南史
巻三十四
列伝第二十四
顔延之
顔延之は字を延年といい、琅邪郡臨沂県の人である。曾祖父の含は、晋の右光禄大夫であった。祖父の約は、零陵太守であった。父の顒は、護軍司馬であった。
延之は幼くして孤貧であり、城壁の近くに住み、書を読むことを好み、あらゆる書物を読み、文章は当時に冠絶していた。酒を飲むことを好み、細かい行いには拘らなかった。三十歳になってもまだ婚姻していない。妹は東莞の劉穆之の子、憲之に嫁いだ。穆之はその美才を聞き、仕官させようとし、まず会おうとしたが、延之は行かなかった。
後に宋の武帝(劉裕)の 豫 章公世子中軍行参軍となった。武帝が北伐した時、宋公の位を授けられると、府は延之をしてその殊命を慶賀させた。洛陽に至り、周囲の旧宮室を見渡すと、すべてが禾黍となっており、悲しみを覚えて黍離の篇を詠んだ。道中で詩二首を作り、謝晦と傅亮に賞賛された。
武帝が天命を受けると、太子舎人に補せられた。雁門の周続之は廬山に隠棲し、儒学で著名であった。永初年間の中頃、都に召し出され、館を開いて住まわせた。武帝が自ら臨幸し、朝廷の俊英がことごとく集まった。延之は宮官として列は卑しかったが、上席に引き上げられた。上(武帝)は続之に三つの義を問わせ、続之はもともと弁舌を頼みとしていたが、延之は毎度簡潔な要約で続之を連続して挫いた。上はまた(延之に)自ら解釈を述べさせると、言葉は簡約で道理は暢達し、称善しない者はなかった。再び太子中舎人に遷った。時に 尚書令 の傅亮は自ら文義において当時誰も及ばないと思っていたが、延之はその才を恃み、彼の下に立とうとせず、亮は甚だこれを憎んだ。廬陵王の義真は彼を厚く遇したが、徐羨之らは延之が(義真と)同調しているのではないかと疑い、心中甚だ快く思わなかった。
少帝が即位すると、累遷して始安太守となった。領軍将軍の謝晦が延之に言うには、「昔、荀勗が阮咸を忌み、始平郡に斥けたが、今卿はまた始安となった。『二始』と言えよう」と。黄門郎の殷景仁もまた彼に言うには、「いわゆる人は俊異を憎み、世は文雅を疵とするというものだ」と。延之が任地へ赴く途上、汨潭を経由した時、湘州刺史の張邵のために屈原の文を祭り、その意を致した。
元嘉三年、羨之らが誅殺されると、中書侍郎に徴され、転じて太子中庶子、歩兵 校尉 を領し、賞遇は甚だ厚かった。延之は才学をもって遇せられたので、当時の人々は多く彼を推服したが、ただ袁淑だけは年齢が延之より倍ほど若く、推重しなかった。延之は憤り、大勢の前で彼を折伏して言うには、「昔、陳元方と孔元駿は同年で文学を論じたが、元駿は元方の床下に拝した。今、君はどうして拝礼しないのか」と。淑は返答できなかった。
延之は疎放で誕漫であり、当世に受け容れられることができず、劉湛と殷景仁が要職を専任するのを見て、心中不平があった。常に言うには、「天下の事は、どうして一人の知恵だけで全てを処理できようか」と。その言辞は激しく昂揚し、毎度権要を犯した。また、かつて若い頃に湛の父の柳の後軍主簿を務めたことがあり、この時になって湛に言うには、「わが名器が昇らないのは、卿の家の吏をしたからであろう」と。湛はこれを恨み、彭城王の義康に言上し、永嘉太守として出された。延之は甚だ怨憤し、そこで「五君詠」を作り、竹林の七賢を述べたが、山濤と王戎は貴顕であったために削った。嵇康を詠んで云う、「鸞の翮も時に鎩かれることがあり、龍の性質を誰が馴らせようか」と。阮籍を詠んで云う、「物故は論ずべからず、途窮すれば慟哭せざるを得ない」と。阮咸を詠んで云う、「たびたび推薦されても官に入らず、一たび麾せられて出守する」と。劉伶を詠んで云う、「精を韜みて日々沈飲する、誰か知らん、これ荒宴にあらざるを」と。この四句はおそらく自序である。湛と義康はその文意が不遜であるとして大怒し、遠郡に左遷しようとした。文帝は義康に詔して言うには、「思愆のため里閭に留め置くべきであり、それでもなお改めないならば、東土に追いやるがよい。ましてや難く恕しがたい者は、自ら事に随ってこれを処断すればよい」と。ここにおいて延之は世間に関与せずに隠居すること七年に及んだ。
中書令の王球は名公子として俗務を外にし、延之と互いに雅びに愛好し合い、しばしばその窮乏を救った。晋の恭思皇后が葬られる時、百官が必要とされたが、皆、義熙元年の除書(任命書)を取ることにした。延之を兼侍中とするにあたり、邑の吏が札を送ってきたが、延之は酔っており、札を地に投げて言うには、「顔延之は生きている者に仕えることもできないのに、どうして死者に仕えられようか」と。文帝がかつて延之を召したが、伝詔の者が頻りに会えず、常日頃はただ酒屋で裸になって袒げ、挽歌を歌い、全く応対せず、ある日酔いが醒めてからようやく会った。帝がかつて諸子の才能について問うと、延之は言うには、「竣は臣の筆(書簡文)を得、測は臣の文(文章)を得、啜は臣の義(道理)を得、躍は臣の酒を得る」と。何尚之が嘲って言うには、「誰が卿の狂を得るのか」と。答えて言うには、「その狂は及ぶべからず」と。尚之が侍中として直中にいた時、延之は酔って彼を訪ねた。尚之は彼を見ると、すぐに仮眠を装った。延之は簾を上げて熟視し言うには、「朽木は彫り難し」と。尚之は左右の者に言うには、「この人は酔っているが甚だ畏るべきである」と。閑居して事がなく、『庭誥』の文を作って子弟を訓戒した。
劉湛が誅殺された後、延之を起用して始興王劉浚の後軍諮議参軍、御史中丞とした。在任中は悠揚としており、何も挙奏しなかった。国子祭酒、 司徒 左長史に遷った。何尚之は平素から延之と親しくしていたが、王球に手紙を書いて言うには、「延之に後命(御史中丞の任命)があり、教府( 司徒 府)にはもはや光輝がない」と。人から田を買ってその代金を返さない罪に坐り、尚書左丞の荀赤松がこれを上奏して言うには、「田を求め舎を問うは、前賢の鄙むところである。延之はただ利を見るのみで、軽々しく上聞を冒し、詔の恩に依り頼み、残りの代金を払わず、一年近くに及んでも、なお完了しない。利に暗く苟も得ようとし、顧みる所がない。延之はかつて事に坐して屏斥されたが、再び抽き進められておきながら、かつて改悛せず、怨誹すること已むことがない。交遊する者は卑賤であり、酒に沈溺し、みだりに譏謗を興し、朝士を誹毀する。過分の栄誉を窃み仰ぎ、憤薄の性を増し、私に顧眄を恃み、強梁の心を成す。外には寡求を示し、内には奔競を懐き、禄を求め遷官を祈り、極まることを知らない。宴に預かり觴を班つる席で、上席に向かって肆に罵詈する。山海は容含するものであり、常に養うことを遵う。愛して兼ねて雕虫の技を惜しみ、未だ忍びて遐く棄てない。しかし驕放にして節度なく、日月が経つにつれてますます甚だしい。臣は聞く、名声が実情を過ぐることは、孟軻の恥じるところであると。ましてや名声は外から来るものではなく、問いは己から出るのである。心知は薄劣ながら、高く自ら比擬し、一時の気勢を虚しく張り、かつて愧畏することがない。どうして再び五教を弼亮し、台階の輝きを増すことができようか。延之が田を巡る訴訟で事実に合わず、妄りに天聴を煩わし、強きを以て弱きを陵ぐことを以て、その居る官を免ぜられることを請う」と。詔して可とした。後に秘書監、光禄勲、太常となった。時に沙門の釈慧琳は才学をもって文帝に賞賛され、朝廷の政事は多く彼と謀り、ついに士庶の帰仰するところとなった。上(文帝)が毎度引見する時、常に独榻(一人用の腰掛け)に昇らせたので、延之は甚だこれを憎んだ。酔った勢いで上に申し上げて言うには、「昔、同子(趙談)が参乗した時、袁絲(袁盎)は顔色を正した。この三台(三公)の座に、どうして刑余の者(宦官を指すが、ここでは僧侶を蔑んで)を居らせることができようか」と。上は顔色を変えた。
延之の性格は偏激であり、兼ねて酒の過ちがあり、意のままに直言し、かつて回らぬことも隠すこともなかったので、論者は多く彼を認めず、顔彪と呼んだ。身を処することは倹約で、財利を営まず、布衣に蔬食し、ひとり郊野で酌んだ。その適意たる時は、傍らに人無きが如かった。三十年(元嘉三十年)、致事(退官)した。
延之の長子は竣である。
元凶(劉劭)が帝を 弑 して立つと、彼(顔延之)を光禄大夫とした。長子の顔竣は孝武帝の南中郎諮議参軍であった。義師(孝武帝の軍)が討伐に入ると、顔竣は密謀を定め、兼ねて檄文を作成した。劉劭は顔延之を召して檄文を示し、問うて曰く、「この筆跡は誰が造ったものか」。延之曰く、「竣の筆跡でございます」。また問うて、「どうしてそれが分かるのか」。曰く、「竣の筆跡の体は、臣として識らぬわけにはまいりません」。劉劭また曰く、「言辞がどうしてここまで至ったのか」。延之曰く、「竣は老臣をも顧みないのですから、どうして陛下のために(顧みることが)できましょうか」。劉劭の疑念はようやく解け、これによって(延之は)難を免れた。
孝武帝が即位すると、彼を金紫光禄大夫とし、湘東王師を領させた。かつて何偃と共に上(孝武帝)に従って南郊に行ったとき、偃が道中で遠くから延之を呼んで「顔公!」と言った。延之はその軽率さを怪しみ、答えて曰く、「身は三公の公でもなく、また田舎の公でもなく、また君が家の阿公でもないのに、どうして公と呼ばれるのか」。偃は恥じて退いた。
顔竣はすでに貴重となり、権勢は一朝を傾けたが、すべての資給供応について、延之は一つも受け取らなかった。器物や衣服は改めず、邸宅も旧のままで、常に痩せた牛車に乗り、顔竣の鹵簿(儀仗隊)に逢えば、すぐに道端に控えて止まった。また馬に乗って里巷を遊歩するのを好み、知り合いの旧友に遇えば、すぐに鞍に寄りかかって酒を求め、得れば必ず傾け尽くし、欣然として自得した。かつて顔竣に語って曰く、「平生、要人に会うのは好きではないが、今不幸にも汝に会ってしまった」。顔竣が邸宅を建てるのを見て、謂って曰く、「うまくやれ、後人に汝の拙さを笑わせるな」。上表して師の職を解き、親信二十人を加給された。かつて早朝に顔竣を訪ねたとき、賓客が門に満ちているのに出会い、顔竣はまだ臥して起きなかった。延之は怒って曰く、「恭敬にして節制することは、福の基である。驕り高ぶって傲慢なことは、禍の始まりである。ましてや糞土の中から出て、雲霞の上に昇りながら、傲りを長くすることはできぬ、どうして長く続けられようか」。
延之には寵愛する妾がおり、その妾がいなければ食も飽きず、寝も安らかでなかった。妾は寵愛を恃み、かつて延之を揺すって床から落とし、怪我をさせたので、顔竣が彼女を殺した。延之の痛惜は極めて甚だしく、常に霊座に坐って泣きながら曰く、「貴人が汝を殺したのであって、私が殺したのではない」。冬の日に哭礼に臨んでいたとき、突然その妾が屏風を押し倒して延之を押しつけ、延之は恐れて地に墜ち、これによって病んだ。孝建三年に卒去した。七十三歳。特進を追贈され、諡して憲子といった。
延之は陳郡の謝霊運とともに文采をもって斉名したが、遅速は絶大な差があった。文帝はかつて各々に楽府の「北上篇」を擬作するよう命じたが、延之は詔を受けるとすぐに完成し、霊運は長い時を経てようやく成した。延之はかつて鮑照に己と霊運の優劣を問うた。照曰く、「謝の五言詩は初めて発する芙蓉の如く、自然で可愛らしい。君の詩は錦を敷き繍を列ねるが如く、これまた彫琢と彩りが満眼である」。延之は常に湯恵休の詩を軽んじ、人に謂って曰く、「恵休の制作は、陋巷の歌謡に過ぎず、まさに後生を誤らせるであろう」。この時、議論する者は延之と霊運を、潘岳と陸機の後、文士で及ぶ者なしとし、江右では潘・陸と称し、江左では顔・謝と称したのである。顔竣は字を士遜といい、延之の長子である。早くから文義に通じ、宋の孝武帝の撫軍主簿となり、大いに嘉遇され、顔竣もまた心を尽くして補佐した。元嘉年間、上(文帝)は諸王が各々朋党を立てることを望まず、顔竣を召して尚書郎に補そうとした。江湛は府(孝武帝の府)において称賛があるとして、改めるべきではないとし、そこで止んだ。府に随って安北、鎮軍、北中郎府主簿に転じた。
初め、沙門の釈僧含は学義に精通しており、顔竣に謂って曰く、「貧道は常に讖記を見ますが、真人が符に応じる時が来るでしょう。その名称と順序は、殿下に属しております」。後に顔竣が彭城におり、親しい人にこの話をしたところ、言葉は遂に宣べ伝えられ、文帝の耳に入った。当時、元凶(劉劭)の巫蠱の事はすでに発覚していたため、上(文帝)は推問しなかった。
孝武帝が尋陽に鎮すると、南中郎記室に遷った。三十年の春、父の延之が致仕したため、固く職の解任を求め、賜暇されたがまだ発たないうちに、文帝の崩御の報が届き、孝武帝は兵を挙げて入討し、顔竣は諮議参軍に転じ、録事を領し、内外の任を総べ、併せて檄書を作成した。孝武帝が尋陽を発つとき、すでに病を患い、沈慶之以下はみな面会に堪えられなかったが、ただ顔竣のみが臥内に出入りし、軍機を断決した。当時、孝武帝はたびたび危篤に陥り、諮問に堪えられなかったので、すべての諸務は顔竣が専断して施行した。
孝武帝が即位すると、侍中、左衛将軍を歴任し、建城県侯に封ぜられた。孝建元年、吏部尚書に転じ、 驍 騎将軍を領し、選挙に心を留め、自ら励んで止まなかった。任用と待遇がすでに隆盛となり、奏上することはことごとく認められた。後に謝莊が顔竣に代わって選挙を領したが、その意向は多く行われなかった。顔竣の容貌は厳しく毅然としていた。謝莊の風姿は甚だ美しく、賓客が喧しく訴えても、常に歓笑して答えた。人は言う、顔竣は瞋って人に官を与え、謝莊は笑って人に官を与えぬ、と。
南郡王劉義宣、臧質らが反乱を起こすと、顔竣に右将軍を兼領させた。義宣、質らの諸子が建康、秣陵、湖熟、江寧県の境界に隠匿したため、孝武帝は大いに怒り、丹陽尹の褚湛之を免官し、四県の官長を収監し、顔竣を丹陽尹とし、 散騎常侍 を加えた。
これより先、顔竣にはまだ子がなかったが、大司馬江夏王劉義恭の諸子が元凶(劉劭)に殺され、この時になって各々男子を産んだ。上(孝武帝)自らが名を制し、義恭の子を伯禽と名付け、魯公伯禽(周公旦の子)に比し、顔竣の子を辟強と名付け、漢の侍中辟強(張良の子)に比したのである。
先に、元嘉年間に四銖銭を鋳造したが、輪郭と形制は五銖銭と同じであり、費用が損じて利益がなく、故に百姓は盗鋳しなかった。
孝武帝が即位すると、また孝建四銖を鋳造したが、鋳造された銭は形式が薄く小さく、輪郭が整わず、ここにおいて民間の盗鋳する者は鉛錫を混ぜ、いずれも堅固でなかった。
また古銭を剪鑿してその銅を取り、銭はますます薄く小さくなり、少しずつ官定の様式に違うようになった。
重い制限と厳しい刑罰を設けても、人吏や官長が連座して死罪や免職となる者が相次いだが、盗鋳はますます甚だしく、百物の価格が高騰し、人々はこれを患い苦しんだ。
そこで品格を立て、薄く小さく輪郭のないものは全て禁断することにした。
始興公の沈慶之が議して言うには、「人々に銭の鋳造を許すべきである。役所を設置し、鋳造を喜ぶ家は皆その役所内に居住させる。春に禁止した新品を一時的に施用し、今後の鋳造は全てこの規格に従わせる。一万銭につき三千銭を税とし、盗鋳を厳しく検査し、併せて剪鑿を禁止する。数年以内に、公私ともに豊かになり、銅が尽きれば事は収まり、奸偽は自然に止む。鋳造を禁じれば銅は器物に転じ、鋳造を開けば器物は財貨となる。」
上下がこの事を公卿に諮問し、顔竣が議して言うには、「今、役所を開いて鋳造を許すというのは、確かに皆が望むところであるが、ただ山から銅を採る事業が絶え、器物が日々消耗することを憂慮する。銅が少なくなれば、器物もますます高価になる。仮に器物の価値が一千銭とすれば、それを鋳造して銭にしても半分に減り、利益がないので、命令しても行われない。」
当時、議する者たちはまた銅が得難いことを理由に、二銖銭を鋳造しようとした。
竣がまた議して言うには、「今、二銖銭を鋳造し、新しく細かい銭を恣に行わせれば、官にとって不足を解消することはなく、人の奸巧が大いに興り、天下の貨物は糜爛して尽きてしまう。厳禁と言うだけで、利益が深くて絶ち難く、一二年を過ぎず、その弊害は救いようがなくなる。これが甚だしく不可な第一の点である。奸人の意を逞しくさせ、後世に禍を遺すこと、これがまた甚だしく不可な第二の点である。富商が志を得て、貧しい人が困窮に陥ること、これがまた甚だしく不可な第三の点である。もし利益が深重であっても尚行うべきでないのに、況や利益が見えず、多くの弊害がこのようであるならば、当時に失策を取って、百代に笑われることになるのではないか。」
前廃帝が即位すると、二銖銭を鋳造したが、形式はますます細かくなり、官銭が出るごとに、民間ではすぐに模倣したが、大小厚薄は全て及ばなかった。
輪郭がなく、磨鑢せず、今の剪鑿したようなものを、耒子銭と呼んだ。
景和元年、沈慶之が私鋳を通すよう上奏し、これにより銭貨は乱れて劣悪となり、一千銭でも長さ三寸に満たず、大小これに準じ、鵝眼銭と呼んだ。これより劣るものを綖環銭と呼んだ。
孝武帝が即位すると、師伯は黄門侍郎に任ぜられ、累進して侍中となった。大明元年、平都県子に封ぜられた。寵愛は厚く親密で、群臣の中で彼に並ぶ者はなかった。多くの賄賂を受け取り、家財は千金を累ねた。孝武帝がかつて師伯と摴蒱をした時、帝が雉を出して大いに喜び、必ず勝つと言った。師伯は後に盧を出したので、帝は顔色を失った。師伯は急いで賽子を集めて言った、「ほとんど盧になりそうでした」。その日、師伯は百万を負けた。やがて吏部尚書・右軍将軍に遷った。上は威権が臣下にあることを望まず、前後で選挙を担当した者はただ文書に従って行うだけであったが、師伯は専ら思いのままに独断し、上奏して認められないことはなかった。
七年、尚書右僕射となった。当時、選挙を二つに分けて置き、陳郡の謝莊と琅邪の王曇生がともに吏部尚書となった。師伯の子が周旋して寒門の張奇を公車令に推挙したが、上は張奇の資品が相当でないとして、兼市買丞とし、蔡道恵を代わりに任じた。令史の潘道棲・褚道恵・顔禕之・元従夫・任澹之・石道児・黄難・周公選らは道恵の詔勅を抑え、張奇を先に公車に到着させ、張奇の兼市買丞の事を施行しなかった。師伯は子が職に関与した罪に坐し、謝莊・王曇生は官を免ぜられ、道棲・道恵は棄市に処せられ、禕之ら六人は鞭杖一百を受けた。師伯はまもなく太子中庶子を領した。罷免され挫折したが、任を受けることは以前のようであった。
孝武帝が臨終に際し、師伯は遺詔を受けて幼主を補佐し、尚書中の事は専ら彼に委ねた。廃帝が即位すると、再び本来の職に戻り、衛尉を加領した。
師伯は権力の座に長く居たので、天下の人が車の輻が轂に集まるように彼のもとに集まり、その門を遊ぶ者は爵位が分を超えない者はなかった。多くの賄賂を受け取り、家産は豊かに蓄積し、妓妾の声楽は天下の選りすぐりを尽くし、園池と邸宅は当時に冠絶し、驕奢で淫らにほしいままにして、衣冠の士に憎まれた。また尚書僕射に遷り、丹陽尹を領した。廃帝が朝政に親しもうとし、師伯を左僕射に転じた。吏部尚書の王景文を右僕射とした。その京尹を奪い、また台の任を分けた。師伯はここに至って初めて恐れ、柳元景と謀って廃立を図った。
初め、師伯が朝事を専断し、沈慶之と参画せず、令史に言った、「沈公は爪牙に過ぎない。どうして政事に関与できようか」。慶之はこれを聞いて歯ぎしりし、その謀を漏らした。まもなく太宰の江夏王義恭とともに誅殺され、六人の子は皆殺された。明帝が即位し、諡して荒といった。
沈懷文
沈懷文は字を思明といい、呉興郡武康県の人である。祖父の寂は、晋の光禄勲であった。父の宣は、新安太守であった。
懷文は若い時から玄理を好み、文章をよくし、楚昭王二妃の詩を作り、世に称賛された。江夏王義恭の東閣祭酒となった。父の喪に服し、新安郡から送られた故吏の贈り物は豊かであったが、葬送の礼を終えると、残りはすべて親戚に分け与え、少しも留めなかった。文帝はこれを聞いて賞賛し、奴婢六人を賜った。喪が明けると、尚書殿中郎に任ぜられた。隠士の雷次宗が召し出されて鍾山に住み、後に南に帰って廬江に至った。何尚之が餞別の宴を設けると、文義の士が皆集まった。連句詩を作り、懷文の作ったものが特に優れ、文辞は一座の上にあった。随王誕が襄陽に鎮すると、後軍主簿として出向し、諮議参軍の謝荘とともに辞令を掌り、義成太守を領した。
元嘉二十八年、誕が広州刺史となるべき時、懷文を安南府記室にしようとし、先に通直郎に任じた。懷文は固く南行を辞退したので、上は喜ばなかった。弟の懷遠が東陽公主の養女王鸚鵡を妾にしたが、元凶が巫蠱を行い、鸚鵡がこれに関与し、事が漏れた。懷文はこのため官を失調し、治書侍御史となった。
元凶が帝を 弑 して立つと、中書侍郎とした。孝武帝が討伐に入ると、呼んで符檄を作らせようとしたが、固く辞退した。劉劭は大いに怒ったが、殷沖が救って免れることができた。病気と偽って落馬し、間道を行って新亭に奔り、竟陵王誕の驃騎録事参軍・淮陵太守とされた。当時、国の喪が明けておらず、誕が内斎を起こそうとした。懷文は良くないと考え、やめさせた。まもなく揚州中従事史に転じた。当時、録尚書を省くことが議論されたが、懷文は適切でないと考え、上奏して議論したが聞き入れられなかった。別駕従事史に遷った。
江夏王義恭が西陽王子尚を揚州刺史に遷すと、職は以前のままとした。当時、熒惑が南斗を守ると、上は西州の旧館を廃し、子尚を東城に移住させてこれを鎮めようとした。懷文は言った、「天道が変化を示すなら、徳をもって応ずべきです。今たとえ西州を空にしても、恐らく益はないでしょう」。聞き入れられず、西州はついに廃された。
大明二年、尚書吏部郎に遷った。当時、朝廷で古制に依って王畿を置き、揚州を会稽に移そうと議論した。これも星変のためであった。懷文は言った、「周の制では王畿を封じ、漢では司隷を置き、それぞれ時の宜しきに因ったのであって、反対を存するためではありません。人を安んじ国を定めることは、その道理は同じです。もし人心が安んずるなら、天もこれに従います。必ずしも今を改めて古に追うことで、平一を致すわけではありません。神州の旧壤は、歴代相承し、辺州とは異なり、置いたり罷めたりします。すでに物情が悦ばず、化の本を損なう恐れがあります」。また聞き入れられなかった。
三年、子尚が会稽に移鎮した。撫軍長史に遷り、府州の事を行った。当時、囚人が多く、動かすのに年月を経ていた。懷文が任に着くと、五郡九百三十六の獄を訊問し、皆が公平であると称えた。入朝して侍中となり、寵愛と待遇は厚く親密であった。竟陵王誕が広陵に拠って反乱を起こし、城が陥落すると、士庶は皆裸身で顔を鞭打たれてから刑に加えられ、殺した人の首を石頭の南岸に集め、これを髑髏山といった。懷文はこれが良くないと陳べたが、上は受け入れなかった。
孝武帝がかつて円丘で祭祀を行おうとした時、期日に至らないうちに雨が降り、夜通し暗かった。明くる朝、風が晴れ、雲の色が甚だ美しかったので、帝は壇に登って喜んだ。懷文が慶賀して言った、「昔、漢の皇帝が郊祀で太一を祀った時、白日に重輪が現れ、神光が四方を照らしました。今、陛下がこの礼を行おうとされ、膏雨が夜を迎え、清らかな景色が朝に麗しい。これは実に聖明が幽玄に感ずる所によるものです。臣は侍臣とともにこれを賦したいと願います」。上は笑って善しと称えた。
揚州が会稽に移ると、上は浙江東の人情が和合しないことを憤り、その労禄を貶めようとし、ただ西州の旧人だけは改めなかった。懷文は言った、「揚州が居を移すことは、すでに人情に背き、一州に二つの格があることは、特に大体を失います」。上は聞き入れなかった。
沈懐文は顔竣・周朗と元来親しく、竣は上意に背いて誅殺され、朗もまた上意に逆らって罪を得た。帝は懐文に謂う、「竣が朕が彼を殺すと知っていたなら、かくまで敢えてしなかったであろうに」と。懐文は黙然としていた。またかつて歳末に謝莊・王景文・顔師伯と共に勅命を受けて尚書省に入ったが、まだ進み出ぬうちに、景文が談話の間に竣と朗の人才の優れていることを称え、懐文もそれに応和した。師伯は後に語らいの席で帝に奏上し、景文らのこの言葉を述べた。懐文はたびたび上意に触れることがあり、このことで帝はますます悦ばなかった。
帝はまた諸郡の士族を徴発して将吏に充てたが、彼らは兵役に服さず、ついには悉く逃亡するに至った。厳しい制令を加えても禁じ得ず、そこで軍法に改め、逃亡すればその場で斬ることにした。山野や湖沢に奔り竄り、盗賊となって屯集する者が後を絶たなかった。懐文はまたこれについて意見を述べた。
斉庫(宮中の倉庫)に上納する絹の年調は巨万匹に及び、綿もまたこれに匹敵し、期限は厳しく峻烈であった。民間では絹一匹が二三千銭、綿一両が三四百銭にまでなり、貧しい者は妻子を売り、甚だしい者は自ら縊死する者もあった。懐文は民の困窮を詳細に陳述し、これによって綿と絹の徴収はわずかに減額されたが、まもなく元に戻った。
子尚ら諸皇子は皆邸舎を設け、什一の利を逐い、その禍患は天下に遍く及んだ。懐文はまた言う、「市店を並べて販売することは、古人の非とするところである。卜式は雨の降らぬ由縁を明らかにし、桑弘羊は旱魃を招いた責めを受けた。もし費用が足りぬというのであれば、まさに量を加え減らし倹約すべきである」と。聞き入れられなかった。
孝建年間以来、諸弟を抑圧し疎外し、広陵王の乱平定後、さらにその科条を峻しくしようとした。懐文は言う、「漢の明帝はその子を光武帝の子と同等に扱わず、前史はこれを美談とする。陛下は既に管叔・蔡叔の誅罰を明らかにされたのであるから、願わくは唐叔・ 衞 康叔のような厚い寄託を尊びたてられますように」と。海陵王休茂が誅殺された後、前の議を遂行しようとした。太宰江夏王義恭が密旨を探り得て、先んじて議題を発したが、懐文は固く不可を請い、これによって事は止んだ。
時に帝の遊幸は度を過ぎ、太后や六宮(后妃)が常に副車に乗って後を従えた。懐文と王景文はたびたび、頻繁に出御すべきでないと諫めた。後に松樹の下に従坐していた時、風雨が甚だ急驟であった。景文が言う、「卿、言うべき時である」と。懐文は言う、「一人で言っても継ぐ者がない。共に陳べるべきである」と。江智深が草むらに臥していたが、これも善いと言った。まもなく召されて共に雉場に入ると、懐文は言う、「風雨この如きは、聖躬の宜しくするところにあらず」と。景文もまた言う、「懐文の啓すところ従うべし」と。智深がまだ言い出す暇もないうちに、帝は弩に矢をつがえ、色をなして言う、「卿は顔竣の真似をしたいのか。どうしていつも人事を知っているのだ」と。また言う、「顔竣の小僧、面を鞭打つことができぬのが恨めしい」と。
帝は宴席を開くたびに、在座の者を皆酔いつぶれるまで飲ませた。懐文は元来酒を飲まず、また遊戯を好まなかったので、帝はわざと自分と異なろうとしていると思った。謝莊はかつて懐文に戒めて言う、「卿はいつも人と異なるが、それではどうして長くやっていけようか」と。懐文は言う、「私は幼少の頃からこのようである。一朝にして変えられようか。異なった物事を欲しているのではなく、天性がそうできないのである」と。
大明五年、出向して 晉 安王子勳の征虜長史・広陵太守となった。明帝が朝正の儀を終えて座に就くと、遣わされて北に還ることを命じられたが、娘の病気を理由に延期を求め、辞去の際にもまた三日の停留を乞い、期限が尽きてもまだ去らなかったため、有司に糾弾され、官を免じられ、十年間出仕を禁じられた。免官された後、邸宅を売って東の故郷に還ろうとした。帝は大いに怒り、廷尉に収監して死を賜った。
弟の懐遠は始興王劉濬の征北長流参軍となり、深く親しみ遇せられた。王鸚鵡を妾に納めた罪で、孝武帝は彼を広州に流した。刺史の宗愨が彼を殺そうとしたが、ちょうど南郡王義宣が反乱を起こした。懐遠は文筆にかなり通じていたので、愨が義兵を起こすと、檄文を作らせ、また命を受けて始興に至り、始興相の沈法系と起義の事を論じた。乱が平定されると、愨が詳しく陳情して請うたため、これによって罪を赦された。孝武帝の世が終わるまで還ることを得なかった。前廃帝の世に帰還し、武康県令の位に至り、『南越志』を撰し、また懐文の文集と共に世に伝わった。懐文に三人の子あり、淡・深・沖である。
懐文の子、沖。
斉の武帝が江州刺史であった時、沖は征虜長史・尋陽太守となった。斉の建元年間、累遷して太子中庶子となった。武帝が東宮にいた時、旧恩をもって遇せられた。即位すると、御史中丞・侍中に転じた。永明四年、五兵尚書となった。沖は兄の淡・深と名声に優劣があり、世に「腰鼓兄弟」と号された。淡と深は共に御史中丞を歴任した。兄弟三人皆が司直(御史中丞の職掌)となったのは、晋・宋以来未曾有のことである。
中丞は案じて裁断する職務であり、悪とされる者は多く怨みを結んだ。永明年間、深は呉興太守袁彖を弾劾した。建武年間、彖の従弟の袁昂が中丞となり、着任して数日後、深の子の繢が父の存命中に白い幌の車を借りて乗ったことを奏上して弾劾し、免官・禁錮に処した。沖の母の孔氏が東方にいた時、隣家が失火し、人が放火したのではないかと疑われ、大呼して言う、「我が三児は皆御史中丞となっている。人とどうして善くあろうか。今まさに肌は分かれ骨は散らんと恐れるところ、どうしてただ焼かれるのみならんや」と。兄弟は後に共に侍中を歴任し、武帝がまさに沖を任用しようとした時、まもなく卒去した。太常を追贈され、諡して恭子といった。
懐文の従父兄、曇慶。
曇慶は、懐文の従父兄である。父の沈発は員外散騎侍郎であった。曇慶は宋に仕えて尚書左丞の位に至った。時に水害と旱害のある年があり、曇慶は常平倉を立てて民の急を救うことを議し、文帝はその言を容れたが、事は行われなかった。
大明元年、徐州刺史となった。時に殿中員外将軍の裴景仁が彭城の戍守を助けており、景仁は元来北方の出身で、関中の事情に詳しかった。曇慶は彼に『秦記』十巻を撰ばせ、苻氏(前秦)の事を叙述させた。その書は世に伝わった。
曇慶は謹み深く実直で清廉公正であり、任官した地では称賛される治績を挙げた。常々子弟に言うには、「私は世に処する才能がなく、ただ大老子(大した老人)たることを図るのみである」と。世間は長者として彼を称えた。祠部尚書の任で没した。
周朗
周朗、字は義利、汝南安成の人である。父の淳は、宋の初年に侍中、太常の官を歴任した。兄の嶠は武帝の第四皇女である宣城徳公主を娶った。二人の娘は建平王劉宏と廬江王劉褘に嫁いだ。貴戚として顕官となった。朗は若くして奇を愛し、風雅で気概があり、嶠とは志や趣向が異なり、嶠は大いにこれを憎んだ。江夏王劉義恭の太尉参軍となった。
元嘉二十七年の春、朝廷で北魏への侵攻が議論され、江夏王義恭を彭城に出鎮させ、諸軍の総指揮官とすることとなった。朗はこれを聞いて官職を辞した。義恭が出鎮するに及んで、府の主簿羊希が従軍し、朗に手紙を送ってからかい、奇策を献上するよう勧めた。朗は返書で古義を援用し、文辞と内容は洒落ていた。
孝武帝が即位すると、建平王劉宏の中軍録事参軍に任じられた。当時、百官に率直な意見を求める詔が広く出され、朗は上書して得失を述べたが、多くは自らを誇るものであった。上書した内容が帝の意に逆らい、自ら官を辞して去った。
後に廬陵内史となった。郡の境界は荒れ果て、多くの野獣がいた。母の薛氏が狩猟を見たいと言ったので、朗は包囲して火を放ち、母に見せた。火が延焼して郡の官舎を焼いた。朗は俸禄の米をすべて用いて家屋を建て、焼失した分を弁償した。病気を理由に官を辞したが、州の役人に糾弾され、都に戻って孝武帝に謝罪して言うには、「州の役人が臣の過失を挙げるのは多くが不当です。臣が郡にいる間、猛獣が三度人を食い、虫や鼠が作物を害しました。この二つの事で陛下に申し訳なく思っています」と。帝は顔色を変えて言った、「州の役人の不当は、あるいはあり得よう。虫獣の災いは、どうして卿の小さな責任に関わろうか(いや、関わらない)。」
朗はまもなく母の喪に服したが、泣くたびに必ず慟哭し、その他の点では喪に服する通常の礼節によく従わなかった。大明四年、帝は役人に命じて、朗が喪に服する礼を守らなかったことを上奏させた。詔して言うには、「朗は礼に背き口が達者である。まさに斬刑に処すべきであるが、些細な者をもって刑典を乱すに足らず、特に辺境の郡に送致せよ」と。そこで寧州に護送され、途中で殺害された。
朗の族孫 顒
朗の族孫の顒。顒、字は彦倫、晋の左光禄大夫である周顗の七世の孫である。祖父の虎頭は員外常侍。父の恂は帰鄕相。
顒は若くして族祖父の朗に認められ、初官として海陵国の侍郎となった。益州刺史の蕭恵開は顒を賞賛し、蜀に連れて行き、厲鋒将軍とし、肥郷・成都の二県令を兼ね、引き続き府の主簿とした。常々恵開の性格があまりに険悪であると言い、たびたび諫めたので、恵開は喜ばず、顒に答えて言った、「天険・地険、王侯が険を設ける、ただその険をどう用いるかを問うのみである」と。恵開に従って都に戻った。
宋の明帝は玄理を大いに好み、顒に文辞と道理があるとして、殿内に引き入れ、側近として宿直させた。帝が行う残酷なことについて、顒は公然と諫めることはできず、経典中の因縁や罪福の話を誦するだけであったが、帝もそれで少しは止めた。元徽年間、詔により剡県令となり、恩恵を施したので、百姓は彼を慕った。斉の高帝が政務を補佐すると、斉の殿中郎となった。建元初年、長沙王の後軍参軍、山陰令となった。都に戻って文恵太子の中軍録事参軍となった。文恵太子が東宮にいる時、顒は正員郎、始興王の前軍諮議に転じ、殿省に直侍し、深く賞遇を受けた。
顒は言葉が明晰で美しく、仏理に長け、『三宗論』を著して空と仮の義を論じた。西涼州の智林道人が顒に手紙を送り深く賞賛して言うには、「麈尾を取ってから四十余年、多くの宗録を見たが、この道(空仮の義)について白黒(是非)を論じ得た者は一人もいなかった。そのため病み、思いがけずこの教えが耳に入ってきた」と。その論がこのように重んじられた。顒は鍾山の西に隠居所を建て、休暇のたびにそこに帰った。
太子僕に転じ、著作を兼ね、起居注を撰した。中書郎に遷り、引き続き著作を兼ねた。常に東宮に侍して遊んだ。若い頃、母方の外戚である車騎将軍臧質の家で衛恒の散隷書法を得て、学び非常に巧みであった。文恵太子は顒に玄圃の茅斎の壁に書かせた。国子祭酒の何胤が倒薤書で顒と交換を求めた。顒は笑って答えて言った、「天下に道あれば、丘(孔子)も易えようとはしない」と。
賓客や友人が集まるたびに、顒は席を空けて語り合い、言葉の調べが流れるように出て、聞く者は倦みを忘れた。兼ねて老子・易に通じ、張融と出会うと、いつも玄言(深遠な議論)で滞り、一日中解けなかった。清貧で寡欲であり、終日野菜を食べ、妻子はいたが、山舎に独り住まいした。非常に機知に富み弁が立った。衛将軍の王儉が顒に言った、「卿は山中で何を食べているのか」と。顒は言った、「赤米と白塩、緑の葵と紫の蓼です」と。文恵太子が顒に菜食でどの味が最も優れているかと尋ねると、顒は言った、「春の初めの早韭と、秋の末の晩菘です」と。何胤もまた仏法を深く信じ、妻を持たなかった。太子がまた顒に尋ねた、「卿の精進は何胤と比べてどうか」と。顒は言った、「三途八難は、共に免れられません。しかし、それぞれに煩いがあります」と。太子が言った、「その煩いとは何か」と。答えて言った、「周(顒)には妻が、何(胤)には肉が」と。その言葉の応変はこのようなものであった。
国子博士に転じ、引き続き著作を兼ねた。太学の諸生はその風采を慕い、華やかな弁論を競った。初めて『四声切韻』を著し、当時に流行した。後に官の任で没した。子に舍がいる。
顒の子に舍あり。
舍は字を升逸といい、幼くして聡明で、顒はこれを異とした。臨終に謂いて曰く、「汝は富貴ならざるを患うることなかれ、但だこれに将するに道徳を以てすべし」と。長じて博学となり、特に義理に精しく、詩書を誦するに善く、音韻清らかに弁ず。弱冠にして秀才となり、太学博士に除せられる。従兄の綿が剡県令となり、贓汙少なからず、資財を籍没せられると、舍は乃ち宅を推してこれを助く。
建武年中、魏人呉苞が南帰し、儒学あり。尚書僕射江祏が苞を招いて講ぜしめると、舍は坐に造りて苞を折し、辞理遒逸にして、ここにより名を口弁と為す。王亮が丹陽尹となり、これを聞きて悦び、主簿に辟し、政事多くこれを委ぬ。太常丞に遷る。
梁の武帝即位し、吏部尚書范雲は顒と素より善くし、舍の才器を重んじ、武帝にこれを言い、召して尚書祠部郎に拝す。礼儀の損益は、多く舍より出づ。先に、帝は諸王及び呉平侯に与うる書に皆「弟」と云えり、舍は議を立て、武王・周公の故事を引き、皆「汝」と曰うべしとし、これに従う。
累遷して鴻臚卿となる。時に王亮は罪を得て家に帰り、故人至る者なく、舍独り恩旧を敦くす。亮の卒するに及び、身を以て殯葬を営み、時に人これを称す。尚書吏部郎、太子右 衞 率、右 衞 将軍に遷る。職に居ること屡び徙るも、常に省内に留まり、休下を得ること罕なり。国史詔誥、儀体法律、軍旅謀謨、皆兼ねてこれを掌る。日夜上に侍し、機密に預かること二十余年、未だ左右を離れず。帝は公輔の器有りと為す。
初め、范雲卒す、僉に沈約の枢管に允当たるを以てす。帝は約の輕易なるは徐勉に如かずと為し、ここに於いて勉・舍同じく国政に参ず。勉は小嫌に中りて廃せられ、舍は専ら権轄を掌る。雅量は勉に及ばざれども清簡はこれを過ぎ、両人倶に賢相と称せらる。
時に国史を議し、文帝紀伝の名を疑う。舍は以て「帝紀は百事を籠むること、幹象の六爻を包むが如し。今若し追いて紀と為さば、則ち事包むる所無く、若し直ちに功德を書かば、則ち伝にして紀に非ず。応に上紀の前に於いて、略かに仰述有るべし」とす。これに従う。
舍は占対弁捷にして、嘗て直廬に居るに、語嗜好に及び、裴子野は言う、従来姜を嘗むることなしと。舍は声に応じて曰く、「孔は'徹せず'と称し、裴は乃ち嘗めず」と。一座皆悦ぶ。人と論謔するも、終日絶えず、而して竟に機事の漏泄を言わず、衆特にこれを服す。性倹素にして、衣服器用、居処床席、布衣の貧者の如し。毎に官府に入るも、広廈華堂と雖も、閨閣重邃たりとも、舍の居る則ち塵埃満積す。荻を以て障いと為し、壊るるも修めず。侍中・太子詹事を歴任す。普通五年、南津 校尉 郭祖深が始興相白渦の書を獲、舍に衣履及び婢を餉り、以て聞こえしむ。坐して免官せらる。右 驍 騎将軍を以て詹事を知る。卒す。上臨哭して哀しみ左右を動かし、侍中・護軍将軍を追贈し、諡して簡子と曰う。
初め、帝は中原に鋭意し、群臣皆不可と言う。唯だ舍のみこれを賛成す。普通年中、累ねて捷を献ず。帝その功を思い、詔を下してその徳美を述ぶ。以て「往者南司白渦の劾有り、外議朕に私有りと謂うを恐れ、この黜免を致す。この人一介の善を追愧し、外は量りて褒異を加え、以て善人を旌ぐべし」と為す。舍の集二十巻。二子弘義・弘信、弟子弘正。
舍の従子に弘正あり。
弘正は字を思行という。父は宝始、梁の 司徒 祭酒。弘正は幼くして孤となり、弟の弘讓・弘直と倶に伯父舍に養わる。年十歳、老子・周易に通ず。舍は毎に談論するに、輒ちこれを異とし、曰く、「汝の清理警発を観るに、後世知名、当に吾が右に出づべし」と。河東の裴子野は深く相賞納し、請うて女を以てこれに妻せんとす。十五歳、召されて国子生に補せられ、仍て国学に於いて易を講じ、諸生その義を伝習す。季春に入学し、孟冬に応挙せんとす。学司は日浅きを以て許さず。博士到洽曰く、「周郎弱冠にして経を講ず、豈に策試を俟たんや」と。
普通年中、初めて司文義郎を置き、寿光省に直し、弘正を以て司義侍郎と為す。弘正は醜にして陋ならず、吃にして能く談じ、俳諧は優に似、剛腸は直に似、玄理に善く、当世の宗と為る。蔵法師が開善寺に於いて講説し、門徒数百、弘正は年少にして未だ名を知られず、紅褌を著け、錦絞髻を結い、門に踞りて聴く。眾人これを蔑むも、譴れず。既にして間を乗じて進みて難じ、挙坐尽く傾く。法師は世人に非ざるを疑い、覘い知りて、大いに相賞狎す。劉顕が尋陽に之かんとし、朝賢畢く祖道す。顕は帛十匹を県け、約して曰く、「険衣来る者を以てこれを賞す」と。眾人競いに常服を改むるも、長短の間に過ぎず。顕曰く、「将にこれに甚だしき者有らん」と。既にして弘正は緑絲布の褲、繡假種を着け、軒昂として至り、標を折りて帛を取る。中大通三年、昭明太子薨じ、その嗣華容公立つことを得ず。乃ち晋安王綱を以て皇太子と為す。弘正は奏記し、請うて「目夷の上仁の義に抗し、子臧の大賢の節を執らん」と。その抗直守正この如し。
常に自ら才有りて相無しと称す。僕射徐勉は選を掌り、その陋なるを以て尚書郎に堪えずと為し、乃ち勉に献書し、その言甚だ切なり。稍く遷って国子博士となる。学中に宋の元凶の孝経を講ずる碑有り、歴代改めず。弘正始めて官に到り、即ち表して刊除を請う。時に城西に士林館を立て、弘正は居りて以て講授し、聴く者朝野を傾く。弘正は周易疑義凡そ五十条を啓し、又乾坤二系を釈せんことを請う。復た詔を以てこれに答う。
後に平西邵陵王府諮議参軍となり、罪有りて流徙に応ず。勅を以て幹陀利国に賜う。未だ去らず、尚方に寄系せらる。獄に於いて武帝の講武詩を上す。勅を降して罪を原し、仍て本位に復す。
弘正は博物にして、玄象を知り、占候に善し。大同末、嘗て弟弘讓に謂いて曰く、「国家は数年に阨せられ、当に兵起こるべし。吾と汝は何の所にかこれに逃るるを知らん」と。武帝が侯景を納るるに及び、弘正は弘讓に謂いて曰く、「乱の階これなり」と。台城陥ち、弘正は王偉に諂附し、又周石珍と合族し、景の諱を避け、姓を改めて姬氏と為し、太常に拝す。景の将に篡せんとする際、礼儀を掌らしむ。
王僧辯が東征するに及んで、元帝は僧辯に言った、「王師が近くに駐屯するにあたり、朝士のうち誰が先に来るであろうか」。王僧辯は言った、「それは周弘正でしょう。弘正は智謀は機会に遅れず、体躯は勝負に耐え、妻子の顧慮がなく、独断の明がある。その他は碌碌として及ばない」。ほどなく前部から伝えられて弘正が到着したというので、僧辯は飛騎を以て迎えた。会見すると、大いに喜び、言った、「私はもとより王僧達が機会に遅れぬ者であると知っていた。公は私の膝の上に座ってもよい」。弘正は答えて言った、「進んで膝の上に載せられんとするが如しと謂うべきで、老いぼれ何をもってか当たらん」。僧辯は即日に元帝に啓上し、元帝は手書を弘正に与え、使者を遣わして迎えさせ、朝士に言った、「晋氏が呉を平らげたときは、二陸を得て喜んだ。今、私が賊を討つに、また両周を得た」。到着すると、礼遇は甚だ厚く、朝臣に比ぶるものなし。黄門侍郎を授け、侍中省に直す。ほどなく左戸尚書に遷り、 散騎常侍 を加えられる。夏の月に犢鼻褌を着け、朱衣を衣て、有司に弾劾された。その放達はこのようであった。
元帝はかつて『金樓子』を著し、言った、「私は諸僧の中では招提の琰法師を重んじ、隠士では華陽の陶貞白を重んじ、士大夫では汝南の周弘正を重んず。その義理についての清く転ずること窮まりなく、また一時の名士である」。
弘正は清談を善くし、梁末において玄宗の冠たるものであった。侯景が平定されると、僧辯は秘府の図籍を送ることを啓上し、弘正に勅して校勘させた。
当時、遷都の議があったが、元帝は再び荊陝に臨んで、前後二十余年、情が安んじて恋い慕い、建業に帰ることを欲しなかった。兼ねて旧府の臣僚は皆楚人であり、ともに江陵に即時に都することを欲し、言った、「建康は旧都であるが、荒廃は極まっている。かつ王気は既に尽き、また北朝と止だ一江を隔てるのみで、もし不慮の事あれば、悔いても及ばない。かつ臣らはまた聞く、荊南に天子気ありと。今その応ずるところであろう」。元帝に去る意思はなかった。時に尚書左僕射の王褒及び弘正がともに侍っていた。帝は顧みて言った、「卿らの意見はどうか」。王褒らは帝が猜忌深いことを以て、衆中で公然と害を言うことを敢えず、唯唯とするのみであった。王褒は後に清閑な時を因み、密かに丹陽に還ることを諫めて甚だ切実であり、帝はこれを納れたが、色は悦ばなかった。翌日、衆中で王褒に言った、「卿は昨日建鄴に還ることを勧めたが、道理がないわけではない。私は昨夜考えたが、なお疑念を抱いている」。王褒は受け入れられぬと知り、止めた。他日、弘正は厳正な顔色で諫め、再三に及び、言った、「もし士大夫の如きは、ただ聖王の都とするところであり、本より定まった処はない。黔首に至っては、建 鄴城 に入るのを見ずして、未だ天子にあらずと謂い、なお列国の諸王の如し。今日、百姓の心に赴くには、建鄴に帰らざるべからず」。当時は頗る相酬い許諾した。弘正が退いた後、黄羅漢、宗懍が言った、「弘正、王褒はともに東の人であり、東下を勧めるは、国の計のためではない」。弘正は密かにその言を知り、他日また進み出て面と向かって二人を折伏し、言った、「もし東の人が下ることを勧めるのを私計と謂うならば、西の人が西に留まることを勧めるのもまた私計ではないか」。衆人は黙然とし、而して人情はともに遷都を勧めた。上はまた後堂に文武を大集させ、その会に預かる者四五百人、帝は人情を遍く試みようと欲し、言った、「私が去ることを勧める者は左袒せよ」。ここに於いて左袒する者は過半に及んだ。武昌太守の朱買臣は、上の旧左右であり、而して閹人であるが、頗る幹用があり、故に上はこれを抜擢した。この時に至って上に遷都を勧め、言った、「買臣の家は荊州にある。豈に官長が住むことを願わざらんや。但し恐らくは買臣の富貴であって、官の富貴ではないか」。上はその言を深く感じたが、ついに用いることができなかった。
魏が江陵を平定するに及んで、弘正は遁れて建鄴に帰った。太平元年、侍中を授けられ、国子祭酒を領し、太常卿・都官尚書に遷る。陳の武帝は太子詹事を授けた。天嘉元年、侍中・国子祭酒に遷り、長安に往って宣帝を迎えた。三年、周より還る。廃帝が位を嗣ぐと、都官尚書を領し、五礼の事を総知する。宣帝が即位すると、特進に遷り、国子祭酒を領し、扶を加えられる。太建五年、尚書右僕射を授けられる。ほどなく勅して東宮に侍し、論語・孝経を講論する。太子は弘正の徳望が平素より重いことを以て、師資としての敬いがあった。
弘正は特に玄言を善くし、兼ねて釈典に明るく、碩徳の名僧といえども、質疑滞りを請わざるはなかった。六年、官に卒す。年七十九。侍中・ 中書監 を贈られ、諡して簡子という。著すところに『周易講疏』十六巻、『論語疏』十一巻、『莊子疏』八巻、『老子疏』五巻、『孝経疏』二巻、『集』二十巻あり、世に行われる。
子の 豫 玄、年十四、ともに車に載せられて東に入り、小船に乗って岸を渡るに、藤の花を見て、弘正がこれを引っ張ると、船は覆りともに溺れた。弘正は僅かに免れ、 豫 玄は遂に心驚の疾を得た。次子の墳、尚書吏部郎。
弘正の弟 弘讓
弘讓は性質簡素、博学で通ずること多し。初め仕えて志を得ず、句容の茅山に隠れ、頻りに征召されても出なかった。晩年に侯景に仕え、中書侍郎となり、人がその故を問うと、答えて言った、「昔は王道が正直であり、礼を以て進退することができた。今は乾坤が易位し、至らざれば将に人に害を及ぼさんとする。私は死を畏れるのみ」。初め彭城の劉孝先も辟命を辞し、兄の孝勝に随って蜀に在った。武陵王が建号すると、仕えて世子府諮議参軍となる。二隠ともに世に譏りを獲た。
弘讓は承聖初年、国子祭酒となる。二年、仁威將軍となり、句容に城してこれに居住させ、名付けて仁威壘という。陳の天嘉初年、白衣のまま太常卿・光禄大夫を領し、金章紫綬を加えられる。
弘讓の弟 弘直
弘讓の弟の弘直、字は思方、幼くして聡敏なり。梁に仕えて西中郎湘東王外兵記室参軍となり、東海の鮑泉、南陽の宗懍、平原の劉緩、沛国の劉彀とともに書記を掌る。王が江州・荊州二州に出鎮すると、累ねて諮議参軍に除される。承制に及んで、湘濱県侯に封ぜられる。累遷して昌州刺史となる。
王琳が挙兵すると、弘直は湘州に在ったが、王琳が敗れると、陳に入り、位は太常卿・光禄大夫、金章紫綬を加えられる。
弘直は方正雅やかで敦厚、気調は次兄より高し。或る人が三周孰れか賢いかと問うと、人は言った、「蜂腰の如し」。太建七年に卒す。遺疏に、「気絶の後は、直ちに市中に見える材の小形のものを買え。斂には時服を用い、古人の通制である。但し下って先人に会うには、必ず礼を備えねばならぬ。単衣の裙衫と故履を着けよ。既に侍養に応ずるには、宜しく紛帨を備うべし。或いは善友に逢えば、また香煙を須い、棺内には唯だ白布の手巾と粗き香炉を安んずるのみ。此外用いるところなし」。家に卒す。年七十六。集二十巻あり。
子の確、字は士潛、容儀美しく、寬大に行檢あり。経史に博く渉り、篤く玄言を好む。位は都官尚書、禎明初年に卒す。
史評
論ずるに、文人は細行を護らず、古今の同然とするところなり。その声裁の知る所によるが故に、人に忤うことを取るなり。顔・謝の宋朝に於けるを観るに、一代に名高からざるに非ず、霊運は既に以て斃れを取し、延之も亦当年に躓けり、向に所謂身を貴ぶは、翻って己を害する者と成れり。士遜は筆を援いて罪を数え、讎を陵ぎて難を犯し、彼の慈親を餌として、之を獣の吻に棄つ、此を以て忠と為すも、前誥に聞こえず。夫れ自ら其の親を忍ぶは、必ず将に人の親を忍ばんとす、士遜は自ら其の孝を忘れ、期して以て人の孝を申さんとす、自ら厳父の辞允にして義愜たるに非ざれば、則ち免れ難きかな。師伯の己を行なうは欲に縦し、進を好みて退を忘る、既に此を以て始まり、亦此を以て終わる、宜なるかな。懐文の蹈履する所は、以て古烈を追蹤するに足れり、孔母の中丞に懼れを致すは、其の誡深し。周朗の始終の節は、亦倜儻として尤もと為す。顒・舍父子は、文雅墜ちず、弘正兄弟の義業は、ほとんど徳門に幾る者かな。