南史

巻四十三 列傳第三十三 齊高帝諸子下

巻四十三 列傳第三十三 齊高帝諸子下

南史

巻四十三 列傳第三十三 齊高帝諸子下

臨川王

原文臨川王

臨川獻王蕭映は字あざなを宣光といい、高帝の第三子である。幼少より聡明で悟りが早く、言葉や笑顔が美しく、立ち居振る舞いに優れていた。宋に仕えて給事黄門侍郎・南兗州刺史の位にあり、吏事に心を配り、配下の者は皆厳粛に従い、命令は行きわたり禁止事項は守られた。

原文臨川獻王映字宣光,高帝第三子也。少而警悟,美言笑,善容止。仕宋位給事黃門侍郎、南兗州刺史,留心吏事,自下莫不肅然,令行禁止。

高帝が即位すると、荊州刺史となり、都督を加えられ、臨川王に封ぜられた。かつて銭を都に送って物品を買わせた際、献策する者がいて、江陵で貨物を買い、都に持ち帰って交換すれば、わずかながら利益が得られると言った。蕭映は笑って言った、「私は商人か、それでまた利益を求めるというのか」。都督・揚州刺史に改めて任ぜられた。職務に臨んで聡明敏速であり、府州の曹局は皆重ね足をして禁令を奉じ、宋の彭城王劉義康以来、このようなことはなかった。

原文高帝踐阼,為荊州刺史,加都督,封臨川王。嘗致錢還都買物,有獻計者,於江陵買貨,至都還換,可得微有所增。映笑曰:「我是賈客邪,乃復求利。」改授都督、揚州刺史。蒞事聰敏,府州曹局皆重足以奉禁令,自宋彭城王義康以後,未之有也。

永明元年、侍中・驃騎将軍となった。五年、本号のまま開府儀同三司となった。七年に薨去した。蕭映は騎射を得意とし、声律に通じ、左右の書(書体)と左右の射(弓術)に巧みで、賓客への応接は風韻が美しかった。薨去すると、朝野を問わず惜しまれなかった。司空を追贈された。九人の子は皆侯に封ぜられた。

原文永明元年,為侍中、驃騎將軍。五年,即本號開府儀同三司。七年薨。映善騎射,解聲律,工左右書、左右射,應接賓客,風韻韶靡,及薨,朝野莫不惋惜。贈司空。九子皆封侯。

長子の子晉は、永元の初めに侍中となり、梁に入って高平太守となった。第二子の子遊は州陵侯で、黄門侍郎となった。謀反を企て、兄弟ともに誅殺された。

原文長子子晉,永元初為侍中,入梁為高平太守。第二子子遊,州陵侯,為黃門侍郎。謀反,兄弟並伏誅。

長沙王

原文長沙王

長沙威王蕭晃は字を宣明といい、高帝の第四子である。若い頃から武勇に優れ、高帝に愛された。升明二年、兄の蕭映に代わって淮南・宣城二郡の太守となった。蕭晃は弓馬に長け、初め沈攸之の乱が起こると、蕭晃は多く武具を身につけて従い、赫々として都の街を行き、当時の人はこれについて「煥煥たる蕭四の傘」と言った。その年、西中郎将・豫州刺史に遷り、二州諸軍事を監督した。

原文長沙威王晃字宣明,高帝第四子也。少有武力,為高帝所愛。升明二年,代兄映為淮南、宣城二郡太守。晃便弓馬,初沈攸之事起,晃多從武容,赫弈都街,時人為之語曰:「煥煥蕭四傘。」其年,遷西中郎將、豫州刺史,監二州諸軍事。

高帝が即位すると、蕭晃が政まさ事を上奏するたびに、典簽によって裁断され、蕭晃は彼を殺した。上(高帝)は大いに怒り、手詔を下して杖罰を与えた。南徐州刺史に遷り、都督を加えられた。武帝が皇太子であった時、武進陵に参拝し、曲阿の後湖で隊列を競わせ、蕭晃に馬軍を統率させた。上(高帝)はこれを聞いて、また快く思わなかった。臨終に際し、蕭晃のことを武帝に託し、輦轂(天子の車駕)に近い藩国に処して、遠くに出させないようにと言った。

原文高帝踐阼,晃每陳政事,輒為典簽所裁,晃殺之。上大怒,手詔賜杖。遷南徐州刺史,加都督。武帝為皇太子,拜武進陵,于曲阿後湖鬥隊,使晃御馬軍,上聞之,又不悅。臨崩,以晃屬武帝,處以輦轂近蕃,勿令遠出。

永明元年、蕭晃を都督・南徐州刺史とした。都に入って中書監となった。当時、諸王が武器を蓄えることを禁じており、都にいる者は、捉刀(護衛)の左右四十人を置くのみであった。蕭晃は武具を飾ることを好み、徐州を罷めて帰還する際、私的に数百人分の武器を載せて都に帰ったが、禁司に発覚し、それらは江中に投棄された。帝(武帝)はこれを聞いて大いに怒り、法によって糾明しようとした。豫章王蕭嶷が叩頭して涙を流し、「蕭晃の罪は確かに赦すに足りませんが、陛下には先朝(高帝)が白象を思われたことを思い出していただきたい」と言った。白象は蕭晃の幼名である。上(武帝)もまた涙を流した。高帝が危篤の時、武帝に戒めて「宋氏がもし骨肉で互いに謀らなかったならば、他の族がどうしてその弊に乗ずることができようか。汝は深く戒めよ」と言った。故に武帝は終始異なる意図を持つことはなかったが、蕭晃もまた親しく寵愛されることはなかった。当時の論者は、武帝を魏の文帝より優れ、漢の明帝には及ばないとした。

原文永明元年,以晃為都督、南徐州刺史。入為中書監。時禁諸王蓄仗,在都下者,唯置捉刀左右四十人。晃愛武飾,罷徐州還,私載數百人仗還都,為禁司所覺,投之江中。帝聞之大怒,將糾以法,豫章王嶷稽首流涕曰:「晃罪誠不足宥,陛下當憶先朝念白象。」白象,晃小字也。上亦垂泣。高帝大漸時,戒武帝曰:「宋氏若骨肉不相圖,佗族豈得乘其弊?汝深戒之。」故武帝終無異意,然晃亦不見親寵。當時論者,以武帝優於魏文,減於漢明。

後に車騎将軍・侍中に拝された。薨去し、開府儀同三司を追贈された。武帝がかつて鍾山に行幸した時、蕭晃が従駕した。馬矟(馬上用の矛)で道端の枯れた切り株を刺し、上(武帝)が左右の者数人に引かせたが、銀の巻きつけ(装飾)が皆巻き上がって矟は抜けず、そこで蕭晃に再び馬を走らせて抜かせると、手に応じてすぐに抜けた。遠方の州から駿馬が献上されるたびに、上は蕭晃に華林園で調教試乗させた。高帝は常に「これは我が家の任城王(曹彰)である」と言った。武帝はこの意に沿って、故に諡を威とした。

原文後拜車騎將軍、侍中。薨,贈開府儀同三司。武帝嘗幸鍾山,晃從駕。以馬矟刺道邊枯櫱,上令左右數人引之,銀纏皆卷聚而矟不出,乃令晃復馳馬拔之,應手便去。每遠州獻駿馬,上輒令晃于華林中調試之。高帝常曰:「此我家任城也。」武帝緣此意,故諡曰威。

武陵王

原文武陵王

武陵昭王蕭曄は字を宣昭といい、高帝の第五子である。母の羅氏は、高帝に従って淮陰におり、罪により誅殺された。蕭曄は四歳の時、成人と変わらず慕い悲しみ、慟哭するたびに血を吐いた。高帝は武帝に命じて「三昧の至性がこのようであるから、おそらく保たないだろう。汝は彼と共に住み、常に(悲しみを)抑えさせよ」と言った。三昧は蕭曄の幼名である。故に蕭曄は愛された。

原文武陵昭王曄字宣昭,高帝第五子也。母羅氏,從高帝在淮陰,以罪誅。曄年四歲,思慕不異成人,每慟吐血。高帝敕武帝曰:「三昧至性如此,恐不濟,汝可與共住,每抑割之。」三昧,曄小字也。故曄見愛。

高帝は方伯(地方長官)であったが、住居は非常に貧しく、諸子が書を学ぶにも紙筆がなかった。蕭曄は常に指で空中や掌に画いて字を学び、遂に篆法に巧みとなった。幼少時にはまた棋局もなく、葦を割いて片とし、縦横に並べて棋盤とし、指で点じて行く勢いを示し、遂には名品に至った。

原文高帝雖為方伯,而居處甚貧,諸子學書無紙筆,曄常以指畫空中及畫掌學字,遂工篆法。少時又無棋局,乃破荻為片,縱橫以為棋局,指點行勢,遂至名品。

性質は剛直で才知に秀で、諸王と共に短句の詩を作り、謝霊運の体を学び、高帝に呈した。帝は答えて曰く、「汝の二十字を見るに、諸児の作中、最も優れたる者なり。但し康楽(謝霊運)は放蕩にして、体を作るに首尾を弁ぜず、安仁(潘岳)、士衡(陸機)は深く宗尚すべく、顔延之は抑えて其の次なり」と。

原文性剛穎俊出,與諸王共作短句詩,學謝靈運體,以呈高帝。帝報曰:「見汝二十字,諸兒作中,最為優者。但康樂放蕩,作體不辨有首尾,安仁、士衡深可宗尚,顏延之抑其次也。」

建元二年、会稽太守となり、都督を加えられる。上(武帝)は儒士の劉瓛を郡に遣わし、曄に五経を講ぜしむ。武帝即位後、中書令・祠部尚書を歴任す。巫覡或いは曄に非常の相有りと言い、曄これにより自ら負う。武帝之を聞き、故に寵無く、未だ方嶽(地方長官)の任に処さず。御坐の曲宴にて、酔って地に伏し、貂(冠の飾り)が肉盤に触る。帝笑いて曰く、「貂を汚す」と。対えて曰く、「陛下其の羽毛を愛し、而して其の骨肉を疎んず」と。帝悦ばず。

原文建元二年,為會稽太守,加都督。上遣儒士劉瓛往郡,為曄講五經。武帝即位,曆中書令、祠部尚書。巫覡或言曄有非常之相,以此自負,武帝聞之,故無寵,未嘗處方嶽。于御坐曲宴,醉伏地,貂抄肉柈。帝笑曰:「汙貂。」對曰:「陛下愛其羽毛,而疏其骨肉。」帝不悅。

性質は財を軽んじ義を重んじ、古人の風有り。会稽を罷めて都に還る時、斎中の銭万に満たず、俸禄の入る所は皆、参佐・賓僚と共にす。常に曰く、「兄が天子を作るに、何ぞ弟の銭無きを畏れん」と。居止は身に附く所須のみ。後堂の山を名づけて首陽とす、蓋し貧薄を怨むなり。

原文性輕財重義,有古人風。罷會稽還都,齋中錢不滿萬,俸祿所入,皆與參佐賓僚共之。常曰:「兄作天子,何畏弟無錢。」居止附身所須而已。名後堂山為首陽,蓋怨貧薄也。

嘗て武帝の前で竟陵王の子良と囲碁を打ち、子良大いに敗北す。退くに及び、豫章文獻王(蕭嶷)曄に謂ひて曰く、「汝は司徒(子良)と手談す、故に小しく相推譲すべし」と。答えて曰く、「曄立身以来、未だ一口の妄語を嘗めず」と。心を執ること疎にして婞(強情)なり、偏に悔ゆるを知らず。文章を好み、射は当時に独絶す。琅邪の王瞻も亦た射を善くすると称せられ、然れども曄に及ばず。

原文嘗于武帝前與竟陵王子良圍棋,子良大北。及退,豫章文獻王謂曄曰:「汝與司徒手談,故當小相推讓。」答曰:「曄立身以來,未嘗一口妄語。」執心疏婞,偏不知悔。好文章,射為當時獨絕,琅邪王瞻亦稱善射,而不及曄也。

武帝、豫章王嶷の東田に幸し、諸長王を宴す、独り曄を召さず。嶷曰く、「風景殊に美し、今日は甚だ武陵(曄)を憶ふ」と。上仍ひて使ひて射せしむ、屡発命中す、四坐を顧みて曰く、「手如何」と。上の神色甚だ怪し、嶷曰く、「阿五(曄)常日は此の如くせず、今は謂ふべし天威を仰ぎ藉るなり」と。帝の意乃ち釈る。後に華林にて射賭し、凡そ六箭、五は皮を破り一は破らず、銭五万文を賜ふ。又上酒を挙げて曄を勧め、曰く、「陛下常に此の処を以て臣を許さず」と。上顔を回して答えず。

原文武帝幸豫章王嶷東田,宴諸長王,獨不召曄。嶷曰:「風景殊美,今日甚憶武陵。」上仍呼使射,屢發命中,顧四坐曰:「手何如?」上神色甚怪,嶷曰:「阿五常日不爾,今可謂仰藉天威。」帝意乃釋。後於華林射賭,凡六箭,五破一皮,賜錢五萬文。又上舉酒勸曄,曰:「陛下常不以此處許臣。」上回面不答。

豫章王、邸に土山を築き、桐竹を列ね植え、号して桐山とす。武帝之に幸し、酒を置きて楽しましめ、臨川王映を顧みて曰く、「王邸にも亦た嘉名有りや否や」と。映曰く、「臣静を棲むるを好む、因りて以て称と為す」と。又曄に問ふ、曄曰く、「臣が山は卑し、曾て霊昭景を棲ますこと無く、唯だ薇蕨有るのみ、直ちに首陽山と号す」と。帝曰く、「此れ直ちに労者の歌なり」と。

原文豫章王于邸起土山,列種桐竹,號為桐山。武帝幸之,置酒為樂,顧臨川王映:「王邸亦有嘉名不?」映曰:「臣好棲靜,因以為稱。」又問曄,曄曰:「臣山卑,不曾棲靈昭景,唯有薇蕨,直號首陽山。」帝曰:「此直勞者之歌也。」

久しくして出でて江州刺史と為る。上、曄の鎮に出づるに方り、其の宅を求めて諸皇子に給せんとし、舍人を遣わして旨を諭す。曄曰く、「先帝臣に此の宅を賜ひ、臣をして歌哭する所有らしむ。陛下州を以て宅に易へんと欲す、臣請ふ宅を以て州に易へず」と。帝之を恨む。鎮に至ること百余日、典簽の趙渥之曄の得失を啓す、征し還して左戸尚書と為す。太常卿に遷る。累りて志を得ず。

原文久之,出為江州刺史。上以曄方出鎮,求其宅給諸皇子,遣舍人喻旨。曄曰:「先帝賜臣此宅,使臣歌哭有所,陛下欲以州易宅,臣請不以宅易州。」帝恨之。至鎮百餘日,典簽趙渥之啟曄得失,征還為左戶尚書。遷太常卿。累不得志。

冬節の問訊に、諸王皆出で、曄独り後より来る。上已に便殿に還り、曄の至るを聞き、引見し、之を問ふ。曄牛の羸れて路を取ること能はざると称す。上車府に敕し、副えの御牛一頭を給す。主客に敕し、自今諸王来りて例に随はざる者は、復た通さず。

原文冬節問訊,諸王皆出,曄獨後來,上已還便殿,聞曄至,引見,問之,曄稱牛羸不能取路。上敕車府給副禦牛一頭。敕主客自今諸王來不隨例者,不復為通。

公事より還り、竟陵王子良の宅を過ぐ。冬月、道に乞人に逢ひ、襦を脱ぎて之に与ふ。子良曄の衣の単なるを見て、襦を進めて曄に与ふ。曄曰く、「我と向の人と亦た復た何の異なる有らん」と。尚書令の王儉曄に詣る、曄儉を留めて食を設く、盤中の菘菜と鱯魚のみ。儉其の率真を重んじ、飽食して尽く歓びて去る。

原文公事還,過竟陵王子良宅,冬月道逢乞人,脫襦與之。子良見曄衣單,進襦於曄。曄曰:「我與向人亦復何異。」尚書令王儉詣曄,曄留儉設食,盤中菘菜鱯魚而已。儉重其率真,為飽食盡歡而去。

尋いで丹陽尹と為り、始めて復た行事を置かず、自ら親政を得。侍中・護軍将軍に転じ、油絡車を給され、又扶二人を給さる。武帝崩臨に際し、遺詔にて衛将軍・開府儀同三司と為る。大行殯に在り、竟陵王子良殿内に在り、太孫未だ至らず、衆論喧しく疑ふ。曄衆中に言ひて曰く、「若し長を立てば、則ち応に我に在るべく、嫡を立てば、則ち応に太孫を立つべし」と。郁林王立つに及び、甚だ馮頼せらる。隆昌元年に薨じ、司空を贈られ、班剣二十人。

原文尋為丹陽尹,始不復置行事,自得親政。轉侍中、護軍將軍,給油絡車,又給扶二人。武帝臨崩,遺詔為衛將軍、開府儀同三司。大行在殯,竟陵王子良在殿內,太孫未至,眾論喧疑,曄眾中言曰:「若立長,則應在我;立嫡,則應立太孫。」及郁林立,甚見馮賴。隆昌元年薨,贈司空,班劍二十人。

安成王

原文安成王

安成恭王蕭暠、字は宣曜、高帝の第六子なり。性質清和、疾多くす。位を歴て南中郎将・江州刺史、侍中、歩兵校尉を領し、中書令。永明九年、散騎常侍・秘書監と為り、石頭戍事を領す。夏に及びて薨ず。

原文安成恭王暠字宣曜,高帝第六子也。性清和,多疾。歷位南中郎將、江州刺史,侍中,領步兵校尉,中書令。永明九年,為散騎常侍、秘書監,領石頭戍事。及夏薨。

鄱陽王

原文鄱陽王

鄱陽王蕭鏘、字は宣韶、高帝の第七子なり。建元末、武帝即位し、雍州刺史と為り、都督を加えらる。武帝服除け、鏘方に還り、始めて入覲し拝するに便ち涕を流す。武帝愕然とし、其の故を問ふ。鏘涙を収めて曰く、「臣奉るに違ふこと弥年、今顔色を奉るに、聖顔損瘦せり、是を以て泣くのみ」と。武帝歎じて曰く、「我復た是れ此の一弟有り」と。

原文鄱陽王鏘字宣韶,高帝第七子也。建元末,武帝即位,為雍州刺史,加都督。武帝服除,鏘方還,始入覲拜便流涕。武帝愕然,問其故,鏘收淚曰:「臣違奉彌年,今奉顏色,聖顏損瘦,所以泣耳。」武帝歎曰:「我復是有此一弟。」

累遷して丹陽尹と為る。永明十一年、領軍将軍と為る。鏘は和悌美令にして、性謙慎、文章を好み、武帝に寵有り。領軍の授けは、斉室諸王未だ為さざる所、鏘官に在りて事を理むるに壅がること無く、当時に之を称す。車駕游幸する時、常に甲仗衛従し、恩待は豫章王嶷に次ぐ。其の年、油絡車を給さる。

原文累遷丹陽尹。永明十一年,為領軍將軍。鏘和悌美令,性謙慎,好文章,有寵于武帝。領軍之授,齊室諸王所未為,鏘在官理事無壅,當時稱之。車駕游幸,常甲仗衛從,恩待次豫章王嶷。其年,給油絡車。

隆昌元年、尚書左僕射に転じ、侍中・驃騎將軍・開府儀同三司に遷り、兵を領し佐を置く。蕭鏘は雍容として物情を得、鬱林王に依信された。鬱林王は明帝を心に疑い、諸王の問訊の際、獨り蕭鏘を留めて謂いて曰く、「鸞(明帝)が法身(武帝)に対して如何であったと聞くか」と。蕭鏘曰く、「臣下の蕭鸞は宗戚の中で最も年長であり、且つ先帝の寄託を受け、臣等は年皆なお少壮、朝廷の幹たる者は、唯だ蕭鸞一人のみ。願わくは陛下慮りと為さざらんことを」と。鬱林王は退いて徐龍駒に謂いて曰く、「我公と共に計って蕭鸞を取らんと欲す。公既に同ぜず、我獨りで辦うること能わず、且つまた暫く小しく聴かん」と。鬱林王の廢されるに及び、蕭鏘は竟に知らなかった。

原文隆昌元年,轉尚書左僕射,遷侍中、驃騎將軍、開府儀同三司,領兵置佐。鏘雍容得物情,為鬱林依信。鬱林心疑明帝,諸王問訊,獨留鏘,謂曰:「聞鸞於法身何如?」鏘曰:「臣鸞于宗戚最長,且受寄先帝,臣等年皆尚少,朝廷之幹,唯鸞一人,願陛下無以為慮。」鬱林退謂徐龍駒曰:「我欲與公共計取鸞,公既不同,我不能獨辦,且復小聽。」及鬱林廢,鏘竟不知。

延興元年、位を進めて司徒と為り、侍中は元の如し。明帝が東府を鎮め、権威稍々異なるあり、蕭鏘の往く毎に、明帝は履を沓げて車まで出迎え、語は家國に及び、言と涙俱に下る。蕭鏘はこれにより推して之を信ず。而して宮台内は皆蕭鏘に属意し、入宮を勧めて兵を発し政を輔けしむ。制局監謝粲、蕭鏘及び隨王蕭子隆に説いて曰く、「殿下但だ油壁車に乗って宮に入り、天子を出だして朝堂に置き、二王夾輔して號令し、粲等城門を閉じて仗を上れば、誰か敢えて同ぜざらん。宣城公(明帝)は政に井に投じて活を求むるのみ、豈に一步動かんや。東城の人政まさに共に縛りて送るのみ」と。蕭子隆は計を定めんと欲す。蕭鏘は上臺の兵力既に悉く東府に在り、且つ難捷を慮り、意甚だ猶豫す。馬隊主劉巨は武帝時の舊人、蕭鏘に詣でて間を請い、叩頭して蕭鏘に事を立つるを勧む。蕭鏘は駕を命じて将に入らんとし、復た回還して内に入り、母陸太妃と別る。日暮れて行を成さず。典簽謀を知りて之を告ぐ。数日を経て、明帝二千人を遣わして蕭鏘の宅を囲み、蕭鏘を害し、謝粲等皆見殺さる。凡そ諸王の害せらるるは、皆夜を以て兵を遣わし宅を囲み、或いは斧を以て關を斫ち牆を排し、叫噪して入り、家財は皆封籍せらる。

原文延興元年,進位司徒,侍中如故。明帝鎮東府,權威稍異,鏘每往,明帝屣履至車迎鏘,語及家國,言淚俱下,鏘以此推信之。而宮台內皆屬意於鏘,勸令入宮,發兵輔政。制局監謝粲說鏘及隨王子隆曰:「殿下但乘油壁車入宮,出天子置朝堂,二王夾輔號令,粲等閉城門上仗,誰敢不同,宣城公政當投井求活,豈有一步動哉!東城人政共縳送耳。」子隆欲定計,鏘以上臺兵力既悉東府,且慮難捷,意甚猶豫。馬隊主劉巨,武帝時舊人,詣鏘請間,叩頭勸鏘立事。鏘命駕將入,復回還內,與母陸太妃別,日暮不成行。典簽知謀告之,數日,明帝遣二千人圍鏘宅,害鏘,謝粲等皆見殺。凡諸王被害,皆以夜遣兵圍宅,或斧斫關排牆,叫噪而入,家財皆見封籍焉。

桂陽王

原文桂陽王

桂陽王蕭鑠は字を宣朗と云い、高帝第八子なり。永明七年中書令と為り、散騎常侍を加う。時に鄱陽王蕭鏘は文章を好み、蕭鑠は名理を好み、人鄱桂と称す。

原文桂陽王鑠字宣朗,高帝第八子也。永明七年為中書令,加散騎常侍。時鄱陽王鏘好文章,鑠好名理,人稱為鄱桂。

蕭鑠は清羸にして冷疾有り、常に枕臥す。武帝臨視し、床帳衾褥を賜う。性理偏詖にして、其の賞興に遇えば、則ち詩酒連日、情に廢する所あれば、則ち兄弟通ぜず。隆昌元年、前將軍を加え、油絡車を給し、並びに扶二人を給す。

原文鑠清羸有冷疾,常枕臥,武帝臨視,賜床帳衾褥。性理偏詖,遇其賞興,則詩酒連日,情有所廢,則兄弟不通。隆昌元年,加前將軍,給油絡車,並給扶二人。

鄱陽王の害せらるるを見て、蕭鑠は中軍將軍・開府儀同三司に遷る。自ら安からず、東府に至り明帝を見る。出でてより、存亡の計を処分す。侍讀山悰に謂いて曰く、「吾前日王を覲ししに、王流涕嗚咽す。而して鄱陽・隨郡誅せらる。今日王を見しに、王又流涕して愧色有り。其れ吾に在るか」と。其の夜三更、中兵至り、見害さる。

原文鄱陽王見害,鑠遷中軍將軍、開府儀同三司。不自安,至東府見明帝,及出,處分存亡之計。謂侍讀山悰曰:「吾前日覲王,王流涕嗚咽,而鄱陽、隨郡見誅。今日見王,王又流涕而有愧色,其在吾邪?」其夜三更中兵至,見害。

始興王

原文始興王

始興簡王蕭鑒は字を宣徹と云い、高帝第十子なり。性聰警。年八歳、生母を喪い、號慕人に過ぎ、数日中便ち骨立に至る。豫章文獻王之を聞き、其の首を撫でて嗚咽し、高帝に謂いて曰く、「此の兒操行人に異なり、其の濟わざるを恐る」と。高帝も亦悲しみ自ら勝えず。

原文始興簡王鑒字宣徹,高帝第十子也。性聰警。年八歲,喪所生母,號慕過人,數日中便至骨立。豫章文獻王聞之,撫其首嗚咽,謂高帝曰:「此兒操行異人,恐其不濟。」高帝亦悲不自勝。

初め廣興郡王に封ぜらる。袁彖時に秘書丞と為り、早く令譽有り。高帝蕭鑒を盛重し、乃ち彖を以て友と為す。後始興に改封す。晉以来、益州刺史は皆良将を以て之を為す。宋泰始中、益州市橋忽ち小洲を生ず。道士邵碩之を見て曰く、「貴王有りて州に臨まん」と。劉亮刺史と為り、齋前の石榴樹陵冬に華を生ず。亮以て碩に問う。碩曰く、「此れ狂華と謂い、宋諸劉滅亡の象なり。後二年君當に終わり、後九載宋當に滅びん。滅び後に王勝喜来たりて此の州を作らん。冀くは爾の時蜀土平らかなれ」と。碩は始康の人、元徽二年、忽ち人に告げて云く、「吾命終わらん」と。因りて臥して死す。後人碩が荊州上明に在るを見る。一隻の故履を以て左腳を縛り、而行甚だ疾く、遂に之く所を知らず。永明二年、武帝復た諸将を益州に用いず、始めて蕭鑒を以て益州刺史・督益寧二州軍事と為し、鼓吹一部を加う。「勝喜」の反語は「始興」なり。碩の言此に於いて乃ち驗わる。

原文初封廣興郡王,袁彖時為秘書丞,早有令譽,高帝盛重鑒,乃以彖為友。後改封始興。自晉以來,益州刺史皆以良將為之。宋泰始中,益州市橋忽生小洲,道士邵碩見之,曰:「當有貴王臨州。」劉亮為刺史,齋前石榴樹陵冬生華,亮以問碩,碩曰:「此謂狂華,宋諸劉滅亡之象。後二年君當終,後九載宋當滅。滅後有王勝喜來作此州,冀爾時蜀土平。」碩始康人,元徽二年,忽告人云:「吾命終。」因臥而死。後人見碩在荊州上明,以一隻故履縛左腳,而行甚疾,遂不知所之。永明二年,武帝不復用諸將為益州,始以鑒為益州刺史、督益寧二州軍事,加鼓吹一部。「勝喜」反語為「始興」,碩言於此乃驗。

先ず劫帥韓武方常に黨千餘人を聚め、流を断ち暴を為し、郡縣禁ずる能わず、行旅断絶す。蕭鑒行きて上明に至る。武方乃ち出でて降る。長史虞悰等咸に之を殺すを請う。蕭鑒曰く、「武方暴を為すこと積年、所在制する能わず。今降りて殺さるれば、信を失い、且つ善を勧むる無からん」と。是に於いて台に啓す。果たして宥さる。是より巴西蠻夷凶悪なるも、皆風望して降附す。行きて新城に次ぐ。道路籍籍として、陳顯達大いに士馬を選び、征に就くを肯ぜずと云う。巴西太守陰智伯も亦然りと為す。乃ち新城に十許日停まり、典簽張曇皙を遣わして形勢を観さしむ。俄にして顯達使人郭安明・朱公恩を遣わし書を奉り遺わす。咸に蕭鑒に之を執るを勧む。蕭鑒曰く、「顯達本朝に節を立て、必ず自ら此れ無からん。曇皙還りて若し同異有らば、安明等を執るも未だ晩からず」と。二日居りて、曇皙還る。顯達家累を遣わして已に城を出だし、日夕殿下の至るを望むと説く。是に於いて乃ち前に進む。時に年十四。

原文先是劫帥韓武方常聚黨千餘人,斷流為暴,郡縣不能禁,行旅斷絕。鑒行至上明,武方乃出降。長史虞悰等咸請殺之。鑒曰:「武方為暴積年,所在不能制,今降而被殺,失信;且無以勸善。」於是啟台,果被宥,自是巴西蠻夷凶惡,皆望風降附。行次新城,道路籍籍,雲陳顯達大選士馬,不肯就征,巴西太守陰智伯亦以為然。乃停新城十許日,遣典簽張曇皙往觀形勢。俄而顯達遣使人郭安明、朱公恩奉書貢遺,咸勸鑒執之。鑒曰:「顯達立節本朝,必自無此。曇皙還,若有同異,執安明等未晚。」居二日,曇皙還,說顯達遣家累已出城,日夕望殿下至。於是乃前。時年十四。

學を好み、文を属するに善く、華飾を重んぜず、器服清素、高士の風有り。記室參軍蔡仲熊と張儀樓に登り、先言往行及び蜀土の人物を商略す。蕭鑒言辭和辯、仲熊應對滞ること無し。當時以て盛事と為す。

原文好學,善屬文,不重華飾,器服清素,有高士風。與記室參軍蔡仲熊登張儀樓,商略先言往行及蜀土人物。鑒言辭和辯,仲熊應對無滯,當時以為盛事。

州城北門常に閉ざして開かず。蕭鑒其の故を虞悰に問う。悰答えて曰く、「蜀中夷暴多く、時に抄掠城下に至る。故に相承きて之を閉づ」と。蕭鑒曰く、「古人云う、'善く閉ずるは關楗無し'と。且つ德に在りて門に在らず」と。即ち之を開かしむ。戎夷義を慕い、是より清謐なり。州園地に古塚を得る。復た棺無く、但だ石槨有り。銅器十餘種、並びに古形。玉璧三枚。珍寶甚だ多く、皆識す可からず。金銀を以て蠶蛇の形を為す者数斗。又朱沙を以て阜と為し、水銀を以て池と為す。左右咸に之を取るを勧む。蕭鑒曰く、「皇太子昔雍に在りし時、古塚を発する者有り、玉鏡・玉屏風・玉匣の属を得て、皆将に都に還さんとす。吾意常に同ぜず」と。乃ち功曹何佇を遣わして之が為に墳を起さしめ、諸寶物一も犯さしめず。

原文州城北門常閉不開,鑒問其故于虞悰,悰答曰:「蜀中多夷暴,有時抄掠至城下,故相承閉之。」鑒曰:「古人云,'善閉無關楗'。且在德不在門。」即令開之。戎夷慕義,自是清謐。于州園地得古塚,無復棺,但有石槨。銅器十餘種,並古形;玉璧三枚;珍寶甚多,不可皆識;金銀為蠶蛇形者數斗。又以朱沙為阜,水銀為池,左右咸勸取之。鑒曰:「皇太子昔在雍,有發古塚者,得玉鏡、玉屏風、玉匣之屬,皆將還都,吾意常不同。」乃遣功曹何佇為之起墳,諸寶物一不得犯。

性甚だ清く、蜀に積年あり、未だ嘗て營造する所無く、資用一歳三萬に満たず。王儉常に歎じて云く、「始興王尊貴と雖も、而行履皆素士なり」と。時に廣漢什邡の人段祖有り、錞於を以て蕭鑒に献ず。古の禮器なり。高さ三尺六寸六分、圍み三尺四寸、圓きこと筩の如く、銅色漆の如く黒く、甚だ薄し。上に銅馬有り、繩を以て馬を縣げ、地を去ること尺餘ならしめ、之に水を灌ぐ。又器を以て水を下に盛り、芒莖を以て心に當て淳於に跪き注ぐ。手を以て芒を振れば、則ち聲雷の如く、清響良久にして乃ち絶ゆ。古樂を節する所以なり。五年、蕭鑒龍角一枚を献ず。長さ九尺三寸、色紅く、文有り。

原文性甚清,在蜀積年,未嘗有所營造,資用一歲不滿三萬。王儉常歎云:「始興王雖尊貴,而行履都是素士。」時有廣漢什邡人段祖,以錞於獻鑒,古禮器也。高三尺六寸六分,圍三尺四寸,圓如筩,銅色黑如漆,甚薄,上有銅馬,以繩縣馬,令去地尺餘,灌之以水,又以器盛水於下,以芒莖當心跪注淳於,以手振芒,則聲如雷,清響良久乃絕。古所以節樂也。五年,鑒獻龍角一枚,長九尺三寸,色紅,有文。

九年、散騎常侍・秘書監と為り、石頭戍事を領す。上蕭鑒と久しく別るるを以て、車駕石頭に幸し、宴會賞賜す。尋いで左衛將軍に遷る。未だ拜せず、疾に遇う。上南康王蕭子琳の為に青楊巷第を起し、新たに成る。車駕後宮と第に幸し樂飲す。其の日蕭鑒疾甚だし。上騎を遣わし詔して疾を問わしむること相継ぎ、之が為に樂を止む。尋いで薨ず。

原文九年,為散騎常侍、秘書監,領石頭戍事。上以與鑒久別,車駕幸石頭,宴會賞賜。尋遷左衛將軍,未拜,遇疾。上為南康王子琳起青楊巷第,新成,車駕與後宮幸第樂飲。其日鑒疾甚,上遣騎詔問疾相繼,為之止樂。尋薨。

江夏王

原文江夏王

江夏王蕭鋒は字を宣穎といい、高帝(蕭道成)の第十二子である。母の張氏は容姿と徳行を備えていたが、宋の蒼梧王(劉昱)が彼女を強奪しようとし、さらに蕭鋒を害そうとした。高帝は大いに恐れ、旧宅に住まわせることを敢えず、張氏の家に匿わせた。時に四歳であった。

原文江夏王鋒字宣穎,高帝第十二子也。母張氏有容德,宋蒼梧王逼取之,又欲害鋒。高帝甚懼,不敢使居舊宅,匿于張氏舍,時年四歲。

性質は方正で整っており、書を学ぶことを好んだ。張家には紙や筆がなく、そこで井戸の欄干に寄りかかって書を書き、書き終わるとそれを洗い落とし、また書き直すことを、数ヶ月にわたって繰り返した。また、朝起きても窓の塵を払おうとせず、まず塵の上に書いて文字を学んだ。

原文性方整,好學書,張家無紙劄,乃倚井欄為書,書滿則洗之,已復更書,如此者累月。又晨興不肯拂窗塵,而先畫塵上,學為書字。

五歳の時、高帝が鳳尾諾(書体の一種)を学ばせると、一度学んだだけで巧みになった。高帝は大いに喜び、玉の騏驎(麒麟)を賜って言った。「騏驎で鳳尾を賞するのだ」。十歳になる頃には、すでに文章を作ることができた。武帝(蕭賾)の時代、藩邸(諸王の邸宅)の規律は厳しく、諸王は異書(正統でない書物)を読むことが許されず、五経のほかは孝子図を見ることしかできなかった。蕭鋒は密かに人を市井の街巷に遣わして図書を買い求め、一ヶ月のうちに、ほぼ揃えてしまった。

原文五歲,高帝使學鳳尾諾,一學即工。高帝大悅,以玉騏驎賜之,曰:「騏驎賞鳳尾矣。」至十歲,便能屬文。武帝時,藩邸嚴急,諸王不得讀異書,五經之外,唯得看孝子圖而已。鋒乃密遣人於市里街巷買圖籍,期月之間,殆將備矣。

琴と書を好んだのは、天性でもあった。かつて武帝に拝謁し、宝装の琴を賜ると、御前でそれを弾き、大いに賞賛された。帝は鄱陽王蕭鏘に言った。「闍梨(蕭鋒)の琴も柳令(柳世隆か)の次第である。彼は何事にも意を用いているようだから、人を治めることで試してみたい」。蕭鏘が言った。「昔、鄒忌が琴を弾き、威王が国政を委ねた故事があります」。そこで(蕭鋒は)南徐州刺史として出された。人と交わることを善くし、行事の王文和や別駕の江祏らと、皆親しく交わった。後に文和が益州に召し出されることになり、酒宴を設けて別れを告げると、文和は涙を流して言った。「下官は若い頃から詩を作ったことはありませんでしたが、今日、別れを惜しむあまり、知らず知らず性から文が湧き出ました」。王儉はこれを聞いて言った。「江夏王は素絲を善く染める者と言えよう」。

原文好琴書,蓋亦天性。嘗覲武帝,賜以寶裝琴,仍於御前鼓之,大見賞。帝謂鄱陽王鏘曰:「闍梨琴亦是柳令之流亞,其既事事有意,吾欲試以臨人。」鏘曰:「昔鄒忌鼓琴,威王委以國政。」乃出為南徐州刺史。善與人交,行事王文和、別駕江祏等,皆相友善。後文和被徵為益州,置酒告別,文和流淚曰:「下官少來未嘗作詩,今日違戀,不覺文生於性。」王儉聞之,曰:「江夏可謂善變素絲也。」

書に巧みで、当時の蕃王の中で推されていた。南郡王蕭昭業もまた巧みと称され、武帝に言った。「臣の書は本来、江夏王に勝るべきです」。武帝は答えた。「闍梨が第一、法身が第二である」。法身は昭業の幼名、闍梨は蕭鋒の幼名である。

原文工書,為當時蕃王所推。南郡王昭業亦稱工,謂武帝曰:「臣書固應勝江夏王。」武帝答:「闍梨第一,法身第二。」法身昭業小名,闍梨鋒小名也。

隆昌元年(494年)、侍中となり、驍騎将軍を兼任し、まもなく秘書監を加えられた。明帝(蕭鸞)が権力を握ると、蕃邸は危惧に陥った。江祏がかつて王晏に言ったことがある。「江夏王は才能と行いがあり、また巧みに跡を隠すこともできる。琴の道を羊景之に授けたが、景之は著名となり、江夏王は世間に才能を隠している。ただ七弦(琴)だけでなく、百家の学芸もまた同様である」。蕭鋒はこれを聞いて嘆息して言った。「江祏はまたもや混沌(渾沌)に眉を描くようなもので、益そうとしてかえって弊害をもたらすだけだ。寡人は声楽と酒に耽り、犬馬を好むだけで、平生において一毫の野心もない」。当時、これは話題となった。(蕭鋒は)常に憂鬱で楽しむことがなく、『修柏賦』を著して志を表した。その文に曰く、「既に群を殊にして抗い立ち、また貞を含みて挺びて正し。豈に春日に自ら芳ばんや、霜の下に在りて盛んなるに在り。沖風も其の枝を摧くこと能わず、積雪も其の性を改むること能わず。当年に坎壇すと雖も、庶幾くは後凋の詠うべきを」。時に鼎の業(帝位)はひそかに移り変わろうとしており、蕭鋒のみが慨然として匡復の志を抱いていたが、行事や典簽に制約されたため、成就しなかった。かつて明帝に謁見し、話の流れで蕭遙光の才力が委任に値するという意味に及んだ時、蕭鋒は答えて言った。「遙光の殿下に対する関係は、殿下の高皇(高帝)に対する関係と同じです。宗廟を衛り、社稷を安んずることは、実に寄託すべきところがあります」。明帝は顔色を失った。

原文隆昌元年,為侍中,領驍騎將軍,尋加秘書監。及明帝知權,蕃邸危懼,江祏嘗謂王晏曰:「江夏王有才行,亦善能匿跡,以琴道授羊景之,景之著名,而江夏掩能於世,非唯七弦而已,百氏亦復如之。」鋒聞歎曰:「江祏遂復為混沌畫眉,欲益反弊耳。寡人聲酒是耽,狗馬是好,豈復一豪于平生哉。」當時以為話言。常忽忽不樂,著修柏賦以見志,曰:「既殊群而抗立,亦含貞而挺正。豈春日之自芳,在霜下而為盛。沖風不能摧其枝,積雪不能改其性。雖坎壇于當年,庶後凋之可詠。」時鼎業潛移,鋒獨慨然有匡復之意,逼之行事典簽,故不遂也。嘗見明帝,言次及遙光才力可委之意,鋒答曰:「遙光之于殿下,猶殿下之于高皇,衛宗廟,安社稷,實有攸寄。」明帝失色。

蕭鋒は武力を備えていた。明帝が諸王を殺害した時、蕭鋒は手紙を送って詰問・責めたが、側近たちは取り次がなかった。明帝は彼を深く恐れ、邸宅で捕らえることを敢えなかった。蕭鋒が出て車に乗ろうとした時、兵士たちが車に乗り込んで拘束しようとしたが、蕭鋒は手で数人を撃退し、皆その場で倒れた。そこで(兵士たちは)彼を害した。江斅はその死を聞き、涙を流して言った。「芳蘭も門前にあれば鋤かざるを得ない。あの『修柏の賦』のゆえであろうか」。

原文鋒有武力,明帝殺諸王,鋒與書詰責,左右不為通。明帝深憚之,不敢於第收之。鋒出登車,兵人欲上車防勒,鋒以手擊卻數人,皆應時倒地,遂逼害之。江斅聞其死,流涕曰:「芳蘭當門,不得不鋤,其修柏之賦乎。」

南平王

原文南平王

南平王蕭銳は字を宣毅といい、高帝の第十五子である。左戸尚書の位にあり、朝廷での当直は勤勉で謹厳であり、病気を理由に休んだことはなかった。永明十年(492年)、南中郎将・湘州刺史として出された。延興元年(494年)、明帝が輔政となって諸王を害し、裴叔業を遣わして尋陽を平定させ、そのまま湘州に進軍させた。蕭銳の防合(護衛官)の周伯玉が大衆に向かって大声で言った。「これは天子の意ではない。今、叔業を斬り、兵を挙げて社稷を正せば、誰が敢えて同調しないことがあろうか」。蕭銳の典簽が左右の者を叱って彼を斬らせた。蕭銳は害され、伯玉は獄に下されて誅殺された。

原文南平王銳字宣毅,高帝第十五子也。位左戶尚書,朝直勤謹,未嘗屬疾。永明十年,出為南中郎將、湘州刺史。延興元年,明帝作輔,害諸王,遣裴叔業平尋陽,仍進湘州。銳防合周伯玉大言於眾曰:「此非天子意,今斬叔業,舉兵匡社稷,誰敢不同!」銳典簽叱左右斬之,銳見害,伯玉下獄誅。

宜都王

原文宜都王

宜都王蕭鑑は字を宣儼といい、高帝の第十六子である。生後三歳で母を失った。物心がついてから、母の所在を尋ね、側近が早くに亡くなったと告げると、思い慕って菜食し、自ら悲しんだ。母の顔を知らないため、常に幽冥に祈請して、一度でも夢に見ることを求めた。六歳の時、遂に一人の女性の夢を見て、これが自分の母だと言った。蕭鑑は悲しみ泣き、以前の側近に向かってその容貌や衣服のことを話すと、全て生前の通りであり、聞く者は誰もが涙を流した。

原文宜都王鑑字宣儼,高帝第十六子也。生三歳喪母。及有識,問母所在,左右告以早亡,便思慕蔬食自悲。不識母,常祈請幽冥,求一夢見。至六歳,遂夢見一女人,云是其母。鑑悲泣向舊左右説容貌衣服事,皆如平生,聞者莫不歔欷。

清く悟り、学問と行いがあった。永明十一年(493年)、南豫州刺史・都督二州軍事となった。庶務(行政実務)を経験していなかったが、雅やかに人心を得た。挙動はしばしば簽帥(典簽)に制約され、思い立ったことも多く実行できなかった。州鎮は姑孰にあった。当時、人が桓溫の娘の墓を発掘し、金の巾箱(小箱)を得た。金糸で編んだ篾(竹ひご)で作られた厳しい器(荘厳な容器)であり、また金の蚕や銀の繭などの物が甚だ多かった。条を立てて上奏して知らせると、郁林王(蕭昭業)は勅してその物を蕭鑑に賜わろうとした。蕭鑑は言った。「今、過去の物を取るならば、後には今の物を取ることになる。このように循環すれば、熟慮せざるを得ない」。長史の蔡約を自ら往かせて修復させ、微細なものも犯さなかった。

原文清悟有學行。永明十一年,爲南豫州刺史、都督二州軍事。雖未經庶務,而雅得人心。舉動每爲簽帥所制,立意多不得行。州鎮姑孰,于時人發桓溫女塚,得金巾箱,織金篾爲嚴器,又有金蠶銀繭等物甚多。條以啟聞,郁林敕以物賜之。鑑曰:「今取往物,後取今物,如此回圈,豈可不熟念。」使長史蔡約自往修復,纖毫不犯。

十歳の時、吉景曜と先人の言行について議論していた。側近が誤って柟榴(楠と石榴)の屏風を押し倒し、その背中に倒れかかったが、顔色は変わらず、談話も途切れず、また顧みもしなかった。ますます射術に優れ、常に的(堋的)が広すぎるとして言った。「終日、侯(的)を射るなど、何の難しいことがあろうか」。そこで甘蔗を取って地面に挿し、百歩の距離からそれを射ると、十発十中した。

原文年十歳時,與吉景曜商略先言往行。左右誤排柟榴屏風,倒壓其背,顏色不異,言談無輟,亦不顧視。彌善射,常以堋的太闊,曰:「終日射侯,何難之有。」乃取甘蔗插地,百步射之,十發十中。

永明年間(483-493年)、諸王は三十歳未満では妾を蓄えてはならないという制があった。武帝が崩御した後、側近の者を娶るよう勧める者がいたが、蕭鑑は言った。「邸内に使役する者がいないわけではないが、先朝の遺旨である以上、どうして忍んで違えようか」。

原文永明中,制諸王年未三十,不得畜妾。及武帝晏駕後,有勸取左右者,鑑曰:「在內不無使役,既先朝遺旨,何忍而違。」

延興元年(494年)、明帝が高帝・武帝・文恵太子(蕭長懋)の諸子を誅殺すると、蕭鑑はこれを聞き、側近に寄りかかりながらゆったりと雅やかな歩みで、陸機の「魏武帝を弔う文」を詠んだ。「昔は四海を己が任と為し、死する則ち愛子を人に托す」。このように三度詠むと、側近は皆泣いた。後になって果たして呂文顯が薬を持って遣わされ、夜に聴事(政庁)に進んだ時、丁度八関斎(斎戒)の最中であった。蕭鑑は高座に上り、文顯に言った。「高皇は昔、君を寵任された。何事があって今日のような行いをするのか」。答えて言った。「出るを得ざるなり」。そこで仰いで薬を飲んだ。時に十八歳。身長は七尺あり、蕭鑑の風貌は兄の蕭嶷に似ており、皆、国を担う器と認めていた。死んだ時、識者は誰もが痛惜した。

原文及延興元年,明帝誅高、武、文惠諸子,鑑聞之,馮左右從容雅步,詠陸機吊魏武云:「昔以四海爲己任,死則以愛子托人。」如此者三,左右皆泣。後果遣呂文顯賚藥往,夜進聽事,正逢八關齋。鑑上高坐,謂文顯曰:「高皇昔寵任君,何事乃有今日之行?」答云:「出不獲已。」於是仰藥。時年十八。身長七尺,鑑狀似兄嶷,咸以國器許之。及死,有識者莫不痛惜。

初めに鑑が出合した時、年は七歳であり、陶弘景が侍読となって、八九年の間、大いに接遇を受けた。後に弘景が山に隠棲すると、忽ち鑑が来訪する夢を見て、惨然として別れを告げ、言うには、「某日に命が尽きる。身に罪は無く、後三年に某の家に生まれ出るであろう」と。弘景が幽冥の事を尋ねると、多くは秘して語らなかった。覚めた後、直ちに使者を都に遣わして参問させたところ、果たして事実と符合したので、弘景は因って『夢記』を著したという。

原文初鑑出合時,年七歳,陶弘景爲侍讀,八九年中,甚相接遇。後弘景隱山,忽夢鑑來,慘然言別,云:「某日命過。身無罪,後三年當生某家。」弘景訪以幽中事,多秘不出。覺後,即遣信出都參訪,果與事符同,弘景因著夢記云。

晋熙王

原文晉熙王

晋熙王蕭銶は字を宣攸といい、高帝の第十八子である。隆昌元年、郢州えいしゅう刺史の位にあった。延興元年に害された。

原文晉熙王銶字宣攸,高帝第十八子也。隆昌元年,位郢州刺史。延興元年見害。

河東王

原文河東王

河東王蕭鉉は字を宣胤といい、高帝の第十九子である。母の張氏は高帝に寵愛され、鉉はまた最も幼かったので、特に心を留められた。高帝は臨終に際し、武帝に託し、武帝は大いに意を用いて、柳世隆の娘を娶らせて妃とした。武帝は群臣と共に新婦を見て、涙を流して自ら禁じえず、豫章王蕭嶷もまた嗚咽した。明帝が高帝の諸子を誅殺した時、鉉は高帝の愛した子であるため、また才能が弱く年も幼いことを理由として、全うすることができた。

原文河東王鉉字宣胤,高帝第十九子也。母張氏,有寵于高帝,鉉又最幼,尤所留心。高帝臨崩,以屬武帝,武帝甚加意焉,為納柳世隆女為妃。武帝與群臣看新婦,流涕不自勝,豫章王嶷亦哽咽。及明帝誅高帝諸子,以鉉高帝所愛,亦以才弱年幼,故得全。

初めに鉉が三四歳の時、高帝が昼寝をして髪を束ねていると、鉉が高帝の腹の上に上って縄を弄んだので、高帝は因ってその縄を鉉に賜った。崩御の後、鉉は宝函にその縄を収めて、年毎に開けては見て、涙を流して嗚咽した。人柄は甚だ凡庸であったが、この一点においては至情を示した。

原文初鉉年三四歲,高帝嘗晝臥纏發,鉉上高帝腹上弄繩,高帝因以繩賜鉉。及崩後,鉉以寶函盛繩,歲時輒開視,流涕嗚咽。人才甚凡,而有此一至。

建武年間、高帝・武帝の子孫は憂慮と疑念を抱いた。鉉が朝見する時は、常に身をかがめて俯し、正しく歩き直視することができなかった。間もなく侍中・衛將軍に遷った。

原文建武中,高、武子孫憂疑。鉉朝見,常鞠躬俯僂,不敢正行直視。尋遷侍中、衛將軍。

鉉は年が稍々長じた。四年、王晏を誅殺するに当たり、鉉を立てようと謀ったことを名目として、鉉は官を免ぜられ、王として邸に還り、外人と交際することを禁じられた。永泰元年、明帝の病が突然重くなると、遂に害された。捕吏が来たと聞いて、欣然として言うには、「死生は命なり、終に建安王(蕭子真)が奴隷となることを乞うて得られなかったようにはなるまい」と。仰いで毒を飲んで卒した。鉉の二人の子は幼児のまま、また殺された。

原文鉉年稍長。四年,誅王晏,以謀立鉉為名,鉉免官,以王還第,禁不得與外人交通。永泰元年,明帝疾暴甚,乃見害。聞收至,欣然曰:「死生命也,終不斅建安乞為奴而不得。」仰藥而卒。鉉二子在孩抱,亦見殺。

【論】

原文【論】

論じて言う。豫章文獻王は珪璋の質をもって、早くより天姿を表し、己の行うところの安んずる所に従い、忠敬に率いられた。代宗(武帝)の議が早くより皇矚に隆盛であったとはいえ、天倫の愛は永明年間に於いて損なわれることはなく、故に「仁をなすは己に由る」とは虚言ではないと知られる。宋が晉の終わりを受けてより、馬氏は遂に廃姓となり、齊が宋の禅を受けると、劉宗は尽く誅夷を見、梁武が齊を革むるに当たっては、前の轍を取らず、子恪兄弟を皆録用したのは、梁武の弘裕を見るも、また文獻王の余慶を表している。昔、陳思王(曹植)の上表に言う、「権の存する所では、疎なりとも必ず重く、勢の去る所では、親なりとも必ず軽し」と。この言の本を推せば、実に固本を存する所以である。然るに就国の典は、既に代と共に革まり、卿士が朝に入り、蕃輔として貴ばれ、皇王は体を托して、同じく尊極を稟る。仕えるに常の資なく、秩には恒の数あり、礼と地と兼ねて隆んずれば、推擬を生じ易い。武帝の顧命は、尊嫡に情深く、密かに遠算を図り、安きを求めるに意があった。明帝が同じく布衣より起り、顧托を存するに用い、遂に末命を近戚に韜め、重任を疏親に寄せた。子弟を布列すれば、外に強大の固き有り、支庶中立すれば、覬覦の謀を息ます可しと以為い、表裏相い維り、重ねて家国を隆んずるであろうとした。曾て機が衡を運び、権が衆を制することを慮らず、宗族殲滅、一に斯くの如きに至るとは。曹植の言は、遠く致す所有りと言えよう。

原文論曰:豫章文獻王珪璋之質,夙表天姿,行己所安,率由忠敬。雖代宗之議早隆皇矚,而天倫之愛無虧永明,故知「為仁由己」,不虛言也。自宋受晉終,馬氏遂為廢姓,齊受宋禪,劉宗盡見誅夷,梁武革齊,弗取前轍,子恪兄弟,並皆錄用,雖見梁武之弘裕,亦表文獻之余慶。昔陳思表云:「權之所存,雖疏必重,勢之所去,雖親必輕。」原夫此言,實存固本。然就國之典,既隨代革,卿士入朝,作貴蕃輔,皇王托體,同稟尊極,仕無常資,秩有恆數,禮地兼隆,易生推擬。武帝顧命,情深尊嫡,密圖遠算,意在求安。以明帝同起布衣,用存顧托,遂韜末命于近戚,寄重任於疏親。以為子弟布列,外有強大之固,支庶中立,可息覬覦之謀,表裏相維,洊隆家國。曾不慮機能運衡,權可制眾,宗族殲滅,一至於斯。曹植之言,遠有致矣。