南史

巻四十二 列傳第三十二 齊高帝諸子上

巻四十二 列傳第三十二 齊高帝諸子上

南史

巻四十二 列傳第三十二 齊高帝諸子上

齊高帝には十九人の男子があった。昭皇后は武帝と豫章文獻王蕭嶷を生み、謝貴嬪は臨川獻王蕭映と長沙威王蕭晃を生み、羅太妃は武陵昭王蕭曄を生み、任太妃は安成恭王蕭暠を生み、陸修儀は鄱陽王蕭鏘と晉熙王蕭銶を生み、袁修容は桂陽王蕭鑠を生み、何太妃は始興簡王蕭鑑と宜都王蕭鏗を生み、區貴人は衡陽王蕭鈞を生み、張淑妃は江夏王蕭鋒と河東王蕭鉉を生み、李美人は南平王蕭銳を生んだ。第九、第十三、第十四、第十七の皇子は早世し、衡陽王蕭鈞は高帝の兄である元王の後を継いだ。

原文齊高帝十九男:昭皇后生武帝、豫章文獻王嶷,謝貴嬪生臨川獻王映、長沙威王晃,羅太妃生武陵昭王曄,任太妃生安成恭王暠,陸修儀生鄱陽王鏘、晉熙王銶,袁修容生桂陽王鑠,何太妃生始興簡王鑑、宜都王鏗,區貴人生衡陽王鈞,張淑妃生江夏王鋒、河東王鉉,李美人生南平王銳。第九、第十三、第十四、第十七皇子早亡,衡陽王鈞出繼高帝兄元王後。

豫章王

原文豫章王

豫章文獻王蕭嶷は字あざなを宣儼といい、高帝の第二子である。寛仁で弘雅、大成の器量があり、高帝は特に鍾愛した。宋に仕えて尚書左戸郎、錢唐令となった。高帝が薛索兒を破り、西陽に改封されたとき、先の爵位を蕭嶷に賜り、晉壽縣侯とした。後に武陵内史となった。

原文豫章文獻王嶷字宣儼,高帝第二子也。寬仁弘雅,有大成之量,高帝特鍾愛焉。仕宋爲尚書左戶郎,錢唐令。高帝破薛索兒,改封西陽,以先爵賜嶷,爲晉壽縣侯。後爲武陵內史。

時に沈攸之が賧(賠償金)を責め、荊州界内の諸蛮を討伐し、遂に五溪に及んだ。魚塩を禁断したため、群蛮は怨怒した。酉溪蛮の王田頭擬が沈攸之の使者を殺すと、攸之は賧千万を責め、頭擬は五百万を輸送したが、憤慨して死んだ。その弟の婁侯が立って簒奪し、頭擬の子の田都は獠の中に逃げ込んだ。ここにおいて蛮部は大乱し、抄掠が郡城の下にまで至ったので、蕭嶷は隊主の張英兒を遣わしてこれを撃破した。田都は獠の中から出て立つことを請い、婁侯もまた帰附した。蕭嶷は婁侯を郡獄で誅し、田都にその父を継がせたので、蛮衆はようやく安んじた。

原文時沈攸之責賧,伐荊州界內諸蠻,遂及五溪。禁斷魚鹽,群蠻怨怒。酉溪蠻王田頭擬殺攸之使,攸之責賧千萬,頭擬輸五百萬,發氣死。其弟婁侯篡立,頭擬子田都走入獠中。於是蠻部大亂,抄掠至郡城下,嶷遣隊主張英兒擊破之。田都自獠中請立,而婁侯亦歸附。嶷誅婁侯於郡獄,命田都繼其父,蠻眾乃安。

入朝して宋の順帝の驃騎從事中郎となった。司徒の袁粲に詣でると、粲は人に言った、「後代の佳器である」と。

原文入爲宋順帝驃騎從事中郎。詣司徒袁粲,粲謂人曰:「後來佳器也。」

高帝が領軍府におられたとき、蕭嶷は青溪の宅に居た。蒼梧王が夜中に微行し、宅内を掩襲しようとしたが、蕭嶷は左右に命じて中庭で刀戟を舞わせた。蒼梧王は牆の間から窺って既に備えがあるのを見て、去った。高帝の憂慮危惧が切迫し、腹心の荀伯玉が帝に江北に渡って起兵するよう勧めた。蕭嶷は諫めて言った、「主上は狂凶で、人は自ら保てず、単独で道路を行くのは、功を立てやすい。外州で起兵するのは、勝つことは稀です。ここに計を立てるのは、万に一つも失うべきではありません」と。蒼梧王が斃れると、高帝は蕭嶷に報じて言った、「大事は既に決した。汝は明朝早く入朝せよ」と。順帝が即位すると、侍中に転じ、宮内の直衛を総べた。

原文高帝在領軍府,嶷居青溪宅。蒼梧王夜中微行,欲掩襲宅內,嶷令左右舞刀戟於中庭,蒼梧從牆間窺見已有備,乃去。高帝憂危既切,腹心荀伯玉勸帝度江北起兵。嶷諫曰:「主上狂凶,人不自保,單行道路,易以立功,外州起兵,鮮有克勝,于此立計,萬不可失。」及蒼梧殞,高帝報嶷曰:「大事已判,汝明可早入。」順帝即位,轉侍中,總宮內直衛。

沈攸之の難に際し、高帝は朝堂に入り、蕭嶷は出て東府を鎮守し、冠軍將軍を加えられた。袁粲が挙兵した夕方、丹陽丞の王遜が変を告げ、先に東府に至った。蕭嶷は帳内軍主の戴元孫に二千人を率いさせ、薛道深らと共に石頭に至らせた。門を焚く功績に、元孫は参与した。先に王蘊が部曲ぶきょく六十人を推薦して城防を助けさせたが、実は内応としようとしたのである。蕭嶷は王蘊が二心を抱いていることを知り、彼らに兵仗を与えず、外省に散在させた。難が起こって搜檢すると、皆既に逃亡していた。

原文沈攸之之難,高帝入朝堂,嶷出鎮東府,加冠軍將軍。及袁粲舉兵夕,丹陽丞王遜告變,先至東府,嶷遣帳內軍主戴元孫二千人隨薛道深等俱至石頭,焚門之功,元孫預焉。先是王蘊薦部曲六十人助爲城防,實以爲內應也。嶷知蘊懷貳,不給其仗,散處外省。及難作搜檢,皆已亡去。

上流が平定された後、武帝が尋陽から還った。蕭嶷は出て都督・江州刺史となった。定策の功により、永安縣公に改封された。やがて鎮西將軍・都督・荊州刺史に転鎮した。時に高帝が輔政していたので、蕭嶷は倹約を旨とし、府州の儀仗や迎えの物を停めた。州に至ると、胸襟を開いて善を納れ、席を側らえて政を思った。王儉が蕭嶷に書を送って言った、「旧楚の地は蕭條で、連年多くの変故があり、政は荒れ人は散じ、実に緝理を要します。公が臨蒞されて間もないのに、英風はただ穆く、江漢は蘇生し、八荒は義を慕います。庾亮以来、荊州にこのような政はありません。古人が『期月にして成る』と言いましたが、公は旬日で教化を成し遂げられました。何と素晴らしいことでしょう」と。初め、沈攸之が衆を集めようとし、人に相告げさせたので、士庶で執役に坐した者が甚だ多かった。蕭嶷が鎮に至ると、一日に三千余人を遣わし、五年刑以下で台に連座しない囚人を見ては、皆これを赦して遣わした。市税が重いので、多くを寛免した。百姓は大いに悦んだ。禅譲の間、武帝は速やかに大業を定めようとしたが、蕭嶷はその事に依違し、黙して言うところがなかった。建元元年、高帝が即位すると、赦詔が未だ至らないうちに、蕭嶷は先に部内の升明二年以前の逋負を蠲除するよう下令した。侍中・尚書令・都督・揚州刺史・驃騎大將軍・開府儀同三司に遷り、豫章郡王に封ぜられた。

原文上流平後,武帝自尋陽還。嶷出爲都督、江州刺史。以定策功,改封永安縣公。仍徙鎮西將軍、都督、荊州刺史。時高帝作輔,嶷務存約省,停府州儀迎物。及至州,坦懷納善,側席思政。王儉與嶷書曰:「舊楚蕭條,仍歲多故,政荒人散,實須緝理。公臨蒞甫爾,英風惟穆,江漢來蘇,八荒慕義,庾亮以來,荊州無復此政。古人云'期月有成',而公旬日成化,豈不休哉。」初,沈攸之欲聚眾,開人相告,士庶坐執役者甚眾。嶷至鎮,一日遣三千餘人,見囚五歲刑以下不連台者,皆原遣。以市稅重,多所寬假。百姓甚悅。禪讓之間,武帝欲速定大業,嶷依違其事,默無所言。建元元年,高帝即位,赦詔未至,嶷先下令蠲除部內升明二年以前逋負。遷侍中、尚書令、都督、揚州刺史、驃騎大將軍、開府儀同三司,封豫章郡王。

折しも魏軍が動いたので、詔により蕭嶷を南蠻校尉・荊湘二州刺史とし、八州を都督させた。まもなく油絡俠望車を給された。二年、班劍二十人を給された。その夏、南蠻園の東南に館を開き学を立て、上表して状況を言上した。生員三十人を置き、旧族で父祖の位が正佐台郎であり、年齢二十五以下十五以上の者を取って補った。儒林参軍一人、文学祭酒一人、勸學從事二人を置いた。釈菜の礼を行った。穀物が過賤であったので、人が米をもって口銭に当てることを許し、斛こくを百と優評した。義陽の劫帥張群は亡命して積年、鼓行して賊となり、義陽・武陵・天門・南平の四郡界はその残破を被り、沈攸之が連討しても擒えず、末にはかえってこれを任用した。攸之が起事すると、張群はこれに従って郢に下ったが、途中で先に叛き、三溪に柴を結び、深険な地に拠った。蕭嶷は中兵参軍の虞欣祖を義陽太守とし、降意をもって誘い納れさせ、厚く礼を遺したが、座においてその首を斬った。その党は皆散じ、四郡は安寧を得た。

原文會魏軍動,詔以嶷爲南蠻校尉、荊湘二州刺史,都督八州。尋給油絡俠望車。二年,給班劍二十人。其夏,于南蠻園東南開館立學,上表言狀。置生三十人,取舊族父祖位正佐台郎年二十五以下十五以上補之。置儒林參軍一人,文學祭酒一人,勸學從事二人。行釋菜禮。以穀過賤,聽人以米當口錢,優評斛一百。義陽劫帥張群亡命積年,鼓行爲賊,義陽、武陵、天門、南平四郡界被其殘破,沈攸之連討不禽,末乃首用之。攸之起事,群從下郢,于路先叛,結柴於三溪,依據深險。嶷遣中兵參軍虞欣祖爲義陽太守,使降意誘納之,厚爲禮遺,於坐斬首,其黨皆散,四郡獲安。

入朝して中書監・司空・揚州刺史となり、二州を都督し、侍中は元の如く、兵を加え佐を置き、前軍臨川王蕭映の府の文武を司空府に配した。蕭嶷は将に都に還るにあたり、廨宇や路陌を修繕したが、東帰する部曲は府州の物を携えて城を出ることを許さなかった。江津を発つとき、見送りの士女数千人は皆涙を垂れた。蕭嶷は江陵を発って病に罹り、都に至っても癒えず、上は深く憂慮し、このために大赦を行った。三年六月壬子の赦令がこれである。病が癒えると、上は東府に幸し、金石の楽を設け、乗輿を宮の六門まで至らせた。

原文入爲中書監、司空、揚州刺史,都督二州,侍中如故,加兵置佐,以前軍臨川王映府文武配司空。嶷以將還都,修廨宇及路陌,東歸部曲不得齎府州物出城。發江津,士女觀送數千人皆垂泣。嶷發江陵感疾,至都未瘳,上深憂慮,爲之大赦,三年六月壬子赦令是也。疾愈,上幸東府,設金石樂,使乘輿至宮六門。

武帝が即位すると、位を進めて太尉とし、兵佐を増置し、侍中を解き、班劍三十人を増やした。建元年中、武帝が事によって旨を失い、高帝には嫡子を代えようとする意向が頗るあった。しかし蕭嶷は武帝に事えて恭悌の礼を尽くし、顔色に違忤したことがなかったので、武帝の友愛もまた深かった。性、至孝であり、高帝が崩ずると、哭泣過度で眼耳より皆出血した。

原文武帝即位,進位太尉,增置兵佐,解侍中,增班劍三十人。建元中,武帝以事失旨,高帝頗有代嫡之意。而嶷事武帝恭悌盡禮,未嘗違忤顏色,故武帝友愛亦深。性至孝,高帝崩,哭泣過度,眼耳皆出血。

永明元年、太子太傅を領し、中書監を解かれた。宋の武帝以来、州郡の秩俸及び雑供給は多く土地の産物に従い、一定の基準がなかった。蕭嶷は上表して明確に定めを立て、四方に頒布し、永く恒常の制度とすべきことを請い、これに従った。蕭嶷は朝務に参与しなかったが、事を言い謀を密かにするは多く信頼され採用された。喪服の期間が終わり、侍中を加えられた。宋の元嘉の制度では、諸王が斎閣に入る時は、白服の裙帽で人主に謁見することができ、ただ太極殿の四廂に出る時のみ朝衣を整えるのであった。これ以来、この事は一たび断たれていた。上(武帝)は蕭嶷と同母兄弟として睦まじく交わり、宮内の私宴では元嘉の制に依ることを許した。蕭嶷は固く辞し、勅命に奉じなかった。ただ車駕が邸宅に臨幸する時のみ、白服に烏紗帽を着けて侍宴した。衣服の制度に至るまで、動くごとに皆陳啓し、事を専制せず、務めて減省に従おうとしたが、いずれも許されなかった。また啓して言うには、「北第の旧邸は、元来甚だ華美であり、臣が往年に小眠斎を作った時は、皆補接して調達し、格制に背かなかった。要は檉柏の華で、一時的に新しく清浄にしたものである。東府にもまたこのような斎があり、これも華屋であるが、臣が突然二箇所の住居を持つことは、下情としてひそかに不安を覚えます。東宮の玄圃を訊ね訪ねると、柏屋があり、その造りは甚だ古拙である。臣はこれを取り壊して太子に奉りたいと思うが、前のことを失うだけでなく、また補接が既に多いため、移すことができず、また外の者たちが異論を唱えることを恐れる。東府の斎を修理するために送ることをお許しいただけるかどうか、お尋ねします」と。上は答えて言うには、「別紙を見た。汝は労疾であり、またどうして動かないことがあろうか。どうして煩わしく長い啓事を作るのか」と。結局従わなかった。

原文永明元年,領太子太傅,解中書監。宋武以來,州郡秩俸及雜供給,多隨土所出,無有定準。嶷上表請明立定格,班下四方,永爲恒制,從之。嶷不參朝務,而言事密謀,多見信納。服闋,加侍中。宋元嘉制,諸王入齋合,得白服裙帽見人主,唯出太極四廂,乃備朝衣。自比以來,此事一斷。上與嶷同生相友睦,宮內曲宴,許依元嘉。嶷固辭,不奉敕;唯車駕幸第,乃白服烏紗帽以侍宴焉。至於衣服制度,動皆陳啟,事無專制,務從減省,並不見許。又啟曰:「北第舊邸,本自甚華,臣往歲作小眠齋,皆補接爲辦,無乖格制。要是檉柏之華,一時新淨,東府又有此齋,亦爲華屋,而臣頓有二處住止,下情竊所未安。訊訪東宮玄圃,乃有柏屋,制甚古拙,臣乃欲壞取以奉太子,非但失之於前,且補接既多,不可見移,亦恐外物或爲異論,不審可有垂許送東府齋理不?」上答曰:「見別紙,汝勞疾,亦復那得不動,何意爲作煩長啟事。」竟不從。

三年、文恵太子が孝経の講義を終えると、蕭嶷は太傅の職を解くことを請うたが、許されなかった。蕭嶷は常に満ち溢れることを憂慮し、また宴会の機会に因んで揚州刺史を解き竟陵王蕭子良に授けることを請うたが、上は終に許さず、言うには、「汝の一生の間、多くを言うな」と。

原文三年,文惠太子講孝經畢,嶷求解太傅,不許。嶷常慮盛滿,又因言宴求解揚州授竟陵王子良,上終不許,曰:「畢汝一世,無所多言。」

武帝が即位した後、頻繁に詔を発して陵墓を拝謁しようとしたが果たせず、蕭嶷を遣わして陵墓を拝謁させた。帰途、延陵の季子廟に立ち寄り、沸井を見物した。水牛が隊列に突進し、直兵が牛を捕らえて尋問しようとしたが、蕭嶷は許さず、絹一疋を取り、牛の角に横に結びつけ、その家に帰らせた。政治は寛厚にあり、故に朝野の歓心を得た。

原文武帝即位後,頻發詔拜陵,不果行,遣嶷拜陵。還過延陵季子廟,觀沸井,有水牛突部伍,直兵執牛推問,嶷不許,取絹一疋,橫系牛角,放歸其家。政在寬厚,故得朝野歡心。

四年、唐宇之の賊が起こると、蕭嶷は上に啓して言うには、「この度の小寇は、凶悪な愚か者から出ており、天網は広く覆っているから、論ずるに足りない。しかし聖明の世を治めるにあたり、幸いにもこのようでなくてよい。近頃、声や噂を借りて聞くところでは、皆何か理由があってそうなったと言っている。ただ近頃、大小の士庶は、しばしば小利を以て公に奉じ、損なうところが大きいことを顧みない。戸籍を調べて功巧を検べ、小塘を監督して救恤し、丁壮を隠し口数を匿うなど、凡そ諸々の条制は、実に怨みの府を長じている。これは目前の交利であって、天下の大計ではない。一室の中でさえ、まだ精しくできないのに、宇宙の内で、どうして周遍に洗い清めることができようか。公家は何ぞ人々が多く欺巧であることを知らないことがあろうか、古今、政治は細碎であってはならないから、敢えてしないのである。このようなことをする者は実に理に背いているわけではないが、理を識る者は百人に一人もいない。陛下の弟や兒、大臣でさえ、まだ理に伏することができないのに、ましてや天下の、悠悠たる万品においてはどうか。怨みは積もって徒党を組み、凶悪な迷いの者は互いに類を同じくし、一箇所に止まるならば、どうして除かねばならないことがあろうか、もしまた多くの所でそうなれば、便ち紜紜たる状態となる」と。上は答えて言うには、「欺巧などどうして容認できようか!宋の世の混乱を、これを是と見做すのか。蚊や蟻などどうして憂うるに足りよう、今に至って皆散滅すべきである。我が政はただそれが大いに処理されないことを恨むのみで、またいついかなる時に亡命者がいないことがあろうか」と。後に詔を下して籍注を復することを聴許した。この時、武帝は奢侈で、後宮は万余人おり、宮内には収容できず、太楽・景第・暴室も皆満ち、まだ足りないと思っていた。蕭嶷の後房もまた千余人いた。潁川の荀丕が蕭嶷に書を献じ、その過失を極言した。蕭嶷はしばらく感嘆し、書を為して答え、またそのために人員を減らし遣散した。

原文四年,唐宇之賊起,嶷啟上曰:「此段小寇,出於凶愚,天網宏罩,理不足論。但聖明禦世,幸可不爾。比藉聲聽,皆云有由而然。但頃小大士庶,每以小利奉公,不顧所損者大。擿籍檢功巧,督恤簡小塘,藏丁匿口,凡諸條制,實長怨府。此目前交利,非天下大計。一室之中,尚不可精,宇宙之內,何可周洗。公家何嘗不知人多欺巧,古今政以不可細碎,故不爲耳。爲此者實非乖理,但識理者百不有一。陛下弟兒大臣,猶不能伏理,況復天下,悠悠萬品?怨積聚黨,凶迷相類,止于一處,何足不除,脫復多所,便成紜紜。」上答曰:「欺巧那可容!宋世混亂,以爲是不?蚊蟻何足爲憂,至今都應散滅。吾政恨其不辦大耳,亦何時無亡命邪。」後乃詔聽復籍注。是時武帝奢侈,後宮萬餘人,宮內不容,太樂、景第、暴室皆滿,猶以爲未足。嶷後房亦千餘人。潁川荀丕獻書於嶷,極言其失,嶷咨嗟良久,爲書答之,又爲之減遣。

荀丕は字を令哲といい、後に荊州の西曹書佐となった。長史の王秀が彼に書簡を送り、表題に「西曹荀君」と記した。荀丕は返書して言うには、「第五の位は、驃騎将軍に劣らず、また西曹がどうして長史と異なるというのか!且つ人の処世は、当に德行を以て称えられるべきであり、どうして急いで一つの爵位を以て人を高しとすべきか。藺相如は澠池の会で屈せられず、毛遂は郢都で辱めを受けることがなかった。敵に臨み事に当たれば、僕は必ずこの二人より先んじる。足下の貴さ、足下の威が、秦・楚の両王と比べてどうかは知らない。僕は徳を宝とし、足下は位を宝とする。各々その宝を宝とし、ここにおいて敬して宜しきを得る」と。そこで直ちに「長史王君」と題した。当時、尚書令の王儉が朝政を執っており、荀丕はまた王儉に書を送って言うには、「足下は高人の名を建てながら、高人の跡を顕わさず、どうして斉の史書に書き記されようか」と。南郡の綱紀が荊州刺史の随王蕭子隆に啓上して荀丕の罪を請うと、荀丕は自ら申し開きをして免れた。また上書して武帝を極諫し、言葉は甚だ直截であった。帝は悦ばず、荀丕は遂に荊州の獄で賜死された。徐孝嗣はその死を聞いて言うには、「荀丕に仮に罪があっても、殺すべきではなかった。数千年後、竹帛(歴史書)にどう対処するつもりか」と。

原文丕字令哲,後爲荊州西曹書佐,長史王秀與其書,題之云:「西曹荀君」。丕報書曰:「第五之位,不減驃騎,亦不知西曹何殊長史!且人之處世,當以德行稱著,何遽以一爵高人邪?相如不見屈于澠池,毛遂安受辱於郢都,造敵臨事,僕必先於二子,未知足下之貴,足下之威,孰若秦、楚兩王。僕以德爲寶,足下以位爲寶,各寶其寶,於此敬宜。」於是直題云:「長史王君」。時尚書令王儉當朝,丕又與儉書曰:「足下建高人之名,而不顯高人之跡,將何以書于齊史哉。」及南郡綱紀啟荊州刺史隨王子隆請罪丕,丕自申乃免。又上書極諫武帝,言甚直,帝不悅,丕竟於荊州獄賜死。徐孝嗣聞其死,曰:「丕縱有罪,亦不應殺,數千年後,其如竹帛何!」

五年、蕭嶷は位を進めて大司馬となった。八年、皁輪車を給された。まもなく中書監を加えられたが、固く辞讓した。蕭嶷は身長七尺八寸で、容儀を整えることを善くし、文物や衛従の礼は百官の冠であった。殿省に出入りするごとに、皆が仰ぎ見て厳粛にした。自ら地位が隆重であることを以て、深く退いて質素であることを懐き、北宅に旧来より園田の美があったので、大いにこれを修理した。武帝がかつて臨川王蕭映に、家で何事をして楽しいかと問うた。蕭映は言うには、「ちょうど劉瓛に礼を講義させ、顧歓に易を講義させ、朱広之に莊子・老子を講義させ、臣と二、三の諸彦や兄弟、友生が時折撃贊(談論)するのを、これを楽しみとしています」と。上は大いにこれを賞賛した。ある日、蕭嶷に言うには、「臨川王が善を行い、遂にこのようになった」と。蕭嶷は言うには、「これは大司馬公(蕭嶷自身)の次弟です。どうしてこのようでないことがありましょうか!」と。上は玉如意を以て蕭嶷を指して言うには、「未だ皇帝の次弟(蕭嶷自身)が善を行うこと最も多いには及ばない」と。

原文五年,嶷進位大司馬。八年,給皁輪車。尋加中書監,固讓。嶷身長七尺八寸,善持容范,文物衛從,禮冠百僚。每出入殿省,皆瞻望嚴肅。自以地位隆重,深懷退素,北宅舊有園田之美,乃盛修理之。武帝嘗問臨川王映居家何事樂,映曰:「政使劉瓛講禮,顧則講易,朱廣之講莊、老,臣與二三諸彥兄弟友生時復擊贊,以此爲樂。」上大賞之。他日謂嶷曰:「臨川爲善,遂至於斯。」嶷曰:「此大司馬公之次弟,安得不爾!」上仍以玉如意指嶷曰:「未若皇帝之次弟爲善最多也。」

蕭嶷は常に諸子を戒めて言うには、「凡そ富貴な者は少なからず驕奢せず、倹約によって失う者は稀である。漢代以来、侯王の子弟は、驕恣の故に、大なる者は身を滅ぼし族を喪い、小なる者は邑地を削奪される。戒めねばならぬではないか!」と。病と称して東城に住むことを利せず、累次にわたり邸宅に還ることを求め、世子の蕭子廉に東府を鎮守させるよう代行させた。上は数度蕭嶷の邸宅に臨幸した。宋の長寧陵の隧道が邸宅の前の道に出ていた。上は言うには、「我はまさに他家の墓の中に入って人を尋ねるようなものだ」と。そこでその表闕の騏驎を東岡に移した。騏驎及び闕は、形勢が甚だ巧みで、宋の孝武帝が襄陽からもたらしたものであり、後世の帝王の陵墓は皆これを模範としたが、及ぶものはなかった。

原文嶷常戒諸子曰:「凡富貴少不驕奢,以約失之者鮮矣。漢世以來,侯王子弟,以驕恣之故,大者滅身喪族,小者削奪邑地,可不戒哉!」稱疾不利住東城,累求還第,令世子子廉代鎮東府。上數幸嶷第,宋長寧陵隧道出第前路,上曰:「我便是入他家墓內尋人。」乃徙其表闕騏驎於東岡。騏驎及闕,形勢甚巧,宋孝武於襄陽致之,後諸帝王陵皆模範,而莫及也。

永明の末、車駕は数度遊幸したが、ただ蕭嶷のみが陪従した。上がかつて新林苑に出て、同じ輦に乗って夜帰り、宮門に至った時、蕭嶷は輦を下りて辞去しようとした。上は言うには、「今夜の行き来は、尉司に叱責されないようにせよ」と。蕭嶷は対えて言うには、「京輦の内は、皆臣の州に属します。願わくは陛下に過慮を垂れさせませんように」と。

原文永明末,車駕數遊幸,唯嶷陪從。上嘗出新林苑,同輦夜歸,至宮門,嶷下輦辭出,上曰:「今夜行,無使爲尉司所呵也。」嶷對曰:「京輦之內,皆屬臣州,願陛下不垂過慮。」

上は大笑いし、魏から送られてきた氈車を賜った。毎度邸宅に臨幸する時は、もはや人を屏い隠さず、外監に勅して言うには、「我が大司馬の邸宅に行くのは、家に還るようなものだ」と。蕭嶷の妃の庾氏がかつて病気にかかり、癒えた時、上は蕭嶷の邸宅に臨幸し、後堂に金石の楽を設け、宮人を皆集めた。桐台に登り、蕭嶷に烏紗帽を着けさせ、目を極めて歓を尽くし、蕭嶷に家人の礼を備えるよう勅した。蕭嶷は上に言うには、「古来、願わくは陛下の寿は南山に比すべし、或いは万歳と称えるが、これは殆ど表面上の言葉に近い。臣の懐くところでは、実に陛下が百年の極寿を全うされることを願うだけで十分です」と。上は言うには、「百年などどうして得られようか、ただ東西(東七十、西七十、合わせて百四十歳の意か)の百を得るだけで、事にもまた済む」と。因みに互いに手を執って涙を流した。

原文上大笑,賜以魏所送氈車。每幸第,不復屏人,敕外監曰:「我往大司馬第,是還家耳。」嶷妃庾氏,嘗有疾,瘳,上幸嶷邸,後堂設金石樂,宮人畢至。登桐台,使嶷著烏紗帽,極日盡歡,敕嶷備家人之禮。嶷謂上曰:「古來言願陛下壽比南山,或稱萬歲,此殆近貌言。如臣所懷,實願陛下極壽百年亦足矣。」上曰:「百年復何可得,止得東西一百,於事亦濟。」因相執流涕。

十年、帝は蕭嶷の諸子を封じた。旧例では王子は千戸を封ぜられるが、嶷は五子ともに封ぜられんことを欲し、啓して減らし、人ごとに五百戸とした。その年、病篤く、表して職を解かんことを請うたが、許されず、銭五百万を賜って功徳を営ませた。薨じ、年四十九。その日、帝は病を見舞い、薨ずるに至って宮に還った。詔して袞冕の服を以て斂め、温明の秘器を用い、大鴻臚に節を持たせて喪事を護らせ、太官に朝夕祭奠を送らせ、大司馬・太傅の二府の文武は悉く葬を過ぎるまで停めしむ。詔して仮黄鉞・都督中外諸軍事・丞相・揚州牧を贈り、緑綟綬を授け、九服錫命の礼を具え、侍中・大司馬・太傅・王はもと通りとせしむ。九旒の鸞輅、黄屋左纛、虎賁班剣百人、轀輬車、前後部の羽葆・鼓吹を給す。喪葬送儀は、並びに漢の東平王劉蒼の故事に依る。

原文十年,上封嶷諸子。舊例王子封千戶,嶷欲五子俱封,啟減,人五百戶。其年疾篤,表解職,不許,賜錢五百萬營功德。薨,年四十九。其日上視疾,至薨乃還宮。詔斂以袞冕之服,溫明秘器,大鴻臚持節護喪事,太官朝夕送祭奠,大司馬、太傅二府文武悉停過葬。詔贈假黃鉞、都督中外諸軍事、丞相、揚州牧,綠綟綬,具九服錫命之禮,侍中、大司馬、太傅、王如故。給九旒鸞輅,黃屋左纛,虎賁班劍百人,轀輬車,前後部羽葆、鼓吹。喪葬送儀,並依漢東平王蒼故事。

蕭嶷は臨終に、子の子廉・子恪を召して曰く、「我に後は無し、当に共に相勉励し、篤く睦まじきを先とせよ。才には優劣有り、位には通塞有り、運には富貧有り、これ自然の理、以て相陵侮するに足らず。学行に勤しみ、基業を守り、閨庭を修め、閑素を尚べば、かくの如くにして足らば憂患無からん。聖主・儲皇及び諸親賢も、また我の没するを以て情を易えざるべし。三日施霊には、香火・盤水・乾飯・酒脯・檳榔のみとし、朔望の菜食は一盤、甘果を加え、此外は悉く省くべし。葬後に霊を除くには、我が常に乗る所の輿・扇・傘を用いるべし。朔望の時節には、席地に香火・盤水・酒脯・乾飯・檳榔にして便足れり。棺器及び墓中には余物を用いて後患とすべからず。朝服の外には、ただ鉄環刀一口を下すのみ。塚を作るに深からしむるなかれ、一一格に依り、度を過ぐるなかれ。後堂の楼には仏を安んじ、外国の僧二人を供養し、余は皆旧の如くせよ。汝らと遊戯せし後堂の船乗、我が乗る牛馬は、二宮及び司徒に送れ。服飾衣裘は、悉く功徳とせよ」と。子廉ら号泣して奉行す。

原文嶷臨終,召子子廉、子恪曰:「吾無後,當共相勉勵,篤睦爲先。才有優劣,位有通塞,運有富貧,此自然理,無足以相陵侮。勤學行,守基業,修閨庭,尚閑素,如此足無憂患。聖主儲皇及諸親賢,亦當不以吾沒易情也。三日施靈,惟香火、盤水、乾飯、酒脯、檳榔而已,朔望菜食一盤,加以甘果,此外悉省。葬後除靈,可施吾常所乘輿扇傘。朔望時節,席地香火、盤水、酒脯、乾飯、檳榔便足。棺器及墓中勿用餘物爲後患也。朝服之外,唯下鐵環刀一口。作塚勿令深,一一依格,莫過度也。後堂樓可安佛,供養外國二僧,餘皆如舊。與汝遊戲後堂船乘,吾所乘牛馬,送二宮及司徒。服飾衣裘,悉爲功德。」子廉等號泣奉行。

武帝の哀痛は特に至り、蔬食すること旬を積む。太官に朝夕祭奠を送らせ、王融に銘を作らしむるを敕し、云く、「半嶽峰を摧き、中河月を墜つ」と。帝流涕して曰く、「これ正に吾の言わんと欲する所なり」と。

原文武帝哀痛特至,蔬食積旬。太官朝夕送祭奠,敕王融爲銘,云:「半嶽摧峰,中河墜月。」帝流涕曰:「此正吾所欲言也。」

その年の十二月に至り、乃ち楽を挙げて朝臣を宴す。楽始めて挙がるや、上便ち歔欷して流涕す。

原文至其年十二月,乃舉樂宴朝臣。樂始舉,上便歔欷流涕。

蕭嶷薨じた後、邸の庫に見銭無く、武帝敕して雑物服飾を貸し売りして数百万を得、集善寺を起こし、月ごとに邸に見銭百万を給し、上崩ずるに至って乃ち省く。

原文嶷薨後,第庫無見錢,武帝敕貨雜物服飾得數百萬,起集善寺,月給第見錢百萬,至上崩乃省。

蕭嶷は性、泛く愛し、人の過失を聞くを楽しまず、左右の投書して相告ぐるも、靴の中に置き、竟に視ず、取りて火に焚く。斎庫火を失い、荊州より還りし資を焼く、評直三千余万、主局各々杖数十のみ。嶷薨じた後、忽ち形を沈文季に見えて曰く、「我未だ応に便ち死すべからず、皇太子膏の中に十一種の薬を加え、我をして癰差えざらしめ、湯の中に復た薬一種を加え、利断えざらしむ。吾已に先帝に訴え、先帝は東邸に還るを許し、当に此の事を判せん」と。因りて胸中より青紙の文書を出して文季に示し曰く、「卿と少旧有り、卿に因りて上に呈せん」と。俄にして所在を失う。文季秘して伝えず、此の事を甚だ懼れ、少時して太子薨ず。

原文嶷性泛愛,不樂聞人過失,左右投書相告,置靴中,竟不視,取火焚之。齋庫失火,燒荊州還資,評直三千餘萬,主局各杖數十而已。嶷薨後,忽見形于沈文季曰:「我未應便死,皇太子加膏中十一種藥,使我癰不差,湯中復加藥一種,使利不斷。吾已訴先帝,先帝許還東邸,當判此事。」因胸中出青紙文書示文季曰:「與卿少舊,因卿呈上。」俄失所在。文季秘而不傳,甚懼此事,少時太子薨。

また嘗て形を第の後園に見え、腰輿に乗り、指麾処分し、直兵を呼ぶ。直兵に手板無く、左右一つの玉手板を授けて之に与え、謂いて曰く、「橘樹一株死す、補うを覓めよ」と。因りて後園の合を出づるや、直兵地に倒れ、仍て手板を失う。

原文又嘗見形於第後園,乘腰輿,指麾處分,呼直兵,直兵無手板,左右授一玉手板與之,謂曰:「橘樹一株死,可覓補之。」因出後園合,直兵倒地,仍失手板。

群吏の中、南陽の楽藹・彭城の劉繪・呉郡の張稷、最も親礼せらる。藹は竟陵王蕭子良に箋し、率いんと欲す荊・江・湘三州の僚吏をして碑を建てしめ、中書侍郎劉繪に托して営弁せしむ。藹また右率沈約に書し、文を為さんことを請う。約答えて曰く、「郭有道は漢末の匹夫、蔡伯喈に非ざれば以て三絶に偶すに足らず。謝安石は素族の台輔、時に麗藻無く、遂には碑有りて文無し。況んや文献王は彝倫の冠冕、宇内の儀刑、一代の辞宗に非ざれば、或いは此れと与し難し。約は閭閈の鄙人、名第に入らず、欻然として今の旨に酬いんとすれば、便ち是れ礼を以て人に許す、命を聞きて顔に慚じ、已に汗の背に沾うを覚えず」と。建武中、第二子の子恪、約及び太子詹事孔珪に托して文を為さしむ。

原文群吏中南陽樂藹、彭城劉繪、吳郡張稷,最被親禮。藹與竟陵王子良箋,欲率荊、江、湘三州僚吏建碑,托中書侍郎劉繪營辦。藹又與右率沈約書,請爲文。約答曰:「郭有道漢末之匹夫,非蔡伯喈不足以偶三絕。謝安石素族之台輔,時無麗藻,迄乃有碑無文。況文獻王冠冕彝倫,儀刑宇內,自非一代辭宗,難或與此。約閭閈鄙人,名不入第,欻酬今旨,便是以禮許人,聞命慚顏,已不覺汗之沾背也。」建武中,第二子子恪托約及太子詹事孔珪爲文。

妃の庾氏は、女功婦徳有り、蕭嶷甚だ之を重んず。宋の時、武帝及び蕭嶷の位宦尚軽く、家また貧薄なりしに、庾氏は常に己を徹き身を損ない、以て相営奉す。兄弟の公事を行き来する毎に、晩く還りて饑疲すれば、躬ら飲食を営み、未だ時に迎えて先に弁ぜざること無し。豊儉事に随うと雖も、香淨にして口に適う。穆皇后は自ら営まず、また整潔せず、上も亦此を以て之を貴しとす。又妒忌せず、蕭嶷倍に敬重を加う。蕭嶷薨じた後、少時して亦亡ぶ。

原文妃庾氏,有女功婦德,嶷甚重之。宋時,武帝及嶷位宦尚輕,家又貧薄,庾氏常徹己損身,以相營奉。兄弟每行來公事,晚還饑疲,躬營飲食,未嘗不迎時先辦。雖豐儉隨事,而香淨適口。穆皇后不自營,又不整潔,上亦以此貴之。又不妒忌,嶷倍加敬重。嶷薨後,少時亦亡。

子に子廉有り。

原文子 子廉

子廉は字を景藹とす。初め、蕭嶷は魚復侯蕭子響を養いて嗣子と為す。子廉は永新侯に封ぜられ、子響は本に還る。子廉は世子と為り、位は淮陵太守・太子中舎人・前将軍、諸弟を善く撫す。十一年に卒し、侍中を贈られ、諡して哀世子と曰う。

原文子廉字景藹。初,嶷養魚復侯子響爲嗣子,子廉封永新侯,子響還本。子廉爲世子,位淮陵太守,太子中舍人,前將軍,善撫諸弟。十一年卒,贈侍中,諡哀世子。

子廉の子に元琳有り。

原文子廉子 元琳

子の元琳嗣ぐ。梁武、禅を受く。詔して曰く、「豫章王蕭元琳・故竟陵王蕭昭胄の子蕭同は、斉氏の宗国、高帝・武帝の嫡胤、宜しく井邑に祚し、以て後に伝うべし」と。降封して新淦侯と為す。

原文子元琳嗣。梁武受禪,詔曰:「豫章王元琳、故竟陵王昭胄子同,齊氏宗國,高、武嫡胤,宜祚井邑,以傳於後。降封新淦侯。」

子廉の弟に子恪有り。

原文子廉弟 子恪

子廉の弟の子恪は字を景沖とす。永明中、王子として南康県侯に封ぜらる。年十二、従兄の司徒竟陵王蕭子良と高松賦を和し、衛軍王儉之を見て奇とす。

原文子廉弟子恪字景沖,永明中,以王子封南康縣侯。年十二,和從兄司徒竟陵王子良高松賦,衛軍王儉見而奇之。

建武年間(斉)、蕭子恪は吳郡太守となった。大司馬王敬則が會稽で反乱を起こしたとき、子恪を名目として奉じたが、子恪は逃走し、所在が知れなかった。始安王蕭遙光は上(明帝)に高帝・武帝の子孫を皆誅殺するよう勧め、そこで竟陵王蕭昭胄ら六十余人を永福省に入らせる詔勅を下し、太醫に椒二斛を煮させ、数十具の棺桶を用意させた。舍人沈徽孚に「椒が熟したら一度に賜死させる」と言い、三更(午後11時~午前1時)に殺すこととした。

原文建武中,爲吳郡太守。及大司馬王敬則於會稽反,奉子恪爲名,而子恪奔走,未知所在。始安王遙光勸上並誅高、武諸子孫,於是並敕竟陵王昭胄等六十餘人入永福省,令太醫煮椒二斛,並命辦數十具棺材,謂舍人沈徽孚曰:「椒熟則一時賜死。」期三更當殺之。

ちょうど上(明帝)が仮眠していたところ、主書單景雋が詔旨に従って彼らを斃すよう啓上したが、徽孚は固く主張して「事は更に審議すべきである」と言った。その夜三更、子恪が裸足で建陽門に駆け至った。上は聞いて驚き目覚め、「やはり諸侯(宗室諸王)に命を賜うべきではなかったのか」と言った。徽孚が答えた。上は床を撫でて「遙光がほとんど人の事を誤らせるところであった」と言った。子恪に会うと、顧みて涙を流し、諸侯には皆食事を賜った。子恪を太子中庶子とした。

原文會上暫臥,主書單景雋啟依旨斃之,徽孚堅執曰:「事須更審。」爾夕三更,子恪徒跣奔至建陽門。上聞驚覺曰:「故當未賜諸侯命邪?」徽孚以答。上撫床曰:「遙光幾誤人事。」及見子恪,顧問流涕,諸侯悉賜供饌。以子恪爲太子中庶子。

東昏侯が即位すると、侍中となった。中興二年(502年)、相國諮議參軍となった。梁の天監元年(502年)、爵位を子に降格され、司徒左長史の位にあった。

原文東昏即位,爲侍中。中興二年,爲相國諮議參軍。梁天監元年,降爵爲子,位司徒左長史。

子恪は弟の子範らとある事で入朝し謝恩したとき、梁武帝が文德殿で引見し、言った。「天下の宝(帝位)は本来公の器であり、もし運命がなければ、項籍のような力があっても結局は敗れ滅びる。宋の孝武帝は猜疑心が強く、兄弟で少しでも名声のある者は、ことごとく事に因って毒殺され、残ったのは(前廃帝)劉子業(景和)だけだった。朝臣の中で天命があると疑われて害された者は、無実の罪で次々と殺された。当時は卿の祖父(蕭道成)も疑われたが、どうしようもなかった。宋の明帝はもともと凡庸で(武帝の子でないため)免れていたが、どうして疑いを避けて全うできただろうか。また、私も当時すでに二歳で、彼らが私に今日があると知るはずがない。天命ある者は人が害せず、害しても得られないと知るべきだ。私が初めて建康城を平定したとき、朝廷内外は皆私に『時代が革まり異なるので、人心を一つにするため、処分を行うべきだ』と勧めた。私は当時これに従って行動したが、誰が不可と言えようか。ただ、江左(東晋)以来、王朝が代わるごとに必ず誅戮が行われ、これは和気を傷つけ、国祚が例として長く続かない原因である。これが一つの道理である。二つには、斉から梁への革代は、過去のそれとは意義が異なる。私と卿ら兄弟の宗族関係は遠くない。卿は兄弟が親しいと言うな。人の家の兄弟にも親密な者とそうでない者がおり、まして五服の親族はどうか。斉の創業の初めも、苦楽を共にし、腹心は私にあった。卿ら兄弟は若かったので、当然詳しくは知らないだろう。私と卿ら兄弟は情において一家と同じであり、どうしてこのことを全く顧みず、他人のように振る舞うことがあろうか。これが二つ目の道理である。また、建武帝(明帝)が卿らの一族を屠滅したとき、私は義兵を起こしたが、ただ自らの家門の恥を雪ぐためだけでなく、卿ら兄弟の仇を討つためでもあった。卿がもし建武・永元の時代に乱を撥ね正すことができたなら、私がたとえ樊・鄧から挙兵しても、どうして戈を収めて推戴し奉らなかっただろうか。私は今卿のために仇を報いているのであり、かつ時代が革まり異なっているので、卿ら兄弟には節を尽くして私に報いることを望むだけである。また、私は喪乱に乗じて、明帝の家の天下を取ったのであって、卿の家の天下を取ったのではない。昔、劉子輿が成帝の子を自称したとき、光武帝は言った。『たとえ成帝が生き返っても、天下は再び得られない。まして子輿であろうか』。梁の初め、人々が私に(斉宗室を)誅滅するよう勧めたとき、私は先ほどの言葉のように答えた。『もし天命があれば、私が殺すことはできない。もし運がなければ、なぜ急いでそんなことをするのか。ただ度量がないことを示すだけだ』。曹志は魏武帝の孫という近い身内でありながら、晋の武帝に仕えて晋室の忠臣となった。これが卿の事例である。卿は宗室であり、情義は他者とは異なる。今率直に期待をかけている。少し待てば、自然に私の心を知るだろう」。また、文獻王(蕭嶷)の時代に内齋の直帳にいた宦官趙叔祖が、天監初年に台城に入り齋帥として壽光省にいた。武帝が呼んで問うた。「お前は近ごろ北第(斉宗室の邸宅)の諸郎に会ったか。もし会ったら、私のこの意を伝えよ。今日は革代ではあるが、情は一家と同じである。ただ今は磐石(宗室の藩屏)がまだ固まっていないので、諸郎を用いることができないだけだ。私がまだ適さないというだけでなく、諸郎が安泰でいられるようにしたいのでもある。ただ門を閉じて高枕でいれば、後になって自然に私の心が見えるだろう」。叔祖はすぐに出向いてこの勅意を宣べ伝えた。

原文子恪與弟子範等嘗因事入謝,梁武帝在文德殿引見,謂曰:「夫天下之寶,本是公器,苟無期運,雖有項籍之力,終亦敗亡。宋孝武爲性猜忌,兄弟粗有令名者,無不因事鴆毒,所遺唯景和。至朝臣之中疑有天命而致害者,枉濫相繼。于時雖疑卿祖,無如之何。如宋明帝本爲庸常被免,豈疑得全。又復我于時已年二歲,彼豈知我應有今日。當知有天命者非人所害,害亦不能得。我初平建康城,朝廷內外皆勸我云:'時代革異,物心須一,宜行處分。'我于時依此而行,誰謂不可?政言江左以來,代謝必相誅戮,此是傷于和氣,國祚例不靈長。此是一義。二者,齊、梁雖曰革代,義異往時。我與卿兄弟宗屬未遠,卿勿言兄弟是親,人家兄弟自有周旋者不周旋者,況五服之屬邪?齊業之初,亦是甘苦共嘗,腹心在我,卿兄弟年少,理當不悉。我與卿兄弟便是情同一家,豈當都不念此,作行路事。此是二義。且建武屠滅卿門,我起義兵,非惟自雪門恥,亦是爲卿兄弟報仇。卿若能在建武、永元之時撥亂反正,我雖起樊、鄧,豈得不釋戈推奉。我今爲卿報仇,且時代革異,望卿兄弟盡節報我耳。且我自藉喪亂,代明帝家天下,不取卿家天下。昔劉子輿自稱成帝子,光武言:'假使成帝更生,天下亦不復可得,況子輿乎?'梁初人勸我相誅滅者,我答之猶如向言:'若苟有天命,非我所殺,若其無運,何忽行此,政是示無度量。'曹志親是魏武帝孫,入事晉武,爲晉室忠臣。此即卿事例。卿是宗室,情義異他,方坦然相期,小待自當知我寸心。」又文獻王時內齋直帳閹人趙叔祖,天監初入台爲齋帥在壽光省。武帝呼問曰:「汝比見北第諸郎不?若見道我此意:今日雖是革代,情同一家;但今磐石未立,所以未得用諸郎。非唯在我未宜,我亦是欲使諸郎得得安耳。但閉門高枕,後自當見我心。」叔祖即出具宣敕意。

子恪は普通三年(522年)に累進して都官尚書となり、四年に吏部尚書に転じた。大通二年(528年)、出向して吳郡太守となり、任地で死去した。諡は恭子。

原文子恪普通三年累遷都官尚書,四年轉吏部。大通二年,出爲吳郡太守,卒官。諡曰恭子。

子恪兄弟十六人とも梁に入り、文学の才があったのは子恪・子質・子顯・子雲・子暉である。子恪は常々親しい者に言った。「文史の事は諸弟が備えている。私がまた引きずり回される必要はない。ただ公務から退き食事をするだけで、過不足はない」。

原文子恪兄弟十六人併入梁,有文學者子恪、子質、子顯、子雲、子暉。子恪常謂所親曰:「文史之事,諸弟備之矣,不煩吾復牽率。但退食自公,無過足矣。」

子恪も学問に通じ、文章をよくしたが、書き上げるとすぐにその草稿を棄てたので、文集は伝わらなかった。

原文子恪亦涉學,頗屬文,隨棄其本,故不傳文集。

子恪の次の弟、子操。

原文子恪次弟 子操

子恪の次の弟子操は、泉陵侯に封ぜられた。王侯の出身者は官職に定まった基準がなく、素姓(一般士族)の三公の長子一人が員外郎となるのが例であった。建武年間、子操は初めて給事中となった。これ以降、斉末までこの例となった。永泰元年(498年)、兄の南康侯子恪が吳郡太守であったが、王敬則の難を避けて帰還したため、子操が吳郡太守となった。永元年間(499-501年)、黃門郎となった。

原文子恪次弟子操,封泉陵侯。王侯出身,官無定準,素姓三公長子一人爲員外郎。建武中,子操解褐爲給事中。自此齊末皆以爲例。永泰元年,兄南康侯子恪爲吳郡太守,避王敬則難歸,以子操爲吳郡太守。永元中,爲黃門郎。

子操の弟、子範。

原文子操弟 子範

子操の弟子範、字は景則。斉の永明年間(483-493年)に祁陽縣侯に封ぜられ、太子洗馬に任ぜられた。

原文子操弟子範字景則。齊永明中封祁陽縣侯,拜太子洗馬。

天監初年(502年)、爵位を子に降格され、司徒主簿の位にあった。生母の喪に服して職を去った。

原文天監初降爵爲子,位司徒主簿。丁所生母憂去職。

子範は孝行の性があり、喪に服して身を毀して聞こえた。喪が明けると、累進して大司馬南平王(蕭偉)の從事中郎となった。王は文学の士を愛し、子範は特に恩遇を受け、常々「これは宗室の奇才である」と言った。千字文を作らせると、その文辞は甚だ美しかった。王は記室蔡薳に注釈させた。これ以降、府中の文筆は全て彼に草稿を作らせた。

原文子範有孝性,居喪以毀聞。服闋,累遷大司馬南平王從事中郎。王愛文學士,子範偏被恩遇,常曰:「此宗室奇才也。」使制千字文,其辭甚美。王命記室蔡薳注釋之。自是府中文筆皆使具草。

後に臨賀王蕭正德の長史となった。正德が丹陽尹に遷ると、また正德の信威長史となり、尹丞を領した。十数年官に歴任したが、蕃府(王府)を出ず、諸弟は皆顕職に登ったので、心中平らかでなかった。この時、王府に到着した際の上申文に「上蕃(京尹)の首僚に、ここに再び忝くし、河南(尹)に雌伏し、自此重ねて叨る。老少時を異にし、盛衰日を殊にする。恩寵を佩びながらも、なお年鬢を羞じる」と書いた。子範は若い頃、弟子顯・子雲と才名がほぼ互角であったが、風采や容止は及ばず、故に官途に優劣があった。漢書の杜緩伝を読むたびに「六人の弟のうち五人は大官に至り、ただ中弟の杜欽だけが官位は至らなかったが、最も有名であった」とあるのを、常に吟誦しては、自分に譬えた。

原文後爲臨賀王正德長史。正德遷丹陽尹,復爲正德信威長史,領尹丞。曆官十餘年,不出蕃府,而諸弟並登顯列,意不能平。及是爲到府箋曰:「上蕃首僚,於茲再忝,河南雌伏,自此重叨。老少異時,盛衰殊日,雖佩恩寵,還羞年鬢。」子範少與弟子顯、子雲才名略相比,而風采容止不逮,故宦途有優劣。每讀漢書杜緩傳云:「六弟五人至大官,唯中弟欽官不至,最知名。」常吟諷之,以況己也。

後に秘書監となった。簡文帝が即位すると、光祿大夫に召され、金章紫綬を加えられた。賊(侯景)に迫られて拝命しなかった。その年、簡皇后を葬るにあたり、哀策文を作らせると、文理が哀切であった。帝は武林侯蕭諮に言った。「この度、莊陵(簡皇后陵)の万事は零落したが、ただ哀冊だけはまだ典刑(手本)がある」。勅して米千石を賜った。

原文後爲秘書監。簡文即位,召爲光祿大夫,加金章紫綬。以逼賊不拜。其年葬簡皇后,使制哀策,文理哀切。帝謂武林侯蕭諮曰:「此段莊陵萬事零落,唯哀冊尚有典刑。」敕賚米千石。

子範は居宅を持たず、まもなく招提寺の僧房で卒去した。賊が平定されると、元帝は金紫光禄大夫を追贈し、諡して文といった。前後の文集三十巻。

原文子範無居宅,尋卒於招提寺僧房。賊平,元帝追贈金紫光祿大夫,諡曰文。前後文集三十卷。

子範の子は滂である。

原文子範子 滂

子滂と確はともに年少より文章があり、簡文帝が東宮におられた時、たびたび邵陵王と諸蕭の文士を数えたが、滂と確もともにその中に加えられた。

原文子滂、確並少有文章,簡文在東宮時,嘗與邵陵王數諸蕭文士,滂、確並預焉。

滂は中軍宣城王記室の位にあり、子範より先に卒去した。確は司徒右長史の位にあった。魏が江陵を平定すると、長安に入った。

原文滂位中軍宣城王記室,先子範卒。確位司徒右長史。魏平江陵,入長安。

滂の弟は幹である。

原文滂弟 幹

滂の弟の幹は字を思惕といい、容止は雅正で、性質は恬簡であり、隷書をよくし、叔父の子雲の法を得た。九歳で国子周易生に補せられ、祭酒の袁昂は深く敬重した。梁に仕えて宣城王諮議参軍となった。陳武帝が南徐州を鎮守する時、司空従事中郎に引き立てられた。帝が受命すると、永定元年、給事黄門侍郎に除せられた。時に熊曇朗は豫章に、周迪は臨川に、留異は東陽に、陳宝応は建安におり、互いに連結し、閩中の豪帥は柴を立てて自らを保っていた。武帝はこれを憂い、幹を遣わし、逆順を諭して言った、「昔、陸賈が南征し、趙佗は帰順し、随何が使を奉じ、黥布は来臣した。清風を追想すれば、髣髴として目に在り。卿は功名を立てることを勉めよ、更に師旅を労する煩いはない」。幹が至ると、逆順を示し、所在の地はことごとく款附した。その年、建安太守に就いて除せられた。

原文滂弟幹字思惕,容止雅正,性恬簡,善隸書,得叔父子雲之法。九歲,補國子周易生,祭酒袁昂深敬重之。仕梁爲宣城王諮議參軍。陳武帝鎮南徐州,引爲司空從事中郎。及受命,永定元年,除給事黃門侍郎。時熊曇朗在豫章,周迪在臨川,留異在東陽,陳寶應在建安,共相連結,閩中豪帥,立柴自保。武帝患之,令幹往,諭以逆順,謂曰:「昔陸賈南征,趙他歸順;隨何奉使,黥布來臣。追想清風,髣佛在目,卿宜勉建功名,不煩更勞師旅。」幹至,示以逆順,所在款附。其年,就除建安太守。

天嘉二年、留異が反し、陳宝応がこれを助け、また周迪に兵糧を資して、出でて臨川を寇し、よって建安を逼った。幹は単使で郡に臨んだが守ることができず、ついに郡を棄てて宝応を避けた。時に閩中の宰守はみな宝応の署置を受けていたが、幹のみは屈せず、郊野に徙居した。宝応が平定されると、都督の章昭達がこれを聞上し、文帝は甚だこれを嘉し、超授して五兵尚書とした。卒去し、諡して静子といった。

原文天嘉二年,留異反,陳寶應助之,又資周迪兵糧,出寇臨川,因逼建安。幹單使臨郡,不能守,乃棄郡以避寶應。時閩中宰守並受寶應署置,幹獨不屈,徙居郊野。及寶應平,都督章昭達以聞,文帝甚嘉之,超授五兵尚書。卒,諡靜子。

子範の弟は子顕である。

原文子範弟 子顯

子顕は字を景陽といい、子範の弟である。幼くして聡慧であり、嶷は偏愛した。七歳で寧都県侯に封ぜられ、梁の天監初年に降って子となった。太尉録事参軍の位にあった。

原文子顯字景陽,子範弟也。幼聰慧,嶷偏愛之。七歲,封甯都縣侯,梁天監初,降爲子。位太尉錄事參軍。

子顕は身長八尺、状貌は甚だ雅であり、学を好み、属文をよくした。かつて鴻序賦を著わすと、尚書令の沈約はこれを見て称して言った、「明道の高致と謂うべく、蓋し幽通の流れなり」。また衆家の後漢書を採り同異を考正して、一家の書とした。また斉史の撰修を啓上し、書が成ると表奏し、詔して秘閣に付した。累遷して邵陵王友となった。後に黄門郎を除せられた。

原文子顯身長八尺,狀貌甚雅,好學,工屬文。嘗著鴻序賦,尚書令沈約見而稱曰:「可謂明道之高致,蓋幽通之流也。」又采眾家後漢考正同異,爲一家之書。又啟撰齊史,書成表奏,詔付秘閣。累遷邵陵王友。後除黃門郎。

中大通二年、長兼侍中に遷った。梁武帝は雅に子顕の才を愛し、またその容止吐納を嘉し、毎に御筵に侍坐する時、偏りに顧み訪ねられた。かつて従容として言われた、「我は通史を造る。この書もし成れば、衆史は廃すべし」。子顕は対して言った、「仲尼は易道を賛し、八索を黜き、職方を述べて、九丘を除く。聖制符同すること、復た茲の日に在り」。時に名対と為した。

原文中大通二年,遷長兼侍中。梁武帝雅愛子顯才,又嘉其容止吐納,每御筵侍坐,偏顧訪焉。嘗從容謂曰:「我造通史,此書若成,眾史可廢。」子顯對曰:「仲尼贊易道,黜八索;述職方,除九丘。聖制符同,復在茲日。」時以爲名對。

三年、本官を以て国子博士を領した。武帝は孝経義を制したが、未だ学官に列せず、子顕は職に在り、助教一人、生十人を置くことを表した。また武帝集並びに普通北伐記の撰修を啓上した。国子祭酒に遷り、侍中を加えられ、学において武帝の五経義を遞述し、吏部尚書に遷り、侍中はもと通りであった。

原文三年,以本官領國子博士。武帝制孝經義,未列學官,子顯在職,表置助教一人,生十人。又啟撰武帝集並普通北伐記。遷國子祭酒,加侍中,於學遞述武帝五經義,遷吏部尚書,侍中如故。

子顕は風神灑落、雍容閑雅であり、賓客に簡通し、鬼神を畏れなかった。性は山水を愛し、伐社文を作ってその志を表した。酒を数斗飲み、頗る才気を負っていた。選を掌るに及んで、九流の賓客を見ては交言せず、ただ扇を挙げて一撝するのみであり、衣冠はひそかに恨んだ。しかし簡文帝は平素その人となりを重んじ、東宮におられた時、毎に引きいて宴を促した。子顕がかつて起って更衣すると、簡文帝は坐客に謂って言われた、「常に異人の間出を聞く、今日始めて見る、知る蕭尚書なることを」。その見重されることこの如くであった。出でて呉興太守となった。卒去した時は四十九歳、詔して侍中・中書令を贈られた。諡を請うた時、手敕して言われた、「才を恃みて物に傲る、宜しく驕と諡すべし」。子顕はかつて自序を作り、その略に云う、「余は邵陵王友たり、忝くも京師に還り、遠く前比を思えば、即ち楚の唐・宋、梁の厳・鄒なり。平生を追尋すれば、頗る辞藻を好み、名に在りて成らずと雖も、心を求めて已に足る。若し乃ち高きに登り目を極め、水に臨みて帰を送り、風春朝を動かし、月秋夜に明らかなり、早雁初鸚、開花落葉、来る有れば斯に応じ、毎に已む能わざるなり。且つ前代の賈・傅・崔・馬・邯鄲・繆・路の徒は、並びに文章を以て顕われ、故に屡に歌頌を上し、自ら古人に比す。天監十六年、始めて九日の朝宴に預かり、稠人広坐、独り旨を受けて云う、『今雲物甚だ美なり、卿将に斐然として詩を賦せざるべからず』。詩既に成り、又た旨を降して曰く、『才子と謂うべし』。余退きて人に謂いて曰く、一顧の恩、望み至らざるに至る、遂に方す賈誼何如なるや、未だ易く当たるべからず。毎に制作有れば、特ち思功寡く、その自ら来るを須ち、力を以て構えず。少来の為す所の詩賦は、則ち鴻序一作、体は衆制を兼ね、文は多方に備わり、頗る好事の伝うる所となり、故に虚声易く遠し」。子顕の著する所の後漢書一百巻、斉書六十巻、普通北伐記五巻、貴儉伝三巻、文集二十巻。

原文子顯風神灑落,雍容閒雅,簡通賓客,不畏鬼神。性愛山水,爲伐社文以見其志。飲酒數斗,頗負才氣。及掌選,見九流賓客不與交言,但舉扇一撝而已,衣冠竊恨。然簡文素重其爲人,在東宮時,每引與促宴。子顯嘗起更衣,簡文謂坐客曰:「常聞異人間出,今日始見,知是蕭尚書。」其見重如此。出爲吳興太守。卒時年四十九,詔贈侍中、中書令。及請諡,手敕曰:「恃才傲物,宜諡曰驕。」子顯嘗爲自序,其略云:「余爲邵陵王友,忝還京師,遠思前比,即楚之唐、宋,梁之嚴、鄒。追尋平生,頗好辭藻,雖在名無成,求心已足。若乃登高目極,臨水送歸,風動春朝,月明秋夜,早雁初鸚,開花落葉,有來斯應,每不能已也。且前代賈、傅、崔、馬、邯鄲、繆、路之徒,並以文章顯,所以屢上歌頌,自比古人。天監十六年,始預九日朝宴,稠人廣坐,獨受旨云:'今雲物甚美,卿將不斐然賦詩。'詩既成,又降旨曰:'可謂才子。'餘退謂人曰:一顧之恩,非望而至,遂方賈誼何如哉,未易當也。每有制作,特寡思功,須其自來,不以力構。少來所爲詩賦,則鴻序一作,體兼眾制,文備多方,頗爲好事所傳,故虛聲易遠。」子顯所著後漢書一百卷,齊書六十卷,普通北伐記五卷,貴儉傳三卷,文集二十卷。

子顕の子は序である。

原文子顯子 序

子序と愷はともに年少より知名であった。序は太清中に中庶子の位にあり、卒去した。愷は太子家令であった。

原文子序、愷並少知名。序太清中位中庶子,卒。愷太子家令。

子顯の子に愷あり。

原文子顯子 愷

愷は才学と声望があり、当時の論評ではその父に比せられた。簡文帝が東宮に在った時、早くから彼を招き接遇した。時に中庶子謝嘏が建安郡の太守として出ることとなり、宣猷堂で餞別の宴を開き、同時に当時の才人を召して詩を賦させ、皆で十五劇の韻を用いた。愷の詩が先に出来上がり、その文辞もまた優れていた。簡文帝は湘東王に令して曰く、「王筠はもとより旧来の名手であるが、後進には蕭愷が称えられる。まことに才子である。」先に太学博士顧野王が令を奉じて『玉篇』を撰していたが、簡文帝はその書の詳略が適当でないと感じ、愷が博学で、特に文字に精通していることから、更に学士と共に刪改させた。太清年間、侍中の任に在って卒した。子顯の弟の子に雲あり。

原文愷才學譽望,時論以方其父。簡文在東宮早引接之。時中庶子謝嘏出守建安,于宣猷堂餞飲,並召時才賦詩,同用十五劇韻。愷詩先就,其辭又美。簡文與湘東王令曰:「王筠本自舊手,後進有蕭愷可稱,信爲才子。」先是太學博士顧野王奉令撰玉篇,簡文嫌其書詳略未當,以愷博學,于文字尤善,使更與學士刪改。太清中,卒於侍中。子顯弟子云。

子顯の弟に子雲あり。

原文子顯弟 子雲

子雲は字を景喬といい、十二歳の時、斉の建武四年に新浦県侯に封ぜられた。自ら拝章(封爵の礼の文)を作ったが、既に文采があった。梁の天監初年に爵を降格されて子爵となった。成長すると、勤勉に学び文藻があり、弱冠にして『晋書』を撰し、二十六歳の時に完成、百余巻に及び、表を奉って奏上した。詔によって秘閣に収蔵された。

原文子雲字景喬,年十二,齊建武四年,封新浦縣侯。自製拜章,便有文采。梁天監初,降爵爲子。及長,勤學有文藻,弱冠撰晉書,至年二十六,書成百餘卷,表奏之,詔付秘閣。

子雲は性質沈静で、仕進を好まず、風神は閑曠にして、任自然で衆に同調しなかった。夏の月には賓客に対しても、常に裸袒していた。しかし兄弟とは仲が悪く、吉凶の事があっても互いに弔問せず、当時の論評はこれをもって彼を軽んじた。

原文子雲性沈靜,不樂仕進,風神閑曠,任性不群。夏月對賓客,恒自裸袒。而兄弟不睦,乃至吉凶不相吊問,時論以此少之。

三十歳にして初めて秘書郎に起家し、太子舎人に遷り、『東宮新記』を撰して奏上し、勅によって束帛を賜った。累遷して丹陽郡丞となった。湘東王蕭繹が丹陽尹となった時、深く賞賛して親しみ、布衣の交わりの如くであった。中大通三年、臨川内史となり、郡において和やかに治め、人吏はこれを悦んだ。還って散騎常侍に除され、侍中、国子祭酒を歴任した。

原文年三十,方起家爲秘書郎,遷太子舍人,撰東宮新記奏之,敕賜束帛。累遷丹陽郡丞。湘東王繹爲丹陽尹,深相賞好,如布衣之交。中大通三年,爲臨川內史,在郡以和理稱,人吏悅之。還除散騎常侍。曆侍中,國子祭酒。

梁の初め、郊廟の祭祀ではまだ生贄の犠牲が廃されず、楽辞は全て沈約が撰していたが、この時までそのまま用いられていた。子雲は改めるべきであると上啓し、勅答して曰く、「これは主管者が守株(古いしきたりに固執)しているのだ。急いで改めるがよい。」そこで子雲に撰定させた。勅して曰く、「郊廟の歌辞は、典誥の大語を用いるべきで、子史の文章や浅い言葉を雑用してはならない。しかるに沈約の撰したものも、多く誤りがある。」子雲が作成すると、勅によって全て施行された。

原文梁初,郊廟未革牲牷,樂辭皆沈約撰,至是承用。子雲啟宜改之,敕答曰:「此是主者守株,宜急改也。」仍使子雲撰定。敕曰:「郊廟歌辭,應須典誥大語,不得雜用子史文章淺言。而沈約所撰,亦多舛謬。」子雲作成,敕並施用。

子雲は草隸を善くし、当時の楷法となった。自ら言うには、鍾元常(鍾繆)・王逸少(王羲之)をよく模倣しつつ、わずかに字体を変えたと。かつて勅に答えて云う、「臣は昔、抜きん出た賞識ができず、時の貴ぶところに従い、子敬(王献之)を模倣すること多年に及んだ。二十六歳で『晋史』を著し、二王(王羲之・王献之)の列伝に至り、草隸の法について論じようとしたが、言い尽くせず、遂に完成できず、ただ飛白の一事について略しく指論したに過ぎない。十余年を経て、始めて勅旨の論書一卷を見、筆勢を論じ、字体を洞徹し、初めて子敬を改め、元常を完全に範とした。それ以来、自ら功の進んだことを覚える。」その書跡は大いに武帝に重んぜられ、帝は嘗て書について論じて曰く、「筆力勁駿、心手相応じ、巧みは杜度を超え、美しさは崔寔に勝る。まさに元常と並び駆け先を争うべきである。」このように賞賛された。

原文子雲善草隸,爲時楷法,自雲善效鍾元常、王逸少而微變字體。嘗答敕云:「臣昔不能拔賞,隨時所貴,規摹子敬,多歷年所。年二十六著晉史,至二王列傳,欲作論草隸法,言不盡意,遂不能成,略指論飛白一事而已。十許年,始見敕旨論書一卷,商略筆狀,洞澈字體,始變子敬,全范元常。逮爾以來,自覺功進。」其書跡雅爲武帝所重,帝嘗論書曰:「筆力勁駿,心手相應,巧逾杜度,美過崔寔,當與元常並驅爭先。」其見賞如此。

東陽太守として出向した。百済国の使人が建鄴に来て書を求め、子雲が郡に在る時に出会い、船を繋いで出発しようとしていた。使人は渚のほとりでこれを待ち、船を三十歩ばかり離れた所から望み、歩みながら拝礼して船前に進んだ。子雲が人を遣わして問うと、答えて曰く、「侍中の尺牘の美は、遠く海外に流れており、今日求める所は、ただ名跡に在ります。」子雲はそこで三日間船を停め、三十紙を書いて与え、金貨数百万を得た。性質吝嗇で、外部への返礼には良い紙を用いず、好事の者は重ねて賂を贈り、その返答を得ようとした。

原文出爲東陽太守。百濟國使人至建鄴求書,逢子雲爲郡,維舟將發。使人於渚次候之,望船三十許步,行拜行前。子雲遣問之,答曰:「侍中尺牘之美,遠流海外,今日所求,唯在名跡。」子雲乃爲停船三日,書三十紙與之,獲金貨數百萬。性吝,自外答餉不書好紙,好事者重加賂遺,以要其答。

太清元年、再び侍中・国子祭酒となった。二年、侯景が侵逼し、子雲は民間に逃れた。三年、宮城が陥落すると、晉陵に奔り、顕雲寺の僧房で餓死した。六十三歳。著書に『晋書』一百十巻、『東宮新記』二十巻。

原文太清元年,復爲侍中、國子祭酒。二年,侯景寇逼,子雲逃人間。三年,宮城失守,奔晉陵,餒卒於顯雲寺僧房,年六十三。所著晉書一百一十卷,東宮新記二十卷。

子雲の子に特あり。

原文子雲子 特

子特は字を世達といい、早くから名を知られ、また草隸を善くし、当時の人はこれを衞恒・衞瓘に比した。武帝が嘗て特に書かせ、奏上された時、帝は曰く、「子敬の跡は逸少に及ばず、蕭特の書は遂に父に迫る。」位は太子舎人、海塩令に至り、事に坐して免官された。父の子雲より先に卒し、遺啓を簡文帝に奉って墓誌銘を求めた。帝は銘を撰した。

原文子特字世達,早知名,亦善草隸,時人比之衞恒、衞瓘。武帝嘗使特書,及奏,帝曰:「子敬之跡不及逸少,蕭特之書遂逼于父。」位太子舍人,海鹽令,坐事免。先子雲卒,遺啟簡文求爲墓誌銘,帝爲制銘焉。

子雲の弟に子暉あり。

原文子雲弟 子暉

子雲の弟の子暉は字を景光といい、若くして学に渉り、また文才があった。性質恬静で、嗜欲寡く、嘗て重雲殿で制講の『三慧経』を聴き、退いて『講賦』を作り奏上した。大いに賞賛された。驃騎長史の任に在って卒した。

原文子雲弟子暉字景光,少涉學,亦有文才。性恬靜,寡嗜欲,嘗預重雲殿聽制講三慧經,退爲講賦奏之,甚見賞。卒于驃騎長史。