南史 巻三十九より巻四十

南史

巻三十九より巻四十

列伝第二十九

殷孝祖 劉勔

孝祖は幼少より節操に欠け、酒色を好み、気力と体幹を有した。宋の孝武帝の時、軍功により積射将軍に至る。前廃帝の景和元年、兗州刺史となる。

明帝が初めて即位すると、四方が反逆し、孝祖の甥の 司徒 しと 参軍潁川の荀僧韶が建議し、命を奉じて孝祖を征し朝廷に入らせることを求め、上は彼を派遣した。時に徐州刺史薛安都が薛索児らを遣わして津径に屯して占拠していたが、僧韶は間道を行き到着し、孝祖を説いて言うには、「景和は凶暴狂乱、開闢以来未だ有らず、朝野憂危、命は漏刻を仮す。主上は曾て浹辰を経ずして、凶を夷し暴を翦く。国乱れ朝危うし、宜しく長主を立てるべし、公卿百辟、人として異議無し。然るに群迷相扇ぎ、無端を構造し、利に貪り幼弱を利し、競って希幸を懐く。舅は少より立功の志有り、長じて気節を以て名を成す、若し能く済・河の義勇を控え、還って朝廷に奉ぜば、唯だ主を匡え乱を静めるのみならず、乃ち竹帛に名を垂るることを得べし」。孝祖は即日妻子を棄て、文武二千人を率いて僧韶に随い還都す。時に普天同逆し、朝廷は唯だ丹陽一郡を保つのみ。孝祖忽ち至る、衆力少なからず、人情ここに於いて大いに安んず。孝祖の号を冠軍将軍・仮節・前鋒諸軍事の 都督 ととく に進む。禦仗先に諸葛亮の筒袖鎧・鉄帽有り、二十五石の弩も之を射て入ること能わず、上悉く以て孝祖に賜う。孝祖は其の誠節を負い、諸将を陵轢す。時に賊は赭圻に拠る、孝祖将に之を進攻せんとし、大将王玄謨と別るるに、悲しみ自ら勝えず、衆並びに駭怪す。

泰始二年三月三日、賊と合戦す。毎たび戦うに、常に鼓蓋を以て自ら随う。軍中の人の相謂いて曰く、「殷統軍は死将と謂うべし。今賊と交鋒するに、羽儀を以て自ら標顕す。若し射者十手攢射せば、斃れざらんと欲するも得んや」。是の日流矢に中りて死す。建安県侯を追贈し、諡して忠と曰う。

族子 琰

琰は字を敬珉といい、孝祖の族子なり。父は道鸞、宋の衡陽王義季の右軍長史。

琰は少くより文帝に知られ、遇は琅邪王景文と相埒す。前廃帝の永光元年、累遷して黄門侍郎となる。出でて山陽王休佑の右軍長史・南梁郡太守となる。休佑が入朝するや、琰乃ち府州事を行ふ。明帝の泰始元年、休佑を荊州と為すに会い、晋安王子勲反す。即ち琰を 州刺史と為す。土人の前右軍参軍杜叔宝等並びに琰を勧めて同逆せしむ。琰は素より部曲無く、自立するに以る無く、叔宝に制せらる。二年正月、帝は輔国将軍劉勔を遣わして西に之を討たしめ、長囲を築き、攻道を東南角に創め、並びに大蝦蟇車を作りて土を載せ、牛皮を以て之を蒙り、三百人推して以て塹を塞ぐ。十二月、琰乃ち始めて降る。時に琰疾有り、板を以て自ら輿す。諸将帥面縛して罪を請う。勔並びに撫宥し、誅戮する所無し。後に少府を除き、給事中を加え、官に卒す。

琰の性は和雅静素にして、嗜欲寡く、前世の旧事に諳んず。兄に事うること甚だ謹み、少より名行を以て称せらる。寿陽に在りて攻囲を被ること積時、城内に懐附せらる。揚州刺史王景文・征西将軍蔡興宗・ 司空 しくう 褚彦回並びに相与に友善す。

劉勔は字を伯猷といい、彭城安上里の人なり。祖は懐義、父は穎之、位並びに郡守。

勔は少より志節有り、兼ねて文義を好む。家貧しく、宋に仕え、初め広州増城令と為り、稍く遷りて郁林太守となる。大明初年都に還り、徐州刺史劉道隆請うて甯朔司馬と為す。竟陵王誕が広陵に拠りて逆を為すや、勔は道隆に随い沈慶之の節度を受く。事平らぎ、金城県五等侯に封ぜられ、西陽王子尚の撫軍参軍を除かれ、直閤に入る。先に、費沈が陳檀を伐つも克たず、乃ち勔を龍驤将軍・西江督護・郁林太守と除く。勔既に至り、宜に随い翦定し、大いに名馬を致し、並びに珊瑚連理樹を献ず。上甚だ悦ぶ。前廃帝即位し、屯騎 校尉 こうい と為り、又直閤に入る。

明帝即位し、江州刺史晋安王子勲が逆を為すや、四方応ず。勔は本官を以て建平王景素の輔国司馬を領し、進みて梁山に拠る。会うに 州刺史殷琰の反叛に召され、勔を還都せしめ、復た山陽王休佑の驃騎司馬を兼ねて討伐を致す。時に琰は城を嬰ねて固守し、始春より末冬に至るまで、勔は内に攻め外に禦ぎ、戦うに捷からざる無し。将帥を撫するに善く、寛厚を以て衆の依る所と為る。将軍王広之が勔の自ら乗る馬を求む。諸将並びに広之の貪冒を忿り、勔を勧めて法を以て之を裁せしむ。勔歓笑し、即ち馬を解きて広之に与う。琰の降を請うに及び、勔は三軍に約令して妄動することを得ざらしむ。城内の士庶感悦し、咸に来蘇と曰う。

還都し、太子右衛率を拝し、鄱陽県侯に封ぜられ、右衛将軍に遷り、 州刺史を行い、 都督 ととく を加う。後に徴されて 散騎常侍 さんきじょうじ ・中領軍を拝す。勔は世路の糾紛を以て、止足を懐く有り、鍾嶺の南に経始し、以て棲息と為す。石を聚め水を蓄え、髣髴として丘中の如し。朝士の雅素なる者多く往きて之に遊ぶ。

明帝が臨終に際し、遺命として尚書右僕射・中領軍を守らせた。廃帝が即位すると、兵五百人を加増した。元徽の初め、月が右執法を犯し、太白が上将を犯したので、ある者が劉勔に解職を勧めた。劉勔は言った、「我が心を執り行い己れを行うこと、幽明に愧じるところなし。若し才軽くして任重ければ、災い必ず及ぶ。天道は密微にして、避くれば豈に免れんや」。桂陽王休範が乱を起こし、たちまち建鄴に至ったので、劉勔に使持節・鎮軍将軍を加え、佐官を置き、石頭を鎮守せしめた。やがて賊の軍勢が朱雀航の南に屯し、右軍将軍王道隆が宿衛を率いて朱雀に向かった。賊が既に至ったと聞き、急ぎ信使を遣わして劉勔を召したが、劉勔は戦いに敗れて死んだ。事が平定されると、 司空 しくう を追贈され、諡して忠昭公といった。子に劉悛。

子の劉悛。

劉悛は字を士操といい、父に従って広陵で竟陵王誕を征討し、功により駙馬都尉に拝された。後に桂陽王の征北中兵参軍となり、斉の武帝と共に殿内に直し、共に宋の明帝に親しく遇せられ、これにより武帝と親しく交わった。

劉悛は本名を忱といったが、宋の明帝は忌み嫌うことが多く、「劉忱」の反語が「臨讎」となるため、名を悛と改めたのである。

斉の武帝がかつて劉悛の宅に行った時、昼寝から覚めると、劉悛自ら金の澡罐を捧げて四升の水を受け、それで盥ぎ、それを帝に与えた。前後に納めたものはこれに称していた。

後に安遠護軍・武陵内史に遷った。郡の南の古い江堤は久しく廃されていたが、劉悛が修復を終えぬうちに、江水が突然到来し、百姓は役務を棄てて奔走した。劉悛が自ら率いて励ましたので、ここに堤は完成した。漢寿の人邵栄興は六世同居しており、劉悛はその門閭を表彰した。劉悛は強力で事を成し、世の調和を有し、流俗に巧みであった。蛮王の田僮は山中に居り、年齢百余歳に垂んとしていた。南譙王義宣が荊州であった時、田僮は出て謁し、この時また劉悛に謁した。明帝が崩御すると、表を上って奔赴を求めた。詔勅により郡を帯びて還都し、官吏・民人が送る者数千万人に及んだ。劉悛は人々と手を執り、涙を流して泣いたので、百姓はこれに感じ、贈り物は甚だ厚かった。

桂陽王の難に際し、甯朔将軍を加えられ、石頭の守備を助けた。父の劉勔が大航で戦死した時、劉悛は時に病にかかり、地を這って路傍に至り、号哭して劉勔の屍を求めた。劉勔の屍は頂の後に傷欠があり、劉悛は髪を切り取ってこれを補った。墓の側で喪に服し、冬でも綿入れを着なかった。斉の高帝が劉勔に代わって領軍となったが、平素より劉勔と善くし、手紙で劉悛を諭し、殷勤に慰めた。

建平王景素が反逆すると、高帝が衆を総べた。劉悛は喪が明けたばかりで、高帝は劉悛と弟の劉愃を召して省に入れ、支軍を率いさせようとした。会って見ると皆やつれて容貌が変わっていたので、止めた。霸業が初めて建てられた時、劉悛は先んじて誠節を致し、沈攸之の事が起こると、輔国将軍を加えられた。後に広州刺史となり、鄱陽県侯の爵を襲った。武帝が尋陽から還る時、劉悛に遇い、歓宴して旧を叙し、十余日留まってから下った。文恵太子及び竟陵王子良に、衣履を整えさせ、父の友に対する礼敬を備えさせた。

斉が禅譲を受けると、封国は除かれた。平西記室参軍夏侯恭叔が上書し、柳元景は中興の功臣であり、劉勔は王事に殞身したので、封爵を存続すべきであるとした。詔して、運命の隆替と共にあるもので、再び意を措くことは許されない、とした。初め、蒼梧王が廃された時、高帝が中華門に集議し、劉悛を見て言った、「君は昨日直していたか」。劉悛は言った、「僕は昨日正しく直しておりましたが、急務は外にありました」。この時、上は劉悛に言った、「功名の際、人の忘れざる所なり。卿は昔、中華門で我に答えたが、何ぞそれ世事に謝せんと欲するや」。劉悛は言った、「臣は世々宋の恩を受け、門は斉の眷顧を荷っております。非常の勲は、臣の及ぶ所にあらず。敢えて実を以て仰ぎ答えざらんや」。

太子中庶子に遷り、越騎 校尉 こうい を領した。時に武帝が東宮におり、しばしば劉悛の邸を訪れ、閑談して夕方に至り、屏風帷帳を賜った。武帝が即位すると、前軍将軍を領するよう改めた。後に司州刺史に拝された。劉悛の父劉勔が殷琰を討ち、寿陽を平定した時、何ら犯害することがなく、百姓はその徳を感じ、罍樽・銅豆・鍾を各二口造って献じた。

長兼侍中に遷った。車駕はしばしば劉悛の宅に行幸した。宅は山池を盛大に修め、甕の窓を造った。武帝は鹿皮の冠を着け、劉悛の菟皮の衾を披き、窓の中で宴楽した。冠を劉悛に賜り、夜になってから去った。後に車駕に従って蒋山に登り、上は幾度か歎じて言った、「貧賤の交わりは忘るべからず、糟糠の妻は堂より下さず」。顧みて劉悛に言った、「この譬えは卿である。世に言う、富貴はその素情を改め易しと。我れ四海を有すと雖も、今日卿と布衣の適を尽くさん」。劉悛は起ち上がり拝して謝した。累遷して始興王前軍長史・平蛮 校尉 こうい ・蜀郡太守となり、益州府州事を行った。

初め、高帝が政を輔けた時、銭を鋳造しようとする意があり、禅譲の際であったため、施行に及ばなかった。

建元四年、奉朝請の孔覬が銭鋳造と貨物均等に関する議を上奏し、その言辞と証拠は甚だ博く、その要略は次のように考えた。食と貨は相通じ、理勢自然である。李悝が言う、「糴が甚だ貴ければ人を傷つけ、甚だ賤ければ農を傷つける。人を傷つければ離散し、農を傷つければ国は貧する。甚だ賤いことと甚だ貴いこと、その傷つけることは一なり」。三呉は国の関奥であり、毎年水害を受けているのに、糴が貴くならないのは、天下の銭が少ないのであって、穀物が豊かで賤いのではない。これは察せざるべからざるである。銭鋳造の弊は、軽重が屡々変わることにある。重銭は用い難いことを患え、用い難いことが軽銭の累となる。軽銭の弊は盗鋳にあり、盗鋳が禍を深くする。人が盗鋳することを厳法でも禁じられないのは、上で銭を鋳造する時に銅を惜しみ工を愛するからである。銅を惜しみ工を愛するとは、銭は無用の器であって、交易を通じさせるため、努めて軽くして数を多くし、工を省きて成り易くせんとし、その患いを詳らかに慮らないことである。

漢が五銖銭を鋳造してから宋の文帝に至るまで、五百余年を経て、制度は世ごとに興廃があったが、五銖銭を変えなかったのは、その軽重が法とすべきであり、貨物の宜を得ていることを明らかにしたのである。泉府を開置し、方牧に金を貢させ、大いに鎔鑄を興すべきであると考える。銭の重さは五銖とし、全て漢の法に依る。若し官鑄の銭が既に人に布かれれば、直ちに翦鑿を厳しく断ち、軽小で破缺し周郭の無いものは、全て行わせてはならない。官銭で細小なものは、銖両を称して合わせ、熔かして大銭とする。貧しい良民に利し、奸巧の路を塞ぐ。銭貨が既に均しくなれば、遠近一つ若く、百姓は業を楽しみ、市道に争い無く、衣食は滋え殖えるであろう。時の議論は多く、銭貨が軽く転ずることが少ないので、更に広く鋳造し、その銖両を重くして、人の奸を防ぐべきであるとした。高帝は諸州郡に大いに銅炭を買わせたが、晏駕に会い事は止んだ。

永明八年、劉悛は武帝に啓上して言った、「南広郡の界、蒙山の下に城あり、名を蒙城といい、二頃ほどの地で、焼炉四所があり、高さ一丈、広さ一丈五尺である。蒙城から水を渡って南へ百余歩、平地に土を掘ること深さ二尺で、銅を得る。また古い銅掘りの坑があり深さ二丈で、併せて居宅の跡が尚存する。鄧通は南安の人で、漢の文帝は鄧通に厳道県の銅山を賜って銭を鋳造させた。今、蒙山は近く青衣水の南にあり、青衣の左側は全て故秦の厳道の地である。青衣県は、文帝が漢嘉と改名した。且つ蒙山は南安から二百里で、これを案ずるに、必ずや鄧通の鋳造した所であろう。近頃、蒙山の獠を呼び出して聞くと、『甚だ経略すべし』と言う。この議が立てば、潤利は極まり無い」。併せて蒙山の銅一片、また銅石一片、平州の鑄鉄刀一口を献上した。上はこれに従った。使者を蜀に入れて銭を鋳造させ、千余万を得たが、功費が多いので止めた。

劉悛は引き続き始興王蕭鑒に代わって益州刺史となり、益・寧二州諸軍事を監督した。劉悛は既に旧恩を らい みとし、特に権貴に迎合することができ、賓客や閨房の供応費用は奢侈で広大であった。広州・司州の任を解かれると、資産を傾けて貢献し、家に留め置く蓄えは無かった。蜀では金の浴盆を作り、その他の金物もこれに相応するものであった。任を解かれて本号のまま都に戻り、これを献上しようとしたが、武帝が崩御した。郁林王が新たに即位すると、劉悛の奉献は減少した。郁林王はこれを知り、有司に諷して劉悛を収監し廷尉に付し、誅戮を加えようとした。明帝が上奏して救い、許されて、終身禁錮に処せられた。廃黜されたとはいえ、賓客は日々訪れた。

海陵王が即位すると、白衣の身で兼左戸尚書に任じられ、まもなく正任となった。明帝が立つと、 ぎょう 騎将軍を加官され、元の官職である駙馬都尉に復した。劉悛は歴朝で恩遇を受け、高帝は鄱陽王蕭鏘に劉悛の妹を妃として娶らせた。明帝もまた晋安王蕭宝義に劉悛の娘を妃として娶らせた。これより帝室と連姻することとなった。

王敬則が反乱を起こすと、劉悛は出向して琅邪城を守り、転じて五兵尚書となった。劉悛兄弟は父が朱雀航で死んだため、終身この道を行かなかった。明帝が崩御し、東昏侯が即位すると、改めて 散騎常侍 さんきじょうじ を授けられ、 ぎょう 騎将軍を領し、尚書は元の通りとした。山陵を護送する途中、路が朱雀航を経て感慟し、曲阿に至って卒去した。太常を追贈され、常侍・都尉は元の通りとした。諡して敬子といった。

子に劉孺あり。

劉孺は字を季幼といい、幼少より聡明で、七歳にして文を作ることができた。十四歳で喪に服し、憔悴して骨が立つほどで、宗族や党の人々は皆これを異とした。叔父の劉瑱が義興郡太守となった時、彼を連れて任地に赴き、常に座の側に置き、賓客に言った、「これは我が家の明珠である」と。成長すると、風采は美しく、性格は通達温和で、家族といえどもその喜怒を見ることがなかった。本州が主簿として迎え召した。中軍法曹行参軍として起家し、時に鎮軍将軍沈約はその名を聞き、主簿に引き立て、常に遊宴し詩を賦し、大いに沈約に賞賛された。累遷して太子中舎人となった。

劉孺は若くして文章を好み、性もまた敏捷で、かつて御座で李賦を作り、詔を受けるや成し遂げ、文に点を加えることがなかった。梁武帝は大いにこれを称賞した。後に寿光殿で侍宴し、群臣に詩を賦するよう詔があった。時に劉孺と張率は共に酔っており、未だ成さなかった。帝は劉孺の手板を取り、戯れて題して言った、「張率は東南の美、劉孺は洛陽の才、筆を攬れば便ち応に就くべし、何事か久しく遅回する」と。その親愛されたこと、このようであった。

中書郎に遷り、兼中書通事舎人を兼ねた。太子中庶子、尚書吏部郎を歴任した。累遷して 散騎常侍 さんきじょうじ 、左戸尚書となった。大同五年、吏部尚書を守った。出向して晋陵太守となり、郡において和やかに治め、吏人に称えられた。入朝して侍中となった。後に再び吏部尚書となった。母の憂いに遭い、憔悴して卒去し、諡して孝子といった。

劉孺は若い頃、従兄の劉苞・劉孝綽と齊名し、劉苞は早世し、劉孝綽はたびたび罪に坐して免黜され、位はいずれも高くなく、ただ劉孺のみが貴顕であった。文集二十巻がある。劉孺の弟に劉覧あり。

劉孺の弟、劉覧。

劉覧は字を孝智といい、十六歳で老子・易経に通じ、位は中書郎となった。生母の憂いに遭い、墓の傍に廬し、二週忌まで塩や酪を口にせず、麦粥を食するのみであった。厳冬に単布衣一枚を着るのみで、家人は喪に耐えられぬことを慮り、夜中に密かに炭を床下に置くと、劉覧は暖かさによって眠りについた。覚めてこれを知ると、号慟して血を吐いた。梁武帝はその至性を聞き、たびたび見舞いに行かせた。

喪が明けると、尚書左丞に任じられた。性は聡敏で、 尚書令 しょうしょれい 史七百人の名姓を一度見て全て記憶した。官に当たっては清正で私することが無かった。従兄の吏部郎劉孝綽は、在職中にかなり賄賂を通じていたので、劉覧は弾劾上奏して免官させた。劉孝綽はこれを怨み、常に人に言った、「犬は行路の者を ぜい むが、劉覧は家人を ぜい む」と。出向して始興内史となり、郡に在って特に清節を励んだ。再び左丞となり、官のまま卒去した。劉覧の弟に劉遵あり。

劉覧の弟、劉遵。

劉遵は字を孝陵といい、若くして清雅で学行があり、文を作ることに巧みであった。晋安王蕭綱の宣恵・雲麾二府の記室となり、大いに賓礼を受けた。王が皇太子に立てられると、引き続き中庶子に任じられた。劉遵は藩国に随従して以来、東宮にあっても、旧恩によって偏りに寵遇を受け、当時の者で及ぶ者はいなかった。官のまま卒去すると、皇太子は深く悼み惜しみ、劉遵の従兄である陽羨令劉孝儀に令して言った、「賢き従弟中庶が突然に逝去した。痛みと言えようか。その孝友は淳深、立身は貞固、内には玉潤を含み、外には瀾清を表し、言行相符し、終始一貫している。文史に該博で、琬琰を心とし、辞章は博贍で、玄黄を采と成す。既に鳴謙をもって性を表し、また難進をもって自ら処する。我れ昔、漢南に在りし時、連翩として書記を務め、朱方に忝くすに及びては、従容として座首にあった。鷁舟が動き始め、朱鷺が徐かに鳴く時、一日として追随せざるはなく、一時として会遇せざるはなかった。益者三友、まさにこの人こそがそれである。下邑に道を弘めて、未だ善政を申べずとも、人をして去りし後を思わしめ、野に馴翟多し。これもまた威鳳の一羽、以てその五徳を験するに足る」と。その愛賞されたこと、このようであった。

劉悛の弟の子、劉苞。

劉苞は字を孝嘗、一字を孟嘗といい、劉悛の弟の子である。父の劉愃は、位は太子中庶子であった。

劉苞は三歳で孤児となり、六、七歳の時、諸父(伯叔父)を見るたびに泣いた。当時、伯叔父の劉悛・劉繪らは皆顕貴であったが、その母は彼が畏れて憚っているのだと思い、怒った。苞は言う、「早く孤児となったため、父の面影を知らず、諸父が多く似ていると聞くので、心中悲しいのです」と。そこで涙を流すと、母もまた悲しみ慟哭した。初め、苞の父母と二人の兄が相次いで亡くなり、皆仮に埋葬されていた。苞が十六歳の時、初めて墓所を移し、改葬を営み、諸父の資力を借りなかった。嫡母の朱夫人と実母の陳氏に仕え、扇であおぎ、枕を温めるなど孝養を尽くし、叔父の繪は常に感嘆して敬服した。若くして学問を好み、文章を綴ることができ、家に旧蔵の書物があったが、例によって皆虫食いがひどく、自ら編纂補綴し、書箱を満たした。梁の初め、臨川王(蕭宏)の妃の弟であったため、征虜主簿から右軍功曹に遷り、累進して太子洗馬となり、書記を掌り、寿光殿で侍講した。従兄の劉孝綽らと共に文藻をもって知られ、多く宴席に預かった。詔を受けて天泉池の荷と采菱の調を詠じ、筆を下ろせば即座に成った。

天監十年に死去した。臨終に友人である南陽の劉之遴を呼び、喪事を倹約するよう託した。苞は官に在って有能な名声があり、性質は温和で正直であり、人と交わる際には面と向かってその非を指摘し、退いてはその美点を称え、士友は皆このことで彼を嘆惜した。

劉繪は字を士章といい、劉愃の弟である。初め斉の高帝(蕭道成)の行参軍となり、帝は嘆じて言った、「劉公(劉繪の父、劉勔)は亡びずだ」。 章王蕭嶷が江陵を鎮守した時、繪は鎮西外兵参軍となり、文義をもって礼遇された。当時、琅邪の王詡が功曹であり、吏能をもって自ら進んだが、蕭嶷は僚佐に言った、「我は応嗣(応璩)や陳蕃を得ることはできないが、幕下には二頭の駿馬がいる」。

性質は物事に通じ悟るところがあり、出向して南康相となった。郡人に姓が頼で、住居の地名が穢裏という者がおり、名刺を持って繪に謁見した。繪は戯れて嘲って言った、「君に何の穢れがあって、穢裏に住むのか」。この者は即座に応えて言った、「孔丘に何の欠けがあって、闕里に住んだのか、未だ審らかでない」。繪は黙然として答えず、また不快な様子もなく、その弁舌の速さに感嘆した。

後に中書郎の官位を歴任し、詔誥を掌った。勅命により国子祭酒の何胤を助けて礼儀を撰修した。永明(斉の武帝の年号)の末、都下の人士は盛んに文章や談義を行い、皆竟陵王(蕭子良)の西邸に集まったが、繪は後進の指導者であった。当時、張融は言辞が弁舌鋭く、周顒はことさらに清らかで美しく、繪は音調と文采が豊かで麗しく、風雅に則っていた。当時の人は彼らのために言葉を作って言った、「三人共に宅し清漳に夾まる、張は南、周は北、劉は中央」。二人の間にいることを言ったのである。

魚復侯蕭子響が誅殺された後、 章王蕭嶷がその葬儀を求めようとし、繪を召してその事を述べた上表文を作らせたところ、繪はたちまちにして完成させた。蕭嶷は嘆じて言った、「禰衡もどうしてこれを超えようか」。ただ足りないのは八字で、「提攜鞠養、俯見成人」(手を取って養育し、うつむいて成人を見る)という句であった。後に北魏の使者が来ると、繪は弁舌の才をもって勅命により接伴を命じられた。事が終わると、応対の言葉を撰録することになった。繪は人に言った、「潤色することが容易でないのは無論、ただ私の言葉を得るのも難しいことだ」。

隆昌(斉の廃帝蕭昭業の年号)の中、兄の劉悛が事に坐して誅されようとした時、繪は宮門に伏して兄の身代わりに死ぬことを請うた。明帝(蕭鸞、当時は輔政)がこれを救い、死を免れた。明帝が即位すると、太子中庶子となった。安陸王蕭寶晊が湘州に出ると、繪を冠軍長史・長沙内史とし、湘州の事務を行わせた。寶晊の妃は、劉悛の娘である。寶晊がその侍女を寵愛したので、繪がこれを奪い取り、詳細を上奏して報告した。寶晊はこれを恨みとし、繪と不仲になった。母の喪に遭って官を去ったが、至誠の性情があった。喪が明けると、 しん 安王(蕭寶義)の征北長史・南東海太守となり、南徐州の事務を行った。

梁の武帝(蕭衍)が兵を起こすと、朝廷は繪を雍州刺史に任じようとしたが、固辞して就任しなかった。人々は朝廷が昏乱しているため、心を寒くしていたが、繪は終に受けず、代わりに張欣泰が用いられた。繪は転じて建安王(蕭寶寅)の車騎長史となり、王府の国事を行った。

東昏侯(蕭寶巻)が殺害されると、城内から繪と国子博士の范雲らがその首を齎し、石頭城にいた梁武帝のもとに赴いた。大司馬從事中郎に転じ、死去した。子に劉孝綽がいる。

劉孝綽は字を孝綽といい、本名は冉である。幼くして聡明で、七歳で文章を綴ることができた。母方の叔父である斉の中書郎王融は深く賞賛し、同じ車に乗せて親友を訪ね、「神童」と号した。王融は常に言った、「天下の文章、もし我がなければ、まさに阿士に帰すべきだ」。阿士とは即ち孝綽の幼名である。父の劉繪は斉の時に詔誥を掌ったが、孝綽は当時十四歳で、繪は常に彼に代わって草稿を作らせた。父の同輩である沈約・任昉・范雲らはその名声を聞き、車を走らせて訪ねた。任昉は特に賞賛して好んだ。范雲は劉繪より十余歳年長で、その子の孝才は孝綽と共に十四、五歳であった。雲が孝綽に会うと、すぐに兄弟の礼を交わし、孝才に命じて彼に拝礼させた。また草書と隷書を兼ねて善くし、自らその書が父に似ていると思い、別の書体に変えた。

梁の天監の初め、著作佐郎として出仕し、『帰沐詩』を作って任昉に贈った。任昉は答えて言った、「彼の美は洛陽の子、我に投ずるは秋を懐う作、豈に耋嗟の人を慰めんや、徒らに老夫の托を深くすのみ。直史は褒貶を兼ね、轄司は専ら疾悪す、九折多くは美疹、報いずして庶幾くは良薬」。名流に重んぜられることこのようであった。

後に兼尚書水部郎に遷り、奉啓して陳謝した。手ずからの勅答に言う、「美錦は未だ直ちに製すべからず、簿領も亦た宜しく稍々習うべし」。間もなく正員となった。武帝が宴遊の折、沈約・任昉らに志を言わせ詩を賦させた時、孝綽もまた引見された。嘗て宴に侍し、座席で詩を七首作った。武帝がその文を覧ると、篇篇嘆賞し、これにより朝野の評価が変わった。累進して秘書丞となった。武帝は舍人の周舍に言った、「第一の官は知るべし、第一の人を用いることを」。故に孝綽をこの職に就かせた。

後に太子僕となり、東宮の管記を掌った。当時、昭明太子(蕭統)は士を好み文を愛し、孝綽は陳郡の殷芸・呉郡の陸倕・琅邪の王筠・彭城の到洽らと共に礼遇された。太子が楽賢堂を建てると、まず孝綽の肖像を描かせた。太子の文章は、多くの才士が皆撰録しようとしたが、太子は独り孝綽に集めて序を書かせた。兼廷尉卿に遷った。

初め、孝綽は到溉兄弟と非常に親しかった。到溉は幼くして孤児となり、宅は僧寺に近かった。孝綽が到溉の許を訪れた時、たまたま黄色い寝具を見て、孝綽は僧侶の物だと思い、手を叩いて笑った。到溉はその意を知り、拳を奮って彼を撃ち、傷つけて去った。また到洽と共に東宮に遊んだが、孝綽は自らその才が到洽に優れていると思い、毎度宴席でその文章を嗤い軽蔑したため、到洽は深く恨みを抱いた。孝綽が廷尉となった時、妾を廷尉府に連れ込み、その母はなお私宅に留めていた。到洽がまもなく御史中丞となると、令史を遣わしてこれを弾劾上奏し、「少妹を華省に携え、老母を下宅に棄つ」と云った。武帝はその悪い点を隠そうと、「妹」の字を「姝」に改めさせた。孝綽はこれに坐して官を免ぜられた。諸弟は当時任地に従って皆荊州・雍州にいたので、到洽との不和について十箇条の事を論じた書簡を送り、その文辞は皆到氏を訴えるものであった。また別の写しを封じて東宮に届けたが、昭明太子はこれを焼くよう命じ、開けて見なかった。

孝綽が免職された後、武帝はたびたび僕射の徐勉に命じて旨を宣べ慰撫させ、毎度の朝宴には常に参加させた。武帝が籍田の詩を作った時、また徐勉に先ず孝綽に見せさせた。当時、詔を受けて作った者は数十人いたが、帝は孝綽の詩が巧みであるとして、即日に西中郎湘東王(蕭繹)の諮議参軍として起用した。黄門侍郎・尚書吏部郎に遷ったが、絹一束を受け取ったことに坐し、贈り主に訴訟され、左遷されて信威将軍臨賀王(蕭正徳)の長史となった。晚年は恍惚として志を得ず、後に秘書監となった。

初めに、孝綽は母の喪に服していた時、冬月に冷水を飲み、それによって冷癖を得、大同五年に官に在ったまま卒去した。享年五十九。

孝綽は若くして盛名があり、気概を恃み才を負うて、多く人を陵ぎ忽せにした。意に合わぬことがあると、極言して誹謗した。領軍の臧盾、太府卿の沈僧畟らは共に時の遇を受けていたが、孝綽は特に彼らを軽んじた。毎度朝の集会や会同において、公卿の間にあって語るべきことがなく、かえって騶卒を呼んで道途の間の事を訪ねた。これによって多く物に忤い、前後五度免官された。孝綽の辞藻は後進の宗と為り、当時その文を重んじ、一篇を作る毎に、朝に成れば暮には遍く伝わり、好事の者は皆誦し伝え写し、流聞は河朔に及び、亭苑の柱壁に題せざるはなかった。文集数十万言、時に流行した。兄弟及び群の従子・従甥で当時に文を属すること能くする者は七十人あり、近古未だこれ有らざるなり。

その三妹は、一人は琅邪の王叔英に嫁ぎ、一人は吳郡の張嵊に嫁ぎ、一人は東海の徐悱に嫁ぎ、皆才学有り。悱の妻の文は特に清抜、所謂劉三娘という者である。悱が しん 安郡で卒すると、喪は建鄴に還り、妻が祭文を作り、その辞甚だ悽愴なり。悱の父の勉は本哀辞を作らんと欲したが、この文を見て、乃ち筆を閣した。

孝綽の子の諒は字を求信といい、小名は春。少くして学を好み、文才有り、特に しん 代の故事に詳しく、時人は号して「皮裏 しん 書」といった。位は中書宣城王記室に至り、湘東王に善くせられた。王嘗て江濱に游び、秋望の美を歎ず。諒対えて曰く、「今日は『帝子北渚に降る』と謂うべし」。王は目疾有り、以て己を刺すと為す。応えて曰く、「卿の言う『目眇眇として以て予を愁えしむ』や」。ここより彼を嫌う。

孝綽の弟の潛は字を孝儀といい、幼くして孤となり、諸兄弟と相い学を勧め、皆文を属するに巧みであった。孝綽嘗て云う、「三筆六詩」と。三とは即ち孝儀、六は孝威を謂う。

秀才に挙げられ、累遷して尚書殿中郎となる。勅令して雍州平等寺の金像碑を制せしめ、文甚だ宏麗なり。 しん 安王綱が襄陽に鎮すや、引いて安北功曹史と為す。王が皇太子と為るに及び、仍って洗馬を補し、中舍人に遷る。出でて陽羨令と為り、甚だ称すべき績有り。後に中書郎と為り、公事によりて安西諮議参軍に左遷され、 散騎常侍 さんきじょうじ を兼ぬ。魏に使いして還り、中書郎を除く。累遷して尚書左丞、長く御史中丞を兼ぬ。職に在りて多く弾糾し、顧望する所無く、当時に之を称せられた。出でて臨海太守と為る。時に政網疏闊にして、百姓多く禁を遵わず。孝儀下車し、条制を宣下し、精励して綏撫し、境内翕然として、風俗大いに変ず。入りて都官尚書に遷る。太清元年、出でて 章内史と為る。侯景建鄴を寇すや、孝儀は子の勵に郡兵三千を帥いさせ、前衡州刺史韋粲に随い入援せしむ。宮城守られざるに及び、孝儀は前歴陽太守莊鐵に逼せられ、郡を失い、卒す。

孝儀は人となり寛厚、内行特に篤し。第二兄の孝熊早く卒す。孝儀は寡嫂に奉ずること甚だ謹み、家内の巨細必ず先ず諮決し、妻子と朝夕供事し、未だ礼を失わず、時人はこれをもって之を称した。文集二十巻世に行わる。

第五弟の孝勝は、位は尚書右丞、 散騎常侍 さんきじょうじ を兼ぬ。魏に聘されて還り、安西武陵王紀の長史、蜀郡太守と為る。紀が蜀に僭号すや、以て尚書僕射と為す。紀に随い峽口を出で、兵敗れて執われぬ。元帝之を宥し、以て 司徒 しと 右長史と為す。

第六弟の孝威は、気調爽逸、風儀俊挙なり。初め安北 しん 安王の法曹と為り、後に太子洗馬、中舍人、庶子、率更令と為り、並びに管記を掌る。大同中、白雀東宮に集まる。孝威頌を上ぐること甚だ美なり。太清中、中庶子に遷り、通事舍人を兼ぬ。侯景の寇乱に及び、司州刺史柳仲禮に随い安陸に至り、卒す。

第七弟の孝先は、位は武陵王主簿、兄の孝勝と俱に紀の軍に随い峽口を出づ。

兵敗れ、元帝以て黄門郎と為し、侍中に遷す。

瑱は字を士溫といい、繪の弟なり。少くして行業有り、文藻・篆隸・丹青並びに当世に称せられた。時に 滎陽 けいよう の毛惠遠は馬を画くに善く、瑱は婦人を画くに善く、並びに当世第一なり。瑱の妹は齊の鄱陽王妃と為り、伉儷甚だ篤し。王が齊の明帝に誅せらるるや、妃追傷して遂に痼疾と成り、医も療せず。陳郡の殷蒨は人面を写すに善く、真と別けず。瑱、蒨に命じて王の形像を画かしめ、並びに王が平生寵愛したる姬の共に鏡を照らす状を図せしむ、偶寝せんと欲するが如く。瑱乃ち密かに媼奶をして妃に示さしむ。妃画を視て仍って之に唾し、因り罵って云く、「故に其の早く死す宜しきなり」。ここに於て恩情即ち歇み、病も亦除差す。此の姬も亦廃せられ苦しみ、因り即ち此の画を以て之を焚く。

瑱は齊に仕え、歴任して尚書吏部郎、義興太守。繪に先だって卒す。

論じて曰く、泰始の際に当たりて、二殷の去就同じからず、原始要終し、各おの名節を以て自立す。孝祖は敵を翫びて亡ぶ、蓋し其れ宜なり。劉勉は出征久撫し、在る所流誉有り、己を行うの節、赴蹈を期とし、古の忠烈と雖も、亦何を以てか此に加えん。悛は至性人に過ぎ、繪は辞義克く挙がり、諸子各おの擅に雕龍し、当年方駕し、文采の盛んなる、殆ど継ぎ難からんか。孝綽は中冓尤も甚だしきもの有り、人にして儀無き者と謂うべし。

原本を確認する(ウィキソース):南史 巻039