南史

巻三十六より巻三十七

巻三十六より巻三十七

南史

巻三十六より巻三十七

列伝第二十六

羊欣

原文羊欣

羊欣、字あざなは敬元、泰山郡南城県の人である。曾祖父の忱は、晋の徐州刺史であった。祖父の権は、黄門郎であった。父の不疑は、桂陽太守であった。

原文羊欣,字敬元,泰山南城人也。曾祖忱,晋徐州刺史。祖权,黄门郎。父不疑,桂阳太守。

羊欣は幼少より静かで寡黙、人と争わず、言葉や笑いが美しく、立ち居振る舞いに優れていた。経籍を広く読み、特に隷書に長じていた。父の不疑が烏程県令であった時、羊欣は十二歳であった。時に王献之が呉興太守としており、彼を大いに知り愛した。羊欣が夏のある日、新たな絹の裙を着て昼寝をしていたところ、献之が県に入りこれを見て、裙に数幅の書を書き残して去った。羊欣の書はもともと巧みであったが、このことによってますます上達した。

原文欣少靖默,無競于人,美言笑,善容止。泛覽經籍,尤長隸書。父不疑為烏程令,欣年十二。時王獻之為吳興太守,甚知愛之。欣嘗夏月著新絹裙晝寢,獻之入縣見之,書裙數幅而去。欣書本工,因此彌善。

輔国参軍として出仕し、府が解散すると家に帰った。隆安年間(397-401年)、朝廷は次第に乱れ、羊欣は私邸で悠々と過ごし、再び官途につこうとはしなかった。会稽王の世子元顕がたびたび扇に書を書くよう命じたが、常に従わなかった。元顕は怒り、彼を後軍府の舎人に任じた。この職は本来、寒門の者が就くものであったが、羊欣の態度や表情は平然としており、地位の高低によって顔色を変えることがなく、論者はこれを称えた。かつて領軍の謝混を訪ねたところ、混は座席を払い衣服を改めてから彼に会った。時に混の族子の霊運が同席しており、退出して族兄の瞻に告げて言うには、「望蔡(謝混)が羊欣に会うと、座席を改め衣服を替えた」と。羊欣はこれによってますます有名となった。

原文起家輔國參軍,府解還家。隆安中,朝廷漸亂,欣優遊私門,不復進仕。會稽王世子元顯每使書扇,常不奉命。元顯怒,乃以為其後軍府舍人。此職本用寒人,欣意貌恬然,不以高卑見色,論者稱焉。嘗詣領軍謝混,混拂席改服然後見之。時混族子靈運在坐,退告族兄瞻曰:「望蔡見羊欣,遂改席易衣。」欣由此益知名。

桓玄が政を補佐すると、羊欣を平西主簿とし、機密要事に参与させた。羊欣は自ら疎遠になろうとし、時に機密を漏らした。玄は彼のこの意図を察知し、かえって一層重んじ、楚台の殿中郎に任じた。そして言うには、「尚書は政事の根本であり、殿中は礼楽の出づる所である。卿はかつて股肱の任にあったが、これに比べれば軽い」と。羊欣は職に就いて数日で、病と称して自ら免官を求め、里巷に隠居すること十余年であった。

原文桓玄輔政,以欣為平西主簿,參豫機要。欣欲自疏,時漏密事。玄覺其此意,愈更重之,以為楚台殿中郎。謂曰:「尚書政事之本,殿中禮樂所出。卿昔處股肱,方此為輕。」欣就職少日,稱病自免,屏居裏巷十餘年。

義熙年間(405-418年)、弟の徽が武帝(劉裕)に知られ、帝は諮議参軍の鄭鮮之に言った、「羊徽は一時の美器であるが、世の評判はなお兄の後にある」と。すぐに板授により羊欣を補って右軍将軍劉藩の司馬とした。

原文義熙中,弟徽被知于武帝,帝謂諮議參軍鄭鮮之曰:「羊徽一時美器,世論猶在兄後。」即板欣補右軍劉藩司馬。

後に新安太守となり、郡に在ること四年、簡素で慈恵ある治績で称えられた。臨川王劉義慶の輔国長史、廬陵王劉義真の車騎諮議参軍に任ぜられたが、いずれも就任しなかった。文帝(劉義隆)は重ねて新安太守に任じた。郡に在ること十三年、その山水を楽しみ、かつて子弟に言った、「人生、仕官して二千石に至れば、それでよい」と。ここにおいて止足の念を抱いた。義興太守に転じたが、好むところではなかった。間もなく、病が重いと称して免官され帰郷した。中散大夫に任ぜられた。

原文後為新安太守,在郡四年,簡惠著稱。除臨川王義慶輔國長史,廬陵王義真車騎諮議參軍,並不就。文帝重以為新安太守。在郡十三年,樂其山水,嘗謂子弟曰:「人生仕宦至二千石,斯可矣。」及是便懷止足。轉義興太守,非其好也。頃之,稱病篤免歸。除中散大夫。

平素より黄老の学を好み、常に自ら章句を書写した。病があっても薬を服さず、符水を飲むのみであった。また医術に優れ、薬方を数十巻撰した。羊欣は拝伏に堪えられないとして、朝覲を辞し、近親を訪ねるのでなければ、むやみに外出しなかった。外出する時は必ず城外を通り、六門(建康の城門)に入ることはなかった。武帝(劉裕)と文帝(劉義隆)はともに彼に会えなかったことを残念がった。元嘉十九年(442年)に卒去した。

原文素好黃、老,常手自書章。有病不服藥,飲符水而已。兼善醫術,撰藥方數十卷。欣以不堪拜伏,辭不朝覲,自非尋省近親,不妄行詣。行必由城外,未嘗入六門。武帝、文帝並恨不識之。元嘉十九年卒。

弟の徽、字は敬猷、当時の名声は多く羊欣に及ばず、河東太守の位に至り、卒去した。

原文弟徽字敬猷,時譽多欣,位河東太守,卒。

羊玄保

原文羊玄保

羊玄保、泰山郡南城県の人である。祖父の楷は、晋の尚書都官郎であった。父の綏は、中書侍郎であった。

原文羊玄保,泰山南城人也。祖楷,晉尚書都官郎。父綏,中書侍郎。

玄保は初め宋の武帝(劉裕)の鎮軍参軍となり、少帝の景平年間(423-424年)に累進して司徒右長史となった。府公の王弘は彼を大いに知り重んじ、左長史の庾登之と吏部尚書の王准之に言った、「卿ら二賢は明美で朗詣、会悟多く通じているが、弘懿の声望は、やはり共に羊を推すべきである」と。間もなく、入朝して黄門侍郎となった。

原文玄保初為宋武帝鎮軍參軍,少帝景平中,累遷司徒右長史。府公王弘甚知重之,謂左長史庾登之、吏部尚書王准之曰:「卿二賢明美朗詣,會悟多通,然弘懿之望,故當共推羊也。」頃之,入為黃門侍郎。

囲碁をよくし、その品は第三であった。文帝もまた囲碁を好み、郡を賭けて勝負し、羊玄保が勝って、宣城太守に補せられた。先に劉式之が宣城において吏民の逃亡・反乱に関する制度を立て、一人でも捕えられない場合は、符伍の里吏を州の作部に送り、捕え得た者には位二階を賞した。玄保はこれは適切でないと考え、上奏して言うには、「臣が思うに、逃亡・反乱の原因は、すべて窮迫によるものである。今この特殊な制度を立てることは、事を苦しくする。またこの制度は一つの邦にのみ施行されるが、もしそれが正しいならば、天下と一つにすべきであり、もし正しくないならば、一郡のみで行うべきではない」。これによりこの制度は停止された。

原文善弈棋,品第三。文帝亦好弈,與賭郡,玄保戲勝,以補宣城太守。先是劉式之為宣城立吏人亡叛制,一人不禽,符伍裏吏送州作部;能禽者賞位二階。玄保以為非宜,陳之曰:「臣伏尋亡叛之由,皆出於窮逼。今立殊制,於事為苦。又尋此制施一邦而已,若其是邪,則應與天下為一;若其非邪,亦不宜獨行一郡。」由此制停。

丹陽尹、会稽太守、太常、呉郡太守を歴任した。文帝は玄保が清廉で質素で寡欲であるため、たびたび名郡を授けた。政治には特に優れた業績はなかったが、去った後は常に必ず懐かしがられた。財利を営まず、産業は倹約で薄かった。文帝はかつて言った、「人が官に仕えるには才能のみならず、運命も必要である。良い官職の欠員があるたびに、私は羊玄保をまず思い出さないことはなかった」。元凶(劉劭)が弑逆して立つと、吏部尚書とし、国子祭酒を領せしめた。孝武帝が入伐すると、朝士の多くは南へ奔った。劉劭が群僚を集め、刀を横たえて怒って言うには、「卿らは去ってよい」。一同は皆恐れて敢えて言う者もなかった。玄保は容色を変えず、ゆるやかに言った、「臣は死をもって朝廷に奉じる所存でございます」。劉劭はこれを解した。

原文曆丹陽尹,會稽太守,太常,吳郡太守。文帝以玄保廉素寡欲,故頻授名郡。為政雖無殊績,而去後常必見思。不營財利,產業儉薄。文帝嘗曰:「人仕宦非唯須才,亦須運命。每有好官缺,我未嘗不先憶羊玄保。」元凶弑立,以為吏部尚書,領國子祭酒。及孝武入伐,朝士多南奔,劭集群僚,橫刀怒曰:「卿等便可去矣。」眾並懼莫敢言。玄保容色不異,徐曰:「臣其以死奉朝。」劭為解。

孝武帝が即位すると、金紫光禄大夫となり、謹慎と敬虔さをもって知られた。大明五年、散騎常侍・特進を加えられた。玄保は少時から老いに至るまで、祭奠を謹んで行い、四時の珍しい新物で祠薦に供せられないものは、口に妄りに嘗めなかった。卒し、諡して定子といった。

原文孝武即位,為金紫光祿大夫,以謹敬見知。大明五年,加散騎常侍、特進。玄保自少至老,謹於祭奠,四時珍新未得祠薦者,口不妄嘗。卒,諡曰定子。

子の羊戎は若くして才気があったが、軽薄で行いの節度がなく、言葉は双声を好んだ。江夏王劉義恭がかつて斎を設け、羊戎に床を敷かせた。しばらくして王が出てくると、床が狭いので自ら床を広げた。羊戎は言った、「官家は狭いのを恨み、さらに八分広げられました」。王は笑って言った、「卿はただ双声を善くするのみならず、弁士でもあるのだな」。文帝は玄保と囲碁を打つのを好み、かつて中使が来たとき、玄保は言った、「今日、上は何故私を召されたのか」。羊戎は言った、「金溝は清く澄み、銅池は揺らめき輝く。すでに良い光景であるから、激しい囲碁ができるでしょう」。玄保は常にその軽率さを嫌い、「この子は必ず我が家を滅ぼすであろう」と言った。通直郎の位にあり、王僧達と共に時政を誹謗した罪で賜死された。死後、孝武帝は玄保を引見し、玄保は謝して言った、「臣には金日磾のような明察がなく、これによって上に負い目があります」。上はその言葉を褒めた。羊戎の二人の弟に、文帝はともに名を賜い、咸と粲と言い、玄保に言った、「卿の二子に林下の正始の余風を持たせたい」。

原文子戎少有才氣,而輕薄少行檢,語好為雙聲。江夏王義恭嘗設齋,使戎布床,須臾王出,以床狹,乃自開床。戎曰:「官家恨狹,更廣八分,」王笑曰:「卿豈唯善雙聲,乃辯士也,」文帝好與玄保棋,嘗中使至,玄保曰:「今日上何召我邪?「戎曰:「金溝清泚,銅池搖揚,既佳光景,當得劇棋。」玄保常嫌其輕脫,云:「此兒必亡我家」。位通直郎,坐與王僧達謗時政賜死。死後,孝武帝引見玄保,玄保謝曰:「臣無日磾之明,以此上負。」上美其言。戎二弟,文帝並賜名曰咸、曰粲,謂玄保曰:「欲令卿二子有林下正始餘風。」

玄保は囲碁を善くしたが、何尚之もまた風雅にこれを好んだ。呉郡の褚胤は七歳で高品に入り、成長すると当世を圧倒した。褚胤の父栄期は臧質とともに叛逆し、褚胤は従って誅されるべきであった。何尚之が固く請うて言うには、「褚胤の囲碁の妙技は、古を超え今に冠たるものです。魏犨は軍令を犯したが、その才能によって赦免されました。父が誅されても子が許される例は甚だ多い。特にその微命を乞い、異術を絶やさないようにしてください」。許されず、当時の人は痛惜した。

原文玄保既善棋,而何尚之亦雅好其事。吳郡褚胤年七歲便入高品,及長,冠絕當時。胤父榮期與臧質同逆,胤應從誅。何尚之固請曰:「胤弈棋之妙,超古冠今。魏犨犯令,以材獲免,父戮子宥,其例甚多。特乞與其微命,使異術不絕。」不許,時人痛惜之。

兄の子 羊希

原文兄子 希

玄保の兄の子羊希は字を泰聞といい、若くして才気があり、尚書左丞となった。時に揚州刺史西陽王劉子尚が上言した、「山湖の禁には旧来の規定があるが、人俗が互いに因襲し、廃れて奉じられず、山を焼き水を封じて、家の利を保っている。近頃以来、弛緩は日増しに甚だしく、富強者は嶺を兼ねて占め、貧弱者は薪や蘇(柴)を得る所もなく、漁や採集の地もまた同様である。これは実に人を害する深い弊害であり、政治において取り除くべきである。旧条を損益し、恒常の制度を改めて定めるべきである」。有司が壬辰の詔書を調べると、「山沢を占拠し保護する者は、強盗の律によって論ず。贓一丈いちじょう以上は皆棄市とする」とあった。羊希は「壬辰の制は、その禁が厳格であり、事は既に遵い難く、理は時と共に弛んでいる。そして山を占め水を封ずることは、次第に染み広がり、互いに因襲して、便り先業となっている。一朝に頓に去れば、容易に怨嗟を招くであろう。今改めて刊革し、五条の制を立てる。凡そ山沢で先に恒常的に焼き払い、竹木雑果を植えて林や草地とし、また陂湖江海の魚梁や鮆なまずの場で、恒常的に功を加えて修作している者は、追奪しないことを聴す。官品第一・第二は山三頃を占めることを聴す。第三・第四品は二頃五十畝。第五・第六品は二頃。第七・第八品は一頃五十畝。第九品及び百姓は一頃。皆定められた格式に依り、条ごとに資簿に上る。もし先に既に山を占めている者は、更に占めてはならない。先に占めて不足がある者は、制限に依って占めて足す。もし前条の旧業でない者は、一切禁じてはならない。違反する者があれば、水土一尺以上は、皆贓を計り常盗の律に依って論ず。咸康二年壬辰の科条を停除する」。これに従った。

原文玄保兄子希字泰聞,少有才氣,為尚書左丞。時揚州刺史西陽王子尚上言:「山湖之禁,雖有舊科,人俗相因,替而不奉,熂山封水,保為家利。自頃以來,頹弛日甚,富強者兼嶺而占,貧弱者薪蘇無托,至漁采之地亦又如茲。斯實害人之深弊,為政所宜去絕。損益舊條,更申恒制。」有司檢壬辰詔書:「占山護澤,強盜律論。贓一丈以上皆棄市。」希以「壬辰之制,其禁嚴刻,事既難遵,理與時弛。而占山封水,漸染復滋,更相因仍,便成先業。一朝頓去,易致嗟怨。今更刊革,立制五條:凡是山澤先恒熂臑爐,養種竹木雜果為林艿,及陂湖江海魚梁鮆場,恒加功修作者,聽不追奪。官品第一第二聽占山三頃;第三第四品二頃五十畝;第五第六品二頃;第七第八品一頃五十畝;第九品及百姓一頃:皆依定格,條上貲簿。若先已占山,不得更占;先占闕少,依限占足。若非前條舊業,一不得禁。有犯者,水土一尺以上,並計贓依常盜律論。停除咸康二年壬辰之科。」從之。

時に益州刺史劉瑀は先に右衛将軍であり、府司馬何季穆と共事して不和であった。季穆は尚書令建平王劉宏に親しく遇され、しばしば劉瑀を劉宏の前で誹謗した。ちょうど劉瑀が益州に出ると、士人の妻を奪って妾とし、劉宏は羊希にこれを挙察させた。劉瑀は官を免ぜられた。劉瑀は羊希を切歯して恨み、門生の謝元伯が羊希の間を往来していたので、劉瑀は密かに訪ねさせて免官の理由を訊ねさせた。羊希は言った、「この奏上は私の意ではない」。劉瑀は即日に劉宏の門に到り、箋を奉って陳謝し、「羊希から聞きました」と言った。羊希は漏洩の罪で官を免ぜられた。

原文時益州刺史劉瑀先為右衛將軍,與府司馬何季穆共事不平,季穆為尚書令建平王宏所親待,屢毀瑀於宏。會瑀出為益州,奪士人妻為妾,宏使希舉察之,瑀坐免官。瑀恨希切齒,有門生謝元伯往來希間,瑀密令訪訊被免之由,希曰:「此奏非我意。」瑀即日到宏門奉箋陳謝,云:「聞之羊希。」希坐漏泄免官。

泰始三年、寧朔将軍・広州刺史となった。四年、羊希は沛郡の劉思道を行晋康太守とし、軍を率いて俚を討伐させた。思道が節度に違反して失利したので、羊希はこれを収監しようと遣わした。思道は命を受けず、配下の兵を率いて州を襲撃した。羊希は城を越えて逃げ、思道に捕らえられて殺された。

原文泰始三年,為甯朔將軍、廣州刺史。四年,希以沛郡劉思道行晉康太守,領軍伐俚。思道違節失利,希遣收之。思道不受命,率所領襲州,希踰城走,思道獲而殺之。

羊希の子 羊崇

原文希子 崇

羊希の子羊崇は字を伯遠といい、尚書主客郎となり、母の喪に服し、哀毀して礼を過ごした。広州の乱を聞くと、即日に徒跣で新亭を出たが、歩いて渡ることができず、江渚に頓伏した。門義が小船で彼を運んだ。父の葬儀が終わると、哀しみに耐えられずに卒した。

原文希子崇字伯遠,尚書主客郎,丁母憂,哀毀過禮。及聞廣州亂,即日便徒跣出新亭,不能步涉,頓伏江渚。門義以小船致之,父葬畢,乃不勝哀而卒。

沈演之

原文沈演之

沈演之は字を台真といい、呉興武康の人である。高祖の沈充は、晋の車騎将軍・呉国内史であった。曾祖の沈勁は、冠軍将軍陳佑の長史となり、金墉城を守ったが、燕の将慕容恪に陥落され、屈服せずに殺され、東陽太守を追贈された。祖の沈赤黔は、廷尉卿であった。父の沈叔任は、若くして幹質があり、朱齢石が蜀を伐つとき、齢石の建威府司馬となった。蜀平定の功績は元帥に次ぎ、功により寧新県男に封ぜられた。後に益州刺史に拝され、卒した。

原文沈演之字台真,吳興武康人也。高祖充,晉車騎將軍、吳國內史。曾祖勁,冠軍陳佑長史,戍金墉,為燕將慕容恪所陷,不屈見殺,贈東陽太守。祖赤黔,廷尉卿。父叔任,少有幹質,朱齡石伐蜀,為齡石建威府司馬。平蜀之功,亞于元帥,以功封寧新縣男。後拜益州刺史,卒。

演之は十一歳のとき、尚書僕射劉柳が見て知り、「この童子は終に令器となるであろう」と言った。沈氏は代々将軍の家柄であったが、演之は節を折り曲げて学問を好み、老子を百遍読み、義理を業として尚ぶことで知名であった。父の別爵である吉陽県五等侯を襲い、秀才に挙げられ、嘉興令となり、能吏の名があった。

原文演之年十一,尚書僕射劉柳見而知之,曰:「此童終為令器。」沈氏家世為將,而演之折節好學,讀老子百遍,以義理業尚知名。襲父別爵吉陽縣五等侯。舉秀才,為嘉興令,有能名。

元嘉年間、累遷して尚書吏部郎となった。先に劉湛・劉斌らが党を結び、尚書僕射殷景仁を排撃して廃そうとした。演之は正義を仗し、景仁と元来親善で、朝廷に尽くした。文帝は大いにこれを嘉した。彭城王劉義康が藩国に出ると、劉湛らを誅し、演之を右衛将軍とした。景仁はまもなく卒し、後軍長史范曄を左衛将軍として、演之と対して禁旅を掌らせ、ともに機密に参与させた。まもなく侍中を加えられ、文帝はこれに言った、「侍中が衛を領するのは、声望と実質ともに優れて顕著であり、これは宰相の便座のようなものだ。卿は努めよ」。

原文元嘉中,累遷尚書吏部郎。先是劉湛、劉斌等結黨,欲排廢尚書僕射殷景仁。演之雅仗正義,與景仁素善,盡心朝廷。文帝甚嘉之。及彭城王義康出蕃,誅劉湛等,以演之為右衛將軍。景仁尋卒,乃以後軍長史范曄為左衛將軍,與演之對掌禁旅,同參機密。尋加侍中,文帝謂之曰:「侍中領衛,望實優顯,此蓋宰相便坐,卿其勉之。」

帝は林邑を討伐しようとされたが、朝臣の多くは賛同せず、ただ広州刺史の陸徽と演之のみが帝の意を支持した。林邑平定後、群臣に黄金・生口・銅器などの物を賜うと、演之の得たものが特に多かった。帝は言われた、「廟堂の謀議ぼうぎに卿は力を尽くし、この遠夷を平定したが、まだ茅土を多く建てるには足りぬ。旧都を廓清し、東岱に鸞鈴を鳴らす時を待てば、河山の開かれぬことを憂うるには及ばぬ」。

原文上欲伐林邑,朝臣多不同;唯廣州刺史陸徽與演之贊成上意。及林邑平,賜群臣黃金生口銅器等物,演之所得偏多。上謂曰:「廟堂之謀,卿參其力,平此遠夷,未足多建茅土。俟廓清舊都,鳴鸞東岱,不憂河山之不開也。」

二十一年、詔して演之を中領軍となす。太子詹事の范曄が逆謀を抱き、演之はその異状を察知して文帝に言上し、曄はまもなく誅殺された。吏部尚書を歴任し、太子右衛率を領す。もとより心気の疾あり、病臥すること数年。帝は臥病のまま政務を執らせた。性質として人材を挙げることを好み、屈滞を申し済すが、謙約をもって自らを保ち、帝が女伎を賜うも受けなかった。急死す。文帝は痛惜し、金紫光禄大夫を追贈し、諡して貞といった。

原文二十一年,詔以演之為中領軍。太子詹事范曄懷逆謀,演之覺其有異,言之文帝,曄尋伏誅。歷位吏部尚書,領太子右衛率。素有心氣,寢病歷年。上使臥疾理事。性好舉才,申濟屈滯,而謙約自持,上賜女伎,不受。暴卒。文帝痛惜,贈金紫光祿大夫,諡曰貞。

子に睦あり。

原文子 睦

子の睦は、黄門侍郎の位にあり、弟の西陽王文学の勃と憤り争い、罪を得て始興郡に流徙す。勃は軽薄で利を好み、太子右衛率の位にあり、給事中を加えられ、贓賄の罪で梁州に流徙す。後に帰還し、阮佃夫・王道隆らに取り入り、司徒左長史の位に至り、後廃帝に誅殺された。

原文子睦,位黃門侍郎,與弟西陽王文學勃忿鬩,坐徙始興郡。勃輕薄好利,位太子右衛率,加給事中,坐贓賄徙梁州。後還,結事阮佃夫、王道隆等,位司徒左長史,為後廢帝所誅。

兄の子に坦之あり。

原文兄子 坦之

演之の兄の子の坦之は、斉に仕えて都官郎の位に至る。坦之の子に顗あり。

原文演之兄子坦之,仕齊位都官郎。坦之子顗。

坦之の子に顗あり。

原文坦之子 顗

顗は字を処默といい、幼少より清静にして至行あり、黄叔度・徐孺子の為人を慕い、書を読むに章句を求めず、著述に浮華を尚ばず。常に独り一室に処し、人その面を見ることは稀なり。従叔の勃が貴顕となり、たびたび呉興に帰るたび賓客が門に満ちるも、顗はその門に至らず。勃が彼を訪ねると、顗は送迎も閫を越えず。勃は嘆じて言う、「我れ今に至りて貴は賤に如かざるを知る」。

原文顗字處默,幼清靜有至行,慕黃叔度、徐孺子之為人,讀書不為章句,著述不尚浮華。常獨處一室,人罕見其面。從叔勃貴顯,每還吳興,賓客填咽,顗不至其門。勃就之,顗送迎不越閫。勃歎曰:「吾乃今知貴不如賤也。」

顗は内行甚だ修まり、母と兄に孝友を尽くす。兄の昂(一名は顒)もまた退素にして、家貧しきを以て始安令として仕える。兄弟は離れられず、相随って任地に赴く。

原文顗內行甚修,事母兄孝友。兄昂一名顒,亦退素,以家貧仕為始安令。兄弟不能分離,相隨之任。

斉の永明年中、著作郎・太子舎人・通直郎に徴聘されたが、いずれも起たず。文恵太子がかつて古詩を擬して「磊磊落落玉山崩」と詠むと、顗はこれを聞いて「これは讖言なり」と言う。まもなく太子が薨じ、秋に至り武帝が崩じ、郁林王・海陵王が相次いで廃辱された。顗はもとより家産を営まず、昂が没すると、斉末の兵乱飢饉に遭い、家人と共に一日おきに食す。時に粟飯や肉を贈る者あれども、門を閉じて受けず、ただ蓴や荇の根を採って食とし、樵採をもって自らを資し、怡怡然として常にその楽しみを改めず。

原文齊永明年中,徵拜著作郎、太子舍人、通直郎,並不起。文惠太子嘗擬古詩云:「磊磊落落玉山崩。」顗聞之曰:「此讖言也。」既而太子薨,至秋,武帝崩,郁林、海陵相次黜辱。顗素不事家產,及昂卒,逢齊末兵荒,與家人並日而食。或有饋其粱肉者,閉門不受,唯采蓴荇根供食,以樵采自資,怡怡然恒不改其樂。

梁の天監四年、大いに挙兵して北侵し、南陽の楽蔵が武康令となり、顗を従役として建鄴に至らせる。揚州別駕の陸任が書を呉興太守の柳惲に与え、善を甄り賢を別つことができぬことを責める。惲は大いに慚じ、直ちに上表してこれを停めしむ。家に卒す。著した文章数十篇あり。

原文梁天監四年,大舉北侵,南陽樂藏為武康令,以顗從役到建鄴,揚州別駕陸任以書與吳興太守柳惲,責之不能甄善別賢。惲大慚,即表停之。卒家,所著文章數十篇。

従祖弟の子に憲あり。

原文從祖弟子 憲

憲は字を彦璋といい、演之の従祖弟の子なり。祖父は説道、巴西・梓潼二郡太守。父は璞之、北中郎行参軍。

原文憲字彥璋,演之從祖弟子也。祖說道,巴西、梓潼二郡太守。父璞之,北中郎行參軍。

憲は若くして幹局あり、駕部郎となる。宋の明帝が憲と囲碁を打ち、「卿は広州刺史の材なり」と言う。烏程令を補せられ、政績甚だ著しく、太守の褚彦回は嘆美し、方円に施すべきものと認む。少府は管掌煩雑にして、材幹ある者は皆その職を改めるが、憲は吏能を以て累遷して少府卿となる。武陵王曄が会稽に在るとき、憲を左軍司馬となす。斉の高帝は山陰の戸口多く、これを分けて両県とせんとす。武帝が啓上して言う、「県は豈に禦えられざらんや、ただ人を得ざるを用うるのみ」。乃ち憲に山陰令を兼ねさせると、政声大いに著し。孔珪が仮を請いて東帰する際、人に謂って言う、「沈令の事を料るには特に天才あり」。

原文憲少有幹局,為駕部郎。宋明帝與憲棋,謂曰:「卿廣州刺史材也。」補烏程令,甚著政績,太守褚彥回歎美,以為方圓可施。少府管掌煩冗,材幹者並更其職,憲以吏能,累遷少府卿。武陵王曄為會稽,以憲為左軍司馬。齊高帝以山陰戶眾,欲分為兩縣。武帝啟曰:「縣豈不可禦,但用不得人耳。」乃以憲帶山陰令,政聲大著。孔珪請假東歸,謂人曰:「沈令料事特有天才。」

後に晋安王の後軍長史・広陵太守となる。西陽王の子明が南兗州刺史を代わると、憲は留まって冠軍長史とされ、太守は元の如し。永明八年、子明の典簽劉道済が贓私百万を犯し、有司に奏され賜死す。憲は糾さざる罪に坐し、免官。後に散騎常侍に除せられるも、拝せずして卒す。当時良吏と称された。

原文後為晉安王后軍長史、廣陵太守。西陽王子明代為南兗州,憲仍留為冠軍長史,太守如故。永明八年,子明典簽劉道濟贓私百萬,為有司所奏,賜死。憲坐不糾,免官。後除散騎常侍,未拜,卒。當時稱為良吏。

憲と同じ郡の丘仲起は先に晉平郡の太守となり、清廉で自らを律した。褚彥回は嘆じて言うには、「目に欲するものを見ても、心を乱さずにいられる。これこそ楊公が子孫に遺したものである」と。仲起は字を子震といい、位は廷尉に至り、卒した。

原文憲同郡丘仲起先是為晉平郡,清廉自立。褚彥回歎曰:「目見可欲,心能不亂,此楊公所以遺子孫也。」仲起字子震,位至廷尉,卒。

憲の孫に浚がある。

原文憲孫 浚

憲の孫の浚は字を叔源といい、若くして学問に広く通じ才幹があり、梁に仕えて山陰・呉・建康の三県の令を歴任し、いずれも能吏として名があった。

原文憲孫浚字叔源,少涉學有才幹,仕梁曆山陰、吳、建康三縣,並有能名。

太清二年、累遷して御史中丞となった。時に台城が侯景に包囲され、外からの援軍が皆到着した。景は表を奉って和を請い、包囲を解いて江北に帰還することを求めた。詔はこれを許した。右衛将軍柳津を遣わして景と盟約を交わした。景は城内に疫病が流行し、次第に守備が手薄になっていることを知り、去る期日を遅らせた。城内は彼が盟約に背いたと知り、再び烽火を上げて鬨の声を挙げた。数日後、景は再び表を進めて和を請うた。簡文帝は浚を使わして景の陣営に赴かせた。景は言うには、「今日は暑さに向かう時節で、もはや行軍の時ではない。ただ功を立てて留まることを求めるつもりである。君は申し上げて聞かせてほしい」と。浚は言うには、「大将軍のこのお考えは、城を得ようとする意図である。風の便りに聞くところでは、すでに久しく食糧が乏しいという。城内は困窮しているとはいえ、まだ兵糧はある。朝廷は和好が破れることを恐れ、すでに密かに外軍に勅している。もし台城が陥落すれば、二宮(皇帝と皇太子)を顧みることなく、死をもって恥を雪げと。もし決戦できなければ、深く塁を守って自衛せよと。大将軍の十万の軍勢は、何を頼りにしようというのか」と。景は膝に刀を横たえ、目を怒らせて彼を叱った。浚は厳しい表情で景を責めて言うには、「河南王は人臣でありながら、兵を挙げて宮闕に向かっている。今、朝廷はすでに王の罪を赦し盟約を結んだ。口血(盟約の血)もまだ乾かぬうちに、また翻って背くとは。沈浚は六十の年であり、かつ天子の使者である。命を奉じて行うのみで、どうして脅されることがあろうか」と。まっすぐ去って顧みなかった。景は嘆じて言うには、「これは真の司直である」と。しかし密かに恨みを抱いた。また張嵊を勧めて義を立てさせ、後に彼を殺害させた。

原文太清二年,累遷御史中丞。時台城為侯景所圍,外援並至,景表請和,求解圍還江北。詔許之。遣右衛將軍柳津對景盟歃。景知城內疾疫,稍無守備,因緩去期。城內知其背盟,復舉烽鼓噪。後數日,景復進表請和,簡文使浚往景所。景曰:「即日向熱,非復行時,政欲立效求停,君可見為申聞。」浚曰:「大將軍此意,意在得城。下風所聞,久已乏食,城內雖困,尚有兵糧。朝廷恐和好乖貳,已密敕外軍:若台城傾覆,勿以二宮為念,當以死雪恥。若不能決戰,當深壁自守。大將軍十萬之眾,將欲何資?」景橫刀於膝,瞋目叱之。浚乃正色責景曰:「河南王人臣,而舉兵向闕。今朝廷已赦王罪結盟,口血未乾,而復翻背。沈浚六十之年,且天子使也,奉命而行,何用見脅。」徑去不顧。景歎曰:「是真司直也。」然密銜之。又勸張嵊立義,後得殺之。

江夷

原文江夷

江夷は字を茂遠といい、済陽郡考城県の人である。祖父の霦は、晋の護軍将軍であった。父の敳は、驃騎諮議参軍であった。

原文江夷字茂遠,濟陽考城人也。祖霦,晉護軍將軍。父敳,驃騎諮議參軍。

夷は若い頃から自らを磨き励み、後進の俊秀として美称された。宋の武帝は板授(臨時の任命)で鎮軍行参軍とし、桓玄討伐の功績により、南郡州陵県の五等侯に封ぜられた。累遷して大司馬となり、武帝は大司馬府と琅邪国の事務をすべて彼に委ねた。

原文夷少自藻厲,為後進之美。宋武帝板為鎮軍行參軍,豫討桓玄功,封南郡州陵縣五等侯。累遷大司馬,武帝命大司馬府、琅邪國事,一以委焉。

武帝が受禅すると、吏部尚書・呉郡太守の位を歴任した。営陽王が呉県で害されると、夷は臨んで哭し礼を尽くした。兄の病気のため官を去り、後に右僕射となった。夷は風采が美しく、立ち居振る舞いに優れ、歴任の官で温和で簡素なことで知られた。湘州刺史として出向し、散騎常侍を加えられたが、着任せずに卒した。遺言で薄葬を命じ、菜食の奠祭は必ず倹約を旨とせよとした。子に湛がある。

原文武帝受命,歷位吏部尚書,吳郡太守。營陽王于吳縣見害,夷臨哭盡禮。以兄疾去官,後為右僕射。夷美風儀,善舉止,歷任以和簡著稱。出為湘州刺史,加散騎常侍,未之職,卒。遺令薄斂,蔬奠務存儉約。子湛。

子に湛がある。

原文子 湛

湛は字を徽深といい、喪に服して孝行で知られた。文義を愛し、弾棋や鼓琴をよくし、兼ねて算術に明るかった。彭城王義康の司徒主簿となった。義康の勢威が盛んな時、人々は競って自ら近づこうとしたが、湛だけは自ら遠ざかり、固く外任を求めた。そこで武陵内史とした。随王誕が北中郎将・南徐州刺史となると、湛を長史・南東海太守とし、政事を委ねた。

原文湛字徽深,居喪以孝聞。愛文義,善彈棋鼓琴,兼明算術。為彭城王義康司徒主簿、之盛,人競求自昵,唯湛自疏,固求外出,乃以為武陵內史。隨王誕為北中郎將、南徐州刺史,以湛為長史、南東海太守,委以政事。

元嘉二十五年、侍中に徴され、機密を任された。左衛将軍に遷った。時に学職を改選し、太尉江夏王義恭が国子祭酒を領し、湛が博士を領した。

原文元嘉二十五年,徵為侍中,任以機密。遷左衛將軍。時改選學職,以太尉江夏王義恭領國子祭酒,湛領博士。

吏部尚書に転じた。家は甚だ貧しく、財利を営まず、贈り物が門に満ちても、一切受け取らなかった。替えの衣服や余分の食糧もなく、かつて上(皇帝)に召された時、洗濯中の衣服に遇い、病気と称して一日過ごし、衣ができてから起き上がった。牛が飢え、御者が草を求めたが、湛はしばらくして言うには、「水を飲ませよ」と。選職にあってはやや厳格でこまごましているとの批判もあったが、公平無私で、請託を受けず、論者はこの点を称えた。

原文轉吏部尚書。家甚貧,不營財利,餉饋盈門,一無所受。無兼衣餘食,嘗為上所召,遇澣衣,稱疾經日,衣成然後起。牛餓,御人求草,湛良久曰:「可與飲。」在選職頗有刻核之譏,而公平無私,不受請謁,論者以此稱焉。

初め、上(文帝)が大挙して北征しようとした時、朝廷全体は不可としていたが、湛だけがこれを賛成した。魏の太武帝が瓜歩に至ると、湛に兼ねて領軍を領させ、軍事の処分をすべて委ねた。魏が使者を遣わして婚姻を求めてきた。上は太子の劭以下を召集して議させた。皆は許すべきであると言ったが、湛は許しても益がないと言った。劭は怒って湛に言うには、「今、三王(江夏王ら)が苦境にあるのに、どうして軽々しく異議を執るべきか」と。声色は甚だ厲しかった。座が散って皆出た時、劭は班剣や左右の者に命じて湛を押しのけさせ、ほとんど倒れそうになった。劭は後に宴会を開いても、湛を招くことはなかった。上は劭の長子の偉之に湛の第三女を娶わせ、和解させようとした。上は劭を廃そうとし、湛に詔書の草案を作らせた。劭が入って弑逆した時、湛は上省に直していたが、叫び声を聞いて傍らの小屋に隠れた。劭が彼を探させると、舎吏が欺いて「ここにはいない」と言った。兵士はすぐに舎吏を殺し、湛を見つけ出した。湛は窓によりかかって害され、表情や意志は屈しなかった。五人の子、恁・恕・憼・愻・法壽は皆殺された。初め、湛の家ではしばしば怪異が見られた。敗れる数日前、眠っていた床に突然数斗の血が現れた。孝武帝が即位すると、左光禄大夫・開府儀同三司を追贈され、諡して忠簡公といった。恁は著作佐郎の位にあった。恁の子に斅がある。

原文初,上大舉北侵,舉朝謂為不可,唯湛贊成之。及魏太武至瓜步,以湛兼領軍,軍事處分,一以委焉。魏遣使求昏,上召太子劭以下集議。眾並謂宜許,湛謂許之無益。劭怒謂湛曰:「今三王在阨,詎宜苟執異議。」聲色甚厲。坐散俱出,劭使班劍及左右推排之,殆於傾倒。劭後宴集,未嘗命湛,上乃為劭長子偉之娉湛第三女,欲以和之。上將廢劭,使湛具詔草。劭之入弑,湛直上省,聞叫乃匿傍小屋。劭遣求之,舍吏紿云:「不在此」。兵即殺舍吏,乃得見湛。湛據窗受害,意色不橈。五子恁、恕、憼、愻、法壽皆見殺。初,湛家數見怪異,未敗少日,所眠床忽有數斗血。孝武即位,追贈左光祿大夫、開府儀同三司,諡曰忠簡公。恁位著作佐郎。恁子斅。

湛の孫に斅がある。

原文湛孫 斅

斅は字を叔文といい、母は宋の文帝の娘の淮陽長公主である。幼くして戚属として召し出され、孝武帝は謝莊に言うには、「この小児はまさに名器となるべき者である」と。若くして美誉があり、孝武帝の娘の臨汝公主を娶り、駙馬都尉に拝され、丹陽丞となった。時に袁粲が尹(丹陽尹)であり、斅を見て嘆じて言うには、「風流が墜ちず、まさに江郎にある」と。しばしば宴賞を共にし、日夜留まり連れ立った。

原文斅字叔文,母宋文帝女淮陽長公主。幼以戚屬召見,孝武謂謝莊曰:「此小兒方當為名器。」少有美譽,尚孝武女臨汝公主,拜駙馬都尉,為丹陽丞。時袁粲為尹,見斅歎曰:「風流不墜,政在江郎。」數與宴賞,留連日夜。

中書郎に遷る。江斅の庶祖母王氏は老病であり、斅は食事を調え薬を嘗めることに従事し、七十余日も衣を解かなかった。累ねて内官に居るごとに、毎に侍養のことを陳べて請うたので、朝廷はその朝直を優遇した。初め、江湛は褚秀之の娘を娶ったが、大義を終えず。褚彥回が衛軍となった時、江斅の人となりを重んじ、先ず意を通じて、長史に引き立てた。府に随って司空長史に転じ、臨淮太守を領す。斉の高帝の太尉從事中郎に転ずる。斉の台が建つと、吏部郎となる。高帝が即位すると、斅は祖母の久しい病を理由に、自ら解任を求める上啓をした。初め、宋の明帝は江斅に命じてその叔父の江愻の後を継がせ、従祖の江淳の後としたが、この時僕射の王儉が上啓して言う、「礼には小宗に後を立てる条文はなく、近代は情に縁って、皆父祖の命によるもので、既に孤となった後に、宗族に出て継ぐことはない。臣と子とは一揆であるが、義は天属ではない。江忠簡(江湛)の胤嗣の寄る所は、ただ江斅一人のみであり、傍らに期属は無い。江斅は本家に還るべきである。もし江愻の後を絶やさぬようにしたいならば、江斅の小児を以て江愻の孫として継がせることができる」。尚書が参議して謂う、「間世に後を立てることは、礼にその文無し。荀顗が子無くして孫を立てたのは、礼が墜ちる始めである。何琦がまたこの論を立てたが、義に拠る所無し」。ここにおいて江斅は本家に還り、詔して自ら量って後を立てる者を立てさせた。

原文遷中書郎。斅庶祖母王氏老疾,斅視膳嘗藥,七十餘日不解衣。及累居內官,每以侍養陳請,朝廷優其朝直。初,湛娶褚秀之女,大義不終。褚彥回為衛軍,重斅為人,先通意,引為長史。隨府轉司空長史,領臨淮太守。轉齊高帝太尉從事中郎。齊台建,為吏部郎。高帝即位,斅以祖母久疾,啟求自解。初,宋明帝敕斅出繼其叔愻為從祖淳後,於是僕射王儉啟:「禮無後小宗之文,近代緣情,皆由父祖之命,未有既孤之後,出繼宗族也。雖復臣子一揆,而義非天屬。江忠簡胤嗣所寄,唯斅一人,傍無期屬,斅宜還本。若不欲江愻絕後,可以斅小兒繼愻為孫。」尚書參議,謂「間世立後,禮無其文。荀顗無子立孫,墜禮之始。何琦又立此論,義無所據」。於是斅還本家,詔使自量立後者。

豫章内史として出向し、還って太子中庶子に除されたが、未だ拝せず、門客が贓利を通じた。武帝は使者を遣わして検査させたが、江斅はこの客を匿い、躬自ら引咎した。上は甚だ怪しむ色があったが、王儉が従容として上に啓して言う、「江斅がもし郡に臨むことができれば、これこそ具美であります」。上の意は乃ち解けた。

原文出為豫章內史,還除太子中庶子,未拜,門客通贓利,武帝遣信檢覆,斅藏此客而躬自引咎。上甚有怪色,王儉從容啟上曰:「江斅若能臨郡,此便是具美耳。」上意乃釋。

永明年中、竟陵王司馬となる。江斅は文辞を好み、囲碁は第五品で、朝貴の中で最も優れていた。侍中に遷り、五兵尚書、東海・呉二郡太守を歴任し、再び侍中となり、都官尚書に転じ、驍騎将軍を領す。王晏が武帝に啓して言う、「江斅は今重ねて礼閣に登り、兼ねて六軍を掌る。慈渥の及ぶ所、実に優れた忝きがある。但しその事任を語れば、殆ど閑輩と同じである。天旨既にその名位を昇めようとされるならば、愚は侍中として驍騎を領するをもってし、望実清顕にして、納言とは異なるものがあると謂います」。上曰く、「江斅は常に吾に啓して、その鼻中が悪いと為す。今既に何胤・王瑩を門下に還した故に、この回換があるのみ」。

原文永明中,為竟陵王司馬。斅好文辭,圍棋第五品,為朝貴中最。遷侍中,曆五兵尚書,東海、吳二郡太守,復為侍中,轉都官尚書,領驍騎將軍。王晏啟武帝曰:「江斅今重登禮閣,兼掌六軍,慈渥所覃,實有優忝;但語其事任,殆同閑輩。天旨既欲升其名位,愚謂以侍中領驍騎,望實清顯,有殊納言。」上曰:「斅常啟吾,為其鼻中惡。今既以何胤、王瑩還門下,故有此回換耳。」

先に中書舎人紀僧真が武帝に寵愛され、稍々軍校を歴任し、容表に士風があった。帝に謂う、「臣は小人、本県の武吏より出で、聖時に逢い邀えて、階栄ここに至る。児の婚に、荀昭光の女を得た。即時に復た須うる所無し。唯だ陛下に就きて士大夫と作ることを乞う」。帝曰く、「江斅・謝淪による。吾はこの意を措くを得ず。自ら詣るべし」。僧真は旨を承けて江斅に詣り、榻に登り坐定すると、江斅は便ち左右に命じて曰く、「吾が床を移して客に譲れ」。僧真は喪気して退き、武帝に告げて曰く、「士大夫は故に天子の命ずる所に非ず」。時に人は江斅の風格を重んじ、権幸に降意せざることを為した。

原文先是中書舍人紀僧真幸于武帝,稍曆軍校,容表有士風。謂帝曰:「臣小人,出自本縣武吏,邀逢聖時,階榮至此。為兒昏,得荀昭光女,即時無復所須,唯就陛下乞作士大夫。」帝曰:「由江斅、謝淪,我不得措此意,可自詣之。」僧真承旨詣斅,登榻坐定,斅便命左右曰:「移吾床讓客。」僧真喪氣而退,告武帝曰:「士大夫故非天子所命。」時人重斅風格,不為權幸降意。

隆昌元年、侍中となり、国子祭酒を領す。郁林王が廃されると、朝臣は皆召されて宮中に入った。江斅は雲龍門に至って、初めて廃立を知り、散動を託し、車中で酔って吐き去った。

原文隆昌元年,為侍中,領國子祭酒。郁林廢,朝臣皆被召入宮。斅至雲龍門,方知廢立,托散動,醉吐車中而去。

明帝が即位すると、秘書監を領することを改め、また晋安王師を領することを改めた。卒す。遺令して賻贈を受けざることを命ず。詔して銭三万、布百匹を賻す。子の江蒨が江斅の命に遵って受けざることを啓す。詔してこれを嘉美し、その請いに従う。散騎常侍・太常卿を贈られ、諡して敬子と曰う。子は江蒨。

原文明帝即位,改領秘書監,又改領晉安王師。卒,遺令不受賻贈。詔賻錢三萬,布百匹。子蒨啟遵斅命不受,詔嘉美之,從其所請。贈散騎常侍、太常卿,諡曰敬子。子蒨。

江斅の子 江蒨

原文斅子 蒨

江蒨は字を彦標と為し、幼くして聡警、書を読み口を過ぐれば便ち誦す。選ばれて国子生と為り、挙げて高第、起家して秘書郎、累遷して廬陵王主簿となる。父の憂いに居りて孝を以て聞こえ、墓側に廬す。明帝は斎仗二十人を遣わして墓所に防がしむ。服闋し、累遷して建安内史となる。梁の武帝が兵を起こすと、甯朔将軍劉諓之を郡に遣わすが、江蒨はこれを拒んだ。建鄴が平定されると、江蒨は禁錮に坐し、俄かに原される。

原文蒨字彥標,幼聰警,讀書過口便誦。選為國子生,舉高第,起家秘書郎,累遷廬陵王主簿。居父憂以孝聞,廬於墓側,明帝敕遣齋仗二十人防之墓所。服闋,累遷建安內史。梁武帝起兵,遣甯朔將軍劉諓之為郡,蒨拒之。及建鄴平,蒨坐禁錮,俄被原。

太尉臨川王長史・尚書吏部郎を歴任し、右軍を領す。方正雅にして風格有り。僕射徐勉は権重く、唯だ江蒨及び王規のみが抗礼し、そのために屈せず。徐勉は江蒨の門客翟景を因って、子の徐繇の為に江蒨の女に婚を求むるも、答えず。翟景が再びこれを言うと、乃ち翟景を四十杖し、これにより徐勉と忤る。徐勉はまた子の為に江蒨の弟江葺及び王泰の女を求むるも、二人並びにこれを拒む。江葺は吏部郎となり、曹中幹を杖した罪に坐して免官され、王泰は疾を以て仮に出宅すると、乃ち散騎常侍に遷す。皆徐勉の意なり。初め、天監六年、詔して侍中・常侍を以て並びに帷幄に侍らしめ、門下の二局を分けて集書に入れ、その官品は侍中に視す。然れども華胄の悦ぶ所に非ず。故に徐勉は王泰を斥けてこれを為さしむ。

原文曆太尉臨川王長史、尚書吏部郎,領右軍。方雅有風格,僕射徐勉權重,唯蒨及王規與抗禮,不為之屈。勉因蒨門客翟景為子繇求昏於蒨女,不答。景再言之,乃杖景四十,由此與勉忤。勉又為子求蒨弟葺及王泰女,二人並拒之。葺為吏部郎,坐杖曹中幹免官,泰以疾假出宅,乃遷散騎常侍,皆勉意也。初,天監六年,詔以侍中常侍並侍帷幄,分門下二局入集書,其官品視侍中,而非華胄所悅,故勉斥泰為之。

江蒨は尋いで司徒左長史に遷る。初め王泰が出閣した時、武帝は徐勉に云う、「江蒨の資歴は、選部に居るべきである」。徐勉曰く、「江蒨は眼患有り、又人物に悉からず」。乃ち止む。光禄大夫に遷る。卒す。諡して肅と曰う。

原文蒨尋遷司徒左長史。初王泰出閣,武帝謂勉云:「江蒨資歷,應居選部。」勉曰:「蒨有眼患,又不悉人物。」乃止。遷光祿大夫。卒,諡肅。

江蒨は学を好み、特に朝儀故事に詳しく、江左遺典三十巻を撰す。未だ成らずして卒す。文集十五巻。

原文蒨好學,尤悉朝儀故事,撰江左遺典三十卷,未就,卒。文集十五卷。

江蒨の弟 江曇

原文蒨弟 曇

江蒨の弟江曇は字を彦德と為し、少より学に渉り器度有り。位は侍中太子詹事、承聖初年に卒す。江曇の弟は江祿。

原文蒨弟曇字彥德,少學涉有器度,位侍中太子詹事,承聖初卒。曇弟祿。

江曇の弟 江祿

原文曇弟 祿

江祿は字を彦遐と為し、幼より篤学して文章有り、書を工とし琴を善くす。形貌短小なるも、神明俊発す。位は太子洗馬・湘東王録事参軍。気を以て府王(湘東王)に陵ぐ。王は深く憾む。廬陵威王蕭続が代わって荊州となると、留まって驃騎諮議参軍と為す。書を献じて別れを告ぐ。王の答書は乃ち恨みを致す。

原文祿字彥遐,幼篤學有文章,工書善琴。形貌短小,神明俊發。位太子洗馬、湘東王錄事參軍,以氣陵府王,王深憾焉。廬陵威王續代為荊州,留為驃騎諮議參軍。獻書告別,王答書乃致恨。

陸祿は先に武寧郡の太守となり、頗る資産を有し、壁に銭を積み重ねたところ、壁がそのために倒れ、押しつぶされて銅の器物は皆鳴り響いた。人が戯れて曰く、「いわゆる『銅山西に傾き、洛鍾東に応ず』というものである」と。湘東王(蕭繹)は彼を恨むこと既に深く、その名が祿であることから、字を栄財と改めさせ、その忿りを記した。後に作唐侯相となり、卒した。『列仙伝』十巻を撰して世に行われ、また『井絜皋木人賦』『敗船詠』を作り、並びに自らを喩えた。

原文祿先為武寧郡,頗有資產,積錢於壁,壁為之倒,迮銅物皆鳴。人戲之曰:「所謂『銅山西傾,洛鍾東應』者也。」湘東王恨之既深,以其名祿,改字曰榮財,以志其忿。後為作唐侯相,卒。撰列仙傳十卷行於世,及井絜皋木人賦、敗船詠,並以自喻。

子の陸徽もまた文采があり、しかし清狂にして慧くなく、常に父を戯れの種とした。陸蒨の子は陸紑である。

原文子徽亦有文采,而清狂不慧,常以父為戲。蒨子紑。

陸蒨の子は陸紑。

原文蒨子 紑

陸紑は字を含絜といい、幼くして孝性があり、十三歳の時、父の陸蒨が眼を患い、陸紑は病に侍すること将に一月、衣を解かず帯を緩めなかった。夜に一人の僧の夢を見て云う、「眼を患う者は慧眼の水を飲めば必ず癒ゆ」と。覚めてこれを語ったが、理解できる者はいなかった。陸紑の第三の叔父の陸祿は草堂寺の智者法師と親しく、往ってこれを訪ねた。智者は曰く、「『無量寿経』に云う、慧眼は真を見、能く彼岸に度す、と」。陸蒨はそこで智者に因って啓上し、同夏県界の牛屯裏の邸宅を寺に施し、嘉名を賜わることを乞うた。勅答に云う、「純臣孝子は往々にして感応あり、晋の時の顔含は遂に冥中の薬を送るを見、又近く智者を見て卿の第二息(次男)の夢に『慧眼の水を飲む』と云う。慧眼は則ち五眼の一つの号なり、慧眼を以て名と為すべし」と。及び造営に着手し、古井戸を掘ると、井戸水は清く洌しく、常の泉とは異なっていた。夢に依って水を取り眼を洗い及び薬を煮ると、稍々癒ゆるを覚え、これによって遂に平癒した。当時の人はこれを孝感と謂った。

原文紑字含絜,幼有孝性,年十三,父蒨患眼,紑侍疾將期月,衣不解帶。夜夢一僧云:「患眼者飲慧眼水必差。」及覺說之,莫能解者。紑第三叔祿與草堂寺智者法師善,往訪之。智者曰:「無量壽經雲,慧眼見真,能度彼岸。」蒨乃因智者啟舍同夏縣界牛屯裏舍為寺,乞賜嘉名。敕答云:「純臣孝子往往感應,晉時顏含遂見冥中送藥,又近見智者以卿第二息夢雲'飲慧眼水'。慧眼則五眼之一號,可以慧眼為名。」及就創造,泄故井,井水清洌,異於恒泉。依夢取水洗眼及煮藥,稍覺有瘳,因此遂差。時人謂之孝感。

南康王(蕭会理)が徐州刺史となった時、召されて迎主簿となった。陸紑の性質は沈静にして、『荘子』『老子』の玄言を好み、特に仏義に善く、進んで仕えることを楽しまなかった。父が卒すると、陸紑は墓の傍に廬し、終日号慟して声を絶やさず、一月余りにして卒した。子は陸総。

原文南康王為徐州,召為迎主簿。紑性沈靜,好莊、老玄言,尤善佛義,不樂進仕。及父卒,紑廬於墓,終日號慟不絕聲,月餘乃卒。子總。

陸紑の子は陸総。

原文紑子 總

陸総は字を総持といい、七歳で孤となり、外戚に依った。幼くして聡敏、至性あり。母方の伯父の呉平侯蕭勱は当世に名重く、特に鍾愛し、謂って曰く、「爾の神采は英抜、後の知名は、当に吾が右に出づべし」と。

原文總字總持,七歲而孤,依於外氏。幼聰敏,有至性。元舅吳平侯蕭勱名重當世,特所鍾愛,謂曰:「爾神采英拔,後之知名,當出吾右。」

成長すると、篤学にして文辞あり。梁に仕えて尚書殿中郎となった。武帝(蕭衍)が『正言』を撰し始めて畢り、『述懐詩』を制すと、陸総はこれに預かって同作した。帝は陸総の詩を覧て、深く嗟賞された。侍郎に転じた。尚書僕射范陽の張纘、度支尚書琅邪の王筠、都官尚書南陽の劉之遴は並びに高才碩学、陸総は時に年少有名、張纘らは雅に推重し、忘年の友会を為した。劉之遴は嘗て陸総に詩を酬い、深く欽挹した。

原文及長,篤學有文辭。仕梁為尚書殿中郎。武帝撰正言始畢,制述懷詩,總預同此作。帝覽總詩,深見嗟賞。轉侍郎。尚書僕射范陽張纘、度支尚書琅邪王筠、都官尚書南陽劉之遴並高才碩學,總時年少有名,纘等雅相推重,為忘年友會。之遴嘗酬總詩,深相欽挹。

累遷して太子中舎人となった。侯景が建鄴を寇すと、詔して陸総を以て権兼太常卿とし、小廟を守らせた。台城が陥落すると、会稽郡に避難し、龍華寺に憩い、乃ち『修心賦』を制した。陸総の第九の舅の蕭勃が先に広州を拠え、又自ら会稽より往ってこれに依った。元帝(蕭繹)が侯景を平らげると、始興内史に徴された。時に魏が江陵を克つと、行かず、ここより嶺南に流寓すること積年。

原文累遷太子中舍人。侯景寇建鄴,詔以總權兼太常卿,守小廟。台城陷,避難會稽郡,憩於龍華寺,乃制修心賦。總第九舅蕭勃先據廣州,又自會稽往依焉。及元帝平侯景,徵為始興內史。會魏克江陵,不行,自此流寓嶺南積歲。

陳の天嘉四年、中書侍郎として徴還された。累遷して左戸尚書となり、太子詹事に転じた。陸総の性質は寛和温裕、特に五言七言に工み、浮靡に溺れた。宮端(太子詹事)となると、太子と長夜の飲を為し、良娣陳氏を養女と為し、太子は屡々微行して陸総の家に遊び、宣帝は怒ってこれを免じた。後に又歴任して侍中、左戸尚書。

原文陳天嘉四年,以中書侍郎征還。累遷左戶尚書,轉太子詹事。總性寬和溫裕,尤工五言七言,溺於浮靡。及為宮端,與太子為長夜之飲,養良娣陳氏為女,太子亟微行遊總家,宣帝怒免之。後又曆侍中、左戶尚書。

後主(陳叔宝)が即位すると、歴任して吏部尚書、尚書僕射、尚書令となり、扶を加えられた。既に権任宰輔に当たるも、政務を持たず、ただ日々後主と後庭に遊宴し、多く艶詩を作り、好事の者相伝えて諷翫し、今に絶えず。ただ陳暄、孔范、王瑳ら十余人とのみ、当時これを狎客と謂った。ここにより国政は日に頽れ、綱紀立たず、これを言う者有れば、輒ち罪を以てこれを斥け、君臣昏乱、滅亡に至った。

原文後主即位,曆吏部,尚書僕射,尚書令,加扶。既當權任宰,不持政務,但日與後主遊宴後庭,多為豔詩,好事者相傳諷翫,於今不絕。唯與陳暄、孔范、王瑳等十餘人,當時謂之狎客。由是國政日頹,綱紀不立,有言之者,輒以罪斥之,君臣昏亂,以至於滅。

禎明三年、陳滅びて隋に入り、上開府に拝された。開皇十四年、江都に卒す。年七十六。その自序に云う、「太建の時、権は群小に移り、諂嫉して威を作し、屡々摧黜せられ、奈何せん命なり」と。識者はその言跡の乖きを譏った。文集三十巻あり。長子の陸溢は頗る文辞あり、性質傲誕驕物、近属故友と雖も、詆欺を免れず。

原文禎明三年,陳亡入隋,拜上開府。開皇十四年,卒于江都,年七十六。其為自序云:「太建之時,權移群小,諂嫉作威,屢被摧黜,奈何命也。」識者譏其言跡之乖。有文集三十卷。長子溢,頗有文辭,性傲誕驕物,雖近屬故友,不免詆欺。

歴任して中書黄門侍郎、太子中庶子。隋に入り、秦王文学となり、卒した。

原文曆中書黃門侍郎,太子中庶子。入隋,為秦王文學,卒。

弟子は江智深。

原文弟子 智深

江智深は、江夷の弟の子である。父は江僧安、宋の太子中庶子。江夷は盛名有り、江夷の子の江湛は又清誉有り、父子並びに貴達した。智深の父は少より名問無く、江湛の礼敬甚だ簡略、智深は常に恨みと為し、節歳でなければ江湛の門に入らなかった。随王劉誕の後軍参軍となると、襄陽に在り、劉誕はこれを待つこと甚だ厚かった。時に諮議参軍謝庄、主簿沈懐文は智深と友善、沈懐文は毎に称して曰く、「人の応に有るべきこと尽く有り、応に無きべきこと尽く無き者は、其れ江智深か」と。

原文江智深,夷之弟子也。父僧安,宋太子中庶子。夷有盛名,夷子湛又有清譽,父子並貴達。智深父少無名問,湛禮敬甚簡,智深常以為恨,自非節歲不入湛門。及為隨王誕後軍參軍,在襄陽,誕待之甚厚。時諮議參軍謝莊、主簿沈懷文與智深友善,懷文每稱曰:「人所應有盡有、所應無盡無者,其江智深乎。」

元嘉の末、尚書庫部郎に任ぜられた。当時、高流の官序は台郎を為さず、智深は門孤援寡にして、独り此の選にあり、意甚だ悦ばず、固辞して拝さず。後に竟陵王誕の司空主簿・記室参軍となり、南濮陽太守を領し、従事中郎に遷った。誕、将に逆を為さんとす、智深其の機を悟り、暇を請いて先に反る。誕の事発す、即ち中書侍郎を除く。

原文元嘉末,除尚書庫部郎。時高流官序不為台郎,智深門孤援寡,獨有此選,意甚不悅,固辭不拜。後為竟陵王誕司空主簿、記室參軍,領南濮陽太守,遷從事中郎。誕將為逆,智深悟其機,請假先反。誕事發,即除中書侍郎。

智深は文雅を愛好し、辞采清贍、孝武帝深く相知待し、恩礼朝に冠たり。上宴私甚だ数多く、群臣五三人を命じて遊集せしむること多し、智深常に其の首と為る。同侶未だ前に及ばずして、輒ち独り引進を蒙り、毎に衆を越ゆるを以て慚じ、未だ嘗て喜色有ること無し。毎に遊幸に従い、群僚と相随う、伝詔の馳せ来るを見、当に己を呼ぶべきを知り、聳動愧恧し、容貌に形わる、論者此を以て之を多とす。

原文智深愛好文雅,辭采清贍,孝武深相知待,恩禮冠朝。上宴私甚數,多命群臣五三人游集,智深常為其首。同侶未及前,輒獨蒙引進,每以越眾為慚,未嘗有喜色。每從遊幸,與群僚相隨,見傳詔馳來,知當呼己,聳動愧恧,形於容貌,論者以此多之。

驍騎将軍・尚書吏部郎に遷る。上毎に酣宴すれば、輒ち群臣を詆り、並びに自ら相嘲訐せしめ、以て歓笑と為す。智深素より方退にして、漸く旨に会わず。上嘗て王僧朗を以て其の子景文を戯れしめんとす、智深正色して曰く、「恐らく此の戯有るに宜しからず」と。上怒りて曰く、「江僧安は癡人なり、癡人自ら相惜しむ」と。智深席に伏して流涕す、此より恩寵大いに衰ふ。

原文遷驍騎將軍、尚書吏部郎。上每酣宴,輒詆群臣,並使自相嘲訐,以為歡笑。智深素方退,漸不會旨。上嘗使以王僧朗戲其子景文,智深正色曰:「恐不宜有此戲。」上怒曰:「江僧安癡人,癡人自相惜。」智深伏席流涕,由此恩寵大衰。

出でて新安王子鸞の北中郎長史・南東海太守となり、南徐州事を行ふ。

原文出為新安王子鸞北中郎長史、南東海太守,行南徐州事。

初め、上の寵姫宣貴妃殷氏卒す、群臣をして諡を議せしむ、智深上議して曰く「懐」と。上嘉号尽くさずと為し、甚だ之を銜む。後に車駕南山に幸す、馬に乗りて殷氏の墓に至る、群臣皆騎従す、上馬鞭を以て墓の石柱を指し智深に謂ひて曰く、「此の柱の上に『懐』の字を容るべからず」と、智深益々惶懼し、憂ひを以て卒す。

原文初,上寵姬宣貴妃殷氏卒,使群臣議諡,智深上議曰:「懷」。上以不盡嘉號,甚銜之。後車駕幸南山,乘馬至殷氏墓,群臣皆騎從,上以馬鞭指墓石柱謂智深曰:「此柱上不容有'懷'字「,智深益惶懼,以憂卒。

子の筠、太子洗馬、早卒す。後廃帝の皇后は、筠の女なり。廃帝即位し、后の父を以て追贈して金紫光禄大夫と為し、筠の妻王を平望郷君と為す。

原文子筠,太子洗馬,早卒。後廢帝皇后,筠之女也。廢帝即位,以後父追贈金紫光祿大夫,筠妻王平望鄉君。

智深の兄の子概早く孤と為る、智深之を養ふこと子の如し。概黄門吏部郎・侍中を歴任し、武陵王賛の北中郎長史と為る。

原文智深兄子概早孤,智深養之如子。概曆黃門吏部郎,侍中,武陵王贊北中郎長史。

江秉之

原文江秉之

江秉之、字は玄叔、済陽考城の人なり。祖は逌、晋の太常。父は纂、給事中。

原文江秉之字玄叔,濟陽考城人也。祖逌,晉太常。父纂,給事中。

秉之少くして孤と為り、弟妹七人並びに幼く、撫育姻娶、其の心力を尽くす。宋の少帝の時、永世・烏程の令と為り、善政を以て東土に著名なり。建康令に徴せられ、政を為すこと厳察にして、部下粛然たり。後に山陰令と為り、人戸三万、政事繁擾し、訟訴殷積し、階庭常に数百人。秉之繁を禦するに簡を以てし、常に事無きを得たり。宋の世唯だ顧覬之も亦た省務を以て績を著す、其の余は復た刑政修理すと雖も、未だ能く事を簡にせず。県に能有るを以て、出でて新安太守を補ふ。元嘉十二年、転じて臨海に在り、並びに簡約を以て称せられ、官所に於て卒す。得たる秩は悉く之を親故に散じ、妻子常に饑寒す。人其の田を営むを勧むる有り、秉之正色して答へて曰く、「食禄の家、豈に農人と利を競ふべけんや」と。郡に在りて書案一枚を作り、官を去りて留めて以て庫に付す。

原文秉之少孤,弟妹七人並幼,撫育姻娶,盡其心力。宋少帝時,為永世、烏程令,以善政著名東土。徵為建康令,為政嚴察,部下肅然。後為山陰令,人戶三萬,政事繁擾,訟訴殷積,階庭常數百人。秉之禦繁以簡,常得無事。宋世唯顧覬之亦以省務著績,其餘雖復刑政修理,而未能簡事。以在縣有能,出補新安太守。元嘉十二年,轉在臨海,並以簡約見稱,卒於官所。得秩悉散之親故,妻子常饑寒。人有勸其營田,秉之正色答曰:「食祿之家,豈可與農人競利。」在郡作書案一枚,去官留以付庫。

秉之の宗人邃之、字は玄遠、頗る文義有り、文釈を撰して世に伝はり、位は司徒記室参軍。

原文秉之宗人邃之字玄遠,頗有文義,撰文釋傳於世,位司徒記室參軍。

秉之の子徽、尚書都官郎、呉令。元凶徐湛之を殺す、徽は党与を以て誅せらる。子は謐。

原文秉之子徽,尚書都官郎,吳令。元凶殺徐湛之,徽以黨與見誅。子謐。

孫 謐

原文孫 謐

謐、字は令和、父の徽禍に遇ひ、謐は尚方に繋がる。宋の孝武帝建鄴を平ぐ、乃ち出でて于湖令と為り、強済にして職に称す。宋の明帝兗州に在りし時、謐は身を傾けて奉事し、帝の待する所と為る。即位し、以て驃騎参軍と為す。弟の蒙は貌醜く、帝常に召見して狎侮す。

原文謐字令和,父徽遇禍,謐系尚方。宋孝武平建鄴,乃得出為於湖令,強濟稱職。宋明帝為兗州,謐傾身奉事,為帝所待。即位,以為驃騎參軍。弟蒙貌醜,帝常召見狎侮之。

謐再び右丞に遷り、比部朗を兼ぬ。泰始四年、江夏王義恭の第十五女卒す、年十九、未だ笄せず、礼官議して成人の服に従ひ、諸王は大功の服を服す。左丞孫敻重ねて奏す、「礼記『女子十五にして笄す』、鄭玄云ふ、『応年に許嫁する者なり。其の未だ許嫁せざる者は、則ち二十にして笄す』と。射慈云ふ、『十九猶ほ殤と為す』と。礼官は経典に違越し、理に於て拠無し」と。太常以下結びて免贖の論に坐し、謐は杖督五十に坐し、労を奪ふこと百日。謐又た奏す、敻先づ研辯せず、混同して謬議す、事例を准ふれば、亦た咎に及ぶべしと。敻又た結びて免贖の論に坐し、詔して可とす。

原文謐再遷右丞,兼比部朗。泰始四年,江夏王義恭第十五女卒,年十九,未笄,禮官議從成人服,諸王服大功。左丞孫敻重奏:「禮記『女子十五而笄』,鄭玄云:『應年許嫁者也。其未許嫁者,則二十而笄。』射慈云:『十九猶為殤。』禮官違越經典,於理無據。」太常以下結免贖論,謐坐杖督五十,奪勞百日。謐又奏敻先不研辯,混同謬議,准以事例,亦宜及咎。敻又結免贖論,詔可。

建平王劉景素の冠軍長史・長沙内史として出向し、湘州の事務を代行した。政治と教化は苛酷であり、僧侶の遵道はまた江謐と親密な間柄で、江謐に従って郡に赴任し、些細な罪を犯して郡の獄に繋がれた。僧遵道は三衣を裂いて彼に食べさせ、尽きて死に至らしめた。有司に奏上され、召還された。明帝が崩御し、赦免に遇った。

原文出為建平王景素冠軍長史、長沙內史,行湘州事。政教苛刻,僧遵道又與謐情款,隨謐蒞郡,犯小事,餓系郡獄。僧遵道裂三衣食之盡而死,為有司奏,征還。明帝崩,遇赦免。

斉の高帝が南兗州を領すると、江謐は鎮軍長史・広陵太守となった。入朝して遊撃将軍となった。性質は世俗的で、時流の利益に巧みに迎合した。元徽の末、朝野ともに皆建平王劉景素に属望したが、江謐は深く自ら結びついた。景素の事が敗れると、僅かに禍を免れた。蒼梧王が廃された後、人心はなお疑いと二心を抱いていたが、江謐は独り誠を尽くして斉の高帝に帰順し仕えた。升明元年、黄門侍郎となり、尚書左丞を領した。沈攸之の乱が起こると、高帝に黄鉞を加えることを議し、これは江謐の建議によるものであった。事が平定されると、吏部郎に遷った。斉の建元元年、侍中の位にあった。やがて驃騎将軍豫章王蕭嶷が湘州を領すると、江謐を長史とし、永新県伯に封じた。三年、左戸尚書となった。諸皇子が宮邸を出る際、文武の主帥を用いること全てを江謐に委ねた。まもなく詔勅で選任について言うには、「江謐は寒門の士であり、確かに華族の同輩と競い等しくなることは得られないが、甚だ才幹があり、吏部を掌るよう遷任させよ」。

原文齊高帝領南兗州,謐為鎮軍長史、廣陵太守。入為遊擊將軍。性流俗,善趨時利。元徽末,朝野咸屬意建平王景素,謐深自委結。景素事敗,僅得免禍。蒼梧王廢後,物情尚懷疑貳,謐獨竭誠歸事齊高帝。升明元年,為黃門侍郎,領尚書左丞。沈攸之事起,議加高帝黃鉞,謐所建也。事甯,遷吏部郎。齊建元元年,位侍中。既而驃騎豫章王嶷領湘州,以謐為長史,封永新縣伯。三年,為左戶尚書。諸皇子出合,用文武主帥,悉以委謐。尋敕選曰:「江謐寒士,誠當不得競等華儕,然甚有才幹,可遷掌吏部。」

江謐は文書作成の才に長け、任地において職務に精励した。高帝が崩御すると、江謐は病と称して参内せず、人々は彼が顧命に預からなかったことを怨んでいるのではないかと疑った。武帝が即位すると、江謐はまた官位が昇進せず、これによって怨望を抱いた。時に武帝が病に臥せると、江謐は豫章王蕭嶷を訪れ、暇を請うて言うには、「至尊(武帝)は病から立ち直らず、皇太子もまた才能がありません。公は今どのようなお考えをお持ちですか」。武帝はこれを知り、江謐を鎮北長史・南東海太守として出向させた。出発しないうちに、憂慮が甚だしく、そこで囲碁で占卦したところ、「客南より来たり、金碗玉杯」と出た。上(武帝)は御史中丞沈沖に命じて江謐の前後の罪悪を奏上させ、収監して廷尉に送るよう請わせた。詔により死を賜い、果たして金の甕で薬(毒)を盛って鴆殺した。

原文謐才長刀筆,所在幹職。高帝崩,謐稱疾不入,眾頗疑其怨不預顧命。武帝即位,謐又不遷官,以此怨望。時武帝不豫,謐詣豫章王嶷,請閑曰:「至尊非起疾,東宮又非才,公今欲何計?」武帝知之,出謐為鎮北長史、南東海太守。未發,憂甚,乃以奕棋占卦云:「有客南來,金碗玉杯。」上使御史中丞沈沖奏謐前後罪惡,請收送廷尉。詔賜死,果以金罌盛藥鴆之。

江謐の子 江介

原文謐子 介

子の江介は、建武年間に呉県令となり、政治もまた厳しく苛酷であった。世間の者が死人や髑髏に札を掛けて「江謐の首」と書き、江介は官を棄てて去った。

原文子介,建武中為吳令,政亦深苛。人間榜死人髑髏為謐首,介棄官而去。

論

原文論

論じて言う。王敬元(王瓚之)は平易簡素で称誉を集め、王玄保(王弘)は広大美善で推挙され、彼らが世に重んぜられたのは、決して虚名ではない。しかし王玄保は時に帝の思慮が盛んであり、その命は天に稟けたものではあるが、その恩寵の跡を尋ねれば、やはり「猶賢」(『論語』「猶賢乎已」)の助けによるものであろう。沈氏は代々武人の節義を伝え、沈演之はその業績と志尚によって知られ、帷幄に綢繆して、遂に機務に参与した。沈処黙(沈顗)は閑静篤実な素性を保ち、沈叔源(沈煥)は節義が臨危の際に現れ、美しい徳と高い風格、いわゆる世に人ありというものである。孔茂遠(孔奐)は晋から陳に至るまで、雅正の道が相継ぎ、代々徳を載せた、これをいうのである。しかし江総は寵愛と親狎に溺れ、反って文雅によって敗れた。されば士が名を成すには、貴ぶところは彬彬たる(文質調和した)ことのみである。王玄叔(王琨)は清廉耿介で美名を著し、古の烈しい士に追従するに足る。江令和(江謐)は窺い覗うことが性となり、終に険しい道で躓きを取ったのは、当然である。

原文論曰:敬元夷簡歸譽,玄保弘懿見推,其取重於世,豈虛名也。然玄保時隆帝念,雖命稟于玄天,跡其恩寵,蓋亦「猶賢」之助。沈氏世傳武節,而演之以業尚見知,綢繆帷幄,遂參機務。處默保閑篤素,叔源節見臨危,懿德高風,所謂世有人矣。茂遠自晉及陳,雅道相系,弈世載德,斯之謂焉。而總溺於寵狎,反以文雅為敗,然則士之成名,所貴彬彬而已。玄叔清介著美,足以追蹤古烈。令和窺覘成性,終取躓于險塗,宜矣。