南史 巻三十八 巻三十九

南史

巻三十八 巻三十九

列伝第二十八

柳元景

元景は幼少より弓馬に慣れ、しばしば父に従って蛮を討ち、勇名を称された。言葉少なく、器量と質実を備えていた。荊州刺史謝晦はその名を聞き、招こうとしたが、赴く前に晦は敗れた。雍州刺史劉道産はその才能を深く愛し、ちょうど荊州刺史江夏王義恭が再び召し寄せたので、道産は言った、「かねてより君を迎えたいと思っていた。今、貴王が召されているので、無理に留めることはできず、本意に背く思いで心が痛む」。 ほろぼ が明けてから、累進して義恭の 司徒 しと 太尉城局参軍となった。文帝もまた彼を知った。以前、劉道産が雍州にいて善政を敷き、遠方の蛮族も帰順し、皆が沔水のほとりに村落を築き、戸口は豊かで繁栄していた。道産が死ぬと、群蛮は大いに寇暴を働いた。孝武帝が西に鎮して襄陽におり、義恭が元景を推薦したので、武威将軍・随郡太守に任じられた。着任すると、広く方策を設け、数百を斬り捕らえ、郡内は粛然とした。

随王誕が襄陽を鎮守すると、元景は後軍中兵参軍に転じた。朝廷が大挙して北へ侵攻する際、諸鎮にそれぞれ軍を出させた。二十七年八月、誕は尹顕祖を貲谷から出させ、魯方平・薛安都・龐法起を盧氏に入らせ、田義仁を魯陽から出させ、元景を建威将軍に加えて、諸軍を統率させた。

後軍外兵参軍龐季明は、三秦の名族であり、長安に入り、関中・陝地を招き懐柔しようと求め、自ら貲谷から盧氏に入った。盧氏の人趙難が彼を受け入れた。元景は軍を率いて進み、先鋒が深入りし、孤軍で後続がないことを懸念し、急ぎ尹顕祖を盧氏に入らせ、諸軍の声援とした。元景は軍糧が不足し、長く対峙するのは難しいと考え、馬の蹄を包み車を吊り上げ、軍を率いて百丈崖を登り、温谷から出て盧氏に入った。法起らの諸軍は方伯堆に進んで駐屯し、弘農城から五里の地であった。元景は軍を率いて熊耳山を越え、安都は弘農に軍を駐めた。法起は進んで潼関を占拠し、季明は方平・趙難らの諸軍を率いて陝に向かった。十一月、元景は衆を率いて弘農に至り、開方口に営を置いた。そこで元景を弘農太守とした。

初め、安都は弘農に留まっていたが、諸軍はすでに陝に進んでいた。元景が到着すると、安都に言った、「卿は空城を坐守して、龐公を孤軍で深入りさせておくべきではない。急いで進軍すべきである」。諸軍はともに陝の城下に至り、陣営を並べてこれを威圧し、大いに攻城具を造った。

魏の城は河に臨んで堅固であり、険阻を恃んで自守していた。季明・安都・方平・顕祖・趙難らの諸軍は再三攻めたが陥とせず、安都と方平はそれぞれ城の東南に陣を列ねて待機した。魏兵が大挙して集結し、軽騎で挑戦してきた。安都は目を怒らせ矛を横たえ、単騎で敵陣に突入し、四方に奮撃し、左右の敵は皆退散し、殺傷は数えきれなかった。そこで諸軍はともに鬨の声を上げて一斉に前進した。魏軍は多く突騎を放ち、諸軍はこれを憂いた。安都は激怒し、兜鍪を脱ぎ、帯びていた鎧を解き、ただ絳色の衲の両当衫を着け、馬も具装を外して、賊陣に馳せ入った。猛気は哮り勃発し、向かうところ敵なく、その鋒に当たる者は皆刃に おも じて倒れた。このようなことが四度あった。毎回突入するたびに、敵衆は靡かなかった者はなかった。

魏軍が到来しようとしていた時、方平は駅騎を遣わして元景に告げた。当時、諸軍の糧食は尽き、それぞれ数日分の食料しか残っていなかった。元景は義租を督し、併せて驢馬を徴発して糧運の計を立て、軍副の柳元怙に歩騎二千を選び簡抜して陝の急を赴かせ、甲を巻き昼夜兼行で進ませ、一宿で到着させた。翌朝、魏軍がまた出撃し、城外に陣を列ねた。方平らの諸軍は皆陣を成し、安都は馬軍を統率し、方平は歩 つい を悉く率いて左右から犄角の勢いをなし、その他の諸義軍は城の西南に陣を列ねた。方平は安都に言った、「今、強敵は前に、堅城は後にある。これこそ我らが死を取る日である。卿が進まなければ、我が卿を斬る。我が進まなければ、卿が我を斬れ」。安都は言った、「卿の言う通りである」。そこで合戦した。安都はその憤りに耐えかね、矛を横たえて直ちに前進し、殺傷すること甚だ多かった。流れる血が肘に凝り固まった。矛が折れると、取り替えてまた突入し、軍副の譚金が騎兵を率いてこれに従って奔った。明け方から日暮れまで戦い、魏軍は大いに潰え、軍門に面縛される者二千余人に及んだ。諸将は皆殺しにしようとしたが、元景は不可であるとして、皆釈放して帰らせた。彼らは万歳を称して去った。

当時、北略の諸軍である王玄謨らは敗退し、魏軍が深入りしていた。文帝は元景が単独で進むのは適さないと考え、しばらく撤退を命じた。諸軍は湖関から白楊嶺を越えて長洲に出、安都が後衛を務め、宗越がこれを補佐した。法起は潼関から商城に向かい、元景と合流し、季明もまた胡谷から南帰し、ともに功を立てて帰還した。誕は城に登ってこれを望み、鞍から下りて馬を迎え元景を迎えた。

当時、魯爽が虎牢に向かっていたので、また元景に安都らを率いて北に出撃させ、爽が退くと帰還した。再び北へ侵攻し、威信は境外に著しかった。

孝武帝が元凶を討つため入ると、元景を諮議参軍とし、一万人を配属して前鋒とし、宗愨・薛安都ら十三軍は皆その隷下とした。当時、義軍の船は小さく粗末で、水戦では敵わないと懸念された。蕪湖に至ると、元景は大いに喜び、倍道兼行で新亭に至り、山に依って塁柵を築き、東西に険要を占めた。軍中に令して言った、「鼓が頻繁だと気勢は衰えやすく、叫びが数多いと力は尽きやすい。ただ各自枚を銜えて疾く戦い、ひたすら我が営の鼓の音に従え」。元景は賊が衰え尽きたのを見て取ると、塁を開き鬨の声を上げてこれに奔らせ、賊衆は大いに潰えた。劉劭がさらに余衆を率いて自ら来て塁を攻めたが、また大いにこれを破り、劭はただ身一つで逃れた。上が新亭に至って即位すると、元景を侍中とし、左衛将軍を領させ、まもなく甯蛮 校尉 こうい ・雍州刺史に転じ、雍梁南北秦四州及び荊州の竟陵・随の二郡諸軍事を監させた。初め、上が巴口におられた時、元景に事が平定したら何を望むかと問うた。答えて言った、「郷里に帰りたい」。故にこの任があった。

初め、臧質が義兵を起こした時、南譙王義宣が暗愚で弱く制しやすいと考え、推戴しようと企て、密かに元景に報せ、率いる軍を率いて西還させようとした。元景は直ちに臧質の書状を孝武帝に呈した。その使者に言った、「臧冠軍(質)は殿下の義挙をご存じないのであろう。今まさに逆を伐つべき時で、西還は許されない」。質はこれによって彼を恨んだ。元景が雍州刺史となると、質は彼が荊州・江州の後患となることを憂い、爪牙は遠くに出すべきではないと称した。上はその言葉を重んじて違えがたく、元景を領軍将軍とし、 散騎常侍 さんきじょうじ を加え、曲江県公に封じた。孝建元年正月、魯爽が反逆し、左衛将軍王玄謨を派遣してこれを討たせた。元景に撫軍将軍を加え、節を仮し属官を置き、玄謨に隷属させた。後に南蛮 校尉 こうい ・雍州刺史を領させ、 都督 ととく を加えた。

臧質・義宣がともに反逆すると、王玄謨は南に拠って梁山を守り、垣護之・薛安都は歴陽に渡って拠り、元景は出て採石に屯した。玄謨が増兵を求めたので、上は元景をして進んで姑孰に屯させた。元景は精兵を全て派遣して王玄謨を助け、疲弊した弱兵を留めて守らせた。派遣した軍は多く旗幟を掲げ、梁山から望むと数万の軍のようで、皆、都の兵が悉く到着したと言い、これによって勝利を得た。沈慶之とともに本官のまま開府儀同三司を加えられ、晋安郡公に改封された。固辞して開府を辞した。また領軍・太子詹事となり、侍中を加えられた。

大明三年、 尚書令 しょうしょれい となり、太子詹事・侍中・中正はもとのまま。封が嶺南にあったため、巴東郡公に改封された。また左光禄大夫・開府儀同三司を命ぜられ、侍中・令・中正はもとのまま。開府を譲った。そこで沈慶之とともに、晋の密陵侯鄭袤が 司空 しくう を受けなかった故事に倣った。

六年、 司空 しくう に進み、侍中・令・中正はもとのまま。また固く辞退した。そこで侍中・驃騎大将軍・南兗州刺史を授けられ、都に留まって守衛した。

孝武帝が崩御すると、太宰江夏王劉義恭・尚書僕射顔師伯とともに遺詔を受けて幼主を補佐し、 尚書令 しょうしょれい に遷り、丹陽尹を領し、侍中・将軍はもとのまま。開府儀同三司を加えられ、班剣二十人を与えられた。班剣を固辞した。

元景は若い頃貧苦で、かつて都へ下り大雷に至り、日が暮れて寒さが甚だしく、旅情の嘆きが多かった。岸辺に一人の老父がいて自ら善く相を見ると称し、元景に言うには、「君はまさに大富貴となり、位は三公に至るであろう」。元景は戯れていると思い、「人生、飢えと寒さを免れることが幸いであり、どうして富貴を望もうか」と言った。老父は「後で思い出すであろう」と言った。貴くなってから彼を探したが、所在を知らなかった。

元景は将帥から起こり、朝廷に当たるようになってからは、政務処理は得意ではなかったが、弘大で雅やかな美点があった。当時、朝廷の勲臣・要人は多く産業を営んでいたが、元景だけは何も営まなかった。南岸に数十畝の菜園があり、守園人が野菜を売って三万銭を得て、宅に送り返してきた。元景は怒って言った、「私がこの園を立てて菜を植えるのは、家の中で食べるためである。また売って銭を得るとは、百姓の利を奪うことか」。銭を守園人に与えた。

孝武帝は厳しく暴虐で常がなく、元景は寵遇を受けていても、常に禍が及ぶことを憂慮していた。太宰江夏王劉義恭や諸大臣はみな重ね足して息をひそめ、敢えて私的に往来することはなかった。孝武帝が崩ずると、義恭・元景らは互いに言った、「今日やっと横死を免れた」。義恭は義陽王ら諸王と、元景は顔師伯らと常に馳せ逐って声楽に耽り、酒を酣に飲み、夜を日に継いだ。前廃帝は幼少より凶悪な性質があり、内心平らかでなく、戴法興を殺した後、悖乱の情が次第に露わになり、義恭・元景は憂慮恐れ、師伯らと謀って帝を廃し義恭を立てようとしたが、ためらって決断しなかった。発覚し、帝は自ら宿衛兵を率いて討伐に出て、詔と称して元景を召した。左右が駆けつけて告げると、兵刃が尋常でない。元景は禍の到来を知り、朝服を整えて車に乗り、召しに応じて門を出た。弟の車騎司馬叔仁が戎服を着け、左右の壮士数十人を従え、命令に抵抗しようとしているのに出会った。元景は苦しくこれを禁じた。巷を出ると、軍士が大挙して至り、車を下りて殺戮を受け、容色は恬然としていた。

長子の慶宗は才幹と力量があったが、性情が人並みでなく、孝武帝は元景に命じて襄陽に送り返させ、途中で死を賜った。次子の嗣宗・紹宗・茂宗・孝宗・文宗・仲宗・成宗・秀宗はこの時ともに禍に遇った。元景の六人の弟は、僧景・僧珍・叔宗・叔政・叔珍・叔仁である。僧珍・叔仁および子・甥で都下や襄陽で死んだ者は数十人に及んだ。元景の末子の承宗、嗣宗の子の慕はともに胎内にいて全うされた。明帝が即位すると、太尉を追贈され、班剣三十人、羽葆・鼓吹一部を与えられ、諡して忠烈公といった。

元景の従父兄の元怙は、大明の末に晋安王劉子勛の叛逆に同調し、事敗れて降伏した。元景の従祖弟の光世は郷里に留まり、魏に仕えて河北太守となり、西陵男に封ぜられ、 司徒 しと 崔浩と親しかった。崔浩が誅殺されると、光世は南へ奔った。明帝の時、右衛将軍・順陽太守の位にあった。子の欣慰が謀反を図り、光世は死を賜った。

従子 世隆

世隆は字を彦緒といい、元景の弟の子である。父の叔宗は字を双驎といい、建威参軍事の位にあり、早くに卒した。世隆は幼くして孤となり、挺然として自立し、衆と同じなかった。門勢ある子弟であったが、ただ布衣の業を修めた。長ずると、書を読むことを好み、節を折って琴を弾じ、文史に渉猟し、音吐は温潤であった。元景は愛賞し、諸子とは異なり、宋の孝武帝に言上して、召し出されて会うことができた。帝は元景に言った、「この児は将来また三公の一人となるであろう」。西陽王撫軍法曹行参軍となり、出て武威将軍・上庸太守となった。帝は元景に言った、「卿は昔、武威の号を随郡に与えたが、今また世隆に授けて、卿の門に世々公が絶えないようにする」。

元景が前廃帝に殺されると、世隆は遠方にいたため免れた。泰始の初め、四方が反叛すると、世隆は上庸で兵を起こして宋の明帝に応じたが、孔道存に敗れ、衆は散り逃げ隠れ、道存は彼を懸賞して甚だ急であった。軍人に容貌の似た者がおり、斬ってその首を送った。当時、世隆の母の郭氏と妻の閻氏はともに襄陽の獄に繋がれ、道存は送られてきた首を彼女らに見せた。母は首を見て悲しみの情が少し和らぎ、妻の閻氏は号哭してようやく甚だしく、密かに郭氏に言った、「今悲しまないと人に気づかれます。ただ大いに慟哭してそれを消すべきです」。世隆はついに免れた。

後に太子洗馬となり、張緒・王延之・沈琰と君子の交わりを結んだ。累遷して晋熙王安西司馬となり、甯朔将軍を加えられた。当時、斉の武帝が長史であり、世隆と出会って甚だ歓んだ。斉の高帝が広陵を渡ろうと謀った時、武帝に命じて衆を率いてともに都下で会わせようとした。世隆は長流参軍蕭景先らと戒厳して時期を待ったが、事は行われなかった。

当時、朝廷は沈攸之を疑い恐れ、密かにこれを防備し、府州の器械はみな平素から蓄えていた。武帝が都へ下ろうとした時、劉懷珍が高帝に申し上げて言った、「夏口は兵の要衝の地であり、適任者を得るべきです」。高帝はこれを受け入れ、武帝に書を送って言った、「汝が既に朝に入ったならば、文武兼備の人を以て後事を委ねるべきである。世隆がその人である」。武帝はそこで世隆を挙げて自らの代わりとした。転じて武陵王前軍長史・江夏内史となり、 郢州 えいしゅう の事務を行った。

昇明元年の冬、攸之が反逆し、輔国将軍・中兵参軍孫同等に三万人を率いさせて前駆とし、また司馬冠軍劉攘兵ら二万人をこれに次がせ、また輔国将軍・中兵参軍王霊秀らに分兵して夏口から出撃させ、魯山を占拠させた。攸之は軽舸に乗り数百人を従えて先に大軍より下り、白螺洲に留まり住まい、胡床に坐してその軍を望み、自ら驕る色があった。既に郢に至り、郢城が弱小で攻めるに足りないとして、攸之は去ろうとした。世隆は軍を西渚に遣わして挑戦すると、攸之は果たして怒り、昼夜攻撃した。世隆は適宜に応じて拒み、衆はみな敗退した。

武帝が初めて下った時、世隆と別れに言った、「攸之が一旦変を起こせば、たとえ留まって城を攻めても、すぐには抜くことはできない。卿がその内にあり、私がその外にあれば、憂いはないであろう」。この時、武帝は軍主の桓敬・陳胤叔・苟元賓ら八軍を遣わして西塞を占拠させ、堅壁を令して賊の疲弊を待たせた。世隆の危急を慮り、腹心の胡元直を潜かに遣わして郢城に入り、援軍の消息を通じさせた。内外ともに喜んだ。

郢城は既に攻め難く、平西将軍黄回の軍が西陽に至り、三層の艦に乗り、羌胡の伎を奏し、流れを遡って進んだ。攸之は元より人心を得ず、本来威力で脅していたが、江陵を発した初めから既に叛く者があり、ここに至って次第に多くなった。攸之は大いに怒り、ここにおいて一人が叛くごとに十人を追わせ、皆去って戻らなかった。劉攘兵が書を射て世隆に降伏を請い、門を開いてこれを迎え入れた。攸之は怒り、鬚を噛みしめ、攘兵の兄の子天賜と女婿の張平慮を捕らえて斬った。軍勢は大いに散った。世隆はそこで軍副の劉僧麟を遣わし、道に沿ってこれを追わせた。

攸之が既に死ぬと、侍中に召され、やがて尚書右僕射に遷り、貞陽県侯に封ぜられた。出て吳郡太守となり、母の喪に服し、寒くても綿入れを着なかった。齊の高帝が践祚すると、起用されて南 州刺史となり、 都督 ととく を加えられ、爵を公に進めた。上手詔を下し、 司徒 しと 褚彥回は甚だこれを称美した。彥回は言った、「世隆は陛下に事え、危険にあっては忠を尽くし、喪に居ては杖にすがって後に起つ。人を立てる根本、二つの道理は同じ極みに至る。栄を加え寵を増すことは、風俗を敦励するに足ります」。

建元二年、右僕射を授けられたが拝受しなかった。性は広く書物を渉猟することを好み、高帝に秘閣の書を借りるよう上奏し、上は二千巻を与えた。三年、出て南兗州刺史となり、 都督 ととく を加えられた。武帝が即位すると、 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられた。

世隆は卜筮に巧みで、別に亀甲を用い、その価は一万に至った。永明の初め、世隆は言った、「永明九年に我は亡くなり、亡くなって三年後に丘山が崩れ、齊もまたこの時に終わるであろう」。人を退け、典簽の李黨に筆と高歯の屐を取らせ、簾箔の旌に題して「永明十一年」と書いた。そこで涙を流して黨に言った、「汝は見るであろうが、我は見られぬ」。護軍に遷ったが、衛軍の王儉が下官の礼を修めて甚だ謹んでいた。世隆がこれを止めると、儉は言った、「将軍が寛大なご配慮をなさっても、王の典拠をどうしましょう」。そのように重んぜられたのである。

性は清廉で、ただ盛んに古典を事とした。張緒が問うて言った、「君の挙措を見ると、清名を子孫に遺そうとしているのか」。答えて言った、「一身の外に、また何を要しよう。子孫が才なきならば、争いの府となるであろう。もしその才あるならば、一経に及ばぬ」。

光禄大夫の韋祖征は州里の宿徳であり、世隆は既に貴重であったが、毎回彼に拝礼した。ある人が祖征にこれを止めるよう勧めると、答えて言った、「司馬公のなさることは、後生の楷法である。我がどうして止められようか」。後に尚書左僕射を授けられた。湘州の蛮が動き、世隆を本官のまま伐蛮諸軍を総督させ、やがて湘州刺史とし、 都督 ととく を加えた。鎮に至り、方略をもってこれを討平した。州において邸を立てて営利をなしたため、御史中丞の庾杲之に奏上された。詔して問わなかった。再び入朝して尚書左僕射となったが拝受せず、そこで 尚書令 しょうしょれい に転じた。世隆は若くして功名を立て、晩年は専ら談義をもって自らの業とした。琴を弾くことを善くし、世に柳公双瑣と称され、士品の第一とされた。常に自ら言った、「馬矟が第一、清談が第二、弾琴が第三である」。朝にあって世務に干渉せず、簾を垂れて琴を弾き、風韻は清遠で、世の称誉を大いに得た。病を理由に位を退き、左光禄大夫・侍中を拝した。永明九年に卒去し、詔して東園の秘器を給し、 司空 しくう を追贈し、班剣二十人を賜り、諡して忠武といった。世隆は数術に通暁し、倪塘に墓を創るに当たり、賓客と共に歩き回り、十回行って五回は常に一つの場所に坐った。そして卒去すると、墓工が墓を図るに、正にその坐った所を取ったのである。

著した『亀経秘要』二巻が、世に行われた。

長子の悦は字を文殊といい、若くして清らかな趣きがあり、位は中書郎に至り、早世し、諡して恭といった。世隆の次子は惔である。

世隆の次子は惔。

惔は字を文通といい、学を好み文を制することに巧みで、特に音律に通暁し、若くして長兄の悦と齊名した。王儉が人に言った、「柳氏の二龍は、一日千里と謂うべし」。儉が尚書左僕射であった時、かつて世隆の宅を訪れたが、世隆は自分を訪ねたと思い、しばらく徘徊していた。そして門に至ると、ただ悦と惔を求めた。世隆に遣わして言った、「賢子らは皆盛んな才能を持っている。一日顧みられたので、今故に礼を報いる。もし引き続きお訪ねするなら、本来の意に似ず、若い者が人を窺う恐れがある」。

かつて齊の武帝の烽火楼の宴に預かり、帝はその詩を善しとし、 章王の嶷に言った、「惔はただ風韻が清爽なだけでなく、また文を属するにも遒麗である」。後に巴東王の子響の友となり、子響が荊州となると、惔はこれに従って鎮した。子響は小人に昵近したので、惔は禍が将に起こることを知り、病と称して都に還った。そして難が起こると、ついに免れることができた。

累遷して新安太守となり、郡に居て政績無きにより免ぜられた。建武の末、梁・南秦二州刺史となった。そして梁の武帝が起兵すると、惔は漢中を挙げて応じた。

梁の武帝が天命を受けると、太子詹事となり、 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられた。武帝が襄陽に鎮した時、惔が祖道の宴を催すと、帝は茅土の玉環を解いてこれを贈った。天監二年の元会に、帝は言った、「卿の佩いている玉環は、新亭で贈ったものか」。対えて言った、「既に瑞が神衷に感ずるもので、臣は謹んでこれを服して厭わぬのです」。帝はそこで酒を勧めたが、惔は時にまだ爵を飲み干さなかった。帝は言った、「我は常に卿を劉越石に比しているが、近ごろは卮酒を辞するのか」。会を罷め、曲江県侯に封ぜられた。帝は宴の席で詩を作って惔に贈り言った、「爾は実に群後の冠たり、惟れ余は実に功を念う」。帝はまたかつて言った、「徐元瑜が嶺南に命に背いたが、周書に父子兄弟の罪は相及ばずとある。朕は既にその諸子を放免したが、どうか」。惔は言った、「罰は

嗣に及ばず、賞は後に延びる。今また聖朝に見られます」。時にこれを知言と為した。

まもなく尚書左僕射に遷り、年四十六で、湘州刺史の任に卒し、諡して穆といった。

柳惔は度量が広く博く、家人は未だその喜びや怒りを見たことがなかった。その妻を非常に重んじ、かなり畏れ憚っていた。性来音楽を愛し、女伎は精麗であったが、ほとんど敢えて目を向けなかった。僕射の張稷は惔と親密であったが、惔の妻に賞敬された。稷が毎回惔を訪れる時は、必ず先ず夫人に挨拶した。惔が妓を見たいと思う時は、常に稷を通じて奏上を請うた。その妻が幔の内に座ると、妓はその後で出てきた。惔はそれによって目を留めることができた。

惔は『仁政伝』及び諸々の詩賦を著し、大略に文辞と意義があった。子の昭は、中書郎の位に至り、曲江侯の爵を襲封した。

惔の弟、惲。

惔の弟の惲は字を文暢といい、若い時から志操と行いがあった。学問を好み、尺牘を善くした。陳郡の謝淪と隣り合わせに住み、深く友愛を見せられた。淪は言った、「宅の南の柳郎は、人の模範とすることができる」。

初め、宋の時に嵇元栄と羊蓋という者がおり、共に琴を善くし、戴安道の法を伝えたという。惲は彼らに師事して学んだ。惲は特にその妙を極めた。斉の竟陵王蕭子良はこれを聞いて法曹行参軍に引き立てたが、ただ王暕と陸杲とだけ親善した。毎度嘆息して言った、「王暕は名家ではあるが、なお私に累を及ぼすことを恐れる」。雅に子良に賞愛された。子良がかつて後園に酒宴を設けた時、晋の太傅謝安の鳴琴が傍らにあり、それを取って惲に授けた。惲がこれを弾じて雅弄とした。子良は言った、「卿の巧みさは嵇康の心を越え、妙は羊蓋の体に至り、良質美手、まことに今夜にある。ただ当今に奇と称されるのみならず、古の烈をも追跡し得よう」。

太子洗馬となり、父の喪で官を去り、先人の頌を著述して、その尽きることなき心を述べ、文は甚だ哀麗であった。後に試みに鄱陽相を守り、属吏に三年の喪礼を全うすることを許し、文教を整え、百姓に称えられた。還って驃騎從事中郎に任ぜられた。梁の武帝が建鄴に至ると、惲は石頭で謁見を待ち、征東府司馬とされた。上箋して城が平定された日に、先ず図籍を収め、かつ漢の高祖の寛大の義に従うことを請うた。帝はこれに従った。相国右司馬に転じた。天監元年、長兼侍中に任ぜられ、僕射沈約らと共に新律を制定した。

惲は生来の性質が貞素であり、貴公子として早くから令名があり、若い時から詩文に巧みで、詩に詠んだ、「亭皋に木葉下り、壟首に秋雲飛ぶ」。琅邪の王融はこれを見て嗟賞し、書斎の壁と手に持つ白団扇に書き記した。武帝は宴を催すと、必ず詔して惲に詩を賦させた。かつて武帝の景陽楼に登る詩に和して詠んだ、「太液に滄波起こり、長楊に高樹秋なり、翠華漢を承けて遠く、雕輦風を逐いて遊ぶ」。深く賞美された。当時、皆共に称え伝えた。

平越中郎将、広州刺史、秘書監、右衛将軍を歴任した。再び呉興太守となり、政治は清静で、人吏はこれを懐いた。郡において病を得、自ら解任を願い出た。父老千余

人が上表して陳請したが、事が未だ施行されないうちに、卒去した。

初め、惲の父の世隆は琴を弾き、士流の第一とされた。惲は毎度その父の曲を奏でると、常に感懐した。また体を変えて古曲を備え書きした。かつて詩を賦して未だ成らざる時、筆で琴を叩いた。座客が通り過ぎ、箸でそれを打つと、惲はその哀韻に驚き、雅音を作った。後に撃琴がここから始まったと伝わる。惲は常に今の声調が古法を転じて棄てることを憂い、『清調論』を著し、条理と流派を備えた。斉の竟陵王がかつて夜宴を催し、明朝に朝見しようとした時、惲が投壺で梟が絶えず、車駕を長く停めたため、進見が遂に遅れた。斉の武帝がこれを遅いと咎めると、王は実情を答えた。武帝はまたこれを行わせ、絹二十匹を賜った。かつて琅邪の王瞻と博射をし、その的の皮が広いのを嫌い、梅の実を摘んで烏珠の上に貼り、発すれば必ず命中し、観る者は驚愕した。

梁の武帝は囲碁を好み、惲に棋譜を品定めさせ、格に登った者は二百七十八人で、その優劣を次第づけ、『棋品』三巻とした。惲はその第二であった。帝は周舎に言った、「君子に完璧を求むべからずと聞くが、柳惲の如きは具美と謂うべきである。その才芸を分ければ、十人を足りる」。惲は『卜杖亀経』を著した。性来医術を好み、その精妙を極めた。

末子の偃は字を彦遊といい、十二歳の時、梁の武帝が引見し、詔して何の書を読むかと問うと、答えて言った、「尚書」。また何か美句があるかと問うと、答えて言った、「徳は善政にあり、政は人を養うに在り」。衆皆これを異とした。詔して武帝の女の長城公主に尚し、駙馬都尉・都亭侯に任ぜられ、鄱陽内史の位に至り、卒去した。

子の盼は陳の文帝の女の富陽公主に尚し、駙馬都尉に任ぜられた。後主が即位すると、帝の舅として 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられた。盼は性質が愚直で、酒に任せ、酔って馬に乗って殿門に入ったため、有司に弾劾されて免官され、家で卒去した。侍中・中護軍を追贈された。

後に従祖の弟の柳莊は清警で鑑識があり、盼の卒去後、太后の宗属ではただ莊のみが近く、兼ねて平素より名望があり、深く恩礼を受けた。度支尚書の位に至った。陳が滅びて隋に入り、岐州司馬となった。惲の弟、憕。

惲の弟、憕。

憕は字を文深といい、幼少より大志を抱き、玄言を好み、老・易に通じた。

梁の武帝が挙兵して姑孰に至ると、憕は兄の惲および諸友朋と共に小郊で出迎えた。当時、道路はなお塞がれており、憕は諸人と共に旅舎で休息し食事をした。皆が去って一里余り行った時、憕は言った。「我が人に負くるとも、人の我に負くるときはあるまい。もしまた追手があれば、この客(旅舎)で休息できるようにせよ。」左右に命じて旅舎を焼き、後の追手を絶った。当時、人々はその善断に服した。

歴任して給事黄門侍郎となった。琅邪の王峻と名声を並べ、共に中庶子となり、当時の人々は彼らを方王と号した。

後に鎮北始興王の長史となった。王が益州に移鎮する際、再び憕を請うた。帝は言った。「柳憕の風標才気は、恐らく久しく少王の臣下たり得まい。」王が数度にわたり祈請したので、已むなく鎮西長史・蜀郡太守とした。蜀にあって廉潔恪勤として政務を行い、益部の人々はこれを懐いた。憕の弟に忱がいる。忱は字を文若といい、数歳の時、父の世隆と母の閻氏が共に病に臥せると、忱は帯を解かずに一年を過ごし、喪に服する時には衰弱して名を知られた。

斉に仕えて西中郎主簿となった。東昏侯が巴西太守劉山陽を遣わし、荊州より雍州の梁武帝を襲撃させようとした時、西中郎長史蕭穎胄は計略を定めかね、忱とその親しい席闡文らを夜に召し入れて議した。忱と闡文は共に武帝に同調するよう勧め、穎胄はこれに従った。忱を甯朔将軍とし、累進して侍中に至った。郢州が平定されると、穎胄は夏口への遷都を議したが、忱は巴峡が未だ帰服していないとして、軽々しく根本を捨て人心を動揺させるべきでないとし、従わなかった。間もなく巴東の兵が峡口に至り、遷都の議はようやく止んだ。論者はこれを機先を見るものとした。

梁が天命を受けると、州陵伯に封ぜられた。五兵尚書、秘書監、 散騎常侍 さんきじょうじ を歴任した。

給事中・光禄大夫に改めて授けられたが、病篤く拝受しなかった。卒し、諡して穆といった。

忱の兄弟は十五人いたが、多くは若くして亡くなり、ただ第二兄の惔、第三兄の惲、第四兄の憕および忱の四人が、二、三年の間に相次いで侍中となり、また方伯の任にあったので、当世で比肩する者は稀であった。子の範が後を嗣いだ。

従子に慶遠あり。

慶遠は字を文和といい、元景の弟の子である。父は叔珍、義陽内史であった。慶遠は斉に仕えて魏興太守となった。郡が暴水に遭い、人々は杞城に移ろうとした。慶遠は言った。「我聞く、江河の長(増水)は三日を過ぎずと。命じて土を築くのみである。」間もなく水が引き、百姓はこれに服した。

後に襄陽令となった。梁武帝が雍州に臨んだ時、京兆の杜惲に州の綱紀(要職)を求める人物を問うと、惲は慶遠を挙げた。武帝は言った。「文和は我既に知るところ、問うたのは知らざる者である。」そこで別駕に辟召した。慶遠は親しい者に言った。「天下まさに乱れんとす。覇を定むる者は我が君ならんか。」よって誠を尽くして協力補佐した。挙兵すると、慶遠は常に帷幄にあって謀主となり、軍に従って東下し、身を以て士卒に先んじた。武帝が行営し、慶遠の頓舍(陣営)が厳整であるのを見て、毎度嘆じて言った。「人々皆かくの如くならば、我また何を憂えん。」建康城が平定されると、侍中となり、淮陵・斉昌二郡太守を帯びた。城内で嘗て夜に火災があり、衆は皆驚懼した。武帝は当時宮中に居り、諸門の鍵を悉く集め、「柳侍中は何処にいるか」と問うた。慶遠が至ると、悉くこれを付与した。その信任はこのようなものであった。

霸府が建てられると、從事中郎となった。武帝が禅を受け、重安侯に封ぜられ、位は 散騎常侍 さんきじょうじ 、改めて雲杜侯に封ぜられた。出て雍州刺史となり、 都督 ととく を加えられた。帝は新亭で餞別し、言った。「卿は衣錦して郷里に還る。朕に西顧の憂いは無し。」かつて武帝が雍州にあった時、慶遠は別駕であり、武帝は言った。「昔、羊公が劉弘に語りて、卿後には必ず我が処に居らんと言った。今、卿を見るにまたかくの如し。」十年にも満たないうちに、慶遠が督府となったので、談論する者は魏詠之を超えたと評した。

累進して侍中・領軍将軍となり、扶を与えられた。出て雍州刺史となった。慶遠が再び本州(郷里)の任につくと、頗る清節を励まし、士庶これを懐いた。官に卒し、開府儀同三司を追贈され、諡して忠恵侯といった。喪が都に還ると、武帝自ら出て臨んだ。

初め、慶遠の従父兄の世隆が嘗て慶遠に言った。「我かつて太尉(柳元景)が褥席を我に賜う夢を見て、我遂に台司に次ぐ地位に至った。今また我が褥席を汝に与える夢を見た。汝必ずや我が門族を光栄させるであろう。」ここに至って慶遠もまた世隆の後を継いだのである。

慶遠の子に津あり。

子の津は字を元挙といい、風華には乏しいが、性質は甚だ強直であった。或る人が書物を集めるよう勧めると、津は言った、「私は常に道士に章を上奏させて鬼を駆逐している、どうしてこの鬼の名(書物)を用いようか」と。 散騎常侍 さんきじょうじ 、太子詹事を歴任し、雲杜侯の封を襲い受けた。

侯景が城を包囲して既に危急となると、帝は津を召して策を問うた。対えて言うには、「陛下には邵陵(王)がおり、臣には仲礼がおります。不忠不孝であれば、賊をどうして平定できましょうか」と。太清三年、城は陥落し、卒した。

津の子 仲礼

子の仲礼は、勇力人に兼ね、少時より胆気があり、身長八尺、眉目は疏朗であった。初め、簡文帝が雍州刺史となられた時、津は長史であった。簡文が儲宮に入居されるに及んで、津もまた侍従を得た。仲礼は襄陽に留まり、馬・武器・軍人は悉く彼に託された。故旧を撫循し、甚だ衆人の和を得た。著作佐郎より起家し、稍々遷って電威将軍、陽泉県侯となった。中大通年間、西魏の将賀抜勝が樊・鄧に迫って来ると、仲礼は出撃してこれを破った。黄門郎に除され、稍々遷って司州刺史となった。武帝はその面を見たいと思い、画工に図を描かせた。

初め、侯景が密かに反逆を図った時、仲礼は先んじてこれを知り、精兵三万をもって景を討つようしばしば啓上して求めたが、朝廷は許さなかった。景が江を渡ると、朝野は彼の到着を望んだ。雍・司の精卒を兼ね蓄え、諸蕃と共に赴援し、推されて総督となった。景は平素その名を聞き、甚だこれを憚った。仲礼もまた自ら当世の英雄と謂い、諸将は己に及ぶ者なしとした。

韋粲が攻撃を受けると、仲礼は食事中であったが、箸を投げ練を被って馳せ向かい、騎兵で従うことのできた者は七十騎であった。到着する頃には、粲は既に敗れており、仲礼はそこで景と青塘で戦い、これを大いに破った。景と仲礼は交戦し、互いに相手を知らなかった。仲礼の矟が景に及ぼうとした時、賊将の支伯仁が後ろから仲礼を斬りつけ、再び斬りつけて仲礼の肩を中てた。馬が泥濘に陥ると、賊は矟を集めて刺し、騎将の郭山石が救って免れた。これより壮気は外に衰え、再び戦を言わなくなった。神情は傲佷で、将帥を凌蔑した。邵陵王綸もまた軍門に鞭を策って、毎日必ず至り、累刻時を移しても、仲礼はこれに会わなかった。綸は既に忿歎し、怨隙は遂に成った。而して仲礼は常に酒を置き高会し、日に優倡を作り、百姓を毒掠し、妃主を污辱した。父の津が城に登って言うには、「汝の君父が難にあるのに、心を尽くし力を竭くすことができない。百代の後、汝を何と謂うであろうか」と。仲礼はこれを聞いても、言笑自若であった。晩年にはまた臨城公大連と不和となった。景は嘗て朱雀楼に登って彼と語り、金環を遺った。この後は営を閉じて戦わず、諸軍が日々固く請うても、皆悉く拒んだ。南安侯駿が言うには、「城がこのように危急であるのに、 都督 ととく は再び処分されない。もし守りを脱するようなことがあれば、何の面目をもって天下の義士に会えましょうか」と。仲礼はこれに応える言葉がなかった。

台城が陥落すると、侯景は詔を矯って石城公大款に白虎幡を持たせて諸軍を解かせた。仲礼は諸将軍を召して会議し、邵陵王以下が畢く集まった。王は言った、「今日の命は、将軍に委ねる」と。仲礼は熟視して答えなかった。裴之高、王僧弁は言った、「将軍は衆百万を擁しながら、宮闕を淪没に致した。正に力を悉くして決戦すべきであり、何を多く言うことがあろうか」と。仲礼は竟に一言もなく、諸軍は乃ち方に随って各々散った。

時に湘東王繹が王琳を遣わして米二十万石を送り軍に饋らせたが、姑孰に至って台城陥落を聞き、乃ち米を江に沈めて退いた。仲礼及び弟の敬礼、羊鴉仁、王僧弁、趙伯超は並びに営を開いて賊に降った。時に城は雖も淪落したが、援軍は甚だ多く、軍士は咸く力を尽くさんと欲したが、降伏を聞いて、歎憤しない者はなかった。論者は梁の禍は朱異に始まり、仲礼に成ったと為す。

仲礼らが城に入ると、並びに先ず景を拝して後に帝に謁見したが、帝は彼らと語らなかった。既にして景は柳敬礼、羊鴉仁を留め、仲礼、僧弁を遣わして西上させ、各々本位に復させた。後渚で餞別し、景は仲礼の手を執って言った、「天下の事は将軍に在り。郢州、巴西は並びに以て相付す」と。

江陵に至ると、岳陽王詧の南寇に会い、湘東王は仲礼を雍州刺史と為して襄陽を襲撃させた。仲礼は成敗を観望し、未だ発たなかった。南陽の包囲が危急に及ぶと、杜岸が救援を請い、仲礼は乃ち別将の夏侯強を司州刺史と為して義陽を守らせ、自らは衆を帥いて安陸に赴き、司馬の康昭を竟陵に遣わして孫暠を討たせた。暠は魏の戍人を執って降った。仲礼はその将の王叔孫を竟陵太守と為し、副軍の馬岫を安陸太守と為した。妻子を安陸に置き、軽兵を以て漴頭に師して、将に襄陽を侵さんとした。岳陽王詧が魏に急を告げると、魏は大将楊忠を遣わしてこれを援けた。仲礼は漴頭でこれと戦い、大敗し、弟子礼と共に魏に没した。魏の相安定公は仲礼を客礼をもって遇した。西魏はここに於て漢東を尽く得た。

仲礼の弟 敬礼

仲礼の弟敬礼は、少時より勇烈を以て聞こえた。粗暴で行いの検めがなく、恒に人を略売し、百姓に苦しまれ、故に襄陽に柳四郎歌があった。

著作佐郎より起家し、稍々遷って扶風太守となった。侯景が江を渡ると、敬礼は馬歩三千を率いて赴援した。都に至り、景と頻りに戦い、甚だ威名を著した。

台城陥落後、兄の仲礼と共に景に謁見した。景は仲礼を遣わして上流を経略させ、敬礼を質として留め、護軍将軍とした。景は後渚で仲礼を餞別した。敬礼は仲礼に言った、「景が今来て会う、敬礼がこれを抱え、兄は便ち殺すことができ、死すとも恨みなし」と。仲礼はその言を壮とし、これを許した。酒数行に及んで、敬礼は仲礼に目配せしたが、仲礼は備衛が厳しいのを見て、敢えて動かず、遂に果たさなかった。

時に景が晋熙を征すると、敬礼は南康王会理と謀ってその城を襲撃しようとし、期日を定めて将に発たんとした時、建安侯蕭賁がこれを告げ、遂に害に遇った。臨死に言うには、「我が兄は老婢なり、国敗れ家亡ぶは、実に余の責なり、今日死に就くは、豈に天ならずや」と。

論じて曰く、柳元景の行い己れの資する所は、豈に徒らに武毅のみならんや。朝に当たり職に任ずるは、実に雅道を兼ぬ。卒に族を覆すに至るは、遭逢も亦た命有るか。世隆の文武の器業は、 ほと んど人望なり。諸子の門素の伝うる所、 とも に克く構うと云う。仲礼の始終の際、其れ副わざるは何ぞや。豈に 天方 まさ に梁を喪さんと応わんや、然らずんば、何ぞ斯の人にして斯の跡有らんや。

原本を確認する(ウィキソース):南史 巻038