南史

巻三十五 巻三十六

巻三十五 巻三十六

南史

巻三十五 巻三十六

劉湛

原文劉湛

宋の武帝の太尉行参軍に除され、賞遇甚だ厚し。父の柳が江州にて亡くなると、府州より送故甚だ豊かなりしも、一も受けず、時に論じて之を称す。服闕して、相国参軍となる。謝晦・王弘並びに其の器幹を称す。

原文除宋武帝太尉行參軍,賞遇甚厚。父柳亡于江州,府州送故甚豐,一無所受,時論稱之。服闋,爲相國參軍。謝晦、王弘並稱其器幹。

武帝が入朝して晋の命を受け、第四子の義康を冠軍将軍・豫州刺史とし、寿陽に留め鎮守せしむ。湛を以て長史・梁郡太守とす。義康は弱年にして未だ政に親しまず、府州の事は悉く湛に委ぬ。右将軍に進号し、仍って府に随ひて転ず。義康は本号を以て南豫州に徙り、湛は歴陽太守を改めて領す。人となり剛厳にして法を用い、奸吏贓百銭以上を犯す者は皆之を殺し、下より震肅せざるは莫し。

原文武帝入受晉命,以第四子義康爲冠軍將軍、豫州刺史,留鎮壽陽。以湛爲長史、梁郡太守。義康弱年未親政,府州事悉委湛。進號右將軍,仍隨府轉。義康以本號徙南豫州,湛改領曆陽太守。爲人剛嚴用法,奸吏犯贓百錢以上皆殺之,自下莫不震肅。

廬陵王義真が出でて車騎将軍・南豫州刺史となり、湛また長史となり、太守は如故。義真は時に武帝の憂に居り、帳下に膳を備へしむるを、湛之を禁ず。義真乃ち左右の人に魚肉珍羞を買はしめ、斎内に別に厨帳を立てしむ。会に湛入るに因り、命じて臑酒を炙り車螯を炙らしむ。湛正色して曰く、「公は当今此の設け有るべからず。」義真曰く、「旦は甚だ寒し、杯酒亦何の傷かあらん。長史は事同一家、異と為さざるを望む。」酒至るに及び、湛起ちて曰く、「既に礼を以て自ら処する能はず、又礼を以て人を処する能はず。」

原文廬陵王義真出爲車騎將軍、南豫州刺史,湛又爲長史,太守如故。義真時居武帝憂,使帳下備膳,湛禁之,義真乃使左右人買魚肉珍羞,於齋內別立廚帳。會湛入,因命臑酒炙車螯。湛正色曰:「公當今不宜有此設。」義真曰:「旦甚寒,杯酒亦何傷,長史事同一家,望不爲異。」酒至,湛起曰:「既不能以禮自處,又不能以禮處人。」

後に広州刺史となり、嫡母憂にて職を去る。服闋して、侍中となる。時に王華・王曇首・殷景仁も亦侍中たり。文帝、合殿にて四人と宴飲し甚だ悦ぶ。華等出づるを、帝目送すること良久く、歎じて曰く、「此の四賢は一時の秀、喉唇を同じく管す。後世継ぐこと難からんことを恐る。」及び撫軍将軍江夏王義恭が江陵を鎮むるに、湛を以て使持節・南蛮校尉とし、撫軍長史を領し、府州事を行はしむ。王弘政を輔くるも、王華・王曇首は事に任じて中に居る。湛自ら才能は彼らに後れずと謂ひ、外出を願はず。是の行は、弘等に斥けられしと謂ひ、意甚だ平らかならず。常に曰く、「二王は代邸の旧に非ざれば、以て此に至る無し。風雲に遭遇すと謂ふべし。」湛其の才気を負ひ、常に汲黯・崔琰の人たるを慕ひ、故に長子を名づけて黯とし字あざなは長孺、第二子を琰とし字は季珪とす。琰江陵にて病卒す。湛自ら喪を送り還都せんことを求め、義恭も亦之が為に情を陳ぶ。文帝義恭に答えて曰く、「吾も亦湛の啓事を得て、之が為に酸懷す。乃ち苟くも其の請に違はんことを欲せず。但し汝は弱年にして新たに軍務に渉り、八州殷曠、専断事重く、畴咨委仗、其の人を得ざる可からず。量算二三、未だ便ち相順許することを獲ず。今湛の啓に答へ、権りに彼の葬を停む。頃に朝臣零落相系り、寄懷転た寡し。湛は実に国器、吾乃ち其の令を引き還さんと欲す。直に西夏の任重きを以て、要は且く此の事を停むるのみ。汝の慶賞黜罰、得失に預に関する者は、必ず宜しく悉く相委寄すべし。」

原文後爲廣州刺史,嫡母憂去職。服闋,爲侍中。時王華、王曇首、殷景仁亦爲侍中,文帝於合殿與四人宴飲甚悅。華等出,帝目送良久,歎曰:「此四賢一時之秀,同管喉唇,恐後世難繼。」及撫軍將軍江夏王義恭鎮江陵,以湛爲使持節、南蠻校尉,領撫軍長史,行府州事。王弘輔政,而王華、王曇首任事居中,湛自謂才能不後之,不願外出。是行也,謂爲弘等所斥,意甚不平。常曰:「二王若非代邸之舊,無以至此。可謂遭遇風雲。」湛負其才氣,常慕汲黯、崔琰爲人,故名長子曰黯字長孺,第二子曰琰字季珪。琰於江陵病卒,湛求自送喪還都,義恭亦爲之陳情。文帝答義恭曰:「吾亦得湛啟事,爲之酸懷,乃不欲苟違所請;但汝弱年,新涉軍務,八州殷曠,專斷事重,疇諮委仗,不可不得其人。量算二三,未獲便相順許。今答湛啟,權停彼葬。頃朝臣零落相系,寄懷轉寡,湛實國器,吾乃欲引其令還,直以西夏任重,要且停此事耳。汝慶賞黜罰預關得失者,必宜悉相委寄。」

義恭性甚だ狷隘にして、年又漸く大なり、政事を専らにせんと欲し、毎に湛に裁せらる。主佐の間に、嫌隙遂に構ふ。文帝之を聞き、密かに詰譲を義恭に遣す。義恭、湛に下に居るの礼無きを陳べ、又自ら年長なるを以て、意を行ふを得ずとす。詔旨を奉ずるも、毎に出でて怨言す。上友于素だ篤く、酬順せんと欲し、乃ち之に詔して曰く、「当今の才、委受已に爾り。宜しく尽く相弥縫し、其の取るべきを取り、其の棄つべきを棄つべし。」

原文義恭性甚狷隘,年又漸大,欲專政事,每爲湛所裁。主佐之間,嫌隙遂構。文帝聞之,密遣詰讓義恭。義恭陳湛無居下之禮,又自以年長,未得行意,雖奉詔旨,每出怨言。上友于素篤,欲加酬順,乃詔之曰:「當今之才,委受已爾,宜盡相彌縫,取其可取,棄其可棄。」

先づ是れ王華既に亡び、曇首又卒す。領軍将軍殷景仁、時賢零落するを以て、文帝に白し湛を征す。八年、召されて太子詹事と為り、給事中を加へられ、景仁と並びに任遇せらる。湛云く、「今代の宰相何か難からん。此れ正に我が南陽郡漢代の功曹に当る可きのみ。」明年、景仁転じて尚書僕射となり、選を領し、護軍将軍となる。湛代はりて領軍と為る。十二年、又詹事を領す。湛と景仁は素より款しく、又其の建議を以て之を征せしめしを以て、甚だ相感悦す。及んで俱に時遇せらるるに及び、猜隙漸く生ず。景仁の内任を専らにするを以て、己を間ふと謂ふ。時に彭城王義康朝権を専執し、而して湛は昔上佐たりしを以て、遂に旧情を以て心を委ね自ら結び、宰相の力を因りて主の心を回らし、景仁を傾黜し、独り当時の務をせんと欲す。義康屡ひ之を文帝に言ふも、其の事行はれず。義康の僚属及び湛の諸の附隸潜かに相約勒し、敢へて殷氏の門を歴る者無し。湛の党劉敬文の父成其の機を未だ悟らず、景仁に詣り郡を求む。敬文遽ち湛に謝して曰く、「老父悖耄にして、遂に殷鉄に就きて祿を幹む。敬文の闇浅なるに由り、上に生成に負ひ、合門慚懼し、地自ら処する無し。」敬文の奸諂此の如し。

原文先是王華既亡,曇首又卒,領軍將軍殷景仁以時賢零落,白文帝征湛。八年,召爲太子詹事,加給事中,與景仁並被任遇。湛云:「今代宰相何難,此正可當我南陽郡漢代功曹耳。」明年,景仁轉尚書僕射,領選,護軍將軍,湛代爲領軍。十二年,又領詹事。湛與景仁素款,又以其建議征之,甚相感悅。及俱被時遇,猜隙漸生。以景仁專內任,謂爲間己。時彭城王義康專執朝權,而湛昔爲上佐,遂以舊情委心自結,欲因宰相之力回主心,傾黜景仁,獨當時務。義康屢言之于文帝,其事不行。義康僚屬及湛諸附隸潛相約勒,無敢曆殷氏門者。湛党劉敬文父成未悟其機,詣景仁求郡,敬文遽謝湛曰:「老父悖耄,遂就殷鐵幹祿。由敬文闇淺,上負生成,合門慚懼,無地自處。」敬文之奸諂如此。

義康権を擅にし朝を専らにし、威内外に傾く。湛愈々之を推崇し、復た人臣の礼無く、上稍々平らかならず。湛初め朝に入り、委任甚だ重く、政道を論ずるに善く、並びに前代の故事に諳んじ、聴く者疲れを忘る。毎に雲龍門に入るに、禦者便ち駕を解き、左右及び羽儀随意に分散し、夕に出でざること、此を以て常と為す。及んで晚節に至り義康を駆煽し、朝廷を陵轢す。上意内に離るるも、接遇改めず。上親しき者に謂ひて曰く、「劉斑初め西より還るや、吾之と語するに常に日の早晚を見て、其の当に去らんことを慮れり。比に入るも亦日の早晚を見て、其の去らざらんことを慮る。」湛小字斑獣、故に斑と云ふ。丹陽尹に遷り、詹事は如故。

原文義康擅權專朝,威傾內外,湛愈推崇之,無復人臣之禮,上稍不能平。湛初入朝,委任甚重,善論政道,並諳前代故事,聽者忘疲。每入雲龍門,禦者便解駕,左右及羽儀隨意分散,不夕不出,以此爲常。及晚節驅煽義康,陵轢朝廷,上意雖內離而接遇不改。上謂所親曰:「劉斑初自西還,吾與語常看日早晚,慮其當去;比入亦看日早晚,慮其不去。」湛小字斑獸,故云斑也。遷丹陽尹,詹事如故。

十七年、所生の母亡ぶ。上と義康形跡既に乖き、釁難将に結ばんとす。湛亦復た全き地無きを知る。丁艱に至り、親しき者に謂ひて曰く、「今年必ず敗れん。常日は口舌を頼みて之を争ふ故に、推遷を得たるのみ。今既に窮毒す、復た此の望無し。禍至りて其れ能く久からんや。」甲を室に伏せ、以て上の臨吊を待つ。謀又泄れ、竟に之を幸ふこと弗し。十月、詔して収め廷尉に付し、獄に於て誅せらる。時に年四十九。子の黯等従ひて誅さる。弟の素、黄門郎、広州に徙す。湛初め収めらるるに、歎じて曰く、「便ち是れ乱か。」又曰く、「我無くんば応に乱るべしと言はざるも、我を殺す日自ら是れ法を乱るるのみ。」獄に入り素を見て曰く、「乃ち復た汝に及ぶか。悪を為すを相勧むれば、悪は為すべからず。善を為すを相勧むれば、正に今日を見る。如何。」湛女を生めば輒すなわち之を殺す、時流に怪しまる。

原文十七年,所生母亡。上與義康形跡既乖,釁難將結,湛亦知無復全地。及至丁艱,謂所親曰:「今年必敗,常日賴口舌爭之,故得推遷耳。今既窮毒,無復此望,禍至其能久乎。」伏甲於室,以待上臨吊。謀又泄,竟弗之幸。十月,詔收付廷尉,於獄伏誅,時年四十九。子黯等從誅。弟素,黃門郎,徙廣州。湛初被收,歎曰:「便是亂邪。」又曰:「不言無我應亂,殺我日自是亂法耳。」入獄見素,曰:「乃復及汝邪?相勸爲惡,惡不可爲,相勸爲善,正見今日,如何!」湛生女輒殺之,爲時流所怪。

庾悅

原文庾悅

庾悅は字を仲豫とす。潁川鄢陵の人なり。晋の太尉亮の曾孫なり。祖は羲、呉興内史。父は准、西中郎将・荊州刺史。

原文庾悅字仲豫,潁川鄢陵人也,晉太尉亮之曾孫也。祖羲,吳興內史。父准,西中郎將、荊州刺史。

悅は晋に仕えて司徒右長史となる。桓玄位を篡すに、中書侍郎と為る。宋の武建鄴を平ぐるに、累遷して建威将軍・江州刺史となり、都督を加へらる。

原文悅仕晉爲司徒右長史。桓玄篡位,爲中書侍郎。宋武平建鄴,累遷建威將軍、江州刺史,加都督。

初め、劉毅家は京口に在り、酷く貧し。嘗て鄕曲の士大夫と東堂に往き共に射る。時に悅は司徒右長史たり。府州の僚佐を要して東堂に出づ。毅已に先づ至り、遣はして悅に相聞かしめて曰く、「身並びに貧躓し、一遊を営むこと甚だ難し。君は如意の人、処として適ふ可からざる無し。豈に此の堂を以て見譲る能はざらんや。」悅素より豪にして、径ち前にして答へず。毅眾人に語り並びに避けしむ。唯だ毅留まりて射ること故の如し。悅の厨饌甚だ盛んなるも、毅に及ばず。毅既に去らず、悅甚だ歓ばず。毅又相聞かしめて曰く、「身今年未だ子鵝を得ず。豈に残炙を以て見恵せんや。」悅又答へず。是に至り、毅表して悅の都督・将軍の官を解き、刺史を以て豫章に移鎮せしむ。親将趙恢を以て千兵を領し尋陽を守らしめ、建威府の文武三千人悉く毅の将府に入り、深く相挫辱す。悅志を得ず、疽背に発し、豫章に到りて少日にして卒す。

原文初,劉毅家在京口,酷貧,嘗與鄕曲士大夫往東堂共射,時悅爲司徒右長史,要府州僚佐出東堂,毅已先至,遣與悅相聞曰:「身並貧躓,營一遊甚難。君如意人,無處不可爲適,豈不能以此堂見讓。」悅素豪,徑前不答。毅語眾人並避,唯毅留射如故。悅廚饌甚盛,不以及毅,毅既不去,悅甚不歡。毅又相聞曰:「身今年未得子鵝,豈能以殘炙見惠。」悅又不答。至是,毅表解悅都督、將軍官,以刺史移鎮豫章。以親將趙恢領千兵守尋陽,建威府文武三千人悉入毅將府,深相挫辱。悅不得志,疽發背,到豫章少日卒。

悅の族弟に登之あり。

原文悅族弟 登之

登之は字を元龍といい、悅の族弟である。曾祖は冰、晉の司空。祖は蘊、廣州刺史。父は廓、東陽太守。

原文登之字元龍,悅族弟也。曾祖冰,晉司空。祖蘊,廣州刺史。父廓,東陽太守。

登之は若くして強く事を成す志を持ち自立し、初め宋の武帝の鎮軍參軍となり、桓玄討伐の功に預かり、曲江縣五等男に封ぜられた。累遷して新安太守となった。謝晦が荊州刺史となると、長史・南郡太守を請い、そのまま衞軍長史となった。登之と晦はともに曹氏の婿であり、名位は本来同じであったが、一朝にしてその補佐となるや、心中甚だ満足せず、廳に到着した際の書簡にはただ「即日恭しく到着す」と記し、初めから感謝の言葉はなかった。毎回謁見する際には、箱や囊、机や敷物の類をことごとく持ち込み、一つの物が備わらなければ座ろうとしなかった。かつて晦の座において西征賦を誦して「生には修短の命あり、位には通塞の遇あり」と云った。晦は恨んだが、常に寛容に扱った。

原文登之少以強濟自立,初爲宋武帝鎮軍參軍,預討桓玄功,封曲江縣五等男。累遷新安太守。謝晦爲荊州刺史,請爲長史、南郡太守,仍爲衞軍長史。登之與晦俱曹氏婿,名位本同,一旦爲之佐,意甚不愜。到廳箋唯言:「即日恭到」,初無感謝之言。每入覲見,備持箱囊几席之屬,一物不具,則不肯坐。嘗於晦坐誦西征賦云:「生有修短之命,位有通塞之遇。」晦雖恨而常優容之。

晦が王師に抵抗するに当たり、登之に留守を任せようとしたが、登之は許さなかった。晦が敗れると、登之は任がなかったとして官を免ぜられ、禁錮を命ぜられて家に還った。何承天が戯れて曰く、「禍に因りて福と為す、必ずしも皆知るべからず」と。登之曰く、「我もまた幾ばくか三豎とともに戮せられんとす」と。承天が晦のために作った表に「まさに舟を浮かべて東下し、この三豎を戮さん」とあったので、登之はこれを嘲ったのである。

原文晦拒王師,欲登之留守,登之不許。晦敗,登之以無任免官禁錮還家。何承天戲之曰:「因禍爲福,未必皆知。」登之曰:「我亦幾與三豎同戮。」承天爲晦作表云:「當浮舟東下,戮此三豎。」故登之爲嘲。

後に司徒長史・南東海太守となった。府公の彭成王義康が政事を専覧し、下僚の意見を容れようとしなかった。しかし登之の性質は剛直で、毎回己が志を陳べたため、義康は悦ばず、出されて吳郡太守となり、贓貨の罪で免官された。後に豫章太守に拝され、中護軍に徵されたが、拝せずして卒した。

原文後爲司徒長史、南東海太守。府公彭成王義康專覽政事,不欲自下厝意。而登之性剛,每陳己志,義康不悅,出爲吳郡太守,以贓貨免官。後拜豫章太守,徵爲中護軍,未拜卒。

子の仲遠は、初め宋の明帝の府佐となった。廢帝の景和年間、明帝は疑われ防備されていたため、賓客故人で門に到る者なく、ただ仲遠のみが朝謁を絶やさなかった。明帝が即位すると、彼に謂って曰く、「卿は所謂疾風勁草を知るなり」と。軍錄事參軍から太子中庶子に擢げて拝され、豫章太守の任上で卒した。侍中を追贈された。

原文子仲遠,初爲宋明帝府佐。廢帝景和中,明帝疑防,賓客故人無到門者,唯仲遠朝謁不替。明帝即位,謂曰:「卿所謂疾風知勁草。」自軍錄事參軍擢拜太子中庶子,卒于豫章太守。贈侍中。

登之の弟に仲文あり。

原文登之弟 仲文

登之の弟仲文。仲文は位は廣平太守に至り、兄の登之が謝晦の長史であった時、仲文は往ってこれを省みた。当時晦は権勢重く、朝士は皆敬いを加えたが、仲文のみは抗礼した。

原文登之弟仲文。仲文位廣平太守,兄登之爲謝晦長史,仲文往省之。時晦權重,朝士並加敬,仲文獨與抗禮。

後に彭城王義康の驃騎主簿となったが、就任せず、丹陽丞に転じた。既に府に到着していないため、府公に対する礼敬について疑いが生じ、礼官に博く議論させた。中書侍郎裴松之が議して曰く、「春秋桓公八年を案ずるに、祭公が紀において王后を迎えた。公羊傳に曰く、『女は国に在りては女と称し、此れ王后と称するは何ぞや。王者に外無く、其の辞成るなり』と。これを推して言えば、仲文が吏としての道は、勅を受けた日に定まったのである。名器既に正しければ、礼もまたこれに従う。安んぞ未だ到らずして其の節を廃せんや。吏の礼を執るべし」と。これに従った。

原文後爲彭城王義康驃騎主簿,未就,徙爲丹陽丞。既未到府,疑於府公禮敬,下禮官博議。中書侍郎裴松之議曰:「案春秋桓公八年,祭公逆王后于紀。公羊傳曰:' 女在國稱女,此其稱王后何?王者無外,其辭成矣。'推此而言,則仲文爲吏之道,定於受敕之日矣。名器既正,則禮亦從之,安可未到廢其節乎?宜執吏禮。」從之。

後に始興王浚が湘州を鎮守することとなり、仲文を司馬とした。浚は赴任せず、そのまま南梁太守を除し、司馬は元の如くとした。当時領軍劉湛は大將軍彭城王義康に協力して附き、僕射殷景仁とは不和であった。凡そ朝士で殷氏に遊ぶ者は、劉氏の門に入ることを得ず、ただ仲文のみが二人の間を遊び、密かに朝廷に忠を尽くした。景仁は病と称して朝見せず数年を経たが、文帝は常に仲文に命じて往来させ、湛は疑わなかった。

原文後始興王浚當鎮湘州,以仲文爲司馬。浚不之任,仍除南梁太守,司馬如故。于時領軍劉湛協附大將軍彭城王義康,而與僕射殷景仁隙。凡朝士游殷氏者,不得入劉氏之門,獨仲文遊二人間,密盡忠於朝廷。景仁稱疾不朝見者歷年,文帝常令仲文銜命去來,湛不疑也。

義康が外藩に出され、湛が誅せられると、仲文を尚書吏部郎とし、右衞將軍沈演之とともに機密に参与させた。侍中・吏部尚書を歴任し、義陽王師を領した。内外より帰附され、勢いは朝野を傾けた。仲文は人となり強急で耐え性がなく、賓客が理に非なることを訴えると、忿罵が辞色に現れた。元来学術がなく、衆望の推される所とならなかった。性は潔癖を好み、士大夫で彼を訪れる者は、戸を出でざるうちに人をして席を拭き床を洗わしめた。当時陳郡の殷沖もまた清浄を好み、小史は清浄に浴し新衣でなければ左右に近づくことを得ず、士大夫が少し不整潔でも、常に容れて接した。仲文の潔癖を好むのはこれに反し、毎にこれをもって譏られた。

原文義康出蕃,湛伏誅,以仲文爲尚書吏部郎,與右衞將軍沈演之俱參機密。曆侍中、吏部尚書,領義陽王師。內外歸附,勢傾朝野。仲文爲人強急不耐煩,賓客訴非理者,忿罵形於辭色。素無術學,不爲眾望所推。性好潔,士大夫造之者,未出戸輒令人拭席洗床。時陳郡殷沖亦好淨,小史非淨浴新衣,不得近左右,士大夫小不整潔,每容接之。仲文好潔反是,每以此見譏。

選挙を領することは既に衆論をまとめず、また頗る賄賂を通じ、少府卿劉道錫を廣州刺史に用いた。道錫は鎮に到ると、白檀の牽車を贈り、常に自ら乗った。ある者がこれを文帝に告げると、帝は見て問うて曰く、「道錫が卿に小車を贈り、装飾甚だ麗しいと聞くが、あるか」と。仲文は懼れて起ち謝した。

原文領選既不緝眾論,又頗通貨賄,用少府卿劉道錫爲廣州刺史,道錫至鎮,餉白檀牽車,常自乘焉。或以白文帝,帝見問曰:「道錫餉卿小車,裝飾甚麗,有之乎?」仲文懼起謝。

また仲文は急用で家に還ることを請い、吏部令史錢泰・主客令史周伯齊が仲文の宅に出向いて事を諮った。泰は琵琶を弾くことができ、伯齊は歌を善くしたので、仲文は因って留め宿泊させた。尚書の制では、令史が事を諮るには外に宿泊してはならず、たとえ八座の命でも許されない。有司に奏せられた。上は仲文に元来厚く、これを恕そうとし、尚書右僕射何尚之を召して問うた。尚之は仲文の得失を具に陳べ、奏して言うには、

原文又仲文請急還家,吏部令史錢泰、主客令史周伯齊出仲文宅諮事。泰能彈琵琶,伯齊善歌,仲文因留停宿。尚書制,令史諮事不得宿停外,雖八座命亦不許,爲有司所奏。上于仲文素厚,將恕之,召問尚書右僕射何尚之,具陳仲文得失,奏言:

仲文の事は丘山の如く、もし放って糾さずんば、復た何を以て政と為さん。晉の武帝は明主ではなかったが、鬲令の事を断じて、遂に奮発することができた。華廙は待遇軽からざるも、累年廢錮され、後に起用されて城門校尉に改めたに過ぎない。もし仲文が国に誠ありと言うなら、確かなるは何事なるかを未だ知らず、政として殷景仁と旧を失わず、劉湛ともまた疎ならざると云うべきのみ。且つ景仁の当時の意中の事、豈に復た蔑ろにすべけんや。仮に微かなる誠あらば、復た何ぞ以て其の悪を掩わん。賈充は勲烈あり、晉の重臣なり。事業は称せられざるも、大罪あるを聞かず、諸臣が進説するや、便ち即ち遠く出された。陛下は聖叡なれども、反って更に此れに於いて遅遅とされる。仲文の身上の釁は、既に范曄よりも過ぎ、賊一事を欠くのみ。伏して深く三思を加えられんことを願う。試みに諸声伝を以て普く諸顧問すべき者に訪わしめられよ。群下は陛下の顧遇既に重きを見て、苦しんで侵傷するを敢えてせざるを恐る。顧問の日、宜しく嫌責の旨を布くべし。若し此くの如くせずんば、亦た弁ずるに得失あることを得ざるべし。当時仲文は自ら理めて台制に諳らず、令史も皆、外に停まるは嫌にあらずと述べた。帝は小事は以て大臣を傷つけるに足らずとされたが、尚之は更に陳べて、

原文仲文事如丘山,若縱而不糾,復何以爲政。晉武不爲明主,斷鬲令事,遂能奮發,華廙見待不輕,廢錮累年,後起改作城門校尉耳。若言仲文有誠于國,未知的是何事,政當云與殷景仁不失其舊,與劉湛亦復不疏。且景仁當時意事,豈復可蔑,縱有微誠,復何足掩其惡。賈充勳烈,晉之重臣,雖事業不稱,不聞有大罪,諸臣進說,便即遠出。陛下聖叡,反更遲遲於此。仲文身上之釁,既自過於范曄,所少賊一事耳。伏願深加三思。試以諸聲傳普訪諸可顧問者,群下見陛下顧遇既重,恐不敢苦侵傷,顧問之日,宜布嫌責之旨。若不如此,亦當不辨有所得失。時仲文自理不諳台制,令史並言停外非嫌。帝以小事不足傷大臣,尚之又陳:

令史は具に仲文に向かって停まるべからざるの意を説いたが、仲文は全く聴き入れず、解せざるに非ず、直ちに苟くも留めんとしたのである。令史が出ずるとは雖も、乃ち遠く朝典を虧そこなき、又た之を小事と謂うべからず。謝晦の望実は今の者と同列に非ず、一事誤りて、侍中の官を免ぜられた。王珣は時賢たりしも少し過失あり、桓胤は春搜の謬りありて、皆白衣のまま職を領した。況んや公に憲制を犯すにおいてをや。孔萬祀が左局に居りて言うには、「仲文は貴要にして他の尚書と異なる」と。又た云く、「癡ならず聾ならずんば、姑公成らず」と。敢えて此の言を作すも、亦た異なり。文帝は猶優遊として、尚之に更に其の意を陳べさせた。尚之は備えて仲文の過ちを言うには、

原文令史具向仲文說不得停之意,仲文了不聽納,非爲不解,直是苟相留耳。雖是令史出,乃遠虧朝典,又不得謂之小事。謝晦望實非今者之疇,一事錯誤,免侍中官。王珣時賢少失,桓胤春搜之謬,皆白衣領職,況公犯憲制邪?孔萬祀居左局,言:「仲文貴要異他尚書」。又云:「不癡不聾,不成姑公」。敢作此言,亦爲異也。文帝猶優遊,使尚之更陳其意。尚之備言仲文愆曰:

臣は張遼の言葉を思うに、関羽はたとえ兄弟であっても、曹公父子に対してどうして言わないことがあろうか。今の臣下で国を憂うる者は甚だ少なく、臣がまた口を閉ざせば、日月の明も或いは蔽われることがあろう。しかし臣を知らぬ者は、まさか臣に争競の心があるとは言わないが、また追って悵悵たる思いを抱く。臣は仲文と交際し、共に恩遇を受けたから、再び厚薄を生ずるべきではない。太尉が先頃臣に言ったところでは、仲文には諸々の不可なる点があり、一条のみならず、遠近で彼を崇め畏れ、四海を震動させているという。仲文は先に劉徳願と甚だ悪かったが、徳願が自ら琵琶を携え、甚だ精巧美麗なものを贈ると、たちまちにまた親しくなった。市令の盛馥が数百口の材木を進めて宅の営造を助けたが、人に知られるのを恐れ、虚偽の買券を作った。劉道錫は急に物を送り、南奉の半分を傾けた。劉雍は自らその力添えを得たと思い、父のように仕え、夏中に甘蔗を送り、あたかも州で新たに発したかのようであった。国吏が樵蘇を運搬し、道に絶えることがなかった。諸々、人の物を見れば、ほとんど求めないことはなく、劉遵考に材木があると聞けば直ちに材木を乞い、良い燭盤を見ればまたこれを乞うた。選用は公平でなく、一二を挙げるに及ばない。太尉はまた言う、仲文には共に事をなす体が全くなく、凡そ選挙するものは悉くその意のままであり、政令は太尉に知らせるのみであると。虞秀之を黄門とすることを論じたとき、太尉が正しく答えて和せず、故に停まった。太尉が近頃仲文と疎遠になり、徳願の子を州の西曹に用いようとしたところ、仲文はかえって啓上して主簿に任用し、即ち徳願に語って太尉に謝させた。前後漏泄して恩を売ることも、またどうして極まりがあろうか。たとえ罪に問わないとしても、故に出させるべきである。裴、劉の刑罰以来、諸将は力を尽くすこと百倍であり、今日の事実は善悪を問うべきである。もし赫然として発憤し、法憲を顕明すれば、陛下は便ち紫闥に閑臥して再び一事もなかるべし。帝は仲文を丹陽に出そうとし、また尚之に問うた。答えて言うには、

原文臣思張遼之言,關羽雖兄弟,曹公父子豈得不言。觀今人臣憂國甚寡,臣復結舌,日月之明或有所蔽。然不知臣者豈不謂臣有爭競之心,亦追以悵悵。臣與仲文周旋,俱被恩接,不宜復生厚薄。太尉昨與臣言說仲文有諸不可,非唯一條,遠近相崇畏,震動四海。仲文先與劉德願殊惡,德願自持琵琶甚精麗遺之,便復款然。市令盛馥進數百口材助營宅,恐人知,作虛買券。劉道錫驟有所輸,傾南奉之半。劉雍自謂得其力助,事之如父,夏中送甘蔗,若新發於州。國吏運載櫵蘇,無輟於道。諸見人有物,鮮或不求,聞劉遵考有材便乞材,見好燭盤便復乞之。選用不平,不可一二。太尉又言仲文都無共事之體,凡所選舉悉是其意,政令太尉知耳。論虞秀之作黃門,太尉不正答和,故得停。太尉近與仲文疏,欲用德願兒作州西曹,仲文乃啟用爲主簿,即語德願以謝太尉。前後漏泄賣恩,亦復何極。縱不罪,故宜出之。自從裴、劉刑罰已來,諸將陳力百倍,今日事實好惡可問,若赫然發憤,顯明法憲,陛下便可閑臥紫闥無復一事也。帝欲出仲文爲丹陽,又以問尚之,答言:

仲文は罪を蹈み恩に背き、陛下は旧恩を遅らせ、窮法を忍びず、まさにまた京尹の赫赫たる授けがある。恐らく心を尽くして国に奉ずる者はここに息み、貪狼恣意となり、歳月を経てますます甚だしくなるであろう。臣の聞く天下の議論によれば、仲文は常に日月を塵累し、一毫の輝きを増すを見ず、かえって形勢を成し、これは王雅を老いさせたものである。古人の言うように、賞罰なければ、堯舜といえども政をなすこと能わず。陛下はどうして坐して皇家の重きを損ない、一凡人に迷うことがあろうか。賈誼、劉向が再生したならば、まさか聖世に慷慨流涕しないことがあろうか。臣が昔范曄を啓したとき、当時もまた犯触の咎を懼れたが、もしこれが愚懷の挹むところであれば、政自ずから舒達せざるを得ず、いわゆる「九死すとも悔いず」というものである。臣は仲文をしばらく外出させ、もし能く修改し、在職して称せられれば、還ることも難しくなく、しかも少しく国典を明らかにし、粗く四海の誚りに酬いることを得るであろう。今愆釁は山の如く、栄任は損なわれず、仲文がもしまた彰大の罪があれば、誰か敢えて聞かせることがあろうか。また陛下が臣の言を採られぬことを知るが故に、これは臣が己の意を用いられぬだけである。また言うには、

原文仲文蹈罪負恩,陛下遲遲舊恩,未忍窮法,方復有尹京赫赫之授。恐悉心奉國之人於此而息,貪狼恣意,歲月滋甚。如臣所聞天下議論,仲文恒塵累日月,未見一毫增輝,乃更成形勢,是老王雅也。古人言,無賞罰,雖堯舜不能爲政。陛下豈可坐損皇家之重,迷一凡人。令賈誼、劉向重生,豈不慷慨流涕於聖世邪。臣昔啟范曄,當時亦懼犯觸之尤,苟是愚懷所挹,政自不能不舒達,所謂「雖九死而不悔。」也。臣謂仲文且外出,若能修改,在職著稱,還亦不難,而得少明國典,粗酬四海之誚。今愆釁如山,榮任不損,仲文若復有彰大之罪,誰敢以聞。亦知陛下不能采臣之言,故是臣不能以己之意耳。又曰:

臣は劉伯龍が仲文の行いを大いに慷慨するのを見る。人が張幼緒を送り、人に語って「我は一県を得たが、負債三十万を負う。庾仲遠はなお新林まで送り、縛束を見るも未だ手を解くを得ず」と言ったという。荀万秋がかつて仲文を訪ねたとき、夏侯という客に逢い、主人が「良い牛はあるか」と問うと、無いと言った。「良い馬はあるか」と問うと、また無いと言い、ただ佳い驢があるだけだと言った。仲文は便ち答えて「甚だ是れ我が欲する所なり」と言った。客が出門すると、遂に聞き伝えてこれを求めた。劉道錫は仲文の挙げた者であると言い、道錫に就いて嫁女の具及び祠器を求め、まさに百万の数に当たり、なお然らずと言った。選令史の章龍が臣に語り、またその受納の過ちを嘆いた。実に嫁女の銅炉を得たと言い、四人で挙げてようやく勝ち、細葛の鬥帳等の物は数えられないほどであった。尚書中で奴に酃酒を売らせ、その百十の利を得たことも、また立台閣に無きことであり、少しも聖聴を簡びるかどうか審らかでない。帝はついに有司の奏を可とし、仲文の官を免じ、家で卒した。帝はその宿誠を録し、本官を追贈した。子は弘遠。

原文臣見劉伯龍大慷慨仲文所行,言有人送張幼緒,語人「吾雖得一縣,負錢三十萬。庾仲遠仍當送至新林,見縛束猶未得解手」。荀萬秋嘗詣仲文,逢一客姓夏侯,主人問:「有好牛不?」言無。問:「有好馬不?」又言無,政有佳驢耳。仲文便答:「甚是所欲。」客出門。遂相聞索之。劉道錫言是仲文所舉,就道錫索嫁女具及祠器,乃當百萬數,猶謂不然。選令史章龍向臣說,亦歎其受納之過。言實得嫁女銅爐,四人舉乃勝,細葛鬥帳等物不可稱數。在尚書中令奴酤酃酒,利其百十,亦是立台閣所無,不審少簡聖聽不?帝乃可有司之奏,免仲文官,卒于家。帝錄其宿誠,追贈本官。子弘遠。

仲文の子:弘遠

原文仲文子:弘遠

弘遠は字を士操といい、清実にして士誉があった。斉に仕えて江州長史となった。刺史陳顕達が兵を挙げて敗れ、朱雀航で斬られた。刑に臨み、帽を索めてこれを着け、「子路は纓を結び、我は冠せずして死すべからず」と言った。見る者に謂って「我は賊ではなく、乃ち義兵であり、諸君のために命を請うたのである。陳公は事を軽んじ過ぎた。もし我が言を用いれば、天下は塗炭を免れたであろう」と言った。弘遠の子の子曜は年十四、父を抱き持って命に代わることを乞い、遂に併せて殺された。

原文弘遠字士操,清實有士譽。仕齊爲江州長史。刺史陳顯達舉兵敗,斬於朱雀航。將刑,索帽著之,曰:「子路結纓,吾不可以不冠而死。」謂看者曰:「吾非賊,乃是義兵,爲諸君請命耳。陳公太輕事,若用吾言,天下將免塗炭。」弘遠子子曜年十四,抱持父乞代命,遂並殺之。

仲文の従弟の徽之は御史中丞の位にあった。徽之の子の漪は、斉の邵陵王記室となった。漪の子は仲容。

原文仲文從弟徽之位御史中丞。徽之子漪,齊邵陵王記室。漪子仲容。

仲文の族孫:仲容

原文仲文族孫:仲容

仲容は字を子仲といい、幼くして孤となり、叔父の泳に養われた。長ずると、人事を杜絶し、専精篤学し、昼夜手を巻から輟めず。

原文仲容字子仲,幼孤,爲叔父泳所養。及長,杜絶人事,專精篤學,晝夜手不輟卷。

初め安西法曹行参軍となり、泳は時に貴顕であり、吏部尚書徐勉は泳の子の晏嬰を宮僚に擬した。泳は泣いて言った。「兄の子は幼孤であり、人才は粗く可なり。願わくは晏嬰の忝うる所を回らして用いられよ。」勉はこれを許した。仲容を転じて太子舎人とし、安成王主簿に遷した。時に平原くわだの劉峻も府佐となり、共に強学を以て王に礼接された。後に永康、銭唐、武康の令となり、並びに績なく、多く推劾を受けた。久しくして安成王中記室を除した。当に出でて府に随うべきとき、皇太子は旧恩を以て降りて餞し、詩を賜って曰く、「孫生は陽道に陟り、呉子は朝歌県に朝す、未だ樊林の挙のごとくせず、酒を置く華殿に臨むに若かず」と。時輩はこれを栄とした。

原文初爲安西法曹行參軍,泳時貴顯,吏部尚書徐勉擬泳子晏嬰爲宮僚。泳泣曰:「兄子幼孤,人才粗可,願以晏嬰所忝回用之。」勉許焉。轉仲容爲太子舍人,遷安成王主簿。時平原劉峻亦爲府佐,並以強學爲王所禮接。後爲永康、錢唐、武康令,並無績,多被推劾。久之,除安成王中記室。當出隨府,皇太子以舊恩降餞,賜詩曰:「孫生陟陽道,吳子朝歌縣,未若樊林舉,置酒臨華殿。」時輩榮之。

後に尚書左丞となり、推糾して直ならざるに坐して官を免ぜられた。仲容は博学で、少しく盛名があり、頗る気任せに酒を飲ませ、危言高論を好み、士友はこれによって之を少なくした。ただ王籍、謝幾卿と情好相得るのみで、二人も時に調わず、遂に相追随し、誕縦酣飲し、検操を持たなかった。太清の乱に遇い、会稽に遊んで卒した。

原文後爲尚書左丞,坐推糾不直免官。仲容博學,少有盛名,頗任氣使酒,好危言高論,士友以此少之。唯與王籍、謝幾卿情好相得,二人時亦不調,遂相追隨,誕縱酣飲,不持檢操。遇太清亂,遊會稽卒。

仲容は子書三十巻、諸集三十巻、衆家地理書二十巻、列女伝三巻、文集二十巻を抄し、並びに代に行われる。

原文仲容抄子書三十卷,諸集三十卷,眾家地理書二十卷,列女傳三卷,文集二十卷,並行於代。

顧琛

原文顧琛

顧琛は字を弘瑋といい、呉郡呉の人で、晋の司空顧和の曾孫である。祖父の履之、父の惔は、並びに司徒左西曹掾となった。

原文顧琛字弘瑋,吳郡吳人,晉司空和之曾孫也。祖履之,父惔,並爲司徒左西曹掾。

琛は謹確にして浮華を尚ばず、州従事・駙馬都尉より起家し、累遷して尚書庫部郎となった。元嘉七年、文帝は到彦之を遣わして河南を経略させたが、大敗し、悉く兵甲を委棄し、武庫はこれがために空虚となった。文帝が宴会したとき、帰化人が座にあり、上は琛に庫中の仗がなお幾許あるかと問うた。琛は詭辞を以て十万の人仗があると答えた。旧来、庫の仗は秘して多少を言わず、上は既に発問して、失言を追悔した。琛が詭対すると、上は甚だこれを善しとした。尚書寺の門には制があり、八坐以下の門生が随入する者は各々差等があり、人士を雑えてはならなかった。琛は宗人の顧碩を尚書張茂度の門名に寄せたが、顧碩と同席して坐した。明年、坐して譴り出され、中正を免ぜられた。凡そ尚書官は大罪ならば免じ、小罪ならば譴り出し、譴り出された者は百日の間代人がなければ、本職に還ることを聴された。琛はなお彭城王義康の請いにより、再び司徒録事参軍を補された。

原文琛謹確不尚浮華,起家州從事、駙馬都尉,累遷尚書庫部郎。元嘉七年,文帝遣到彥之經略河南,大敗,悉委棄兵甲,武庫爲之空虛。文帝宴會,有歸化人在座,上問琛庫中仗猶有幾許?琛詭辭答有十萬人仗。舊庫仗秘不言多少,上既發問,追悔失言。及琛詭對,上甚善之。尚書寺門有制,八坐以下門生隨入者各有差,不得雜以人士。琛以宗人顧碩寄尚書張茂度門名,而與顧碩同席坐。明年坐譴出,免中正。凡尚書官大罪則免,小罪譴出,譴出者百日無代人,聽還本職。琛仍爲彭城王義康所請,再補司徒錄事參軍。

十五年、出でて義興太守となった。初め、義康は琛を府に請い入れ、腹心に委んじようとしたが、琛は劉湛に承事することができず、故に尋いで外に斥けられた。十九年、東陽太守に徙り、琛に彭城王義康を防守させようとしたが、固く辞して旨に忤い、廃黜されて家に還り積年を過ごした。

原文十五年,出爲義興太守。初,義康請琛入府,欲委以腹心,琛不能承事劉湛,故尋見斥外。十九年,徙東陽太守,欲使琛防守彭城王義康,固辭忤旨,廢黜還家積年。

元凶が帝を弑して立つと、会稽五郡を分けて州を置き、随王誕を刺史とし、即ち琛を会稽太守とした。誕が義兵を起こすと、冠軍将軍を加えられた。事が平定されると、呉興太守に遷った。

原文及元凶弑立,分會稽五郡置州,以隨王誕爲刺史,即以琛爲會稽太守。誕起義,加冠軍將軍。事平,遷吳興太守。

孝建元年、呉郡太守となり、義兵を起こした功により、永新県五等侯に封ぜられた。大明元年、呉県令張闓が母の喪に居て礼を失した罪で廷尉に下され、銭唐令沈文秀の判決・弾劾が誤りで、連座して弾劾されるべきところであった。琛は衆に向かって宣言した、「張闓が弾劾された当初、私は繰り返し彼のために申し立てた」と。また言った、「文秀を留めて県令とすべきことを上奏しよう」。孝武帝はこれを聞いて大いに怒り、琛が悪を売りつけて上に帰そうとしたと言い、官を免じた。琛の母は老いていたので、なお家に留まった。

原文孝建元年,爲吳郡太守,以起義功,封永新縣五等侯。大明元年,吳縣令張闓坐居母喪無禮,下廷尉,錢唐令沈文秀判劾違謬,應坐被彈。琛宣言於眾,「闓被劾之始,屢相申明」。又云:「當啟文秀留縣」。孝武聞之大怒,謂琛賣惡歸上,免官。琛母老仍停家。

琛および前西陽太守張牧はともに司空竟陵王誕に仕えていたが、誕が反乱を起こすと、客の陸延稔を使い、書板を持たせて琛とその子弟に官職を与えようとした。時に孝武帝は、琛が平素から誕に結びつき事を為していたので、異志があるかもしれないと考え、使者を呉郡太守王曇生のもとに遣わして琛父子を誅殺させようとした。ちょうど延稔が先に到着したので、琛らは即ち彼を捕らえて斬り、二人の子を遣わして延稔の首を送り、上奏して報告した。孝武帝が遣わした琛を誅する使者もその日に到着したが、難を免れた。琛の母孔氏は当時百余歳で、晋の安帝隆安初め、琅邪王廞が呉中で乱を起こし、娘を貞烈将軍とし、すべて女人を官属とし、孔氏を司馬とした。孫恩の乱の後、東土は飢饉となり、人々は食い合い、孔氏は家の糧を散じて邑里を救済し、生き延びた者は非常に多く、生まれた子は皆、孔を名としたという。

原文琛及前西陽太守張牧並事司空竟陵王誕,誕反,遣客陸延稔齎書板琛及子弟官。時孝武以琛素結事誕,或有異志,遣信就吳郡太守王曇生誅琛父子。會延稔先至,琛等即執斬之,遣二子送延稔首啟聞。孝武所遣誅琛使其日亦至而獲免。琛母孔氏時年百餘歲,晉安帝隆安初,琅邪王廞于吳中作亂,以女爲貞烈將軍,悉以女人爲官屬,以孔氏爲司馬。及孫恩亂後,東土饑荒,人相食,孔氏散家糧以振邑裏,得活者甚眾,生子皆以孔爲名焉。

琛はなお呉興太守となったが、翌年、郡の者が多く銭を剪り盗鋳したことに連座して官を免ぜられた。都官尚書の官を歴任した。

原文琛仍爲吳興太守,明年坐郡人多翦錢及盜鑄免官。歷位都官尚書。

廃帝が即位すると、呉郡太守となった。初め、琛は景平年間に朝請となり、仮に帰郷し東へ向かう際、日暮れに方山に着いた。時に商旅の船数十隻が、皆岸辺に泊まっていたが、一人の者が玄衣に介幘を着け、鞭を執って諸船に命じて言った、「顧呉郡の部隊が間もなく到着するので、この岸に泊まるべきである」と。そこで諸船はそれぞれ東西に散った。やがて一つの仮装の船が到着し、従者は甚だ少なく、なお以前の場所に泊まった。人が尋ねた、「顧呉郡はいつ頃到着するか?」船の者が答えた、「顧呉郡はいない」。また尋ねた、「何の船か?」曰く、「顧朝請である」と。誰もが驚き怪しんだ。琛は内心、良い兆しであると知り、密かに誓って言った、「もし郡守を得たら、必ずここに廟を立てよう」。この時に至って果たして呉郡太守となり、乃ち方山に廟を立て、白馬廟と号したという。明帝泰始初め、四方とともに反乱した。兵敗れ、母を奉じて会稽に奔ったが、台軍が到着すると、帰降し、後に員外常侍・中散大夫となった。卒した。

原文廢帝即位,爲吳郡太守。初,琛景平中爲朝請,假還東,日晚至方山。于時商旅數十船,悉泊岸側,有一人玄衣介幘,執鞭屏諸船云:「顧吳郡部伍尋至,應泊此岸。」於是諸船各東西。俄有一假裝至,事力甚寡,仍泊向處,人問:「顧吳郡早晚至?」船人答:「無顧吳郡。」又問:「何船?」曰:「顧朝請耳。」莫不驚怪。琛意竊知爲善征,因誓之曰:「若得郡,當於此立廟。」至是果爲吳郡,乃立廟方山,號白馬廟云。明帝泰始初,與四方同反。兵敗,奉母奔會稽,台軍既至,歸降,後爲員外常侍、中散大夫。卒。

琛の次子、寶先。

原文琛次子 寶先

次子寶先は、大明年間に尚書水部郎となった。先に、琛が左丞荀萬秋に弾劾されていたが、寶先が郎となった時、萬秋はなお在職しており、寶先は自ら陳べて拜礼しなかった。孝武帝は詔して言った、「勅命に違い怠慢を糾すのは、憲司の職務である。もし不公があれば、自ら更に厘改すべきである。しかるに近頃は弾劾の軽重にかかわらず、輒ち私的に絶交する。この風は長くすべからず、主たる者は厳しくその科条を定めよ」。先に宋の世、江東で貴達した者に、会稽の孔季恭の子霊符、呉興の丘深之および琛がおり、呉の音を変えなかった。深之は字を思玄といい、呉興烏程の人で、侍中・都官尚書の位に至り、太常の官にある時に卒した。

原文次子寶先,大明中,爲尚書水部郎。先是,琛爲左丞荀萬秋所劾,及寶先爲郎,萬秋猶在職,自陳不拜。孝武詔曰:「敕違糾慢,憲司之職,若有不公,自當更有厘改。而自頃劾無輕重,輒致私絶,此風難長,主者嚴爲其科。」先是宋世江東貴達者,會稽孔季恭子靈符、吳興丘深之及琛,吳音不變。深之字思玄,吳興烏程人,位侍中、都官尚書,卒于太常。

顧覬之。

原文顧覬之

顧覬之は字を偉仁といい、呉郡呉の人である。高祖の謙は字を公讓といい、晋の平原内史陸機の姉婿である。祖父の崇は大司農。父の黄老は司徒左西曹掾。

原文顧覬之字偉仁,吳郡吳人也。高祖謙字公讓,晉平原內史陸機姊夫。祖崇,大司農。父黃老,司徒左西曹掾。

覬之は謝晦の衛軍参軍となり、晦はその雅素を愛し、深く知己として遇した。尚書都官郎の官を歴任した。殷(景仁)と劉(湛)の隙(不和)が顕著になると、覬之は殷景仁と長く接することを欲せず、乃ち脚疾を理由に辞して免官帰郷した。毎夜、常に床上で脚を行い(足を動かし)、家人は密かにこれを怪しんだが、その意を知る者はなかった。義康が流罪・廃位されると、朝廷の者は多く禍を受けたが、覬之はついに免れた。

原文覬之爲謝晦衞軍參軍,晦愛其雅素,深相知待。歷位尚書都官郎。殷、劉隙著,覬之不欲與殷景仁久接,乃辭腳疾免歸。每夜常于床上行腳,家人竊異之而莫曉其意。及義康徙廢,朝廷多受禍。覬之竟免。

後に山陰令となった。山陰は煩劇な県で三万戸あり、前後の官長は昼夜休むことができず、事はなお挙がらなかった。覬之は繁を禦するに約をもってし、県は用事なく治まった。昼間も簾を垂れ、門階は閑寂で、宋の世において山陰を治める者は、務め簡にして事理を得た者で、これに及ぶ者はなかった。

原文後爲山陰令。山陰劇邑三萬戸,前後官長晝夜不得休,事猶不舉。覬之禦繁以約,縣用無事。晝日垂簾,門階閑寂,自宋世爲山陰,務簡而事理,莫能尚也。

後に尚書吏部郎となった。かつて文帝の座において江東の人物を論じ、顧榮に言及すると、袁淑が覬之に言った、「卿ら南人は怯懦で、どうして賊を為すことができようか」。覬之は顔色を正して言った、「卿は乃ちまた忠義をもって人を笑うのか」。淑は慚愧の色を示した。孝建年間、湘州刺史となり、政績をもって称された。

原文後爲尚書吏部郎。嘗于文帝坐論江東人物,言及顧榮,袁淑謂覬之曰:「卿南人怯懦,豈辦作賊。」覬之正色曰:「卿乃復以忠義笑人。」淑有愧色。孝建中,爲湘州刺史,以政績稱。

大明元年、召されて度支尚書を守り、転じて吏部尚書となった。時に沛郡相県の唐賜が隣村の彭家で酒を飲んで帰り、病を得、蠱(寄生虫)二十余物を吐いた。賜の妻張は賜の臨終の言葉に従い、死後、自ら腹を刳き、五蔵は悉く糜碎していた。郡県は、張が忍んで刳剖を行い、賜の子の副がまた禁止しなかったとして、妻が夫を傷つけた罪で五歳刑、子が父母に孝行しなかった罪で子を棄市に処すと論じた。これはいずれも科例に合わなかった。三公郎劉勰が議して言った、「賜の妻は痛ましくも往時の言葉に遵い、子は道理に及ばなかった。事を考うるにその心を原てれば、忍んで害を為すに在らず。哀れみを加うるべきであると謂う」。覬之が議して言った、「妻子として忍酷を行うは、小情を曲げて通ずるに宜しからず。副を不孝と謂い、張を不道と同じくすべきである」。詔は覬之の議の通りとした。

原文大明元年,征守度支尚書,轉吏部尚書。時沛郡相縣唐賜往比村彭家飲酒還,因得病,吐蠱二十餘物。賜妻張從賜臨終言,死後親刳腹,五藏悉糜碎。郡縣以張忍行刳剖,賜子副又不禁止。論妻傷夫,五歲刑,子不孝父母,子棄市。並非科例。三公郎劉勰議:「賜妻痛遵往言,兒識謝及理,考事原心,非在忍害,謂宜哀矜。」覬之議:「以妻子而行忍酷,不宜曲通小情,謂副爲不孝,張同不道。」詔如覬之議。

後に呉郡太守となった。幸臣戴法興は人主を凌ぐ権勢があったが、覬之は未だ嘗て低意へつらうことをしなかった。左光禄大夫蔡興宗は覬之と親善であったが、その風節の過ぎて峻厳であるのを嫌った。覬之は言った、「辛毗が云うように、孫資・劉放(のような佞臣)は、ただ我をして三公とならしめざるのみである」。後に湘州刺史の任において卒し、諡して簡子といった。覬之の家門は雍穆(和やかで慎み深い)で、州郡に重んじられた。子の綽は私財が甚だ豊かで、郷里の士庶は多く負債があり、覬之が禁じても止めることができなかった。後に呉郡太守となると、文券(借用証文)を一大厨(大きな厨子)分おびただしく誘い出し、悉く焼かせた。遠近に宣べ伝えて、皆返済する必要はないとさせた。綽は一日中、懊悩して嘆いた。

原文後爲吳郡太守,幸臣戴法興權傾人主,而覬之未嘗低意。左光祿大夫蔡興宗與覬之善,嫌其風節過峻。覬之曰:「辛毗有雲,孫、劉不過使吾不爲三公耳。」後卒于湘州刺史,諡曰簡子。覬之家門雍穆,爲州郡所重。子綽私財甚豐,鄕里士庶多負責,覬之禁不能止。及後爲吳郡,誘出文券一大廚,悉令焚之。宣語遠近,皆不須還。綽懊歎彌日。

覬之は常に、命には定まった分があり、智力で移し変えることはできず、ただ己を恭しくして道を守り、天を信じ運に任せるべきであると執していた。しかし闇(道理に暗い)なる者は達せず、妄りに僥倖を意図し、徒らに雅道を虧い、得喪に関わりがない。乃ちその意を以て、弟子の愿に命じて定命論を作らせた。

原文覬之常執命有定分,非智力所移,唯應恭己守道,信天任運。而闇者不達,妄意徼幸,徒虧雅道,無關得喪。乃以其意,命弟子愿作定命論。

顧愿は字を子恭といい、父は深之、散騎侍郎であった。願は学問を好み、才藻に富み、太子舍人にて卒した。覬之の孫に憲之がいる。

原文愿字子恭,父深之,散騎侍郎。愿好學,有才辭,卒于太子舍人。覬之孫憲之。

覬之の孫は憲之である。

原文覬之孫 憲之

憲之は字を士思といい、性質は特に清廉で正直であった。宋の元徽年間、建康令となった。時に牛を盗んだ者がおり、本来の所有者と牛を争い、それぞれ己の物であると称し、両家の供述と証拠は同等で、前後の県令は決することができなかった。憲之が着任し、その状況を再調査し、牛を解き放ってその行くに任せると、牛はまっすぐに本来の家に帰り、盗人は初めてその罪を認めた。当時の人はこれを神明と称した。権勢ある者からの依頼や、長官の貪婪残忍な行いに対しては、法に基づいて厳正に取り締まり、へつらって容赦することはなかった。性質は清廉倹約で、力を尽くして政治を行い、人々の和をよく得た。故に都で酒を飲む者は、醇厚で旨い酒を「顧建康」と称し、その清く且つ美しいことを言ったのである。

原文憲之字士思,性尤清直。宋元徽中,爲建康令。時有盜牛者,與本主爭牛,各稱己物,二家辭證等,前後令莫能決。憲之至,覆其狀,乃令解牛任其所去,牛徑還本宅,盜者始伏其罪,時人號曰神明。至於權要請托,長吏貪殘,據法直繩,無所阿縱。性又清儉,強力爲政,甚得人和,故都下飲酒者醇旨輒號爲「顧建康」,謂其清且美焉。

斉に仕えて衡陽内史となった。先に、郡内では連年疫病が流行し、死者は大半に及び、棺は特に高価であったため、すべて葦の筵に包んで路傍に棄てられていた。憲之が着任すると、管轄の県に通達し、その親族を求め、すべて埋葬させるようにした。家族が絶えた者については、憲之が公禄を出して役人に保護させた。また土地の風習として、山の住民は病気になるとすぐに先祖の亡霊の祟りと言い、皆墓を開き棺を割り、水で枯骨を洗い、これを除祟と称していた。憲之は諭し、生死の別を説き、事柄は互いに無関係であることを述べ、風俗は遂に改まった。時に刺史の王奐が着任したばかりで、ただ衡陽だけが訴訟がなく、彼は嘆いて言った。「顧衡陽の教化は至れり尽くせりだ。もし九郡が皆そうであれば、私は何をしようか」。

原文仕齊爲衡陽內史。先是,郡境連歲疾疫,死者太半,棺槨尤貴,悉裹以葦席,棄之路傍。憲之下車,分告屬縣,求其親黨,悉令殯葬。其家人絶滅者,憲之出公祿使紀綱營護之。又土俗:山人有病輒云先亡爲禍,皆開塚剖棺,水洗枯骨,名爲除祟。憲之曉喻,爲陳生死之別,事不相由,風俗遂改。時刺史王奐初至,唯衡陽獨無訟者,乃歎曰:「顧衡陽之化至矣,若九郡率然,吾將何事。」

後に東中郎長史となり、会稽郡の事務を代行した。山陰県の呂文度は斉の武帝に寵愛され、余姚に邸宅を建て、甚だ横暴であった。憲之が郡に着くと、即日にこれを撤去した。文度が後に帰葬した時、郡県の役人は争って弔問に赴いたが、憲之はこれに連絡せず、文度は甚だ恨んだが、結局傷つけることはできなかった。

原文後爲東中郎長史,行會稽郡事。山陰人呂文度有寵于齊武帝,于余姚立邸,頗縱橫。憲之至郡,即日除之。文度後還葬,郡縣爭赴吊,憲之不與相聞,文度甚銜之,亦卒不能傷也。

時に西陵の戍主である杜元懿は、呉興が凶作で、会稽が豊作であるため、商人の往来が倍増していると上奏した。西陵の牛埭税は、官定の日額三千五百であるが、これを倍に増額することを求め、年間で百万の増収を見込んだ。また浦陽の南北津及び柳浦の四つの埭について、官が管理することを請い、一年で定格外に約四百万の増収を見込んだ。武帝はこれを会稽に示し、得失を陳述させた。憲之が議して言うには、

原文時西陵戍主杜元懿以吳興歲儉,會稽年登,商旅往來倍歲。西陵牛埭稅,官格日三千五百,求加至一倍,計年長百萬。浦陽南北津及柳浦四埭,乞爲官領攝,一年格外長四百許萬。武帝以示會稽,使陳得失。憲之議曰:

牛埭を設けた当初を考えるに、単に通行料を徴収するためではなく、風波が険しく、人力では間に合わない場合に、急を救い物資の流通を利するためであった。公私ともにこれを喜んだので、税を納めることに怨みはなかった。京師の渡し船がその例である。しかし後に監督する者が、それぞれ己の功績を求め、別の道を禁じたり、法外の利益を互いに生み出したりし、凡そこのような類で、埭を煩わせず牛を使わない者までが上申するに至った。報告を受けて定格外の十条を停止し、従来の喧しい訴えがようやく一時的に治まったのである。考えてみれば、呉興は連年凶作で、今年は特に飢饉がひどく、乏しい所から豊かな所へ移るのは、確かに飢えの苦しみである。旧来の税率を新たに減額することさえまだ議論されていないのに、定格外に倍増するとは、いかなる手段によるというのか。皇帝の慈愛は民の苦しみを憐れみ、倉を開き調役を免じているのに、元懿は災いを幸いとして利益を独占し、重ねて困窮と病苦を増そうとしている。人にして仁ならざるは、古今ともに憎むところである。かつて見るに、税率を上げて市場を設ける者は前後相次ぎ、新たに増やしても利益がなく、旧来の税率さえも不足するばかりであった。愚かにも元懿の今の上奏も、同じ結果に終わるのではないかと恐れる。もし事が言葉に副わなければ、譴責を招くことを恐れ、あらゆる手段で侵害と苦痛を与え、公のために怨みを買うことになろう。彼が挙げようとする腹心の者も、獣に冠をかぶせたようなものである。書経に言う。「聚斂の臣あるよりは、寧ろ盗臣あれ」。これは公を盗むのは損害が微々たるものであるが、民から収奪するのは害が大きいという意味である。しかしこの任に当たる者は廉潔公平な者を選ぶべきで、そうすれば人に害を及ぼさない。また「便宜」とは、公に便であり人に宜しいことを言うのである。近頃「便宜」を言う者を見るに、人力の外で天地の分け前を用いることができるわけではなく、多くは即日には人に宜しくなく、将来も公に便ではなく、名と実が反し、政体に背いている。凡そこのような類は、誠に深く察するべきである。

原文尋始立牛埭,非苟通僦以納稅也,當以風濤迅險,人力不捷,濟急以利物耳。既公私是樂,故輸直無怨。京師航渡,即其例也。而後之監領,各務己功,或禁遏別道,互生理外,凡如此類,不經埭煩牛者上詳。被報蒙停格外十條,從來喧訴,始得暫弭。案吳興頻歲失稔,今茲尤饉,去乏從豐,良田饑棘,舊格新減,尚未議登,格外加倍,將以何術?皇慈恤隱,振廩蠲調,而元懿幸災榷利,重增困瘼,人而不仁,古今共疾。且比見加格置市者,前後相屬,非唯新加無贏,並皆舊格有闕,愚恐元懿今啟,亦當不殊。若事不副言,懼貽譴詰,便百方侵苦,爲公賈怨,其所欲舉腹心,亦當獸而冠耳。書云:「與其有聚斂之臣,寧有盜臣。」言盜公爲損蓋微,斂人所害乃大也。然掌斯任者應簡廉平,則無害於人。愚又以便宜者,蓋謂便於公宜於人也。竊見頃之言便宜者,非能於人力之外,用天分地者也,率皆即日不宜於人,方來未便於公,名與實反,有乖政體。凡如此等,誠宜深察。

山陰一県の課税戸は二万であるが、その資産が三千に満たない者は、ほぼ半数を占めよう。削りに削っても、なお三分の一余りが残る。資産を持つ者は多くは士人で租税免除の身分であり、極貧の者はすべて戸籍に登録された役人で、三丁や五丁で役所に属し、これは分け前が定まっているようなもので、あらゆる種類の租税や調役を納めるのは常態である。近頃は多くの役所が検査し、前後につながり、横槍を入れて連帯責任を負わせることも少なくない。一人が召し捕られれば十人が追及され、一つの糸口が裁かれれば千の災いが互いに起こる。養蚕は弛み農業は廃れ、安く人夫を雇い高く借金をし、公にも私にも応え、日々の暇もなく、非行をしないようにするのは、どうしてできようか。死をも恐れないのに、ましてや刑罰をどうして恐れよう。身すら愛さないのに、ましてや妻子をどうして顧みようか。このため前の検査が終わらないうちに、後の巧みな不正がまた増え、法網は厳しくしても、なお改悛させることができない。人の偽りが多いのは、実に宋の末期に軍役が頻繁に起こり、役賦が重く、勤労の激しさに耐えられず、奇策や技巧に長じた者が優遇され、積み重なった習慣が常態化し、遂に本来の道を忘れてしまったからである。四海の広さ、庶民の多さにおいて、心の用い方は様々で、急に澄ますことは難しい。教化は漸進をもってすべきで、急いで責めてはならない。誠に煩わさないことを心がけ、病や汚れを包み込むようにする。詳しく寛大で簡素なことを務めれば、次第に自ら淳朴に帰するであろう。また検査の命令書は前後累千に及び、命令の主旨は厳しく、暗黙の了解では信じることができない。県が検査して郡に送り、郡が検査して上使に呈するが、その形状は奇怪で、千変万化の源である。聞く者は軽く考えず、見る者は実に驚き傷つく。加えて親族や隣近所の者が、道路に離散し、時に窮乏に転じ、事態はまだ収まらず、その士人や婦女は特に処置に苦しむ。検査しなければ巧みな不正があると疑い、検査しようとしてもどうすれば安心できるか分からない。愚かにはこの条項は県の保証に委ね、その大綱を挙げ、細目を略し、漏れがあっても貯蔵の中から出ないようにし、重い病を患う者に再び生きる恩恵を与えるべきであると考える。

原文山陰一縣課戸二萬,其人貲不滿三千者,殆將居半,刻又刻之,猶且三分餘一。凡有貲者多是士人復除,其貧極者悉皆露戸役人,三五屬官,蓋惟分定,百端輸調,又則常然。比眾局檢校,首尾尋續,橫相質累者亦復不少。一人被攝,十人相追,一緒裁萌,千孽互起。蠶事弛而農業廢,賤取庸而貴舉責,應公贍私,日不暇給,欲無爲非,其可得乎。死且不憚,矧伊刑罰,身且不愛,何況妻子。是以前檢未窮,後巧復滋,網辟徒峻,猶不能悛。竊尋人之多偽,實由宋季軍旅繁興,役賦殷重,不堪勤劇,奇巧所優,積習生常,遂迷忘反。四海之大,庶黎之眾,心用參差,難卒澄之。化宜以漸,不可疾責。誠存不擾,藏疾納洿。務詳寬簡,則稍自歸淳。又被簡符,前後累千,符旨既嚴,不敢闇信。縣簡送郡,郡簡呈使,殊形詭狀,千變萬源。聞者忽不經懷,見者實足傷駭。兼親屬裏伍,流離道路,時轉窮涸,事方未已,其士人婦女彌難厝衷。不簡則疑其有巧,欲簡復未知所安。愚謂此條宜委縣保,舉其綱領,略其毛目,乃當有漏,不出貯中,庶嬰疾沈痼者重荷生造之恩也。

また永興・諸暨は唐宇の寇賊の擾乱に遭い、公私ともに灰燼に帰し、特に被害が甚だしく、もし水害や旱魃に逢えば、実に容易に考えられない事態となる。俗諺に言う。「会稽は太鼓を打って恤れみを送り、呉興は徒歩で担いで令史となる」。会稽は旧来肥沃な地と称されたが、今なおこのような有様である。呉興は本来痩せた土地であるから、事情は推して知るべしである。因循した弊害は、誠に改めるべきである。武帝はすべてこれに従い、これによって憲之は方正剛直であることを深く認められた。

原文又永興、諸暨離唐宇寇擾,公私殘燼,彌復特甚,儻逢水旱,實不易思。俗諺云:「會稽打鼓送恤,吳興步擔令史。」會稽舊稱沃壤,今猶若此,吳興本是塉土,事在可知。因循餘弊,誠宜改張。武帝並從之,由是深以方直見知。

南中郎巴陵王長史、南兗・南豫二州の事務に転じた。典簽が諮問に来ても、顔色を和らげることはなく、常に法制に従って行動した。時に司徒竟陵王が宣城・臨成・定陵の三県の境界に屯田を設け、山沢を数百里にわたって封鎖し、人々の薪採りを禁じた。憲之は固く不可であると陳述し、言葉は甚だ切直であった。王は言った。「君でなければこの善言を聞くことはできなかった」。即座に屯田の禁令を罷めることを命じた。

原文遷南中郎巴陵王長史、南兗南豫二州事。典簽諮事,未嘗接以顏色,動遵法制。時司徒竟陵王于宣城、臨成、定陵三縣界立屯,封山澤數百里,禁人樵采。憲之固陳不可,言甚切直。王曰:「非君無以聞此德音。」即命罷屯禁。

給事黄門に転じ、尚書吏部郎中を兼ねた。宋の時、その祖父の覬之がかつて吏部に在り、庭に良い樹木を植え、人に言った。「私は憲之のために植えるのだ」。ここに至って憲之は果たしてこの職に就いた。永元年間に豫章内史となり、在任中は清廉簡素で、寛大な恵みを保つことに務めた。貞婦の万晞という者がおり、若くして寡婦となり子がなく、舅姑に仕えることに特に孝行で、父母が奪って再嫁させようとしたが、誓って死んでも許さなかった。憲之は束帛を賜り、その節義を表彰した。

原文遷給事黃門,兼尚書吏部郎中。宋時其祖覬之嘗爲吏部,於庭列植嘉樹,謂人曰:「吾爲憲之植耳。」至是憲之果爲此職。永元中爲豫章內史,在任清簡,務存寬惠。有貞婦萬晞者,少孀居無子,事舅姑尤孝,父母欲奪而嫁之,誓死不許。憲之賜以束帛,表其節義。

梁の武帝が建鄴を平定し、揚州牧となると、憲之を別駕従事史に徴したが、到着する頃には既に禅譲を受けて帝位に就いていた。憲之の風疾は次第に重くなり、呉に帰ることを求め、太中大夫の官を加えられた。憲之は累次郡守を歴任したが、資産は儋石もなく、帰郷すると、狭い家屋で飢えと寒さを免れなかった。

原文梁武帝平建鄴,爲揚州牧,征憲之爲別駕從事史,比至而已受禪。憲之風疾漸篤,因求還吳,就加太中大夫。憲之雖累經宰郡,資無儋石,及歸,環堵不免饑寒。

天監八年、家にて卒す。臨終に制を爲して其の子に敕す、「夫れ生を出で死に入るは、理均しく晝夜なり。生既に何れの所より從ふかを知らず、死亦安んぞ往く所を識らんや。延陵云ふ、『精氣は上りて天に歸し、骨肉は下りて地に歸す、魂氣は則ち之き所無からず』と。良に以て有るなり。復た茫昧として徵し難しと雖も、要は是れ妄ならざるべし。百年の期は、迅かにして馳隙の若し、吾今預め終制を爲し、瞑目の後、念ひ並びに遵行し、吾が志に違ふこと勿れ。莊周・澹台は、生に達せる者なり。王孫・士安は、俗を矯める者なり。吾は進んで達に及ばず、退きて矯むる所無し。常に謂ふ、中都の制は、理を允にして情に愜ひ、衣は身に周りて禮に違はざるを示し、棺は衣に周りて以て臭を蔽ふに足る。棺に入るの物は、一として須ふる所無し。輴車に載せ、粗布を以て覆ひ、人をして惡むこと勿からしむる爲なり。漢明帝は天子の尊にして、猶ほ杅水脯糗を以て祭り、范史雲は列士の高にして、亦た寒水乾飯を以て奠す。況んや吾が卑庸の人、其れ可からずや衷を節せんや。喪は易きを寧ろしむるは、自ら是れ親親の情、禮は奢るよりは寧ろ儉しむるは、差し吾が意に由るを得べし。須ひず常に靈筵を施す、止むるに香燈を設け、哀を致す者に憑む有らしむる可し。朔望祥忌には、權へに小床を安んじ、暫く几席を施し、唯だ素饌を下し、牲牢を用ふること勿れ。蒸嘗の祠は、貴賤罔替ふこと無く、備物は辨じ難く、多く疏怠を致す。祠先は自ら舊典有り、闕くこと有る可からず、吾已下よりは、止むるに蔬食時果を用ひ、上世と同じくすること勿れ、子孫をして四時其の親を忘れざらしむるを示すのみ。孔子云ふ『菜羹瓜祭と雖も必ず齋如ならん』と。本づく所は誠敬を貴ぶに在り、豈に備物を求むるをや」と。著す所の詩賦銘贊並びに衡陽郡記數十篇。

原文天監八年,卒於家。臨終爲制敕其子曰:「夫出生入死,理均晝夜。生既不知所從,死亦安識所往。延陵云:'精氣上歸於天,骨肉下歸於地,魂氣則無所不之。' 良有以也。雖復茫昧難征,要若非妄。百年之期,迅若馳隙,吾今預爲終制,瞑目之後,念並遵行,勿違吾志也。莊周、澹台,達生者也;王孫、士安,矯俗者也。吾進不及達,退無所矯。常謂中都之制,允理愜情,衣周於身,示不違禮,棺周於衣,足以蔽臭。入棺之物,一無所須,載以輴車,覆以粗布,爲使人勿惡也。漢明帝天子之尊,猶祭以杅水脯糗,范史雲列士之高,亦奠以寒水乾飯。況吾卑庸之人,其可不節衷也。喪易甯戚,自是親親之情,禮奢寧儉,差可得由吾意。不須常施靈筵,可止設香燈,使致哀者有憑耳。朔望祥忌,可權安小床,暫施几席,唯下素饌,勿用牲牢。蒸嘗之祠,貴賤罔替,備物難辦,多致疏怠。祠先自有舊典,不可有闕,自吾已下,止用蔬食時果,勿同於上世,示令子孫四時不忘其親耳。孔子雲'雖菜羹瓜祭必齋如'者,本貴誠敬,豈求備物哉。」所著詩賦銘贊並衡陽郡記數十篇。

論

原文論

論して曰く、古人云ふ「利は智を昏ます」と、甚だしいかな利害の相傾くや。劉湛は識用才能、實に經國の略を包む。豈に知らんや、弟を移して臣と爲せば則ち君臣の道用ひられ、兄を變じて主と成せば則ち兄弟の義殊なるを。而して數を執り奸を懷き、苟くも相崇悅し、夫れ長戟を推して順を犯すと、何を以て異ならんや。昔華元は敗れて則ち羊羹を以て禍を取る。夫の庾悅を觀るに亦た鵝炙を以て尤を速ぬ。幹餱以て愆る、斯れ相類へり。登之は禍に因りて福し、倚伏常無し。仲文は賄して災と爲り、乃ち財に徇ふの過ちなり。顧琛の吳郡は、徴兆初筮に於ける。覬之の清白の跡は、暮年に見ゆ。憲之の政に蒞む、在る所稱美せらる。時は三代に移り、一德虧くること無し。之を古人に求む、未だ易く遇ふと爲さず。其の遺命を觀る、始め有りて卒有る者と謂ふ可し。

原文論曰:古人云:「利令智昏」,甚矣利害之相傾也。劉湛識用才能,實包經國之略,豈知移弟爲臣,則君臣之道用,變兄成主,則兄弟之義殊。而執數懷奸,苟相崇悅,與夫推長戟而犯順,何以異哉。昔華元敗則以羊羹而取禍,觀夫庾悅亦鵝炙以速尤。幹餱以愆,斯相類矣。登之因禍而福,倚伏無常,仲文賄而爲災,乃徇財之過也。顧琛吳郡,徵兆于初筮,覬之清白之跡,見於暮年。憲之蒞政,所在稱美,時移三代,一德無虧,求之古人,未爲易遇。觀其遺命,可謂有始有卒者矣。