南史 巻四十四 列傳第三十四

南史

巻四十四 列傳第三十四

武帝の子

武帝に二十三男あり。穆皇后は文恵太子長懋・竟陵文宣王子良を生み、張淑妃は廬陵王子卿・魚復侯子響を生み、周淑儀は安陸王子敬・建安王子真を生み、阮淑媛は しん 安王子懋・衡陽王子峻を生み、王淑儀は隨郡王子隆を生み、蔡婕妤は西陽王子明を生み、楽容華は南海王子罕を生み、傅充華は巴陵王子倫を生み、謝昭儀は邵陵王子貞を生み、江淑儀は臨賀王子岳を生み、庾昭容は西陽王子文を生み、荀昭華は南康王子琳を生み、顔婕妤は永陽王子瑉を生み、宮人謝氏は湘東王子建を生み、何充華は南郡王子夏を生む。第六・第十二・第十五・第二十二の皇子は早く亡くなり、子瑉は衡陽元王の後を継ぐ。

文恵皇太子長懋、字は雲喬、小字は白澤、武帝の長子である。武帝が弱冠に満たぬ年に太子を生み、姿容は豊かで美しく、高帝に愛された。宋の元徽の末、秘書郎に任ぜられたが拝せず、板授により輔国将軍となり、 しん 熙王撫軍主簿に遷る。事が平らぎ、武帝は太子を都に還らせた。高帝はまさに覇業を創めんとし、嫡嗣を心に留め、太子に謂いて「汝が還れば、我が事は成る」と言う。府の東齋に処し、文武の賓客を通ずることを命じた。荀伯玉に謂いて「我が出行する日、城中の軍は悉く長懋の節度を受くべし。我は行かずとも、内外の直防及び諸門の甲兵は、悉く長懋に時々履行せしめよ」と言う。

秘書丞に転じたが、宣帝の諱と同字のため、就任しなかった。中書・黄門侍郎を歴任する。昇明三年、高帝が禅を受けんとするに当たり、襄陽は兵馬の重鎮であるため、他族を処することを欲せず、太子を出して雍州刺史とし、 都督 ととく ・北中郎将・寧蛮 校尉 こうい を加える。建元元年、南郡王に封ぜられる。江左において嫡皇孫が王に封ぜられるのは、これより始まる。

先に、梁州刺史范柏年は頗る威名を著わし、沈攸之の事が起こると、形勢を候望した。事が平らぎ、朝廷は王玄邈を遣わして代えさせた。玄邈が既に至ったが、柏年は魏興に遅滞し下らなかった。太子はその変を為すを慮り、乃ち人を遣わして説き、府の長史とすることを啓上することを許した。襄陽に至ると、因ってこれを捕らえて誅した。

二年、侍中・中軍将軍に徴され、府を置き、石頭に鎮す。穆妃が薨じ、成服の日、車駕が出でて喪に臨む。朝議は太子が門を出でて迎えるべきか疑う。左僕射王儉曰く、「礼記服問を尋ぬるに、『君の主と為す所は夫人・妻・太子の嫡婦』と。国君が此の三人の為に主喪と為すと言うなり。今鑾輿が臨降するは、自ら主喪として至るなり。事に因って撫慰すと雖も、義は弔に在らず。南郡王以下は門を出でて奉迎すべからず。但し尊極の臨む所、礼に変革あり、杖絰を去り、戸外に移り立つは、情敬を表するに足り、哭を止むる煩わしさ無し。皇太子は既に一宮の主たり、自ら車駕を以て宮に幸し、常に依りて奉候すべし。既に成服の日に当たる、吉凶は相い干さず、衰幘を以て事を行い、望拝して哭を止め、旧章に率うべし。尊駕は臨弔を以てせず、奉迎は則ち惟だ常体を求む。情礼に求めれば、安んずるに可しと為す」と。又た其の年九月に閏あり、小祥は閏を計るべきか疑わしい。儉又た議し、以て「三百六旬は、尚書に明義あり、文公の幣を納るるは、春秋に譏を致す。故に先儒は期喪には歳数閏を没し、大功以下には月数閏を数う。是を以て呉商云う、『閏を含めて以て期を正すは、情理に允協す』と。閏を没するの理は、固に言の先に在り」と。並びにこれに従う。

武帝が即位すると、皇太子となる。初め高帝は左氏春秋を好み、太子は旨を承けて諷誦し、口実と為した。東宮に正位するに及び、名尚を立てることを善くし、声律を解し、射を工み、酒を数斗に至るまで飲むも、未だ嘗て杯を挙げず。従容として風儀有り、音韻和らぎ弁じ、朝士を引接して、人々自ら得意と為すを覚えしむ。文武の士多く招集し、会稽の虞炎・済陽の範岫・汝南の周顒・陳郡の袁廓、並びに学行才能を以て、左右に応対す。而して武人略陽の垣歴生・襄陽の蔡道貴は、拳勇秀出し、当時に於いて関羽・張飛に比す。其の余の安定の梁天恵・平原の劉孝慶・河東の王世興・趙郡の李居士・襄陽の黄嗣祖・魚文・康絢の徒は、並びに後の名将と為る。

永明三年、崇正殿に於いて孝経を講じ、少傅王儉は太子僕周顒に命じて義疏を撰せしむ。五年冬、太子は国学に臨み、親ら諸生を策試し、坐に於いて少傅王儉に曲礼の「無不敬」の義を問う。儉及び竟陵王子良等各々酬答有り。太子又た此の義を諸学生に問い、謝幾卿等一十人、並びに筆を以て対す。太子、王儉に問う、「周易の幹卦は本より天位に施す、而るに説卦に云う『帝は震より出づ』と。震は本より天の義に非ず、豈に相い主たるに当たらんや」と。儉曰く、「幹は健なり、震は動なり。天は運を以て徳と為す、故に『帝は震より出づ』と言うなり」と。儉又た太子に孝経の「仲尼居たり曾子侍す」の義を諮り、臨川王映は「孝は徳の本なり」の義を諮る。太子並びに機に応じて酬答し、甚だ条貫有り。

明年、上将に丹陽の領する囚及び南北二百里内の獄を訊らんとし、詔して太子に玄圃園の宣猷堂に於いて三署の囚を録せしめ、原宥各々 やや 有り。上は晚年游宴を好み、尚書曹の事も、亦た分けて太子に送り省視せしむ。

太子は竟陵王子良と倶に釈氏を好み、六疾館を立てて窮人を養う。而して性頗る奢麗を好み、宮内の殿堂は皆彫飾精綺にして、上宮を過ぐ。玄圃園を開拓して台城北塹に等しくし、其の中に土山池閣楼観塔宇を起こし築き、奇を窮め麗を極め、費やす所千万を以てす。多く異石を聚め、山水を妙に極む。上宮中より望見せらるるを慮り、乃ち旁らに修竹を列ね、外に高鄣を施す。遊牆数百間を造り、諸の機巧を施し、須らく鄣蔽すべく、須臾の内に成立し、若し毀撤すべくんば、手に応じて遷徙す。珍玩の物を制し、孔雀の毛を織りて裘と為し、光採金翠、雉頭を過ぐること遠し。 しん の明帝が太子たりし時に西池を立てしを以て、乃ち武帝に啓して前例を引き、東田に小苑を起こすことを求め、上許す。

永明の中、二宮の兵力全く実り、太子は宮中の将吏を使い番を更えて築役せしめ、城を営み巷を包み、制度の盛んなること、観る者都を傾く。上は性厳しと雖も、太子の為す所、敢えて啓する者無し。後、上 章王の宅に幸し、還りて太子の東田を過ぎ、其の弥亘華遠なるを見、壮麗目を極む。於いて大いに怒り、監作の主帥を収む。太子懼れ、皆之を蔵匿す。是に由りて責め見らる。

太子は元来疾有り、体又た過ぎて壮んにし、常に宮内に在り、遨遊に簡にして、羽儀を玩弄し、多く僭擬す。咫尺の宮禁と雖も、而上終に知らず。又た徐文景に輦及び乗輿の禦物虎賁雲罕の類を造らしむ。上嘗て東宮に幸す。匆匆として暇あらずして輦を蔵せず。文景乃ち佛像を輦の中に内す。故に上疑わず。文景の父陶仁、時に給事中たり。文景に謂いて「終に滅門すべし、 まさ めて墓を掃いて喪を待つのみ」と言い、乃ち家を移して之を避く。其の後文景竟に死を賜う。陶仁遂に哭せず。時人古人の風有りと為す。

十年、 章王蕭嶷が薨去すると、太子は上(武帝)の兄弟愛が極めて厚いことを見て、碑文を作り奏上したが、まだ刻石するには至らなかった。十一年春正月、太子は病に罹り、上は自ら見舞いに行き、憂いの色を見せた。病が重篤になると、上表して辞世を告げ、東宮の崇明殿で薨去した。時に三十六歳。

太子の年齢は三十を少し過ぎたばかりで、長く儲宮(東宮)にあり、政事に参与することができた。内外の百官は皆、遅かれ早かれ帝位を継ぐものとひそかに思っていたが、薨去すると、朝野は驚き惜しんだ。上は東宮に行幸し、慟哭して哀悼の意を尽くし、詔して袞冕の服で収めるように命じ、諡して文惠とし、崇安陵に葬った。有司が奏上した喪服の期間は、皇帝は期年(一年)、朝臣は斉衰三月、南郡国の臣は斉衰期年、臨汝・曲江両国の臣はともに喪服を着用せず、六宮は従って喪に服さない。

武帝が東宮を巡行した際、太子の服飾や玩好が制度を過ぎているのを見て、大いに怒り、有司に命じて事に従って取り壊し撤去させ、東田の殿堂のあった場所を崇虚館とした。鬱林王が立つと、追尊して文帝とし、廟号を世宗と称した。

初め、太子(文惠太子)は明帝(蕭鸞)を憎み、ひそかに竟陵王蕭子良に言った。「私の心中は特にこの人を快く思わない。彼の福徳が薄いことによるのだろう」。子良は苦労して救い解こうとした。後に明帝が立つと、果たして大いに誅殺害することがあった。

竟陵文宣王蕭子良は字を雲英といい、武帝の第二子である。幼少より聡明であった。武帝が贛県令の時、裴后と不和になり、人を遣わし船で后を都に送り返した。すでに道に登った時、子良はまだ幼く、庭の前で不機嫌であった。帝が「汝はどうして書を読まないのか」と言うと、子良は「母上は今どこにおられますか。どうして読書が必要でしょうか」と答えた。帝はこれを異とし、すぐに后を召し戻して県に帰した。

宋に仕えて邵陵王友となった。当時は宋の国運が衰え、諸王も微弱であったため、この官は廃されなかった。升明三年、会稽太守となり、五郡を 都督 ととく した。聞喜公に封ぜられた。宋の元嘉年間には、全ての事は郡県に責任を負わせて成し遂げさせたが、孝武帝以後は、徴求が急を要し、郡県の対応が遅いため、台使(朝廷の使者)を派遣し始め、これ以降公役が煩わしくなった。高帝が即位すると、子良はこれを陳べ、その弊害を止めるよう請うた。

子良は義を重んじ古を愛し、郡人の朱百年は至高の行いがあったが先に死去していたので、その妻に米百斛を賜い、一人の賦役を免除し、薪を与えた。郡の官舎の下に虞翻の旧い寝台があったので、任を解かれて帰還する際、持ち帰った。後に西邸に古斎を建て、多く古人の器物や服飾を集めてこれを充実させた。夏禹廟では盛んに祈祷祭祀が行われていたが、子良は言った。「禹は罪を泣いて仁を表し、粗食を以って倹約を示した。服飾や玩好、果物や粽などは、誠意を致すには十分である」。歳ごとに扇と すだれ を献上させるだけにした。

時に山陰の人孔平が子良の下に赴き、嫂が米を買って代金を返さないと訴えた。子良は嘆いて言った。「昔、高文通(高鳳)が寡婦の嫂と田を争って訴訟したが、その義はこれとは異なる」。そこで米と銭を賜って孔平に償わせた。

建元二年、穆妃が薨去すると、官を去り、やがて丹陽尹となり、私倉を開いて属県の貧民を救済した。先に太妃が七月に薨じ、子良は八月に凶報を受けた。小祥(十三月忌)に際し、南郡王(蕭長懋、後の文惠太子)が待つべきかどうか疑義が生じた。尚書左僕射王儉が議して「礼には順序があり、義は無駄に設けられるものではない。もし遠い者は待たず、近い者は必ず待つべきだとすれば、礼の例に背き、心の拠り所とはならない。もし兄弟同居で吉凶が入り混じることを懸念するなら、遠く離れて帰還した子は、自ら別門を開いて喪事を終えるべきであり、霊筵の祭奠は家にいる者に従い、再期(二十五か月)で除喪すべきである。庶子が家にいる場合も嫡子を待たない。ましてや儲妃は王室の正体であり、中軍将軍(南郡王)は長嫡の重みがある。天朝もまた権宜の制を行っているので、進退はさらに疑うべきではない。互いに待つべきではないと思う。中軍将軍が祥縞(小祥の喪服)の日には、聞喜公(子良)は哀悼の意を表すだけで、弔慰を受けない。聞喜公が変除(喪服を変え除く)する時には、兄弟も互いに近づいて心情を書き記すべきで、客に対応すべきではない」と言った。これに従った。

武帝が即位すると、竟陵郡王・南徐州刺史に封ぜられ、 都督 ととく を加えられた。永明二年、護軍将軍、兼 司徒 しと となった。四年、車騎将軍に進号した。子良は若い時から清らかな志操を持ち、礼を重んじ才を好み、疑われることのない地位にあり、心を尽くして賓客に接したため、天下の才学ある者は皆ここに遊び集まった。勝れた事柄を立てることを善とし、夏の月に客が来ると、瓜の飲み物や甘い果物を設け、これを文教に著した。士子の文章や朝貴の辞翰(詩文)は、皆その教えに発して撰録された。

この時、上(武帝)は新たに政務を視ており、水害旱害が時を失していた。子良は密かに上啓して、滞納した租税を免除するよう請うた。また、刑を寛大にし役を休め、賦税を軽くし徭役を省くことを陳べた。併せて「銭貨の鋳造は年が遠く、多くは切り取られたり削られたりしている。江東の大銭は、十銭のうち一つも残っていない。公家が受け取るには、必ず輪郭が完全でなければならず、遂には元々一千のものを、七百を加えて買い、請い求める余地がなく、鞭打ちの刑が相次いだ。間もなく完全なものが用いられるようになったが、既に両方を兼ねることはなく、再び取引が変わり、蓄積されるものではなかった。ただ小人(庶民)をして常に困苦に陥らせるだけである。かつ銭と布が半分ずつという制度は永久のものであるが、あるいは長官が現銭での納入を命じていると聞く。進んでは旧い規定に背き、退いては奸利を許容している」。

五年、 司徒 しと に正位し、班剣二十人を与えられ、侍中は元の通りであった。鶏籠山の西邸に移り住み、学士を集めて五経百家を抄録し、『皇覧』の例に倣って『四部要略』千巻を編纂した。名僧を招致し、仏法を講論し、経唄の新声を作った。僧俗の盛況は、江左に未曾有であった。

武帝は雉を射ることを好んだ。子良は上啓して諫めた。先に左衛殿中将軍邯鄲超が上書して雉射を諫めたため、武帝は止めたが、久しくして超は結局誅殺された。永明末、上は再び雉を射ろうとした。子良は再び諫め、前後にわたって陳べたことを、上は全ては採用しなかったが、深く寵愛された。

また文惠太子とともに釈氏(仏教)を好み、非常に仲が良く兄弟愛に厚かった。子良の敬信は特に篤く、しばしば邸宅の園で斎戒を営み、朝臣や多くの僧侶を大いに集め、食を配り水を行くこと(施餓鬼・布施)に至っては、自らその事に躬親することもあり、世間は大いに宰相の体面を失うものと見なした。人に善を勧めることを、倦むことなく、これによって終に盛名を得た。

八年、三望車を与えられた。九年、都下で大水があり、吳興は特にひどかった。子良は倉を開いて救済し、貧しく病んで立ち上がれない者を、邸宅の北に役所を建てて収容養育し、衣服と薬を与えた。十年、 尚書令 しょうしょれい ・揚州刺史を領し、本官は元の通りであった。間もなく 尚書令 しょうしょれい を解かれ、 中書監 ちゅうしょかん を加えられた。

文惠太子が薨去すると、武帝は東宮を検分し、太子の服飾・車駕・儀仗が多く制度を超過しているのを見て、大いに怒り、子良が太子と親しかったのに啓上しなかったことをもって、ひどく嫌疑をかけ責めた。

武帝が病に伏すと、詔して子良に甲仗を帯びて延昌殿に入り、医薬の世話をさせた。子良は啓上して沙門を殿戸の前で経を誦させ、武帝は感応して夢に優曇鉢華を見た。子良は仏経に基づき旨を宣し、御府に銅で花を作らせ、御床の四隅に挿させた。日夜殿内にあり、太孫は一日おきに参内した。武帝の病状が急変し、内外が恐れ騒ぎ、百官は皆すでに喪服に着替え、世論は子良を立てることを疑った。しばらくして蘇生し、太孫の所在を問い、そこで東宮の器甲を皆召し入れ、遺詔して子良に政を輔弼させ、明帝に尚書事を知らしめた。子良はもとより仁厚で、時務を好まず、そこで明帝を推した。詔に「事の大小を問わず、悉く鸞(明帝)と参酌せよ」とあるのは、子良の志すところであった。太孫は幼少の頃子良の妃袁氏に養われ、大いに慈愛を受けたが、前に立つことができなかったことを恐れ、これより深く子良を忌むようになった。大行(武帝の遺体)が太極殿を出ると、子良は中書省に居り、帝は虎賁中郎将潘敞に二百人の兵仗を率いさせ、太極殿西階の下に駐屯させた。喪服を着た後、諸王は皆退出したが、子良は山陵(武帝の陵)に至るまで留まることを乞うたが、許されなかった。

位を進めて太傅とし、班剣を増やして三十人とし、本官はもとのままとし、侍中を解かれた。隆昌元年、殊礼を加えられ、剣を履き殿に上り、朝に入るに趨らず、拝礼を唱えるに名を称せず、南徐州の 都督 ととく を進めた。その年病篤く、左右に謂って「門外には異変があるはずだ」と言い、人を遣わして見させると、淮中の魚が数え切れず、皆浮き上がって水上にあり城門に向かっていた。まもなく薨去し、年三十五。

帝は常に子良に異心あることを憂慮し、その薨去に際し、大いに悦んだ。詔して東園の温明秘器を給し、袞冕の服で殯し、東府に喪位を設け、大鴻臚に節を持たせ監護させ、太官に朝夕祭を送らせた。また詔して仮黄鉞・侍中・ 都督 ととく 中外諸軍事・大宰・領大将軍・揚州牧を追崇し、緑綟綬を賜い、九服錫命の礼を備え、使持節・ 中書監 ちゅうしょかん ・王はもとのままとした。九旒鸞輅・黄屋左纛・轀輬車・前後部羽葆・鼓吹、輓歌二部、虎賁班剣百人を給し、葬礼は晋の安平王司馬孚の故事に依った。初め、 章王蕭嶷は金牛山に葬られ、文惠太子は夾石に葬られた。子良は臨送の際、祖硎山を望み悲しみ感嘆して言うには、「北に我が叔(蕭嶷)を瞻り、前に我が兄(文惠太子)を望む。死して知有らば、請う茲の地に葬らん」。及び薨去し、遂にそこに葬られた。

内外の文筆数十巻を著し、文采は無いが、多くは勧戒であった。子良が既に亡くなると、故人皆来り奔赴し、陸惠曉が邸門で袁彖に逢い、之に問うて曰く、「近頃云々するは、定めてまた何を謂うか。王融は殺され、而して魏准は胆を破る。道路に籍籍として、又云う竟陵(子良)は天年を永くせず、之有りや」。答えて曰く、「斉氏微弱にして、已に数年なり。爪牙柱石の臣は皆尽き、命の余す所は、政に風流名士のみ。若し長君を立てずんば、以て四海を鎮安すべからず。王融は身の為に計るも、実に社稷を安んず。其の事を断ぜざるを恨む、以て此に至る。道路の談は、自ら虚説たるのみ。蒼生方に塗炭す、政に耳を瀝して之を聴くべし」。建武年中、故吏範雲が上表して子良の碑を立てることを請うたが、事は行われず。子の昭胄が嗣いだ。

昭胄は字を景胤といい、書史に広く渉猟し、父の風有り、位は太常に至った。封境が魏に接するため、永元元年、巴陵王に改封された。

先に、王敬則の事が起こると、南康侯子恪が呉郡におり、明帝は同異あることを慮り、諸王侯を召して宮中に入れ、晋安王宝義及び江陵公宝覧は中書省に住まわせ、高帝・武帝の諸孫は西省に住まわせ、勅して人各両名の左右を自ら随えさせ、これを過ぎれば軍法に依る;幼児は乳母が随って入った。その夜並びに害を加えようとしたが、子恪が至ったことにより免れた。建武以来、高帝・武帝の王侯は、常に震え怖れ、朝に夕を保たず、これに至り特に甚しかった。

及び陳顕達が挙兵すると、王侯は再び宮中に入り、昭胄は往時の懼れを懲り、弟の永新侯昭穎と共に江西に逃奔し、姿を変えて道人となった。崔慧景が兵を挙げると、昭胄兄弟は出てこれに投じた。慧景が敗れると、昭胄兄弟は真っ先に出て台軍の主将胡松に投降し、各々王侯として邸に還ったが、自ら安んぜず、身の計らいを謀った。子良の故防閤桑偃が梅虫児の軍副となり、前巴西太守蕭寅と結び、昭胄を立てることを謀った。昭胄は事が成れば寅を尚書左僕射・護軍に用いることを許諾し、寅に部曲有るを以て、大事は皆之に委ねた。時に胡松が軍を領して新亭におり、寅は人を遣わして説き、松は諾した。又張欣泰は嘗て雍州に在り、亦部曲有り、昭胄は又房天宝を遣わして謀を告げ、欣泰は命を聞き応じた。蕭寅の左右華永達が其の謀を知り、以て禦刀朱光尚に告げた。光尚は左道を挟みて東昏侯を惑わし、因って東昏侯に謂って曰く、「昨蒋王を見るに、云う巴陵王外に在りて党を結び反せんと欲す、官(帝)の出行を須い、仍って万春門より入らんとす、事量るべからず」。時に東昏侯は日々遊走し、此の説を聞き大いに懼れ、四十余日も出ず。偃等は健児百余を募り、万春門より入り、突いて之を取ることを議した。昭胄は以て不可と為した。偃の同党王山沙は事久しく成らずんばと慮り、事を以て禦刀徐僧重に告げ、寅は人を遣わし山沙を路上で殺した。吏が麝幐の中に其事蹟を得、昭胄兄弟と同党は皆誅に伏した。

梁が禅を受け、昭胄の子同を降封して監利侯とした。

同の弟賁は字を文奐といい、身長六尺に満たず、神識は耿介であった。幼より学を好み、文才有り、能く書を書き善く画き、扇の上に山水を図れば、咫尺の内に、便ち万里を遥かなりと覚えしめた。矜慎して伝えず、自ら娯しむのみ。著述を好み、嘗て西京雑記六十巻を著す。起家して湘東王の法曹参軍となり、一府の歓心を得た。及乱、王が檄を作ると、賁は読みて「偃師南望すれば、復た儲胥露寒無く、河陽北臨すれば、或は穹廬氈帳有らん」に至り、乃ち曰く、「聖制此の句は、過似の為に非ず、朝廷を体目するが如く、賊を序するに非ず」。王之を聞き大いに怒り、収めて獄に付し、遂に餓死に終わった。又賁の屍を追って戮し、乃ち懐旧伝を著して之を謗り、極言して誣毀した。

廬陵王子卿は字を雲長といい、武帝の第三子である。建元元年、臨汝県公に封ぜられた。武帝即位の後、 郢州 えいしゅう 刺史となり、 都督 ととく を加えられた。子卿は諸子の中に徳無く、又魚復侯子響と同母生まれであったので、寵愛を受けなかった。 都督 ととく ・荊州刺史に転じた。始興王が益州となると、子卿は 都督 ととく を解かれた。

子卿は鎮に在り、服飾を営造するに、多く制度に違い、玳瑁の乗具を作った。詔して之を責め、速やかに都に送ることを命じた;又銀の鐙・金薄で箭脚を包むものを作り、亦便ち速やかに壊れ去らせた。凡そ諸の服章、今より啓上せず専ら みだ りに作る者は、痛杖に当たるべし。又曰く、「汝比(近頃)学を読ましむるを令す、今年転じて成長す、学既に就かず、敕を得ること風の耳を過ぐるが如し、吾をして気を失わしむ」。

永明十年、 都督 ととく ・南 州刺史となった。之鎮の途上、部伍を戯れて水軍と為し、上聞きて大いに怒り、其の典籤を殺した。宜都王蕭鏗を遣わして之に代わらせた。子卿は邸に還り、崩御に至るまで相見えず。

隆昌元年、衛将軍・開府儀同三司となり、兵佐を置いた。鄱陽王蕭鏘が害されると、子卿を以て代わりに 司徒 しと とした。居る屋の梁柱の際より血が出て地に溜まり、旬日にして殺害された。

魚復侯蕭子響は字を雲音といい、武帝の第四子である。 章王蕭嶷に子がなかったので、子響を養子とした。後に蕭嶷に実子が生まれたため、上表して子響を嫡子として留め置くことを願い出た。武帝が即位すると、南彭城・臨淮二郡太守となった。

子響は勇力が人に絶しており、四斛の力で弓を開き、しばしば園池の中で馬にまたがり竹や木の下を馳せ走りながらも、身体に傷一つ負わなかった。既に他家へ出継いだ後は、車や服飾が諸王と異なり、朝廷に入るたびに憤慨して拳で車の壁を打ったので、武帝はこれを知り、車服を皇子と同じにするよう命じた。

永明六年、役人が子響を本家に戻すべきと上奏したため、巴東郡王に封ぜられた。七年、 都督 ととく ・荊州刺史となった。直閤将軍の董蠻は少し気力があったので、子響は同行を求めた。董蠻が言うには、「殿下は雷のように癇癪がおありです。どうして付き従えましょうか」。子響は笑って言った。「君がこのような言葉を口にできるとは、これまた奇なる癇癪持ちだ」。武帝はこれを聞いて快く思わず、「人の名が『蠻(野蛮)』では、どうして含蓄などありえようか」と言い、名を仲舒と改めさせた。子響は董蠻に言った。「今日の仲舒は、昔の仲舒(董仲舒)と比べてどうか」。答えて言うには、「昔の仲舒は私的な庭から出ましたが、今日の仲舒は天帝から降りました。この点から言えば、昔よりはるかに勝っております」。武帝はこれを称賛した。

子響は若い頃から武を好み、武装した側近六十人を従えていたが、皆胆力と才幹があり、しばしば内斎で牛を殺し酒を設け、彼らと集まって楽しんだ。私的に錦の袍や深紅の襖を作らせ、蛮族に贈って武器と交易しようとした。長史の劉寅らは連名で密かに上奏した。武帝が厳重に調査するよう命じると、劉寅らは恐れて、これを秘匿しようとした。子響は朝廷の使者が来たと聞き、詔勅を見ないうちに、劉寅および司馬の席恭穆、諮議参軍の江悆・殷曇粲、中兵参軍の周彦、典籤の呉修之・王賢宗・魏景深らをことごとく呼び入れ、琴台の下でいっせいに斬った。武帝はこれを聞いて怒り、衛尉の胡諧之・遊撃将軍の尹略・中書舎人の茹法亮に羽林兵三千人を率いさせ、一味を検挙捕縛させた。詔勅に「子響が自ら手を縛して帰参すれば、その命を全うさせよう」とあった。胡諧之らが江津に到着し、燕尾洲に城を築いた。子響は白服で城に登り、たびたび使者を送って伝言させ、「天下にどうして子が反逆することがあろうか。わが身は賊ではない。ただ粗略であっただけだ。今すぐ単艦で都に帰るのに、どうして城を築いて捕らえようとするのか」と言った。尹略だけが答えて言った。「お前のような父に反逆する者と誰が語らうものか」。子響はこれを聞いてただ涙を流した。また牛数十頭、酒二百石、果物や料理を三十輿送ったが、尹略はこれを江に流し捨てた。子響の胆力ある士である王沖天は憤りに耐えかね、ついに配下を率いて洲を渡り陣営を攻めて尹略を斬り、胡諧之と茹法亮は単艇で逃げ去った。

武帝はさらに丹陽尹の蕭順之に兵を率いて続かせた。子響はその日、白衣の側近三十人を率い、小船に乗って中流を下り都へ向かった。初め、蕭順之が出発しようとした時、文恵太子は平素から子響を忌んでいたので、密かに帰還を許さず、その場で始末するよう命じていた。子響が蕭順之と面会し、自ら申し開きをしようとしたが、蕭順之は許さず、射堂で絞殺した。役人が子響の属籍(皇族籍)を絶つよう上奏したので、蛸氏を賜った。

子響は密かに数紙の上奏文を作り、妃の王氏の裙の腰の中に隠し、詳しく自らの事情を申し述べ、「軽舟で帰都することができず、この苦しみは深い。ただ哀れみを願い、竹帛(史書)に斉に父に反逆する子あり、父に子を害する名ありと記させないでほしい」と記していた。蕭順之が帰還すると、武帝の心中は非常に怪しみ恨んだ。百日の忌みに華林園で子響のために斎会を行い、武帝自ら香をたき、諸々の朝士に対して顔をしかめた。蕭順之と面会した時には、しばらく嗚咽し、左右の者は涙をぬぐわぬ者はいなかった。ある日景陽山に出て、一匹の猿が悲しげに鳴きながら跳ねるのを見て、後堂丞に「この猿はどうしたのか」と問うた。答えて言うには、「猿の子が先日崖から落ちて死に、その母が探しても見つからないので、このようになっております」。武帝はそこで子響のことを思い出し、長くすすり泣き、自らを抑えることができなかった。蕭順之は慚愧と恐れを感じ、病にかかり、ついに憂いのうちに死去した。そこで 章王蕭嶷が上表して言った。「故庶人蛸子響は識見も心も樹立せず、不逞の徒に陥り、一朝の憤りを恣にし、凶悪な行いを取って陥り、身は草野の肥やしとなり、まだ罪過を塞いだとは言えません。しかし、司戮の罪に帰し、迷いながらも正に返り、事を撫でて往時を思えば、まことに心と目を傷つけます。伏して願わくは、天の哀れみを一度下し、残った遺骸を埋葬させてください。どうしてただ窮地の骸骨が徳を被るだけでなく、実に天下が仁に帰するでしょう」。武帝は許さず、魚復侯に貶した。

安陸王蕭子敬は字を雲端といい、武帝の第五子である。初め応城県公に封ぜられた。先に子敬の生母が早く亡くなったので、帝は貴妃范氏に母として養育させた。范氏が薨去した時、子とその婦の服制については、礼に明文がなかった。永明年中、 尚書令 しょうしょれい の王儉が議して、「孫は慈孫、婦は慈婦、姑は慈姑として、期年の喪服を定めるのがよい」と言った。これに従った。十年、 散騎常侍 さんきじょうじ ・撫軍将軍・丹陽尹の位に就いた。十一年、車騎将軍を加えられた。隆昌元年、 都督 ととく ・南兗州刺史に転じた。延興元年、侍中を加えられた。明帝が諸藩王を除こうとした時、中護軍の王玄邈を派遣して九江を征討させ、王広之が襲撃して子敬を殺害した。

初め、子敬は武帝に気に入られていた。帝が病気になった時、子敬を太子に立て、太孫に代えようと考えた。子敬と太孫がともに参内を終えて退出すると、武帝は子敬の後姿を長く見送り、「阿五(子敬)は鈍い」と言った。これによって代えるという考えは止んだ。

しん 安王蕭子懋は字を雲昌といい、武帝の第七子である。諸子の中で最も清く恬淡で、思慮があり、廉潔で譲りを好み学問を好んだ。七歳の時、母の阮淑媛が危篤に陥ったので、僧を請いて行道を行った。蓮の花を献じて仏に供える者がいた。僧たちは銅の瓶に水を入れてその茎を浸し、花が萎れないようにした。子懋は涙を流して仏に礼拝し、「もし阿姨(母)がこれによって平癒されますならば、諸仏が花が斎会の終わりまで萎れないようにしてくださいますように」と願った。七日間の斎会が終わると、花はさらに鮮やかに紅くなり、瓶の中を見ると少し根が生えていた。当世、その孝行の感応と称えられた。

永明五年、南兗州刺史・五州軍事監となった。六年、湘州刺史監に転じた。八年、『春秋例苑』三十巻を撰して奏上し、武帝は秘閣に収蔵するよう命じた。十一年、 都督 ととく ・雍州刺史となり、鼓吹一部を与えられた。 章王の喪服期間が終わっていなかったが、武帝は辺境の州には威厳が必要として、上奏することを許した。好みの書物を求める上奏をすると、武帝は「汝が常に書物を心に留めて読んでいることを知り、深く喜ばしい」と言い、杜預が自ら手を加えて定めた『左伝』および『古今善言』を賜った。

隆昌元年、征南大将軍・江州刺史となった。詔勅で西楚の部曲を留め置き襄陽の鎮守を助けさせ、単身で白直・侠轂だけを従えて行くこととなった。陳顕達が当時襄陽に駐屯しており、別れの挨拶に入ると、子懋は彼に言った。「朝廷はわが身に単身で帰還するよう命じているが、わが身は天王である。どうしてそれほど軽率であってよいものか。今、二、三千人を自ら従えようと思うが、公の意見はどうか」。陳顕達は言った。「殿下が部曲を留め置かれなければ、大いに勅旨に背くことになります」。陳顕達は辞去してすぐに出発した。子懋は計略が立たず、尋陽に戻って鎮守した。

延興元年、侍中を加えられた。鄱陽王・随郡王の二王が殺害されたと聞き、難に赴くために兵を起こそうとし、参軍の周英・防閤の陸超之と議して言った。「荊州・郢州に檄を伝え、君側の奸を討って入ろう。事が成れば宗廟は安泰を得、成らなくてもなお義鬼となろう」。防閤の董僧慧は袖をまくって言った。「この州は小さいが、孝武帝もかつてこれを用いました。今、王室を助ける軍勢をもって、長江を横切り、北闕を指し、郁林王(廃帝)の過ちを請うて、誰がこれに対抗できましょうか」。そこで兵将を部署し、社稷を正そうとした。

母の阮氏は都に在り、書を遣わして密かに上(子懋)を迎えんと欲す。阮氏は同産弟の于瑤之に報じて計を為さしむ。瑤之馳せて明帝に告ぐ。ここに於いて纂厳し、中護軍王玄邈・平西将軍王広之を遣わして南北より討たしめ、軍主裴叔業をして瑤之と先んじて尋陽を襲わしめ、声は郢府司馬と為すと云う。子懋之を知り、三百人を遣わして盆城を守らしむ。叔業流を溯って直上し、盆城を襲う。子懋先に已に船を稽亭渚に具え、叔業の盆城を得たるを聞き、乃ち州を拠りて自衛す。

子懋の部曲は多く雍土の人なり、皆躍躍として奮うことを願う。叔業之を畏れ、于瑤之を遣わして子懋を説きて曰く、「今都に還らば、必ず過憂無かるべし。政に散官を作すべきのみ。富貴を失わざるなり」と。

子懋既に兵を出して叔業を攻めざれば、衆情稍く沮す。中兵参軍于琳之は瑤之の兄なり、子懋を説きて重ねて叔業に賂するを勧む。子懋琳之をして往かしむ。琳之因りて叔業を説き、子懋を取ることを請う。叔業軍主徐玄慶を遣わし、四百人を将いて琳之に随い城に入らしむ。僚佐皆奔散す。唯だ周英及び外兵参軍王皎のみ更に城内に移り入る。子懋之を聞き歎じて曰く、「吾が府に義士二人有るを意えざりき」と。琳之二百人に従い仗して自ら斎に入る。子懋笑って之に謂いて曰く、「渭陽(母の弟)なるを意えず、翻って梟鏡(不義の者)と成る」と。琳之袖を以て面を障い、人をして之を害せしむ。故人罪を懼れて敢えて至る者無し。唯だ英・皎・僧慧のみ号哭して哀を尽くし、之が喪殯を為す。

董僧慧は丹陽姑孰の人、寒微より出で而も慷慨して節義有り。書を読むを好み、甚だ ぎょう 果にして、能く手を背に反して五斛の弓を彎ぐ。当世之に能くする者莫し。玄邈其の子懋の謀に預かりしを知り、之を執う。僧慧曰く、「晋安(子懋)義兵を挙ぐ。僕実に議に預かる。古人云う『死するは難からず、死を得るは難し』と。僕主人の為に死するを得て、恨み無し。願わくは主人の大斂畢るに至り、退いて湯鑊に就かん。死すと雖も猶お生くが如し」と。玄邈義として之を許す。還りて具に明帝に白す。乃ち東冶に配す。九江の時の事に言及すれば、輒ち悲しみ自ら勝えず。子懋の子昭基、九歳、方二寸の絹を以て書と為し、其の消息を参じ、並びに銭五百を遺す。金を以て人に仮し、崎嶇として得て至る。僧慧書を睹て、銭に対し曰く、「此れ郎君の書なり」と。悲慟して卒す。

陸超之は呉の人、清静雅を以て子懋に知らる。子懋既に敗る。于琳之其の逃亡を勧む。答えて曰く、「人皆死有り。此れ懼るるに足らず。吾若し逃亡せば、唯だ晋安の眷を孤にするのみならず、亦た田横の客の人の笑うを恐る」と。玄邈等其の義を以て、囚え都に還さんと欲す。而して超之亦た端坐して命を待つ。超之の門生周姓の者、超之を殺せば賞を得べしと謂い、乃ち超之の坐するを伺い、自ら後より之を斬る。頭墜ちて身僵まず。玄邈其の節を嘉し、厚く殯斂を為す。周又た棺を挙ぐるを助く。未だ戸を出でざるに、棺墜ち、政に其の頭を圧し頸を折り即ち死す。之を聞く者、天道有りと為さざる莫し。

随郡王蕭子隆は字は雲興、武帝第八子なり。性温和にして美有り、文才有り。 尚書令 しょうしょれい 王儉の女を娶り妃と為す。武帝子隆の文を属する能きを以て、儉に謂いて曰く、「我が家の東阿なり」と。

永明八年、 都督 ととく ・荊州刺史と為る。隆昌元年、侍中・撫軍将軍と為り、兵を領し佐を置く。延興元年、中軍大将軍に転じ、侍中は元の如し。

子隆年二十一にして、体充壮に過ぐ。常に徐嗣伯をして蘆茹丸を合せ服せしめ自ら銷損せしむるも、猶お益無し。明帝政を輔け、諸王を害せんと謀る。武帝諸子の中、子隆最も才貌を以て憚らる。故に鄱陽王蕭鏘と同夜先んじて殺さる。文集世に行わる。

建安王蕭子真は字は雲仙、武帝第九子なり。永明七年、累遷して郢州刺史と為り、 都督 ととく を加う。隆昌元年、 散騎常侍 さんきじょうじ ・護軍将軍と為る。

延興元年、明帝裴叔業を遣わし、典簽柯令孫に就きて之を殺さしむ。子真床下に走り入る。令孫手を牽きて之を出だす。叩頭して奴と為り死を贖わんことを乞う。従わず。害せらる。年十九。

西陽王蕭子明は字は雲光、武帝第十子なり。永明元年、武昌王に封ぜらる。三年、国璽を失い、西陽に改封さる。十年、会稽太守と為り、五郡軍事を督す。子明風姿明淨、士女観る者、皆之を嗟歎す。建武元年、撫軍将軍と為り、兵を領し佐を置く。二年、蕭諶を誅す。子明及び弟の子罕・子貞、諶の謀に同じくして害せらる。年十七。

南海王蕭子罕は字は雲華、武帝第十一子なり。頗る学有り。母楽容華寵有り。故に武帝之に留心す。

母嘗て疾に寢す。子罕昼夜祈祷す。時に竹を以て燈纘と為し夜を照らす。此の纘宿昔枝葉大いに茂る。母の病亦癒ゆ。皆孝感の致す所と為す。主簿劉鬷及び侍読賀子喬之が為に賦頌を為す。当時美談と為す。建武元年、位は護軍将軍。二年、殺さる。年十七。

巴陵王蕭子倫は字は雲宗、武帝第十三子なり。永明十年、北中郎将・南琅邪彭城二郡太守と為る。郁林即位す。南彭城の祿力優厚なるを以て、子倫より奪い中書舎人綦母珍之に与え、更に南蘭陵を以て之に代う。

延興元年、明帝中書舎人茹法亮を遣わし子倫を殺さしむ。子倫時に琅邪城を鎮む。守兵有り。子倫英果なり。明帝即時に罪せざるを恐れ、典簽華伯茂に問う。伯茂曰く、「公若し兵を遣わし之を取らば、恐らく即ちに弁ぜざるべし。若し伯茂に委ねば、一小吏の力のみ」と。既にして伯茂手自ら鴆を執りて之を逼る。左右敢えて動く者莫し。子倫衣冠を正し、出でて詔を受け、法亮に謂いて曰く、「不善を積むの家には、必ず余殃有り。昔高皇帝劉氏を残滅す。今日の事、理数固より然り」と。酒を挙げて法亮に謂いて曰く、「君は身家の旧人なり。今此の命を銜む。事已むを得ざるに由るべし。此の酒は差に勧酬の爵に非ず」と。因りて之を仰ぎて死す。時年十六。法亮及び左右皆涕を流す。

先に高帝・武帝が諸王に典簽帥を置き、一方の事は悉くこれを委ねた。

毎回の謁見の際には、必ず心を留めて顧問し、刺史の行状の善悪は典簽の口に懸かり、折節して推奉せざるはなく、常に及ばぬことを慮り、ここに威は州部に行われ、権は蕃君よりも重し。

武陵王蕭曄が江州に在った時、性烈直にして忤うべからず、典簽趙渥之が曰く「今、都を出て刺史を易えん」と。

武帝に謁見して相誣うるに及んで、蕭曄は遂に免ぜられて還された。

南海王蕭子罕が琅邪を戍り、暫く東堂に遊ばんと欲したが、典簽薑秀が許さずして止んだ。

還って母に泣いて謂いて曰く「児、五歩を移さんと欲するも亦た得ず、囚と何の異なることぞ」と。

薑秀は後、輒く蕭子罕の屐・傘・飲器等を取って其の児の婚儀に供したが、武帝之を知り、鞭二百を加え、尚方に繫がれた。

然れども擅命は改めず。

邵陵王蕭子貞が嘗て熊白を求めしに、厨人が答えて典簽在らずと、敢えて与えず。

西陽王蕭子明が書を送って侍読鮑僎の病を参じんと欲したが、典簽呉修之が許さず、曰く「応に行事に諮るべし」と。

乃ち止む。

言行挙動、自ら専らにするを得ず、征衣求食、必ず諮訪すべし。

永明中、巴東王蕭子響が行事劉寅等を殺すと、武帝之を聞き、群臣に謂いて曰く「蕭子響遂に反す」と。

戴僧靜大言して曰く「諸王皆自ら応に反すべし、豈に唯だ巴東のみならんや」と。

武帝其の故を問うと、答えて曰く「天王罪無くして、一時に囚われ、一挺の藕を取るも、一杯の漿も、皆簽帥に諮り、在らざれば則ち竟日渴を忍ぶ。諸州には唯だ簽帥有るを聞き、刺史有るを聞かず」と。

桂陽王蕭昭粲は、太子の第四子である。鬱林王が即位すると、永嘉郡王に封ぜられた。延興元年、出仕して荊州刺史となり、 都督 ととく を加えられた。建武二年、桂陽王に改封された。四年、太常となった。永泰元年に殺害され、八歳であった。

明帝の子

明帝に十一人の男子あり:敬皇后は廃帝東昏侯蕭寶巻・江夏王蕭寶玄・鄱陽王蕭寶寅・和帝を生み、殷貴嬪は巴陵隠王蕭寶義・ しん 熙王蕭寶嵩を生み、袁貴妃は廬陵王蕭寶源を生み、管淑妃は邵陵王蕭寶修を生み、許淑媛は桂陽王蕭寶貞を生んだ。その他は皆早世した。

巴陵隠王蕭寶義は字を智勇といい、明帝の長子である。本名は明基といった。建武元年、 しん 安郡王に封ぜられた。

蕭寶義は幼少より廃疾があり、人と交わるに堪えず、ただ除授を加えられ、 都督 ととく ・揚州刺史となり、やがて始安王蕭遙光がこれを代行した。右將軍に転じ、兵を領し佐を置き、石頭を鎮守した。二年、南徐州刺史となり、 都督 ととく を加えられた。東昏侯が即位すると、征北將軍・開府儀同三司に進み、扶を与えられた。永元元年、 都督 ととく ・揚州刺史となった。三年、 司徒 しと の位に進んだ。和帝が西台を建てると、侍中・ 司空 しくう とした。

梁の武帝が建鄴を平定すると、宣徳太后の令により蕭寶義を太尉・ 司徒 しと 領とし、詔に「言わざる化、自ら遠くに形わる」と云う。当時の人々は皆、これは実録であると言った。梁が禅を受けると、謝沐公に封ぜられた。まもなく巴陵郡王に封ぜられ、斉の後を奉じた。天監年間に薨去した。

江夏王蕭寶玄は字を智深といい、明帝の第三子である。建武元年、江夏郡王に封ぜられた。東昏侯が即位すると、 都督 ととく ・南徐兗二州刺史となった。

蕭寶玄は 尚書令 しょうしょれい 徐孝嗣の娘を娶って妃としたが、孝嗣が誅殺されて離絶し、東昏侯が二人の少姫を送って与えた。蕭寶義は恨み望み、異なる計略を抱いた。

翌年、崔慧景が挙兵し、広陵に還った時、使者を遣わして蕭寶玄を主君として奉じたが、蕭寶玄はその使者を斬り、これにより将吏を発して城を防がせた。

慧景が江を渡らんとした時、蕭寶玄は密かにこれと相応じ、門を開いて慧景を迎え入れ、八扛輿に乗り、手に絳麾幡を執り、慧景に従って都に至った。百姓多くは往きて投じ集まった。慧景が敗れると、朝廷と民間で蕭寶玄及び慧景の軍に投じた名簿が収得されたが、東昏侯はこれを焼くよう命じ、「江夏王でさえなおこのようである。どうしてさらに他の人々を罪することができようか」と言った。

蕭寶玄は逃亡し、数日してようやく出てきた。帝は後堂に召し入れ、歩障でこれを包み、数十人の群小に鼓角を鳴らしてその外を馳せ巡らせ、人を遣わして「汝が近ごろ我を囲んだのもこのようであった」と言わせた。数日後にこれを殺した。

廬陵王蕭寶源は字を智泉といい、明帝の第五子である。建武元年に封ぜられた。和帝が即位すると、車騎將軍・開府儀同三司となった。中興二年に薨去した。

鄱陽王蕭寶寅は字を智亮といい、明帝の第六子である。建武初め、建安郡王に封ぜられた。東昏侯が即位すると、 都督 ととく ・郢州刺史となった。永元三年、車騎將軍・開府儀同三司となり、石頭を鎮守した。その秋、雍州刺史張欣泰らが新亭で謀って事を起こし、台内の諸主帥を殺さんとした。難が起こった日、前南譙太守王霊秀が石頭に奔り、城内の将吏を率い、車脚を取り去り、蕭寶寅を載せて台城に向かった。数千人の百姓は皆空手でその後を追った。杜姥宅に至った時、日はすでに暮れんとし、城門は閉じ、城上の人がこれを射たので、衆は蕭寶寅を棄てて逃げた。

蕭寶寅は三日間逃亡し、戎服を着て草市尉のもとに詣でた。尉は馳せて帝に啓上し、帝は迎えて宮中に入れ、これを問うた。蕭寶寅は涕泣して制するに自由ならざることを称した。帝は笑い、ついに爵位を復した。宣徳太后が臨朝すると、蕭寶寅を鄱陽王に改封した。中興二年、謀反して魏に奔った。

邵陵王蕭寶修は字を智宣といい、明帝の第九子である。建武元年、南平郡王に封ぜられ、二年に改封された。中興二年に謀反し、宣徳太后の令により死を賜わった。

しん 熙王寶嵩は字を智靖といい、明帝の第十子である。中興元年、和帝は彼を中書令とした。二年に誅殺された。

桂陽王寶貞は、明帝の第十一子である。中興二年に誅殺された。

【論】

論じて曰く、守器の重きは、邦家の馮る所なり。文惠(蕭長懋)の東儲に在りしを観れば、固より已に令徳を虧く有り。向ひ令せば負荷斯に集まらば、猶ほ禍敗に及ぶべし。況んや先期夙に隕ち、愆失已に彰かなるをや。而るに武帝は賢を択ぶを以てせず、之を昏孽に伝ふ。此を推して論ずれば、冥数有るなり。子良(蕭子良)は物望の集まる所なりしも、失は儒雅に在り。断つべくして断たず、以て災に及ぶ。自ら喪亡を致すに止まらず、乃ち宗祀の覆滅に至る。哀しきかな。夫れ帝王子弟は、生長して尊貴、情偽の事は耳目に経ず。卓爾として天悟するも、自ら懐抱を得、孤寡を識と為すも、陋る所猶ほ多し。

齊氏の諸王は、並びに幼くして方嶽を践み、故に上佐を以て輔けり。簡ぶは帝心より出で、労旧の左右を、主帥と為すに用ふ。州国府第は、先ず令して後に行ふ。飲食游居は、動もすれば聞啓に応ず。端拱して祿を守り、法度を遵承す。張弛の要は、敢へて厝言する莫し。行事其の権を執り、典簽其の肘を掣く。地に処るは重しと雖も、行止は由る莫し。威は身に在らず、恩は下に接せず。倉卒の一朝、事総集し難し。其の位を釈き危きを扶くるを望むは、得べからざるなり。路温舒云ふ、「秦に十失有り、其の一尚ほ存す」と。是れ宋氏の余風にして、齊に及びて弥く弊れり。寶玄は親として一体を兼ね、欣んで家殃を受く。曾て柯を執ふるの指す所を知らず、跗萼相従ひて敗る。此を以て万事を図らば、未だ其の髣髴たるを知らざるなり。

原本を確認する(ウィキソース):南史 巻044