで子響のことを思い出し、長くすすり泣き、自らを抑えることができなかった。蕭順之は慚愧と恐れを感じ、病にかかり、ついに憂いのうちに死去した。そこで豫章王蕭嶷が上表して言った。「故庶人蛸子響は識見も心も樹立せず、不逞の徒に陥り、一朝の憤りを恣にし、凶悪な行いを取って陥り、身は草野の肥やしとなり、まだ罪過を塞いだとは言えません。しかし、司戮の罪に帰し、迷いながらも正に返り、事を撫でて往時を思えば、まことに心と目を傷つけます。伏して願わくは、天の哀れみを一度下し、残った遺骸を埋葬させてください。どうしてただ窮地の骸骨が徳を被るだけでなく、実に天下が仁に帰するでしょう」。武帝は許さず、魚復侯に貶した。

原文子響密作啟數紙,藏妃王氏裙腰中,具自申明,云:「輕舫還闕不得,此苦之深,唯願矜憐,無使竹帛齊有反父之子,父有害子之名。」及順之還,上心甚怪恨。百日于華林為子響作齋,上自行香,對諸朝士嚬蹙。及見順之,嗚咽移時,左右莫不掩涕。他日出景陽山,見一沐透擲悲鳴,問後堂丞:「此沐何意?」答曰:「沐子前日墮崖致死,其母求之不見,故爾。」上因憶子響,歔欷良久,不自勝。順之慚懼,感病,遂以憂卒。於是豫章王嶷上表曰:「故庶人蛸子響識懷靡樹,見淪不逞,肆憤一朝,取陷凶德,身膏草野,未雲塞釁。但歸罪司戮,迷而知返,撫事惟往,載傷心目。伏願一下天矜,使得旋窆餘麓,豈伊窮骸被德,實且天下歸仁。」上不許,貶為魚復侯。

安陸王蕭子敬は字を雲端といい、武帝の第五子である。初め応城県公に封ぜられた。先に子敬の生母が早く亡くなったので、帝は貴妃范氏に母として養育させた。范氏が薨去した時、子とその婦の服制については、礼に明文がなかった。永明年中、尚書令の王儉が議して、「孫は慈孫、婦は慈婦、姑は慈姑として、期年の喪服を定めるのがよい」と言った。これに従った。十年、散騎常侍・撫軍将軍・丹陽尹の位に就いた。十一年、車騎将軍を加えられた。隆昌元年、都督・南兗州刺史に転じた。延興元年、侍中を加えられた。明帝が諸藩王を除こうとした時、中護軍の王玄邈を派遣して九江を征討させ、王広之が襲撃して子敬を殺害した。

原文安陸王子敬字雲端,武帝第五子也。初封應城縣公。先是子敬所生早亡,帝命貴妃范氏母養之,及范氏薨,而子及婦服制,禮無明文。永明中,尚書令王儉議:「孫為慈孫,婦為慈婦,姑為慈姑,宜制期年服。」從之。十年,位散騎常侍、撫軍將軍、丹陽尹。十一年,加車騎將軍。隆昌元年,遷都督、南兗州刺史。延興元年,加侍中。明帝除諸蕃王,遣中護軍王玄邈征九江,王廣之襲殺子敬。

初め、子敬は武帝に気に入られていた。帝が病気になった時、子敬を太子に立て、太孫に代えようと考えた。子敬と太孫がともに参内を終えて退出すると、武帝は子敬の後姿を長く見送り、「阿五(子敬)は鈍い」と言った。これによって代えるという考えは止んだ。

原文初,子敬為武帝所留心,帝不豫,有意立子敬為太子,代太孫。子敬與太孫俱入參畢同出,武帝目送子敬良久,曰:「阿五鈍。」由此代換之意乃息。

晉安王蕭子懋は字を雲昌といい、武帝の第七子である。諸子の中で最も清く恬淡で、思慮があり、廉潔で譲りを好み学問を好んだ。七歳の時、母の阮淑媛が危篤に陥ったので、僧を請いて行道を行った。蓮の花を献じて仏に供える者がいた。僧たちは銅の瓶に水を入れてその茎を浸し、花が萎れないようにした。子懋は涙を流して仏に礼拝し、「もし阿姨(母)がこれによって平癒されますならば、諸仏が花が斎会の終わりまで萎れないようにしてくださいますように」と願った。七日間の斎会が終わると、花はさらに鮮やかに紅くなり、瓶の中を見ると少し根が生えていた。当世、その孝行の感応と称えられた。

原文晉安王子懋字雲昌,武帝第七子也。諸子中最為清恬,有意思,廉讓好學。年七歲時,母阮淑媛嘗病危篤,請僧行道。有獻蓮華供佛者,眾僧以銅罌盛水漬其莖,欲華不萎。子懋流涕禮佛曰:「若使阿姨因此和勝,願諸佛令華竟齋不萎。」七日齋畢,華更鮮紅,視罌中稍有根須,當世稱其孝感。

永明五年、南兗州刺史・五州軍事監となった。六年、湘州刺史監に転じた。八年、『春秋例苑』三十巻を撰して奏上し、武帝は秘閣に収蔵するよう命じた。十一年、都督・雍州刺史となり、鼓吹一部を与えられた。豫章王の喪服期間が終わっていなかったが、武帝は辺境の州には威厳が必要として、上奏することを許した。好みの書物を求める上奏をすると、武帝は「汝が常に書物を心に留めて読んでいることを知り、深く喜ばしい」と言い、杜預が自ら手を加えて定めた『左伝』および『古今善言』を賜った。

原文永明五年,為南兗州刺史、監五州軍事。六年,徙監湘州刺史。八年,撰春秋例苑三十卷,奏之,武帝敕付秘閣。十一年,為都督、雍州刺史,給鼓吹一部。豫章王喪服未畢,上以邊州須威望,許得奏之。啟求所好書,武帝曰:「知汝常以書讀在心,足為深欣。」賜以杜預手所定左傳及古今善言。

隆昌元年、征南大将軍・江州刺史となった。詔勅で西楚の部曲を留め置き襄陽の鎮守を助けさせ、単身で白直・侠轂だけを従えて行くこととなった。陳顕達が当時襄陽に駐屯しており、別れの挨拶に入ると、子懋は彼に言った。「朝廷はわが身に単身で帰還するよう命じているが、わが身は天王である。どうしてそれほど軽率であってよいものか。今、二、三千人を自ら従えようと思うが、公の意見はどうか」。陳顕達は言った。「殿下が部曲を留め置かれなければ、大いに勅旨に背くことになります」。陳顕達は辞去してすぐに出発した。子懋は計略が立たず、尋陽に戻って鎮守した。

原文隆昌元年,為征南大將軍、江州刺史,敕留西楚部曲助鎮襄陽,單將白直俠轂自隨。陳顯達時屯襄陽,入別,子懋謂之曰:「朝廷命身單身而反,身是天王,豈可過爾輕率。今欲將二三千人自隨,公意何如?」顯達曰:「殿下若不留部曲,便是大違敕旨。」顯達因辭出便發去。子懋計未立,還鎮尋陽。

延興元年、侍中を加えられた。鄱陽王・随郡王の二王が殺害されたと聞き、難に赴くために兵を起こそうとし、参軍の周英・防閤の陸超之と議して言った。「荊州・郢州に檄を伝え、君側の奸を討って入ろう。事が成れば宗廟は安泰を得、成らなくてもなお義鬼となろう」。防閤の董僧慧は袖をまくって言った。「この州は小さいが、孝武帝もかつてこれを用いました。今、王室を助ける軍勢をもって、長江を横切り、北闕を指し、郁林王(廃帝)の過ちを請うて、誰がこれに対抗できましょうか」。そこで兵将を部署し、社稷を正そうとした。

原文延興元年,加侍中。聞鄱陽、隨郡二王見殺,欲起兵赴難,與參軍周英、防合陸超之議:「傳檄荊、郢,入討君側,事成則宗廟獲安,不成猶為義鬼。」防合董僧慧攘袂曰:「此州雖小,孝武亦嘗用之,今以勤王之師,橫長江,指北闕,以請郁林之過,誰能對之。」於是部分兵將,入匡社稷。

母の阮氏は都に在り、書を遣わして密かに上(子懋)を迎えんと欲す。阮氏は同産弟の于瑤之に報じて計を為さしむ。瑤之馳せて明帝に告ぐ。ここに於いて纂厳し、中護軍王玄邈・平西将軍王広之を遣わして南北より討たしめ、軍主裴叔業をして瑤之と先んじて尋陽を襲わしめ、声は郢府司馬と為すと云う。子懋之を知り、三百人を遣わして盆城を守らしむ。叔業流を溯って直上し、盆城を襲う。子懋先に已に船を稽亭渚に具え、叔業の盆城を得たるを聞き、乃ち州を拠りて自衛す。

原文母阮在都,遣書欲密迎上,阮報同產弟于瑤之為計。瑤之馳告明帝,於是纂嚴,遣中護軍王玄邈、平西將軍王廣之南北討,使軍主裴叔業與瑤之先襲尋陽,聲雲為郢府司馬。子懋知之,遣三百人守盆城。叔業泝流直上,襲盆城。子懋先已具船於稽亭渚,聞叔業得盆城,乃據州自衛。

子懋の部曲は多く雍土の人なり、皆躍躍として奮うことを願う。叔業之を畏れ、于瑤之を遣わして子懋を説きて曰く、「今都に還らば、必ず過憂無かるべし。政に散官を作すべきのみ。富貴を失わざるなり」と。

原文子懋部曲多雍土人,皆踴躍願奮,叔業畏之,遣於瑤之說子懋曰:「今還都,必無過憂,政當作散官,不失富貴也。」

子懋既に兵を出して叔業を攻めざれば、衆情稍く沮す。中兵参軍于琳之は瑤之の兄なり、子懋を説きて重ねて叔業に賂するを勧む。子懋琳之をして往かしむ。琳之因りて叔業を説き、子懋を取ることを請う。叔業軍主徐玄慶を遣わし、四百人を将いて琳之に随い城に入らしむ。僚佐皆奔散す。唯だ周英及び外兵参軍王皎のみ更に城内に移り入る。子懋之を聞き歎じて曰く、「吾が府に義士二人有るを意えざりき」と。琳之二百人に従い仗して自ら斎に入る。子懋笑って之に謂いて曰く、「渭陽(母の弟)なるを意えず、翻って梟鏡(不義の者)と成る」と。琳之袖を以て面を障い、人をして之を害せしむ。故人罪を懼れて敢えて至る者無し。唯だ英・皎・僧慧のみ号哭して哀を尽くし、之が喪殯を為す。

原文子懋既不出兵攻叔業,眾情稍沮。中兵參軍於琳之,瑤之兄也,說子懋重賂叔業。子懋使琳之往,琳之因說叔業請取子懋。叔業遣軍主徐玄慶將四百人隨琳之入城,僚佐皆奔散,唯周英及外兵參軍王皎更移入城內。子懋聞之歎曰:「不意吾府有義士二人。」琳之從二百人仗自入齋,子懋笑謂之曰:「不意渭陽,翻成梟鏡。」琳之以袖障面,使人害之。故人懼罪無敢至者,唯英、皎、僧慧號哭盡哀,為之喪殯。

董僧慧は丹陽姑孰の人、寒微より出で而も慷慨して節義有り。書を読むを好み、甚だ驍果にして、能く手を背に反して五斛の弓を彎ぐ。当世之に能くする者莫し。玄邈其の子懋の謀に預かりしを知り、之を執う。僧慧曰く、「晋安(子懋)義兵を挙ぐ。僕実に議に預かる。古人云う『死するは難からず、死を得るは難し』と。僕主人の為に死するを得て、恨み無し。願わくは主人の大斂畢るに至り、退いて湯鑊に就かん。死すと雖も猶お生くが如し」と。玄邈義として之を許す。還りて具に明帝に白す。乃ち東冶に配す。九江の時の事に言及すれば、輒ち悲しみ自ら勝えず。子懋の子昭基、九歳、方二寸の絹を以て書と為し、其の消息を参じ、並びに銭五百を遺す。金を以て人に仮し、崎嶇として得て至る。僧慧書を睹て、銭に対し曰く、「此れ郎君の書なり」と。悲慟して卒す。

原文董僧慧,丹陽姑孰人,出自寒微而慷慨有節義。好讀書,甚驍果,能反手於背彎五斛弓,當世莫有能者。玄邈知其豫子懋之謀,執之。僧慧曰:「晉安舉義兵,僕實豫議。古人云'非死之難,得死之難'。僕得為主人死,不恨矣。願至主人大斂畢,退就湯鑊,雖死猶生。」玄邈義而許之。還具白明帝,乃配東冶。言及九江時事,輒悲不自勝。子懋子昭基,九歲,以方二寸絹為書,參其消息,並遺錢五百,以金假人,崎嶇得至。僧慧睹書,對錢曰:「此郎君書也。」悲慟而卒。

陸超之は呉の人、清静雅を以て子懋に知らる。子懋既に敗る。于琳之其の逃亡を勧む。答えて曰く、「人皆死有り。此れ懼るるに足らず。吾若し逃亡せば、唯だ晋安の眷を孤にするのみならず、亦た田横の客の人の笑うを恐る」と。玄邈等其の義を以て、囚え都に還さんと欲す。而して超之亦た端坐して命を待つ。超之の門生周姓の者、超之を殺せば賞を得べしと謂い、乃ち超之の坐するを伺い、自ら後より之を斬る。頭墜ちて身僵まず。玄邈其の節を嘉し、厚く殯斂を為す。周又た棺を挙ぐるを助く。未だ戸を出でざるに、棺墜ち、政に其の頭を圧し頸を折り即ち死す。之を聞く者、天道有りと為さざる莫し。

原文陸超之,吳人,以清靜雅為子懋所知。子懋既敗,於琳之勸其逃亡。答曰:「人皆有死,此不足懼。吾若逃亡,非唯孤晉安之眷,亦恐田橫客笑人。」玄邈等以其義,欲囚將還都,而超之亦端坐待命。超之門生姓周者,謂殺超之當得賞,乃伺超之坐,自後斬之,頭墜而身不僵。玄邈嘉其節,厚為殯斂。周又助舉棺,未出戶,棺墜,政壓其頭折頸即死。聞之者莫不以為有天道焉。

随郡王蕭子隆は字は雲興、武帝第八子なり。性温和にして美有り、文才有り。尚書令王儉の女を娶り妃と為す。武帝子隆の文を属する能きを以て、儉に謂いて曰く、「我が家の東阿なり」と。

原文隨郡王子隆字雲興,武帝第八子也。性和美,有文才。娶尚書令王儉女為妃。武帝以子隆能屬文,謂儉曰:「我家東阿也。」

永明八年、都督・荊州刺史と為る。隆昌元年、侍中・撫軍将軍と為り、兵を領し佐を置く。延興元年、中軍大将軍に転じ、侍中は元の如し。

原文永明八年,為都督、荊州刺史。隆昌元年,為侍中、撫軍將軍,領兵置佐。延興元年,轉中軍大將軍,侍中如故。

子隆年二十一にして、体充壮に過ぐ。常に徐嗣伯をして蘆茹丸を合せ服せしめ自ら銷損せしむるも、猶お益無し。明帝政を輔け、諸王を害せんと謀る。武帝諸子の中、子隆最も才貌を以て憚らる。故に鄱陽王蕭鏘と同夜先んじて殺さる。文集世に行わる。

原文子隆年二十一,而體過充壯,常使徐嗣伯合蘆茹丸以服自銷損,猶無益。明帝輔政,謀害諸王,武帝諸子中子隆最以才貌見憚,故與鄱陽王鏘同夜先見殺。文集行於世。

建安王蕭子真は字は雲仙、武帝第九子なり。永明七年、累遷して郢州刺史と為り、都督を加う。隆昌元年、散騎常侍・護軍将軍と為る。

原文建安王子真字雲仙,武帝第九子也。永明七年,累遷郢州刺史,加都督。隆昌元年,為散騎常侍、護軍將軍。

延興元年、明帝裴叔業を遣わし、典簽柯令孫に就きて之を殺さしむ。子真床下に走り入る。令孫手を牽きて之を出だす。叩頭して奴と為り死を贖わんことを乞う。従わず。害せらる。年十九。

原文延興元年,明帝遣裴叔業就典簽柯令孫殺之,子真走入床下,令孫手牽出之,叩頭乞為奴贖死,不從,見害,年十九。

西陽王蕭子明は字は雲光、武帝第十子なり。永明元年、武昌王に封ぜらる。三年、国璽を失い、西陽に改封さる。十年、会稽太守と為り、五郡軍事を督す。子明風姿明淨、士女観る者、皆之を嗟歎す。建武元年、撫軍将軍と為り、兵を領し佐を置く。二年、蕭諶を誅す。子明及び弟の子罕・子貞、諶の謀に同じくして害せらる。年十七。

原文西陽王子明字雲光,武帝第十子也。永明元年,封武昌王。三年,失國璽,改封西陽。十年,為會稽太守,督五郡軍事。子明風姿明淨,士女觀者,咸嗟歎之。建武元年,為撫軍將軍,領兵置佐。二年,誅蕭諶,子明及弟子罕、子貞同諶謀見害,年十七。

南海王蕭子罕は字は雲華、武帝第十一子なり。頗る学有り。母楽容華寵有り。故に武帝之に留心す。

原文南海王子罕字雲華,武帝第十一子也,頗有學。母樂容華有寵,故武帝留心。

母嘗て疾に寢す。子罕昼夜祈祷す。時に竹を以て燈纘と為し夜を照らす。此の纘宿昔枝葉大いに茂る。母の病亦癒ゆ。皆孝感の致す所と為す。主簿劉鬷及び侍読賀子喬之が為に賦頌を為す。当時美談と為す。建武元年、位は護軍将軍。二年、殺さる。年十七。

原文母嘗寢疾,子罕晝夜祈禱。于時以竹為燈纘照夜,此纘宿昔枝葉大茂,母病亦愈,咸以為孝感所致。主簿劉鬷及侍讀賀子喬為之賦頌,當時以為美談。建武元年,位護軍將軍。二年,見殺,年十七。

巴陵王蕭子倫は字は雲宗、武帝第十三子なり。永明十年、北中郎将・南琅邪彭城二郡太守と為る。郁林即位す。南彭城の祿力優厚なるを以て、子倫より奪い中書舎人綦母珍之に与え、更に南蘭陵を以て之に代う。

原文巴陵王子倫字雲宗,武帝第十三子也。永明十年,為北中郎將、南琅邪彭城二郡太守。郁林即位,以南彭城祿力優厚,奪子倫與中書舍人綦母珍之,更以南蘭陵代之。

延興元年、明帝中書舎人茹法亮を遣わし子倫を殺さしむ。子倫時に琅邪城を鎮む。守兵有り。子倫英果なり。明帝即時に罪せざるを恐れ、典簽華伯茂に問う。伯茂曰く、「公若し兵を遣わし之を取らば、恐らく即ちに弁ぜざるべし。若し伯茂に委ねば、一小吏の力のみ」と。既にして伯茂手自ら鴆を執りて之を逼る。左右敢えて動く者莫し。子倫衣冠を正し、出でて詔を受け、法亮に謂いて曰く、「不善を積むの家には、必ず余殃有り。昔高皇帝劉氏を残滅す。今日の事、理数固より然り」と。酒を挙げて法亮に謂いて曰く、「君は身家の旧人なり。今此の命を銜む。事已むを得ざるに由るべし。此の酒は差に勧酬の爵に非ず」と。因りて之を仰ぎて死す。時年十六。法亮及び左右皆涕を流す。

原文延興元年,明帝遣中書舍人茹法亮殺子倫,子倫時鎮琅邪城,有守兵,子倫英果,明帝恐不即罪,以問典簽華伯茂。伯茂曰:「公若遣兵取之,恐不即可辦,若委伯茂,一小吏力耳。」既而伯茂手自執鴆逼之,左右莫敢動者。子倫正衣冠,出受詔,謂法亮曰:「積不善之家,必有餘殃。昔高皇帝殘滅劉氏;今日之事,理數固然。」舉酒謂法亮曰:「君是身家舊人,今銜此命,當由事不獲已。此酒差非勸酬之爵。」因仰之而死,時年十六,法亮及左右皆流涕。

先に高帝・武帝が諸王に典簽帥を置き、一方の事は悉くこれを委ねた。

原文先是高帝、武帝為諸王置典簽帥,一方之事,悉以委之。每至覲接,輒留心顧問,刺史行事之美惡,系於典簽之口,莫不折節推奉,恒慮弗及,於是威行州部,權重蕃君。武陵王曄為江州,性烈直不可忤,典簽趙渥之曰:「今出都易刺史。」及見武帝相誣,曄遂免還。南海王子罕戍琅邪,欲暫遊東堂,典簽薑秀不許而止。還泣謂母曰:「兒欲移五步亦不得,與囚何異。」秀後輒取子罕屐傘飲器等供其兒昏,武帝知之,鞭二百,系尚方,然而擅命不改。邵陵王子貞嘗求熊白,廚人答典簽不在,不敢與。西陽王子明欲送書參侍讀鮑僎病,典簽吳修之不許,曰:「應諮行事。」乃止。言行舉動,不得自專,征衣求食,必須諮訪。

毎回の謁見の際には、必ず心を留めて顧問し、刺史の行状の善悪は典簽の口に懸かり、折節して推奉せざるはなく、常に及ばぬことを慮り、ここに威は州部に行われ、権は蕃君よりも重し。

原文永明中,巴東王子響殺行事劉寅等,武帝聞之,謂群臣曰:「子響遂反。」戴僧靜大言曰:「諸王都自應反,豈唯巴東。」武帝問其故,答曰:「天王無罪,而一時被囚,取一挺藕,一杯漿,皆諮簽帥,不在則竟日忍渴。諸州唯聞有簽帥,不聞有刺史。」

武陵王蕭曄が江州に在った時、性烈直にして忤うべからず、典簽趙渥之が曰く「今、都を出て刺史を易えん」と。

原文竟陵王子良嘗問眾曰:「士大夫何意詣簽帥?」參軍範雲答曰:「詣長史以下皆無益,詣簽帥便有倍本之價,不詣謂何!」子良有愧色。

武帝に謁見して相誣うるに及んで、蕭曄は遂に免ぜられて還された。

原文及明帝誅異己者,諸王見害,悉典簽所殺,竟無一人相抗。孔珪聞之流涕曰:「齊之衡陽、江夏最有意,而復害之。若不立簽帥,故當不至於此。」

南海王蕭子罕が琅邪を戍り、暫く東堂に遊ばんと欲したが、典簽薑秀が許さずして止んだ。

原文邵陵王子貞字雲松,武帝第十四子也。建武二年見誅,年十五。臨賀王子岳字雲嶠,武帝第十六子也。明帝誅武帝諸子,唯子岳及弟六人在後,時呼為「七王」。朔望入朝,上還後宮,輒歎息曰:「我及司徒諸兒子皆不長,高、武子孫日長大。」永泰元年,上疾甚,絕而復蘇,於是誅子嶽等。

還って母に泣いて謂いて曰く「児、五歩を移さんと欲するも亦た得ず、囚と何の異なることぞ」と。

原文延興、建武中,凡三誅諸王,每一行事,明帝輒先燒香,嗚咽涕泣,眾以此輒知其夜當殺戮也。子岳死時年十四。

薑秀は後、輒く蕭子罕の屐・傘・飲器等を取って其の児の婚儀に供したが、武帝之を知り、鞭二百を加え、尚方に繫がれた。

原文西陽王子文字雲儒,武帝第十七子也。永明七年,封蜀郡王,建武中,改封西陽。永泰元年見殺,年十四。

然れども擅命は改めず。

原文衡陽王子峻字雲嵩,武帝第十八子也。永明七年,封廣漢郡王,建武中改封。永泰元年見殺,年十四。

邵陵王蕭子貞が嘗て熊白を求めしに、厨人が答えて典簽在らずと、敢えて与えず。

原文南康王子琳字雲璋,武帝第十九子也。母荀昭華盛寵,後宮才人位登采女者,依例舊賜玉鳳凰,荀時始為采女,得玉鳳凰投地曰:「我不能例受此。」武帝乃拜為昭華。

西陽王蕭子明が書を送って侍読鮑僎の病を参じんと欲したが、典簽呉修之が許さず、曰く「応に行事に諮るべし」と。

原文子琳以母寵故最見愛。太尉王儉因請昏,武帝悅而許之。群臣奉寶物名好盡直數百金,武帝為之報答亦如此。及應封,而好郡已盡,乃以宣城封之。既而以宣城屬揚州,不欲為王國,改封南康公褚蓁為巴東公,以南康為王國封子琳。永泰元年見殺,年十四。

乃ち止む。

原文湘東王子建字雲立,武帝第二十一子也。母謝無寵,武帝度為尼。明帝即位,使還母子建。永泰元年見殺,年十三。

言行挙動、自ら専らにするを得ず、征衣求食、必ず諮訪すべし。

原文南郡王子夏字雲廣,武帝第二十三子也。上春秋高,子夏最幼,寵愛過諸子。初,武帝夢金翅鳥下殿庭,搏食小龍無數,乃飛上天。及明帝初,其夢方驗。永泰元年,子夏誅,年七歲。

永明中、巴東王蕭子響が行事劉寅等を殺すと、武帝之を聞き、群臣に謂いて曰く「蕭子響遂に反す」と。

原文文惠子

戴僧靜大言して曰く「諸王皆自ら応に反すべし、豈に唯だ巴東のみならんや」と。

原文文惠太子四男:安皇后生廢帝鬱林王昭業,宮人許氏生廢帝海陵恭王昭文,陳氏生巴陵王昭秀,褚氏生桂陽王昭粲。

武帝其の故を問うと、答えて曰く「天王罪無くして、一時に囚われ、一挺の藕を取るも、一杯の漿も、皆簽帥に諮り、在らざれば則ち竟日渴を忍ぶ。諸州には唯だ簽帥有るを聞き、刺史有るを聞かず」と。

原文巴陵王昭秀字懷尚,太子第三子也。鬱林即位,封臨海郡王。隆昌元年,為都督、荊州刺史。延興元年,徵為車騎將軍。明帝建武二年,改封巴陵王。永泰元年見殺,年十六。

桂陽王蕭昭粲は、太子の第四子である。鬱林王が即位すると、永嘉郡王に封ぜられた。延興元年、出仕して荊州刺史となり、都督を加えられた。建武二年、桂陽王に改封された。四年、太常となった。永泰元年に殺害され、八歳であった。

原文桂陽王昭粲,太子第四子也。鬱林立,封永嘉郡王。延興元年,出為荊州刺史,加都督。建武二年,改封桂陽王。四年,為太常。永泰元年見殺,年八歲。

明帝の子

原文明帝子

明帝に十一人の男子あり:敬皇后は廃帝東昏侯蕭寶巻・江夏王蕭寶玄・鄱陽王蕭寶寅・和帝を生み、殷貴嬪は巴陵隠王蕭寶義・晉熙王蕭寶嵩を生み、袁貴妃は廬陵王蕭寶源を生み、管淑妃は邵陵王蕭寶修を生み、許淑媛は桂陽王蕭寶貞を生んだ。その他は皆早世した。

原文明帝十一男:敬皇后生廢帝東昏侯寶卷、江夏王寶玄、鄱陽王寶寅、和帝,殷貴嬪生巴陵隱王寶義、晉熙王寶嵩,袁貴妃生廬陵王寶源,管淑妃生邵陵王寶修,許淑媛生桂陽王寶貞。餘皆早夭。

巴陵隠王蕭寶義は字を智勇といい、明帝の長子である。本名は明基といった。建武元年、晉安郡王に封ぜられた。

原文巴陵隱王寶義字智勇,明帝長子也,本名明基。建武元年,封晉安郡王。

蕭寶義は幼少より廃疾があり、人と交わるに堪えず、ただ除授を加えられ、都督・揚州刺史となり、やがて始安王蕭遙光がこれを代行した。右將軍に転じ、兵を領し佐を置き、石頭を鎮守した。二年、南徐州刺史となり、都督を加えられた。東昏侯が即位すると、征北將軍・開府儀同三司に進み、扶を与えられた。永元元年、都督・揚州刺史となった。三年、司徒の位に進んだ。和帝が西台を建てると、侍中・司空とした。

原文寶義少有廢疾,不堪出人間,止加除授,為都督、揚州刺史,仍以始安王遙光代之。轉為右將軍,領兵置佐,鎮石頭。二年,為南徐州刺史,加都督。東昏即位,進征北將軍、開府儀同三司,給扶。永元元年,為都督、揚州刺史。三年,進位司徒。和帝西台建,以為侍中、司空。

梁の武帝が建鄴を平定すると、宣徳太后の令により蕭寶義を太尉・司徒領とし、詔に「言わざる化、自ら遠くに形わる」と云う。当時の人々は皆、これは実録であると言った。梁が禅を受けると、謝沐公に封ぜられた。まもなく巴陵郡王に封ぜられ、斉の後を奉じた。天監年間に薨去した。

原文梁武平建鄴,宣德太后令以寶義為太尉、領司徒,詔云:「不言之化,形於自遠。」時人皆云此實錄也。梁受禪,封謝沐公。尋封巴陵郡王,奉齊後。天監中薨。

江夏王蕭寶玄は字を智深といい、明帝の第三子である。建武元年、江夏郡王に封ぜられた。東昏侯が即位すると、都督・南徐兗二州刺史となった。

原文江夏王寶玄字智深,明帝第三子也。建武元年,封江夏郡王。東昏即位,為都督、南徐兗二州刺史。

蕭寶玄は尚書令徐孝嗣の娘を娶って妃としたが、孝嗣が誅殺されて離絶し、東昏侯が二人の少姫を送って与えた。蕭寶義は恨み望み、異なる計略を抱いた。

原文寶玄娶尚書令徐孝嗣女為妃,孝嗣被誅離絕,東昏送少姬二人與之。寶玄恨望有異計。

翌年、崔慧景が挙兵し、広陵に還った時、使者を遣わして蕭寶玄を主君として奉じたが、蕭寶玄はその使者を斬り、これにより将吏を発して城を防がせた。

原文明年,崔慧景舉兵,還至廣陵,遣使奉寶玄為主,寶玄斬其使,因是發將吏防城。

慧景が江を渡らんとした時、蕭寶玄は密かにこれと相応じ、門を開いて慧景を迎え入れ、八扛輿に乗り、手に絳麾幡を執り、慧景に従って都に至った。百姓多くは往きて投じ集まった。慧景が敗れると、朝廷と民間で蕭寶玄及び慧景の軍に投じた名簿が収得されたが、東昏侯はこれを焼くよう命じ、「江夏王でさえなおこのようである。どうしてさらに他の人々を罪することができようか」と言った。

原文慧景將度江,寶玄密與相應,開門納慧景,乘八扛輿,手執絳麾幡,隨慧景至都,百姓多往投集。慧景敗,收得朝野投寶玄及慧景軍名,東昏令燒之,曰:「江夏尚爾,豈復可罪餘人。」

蕭寶玄は逃亡し、数日してようやく出てきた。帝は後堂に召し入れ、歩障でこれを包み、数十人の群小に鼓角を鳴らしてその外を馳せ巡らせ、人を遣わして「汝が近ごろ我を囲んだのもこのようであった」と言わせた。数日後にこれを殺した。

原文寶玄逃奔,數日乃出,帝召入後堂,以步鄣裹之,令群小數十人鳴鼓角馳繞其外,遣人謂曰:「汝近圍我亦如此。」少日乃殺之。

廬陵王蕭寶源は字を智泉といい、明帝の第五子である。建武元年に封ぜられた。和帝が即位すると、車騎將軍・開府儀同三司となった。中興二年に薨去した。

原文廬陵王寶源字智泉,明帝第五子也。建武元年封。和帝即位,為車騎將軍、開府儀同三司。中興二年薨。

鄱陽王蕭寶寅は字を智亮といい、明帝の第六子である。建武初め、建安郡王に封ぜられた。東昏侯が即位すると、都督・郢州刺史となった。永元三年、車騎將軍・開府儀同三司となり、石頭を鎮守した。その秋、雍州刺史張欣泰らが新亭で謀って事を起こし、台内の諸主帥を殺さんとした。難が起こった日、前南譙太守王霊秀が石頭に奔り、城内の将吏を率い、車脚を取り去り、蕭寶寅を載せて台城に向かった。数千人の百姓は皆空手でその後を追った。杜姥宅に至った時、日はすでに暮れんとし、城門は閉じ、城上の人がこれを射たので、衆は蕭寶寅を棄てて逃げた。

原文鄱陽王寶寅字智亮,明帝第六子也。建武初,封建安郡王。東昏即位,為都督、郢州刺史。永元三年,為車騎將軍、開府儀同三司,鎮石頭。其秋,雍州刺史張欣泰等謀起事於新亭,殺台內諸主帥。難作之日,前南譙太守王靈秀奔往石頭,帥城內將吏,去車腳,載寶寅向台城,百姓數千人皆空手隨後。至杜姥宅,日已欲暗,城門閉,城上人射之,眾棄寶寅走。

蕭寶寅は三日間逃亡し、戎服を着て草市尉のもとに詣でた。尉は馳せて帝に啓上し、帝は迎えて宮中に入れ、これを問うた。蕭寶寅は涕泣して制するに自由ならざることを称した。帝は笑い、ついに爵位を復した。宣徳太后が臨朝すると、蕭寶寅を鄱陽王に改封した。中興二年、謀反して魏に奔った。

原文寶寅逃亡三日,戎服詣草市尉,尉馳以啟帝,帝迎入宮,問之。寶寅涕泣稱制不自由,帝笑,乃復爵位。宣德太后臨朝,改封寶寅鄱陽王。中興二年,謀反奔魏。

邵陵王蕭寶修は字を智宣といい、明帝の第九子である。建武元年、南平郡王に封ぜられ、二年に改封された。中興二年に謀反し、宣徳太后の令により死を賜わった。

原文邵陵王寶修字智宣,明帝第九子也。建武元年,封南平郡王,二年改封。中興二年謀反,宣德太后令賜死。

晉熙王寶嵩は字を智靖といい、明帝の第十子である。中興元年、和帝は彼を中書令とした。二年に誅殺された。

原文晉熙王寶嵩字智靖,明帝第十子也。中興元年,和帝以為中書令。二年誅。

桂陽王寶貞は、明帝の第十一子である。中興二年に誅殺された。

原文桂陽王寶貞,明帝第十一子也。中興二年誅。

【論】

原文【論】

論じて曰く、守器の重きは、邦家の馮る所なり。文惠(蕭長懋)の東儲に在りしを観れば、固より已に令徳を虧く有り。向ひ令せば負荷斯に集まらば、猶ほ禍敗に及ぶべし。況んや先期夙に隕ち、愆失已に彰かなるをや。而るに武帝は賢を択ぶを以てせず、之を昏孽に伝ふ。此を推して論ずれば、冥数有るなり。子良(蕭子良)は物望の集まる所なりしも、失は儒雅に在り。断つべくして断たず、以て災に及ぶ。自ら喪亡を致すに止まらず、乃ち宗祀の覆滅に至る。哀しきかな。夫れ帝王子弟は、生長して尊貴、情偽の事は耳目に経ず。卓爾として天悟するも、自ら懐抱を得、孤寡を識と為すも、陋る所猶ほ多し。

原文論曰:守器之重,邦家所馮,觀文惠之在東儲,固已有虧令德,向令負荷斯集,猶當及於禍敗,況先期夙隕,愆失已彰。而武帝不以擇賢,傳之昏孽,推此而論,有冥數矣。子良物望所集,失在儒雅,當斷不斷,以及於災,非止自致喪亡,乃至宗祀覆滅,哀哉!夫帝王子弟,生長尊貴,情偽之事,不經耳目,雖卓爾天悟,自得懷抱,孤寡為識,所陋猶多。

齊氏の諸王は、並びに幼くして方嶽を践み、故に上佐を以て輔けり。簡ぶは帝心より出で、労旧の左右を、主帥と為すに用ふ。州国府第は、先ず令して後に行ふ。飲食游居は、動もすれば聞啓に応ず。端拱して祿を守り、法度を遵承す。張弛の要は、敢へて厝言する莫し。行事其の権を執り、典簽其の肘を掣く。地に処るは重しと雖も、行止は由る莫し。威は身に在らず、恩は下に接せず。倉卒の一朝、事総集し難し。其の位を釈き危きを扶くるを望むは、得べからざるなり。路温舒云ふ、「秦に十失有り、其の一尚ほ存す」と。是れ宋氏の余風にして、齊に及びて弥く弊れり。寶玄は親として一体を兼ね、欣んで家殃を受く。曾て柯を執ふるの指す所を知らず、跗萼相従ひて敗る。此を以て万事を図らば、未だ其の髣髴たるを知らざるなり。

原文齊氏諸王,並幼踐方嶽,故輔以上佐,簡自帝心,勞舊左右,用為主帥,州國府第,先令後行。飲食游居,動應聞啟,端拱守祿,遵承法度,張弛之要,莫敢厝言。行事執其權,典簽掣其肘,處地雖重,行止莫由。威不在身,恩未接下,倉卒一朝,事難總集,望其釋位扶危,不可得矣。路溫舒云:「秦有十失,其一尚存。」斯宋氏之餘風,及在齊而彌弊。寶玄親兼一體,欣受家殃,曾不知執柯所指,跗萼相從而敗。以此而圖萬事,未知其髣佛也。