南史
巻四十三 列傳第三十三 齊高帝諸子下
臨川王
臨川獻王蕭映は字を宣光といい、高帝の第三子である。幼少より聡明で悟りが早く、言葉や笑顔が美しく、立ち居振る舞いに優れていた。宋に仕えて給事黄門侍郎・南兗州刺史の位にあり、吏事に心を配り、配下の者は皆厳粛に従い、命令は行きわたり禁止事項は守られた。
高帝が即位すると、荊州刺史となり、 都督 を加えられ、臨川王に封ぜられた。かつて銭を都に送って物品を買わせた際、献策する者がいて、江陵で貨物を買い、都に持ち帰って交換すれば、わずかながら利益が得られると言った。蕭映は笑って言った、「私は商人か、それでまた利益を求めるというのか」。 都督 ・揚州刺史に改めて任ぜられた。職務に臨んで聡明敏速であり、府州の曹局は皆重ね足をして禁令を奉じ、宋の彭城王劉義康以来、このようなことはなかった。
永明元年、侍中・驃騎将軍となった。五年、本号のまま開府儀同三司となった。七年に薨去した。蕭映は騎射を得意とし、声律に通じ、左右の書(書体)と左右の射(弓術)に巧みで、賓客への応接は風韻が美しかった。薨去すると、朝野を問わず惜しまれなかった。 司空 を追贈された。九人の子は皆侯に封ぜられた。
長子の子 晉 は、永元の初めに侍中となり、梁に入って高平太守となった。第二子の子遊は州陵侯で、黄門侍郎となった。謀反を企て、兄弟ともに誅殺された。
長沙王
長沙威王蕭晃は字を宣明といい、高帝の第四子である。若い頃から武勇に優れ、高帝に愛された。升明二年、兄の蕭映に代わって淮南・宣城二郡の太守となった。蕭晃は弓馬に長け、初め沈攸之の乱が起こると、蕭晃は多く武具を身につけて従い、赫々として都の街を行き、当時の人はこれについて「煥煥たる蕭四の傘」と言った。その年、西中郎将・ 豫 州刺史に遷り、二州諸軍事を監督した。
高帝が即位すると、蕭晃が 政 事を上奏するたびに、典簽によって裁断され、蕭晃は彼を殺した。上(高帝)は大いに怒り、手詔を下して杖罰を与えた。南徐州刺史に遷り、 都督 を加えられた。武帝が皇太子であった時、武進陵に参拝し、曲阿の後湖で隊列を競わせ、蕭晃に馬軍を統率させた。上(高帝)はこれを聞いて、また快く思わなかった。臨終に際し、蕭晃のことを武帝に託し、輦轂(天子の車駕)に近い藩国に処して、遠くに出させないようにと言った。
永明元年、蕭晃を 都督 ・南徐州刺史とした。都に入って 中書監 となった。当時、諸王が武器を蓄えることを禁じており、都にいる者は、捉刀(護衛)の左右四十人を置くのみであった。蕭晃は武具を飾ることを好み、徐州を罷めて帰還する際、私的に数百人分の武器を載せて都に帰ったが、禁司に発覚し、それらは江中に投棄された。帝(武帝)はこれを聞いて大いに怒り、法によって糾明しようとした。 豫 章王蕭嶷が叩頭して涙を流し、「蕭晃の罪は確かに赦すに足りませんが、陛下には先朝(高帝)が白象を思われたことを思い出していただきたい」と言った。白象は蕭晃の幼名である。上(武帝)もまた涙を流した。高帝が危篤の時、武帝に戒めて「宋氏がもし骨肉で互いに謀らなかったならば、他の族がどうしてその弊に乗ずることができようか。汝は深く戒めよ」と言った。故に武帝は終始異なる意図を持つことはなかったが、蕭晃もまた親しく寵愛されることはなかった。当時の論者は、武帝を魏の文帝より優れ、漢の明帝には及ばないとした。
後に車騎将軍・侍中に拝された。薨去し、開府儀同三司を追贈された。武帝がかつて鍾山に行幸した時、蕭晃が従駕した。馬矟(馬上用の矛)で道端の枯れた切り株を刺し、上(武帝)が左右の者数人に引かせたが、銀の巻きつけ(装飾)が皆巻き上がって矟は抜けず、そこで蕭晃に再び馬を走らせて抜かせると、手に応じてすぐに抜けた。遠方の州から駿馬が献上されるたびに、上は蕭晃に華林園で調教試乗させた。高帝は常に「これは我が家の任城王(曹彰)である」と言った。武帝はこの意に沿って、故に諡を威とした。
武陵王
武陵昭王蕭曄は字を宣昭といい、高帝の第五子である。母の羅氏は、高帝に従って淮陰におり、罪により誅殺された。蕭曄は四歳の時、成人と変わらず慕い悲しみ、慟哭するたびに血を吐いた。高帝は武帝に命じて「三昧の至性がこのようであるから、おそらく保たないだろう。汝は彼と共に住み、常に(悲しみを)抑えさせよ」と言った。三昧は蕭曄の幼名である。故に蕭曄は愛された。
高帝は方伯(地方長官)であったが、住居は非常に貧しく、諸子が書を学ぶにも紙筆がなかった。蕭曄は常に指で空中や掌に画いて字を学び、遂に篆法に巧みとなった。幼少時にはまた棋局もなく、葦を割いて片とし、縦横に並べて棋盤とし、指で点じて行く勢いを示し、遂には名品に至った。
性質は剛直で才知に秀で、諸王と共に短句の詩を作り、謝霊運の体を学び、高帝に呈した。帝は答えて曰く、「汝の二十字を見るに、諸児の作中、最も優れたる者なり。但し康楽(謝霊運)は放蕩にして、体を作るに首尾を弁ぜず、安仁(潘岳)、士衡(陸機)は深く宗尚すべく、顔延之は抑えて其の次なり」と。
建元二年、会稽太守となり、 都督 を加えられる。上(武帝)は儒士の劉瓛を郡に遣わし、曄に五経を講ぜしむ。武帝即位後、中書令・祠部尚書を歴任す。巫覡或いは曄に非常の相有りと言い、曄これにより自ら負う。武帝之を聞き、故に寵無く、未だ方嶽(地方長官)の任に処さず。御坐の曲宴にて、酔って地に伏し、貂(冠の飾り)が肉盤に触る。帝笑いて曰く、「貂を汚す」と。対えて曰く、「陛下其の羽毛を愛し、而して其の骨肉を疎んず」と。帝悦ばず。
性質は財を軽んじ義を重んじ、古人の風有り。会稽を罷めて都に還る時、斎中の銭万に満たず、俸禄の入る所は皆、参佐・賓僚と共にす。常に曰く、「兄が天子を作るに、何ぞ弟の銭無きを畏れん」と。居止は身に附く所須のみ。後堂の山を名づけて首陽とす、蓋し貧薄を怨むなり。
嘗て武帝の前で竟陵王の子良と囲碁を打ち、子良大いに敗北す。退くに及び、 豫 章文獻王(蕭嶷)曄に謂ひて曰く、「汝は 司徒 (子良)と手談す、故に小しく相推譲すべし」と。答えて曰く、「曄立身以来、未だ一口の妄語を嘗めず」と。心を執ること疎にして婞(強情)なり、偏に悔ゆるを知らず。文章を好み、射は当時に独絶す。琅邪の王瞻も亦た射を善くすると称せられ、然れども曄に及ばず。
武帝、 豫 章王嶷の東田に幸し、諸長王を宴す、独り曄を召さず。嶷曰く、「風景殊に美し、今日は甚だ武陵(曄)を憶ふ」と。上仍ひて使ひて射せしむ、屡発命中す、四坐を顧みて曰く、「手如何」と。上の神色甚だ怪し、嶷曰く、「阿五(曄)常日は此の如くせず、今は謂ふべし天威を仰ぎ藉るなり」と。帝の意乃ち釈る。後に華林にて射賭し、凡そ六箭、五は皮を破り一は破らず、銭五万文を賜ふ。又上酒を挙げて曄を勧め、曰く、「陛下常に此の処を以て臣を許さず」と。上顔を回して答えず。
豫 章王、邸に土山を築き、桐竹を列ね植え、号して桐山とす。武帝之に幸し、酒を置きて楽しましめ、臨川王映を顧みて曰く、「王邸にも亦た嘉名有りや否や」と。映曰く、「臣静を棲むるを好む、因りて以て称と為す」と。又曄に問ふ、曄曰く、「臣が山は卑し、曾て霊昭景を棲ますこと無く、唯だ薇蕨有るのみ、直ちに首陽山と号す」と。帝曰く、「此れ直ちに労者の歌なり」と。
久しくして出でて江州刺史と為る。上、曄の鎮に出づるに方り、其の宅を求めて諸皇子に給せんとし、舍人を遣わして旨を諭す。曄曰く、「先帝臣に此の宅を賜ひ、臣をして歌哭する所有らしむ。陛下州を以て宅に易へんと欲す、臣請ふ宅を以て州に易へず」と。帝之を恨む。鎮に至ること百余日、典簽の趙渥之曄の得失を啓す、征し還して左戸尚書と為す。太常卿に遷る。累りて志を得ず。
冬節の問訊に、諸王皆出で、曄独り後より来る。上已に便殿に還り、曄の至るを聞き、引見し、之を問ふ。曄牛の羸れて路を取ること能はざると称す。上車府に敕し、副えの御牛一頭を給す。主客に敕し、自今諸王来りて例に随はざる者は、復た通さず。
公事より還り、竟陵王子良の宅を過ぐ。冬月、道に乞人に逢ひ、襦を脱ぎて之に与ふ。子良曄の衣の単なるを見て、襦を進めて曄に与ふ。曄曰く、「我と向の人と亦た復た何の異なる有らん」と。 尚書令 の王儉曄に詣る、曄儉を留めて食を設く、盤中の菘菜と鱯魚のみ。儉其の率真を重んじ、飽食して尽く歓びて去る。
尋いで丹陽尹と為り、始めて復た行事を置かず、自ら親政を得。侍中・護軍将軍に転じ、油絡車を給され、又扶二人を給さる。武帝崩臨に際し、遺詔にて衛将軍・開府儀同三司と為る。大行殯に在り、竟陵王子良殿内に在り、太孫未だ至らず、衆論喧しく疑ふ。曄衆中に言ひて曰く、「若し長を立てば、則ち応に我に在るべく、嫡を立てば、則ち応に太孫を立つべし」と。郁林王立つに及び、甚だ馮頼せらる。隆昌元年に薨じ、 司空 を贈られ、班剣二十人。
安成王
安成恭王蕭暠、字は宣曜、高帝の第六子なり。性質清和、疾多くす。位を歴て南中郎将・江州刺史、侍中、歩兵 校尉 を領し、中書令。永明九年、 散騎常侍 ・秘書監と為り、石頭戍事を領す。夏に及びて薨ず。
鄱陽王
鄱陽王蕭鏘、字は宣韶、高帝の第七子なり。建元末、武帝即位し、雍州刺史と為り、 都督 を加えらる。武帝服除け、鏘方に還り、始めて入覲し拝するに便ち涕を流す。武帝愕然とし、其の故を問ふ。鏘涙を収めて曰く、「臣奉るに違ふこと弥年、今顔色を奉るに、聖顔損瘦せり、是を以て泣くのみ」と。武帝歎じて曰く、「我復た是れ此の一弟有り」と。
累遷して丹陽尹と為る。永明十一年、領軍将軍と為る。鏘は和悌美令にして、性謙慎、文章を好み、武帝に寵有り。領軍の授けは、斉室諸王未だ為さざる所、鏘官に在りて事を理むるに壅がること無く、当時に之を称す。車駕游幸する時、常に甲仗衛従し、恩待は 豫 章王嶷に次ぐ。其の年、油絡車を給さる。
隆昌元年、尚書左僕射に転じ、侍中・驃騎將軍・開府儀同三司に遷り、兵を領し佐を置く。蕭鏘は雍容として物情を得、鬱林王に依信された。鬱林王は明帝を心に疑い、諸王の問訊の際、獨り蕭鏘を留めて謂いて曰く、「鸞(明帝)が法身(武帝)に対して如何であったと聞くか」と。蕭鏘曰く、「臣下の蕭鸞は宗戚の中で最も年長であり、且つ先帝の寄託を受け、臣等は年皆なお少壮、朝廷の幹たる者は、唯だ蕭鸞一人のみ。願わくは陛下慮りと為さざらんことを」と。鬱林王は退いて徐龍駒に謂いて曰く、「我公と共に計って蕭鸞を取らんと欲す。公既に同ぜず、我獨りで辦うること能わず、且つまた暫く小しく聴かん」と。鬱林王の廢されるに及び、蕭鏘は竟に知らなかった。
延興元年、位を進めて 司徒 と為り、侍中は元の如し。明帝が東府を鎮め、権威稍々異なるあり、蕭鏘の往く毎に、明帝は履を沓げて車まで出迎え、語は家國に及び、言と涙俱に下る。蕭鏘はこれにより推して之を信ず。而して宮台内は皆蕭鏘に属意し、入宮を勧めて兵を発し政を輔けしむ。制局監謝粲、蕭鏘及び隨王蕭子隆に説いて曰く、「殿下但だ油壁車に乗って宮に入り、天子を出だして朝堂に置き、二王夾輔して號令し、粲等城門を閉じて仗を上れば、誰か敢えて同ぜざらん。宣城公(明帝)は政に井に投じて活を求むるのみ、豈に一步動かんや。東城の 人政 に共に縛りて送るのみ」と。蕭子隆は計を定めんと欲す。蕭鏘は上臺の兵力既に悉く東府に在り、且つ難捷を慮り、意甚だ猶 豫 す。馬隊主劉巨は武帝時の舊人、蕭鏘に詣でて間を請い、叩頭して蕭鏘に事を立つるを勧む。蕭鏘は駕を命じて将に入らんとし、復た回還して内に入り、母陸太妃と別る。日暮れて行を成さず。典簽謀を知りて之を告ぐ。数日を経て、明帝二千人を遣わして蕭鏘の宅を囲み、蕭鏘を害し、謝粲等皆見殺さる。凡そ諸王の害せらるるは、皆夜を以て兵を遣わし宅を囲み、或いは斧を以て關を斫ち牆を排し、叫噪して入り、家財は皆封籍せらる。
桂陽王
桂陽王蕭鑠は字を宣朗と云い、高帝第八子なり。永明七年中書令と為り、 散騎常侍 を加う。時に鄱陽王蕭鏘は文章を好み、蕭鑠は名理を好み、人鄱桂と称す。
蕭鑠は清羸にして冷疾有り、常に枕臥す。武帝臨視し、床帳衾褥を賜う。性理偏詖にして、其の賞興に遇えば、則ち詩酒連日、情に廢する所あれば、則ち兄弟通ぜず。隆昌元年、前將軍を加え、油絡車を給し、並びに扶二人を給す。
鄱陽王の害せらるるを見て、蕭鑠は中軍將軍・開府儀同三司に遷る。自ら安からず、東府に至り明帝を見る。出でてより、存亡の計を処分す。侍讀山悰に謂いて曰く、「吾前日王を覲ししに、王流涕嗚咽す。而して鄱陽・隨郡誅せらる。今日王を見しに、王又流涕して愧色有り。其れ吾に在るか」と。其の夜三更、中兵至り、見害さる。
始興王
始興簡王蕭鑒は字を宣徹と云い、高帝第十子なり。性聰警。年八歳、生母を喪い、號慕人に過ぎ、数日中便ち骨立に至る。 豫 章文獻王之を聞き、其の首を撫でて嗚咽し、高帝に謂いて曰く、「此の兒操行人に異なり、其の濟わざるを恐る」と。高帝も亦悲しみ自ら勝えず。
初め廣興郡王に封ぜらる。袁彖時に秘書丞と為り、早く令譽有り。高帝蕭鑒を盛重し、乃ち彖を以て友と為す。後始興に改封す。 晉 以来、益州刺史は皆良将を以て之を為す。宋泰始中、益州市橋忽ち小洲を生ず。道士邵碩之を見て曰く、「貴王有りて州に臨まん」と。劉亮刺史と為り、齋前の石榴樹陵冬に華を生ず。亮以て碩に問う。碩曰く、「此れ狂華と謂い、宋諸劉滅亡の象なり。後二年君當に終わり、後九載宋當に滅びん。滅び後に王勝喜来たりて此の州を作らん。冀くは爾の時蜀土平らかなれ」と。碩は始康の人、元徽二年、忽ち人に告げて云く、「吾命終わらん」と。因りて臥して死す。後人碩が荊州上明に在るを見る。一隻の故履を以て左腳を縛り、而行甚だ疾く、遂に之く所を知らず。永明二年、武帝復た諸将を益州に用いず、始めて蕭鑒を以て益州刺史・督益寧二州軍事と為し、鼓吹一部を加う。「勝喜」の反語は「始興」なり。碩の言此に於いて乃ち驗わる。
先ず劫帥韓武方常に黨千餘人を聚め、流を断ち暴を為し、郡縣禁ずる能わず、行旅断絶す。蕭鑒行きて上明に至る。武方乃ち出でて降る。長史虞悰等咸に之を殺すを請う。蕭鑒曰く、「武方暴を為すこと積年、所在制する能わず。今降りて殺さるれば、信を失い、且つ善を勧むる無からん」と。是に於いて台に啓す。果たして宥さる。是より巴西蠻夷凶悪なるも、皆風望して降附す。行きて新城に次ぐ。道路籍籍として、陳顯達大いに士馬を選び、征に就くを肯ぜずと云う。巴西太守陰智伯も亦然りと為す。乃ち新城に十許日停まり、典簽張曇皙を遣わして形勢を観さしむ。俄にして顯達使人郭安明・朱公恩を遣わし書を奉り遺わす。咸に蕭鑒に之を執るを勧む。蕭鑒曰く、「顯達本朝に節を立て、必ず自ら此れ無からん。曇皙還りて若し同異有らば、安明等を執るも未だ晩からず」と。二日居りて、曇皙還る。顯達家累を遣わして已に城を出だし、日夕殿下の至るを望むと説く。是に於いて乃ち前に進む。時に年十四。
學を好み、文を属するに善く、華飾を重んぜず、器服清素、高士の風有り。記室參軍蔡仲熊と張儀樓に登り、先言往行及び蜀土の人物を商略す。蕭鑒言辭和辯、仲熊應對滞ること無し。當時以て盛事と為す。
州城北門常に閉ざして開かず。蕭鑒其の故を虞悰に問う。悰答えて曰く、「蜀中夷暴多く、時に抄掠城下に至る。故に相承きて之を閉づ」と。蕭鑒曰く、「古人云う、'善く閉ずるは關楗無し'と。且つ德に在りて門に在らず」と。即ち之を開かしむ。戎夷義を慕い、是より清謐なり。州園地に古塚を得る。復た棺無く、但だ石槨有り。銅器十餘種、並びに古形。玉璧三枚。珍寶甚だ多く、皆識す可からず。金銀を以て蠶蛇の形を為す者数斗。又朱沙を以て阜と為し、水銀を以て池と為す。左右咸に之を取るを勧む。蕭鑒曰く、「皇太子昔雍に在りし時、古塚を発する者有り、玉鏡・玉屏風・玉匣の属を得て、皆将に都に還さんとす。吾意常に同ぜず」と。乃ち功曹何佇を遣わして之が為に墳を起さしめ、諸寶物一も犯さしめず。
性甚だ清く、蜀に積年あり、未だ嘗て營造する所無く、資用一歳三萬に満たず。王儉常に歎じて云く、「始興王尊貴と雖も、而行履皆素士なり」と。時に廣漢什邡の人段祖有り、錞於を以て蕭鑒に献ず。古の禮器なり。高さ三尺六寸六分、圍み三尺四寸、圓きこと筩の如く、銅色漆の如く黒く、甚だ薄し。上に銅馬有り、繩を以て馬を縣げ、地を去ること尺餘ならしめ、之に水を灌ぐ。又器を以て水を下に盛り、芒莖を以て心に當て淳於に跪き注ぐ。手を以て芒を振れば、則ち聲雷の如く、清響良久にして乃ち絶ゆ。古樂を節する所以なり。五年、蕭鑒龍角一枚を献ず。長さ九尺三寸、色紅く、文有り。
九年、 散騎常侍 ・秘書監と為り、石頭戍事を領す。上蕭鑒と久しく別るるを以て、車駕石頭に幸し、宴會賞賜す。尋いで左衛將軍に遷る。未だ拜せず、疾に遇う。上南康王蕭子琳の為に青楊巷第を起し、新たに成る。車駕後宮と第に幸し樂飲す。其の日蕭鑒疾甚だし。上騎を遣わし詔して疾を問わしむること相継ぎ、之が為に樂を止む。尋いで薨ず。
江夏王
江夏王蕭鋒は字を宣穎といい、高帝(蕭道成)の第十二子である。母の張氏は容姿と徳行を備えていたが、宋の蒼梧王(劉昱)が彼女を強奪しようとし、さらに蕭鋒を害そうとした。高帝は大いに恐れ、旧宅に住まわせることを敢えず、張氏の家に匿わせた。時に四歳であった。
性質は方正で整っており、書を学ぶことを好んだ。張家には紙や筆がなく、そこで井戸の欄干に寄りかかって書を書き、書き終わるとそれを洗い落とし、また書き直すことを、数ヶ月にわたって繰り返した。また、朝起きても窓の塵を払おうとせず、まず塵の上に書いて文字を学んだ。
五歳の時、高帝が鳳尾諾(書体の一種)を学ばせると、一度学んだだけで巧みになった。高帝は大いに喜び、玉の騏驎(麒麟)を賜って言った。「騏驎で鳳尾を賞するのだ」。十歳になる頃には、すでに文章を作ることができた。武帝(蕭賾)の時代、藩邸(諸王の邸宅)の規律は厳しく、諸王は異書(正統でない書物)を読むことが許されず、五経のほかは孝子図を見ることしかできなかった。蕭鋒は密かに人を市井の街巷に遣わして図書を買い求め、一ヶ月のうちに、ほぼ揃えてしまった。
琴と書を好んだのは、天性でもあった。かつて武帝に拝謁し、宝装の琴を賜ると、御前でそれを弾き、大いに賞賛された。帝は鄱陽王蕭鏘に言った。「闍梨(蕭鋒)の琴も柳令(柳世隆か)の次第である。彼は何事にも意を用いているようだから、人を治めることで試してみたい」。蕭鏘が言った。「昔、鄒忌が琴を弾き、威王が国政を委ねた故事があります」。そこで(蕭鋒は)南徐州刺史として出された。人と交わることを善くし、行事の王文和や別駕の江祏らと、皆親しく交わった。後に文和が益州に召し出されることになり、酒宴を設けて別れを告げると、文和は涙を流して言った。「下官は若い頃から詩を作ったことはありませんでしたが、今日、別れを惜しむあまり、知らず知らず性から文が湧き出ました」。王儉はこれを聞いて言った。「江夏王は素絲を善く染める者と言えよう」。
書に巧みで、当時の蕃王の中で推されていた。南郡王蕭昭業もまた巧みと称され、武帝に言った。「臣の書は本来、江夏王に勝るべきです」。武帝は答えた。「闍梨が第一、法身が第二である」。法身は昭業の幼名、闍梨は蕭鋒の幼名である。
隆昌元年(494年)、侍中となり、 驍 騎将軍を兼任し、まもなく秘書監を加えられた。明帝(蕭鸞)が権力を握ると、蕃邸は危惧に陥った。江祏がかつて王晏に言ったことがある。「江夏王は才能と行いがあり、また巧みに跡を隠すこともできる。琴の道を羊景之に授けたが、景之は著名となり、江夏王は世間に才能を隠している。ただ七弦(琴)だけでなく、百家の学芸もまた同様である」。蕭鋒はこれを聞いて嘆息して言った。「江祏はまたもや混沌(渾沌)に眉を描くようなもので、益そうとしてかえって弊害をもたらすだけだ。寡人は声楽と酒に耽り、犬馬を好むだけで、平生において一毫の野心もない」。当時、これは話題となった。(蕭鋒は)常に憂鬱で楽しむことがなく、『修柏賦』を著して志を表した。その文に曰く、「既に群を殊にして抗い立ち、また貞を含みて挺びて正し。豈に春日に自ら芳ばんや、霜の下に在りて盛んなるに在り。沖風も其の枝を摧くこと能わず、積雪も其の性を改むること能わず。当年に坎壇すと雖も、庶幾くは後凋の詠うべきを」。時に鼎の業(帝位)はひそかに移り変わろうとしており、蕭鋒のみが慨然として匡復の志を抱いていたが、行事や典簽に制約されたため、成就しなかった。かつて明帝に謁見し、話の流れで蕭遙光の才力が委任に値するという意味に及んだ時、蕭鋒は答えて言った。「遙光の殿下に対する関係は、殿下の高皇(高帝)に対する関係と同じです。宗廟を衛り、社稷を安んずることは、実に寄託すべきところがあります」。明帝は顔色を失った。
蕭鋒は武力を備えていた。明帝が諸王を殺害した時、蕭鋒は手紙を送って詰問・責めたが、側近たちは取り次がなかった。明帝は彼を深く恐れ、邸宅で捕らえることを敢えなかった。蕭鋒が出て車に乗ろうとした時、兵士たちが車に乗り込んで拘束しようとしたが、蕭鋒は手で数人を撃退し、皆その場で倒れた。そこで(兵士たちは)彼を害した。江斅はその死を聞き、涙を流して言った。「芳蘭も門前にあれば鋤かざるを得ない。あの『修柏の賦』のゆえであろうか」。
南平王
南平王蕭銳は字を宣毅といい、高帝の第十五子である。左戸尚書の位にあり、朝廷での当直は勤勉で謹厳であり、病気を理由に休んだことはなかった。永明十年(492年)、南中郎将・湘州刺史として出された。延興元年(494年)、明帝が輔政となって諸王を害し、裴叔業を遣わして尋陽を平定させ、そのまま湘州に進軍させた。蕭銳の防合(護衛官)の周伯玉が大衆に向かって大声で言った。「これは天子の意ではない。今、叔業を斬り、兵を挙げて社稷を正せば、誰が敢えて同調しないことがあろうか」。蕭銳の典簽が左右の者を叱って彼を斬らせた。蕭銳は害され、伯玉は獄に下されて誅殺された。
宜都王
宜都王蕭鑑は字を宣儼といい、高帝の第十六子である。生後三歳で母を失った。物心がついてから、母の所在を尋ね、側近が早くに亡くなったと告げると、思い慕って菜食し、自ら悲しんだ。母の顔を知らないため、常に幽冥に祈請して、一度でも夢に見ることを求めた。六歳の時、遂に一人の女性の夢を見て、これが自分の母だと言った。蕭鑑は悲しみ泣き、以前の側近に向かってその容貌や衣服のことを話すと、全て生前の通りであり、聞く者は誰もが涙を流した。
清く悟り、学問と行いがあった。永明十一年(493年)、南 豫 州刺史・ 都督 二州軍事となった。庶務(行政実務)を経験していなかったが、雅やかに人心を得た。挙動はしばしば簽帥(典簽)に制約され、思い立ったことも多く実行できなかった。州鎮は姑孰にあった。当時、人が桓溫の娘の墓を発掘し、金の巾箱(小箱)を得た。金糸で編んだ篾(竹ひご)で作られた厳しい器(荘厳な容器)であり、また金の蚕や銀の繭などの物が甚だ多かった。条を立てて上奏して知らせると、郁林王(蕭昭業)は勅してその物を蕭鑑に賜わろうとした。蕭鑑は言った。「今、過去の物を取るならば、後には今の物を取ることになる。このように循環すれば、熟慮せざるを得ない」。長史の蔡約を自ら往かせて修復させ、微細なものも犯さなかった。
十歳の時、吉景曜と先人の言行について議論していた。側近が誤って柟榴(楠と石榴)の屏風を押し倒し、その背中に倒れかかったが、顔色は変わらず、談話も途切れず、また顧みもしなかった。ますます射術に優れ、常に的(堋的)が広すぎるとして言った。「終日、侯(的)を射るなど、何の難しいことがあろうか」。そこで甘蔗を取って地面に挿し、百歩の距離からそれを射ると、十発十中した。
永明年間(483-493年)、諸王は三十歳未満では妾を蓄えてはならないという制があった。武帝が崩御した後、側近の者を娶るよう勧める者がいたが、蕭鑑は言った。「邸内に使役する者がいないわけではないが、先朝の遺旨である以上、どうして忍んで違えようか」。
延興元年(494年)、明帝が高帝・武帝・文恵太子(蕭長懋)の諸子を誅殺すると、蕭鑑はこれを聞き、側近に寄りかかりながらゆったりと雅やかな歩みで、陸機の「魏武帝を弔う文」を詠んだ。「昔は四海を己が任と為し、死する則ち愛子を人に托す」。このように三度詠むと、側近は皆泣いた。後になって果たして呂文顯が薬を持って遣わされ、夜に聴事(政庁)に進んだ時、丁度八関斎(斎戒)の最中であった。蕭鑑は高座に上り、文顯に言った。「高皇は昔、君を寵任された。何事があって今日のような行いをするのか」。答えて言った。「出るを得ざるなり」。そこで仰いで薬を飲んだ。時に十八歳。身長は七尺あり、蕭鑑の風貌は兄の蕭嶷に似ており、皆、国を担う器と認めていた。死んだ時、識者は誰もが痛惜した。
初めに鑑が出合した時、年は七歳であり、陶弘景が侍読となって、八九年の間、大いに接遇を受けた。後に弘景が山に隠棲すると、忽ち鑑が来訪する夢を見て、惨然として別れを告げ、言うには、「某日に命が尽きる。身に罪は無く、後三年に某の家に生まれ出るであろう」と。弘景が幽冥の事を尋ねると、多くは秘して語らなかった。覚めた後、直ちに使者を都に遣わして参問させたところ、果たして事実と符合したので、弘景は因って『夢記』を著したという。
晋熙王
晋熙王蕭銶は字を宣攸といい、高帝の第十八子である。隆昌元年、 郢州 刺史の位にあった。延興元年に害された。
河東王
河東王蕭鉉は字を宣胤といい、高帝の第十九子である。母の張氏は高帝に寵愛され、鉉はまた最も幼かったので、特に心を留められた。高帝は臨終に際し、武帝に託し、武帝は大いに意を用いて、柳世隆の娘を娶らせて妃とした。武帝は群臣と共に新婦を見て、涙を流して自ら禁じえず、 豫 章王蕭嶷もまた嗚咽した。明帝が高帝の諸子を誅殺した時、鉉は高帝の愛した子であるため、また才能が弱く年も幼いことを理由として、全うすることができた。
初めに鉉が三四歳の時、高帝が昼寝をして髪を束ねていると、鉉が高帝の腹の上に上って縄を弄んだので、高帝は因ってその縄を鉉に賜った。崩御の後、鉉は宝函にその縄を収めて、年毎に開けては見て、涙を流して嗚咽した。人柄は甚だ凡庸であったが、この一点においては至情を示した。
建武年間、高帝・武帝の子孫は憂慮と疑念を抱いた。鉉が朝見する時は、常に身をかがめて俯し、正しく歩き直視することができなかった。間もなく侍中・衛將軍に遷った。
鉉は年が稍々長じた。四年、王晏を誅殺するに当たり、鉉を立てようと謀ったことを名目として、鉉は官を免ぜられ、王として邸に還り、外人と交際することを禁じられた。永泰元年、明帝の病が突然重くなると、遂に害された。捕吏が来たと聞いて、欣然として言うには、「死生は命なり、終に建安王(蕭子真)が奴隷となることを乞うて得られなかったようにはなるまい」と。仰いで毒を飲んで卒した。鉉の二人の子は幼児のまま、また殺された。
【論】
論じて言う。 豫 章文獻王は珪璋の質をもって、早くより天姿を表し、己の行うところの安んずる所に従い、忠敬に率いられた。代宗(武帝)の議が早くより皇矚に隆盛であったとはいえ、天倫の愛は永明年間に於いて損なわれることはなく、故に「仁をなすは己に由る」とは虚言ではないと知られる。宋が 晉 の終わりを受けてより、馬氏は遂に廃姓となり、齊が宋の禅を受けると、劉宗は尽く誅夷を見、梁武が齊を革むるに当たっては、前の轍を取らず、子恪兄弟を皆録用したのは、梁武の弘裕を見るも、また文獻王の余慶を表している。昔、陳思王(曹植)の上表に言う、「権の存する所では、疎なりとも必ず重く、勢の去る所では、親なりとも必ず軽し」と。この言の本を推せば、実に固本を存する所以である。然るに就国の典は、既に代と共に革まり、卿士が朝に入り、蕃輔として貴ばれ、皇王は体を托して、同じく尊極を稟る。仕えるに常の資なく、秩には恒の数あり、礼と地と兼ねて隆んずれば、推擬を生じ易い。武帝の顧命は、尊嫡に情深く、密かに遠算を図り、安きを求めるに意があった。明帝が同じく布衣より起り、顧托を存するに用い、遂に末命を近戚に韜め、重任を疏親に寄せた。子弟を布列すれば、外に強大の固き有り、支庶中立すれば、覬覦の謀を息ます可しと以為い、表裏相い維り、重ねて家国を隆んずるであろうとした。曾て機が衡を運び、権が衆を制することを慮らず、宗族殲滅、一に斯くの如きに至るとは。曹植の言は、遠く致す所有りと言えよう。