武帝の子
文恵皇太子長懋、字は雲喬、小字は白澤、武帝の長子である。武帝が弱冠に満たぬ年に太子を生み、姿容は豊かで美しく、高帝に愛された。宋の元徽の末、秘書郎に任ぜられたが拝せず、板授により輔国将軍となり、晉熙王撫軍主簿に遷る。事が平らぎ、武帝は太子を都に還らせた。高帝はまさに覇業を創めんとし、嫡嗣を心に留め、太子に謂いて「汝が還れば、我が事は成る」と言う。府の東齋に処し、文武の賓客を通ずることを命じた。荀伯玉に謂いて「我が出行する日、城中の軍は悉く長懋の節度を受くべし。我は行かずとも、内外の直防及び諸門の甲兵は、悉く長懋に時々履行せしめよ」と言う。
先に、梁州刺史范柏年は頗る威名を著わし、沈攸之の事が起こると、形勢を候望した。事が平らぎ、朝廷は王玄邈を遣わして代えさせた。玄邈が既に至ったが、柏年は魏興に遅滞し下らなかった。太子はその変を為すを慮り、乃ち人を遣わして説き、府の長史とすることを啓上することを許した。襄陽に至ると、因ってこれを捕らえて誅した。
武帝が即位すると、皇太子となる。初め高帝は左氏春秋を好み、太子は旨を承けて諷誦し、口実と為した。東宮に正位するに及び、名尚を立てることを善くし、声律を解し、射を工み、酒を数斗に至るまで飲むも、未だ嘗て杯を挙げず。従容として風儀有り、音韻和らぎ弁じ、朝士を引接して、人々自ら得意と為すを覚えしむ。文武の士多く招集し、会稽の虞炎・済陽の範岫・汝南の周顒・陳郡の袁廓、並びに学行才能を以て、左右に応対す。而して武人略陽の垣歴生・襄陽の蔡道貴は、拳勇秀出し、当時に於いて関羽・張飛に比す。其の余の安定の梁天恵・平原の劉孝慶・河東の王世興・趙郡の李居士・襄陽の黄嗣祖・魚文・康絢の徒は、並びに後の名将と為る。
明年、上将に丹陽の領する囚及び南北二百里内の獄を訊らんとし、詔して太子に玄圃園の宣猷堂に於いて三署の囚を録せしめ、原宥各々差有り。上は晚年游宴を好み、尚書曹の事も、亦た分けて太子に送り省視せしむ。
太子は竟陵王子良と倶に釈氏を好み、六疾館を立てて窮人を養う。而して性頗る奢麗を好み、宮内の殿堂は皆彫飾精綺にして、上宮を過ぐ。玄圃園を開拓して台城北塹に等しくし、其の中に土山池閣楼観塔宇を起こし築き、奇を窮め麗を極め、費やす所千万を以てす。多く異石を聚め、山水を妙に極む。上宮中より望見せらるるを慮り、乃ち旁らに修竹を列ね、外に高鄣を施す。遊牆数百間を造り、諸の機巧を施し、須らく鄣蔽すべく、須臾の内に成立し、若し毀撤すべくんば、手に応じて遷徙す。珍玩の物を制し、孔雀の毛を織りて裘と為し、光採金翠、雉頭を過ぐること遠し。晉の明帝が太子たりし時に西池を立てしを以て、乃ち武帝に啓して前例を引き、東田に小苑を起こすことを求め、上許す。
永明の中、二宮の兵力全く実り、太子は宮中の将吏を使い番を更えて築役せしめ、城を営み巷を包み、制度の盛んなること、観る者都を傾く。上は性厳しと雖も、太子の為す所、敢えて啓する者無し。後、上豫章王の宅に幸し、還りて太子の東田を過ぎ、其の弥亘華遠なるを見、壮麗目を極む。於いて大いに怒り、監作の主帥を収む。太子懼れ、皆之を蔵匿す。是に由りて責め見らる。
太子は元来疾有り、体又た過ぎて壮んにし、常に宮内に在り、遨遊に簡にして、羽儀を玩弄し、多く僭擬す。咫尺の宮禁と雖も、而上終に知らず。又た徐文景に輦及び乗輿の禦物虎賁雲罕の類を造らしむ。上嘗て東宮に幸す。匆匆として暇あらずして輦を蔵せず。文景乃ち佛像を輦の中に内す。故に上疑わず。文景の父陶仁、時に給事中たり。文景に謂いて「終に滅門すべし、政めて墓を掃いて喪を待つのみ」と言い、乃ち家を移して之を避く。其の後文景竟に死を賜う。陶仁遂に哭せず。時人古人の風有りと為す。
十年、豫章王蕭嶷が薨去すると、太子は上(武帝)の兄弟愛が極めて厚いことを見て、碑文を作り奏上したが、まだ刻石するには至らなかった。十一年春正月、太子は病に罹り、上は自ら見舞いに行き、憂いの色を見せた。病が重篤になると、上表して辞世を告げ、東宮の崇明殿で薨去した。時に三十六歳。
太子の年齢は三十を少し過ぎたばかりで、長く儲宮(東宮)にあり、政事に参与することができた。内外の百官は皆、遅かれ早かれ帝位を継ぐものとひそかに思っていたが、薨去すると、朝野は驚き惜しんだ。上は東宮に行幸し、慟哭して哀悼の意を尽くし、詔して袞冕の服で収めるように命じ、諡して文惠とし、崇安陵に葬った。有司が奏上した喪服の期間は、皇帝は期年(一年)、朝臣は斉衰三月、南郡国の臣は斉衰期年、臨汝・曲江両国の臣はともに喪服を着用せず、六宮は従って喪に服さない。
武帝が東宮を巡行した際、太子の服飾や玩好が制度を過ぎているのを見て、大いに怒り、有司に命じて事に従って取り壊し撤去させ、東田の殿堂のあった場所を崇虚館とした。鬱林王が立つと、追尊して文帝とし、廟号を世宗と称した。
初め、太子(文惠太子)は明帝(蕭鸞)を憎み、ひそかに竟陵王蕭子良に言った。「私の心中は特にこの人を快く思わない。彼の福徳が薄いことによるのだろう」。子良は苦労して救い解こうとした。後に明帝が立つと、果たして大いに誅殺害することがあった。
子良は義を重んじ古を愛し、郡人の朱百年は至高の行いがあったが先に死去していたので、その妻に米百斛を賜い、一人の賦役を免除し、薪を与えた。郡の官舎の下に虞翻の旧い寝台があったので、任を解かれて帰還する際、持ち帰った。後に西邸に古斎を建て、多く古人の器物や服飾を集めてこれを充実させた。夏禹廟では盛んに祈祷祭祀が行われていたが、子良は言った。「禹は罪を泣いて仁を表し、粗食を以って倹約を示した。服飾や玩好、果物や粽などは、誠意を致すには十分である」。歳ごとに扇と簟を献上させるだけにした。
時に山陰の人孔平が子良の下に赴き、嫂が米を買って代金を返さないと訴えた。子良は嘆いて言った。「昔、高文通(高鳳)が寡婦の嫂と田を争って訴訟したが、その義はこれとは異なる」。そこで米と銭を賜って孔平に償わせた。
この時、上(武帝)は新たに政務を視ており、水害旱害が時を失していた。子良は密かに上啓して、滞納した租税を免除するよう請うた。また、刑を寛大にし役を休め、賦税を軽くし徭役を省くことを陳べた。併せて「銭貨の鋳造は年が遠く、多くは切り取られたり削られたりしている。江東の大銭は、十銭のうち一つも残っていない。公家が受け取るには、必ず輪郭が完全でなければならず、遂には元々一千のものを、七百を加えて買い、請い求める余地がなく、鞭打ちの刑が相次いだ。間もなく完全なものが用いられるようになったが、既に両方を兼ねることはなく、再び取引が変わり、蓄積されるものではなかった。ただ小人(庶民)をして常に困苦に陥らせるだけである。かつ銭と布が半分ずつという制度は永久のものであるが、あるいは長官が現銭での納入を命じていると聞く。進んでは旧い規定に背き、退いては奸利を許容している」。
五年、司徒に正位し、班剣二十人を与えられ、侍中は元の通りであった。鶏籠山の西邸に移り住み、学士を集めて五経百家を抄録し、『皇覧』の例に倣って『四部要略』千巻を編纂した。名僧を招致し、仏法を講論し、経唄の新声を作った。僧俗の盛況は、江左に未曾有であった。
武帝は雉を射ることを好んだ。子良は上啓して諫めた。先に左衛殿中将軍邯鄲超が上書して雉射を諫めたため、武帝は止めたが、久しくして超は結局誅殺された。永明末、上は再び雉を射ろうとした。子良は再び諫め、前後にわたって陳べたことを、上は全ては採用しなかったが、深く寵愛された。
また文惠太子とともに釈氏(仏教)を好み、非常に仲が良く兄弟愛に厚かった。子良の敬信は特に篤く、しばしば邸宅の園で斎戒を営み、朝臣や多くの僧侶を大いに集め、食を配り水を行くこと(施餓鬼・布施)に至っては、自らその事に躬親することもあり、世間は大いに宰相の体面を失うものと見なした。人に善を勧めることを、倦むことなく、これによって終に盛名を得た。
八年、三望車を与えられた。九年、都下で大水があり、吳興は特にひどかった。子良は倉を開いて救済し、貧しく病んで立ち上がれない者を、邸宅の北に役所を建てて収容養育し、衣服と薬を与えた。十年、尚書令・揚州刺史を領し、本官は元の通りであった。間もなく尚書令を解かれ、中書監を加えられた。
文惠太子が薨去すると、武帝は東宮を検分し、太子の服飾・車駕・儀仗が多く制度を超過しているのを見て、大いに怒り、子良が太子と親しかったのに啓上しなかったことをもって、ひどく嫌疑をかけ責めた。
武帝が病に伏すと、詔して子良に甲仗を帯びて延昌殿に入り、医薬の世話をさせた。子良は啓上して沙門を殿戸の前で経を誦させ、武帝は感応して夢に優曇鉢華を見た。子良は仏経に基づき旨を宣し、御府に銅で花を作らせ、御床の四隅に挿させた。日夜殿内にあり、太孫は一日おきに参内した。武帝の病状が急変し、内外が恐れ騒ぎ、百官は皆すでに喪服に着替え、世論は子良を立てることを疑った。しばらくして蘇生し、太孫の所在を問い、そこで東宮の器甲を皆召し入れ、遺詔して子良に政を輔弼させ、明帝に尚書事を知らしめた。子良はもとより仁厚で、時務を好まず、そこで明帝を推した。詔に「事の大小を問わず、悉く鸞(明帝)と参酌せよ」とあるのは、子良の志すところであった。太孫は幼少の頃子良の妃袁氏に養われ、大いに慈愛を受けたが、前に立つことができなかったことを恐れ、これより深く子良を忌むようになった。大行(武帝の遺体)が太極殿を出ると、子良は中書省に居り、帝は虎賁中郎将潘敞に二百人の兵仗を率いさせ、太極殿西階の下に駐屯させた。喪服を着た後、諸王は皆退出したが、子良は山陵(武帝の陵)に至るまで留まることを乞うたが、許されなかった。
帝は常に子良に異心あることを憂慮し、その薨去に際し、大いに悦んだ。詔して東園の温明秘器を給し、袞冕の服で殯し、東府に喪位を設け、大鴻臚に節を持たせ監護させ、太官に朝夕祭を送らせた。また詔して仮黄鉞・侍中・都督中外諸軍事・大宰・領大将軍・揚州牧を追崇し、緑綟綬を賜い、九服錫命の礼を備え、使持節・中書監・王はもとのままとした。九旒鸞輅・黄屋左纛・轀輬車・前後部羽葆・鼓吹、輓歌二部、虎賁班剣百人を給し、葬礼は晋の安平王司馬孚の故事に依った。初め、豫章王蕭嶷は金牛山に葬られ、文惠太子は夾石に葬られた。子良は臨送の際、祖硎山を望み悲しみ感嘆して言うには、「北に我が叔(蕭嶷)を瞻り、前に我が兄(文惠太子)を望む。死して知有らば、請う茲の地に葬らん」。及び薨去し、遂にそこに葬られた。
内外の文筆数十巻を著し、文采は無いが、多くは勧戒であった。子良が既に亡くなると、故人皆来り奔赴し、陸惠曉が邸門で袁彖に逢い、之に問うて曰く、「近頃云々するは、定めてまた何を謂うか。王融は殺され、而して魏准は胆を破る。道路に籍籍として、又云う竟陵(子良)は天年を永くせず、之有りや」。答えて曰く、「斉氏微弱にして、已に数年なり。爪牙柱石の臣は皆尽き、命の余す所は、政に風流名士のみ。若し長君を立てずんば、以て四海を鎮安すべからず。王融は身の為に計るも、実に社稷を安んず。其の事を断ぜざるを恨む、以て此に至る。道路の談は、自ら虚説たるのみ。蒼生方に塗炭す、政に耳を瀝して之を聴くべし」。建武年中、故吏範雲が上表して子良の碑を立てることを請うたが、事は行われず。子の昭胄が嗣いだ。
先に、王敬則の事が起こると、南康侯子恪が呉郡におり、明帝は同異あることを慮り、諸王侯を召して宮中に入れ、晋安王宝義及び江陵公宝覧は中書省に住まわせ、高帝・武帝の諸孫は西省に住まわせ、勅して人各両名の左右を自ら随えさせ、これを過ぎれば軍法に依る;幼児は乳母が随って入った。その夜並びに害を加えようとしたが、子恪が至ったことにより免れた。建武以来、高帝・武帝の王侯は、常に震え怖れ、朝に夕を保たず、これに至り特に甚しかった。
及び陳顕達が挙兵すると、王侯は再び宮中に入り、昭胄は往時の懼れを懲り、弟の永新侯昭穎と共に江西に逃奔し、姿を変えて道人となった。崔慧景が兵を挙げると、昭胄兄弟は出てこれに投じた。慧景が敗れると、昭胄兄弟は真っ先に出て台軍の主将胡松に投降し、各々王侯として邸に還ったが、自ら安んぜず、身の計らいを謀った。子良の故防閤桑偃が梅虫児の軍副となり、前巴西太守蕭寅と結び、昭胄を立てることを謀った。昭胄は事が成れば寅を尚書左僕射・護軍に用いることを許諾し、寅に部曲有るを以て、大事は皆之に委ねた。時に胡松が軍を領して新亭におり、寅は人を遣わして説き、松は諾した。又張欣泰は嘗て雍州に在り、亦部曲有り、昭胄は又房天宝を遣わして謀を告げ、欣泰は命を聞き応じた。蕭寅の左右華永達が其の謀を知り、以て禦刀朱光尚に告げた。光尚は左道を挟みて東昏侯を惑わし、因って東昏侯に謂って曰く、「昨蒋王を見るに、云う巴陵王外に在りて党を結び反せんと欲す、官(帝)の出行を須い、仍って万春門より入らんとす、事量るべからず」。時に東昏侯は日々遊走し、此の説を聞き大いに懼れ、四十余日も出ず。偃等は健児百余を募り、万春門より入り、突いて之を取ることを議した。昭胄は以て不可と為した。偃の同党王山沙は事久しく成らずんばと慮り、事を以て禦刀徐僧重に告げ、寅は人を遣わし山沙を路上で殺した。吏が麝幐の中に其事蹟を得、昭胄兄弟と同党は皆誅に伏した。
梁が禅を受け、昭胄の子同を降封して監利侯とした。
同の弟賁は字を文奐といい、身長六尺に満たず、神識は耿介であった。幼より学を好み、文才有り、能く書を書き善く画き、扇の上に山水を図れば、咫尺の内に、便ち万里を遥かなりと覚えしめた。矜慎して伝えず、自ら娯しむのみ。著述を好み、嘗て西京雑記六十巻を著す。起家して湘東王の法曹参軍となり、一府の歓心を得た。及乱、王が檄を作ると、賁は読みて「偃師南望すれば、復た儲胥露寒無く、河陽北臨すれば、或は穹廬氈帳有らん」に至り、乃ち曰く、「聖制此の句は、過似の為に非ず、朝廷を体目するが如く、賊を序するに非ず」。王之を聞き大いに怒り、収めて獄に付し、遂に餓死に終わった。又賁の屍を追って戮し、乃ち懐旧伝を著して之を謗り、極言して誣毀した。
子卿は鎮に在り、服飾を営造するに、多く制度に違い、玳瑁の乗具を作った。詔して之を責め、速やかに都に送ることを命じた;又銀の鐙・金薄で箭脚を包むものを作り、亦便ち速やかに壊れ去らせた。凡そ諸の服章、今より啓上せず専ら輒りに作る者は、痛杖に当たるべし。又曰く、「汝比(近頃)学を読ましむるを令す、今年転じて成長す、学既に就かず、敕を得ること風の耳を過ぐるが如し、吾をして気を失わしむ」。
永明十年、都督・南豫州刺史となった。之鎮の途上、部伍を戯れて水軍と為し、上聞きて大いに怒り、其の典籤を殺した。宜都王蕭鏗を遣わして之に代わらせた。子卿は邸に還り、崩御に至るまで相見えず。
子響は勇力が人に絶しており、四斛の力で弓を開き、しばしば園池の中で馬にまたがり竹や木の下を馳せ走りながらも、身体に傷一つ負わなかった。既に他家へ出継いだ後は、車や服飾が諸王と異なり、朝廷に入るたびに憤慨して拳で車の壁を打ったので、武帝はこれを知り、車服を皇子と同じにするよう命じた。
永明六年、役人が子響を本家に戻すべきと上奏したため、巴東郡王に封ぜられた。七年、都督・荊州刺史となった。直閤将軍の董蠻は少し気力があったので、子響は同行を求めた。董蠻が言うには、「殿下は雷のように癇癪がおありです。どうして付き従えましょうか」。子響は笑って言った。「君がこのような言葉を口にできるとは、これまた奇なる癇癪持ちだ」。武帝はこれを聞いて快く思わず、「人の名が『蠻(野蛮)』では、どうして含蓄などありえようか」と言い、名を仲舒と改めさせた。子響は董蠻に言った。「今日の仲舒は、昔の仲舒(董仲舒)と比べてどうか」。答えて言うには、「昔の仲舒は私的な庭から出ましたが、今日の仲舒は天帝から降りました。この点から言えば、昔よりはるかに勝っております」。武帝はこれを称賛した。
子響は若い頃から武を好み、武装した側近六十人を従えていたが、皆胆力と才幹があり、しばしば内斎で牛を殺し酒を設け、彼らと集まって楽しんだ。私的に錦の袍や深紅の襖を作らせ、蛮族に贈って武器と交易しようとした。長史の劉寅らは連名で密かに上奏した。武帝が厳重に調査するよう命じると、劉寅らは恐れて、これを秘匿しようとした。子響は朝廷の使者が来たと聞き、詔勅を見ないうちに、劉寅および司馬の席恭穆、諮議参軍の江悆・殷曇粲、中兵参軍の周彦、典籤の呉修之・王賢宗・魏景深らをことごとく呼び入れ、琴台の下でいっせいに斬った。武帝はこれを聞いて怒り、衛尉の胡諧之・遊撃将軍の尹略・中書舎人の茹法亮に羽林兵三千人を率いさせ、一味を検挙捕縛させた。詔勅に「子響が自ら手を縛して帰参すれば、その命を全うさせよう」とあった。胡諧之らが江津に到着し、燕尾洲に城を築いた。子響は白服で城に登り、たびたび使者を送って伝言させ、「天下にどうして子が反逆することがあろうか。わが身は賊ではない。ただ粗略であっただけだ。今すぐ単艦で都に帰るのに、どうして城を築いて捕らえようとするのか」と言った。尹略だけが答えて言った。「お前のような父に反逆する者と誰が語らうものか」。子響はこれを聞いてただ涙を流した。また牛数十頭、酒二百石、果物や料理を三十輿送ったが、尹略はこれを江に流し捨てた。子響の胆力ある士である王沖天は憤りに耐えかね、ついに配下を率いて洲を渡り陣営を攻めて尹略を斬り、胡諧之と茹法亮は単艇で逃げ去った。
武帝はさらに丹陽尹の蕭順之に兵を率いて続かせた。子響はその日、白衣の側近三十人を率い、小船に乗って中流を下り都へ向かった。初め、蕭順之が出発しようとした時、文恵太子は平素から子響を忌んでいたので、密かに帰還を許さず、その場で始末するよう命じていた。子響が蕭順之と面会し、自ら申し開きをしようとしたが、蕭順之は許さず、射堂で絞殺した。役人が子響の属籍(皇族籍)を絶つよう上奏したので、蛸氏を賜った。
子響は密かに数紙の上奏文を作り、妃の王氏の裙の腰の中に隠し、詳しく自らの事情を申し述べ、「軽舟で帰都することができず、この苦しみは深い。ただ哀れみを願い、竹帛(史書)に斉に父に反逆する子あり、父に子を害する名ありと記させないでほしい」と記していた。蕭順之が帰還すると、武帝の心中は非常に怪しみ恨んだ。百日の忌みに華林園で子響のために斎会を行い、武帝自ら香をたき、諸々の朝士に対して顔をしかめた。蕭順之と面会した時には、しばらく嗚咽し、左右の者は涙をぬぐわぬ者はいなかった。ある日景陽山に出て、一匹の猿が悲しげに鳴きながら跳ねるのを見て、後堂丞に「この猿はどうしたのか」と問うた。答えて言うには、「猿の子が先日崖から落ちて死に、その母が探しても見つからないので、このようになっております」。武帝はそこで子響のことを思い出し、長くすすり泣き、自らを抑えることができなかった。蕭順之は慚愧と恐れを感じ、病にかかり、ついに憂いのうちに死去した。そこで豫章王蕭嶷が上表して言った。「故庶人蛸子響は識見も心も樹立せず、不逞の徒に陥り、一朝の憤りを恣にし、凶悪な行いを取って陥り、身は草野の肥やしとなり、まだ罪過を塞いだとは言えません。しかし、司戮の罪に帰し、迷いながらも正に返り、事を撫でて往時を思えば、まことに心と目を傷つけます。伏して願わくは、天の哀れみを一度下し、残った遺骸を埋葬させてください。どうしてただ窮地の骸骨が徳を被るだけでなく、実に天下が仁に帰するでしょう」。武帝は許さず、魚復侯に貶した。
初め、子敬は武帝に気に入られていた。帝が病気になった時、子敬を太子に立て、太孫に代えようと考えた。子敬と太孫がともに参内を終えて退出すると、武帝は子敬の後姿を長く見送り、「阿五(子敬)は鈍い」と言った。これによって代えるという考えは止んだ。
永明五年、南兗州刺史・五州軍事監となった。六年、湘州刺史監に転じた。八年、『春秋例苑』三十巻を撰して奏上し、武帝は秘閣に収蔵するよう命じた。十一年、都督・雍州刺史となり、鼓吹一部を与えられた。豫章王の喪服期間が終わっていなかったが、武帝は辺境の州には威厳が必要として、上奏することを許した。好みの書物を求める上奏をすると、武帝は「汝が常に書物を心に留めて読んでいることを知り、深く喜ばしい」と言い、杜預が自ら手を加えて定めた『左伝』および『古今善言』を賜った。
母の阮氏は都に在り、書を遣わして密かに上(子懋)を迎えんと欲す。阮氏は同産弟の于瑤之に報じて計を為さしむ。瑤之馳せて明帝に告ぐ。ここに於いて纂厳し、中護軍王玄邈・平西将軍王広之を遣わして南北より討たしめ、軍主裴叔業をして瑤之と先んじて尋陽を襲わしめ、声は郢府司馬と為すと云う。子懋之を知り、三百人を遣わして盆城を守らしむ。叔業流を溯って直上し、盆城を襲う。子懋先に已に船を稽亭渚に具え、叔業の盆城を得たるを聞き、乃ち州を拠りて自衛す。
子懋の部曲は多く雍土の人なり、皆躍躍として奮うことを願う。叔業之を畏れ、于瑤之を遣わして子懋を説きて曰く、「今都に還らば、必ず過憂無かるべし。政に散官を作すべきのみ。富貴を失わざるなり」と。
子懋既に兵を出して叔業を攻めざれば、衆情稍く沮す。中兵参軍于琳之は瑤之の兄なり、子懋を説きて重ねて叔業に賂するを勧む。子懋琳之をして往かしむ。琳之因りて叔業を説き、子懋を取ることを請う。叔業軍主徐玄慶を遣わし、四百人を将いて琳之に随い城に入らしむ。僚佐皆奔散す。唯だ周英及び外兵参軍王皎のみ更に城内に移り入る。子懋之を聞き歎じて曰く、「吾が府に義士二人有るを意えざりき」と。琳之二百人に従い仗して自ら斎に入る。子懋笑って之に謂いて曰く、「渭陽(母の弟)なるを意えず、翻って梟鏡(不義の者)と成る」と。琳之袖を以て面を障い、人をして之を害せしむ。故人罪を懼れて敢えて至る者無し。唯だ英・皎・僧慧のみ号哭して哀を尽くし、之が喪殯を為す。
董僧慧は丹陽姑孰の人、寒微より出で而も慷慨して節義有り。書を読むを好み、甚だ驍果にして、能く手を背に反して五斛の弓を彎ぐ。当世之に能くする者莫し。玄邈其の子懋の謀に預かりしを知り、之を執う。僧慧曰く、「晋安(子懋)義兵を挙ぐ。僕実に議に預かる。古人云う『死するは難からず、死を得るは難し』と。僕主人の為に死するを得て、恨み無し。願わくは主人の大斂畢るに至り、退いて湯鑊に就かん。死すと雖も猶お生くが如し」と。玄邈義として之を許す。還りて具に明帝に白す。乃ち東冶に配す。九江の時の事に言及すれば、輒ち悲しみ自ら勝えず。子懋の子昭基、九歳、方二寸の絹を以て書と為し、其の消息を参じ、並びに銭五百を遺す。金を以て人に仮し、崎嶇として得て至る。僧慧書を睹て、銭に対し曰く、「此れ郎君の書なり」と。悲慟して卒す。
陸超之は呉の人、清静雅を以て子懋に知らる。子懋既に敗る。于琳之其の逃亡を勧む。答えて曰く、「人皆死有り。此れ懼るるに足らず。吾若し逃亡せば、唯だ晋安の眷を孤にするのみならず、亦た田横の客の人の笑うを恐る」と。玄邈等其の義を以て、囚え都に還さんと欲す。而して超之亦た端坐して命を待つ。超之の門生周姓の者、超之を殺せば賞を得べしと謂い、乃ち超之の坐するを伺い、自ら後より之を斬る。頭墜ちて身僵まず。玄邈其の節を嘉し、厚く殯斂を為す。周又た棺を挙ぐるを助く。未だ戸を出でざるに、棺墜ち、政に其の頭を圧し頸を折り即ち死す。之を聞く者、天道有りと為さざる莫し。
子隆年二十一にして、体充壮に過ぐ。常に徐嗣伯をして蘆茹丸を合せ服せしめ自ら銷損せしむるも、猶お益無し。明帝政を輔け、諸王を害せんと謀る。武帝諸子の中、子隆最も才貌を以て憚らる。故に鄱陽王蕭鏘と同夜先んじて殺さる。文集世に行わる。
先に高帝・武帝が諸王に典簽帥を置き、一方の事は悉くこれを委ねた。
毎回の謁見の際には、必ず心を留めて顧問し、刺史の行状の善悪は典簽の口に懸かり、折節して推奉せざるはなく、常に及ばぬことを慮り、ここに威は州部に行われ、権は蕃君よりも重し。
武陵王蕭曄が江州に在った時、性烈直にして忤うべからず、典簽趙渥之が曰く「今、都を出て刺史を易えん」と。
武帝に謁見して相誣うるに及んで、蕭曄は遂に免ぜられて還された。
南海王蕭子罕が琅邪を戍り、暫く東堂に遊ばんと欲したが、典簽薑秀が許さずして止んだ。
還って母に泣いて謂いて曰く「児、五歩を移さんと欲するも亦た得ず、囚と何の異なることぞ」と。
薑秀は後、輒く蕭子罕の屐・傘・飲器等を取って其の児の婚儀に供したが、武帝之を知り、鞭二百を加え、尚方に繫がれた。
然れども擅命は改めず。
邵陵王蕭子貞が嘗て熊白を求めしに、厨人が答えて典簽在らずと、敢えて与えず。
西陽王蕭子明が書を送って侍読鮑僎の病を参じんと欲したが、典簽呉修之が許さず、曰く「応に行事に諮るべし」と。
乃ち止む。
言行挙動、自ら専らにするを得ず、征衣求食、必ず諮訪すべし。
永明中、巴東王蕭子響が行事劉寅等を殺すと、武帝之を聞き、群臣に謂いて曰く「蕭子響遂に反す」と。
戴僧靜大言して曰く「諸王皆自ら応に反すべし、豈に唯だ巴東のみならんや」と。
武帝其の故を問うと、答えて曰く「天王罪無くして、一時に囚われ、一挺の藕を取るも、一杯の漿も、皆簽帥に諮り、在らざれば則ち竟日渴を忍ぶ。諸州には唯だ簽帥有るを聞き、刺史有るを聞かず」と。
明帝の子
明帝に十一人の男子あり:敬皇后は廃帝東昏侯蕭寶巻・江夏王蕭寶玄・鄱陽王蕭寶寅・和帝を生み、殷貴嬪は巴陵隠王蕭寶義・晉熙王蕭寶嵩を生み、袁貴妃は廬陵王蕭寶源を生み、管淑妃は邵陵王蕭寶修を生み、許淑媛は桂陽王蕭寶貞を生んだ。その他は皆早世した。
梁の武帝が建鄴を平定すると、宣徳太后の令により蕭寶義を太尉・司徒領とし、詔に「言わざる化、自ら遠くに形わる」と云う。当時の人々は皆、これは実録であると言った。梁が禅を受けると、謝沐公に封ぜられた。まもなく巴陵郡王に封ぜられ、斉の後を奉じた。天監年間に薨去した。
蕭寶玄は尚書令徐孝嗣の娘を娶って妃としたが、孝嗣が誅殺されて離絶し、東昏侯が二人の少姫を送って与えた。蕭寶義は恨み望み、異なる計略を抱いた。
翌年、崔慧景が挙兵し、広陵に還った時、使者を遣わして蕭寶玄を主君として奉じたが、蕭寶玄はその使者を斬り、これにより将吏を発して城を防がせた。
慧景が江を渡らんとした時、蕭寶玄は密かにこれと相応じ、門を開いて慧景を迎え入れ、八扛輿に乗り、手に絳麾幡を執り、慧景に従って都に至った。百姓多くは往きて投じ集まった。慧景が敗れると、朝廷と民間で蕭寶玄及び慧景の軍に投じた名簿が収得されたが、東昏侯はこれを焼くよう命じ、「江夏王でさえなおこのようである。どうしてさらに他の人々を罪することができようか」と言った。
蕭寶玄は逃亡し、数日してようやく出てきた。帝は後堂に召し入れ、歩障でこれを包み、数十人の群小に鼓角を鳴らしてその外を馳せ巡らせ、人を遣わして「汝が近ごろ我を囲んだのもこのようであった」と言わせた。数日後にこれを殺した。
【論】
論じて曰く、守器の重きは、邦家の馮る所なり。文惠(蕭長懋)の東儲に在りしを観れば、固より已に令徳を虧く有り。向ひ令せば負荷斯に集まらば、猶ほ禍敗に及ぶべし。況んや先期夙に隕ち、愆失已に彰かなるをや。而るに武帝は賢を択ぶを以てせず、之を昏孽に伝ふ。此を推して論ずれば、冥数有るなり。子良(蕭子良)は物望の集まる所なりしも、失は儒雅に在り。断つべくして断たず、以て災に及ぶ。自ら喪亡を致すに止まらず、乃ち宗祀の覆滅に至る。哀しきかな。夫れ帝王子弟は、生長して尊貴、情偽の事は耳目に経ず。卓爾として天悟するも、自ら懐抱を得、孤寡を識と為すも、陋る所猶ほ多し。
齊氏の諸王は、並びに幼くして方嶽を践み、故に上佐を以て輔けり。簡ぶは帝心より出で、労旧の左右を、主帥と為すに用ふ。州国府第は、先ず令して後に行ふ。飲食游居は、動もすれば聞啓に応ず。端拱して祿を守り、法度を遵承す。張弛の要は、敢へて厝言する莫し。行事其の権を執り、典簽其の肘を掣く。地に処るは重しと雖も、行止は由る莫し。威は身に在らず、恩は下に接せず。倉卒の一朝、事総集し難し。其の位を釈き危きを扶くるを望むは、得べからざるなり。路温舒云ふ、「秦に十失有り、其の一尚ほ存す」と。是れ宋氏の余風にして、齊に及びて弥く弊れり。寶玄は親として一体を兼ね、欣んで家殃を受く。曾て柯を執ふるの指す所を知らず、跗萼相従ひて敗る。此を以て万事を図らば、未だ其の髣髴たるを知らざるなり。