南史

卷四十一 列傳第三十一 齊宗室

卷四十一 列傳第三十一 齊宗室

南史

卷四十一 列傳第三十一 齊宗室

衡陽元王

原文衡陽元王

衡陽元王蕭道度は、齊の高帝の長兄である。初め高帝と共に雷次宗に学を受けた。宣帝が次宗に二人の子の学業を問うと、次宗は答えて言うには、「兄は外に朗らか、弟は内に潤い、皆良き璞玉なり」と。宋に仕えて安定太守の位に至り、卒した。齊の建元元年、高帝が追って封と諡を加えた。子が無かったので、高帝は第十一子の鈞を後継ぎとした。

原文衡陽元王道度,齊高帝長兄也。始與高帝俱受學于雷次宗,宣帝問次宗二子學業,次宗答曰:「其兄外朗,其弟內潤,皆良璞也。」仕宋位安定太守,卒。齊建元元年,高帝追加封諡。無子,高帝以第十一子鈞繼。

鈞は字あざなを宣禮といい、五歳の時、生母の區貴人が病むと、たちまち憔悴し、左右の者が常例に従って五色の飴を与えたが、食べようとせず、言うには、「姨(母)が癒えるのを待たねばならぬ」と。七歳の時、衡陽元王の後を継ぐこととなり、高帝に謁見したが、拝礼もせぬうちから涕泗が横に流れた。高帝はその手を取って言うには、「伯叔父は父の如し、怨むなかれ。汝を出継ぎせしめた所以は、汝に志があり、蒸嘗を奉ずるに堪えるが故である」と。即ち外に勅して、先例通りに通幰車・雉尾扇などを給することとし、何事も正規の王に準じた。

原文鈞字宣禮,年五歲,所生區貴人病,便加慘悴,左右依常以五色絆飴之,不肯食,曰:「須待姨差。」年七歲,出繼衡陽元王,見高帝,未拜,便涕泗橫流。高帝執其手曰:「伯叔父猶父,勿怨。所以令汝出繼,以汝有意,堪奉蒸嘗故耳。」即敕外如先給通幰車、雉尾扇等,事事依正王。

區貴人が卒すると、喪に服して礼を尽くした。喪が明けて武帝に問訊すべき時、病弱で骨と皮ばかりとなり、車に登ろうとして三度試みても上がれず、遂に止めた。典簽の曹道人がこれを詳しく上聞すると、武帝は直ちに鈞の邸に行幸し、これを見て愴然とし、帰って褚蓁に言うには、「昨日衡陽王を見たが、なお甚だしく損なわれている。卿はしばしば慰め励ますがよい」と。先に貴人が華釵の厨子と共に、錦繡の中に倒れた炬・鳳凰・蓮芰・星月の類を切り刻んだものを鈞に与え、玩弄させていた。貴人が亡くなって後、毎年の節句や朔望の度に、これを開けて見ては再拝し、咽び泣き、見る者は皆これに悲しんだ。

原文區貴人卒,居喪盡禮。服闋,當問訊武帝,尪羸骨立,登車三上不能升,乃止。典簽曹道人具以聞,武帝即幸鈞邸,見之愴然,還謂褚蓁曰:「昨見衡陽,猶奇毀損,卿可數相撫悅。」先是貴人以華釵廚子並翦刻錦繡中倒炬鳳皇蓮芰星月之屬鈞,以為玩弄。貴人亡後,每歲時及朔望,輒開視,再拜鯁咽,見者皆為之悲。

性質好学にして、文を属することを善くし、琅邪の王智深と文章をもって交わり、濟陽の江淹もまた遊んだ。武帝は王儉に言うには、「衡陽王には文学が必要である。華実相称ならしめ、ただ貴遊の子弟を取るのみに止めてはならぬ」と。そこで太子舎人蕭敷を文学とした。

原文性好學,善屬文,與琅邪王智深以文章相會,濟陽江淹亦遊焉。武帝謂王儉曰:「衡陽王須文學,當使華實相稱,不得止取貴遊子弟而已。」乃以太子舍人蕭敷為文學。

鈞は常に自ら細字で五経を書き写し、一部を一卷として巾箱の中に置き、遺忘に備えた。侍読の賀玠が問うて言うには、「殿下の家には元より典籍があるのに、また何ぞ蠅頭の細書を以て、別に巾箱の中に蔵する必要がありましょうか」と。答えて言うには、「巾箱の中に五経があれば、検閲するに容易く、かつ一度手で書き写せば、永く忘れぬからである」と。諸王はこれを聞いて争って巾箱五経を為すことを模倣し、巾箱五経はここに始まったのである。身を処すること清廉で質素、言うこと未だ時事に及んだことはなかった。會稽の孔珪が家に園を造り、桐や柳を植え並べ、多く山泉を構えて、殆ど真の趣を窮めていた。鈞がこれに遊びに行くと、珪は言うには、「殿下は朱門に処し、紫闥に遊ばれる。どうして山人と交わることができましょうか」と。答えて言うには、「身は朱門に処すれども、情は江海に遊び、形は紫闥に入れども、意は青雲に在り」と。珪は大いにこれを美とした。吳郡の張融は清高で俗を絶ち、王公貴人といえども、これを見れば傲然としていたが、ただ鈞をひたすら重んじ、従兄の緒に言うには、「衡陽王は飄飄として凌雲の気あり。その風情素韻は、いよいよ懐うに足る。融これと遊びて、老いの将に至らんとするを知らず」と。このように賞賛されたのである。

原文鈞常手自細書寫五經,部為一卷,置於巾箱中,以備遺忘。侍讀賀玠問曰:「殿下家自有墳素,復何須蠅頭細書,別藏巾箱中?」答曰:「巾箱中有五經,于檢閱既易,且一更手寫,則永不忘。」諸王聞而爭效為巾箱五經,巾箱五經自此始也。居身清率,言未嘗及時事。會稽孔珪家起園,列植桐柳,多構山泉,殆窮真趣,鈞往遊之。珪曰:「殿下處朱門,遊紫闥,詎得與山人交邪?」答曰:「身處朱門,而情游江海,形入紫闥,而意在青云。」珪大美之。吳郡張融清抗絕俗,雖王公貴人,視之傲如也,唯雅重鈞,謂從兄緒曰:「衡陽王飄飄有淩雲氣,其風情素韻,彌足可懷,融與之遊,不知老之將至。」見賞如此。

歴任して秘書監に至る。延興元年、明帝に殺害された。明帝が立つと、永陽王蕭子瑉を以て、元の本国を継がせ、元王の孫とした。

原文歷位秘書監。延興元年,為明帝所殺。明帝立,以永陽王子瑉仍本國繼元王為孫。

子瑉は字を雲璵といい、武帝の第二十子である。初め義安郡王に封ぜられ、後に永陽王に改封された。永泰元年に害せられ、再び武陵昭王蕭曄の子の子坦を以て元王の後を奉ぜしめた。

原文子瑉字雲璵,武帝第二十子也。初封義安郡王,後改永陽。永泰元年見害,復以武陵昭王曄子子坦奉元王后。

始安貞王

原文始安貞王

始安貞王蕭道生は字を孝伯といい、高帝の次兄である。宋に仕えて奉朝請の位に至り、卒した。高帝即位後、追って封と諡を加えた。三人の子あり。長は鳳、次は鸞(これが明帝)、次は沔(これが安陸昭王)である。鳳は字を景慈といい、宋に仕えて正員郎の位に至り、卒した。高帝即位後、靖世子と諡された。

原文始安貞王道生字孝伯,高帝次兄也。仕宋位奉朝請,卒。高帝即位,追加封諡。三子:長鳳;次鸞,是為明帝;次沔,是為安陸昭王。鳳字景慈,仕宋位正員郎,卒,高帝即位,諡靖世子。

建武元年、明帝は道生を追尊して景皇とし、妃江氏を后とし、御道の西に寝廟を立て、陵を修安と称した。鳳を追封して始安靖王とし、華林鳳莊門を望賢門と改め、太極東堂に鳳鳥の絵を描き、題して神鳥とし、一方で鸞鳥を神雀と改称した。子の遙光が嗣いだ。

原文建武元年,明帝追尊道生為景皇,妃江氏為後,立寢廟於御道西,陵曰修安。追封鳳始安靖王,改華林鳳莊門為望賢門,太極東堂畫鳳鳥,題為神鳥,而改鸞鳥為神雀。子遙光嗣。

始安王

原文始安王

始安王蕭遙光は字を元暉といい、生まれつき跛の疾があった。高帝は奉拜祭祀に堪えぬと考え、その弟を封じようとしたが、武帝が諫めたので、遙光に爵を襲わせた。位は中書郎に至った。

原文始安王遙光字元暉,生而躄疾,高帝謂不堪奉拜祭祀,欲封其弟,武帝諫,乃以遙光襲爵。位中書郎。

明帝が政務を補佐するにあたり、誅罰や賞与の諸事は、ただ蕭遙光と共に謀議ぼうぎし、高帝・武帝の諸子弟を皆殺しにするよう明帝に勧め、その意見は容れられた。建武元年、揚州刺史となる。三年、撫軍将軍の号を進められる。吏事を好み、甚だ多く惨害を行った。足疾があって朝列に同ずることができず、常に輿に乗って望賢門より入った。毎度明帝と久しく清閑を共にし、言い終わると、帝は香火を求め、明日には必ず誅殺することがあった。

原文明帝輔政,誅賞諸事,唯與遙光共謀議,勸明帝並殺高、武諸子弟,見從。建武元年,為揚州刺史。三年,進號撫軍將軍。好吏事,頗多慘害。足疾不得同朝列,常乘輿自望賢門入。每與明帝久清閒,言畢,帝索香火,明日必有所誅。

太子は学問を喜ばず、ただ漫遊を好んだ。朝議は蔡仲熊に命じて太子に礼を講ぜしめたが、半ばにも至らぬうち、遙光は従容として言う、「文義の事、これは士大夫が伎芸として官を求めんとするものなり。皇太子何ぞ講ずるを用いん」。上はこれを然りとし、乃ち講を停めた。永泰元年、即ち本号を以て大将軍と為り、油絡車を給う。

原文太子不悅學,唯曼遊是好,朝議令蔡仲熊為太子講禮,未半,遙光從容曰:「文義之事,此是士大夫以為伎藝欲求官耳。皇太子何用講為?」上以為然,乃停講。永泰元年,即本號為大將軍,給油絡車。

帝は不豫となり、遙光は数度入って疾を侍し、帝の病は漸く甚だしくなり、河東王蕭鉉ら十王が一夕にして殺されたのは、遙光の意である。帝崩じ、遺詔に遙光に侍中・中書令を加え、扶を給う。永元元年、班剣二十人を給し、即ち本号開府儀同三司となる。

原文帝不豫,遙光數入侍疾,帝疾漸甚,河東王鉉等十王一夕見殺,遙光意也。帝崩,遺詔加遙光侍中、中書令,給扶。永元元年,給班劍二十人,即本號開府儀同三司。

遙光は猜忌多く、人履を饋る者有りて、己を戲るるものと為し、大いに嫌責を受く。劉繪嘗て箋を作りて云う、「智葵に及ばず」。亦以て旨に忤う。

原文遙光多忌,人有餉履者,以為戲己,大被嫌責。劉繪嘗為箋云:「智不及葵。」亦以忤旨。

既に東昏侯を補佐してより、密かに江祏兄弟と結び、自立を謀る。弟遙欣は荊楚に在り、兵を擁して上流に居り、密かに影響し合う。遙光は東府に拠りて号令すべく、遙欣をして急ぎ下らしめんとし、潜謀将に発せんとするに、遙欣病没す。江祏誅せられ、東昏侯遙光を召して殿に入り、祏の罪を告ぐ。遙光懼れ、省に還りて便ち陽狂号哭し、此より疾を称して復た台に入らず。是に先立ち遙光行きて還り城に入るに、風儀傘を飄かせて城外に出づ。

原文既輔東昏,潛結江祏兄弟,謀自樹立。弟遙欣在荊楚,擁兵居上流,密相影響。遙光當據東府號令,使遙欣急下,潛謀將發,而遙欣病死。江祏被誅,東昏召遙光入殿,告以祏罪。遙光懼,還省便陽狂號哭,自此稱疾不復入台。先是遙光行還入城,風飄儀傘出城外。

遙光の弟遙昌先だって寿春に卒す。豫州の部曲ぶきょくは皆遙光に帰す。及び遙欣の喪還り、武進に葬り、東府前の渚に停めしに、荊州の衆力送る者甚だ盛んなり。東昏侯江祏を誅した後、遙光自ら安からざるを慮り、転じて司徒と為し第に還らんと欲し、召し入れて旨を諭す。遙光殺さるるを慮り、荊・豫二州の部曲を東府門に收集す。衆頗る其の異なるを怪しみ、其の指趣を知る者莫し。

原文遙光弟遙昌先卒壽春,豫州部曲,皆歸遙光。及遙欣喪還,葬武進,停東府前渚,荊州眾力送者甚盛。東昏誅江祏後,慮遙光不自安,欲轉為司徒還第,召入喻旨。遙光慮見殺,收集荊、豫二州部曲於東府門,眾頗怪其異,莫知其指趣也。

遙光は親人丹陽丞劉渢及び城局参軍劉晏・中兵参軍曹樹生等を召し、並びに諸傖楚を以て、劉暄を討つを名とせんと欲す。夜数百人を遣わし東冶を破り囚を出だし、尚方にて仗を取る。又驍騎将軍垣歴生を召す。歴生信に随いて至り、便ち遙光に令し城内の兵を率い、夜台を攻め、輦荻を以て城門を焼き、曰く、「公但だ輿に乗り後に随うべし、反掌の如く得べし」。遙光意疑いて敢えて出でず。天稍く曉け、遙光戎服を以て聽事に至り、輿を停めて処分し、仗を上り城に登り行賞賜す。歴生復た軍を出すを勧むるも、遙光肯わず、台内の自ら変ずるを望む。

原文遙光召親人丹陽丞劉渢及城局參軍劉晏、中兵參軍曹樹生等,並諸傖楚,欲以討劉暄為名。夜遣數百人破東冶出囚,尚方取仗。又召驍騎將軍垣曆生。曆生隨信至,便勸遙光令率城內兵,夜攻台,輦荻燒城門,曰:「公但乘輿隨後,反掌可得。」遙光意疑不敢出。天稍曉,遙光戎服至聽事,停輿處分,上仗登城行賞賜,曆生復勸出軍,遙光不肯,望台內自變。

及び日出でて、台軍稍く至る。ここに於いて戒厳し、都下を赦す。領軍蕭坦之は湘宮寺に屯し、鎮軍司馬曹武は青溪大橋に屯し、太子右率左興盛は東府東籬門に屯し、衆軍東城を囲む。遙光は垣歴生を遣わし西門より出でて戦う。台軍屡く北し、軍主桑天愛を殺す。初め遙光諮議参軍蕭暢に問う。暢は正色して従わず。既にして暢は撫軍長史沈昭略と共に台に奔る。人情大いに沮む。又垣歴生南門より出でて戦い、曹武に禽えらる。武に謂いて曰く、「卿主上を聖明と為し、梅・茹を賢相と為さば、則ち我当に死すべし。且つ我今死すとも、卿明日亦死せん」。遂に之を殺す。

原文及日出,台軍稍至,於是戒嚴,赦都下。領軍蕭坦之屯湘宮寺,鎮軍司馬曹武屯青溪大橋,太子右率左興盛屯東府東籬門,眾軍圍東城。遙光遣垣曆生從西門出戰,台軍屢北,殺軍主桑天愛。初遙光問諮議參軍蕭暢,暢正色拒不從。既而暢與撫軍長史沈昭略奔台,人情大沮。又垣曆生從南門出戰,為曹武所禽,謂武曰:「卿以主上為聖明,梅、茹為賢相者,則我當死。且我今死,卿明亦死。」遂殺之。

遙光歴生の獲らるるを聞き、大いに怒り、床上に於いて自ら竦踴し、歴生の児を殺さしむ。其の晚台軍火箭を射て東北角楼を焼く。夜に至り城潰ゆ。遙光小斎に還り、人をして反拒せしめ、左右並びに屋を踰えて出づ。台軍主劉国宝・時当伯等先に入る。遙光外兵の至るを聞き、火を吹き消し、扶け匐ひて床より下る。軍人排して合に入り、之を斬る。

原文遙光聞曆生見獲,大怒,於床上自竦踴,使殺曆生兒。其晚台軍射火箭燒東北角樓,至夜城潰。遙光還小齋,令人反拒,左右並踰屋出。台軍主劉國寶、時當伯等先入,遙光聞外兵至,吹滅火,扶匐下床,軍人排合入,斬之。

遙光挙事すること四日にして卒す。挙事の夕月蝕す。識者は月を大臣と為し、蝕して既なれば、必ず滅ぶの道なりとす。未だ敗れざる夕、城内皆夢む群蛇城に縁りて四出するを、各共に之を説き、咸だ異と為す。台軍城に入り、屋宇を焚き且つ尽くす。

原文遙光舉事四日而卒。舉事之夕月蝕,識者以月為大臣,蝕而既,必滅之道。未敗之夕,城內皆夢群蛇緣城四出,各共說之,咸以為異。台軍入城,焚屋宇且盡。

遙光幼少の時甚だ貞正なり。明帝は傾意を以て之を待つ。東昏侯児童の時、明帝は遙光と共に斎居止ましめ、遙光を安兄と呼び、恩情至って甚だし。遙光誅された後、東昏侯旧宮の土山に登り東府を望み、愴然として呼びて曰く、「安兄」。乃ち嗚咽す。左右見るに忍びず。斯くの如く見思われたり。天下の知名の士劉渢・渢の弟溓・陸閑・閑の子絳・司馬端・崔慶遠皆坐して誅さる。

原文遙光幼時甚貞正,明帝傾意待之。東昏為兒童時,明帝使與遙光共齋居止,呼遙光為安兄,恩情甚至。及遙光誅後,東昏登舊宮土山望東府,愴然呼曰:「安兄!」乃嗚咽,左右不忍視,見思如此。天下知名之士劉渢、渢弟溓、陸閑、閑子絳、司馬端、崔慶遠皆坐誅。

曲江康公

原文曲江康公

曲江公蕭遙欣は字を重暉と曰い、始安王遙光の弟なり。宣帝の兄西平太守蕭奉之に後無く、遙欣を継がしめて曾孫と為す。遙欣髫齔の中より便ち嶷然たり。明帝江祏に謂いて曰く、「遙欣幼しと雖も、其の神采を観るに、殊に局幹有り、必ず令器を成すべし、年命如何なるかを未だ知らざるのみ」。安陸昭王蕭沔曰く、「其の兄弟富貴せざるを患えず、但だ沔の及ばずして見るを恐るるのみ」。之を言うこと惨然として悲し。

原文曲江公遙欣字重暉,始安王遙光弟也。宣帝兄西平太守奉之無後,以遙欣繼為曾孫。遙欣髫齔中便嶷然,明帝謂江祏曰:「遙欣雖幼,觀其神采,殊有局幹,必成令器,未知年命何如耳。」安陸昭王沔曰:「不患其兄弟不富貴,但恐沔不及見耳。」言之慘然而悲。

始めて年七歳にして斎を出づる時、一人の左右の小児有り、飛鳥を弾くに善くして、弦に応じて墜落せざる無し。遙欣之に謂いて曰く、「凡そ戯れ多端なり、何ぞ急ぎて此れを弾く、鳥は自ら空中に翔飛す、何ぞ人事に関せん、趣無く此の生を殺す、亦復た急ぎならず」。左右其の言に感じ、遂に復た鳥を弾かず。時に少年此の事を通好し、所在遂に止む。

原文始年七歲出齋時,有一左右小兒,善彈飛鳥,無不應弦墜落。遙欣謂曰:「凡戲多端,何急彈此,鳥自空中翔飛,何關人事,無趣殺此生,亦復不急。」左右感其言,遂不復彈鳥。時少年通好此事,所在遂止。

年十五六にして、便ち経史を博覧す。弱冠にして中書郎に拝す。明帝輔政に入り、遙欣は始安王遙光等と政事に参預し、凡そ談薦する所は、皆其人を得たり。ここに由りて朝野輻湊し、軒蓋門に盈つ。延興元年、明帝遙欣を以て兗州刺史と為す。時に豊城公遙昌亦た寿春に出鎮す。帝便殿に於いて密宴し、始安王遙光も亦座に在り、帝惨然として遙欣に謂いて曰く、「昭王云う'汝が兄弟富貴せざるを患えず、而して言う及ばずして見る'と、如何」。因りて悲慟自ら勝えず、君臣皆嗚咽し、侍者は雨の如く涙す。及び歐陽岸に泊し、忽ち左右に謂いて曰く、「比来何ぞ皆弾くを見ざる」。左右云く、「門生有りて弾くに因りて勖められ、遂に此を以て廃し、所在皆止む」。遙欣笑いて曰く、「我小児の時聊か復た語りしのみ、那ぞ復た遂に断たんや」。

原文年十五六,便博覽經史。弱冠拜中書郎。明帝入輔,遙欣與始安王遙光等參預政事,凡所談薦,皆得其人。由是朝野輻湊,軒蓋盈門。延興元年,明帝以遙欣為兗州刺史。時豐城公遙昌亦出鎮壽春,帝於便殿密宴,始安王遙光亦在座,帝慘然謂遙欣曰:「昭王雲'不患汝兄弟不富貴,而言不及見',如何!」因悲慟不自勝,君臣皆嗚咽,侍者雨淚。及泊歐陽岸,忽謂左右曰:「比何都不見彈?」左右云:「有門生因彈見勖,遂以此廢,所在皆止。」遙欣笑曰:「我小兒時聊復語耳,那復遂斷邪?」

建武元年(四九四年)、西中郎将の号を進められ、聞喜県公に封ぜられ、荊州刺史に遷り、都督を加えられ、曲江公に改封された。明帝の子弟は幼弱であり、晋安王蕭宝義は廃疾を有していたので、遙光を揚州に置いて中央に在らしめ、遙欣を陝西に在らしめて外に置き、威権並びにその門に在った。

原文建武元年,進號西中郎將,封聞喜縣公,遷荊州刺史,加都督,改封曲江公。明帝子弟弱小,晉安王寶義有廢疾,故以遙光為揚州,居中,遙欣居陝西,在外,威權並在其門。

遙欣は勇を好み、武士を聚畜して形援と為した。永泰元年(四九八年)、詔して遙欣に本官を以て雍州刺史・寧蛮校尉を領せしめ、州鎮を襄陽に移す。魏軍退き、行かず。卒し、司空を贈られ、諡して康公と曰い、葬儀は王礼を用いた。

原文遙欣好勇,聚畜武士,以為形援。永泰元年,詔遙欣以本官領雍州刺史、甯蠻校尉,移州鎮襄陽。魏軍退,不行。卒,贈司空,諡康公,葬用王禮。

子の蕭幾は字を徳玄と云い、年十歳にして既に文を属する能くした。早く孤となり、弟九人有り、並びに幼く、幾は恩愛篤睦にして、朝廷に聞こえた。性温和にして、物と競わず。清貧自立し、学を好み、草隸書を善くした。湘州刺史楊公則は、曲江公の故吏なり、毎に幾を見て、人に謂いて曰く、「康公此の子は、桓霊宝の重出と謂う可し」と。公則の卒するに及んで、幾之が為に誄を作り、時に年十五。沈約之を見て奇とし、其の舅蔡撙に謂いて曰く、「昨賢甥楊平南の誄文を見るに、希逸の作に減ぜず、始めて康公の積善の慶を験す」と。位は中書侍郎・尚書左丞に至る。

原文子幾字德玄,年十歲便能屬文。早孤,有弟九人,並幼,幾恩愛篤睦,聞於朝廷。性溫和,與物無競。清貧自立,好學,善草隸書。湘州刺史楊公則,曲江公故吏也,每見幾,謂人曰:「康公此子,可謂桓靈寶重出。」及公則卒,幾為之誄,時年十五。沈約見而奇之,謂其舅蔡撙曰:「昨見賢甥楊平南誄文,不減希逸之作,始驗康公積善之慶。」位中書侍郎、尚書左丞。

末年は専ら釈教を尚ぶ。新安太守と為り、郡は山水多く、其の好む所に特にして、性に適い遊履し、遂に之が記を為す。官に卒す。子の蕭清も亦文才有り、位は永康令。遙欣の弟遙昌は字を季暉と云い、建武元年、豊城県公に封ぜられ、位は豫州刺史、卒し、諡して憲公と曰う。

原文末年專尚釋教。為新安太守,郡多山水,特其所好,適性遊履,遂為之記。卒於官。子清,亦有文才,位永康令。遙欣弟遙昌字季暉,建武元年,封豐城縣公,位豫州刺史,卒,諡憲公。

安陸昭王

原文安陸昭王

安陸昭王蕭緬は字を景業と云い、容止を善くす。宋に仕えて位は中書郎。建元元年(四七九年)、安陸侯に封ぜられ、五兵尚書と為る。出でて呉郡太守と為り、政に能名有り。竟陵王蕭子良之に与える書に曰く、「窃かに下風を承るに、数十年來、姑蘇に此の政無し」と。武帝其の能を嘉し、累遷して寧蛮校尉・雍州刺史、都督を加えられる。緬は辞訟に留心し、人人を呼び至って案前に至らしめ、自ら顧問し、理を得ざる者有れば、勉めて之を諭し、退きて皆恨み無く、百姓に畏愛せらる。卒するに及び、喪還るに、百姓緬水に縁りて悲泣し祭を設け、峴山に於いて祠を立つ。諡して昭侯と曰う。

原文安陸昭王沔字景業,善容止。仕宋位中書郎。建元元年,封安陸侯,為五兵尚書。出為吳郡太守,政有能名。竟陵王子良與之書曰:「竊承下風,數十年來,姑蘇未有此政。」武帝嘉其能,累遷甯蠻校尉、雍州刺史,加都督。沔留心辭訟,人人呼至案前,親自顧問,有不得理者,勉喻之,退皆無恨,為百姓所畏愛。及卒,喪還,百姓緣沔水悲泣設祭,於峴山為立祠。諡曰昭侯。

明帝は少より相友愛し、時に僕射として衛尉を領し、表して職を解き、私第に哀を展べんことを求め、詔して許さず。毎に緬の霊に臨むに、輙ち慟絶し、哭して声を成さず。建武元年、司徒・安陸王を贈られる。

原文明帝少相友愛,時為僕射,領衛尉,表求解職,私第展哀,詔不許。每臨沔靈,輒慟絕,哭不成聲。建武元年,贈司徒、安陸王。

子の蕭宝晊嗣ぎ、永元元年(四九九)、湘東王に改封さる。東昏侯廃せられ、宝晊は物情の己に帰するを望み、坐して法駕を待つ。既にして城内より梁武帝に款を送る。宣徳太后朝に臨み、太常に拝し、自ら安からず。謀反し、及び弟の江陵公宝覧・霄城公宝宏皆伏誅せらる。

原文子寶晊嗣,永元元年,改封湘東王。東昏廢,寶晊望物情歸己,坐待法駕,既而城內送款于梁武帝。宣德太后臨朝,拜太常,不自安。謀反,及弟江陵公寶覽、霄城公寶宏皆伏誅。

新呉忠侯

原文新吳忠侯

新呉侯蕭景先は、高帝の従子なり。祖は蕭爰之、員外郎。父は蕭敬宗、始興王国中軍。

原文新吳侯景先,高帝從子也。祖爰之,員外郎。父敬宗,始興王國中軍。

景先は少くして孤となり、至性有り。母孔氏に随い、舅氏に鞠養さる。高帝之を嘉し、常に提携す。淮陰を鎮むるに及び、景先に軍主を領せしめて自ら随い、城内を防衛せしめ、心腹に委ぬ。武帝広興郡と為る時、高帝に啓して景先の同行を求め、武帝の寧朔府司馬を除し、此より常に相随逐す。

原文景先少孤,有至性。隨母孔氏,為舅氏鞠養。高帝嘉之,常相提攜。及鎮淮陰,以景先領軍主自隨,防衛城內,委以心腹。武帝為廣興郡,啟高帝求景先同行,除武帝甯朔府司馬,自此常相隨逐。

建元元年、太子左衛率と為り、新呉県伯に封ぜられ、甚だ委任を見、勢天下を傾く。景先は本名道先と云い、乃ち景先と改め、以て上諱いみなを避く。

原文建元元年,為太子左衛率,封新吳縣伯,甚見委任,勢傾天下。景先本名道先,乃改為景先,以避上諱。

初め武帝少年の時、景先と共に車に乗り、泥路を行く。車久しく故に壊れ、領軍府の西門に至り、車轅折る。俱に狼狽す。景先帝に謂いて曰く、「兩人脱しくも領軍と作らば、亦今日の艱辛を忘るるを得ざるべし」と。武帝践祚するに及び、詔して景先を以て兼領軍将軍と為す。拝する日、羽儀甚だ盛んにして、朝を傾けて観矚す。拝し還り、未だ府門に至らざるに、中詔有り、「相聞く領軍、今日故に当に折轅の事無からんや」と。景先奉謝す。

原文初武帝少年,與景先共車,行泥路,車久故壞,至領軍府西門,車轅折,俱狼狽。景先謂帝曰:「兩人脫作領軍,亦不得忘今日艱辛。」及武帝踐阼,詔以景先為兼領軍將軍。拜日,羽儀甚盛,傾朝觀矚。拜還,未至府門,中詔:「相聞領軍,今日故當無折轅事邪?」景先奉謝。

景先は上に事えて心を尽くす、故に恩寵特だ密なり。初め西より還る時、上景陽楼に坐して景先を召し語る。故旧唯だ豫章王一人のみ席に在るのみ。中領軍に転ず。車駕雉を射るに郊外にて、景先は常に甲仗を以て従い、左右を廉察す。尋いで爵を進めて侯と為す。

原文景先事上盡心,故恩寵特密。初西還,上坐景陽樓召景先語,故舊唯豫章王一人在席而已。轉中領軍。車駕射雉郊外,景先常甲仗從,廉察左右。尋進爵為侯。

始め升明中(四七七―四七九)、沈攸之荊州に於いて兵を挙ぐ。武帝時に江州盆城を鎮む。景先夜城に乗る。忽ち塹中に小児の蕭丹陽を呼ぶを聞く。未だ何人なるかを測らず、声声絶えず。試みに誰ぞと問えば、空中応えて云く、「賊尋いで当に平らぐべし、何事ぞ厳に防ぐ」と。語り訖りて復言わず。即ち之を窮討すも、了して見えず。明旦以て帝に白す。帝曰く、「攸之自ら至る所無し、焉んぞ汝の後丹陽尹と作らざるを知らんや」と。景先曰く、「寧んぞ作るの理有らんや」と。尋いで攸之の首至る。永明三年(四八五)に及び、詔して景先を以て丹陽尹と為し、謂いて曰く、「此の授は往年の盆城塹中の空中の言を験さんと欲するのみ」と。後ち仮節・司州諸軍事。卒し、諡して忠侯と曰う。

原文始升明中,沈攸之於荊州舉兵,武帝時鎮江州盆城,景先夜乘城,忽聞塹中有小兒呼蕭丹陽,未測何人,聲聲不絕。試問誰,空中應云:「賊尋當平,何事嚴防?」語訖不復言。即窮討之,了不見。明旦以白帝,帝曰:「攸之自無所至,焉知汝後不作丹陽尹?」景先曰:「寧有作理。」尋而攸之首至。及永明三年,詔以景先為丹陽尹,謂曰:「此授欲驗往年盆城塹空中言耳。」後假節、司州諸軍事。卒,諡曰忠侯。

子の蕭毅は、北中郎司馬の位にあった。性格は奢侈豪華を好み、弓馬を愛し、明帝に疑忌された。王晏の事が敗露すると、共に陥れられて誅殺された。

原文子毅,位北中郎司馬。性奢豪,好弓馬,為明帝所疑忌。王晏事敗,並陷誅之。

南豊懿伯

原文南豐懿伯

南豊伯蕭赤斧は、高帝の従祖父の弟である。祖父の蕭隆子は、衛軍録事参軍であった。父の蕭始之は、冠軍中兵参軍であった。

原文南豐伯赤斧,高帝從祖弟也。祖隆子,衛軍錄事參軍。父始之,冠軍中兵參軍。

蕭赤斧は温和で慎み深いことで高帝に知られた。高帝が政務を補佐すると、黄門侍郎・淮陵太守となった。順帝が位を譲り、丹陽の旧居に宮を立てた時、上(高帝)は赤斧に補佐護送を命じ、到着後はそのまま留まって防衛に当たらせ、帝が崩御してから帰還した。後に雍州刺史となり、州にあって財産利益を営まず、公務に勤勉であった。散騎常侍・左衛将軍に遷る。武帝は親しく遇し、蕭景先と並び称された。南豊県伯に封ぜられ、給事中・太子詹事に遷り、卒した。家が貧しく絹がなく衾を作れなかったことを武帝が聞き、ますます惋惜し、諡して懿伯といった。

原文赤斧以和謹為高帝所知。高帝輔政,為黃門侍郎、淮陵太守。順帝遜位,於丹陽故所立宮,上令赤斧輔送,至因留防衛,薨乃還。後為雍州刺史,在州不營產利,勤於奉公。遷散騎常侍、左衛將軍。武帝親遇,與蕭景先相比。封南豐縣伯,遷給事中、太子詹事,卒。家貧無絹為衾,武帝聞之,愈加惋惜,諡懿伯。

子の蕭穎冑が爵を襲いだ。

原文子穎胄襲爵。

蕭穎冑は字を雲長といい、度量が広く厚く父の風があった。秘書郎として出仕した。高帝は赤斧に言った、「穎冑は軽い朱衣を身に着けているが、その進み出る様子がますます美しくなり、人の心を慰めるに足る」。太子舎人に遷る。父の喪に遭い、脚の病を患い、数年してようやく歩けるようになった。武帝は詔を下して慰労激励し、医薬を賜った。竟陵王司徒外兵参軍、晋熙王文学を除された。

原文穎胄字雲長,弘厚有父風。起家秘書郎。高帝謂赤斧曰:「穎胄輕朱被身,覺其趨進轉美,足慰人意。」遷太子舍人。遭父喪,感腳疾,數年然後能行,武帝有詔慰勉之,賜以醫藥。除竟陵王司徒外兵參軍,晉熙王文學。

穎冑は文義を好み、弟の穎基は武勇を好んだ。武帝が烽火楼に登り、群臣に詩を賦するよう詔すると、穎冑の詩は意に適った。上は穎冑に言った、「卿は文、弟は武、宗室に才が乏しくないのは便利である」。上は穎冑が勲戚の子弟であることから、中書郎より左軍将軍を除し、殿内の文武の事を管掌させ、便殿に入ることを許した。新安太守として出向し、吏民はその徳を慕った。後に黄門郎を除され、四廂直を領した。衛尉に遷る。

原文穎胄好文義,弟穎基好武勇。武帝登烽火樓,詔群臣賦詩,穎胄詩合旨。上謂穎胄曰:「卿文弟武,宗室便不乏才。」上以穎胄勳戚子弟,自中書郎除左軍將軍,知殿內文武事,得入便殿。出為新安太守,吏人懷之。後除黃門郎,領四廂直。遷衛尉。

明帝が廃立を行うと、穎冑は従容として同調も異論も立てず、そこで明帝は穎冑を功績に預からせた。建武二年、爵を侯に進め、常に乗っていた白瑜牛を賜った。明帝は常に倹約を心がけ、太官が元日に上寿に用いる銀の酒槍を鋳潰そうとした。尚書令王晏らは皆盛徳と称えたが、穎冑は言った、「朝廷の盛大な礼は、三元(元日・冬至・立春)に過ぐるものはありません。この一器は既に旧物であり、奢侈とすべきではありません」。帝は不悦であった。後に曲宴に預かった時、銀器が席に満ちていた。穎冑は言った、「陛下は先に酒槍を壊そうとされましたが、恐らくそのお考えはこの器どもに移されるべきでしょう」。帝は甚だ慚じた。

原文明帝廢立,穎胄從容不為同異,乃引穎胄預功。建武二年,進爵為侯,賜以常所乘白瑜牛。明帝每存儉約,欲鑄壞太官元日上壽銀酒槍,尚書令王晏等咸稱盛德,穎胄曰:「朝廷盛禮,莫過三元,此一器既是舊物,不足為侈。」帝不悅。後預曲宴,銀器滿席,穎胄曰:「陛下前欲壞酒槍,恐宜移在此器也。」帝甚慚。

後に廬陵王後軍長史・広陵太守となり、南兗州府州事を行った。この年、魏が長江に馬を飲ませると声を揚げたので、帝は恐れ、穎冑に住民を城内に移すよう命じた。百姓は驚恐し、家財を巻き上げて南渡しようとした。穎冑は魏軍がまだ遠いとして、直ちに施行せず、魏軍もやがて退いた。引き続き南兗州刺史となり、都督を加えられた。和帝が荊州に在るとき、穎冑を西中郎長史・南郡太守とし、荊州府州事を行わせた。当時江祏が朝権を専断しており、この任は祏によるものであった。穎冑は不平を抱き、「江公が我々を追い出した」と言った。

原文後為廬陵王后軍長史、廣陵太守,行南兗州府州事。是年,魏揚聲當飲馬長江,帝懼,敕穎胄移居人入城,百姓驚恐,席捲欲南度,穎胄以魏軍尚遠,不即施行,魏軍亦尋退。仍為南兗州刺史,加都督。和帝為荊州,以穎胄為西中郎長史、南郡太守,行荊州府州事。時江祏專執朝權,此行由祏,穎胄不平,曰:「江公蕩我輩出。」

東昏侯が諸公を誅戮し、小人物を任用した。崔慧景・陳顕達が敗れた後、方鎮はそれぞれ異心を抱いた。永元二年十月、尚書令臨湘侯蕭懿と弟の衛尉蕭暢が害され、先に輔国将軍劉山陽を遣わして穎冑の兵を就け、梁武帝を襲撃させようとした。帝(梁武帝)は当時雍州刺史であり、兵を起こそうとしたが、穎冑が同意しないことを慮り、穎冑の親しい者である王天武を江陵に遣わし、山陽が西上し、荊州・雍州を共に襲うと声をかけ、穎冑に書を送って共に挙兵するよう勧めた。穎冑はなお決断できずにいた。初め、山陽が南州を出発する時、人に言った、「朝廷が白虎幡で私を追っても、もう戻ることはない」。妓妾を巻き添えにし、全家を挙げて西行した。巴陵に至り、十数日もためらって進まなかった。梁武帝は再び天武を遣わして穎冑に書を届けさせ、奇略を設けて彼を疑わせた。この時、山陽が穎冑を謀殺し、荊州を挙げて共に行動しようとしているという噂もあった。山陽が到着すると、果たして城に入ろうとしなかった。穎冑は計略がなく、夜に銭唐人朱景思を遣わして西中郎城局参軍席闡文・諮議参軍柳忱を呼び、書斎を閉めて評議を定めた。闡文は言った、「蕭雍州が士馬を養うのは、一日や二日のことではない。江陵はもとより襄陽の人々を恐れており、人数も敵わない。これを取れば必ずしも制御できず、制御したとしても、歳月が経てば再び朝廷に容れられなくなるでしょう。今もし山陽を殺し、雍州と共に事を起こし、天子を立てて諸侯に号令すれば、覇業は成就します。山陽が疑って進まないのは、我々を信じないからです。今、天武を斬って送れば、彼の疑いは解けるでしょう。彼が来てから図れば、成らぬことはありません」。柳忱もまた勧めた。穎冑はそこで天武を斬り、山陽に示した。山陽は大いに喜び、軽く歩騎数百を率いて州城に来た。闡文が兵を率いてこれを斬り、首を梁武帝に伝送した。

原文東昏侯誅戮群公,委任塚小,崔、陳敗後,方鎮各懷異計。永元二年十月,尚書令臨湘侯蕭懿及弟衛尉暢見害,先遣輔國將軍劉山陽就穎胄兵襲梁武帝。帝時為雍州刺史,將起兵,慮穎胄不同,遣穎胄親人王天武詣江陵,聲雲山陽西上,並襲荊、雍,書與穎胄,勸同舉兵,穎胄意猶未決。初,山陽出南州,謂人曰:「朝廷以白虎幡追我,亦不復還矣。」席捲妓妾,盡室西行。至巴陵,遲回十餘日不進。梁武帝復遣天武齎書與穎胄,設奇略以疑之。是時或云山陽謀殺穎胄,以荊州同舉。山陽至,果不敢入城。穎胄計無所出,夜遣錢唐人朱景思呼西中郎城局參軍席闡文、諮議參軍柳忱閉齋定議。闡文曰:「蕭雍州畜養士馬,非復一日。江陵素畏襄陽人,人眾又不敵,取之不可必制,制之,歲寒復不為朝廷所容。今若殺山陽,與雍州舉事,立天子以令諸侯,霸業成矣。山陽持疑不進,是不信我,今斬送天武,則彼疑可釋。至而圖之,罔不濟矣。」忱亦勸焉。穎胄乃斬天武,以示山陽。山陽大喜,輕將步騎數百到州,闡文勒兵斬之,傳首于梁武。

東昏は山陽の死を聞き、詔を発して荊州・雍州を討とうとした。穎冑は器量と見識があり、大事を唱えると、衆人の心は彼に帰した。長沙寺の僧が黄金を鋳て数千両の龍とし、土中に埋めて代々伝え渡し、下方の黄鉄と称していた。穎冑はこれら龍を取り上げて、軍需品に充てた。そして嘆いて言った、「往年江祏が我々を斥けたが、今に至って禍福に門のないことを知った」。十二月、建鄴に檄を移した。

原文東昏聞山陽死,發詔討荊、雍。穎胄有器局,既唱大事,眾情歸之。長沙寺僧鑄黃金為龍數千兩埋土中,曆相傳付,稱為下方黃鐵,穎胄因取此龍,以充軍實。乃歎曰:「往年江祏斥我,至今始知禍福之無門也。」十二月,移檄建鄴。

三年正月、和帝が相国となり、穎冑は左長史となり、鎮軍将軍の号を進められた。ここに至って初めて方伯の任用を始めた。梁武帝はたびたび上表して和帝に尊号に即くよう勧めた。穎冑は別駕の宗夬に命じて礼儀を撰定させた。尊号を上り、元号を改めた。江陵に宗廟と南北郊を立てた。州府の城門はすべて建康宮に倣い、尚書五省を置き、城南の射堂を蘭台とし、南郡太守を尹とした。建武年間、荊州で大風雨があり、龍が柏斎の中に入り、柱や壁に爪足の跡があった。刺史の蕭遙欣は恐れて住むことを敢えず、この時に至って嘉福殿とした。

原文三年正月,和帝為相國,穎胄為左長史,進號鎮軍將軍,於是始選用方伯。梁武屢表勸和帝即尊號,穎胄使別駕宗夬撰定禮儀。上尊號、改元。於江陵立宗廟南北郊。州府城門,悉依建康宮,置尚書五省,以城南射堂為蘭台,南郡太守為尹。建武中,荊州大風雨,龍入柏齋中,柱壁上有爪足處,刺史蕭遙欣恐畏,不敢居之,至是以為嘉福殿。

中興元年三月、穎冑は侍中・尚書令・監八州軍事・荊州刺史となり、西朝(江陵朝廷)の守衛に留まった。弟の穎達を冠軍将軍とした。楊公則らが師を率いて梁武帝に従い郢城を包囲すると、穎達は漢口で軍と会し、王茂・曹景宗らと共に郢城を攻め落とした。梁武帝が漂州に進むと、穎達は曹景宗と共に東昏の将李居士を破るよう命じられた。また東城を下すことに従った。

原文中興元年三月,穎胄為侍中、尚書令、監八州軍事、荊州刺史,留衛西朝。以弟穎達為冠軍將軍。及楊公則等率師隨梁武圍郢城。穎達會軍於漢口,與王茂、曹景宗等攻陷郢城。梁武進漂州,使與曹景宗破東昏將李居士。又從下東城。

初め梁武帝が挙兵した時、巴東太守蕭惠訓の子蕭璝と巴西太守魯休烈は従わず、兵を挙げて荊州を侵し、輔国将軍任漾之を峡口で破った。穎冑は軍を遣わしてこれを防いだが、梁武帝は既に江州・郢州えいしゅうを平定し、建康を包囲していた。当時穎冑は帝(和帝)を補佐し、安定した重い地位にあった。元来酒をよく飲み、白肉膾を三斗も食べた。自ら職が上将にありながら、蕭璝らを防ぎ制することができず、憂い慚じて発病し、卒した。州中ではこれを秘し、彼の筆跡に似せた者に命じて教命を偽造させた。

原文初梁武之起也,巴東太守蕭惠訓子璝、巴西太守魯休烈弗從,舉兵侵荊州,敗輔國將軍任漾之於峽口,穎胄遣軍拒之,而梁武已平江、郢,圍建康。時穎胄輔帝主,有安重之勢。素能飲酒,噉白肉膾至三斗。自以職居上將,不能拒制璝等,憂愧發疾而卒。州中秘之,使似其書者假為教命。

当時梁武帝は建康を包囲し、石頭に駐屯していた。和帝は密詔で穎冑の凶報を伝えたが、これも秘して発喪しなかった。建康が平定されると、蕭璝もまた衆が恐れて潰走した。和帝はようやく発喪し、詔して穎冑に丞相を追贈し、前後部の羽葆・鼓吹、班剣三十人、轀輬車、黄屋左纛を賜った。

原文時梁武圍建康,住石頭,和帝密詔報穎胄凶問,亦秘不發喪。及建康平,蕭璝亦眾懼而潰,和帝乃始發喪,詔贈穎胄丞相,前後部羽葆、鼓吹,班劍三十人,轀輬車,黃屋左纛。

梁の天監元年、巴東郡公を追封された。喪が還ると、武帝の車駕が渚次に臨んで哭し、葬儀は晋の王導・斉の豫章王の故事に依って行われた。諡して献武という。

原文梁天監元年,追封巴東郡公。喪還,武帝車駕臨哭渚次,葬依晉王導、齊豫章王故事。諡曰獻武。

弟の穎達は、若い頃より勇を好み気性を任せた。穎胄が斉の建武末に荊州の事を行い、穎達もまた西中郎外兵参軍となり、ともに西府にあった。斉の末世は多難で、頗る自ら安んぜず、兄の穎胄とともに挙兵した。

原文弟穎達,少好勇使氣。穎胄齊建武末行荊州事,穎達亦為西中郎外兵參軍,俱在西府。齊季多難,頗不自安,因與兄穎胄舉兵。

穎達の弟穎孚は建鄴より廬陵の人修景智に潜かに引かれ、南へ帰った。穎孚は山を縁り嶂を逾えて、辛うじて免れた。道中で糧が絶え、後に過飽食して卒した。

原文穎達弟穎孚自建鄴為廬陵人修景智潛引,與南歸。穎孚緣山逾嶂,僅免。道中絕糧,後因食過飽而卒。

建康が平定されると、梁の武帝は穎達を前将軍・丹陽尹とした。禅譲を受けると、穎孚を右衛将軍に贈り、穎達を作唐侯に封じ、位は侍中・衛尉卿とした。豫章内史として出され、心中甚だ憤懣であった。発つ前に、華林の宴に預かり、酒後に座中で辞気に不悦を示した。沈約が酒を勧め、これを解かんとした。穎達は約を大罵して曰く、「我が今日の有様は、正に汝が鼠の為す所なり、何ぞ忽ちまた我に酒を勧むるや」と。座中皆驚愕した。帝はこれに謂いて曰く、「汝は我が家の阿五なり、沈公は宿望ある者、何ぞ軽脱を意とする。若し法を以て汝を縛せば、汝また何の理かあらん」と。穎達は終に一言もなく、ただ大いに涕泣するのみで、帝は心にこれを愧じた。未だ幾ばくもせず、江州刺史に遷った。少時して、懸瓠が帰化すると、穎達の長史沈瑀らが苛酷なため盗賊に害され、衆は穎達を疑い、或いは謀反と伝えた。帝は直閤将軍張豹子を遣わし、江中で盗を討つと称し、実はこれを防がしめた。穎達は朝廷の意を知り、ただ酒を飲んで州事を知らなかった。後に左衛将軍の任で卒し、諡して康侯という。

原文建康平,梁武帝以穎達為前將軍、丹陽尹。及受禪,贈穎孚右衛將軍,封穎達作唐侯,位侍中、衛尉卿。出為豫章內史,意甚憤憤。未發前,預華林宴,酒後於座辭氣不悅。沈約因勸酒,欲以釋之。穎達大罵約曰:「我今日形容,正是汝老鼠所為,何忽復勸我酒!」舉坐驚愕。帝謂之曰:「汝是我家阿五,沈公宿望,何意輕脫。若以法繩汝,汝復何理。」穎達竟無一言,唯大涕泣,帝心愧之。未幾,遷江州刺史。少時,懸瓠歸化,穎達長史沈瑀等苛刻為盜所害,眾頗疑穎達,或傳謀反。帝遣直合將軍張豹子稱江中討盜,實使防之。穎達知朝廷之意,唯飲酒不知州事。後卒于左衛將軍,諡康侯。

子の敏が嗣ぎ、位は新安太守、雉を射ることを好み、未だ嘗て郡におらず、辞訟する者は畎畝に遷された。後に弩を張って腰を損ない卒した。

原文子敏嗣,位新安太守,好射雉,未嘗在郡,辭訟者遷於畎焉。後張弩損腰而卒。

第七子の斅は、太清初め、魏興太守となった。梁州刺史宜豊侯蕭循が府長史とした。梁州に古墓あり、名を「尖塚」といい、或いは張騫の墳と云い、発掘せんとする者あれば、輒ち鼓角の音を聞き外と相拒ぎ、椎埋する者懼れて退く。斅はこの理無しと謂い、自ら監督を求めた。開くと、唯だ銀鏤の銅鏡方尺あるのみであった。斅は時に母服に居り、清談によって貶された。

原文第七子斅,太清初,為魏興太守。梁州刺史宜豐侯循以為府長史。梁州有古墓名曰:「尖塚」,或云張騫墳,欲有發者,輒聞鼓角與外相拒,椎埋者懼而退。斅謂無此理,求自監督。及開,唯有銀鏤銅鏡方尺。斅時居母服,清談所貶。

衡陽公

原文衡陽公

衡陽公蕭諶、字は彦孚、高帝の絶服の族子なり。祖父は道清、員外郎。父は仙伯、桂陽国の下軍。

原文衡陽公諶,字彥孚,高帝絕服族子也。祖道清,員外郎。父仙伯,桂陽國下軍。

宋の元徽末、武帝が郢におり、都下の消息を知らんと欲し、高帝は諶を遣わし武帝に就き謀計を宣伝せしめ、腹心として留めた。升明中、武帝の中軍刑獄参軍・南東莞太守となり、労により安復県男に封ぜられた。建元初め、武帝が東宮に在り、諶は宿衛を領した。高帝が張景真を殺すと、武帝は諶に命じて景真の命を乞うよう啓せしめたが、高帝は悦ばず、諶は懼れて退いた。武帝即位すると、歩兵校尉・南蘭陵太守を除し、御仗主を領し、斎内の兵仗は悉くこれを委付され、心膂の密事は皆参掌せしめられた。左中郎将・後軍将軍となり、太守は元の如し。武帝が延昌殿に臥疾すると、諶は左右に在り宿直した。上崩ずると、遺勅して諶に殿内の事を旧の如く領せしめた。

原文宋元徽末,武帝在郢,欲知都下消息,高帝遣諶就武帝宣傳謀計,留為腹心。升明中,為武帝中軍刑獄參軍、南東莞太守,以勞封安復縣男。建元初,武帝在東宮,諶領宿衛。高帝殺張景真,武帝令諶啟乞景真命,高帝不悅,諶懼而退。武帝即位,除步兵校尉、南蘭陵太守,領禦仗主,齋內兵仗,悉委付之,心膂密事,皆使參掌。為左中郎將、後軍將軍,太守如故。武帝臥疾延昌殿,諶在左右宿直。上崩,遺敕諶領殿內事如舊。

郁林王即位すると、深く諶を委信し、諶が毎度急を請うて出宿すると、帝は通夕寐ることができず、諶が還って初めて安んじた。衛軍司馬に転じ、衛尉を兼ねた。母憂に服すと、勅して本位に還り、衛尉を守らせた。明帝が輔政すると、諶は回って明帝に附き、廃立を行わんことを勧め、密かに諸王の典签を召し約して語り、諸王が外に人物と接することを許さなかった。諶は親要日久しく、衆皆憚ってこれに従った。郁林王が廃された日、初め外に変有りと聞き、猶密かに手勅を作り諶を呼んだ。その信ぜられること此の如しであった。諶の性は険しく、身を護る計無し。帝を廃する日に及び、兵を領して先ず後宮に入ると、斎内の仗身は素より諶に隷服し、動く者無し。

原文郁林即位,深委信諶,諶每請急出宿,帝通夕不能寐,諶還乃安。轉衛軍司馬,兼衛尉。丁母憂,敕還本位,守衛尉。明帝輔政,諶回附明帝,勸行廢立,密召諸王典簽約語之,不許諸王外接人物。諶親要日久,眾皆憚而從之。郁林被廢日,初聞外有變,猶密為手敕呼諶,其見信如此。諶性險,無護身計。及廢帝日,領兵先入後宮,齋內仗身,素隸服諶,莫有動者。

海陵王が立つと、中領軍に転じ、爵を公に進め、甲仗五十人を給し、殿内に入直し、十日毎に府に還った。建武元年、領軍将軍・左将軍・南徐州刺史に転じ、扶を給され、爵を衡陽郡公に進めた。明帝は初め事克つに及び諶を用いて揚州と為すことを許したが、此の授有りに及び、諶は恚って曰く、「飯を炊き熟して人に推し与うるを見る」と。王晏これを聞きて曰く、「誰か復た蕭諶が為に甌箸を作らんや」と。

原文海陵立,轉中領軍,進爵為公,甲仗五十人,入直殿內,月十日還府。建武元年,轉領軍將軍、左將軍、南徐州刺史,給扶,進爵衡陽郡公。明帝初許事克用諶為揚州,及有此授,諶恚曰:「見炊飯推以與人。」王晏聞之曰:「誰復為蕭諶作甌箸者。」

諶は勲重きを恃み、朝政を干預した。明帝新たに即位し、左右の要人を外に遣わし聴察せしめ、諶の言を具に知り、深く疑阻を相いだ。二年六月、上華林園に幸し、諶及び尚書令晏ら数人を宴して尽く歓んだ。坐罷り、諶を留めて晩に出させ、華林閤に至り、仗身が執って還り省に入れた。上は左右の莫智明を遣わし諶を数えて曰く、「隆昌の際、卿無くして今日無し。今一門二州、兄弟三封、朝廷の報い、政にここに極むべし。卿恒に怨望を懐き、乃ち雲う'飯已に熟し、甑を合わして人に与う'と。今卿に死を賜う」と。諶は智明に謂いて曰く、「天も人また遠からず、我と至尊と高帝・武帝の諸王を殺すは、是れ卿が伝語して来去せし所、我今死す、還って卿を取らん」と。省においてこれを殺した。秋に至り、智明死し、諶が祟り為すを見る。詔して乃ち其の過悪を顕わし、廷尉に収付した。

原文諶恃勳重,幹豫朝政,明帝新即位,遣左右要人于外聽察,具知諶言,深相疑阻。二年六月,上幸華林園,宴諶及尚書令晏等數人盡歡。坐罷,留諶晚出,至華林合,仗身執還入省。上遣左右莫智明數諶曰:「隆昌之際,非卿無有今日。今一門二州,兄弟三封,朝廷相報,政可極此。卿恒懷怨望,乃雲'炊飯已熟,合甑與人邪',今賜卿死。」諶謂智明曰:「天去人亦復不遠,我與至尊殺高、武諸王,是卿傳語來去,我今死,還取卿矣。」於省殺之。至秋,而智明死,見諶為祟。詔乃顯其過惡,收付廷尉。

諶は左道を好み、呉興の沈文猷が諶を相して云く、「相は高帝に減ぜず」と。諶は喜んで曰く、「卿の意に感じ、人の為に言う無かれ」と。ここに至り、文猷誅せられる。

原文諶好左道,吳興沈文猷相諶云:「相不減高帝。」諶喜曰:「感卿意,無為人言也。」至是,文猷伏誅。

諶の兄の誕、字は彦偉、永明中、建康令となり、秣陵令司馬迪之と同乗して行き、車前の導に四卒を有した。左丞沈昭略奏して、「凡そ鹵簿を有する官、共乗するに騶寺を兼ねて列すべからず、請う誕らの官を免ぜん」と。詔して贖って論ぜしむ。延興元年、徐・司二州刺史を歴任。明帝立つと、安復侯に封ぜられ、左衛将軍に徴された。上は諶を殺さんと欲したが、誕が辺鎮に在り魏に拒ぐを以て、故に未だ行うに及ばず。魏軍退くこと六旬、諶誅せられ、梁の武帝を司州別駕と為し、誕を誅せしめ遣わした。誕の子の棱の妻は江淹の女、字は才君、誕の死を聞きて曰く、「蕭氏皆尽きぬ、妾何を以てか生くべし」と。慟哭して絶えた。

原文諶兄誕字彥偉,永明中,為建康令,與秣陵令司馬迪之同乘行,車前導四卒。左丞沈昭略奏:「凡有鹵簿官,共乘不得兼列騶寺,請免誕等官。」詔贖論。延興元年,曆徐、司二州刺史。明帝立,封安復侯,徵為左衛將軍。上欲殺諶,以誕在邊鎮拒魏,故未及行。魏軍退六旬,諶誅,遣梁武帝為司州別駕,使誅誕。誕子棱妻,江淹女,字才君,聞誕死,曰:「蕭氏皆盡,妾何用生。」慟哭而絕。

諶の弟の誄、字は彦文、諶とともに廃立を預かり、西昌侯に封ぜられ、位は太子左衛率。諶を誅するの日、輔国将軍蕭季敞が啓して誄を収めんことを求め、深く排苦を加え、乃ち手ずから摧辱するに至った。誄は徐に曰く、「已に死せる人、何ぞここに至るに足らん、君は相提拔せし時を憶えざるか?幽冥に知有らば、終に相報いせん」と。

原文諶弟誄,字彥文,與諶同豫廢立,封西昌侯,位太子左衛率。誅諶之日,輔國將軍蕭季敞啟求收誄,深加排苦,乃至手相摧辱。誄徐曰:「已死之人,何足至此,君不憶相提拔時邪?幽冥有知,終當相報。」

季敞は粗暴で猛々しく品行がなく、隙間を埋めるのが巧みであり、高帝の時に蕭誄・蕭諶に賞賛され、そのために累進して郡守となった。政務において貪欲で穢らわしく、蕭諶は常にこれを覆い隠した。後に広州刺史となったが、白昼に蕭誄が兵を率いて城に入り自分を捕らえるのを見た。数日後、果たして西江都護の周世雄に襲撃され、軍は敗れ、山中に逃げ、蛭に噛まれて肉がことごとく尽きて死に、惨めで苦痛に満ちた末、後に村人に斬られた。論ずる者は天道があると思った。

原文季敞粗猛無行,善於彌縫,高帝時為誄、諶所獎說,故累為郡守。在政貪穢,諶輒掩之。後為廣州刺史,白日見誄將兵入城收之。少日,果為西江都護周世雄所襲,軍敗,奔山中,為蛭所齧,肉都盡而死,慘楚備至,後為村人所斬。論者以為有天道焉。

臨汝侯

原文臨汝侯

臨汝侯の蕭坦之は字を君平といい、高帝の遠縁の族子である。祖父は蕭道済、太中大夫。父は蕭欣祖、武進県令。

原文臨汝侯坦之字君平,高帝絕服族子也。祖道濟,太中大夫。父欣祖,武進令。

坦之は蕭諶と同族であり、東宮直閤となり、勤勉で正直なことで文恵太子に知られ、給事中・蘭陵県令に任じられた。武帝が崩御すると、坦之は太孫の文武の官を率いて台城に上り、射声校尉に任じられ、県令の職はそのままとした。拝命しないうちに、正員郎・南魯郡太守に任じられた。少帝は坦之が文恵太子の旧臣であるため、親信して離さず、内に入って皇后に拝謁することができた。帝が宮中や後堂で出て様々な戯れをしても、坦之は皆側にいて、時に酔って裸になることがあれば、坦之は支えて諫め諭した。帝が奉じるに足らないと見て、明帝に改めて付き従い、密かに耳目となった。

原文坦之與蕭諶同族,為東宮直合,以勤直為文惠所知,除給事中、蘭陵令。武帝崩,坦之率太孫文武度上臺,除射聲校尉,令如故。未拜,除正員郎、南魯郡太守。少帝以坦之文惠舊人,親信不離,得入內見皇后。帝于宮中及出後堂雜狡獪,坦之皆得在側,或遇醉後裸袒,坦之輒扶持諫喻。見帝不可奉,乃改附明帝,密為耳目。

隆昌元年、坦之の父の勲功を追録し、臨汝県男に封じた。少帝は外に異謀があると微かに聞き、明帝が台城内にいるのを憚り、西州への移転を命じた。後に華林園の華光殿で黄縠の褌を露わに着け、床に足を垂らして座り、坦之に言った、「人が言うには鎮軍(明帝)と王晏・蕭諶が共に私を廃そうとしているそうで、虚伝ではないようだ、蘭陵は何を聞いているか。」坦之はかつて蘭陵県令をしたので、そう呼んだのである。坦之は言った、「天下にどうしてこのようなことがあろうか。誰が事もなく天子を廃することを喜ぼうか。昔、元徽(後廃帝)がただ路上を歩いただけで、三年間人が近づかなかったのは、ただ孫超・杜幼文らを枉げて殺したために敗れただけである。官(陛下)に何事があって、一朝にして廃立をしようとするのか。朝貴たちがこのような議論を作るはずがなく、ただ諸々の尼師母の言うことでしょう。どうして尼姥の言葉を信じられようか。官がもし事もなくこの三人を除くならば、誰が自らを保証できよう。安陸諸王が外にいるが、どうして再び還って来ようか。道剛の徒など、どうしてこれに抗しえよう。」帝は言った、「蘭陵はよく聞き察し、事を行うには人の後になるな。」

原文隆昌元年,追錄坦之父勳,封臨汝縣男。少帝微聞外有異謀,憚明帝在台內,敕移西州。後在華林園華光殿露著黃縠褌,跂床垂腳,謂坦之曰:「人言鎮軍與王晏、蕭諶欲共廢我,似非虛傳,蘭陵所聞雲何?」坦之嘗作蘭陵令,故稱之。坦之曰:「天下寧當有此?誰樂無事廢天子邪?昔元徽獨在路上走,三年人不敢近,政坐枉殺孫超、杜幼文等故敗耳。官有何事,一旦便欲廢立?朝貴不容造此論,政當是諸尼師母言耳。豈可以尼姥言為信!官若無事除此三人,誰敢自保。安陸諸王在外,寧肯復還,道剛之徒,何能抗此。」帝曰:「蘭陵可好聽察,作事莫在人後。」

帝は諸執政を除くには、当然当事者が必要と考え、意は沈文季にあり、夜に内左右を遣わして密かに文季に賄賂を贈らせたが、文季は受け取らなかった。帝は大いに怒り、坦之に言った、「私が文季に賜っても受け取らない。どうして人臣が天子の賜り物を拒むことがあろうか。」坦之は言った、「官は誰を遣わして送ったのですか。」帝は言った、「内左右だ。」坦之は言った、「官がもし詔勅を出して賜うなら、令や舍人・主書に送らせれば、文季はどうして受け取らないことがあろうか。ただ事が正式でないので、仰せ遣わしただけです。」

原文帝以為除諸執政,應須當事人,意在沈文季,夜遣內左右密賂文季,文季不受。帝大怒,謂坦之曰:「我賜文季不受,豈有人臣拒天子賜。」坦之曰:「官遣誰送?」帝曰:「內左右。」坦之曰:「官若詔敕出賜,令舍人主書送往,文季寧敢不受!政以事不方幅,故仰遣耳。」

帝はまた夜に酔い、馬に乗って西歩廊から北へ駆け走り、このように二、三度倒れそうになった。坦之が諫めても従わず、馬の手綱を取ると、帝は拳を振り回して坦之を打とうとしたが当たらず、地面に倒れた。坦之と曹道剛が抱きかかえて寿昌殿の玳瑁の床に寝かせたが、また起きて走り出そうとしたので、坦之は制することができず、坦之は急いで皇后に知らせ、皇后が到着し、長い間諭して、ようやく眠った。

原文帝又夜醉,乘馬從西步廊向北馳走,如此兩三將倒,坦之諫不從,執馬控,帝運拳擊坦之不著,倒地。坦之與曹道剛扶抱還壽昌殿玳瑁床上臥,又欲起走,坦之不能制,坦之馳信報皇后,至,請譬良久,乃眠。

時に明帝は廃殺を謀り、既に蕭諶及び坦之と謀議を定めたが、少帝の腹心の直閤将軍曹道剛が外間に異変があると疑い、密かに処分をしていたので、蕭諶は発動できなかった。始興内史の蕭季敞と南陽太守の蕭穎基が共に都に還るはずであり、蕭諶は二蕭が到着するのを待ち、その威力を借りて挙事しようとした。明帝は事変を憂い、坦之に告げた。坦之は急いで蕭諶に言った、「天子を廃するは古来の大事である。近頃聞くところでは曹道剛・朱隆之らが既に猜疑を強めており、衛尉(蕭諶)が明日もし実行しなければ、事は再び及ぶところがなくなる。弟には百歳の母がいる。どうして坐して禍敗を聞くことができようか。ただ他の計略をなすべきである。」蕭諶は慌て恐れ、明日遂に帝を廃したが、これは坦之の力である。

原文時明帝謀廢殺,既與蕭諶及坦之定謀,少帝腹心直合將軍曹道剛,疑外間有異,密有處分,諶未能發。始興內史蕭季敞、南陽太守蕭穎基並應還都,諶欲待二蕭至,藉其威力以舉事。明帝慮事變,以告坦之,坦之馳謂諶曰:「廢天子古來大事,比聞曹道剛、朱隆之等轉已猜疑,衛尉明日若不就,事無所復及。弟有百歲母,豈能坐聽禍敗,政應作余計耳。」諶惶遽,明日遂廢帝,坦之力也。

海陵王が即位すると、黄門郎を拝命し、衛尉を兼ねた。建武元年、左衛将軍に遷り、爵位を侯に進めた。

原文海陵即位,除黃門郎,兼衛尉。建武元年,遷左衛將軍,進爵為侯。

東昏侯が立つと、侍中・領軍将軍となった。永元元年、母の喪に服したが、職務に復帰し、右将軍を加えられ、府を置いた。江祏兄弟が始安王蕭遙光を立てようとし、密かに坦之に告げた。坦之は言った、「明帝が天下を取ったのは既に順序を踏んでおらず、天下の人は今に至るも服していない。今もしまたこのようなことをするならば、恐らく四海は瓦解するであろう。私は敢えて言わない。」

原文東昏立,為侍中、領軍將軍。永元元年,母憂,起復職,加右將軍,置府。江祏兄弟欲立始安王遙光,密告坦之。坦之曰:「明帝取天下已非次第,天下人至今不服,今若復作此事,恐四海瓦解,我其不敢言。」

遙光が挙兵すると、人を遣わして夜に坦之を襲って捕らえようとした。坦之は頭に何も被らず褌を着けて牆を越えて逃げた。台の遊邏主の顔端に出逢い、捕らえられた。坦之は言った、「始安王が賊を起こし、人を遣わして私を捕らえに来たので、宅に向かって奔走し、台に還ろうとしただけです。君はどうして私を捕らえるのですか。」端は答えず、守備をますます厳しくした。坦之は言った、「私は大臣である。夜半に奔走するので、君は理として疑い、朝廷に罪を得たと思われるのであろう。もし信じないなら、自ら歩いて東府に行き参観すればよい。」これにも答えなかった。端が小街に至り、遙光が挙兵したことを確かに知ると、走って還った。三十歩ほど至らないうちに、馬から下りて再拝して言った、「今日はどうか引き受けていただきたい。」坦之は言った、「先ほど君に何と言ったか。どうして欺くことができようか。」端は馬を坦之に与え、相随って去った。新亭に至るころ、道中で遙光に捕虜にされた残りの者を収容し、二百人ほどを得て、皆粗末な武器を持っていた。そこで西掖門に進み、鼓が鳴った後に殿内に入ることができた。その夜の四更、主書の馮元嗣が北掖門を叩き、遙光の反逆を告げ、殿内はこれに備えた。夜明け前に、徐孝嗣を召し入れた。左衛将軍の沈約は五更の初めに難を聞き、車を走らせて西掖門に急行した。ある者が戎服を勧めたが、沈約は外軍が既に来ていることを慮り、もし戎衣を着ければ、ある者は遙光と同類と思い、自らを明らかにする術がなくなるだろうと考え、朱服を着て入った。

原文及遙光起事,遣人夜掩取坦之,坦之科頭著褌踰牆走。逢台遊邏主顏端,執之。坦之謂曰:「始安作賊,遣人見取,向於宅奔走,欲還台耳,君何見錄。」端不答,而守防逾嚴。坦之謂曰:「身是大臣,夜半奔走,君理見疑,以為得罪朝廷。若不信,自可步往東府參視。」亦不答。端至小街,審知遙光舉事,乃走還。未至三十餘步,下馬再拜曰:「今日乞垂將接。」坦之曰:「向語君何所道,豈容相欺。」端以馬與坦之,相隨去。比至新亭,道中收遙光所虜之餘,得二百許人,並有粗仗。乃進西掖門,開鼓後得入殿內。其夕四更,主書馮元嗣叩北掖門,告遙光反,殿內為之備。向曉,召徐孝嗣入。左衛將軍沈約五更初聞難,馳車走趨西掖門。或勸戎服,約慮外軍已至,若戎衣,或者謂同遙光,無以自明,乃朱服而入。

台内での部署が定まると、坦之は仮節を与えられ、衆軍を督して遙光を討った。事が平定されると、尚書左僕射・丹陽尹に遷り、右将軍は元のままとし、爵位を公に進めた。

原文台內部分既立,坦之假節、督眾軍討遙光。事平,遷尚書左僕射、丹陽尹,右將軍如故,進爵為公。

坦之は肥えて黒く髭がなく、語声がしわがれており、当時の人は蕭瘂と呼んだ。剛直で偏狭で専断的であり、群小は畏れて憎んだ。遙光の事が平定されて二十余日後、帝は延明主帥の黄文済を遣わして坦之の宅を包囲させ、誅殺した。

原文坦之肥黑無須,語聲嘶,時人號為蕭瘂。剛佷專執,群小畏而憎之。遙光事平二十餘日,帝遣延明主帥黃文濟圍坦之宅,誅之。

坦之の従兄の蕭翼宗が海陵郡にいた。出発しようとした時、坦之は文済に言った、「従兄の海陵の宅は本来何の問題もないはずだ。」文済は言った、「海陵の宅はどこにあるか。」坦之が告げると、文済は言った、「ただ罪に当たるだけである。」そしてやはり人を遣わして捕らえさせた。家を調べると赤貧で、ただ質銭の帖子が数百枚あるだけで、これを帝に啓上し、その死を赦した。

原文坦之從兄翼宗為海陵郡,將發,坦之謂文濟曰:「從兄海陵宅故應無他。」文濟曰:「海陵宅在何處?」坦之告之。文濟曰:「政應得罪。」仍遣收之。檢家赤貧,唯有質錢帖子數百,還以啟帝,原其死。

和帝の中興元年、坦之に中軍将軍・開府儀同三司を追贈した。

原文和帝中興元年,追贈坦之中軍將軍、開府儀同三司。

論じて曰く。

原文【論】

論ずるに、斉の宗室においては、始安王の後裔のみがよく栄えた。明帝は非道をもってこれを取り、遙光は残酷をもってこれを助け、その末ついに顛仆するに至った。いわゆる「亦此を以て終わる」というものである。穎胄の荊州の任は、蓋しただ失職に過ぎず、その末途の倚伏は、豈に預め図る所の致すところであろうか。諶と坦之はともに顧托に応じ、既に国を傾け、また身を覆すに至った。各々その宜しきを得たのである。

原文論曰:有齊宗室,唯始安之後克昌。明帝取之以非道,遙光濟之以殘酷,其卒至顛仆,所謂「亦以此終。」者也。穎胄荊州之任,蓋惟失職,及其末途倚伏,豈預圖之所致乎。諶與坦之俱應顧托,既以傾國,亦以覆身,各其宜矣。