南史
巻三十五 巻三十六
劉湛
宋の武帝の太尉行参軍に除され、賞遇甚だ厚し。父の柳が江州にて亡くなると、府州より送故甚だ豊かなりしも、一も受けず、時に論じて之を称す。服闕して、相国参軍となる。謝晦・王弘並びに其の器幹を称す。
武帝が入朝して晋の命を受け、第四子の義康を冠軍将軍・ 豫 州刺史とし、寿陽に留め鎮守せしむ。湛を以て長史・梁郡太守とす。義康は弱年にして未だ政に親しまず、府州の事は悉く湛に委ぬ。右将軍に進号し、仍って府に随ひて転ず。義康は本号を以て南 豫 州に徙り、湛は歴陽太守を改めて領す。人となり剛厳にして法を用い、奸吏贓百銭以上を犯す者は皆之を殺し、下より震肅せざるは莫し。
廬陵王義真が出でて車騎将軍・南 豫 州刺史となり、湛また長史となり、太守は如故。義真は時に武帝の憂に居り、帳下に膳を備へしむるを、湛之を禁ず。義真乃ち左右の人に魚肉珍羞を買はしめ、斎内に別に厨帳を立てしむ。会に湛入るに因り、命じて臑酒を炙り車螯を炙らしむ。湛正色して曰く、「公は当今此の設け有るべからず。」義真曰く、「旦は甚だ寒し、杯酒亦何の傷かあらん。長史は事同一家、異と為さざるを望む。」酒至るに及び、湛起ちて曰く、「既に礼を以て自ら処する能はず、又礼を以て人を処する能はず。」
後に広州刺史となり、嫡母憂にて職を去る。服闋して、侍中となる。時に王華・王曇首・殷景仁も亦侍中たり。文帝、合殿にて四人と宴飲し甚だ悦ぶ。華等出づるを、帝目送すること良久く、歎じて曰く、「此の四賢は一時の秀、喉唇を同じく管す。後世継ぐこと難からんことを恐る。」及び撫軍将軍江夏王義恭が江陵を鎮むるに、湛を以て使持節・南蛮 校尉 とし、撫軍長史を領し、府州事を行はしむ。王弘政を輔くるも、王華・王曇首は事に任じて中に居る。湛自ら才能は彼らに後れずと謂ひ、外出を願はず。是の行は、弘等に斥けられしと謂ひ、意甚だ平らかならず。常に曰く、「二王は代邸の旧に非ざれば、以て此に至る無し。風雲に遭遇すと謂ふべし。」湛其の才気を負ひ、常に汲黯・崔琰の人たるを慕ひ、故に長子を名づけて黯とし字は長孺、第二子を琰とし字は季珪とす。琰江陵にて病卒す。湛自ら喪を送り還都せんことを求め、義恭も亦之が為に情を陳ぶ。文帝義恭に答えて曰く、「吾も亦湛の啓事を得て、之が為に酸懷す。乃ち苟くも其の請に違はんことを欲せず。但し汝は弱年にして新たに軍務に渉り、八州殷曠、専断事重く、畴咨委仗、其の人を得ざる可からず。量算二三、未だ便ち相順許することを獲ず。今湛の啓に答へ、権りに彼の葬を停む。頃に朝臣零落相系り、寄懷転た寡し。湛は実に国器、吾乃ち其の令を引き還さんと欲す。直に西夏の任重きを以て、要は且く此の事を停むるのみ。汝の慶賞黜罰、得失に預に関する者は、必ず宜しく悉く相委寄すべし。」
義恭性甚だ狷隘にして、年又漸く大なり、政事を専らにせんと欲し、毎に湛に裁せらる。主佐の間に、嫌隙遂に構ふ。文帝之を聞き、密かに詰譲を義恭に遣す。義恭、湛に下に居るの礼無きを陳べ、又自ら年長なるを以て、意を行ふを得ずとす。詔旨を奉ずるも、毎に出でて怨言す。上友于素だ篤く、酬順せんと欲し、乃ち之に詔して曰く、「当今の才、委受已に爾り。宜しく尽く相弥縫し、其の取るべきを取り、其の棄つべきを棄つべし。」
先づ是れ王華既に亡び、曇首又卒す。領軍将軍殷景仁、時賢零落するを以て、文帝に白し湛を征す。八年、召されて太子詹事と為り、給事中を加へられ、景仁と並びに任遇せらる。湛云く、「今代の宰相何か難からん。此れ正に我が南陽郡漢代の功曹に当る可きのみ。」明年、景仁転じて尚書僕射となり、選を領し、護軍将軍となる。湛代はりて領軍と為る。十二年、又詹事を領す。湛と景仁は素より款しく、又其の建議を以て之を征せしめしを以て、甚だ相感悦す。及んで俱に時遇せらるるに及び、猜隙漸く生ず。景仁の内任を専らにするを以て、己を間ふと謂ふ。時に彭城王義康朝権を専執し、而して湛は昔上佐たりしを以て、遂に旧情を以て心を委ね自ら結び、宰相の力を因りて主の心を回らし、景仁を傾黜し、独り当時の務をせんと欲す。義康屡ひ之を文帝に言ふも、其の事行はれず。義康の僚属及び湛の諸の附隸潜かに相約勒し、敢へて殷氏の門を歴る者無し。湛の党劉敬文の父成其の機を未だ悟らず、景仁に詣り郡を求む。敬文遽ち湛に謝して曰く、「老父悖耄にして、遂に殷鉄に就きて祿を幹む。敬文の闇浅なるに由り、上に生成に負ひ、合門慚懼し、地自ら処する無し。」敬文の奸諂此の如し。
義康権を擅にし朝を専らにし、威内外に傾く。湛愈々之を推崇し、復た人臣の礼無く、上稍々平らかならず。湛初め朝に入り、委任甚だ重く、政道を論ずるに善く、並びに前代の故事に諳んじ、聴く者疲れを忘る。毎に雲龍門に入るに、禦者便ち駕を解き、左右及び羽儀随意に分散し、夕に出でざること、此を以て常と為す。及んで晚節に至り義康を駆煽し、朝廷を陵轢す。上意内に離るるも、接遇改めず。上親しき者に謂ひて曰く、「劉斑初め西より還るや、吾之と語するに常に日の早晚を見て、其の当に去らんことを慮れり。比に入るも亦日の早晚を見て、其の去らざらんことを慮る。」湛小字斑獣、故に斑と云ふ。丹陽尹に遷り、詹事は如故。
十七年、所生の母亡ぶ。上と義康形跡既に乖き、釁難将に結ばんとす。湛亦復た全き地無きを知る。丁艱に至り、親しき者に謂ひて曰く、「今年必ず敗れん。常日は口舌を頼みて之を争ふ故に、推遷を得たるのみ。今既に窮毒す、復た此の望無し。禍至りて其れ能く久からんや。」甲を室に伏せ、以て上の臨吊を待つ。謀又泄れ、竟に之を幸ふこと弗し。十月、詔して収め廷尉に付し、獄に於て誅せらる。時に年四十九。子の黯等従ひて誅さる。弟の素、黄門郎、広州に徙す。湛初め収めらるるに、歎じて曰く、「便ち是れ乱か。」又曰く、「我無くんば応に乱るべしと言はざるも、我を殺す日自ら是れ法を乱るるのみ。」獄に入り素を見て曰く、「乃ち復た汝に及ぶか。悪を為すを相勧むれば、悪は為すべからず。善を為すを相勧むれば、正に今日を見る。如何。」湛女を生めば 輒 ち之を殺す、時流に怪しまる。
庾悅
庾悅は字を仲 豫 とす。潁川鄢陵の人なり。晋の太尉亮の曾孫なり。祖は羲、呉興内史。父は准、西中郎将・荊州刺史。
悅は晋に仕えて 司徒 右長史となる。桓玄位を篡すに、中書侍郎と為る。宋の武建鄴を平ぐるに、累遷して建威将軍・江州刺史となり、 都督 を加へらる。
初め、劉毅家は京口に在り、酷く貧し。嘗て鄕曲の士大夫と東堂に往き共に射る。時に悅は 司徒 右長史たり。府州の僚佐を要して東堂に出づ。毅已に先づ至り、遣はして悅に相聞かしめて曰く、「身並びに貧躓し、一遊を営むこと甚だ難し。君は如意の人、処として適ふ可からざる無し。豈に此の堂を以て見譲る能はざらんや。」悅素より豪にして、径ち前にして答へず。毅眾人に語り並びに避けしむ。唯だ毅留まりて射ること故の如し。悅の厨饌甚だ盛んなるも、毅に及ばず。毅既に去らず、悅甚だ歓ばず。毅又相聞かしめて曰く、「身今年未だ子鵝を得ず。豈に残炙を以て見恵せんや。」悅又答へず。是に至り、毅表して悅の 都督 ・将軍の官を解き、刺史を以て 豫 章に移鎮せしむ。親将趙恢を以て千兵を領し尋陽を守らしめ、建威府の文武三千人悉く毅の将府に入り、深く相挫辱す。悅志を得ず、疽背に発し、 豫 章に到りて少日にして卒す。
悅の族弟に登之あり。
登之は字を元龍といい、悅の族弟である。曾祖は冰、 晉 の 司空 。祖は蘊、廣州刺史。父は廓、東陽太守。
登之は若くして強く事を成す志を持ち自立し、初め宋の武帝の鎮軍參軍となり、桓玄討伐の功に預かり、曲江縣五等男に封ぜられた。累遷して新安太守となった。謝晦が荊州刺史となると、長史・南郡太守を請い、そのまま 衞 軍長史となった。登之と晦はともに曹氏の婿であり、名位は本来同じであったが、一朝にしてその補佐となるや、心中甚だ満足せず、廳に到着した際の書簡にはただ「即日恭しく到着す」と記し、初めから感謝の言葉はなかった。毎回謁見する際には、箱や囊、机や敷物の類をことごとく持ち込み、一つの物が備わらなければ座ろうとしなかった。かつて晦の座において西征賦を誦して「生には修短の命あり、位には通塞の遇あり」と云った。晦は恨んだが、常に寛容に扱った。
晦が王師に抵抗するに当たり、登之に留守を任せようとしたが、登之は許さなかった。晦が敗れると、登之は任がなかったとして官を免ぜられ、禁錮を命ぜられて家に還った。何承天が戯れて曰く、「禍に因りて福と為す、必ずしも皆知るべからず」と。登之曰く、「我もまた幾ばくか三豎とともに戮せられんとす」と。承天が晦のために作った表に「まさに舟を浮かべて東下し、この三豎を戮さん」とあったので、登之はこれを嘲ったのである。
後に 司徒 長史・南東海太守となった。府公の彭成王義康が政事を専覧し、下僚の意見を容れようとしなかった。しかし登之の性質は剛直で、毎回己が志を陳べたため、義康は悦ばず、出されて吳郡太守となり、贓貨の罪で免官された。後に 豫 章太守に拝され、中護軍に徵されたが、拝せずして卒した。
子の仲遠は、初め宋の明帝の府佐となった。廢帝の景和年間、明帝は疑われ防備されていたため、賓客故人で門に到る者なく、ただ仲遠のみが朝謁を絶やさなかった。明帝が即位すると、彼に謂って曰く、「卿は所謂疾風勁草を知るなり」と。軍錄事參軍から太子中庶子に擢げて拝され、 豫 章太守の任上で卒した。侍中を追贈された。
登之の弟に仲文あり。
登之の弟仲文。仲文は位は廣平太守に至り、兄の登之が謝晦の長史であった時、仲文は往ってこれを省みた。当時晦は権勢重く、朝士は皆敬いを加えたが、仲文のみは抗礼した。
後に彭城王義康の驃騎主簿となったが、就任せず、丹陽丞に転じた。既に府に到着していないため、府公に対する礼敬について疑いが生じ、礼官に博く議論させた。中書侍郎裴松之が議して曰く、「春秋桓公八年を案ずるに、祭公が紀において王后を迎えた。公羊傳に曰く、『女は国に在りては女と称し、此れ王后と称するは何ぞや。王者に外無く、其の辞成るなり』と。これを推して言えば、仲文が吏としての道は、勅を受けた日に定まったのである。名器既に正しければ、礼もまたこれに従う。安んぞ未だ到らずして其の節を廃せんや。吏の礼を執るべし」と。これに従った。
後に始興王浚が湘州を鎮守することとなり、仲文を司馬とした。浚は赴任せず、そのまま南梁太守を除し、司馬は元の如くとした。当時領軍劉湛は大將軍彭城王義康に協力して附き、僕射殷景仁とは不和であった。凡そ朝士で殷氏に遊ぶ者は、劉氏の門に入ることを得ず、ただ仲文のみが二人の間を遊び、密かに朝廷に忠を尽くした。景仁は病と称して朝見せず数年を経たが、文帝は常に仲文に命じて往来させ、湛は疑わなかった。
義康が外藩に出され、湛が誅せられると、仲文を尚書吏部郎とし、右 衞 將軍沈演之とともに機密に参与させた。侍中・吏部尚書を歴任し、義陽王師を領した。内外より帰附され、勢いは朝野を傾けた。仲文は人となり強急で耐え性がなく、賓客が理に非なることを訴えると、忿罵が辞色に現れた。元来学術がなく、衆望の推される所とならなかった。性は潔癖を好み、士大夫で彼を訪れる者は、戸を出でざるうちに人をして席を拭き床を洗わしめた。当時陳郡の殷沖もまた清浄を好み、小史は清浄に浴し新衣でなければ左右に近づくことを得ず、士大夫が少し不整潔でも、常に容れて接した。仲文の潔癖を好むのはこれに反し、毎にこれをもって譏られた。
選挙を領することは既に衆論をまとめず、また頗る賄賂を通じ、少府卿劉道錫を廣州刺史に用いた。道錫は鎮に到ると、白檀の牽車を贈り、常に自ら乗った。ある者がこれを文帝に告げると、帝は見て問うて曰く、「道錫が卿に小車を贈り、装飾甚だ麗しいと聞くが、あるか」と。仲文は懼れて起ち謝した。
また仲文は急用で家に還ることを請い、吏部令史錢泰・主客令史周伯齊が仲文の宅に出向いて事を諮った。泰は琵琶を弾くことができ、伯齊は歌を善くしたので、仲文は因って留め宿泊させた。尚書の制では、令史が事を諮るには外に宿泊してはならず、たとえ八座の命でも許されない。有司に奏せられた。上は仲文に元来厚く、これを恕そうとし、尚書右僕射何尚之を召して問うた。尚之は仲文の得失を具に陳べ、奏して言うには、
仲文の事は丘山の如く、もし放って糾さずんば、復た何を以て政と為さん。 晉 の武帝は明主ではなかったが、鬲令の事を断じて、遂に奮発することができた。華廙は待遇軽からざるも、累年廢錮され、後に起用されて城門 校尉 に改めたに過ぎない。もし仲文が国に誠ありと言うなら、確かなるは何事なるかを未だ知らず、政として殷景仁と旧を失わず、劉湛ともまた疎ならざると云うべきのみ。且つ景仁の当時の意中の事、豈に復た蔑ろにすべけんや。仮に微かなる誠あらば、復た何ぞ以て其の悪を掩わん。賈充は勲烈あり、 晉 の重臣なり。事業は称せられざるも、大罪あるを聞かず、諸臣が進説するや、便ち即ち遠く出された。陛下は聖叡なれども、反って更に此れに於いて遅遅とされる。仲文の身上の釁は、既に范曄よりも過ぎ、賊一事を欠くのみ。伏して深く三思を加えられんことを願う。試みに諸声伝を以て普く諸顧問すべき者に訪わしめられよ。群下は陛下の顧遇既に重きを見て、苦しんで侵傷するを敢えてせざるを恐る。顧問の日、宜しく嫌責の旨を布くべし。若し此くの如くせずんば、亦た弁ずるに得失あることを得ざるべし。当時仲文は自ら理めて台制に諳らず、令史も皆、外に停まるは嫌にあらずと述べた。帝は小事は以て大臣を傷つけるに足らずとされたが、尚之は更に陳べて、
令史は具に仲文に向かって停まるべからざるの意を説いたが、仲文は全く聴き入れず、解せざるに非ず、直ちに苟くも留めんとしたのである。令史が出ずるとは雖も、乃ち遠く朝典を 虧 き、又た之を小事と謂うべからず。謝晦の望実は今の者と同列に非ず、一事誤りて、侍中の官を免ぜられた。王珣は時賢たりしも少し過失あり、桓胤は春搜の謬りありて、皆白衣のまま職を領した。況んや公に憲制を犯すにおいてをや。孔萬祀が左局に居りて言うには、「仲文は貴要にして他の尚書と異なる」と。又た云く、「癡ならず聾ならずんば、姑公成らず」と。敢えて此の言を作すも、亦た異なり。文帝は猶優遊として、尚之に更に其の意を陳べさせた。尚之は備えて仲文の過ちを言うには、
臣は張遼の言葉を思うに、関羽はたとえ兄弟であっても、曹公父子に対してどうして言わないことがあろうか。今の臣下で国を憂うる者は甚だ少なく、臣がまた口を閉ざせば、日月の明も或いは蔽われることがあろう。しかし臣を知らぬ者は、まさか臣に争競の心があるとは言わないが、また追って悵悵たる思いを抱く。臣は仲文と交際し、共に恩遇を受けたから、再び厚薄を生ずるべきではない。太尉が先頃臣に言ったところでは、仲文には諸々の不可なる点があり、一条のみならず、遠近で彼を崇め畏れ、四海を震動させているという。仲文は先に劉徳願と甚だ悪かったが、徳願が自ら琵琶を携え、甚だ精巧美麗なものを贈ると、たちまちにまた親しくなった。市令の盛馥が数百口の材木を進めて宅の営造を助けたが、人に知られるのを恐れ、虚偽の買券を作った。劉道錫は急に物を送り、南奉の半分を傾けた。劉雍は自らその力添えを得たと思い、父のように仕え、夏中に甘蔗を送り、あたかも州で新たに発したかのようであった。国吏が樵蘇を運搬し、道に絶えることがなかった。諸々、人の物を見れば、ほとんど求めないことはなく、劉遵考に材木があると聞けば直ちに材木を乞い、良い燭盤を見ればまたこれを乞うた。選用は公平でなく、一二を挙げるに及ばない。太尉はまた言う、仲文には共に事をなす体が全くなく、凡そ選挙するものは悉くその意のままであり、政令は太尉に知らせるのみであると。虞秀之を黄門とすることを論じたとき、太尉が正しく答えて和せず、故に停まった。太尉が近頃仲文と疎遠になり、徳願の子を州の西曹に用いようとしたところ、仲文はかえって啓上して主簿に任用し、即ち徳願に語って太尉に謝させた。前後漏泄して恩を売ることも、またどうして極まりがあろうか。たとえ罪に問わないとしても、故に出させるべきである。裴、劉の刑罰以来、諸将は力を尽くすこと百倍であり、今日の事実は善悪を問うべきである。もし赫然として発憤し、法憲を顕明すれば、陛下は便ち紫闥に閑臥して再び一事もなかるべし。帝は仲文を丹陽に出そうとし、また尚之に問うた。答えて言うには、
仲文は罪を蹈み恩に背き、陛下は旧恩を遅らせ、窮法を忍びず、まさにまた京尹の赫赫たる授けがある。恐らく心を尽くして国に奉ずる者はここに息み、貪狼恣意となり、歳月を経てますます甚だしくなるであろう。臣の聞く天下の議論によれば、仲文は常に日月を塵累し、一毫の輝きを増すを見ず、かえって形勢を成し、これは王雅を老いさせたものである。古人の言うように、賞罰なければ、堯舜といえども政をなすこと能わず。陛下はどうして坐して皇家の重きを損ない、一凡人に迷うことがあろうか。賈誼、劉向が再生したならば、まさか聖世に慷慨流涕しないことがあろうか。臣が昔范曄を啓したとき、当時もまた犯触の咎を懼れたが、もしこれが愚懷の挹むところであれば、政自ずから舒達せざるを得ず、いわゆる「九死すとも悔いず」というものである。臣は仲文をしばらく外出させ、もし能く修改し、在職して称せられれば、還ることも難しくなく、しかも少しく国典を明らかにし、粗く四海の誚りに酬いることを得るであろう。今愆釁は山の如く、栄任は損なわれず、仲文がもしまた彰大の罪があれば、誰か敢えて聞かせることがあろうか。また陛下が臣の言を採られぬことを知るが故に、これは臣が己の意を用いられぬだけである。また言うには、
臣は劉伯龍が仲文の行いを大いに慷慨するのを見る。人が張幼緒を送り、人に語って「我は一県を得たが、負債三十万を負う。庾仲遠はなお新林まで送り、縛束を見るも未だ手を解くを得ず」と言ったという。荀万秋がかつて仲文を訪ねたとき、夏侯という客に逢い、主人が「良い牛はあるか」と問うと、無いと言った。「良い馬はあるか」と問うと、また無いと言い、ただ佳い驢があるだけだと言った。仲文は便ち答えて「甚だ是れ我が欲する所なり」と言った。客が出門すると、遂に聞き伝えてこれを求めた。劉道錫は仲文の挙げた者であると言い、道錫に就いて嫁女の具及び祠器を求め、まさに百万の数に当たり、なお然らずと言った。選令史の章龍が臣に語り、またその受納の過ちを嘆いた。実に嫁女の銅炉を得たと言い、四人で挙げてようやく勝ち、細葛の鬥帳等の物は数えられないほどであった。尚書中で奴に酃酒を売らせ、その百十の利を得たことも、また立台閣に無きことであり、少しも聖聴を簡びるかどうか審らかでない。帝はついに有司の奏を可とし、仲文の官を免じ、家で卒した。帝はその宿誠を録し、本官を追贈した。子は弘遠。
仲文の子:弘遠
弘遠は字を士操といい、清実にして士誉があった。斉に仕えて江州長史となった。刺史陳顕達が兵を挙げて敗れ、朱雀航で斬られた。刑に臨み、帽を索めてこれを着け、「子路は纓を結び、我は冠せずして死すべからず」と言った。見る者に謂って「我は賊ではなく、乃ち義兵であり、諸君のために命を請うたのである。陳公は事を軽んじ過ぎた。もし我が言を用いれば、天下は塗炭を免れたであろう」と言った。弘遠の子の子曜は年十四、父を抱き持って命に代わることを乞い、遂に併せて殺された。
仲文の従弟の徽之は御史中丞の位にあった。徽之の子の漪は、斉の邵陵王記室となった。漪の子は仲容。
仲文の族孫:仲容
仲容は字を子仲といい、幼くして孤となり、叔父の泳に養われた。長ずると、人事を杜絶し、専精篤学し、昼夜手を巻から輟めず。
初め安西法曹行参軍となり、泳は時に貴顕であり、吏部尚書徐勉は泳の子の晏嬰を宮僚に擬した。泳は泣いて言った。「兄の子は幼孤であり、人才は粗く可なり。願わくは晏嬰の忝うる所を回らして用いられよ。」勉はこれを許した。仲容を転じて太子舎人とし、安成王主簿に遷した。時に平 原 の劉峻も府佐となり、共に強学を以て王に礼接された。後に永康、銭唐、武康の令となり、並びに績なく、多く推劾を受けた。久しくして安成王中記室を除した。当に出でて府に随うべきとき、皇太子は旧恩を以て降りて餞し、詩を賜って曰く、「孫生は陽道に陟り、呉子は朝歌県に朝す、未だ樊林の挙のごとくせず、酒を置く華殿に臨むに若かず」と。時輩はこれを栄とした。
後に尚書左丞となり、推糾して直ならざるに坐して官を免ぜられた。仲容は博学で、少しく盛名があり、頗る気任せに酒を飲ませ、危言高論を好み、士友はこれによって之を少なくした。ただ王籍、謝幾卿と情好相得るのみで、二人も時に調わず、遂に相追随し、誕縦酣飲し、検操を持たなかった。太清の乱に遇い、会稽に遊んで卒した。
仲容は子書三十巻、諸集三十巻、衆家地理書二十巻、列女伝三巻、文集二十巻を抄し、並びに代に行われる。
顧琛
顧琛は字を弘瑋といい、呉郡呉の人で、晋の 司空 顧和の曾孫である。祖父の履之、父の惔は、並びに 司徒 左西曹掾となった。
琛は謹確にして浮華を尚ばず、州従事・駙馬都尉より起家し、累遷して尚書庫部郎となった。元嘉七年、文帝は到彦之を遣わして河南を経略させたが、大敗し、悉く兵甲を委棄し、武庫はこれがために空虚となった。文帝が宴会したとき、帰化人が座にあり、上は琛に庫中の仗がなお幾許あるかと問うた。琛は詭辞を以て十万の人仗があると答えた。旧来、庫の仗は秘して多少を言わず、上は既に発問して、失言を追悔した。琛が詭対すると、上は甚だこれを善しとした。尚書寺の門には制があり、八坐以下の門生が随入する者は各々差等があり、人士を雑えてはならなかった。琛は宗人の顧碩を尚書張茂度の門名に寄せたが、顧碩と同席して坐した。明年、坐して譴り出され、中正を免ぜられた。凡そ尚書官は大罪ならば免じ、小罪ならば譴り出し、譴り出された者は百日の間代人がなければ、本職に還ることを聴された。琛はなお彭城王義康の請いにより、再び 司徒 録事参軍を補された。
十五年、出でて義興太守となった。初め、義康は琛を府に請い入れ、腹心に委んじようとしたが、琛は劉湛に承事することができず、故に尋いで外に斥けられた。十九年、東陽太守に徙り、琛に彭城王義康を防守させようとしたが、固く辞して旨に忤い、廃黜されて家に還り積年を過ごした。
元凶が帝を 弑 して立つと、会稽五郡を分けて州を置き、随王誕を刺史とし、即ち琛を会稽太守とした。誕が義兵を起こすと、冠軍将軍を加えられた。事が平定されると、呉興太守に遷った。
孝建元年、呉郡太守となり、義兵を起こした功により、永新県五等侯に封ぜられた。大明元年、呉県令張闓が母の喪に居て礼を失した罪で廷尉に下され、銭唐令沈文秀の判決・弾劾が誤りで、連座して弾劾されるべきところであった。琛は衆に向かって宣言した、「張闓が弾劾された当初、私は繰り返し彼のために申し立てた」と。また言った、「文秀を留めて県令とすべきことを上奏しよう」。孝武帝はこれを聞いて大いに怒り、琛が悪を売りつけて上に帰そうとしたと言い、官を免じた。琛の母は老いていたので、なお家に留まった。
琛および前西陽太守張牧はともに 司空 竟陵王誕に仕えていたが、誕が反乱を起こすと、客の陸延稔を使い、書板を持たせて琛とその子弟に官職を与えようとした。時に孝武帝は、琛が平素から誕に結びつき事を為していたので、異志があるかもしれないと考え、使者を呉郡太守王曇生のもとに遣わして琛父子を誅殺させようとした。ちょうど延稔が先に到着したので、琛らは即ち彼を捕らえて斬り、二人の子を遣わして延稔の首を送り、上奏して報告した。孝武帝が遣わした琛を誅する使者もその日に到着したが、難を免れた。琛の母孔氏は当時百余歳で、晋の安帝隆安初め、琅邪王廞が呉中で乱を起こし、娘を貞烈将軍とし、すべて女人を官属とし、孔氏を司馬とした。孫恩の乱の後、東土は飢饉となり、人々は食い合い、孔氏は家の糧を散じて邑里を救済し、生き延びた者は非常に多く、生まれた子は皆、孔を名としたという。
琛はなお呉興太守となったが、翌年、郡の者が多く銭を剪り盗鋳したことに連座して官を免ぜられた。都官尚書の官を歴任した。
廃帝が即位すると、呉郡太守となった。初め、琛は景平年間に朝請となり、仮に帰郷し東へ向かう際、日暮れに方山に着いた。時に商旅の船数十隻が、皆岸辺に泊まっていたが、一人の者が玄衣に介幘を着け、鞭を執って諸船に命じて言った、「顧呉郡の部隊が間もなく到着するので、この岸に泊まるべきである」と。そこで諸船はそれぞれ東西に散った。やがて一つの仮装の船が到着し、従者は甚だ少なく、なお以前の場所に泊まった。人が尋ねた、「顧呉郡はいつ頃到着するか?」船の者が答えた、「顧呉郡はいない」。また尋ねた、「何の船か?」曰く、「顧朝請である」と。誰もが驚き怪しんだ。琛は内心、良い兆しであると知り、密かに誓って言った、「もし郡守を得たら、必ずここに廟を立てよう」。この時に至って果たして呉郡太守となり、乃ち方山に廟を立て、白馬廟と号したという。明帝泰始初め、四方とともに反乱した。兵敗れ、母を奉じて会稽に奔ったが、台軍が到着すると、帰降し、後に員外常侍・中散大夫となった。卒した。
琛の次子、寶先。
次子寶先は、大明年間に尚書水部郎となった。先に、琛が左丞荀萬秋に弾劾されていたが、寶先が郎となった時、萬秋はなお在職しており、寶先は自ら陳べて拜礼しなかった。孝武帝は詔して言った、「勅命に違い怠慢を糾すのは、憲司の職務である。もし不公があれば、自ら更に厘改すべきである。しかるに近頃は弾劾の軽重にかかわらず、輒ち私的に絶交する。この風は長くすべからず、主たる者は厳しくその科条を定めよ」。先に宋の世、江東で貴達した者に、会稽の孔季恭の子霊符、呉興の丘深之および琛がおり、呉の音を変えなかった。深之は字を思玄といい、呉興烏程の人で、侍中・都官尚書の位に至り、太常の官にある時に卒した。
顧覬之。
顧覬之は字を偉仁といい、呉郡呉の人である。高祖の謙は字を公讓といい、晋の平原内史陸機の姉婿である。祖父の崇は大司農。父の黄老は 司徒 左西曹掾。
覬之は謝晦の衛軍参軍となり、晦はその雅素を愛し、深く知己として遇した。尚書都官郎の官を歴任した。殷(景仁)と劉(湛)の隙(不和)が顕著になると、覬之は殷景仁と長く接することを欲せず、乃ち脚疾を理由に辞して免官帰郷した。毎夜、常に床上で脚を行い(足を動かし)、家人は密かにこれを怪しんだが、その意を知る者はなかった。義康が流罪・廃位されると、朝廷の者は多く禍を受けたが、覬之はついに免れた。
後に山陰令となった。山陰は煩劇な県で三万戸あり、前後の官長は昼夜休むことができず、事はなお挙がらなかった。覬之は繁を禦するに約をもってし、県は用事なく治まった。昼間も簾を垂れ、門階は閑寂で、宋の世において山陰を治める者は、務め簡にして事理を得た者で、これに及ぶ者はなかった。
後に尚書吏部郎となった。かつて文帝の座において江東の人物を論じ、顧榮に言及すると、袁淑が覬之に言った、「卿ら南人は怯懦で、どうして賊を為すことができようか」。覬之は顔色を正して言った、「卿は乃ちまた忠義をもって人を笑うのか」。淑は慚愧の色を示した。孝建年間、湘州刺史となり、政績をもって称された。
大明元年、召されて度支尚書を守り、転じて吏部尚書となった。時に沛郡相県の唐賜が隣村の彭家で酒を飲んで帰り、病を得、蠱(寄生虫)二十余物を吐いた。賜の妻張は賜の臨終の言葉に従い、死後、自ら腹を刳き、五蔵は悉く糜碎していた。郡県は、張が忍んで刳剖を行い、賜の子の副がまた禁止しなかったとして、妻が夫を傷つけた罪で五歳刑、子が父母に孝行しなかった罪で子を棄市に処すと論じた。これはいずれも科例に合わなかった。三公郎劉勰が議して言った、「賜の妻は痛ましくも往時の言葉に遵い、子は道理に及ばなかった。事を考うるにその心を原てれば、忍んで害を為すに在らず。哀れみを加うるべきであると謂う」。覬之が議して言った、「妻子として忍酷を行うは、小情を曲げて通ずるに宜しからず。副を不孝と謂い、張を不道と同じくすべきである」。詔は覬之の議の通りとした。
後に呉郡太守となった。幸臣戴法興は人主を凌ぐ権勢があったが、覬之は未だ嘗て 低意 をしなかった。左光禄大夫蔡興宗は覬之と親善であったが、その風節の過ぎて峻厳であるのを嫌った。覬之は言った、「辛毗が云うように、孫資・劉放(のような佞臣)は、ただ我をして三公とならしめざるのみである」。後に湘州刺史の任において卒し、諡して簡子といった。覬之の家門は雍穆(和やかで慎み深い)で、州郡に重んじられた。子の綽は私財が甚だ豊かで、郷里の士庶は多く負債があり、覬之が禁じても止めることができなかった。後に呉郡太守となると、文券(借用証文)を一大厨(大きな厨子)分おびただしく誘い出し、悉く焼かせた。遠近に宣べ伝えて、皆返済する必要はないとさせた。綽は一日中、懊悩して嘆いた。
覬之は常に、命には定まった分があり、智力で移し変えることはできず、ただ己を恭しくして道を守り、天を信じ運に任せるべきであると執していた。しかし闇(道理に暗い)なる者は達せず、妄りに僥倖を意図し、徒らに雅道を虧い、得喪に関わりがない。乃ちその意を以て、弟子の愿に命じて定命論を作らせた。
顧愿は字を子恭といい、父は深之、散騎侍郎であった。願は学問を好み、才藻に富み、太子舍人にて卒した。覬之の孫に憲之がいる。
覬之の孫は憲之である。
憲之は字を士思といい、性質は特に清廉で正直であった。宋の元徽年間、建康令となった。時に牛を盗んだ者がおり、本来の所有者と牛を争い、それぞれ己の物であると称し、両家の供述と証拠は同等で、前後の県令は決することができなかった。憲之が着任し、その状況を再調査し、牛を解き放ってその行くに任せると、牛はまっすぐに本来の家に帰り、盗人は初めてその罪を認めた。当時の人はこれを神明と称した。権勢ある者からの依頼や、長官の貪婪残忍な行いに対しては、法に基づいて厳正に取り締まり、へつらって容赦することはなかった。性質は清廉倹約で、力を尽くして政治を行い、人々の和をよく得た。故に都で酒を飲む者は、醇厚で旨い酒を「顧建康」と称し、その清く且つ美しいことを言ったのである。
斉に仕えて衡陽内史となった。先に、郡内では連年疫病が流行し、死者は大半に及び、棺は特に高価であったため、すべて葦の筵に包んで路傍に棄てられていた。憲之が着任すると、管轄の県に通達し、その親族を求め、すべて埋葬させるようにした。家族が絶えた者については、憲之が公禄を出して役人に保護させた。また土地の風習として、山の住民は病気になるとすぐに先祖の亡霊の祟りと言い、皆墓を開き棺を割り、水で枯骨を洗い、これを除祟と称していた。憲之は諭し、生死の別を説き、事柄は互いに無関係であることを述べ、風俗は遂に改まった。時に刺史の王奐が着任したばかりで、ただ衡陽だけが訴訟がなく、彼は嘆いて言った。「顧衡陽の教化は至れり尽くせりだ。もし九郡が皆そうであれば、私は何をしようか」。
後に東中郎長史となり、会稽郡の事務を代行した。山陰県の呂文度は斉の武帝に寵愛され、余姚に邸宅を建て、甚だ横暴であった。憲之が郡に着くと、即日にこれを撤去した。文度が後に帰葬した時、郡県の役人は争って弔問に赴いたが、憲之はこれに連絡せず、文度は甚だ恨んだが、結局傷つけることはできなかった。
時に西陵の戍主である杜元懿は、呉興が凶作で、会稽が豊作であるため、商人の往来が倍増していると上奏した。西陵の牛埭税は、官定の日額三千五百であるが、これを倍に増額することを求め、年間で百万の増収を見込んだ。また浦陽の南北津及び柳浦の四つの埭について、官が管理することを請い、一年で定格外に約四百万の増収を見込んだ。武帝はこれを会稽に示し、得失を陳述させた。憲之が議して言うには、
牛埭を設けた当初を考えるに、単に通行料を徴収するためではなく、風波が険しく、人力では間に合わない場合に、急を救い物資の流通を利するためであった。公私ともにこれを喜んだので、税を納めることに怨みはなかった。京師の渡し船がその例である。しかし後に監督する者が、それぞれ己の功績を求め、別の道を禁じたり、法外の利益を互いに生み出したりし、凡そこのような類で、埭を煩わせず牛を使わない者までが上申するに至った。報告を受けて定格外の十条を停止し、従来の喧しい訴えがようやく一時的に治まったのである。考えてみれば、呉興は連年凶作で、今年は特に飢饉がひどく、乏しい所から豊かな所へ移るのは、確かに飢えの苦しみである。旧来の税率を新たに減額することさえまだ議論されていないのに、定格外に倍増するとは、いかなる手段によるというのか。皇帝の慈愛は民の苦しみを憐れみ、倉を開き調役を免じているのに、元懿は災いを幸いとして利益を独占し、重ねて困窮と病苦を増そうとしている。人にして仁ならざるは、古今ともに憎むところである。かつて見るに、税率を上げて市場を設ける者は前後相次ぎ、新たに増やしても利益がなく、旧来の税率さえも不足するばかりであった。愚かにも元懿の今の上奏も、同じ結果に終わるのではないかと恐れる。もし事が言葉に副わなければ、譴責を招くことを恐れ、あらゆる手段で侵害と苦痛を与え、公のために怨みを買うことになろう。彼が挙げようとする腹心の者も、獣に冠をかぶせたようなものである。書経に言う。「聚斂の臣あるよりは、寧ろ盗臣あれ」。これは公を盗むのは損害が微々たるものであるが、民から収奪するのは害が大きいという意味である。しかしこの任に当たる者は廉潔公平な者を選ぶべきで、そうすれば人に害を及ぼさない。また「便宜」とは、公に便であり人に宜しいことを言うのである。近頃「便宜」を言う者を見るに、人力の外で天地の分け前を用いることができるわけではなく、多くは即日には人に宜しくなく、将来も公に便ではなく、名と実が反し、政体に背いている。凡そこのような類は、誠に深く察するべきである。
山陰一県の課税戸は二万であるが、その資産が三千に満たない者は、ほぼ半数を占めよう。削りに削っても、なお三分の一余りが残る。資産を持つ者は多くは士人で租税免除の身分であり、極貧の者はすべて戸籍に登録された役人で、三丁や五丁で役所に属し、これは分け前が定まっているようなもので、あらゆる種類の租税や調役を納めるのは常態である。近頃は多くの役所が検査し、前後につながり、横槍を入れて連帯責任を負わせることも少なくない。一人が召し捕られれば十人が追及され、一つの糸口が裁かれれば千の災いが互いに起こる。養蚕は弛み農業は廃れ、安く人夫を雇い高く借金をし、公にも私にも応え、日々の暇もなく、非行をしないようにするのは、どうしてできようか。死をも恐れないのに、ましてや刑罰をどうして恐れよう。身すら愛さないのに、ましてや妻子をどうして顧みようか。このため前の検査が終わらないうちに、後の巧みな不正がまた増え、法網は厳しくしても、なお改悛させることができない。人の偽りが多いのは、実に宋の末期に軍役が頻繁に起こり、役賦が重く、勤労の激しさに耐えられず、奇策や技巧に長じた者が優遇され、積み重なった習慣が常態化し、遂に本来の道を忘れてしまったからである。四海の広さ、庶民の多さにおいて、心の用い方は様々で、急に澄ますことは難しい。教化は漸進をもってすべきで、急いで責めてはならない。誠に煩わさないことを心がけ、病や汚れを包み込むようにする。詳しく寛大で簡素なことを務めれば、次第に自ら淳朴に帰するであろう。また検査の命令書は前後累千に及び、命令の主旨は厳しく、暗黙の了解では信じることができない。県が検査して郡に送り、郡が検査して上使に呈するが、その形状は奇怪で、千変万化の源である。聞く者は軽く考えず、見る者は実に驚き傷つく。加えて親族や隣近所の者が、道路に離散し、時に窮乏に転じ、事態はまだ収まらず、その士人や婦女は特に処置に苦しむ。検査しなければ巧みな不正があると疑い、検査しようとしてもどうすれば安心できるか分からない。愚かにはこの条項は県の保証に委ね、その大綱を挙げ、細目を略し、漏れがあっても貯蔵の中から出ないようにし、重い病を患う者に再び生きる恩恵を与えるべきであると考える。
また永興・諸暨は唐宇の寇賊の擾乱に遭い、公私ともに 灰燼 に帰し、特に被害が甚だしく、もし水害や旱魃に逢えば、実に容易に考えられない事態となる。俗諺に言う。「会稽は太鼓を打って恤れみを送り、呉興は徒歩で担いで令史となる」。会稽は旧来肥沃な地と称されたが、今なおこのような有様である。呉興は本来痩せた土地であるから、事情は推して知るべしである。因循した弊害は、誠に改めるべきである。武帝はすべてこれに従い、これによって憲之は方正剛直であることを深く認められた。
南中郎巴陵王長史、南兗・南 豫 二州の事務に転じた。典簽が諮問に来ても、顔色を和らげることはなく、常に法制に従って行動した。時に 司徒 竟陵王が宣城・臨成・定陵の三県の境界に屯田を設け、山沢を数百里にわたって封鎖し、人々の薪採りを禁じた。憲之は固く不可であると陳述し、言葉は甚だ切直であった。王は言った。「君でなければこの善言を聞くことはできなかった」。即座に屯田の禁令を罷めることを命じた。
給事黄門に転じ、尚書吏部郎中を兼ねた。宋の時、その祖父の覬之がかつて吏部に在り、庭に良い樹木を植え、人に言った。「私は憲之のために植えるのだ」。ここに至って憲之は果たしてこの職に就いた。永元年間に 豫 章内史となり、在任中は清廉簡素で、寛大な恵みを保つことに務めた。貞婦の万 晞 という者がおり、若くして寡婦となり子がなく、舅姑に仕えることに特に孝行で、父母が奪って再嫁させようとしたが、誓って死んでも許さなかった。憲之は束帛を賜り、その節義を表彰した。
梁の武帝が建鄴を平定し、揚州牧となると、憲之を別駕従事史に徴したが、到着する頃には既に禅譲を受けて帝位に就いていた。憲之の風疾は次第に重くなり、呉に帰ることを求め、太中大夫の官を加えられた。憲之は累次郡守を歴任したが、資産は儋石もなく、帰郷すると、狭い家屋で飢えと寒さを免れなかった。
天監八年、家にて卒す。臨終に制を爲して其の子に敕す、「夫れ生を出で死に入るは、理均しく晝夜なり。生既に何れの所より從ふかを知らず、死亦安んぞ往く所を識らんや。延陵云ふ、『精氣は上りて天に歸し、骨肉は下りて地に歸す、魂氣は則ち之き所無からず』と。良に以て有るなり。復た茫昧として徵し難しと雖も、要は是れ妄ならざるべし。百年の期は、迅かにして馳隙の若し、吾今預め終制を爲し、瞑目の後、念ひ並びに遵行し、吾が志に違ふこと勿れ。莊周・澹台は、生に達せる者なり。王孫・士安は、俗を矯める者なり。吾は進んで達に及ばず、退きて矯むる所無し。常に謂ふ、中都の制は、理を允にして情に愜ひ、衣は身に周りて禮に違はざるを示し、棺は衣に周りて以て臭を蔽ふに足る。棺に入るの物は、一として須ふる所無し。輴車に載せ、粗布を以て覆ひ、人をして惡むこと勿からしむる爲なり。漢明帝は天子の尊にして、猶ほ杅水脯糗を以て祭り、范史雲は列士の高にして、亦た寒水乾飯を以て奠す。況んや吾が卑庸の人、其れ可からずや衷を節せんや。喪は易きを寧ろしむるは、自ら是れ親親の情、禮は奢るよりは寧ろ儉しむるは、差し吾が意に由るを得べし。須ひず常に靈筵を施す、止むるに香燈を設け、哀を致す者に憑む有らしむる可し。朔望祥忌には、權へに小床を安んじ、暫く几席を施し、唯だ素饌を下し、牲牢を用ふること勿れ。蒸嘗の祠は、貴賤罔替ふこと無く、備物は辨じ難く、多く疏怠を致す。祠先は自ら舊典有り、闕くこと有る可からず、吾已下よりは、止むるに蔬食時果を用ひ、上世と同じくすること勿れ、子孫をして四時其の親を忘れざらしむるを示すのみ。孔子云ふ『菜羹瓜祭と雖も必ず齋如ならん』と。本づく所は誠敬を貴ぶに在り、豈に備物を求むるをや」と。著す所の詩賦銘贊並びに衡陽郡記數十篇。
論
論して曰く、古人云ふ「利は智を昏ます」と、甚だしいかな利害の相傾くや。劉湛は識用才能、實に經國の略を包む。豈に知らんや、弟を移して臣と爲せば則ち君臣の道用ひられ、兄を變じて主と成せば則ち兄弟の義殊なるを。而して數を執り奸を懷き、苟くも相崇悅し、夫れ長戟を推して順を犯すと、何を以て異ならんや。昔華元は敗れて則ち羊羹を以て禍を取る。夫の庾悅を觀るに亦た鵝炙を以て尤を速ぬ。幹餱以て愆る、斯れ相類へり。登之は禍に因りて福し、倚伏常無し。仲文は賄して災と爲り、乃ち財に徇ふの過ちなり。顧琛の吳郡は、徴兆初筮に於ける。覬之の清白の跡は、暮年に見ゆ。憲之の政に蒞む、在る所稱美せらる。時は三代に移り、一德虧くること無し。之を古人に求む、未だ易く遇ふと爲さず。其の遺命を觀る、始め有りて卒有る者と謂ふ可し。