臨川王
高帝が即位すると、荊州刺史となり、都督を加えられ、臨川王に封ぜられた。かつて銭を都に送って物品を買わせた際、献策する者がいて、江陵で貨物を買い、都に持ち帰って交換すれば、わずかながら利益が得られると言った。蕭映は笑って言った、「私は商人か、それでまた利益を求めるというのか」。都督・揚州刺史に改めて任ぜられた。職務に臨んで聡明敏速であり、府州の曹局は皆重ね足をして禁令を奉じ、宋の彭城王劉義康以来、このようなことはなかった。
長沙王
高帝が即位すると、蕭晃が政事を上奏するたびに、典簽によって裁断され、蕭晃は彼を殺した。上(高帝)は大いに怒り、手詔を下して杖罰を与えた。南徐州刺史に遷り、都督を加えられた。武帝が皇太子であった時、武進陵に参拝し、曲阿の後湖で隊列を競わせ、蕭晃に馬軍を統率させた。上(高帝)はこれを聞いて、また快く思わなかった。臨終に際し、蕭晃のことを武帝に託し、輦轂(天子の車駕)に近い藩国に処して、遠くに出させないようにと言った。
後に車騎将軍・侍中に拝された。薨去し、開府儀同三司を追贈された。武帝がかつて鍾山に行幸した時、蕭晃が従駕した。馬矟(馬上用の矛)で道端の枯れた切り株を刺し、上(武帝)が左右の者数人に引かせたが、銀の巻きつけ(装飾)が皆巻き上がって矟は抜けず、そこで蕭晃に再び馬を走らせて抜かせると、手に応じてすぐに抜けた。遠方の州から駿馬が献上されるたびに、上は蕭晃に華林園で調教試乗させた。高帝は常に「これは我が家の任城王(曹彰)である」と言った。武帝はこの意に沿って、故に諡を威とした。
武陵王
高帝は方伯(地方長官)であったが、住居は非常に貧しく、諸子が書を学ぶにも紙筆がなかった。蕭曄は常に指で空中や掌に画いて字を学び、遂に篆法に巧みとなった。幼少時にはまた棋局もなく、葦を割いて片とし、縦横に並べて棋盤とし、指で点じて行く勢いを示し、遂には名品に至った。
性質は剛直で才知に秀で、諸王と共に短句の詩を作り、謝霊運の体を学び、高帝に呈した。帝は答えて曰く、「汝の二十字を見るに、諸児の作中、最も優れたる者なり。但し康楽(謝霊運)は放蕩にして、体を作るに首尾を弁ぜず、安仁(潘岳)、士衡(陸機)は深く宗尚すべく、顔延之は抑えて其の次なり」と。
性質は財を軽んじ義を重んじ、古人の風有り。会稽を罷めて都に還る時、斎中の銭万に満たず、俸禄の入る所は皆、参佐・賓僚と共にす。常に曰く、「兄が天子を作るに、何ぞ弟の銭無きを畏れん」と。居止は身に附く所須のみ。後堂の山を名づけて首陽とす、蓋し貧薄を怨むなり。
嘗て武帝の前で竟陵王の子良と囲碁を打ち、子良大いに敗北す。退くに及び、豫章文獻王(蕭嶷)曄に謂ひて曰く、「汝は司徒(子良)と手談す、故に小しく相推譲すべし」と。答えて曰く、「曄立身以来、未だ一口の妄語を嘗めず」と。心を執ること疎にして婞(強情)なり、偏に悔ゆるを知らず。文章を好み、射は当時に独絶す。琅邪の王瞻も亦た射を善くすると称せられ、然れども曄に及ばず。
武帝、豫章王嶷の東田に幸し、諸長王を宴す、独り曄を召さず。嶷曰く、「風景殊に美し、今日は甚だ武陵(曄)を憶ふ」と。上仍ひて使ひて射せしむ、屡発命中す、四坐を顧みて曰く、「手如何」と。上の神色甚だ怪し、嶷曰く、「阿五(曄)常日は此の如くせず、今は謂ふべし天威を仰ぎ藉るなり」と。帝の意乃ち釈る。後に華林にて射賭し、凡そ六箭、五は皮を破り一は破らず、銭五万文を賜ふ。又上酒を挙げて曄を勧め、曰く、「陛下常に此の処を以て臣を許さず」と。上顔を回して答えず。
豫章王、邸に土山を築き、桐竹を列ね植え、号して桐山とす。武帝之に幸し、酒を置きて楽しましめ、臨川王映を顧みて曰く、「王邸にも亦た嘉名有りや否や」と。映曰く、「臣静を棲むるを好む、因りて以て称と為す」と。又曄に問ふ、曄曰く、「臣が山は卑し、曾て霊昭景を棲ますこと無く、唯だ薇蕨有るのみ、直ちに首陽山と号す」と。帝曰く、「此れ直ちに労者の歌なり」と。
久しくして出でて江州刺史と為る。上、曄の鎮に出づるに方り、其の宅を求めて諸皇子に給せんとし、舍人を遣わして旨を諭す。曄曰く、「先帝臣に此の宅を賜ひ、臣をして歌哭する所有らしむ。陛下州を以て宅に易へんと欲す、臣請ふ宅を以て州に易へず」と。帝之を恨む。鎮に至ること百余日、典簽の趙渥之曄の得失を啓す、征し還して左戸尚書と為す。太常卿に遷る。累りて志を得ず。
冬節の問訊に、諸王皆出で、曄独り後より来る。上已に便殿に還り、曄の至るを聞き、引見し、之を問ふ。曄牛の羸れて路を取ること能はざると称す。上車府に敕し、副えの御牛一頭を給す。主客に敕し、自今諸王来りて例に随はざる者は、復た通さず。
公事より還り、竟陵王子良の宅を過ぐ。冬月、道に乞人に逢ひ、襦を脱ぎて之に与ふ。子良曄の衣の単なるを見て、襦を進めて曄に与ふ。曄曰く、「我と向の人と亦た復た何の異なる有らん」と。尚書令の王儉曄に詣る、曄儉を留めて食を設く、盤中の菘菜と鱯魚のみ。儉其の率真を重んじ、飽食して尽く歓びて去る。
安成王
鄱陽王
累遷して丹陽尹と為る。永明十一年、領軍将軍と為る。鏘は和悌美令にして、性謙慎、文章を好み、武帝に寵有り。領軍の授けは、斉室諸王未だ為さざる所、鏘官に在りて事を理むるに壅がること無く、当時に之を称す。車駕游幸する時、常に甲仗衛従し、恩待は豫章王嶷に次ぐ。其の年、油絡車を給さる。
桂陽王
鄱陽王の害せらるるを見て、蕭鑠は中軍將軍・開府儀同三司に遷る。自ら安からず、東府に至り明帝を見る。出でてより、存亡の計を処分す。侍讀山悰に謂いて曰く、「吾前日王を覲ししに、王流涕嗚咽す。而して鄱陽・隨郡誅せらる。今日王を見しに、王又流涕して愧色有り。其れ吾に在るか」と。其の夜三更、中兵至り、見害さる。
始興王
先ず劫帥韓武方常に黨千餘人を聚め、流を断ち暴を為し、郡縣禁ずる能わず、行旅断絶す。蕭鑒行きて上明に至る。武方乃ち出でて降る。長史虞悰等咸に之を殺すを請う。蕭鑒曰く、「武方暴を為すこと積年、所在制する能わず。今降りて殺さるれば、信を失い、且つ善を勧むる無からん」と。是に於いて台に啓す。果たして宥さる。是より巴西蠻夷凶悪なるも、皆風望して降附す。行きて新城に次ぐ。道路籍籍として、陳顯達大いに士馬を選び、征に就くを肯ぜずと云う。巴西太守陰智伯も亦然りと為す。乃ち新城に十許日停まり、典簽張曇皙を遣わして形勢を観さしむ。俄にして顯達使人郭安明・朱公恩を遣わし書を奉り遺わす。咸に蕭鑒に之を執るを勧む。蕭鑒曰く、「顯達本朝に節を立て、必ず自ら此れ無からん。曇皙還りて若し同異有らば、安明等を執るも未だ晩からず」と。二日居りて、曇皙還る。顯達家累を遣わして已に城を出だし、日夕殿下の至るを望むと説く。是に於いて乃ち前に進む。時に年十四。
學を好み、文を属するに善く、華飾を重んぜず、器服清素、高士の風有り。記室參軍蔡仲熊と張儀樓に登り、先言往行及び蜀土の人物を商略す。蕭鑒言辭和辯、仲熊應對滞ること無し。當時以て盛事と為す。
州城北門常に閉ざして開かず。蕭鑒其の故を虞悰に問う。悰答えて曰く、「蜀中夷暴多く、時に抄掠城下に至る。故に相承きて之を閉づ」と。蕭鑒曰く、「古人云う、'善く閉ずるは關楗無し'と。且つ德に在りて門に在らず」と。即ち之を開かしむ。戎夷義を慕い、是より清謐なり。州園地に古塚を得る。復た棺無く、但だ石槨有り。銅器十餘種、並びに古形。玉璧三枚。珍寶甚だ多く、皆識す可からず。金銀を以て蠶蛇の形を為す者数斗。又朱沙を以て阜と為し、水銀を以て池と為す。左右咸に之を取るを勧む。蕭鑒曰く、「皇太子昔雍に在りし時、古塚を発する者有り、玉鏡・玉屏風・玉匣の属を得て、皆将に都に還さんとす。吾意常に同ぜず」と。乃ち功曹何佇を遣わして之が為に墳を起さしめ、諸寶物一も犯さしめず。
性甚だ清く、蜀に積年あり、未だ嘗て營造する所無く、資用一歳三萬に満たず。王儉常に歎じて云く、「始興王尊貴と雖も、而行履皆素士なり」と。時に廣漢什邡の人段祖有り、錞於を以て蕭鑒に献ず。古の禮器なり。高さ三尺六寸六分、圍み三尺四寸、圓きこと筩の如く、銅色漆の如く黒く、甚だ薄し。上に銅馬有り、繩を以て馬を縣げ、地を去ること尺餘ならしめ、之に水を灌ぐ。又器を以て水を下に盛り、芒莖を以て心に當て淳於に跪き注ぐ。手を以て芒を振れば、則ち聲雷の如く、清響良久にして乃ち絶ゆ。古樂を節する所以なり。五年、蕭鑒龍角一枚を献ず。長さ九尺三寸、色紅く、文有り。
九年、散騎常侍・秘書監と為り、石頭戍事を領す。上蕭鑒と久しく別るるを以て、車駕石頭に幸し、宴會賞賜す。尋いで左衛將軍に遷る。未だ拜せず、疾に遇う。上南康王蕭子琳の為に青楊巷第を起し、新たに成る。車駕後宮と第に幸し樂飲す。其の日蕭鑒疾甚だし。上騎を遣わし詔して疾を問わしむること相継ぎ、之が為に樂を止む。尋いで薨ず。
江夏王
性質は方正で整っており、書を学ぶことを好んだ。張家には紙や筆がなく、そこで井戸の欄干に寄りかかって書を書き、書き終わるとそれを洗い落とし、また書き直すことを、数ヶ月にわたって繰り返した。また、朝起きても窓の塵を払おうとせず、まず塵の上に書いて文字を学んだ。
五歳の時、高帝が鳳尾諾(書体の一種)を学ばせると、一度学んだだけで巧みになった。高帝は大いに喜び、玉の騏驎(麒麟)を賜って言った。「騏驎で鳳尾を賞するのだ」。十歳になる頃には、すでに文章を作ることができた。武帝(蕭賾)の時代、藩邸(諸王の邸宅)の規律は厳しく、諸王は異書(正統でない書物)を読むことが許されず、五経のほかは孝子図を見ることしかできなかった。蕭鋒は密かに人を市井の街巷に遣わして図書を買い求め、一ヶ月のうちに、ほぼ揃えてしまった。
琴と書を好んだのは、天性でもあった。かつて武帝に拝謁し、宝装の琴を賜ると、御前でそれを弾き、大いに賞賛された。帝は鄱陽王蕭鏘に言った。「闍梨(蕭鋒)の琴も柳令(柳世隆か)の次第である。彼は何事にも意を用いているようだから、人を治めることで試してみたい」。蕭鏘が言った。「昔、鄒忌が琴を弾き、威王が国政を委ねた故事があります」。そこで(蕭鋒は)南徐州刺史として出された。人と交わることを善くし、行事の王文和や別駕の江祏らと、皆親しく交わった。後に文和が益州に召し出されることになり、酒宴を設けて別れを告げると、文和は涙を流して言った。「下官は若い頃から詩を作ったことはありませんでしたが、今日、別れを惜しむあまり、知らず知らず性から文が湧き出ました」。王儉はこれを聞いて言った。「江夏王は素絲を善く染める者と言えよう」。
蕭鋒は武力を備えていた。明帝が諸王を殺害した時、蕭鋒は手紙を送って詰問・責めたが、側近たちは取り次がなかった。明帝は彼を深く恐れ、邸宅で捕らえることを敢えなかった。蕭鋒が出て車に乗ろうとした時、兵士たちが車に乗り込んで拘束しようとしたが、蕭鋒は手で数人を撃退し、皆その場で倒れた。そこで(兵士たちは)彼を害した。江斅はその死を聞き、涙を流して言った。「芳蘭も門前にあれば鋤かざるを得ない。あの『修柏の賦』のゆえであろうか」。
南平王
宜都王
清く悟り、学問と行いがあった。永明十一年(493年)、南豫州刺史・都督二州軍事となった。庶務(行政実務)を経験していなかったが、雅やかに人心を得た。挙動はしばしば簽帥(典簽)に制約され、思い立ったことも多く実行できなかった。州鎮は姑孰にあった。当時、人が桓溫の娘の墓を発掘し、金の巾箱(小箱)を得た。金糸で編んだ篾(竹ひご)で作られた厳しい器(荘厳な容器)であり、また金の蚕や銀の繭などの物が甚だ多かった。条を立てて上奏して知らせると、郁林王(蕭昭業)は勅してその物を蕭鑑に賜わろうとした。蕭鑑は言った。「今、過去の物を取るならば、後には今の物を取ることになる。このように循環すれば、熟慮せざるを得ない」。長史の蔡約を自ら往かせて修復させ、微細なものも犯さなかった。
十歳の時、吉景曜と先人の言行について議論していた。側近が誤って柟榴(楠と石榴)の屏風を押し倒し、その背中に倒れかかったが、顔色は変わらず、談話も途切れず、また顧みもしなかった。ますます射術に優れ、常に的(堋的)が広すぎるとして言った。「終日、侯(的)を射るなど、何の難しいことがあろうか」。そこで甘蔗を取って地面に挿し、百歩の距離からそれを射ると、十発十中した。
永明年間(483-493年)、諸王は三十歳未満では妾を蓄えてはならないという制があった。武帝が崩御した後、側近の者を娶るよう勧める者がいたが、蕭鑑は言った。「邸内に使役する者がいないわけではないが、先朝の遺旨である以上、どうして忍んで違えようか」。
晋熙王
河東王
初めに鉉が三四歳の時、高帝が昼寝をして髪を束ねていると、鉉が高帝の腹の上に上って縄を弄んだので、高帝は因ってその縄を鉉に賜った。崩御の後、鉉は宝函にその縄を収めて、年毎に開けては見て、涙を流して嗚咽した。人柄は甚だ凡庸であったが、この一点においては至情を示した。
建武年間、高帝・武帝の子孫は憂慮と疑念を抱いた。鉉が朝見する時は、常に身をかがめて俯し、正しく歩き直視することができなかった。間もなく侍中・衛將軍に遷った。
【論】
論じて言う。豫章文獻王は珪璋の質をもって、早くより天姿を表し、己の行うところの安んずる所に従い、忠敬に率いられた。代宗(武帝)の議が早くより皇矚に隆盛であったとはいえ、天倫の愛は永明年間に於いて損なわれることはなく、故に「仁をなすは己に由る」とは虚言ではないと知られる。宋が晉の終わりを受けてより、馬氏は遂に廃姓となり、齊が宋の禅を受けると、劉宗は尽く誅夷を見、梁武が齊を革むるに当たっては、前の轍を取らず、子恪兄弟を皆録用したのは、梁武の弘裕を見るも、また文獻王の余慶を表している。昔、陳思王(曹植)の上表に言う、「権の存する所では、疎なりとも必ず重く、勢の去る所では、親なりとも必ず軽し」と。この言の本を推せば、実に固本を存する所以である。然るに就国の典は、既に代と共に革まり、卿士が朝に入り、蕃輔として貴ばれ、皇王は体を托して、同じく尊極を稟る。仕えるに常の資なく、秩には恒の数あり、礼と地と兼ねて隆んずれば、推擬を生じ易い。武帝の顧命は、尊嫡に情深く、密かに遠算を図り、安きを求めるに意があった。明帝が同じく布衣より起り、顧托を存するに用い、遂に末命を近戚に韜め、重任を疏親に寄せた。子弟を布列すれば、外に強大の固き有り、支庶中立すれば、覬覦の謀を息ます可しと以為い、表裏相い維り、重ねて家国を隆んずるであろうとした。曾て機が衡を運び、権が衆を制することを慮らず、宗族殲滅、一に斯くの如きに至るとは。曹植の言は、遠く致す所有りと言えよう。