南史

列傳第二十七

列傳第二十七

列傳第二十七

沈慶之

原文沈慶之

沈慶之は字あざなを弘先といい、呉興郡武康県の人である。若い頃より志と気力があった。晋の末、孫恩が乱を起こし、その衆をして武康を寇掠せしめた。慶之はまだ元服前であったが、郷里の族とともにこれを撃ち、しばしば勝利し、これによって勇名を聞こえた。荒乱の後、郷邑は離散したが、慶之は自ら田畑を耕し、勤苦して自立し、四十歳になってもまだ知られることはなかった。兄の敞之は趙倫之の征虜参軍となり、南陽郡を監し、蛮を撃って功があり、ついにその任を真除された。慶之が襄陽に赴いて兄を訪ねると、倫之はこれを見て賞賛し、子の竟陵太守伯符に命じて板授により寧遠中兵参軍とした。竟陵の蛮はしばしば寇掠したが、慶之は方策を設け、毎度これを撃破した。伯符はこれによって将帥の称を得た。

原文沈慶之字弘先,呉興武康人也。少有志力。晉末,孫恩作亂,使其衆寇武康。慶之未冠,隨鄕族撃之,屢捷,由是以勇聞。荒擾之後,鄕邑流散,慶之躬耕壟畝,勤苦自立,年四十未知名。兄敞之爲趙倫之征虜參軍,監南陽郡,撃蠻有功,遂即眞慶之徃襄陽省兄、倫之見而賞之,命子竟陵太守伯符板爲寧逺中兵參軍,竟陵蠻屢爲寇,慶之爲設規略,毎撃破之。伯符由此致將帥之稱。

永初二年、慶之は殿中員外将軍に任ぜられ、また伯符に従って到彦之に隷属し北征した。伯符は病で帰還し、引き続き檀道済に隷した。道済は文帝に慶之が忠謹で兵事に通暁していると上言し、上は慶之に隊を率いて東掖門を守備させ、次第に引見接遇され、禁省に出入りするようになった。領軍劉湛はこれを知り、引き入れようとして言った、「卿は省中での年月が久しい、近く当然論議すべきである」。慶之は厳しい顔色で言った、「下官は省中に十年おり、自ら転任すべきであり、再びこのことで上を煩わせることはありません」。まもなく正員将軍に転じた。劉湛が捕らえられた夜、上は門を開いて慶之を召し出した。慶之は戎服を着け、靴下を履き、袴を縛って入った。上はこれを見て驚き言った、「卿はどうしてこのように急な装いなのか」。慶之は言った、「夜半に隊主を呼ぶのですから、緩やかな服装は許されません」。上は慶之を遣わして呉郡太守劉斌を捕らえ殺させた。

原文永初二年,慶之除殿中員外將軍,又隨伯符隸到彦之北侵。伯符病歸,仍隸檀道濟。道濟白文帝稱慶之忠謹曉兵,上使領隊防東掖門,稍得引接,出入禁省。領軍劉湛知之,欲相引接,謂曰:「卿在省年月久遠,比當相論。」慶之正色曰:「下官在省十年,自應得轉,不復以此仰累。」尋轉正員將軍。及湛被收之夕,上開門召慶之,慶之戎服履襪縛褲入,上見而驚曰:「卿何意乃爾急裝?」慶之曰:「夜半喚隊主,不容緩服。」遣收呉郡太守劉斌殺之。

元嘉十九年、雍州刺史劉道産が卒すると、群蛮が大いに騒動し、征西司馬朱修之が蛮討伐に失敗した。慶之を建威将軍とし、衆を率いて修之を助けさせた。修之は軍律を失い獄に下され、慶之が単独で軍を進めて討伐し、沔水沿いの諸蛮を大破した。後に孝武帝の撫軍中兵参軍となった。孝武帝が本号をもって雍州刺史となると、府に従って西上し、蛮寇を征討してしばしば功があった。都に戻り、また広陵王誕の北中郎中兵参軍となり、建威将軍・南済陰太守を加えられた。雍州の蛮がまた寇掠すると、慶之は将軍・太守として再び随王誕に従って沔水に入った。襄陽に至ると、後軍中兵参軍柳元景、随郡太守宗愨らを率いて沔水以北の諸山の蛮を伐ち、大破した。威は諸山に震い、群蛮は皆額を地につけて降伏した。慶之は頭風を患い、狐皮の帽を好んでかぶった。群蛮はこれを憎み、「蒼頭公」と呼んだ。毎度慶之の軍を見ると、畏れて言った、「蒼頭公がまた来た」。

原文元嘉十九年,雍州刺史劉道産卒,群蠻大動,征西司馬朱修之討蠻失利,以慶之爲建威將軍,率衆助修之。修之失律下獄,慶之專軍進討,大破縁沔諸蠻。後爲孝武撫軍中兵參軍。孝武以本號爲雍州,隨府西上,征蠻寇屢有功。還都,復爲廣陵王誕北中郎中兵參軍,加建威將軍、南濟陰太守。雍州蠻又爲寇,慶之以將軍、太守復與隨王誕入沔。及至襄陽,率後軍中兵參軍柳元景、隨郡太守宗愨等伐沔北諸山蠻,大破之。威震諸山,群蠻皆稽顙。慶之患頭風,好著狐皮帽,群蠻惡之,號曰蒼頭公。毎見慶之軍,輒畏懼曰:「蒼頭公已復來矣。」

慶之は軍を率いて出撃し、前後して多くを破り降し、また犬羊諸山の蛮を討った。険阻な地に沿って重城を築き、門や櫓を設けて非常に峻厳にした。慶之は山下に連営し、営中には門を開いて相通じた。また諸軍に命じて各々営内に池を穿たせ、朝夕外から水を汲まないようにした。兼ねて蛮の火攻めを防ぐためである。しばらくして風が甚だしく、蛮は夜に下山し、人が一つずつ松明を持って営を焼いた。火が至ると、すぐに池の水でこれを消し止めた。蛮は長く包囲され守られ、皆飢え疲れ、その後次第に出てきて帰降した。慶之が前後して捕らえた蛮は、皆都下に移して営戸とした。

原文慶之引軍出,前後破降甚衆,又討犬羊諸山蠻,縁險築重城,施門櫓甚峻。慶之連營山下,營中開門相通。又令諸軍各穿池於營内,朝夕不外汲。兼以防蠻之火。頃之風甚,蠻夜下山,人提一炬燒營。火至,輒以池水灌滅之。蠻被圍守日久,並饑乏,自後稍出歸降。慶之前後所獲蠻,並移都下,以爲營戸。

二十七年、太子歩兵校尉に遷った。その年、文帝が北征しようとすると、慶之は諫めて言った、「道済は再び行って功なく、彦之は敗れて帰還しました。今、王玄謨らを推し量るに、あの両将を越えていないでしょう。重ねて王師を辱めることを恐れます」。上は言った、「王師が二度敗れたのは、別に原因がある。道済は賊を養って自らの資とし、彦之は途中で急病になった。虜の恃むところは馬のみである。夏の水は浩大で、舟を浮かべて河を渡れば、碻磝は必ず逃走し、滑台は小さな戍であるから、容易に覆抜できる。この二つの戍を克せば、食糧を蓄え民を慰撫し、虎牢・洛陽は自然に堅固でなくなる」。慶之は固く不可を陳べた。時に丹陽尹徐湛之、吏部尚書江湛がともに座に在った。上は湛之らに慶之を難じさせた。慶之は言った、「国を治めるのは家のようであり、耕すことは奴に問い、織ることは婢に訪ねるべきです。陛下が今国を伐とうとして、白面の書生どもとこれを謀るのでは、事どうして成し遂げられましょうか」。上は大笑した。

原文二十七年,遷太子歩兵校尉。其年,文帝將北侵,慶之諫曰:「道濟再行無功,彦之失利而反,今料王玄謨等未踰兩將,恐重辱王師。」上曰:「王師再屈,別有所由。道濟養寇自資,彦之中塗疾動。虜所恃唯馬,夏水浩大,泛舟濟河,碻磝必走,滑台小戍,易可覆拔。克此二戍,館穀吊人,虎牢洛陽,自然不固。」慶之固陳不可,時丹陽尹徐湛之、吏部尚書江湛並在坐,上使湛之等難慶之。慶之曰:「爲國譬如家,耕當問奴,織當訪婢。陛下今欲伐國,而與白面書生輩謀之,事何由濟?「上大笑。

軍が行くに及んで、慶之は玄謨の副となった。玄謨は進んで滑台を包囲し、慶之は蕭斌とともに碻磝に留まり守り、引き続き斌の輔国司馬を兼ねた。玄謨が滑台を攻め、十日を積んでも抜けず、魏の太武帝の大軍が南に向かうと、斌は慶之に五千人を率いて玄謨を救わせようとした。慶之は言った、「少軍で軽々しく往けば、必ず益はありません」。ちょうど玄謨が退還したので、斌はこれを斬ろうとしたが、慶之が諫めてやめさせた。

原文及軍行,慶之副玄謨。玄謨進圍滑台,慶之與蕭斌留守碻磝,仍領斌輔國司馬。玄謨攻滑台,積旬不拔,魏太武大軍南向,斌遣慶之將五千人救玄謨。慶之曰:「少軍輕往,必無益也。」會玄謨退還,斌將斬之,慶之諫乃止。

蕭斌は前軍が敗れたので、碻磝を死守しようとしたが、慶之は不可とした。ちょうど詔勅の使者が至り、退却を許さず、諸将は皆留まるべきであると命じた。斌は再び慶之に計を問うた。慶之は言った、「閫外の事は、将軍が専断すべきです。詔勅が遠方から来るまでに、事態は既に異なっています。節下には一人の范増(賢臣)がいるのに用いず、空しく議論して何を施せましょうか」。斌および座の者は皆笑って言った、「沈公はさらに学問をなさったのか」。慶之は声を厲して言った、「衆人は古今を見ていても、下官の耳学には及びません」。玄謨は自ら退敗したことを以て、碻磝を守ることを求めた。斌はついに歴城に還った。申坦と垣護之がともに清口を占拠し、慶之は駅伝を駆って帰還した。

原文蕭斌以前驅敗績,欲死固碻磝,慶之以爲不可。會制使至,不許退,諸將並宜留。斌復問計於慶之,慶之曰:「閫外之事,將所得專,制從遠來,事勢已異。節下有一范增而不能用,空議何施?」斌及坐者並笑曰:「沈公乃更學問。」慶之厲聲曰:「衆人雖見古今,不如下官耳學也。」玄謨自以退敗,求戍碻磝。斌乃還歴城。申坦、垣護之共據淸口,慶之奔驛馳歸。

二十九年、軍が再び出動しようとし、慶之は固く諫めたが聞き入れられなかった。意見が異なることを以て、北に出させなかった。この時、亡命の司馬黒石、廬江の叛吏夏侯方進が西陽の五水で群蛮を扇動し、淮・汝の間から江・沔に至るまで、皆その害を受けた。そこで慶之を遣わして諸将を督しこれを討たせ、江・豫・荊・雍の諸州に命じて軍を遣わし慶之の節度を受けることとした。

原文二十九年,師復行,慶之固諫不從。以立議不同,不使北出。是時亡命司馬黑石、廬江叛吏夏侯方進在西陽五水讙動群蠻,自淮汝間至江沔,咸離其患,乃遣慶之督諸將討之,制江、豫、荊、雍並遣軍受慶之節度。

三十年、孝武帝が五洲に出て駐屯し、群帥を総統した。慶之は巴水から出て五洲に至り、軍略について諮問を受けた。ちょうど孝武帝の典簽董元嗣が建鄴から戻り、元凶(劉劭)が逆を弑したことを陳べた。孝武帝は慶之に諸軍を率いさせた。慶之は腹心に言った、「蕭斌は婦人の如く数えるに足らず、その他の将帥も皆容易に対処できる。今、順に輔けて逆を討てば、成らぬことを憂うるには及ばない」。時に元凶は密かに慶之に書を送り、孝武帝を殺すよう命じた。慶之は入って求見し、孝武帝は病と称して敢えて会おうとしなかった。慶之は突き進み、元凶の手書を呈して見せた。孝武帝は泣いて内に入り母と辞することを求めた。慶之は言った、「下官は先帝の厚恩を受け、常にその徳に報いんと願っておりました。今日の事は、力を尽くすのみです。殿下はどうしてこれほど深く疑われるのですか」。帝は起きて再拝し言った、「家国の安危は、将軍に在ります」。慶之は即座に内外を部署し処分した。

原文三十年,孝武出次五洲,總統群帥。慶之從巴水出至五洲諮受軍略。會孝武典簽董元嗣自建鄴還,陳元凶弑逆,孝武遣慶之引諸軍。慶之謂腹心曰:「蕭斌婦人不足數,其餘將帥並易與耳。今輔順討逆,不憂不濟也。」時元凶密與慶之書,令殺孝武。慶之入求見,孝武稱疾不敢見。慶之突前,以元凶手書呈簡,孝武泣求入内與母辭。慶之曰:「下官受先帝厚恩,常願報德,今日之事,唯力是視,殿下是何疑之深。」帝起再拜曰:「家國安危,在於將軍。」慶之即勒内外處分。

府主簿顏竣は慶之が至ったと聞き、馳せ入って帝に会い言った、「今、四方はまだ義師の挙を知らず、しかも劉劭は天府を占拠し、首尾相応じて赴くことができません。これは危険な道です。諸鎮が唇歯の関係となるのを待ち、それから事を挙げるべきです」。慶之は声を厲して言った、「今まさに大事を興そうとしているのに、黄頭の小児までもが参預するとは、これ禍の至りである。斬って衆に示すべきです」。帝は言った、「竣は何故拝謝しないのか」。竣は起きて再拝した。慶之は言った、「君はただ筆札のことを知っていればよい」。そこで処分し、十日で内外が整い、時に皆これを神兵と呼んだ。百姓は欣悦した。

原文府主簿顏竣聞慶之至,馳入見帝曰:「今四方尚未知義師之舉,而劭據有天府,首尾不相應赴,此危道也。宜待諸鎭唇齒,然後舉事。」慶之厲聲曰:「今方興大事,而黃頭小兒皆參預,此禍至矣,宜斬以徇衆。」帝曰:「竣何不拜謝。」竣起再拜。慶之曰:「君但當知筆劄之事。」於是處分,旬日内外整辦,時皆謂神兵。百姓欣悅。

衆軍が既に集まると、慶之を仮に武昌内史とし、府司馬を兼ねさせた。孝武帝が尋陽に至ると、慶之および柳元景らはともに即位を勧めたが、許されなかった。賊の劉劭は慶之の門生である錢無忌を使者として書を齎し、慶之に甲を解くよう説得させた。慶之は無忌を捕らえてこれを白上した。孝武帝が践祚すると、慶之を領軍将軍とし、まもなく南兗州刺史として出し、都督を加え、盱眙に鎮し、南昌県公に封じた。

原文衆軍既集,假慶之爲武昌内史,領府司馬。孝武至尋陽,慶之及柳元景等並勸即大位,不許。賊劭遣慶之門生錢無忌齎書説慶之解甲,慶之執無忌白之。孝武踐阼,以慶之爲領軍將軍,尋出爲南兗州刺史,加都督,鎭盱眙,封南昌縣公。

孝建元年、魯爽が反逆し、慶之を薛安都らと共に派遣してこれを討たせた。安都は陣前に臨んで爽を斬り、慶之の号を鎮北大将軍に進めた。まもなく柳元景と共に開府儀同三司に任ぜられたが、固く辞退し、始興郡公に改封された。慶之は七十歳に満ちたことを理由に、固く職務の辞任を請い、侍中・左光禄大夫・開府儀同三司とされた。固く譲ったため、ついには額を地につけて自ら陳述し、語るごとに涙を流した。上(孝武帝)はその意志を奪うことができず、郡公のまま邸に退くことを許し、月に銭十万、米百斛こく、二衛の吏五十人を給した。

原文孝建元年,魯爽反,遣慶之與薛安都等往討之。安都臨陣斬爽,進慶之號鎭北大將軍。尋與柳元景倶開府儀同三司,固辭,改封始興郡公。慶之以年滿七十,固請辭事,以爲侍中、左光祿大夫、開府儀同三司。固讓,乃至稽顙自陳,言輒泣涕。上不能奪,聽以郡公罷就第,月給錢十萬,米百斛,二衞史五十人。

大明三年、司空竟陵王誕が広陵に拠って反逆したため、再び慶之を車騎大将軍・開府儀同三司に任じ、南兗州刺史を固辞させ、都督を加え、衆を率いてこれを討たせた。誕は客の沈道湣を使い、書を携えて慶之を説き、玉環刀を贈った。慶之は道湣を返し、誕の罪悪を数え上げた。慶之が城下に至ると、誕は楼に登って言った。「沈公、君は白髪の年齢であるのに、どうしてここへ来たのか。」慶之は言った。「朝廷は君が狂愚であるため、少壮を労するに足らず、故に私を使わしたのだ。」慶之は塹壕を埋め、攻道を造り、行楼・土山および諸々の攻城具を立てた。時は夏の雨期で攻城できず、上は御史中丞庾徽之に命じて慶之の官を免ずる上奏をさせて彼を激励したが、詔では問わなかった。誕が慶之に食物を贈ると、運ぶ者は百余人いたが、慶之は開けず、全て焼き捨てた。誕が城上から函に入れた上表文を投げ、慶之に届けさせようとした。慶之は言った。「私は詔を奉じて賊を討つのであって、汝の表を届けることはできない。」毎回攻城する際、慶之は常に士卒に先んじた。上は戒めて言った。「卿は統帥の任にあるのだから、処置を適切に行うべきであり、どうして自ら矢石に身をさらす必要があろうか。」四月から七月にかけて、ついに城を屠り誕を斬った。慶之を司空に進めたが、また固く爵位を辞した。ここにおいて柳元景と共に、晋の密陵侯鄭袤の故事に倣い、朝会では慶之の位次は司空に次ぎ、元景は従公の上とし、恤吏五十人を与え、門に行馬を設けた。

原文大明三年,司空竟陵王誕據廣陵反,復以慶之爲車騎大將軍、開府儀同三司,固讓南兗州刺史,加都督,率衆討之。誕遣客沈道湣齎書説慶之,餉以玉環刀。慶之遣道湣反,數以罪惡。慶之至城下,誕登樓謂曰:「沈公,君白首之年,何爲來此?」慶之曰:「朝廷以君狂愚,不足勞少壯,故使僕來耳。」慶之塞塹,造攻道,立行樓土山並諸攻具。時夏雨不得攻城,上使御史中丞庾徽之奏免慶之官以激之,制無所問。誕餉慶之食,提挈者百餘人,慶之不開,悉焚之。誕於城上投函表,令慶之爲送。慶之曰:「我奉制討賊,不得爲汝送表。」毎攻城,慶之輒身先士卒。上戒之曰:「卿爲統任,當令處分有方,何須身受矢石邪?」自四月至七月,乃屠城斬誕。進慶之司空,又固讓爵。於是與柳元景並依晉密陵侯鄭袤故事,朝會慶之位次司空,元景在從公之上,給恤吏五十人,門施行馬。

初め、慶之は鹵簿を引き連れて厠中に入る夢を見たことがあり、慶之は厠に入ることの卑しさを非常に嫌った。時に夢占いの巧みな者がこれを解き、言った。「君は必ず大富貴を得るが、それは旦夕のうちではない。」その理由を問うと、答えて言った。「鹵簿はそもそも富貴の容儀であり、厠は所謂後帝(のちの帝)を意味する。君の富貴は今の主上(孝武帝)の時ではないと知る。」中興の功績により、五校からこの地位に至り、三事(三公)に登った。

原文初,慶之嘗夢引鹵簿入廁中,慶之甚惡入廁之鄙。時有善占夢者爲解之,曰:「君必大富貴,然未在旦夕。」問其故,答云:「鹵簿固是富貴容,廁中所謂後帝也。知君富貴不在今主。」及中興之功,自五校至是而登三事。

四年、西陽の五水蛮が再び寇となったため、慶之は郡公として諸軍を統率し、これを討ち平らげた。

原文四年,西陽五水蠻復爲寇,慶之以郡公統諸軍討平之。

慶之は清明門外に住み、邸宅が四箇所あり、屋敷は非常に美しかった。また婁湖に園舎があり、慶之はある夜、子孫を連れてそこに移り住み、邸宅を官に返還した。親戚や中表の者を全て婁湖に移し、門を並べて同じ閈(垣)内に住まわせた。広く田園の事業を開き、よく土地を指さして人に言った。「銭は全てここにある。」中興の功により自ら大国を享け、家は元より富厚で、産業は万金を累ね、奴僕・僮僕は千を数えた。再び銭千万、穀一万斛を献上し、始興の封地が優遇されて近いことを理由に、南海郡への改封を求めたが、許されなかった。妓妾は十数人おり、皆美しい容姿で技芸に長けていた。慶之は悠々として事なく、心ゆくまで歓び楽しみ、朝賀以外は門を出なかった。遊幸や校猟に従うたび、鞍に据わって威厳を示し、少壮と異ならなかった。太子妃が孝武帝に金鏤の匕・箸及び杅・杓を献上すると、上はこれを慶之に賜り言った。「杯酌の賜物は、大夫(慶之)を先とすべきである。」

原文慶之居淸明門外,有宅四所,室宇甚麗。又有園舍在婁湖,慶之一夜攜子孫徙居之,以宅還官,悉移親戚中表於婁湖,列門同閈焉。廣開田園之業,毎指地語人曰:「錢盡在此。」中興身享大國,家素富厚,産業累萬金,奴僮千計。再獻錢千萬,谷萬斛,以始興封優近,求改封南海郡,不許。妓妾十數人,並美容工藝。慶之優遊無事,盡意歡愉,自非朝賀不出門。毎從遊幸及校獵,據鞍陵厲,不異少壯。太子妃上孝武金鏤匕箸及杅杓,上以賜慶之曰:「觴酌之賜,宜以大夫爲先也。」

上がかつて歓飲した際、広く群臣に詩を賦するよう命じた。慶之は口弁が少しある程度で、手は書を知らず、毎回署名する際、眼が字を識らないことを恨んでいた。上が無理に詩を作るよう命じると、慶之は言った。「臣は書を知りません。師伯に口授させてください。」上は直ちに顔師伯に筆を執らせた。慶之が口授して言った。「微生、幸いに遇うこと多く、時運の昌なるに逢うを得たり。朽ちたる老い、筋力尽き、徒歩にて還る南岡。栄を辞するこの聖世、何ぞ愧じん張子房に。」上は大いに喜び、座中の衆人も皆その文意の美しさを称えた。

原文上嘗歡飲,普令群臣賦詩,慶之粗有口辯,手不知書,毎將署事,輒恨眼不識字。上逼令作詩,慶之曰:「臣不知書,請口授師伯。」上即令顏師伯執筆。慶之口授之曰:「微生遇多幸,得逢時運昌。朽老筋力盡,徒歩還南岡。辭榮此聖世,何愧張子房。」上甚悅,衆坐並稱其辭意之美。

孝武帝が晏駕すると、慶之は柳元景らと共に顧命を受けた。遺制に「もし大軍旅及び征討があれば、全て慶之に委ねよ」とあった。前廃帝が即位すると、慶之に几杖を加え、三望車一乗を与えた。慶之が毎回朝賀する際、常に猪鼻で幰のない車に乗り、左右の従者は三五騎に過ぎなかった。園田を歩き回る際、農桑の忙しい月には、誰も従わず、出会う者はこれが三公であると知らなかった。三望車を加えられた時、人に言った。「私は毎回田園を歩き回る時、人がいれば馬と合わせて三となり、人がいなければ馬と合わせて二となる。今この車に乗って、どこへ行こうというのか。」几杖を賜った時も、共に固く辞した。柳元景・顔師伯がかつて慶之を訪ねた時、彼が田猟に出ているのに会い、元景らは笳を鳴らし士卒を列ねて道を満たした。慶之はただ左右一人と田におり、それを見て悄然として顔色を変え言った。「貧賤は住むべからず、富貴もまた守り難し。私は諸公と共に貧賤より出で、時に際会して、栄貴ここに至る。ただ共に損挹(謙退)のことを思うべきである。老子(私)八十の年、目に見る成敗は既に多い。諸君がこの車服を誇示するのは、何を為そうとするのか。」そこで杖を挿して草を耘り、彼らを顧みなかった。元景らは侍従を退け、裳をからげて彼に従い、慶之はようやく彼らと向き合って歓を交わした。

原文孝武晏駕,慶之與柳元景等並受顧命。遺制「若有大軍旅及征討,悉委慶之」。前廢帝即位,加慶之几杖,給三望車一乘。慶之毎朝賀,常乘豬鼻無幰車,左右從者不過三五騎。履行園田,毎農桑劇月,無人從行,遇之者不知三公也。及加三望車,謂人曰:「我毎游履田園,有人時與馬成三,無人則與馬成二。今乘此車,安所之乎?」及賜几杖,並固讓。柳元景、顏師伯嘗詣慶之,會其游田,元景等鳴笳列卒滿道,慶之獨與左右一人在田,見之悄然改容曰:「夫貧賤不可居,富貴亦難守。吾與諸公並出貧賤,因時際會,榮貴至此,唯當共思損挹之事。老子八十之年,目見成敗者已多,諸君炫此車服,欲何爲乎!」於是插杖而耘,不爲之顧。元景等徹侍褰裳從之,慶之乃與相對爲歡。

慶之が貴顕に通じて後、郷里の古老で元より慶之を軽んじていた者たちも、後に会うと皆膝行して前に進んだ。慶之は嘆いて言った。「やはり昔の沈公だ。」諸沈の中で賊の頭首となった者数十人を視察し、士民は皆これを憂えた。慶之は偽って酒宴を設けて大会を開き、一度に彼らを殺した。ここにおいて全境が粛清され、人々は皆喜んだ。

原文慶之既通貴,鄕里老舊素輕慶之者,後見皆膝行而前。慶之歎曰:「故是昔時沈公。」視諸沈爲劫首者數十人,士民悉患之。慶之詭爲置酒大會,一時殺之,於是合境肅淸,人皆喜悅。

廃帝が狂悖で道に外れ、衆人が彼の廃立を勧めた。柳元景らが謀を連ねた時、慶之に告げたが、慶之は江夏王義恭と親しくなく、その事を発覚させた。帝は義恭・元景らを誅し、慶之を侍中・太尉とした。義陽王昶が反逆すると、慶之は帝に従って江を渡り、衆軍を総統した。

原文廢帝狂悖無道,衆勸之廢立,及柳元景等連謀,以告慶之,慶之與江夏王義恭不厚,發其事。帝誅義恭、元景等,以慶之爲侍中、太尉。及義陽王昶反,慶之從帝度江,總統衆軍。

帝の凶暴は日増しに甚だしくなり、慶之はなおも言葉を尽くして諫争したが、帝の心は次第に悦ばなくなった。何邁を誅した後、慶之が同意しないことを慮り、彼が必ず来ると見て、青溪の諸橋を開いて遮断した。慶之は果たして行ったが、渡ることができずに帰った。帝はまた彼を忌み、その従子の攸之に薬を携えさせて賜死させた。時に八十歳。この年の元日、慶之は人が二匹の絹を与える夢を見、言われた。「この絹は足りる。」目覚めて人に言った。「老子は今年免れない。二匹は八十尺である。足りるとは、余りがないということだ。」死後、贈賻は甚だ厚く、侍中・太尉を追贈され、鸞輅・轀輬車、前後の羽葆・鼓吹を給され、諡して忠武公といった。未だ葬られないうちに、帝は敗れた。明帝が即位し、侍中・司空を追贈し、諡して襄公といった。泰始七年、蒼梧郡公に改封された。慶之の群従・姻戚で、慶之の列位によって官位を得た者は数十人いた。

原文帝凶暴日甚,慶之猶盡言諫爭,帝意稍不悅。及誅何邁,慮慶之不同,量其必至,乃開靑溪諸橋以絶之。慶之果往,不得度而還。帝又忌之,乃遣其從子攸之齎藥賜死,時年八十。是歳旦,慶之夢有人以兩疋絹與之,謂曰:「此絹足度。」寤而謂人曰:「老子今年不免矣。兩疋,八十尺也,足度,無盈餘矣。」及死,贈賻甚厚,追贈侍中、太尉如故,給鸞輅轀輬車,前後羽葆、鼓吹,諡曰忠武公。未及葬,帝敗。明帝即位,追贈侍中、司空,諡曰襄公。泰始七年,改封蒼梧郡公。慶之群從姻戚,由慶之在列位者數十人。

慶之の長子 文叔

原文慶之長子 文叔

長子の文叔は侍中の位にあった。慶之が死んだ時、薬を飲むことを肯ぜず、攸之が被で押し殺した。文叔は密かに薬を取って隠し持った。ある者が文叔に逃避を勧めたが、文叔は帝が江夏王義恭の肢体を切断したのを見て、逃亡した日に、帝が怒り、義恭のような変事を招くことを恐れ、薬を飲んで自殺した。文叔の子の昭明は秘書郎の位にあり、父の死を聞き言った。「どうして一人で生きることを忍ぼうか。」また自ら縊死した。

原文長子文叔位侍中,慶之之死也,不肯飲藥,攸之以被掩殺之,文叔密取藥藏録。或勸文叔逃避,文叔見帝斷截江夏王義恭支體,慮奔亡之日,帝怒,容致義恭之變,乃飲藥自殺。文叔子昭明位祕書郎,聞父死,曰:「何忍獨生。」亦自縊死。

元徽元年、先の封に復した。時に始興を広興と改めた。昭明の子の曇亮が広興郡公を襲封した。斉が禅を受け、国は除かれた。昭明の弟に昭略がいる。

原文元徽元年,還復先封,時改始興爲廣興。昭明子曇亮襲廣興郡公,齊受禪,國除。昭明弟昭略。

文叔の子 昭略

原文文叔子 昭略

昭略は字を茂隆といい、性質は狂傲で俊敏、公卿に仕えることをせず、酒をたしなみ気概に任せ、誰をも推し下すことはなかった。かつて酔って、夕日に杖を負い家賓や子弟を連れて婁湖苑に至り、王景文の子の王約に逢い、目を見開いて彼を見て言った、「汝は王約か、どうして肥えて痴なるのか」。王約は言った、「汝は沈昭略か、どうして痩せて狂なるのか」。昭略は手を打って大笑いし、言った、「痩せは既に肥に勝ち、狂はまた痴に勝つ、いかんせん王約、汝の痴をいかんせん」。

原文昭略字茂隆,性狂俊,不事公卿,使酒仗氣,無所推下。嘗醉,晩日負杖攜家賓子弟至婁湖苑,逢王景文子約,張目視之曰:「汝是王約邪?何乃肥而癡。」約曰:「汝沈昭略邪?何乃瘦而狂。」昭略撫掌大笑曰:「瘦已勝肥,狂又勝癡,奈何王約,奈汝癡何!」

升明の末、相国西曹掾となった。斉の高帝はこれを賞し、即位すると、王儉に言った、「南士の中に沈昭略がいるが、どの職に処すべきか」。王儉は前軍将軍に擬すべきとし、上は違えたくなく、その上奏を許可した。まもなく中書郎となり、累遷して侍中となった。王晏がかつて昭略をからかって言った、「賢叔は呉興の僕射と言えよう」。昭略は言った、「家叔は晩年に僕射に登ったが、なお尊君が卿を初蔭としたよりは賢い」。

原文升明末,爲相國西曹掾。齊髙帝賞之,及即位,謂王儉曰:「南士中有沈昭略,何職處之?」儉以擬前軍將軍,上不欲違,乃可其奏。尋爲中書郎,累遷侍中。王晏嘗戲昭略曰:「賢叔可謂呉興僕射。」昭略曰:「家叔晩登僕射,猶賢於尊君以卿爲初蔭。」

永元の中、叔父の文季とともに召されて華林省に入り、茹法珍らが薬酒を進めると、昭略は怒って徐孝嗣を罵って言った、「昏きを廃し明きを立てるは、古今の令典、宰相に才なく、今日あるに致る」。甌をその面に投げつけ、言った、「破面の鬼とならしめん」。死する時も言笑自若、少しも懼れる容色がなかった。徐孝嗣が言った、「卿を見て人に夏侯泰初を想わしむ」。答えて言った、「明府はなお夏侯を憶うとは、すなわち方寸がことごとく豁然とせざるなり。下官は龍逢・比干を見て、欣然として相対す。霍光がもし明府に今日の事を問わば、何の辞をもってこれに答えんや」。

原文永元中,與叔父文季倶被召入華林省,茹法珍等進藥酒,昭略怒駡徐孝嗣曰:「廢昏立明,古今令典,宰相無才,致有今日。」以甌投其面,曰:「使爲破面鬼。」死時言笑自若,了無懼容。徐孝嗣謂曰:「見卿使人想夏侯泰初。」答曰:「明府猶憶夏侯,便是方寸不能都豁。下官見龍逄、比干,欣然相對;霍光脱問明府今日之事,何辭答之邪?」

昭略の弟 昭光

原文昭略弟 昭光

昭略の弟の昭光は収兵の至るを聞き、家人は逃げ去るよう勧めたが、昭光は母を捨てるに忍びず、入って母の手を執り悲泣し、ついに殺された。時に昭明の子の曇亮はすでに逃げ去っていたが、昭光の死を聞き、言った、「家門屠滅され、独り生きて何を為さん」。また喉を絶って死んだ。時に人はその累世の孝義を歎じた。中興元年、昭略に太常を贈り、昭光に廷尉を贈った。

原文昭略弟昭光聞收兵至,家人勸逃去,昭光不忍舍母,入執母手悲泣,遂見殺。時昭明子曇亮已得逃去,聞昭光死,乃曰:「家門屠滅,獨用生何爲。」又絶吭而死。時人歎其累世孝義。中興元年,贈昭略太常,昭光廷尉。

文叔の弟 文季

原文文叔弟 文季

文季は字を仲達といい、文叔の弟である。寛雅正直をもって知られ、特に塞及び弾碁を善くし、宋において山陽県五等伯に封ぜられ、位は中書郎となった。父の慶之が害に遇うと、諸子は収捕され、文叔は彼に言った、「我は死すべく、爾は報いるべし」。ついに自殺した。文季は刀を揮い馬を馳せて去り、収捕する者は敢えて追わず、ついに免れた。

原文文季字仲達,文叔弟也。以寬雅正直見知,尤善塞及彈碁,在宋封山陽縣五等伯,位中書郎。父慶之遇害,諸子見收,文叔謂之曰:「我能死,爾能報。」遂自殺。文季揮刀馳馬去,收者不敢追,遂免。

明帝が立つと、黄門郎となり、長水校尉を領した。明帝が朝臣を宴会し、南台御史の賀咸を柱下史とし、酔わざる者を糾させると、文季は飲むことを肯ぜず、駆り下殿させられた。晋平王の休佑が南徐州となると、帝は褚彦回に幹事の人を求めて上佐とし、彦回は文季を挙げ、転じて驃騎長史・南東海太守となった。休佑が殺されると、薨礼を用いたが、僚佐は多く敢えて至らず、文季のみ独り墓に往き哀を展べた。元徽の初、秘書監より出でて呉興太守となった。文季は酒を五斗まで飲み、妻の王氏もまた三斗まで飲み、かつて対飲して竟日を過ごし、しかも視事は廃れなかった。

原文明帝立,爲黃門郎,領長水校尉。明帝宴會朝臣,以南台御史賀咸爲柱下史,糾不醉者,文季不肯飲,被驅下殿。晉平王休佑爲南徐州,帝就褚彦回求幹事人爲上佐,彦回舉文季,轉驃騎長史、南東海太守。休佑被殺,雖用薨禮,僚佐多不敢至,文季獨往墓展哀。元徽初,自秘書監出爲呉興太守。文季飲酒至五斗,妻王氏飲亦至三斗,嘗對飲竟日,而視事不廢。

升明元年、沈攸之が反し、斉の高帝は文季に冠軍将軍・督呉興銭唐軍事を加えた。初め、慶之の死の時、攸之は行を求めたが、ここに至り文季は攸之の弟の新安太守登之を収め、その宗族を誅し、以て旧怨を復し、親党に吹火する者もなかった。君子は文季が先の恥を報いる能くしたとす。斉国が建つと、侍中となり、秘書監を領した。建元元年、転じて太子右衛率となり、侍中はもと通りとした。西豊県侯に改封された。

原文升明元年,沈攸之反,齊髙帝加文季冠軍將軍、督呉興錢唐軍事。初,慶之之死也,攸之求行,至是文季收攸之弟新安太守登之,誅其宗族,以復舊怨,親黨無吹火焉。君子以文季能報先恥。齊國建,爲侍中,領秘書監。建元元年,轉太子右衞率,侍中如故。改封西豐縣侯。

文季は風采が棱岸にして、進止に善く、司徒の褚彦回は当時の貴望であったが、頗る門戸をもって彼を裁した。文季は彼のために屈しなかった。武帝が東宮に在った時、玄圃において朝臣を宴し、文季は数たび酒を挙げて彦回を勧めた。彦回は甚だ不平で、武帝に啓して言った、「沈文季は彦回がかつてその郡であったことを謂い、依然としてなお故情ありとす」。文季は言った、「惟だ桑と梓とは、必ず恭敬して止む。豈に明府の亡国失土、枌楡を識らざるに如かんや」。ついに魏軍の動事に言及した。彦回は言った、「陳顕達・沈文季は当今の将略、辺事に委するに足る」。文季は将門と称されることを諱いみなり、これにより怒りを発し、武帝に啓して言った、「褚彦回は遂に人流を品藻す、臣はその身死の日、何の面目をもって宋の明帝に見えんかを知らず」。武帝は笑って言った、「沈率は酔えり」。中丞の劉休がその事を挙げ、見原された。後、豫章王の北宅の後堂で集会し、文季と彦回はともに琵琶を善くし、酒闌けて、彦回は楽器を取って明君の曲を為した。文季はすなわち席を下り大いに唱えて言った、「沈文季は伎児を為す能わず」。豫章王の蕭嶷はまたこれを解いて言った、「此れ故に仲容の徳を損なわざるべし」。彦回の顔色は異なることなく、曲が終わって止んだ。

原文文季風采棱岸,善於進止,司徒褚彦回當時貴望,頗以門戸裁之。文季不爲之屈。武帝在東宮,於玄圃宴朝臣,文季數舉酒勸彦回。彦回甚不平,啓武帝曰:「沈文季謂彦回經爲其郡,依然猶有故情。」文季曰:「惟桑與梓,必恭敬止。豈如明府亡國失土,不識枌楡。」遂言及魏軍動事。彦回曰:「陳顯達、沈文季當今將略,足委以邊事。」文季諱稱將門,因是發怒,啓武帝曰:「褚彦回遂品藻人流,臣未知其身死之日,何面目見宋明帝。」武帝笑曰:「沈率醉也。」中丞劉休舉其事,見原。後豫章王北宅後堂集會,文季與彦回並善琵琶,酒闌,彦回取樂器爲明君曲。文季便下席大唱曰:「沈文季不能作伎兒。」豫章王嶷又解之曰:「此故當不損仲容之德。」彦回顏色無異,終曲而止。

永明の中、累遷して領軍将軍となった。文季は学ばざるも、発言すれば必ず辞采があった。武帝が文季に言った、「南士に僕射無く、多年を歴たり」。文季は対えて言った、「南風競わず、復た一日に非ず」。当世はその対を善しとした。

原文永明中,累遷領軍將軍。文季雖不學,發言必有辭采。武帝謂文季曰:「南士無僕射,多歴年所。」文季對曰:「南風不競,非復一日。」當世善其對。

明帝が政を輔けると、文季を江州としようとし、左右の単景雋を遣わして旨を宣した。文季は陳譲し、老いを称して外出を願わず、ついに右執法に人あるか否かを問うた。景雋は還って具にこれを言った。延興元年、以て尚書右僕射とした。明帝が即位すると、太子詹事を加領し、尚書令の王晏がかつて文季をからかって呉興の僕射と言った。文季は答えて言った、「琅邪の執法、卿の門より出でざるに似たり」。

原文明帝輔政,欲以文季爲江州,遣左右單景雋宣旨。文季陳讓,稱老不願外出,因問右執法有人未,景雋還具言之。延興元年,以爲尚書右僕射。明帝即位,加領太子詹事,尚書令王晏嘗戲文季爲呉興僕射。文季答曰:「琅邪執法,似不出卿門。」

建武二年、魏軍が南伐し、明帝はこれを憂い、制して文季に寿春を鎮守させた。文季が入ると、城門を厳しく備守した。魏軍はまもなく退き、百姓は損するところ無かった。

原文建武二年,魏軍南伐,明帝以爲憂,制文季鎭壽春。文季入,城門嚴加備守。魏軍尋退,百姓無所損。

永元元年、転じて侍中・左僕射となった。始安王の遙光が反し、その夜、宅に遣わして文季を掩取し、以て都督としようとしたが、文季はすでに台に還っていた。明日、尚書令の徐孝嗣とともに南掖門上に坐した。時に東昏はすでに殺戮を行い、孝嗣は深く憂慮を懐き、文季と時事を論じようとしたが、文季は輒ち他辞を以て引き、終に及ぶを得なかった。事が寧むと、鎮軍将軍を加え、府史を置いた。

原文永元元年,轉侍中、左僕射。始安王遙光反,其夜遣於宅掩取文季,欲以爲都督,而文季已還台。明日,與尚書令徐孝嗣共坐南掖門上。時東昏已行殺戮,孝嗣深懷憂慮,欲與文季論時事,文季輒引以他辭,終不得及。事甯,加鎭軍將軍,置府史。

文季は時方昏乱なるを以て、老疾に托して朝機に預からず。兄の子の昭略が文季に言った、「阿父は年六十にして員外僕射たり、免れんことを求むるか」。文季は笑って答えず、まもなく害に遇った。先に召されると、すなわち敗るるを知り、挙動は常の如し。車に登り顧みて言った、「この行は往きて反らざるを恐る」。華林省において死し、年五十八、朝野これを冤とした。中興元年、司空を贈り、諡して忠憲公といった。

原文文季以時方昏亂,托老疾不豫朝機。兄子昭略謂文季曰:「阿父年六十爲員外僕射,欲求免乎?」文季笑而不答,未幾見害。先被召,便知敗,舉動如常。登車顧曰:「此行恐往而不反。」於華林省死,年五十八,朝野冤之。中興元年,贈司空,諡曰忠憲公。

文秀は字を仲遠といい、慶之の弟の子である。父の邵之は、南中郎行参軍であった。文秀は宋の前廃帝の時に累進して青州刺史となり、任地に赴こうとして、配下の兵を率いて白下に駐屯した。文秀は慶之に、帝が狂悖であり禍が測り難いので、この兵衆の力に乗じて図ろうと説いた。慶之は従わなかった。出発後、慶之は果たして殺害された。また直閤の江方興に兵を率いて文秀を誅するよう命じたが、到着する前に明帝が乱を平定した。時に晋安王の子勛が尋陽を占拠し、文秀は徐州刺史の薛安都と共に子勛に同調して反乱した。尋陽が平定されると、明帝はその弟を派遣して文秀を召し出し、文秀は帰順して罪を請うた。そのまま本来の任に留まった。

原文文秀字仲遠,慶之弟子也。父邵之,南中郎行參軍。文秀宋前廢帝時,累遷靑州刺史,將之鎭,部曲出次白下。文秀説慶之以帝狂悖,禍在難測,欲因此衆力圖之。慶之不從。及行,慶之果見殺。又遣直閣江方興領兵誅文秀,未至,而明帝已定亂。時晉安王子勳據尋陽,文秀與徐州刺史薛安都並同子勳反。尋陽平定,明帝遣其弟召之,便歸命請罪。即安本任。

四年、新城県侯に封ぜられた。先に冀州刺史の崔道固も歴城を拠点として同様に反乱し、文秀は使者を送って魏を誘い、魏は慕容白曜を派遣してこれを救援した。到着した時には、文秀は既に朝廷の命令を受けていた。文秀は撫民統御に長け、魏に包囲されて三年に及んだが、裏切る者はなかった。五年、魏に攻略され、北方で没した。

原文四年,封新城縣侯。先是冀州刺史崔道固亦據歴城同反,文秀遣信引魏,魏遣慕容白曜援之。及至,而文秀已受朝命。文秀善於撫禦,被魏圍三載無叛者。五年,爲魏所克,終於北。

慶之の従父の兄の子に攸之がいる。

原文慶之從父兄子 攸之

攸之は字を仲達といい、慶之の従父の兄の子である。父の叔仁は宋の衡陽王義季の征西長史となり、行参軍を兼ねて隊を率いた。

原文攸之字仲達,慶之從父兄子也。父叔仁爲宋衡陽王義季征西長史,兼行參軍領隊。

攸之は幼くして孤貧であった。元嘉二十七年、魏軍が南攻すると、朝廷は三呉の民衆を徴発し、攸之も従軍した。建鄴に到着すると、領軍将軍の劉遵考のもとを訪れ、白丁隊主に補任されるよう求めた。遵考はその容貌が醜く堪えられないとしたので、攸之は嘆いて言った。「昔、孟嘗君は身長六尺で斉の宰相となった。今、士を求めるのに肥大な者を取るというのか」。そこで慶之に従って征討に参加した。

原文攸之少孤貧,元嘉二十七年,魏軍南攻,朝廷發三呉之衆,攸之亦行。及至建鄴,詣領軍將軍劉遵考求補白丁隊主。遵考以爲形陋不堪,攸之歎曰:「昔孟嘗君身長六尺爲齊相,今求士取肥大者哉。」因隨慶之征討。

二十九年、西陽の蛮を征討し、初めて隊主に補任された。巴口で義兵を挙げると、南中郎府の板長兼行参軍を授けられた。新亭の戦いでは重傷を負い、事態が収まると、太尉行参軍となり、平洛県五等侯に封ぜられた。府に随って転任し、大司馬行参軍となった。

原文二十九年,征西陽蠻,始補隊主。巴口建義,授南中郎府板長兼行參軍。新亭之戰,身被重創,事甯,爲太尉行參軍,封平洛縣五等侯。隨府轉大司馬行參軍。

晋の時代、都下の二岸(秦淮河の南北)の揚州には従来、都部従事を置き、二県の非違を分掌していたが、永初以後に廃止された。孝建三年、その職を復活させ、攸之が北岸を、会稽の孔璪が南岸を掌ったが、後にまた廃止された。攸之は員外散騎侍郎に昇進し、また慶之に従って広陵を征討し、幾度も功績を挙げ、矢を受けて骨を砕かれた。孝武帝はその善戦ぶりを認め、仇池の歩矟(歩兵用の矛)を配備した。事態平定後、厚く賞すべきところであったが、慶之に抑えられた。太子旅賁中郎に昇進したが、攸之はこれを甚だ恨んだ。

原文晉時都下二岸揚州舊置都部從事,分掌二縣非違,永初以後罷省。孝建三年,復置其職,攸之掌北岸,會稽孔璪掌南岸,後又罷。攸之遷員外散騎侍郎,又隨慶之征廣陵屢有功,被箭破骨。孝武以其善戰,配以仇池歩矟。事平當加厚賞,爲慶之所抑。遷太子旅賁中郎,攸之甚恨之。

前廃帝の景和元年、豫章王の子尚の車騎中兵参軍・直閤に任ぜられ、宗越・譚金らと共に廃帝に寵愛された。群公を誅戮するにあたり、攸之らは皆そのために命を用い、東興県侯に封ぜられた。

原文前廢帝景和元年,除豫章王子尚車騎中兵參軍、直合,與宗越、譚金等並爲廢帝所寵。誅戮群公,攸之等皆爲之用命,封東興縣侯。

明帝が即位すると、例により封を削られた。まもなく宗越・譚金らの謀反を告発し、再び直閤に召し出された。ちょうど四方で反乱が起こり、南賊(反乱軍)が既に近道に迫っていたので、攸之を寧朔将軍・尋陽太守とし、軍を率いて虎檻を占拠させた。時に王玄謨が大統(総指揮官)であったが未だ出発せず、前鋒に五軍が虎檻にあり、五軍の後さらに続々と到着し、毎夜それぞれに姓号(合言葉)を立て、互いに命令を受けなかった。攸之は軍吏に言った。「今、衆軍が共に挙兵しているのに姓号が同じでない。もし農夫や漁師が夜に互いに叱り合えば、たちまち混乱を来たし、これ敗北の道である。一軍の号を取り上げることを請う」。衆は皆これに従った。

原文明帝即位,以例削封。尋告宗越、譚金等謀反,復召直合。會四方反叛,南賊已次近道,以攸之爲甯朔將軍、尋陽太守,率軍據虎檻。時王玄謨爲大統未發,前鋒有五軍在虎檻,五軍後又駱驛繼至,毎夜各立姓號,不相稟受。攸之謂軍吏曰:「今衆軍同舉,而姓號不同,若有耕夫漁父夜相呵叱,便致駭亂,此敗道也。請就一軍取號。」衆咸從之。

殷孝祖が前鋒都督であったが、人心を大いに失っていた。攸之は内に将士を慰撫し、外に諸将帥と和合させ、衆は皆安んじた。時に殷孝祖が流れ矢に当たって死ぬと、軍主の範潜が五百人を率いて賊に投降し、人心は震駭し、皆、攸之が孝祖に代わって総指揮官となるべきだと言った。時に建安王の休仁が虎檻に駐屯し、衆軍を総統していたが、孝祖の死を聞き、寧朔将軍の江方興と龍驤将軍の劉霊遺にそれぞれ三千人を率いて赭圻へ赴かせた。攸之は、孝祖が既に死んだ以上、賊には乗勝の勢いがあり、明日もし攻撃を改めなければ、弱さを見せることになると考えた。方興の名位は自分と同等で、必ずや自分の下にはつかないだろう。軍政が統一されないことが敗北の原因である。そこで諸軍主を率いて方興のもとを訪れ、彼を推重し、かつ慰労激励したので、方興は大いに喜んだ。攸之が出て行くと、諸軍主は皆、攸之を非難した。攸之は言った。「卿らは廉頗と藺相如、寇恂と賈復の故事を忘れたのか。私はそもそも国を救い家を生かすためであって、どうしてこの昇降を計ろうか」。翌朝進軍して戦い、寅の刻から午の刻までに、赭圻において賊を大破した。まもなく輔国将軍の号を加えられ、孝祖に代わって前鋒諸軍事を督した。薛常保らが赭圻で食糧が尽き、南賊の大帥の劉胡が濃湖に駐屯し、袋に米を入れて流木や船腹に結び付け、船を覆い隠して、風に順って流し下り、赭圻を補給した。攸之は怪しいと思い、人を遣わして船や流木を取らせると、大量の袋入りの米を得た。まもなく赭圻を攻略した。

原文殷孝祖爲前鋒都督,大失人情,攸之内撫將士,外諧群帥,衆並安之。時殷孝祖中流矢死,軍主範潛率五百人投賊,人情震駭,並謂攸之宜代孝祖爲統。時建安王休仁屯虎檻,總統衆軍,聞孝祖死,遣甯朔將軍江方興、龍驤將軍劉靈遺各率三千人赴赭圻。攸之以爲孝祖既死,賊有乘勝之心,明日若不更攻,則示之以弱。方興名位相亞,必不爲己下,軍政不一,致敗之由,乃率諸軍主詣方興推重,並慰勉之,方興甚悅。攸之既出,諸軍主並尤之。攸之曰:「卿忘廉藺、寇賈事邪?吾本以濟國活家,豈計此之升降。」明旦進戰,自寅訖午,大破賊於赭圻。尋進號輔國將軍,代孝祖督前鋒諸軍事。薛常保等在赭圻食盡,南賊大帥劉胡屯濃湖,以囊盛米系流査及船腹,陽覆船,順風流下,以餉赭圻。攸之疑其有異,遣人取船及流査,大得囊米,尋克赭圻。

寧蛮校尉・雍州刺史に転じ、都督を加えられた。袁顗がまた大軍を率いて鵲尾に入り、相持すること久しく、軍主の張興世が鵲尾を越えて上流の銭渓を占拠すると、劉胡は自らこれを攻撃した。攸之は諸将を率いて濃湖を攻撃した。銭渓からの報告が届き、賊を大破したと知ると、攸之は銭渓から送られてきた劉胡軍兵士の耳鼻をすべて示した。袁顗は驚き恐れ、急いで劉胡を呼び戻した。攸之の諸軍は全力で進攻し、多くを斬り捕らえ、劉胡はついに衆を棄てて逃走し、袁顗も逃走した。赭圻・濃湖が平定された時、賊軍が放棄した物資財貨は、珍宝が山のように積まれ、諸軍はそれぞれ競って収奪したが、ただ攸之と張興世だけは配下を規律し、毫芥も犯さず、諸将はこのことで彼らを称賛した。攸之は進軍して尋陽を平定し、中領軍に転じ、貞陽県公に封ぜられた。時に劉遵考が光禄大夫であったが、攸之は御座の前で遵考に言った。「形陋の人は今どうか」。帝が尋ねると、攸之は実情に基づいて答え、帝は大笑いした。

原文遷甯蠻校尉、雍州刺史,加都督。袁顗復率大衆來入鵲尾,相持既久,軍主張興世越鵲尾上據錢溪,劉胡自攻之。攸之率諸將攻濃湖。錢溪信至大破賊,攸之悉以錢溪所送胡軍耳鼻示之。顗駭懼,急追胡還。攸之諸軍悉力進攻,多所斬獲,胡於是棄衆而奔,顗亦奔走。赭圻、濃湖之平也,賊軍委棄資財,珍貨山積,諸軍各競收斂,唯攸之、張興世約勒所部,不犯毫芥,諸將以此多之。攸之進平尋陽,遷中領軍,封貞陽縣公。時劉遵考爲光祿大夫,攸之在御坐謂遵考曰:「形陋之人今何如?」帝問之,攸之依實對,帝大笑。

累進して郢州えいしゅう刺史となったが、政治は苛酷暴虐で、時には士大夫を鞭打った。上佐以下で意に逆らう者があれば、面と向かって罵辱を加えた。しかし吏事に通暁し、自ら努めて怠らず、士庶は畏れ憚り、敢えて欺く者はいなかった。猛獣がいると聞けば、自ら包囲捕獲し、行って獲られないことはなく、一日に二、三頭を得ることもあった。もし日暮れまでに捕らえられなければ、夜通し包囲して守った。賦斂は厳しく苦しく、徴発は度を越え、船艦を修繕し、武器甲冑を製造した。夏口に至って以来、異心を抱いていた。豫・司の二郡軍事を監することを加えられ、鎮軍将軍の号を進められた。

原文累遷郢州刺史,爲政刻暴,或鞭士大夫。上佐以下有忤意,輒面加詈辱。而曉達吏事,自強不息,士庶畏憚,人莫敢欺。聞有猛獸,輒自圍捕,往無不得,一日或得兩三。若逼暮不禽,則宿昔圍守。賦斂嚴苦,徴{發}-無度,繕修船舸,營造器甲。自至夏口,便有異圖。進監豫、司之二郡軍事,進號鎭軍將軍。

泰豫元年、明帝が崩御すると、攸之と蔡興宗は共に外藩におり、共に顧命を受けた。ちょうど巴西の李承明が反乱し、蜀の地が騒擾した。時に荊州刺史の建平王景素が召還され、新たに任じられた荊州刺史の蔡興宗は未だ任地に赴いていなかったので、攸之を派遣して荊州の事務を代行させた。承明が既に平定されたので、攸之を鎮西将軍・荊州刺史とし、都督を加えた。兵力を集め、馬を飼養すること二千余匹に及び、これらをすべて巡察の将士に分け与え、耕田させて自活させた。財貨はすべて倉庫に充てた。荊州の作部が毎年数千人分の兵器を送ってくるのを、攸之はこれを切り取って留め置き、帳簿には「四山の蛮を討つために供する」と記した。戦艦数百千艘を装備し、霊渓の中に沈め、銭帛器械は巨大に積み上げた。次第に臣下に非ざる心を抱き、朝廷の制度に従うことはなかった。富貴は王者に匹敵し、夜中に諸廂廊の燭を朝まで灯し、後房で珠玉を身に着ける者は数百人に及び、皆、当代随一の美貌であった。

原文泰豫元年,明帝崩,攸之與蔡興宗並在外蕃,同預顧命。會巴西人李承明反,蜀土搔擾。時荊州刺史建平王景素被征,新除荊州刺史蔡興宗未之鎭,乃遣攸之權行荊州事。會承明已平,乃以攸之爲鎭西將軍、荊州刺史,加都督。聚斂兵力,養馬至二千餘匹,皆分賦邏將士,使耕田而食。廩財悉充倉儲。荊州作部歳送數千人仗,攸之割留之,簿上云:「供討四山蠻」。裝戰艦數百千艘,沈之靈溪裏,錢帛器械巨積。漸懷不臣之心,朝廷制度無所遵奉。富貴擬於王者,夜中諸廂廊然燭達旦,後房服珠玉者數百人,皆一時絶貌。

江州刺史桂陽王劉休範は密かに異心を抱き、微意をもって沈攸之を動かそうと、道士の陳公昭に天公書一通を作らせ、表題に「沈丞相」と記して攸之の門番に送らせた。攸之は書を開かず、推問して公昭を捕らえ、朝廷に送った。後廃帝元徽二年、休範は兵を挙げて都を襲撃しようとした。攸之は僚佐に言った、「桂陽王は今朝廷を逼迫せんとしている。必ずや我が彼と同心なりと声言するであろう。もし狼狽して勤王せずば、必ず朝野の疑惑を増すことになろう」。そこで使者を遣わして郢州刺史晉熙王劉燮の節度を受けた。休範が平定されるに及び、使者は帰還した。征西大将軍・開府儀同三司の号を進められたが、開府を固辞した。攸之は閫外の権を専らにするに及び、朝廷は彼を疑い畏れた。しばしば召還しようとしたが、命を受けないことを慮り、やめた。

原文江州刺史桂陽王休範密有異志,欲以微旨動攸之,使道士陳公昭作天公書一函,題言沈丞相,送攸之門者。攸之不開書,推撿得公昭,送之朝廷。後廢帝元徽二年,休範舉兵襲都,攸之謂僚佐曰:「桂陽今逼朝廷,必聲言吾與之同,若不顛沛勤王,必增朝野之惑。」於是遣使受郢州刺史晉熙王燮節度。會休範平,使乃還。進號征西大將軍、開府儀同三司,固讓開府。攸之自擅閫外,朝廷疑憚之,累欲征入,慮不受命,乃止。

四年、建平王劉景素が京城を拠って反逆すると、攸之は再び朝廷に応じ、景素はまもなく平定された。時に台直閣の高道慶という者がおり、家は江陵にあった。攸之が初めて州に着任した時、道慶は家におり、親戚十余人の名簿を提出して州の従事西曹を求めたが、攸之は三人を用いただけだった。道慶は大いに怒り、自ら州に入って教書を引き裂き去った。道慶はもともと馬術に長けていた。攸之が聴事の前で宴飲し、馬槊を合わせたところ、道慶の槊が攸之の馬鞍に当たった。攸之は怒って刃槊を求めると、道慶は馬を馳せて出て行った。都に戻ると攸之の反逆の様子を説き、三千人を以て彼を襲撃することを請うた。朝議はその事の成就し難きを慮り、高帝もまたこれを保して許さなかった。楊運長らは常に疑い畏れていたので、道慶と密かに刺客を遣わし、廃帝の手詔を齎らせ、金餅を攸之に賜り、州府の佐吏に階級を進めることとした。時に象三頭が江陵城北数里に至った。攸之は自ら出てこれを格殺した。忽ち流れ矢が攸之の馬の障泥に集まった。その後、刺客の事が発覚した。廃帝が既に崩じ、順帝が即位すると、攸之に車騎大将軍・開府儀同三司を加えた。斉の高帝は攸之の子である司徒左長史沈元琰を遣わし、廃帝を刳斮した器具を示した。攸之は言った、「我は寧ろ王淩の如く死すとも、賈充の如く生きん」。未だ直ちに兵を挙げるには至らず、上表して慶賀を称し、併せて斉の高帝に書を送り功を推した。

原文四年,建平王景素據京城反,攸之復應朝廷,景素尋平。時有台直合髙道慶家在江陵,攸之初至州,道慶在家,牒其親戚十餘人,求州從事西曹,攸之爲用三人。道慶大怒,自入州取教毀之而去。道慶素便馬,攸之與宴飲於聽事前,合馬槊,道慶槊中攸之馬鞍,攸之怒索刃槊,道慶馳馬而出。還都説攸之反狀,請三千人襲之。朝議慮其事難濟,髙帝又保持不許。楊運長等常相疑畏,乃與道慶密遣刺客齎廢帝手詔,以金餅賜攸之,州府佐吏進其階級。時有象三頭至江陵城北數里,攸之自出格殺之,忽有流矢集攸之馬鄣泥,其後刺客事發。廢帝既殞,順帝即位,加攸之車騎大將軍、開府儀同三司。齊髙帝遣攸之子司徒左長史元琰齎廢帝刳斮之具以示之,攸之曰:「吾甯爲王淩死,不作賈充生。」尚未得即起兵,乃上表稱慶,並與齊髙帝書推功。

攸之は素書十数行を持っており、常に両襠の角に隠し持っていた。これは宋の明帝が己と交わした約誓の書であるという。また皇太后の使者が至り、攸之に燭十挺を賜った。これを割くと太后の手令が得られ、曰く「国家の事は、一に公に委ねる」。明日、遂に兵を挙げた。その妾の崔氏と許氏が諫めて言った、「官は既に年老いておられます。どうして一族百口のためを計られないのですか」。攸之は両襠の角を指して示した。

原文攸之有素書十數行,常韜在兩襠角,云是宋明帝與己約誓。又皇太后使至,賜攸之燭十挺,割之得太后手令,曰:「國家之事,一以委公」。明日,遂舉兵。其妾崔氏、許氏諫曰:「官年已老,那不爲百口作計。」攸之指兩襠角示之。

攸之は平素より士馬を蓄え、資用豊かに積んでいた。この時に至り、戦士十万、鉄馬三千を擁した。江陵を発せんとするに当たり、沙門の釈僧粲に占わせたところ、言うには「都には至らず、郢州において回還すべし」。

原文攸之素畜士馬,資用豐積,至是戰士十萬,鐵馬三千。將發江陵,使沙門釋僧粲筮之,云:「不至都,當自郢州回還。」

意甚だ悦ばず。初めて江津を発する時、気の状塵霧の如きものが西北より来たり、まさに軍の上を覆った。斉の高帝は衆軍を遣わして西討させた。攸之は鋭を尽くして郢州を攻めたが、行事の柳世隆にしばしば破られた。升明二年、江陵に還ろうとしたが、未だ至らぬうちに、城は既に雍州刺史張敬児に占拠され、帰る所なく、乃ち第三子の中書侍郎沈文和と共に華容の賞頭林に至り、州吏の家に身を寄せた。この吏はかつて攸之に鞭打たれたことがあったが、攸之を厚く遇し、過去の罰を怨みとせず、豚を殺して食事を進めた。やがて村人が彼らを捕らえようとしたので、攸之は櫟林において文和と共に自縊して死んだ。村人はその首を斬って都に送った。ある者はその腹を割くと、心臓に五つの竅があった。征西主簿の苟昭先が家財を以て攸之を葬った。

原文意甚不悅。初發江津,有氣狀如塵霧從西北來,正蓋軍上。齊髙帝遣衆軍西討,攸之盡鋭攻郢州,行事柳世隆屢破之。升明二年,還向江陵,未至,城已爲雍州刺史張敬兒所據,無所歸,乃與第三子中書侍郎文和至華容之賞頭林,投州吏家。此吏嘗爲攸之所鞭,待攸之甚厚,不以往罰爲怨,殺豚薦食。既而邨人欲取之,攸之於櫟林與文和倶自經死,邨人斬首送之都。或割其腹,心有五竅。征西主簿苟昭先以家財葬攸之。

攸之は晩年に書を読むことを好み、手から巻物を離さず、『史記』『漢書』の故事を多く記憶していた。常に嘆じて言った、「早くから窮達は命に有ることを知っていたなら、十年読書せざりしを恨む」。郢城を攻めた時、夜に風浪があり、米船が沈没したことがあった。倉曹参軍の崔霊鳳の娘は先に柳世隆の子に嫁いでいた。攸之は厳しい顔色で彼に言った、「当今軍糧は緊急を要するのに、卿は意に介さない。城内の者と婚姻しているからか」。霊鳳は答えて言った、「楽広に言あり。下官、豈に五男を以て一女に易えんや」。攸之は歓然として意を解いた。

原文攸之晩好讀書,手不釋巻,史、漢事多所記憶。常歎曰:「早知窮達有命,恨不十年讀書。」及攻郢城,夜嘗風浪,米船沈沒。倉曹參軍崔靈鳳女先適柳世隆子,攸之正色謂曰:「當今軍糧要急,而卿不以在意,由與城内婚姻邪。」靈鳳答曰:「樂廣有言,下官豈以五男易一女。」攸之歡然意解。

攸之は才力の士を招集した。随郡の人双泰真は幹力有り、召しても肯じて来なかった。攸之は二十人に甲を着せて追わせた。泰真は数人を射殺し、家に寄って母を連れて行こうとしたが、事急にして果たせず、単身で蛮地に逃げ込んだ。追手は彼を見失い、その母を捕らえて連れ去った。泰真は母を失うと、自ら帰参した。攸之は罪とせず、言った、「これは孝子なり」。銭一万を賜い、転じて隊主に補した。かくの如く、情を抑えて士を待ったのである。

原文攸之招集才力之士,隨郡人雙泰眞有幹力,召不肯來。攸之遣二十人被甲追之,泰眞射殺數人,欲過家將母去,事迫不獲,單身走入蠻。追者既失之,録其母去。泰眞既失母,乃自歸,攸之不罪,曰:「此孝子也。」賜錢一萬,轉補隊主,其抑情待士如此。

初め、攸之が賤しい時、呉郡の孫超之・全景文と共に小船に乗って都を出た。三人が共に引埭に上ると、一人の者が立ち止まって彼らを見相し、言った、「君ら三人は皆方伯に至るであろう」。攸之は言った、「豈にこのような事があろうか」。相者は言った、「験しなければ、それは相書が誤っているというだけのことだ」。後に攸之は郢・荊二州刺史となり、超之は広州刺史、景文は南豫州刺史となった。景文は字を弘達といい、斉の永明年中、光禄大夫の任に在って卒した。

原文初,攸之賤時,與呉郡孫超之、全景文共乘一小船出都,三人共上引埭,有一人止而相之,曰:「君三人皆當至方伯。」攸之曰:「豈有是事。」相者曰:「不驗,便是相書誤耳。」後攸之爲郢、荊二州,超之廣州刺史,景文南豫州刺史。景文字弘達,齊永明中,卒於光祿大夫。

攸之が初めて郢州に至った時、順流東下の志があった。府主簿の宗儼之が郢城を攻めるよう勧めた。功曹の臧寅は、攻守の勢いは異なり、十日で抜けるものではなく、もし時を失して挙兵すれば、鋭気を挫き威を損うであろうと以為ったが、攸之は従わなかった。既に敗れると、諸将帥は皆奔散し、ある者は寅を呼んで共に逃げようとした。寅は言った、「我は質を委ねて人に事える。どうしてその成を幸いとし、その敗を責めようか」。乃ち水に投じて死んだ。また倉曹参軍の金城の辺栄が府の録事に辱められた。攸之は栄のために録事を鞭打ち殺した。攸之が江陵を下る時、栄を留府司馬として城を守らせた。張敬児が将に至らんとする時、ある人が栄を説いて敬児に降るよう勧めた。栄は言った、「沈公の厚恩を受ける。一朝緩急あれば、便ち本心を改易するは、能わざるなり」。城が敗れ敬児に会うと、敬児は問うて言った、「辺公は何故に人と共に賊を為し、早く来なかったのか」。栄は言った、「沈荊州は義兵を挙げ、社稷を匡ふ。身は滅ぶべしとも、要は宋世の忠臣なり。天下に尚ほ直言の士有り、これを賊と謂うべからず。身は本より生を蘄まず、何ぞ問うを須いん」。敬児は言った、「死は何の難きことがあろう」。命じて斬らせた。栄は歓笑して去り、容色に異なる所無し。泰山の程邕之という者は、平素より栄に依り従っていた。この時に至り、栄を抱きかかえて敬児に謂うて言った、「君は人の国に入りて、仁恵の声を聞かず、先ず義士を戮す。三楚の人は、寧ろ江・漢に蹈んで死すとも、豈に将軍と同日に生きんことを肯んぜんや」。敬児は言った、「死を求むるは甚だ易し。何を為して許さざらん」。先ず邕之を殺し、然る後に栄に及んだ。三軍、涙を垂れざる者無く、言った、「奈何ぞ一日に二義士を殺す」。これを臧洪及び陳容に比した。

原文攸之初至郢州,有順流之志,府主簿宗儼之勸攻郢城。功曹臧寅以爲攻守勢異,非旬日所拔,若不時舉,挫鋭損威,攸之不從。既敗,諸將帥皆奔散,或呼寅倶亡。寅曰:「我委質事人,豈可幸其成而責其敗。」乃投水死。又倉曹參軍金城邊榮爲府録事所辱,攸之爲榮鞭殺録事。攸之自江陵下,以榮爲留府司馬守城。張敬兒將至,人或説之使詣敬兒降。榮曰:「受沈公厚恩,一朝緩急,便改易本心,不能也。」城敗見敬兒,敬兒問曰:「邊公何爲同人作賊,不早來。」榮曰:「沈荊州舉義兵,匡社稷,身雖可滅,要是宋世忠臣。天下尚有直言之士,不可謂之爲賊。身本不蘄生,何須見問。」敬兒曰:「死何難。」命斬之,榮歡笑而去,容無異色。泰山程邕之者,素依隨榮,至是抱持榮謂敬兒曰:「君入人國,不聞仁惠之聲,而先戮義士,三楚之人,甯蹈江、漢而死,豈肯與將軍同日以生。」敬兒曰:「求死甚易,何爲不許。」先殺邕之然後及榮,三軍莫不垂泣,曰:「奈何一日殺二義士。」比之臧洪及陳容。

廃帝の崩御に際し、攸之は兵を起こそうとし、星を知る者葛珂之に問うた。珂之は言った、「兵を起こすには皆太白星を候う。太白星見れば則ち成り、伏すれば則ち敗る。昔、桂陽王は太白星の伏する時に兵を挙げ、一戦にして首を授けた。これは近世の明らかな験しである。今、蕭公は昏きを廃し明きを立てる。正に太白星の伏する時に逢う。これは天と合うなり。且つ太白星は尋いで東方に出ずれば兵を用いるに利し、西方に出ずれば利せず」。故に攸之は兵を下さずに止まった。後に兵を挙げるに及び、珂之はまた言った、「今、歳星は南斗を守る。その国は伐つべからず」。攸之は従わず、果たして敗れた。

原文廢帝之殞,攸之欲起兵,問知星人葛珂之。珂之曰:「起兵皆候太白,太白見則成,伏則敗。昔桂陽乙太白伏時舉兵,一戰授首,此近世明驗。今蕭公廢昏立明,正逢太白伏時,此與天合也。且太白尋出東方利用兵,西方不利。」故攸之止不下。及後舉兵,珂之又曰:「今歳星守南斗,其國不可伐。」攸之不從,果敗。

攸之の上表や檄文の文書は、皆その記室である南陽の宗儼之の文辞であった。事敗れて彼を責めると、答えて言った、「士は知己の為にあり、豈に君輩の識る所とならんや」。遂に誅殺された。

原文攸之表檄文疎,皆其記室南陽宗儼之辭也,事敗責之,答曰:「士爲知己,豈爲君輩所識。」遂伏誅。

攸之は景和年間に斉の高帝と共に殿省に直し、歓好を交わし、帝は長女の義興憲公主を攸之の第三子文和に娶せ、二人の娘を生み、共に宮中で養育し、恩禮甚だ厚く、嫁ぐに当たり皆素舊を得、公家がこれを営遣した。斉の武帝は攸之の弟雍之の孫僧昭を義興公主の後と定めた。

原文攸之景和中與齊髙帝同直殿省,申以歡好,帝以長女義興憲公主妻攸之第三子文和,生二女,並養之宮中,恩禮甚厚,及嫁皆得素舊,公家營遣焉。齊武帝制以攸之弟雍之孫僧昭爲義興公主後。

攸之の従孫 僧昭

原文攸之從孫 僧昭

僧昭は別名を法朗といい、少時に天師道士に事え、常に甲子及び甲午の日に、夜に黄巾衣褐を著て私室で醮を行った。時に人の吉凶を記し、頗る応驗があった。自ら泰山の録事たりと云い、幽司に収録する所あれば、必ず僧昭が署名した。中年に山陰県令となった。

原文僧昭別名法朗,少事天師道士,常以甲子及甲午日,夜著黃巾衣褐醮於私室。時記人吉凶,頗有應驗。自云爲泰山録事,幽司中有所收録,必僧昭署名。中年爲山陰縣。

梁の武陵王紀が会稽太守となった時、池亭に宴坐し、蛙鳴が耳に聒いだ。王曰く「殊に絲竹の聴を廃す。」僧昭は咒厭して十許口にして便ち息んだ。及んで日晩に、王また曰く「其の復た鳴くを欲す。」僧昭曰く「王の歓已に闌けり、今汝が鳴くを恣にす。」即ち便ち喧聒した。又嘗て校獵し、中道にして還り、左右其の故を問うと、答えて曰く「国家に辺事有り、須らく還りて処分すべし。」何を以てか之を知るやと問うと、曰く「向に南山の虎嘯を聞きて知るのみ。」俄にして使至る。復た人に謂いて曰く「吾昔幽司に使せられしは、実に煩碎たりしが、今已に自ら解く。」乃ち匣を開き黄紙の書を出だす、上に一大字有り、字は識るべからず。曰く「教の分判此の如し。」

原文梁武陵王紀爲會稽太守,宴坐池亭,蛙鳴聒耳。王曰:「殊廢絲竹之聽。」僧昭咒厭十許口便息。及日晩,王又曰:「欲其復鳴。」僧昭曰:「王歡已闌,今恣汝鳴。」即便喧聒。又嘗校獵,中道而還,左右問其故,答曰:「國家有邊事,須還處分。」問何以知之,曰:「向聞南山虎嘯知耳。」俄而使至。復謂人曰:「吾昔爲幽司所使,實爲煩碎,今已自解。」乃開匣出黃紙書,上有一大字,字不可識。曰:「教分判如此。」

及んで太淸の初め、親知に謂いて曰く「明年海内喪乱し、生靈十も一も存せず。」乃ち苦しくして東帰を求む。既に許さるるを得ず、及んで乱に、百口皆殲せらる。僧昭は位は廷尉卿、太淸三年に卒す。

原文及太淸初,謂親知曰:「明年海内喪亂,生靈十不一存。」乃苦求東歸。既不獲許,及亂,百口皆殲。僧昭位廷尉卿,太淸三年卒。

宗愨

原文宗愨

宗愨は字を元幹といい、南陽の涅陽の人である。叔父の少文は高尚にして仕えず、愨は年少の時、其の志す所を問うと、愨答えて曰く「願わくは長風に乗じて万里の浪を破らん。」少文曰く「汝若し富貴せずんば、必ず我が門戸を破らん。」兄の泌が妻を娶り、始めて門に入る夜に劫掠に遭う、愨は年十四、挺身して劫と相拒ぎ、十余人皆披散し、室に入るを得ず。時に天下事無く、士人並びに文義を以て業と為し、少文は既に高尚なれば、諸子群従皆墳典を愛好すれども、愨は任気にして武を好む、故に郷曲に知られず。

原文宗愨字元幹,南陽涅陽人也。叔父少文髙尚不仕,愨年少,問其所志,愨答曰:「願乘長風破萬里浪。」少文曰:「汝若不富貴,必破我門戸。」兄泌娶妻,始入門夜被劫,愨年十四,挺身與劫相拒,十餘人皆披散,不得入室。時天下無事,士人並以文義爲業,少文既髙尚,諸子群從皆愛好墳典,而愨任氣好武,故不爲鄕曲所知。

江夏王義恭が征北將軍・南兗州刺史となると、愨は従って廣陵に鎮す。時に従兄の綺が征北府の主簿となり、愨と同住す、綺の妾が給吏の牛泰と私通し、綺が入直するに及び、泰は潜かに来りて綺の妾に就く。愨之を知り、入りて牛泰を殺し然る後に綺に白す。義恭其の意を壮とし、罪とせず。後に以て國上軍將軍を補す。

原文江夏王義恭爲征北將軍、南兗州刺史,愨隨鎭廣陵。時從兄綺爲征北府主簿,與愨同住,綺妾與給吏牛泰私通,綺入直,而泰潛來就綺妾。愨知之,入殺牛泰然後白綺。義恭壯其意,不罪也。後以補國上軍將軍。

元嘉二十二年、林邑を伐つに、愨自ら奮って行くを願い、義恭は愨に膽勇有りと挙げ、乃ち振武將軍を除し、安西參軍蕭景憲の軍副と為る。交州刺史檀和之に隨い區粟城を圍む。林邑は將范毗沙達を遣わして區粟を救わしむ、和之は偏軍を遣わして之を拒がしむ、賊に敗られる。又愨を遣わす、愨は乃ち軍を分かち數道と為し、旗を偃げ潜かに進み討ち破り、仍ち區粟を攻め拔き、象浦に入る。林邑王范陽邁は國を傾けて來たり逆らい、具裝を以て象を被り、前後際無し。愨は外國に師子有りて百獸を威服すと以為い、乃ち其の形を制して象と相禦せしむ、象果たして驚き奔り、衆是れに因りて潰乱し、遂に林邑を克す。其の珍異を収むるに、皆未だ名の無き寶にして、其の餘の雜物稱計す可からず。愨は一毫も犯さず、唯だ被・梳・枕・刷有るのみ、此の外蕭然たり。文帝甚だ之を嘉す。

原文元嘉二十二年,伐林邑,愨自奮願行,義恭舉愨有膽勇,乃除振武將軍,爲安西參軍蕭景憲軍副。隨交州刺史檀和之圍區粟城。林邑遣將范毗沙達來救區粟,和之遣偏軍拒之,爲賊所敗。又遣愨,愨乃分軍爲數道,偃旗潛進討破之,仍攻拔區粟,入象浦。林邑王范陽邁傾國來逆,以具裝被象,前後無際。愨以爲外國有師子威服百獸,乃制其形與象相禦,象果驚奔,衆因此潰亂,遂克林邑。收其珍異,皆是未名之寶,其餘雜物不可稱計。愨一毫無犯,唯有被梳枕刷,此外蕭然。文帝甚嘉之。

三十年、孝武逆を伐つに、愨を以て南中郎諮議參軍と為し、中兵を領す。事平ぎるに及び、功は柳元景に次ぐ。

原文三十年,孝武伐逆,以愨爲南中郎諮議參軍,領中兵。及事平,功次柳元景。

孝武即位し、以て左衞將軍と為し、洮陽侯に封ず。孝建年中、累遷して豫州刺史となり、五州諸軍事を監す。先に鄕人庾業は家富み豪侈にして、侯服玉食す。賓客と相對するに、膳必ず方丈なるも、愨の為に設くるは粟飯菜葅なり。客に謂いて曰く「宗軍人は粗食を噉むに慣れり。」愨は飽きるに致して退き、初め異辭無し。是に至りて業は愨の長史となり、梁郡を帶ぶ、愨之を待すること甚だ厚く、昔の事を以て嫌とせず。

原文孝武即位,以爲左衞將軍,封洮陽侯。孝建中,累遷豫州刺史,監五州諸軍事。先是鄕人庾業家富豪侈,侯服玉食。與賓客相對,膳必方丈,而爲愨設粟飯菜葅。謂客曰:「宗軍人慣噉粗食。」愨致飽而退,初無異辭。至是業爲愨長史,帶梁郡,愨待之甚厚,不以昔事爲嫌。

大明三年、竟陵王誕が廣陵に據りて反す、愨は表して赴討を求め、驛に乘じて都に詣り、面して節度を受く。上は輿を停めて慰勉し、愨は聳躍すること數十、左右を顧眄し、上之を壮とす。行くに及び、車騎大將軍沈慶之に隷す。初め、誕は其の衆を誑かして云く「宗愨我を助く。」と。愨の至るに及び、馬を躍らせて城を繞り呼びて曰く「我れ宗愨なり。」と。事平ぎ、入りて左衞將軍と為る。

原文大明三年,竟陵王誕據廣陵反,愨表求赴討,乘驛詣都,面受節度。上停輿慰勉,愨聳躍數十,左右顧眄,上壯之。及行,隸車騎大將軍沈慶之。初,誕誑其衆云:「宗愨助我。」及愨至,躍馬繞城呼曰:「我宗愨也。」事平,入爲左衞將軍。

五年、獵に從い馬より墮ちて腳折れ、朝直に堪えず、以て光祿大夫と為し、金章紫綬を加う。佳牛有りて進御に堪うるも、官買に肯て賣らず、坐して官を免ぜらる。明年先の職に復す。

原文五年,從獵墮馬腳折,不堪朝直,以爲光祿大夫,加金章紫綬。有佳牛堪進御,官買不肯賣,坐免官。明年復先職。

廢帝即位し、甯蠻校尉・雍州刺史と為り、都督を加う。卒し、征西將軍を贈られ、諡して肅侯と曰い、孝武廟庭に配食す。子の羅雲は卒し、子の元寶嗣ぐ。

原文廢帝即位,爲甯蠻校尉、雍州刺史,加都督。卒,贈征西將軍,諡曰肅侯,配食孝武廟庭。子羅雲,卒,子元寶嗣。

愨の従子 夬

原文愨從子 夬

愨の従子の夬は字を明揚といい、祖父の少文は名が隠逸伝に列せられ、父の繁は西中郎諮議参軍であった。

原文愨從子夬字明揚,祖少文,名列隱逸傳。父繁,西中郎諮議參軍。

夬は若くして学問に勤しみ、器量と才幹があり、斉に仕えて驃騎行参軍となった。時に竟陵王の子良が学士を西邸に集め、ともに図画を閲覧したが、夬もこれに加わった。斉の郁林王が南郡王であった時、西州に居り、夬に書記を管掌させ、筆札の貞正さを認められたので、任じられたのである。時に魏と和通があり、詔勅により夬は尚書殿中郎の任昉とともに魏の使者を接遇し、皆当時の選抜された人材であった。文恵太子が薨じると、王は皇太孫となり、夬は引き続き書記を管掌した。

原文夬少勤學,有局幹,仕齊爲驃騎行參軍。時竟陵王子良集學士於西邸,並見圖畫,夬亦預焉。齊郁林之爲南郡王,居西州,使夬管書記,以筆劄貞正見許,故任焉。時與魏和通,敕夬與尚書殿中郎任昉同接魏使,皆時選也。及文惠太子薨,王爲皇太孫,夬仍管書記。

太孫が即位すると、多く失徳があり、夬は自ら疎遠となることを図り、秣陵令となり、尚書都官郎に遷った。少帝が誅殺されると、旧来の寵臣は多くその災いに遭ったが、夬と傅昭のみが清正によって免れた。斉の明帝は夬を郢州中従事とし、父が老齢のため官を去った。南康王が荊州刺史となると、別駕に引き立てた。

原文太孫即位,多失德,夬頗自疎,得爲秣陵令,遷尚書都官郎。少帝見誅,舊寵多被其災,唯夬與傅昭以淸正免。齊明帝以爲郢州中從事,以父老去官。南康王爲荊州刺史,引爲別駕。

梁の武帝が起兵すると、西中郎諮議に遷った。時に西方の地の地位と声望は、夬と同郡の楽藹・劉坦のみが州人に推服されていたので、領軍の蕭穎冑は深く委任し頼みとした。武帝が禅を受けると、太子右衛率、五兵尚書を歴任し、大選を参掌した。天監三年に卒した。子に曜卿がある。

原文梁武帝起兵,遷西中郎諮議。時西土位望,唯夬與同郡樂藹、劉坦爲州人所推服,故領軍蕭穎胄深相委仗。武帝受禪,歴太子右衞率,五兵尚書,參掌大選。天監三年卒。子曜卿。

論

原文論

論じて曰く、沈慶之は武毅の姿をもって、殷憂の日に属し、戎旅に駆馳し、所在において推挙された。その難を戡定し功を定めたるは、蓋し亦た宋の方叔・召虎のごときものである。勤王の業が挙げられ、台鼎の位が既に隆んになり、年は懸車に致り、官は成り名は立ったるに、而して卒いに顛覆に至る。倚伏は豈に易く知るべけんや。諸子の才気は、並びに高風あり、将門に将あり、この言は得たり。攸之は地は上流に処り、声は義挙に称し、威を専らにし命を擅にし、年且つ十を逾えたり。終に諸葛の薨ずるに従う。代徳其れ数有るか。宗愨は気概風雲のごとく、竟に其の志を成し、夬は清正を蹈履し、以て顕級に昇る。亦た各々志能の士なり。

原文論曰:沈慶之以武毅之姿,屬殷憂之日,驅馳戎旅,所在見推。其戡難定功,蓋亦宋之方、召。及勤王之業克舉,台鼎之位已隆,年致懸車,宦成名立,而卒至顛覆,倚伏豈易知也。諸子才氣,並有髙風,將門有將,斯言得矣。攸之地處上流,聲稱義舉,專威擅命,年且逾十。終從諸葛之薨,代德其有數乎。宗愨氣概風雲,竟成其志;夬蹈履淸正,用升顯級,亦各志能之士也。