南史 巻四十二 列傳第三十二 齊高帝諸子上

南史

巻四十二 列傳第三十二 齊高帝諸子上

齊高帝には十九人の男子があった。昭皇后は武帝と 章文獻王蕭嶷を生み、謝貴嬪は臨川獻王蕭映と長沙威王蕭晃を生み、羅太妃は武陵昭王蕭曄を生み、任太妃は安成恭王蕭暠を生み、陸修儀は鄱陽王蕭鏘と しん 熙王蕭銶を生み、袁修容は桂陽王蕭鑠を生み、何太妃は始興簡王蕭鑑と宜都王蕭鏗を生み、區貴人は衡陽王蕭鈞を生み、張淑妃は江夏王蕭鋒と河東王蕭鉉を生み、李美人は南平王蕭銳を生んだ。第九、第十三、第十四、第十七の皇子は早世し、衡陽王蕭鈞は高帝の兄である元王の後を継いだ。

章王

章文獻王蕭嶷は字を宣儼といい、高帝の第二子である。寛仁で弘雅、大成の器量があり、高帝は特に鍾愛した。宋に仕えて尚書左戸郎、錢唐令となった。高帝が薛索兒を破り、西陽に改封されたとき、先の爵位を蕭嶷に賜り、 しん 壽縣侯とした。後に武陵内史となった。

時に沈攸之が賧(賠償金)を責め、荊州界内の諸蛮を討伐し、遂に五溪に及んだ。魚塩を禁断したため、群蛮は怨怒した。酉溪蛮の王田頭擬が沈攸之の使者を殺すと、攸之は賧千万を責め、頭擬は五百万を輸送したが、憤慨して死んだ。その弟の婁侯が立って さん 奪し、頭擬の子の田都は獠の中に逃げ込んだ。ここにおいて蛮部は大乱し、抄掠が郡城の下にまで至ったので、蕭嶷は隊主の張英兒を遣わしてこれを撃破した。田都は獠の中から出て立つことを請い、婁侯もまた帰附した。蕭嶷は婁侯を郡獄で誅し、田都にその父を継がせたので、蛮衆はようやく安んじた。

入朝して宋の順帝の驃騎從事中郎となった。 司徒 しと 袁粲 えんさん に詣でると、粲は人に言った、「後代の佳器である」と。

高帝が領軍府におられたとき、蕭嶷は青溪の宅に居た。蒼梧王が夜中に微行し、宅内を掩襲しようとしたが、蕭嶷は左右に命じて中庭で刀戟を舞わせた。蒼梧王は牆の間から窺って既に備えがあるのを見て、去った。高帝の憂慮危惧が切迫し、腹心の荀伯玉が帝に江北に渡って起兵するよう勧めた。蕭嶷は諫めて言った、「主上は狂凶で、人は自ら保てず、単独で道路を行くのは、功を立てやすい。外州で起兵するのは、勝つことは稀です。ここに計を立てるのは、万に一つも失うべきではありません」と。蒼梧王が斃れると、高帝は蕭嶷に報じて言った、「大事は既に決した。汝は明朝早く入朝せよ」と。順帝が即位すると、侍中に転じ、宮内の直衛を総べた。

沈攸之の難に際し、高帝は朝堂に入り、蕭嶷は出て東府を鎮守し、冠軍將軍を加えられた。 袁粲 えんさん が挙兵した夕方、丹陽丞の王遜が変を告げ、先に東府に至った。蕭嶷は帳内軍主の戴元孫に二千人を率いさせ、薛道深らと共に石頭に至らせた。門を焚く功績に、元孫は参与した。先に王蘊が部曲六十人を推薦して城防を助けさせたが、実は内応としようとしたのである。蕭嶷は王蘊が二心を抱いていることを知り、彼らに兵仗を与えず、外省に散在させた。難が起こって搜檢すると、皆既に逃亡していた。

上流が平定された後、武帝が尋陽から還った。蕭嶷は出て 都督 ととく ・江州刺史となった。定策の功により、永安縣公に改封された。やがて鎮西將軍・ 都督 ととく ・荊州刺史に転鎮した。時に高帝が輔政していたので、蕭嶷は倹約を旨とし、府州の儀仗や迎えの物を停めた。州に至ると、胸襟を開いて善を納れ、席を側らえて政を思った。王儉が蕭嶷に書を送って言った、「旧楚の地は蕭條で、連年多くの変故があり、政は荒れ人は散じ、実に緝理を要します。公が臨蒞されて間もないのに、英風はただ穆く、江漢は蘇生し、八荒は義を慕います。庾亮以来、荊州にこのような政はありません。古人が『期月にして成る』と言いましたが、公は旬日で教化を成し遂げられました。何と素晴らしいことでしょう」と。初め、沈攸之が衆を集めようとし、人に相告げさせたので、士庶で執役に坐した者が甚だ多かった。蕭嶷が鎮に至ると、一日に三千余人を遣わし、五年刑以下で台に連座しない囚人を見ては、皆これを赦して遣わした。市税が重いので、多くを寛免した。百姓は大いに悦んだ。禅譲の間、武帝は速やかに大業を定めようとしたが、蕭嶷はその事に依違し、黙して言うところがなかった。建元元年、高帝が即位すると、赦詔が未だ至らないうちに、蕭嶷は先に部内の升明二年以前の逋負を蠲除するよう下令した。侍中・ 尚書令 しょうしょれい 都督 ととく ・揚州刺史・驃騎大將軍・開府儀同三司に遷り、 章郡王に封ぜられた。

折しも魏軍が動いたので、詔により蕭嶷を南蠻 校尉 こうい ・荊湘二州刺史とし、八州を 都督 ととく させた。まもなく油絡俠望車を給された。二年、班劍二十人を給された。その夏、南蠻園の東南に館を開き学を立て、上表して状況を言上した。生員三十人を置き、旧族で父祖の位が正佐台郎であり、年齢二十五以下十五以上の者を取って補った。儒林参軍一人、文学祭酒一人、勸學從事二人を置いた。釈菜の礼を行った。穀物が過賤であったので、人が米をもって口銭に当てることを許し、斛を百と優評した。義陽の劫帥張群は亡命して積年、鼓行して賊となり、義陽・武陵・天門・南平の四郡界はその残破を被り、沈攸之が連討しても擒えず、末にはかえってこれを任用した。攸之が起事すると、張群はこれに従って郢に下ったが、途中で先に叛き、三溪に柴を結び、深険な地に拠った。蕭嶷は中兵参軍の虞欣祖を義陽太守とし、降意をもって誘い納れさせ、厚く礼を遺したが、座においてその首を斬った。その党は皆散じ、四郡は安寧を得た。

入朝して 中書監 ちゅうしょかん 司空 しくう ・揚州刺史となり、二州を 都督 ととく し、侍中は元の如く、兵を加え佐を置き、前軍臨川王蕭映の府の文武を 司空 しくう 府に配した。蕭嶷は将に都に還るにあたり、廨宇や路陌を修繕したが、東帰する部曲は府州の物を携えて城を出ることを許さなかった。江津を発つとき、見送りの士女数千人は皆涙を垂れた。蕭嶷は江陵を発って病に罹り、都に至っても癒えず、上は深く憂慮し、このために大赦を行った。三年六月壬子の赦令がこれである。病が癒えると、上は東府に幸し、金石の楽を設け、乗輿を宮の六門まで至らせた。

武帝が即位すると、位を進めて太尉とし、兵佐を増置し、侍中を解き、班劍三十人を増やした。建元年中、武帝が事によって旨を失い、高帝には嫡子を代えようとする意向が頗るあった。しかし蕭嶷は武帝に事えて恭悌の礼を尽くし、顔色に違忤したことがなかったので、武帝の友愛もまた深かった。性、至孝であり、高帝が崩ずると、哭泣過度で眼耳より皆出血した。

永明元年、太子太傅を領し、 中書監 ちゅうしょかん を解かれた。宋の武帝以来、州郡の秩俸及び雑供給は多く土地の産物に従い、一定の基準がなかった。蕭嶷は上表して明確に定めを立て、四方に頒布し、永く恒常の制度とすべきことを請い、これに従った。蕭嶷は朝務に参与しなかったが、事を言い謀を密かにするは多く信頼され採用された。喪服の期間が終わり、侍中を加えられた。宋の元嘉の制度では、諸王が斎閣に入る時は、白服の裙帽で人主に謁見することができ、ただ太極殿の四廂に出る時のみ朝衣を整えるのであった。これ以来、この事は一たび断たれていた。上(武帝)は蕭嶷と同母兄弟として睦まじく交わり、宮内の私宴では元嘉の制に依ることを許した。蕭嶷は固く辞し、勅命に奉じなかった。ただ車駕が邸宅に臨幸する時のみ、白服に烏紗帽を着けて侍宴した。衣服の制度に至るまで、動くごとに皆陳啓し、事を専制せず、務めて減省に従おうとしたが、いずれも許されなかった。また啓して言うには、「北第の旧邸は、元来甚だ華美であり、臣が往年に小眠斎を作った時は、皆補接して調達し、格制に背かなかった。要は檉柏の華で、一時的に新しく清浄にしたものである。東府にもまたこのような斎があり、これも華屋であるが、臣が突然二箇所の住居を持つことは、下情としてひそかに不安を覚えます。東宮の玄圃を訊ね訪ねると、柏屋があり、その造りは甚だ古拙である。臣はこれを取り壊して太子に奉りたいと思うが、前のことを失うだけでなく、また補接が既に多いため、移すことができず、また外の者たちが異論を唱えることを恐れる。東府の斎を修理するために送ることをお許しいただけるかどうか、お尋ねします」と。上は答えて言うには、「別紙を見た。汝は労疾であり、またどうして動かないことがあろうか。どうして煩わしく長い啓事を作るのか」と。結局従わなかった。

三年、文恵太子が孝経の講義を終えると、蕭嶷は太傅の職を解くことを請うたが、許されなかった。蕭嶷は常に満ち溢れることを憂慮し、また宴会の機会に因んで揚州刺史を解き竟陵王蕭子良に授けることを請うたが、上は終に許さず、言うには、「汝の一生の間、多くを言うな」と。

武帝が即位した後、頻繁に詔を発して陵墓を拝謁しようとしたが果たせず、蕭嶷を遣わして陵墓を拝謁させた。帰途、延陵の季子廟に立ち寄り、沸井を見物した。水牛が隊列に突進し、直兵が牛を捕らえて尋問しようとしたが、蕭嶷は許さず、絹一疋を取り、牛の角に横に結びつけ、その家に帰らせた。政治は寛厚にあり、故に朝野の歓心を得た。

四年、唐宇之の賊が起こると、蕭嶷は上に啓して言うには、「この度の小寇は、凶悪な愚か者から出ており、天網は広く覆っているから、論ずるに足りない。しかし聖明の世を治めるにあたり、幸いにもこのようでなくてよい。近頃、声や噂を借りて聞くところでは、皆何か理由があってそうなったと言っている。ただ近頃、大小の士庶は、しばしば小利を以て公に奉じ、損なうところが大きいことを顧みない。戸籍を調べて功巧を検べ、小塘を監督して救恤し、丁壮を隠し口数を匿うなど、凡そ諸々の条制は、実に怨みの府を長じている。これは目前の交利であって、天下の大計ではない。一室の中でさえ、まだ精しくできないのに、宇宙の内で、どうして周遍に洗い清めることができようか。公家は何ぞ人々が多く欺巧であることを知らないことがあろうか、古今、政治は細碎であってはならないから、敢えてしないのである。このようなことをする者は実に理に背いているわけではないが、理を識る者は百人に一人もいない。陛下の弟や兒、大臣でさえ、まだ理に伏することができないのに、ましてや天下の、悠悠たる万品においてはどうか。怨みは積もって徒党を組み、凶悪な迷いの者は互いに類を同じくし、一箇所に止まるならば、どうして除かねばならないことがあろうか、もしまた多くの所でそうなれば、便ち紜紜たる状態となる」と。上は答えて言うには、「欺巧などどうして容認できようか!宋の世の混乱を、これを是と見做すのか。蚊や蟻などどうして憂うるに足りよう、今に至って皆散滅すべきである。我が政はただそれが大いに処理されないことを恨むのみで、またいついかなる時に亡命者がいないことがあろうか」と。後に詔を下して籍注を復することを聴許した。この時、武帝は奢侈で、後宮は万余人おり、宮内には収容できず、太楽・景第・暴室も皆満ち、まだ足りないと思っていた。蕭嶷の後房もまた千余人いた。潁川の荀丕が蕭嶷に書を献じ、その過失を極言した。蕭嶷はしばらく感嘆し、書を為して答え、またそのために人員を減らし遣散した。

荀丕は字を令哲といい、後に荊州の西曹書佐となった。長史の王秀が彼に書簡を送り、表題に「西曹荀君」と記した。荀丕は返書して言うには、「第五の位は、驃騎将軍に劣らず、また西曹がどうして長史と異なるというのか!且つ人の処世は、当に德行を以て称えられるべきであり、どうして急いで一つの爵位を以て人を高しとすべきか。藺相如は澠池の会で屈せられず、毛遂は郢都で辱めを受けることがなかった。敵に臨み事に当たれば、僕は必ずこの二人より先んじる。足下の貴さ、足下の威が、秦・楚の両王と比べてどうかは知らない。僕は徳を宝とし、足下は位を宝とする。各々その宝を宝とし、ここにおいて敬して宜しきを得る」と。そこで直ちに「長史王君」と題した。当時、 尚書令 しょうしょれい の王儉が朝政を執っており、荀丕はまた王儉に書を送って言うには、「足下は高人の名を建てながら、高人の跡を顕わさず、どうして斉の史書に書き記されようか」と。南郡の綱紀が荊州刺史の随王蕭子隆に啓上して荀丕の罪を請うと、荀丕は自ら申し開きをして免れた。また上書して武帝を極諫し、言葉は甚だ直截であった。帝は悦ばず、荀丕は遂に荊州の獄で賜死された。徐孝嗣はその死を聞いて言うには、「荀丕に仮に罪があっても、殺すべきではなかった。数千年後、竹帛(歴史書)にどう対処するつもりか」と。

五年、蕭嶷は位を進めて大司馬となった。八年、皁輪車を給された。まもなく 中書監 ちゅうしょかん を加えられたが、固く辞讓した。蕭嶷は身長七尺八寸で、容儀を整えることを善くし、文物や衛従の礼は百官の冠であった。殿省に出入りするごとに、皆が仰ぎ見て厳粛にした。自ら地位が隆重であることを以て、深く退いて質素であることを懐き、北宅に旧来より園田の美があったので、大いにこれを修理した。武帝がかつて臨川王蕭映に、家で何事をして楽しいかと問うた。蕭映は言うには、「ちょうど劉瓛に礼を講義させ、顧歓に易を講義させ、朱広之に莊子・老子を講義させ、臣と二、三の諸彦や兄弟、友生が時折撃贊(談論)するのを、これを楽しみとしています」と。上は大いにこれを賞賛した。ある日、蕭嶷に言うには、「臨川王が善を行い、遂にこのようになった」と。蕭嶷は言うには、「これは大司馬公(蕭嶷自身)の次弟です。どうしてこのようでないことがありましょうか!」と。上は玉如意を以て蕭嶷を指して言うには、「未だ皇帝の次弟(蕭嶷自身)が善を行うこと最も多いには及ばない」と。

蕭嶷は常に諸子を戒めて言うには、「凡そ富貴な者は少なからず驕奢せず、倹約によって失う者は稀である。漢代以来、侯王の子弟は、驕恣の故に、大なる者は身を滅ぼし族を喪い、小なる者は邑地を削奪される。戒めねばならぬではないか!」と。病と称して東城に住むことを利せず、累次にわたり邸宅に還ることを求め、世子の蕭子廉に東府を鎮守させるよう代行させた。上は数度蕭嶷の邸宅に臨幸した。宋の長寧陵の隧道が邸宅の前の道に出ていた。上は言うには、「我はまさに他家の墓の中に入って人を尋ねるようなものだ」と。そこでその表闕の騏驎を東岡に移した。騏驎及び闕は、形勢が甚だ巧みで、宋の孝武帝が襄陽からもたらしたものであり、後世の帝王の陵墓は皆これを模範としたが、及ぶものはなかった。

永明の末、車駕は数度遊幸したが、ただ蕭嶷のみが陪従した。上がかつて新林苑に出て、同じ輦に乗って夜帰り、宮門に至った時、蕭嶷は輦を下りて辞去しようとした。上は言うには、「今夜の行き来は、尉司に叱責されないようにせよ」と。蕭嶷は対えて言うには、「京輦の内は、皆臣の州に属します。願わくは陛下に過慮を垂れさせませんように」と。

上は大笑いし、魏から送られてきた氈車を賜った。毎度邸宅に臨幸する時は、もはや人を屏い隠さず、外監に勅して言うには、「我が大司馬の邸宅に行くのは、家に還るようなものだ」と。蕭嶷の妃の庾氏がかつて病気にかかり、癒えた時、上は蕭嶷の邸宅に臨幸し、後堂に金石の楽を設け、宮人を皆集めた。桐台に登り、蕭嶷に烏紗帽を着けさせ、目を極めて歓を尽くし、蕭嶷に家人の礼を備えるよう勅した。蕭嶷は上に言うには、「古来、願わくは陛下の寿は南山に比すべし、或いは万歳と称えるが、これは殆ど表面上の言葉に近い。臣の懐くところでは、実に陛下が百年の極寿を全うされることを願うだけで十分です」と。上は言うには、「百年などどうして得られようか、ただ東西(東七十、西七十、合わせて百四十歳の意か)の百を得るだけで、事にもまた済む」と。因みに互いに手を執って涙を流した。

十年、帝は蕭嶷の諸子を封じた。旧例では王子は千戸を封ぜられるが、嶷は五子ともに封ぜられんことを欲し、啓して減らし、人ごとに五百戸とした。その年、病篤く、表して職を解かんことを請うたが、許されず、銭五百万を賜って功徳を営ませた。薨じ、年四十九。その日、帝は病を見舞い、薨ずるに至って宮に還った。詔して袞冕の服を以て斂め、温明の秘器を用い、大鴻臚に節を持たせて喪事を護らせ、太官に朝夕祭奠を送らせ、大司馬・太傅の二府の文武は悉く葬を過ぎるまで停めしむ。詔して仮黄鉞・ 都督 ととく 中外諸軍事・丞相・揚州牧を贈り、緑綟綬を授け、九服錫命の礼を具え、侍中・大司馬・太傅・王はもと通りとせしむ。九旒の鸞輅、黄屋左纛、虎賁班剣百人、轀輬車、前後部の羽葆・鼓吹を給す。喪葬送儀は、並びに漢の東平王劉蒼の故事に依る。

蕭嶷は臨終に、子の子廉・子恪を召して曰く、「我に後は無し、当に共に相勉励し、篤く睦まじきを先とせよ。才には優劣有り、位には通塞有り、運には富貧有り、これ自然の理、以て相陵侮するに足らず。学行に勤しみ、基業を守り、閨庭を修め、閑素を尚べば、かくの如くにして足らば憂患無からん。聖主・儲皇及び諸親賢も、また我の没するを以て情を易えざるべし。三日施霊には、香火・盤水・乾飯・酒脯・檳榔のみとし、朔望の菜食は一盤、甘果を加え、此外は悉く省くべし。葬後に霊を除くには、我が常に乗る所の輿・扇・傘を用いるべし。朔望の時節には、席地に香火・盤水・酒脯・乾飯・檳榔にして便足れり。棺器及び墓中には余物を用いて後患とすべからず。朝服の外には、ただ鉄環刀一口を下すのみ。塚を作るに深からしむるなかれ、一一格に依り、度を過ぐるなかれ。後堂の楼には仏を安んじ、外国の僧二人を供養し、余は皆旧の如くせよ。汝らと遊戯せし後堂の船乗、我が乗る牛馬は、二宮及び 司徒 しと に送れ。服飾衣裘は、悉く功徳とせよ」と。子廉ら号泣して奉行す。

武帝の哀痛は特に至り、蔬食すること旬を積む。太官に朝夕祭奠を送らせ、王融に銘を作らしむるを敕し、云く、「半嶽峰を摧き、中河月を墜つ」と。帝流涕して曰く、「これ正に吾の言わんと欲する所なり」と。

その年の十二月に至り、乃ち楽を挙げて朝臣を宴す。楽始めて挙がるや、上便ち歔欷して流涕す。

蕭嶷薨じた後、邸の庫に見銭無く、武帝敕して雑物服飾を貸し売りして数百万を得、集善寺を起こし、月ごとに邸に見銭百万を給し、上崩ずるに至って乃ち省く。

蕭嶷は性、泛く愛し、人の過失を聞くを楽しまず、左右の投書して相告ぐるも、靴の中に置き、竟に視ず、取りて火に焚く。斎庫火を失い、荊州より還りし資を焼く、評直三千余万、主局各々杖数十のみ。嶷薨じた後、忽ち形を沈文季に見えて曰く、「我未だ応に便ち死すべからず、皇太子膏の中に十一種の薬を加え、我をして癰差えざらしめ、湯の中に復た薬一種を加え、利断えざらしむ。吾已に先帝に訴え、先帝は東邸に還るを許し、当に此の事を判せん」と。因りて胸中より青紙の文書を出して文季に示し曰く、「卿と少旧有り、卿に因りて上に呈せん」と。俄にして所在を失う。文季秘して伝えず、此の事を甚だ懼れ、少時して太子薨ず。

また嘗て形を第の後園に見え、腰輿に乗り、指麾処分し、直兵を呼ぶ。直兵に手板無く、左右一つの玉手板を授けて之に与え、謂いて曰く、「橘樹一株死す、補うを覓めよ」と。因りて後園の合を出づるや、直兵地に倒れ、仍て手板を失う。

群吏の中、南陽の楽藹・彭城の劉繪・呉郡の張稷、最も親礼せらる。藹は竟陵王蕭子良に箋し、率いんと欲す荊・江・湘三州の僚吏をして碑を建てしめ、中書侍郎劉繪に托して営弁せしむ。藹また右率沈約に書し、文を為さんことを請う。約答えて曰く、「郭有道は漢末の匹夫、蔡伯喈に非ざれば以て三絶に偶すに足らず。謝安石は素族の台輔、時に麗藻無く、遂には碑有りて文無し。況んや文献王は彝倫の冠冕、宇内の儀刑、一代の辞宗に非ざれば、或いは此れと与し難し。約は閭閈の鄙人、名第に入らず、欻然として今の旨に酬いんとすれば、便ち是れ礼を以て人に許す、命を聞きて顔に慚じ、已に汗の背に沾うを覚えず」と。建武中、第二子の子恪、約及び太子詹事孔珪に托して文を為さしむ。

妃の庾氏は、女功婦徳有り、蕭嶷甚だ之を重んず。宋の時、武帝及び蕭嶷の位宦尚軽く、家また貧薄なりしに、庾氏は常に己を徹き身を損ない、以て相営奉す。兄弟の公事を行き来する毎に、晩く還りて饑疲すれば、躬ら飲食を営み、未だ時に迎えて先に弁ぜざること無し。豊儉事に随うと雖も、香淨にして口に適う。穆皇后は自ら営まず、また整潔せず、上も亦此を以て之を貴しとす。又妒忌せず、蕭嶷倍に敬重を加う。蕭嶷薨じた後、少時して亦亡ぶ。

子に子廉有り。

子廉は字を景藹とす。初め、蕭嶷は魚復侯蕭子響を養いて嗣子と為す。子廉は永新侯に封ぜられ、子響は本に還る。子廉は世子と為り、位は淮陵太守・太子中舎人・前将軍、諸弟を善く撫す。十一年に卒し、侍中を贈られ、諡して哀世子と曰う。

子廉の子に元琳有り。

子の元琳嗣ぐ。梁武、禅を受く。詔して曰く、「 章王蕭元琳・故竟陵王蕭昭胄の子蕭同は、斉氏の宗国、高帝・武帝の嫡胤、宜しく井邑に祚し、以て後に伝うべし」と。降封して新淦侯と為す。

子廉の弟に子恪有り。

子廉の弟の子恪は字を景沖とす。永明中、王子として南康県侯に封ぜらる。年十二、従兄の 司徒 しと 竟陵王蕭子良と高松賦を和し、衛軍王儉之を見て奇とす。

建武年間(斉)、蕭子恪は吳郡太守となった。大司馬王敬則が會稽で反乱を起こしたとき、子恪を名目として奉じたが、子恪は逃走し、所在が知れなかった。始安王蕭遙光は上(明帝)に高帝・武帝の子孫を皆誅殺するよう勧め、そこで竟陵王蕭昭胄ら六十余人を永福省に入らせる詔勅を下し、太醫に椒二斛を煮させ、数十具の棺桶を用意させた。舍人沈徽孚に「椒が熟したら一度に賜死させる」と言い、三更(午後11時~午前1時)に殺すこととした。

ちょうど上(明帝)が仮眠していたところ、主書單景雋が詔旨に従って彼らを斃すよう啓上したが、徽孚は固く主張して「事は更に審議すべきである」と言った。その夜三更、子恪が裸足で建陽門に駆け至った。上は聞いて驚き目覚め、「やはり諸侯(宗室諸王)に命を賜うべきではなかったのか」と言った。徽孚が答えた。上は床を撫でて「遙光がほとんど人の事を誤らせるところであった」と言った。子恪に会うと、顧みて涙を流し、諸侯には皆食事を賜った。子恪を太子中庶子とした。

東昏侯が即位すると、侍中となった。中興二年(502年)、相國諮議參軍となった。梁の天監元年(502年)、爵位を子に降格され、 司徒 しと 左長史の位にあった。

子恪は弟の子範らとある事で入朝し謝恩したとき、梁武帝が文德殿で引見し、言った。「天下の宝(帝位)は本来公の器であり、もし運命がなければ、項籍のような力があっても結局は敗れ滅びる。宋の孝武帝は猜疑心が強く、兄弟で少しでも名声のある者は、ことごとく事に因って毒殺され、残ったのは(前廃帝)劉子業(景和)だけだった。朝臣の中で天命があると疑われて害された者は、無実の罪で次々と殺された。当時は卿の祖父(蕭道成)も疑われたが、どうしようもなかった。宋の明帝はもともと凡庸で(武帝の子でないため)免れていたが、どうして疑いを避けて全うできただろうか。また、私も当時すでに二歳で、彼らが私に今日があると知るはずがない。天命ある者は人が害せず、害しても得られないと知るべきだ。私が初めて建康城を平定したとき、朝廷内外は皆私に『時代が革まり異なるので、人心を一つにするため、処分を行うべきだ』と勧めた。私は当時これに従って行動したが、誰が不可と言えようか。ただ、江左(東晋)以来、王朝が代わるごとに必ず誅戮が行われ、これは和気を傷つけ、国祚が例として長く続かない原因である。これが一つの道理である。二つには、斉から梁への革代は、過去のそれとは意義が異なる。私と卿ら兄弟の宗族関係は遠くない。卿は兄弟が親しいと言うな。人の家の兄弟にも親密な者とそうでない者がおり、まして五服の親族はどうか。斉の創業の初めも、苦楽を共にし、腹心は私にあった。卿ら兄弟は若かったので、当然詳しくは知らないだろう。私と卿ら兄弟は情において一家と同じであり、どうしてこのことを全く顧みず、他人のように振る舞うことがあろうか。これが二つ目の道理である。また、建武帝(明帝)が卿らの一族を屠滅したとき、私は義兵を起こしたが、ただ自らの家門の恥を雪ぐためだけでなく、卿ら兄弟の仇を討つためでもあった。卿がもし建武・永元の時代に乱を撥ね正すことができたなら、私がたとえ樊・鄧から挙兵しても、どうして戈を収めて推戴し奉らなかっただろうか。私は今卿のために仇を報いているのであり、かつ時代が革まり異なっているので、卿ら兄弟には節を尽くして私に報いることを望むだけである。また、私は喪乱に乗じて、明帝の家の天下を取ったのであって、卿の家の天下を取ったのではない。昔、劉子輿が成帝の子を自称したとき、光武帝は言った。『たとえ成帝が生き返っても、天下は再び得られない。まして子輿であろうか』。梁の初め、人々が私に(斉宗室を)誅滅するよう勧めたとき、私は先ほどの言葉のように答えた。『もし天命があれば、私が殺すことはできない。もし運がなければ、なぜ急いでそんなことをするのか。ただ度量がないことを示すだけだ』。曹志は魏武帝の孫という近い身内でありながら、晋の武帝に仕えて晋室の忠臣となった。これが卿の事例である。卿は宗室であり、情義は他者とは異なる。今率直に期待をかけている。少し待てば、自然に私の心を知るだろう」。また、文獻王(蕭嶷)の時代に内齋の直帳にいた宦官趙叔祖が、天監初年に台城に入り齋帥として壽光省にいた。武帝が呼んで問うた。「お前は近ごろ北第(斉宗室の邸宅)の諸郎に会ったか。もし会ったら、私のこの意を伝えよ。今日は革代ではあるが、情は一家と同じである。ただ今は磐石(宗室の藩屏)がまだ固まっていないので、諸郎を用いることができないだけだ。私がまだ適さないというだけでなく、諸郎が安泰でいられるようにしたいのでもある。ただ門を閉じて高枕でいれば、後になって自然に私の心が見えるだろう」。叔祖はすぐに出向いてこの勅意を宣べ伝えた。

子恪は普通三年(522年)に累進して都官尚書となり、四年に吏部尚書に転じた。大通二年(528年)、出向して吳郡太守となり、任地で死去した。諡は恭子。

子恪兄弟十六人とも梁に入り、文学の才があったのは子恪・子質・子顯・子雲・子暉である。子恪は常々親しい者に言った。「文史の事は諸弟が備えている。私がまた引きずり回される必要はない。ただ公務から退き食事をするだけで、過不足はない」。

子恪も学問に通じ、文章をよくしたが、書き上げるとすぐにその草稿を棄てたので、文集は伝わらなかった。

子恪の次の弟、子操。

子恪の次の弟子操は、泉陵侯に封ぜられた。王侯の出身者は官職に定まった基準がなく、素姓(一般士族)の三公の長子一人が員外郎となるのが例であった。建武年間、子操は初めて給事中となった。これ以降、斉末までこの例となった。永泰元年(498年)、兄の南康侯子恪が吳郡太守であったが、王敬則の難を避けて帰還したため、子操が吳郡太守となった。永元年間(499-501年)、黃門郎となった。

子操の弟、子範。

子操の弟子範、字は景則。斉の永明年間(483-493年)に祁陽縣侯に封ぜられ、太子洗馬に任ぜられた。

天監初年(502年)、爵位を子に降格され、 司徒 しと 主簿の位にあった。生母の喪に服して職を去った。

子範は孝行の性があり、喪に服して身を毀して聞こえた。喪が明けると、累進して大司馬南平王(蕭偉)の從事中郎となった。王は文学の士を愛し、子範は特に恩遇を受け、常々「これは宗室の奇才である」と言った。千字文を作らせると、その文辞は甚だ美しかった。王は記室蔡薳に注釈させた。これ以降、府中の文筆は全て彼に草稿を作らせた。

後に臨賀王蕭正德の長史となった。正德が丹陽尹に遷ると、また正德の信威長史となり、尹丞を領した。十数年官に歴任したが、蕃府(王府)を出ず、諸弟は皆顕職に登ったので、心中平らかでなかった。この時、王府に到着した際の上申文に「上蕃(京尹)の首僚に、ここに再び忝くし、河南(尹)に雌伏し、自此重ねて叨る。老少時を異にし、盛衰日を殊にする。恩寵を佩びながらも、なお年鬢を羞じる」と書いた。子範は若い頃、弟子顯・子雲と才名がほぼ互角であったが、風采や容止は及ばず、故に官途に優劣があった。漢書の杜緩伝を読むたびに「六人の弟のうち五人は大官に至り、ただ中弟の杜欽だけが官位は至らなかったが、最も有名であった」とあるのを、常に吟誦しては、自分に譬えた。

後に秘書監となった。簡文帝が即位すると、光祿大夫に召され、金章紫綬を加えられた。賊(侯景)に迫られて拝命しなかった。その年、簡皇后を葬るにあたり、哀策文を作らせると、文理が哀切であった。帝は武林侯蕭諮に言った。「この度、莊陵(簡皇后陵)の万事は零落したが、ただ哀冊だけはまだ典刑(手本)がある」。勅して米千石を賜った。

子範は居宅を持たず、まもなく招提寺の僧房で卒去した。賊が平定されると、元帝は金紫光禄大夫を追贈し、諡して文といった。前後の文集三十巻。

子範の子は滂である。

子滂と確はともに年少より文章があり、簡文帝が東宮におられた時、たびたび邵陵王と諸蕭の文士を数えたが、滂と確もともにその中に加えられた。

滂は中軍宣城王記室の位にあり、子範より先に卒去した。確は 司徒 しと 右長史の位にあった。魏が江陵を平定すると、長安に入った。

滂の弟は幹である。

滂の弟の幹は字を思惕といい、容止は雅正で、性質は恬簡であり、隷書をよくし、叔父の子雲の法を得た。九歳で国子周易生に補せられ、祭酒の袁昂は深く敬重した。梁に仕えて宣城王諮議参軍となった。陳武帝が南徐州を鎮守する時、 司空 しくう 従事中郎に引き立てられた。帝が受命すると、永定元年、給事黄門侍郎に除せられた。時に熊曇朗は 章に、周迪は臨川に、留異は東陽に、陳宝応は建安におり、互いに連結し、閩中の豪帥は柴を立てて自らを保っていた。武帝はこれを憂い、幹を遣わし、逆順を諭して言った、「昔、陸賈が南征し、趙佗は帰順し、随何が使を奉じ、黥布は来臣した。清風を追想すれば、髣髴として目に在り。卿は功名を立てることを勉めよ、更に師旅を労する煩いはない」。幹が至ると、逆順を示し、所在の地はことごとく款附した。その年、建安太守に就いて除せられた。

天嘉二年、留異が反し、陳宝応がこれを助け、また周迪に兵糧を資して、出でて臨川を寇し、よって建安を逼った。幹は単使で郡に臨んだが守ることができず、ついに郡を棄てて宝応を避けた。時に閩中の宰守はみな宝応の署置を受けていたが、幹のみは屈せず、郊野に徙居した。宝応が平定されると、 都督 ととく の章昭達がこれを聞上し、文帝は甚だこれを嘉し、超授して五兵尚書とした。卒去し、諡して静子といった。

子範の弟は子顕である。

子顕は字を景陽といい、子範の弟である。幼くして聡慧であり、嶷は偏愛した。七歳で寧都県侯に封ぜられ、梁の天監初年に降って子となった。太尉録事参軍の位にあった。

子顕は身長八尺、状貌は甚だ雅であり、学を好み、属文をよくした。かつて鴻序賦を著わすと、 尚書令 しょうしょれい の沈約はこれを見て称して言った、「明道の高致と謂うべく、蓋し幽通の流れなり」。また衆家の後漢書を採り同異を考正して、一家の書とした。また斉史の撰修を啓上し、書が成ると表奏し、詔して秘閣に付した。累遷して邵陵王友となった。後に黄門郎を除せられた。

中大通二年、長兼侍中に遷った。梁武帝は雅に子顕の才を愛し、またその容止吐納を嘉し、毎に御筵に侍坐する時、偏りに顧み訪ねられた。かつて従容として言われた、「我は通史を造る。この書もし成れば、衆史は廃すべし」。子顕は対して言った、「仲尼は易道を賛し、八索を黜き、職方を述べて、九丘を除く。聖制符同すること、復た茲の日に在り」。時に名対と為した。

三年、本官を以て国子博士を領した。武帝は孝経義を制したが、未だ学官に列せず、子顕は職に在り、助教一人、生十人を置くことを表した。また武帝集並びに普通北伐記の撰修を啓上した。国子祭酒に遷り、侍中を加えられ、学において武帝の五経義を遞述し、吏部尚書に遷り、侍中はもと通りであった。

子顕は風神灑落、雍容閑雅であり、賓客に簡通し、鬼神を畏れなかった。性は山水を愛し、伐社文を作ってその志を表した。酒を数斗飲み、頗る才気を負っていた。選を掌るに及んで、九流の賓客を見ては交言せず、ただ扇を挙げて一撝するのみであり、衣冠はひそかに恨んだ。しかし簡文帝は平素その人となりを重んじ、東宮におられた時、毎に引きいて宴を促した。子顕がかつて起って更衣すると、簡文帝は坐客に謂って言われた、「常に異人の間出を聞く、今日始めて見る、知る蕭尚書なることを」。その見重されることこの如くであった。出でて呉興太守となった。卒去した時は四十九歳、詔して侍中・中書令を贈られた。諡を請うた時、手敕して言われた、「才を恃みて物に傲る、宜しく驕と諡すべし」。子顕はかつて自序を作り、その略に云う、「余は邵陵王友たり、忝くも京師に還り、遠く前比を思えば、即ち楚の唐・宋、梁の厳・鄒なり。平生を追尋すれば、頗る辞藻を好み、名に在りて成らずと雖も、心を求めて已に足る。若し乃ち高きに登り目を極め、水に臨みて帰を送り、風春朝を動かし、月秋夜に明らかなり、早雁初鸚、開花落葉、来る有れば斯に応じ、毎に已む能わざるなり。且つ前代の賈・傅・崔・馬・邯鄲・繆・路の徒は、並びに文章を以て顕われ、故に屡に歌頌を上し、自ら古人に比す。天監十六年、始めて九日の朝宴に預かり、稠人広坐、独り旨を受けて云う、『今雲物甚だ美なり、卿将に斐然として詩を賦せざるべからず』。詩既に成り、又た旨を降して曰く、『才子と謂うべし』。余退きて人に謂いて曰く、一顧の恩、望み至らざるに至る、遂に方す賈誼何如なるや、未だ易く当たるべからず。毎に制作有れば、特ち思功寡く、その自ら来るを須ち、力を以て構えず。少来の為す所の詩賦は、則ち鴻序一作、体は衆制を兼ね、文は多方に備わり、頗る好事の伝うる所となり、故に虚声易く遠し」。子顕の著する所の後漢書一百巻、斉書六十巻、普通北伐記五巻、貴儉伝三巻、文集二十巻。

子顕の子は序である。

子序と愷はともに年少より知名であった。序は太清中に中庶子の位にあり、卒去した。愷は太子家令であった。

子顯の子に愷あり。

愷は才学と声望があり、当時の論評ではその父に比せられた。簡文帝が東宮に在った時、早くから彼を招き接遇した。時に中庶子謝嘏が建安郡の太守として出ることとなり、宣猷堂で餞別の宴を開き、同時に当時の才人を召して詩を賦させ、皆で十五劇の韻を用いた。愷の詩が先に出来上がり、その文辞もまた優れていた。簡文帝は湘東王に令して曰く、「王筠はもとより旧来の名手であるが、後進には蕭愷が称えられる。まことに才子である。」先に太学博士顧野王が令を奉じて『玉篇』を撰していたが、簡文帝はその書の詳略が適当でないと感じ、愷が博学で、特に文字に精通していることから、更に学士と共に刪改させた。太清年間、侍中の任に在って卒した。子顯の弟の子に雲あり。

子顯の弟に子雲あり。

子雲は字を景喬といい、十二歳の時、斉の建武四年に新浦県侯に封ぜられた。自ら拝章(封爵の礼の文)を作ったが、既に文采があった。梁の天監初年に爵を降格されて子爵となった。成長すると、勤勉に学び文藻があり、弱冠にして『晋書』を撰し、二十六歳の時に完成、百余巻に及び、表を奉って奏上した。詔によって秘閣に収蔵された。

子雲は性質沈静で、仕進を好まず、風神は閑曠にして、任自然で衆に同調しなかった。夏の月には賓客に対しても、常に裸袒していた。しかし兄弟とは仲が悪く、吉凶の事があっても互いに弔問せず、当時の論評はこれをもって彼を軽んじた。

三十歳にして初めて秘書郎に起家し、太子舎人に遷り、『東宮新記』を撰して奏上し、勅によって束帛を賜った。累遷して丹陽郡丞となった。湘東王蕭繹が丹陽尹となった時、深く賞賛して親しみ、布衣の交わりの如くであった。中大通三年、臨川内史となり、郡において和やかに治め、人吏はこれを悦んだ。還って 散騎常侍 さんきじょうじ に除され、侍中、国子祭酒を歴任した。

梁の初め、郊廟の祭祀ではまだ生贄の犠牲が廃されず、楽辞は全て沈約が撰していたが、この時までそのまま用いられていた。子雲は改めるべきであると上啓し、勅答して曰く、「これは主管者が守株(古いしきたりに固執)しているのだ。急いで改めるがよい。」そこで子雲に撰定させた。勅して曰く、「郊廟の歌辞は、典誥の大語を用いるべきで、子史の文章や浅い言葉を雑用してはならない。しかるに沈約の撰したものも、多く誤りがある。」子雲が作成すると、勅によって全て施行された。

子雲は草隸を善くし、当時の楷法となった。自ら言うには、鍾元常(鍾繆)・王逸少(王羲之)をよく模倣しつつ、わずかに字体を変えたと。かつて勅に答えて云う、「臣は昔、抜きん出た賞識ができず、時の貴ぶところに従い、子敬(王献之)を模倣すること多年に及んだ。二十六歳で『晋史』を著し、二王(王羲之・王献之)の列伝に至り、草隸の法について論じようとしたが、言い尽くせず、遂に完成できず、ただ飛白の一事について略しく指論したに過ぎない。十余年を経て、始めて勅旨の論書一卷を見、筆勢を論じ、字体を洞徹し、初めて子敬を改め、元常を完全に範とした。それ以来、自ら功の進んだことを覚える。」その書跡は大いに武帝に重んぜられ、帝は嘗て書について論じて曰く、「筆力勁駿、心手相応じ、巧みは杜度を超え、美しさは崔寔に勝る。まさに元常と並び駆け先を争うべきである。」このように賞賛された。

東陽太守として出向した。百済国の使人が建鄴に来て書を求め、子雲が郡に在る時に出会い、船を繋いで出発しようとしていた。使人は渚のほとりでこれを待ち、船を三十歩ばかり離れた所から望み、歩みながら拝礼して船前に進んだ。子雲が人を遣わして問うと、答えて曰く、「侍中の尺牘の美は、遠く海外に流れており、今日求める所は、ただ名跡に在ります。」子雲はそこで三日間船を停め、三十紙を書いて与え、金貨数百万を得た。性質吝嗇で、外部への返礼には良い紙を用いず、好事の者は重ねて賂を贈り、その返答を得ようとした。

太清元年、再び侍中・国子祭酒となった。二年、侯景が侵逼し、子雲は民間に逃れた。三年、宮城が陥落すると、 しん 陵に奔り、顕雲寺の僧房で餓死した。六十三歳。著書に『晋書』一百十巻、『東宮新記』二十巻。

子雲の子に特あり。

子特は字を世達といい、早くから名を知られ、また草隸を善くし、当時の人はこれを えい 恒・ えい 瓘に比した。武帝が嘗て特に書かせ、奏上された時、帝は曰く、「子敬の跡は逸少に及ばず、蕭特の書は遂に父に迫る。」位は太子舎人、海塩令に至り、事に坐して免官された。父の子雲より先に卒し、遺啓を簡文帝に奉って墓誌銘を求めた。帝は銘を撰した。

子雲の弟に子暉あり。

子雲の弟の子暉は字を景光といい、若くして学に渉り、また文才があった。性質恬静で、嗜欲寡く、嘗て重雲殿で制講の『三慧経』を聴き、退いて『講賦』を作り奏上した。大いに賞賛された。驃騎長史の任に在って卒した。

原本を確認する(ウィキソース):南史 巻042