南史
巻四十より巻四十一
列傳第三十
魯爽、薛安都、鄧琬、宗越、吳喜、黃回
魯爽
魯爽は小字を女生といい、扶風郡郿県の人である。祖父の宗之は字を彦仁といい、晋に仕えて官は南陽太守に至った。義熙元年に義兵を起こし、功により雍州刺史となった。宋の武帝が劉毅を討伐したとき、宗之とともに江陵で合流し、南陽郡公に封ぜられた。自ら武帝の旧臣ではないのに、しばしば大功を立てたことをもって、自ら疑う心を抱いた。ちょうど司馬休之が討伐を受けて猜疑と恐れを抱いたのに乗じ、休之とともに北へ奔り、一家を挙げて後秦の姚氏のもとに入ったが、まもなく病没した。父の軌は一名を象歯といい、弓馬に巧みで、膂力は人に絶し、竟陵太守となり、父に従って姚氏のもとに入った。武帝が長安を平定すると、軌と休之は北へ奔って魏に入った。魏は軌を荊州刺史・襄陽公とし、長社に鎮した。孝武帝が襄陽に鎮したとき、軌は親しい者程整を遣わして書を奉り、帰順して誠意を示そうと図ったが、劉康祖と徐湛之の父を殺したため敢えて帰らなかった。文帝はたびたび招き入れ、司州刺史とすることを許した。
爽は若くして武芸があり、魏の太武帝はこれを知り、常に側近に置いた。軌が死ぬと、爽が代わって荊州刺史・襄陽公となり、長社に鎮した。粗暴で酒乱であり、しばしば過失があり、太武帝は怒って誅殺しようとした。爽は恐れ、密かに南朝への帰順を図った。次弟の秀は小字を天念といい、かなり策略があった。魏に仕えて軍功により中書郎となり、広陵侯に封ぜられた。ある者が太武帝に鄴の者が謀反を企てていると告げ、また秀を遣わして検察させ、併せて石季龍の残った宮殿を焼かせた。秀は常に駅馬で往復していたが、このとき病で帰還が遅れ、太武帝に詰問された。秀もまた恐懼した。太武帝がまもなく南征したとき、これに従って黄河を渡った。先に広平の人程天祚が殿中將軍となり、武力があった。元嘉二十七年、彭城の守備を助けたが、魏軍に捕らえられた。針術に巧みであったため、深く太武帝に賞愛され、南安公に封ぜられ、常に側近に置かれた。天祚は常に秀に南朝への帰順を勧め、秀はこれを受け入れた。太武帝が北還するとき、爽とともに来奔した。文帝は喜び、爽を司州刺史とし、秀を 滎陽 ・潁川二郡太守とした。この年は元嘉二十八年である。魏は彼らの墳墓を破壊した。翌年四月に朝見したとき、太武帝はすでに崩じており、上はさらに経略を謀った。五月、爽・秀および程天祚らを遣わして許・洛に出させた。王玄謨が碻磝を攻めて陥とせず、敗退したので、爽もまた兵を収めて南還した。三十年、元凶が逆 弑 すると、南譙王義宣が兵を起こして討伐に赴き、爽は雍州刺史臧質とともに江陵に詣でた。事が平定されると、爽を 豫 州刺史とし、 都督 を加えた。寿陽に至ると、早速に賓客に意を曲げ、士人に爵位を与え、武器を蓄え馬を集め、まるで賊が来襲するかのようであった。元凶が逆を為したとき、秀は建鄴にいた。元凶は秀に言った、「我は卿のために徐湛之を誅した、これから卿を任用する」と。秀を右將軍とし、新亭を攻撃させたが、秀はこれにより帰順した。孝武帝が即位すると、秀を司州刺史とし、 都督 を加え、汝南太守を領させた。
孝建元年二月、義宣と爽が謀反し、秋に挙兵を共にすると報じた。爽は酒乱で道理に背き、即日に兵を起こした。配下の者に黄標を戴かせ、建平元年と称し、密かに法服を造らせた。義宣と臧質は爽がすでに処置したと聞き、狼狽してともに反した。爽はそこで造らせた輿服を江陵に送り、義宣および臧質らに対する板文に言った、「丞相劉(今、天子の名を補う)義宣、車騎臧(今、丞相の名を補う)質、平西朱(今、車騎の名を補う)修之、皆板到りて奉行すべし」と。義宣は驚愕し、爽の送った法物はすべて竟陵県に留めて進めさせなかった。爽に歴陽から直ちに出撃し、自ら採石で軍を渡河させ、臧質と水陸ともに進軍するよう命じた。左軍將軍薛安都が爽と遭遇し、これを刺し殺し、首を建鄴に伝送した。進軍して寿陽を平定し、子弟はことごとく誅殺された。
薛安都
薛安都は、河東郡汾陰県の人である。代々強族であり、一族の姓は三千家あり、父の広は宗族の豪傑であった。宋の武帝が関中・河南を平定すると、上党太守とした。
安都は若くして勇名を聞こえ、身長は七尺八寸、弓馬に巧みであった。魏に仕えて軍功により雍州・秦州都統となった。元嘉二十一年に来奔し、北還して河・陝を扇動することを求めた。文帝はこれを許した。孝武帝が襄陽に鎮したとき、板を下して北弘農太守とした。魏軍が次第に強盛となったので、安都はついに襄陽に帰った。二十七年、随王誕が板を下して安都を建武將軍とし、柳元景に従って関中・陝地に向かわせ、歩騎を率いて先鋒となり、向かうところことごとく勝利した。後に孝武帝が逆臣を討伐したとき、安都は馬軍を領し、柳元景とともに出発した。孝武帝が践祚すると、右軍將軍に任じ、配下の騎兵を率いて前鋒となり、直ちに殿庭に突入した。功により南郷県男に封ぜられた。安都が初めて関中・陝地を征したとき、臼口に至り、天を仰ぎ見る夢を見て、天門が開くのを見た。左右の者に言った、「汝らは天門が開くのを見たか」と。この時に至って嘆息して言った、「夢に天門が開くとは、中興の兆しであろうか」と。
従弟の道生もまた軍功により大司馬参軍となったが、罪を犯し、秣陵令の庾淑之に鞭打たれた。安都は大いに怒り、即日に数十人を従えて馬に乗り、左右の者に矟を執らせ、淑之を殺しに行こうとした。朱雀航に至ったとき、柳元景に出会い、遠くから問うて言った、「薛公はどこへ行かれるのか」と。安都は馬を躍らせて車の後ろに至り、言った、「小僧の庾淑之が我が従弟を鞭打った、今まさに刺し殺しに行くところだ」と。元景はそれがよろしくないと考え、車を停めて欺いて言った、「小僧はよろしからぬことをした、卿が行って手向かいするのは甚だ快い」と。安都が馬を返した後、元景はまた呼び止めて馬から下りて車に入るよう命じ、そこで諫めて言った、「卿の従弟の服章や言論は寒門の細民と異ならない、しかも人が罪を犯せば、理の当然として罰を加えるべきである。卿は朝廷の勲臣であるのに、どうして放恣に振る舞い、勝手に都邑で人を殺そうとするのか。科律が許さぬばかりでなく、主上もまた宥す言葉を持たれまい」と。そこで車に乗せてともに帰り、安都はやめた。その年、剛直を憚られて官を免ぜられた。
孝建元年、左軍將軍に任ぜられた。魯爽が反乱したとき、安都と沈慶之を遣わして長江を渡らせた。安都は爽を見ると、馬を躍らせて大声で叫び、直ちに突進してこれを刺し、手に応じて倒れた。左右の範雙が爽の首を斬った。爽は代々梟猛で、皆が万人敵と言ったが、安都は単騎で直入してこれを斬って帰還したので、当時の人は皆、関羽が顔良を斬ったのに勝るとも劣らないと言った。爵位を侯に進めた。
時に王玄謨が梁山で南郡王義宣と臧質を防いでいたが、安都はまた騎兵を率いて支軍となった。義宣は将軍劉諶之と臧質を遣わして玄謨を攻撃させた。玄謨は諸軍に命じてこれを撃たせ、安都に騎兵を率いさせて賊陣の右側から出て横撃しこれを陥落させたので、賊はついに大いに潰走した。太子右衛率に転じた。
大明元年、魏軍が無塩に向かったので、安都に馬軍を率いさせ、東陽太守沈法系に水軍を統率させ、ともに徐州刺史申坦の節度を受けた。時に魏軍はすでに去っており、坦は軍を返して任榛を討つことを求めて許された。ちょうど天旱が続き、水泉が多く枯渇し、人馬が疲弊困憊して遠くまで追撃できなかった。安都と法系は白衣のまま職を領し、坦は尚方に拘禁された。任榛はおおよそ任城の界にあり、累代の逃亡反逆者が集まり、棘や榛が深く密生し、軍を用いることが難しく、故に長く自ら保ち隠れ、しばしば人々の患いとなった。
安都は翌年復職し、武昌県侯に改封された。景和元年、平北将軍・徐州刺史となり、 都督 を加えられた。
明帝が即位すると、安都は兵を挙げて晋安王劉子勛に同調した。当時、安都の従子の薛索児は都にいたが、明帝は彼を左軍将軍・直閤に任じた。安都が叛逆を企てると、彼に報せを遣わし、また人を瓜歩に遣わして迎えさせた。時に右衛将軍柳光世もまた安都と通謀しており、二人は共に逃げ、安都の諸子や家族を連れて北へ奔った。青州刺史沈文秀・冀州刺史崔道固は皆これに同反した。明帝は斉の高帝に前将軍張永らを率いて北討させ、到る所で敗走散乱し、薛索児を斬った。
時に武衛将軍王広之は軍を率いて劉勔に隷属し、寿陽の殷琰を攻めた。道固の部将傅霊越は広之の軍兵に捕らえられ、声を厲して言うには、「我は傅霊越なり。賊を得て何ぞ即ち殺さざる。」時に生け捕りにして劉勔のもとに送られると、勔は自ら慰労し、その叛逆を詰問した。対して言うには、「九州義を唱う、豈に独り我に在らんや。」勔また問う、「卿は何ぞ早く天闕に帰らず、乃ち草間に逃命するや。」霊越曰く、「薛公淮北に挙兵し、威天下を震わすも、智勇を専任せず、子侄に委付し、敗の由を致す、実に此に在り。人生は一死に帰す、実に面を求めて活くる無し。」勔その意を壮とし、建鄴に送還した。明帝は原宥を加えようとしたが、霊越の応対は一貫しており、終に回改せず、乃ちこれを殺した。霊越は清河の人である。
子勛が平定されると、安都は別駕従事史畢衆愛・下邳太守王煥らを遣わし、啓事を奏上して明帝のもとに帰順の意を示した。索児の死後、安都は柳光世に下邳を守らせていたが、この時もまた率いる所領を以て帰降した。帝は四方既に平らぎたるを以て、淮外に威を示さんと欲し、張永・沈攸之に重軍を以て安都を迎えさせた。安都は罪を免れぬことを懼れ、遂に魏に降った。
薛深は安都の従子である。本名は道深であったが、斉の高帝の偏諱を避けて改めた。安都が彭城を以て魏に降ると、親族は皆北に入った。高帝が淮陰を鎮守する時、深は遁れて来て、身を委ねて高帝に結びついた。果たして気力に富んでいた。宋の元徽の末、軍功により 驍 騎将軍・軍主に至り、竟陵侯に封ぜられた。
沈攸之の難に際し、斉の高帝が朝堂に入ると、 豫 章王蕭嶷が代わって東府を守り、深に軍を率いさせて 司徒 右府に屯し、建鄴の守備を分掌させた。 袁粲 が石頭を拠ると、 豫 章王嶷は夜に西門に登り遥かに深を呼び、深は驚いて起き、軍を率いて難に赴いた。高帝即位後、淮陰太守に除かれ、間もなく直閤将軍となり、転じて太子左率となった。武帝即位後、左衛将軍に遷った。隆昌元年、司州刺史・右将軍となり、卒した。
鄧琬
鄧琬は字を元琰といい、 豫 章郡南昌県の人である。父の胤之は、宋の孝武帝の征虜長史・光禄勲であった。
孝武帝が起義した初め、琬は南海太守であったが、弟の鄧瓊が臧質と共に叛逆したため遠流に処せられ、広州に留め置かれ、久しくしてようやく帰還を許された。丹陽丞を歴任した。大明七年、車駕が歴陽に行幸し、藩国時代の旧誼を追憶して、琬を抜擢して給事黄門侍郎とした。翌年、出て晋安王劉子勲の鎮軍長史・尋陽内史となり、江州の事務を行った。
前廃帝は文帝・孝武帝が共に第三子の順位から帝位に登ったことを思い、子勲の順位が同じであることに深く嫌疑を抱き、何邁の謀略に因り、乃ち使者を遣わし薬を賜って死を命じた。使者が到ると、子勲の典簽謝道遇・主帥潘欣之・侍書褚霊嗣らは馳せて琬に告げ、涙を流して計略を請うた。琬は言う、「身は南土の寒士、先帝の殊恩に蒙り、愛子を托された。死を以て報効すべし。」景和元年冬、子勲は戎服を着て庁事に出て旨を宣し、挙兵を欲したが、四座は未だ答えなかった。録事参軍陶亮が言う、「死を効して前駆たらんことを請う。」衆は皆旨を奉じた。
時に明帝が乱を定め、子勲の号を車騎将軍・開府儀同三司に進めた。令書が到ると、諸佐史は皆喜んで琬の許に赴き言う、「暴乱既に除かれ、殿下また黄閤を開く、実に公私の大慶なり。」琬は子勲の順位が三であること、また尋陽で事を起こしたことが孝武帝に符合することを以て、理として必ず万に克つと考えた。乃ち令書を取って地に投げつけ言う、「殿下は当に端門を開くべし、黄閤は吾が徒の事のみ。」衆は皆愕然とした。
琬は陶亮らと甲冑兵器を整え、四方に兵を徴した。 郢州 刺史安陸王劉子綏・荊州刺史臨海王劉子頊・会稽太守尋陽王劉子房・雍州刺史袁顗・梁州刺史柳元怙・益州刺史蕭恵開・広州刺史袁曇遠・徐州刺史薛安都・青州刺史沈文秀・冀州刺史崔道固・湘州行事何慧文・呉郡太守顧琛・呉興太守王曇生・晋陵太守袁標・義興太守劉延熙は皆これに同逆した。琬は乃ち桑尾に牙を建て、檄を伝えて建鄴に告げ、明帝を万戸侯に懸賞し、布絹二万匹、金銀五百斤とし、その他はそれぞれ差等を設けた。
明帝は荊州典簽邵宰を駅馬に乗せて江陵に還らせ、襄陽を経由させた。袁顗は書を馳せて琬に報じ、甲を解かぬよう勧め、併せて子勲に偽位に即くよう奉勧した。琬は乃ち符瑞を称説し、顧昭之に命じて『瑞命記』を撰述させた。乗輿や御服を造り、宗廟を立て、壇場を設け、崇憲太后の璽令を偽作し、群僚は子勲に偽号を上った。泰始二年正月七日、尋陽城で即位した。景和三年を改めて義嘉元年とした。その日は雲雨晦冥し、礼を行うに万歳を称するを忘れた。子勲の乗っていた車から脚を取り除いて輦とし、偽殿の西に置いたが、その夕方に鳩がその中に棲み、鴞がその幰に集まり、また禿鶖鳥が城上に集まった。安陸王劉子綏を 司徒 に拝したが、雷電晦冥に因り、その黄閤の柱を震わせ、鴟尾が地に堕ちた。また鴟がその帳上に棲んだ。
琬の性質は鄙陋で暗愚、貪婪吝嗇甚だしく、財貨酒食は皆自ら量り検分した。この時に至り父子共に官爵を売り、婢僕を出して市道で販売させ、酣歌博弈に日夜休まなかった。賓客が門に到っても、十数日経っても前に進めなかった。内事は悉く褚霊嗣ら三人に委ね、群小が競って威福を振るい、士庶は忿怨し、内外離心した。
明帝は領軍将軍王玄謨に水軍を率いさせて南討させ、呉興太守張永を後継とした。尚書より符を下す、「詔を奉じて四王幼弱、不幸にして難に陥る、兵交の日、妄りに侵犯を加うるを得ず。若し逼損有らば、誅翦して貸さず。」
鄧琬は孫沖之らに先鋒一万を派遣して赭圻を占拠させた。沖之は途中で劉子勛に書簡を送り、流れに沿って帆を掲げて直ちに白下を攻め取り、速やかに陶亮の諸軍を派遣して連携し、新亭を分かち占拠するよう請うた。陶亮はもともと才略がなく、建安王劉休仁が上流から、殷孝祖もまた到着したと聞き、進軍を敢えてしなかった。やがて孝祖が流れ矢に当たって死ぬと、沈攸之が代わって前鋒となった。沖之は陶亮に言った、「孝祖は梟将であったが、一戦で死んだ。天下の事は定まった。再び戦う必要はない。直ちに京都を攻め取るべきである」。亮は従わなかった。
明帝は員外散騎侍郎の王道隆を赭圻に派遣して戦闘を督戦させた。諸軍は奮撃し、大いにこれを破った。鄧琬はまた 豫 州刺史の劉胡を派遣して鵲尾に駐屯させた。劉胡は宿将であり、攸之らは甚だこれを畏れた。劉胡の同郷である蔡那・佼長生・張敬児はそれぞれ軍を率いて攸之に隷属し赭圻にいた。劉胡はそこで那らを招いて共に語らおうとした。那らは帰順するよう説得した。劉胡は軍を返して鵲尾に入り、他に権謀も才略もなかった。
建安王劉休仁は武檻から進軍して赭圻を占拠した。当時、劉胡らの兵は衆多く強盛であり、遠近の人々は疑惑を抱いた。明帝は人心を慰撫しようとし、吏部尚書の褚彦回を武檻に派遣し、将帥以下の者を選抜任用させた。申謙と杜幼文はこれにより黄門侍郎を求め、沈懐明と劉亮は中書侍郎を求めた。建安王劉休仁はすぐに彦回に選任を命じたが、上(明帝)は許さず、言った、「忠臣は国に殉じ、その報いを謀らず、難に臨んで朝廷の典章を干犯するのは、臣下の節操と言えようか」。
沈攸之らと劉胡は持久戦を続けて決着がつかず、上はまた強弩将軍の任農夫らに兵を率いて続いて到着させた。攸之は船艦を修理したが、板材が足りず、どうしようもなかった。ちょうどその時、鄧琬が劉胡の軍用に五千枚の板を送ってきた。間もなく風潮が奔流のように速くなり、板が柵を突き破って江に流れ出た。劉胡らは力を尽くしても制御できず、流れに乗って下り、攸之らの営に漂着した。これにより材板は大いに足りた。
鄧琬は袁顗を 都督 征討諸軍事に進め、楼船千艘を率いて鵲尾に入らせた。張興世は、鵲尾を越えて上流の銭渓を占拠し、その糧道を断つことを献策した。劉胡は累次攻撃したが勝てず、そこで龍驤将軍の陳慶に三百艘の船で銭渓に向かわせ、戦う必要はないと戒めた。陳慶は銭渓に着いても攻撃を敢えず、渓を越えて梅根に砦を築いた。劉胡は別に将の王起に百艘の船を率いて興世を攻撃させたが、撃破されて大敗した。劉胡は残りの船を率いて急ぎ戻った。袁顗はさらに劉胡に興世を攻撃させた。劉休仁はこれにより沈攸之・呉喜・佼長生・劉霊遺・劉伯符らに命じて濃湖を攻撃させ、皮艦千乗を造り、その営柵を抜き、一日中苦戦して大いにこれを破った。袁顗は攻撃が急であると、急使を走らせて劉胡を呼び戻させた。張興世が既に銭渓を占拠したため、江の水路は遮断され、劉胡軍は食糧に乏しくなった。鄧琬は大量の物資と食糧を送ったが、興世を恐れて下流に下れなかった。劉胡は将を派遣して迎えさせたが、銭渓で破られ、夜に逃げて直ちに梅根に向かった。袁顗は劉胡が逃げたと聞き、また衆を棄てて西に奔り、青林で殺害された。
鄧琬は慌てふためき計略がなかった。その時、張悦は兄の子の張浩の喪を発したばかりであったが、そこで病気と称して鄧琬を呼び出し事を計り、左右の者に甲冑を着けて潜ませておき、酒を求めると言ったら出てくるよう命じた。鄧琬が到着し、晋安王(劉子勛)を斬り、府庫を封じて罪に謝することを謀った。悦は言った、「殿下を売って生き延びようとするのか」。そこで酒を求めると呼び、二度呼んだが、左右の者は震え上がって応じられなかった。第二子の張詢が刀を提げて出てきて、他の者も続いて到着し、即座に鄧琬を斬った。張悦は鄧琬の首を持参して建安王劉休仁のもとに赴き降伏した。蔡那の子の道深は、父が明帝に尽力したため作部に繋がれていたが、乱に乗じて鎖を脱して城に入り、劉子勛を捕らえて囚禁した。
沈攸之の諸軍が江州に到着し、桑尾の牙門の下で劉子勛を斬り、その首を建鄴に伝送した。劉胡は沔水に逃げ込んだ。竟陵郡丞の陳懐直(陳憲の子)が道を断ってこれを迎え撃った。劉胡の人馬は既に疲弊困憊しており、懐直について城に入り、渇いたと言って酒を得た。酒を飲み終えると、佩刀を抜いて自ら刺したが死にきれず、首を斬られて建鄴に送られた。張興世の弟の僧彦が懐直を追撃して殺し、劉胡の首を奪い、その功績を窃取した。
荊州では濃湖が平定されたと聞き、さらに劉子頊を奉じて益州に奔り蕭恵開に就くことを議した。典簽の阮道預と邵宰は同意せず、言った、「たとえ西に行こうとしても、どうして到着できようか」。使者を派遣して罪に帰した。荊州の中従事の宗景と土人の姚儉らが兵を率いて城に入り、劉子頊を捕らえて降伏させた。
劉胡は、南陽郡涅陽県の人である。もともと顔が窪んで黒く胡人のようであったため、名を坳胡とし、成長して単に胡と名乗った。郡の将軍の出身で、次第に隊主となった。諸蛮を討伐し、赴くところ勝利しないことはなかった。蛮族は甚だこれを畏れた。明帝が即位すると、越騎 校尉 に任じられた。蛮族は彼を恐れ、小児が泣くと、「劉胡が来た」と言えば止んだ。
宗越
宗越は、南陽郡葉県の人である。本来は南陽の次門であった。安北将軍の趙倫之が襄陽に鎮すると、襄陽には雑姓が多く、宗越はさらに退けられて役門とされた。郡の役人に補せられた。父が蛮族に殺されたため、越は市中で仇敵を刺殺した。太守の夏侯穆はその志を嘉し、隊主に抜擢した。蛮族で寇盗を行う者がいると、常に越に討伐させ、赴けば功績があった。家が貧しく馬を買うことができず、刀と楯を持って歩き出て、単身で戦いに突入し、衆もこれを当てられなかった。一勝するごとに、郡将は五千銭を賞与し、これによって馬を買うことができた。元嘉二十四年、文帝に上奏して次門に復することを求め、戸籍を冠軍県に移すことを許された。二十七年、柳元景に従って北魏に侵攻し、馬幢を率いて柳元怙に隷属し戦功があり、帰還して後軍参軍督護に補せられた。随王劉誕が戯れて言った、「お前は何者で、我が府の四字(参軍督護)を得たのか」。越は答えて言った、「仏狸(北魏太武帝)が死なない限り、諮議参軍が得られないと憂えることはありません」。誕は大笑いした。
孝武帝が即位すると、江夏王劉義恭の大司馬行参軍・済陽太守に任じられた。臧質と魯爽が反乱を起こし、朝廷が討伐に及ぶと、越の戦功が最も多かった。追撃して江陵まで至った。当時、荊州刺史の朱修之はまだ到着しておらず、越は多くを誅殺し、また南郡王劉義宣の子女を強引に略奪したため、官を免ぜられ尚方に繋がれたが、まもなく赦された。以前の功績を追論して、范陽県子に封ぜられた。
大明三年、長水 校尉 となった。竟陵王劉誕が広陵に拠って反乱を起こすと、越は馬軍を率いて沈慶之に隷属し劉誕を攻撃した。城が陥落すると、孝武帝は城内の男子を皆殺しにするよう命じた。越は旨を受けて誅殺を行い、自らその事に臨み、まず鞭打ちを加えずにはおらず、あるいはその顔を鞭打つ者もあり、欣欣然として何かを得たかのようであり、合わせて数千人を殺した。始安県子に改封された。
前廃帝の景和元年、侯に爵位を進められ、遊撃将軍・直閤に召され、南済陰太守を領し、後に南東海太守を領するよう改められた。帝は凶暴で道に外れていたが、宗越・譚金・童太一は共にこれに用命し、群公や何邁らを誅戮するに、心を尽くし力を竭くさず、故に帝はその爪牙を頼りとして、忌憚することがなかった。越らに美女や金帛を賜い、その家に満ちあふれた。越らは武人で粗暴剛強であり、識見は遠く及ばず、一途の意気に感じて、皆再び二心を抱くことはなかった。帝が南巡した時、明朝に出発することとなったが、その夕方に越らを皆外泊することを許した。明帝はこれによって乱を定めた。明朝に越らが共に入ると、手厚く慰撫された。越は南済陰太守を領するよう改められ、本来の官職はそのままだった。
越らは既に廃帝に心を尽くしていたため、明帝が自分たちを容れられないのではないかと慮った。上(明帝)の接待は厚かったが、内心は皆恐れを抱いていた。上もまた彼らを中央に置くことを望まず、平然として言った、「卿らは暴虐な朝に遭い、長く労苦してきた。兵馬を擁する大郡を、卿らが選ぶに任せる」。越らはもともと自ら疑っており、この旨を聞くと、皆顔を見合わせて色を失った。そこで乱を起こそうと謀り、沈攸之に告げた。攸之は詳細に帝に報告し、即日に獄に下されて死んだ。
宗越は陣営を設けるのが巧みで、数万の兵が駐屯する際には、自ら馬に乗って先を行き、兵士にその後を従わせ、馬が止まると同時に陣営が整い、乱れることがなかった。また沈攸之が殷孝祖に代わって南征の先鋒となった時、孝祖が新たに死んだばかりで、兵士の心は皆恐れていた。攸之は嘆息して言った、「宗公は惜しい人であった、それゆえに人に勝る点があったのだ」と。しかし性格は厳しく残酷で、刑罰や誅殺を行うことを好み、当時王玄謨も部下を統御するのに恩情が薄かったため、将士たちは彼らのことを言って、「五年の徒刑に服する方がましだ、王玄謨に従うよりは。玄謨ならまだしも、宗越は我々を殺す」と言った。
譚金は北魏にいた時、薛安都と旧知の間柄であり、後に新野に出て牛門村に住んだ。安都が帰国すると、金は常に征討に従軍し、安都を補佐して堅陣を突破し、気力は人並み外れていた。孝建三年、屯騎 校尉 ・直閤となり、南清河太守を兼任した。景和元年、前廃帝が諸公卿を誅殺した際、金らは皆そのために用いられ、金は平都県男に封ぜられ、童太一は宜陽県男に、沈攸之は東興県男に封ぜられた。
越州の郷里にはまた武念・佼長生・曹欣之・蔡那がおり、皆将帥として顕れた。武念は位は南陽太守に至り、長生は寧蛮 校尉 、曹欣之は 驍 騎将軍となった。蔡那については子の道恭の伝に見える。
呉喜
呉喜は、呉興郡臨安県の人である。本名は喜公であったが、明帝が喜と減字した。出身は領軍府の白衣の吏であった。若くして書物を知り、領軍将軍沈演之が起居注を書写させたところ、書き終わると、暗誦してほぼ全てをそらんじた。演之がかつて譲位の上表文を作ったが、奏上する前に原本を失い、喜は一度見ただけで書き写し、漏れ脱けがなかった。演之は彼を大いに認めた。これによって史記・漢書に涉猟し、古今の事に通じるようになった。演之の門生の朱重人が主書として入朝し、喜を主書吏に推薦し、さらに主図令史に進んだ。文帝がかつて図書を求められた時、喜は巻物を開いて逆さまに差し出したため、帝は怒って追い出させた。ちょうど太子歩兵 校尉 沈慶之が蛮族征討に向かい、文帝に喜を従軍させるよう請うたので、孝武帝に知られることとなった。次第に昇進して河東太守・殿中御史となった。
明帝が即位すると、四方で反乱が起こり、喜は精兵三百を得て東で死力を尽くすことを請うた。帝は大いに喜び、直ちに建武将軍の仮号を与え、羽林の勇士を選んで配属させた。議論する者は喜が刀筆の吏であり、かつて将となったことがないので派遣すべきでないと言った。中書舎人巢尚之が言うには、「喜は沈慶之に従って累次軍旅を経ており、性格は勇猛果断である上に戦陣にも習熟している。もし任せれば、必ず成果を上げるだろう」と。喜はそこで東征した。
喜は孝武帝の世から既に用いられており、性格は寛厚で、赴任する先々で人々に慕われた。東征の際、百姓が呉河東(呉喜)が来ると聞くと、風の便りに降伏し散り散りになったので、喜の赴くところ勝利を収めた。歩兵 校尉 に転じ、竟陵県侯に封ぜられた。
東土が平定されると、また配下の兵を率いて南征し、尋陽太守に転じた。泰始四年、東興県侯に改封され、右軍将軍・淮陽太守に任ぜられ、太子左衛率を兼任した。五年、 驍 騎将軍に転じ、太守・兼任の率はもとのままとした。その年、荊亭で魏軍を大破した。六年、また軍を率いて 豫 州に向かい魏軍を防ぎ、 都督 豫 州諸軍事を加えられた。翌年、建鄴に戻った。
初め、喜が東征した時、明帝に尋陽王の子房及び諸賊の将帥を得次第、東で梟首すると言上した。東土が平定されると、喜は南方の賊が盛んであるのを見て、後日に翻覆して禍を受けることを憂い、生きたまま子房を都に送り返した。凡そ大勢の主帥顧琛・王曇生の徒は皆命を全うさせられた。上(明帝)は喜が新たに大功を立てたので問わなかったが、心に恨みを抱いた。荊州を平定した時、恣意に略奪し、贓物私物は万を数えた。またかつて客に対して漢の高祖・魏の武帝は本来どのような人かと語った。上はこれを聞いてますます快く思わなかった。後に寿寂之が死ぬと、喜は内心恐れ、中散大夫を乞うた。上は特に彼を疑った。上に病気が起こり、身後のことを慮り、彼が将来幼主に仕えられないと疑い、死を賜うた。上は内殿に召し入れ、談笑し応接して甚だ懇ろにし、名高い料理と金銀の御器を賜った。命を奉ずる者に、食器を喜の家に一晩置かせぬよう命じた。上は元来禁忌が多く、食器が凶禍の室に留まるのを望まなかったからである。喜が死ぬと、詔を発して賻贈し、子の徽人が爵を襲った。
黄回
黄回は、竟陵郡の軍人である。出身は郡府の雑使に充てられ、次第に伝教となった。臧質が郡守となると、転じて斎帥となった。質が職を去る時、回を従者とした。質が元凶(劉劭)を討った時、回は従軍して功があり、軍戸の身分を免ぜられた。後に質に従って梁山で敗走し、捕らえられたが、赦令に遇い、都に下った。宣陽門で人と殴り合いをし、江夏王義恭の馬客と詐称し、鞭二百を打たれ、右尚方に付された。ちょうど中書舎人戴明宝が囚われ、回が戸伯に任ぜられた。明宝に奉事し、心を尽くし力を尽くしたので、明宝は間もなく赦されて釈放され、以前のように委任され、回を免じて随身隊統を領させ、邸宅及び江西の別荘の事を管掌させた。性質は巧妙で、触れる類い多く能くし、明宝は甚だ寵愛信任した。
回は拳術に敏捷で果断剛勁、勇力は人並み外れており、江西で諸々の楚子(楚地方の者)と結び、屡々強盗を働いた。ちょうど明帝が即位したばかりで、四方が反逆したので、明宝は帝に上奏して回に江西の楚人を募集させ、敏捷な者八百を得て、劉勔に隷属させ西征させた。累進して将校に至り、功により葛陽県男に封ぜられた。
元徽初年、桂陽王休範が叛逆すると、回は屯騎 校尉 として軍を率いて斉の高帝に隷属し、新亭で偽って降伏する計略を立てた。回は休範に乗ずべき機会があるのを見て、張敬児に言った、「卿は彼を取ることができる、私は諸王を殺さぬと誓う」と。敬児は即日に休範を斬った。事が平定されると、侯に爵を進められ、聞喜県に改封された。
四年、冠軍将軍・南琅邪・済陽二郡太守に転じた。建平王景素が反逆すると、回はまた軍を率いて先鋒として討伐した。城が平定された日、回の軍が先に入城した。また景素を張倪奴に譲った。翌年、右衛将軍に転じた。沈攸之が反逆すると、回を平西将軍・郢州刺史とし、軍勢を率いて新亭から出て先鋒となったが、出発せずに 袁粲 が石頭に拠り、斉の高帝に従わなかった。回は新亭の諸将任候伯・彭文之・王宜興らと謀り、粲に応じ、朝堂で高帝を攻めようとした。事は成就しなかったが、高帝は以前のように慰撫した。回は宜興と元来不仲であり、彼を斬った。
宜興は、呉興の人である。体つきは短小ながら果断剛勁で胆力があり、少年の時は強盗を働くのに伴を必要とせず、郡県が追討し、数十重に包囲しても、ついに捕らえることができなかった。かつて刀と楯を舞わせると、回が十余人に水を交互に掛けさせても、一滴もつかなかった。明帝の泰始年間に将軍となり、寿陽付近で魏と戦い、常に少をもって多を制し、身を挺して深く入り込んだ。建平王景素を平定した功により、長寿県男に封ぜられた。この時は屯騎 校尉 であり、殺害された。
回は軍を進めて未だ郢州に至らざるうちに、沈攸之は敗走した。回は郢州に留まることを好まず、固く南兗を求め、遂に部曲を率いて直ちに還り、安陸郡公に改封され、南兗州刺史に転じ、 都督 を加えられた。
斉の高帝は回が専殺し、終に己に附かざるを以て、乃ち之を召すことを使わした。車に上るに及び、愛妾は赤光が其の頭より足に冠するを見て、苦しく止めて肯んじて留まらざりき。誅せらるるに至りて見る。
回は貴くなるや、戴明宝を祗事すること甚だ謹みたり。言うには必ず自ら名乗り、未だ嘗て敢えて坐せず、躬から帳下に至り及び内に入りて有無を料検し、乏に随って供送し、此を以て常と為せり。
回と同時に将と為る者に南郡の高道慶あり、凶険暴横にして、求むる所の欲は已むこと無く、其の意に失する者有らば、輒ち捶拉を加え、往々にして死する者有り。朝廷は之を畏ること虎狼の如し。斉の高帝は 袁粲 等と議し、収めて廷尉に付して賜死せしむ。
論ずるに曰く、凶人の其の身業を済すは、世乱れざれば其の由る莫きか。魯爽は乱世の請を以て之を行いて平日に於いて、其の敗を取るや宜なるかな。安都は自ら奔亡を致す、亦た幸いと為すべし。鄧琬は乱を以て乱を済し、終に顛隕を致す。宗越は釁稔悪盈み、旋って夷戮に至る、各其の職なり。呉喜は定乱の功を以て、労未だ酬いられずして禍集まり、黄回は順を助くるの志を以て、福未だ験せられずして災生ず、唯だ命なるかな。