南史 卷四十一 列傳第三十一 齊宗室

南史

卷四十一 列傳第三十一 齊宗室

衡陽元王

衡陽元王蕭道度は、齊の高帝の長兄である。初め高帝と共に雷次宗に学を受けた。宣帝が次宗に二人の子の学業を問うと、次宗は答えて言うには、「兄は外に朗らか、弟は内に潤い、皆良き璞玉なり」と。宋に仕えて安定太守の位に至り、卒した。齊の建元元年、高帝が追って封と諡を加えた。子が無かったので、高帝は第十一子の鈞を後継ぎとした。

鈞は字を宣禮といい、五歳の時、生母の區貴人が病むと、たちまち憔悴し、左右の者が常例に従って五色の飴を与えたが、食べようとせず、言うには、「姨(母)が癒えるのを待たねばならぬ」と。七歳の時、衡陽元王の後を継ぐこととなり、高帝に謁見したが、拝礼もせぬうちから涕泗が横に流れた。高帝はその手を取って言うには、「伯叔父は父の如し、怨むなかれ。汝を出継ぎせしめた所以は、汝に志があり、蒸嘗を奉ずるに堪えるが故である」と。即ち外に勅して、先例通りに通幰車・雉尾扇などを給することとし、何事も正規の王に準じた。

區貴人が卒すると、喪に服して礼を尽くした。喪が明けて武帝に問訊すべき時、病弱で骨と皮ばかりとなり、車に登ろうとして三度試みても上がれず、遂に止めた。典簽の曹道人がこれを詳しく上聞すると、武帝は直ちに鈞の邸に行幸し、これを見て愴然とし、帰って褚蓁に言うには、「昨日衡陽王を見たが、なお甚だしく損なわれている。卿はしばしば慰め励ますがよい」と。先に貴人が華釵の厨子と共に、錦繡の中に倒れた炬・鳳凰・蓮芰・星月の類を切り刻んだものを鈞に与え、玩弄させていた。貴人が亡くなって後、毎年の節句や朔望の度に、これを開けて見ては再拝し、咽び泣き、見る者は皆これに悲しんだ。

性質好学にして、文を属することを善くし、琅邪の王智深と文章をもって交わり、濟陽の江淹もまた遊んだ。武帝は王儉に言うには、「衡陽王には文学が必要である。華実相称ならしめ、ただ貴遊の子弟を取るのみに止めてはならぬ」と。そこで太子舎人蕭敷を文学とした。

鈞は常に自ら細字で五経を書き写し、一部を一卷として巾箱の中に置き、遺忘に備えた。侍読の賀玠が問うて言うには、「殿下の家には元より典籍があるのに、また何ぞ蠅頭の細書を以て、別に巾箱の中に蔵する必要がありましょうか」と。答えて言うには、「巾箱の中に五経があれば、検閲するに容易く、かつ一度手で書き写せば、永く忘れぬからである」と。諸王はこれを聞いて争って巾箱五経を為すことを模倣し、巾箱五経はここに始まったのである。身を処すること清廉で質素、言うこと未だ時事に及んだことはなかった。會稽の孔珪が家に園を造り、桐や柳を植え並べ、多く山泉を構えて、殆ど真の趣を窮めていた。鈞がこれに遊びに行くと、珪は言うには、「殿下は朱門に処し、紫闥に遊ばれる。どうして山人と交わることができましょうか」と。答えて言うには、「身は朱門に処すれども、情は江海に遊び、形は紫闥に入れども、意は青雲に在り」と。珪は大いにこれを美とした。吳郡の張融は清高で俗を絶ち、王公貴人といえども、これを見れば傲然としていたが、ただ鈞をひたすら重んじ、従兄の緒に言うには、「衡陽王は飄飄として凌雲の気あり。その風情素韻は、いよいよ懐うに足る。融これと遊びて、老いの将に至らんとするを知らず」と。このように賞賛されたのである。

歴任して秘書監に至る。延興元年、明帝に殺害された。明帝が立つと、永陽王蕭子瑉を以て、元の本国を継がせ、元王の孫とした。

子瑉は字を雲璵といい、武帝の第二十子である。初め義安郡王に封ぜられ、後に永陽王に改封された。永泰元年に害せられ、再び武陵昭王蕭曄の子の子坦を以て元王の後を奉ぜしめた。

始安貞王

始安貞王蕭道生は字を孝伯といい、高帝の次兄である。宋に仕えて奉朝請の位に至り、卒した。高帝即位後、追って封と諡を加えた。三人の子あり。長は鳳、次は鸞(これが明帝)、次は沔(これが安陸昭王)である。鳳は字を景慈といい、宋に仕えて正員郎の位に至り、卒した。高帝即位後、靖世子と諡された。

建武元年、明帝は道生を追尊して景皇とし、妃江氏を后とし、御道の西に寝廟を立て、陵を修安と称した。鳳を追封して始安靖王とし、華林鳳莊門を望賢門と改め、太極東堂に鳳鳥の絵を描き、題して神鳥とし、一方で鸞鳥を神雀と改称した。子の遙光が嗣いだ。

始安王

始安王蕭遙光は字を元暉といい、生まれつき跛の疾があった。高帝は奉拜祭祀に堪えぬと考え、その弟を封じようとしたが、武帝が諫めたので、遙光に爵を襲わせた。位は中書郎に至った。

明帝が政務を補佐するにあたり、誅罰や賞与の諸事は、ただ蕭遙光と共に謀議し、高帝・武帝の諸子弟を皆殺しにするよう明帝に勧め、その意見は容れられた。建武元年、揚州刺史となる。三年、撫軍将軍の号を進められる。吏事を好み、甚だ多く惨害を行った。足疾があって朝列に同ずることができず、常に輿に乗って望賢門より入った。毎度明帝と久しく清閑を共にし、言い終わると、帝は香火を求め、明日には必ず誅殺することがあった。

太子は学問を喜ばず、ただ漫遊を好んだ。朝議は蔡仲熊に命じて太子に礼を講ぜしめたが、半ばにも至らぬうち、遙光は従容として言う、「文義の事、これは士大夫が伎芸として官を求めんとするものなり。皇太子何ぞ講ずるを用いん」。上はこれを然りとし、乃ち講を停めた。永泰元年、即ち本号を以て大将軍と為り、油絡車を給う。

帝は不 となり、遙光は数度入って疾を侍し、帝の病は漸く甚だしくなり、河東王蕭鉉ら十王が一夕にして殺されたのは、遙光の意である。帝崩じ、遺詔に遙光に侍中・中書令を加え、扶を給う。永元元年、班剣二十人を給し、即ち本号開府儀同三司となる。

遙光は猜忌多く、人履を饋る者有りて、己を戲るるものと為し、大いに嫌責を受く。劉繪嘗て箋を作りて云う、「智葵に及ばず」。亦以て旨に忤う。

既に東昏侯を補佐してより、密かに江祏兄弟と結び、自立を謀る。弟遙欣は荊楚に在り、兵を擁して上流に居り、密かに影響し合う。遙光は東府に拠りて号令すべく、遙欣をして急ぎ下らしめんとし、潜謀将に発せんとするに、遙欣病没す。江祏誅せられ、東昏侯遙光を召して殿に入り、祏の罪を告ぐ。遙光懼れ、省に還りて便ち陽狂号哭し、此より疾を称して復た台に入らず。是に先立ち遙光行きて還り城に入るに、風儀傘を飄かせて城外に出づ。

遙光の弟遙昌先だって寿春に卒す。 州の部曲は皆遙光に帰す。及び遙欣の喪還り、武進に葬り、東府前の渚に停めしに、荊州の衆力送る者甚だ盛んなり。東昏侯江祏を誅した後、遙光自ら安からざるを慮り、転じて 司徒 しと と為し第に還らんと欲し、召し入れて旨を諭す。遙光殺さるるを慮り、荊・ 二州の部曲を東府門に收集す。衆頗る其の異なるを怪しみ、其の指趣を知る者莫し。

遙光は親人丹陽丞劉渢及び城局参軍劉晏・中兵参軍曹樹生等を召し、並びに諸傖楚を以て、劉暄を討つを名とせんと欲す。夜数百人を遣わし東冶を破り囚を出だし、尚方にて仗を取る。又 ぎょう 騎将軍垣歴生を召す。歴生信に随いて至り、便ち遙光に令し城内の兵を率い、夜台を攻め、輦荻を以て城門を焼き、曰く、「公但だ輿に乗り後に随うべし、反掌の如く得べし」。遙光意疑いて敢えて出でず。天稍く曉け、遙光戎服を以て聽事に至り、輿を停めて処分し、仗を上り城に登り行賞賜す。歴生復た軍を出すを勧むるも、遙光肯わず、台内の自ら変ずるを望む。

及び日出でて、台軍稍く至る。ここに於いて戒厳し、都下を赦す。領軍蕭坦之は湘宮寺に屯し、鎮軍司馬曹武は青溪大橋に屯し、太子右率左興盛は東府東籬門に屯し、衆軍東城を囲む。遙光は垣歴生を遣わし西門より出でて戦う。台軍屡く北し、軍主桑天愛を殺す。初め遙光諮議参軍蕭暢に問う。暢は正色して従わず。既にして暢は撫軍長史沈昭略と共に台に奔る。人情大いに沮む。又垣歴生南門より出でて戦い、曹武に禽えらる。武に謂いて曰く、「卿主上を聖明と為し、梅・茹を賢相と為さば、則ち我当に死すべし。且つ我今死すとも、卿明日亦死せん」。遂に之を殺す。

遙光歴生の獲らるるを聞き、大いに怒り、床上に於いて自ら竦踴し、歴生の児を殺さしむ。其の晚台軍火箭を射て東北角楼を焼く。夜に至り城潰ゆ。遙光小斎に還り、人をして反拒せしめ、左右並びに屋を踰えて出づ。台軍主劉国宝・時当伯等先に入る。遙光外兵の至るを聞き、火を吹き消し、扶け匐ひて床より下る。軍人排して合に入り、之を斬る。

遙光挙事すること四日にして卒す。挙事の夕月蝕す。識者は月を大臣と為し、蝕して既なれば、必ず滅ぶの道なりとす。未だ敗れざる夕、城内皆夢む群蛇城に縁りて四出するを、各共に之を説き、咸だ異と為す。台軍城に入り、屋宇を焚き且つ尽くす。

遙光幼少の時甚だ貞正なり。明帝は傾意を以て之を待つ。東昏侯児童の時、明帝は遙光と共に斎居止ましめ、遙光を安兄と呼び、恩情至って甚だし。遙光誅された後、東昏侯旧宮の土山に登り東府を望み、愴然として呼びて曰く、「安兄」。乃ち嗚咽す。左右見るに忍びず。斯くの如く見思われたり。天下の知名の士劉渢・渢の弟溓・陸閑・閑の子絳・司馬端・崔慶遠皆坐して誅さる。

曲江康公

曲江公蕭遙欣は字を重暉と曰い、始安王遙光の弟なり。宣帝の兄西平太守蕭奉之に後無く、遙欣を継がしめて曾孫と為す。遙欣髫齔の中より便ち嶷然たり。明帝江祏に謂いて曰く、「遙欣幼しと雖も、其の神采を観るに、殊に局幹有り、必ず令器を成すべし、年命如何なるかを未だ知らざるのみ」。安陸昭王蕭沔曰く、「其の兄弟富貴せざるを患えず、但だ沔の及ばずして見るを恐るるのみ」。之を言うこと惨然として悲し。

始めて年七歳にして斎を出づる時、一人の左右の小児有り、飛鳥を弾くに善くして、弦に応じて墜落せざる無し。遙欣之に謂いて曰く、「凡そ戯れ多端なり、何ぞ急ぎて此れを弾く、鳥は自ら空中に翔飛す、何ぞ人事に関せん、趣無く此の生を殺す、亦復た急ぎならず」。左右其の言に感じ、遂に復た鳥を弾かず。時に少年此の事を通好し、所在遂に止む。

年十五六にして、便ち経史を博覧す。弱冠にして中書郎に拝す。明帝輔政に入り、遙欣は始安王遙光等と政事に参預し、凡そ談薦する所は、皆其人を得たり。ここに由りて朝野輻湊し、軒蓋門に盈つ。延興元年、明帝遙欣を以て兗州刺史と為す。時に豊城公遙昌亦た寿春に出鎮す。帝便殿に於いて密宴し、始安王遙光も亦座に在り、帝惨然として遙欣に謂いて曰く、「昭王云う'汝が兄弟富貴せざるを患えず、而して言う及ばずして見る'と、如何」。因りて悲慟自ら勝えず、君臣皆嗚咽し、侍者は雨の如く涙す。及び歐陽岸に泊し、忽ち左右に謂いて曰く、「比来何ぞ皆弾くを見ざる」。左右云く、「門生有りて弾くに因りて勖められ、遂に此を以て廃し、所在皆止む」。遙欣笑いて曰く、「我小児の時聊か復た語りしのみ、那ぞ復た遂に断たんや」。

建武元年(四九四年)、西中郎将の号を進められ、聞喜県公に封ぜられ、荊州刺史に遷り、 都督 ととく を加えられ、曲江公に改封された。明帝の子弟は幼弱であり、晋安王蕭宝義は廃疾を有していたので、遙光を揚州に置いて中央に在らしめ、遙欣を陝西に在らしめて外に置き、威権並びにその門に在った。

遙欣は勇を好み、武士を聚畜して形援と為した。永泰元年(四九八年)、詔して遙欣に本官を以て雍州刺史・寧蛮 校尉 こうい を領せしめ、州鎮を襄陽に移す。魏軍退き、行かず。卒し、 司空 しくう を贈られ、諡して康公と曰い、葬儀は王礼を用いた。

子の蕭幾は字を徳玄と云い、年十歳にして既に文を属する能くした。早く孤となり、弟九人有り、並びに幼く、幾は恩愛篤睦にして、朝廷に聞こえた。性温和にして、物と競わず。清貧自立し、学を好み、草隸書を善くした。湘州刺史楊公則は、曲江公の故吏なり、毎に幾を見て、人に謂いて曰く、「康公此の子は、桓霊宝の重出と謂う可し」と。公則の卒するに及んで、幾之が為に誄を作り、時に年十五。沈約之を見て奇とし、其の舅蔡撙に謂いて曰く、「昨賢甥楊平南の誄文を見るに、希逸の作に減ぜず、始めて康公の積善の慶を験す」と。位は中書侍郎・尚書左丞に至る。

末年は専ら釈教を尚ぶ。新安太守と為り、郡は山水多く、其の好む所に特にして、性に適い遊履し、遂に之が記を為す。官に卒す。子の蕭清も亦文才有り、位は永康令。遙欣の弟遙昌は字を季暉と云い、建武元年、豊城県公に封ぜられ、位は 州刺史、卒し、諡して憲公と曰う。

安陸昭王

安陸昭王蕭緬は字を景業と云い、容止を善くす。宋に仕えて位は中書郎。建元元年(四七九年)、安陸侯に封ぜられ、五兵尚書と為る。出でて呉郡太守と為り、政に能名有り。竟陵王蕭子良之に与える書に曰く、「窃かに下風を承るに、数十年來、姑蘇に此の政無し」と。武帝其の能を嘉し、累遷して寧蛮 校尉 こうい ・雍州刺史、 都督 ととく を加えられる。緬は辞訟に留心し、人人を呼び至って案前に至らしめ、自ら顧問し、理を得ざる者有れば、勉めて之を諭し、退きて皆恨み無く、百姓に畏愛せらる。卒するに及び、喪還るに、百姓緬水に縁りて悲泣し祭を設け、峴山に於いて祠を立つ。諡して昭侯と曰う。

明帝は少より相友愛し、時に僕射として衛尉を領し、表して職を解き、私第に哀を展べんことを求め、詔して許さず。毎に緬の霊に臨むに、輙ち慟絶し、哭して声を成さず。建武元年、 司徒 しと ・安陸王を贈られる。

子の蕭宝晊嗣ぎ、永元元年(四九九)、湘東王に改封さる。東昏侯廃せられ、宝晊は物情の己に帰するを望み、坐して法駕を待つ。既にして城内より梁武帝に款を送る。宣徳太后朝に臨み、太常に拝し、自ら安からず。謀反し、及び弟の江陵公宝覧・霄城公宝宏皆伏誅せらる。

新呉忠侯

新呉侯蕭景先は、高帝の従子なり。祖は蕭爰之、員外郎。父は蕭敬宗、始興王国中軍。

景先は少くして孤となり、至性有り。母孔氏に随い、舅氏に鞠養さる。高帝之を嘉し、常に提携す。淮陰を鎮むるに及び、景先に軍主を領せしめて自ら随い、城内を防衛せしめ、心腹に委ぬ。武帝広興郡と為る時、高帝に啓して景先の同行を求め、武帝の寧朔府司馬を除し、此より常に相随逐す。

建元元年、太子左衛率と為り、新呉県伯に封ぜられ、甚だ委任を見、勢天下を傾く。景先は本名道先と云い、乃ち景先と改め、以て上諱を避く。

初め武帝少年の時、景先と共に車に乗り、泥路を行く。車久しく故に壊れ、領軍府の西門に至り、車轅折る。俱に狼狽す。景先帝に謂いて曰く、「兩人脱しくも領軍と作らば、亦今日の艱辛を忘るるを得ざるべし」と。武帝践祚するに及び、詔して景先を以て兼領軍将軍と為す。拝する日、羽儀甚だ盛んにして、朝を傾けて観矚す。拝し還り、未だ府門に至らざるに、中詔有り、「相聞く領軍、今日故に当に折轅の事無からんや」と。景先奉謝す。

景先は上に事えて心を尽くす、故に恩寵特だ密なり。初め西より還る時、上景陽楼に坐して景先を召し語る。故旧唯だ 章王一人のみ席に在るのみ。中領軍に転ず。車駕雉を射るに郊外にて、景先は常に甲仗を以て従い、左右を廉察す。尋いで爵を進めて侯と為す。

始め升明中(四七七―四七九)、沈攸之荊州に於いて兵を挙ぐ。武帝時に江州盆城を鎮む。景先夜城に乗る。忽ち塹中に小児の蕭丹陽を呼ぶを聞く。未だ何人なるかを測らず、声声絶えず。試みに誰ぞと問えば、空中応えて云く、「賊尋いで当に平らぐべし、何事ぞ厳に防ぐ」と。語り訖りて復言わず。即ち之を窮討すも、了して見えず。明旦以て帝に白す。帝曰く、「攸之自ら至る所無し、焉んぞ汝の後丹陽尹と作らざるを知らんや」と。景先曰く、「寧んぞ作るの理有らんや」と。尋いで攸之の首至る。永明三年(四八五)に及び、詔して景先を以て丹陽尹と為し、謂いて曰く、「此の授は往年の盆城塹中の空中の言を験さんと欲するのみ」と。後ち仮節・司州諸軍事。卒し、諡して忠侯と曰う。

子の蕭毅は、北中郎司馬の位にあった。性格は奢侈豪華を好み、弓馬を愛し、明帝に疑忌された。王晏の事が敗露すると、共に陥れられて誅殺された。

南豊懿伯

南豊伯蕭赤斧は、高帝の従祖父の弟である。祖父の蕭隆子は、衛軍録事参軍であった。父の蕭始之は、冠軍中兵参軍であった。

蕭赤斧は温和で慎み深いことで高帝に知られた。高帝が政務を補佐すると、黄門侍郎・淮陵太守となった。順帝が位を譲り、丹陽の旧居に宮を立てた時、上(高帝)は赤斧に補佐護送を命じ、到着後はそのまま留まって防衛に当たらせ、帝が崩御してから帰還した。後に雍州刺史となり、州にあって財産利益を営まず、公務に勤勉であった。 散騎常侍 さんきじょうじ ・左衛将軍に遷る。武帝は親しく遇し、蕭景先と並び称された。南豊県伯に封ぜられ、給事中・太子詹事に遷り、卒した。家が貧しく絹がなく衾を作れなかったことを武帝が聞き、ますます惋惜し、諡して懿伯といった。

子の蕭穎冑が爵を襲いだ。

蕭穎冑は字を雲長といい、度量が広く厚く父の風があった。秘書郎として出仕した。高帝は赤斧に言った、「穎冑は軽い朱衣を身に着けているが、その進み出る様子がますます美しくなり、人の心を慰めるに足る」。太子舎人に遷る。父の喪に遭い、脚の病を患い、数年してようやく歩けるようになった。武帝は詔を下して慰労激励し、医薬を賜った。竟陵王 司徒 しと 外兵参軍、晋熙王文学を除された。

穎冑は文義を好み、弟の穎基は武勇を好んだ。武帝が烽火楼に登り、群臣に詩を賦するよう詔すると、穎冑の詩は意に適った。上は穎冑に言った、「卿は文、弟は武、宗室に才が乏しくないのは便利である」。上は穎冑が勲戚の子弟であることから、中書郎より左軍将軍を除し、殿内の文武の事を管掌させ、便殿に入ることを許した。新安太守として出向し、吏民はその徳を慕った。後に黄門郎を除され、四廂直を領した。衛尉に遷る。

明帝が廃立を行うと、穎冑は従容として同調も異論も立てず、そこで明帝は穎冑を功績に預からせた。建武二年、爵を侯に進め、常に乗っていた白瑜牛を賜った。明帝は常に倹約を心がけ、太官が元日に上寿に用いる銀の酒槍を鋳潰そうとした。 尚書令 しょうしょれい 王晏らは皆盛徳と称えたが、穎冑は言った、「朝廷の盛大な礼は、三元(元日・冬至・立春)に過ぐるものはありません。この一器は既に旧物であり、奢侈とすべきではありません」。帝は不悦であった。後に曲宴に預かった時、銀器が席に満ちていた。穎冑は言った、「陛下は先に酒槍を壊そうとされましたが、恐らくそのお考えはこの器どもに移されるべきでしょう」。帝は甚だ慚じた。

後に廬陵王後軍長史・広陵太守となり、南兗州府州事を行った。この年、魏が長江に馬を飲ませると声を揚げたので、帝は恐れ、穎冑に住民を城内に移すよう命じた。百姓は驚恐し、家財を巻き上げて南渡しようとした。穎冑は魏軍がまだ遠いとして、直ちに施行せず、魏軍もやがて退いた。引き続き南兗州刺史となり、 都督 ととく を加えられた。和帝が荊州に在るとき、穎冑を西中郎長史・南郡太守とし、荊州府州事を行わせた。当時江祏が朝権を専断しており、この任は祏によるものであった。穎冑は不平を抱き、「江公が我々を追い出した」と言った。

東昏侯が諸公を誅戮し、小人物を任用した。崔慧景・陳顕達が敗れた後、方鎮はそれぞれ異心を抱いた。永元二年十月、 尚書令 しょうしょれい 臨湘侯蕭懿と弟の衛尉蕭暢が害され、先に輔国将軍劉山陽を遣わして穎冑の兵を就け、梁武帝を襲撃させようとした。帝(梁武帝)は当時雍州刺史であり、兵を起こそうとしたが、穎冑が同意しないことを慮り、穎冑の親しい者である王天武を江陵に遣わし、山陽が西上し、荊州・雍州を共に襲うと声をかけ、穎冑に書を送って共に挙兵するよう勧めた。穎冑はなお決断できずにいた。初め、山陽が南州を出発する時、人に言った、「朝廷が白虎幡で私を追っても、もう戻ることはない」。妓妾を巻き添えにし、全家を挙げて西行した。巴陵に至り、十数日もためらって進まなかった。梁武帝は再び天武を遣わして穎冑に書を届けさせ、奇略を設けて彼を疑わせた。この時、山陽が穎冑を謀殺し、荊州を挙げて共に行動しようとしているという噂もあった。山陽が到着すると、果たして城に入ろうとしなかった。穎冑は計略がなく、夜に銭唐人朱景思を遣わして西中郎城局参軍席闡文・諮議参軍柳忱を呼び、書斎を閉めて評議を定めた。闡文は言った、「蕭雍州が士馬を養うのは、一日や二日のことではない。江陵はもとより襄陽の人々を恐れており、人数も敵わない。これを取れば必ずしも制御できず、制御したとしても、歳月が経てば再び朝廷に容れられなくなるでしょう。今もし山陽を殺し、雍州と共に事を起こし、天子を立てて諸侯に号令すれば、覇業は成就します。山陽が疑って進まないのは、我々を信じないからです。今、天武を斬って送れば、彼の疑いは解けるでしょう。彼が来てから図れば、成らぬことはありません」。柳忱もまた勧めた。穎冑はそこで天武を斬り、山陽に示した。山陽は大いに喜び、軽く歩騎数百を率いて州城に来た。闡文が兵を率いてこれを斬り、首を梁武帝に伝送した。

東昏は山陽の死を聞き、詔を発して荊州・雍州を討とうとした。穎冑は器量と見識があり、大事を唱えると、衆人の心は彼に帰した。長沙寺の僧が黄金を鋳て数千両の龍とし、土中に埋めて代々伝え渡し、下方の黄鉄と称していた。穎冑はこれら龍を取り上げて、軍需品に充てた。そして嘆いて言った、「往年江祏が我々を斥けたが、今に至って禍福に門のないことを知った」。十二月、建鄴に檄を移した。

三年正月、和帝が相国となり、穎冑は左長史となり、鎮軍将軍の号を進められた。ここに至って初めて方伯の任用を始めた。梁武帝はたびたび上表して和帝に尊号に即くよう勧めた。穎冑は別駕の宗夬に命じて礼儀を撰定させた。尊号を上り、元号を改めた。江陵に宗廟と南北郊を立てた。州府の城門はすべて建康宮に倣い、尚書五省を置き、城南の射堂を蘭台とし、南郡太守を尹とした。建武年間、荊州で大風雨があり、龍が柏斎の中に入り、柱や壁に爪足の跡があった。刺史の蕭遙欣は恐れて住むことを敢えず、この時に至って嘉福殿とした。

中興元年三月、穎冑は侍中・ 尚書令 しょうしょれい ・監八州軍事・荊州刺史となり、西朝(江陵朝廷)の守衛に留まった。弟の穎達を冠軍将軍とした。楊公則らが師を率いて梁武帝に従い郢城を包囲すると、穎達は漢口で軍と会し、王茂・曹景宗らと共に郢城を攻め落とした。梁武帝が漂州に進むと、穎達は曹景宗と共に東昏の将李居士を破るよう命じられた。また東城を下すことに従った。

初め梁武帝が挙兵した時、巴東太守蕭惠訓の子蕭璝と巴西太守魯休烈は従わず、兵を挙げて荊州を侵し、輔国将軍任漾之を峡口で破った。穎冑は軍を遣わしてこれを防いだが、梁武帝は既に江州・ 郢州 えいしゅう を平定し、建康を包囲していた。当時穎冑は帝(和帝)を補佐し、安定した重い地位にあった。元来酒をよく飲み、白肉膾を三斗も食べた。自ら職が上将にありながら、蕭璝らを防ぎ制することができず、憂い慚じて発病し、卒した。州中ではこれを秘し、彼の筆跡に似せた者に命じて教命を偽造させた。

当時梁武帝は建康を包囲し、石頭に駐屯していた。和帝は密詔で穎冑の凶報を伝えたが、これも秘して発喪しなかった。建康が平定されると、蕭璝もまた衆が恐れて潰走した。和帝はようやく発喪し、詔して穎冑に丞相を追贈し、前後部の羽葆・鼓吹、班剣三十人、轀輬車、黄屋左纛を賜った。

梁の天監元年、巴東郡公を追封された。喪が還ると、武帝の車駕が渚次に臨んで哭し、葬儀は晋の王導・斉の 章王の故事に依って行われた。諡して献武という。

弟の穎達は、若い頃より勇を好み気性を任せた。穎胄が斉の建武末に荊州の事を行い、穎達もまた西中郎外兵参軍となり、ともに西府にあった。斉の末世は多難で、頗る自ら安んぜず、兄の穎胄とともに挙兵した。

穎達の弟穎孚は建鄴より廬陵の人修景智に潜かに引かれ、南へ帰った。穎孚は山を縁り嶂を逾えて、辛うじて免れた。道中で糧が絶え、後に過飽食して卒した。

建康が平定されると、梁の武帝は穎達を前将軍・丹陽尹とした。禅譲を受けると、穎孚を右衛将軍に贈り、穎達を作唐侯に封じ、位は侍中・衛尉卿とした。 章内史として出され、心中甚だ憤懣であった。発つ前に、華林の宴に預かり、酒後に座中で辞気に不悦を示した。沈約が酒を勧め、これを解かんとした。穎達は約を大罵して曰く、「我が今日の有様は、正に汝が鼠の為す所なり、何ぞ忽ちまた我に酒を勧むるや」と。座中皆驚愕した。帝はこれに謂いて曰く、「汝は我が家の阿五なり、沈公は宿望ある者、何ぞ軽脱を意とする。若し法を以て汝を縛せば、汝また何の理かあらん」と。穎達は終に一言もなく、ただ大いに涕泣するのみで、帝は心にこれを愧じた。未だ幾ばくもせず、江州刺史に遷った。少時して、懸瓠が帰化すると、穎達の長史沈瑀らが苛酷なため盗賊に害され、衆は穎達を疑い、或いは謀反と伝えた。帝は直閤将軍張豹子を遣わし、江中で盗を討つと称し、実はこれを防がしめた。穎達は朝廷の意を知り、ただ酒を飲んで州事を知らなかった。後に左衛将軍の任で卒し、諡して康侯という。

子の敏が嗣ぎ、位は新安太守、雉を射ることを好み、未だ嘗て郡におらず、辞訟する者は畎畝に遷された。後に弩を張って腰を損ない卒した。

第七子の斅は、太清初め、魏興太守となった。梁州刺史宜豊侯蕭循が府長史とした。梁州に古墓あり、名を「尖塚」といい、或いは張騫の墳と云い、発掘せんとする者あれば、輒ち鼓角の音を聞き外と相拒ぎ、椎埋する者懼れて退く。斅はこの理無しと謂い、自ら監督を求めた。開くと、唯だ銀鏤の銅鏡方尺あるのみであった。斅は時に母服に居り、清談によって貶された。

衡陽公

衡陽公蕭諶、字は彦孚、高帝の絶服の族子なり。祖父は道清、員外郎。父は仙伯、桂陽国の下軍。

宋の元徽末、武帝が郢におり、都下の消息を知らんと欲し、高帝は諶を遣わし武帝に就き謀計を宣伝せしめ、腹心として留めた。升明中、武帝の中軍刑獄参軍・南東莞太守となり、労により安復県男に封ぜられた。建元初め、武帝が東宮に在り、諶は宿衛を領した。高帝が張景真を殺すと、武帝は諶に命じて景真の命を乞うよう啓せしめたが、高帝は悦ばず、諶は懼れて退いた。武帝即位すると、歩兵 校尉 こうい ・南蘭陵太守を除し、御仗主を領し、斎内の兵仗は悉くこれを委付され、心膂の密事は皆参掌せしめられた。左中郎将・後軍将軍となり、太守は元の如し。武帝が延昌殿に臥疾すると、諶は左右に在り宿直した。上崩ずると、遺勅して諶に殿内の事を旧の如く領せしめた。

郁林王即位すると、深く諶を委信し、諶が毎度急を請うて出宿すると、帝は通夕寐ることができず、諶が還って初めて安んじた。衛軍司馬に転じ、衛尉を兼ねた。母憂に服すと、勅して本位に還り、衛尉を守らせた。明帝が輔政すると、諶は回って明帝に附き、廃立を行わんことを勧め、密かに諸王の典签を召し約して語り、諸王が外に人物と接することを許さなかった。諶は親要日久しく、衆皆憚ってこれに従った。郁林王が廃された日、初め外に変有りと聞き、猶密かに手勅を作り諶を呼んだ。その信ぜられること此の如しであった。諶の性は険しく、身を護る計無し。帝を廃する日に及び、兵を領して先ず後宮に入ると、斎内の仗身は素より諶に隷服し、動く者無し。

海陵王が立つと、中領軍に転じ、爵を公に進め、甲仗五十人を給し、殿内に入直し、十日毎に府に還った。建武元年、領軍将軍・左将軍・南徐州刺史に転じ、扶を給され、爵を衡陽郡公に進めた。明帝は初め事克つに及び諶を用いて揚州と為すことを許したが、此の授有りに及び、諶は恚って曰く、「飯を炊き熟して人に推し与うるを見る」と。王晏これを聞きて曰く、「誰か復た蕭諶が為に甌箸を作らんや」と。

諶は勲重きを恃み、朝政を干預した。明帝新たに即位し、左右の要人を外に遣わし聴察せしめ、諶の言を具に知り、深く疑阻を相いだ。二年六月、上華林園に幸し、諶及び 尚書令 しょうしょれい 晏ら数人を宴して尽く歓んだ。坐罷り、諶を留めて晩に出させ、華林閤に至り、仗身が執って還り省に入れた。上は左右の莫智明を遣わし諶を数えて曰く、「隆昌の際、卿無くして今日無し。今一門二州、兄弟三封、朝廷の報い、政にここに極むべし。卿恒に怨望を懐き、乃ち雲う'飯已に熟し、甑を合わして人に与う'と。今卿に死を賜う」と。諶は智明に謂いて曰く、「天も人また遠からず、我と至尊と高帝・武帝の諸王を殺すは、是れ卿が伝語して来去せし所、我今死す、還って卿を取らん」と。省においてこれを殺した。秋に至り、智明死し、諶が祟り為すを見る。詔して乃ち其の過悪を顕わし、廷尉に収付した。

諶は左道を好み、呉興の沈文猷が諶を相して云く、「相は高帝に減ぜず」と。諶は喜んで曰く、「卿の意に感じ、人の為に言う無かれ」と。ここに至り、文猷誅せられる。

諶の兄の誕、字は彦偉、永明中、建康令となり、秣陵令司馬迪之と同乗して行き、車前の導に四卒を有した。左丞沈昭略奏して、「凡そ鹵簿を有する官、共乗するに騶寺を兼ねて列すべからず、請う誕らの官を免ぜん」と。詔して贖って論ぜしむ。延興元年、徐・司二州刺史を歴任。明帝立つと、安復侯に封ぜられ、左衛将軍に徴された。上は諶を殺さんと欲したが、誕が辺鎮に在り魏に拒ぐを以て、故に未だ行うに及ばず。魏軍退くこと六旬、諶誅せられ、梁の武帝を司州別駕と為し、誕を誅せしめ遣わした。誕の子の棱の妻は江淹の女、字は才君、誕の死を聞きて曰く、「蕭氏皆尽きぬ、妾何を以てか生くべし」と。慟哭して絶えた。

諶の弟の誄、字は彦文、諶とともに廃立を預かり、西昌侯に封ぜられ、位は太子左衛率。諶を誅するの日、輔国将軍蕭季敞が啓して誄を収めんことを求め、深く排苦を加え、乃ち手ずから摧辱するに至った。誄は徐に曰く、「已に死せる人、何ぞここに至るに足らん、君は相提拔せし時を憶えざるか?幽冥に知有らば、終に相報いせん」と。

季敞は粗暴で猛々しく品行がなく、隙間を埋めるのが巧みであり、高帝の時に蕭誄・蕭諶に賞賛され、そのために累進して郡守となった。政務において貪欲で穢らわしく、蕭諶は常にこれを覆い隠した。後に広州刺史となったが、白昼に蕭誄が兵を率いて城に入り自分を捕らえるのを見た。数日後、果たして西江都護の周世雄に襲撃され、軍は敗れ、山中に逃げ、蛭に噛まれて肉がことごとく尽きて死に、惨めで苦痛に満ちた末、後に村人に斬られた。論ずる者は天道があると思った。

臨汝侯

臨汝侯の蕭坦之は字を君平といい、高帝の遠縁の族子である。祖父は蕭道済、太中大夫。父は蕭欣祖、武進県令。

坦之は蕭諶と同族であり、東宮直閤となり、勤勉で正直なことで文恵太子に知られ、給事中・蘭陵県令に任じられた。武帝が崩御すると、坦之は太孫の文武の官を率いて台城に上り、射声 校尉 こうい に任じられ、県令の職はそのままとした。拝命しないうちに、正員郎・南魯郡太守に任じられた。少帝は坦之が文恵太子の旧臣であるため、親信して離さず、内に入って皇后に拝謁することができた。帝が宮中や後堂で出て様々な戯れをしても、坦之は皆側にいて、時に酔って裸になることがあれば、坦之は支えて諫め諭した。帝が奉じるに足らないと見て、明帝に改めて付き従い、密かに耳目となった。

隆昌元年、坦之の父の勲功を追録し、臨汝県男に封じた。少帝は外に異謀があると微かに聞き、明帝が台城内にいるのを憚り、西州への移転を命じた。後に華林園の華光殿で黄縠の褌を露わに着け、床に足を垂らして座り、坦之に言った、「人が言うには鎮軍(明帝)と王晏・蕭諶が共に私を廃そうとしているそうで、虚伝ではないようだ、蘭陵は何を聞いているか。」坦之はかつて蘭陵県令をしたので、そう呼んだのである。坦之は言った、「天下にどうしてこのようなことがあろうか。誰が事もなく天子を廃することを喜ぼうか。昔、元徽(後廃帝)がただ路上を歩いただけで、三年間人が近づかなかったのは、ただ孫超・杜幼文らを枉げて殺したために敗れただけである。官(陛下)に何事があって、一朝にして廃立をしようとするのか。朝貴たちがこのような議論を作るはずがなく、ただ諸々の尼師母の言うことでしょう。どうして尼姥の言葉を信じられようか。官がもし事もなくこの三人を除くならば、誰が自らを保証できよう。安陸諸王が外にいるが、どうして再び還って来ようか。道剛の徒など、どうしてこれに抗しえよう。」帝は言った、「蘭陵はよく聞き察し、事を行うには人の後になるな。」

帝は諸執政を除くには、当然当事者が必要と考え、意は沈文季にあり、夜に内左右を遣わして密かに文季に賄賂を贈らせたが、文季は受け取らなかった。帝は大いに怒り、坦之に言った、「私が文季に賜っても受け取らない。どうして人臣が天子の賜り物を拒むことがあろうか。」坦之は言った、「官は誰を遣わして送ったのですか。」帝は言った、「内左右だ。」坦之は言った、「官がもし詔勅を出して賜うなら、令や舍人・主書に送らせれば、文季はどうして受け取らないことがあろうか。ただ事が正式でないので、仰せ遣わしただけです。」

帝はまた夜に酔い、馬に乗って西歩廊から北へ駆け走り、このように二、三度倒れそうになった。坦之が諫めても従わず、馬の手綱を取ると、帝は拳を振り回して坦之を打とうとしたが当たらず、地面に倒れた。坦之と曹道剛が抱きかかえて寿昌殿の玳瑁の床に寝かせたが、また起きて走り出そうとしたので、坦之は制することができず、坦之は急いで皇后に知らせ、皇后が到着し、長い間諭して、ようやく眠った。

時に明帝は廃殺を謀り、既に蕭諶及び坦之と謀議を定めたが、少帝の腹心の直閤将軍曹道剛が外間に異変があると疑い、密かに処分をしていたので、蕭諶は発動できなかった。始興内史の蕭季敞と南陽太守の蕭穎基が共に都に還るはずであり、蕭諶は二蕭が到着するのを待ち、その威力を借りて挙事しようとした。明帝は事変を憂い、坦之に告げた。坦之は急いで蕭諶に言った、「天子を廃するは古来の大事である。近頃聞くところでは曹道剛・朱隆之らが既に猜疑を強めており、衛尉(蕭諶)が明日もし実行しなければ、事は再び及ぶところがなくなる。弟には百歳の母がいる。どうして坐して禍敗を聞くことができようか。ただ他の計略をなすべきである。」蕭諶は慌て恐れ、明日遂に帝を廃したが、これは坦之の力である。

海陵王が即位すると、黄門郎を拝命し、衛尉を兼ねた。建武元年、左衛将軍に遷り、爵位を侯に進めた。

東昏侯が立つと、侍中・領軍将軍となった。永元元年、母の喪に服したが、職務に復帰し、右将軍を加えられ、府を置いた。江祏兄弟が始安王蕭遙光を立てようとし、密かに坦之に告げた。坦之は言った、「明帝が天下を取ったのは既に順序を踏んでおらず、天下の人は今に至るも服していない。今もしまたこのようなことをするならば、恐らく四海は瓦解するであろう。私は敢えて言わない。」

遙光が挙兵すると、人を遣わして夜に坦之を襲って捕らえようとした。坦之は頭に何も被らず褌を着けて牆を越えて逃げた。台の遊邏主の顔端に出逢い、捕らえられた。坦之は言った、「始安王が賊を起こし、人を遣わして私を捕らえに来たので、宅に向かって奔走し、台に還ろうとしただけです。君はどうして私を捕らえるのですか。」端は答えず、守備をますます厳しくした。坦之は言った、「私は大臣である。夜半に奔走するので、君は理として疑い、朝廷に罪を得たと思われるのであろう。もし信じないなら、自ら歩いて東府に行き参観すればよい。」これにも答えなかった。端が小街に至り、遙光が挙兵したことを確かに知ると、走って還った。三十歩ほど至らないうちに、馬から下りて再拝して言った、「今日はどうか引き受けていただきたい。」坦之は言った、「先ほど君に何と言ったか。どうして欺くことができようか。」端は馬を坦之に与え、相随って去った。新亭に至るころ、道中で遙光に捕虜にされた残りの者を収容し、二百人ほどを得て、皆粗末な武器を持っていた。そこで西掖門に進み、鼓が鳴った後に殿内に入ることができた。その夜の四更、主書の馮元嗣が北掖門を叩き、遙光の反逆を告げ、殿内はこれに備えた。夜明け前に、徐孝嗣を召し入れた。左衛将軍の沈約は五更の初めに難を聞き、車を走らせて西掖門に急行した。ある者が戎服を勧めたが、沈約は外軍が既に来ていることを慮り、もし戎衣を着ければ、ある者は遙光と同類と思い、自らを明らかにする術がなくなるだろうと考え、朱服を着て入った。

台内での部署が定まると、坦之は仮節を与えられ、衆軍を督して遙光を討った。事が平定されると、尚書左僕射・丹陽尹に遷り、右将軍は元のままとし、爵位を公に進めた。

坦之は肥えて黒く髭がなく、語声がしわがれており、当時の人は蕭瘂と呼んだ。剛直で偏狭で専断的であり、群小は畏れて憎んだ。遙光の事が平定されて二十余日後、帝は延明主帥の黄文済を遣わして坦之の宅を包囲させ、誅殺した。

坦之の従兄の蕭翼宗が海陵郡にいた。出発しようとした時、坦之は文済に言った、「従兄の海陵の宅は本来何の問題もないはずだ。」文済は言った、「海陵の宅はどこにあるか。」坦之が告げると、文済は言った、「ただ罪に当たるだけである。」そしてやはり人を遣わして捕らえさせた。家を調べると赤貧で、ただ質銭の帖子が数百枚あるだけで、これを帝に啓上し、その死を赦した。

和帝の中興元年、坦之に中軍将軍・開府儀同三司を追贈した。

論じて曰く。

論ずるに、斉の宗室においては、始安王の後裔のみがよく栄えた。明帝は非道をもってこれを取り、遙光は残酷をもってこれを助け、その末ついに顛仆するに至った。いわゆる「亦此を以て終わる」というものである。穎胄の荊州の任は、蓋しただ失職に過ぎず、その末途の倚伏は、豈に預め図る所の致すところであろうか。諶と坦之はともに顧托に応じ、既に国を傾け、また身を覆すに至った。各々その宜しきを得たのである。

原本を確認する(ウィキソース):南史 巻041