南史

巻三十四

巻三十四

南史

巻三十四

列伝第二十四

顔延之

原文顏延之

顔延之は字あざなを延年といい、琅邪郡臨沂県の人である。曾祖父の含は、晋の右光禄大夫であった。祖父の約は、零陵太守であった。父の顒は、護軍司馬であった。

原文顏延之字延年,琅邪臨沂人也。曾祖含,晉右光祿大夫。祖約,零陵太守。父顒,護軍司馬。

延之は幼くして孤貧であり、城壁の近くに住み、書を読むことを好み、あらゆる書物を読み、文章は当時に冠絶していた。酒を飲むことを好み、細かい行いには拘らなかった。三十歳になってもまだ婚姻していない。妹は東莞の劉穆之の子、憲之に嫁いだ。穆之はその美才を聞き、仕官させようとし、まず会おうとしたが、延之は行かなかった。

原文延之少孤貧,居負郭,好讀書,無所不覽,文章冠絶當時。好飲酒,不護細行。年三十猶未昏。妹適東莞劉穆之子憲之。穆之聞其美才,將仕之,先欲相見,延之不往也。

後に宋の武帝(劉裕)の豫章公世子中軍行参軍となった。武帝が北伐した時、宋公の位を授けられると、府は延之をしてその殊命を慶賀させた。洛陽に至り、周囲の旧宮室を見渡すと、すべてが禾黍となっており、悲しみを覚えて黍離の篇を詠んだ。道中で詩二首を作り、謝晦と傅亮に賞賛された。

原文後爲宋武帝豫章公世子中軍行參軍。及武帝北伐,有宋公之授,府遣延之慶殊命。行至洛陽,周視故宮室,盡爲禾黍,淒然詠黍離篇。道中作詩二首,爲謝晦、傅亮所賞。

武帝が天命を受けると、太子舎人に補せられた。雁門の周続之は廬山に隠棲し、儒学で著名であった。永初年間の中頃、都に召し出され、館を開いて住まわせた。武帝が自ら臨幸し、朝廷の俊英がことごとく集まった。延之は宮官として列は卑しかったが、上席に引き上げられた。上(武帝)は続之に三つの義を問わせ、続之はもともと弁舌を頼みとしていたが、延之は毎度簡潔な要約で続之を連続して挫いた。上はまた(延之に)自ら解釈を述べさせると、言葉は簡約で道理は暢達し、称善しない者はなかった。再び太子中舎人に遷った。時に尚書令の傅亮は自ら文義において当時誰も及ばないと思っていたが、延之はその才を恃み、彼の下に立とうとせず、亮は甚だこれを憎んだ。廬陵王の義真は彼を厚く遇したが、徐羨之らは延之が(義真と)同調しているのではないかと疑い、心中甚だ快く思わなかった。

原文武帝受命,補太子舍人。雁門周續之隱廬山,儒學著稱。永初中,征詣都下,開館以居之。武帝親幸,朝彥畢至。延之宮官列卑,引升上席。上使問續之三義,續之雅仗辭辯,延之每以簡要連挫續之。上又使還自敷釋,言約理暢,莫不稱善。再遷太子中舍人。時尚書令傅亮自以文義一時莫及,延之負其才,不爲之下,亮甚疾焉。廬陵王義真待之甚厚,徐羨之等疑延之爲同異,意甚不悅。

少帝が即位すると、累遷して始安太守となった。領軍将軍の謝晦が延之に言うには、「昔、荀勗が阮咸を忌み、始平郡に斥けたが、今卿はまた始安となった。『二始』と言えよう」と。黄門郎の殷景仁もまた彼に言うには、「いわゆる人は俊異を憎み、世は文雅を疵とするというものだ」と。延之が任地へ赴く途上、汨潭を経由した時、湘州刺史の張邵のために屈原の文を祭り、その意を致した。

原文少帝即位,累遷始安太守。領軍將軍謝晦謂延之曰:「昔荀勖忌阮咸,斥爲始平郡,今卿又爲始安,可謂'二始'。」黃門郎殷景仁亦謂之曰:「所謂人惡俊異,世疵文雅。」延之之郡,道經汨潭,爲湘州刺史張邵祭屈原文以致其意。

元嘉三年、羨之らが誅殺されると、中書侍郎に徴され、転じて太子中庶子、歩兵校尉を領し、賞遇は甚だ厚かった。延之は才学をもって遇せられたので、当時の人々は多く彼を推服したが、ただ袁淑だけは年齢が延之より倍ほど若く、推重しなかった。延之は憤り、大勢の前で彼を折伏して言うには、「昔、陳元方と孔元駿は同年で文学を論じたが、元駿は元方の床下に拝した。今、君はどうして拝礼しないのか」と。淑は返答できなかった。

原文元嘉三年,羨之等誅,徵爲中書侍郎,轉太子中庶子,領歩兵校尉,賞遇甚厚。延之既以才學見遇,當時多相推服,唯袁淑年倍小延之,不相推重。延之忿於眾中折之曰:「昔陳元方與孔元駿齊年文學,元駿拜元方於床下,今君何得不見拜?「淑無以對。

延之は疎放で誕漫であり、当世に受け容れられることができず、劉湛と殷景仁が要職を専任するのを見て、心中不平があった。常に言うには、「天下の事は、どうして一人の知恵だけで全てを処理できようか」と。その言辞は激しく昂揚し、毎度権要を犯した。また、かつて若い頃に湛の父の柳の後軍主簿を務めたことがあり、この時になって湛に言うには、「わが名器が昇らないのは、卿の家の吏をしたからであろう」と。湛はこれを恨み、彭城王の義康に言上し、永嘉太守として出された。延之は甚だ怨憤し、そこで「五君詠」を作り、竹林の七賢を述べたが、山濤と王戎は貴顕であったために削った。嵇康を詠んで云う、「鸞の翮も時に鎩かれることがあり、龍の性質を誰が馴らせようか」と。阮籍を詠んで云う、「物故は論ずべからず、途窮すれば慟哭せざるを得ない」と。阮咸を詠んで云う、「たびたび推薦されても官に入らず、一たび麾せられて出守する」と。劉伶を詠んで云う、「精を韜みて日々沈飲する、誰か知らん、これ荒宴にあらざるを」と。この四句はおそらく自序である。湛と義康はその文意が不遜であるとして大怒し、遠郡に左遷しようとした。文帝は義康に詔して言うには、「思愆のため里閭に留め置くべきであり、それでもなお改めないならば、東土に追いやるがよい。ましてや難く恕しがたい者は、自ら事に随ってこれを処断すればよい」と。ここにおいて延之は世間に関与せずに隠居すること七年に及んだ。

原文延之疏誕,不能取容當世,見劉湛、殷景仁專當要任,意有不平。常言:「天下事豈一人之智所能獨了」。辭意激揚,每犯權要。又少經爲湛父柳後將軍主簿,至是謂湛曰:「吾名器不升,當由作卿家吏耳。」湛恨焉,言于彭城王義康,出爲永嘉太守。延之甚怨憤,乃作五君詠,以述竹林七賢,山濤、王戎以貴顯被黜。詠嵇康云:「鸞翮有時鎩,龍性誰能馴。」詠阮籍云:「物故不可論,途窮能無慟。」詠阮咸云:「屢薦不入官,一麾乃出守。」詠劉伶云:「韜精日沈飲,誰知非荒宴。」此四句蓋自序也。湛及義康以其辭旨不遜,大怒,欲黜爲遠郡。文帝與義康詔曰:「宜令思愆里閭,猶復不悛,當驅往東土;乃至難恕者,自可隨事錄之。」於是延之屏居不豫人間者七載。

中書令の王球は名公子として俗務を外にし、延之と互いに雅びに愛好し合い、しばしばその窮乏を救った。晋の恭思皇后が葬られる時、百官が必要とされたが、皆、義熙元年の除書(任命書)を取ることにした。延之を兼侍中とするにあたり、邑の吏が札を送ってきたが、延之は酔っており、札を地に投げて言うには、「顔延之は生きている者に仕えることもできないのに、どうして死者に仕えられようか」と。文帝がかつて延之を召したが、伝詔の者が頻りに会えず、常日頃はただ酒屋で裸になって袒げ、挽歌を歌い、全く応対せず、ある日酔いが醒めてからようやく会った。帝がかつて諸子の才能について問うと、延之は言うには、「竣は臣の筆(書簡文)を得、測は臣の文(文章)を得、啜は臣の義(道理)を得、躍は臣の酒を得る」と。何尚之が嘲って言うには、「誰が卿の狂を得るのか」と。答えて言うには、「その狂は及ぶべからず」と。尚之が侍中として直中にいた時、延之は酔って彼を訪ねた。尚之は彼を見ると、すぐに仮眠を装った。延之は簾を上げて熟視し言うには、「朽木は彫り難し」と。尚之は左右の者に言うには、「この人は酔っているが甚だ畏るべきである」と。閑居して事がなく、『庭誥』の文を作って子弟を訓戒した。

原文中書令王球以名公子遺務事外,與延之雅相愛好,每振其罄匱。晉恭思皇后葬,應須百官,皆取義熙元年除身。以延之兼侍中,邑吏送劄,延之醉,投劄於地曰:「顏延之未能事生,焉能事死。」文帝嘗召延之,傳詔頻不見,常日但酒店裸袒輓歌,了不應對,他日醉醒乃見。帝嘗問以諸子才能,延之曰:「竣得臣筆,測得臣文,啜得臣義,躍得臣酒。」何尚之嘲曰:「誰得卿狂?」答曰:「其狂不可及。」尚之爲侍中在直,延之以醉詣焉。尚之望見便陽眠,延之發簾熟視曰:「朽木難雕。」尚之謂左右曰:「此人醉甚可畏。」閒居無事,爲庭誥之文以訓子弟。

劉湛が誅殺された後、延之を起用して始興王劉浚の後軍諮議参軍、御史中丞とした。在任中は悠揚としており、何も挙奏しなかった。国子祭酒、司徒左長史に遷った。何尚之は平素から延之と親しくしていたが、王球に手紙を書いて言うには、「延之に後命(御史中丞の任命)があり、教府(司徒府)にはもはや光輝がない」と。人から田を買ってその代金を返さない罪に坐り、尚書左丞の荀赤松がこれを上奏して言うには、「田を求め舎を問うは、前賢の鄙むところである。延之はただ利を見るのみで、軽々しく上聞を冒し、詔の恩に依り頼み、残りの代金を払わず、一年近くに及んでも、なお完了しない。利に暗く苟も得ようとし、顧みる所がない。延之はかつて事に坐して屏斥されたが、再び抽き進められておきながら、かつて改悛せず、怨誹すること已むことがない。交遊する者は卑賤であり、酒に沈溺し、みだりに譏謗を興し、朝士を誹毀する。過分の栄誉を窃み仰ぎ、憤薄の性を増し、私に顧眄を恃み、強梁の心を成す。外には寡求を示し、内には奔競を懐き、禄を求め遷官を祈り、極まることを知らない。宴に預かり觴を班つる席で、上席に向かって肆に罵詈する。山海は容含するものであり、常に養うことを遵う。愛して兼ねて雕虫の技を惜しみ、未だ忍びて遐く棄てない。しかし驕放にして節度なく、日月が経つにつれてますます甚だしい。臣は聞く、名声が実情を過ぐることは、孟軻の恥じるところであると。ましてや名声は外から来るものではなく、問いは己から出るのである。心知は薄劣ながら、高く自ら比擬し、一時の気勢を虚しく張り、かつて愧畏することがない。どうして再び五教を弼亮し、台階の輝きを増すことができようか。延之が田を巡る訴訟で事実に合わず、妄りに天聴を煩わし、強きを以て弱きを陵ぐことを以て、その居る官を免ぜられることを請う」と。詔して可とした。後に秘書監、光禄勲、太常となった。時に沙門の釈慧琳は才学をもって文帝に賞賛され、朝廷の政事は多く彼と謀り、ついに士庶の帰仰するところとなった。上(文帝)が毎度引見する時、常に独榻(一人用の腰掛け)に昇らせたので、延之は甚だこれを憎んだ。酔った勢いで上に申し上げて言うには、「昔、同子(趙談)が参乗した時、袁絲(袁盎)は顔色を正した。この三台(三公)の座に、どうして刑余の者(宦官を指すが、ここでは僧侶を蔑んで)を居らせることができようか」と。上は顔色を変えた。

原文劉湛誅後,起延之爲始興王浚後軍諮議參軍、御史中丞。在任從容,無所舉奏。遷國子祭酒、司徒左長史。何尚之素與延之狎,書與王球曰:「延之有後命,教府無復光暉。」坐啟買人田不肯還直,尚書左丞荀赤松奏之曰:「求田問舍,前賢所鄙。延之唯利是視,輕冒陳聞,依傍詔恩,抵捍餘直,垂及周年,猶不畢了。昧利苟得,無所顧忌。延之昔坐事屏斥,復蒙抽進,而曾不悛革,怨誹無已。交遊闒茸,沈迷曲蘖,橫興譏謗,詆毀朝士。仰竊過榮,增憤薄之性,私恃顧眄,成強梁之心。外示寡求,內懷奔競,幹祿祈遷,不知極已。預宴班觴,肆詈上席。山海容含,每存遵養。愛兼雕蟲,未忍遐棄。而驕放不節,日月彌甚。臣聞聲問過情,孟軻所恥,況聲非外來,問由己出。雖心智薄劣,而高自比擬,客氣虛張,曾無愧畏。豈可復弼亮五教,增耀臺階。請以延之訟田不實,妄幹天聽,以強陵弱,免所居官。」詔可。後爲秘書監,光祿勳,太常。時沙門釋慧琳以才學爲文帝所賞,朝廷政事多與之謀,遂士庶歸仰。上每引見,常升獨榻,延之甚疾焉。因醉白上曰:「昔同子參乘,袁絲正色。此三台之坐,豈可使刑余居之。」上變色。

延之の性格は偏激であり、兼ねて酒の過ちがあり、意のままに直言し、かつて回らぬことも隠すこともなかったので、論者は多く彼を認めず、顔彪と呼んだ。身を処することは倹約で、財利を営まず、布衣に蔬食し、ひとり郊野で酌んだ。その適意たる時は、傍らに人無きが如かった。三十年(元嘉三十年)、致事(退官)した。

原文延之性既褊激,兼有酒過,肆意直言,曾無回隱,故論者多不與之,謂之顏彪。居身儉約,不營財利,布衣蔬食,獨酌郊野。當其爲適,傍若無人。三十年,致事。

延之の長子は竣である。

原文延之長子 竣

元凶(劉劭)が帝を弑して立つと、彼(顔延之)を光禄大夫とした。長子の顔竣は孝武帝の南中郎諮議参軍であった。義師(孝武帝の軍)が討伐に入ると、顔竣は密謀を定め、兼ねて檄文を作成した。劉劭は顔延之を召して檄文を示し、問うて曰く、「この筆跡は誰が造ったものか」。延之曰く、「竣の筆跡でございます」。また問うて、「どうしてそれが分かるのか」。曰く、「竣の筆跡の体は、臣として識らぬわけにはまいりません」。劉劭また曰く、「言辞がどうしてここまで至ったのか」。延之曰く、「竣は老臣をも顧みないのですから、どうして陛下のために(顧みることが)できましょうか」。劉劭の疑念はようやく解け、これによって(延之は)難を免れた。

原文元凶弑立,以爲光祿大夫。長子竣爲孝武南中郎諮議參軍。及義師入討,竣定密謀,兼造書檄。劭召延之示以檄文,問曰:「此筆誰造?」延之曰:「竣之筆也。」又問:「何以知之?」曰:「竣筆體,臣不容不識。」劭又曰:「言辭何至乃爾?」延之曰:「竣尚不顧老臣,何能爲陛下。」劭意乃釋,由是得免。

孝武帝が即位すると、彼を金紫光禄大夫とし、湘東王師を領させた。かつて何偃と共に上(孝武帝)に従って南郊に行ったとき、偃が道中で遠くから延之を呼んで「顔公!」と言った。延之はその軽率さを怪しみ、答えて曰く、「身は三公の公でもなく、また田舎の公でもなく、また君が家の阿公でもないのに、どうして公と呼ばれるのか」。偃は恥じて退いた。

原文孝武登阼,以爲金紫光祿大夫,領湘東王師。嘗與何偃同從上南郊,偃于路中遙呼延之曰:「顏公!」延之以其輕脫,怪之,答曰:「身非三公之公,又非田舍之公,又非君家阿公,何以見呼爲公?」偃羞而退。

顔竣はすでに貴重となり、権勢は一朝を傾けたが、すべての資給供応について、延之は一つも受け取らなかった。器物や衣服は改めず、邸宅も旧のままで、常に痩せた牛車に乗り、顔竣の鹵簿(儀仗隊)に逢えば、すぐに道端に控えて止まった。また馬に乗って里巷を遊歩するのを好み、知り合いの旧友に遇えば、すぐに鞍に寄りかかって酒を求め、得れば必ず傾け尽くし、欣然として自得した。かつて顔竣に語って曰く、「平生、要人に会うのは好きではないが、今不幸にも汝に会ってしまった」。顔竣が邸宅を建てるのを見て、謂って曰く、「うまくやれ、後人に汝の拙さを笑わせるな」。上表して師の職を解き、親信二十人を加給された。かつて早朝に顔竣を訪ねたとき、賓客が門に満ちているのに出会い、顔竣はまだ臥して起きなかった。延之は怒って曰く、「恭敬にして節制することは、福の基である。驕り高ぶって傲慢なことは、禍の始まりである。ましてや糞土の中から出て、雲霞の上に昇りながら、傲りを長くすることはできぬ、どうして長く続けられようか」。

原文竣既貴重,權傾一朝,凡所資供,延之一無所受。器服不改,宅宇如舊,常乘羸牛車,逢竣鹵簿,即屏住道側。又好騎馬遨遊裏巷,遇知舊輒據鞍索酒,得必傾盡,欣然自得。嘗語竣曰:「平生不喜見要人,今不幸見汝。」見竣起宅,謂曰:「善爲之,無令後人笑汝拙也。」表解師職,加給親信二十人。嘗早候竣,遇賓客盈門,竣方臥不起,延之怒曰:「恭敬撙節,福之基也。驕佷傲慢,禍之始也。況出糞土之中,而升雲霞之上,傲不可長,其能久乎。」

延之には寵愛する妾がおり、その妾がいなければ食も飽きず、寝も安らかでなかった。妾は寵愛を恃み、かつて延之を揺すって床から落とし、怪我をさせたので、顔竣が彼女を殺した。延之の痛惜は極めて甚だしく、常に霊座に坐って泣きながら曰く、「貴人が汝を殺したのであって、私が殺したのではない」。冬の日に哭礼に臨んでいたとき、突然その妾が屏風を押し倒して延之を押しつけ、延之は恐れて地に墜ち、これによって病んだ。孝建三年に卒去した。七十三歳。特進を追贈され、諡して憲子といった。

原文延之有愛姬,非姬食不飽,寢不安。姬憑寵,嘗蕩延之墜床致損,竣殺之。延之痛惜甚至,常坐靈上哭曰:「貴人殺汝,非我殺汝。」以冬日臨哭,忽見妾排屏風以壓延之,延之懼墜地,因病。孝建三年卒,年七十三。贈特進,諡曰憲子。

延之は陳郡の謝霊運とともに文采をもって斉名したが、遅速は絶大な差があった。文帝はかつて各々に楽府の「北上篇」を擬作するよう命じたが、延之は詔を受けるとすぐに完成し、霊運は長い時を経てようやく成した。延之はかつて鮑照に己と霊運の優劣を問うた。照曰く、「謝の五言詩は初めて発する芙蓉の如く、自然で可愛らしい。君の詩は錦を敷き繍を列ねるが如く、これまた彫琢と彩りが満眼である」。延之は常に湯恵休の詩を軽んじ、人に謂って曰く、「恵休の制作は、陋巷の歌謡に過ぎず、まさに後生を誤らせるであろう」。この時、議論する者は延之と霊運を、潘岳と陸機の後、文士で及ぶ者なしとし、江右では潘・陸と称し、江左では顔・謝と称したのである。顔竣は字を士遜といい、延之の長子である。早くから文義に通じ、宋の孝武帝の撫軍主簿となり、大いに嘉遇され、顔竣もまた心を尽くして補佐した。元嘉年間、上(文帝)は諸王が各々朋党を立てることを望まず、顔竣を召して尚書郎に補そうとした。江湛は府(孝武帝の府)において称賛があるとして、改めるべきではないとし、そこで止んだ。府に随って安北、鎮軍、北中郎府主簿に転じた。

原文延之與陳郡謝靈運俱以辭采齊名,而遲速縣絶。文帝嘗各敕擬樂府北上篇,延之受詔便成,靈運久之乃就。延之嘗問鮑照己與靈運優劣,照曰:「謝五言如初發芙蓉,自然可愛。君詩若鋪錦列繡,亦雕繢滿眼。」延之每薄湯惠休詩,謂人曰:「惠休製作,委巷中歌謠耳,方當誤後生。」是時議者以延之、靈運自潘岳、陸機之後,文士莫及,江右稱潘、陸,江左稱顏、謝焉。竣字士遜,延之長子也。早有文義,爲宋孝武帝撫軍主簿,甚被嘉遇,竣亦盡心補益。元嘉中,上不欲諸王各立朋黨,將召竣補尚書郎。江湛以爲在府有稱,不宜回改,乃止。隨府轉安北、鎭軍、北中郎府主簿。

初め、沙門の釈僧含は学義に精通しており、顔竣に謂って曰く、「貧道は常に讖記を見ますが、真人が符に応じる時が来るでしょう。その名称と順序は、殿下に属しております」。後に顔竣が彭城におり、親しい人にこの話をしたところ、言葉は遂に宣べ伝えられ、文帝の耳に入った。当時、元凶(劉劭)の巫蠱の事はすでに発覚していたため、上(文帝)は推問しなかった。

原文初,沙門釋僧含精有學義,謂竣曰:「貧道常見讖記,當有真人應符,名稱次第,屬在殿下。」後竣在彭城,嘗于親人敘之,言遂宣佈,聞于文帝。時元凶巫蠱事已發,故上不加推案。

孝武帝が尋陽に鎮すると、南中郎記室に遷った。三十年の春、父の延之が致仕したため、固く職の解任を求め、賜暇されたがまだ発たないうちに、文帝の崩御の報が届き、孝武帝は兵を挙げて入討し、顔竣は諮議参軍に転じ、録事を領し、内外の任を総べ、併せて檄書を作成した。孝武帝が尋陽を発つとき、すでに病を患い、沈慶之以下はみな面会に堪えられなかったが、ただ顔竣のみが臥内に出入りし、軍機を断決した。当時、孝武帝はたびたび危篤に陥り、諮問に堪えられなかったので、すべての諸務は顔竣が専断して施行した。

原文孝武鎭尋陽,遷南中郎記室。三十年春,以父延之致仕,固求解職,賜假未發,而文帝崩問至,孝武舉兵入討,轉諮議參軍,領錄事,任總內外,並造檄書。孝武發尋陽,便有疾,自沈慶之以下並不堪相見,唯竣出入臥內,斷決軍機。時孝武屢經危篤,不任諮稟,凡厥眾務,竣皆專斷施行。

孝武帝が即位すると、侍中、左衛将軍を歴任し、建城県侯に封ぜられた。孝建元年、吏部尚書に転じ、驍騎将軍を領し、選挙に心を留め、自ら励んで止まなかった。任用と待遇がすでに隆盛となり、奏上することはことごとく認められた。後に謝莊が顔竣に代わって選挙を領したが、その意向は多く行われなかった。顔竣の容貌は厳しく毅然としていた。謝莊の風姿は甚だ美しく、賓客が喧しく訴えても、常に歓笑して答えた。人は言う、顔竣は瞋って人に官を与え、謝莊は笑って人に官を与えぬ、と。

原文孝武踐阼,曆侍中、左衞將軍,封建城縣侯。孝建元年,轉吏部尚書,領驍騎將軍,留心選舉,自強不息。任遇既隆,奏無不可。後謝莊代竣領選,意多不行。竣容貌嚴毅;莊風姿甚美,賓客喧訴,常歡笑答之。人言顏竣瞋而與人官,謝莊笑而不與人官。

南郡王劉義宣、臧質らが反乱を起こすと、顔竣に右将軍を兼領させた。義宣、質らの諸子が建康、秣陵、湖熟、江寧県の境界に隠匿したため、孝武帝は大いに怒り、丹陽尹の褚湛之を免官し、四県の官長を収監し、顔竣を丹陽尹とし、散騎常侍を加えた。

原文南郡王義宣、臧質等反,以竣兼領右將軍。義宣、質諸子藏匿建康、秣陵、湖熟、江寧縣界,孝武大怒,免丹陽尹褚湛之官,收四縣官長,以竣爲丹陽尹,加散騎常侍。

これより先、顔竣にはまだ子がなかったが、大司馬江夏王劉義恭の諸子が元凶(劉劭)に殺され、この時になって各々男子を産んだ。上(孝武帝)自らが名を制し、義恭の子を伯禽と名付け、魯公伯禽(周公旦の子)に比し、顔竣の子を辟強と名付け、漢の侍中辟強(張良の子)に比したのである。

原文先是,竣未有子,而大司馬江夏王義恭諸子爲元凶所殺,至是各產男,上自爲制名,名義恭子爲伯禽,以比魯公伯禽,周公之子。名竣子爲辟強,以比漢侍中辟強,張良之子也。

先に、元嘉年間に四銖銭を鋳造したが、輪郭と形制は五銖銭と同じであり、費用が損じて利益がなく、故に百姓は盗鋳しなかった。

原文先是,元嘉中鑄四銖錢,輪郭形制與五銖同,用費損無利,故百姓不盜鑄。及孝武即位,又鑄孝建四銖,所鑄錢形式薄小,輪郭不成,於是人間盜鑄者雜以鉛錫,並不牢固。又翦鑿古錢以取其銅,錢轉薄小,稍違官式。雖重制嚴刑,人吏官長坐死免者相系,而盜鑄彌甚,百物踴貴,人患苦之。乃立品格,薄小無輪郭者悉加禁斷。始興公沈慶之議:「宜聽人鑄錢。置署,樂鑄之家皆居署內。去春所禁新品,一時施用,今鑄悉依此格。萬稅三千,嚴檢盜鑄,並禁翦鑿。數年之間,公私豐贍,銅盡事息,奸偽自止。禁鑄則銅轉成器,開鑄則器化爲財。」上下其事於公卿,竣議曰:「今雲開署放鑄,誠所欲同,但慮采山事絶,器用日耗。銅既轉少,器亦彌貴。設器直一千,則鑄之減半,爲之無利,雖令不行。」時議者又以銅難得,欲鑄二銖錢。竣又議曰:「今鑄二銖,恣行新細,于官無解於乏,而人奸巧大興,天下之貨將糜碎至盡。空曰嚴禁,而利深難絶,不過一二年間,其弊不可復救。此其甚不可一也。使奸人意騁,而貽厥愆謀,此又甚不可二也。富商得志,貧人因窘,此又甚不可三也。若使交益深重,尚不可行,況又未見利,而眾弊如此,失算當時,取笑百代乎。」前廢帝即位,鑄二銖,形式轉細,官錢每出,人間即模效之,而大小厚薄皆不及也。無輪郭,不磨鑢,如今之翦鑿者,謂之耒子錢。景和元年,沈慶之啟通私鑄,由是錢貨亂敗,一千錢長不盈三寸,大小稱此,謂之鵝眼錢;劣於此者謂之綖環錢。貫之以縷,入水不沈,隨手破碎,市井不復料數,十萬錢不盈一掬。斗米一萬,商貨不行。明帝初,唯禁鵝眼、綖環,其餘皆通用。復禁人鑄,官署亦廢,尋復普斷,唯用古錢。

孝武帝が即位すると、また孝建四銖を鋳造したが、鋳造された銭は形式が薄く小さく、輪郭が整わず、ここにおいて民間の盗鋳する者は鉛錫を混ぜ、いずれも堅固でなかった。

原文竣自散騎常侍、丹陽尹加中書令,表讓中書令,見許。時歲旱人饑,竣上言禁餳一月,息米近萬斛。復代謝莊爲吏部尚書,領太子右衞率,未拜,丁父憂。裁踰月,起爲右將軍,丹陽尹如故。竣固辭,表十上不許。遣中書舍人戴明寶抱竣登車,載之郡舍。賜以布衣一襲,絮以彩綸,遣主衣就衣諸體。

また古銭を剪鑿してその銅を取り、銭はますます薄く小さくなり、少しずつ官定の様式に違うようになった。

原文竣藉蕃朝之舊臣,每極陳得失。上自即吉之後,宮內頗有醜論,又多所興造。竣諫爭懇切,並無所回避。上意甚不悅,多不見從。竣自謂才足幹時,恩舊莫比,當贊務居中,永執朝政。而所陳多不被納,疑上欲疏之,乃求出以卜時旨。大明元年,以爲東揚州刺史。所求既許,便憂懼無計。至州又丁母艱,不許去職,聽送喪還都,恩待猶厚,竣彌不自安。每對親故,頗懷怨憤。又言朝廷違謬,人主得失。

重い制限と厳しい刑罰を設けても、人吏や官長が連座して死罪や免職となる者が相次いだが、盗鋳はますます甚だしく、百物の価格が高騰し、人々はこれを患い苦しんだ。

原文及王僧達被誅,謂爲所讒構,臨死陳竣前後忿懟,恨言不見從。僧達所言,頗相符會,上乃使御史中丞庾徽之奏竣:「窺覘國柄,潛圖久執。受任選曹,驅扇滋甚,出尹京輦,形勢彌放。傳詔犯憲,舊須啟聞,而竣以通訴忤己,輒加鞭辱,罔顧威靈,莫此爲甚。懷挾奸數,包藏隱慝,豫聞中旨,罔不宣露。罰則委上,善必歸己,脅懼上宰,激動閭閻。末慮上聞,內懷猜懼,偽請東牧,以卜天旨。既獲出藩,怨詈方肆,反唇腹誹,方之已輕。前冬母亡,詔賜還葬,事畢不去,盤桓經時。方構間勳貴,造立同異,遂以己被斥外,國道將顛。兼行闕於家,早負世議,天倫怨毒,親交震駭。街談道説,非復風聲,宜加顯戮,以昭盛化。請以見事免竣所居官,下太常削爵土。」上未欲便加大戮,且止免官。竣頻啟謝罪,並乞性命。上愈怒,詔答曰:「憲司所奏,非宿昔所以相期。卿受榮遇,政當極此。訕訐怨憤,已孤本望,乃復過煩思慮,懼不全立,豈爲下事上誠節之至邪。」

そこで品格を立て、薄く小さく輪郭のないものは全て禁断することにした。

原文及竟陵王誕爲逆,因此陷之,言通於誕。召御史中丞庾徽之於前立奏,奏成,詔先打折足,然後於獄賜死,妻息宥之以遠。子辟強徙交州,又于宮亭湖沈殺之。竣文集行於世。

始興公の沈慶之が議して言うには、「人々に銭の鋳造を許すべきである。役所を設置し、鋳造を喜ぶ家は皆その役所内に居住させる。春に禁止した新品を一時的に施用し、今後の鋳造は全てこの規格に従わせる。一万銭につき三千銭を税とし、盗鋳を厳しく検査し、併せて剪鑿を禁止する。数年以内に、公私ともに豊かになり、銅が尽きれば事は収まり、奸偽は自然に止む。鋳造を禁じれば銅は器物に転じ、鋳造を開けば器物は財貨となる。」

原文竣弟測亦以文章見知,官至江夏王義恭大司馬錄事參軍。

上下がこの事を公卿に諮問し、顔竣が議して言うには、「今、役所を開いて鋳造を許すというのは、確かに皆が望むところであるが、ただ山から銅を採る事業が絶え、器物が日々消耗することを憂慮する。銅が少なくなれば、器物もますます高価になる。仮に器物の価値が一千銭とすれば、それを鋳造して銭にしても半分に減り、利益がないので、命令しても行われない。」

原文以兄貴爲憂,先竣卒。

当時、議する者たちはまた銅が得難いことを理由に、二銖銭を鋳造しようとした。

原文明帝即位,詔曰:「延之昔師訓朕躬,情契兼重。前記室參軍、濟陽太守啜,伏事蕃朝,綢繆恩舊,可擢爲中書侍郎。」奐,延之第三子也。

竣がまた議して言うには、「今、二銖銭を鋳造し、新しく細かい銭を恣に行わせれば、官にとって不足を解消することはなく、人の奸巧が大いに興り、天下の貨物は糜爛して尽きてしまう。厳禁と言うだけで、利益が深くて絶ち難く、一二年を過ぎず、その弊害は救いようがなくなる。これが甚だしく不可な第一の点である。奸人の意を逞しくさせ、後世に禍を遺すこと、これがまた甚だしく不可な第二の点である。富商が志を得て、貧しい人が困窮に陥ること、これがまた甚だしく不可な第三の点である。もし利益が深重であっても尚行うべきでないのに、況や利益が見えず、多くの弊害がこのようであるならば、当時に失策を取って、百代に笑われることになるのではないか。」

原文竣族兄 師伯

前廃帝が即位すると、二銖銭を鋳造したが、形式はますます細かくなり、官銭が出るごとに、民間ではすぐに模倣したが、大小厚薄は全て及ばなかった。

原文顏師伯字長深,竣族兄也。父邵,剛正有局力,爲謝晦領軍司馬。晦鎭江陵,請爲諮議參軍,領錄事,軍府之務悉委焉。邵慮晦有禍,求爲竟陵太守。未及之郡,會晦見討,邵飲藥死。

輪郭がなく、磨鑢せず、今の剪鑿したようなものを、耒子銭と呼んだ。

原文師伯少孤貧,涉獵書傳,頗解聲樂。弟師仲妻,臧質女也。質爲徐州,辟師伯爲主簿。孝武爲徐州,師伯仍爲輔國安北行參軍。王景文時爲諮議參軍,愛其諧敏,進之孝武,以爲徐州主簿。善於附會,大被知遇。及去鎭,師伯以主簿送故。

景和元年、沈慶之が私鋳を通すよう上奏し、これにより銭貨は乱れて劣悪となり、一千銭でも長さ三寸に満たず、大小これに準じ、鵝眼銭と呼んだ。これより劣るものを綖環銭と呼んだ。

原文孝武鎭尋陽,啟文帝請爲南中郎府主簿,文帝不許,謂典簽曰:「中郎府主簿,那得用顏師伯。」孝武啟爲長流正佐,帝又曰:「朝廷不能除之,郎可自板,然亦不宜署長流。」乃板爲參軍刑獄。及討元凶,轉主簿。

孝武帝が即位すると、師伯は黄門侍郎に任ぜられ、累進して侍中となった。大明元年、平都県子に封ぜられた。寵愛は厚く親密で、群臣の中で彼に並ぶ者はなかった。多くの賄賂を受け取り、家財は千金を累ねた。孝武帝がかつて師伯と摴蒱をした時、帝が雉を出して大いに喜び、必ず勝つと言った。師伯は後に盧を出したので、帝は顔色を失った。師伯は急いで賽子を集めて言った、「ほとんど盧になりそうでした」。その日、師伯は百万を負けた。やがて吏部尚書・右軍将軍に遷った。上は威権が臣下にあることを望まず、前後で選挙を担当した者はただ文書に従って行うだけであったが、師伯は専ら思いのままに独断し、上奏して認められないことはなかった。

原文孝武踐阼,以爲黃門侍郎,累遷侍中。大明元年,封平都縣子。親幸隆密,群臣莫二。多納貨賄,家累千金。孝武嘗與師伯摴蒱,帝擲得雉,大悅,謂必勝。師伯後得盧,帝失色,師伯遽斂子曰:「幾作盧。」爾日,師伯一輸百萬。仍遷吏部尚書、右軍將軍。上不欲威權在下,前後領選者唯奉行文書,師伯專情獨斷,奏無不可。

七年、尚書右僕射となった。当時、選挙を二つに分けて置き、陳郡の謝莊と琅邪の王曇生がともに吏部尚書となった。師伯の子が周旋して寒門の張奇を公車令に推挙したが、上は張奇の資品が相当でないとして、兼市買丞とし、蔡道恵を代わりに任じた。令史の潘道棲・褚道恵・顔禕之・元従夫・任澹之・石道児・黄難・周公選らは道恵の詔勅を抑え、張奇を先に公車に到着させ、張奇の兼市買丞の事を施行しなかった。師伯は子が職に関与した罪に坐し、謝莊・王曇生は官を免ぜられ、道棲・道恵は棄市に処せられ、禕之ら六人は鞭杖一百を受けた。師伯はまもなく太子中庶子を領した。罷免され挫折したが、任を受けることは以前のようであった。

原文七年,爲尚書右僕射。時分置二選,陳郡謝莊、琅邪王曇生並爲吏部尚書。師伯子舉周旋寒人張奇爲公車令,上以奇資品不當,使兼市買丞,以蔡道惠代之。令史潘道棲、褚道惠、顏禕之、元從夫、任澹之、石道兒、黃難、周公選等抑道惠敕,使奇先到公車,不施行奇兼市買丞事。師伯坐以子預職,莊、曇生免官,道棲、道惠棄市,禕之等六人鞭杖一百。師伯尋領太子中庶人,雖被黜挫,受任如初。

孝武帝が臨終に際し、師伯は遺詔を受けて幼主を補佐し、尚書中の事は専ら彼に委ねた。廃帝が即位すると、再び本来の職に戻り、衛尉を加領した。

原文孝武臨崩,師伯受遺詔輔幼主,尚書中事專以委之。廢帝即位,復還即真,加領衞尉。

師伯は権力の座に長く居たので、天下の人が車の輻が轂に集まるように彼のもとに集まり、その門を遊ぶ者は爵位が分を超えない者はなかった。多くの賄賂を受け取り、家産は豊かに蓄積し、妓妾の声楽は天下の選りすぐりを尽くし、園池と邸宅は当時に冠絶し、驕奢で淫らにほしいままにして、衣冠の士に憎まれた。また尚書僕射に遷り、丹陽尹を領した。廃帝が朝政に親しもうとし、師伯を左僕射に転じた。吏部尚書の王景文を右僕射とした。その京尹を奪い、また台の任を分けた。師伯はここに至って初めて恐れ、柳元景と謀って廃立を図った。

原文師伯居權日久,天下輻協,遊其門者,爵位莫不踰分。多納貨賄,家產豐積,妓妾聲樂,盡天下之選,園池第宅,冠絶當時,驕奢淫恣,爲衣冠所疾。又遷尚書僕射,領丹陽尹。廢帝欲親朝政,轉師伯爲左僕射。以吏部尚書王景文爲右僕射。奪其京尹,又分台任。師伯至是始懼,與柳元景謀廢立。

初め、師伯が朝事を専断し、沈慶之と参画せず、令史に言った、「沈公は爪牙に過ぎない。どうして政事に関与できようか」。慶之はこれを聞いて歯ぎしりし、その謀を漏らした。まもなく太宰の江夏王義恭とともに誅殺され、六人の子は皆殺された。明帝が即位し、諡して荒といった。

原文初,師伯專斷朝事,不與沈慶之參懷,謂令史曰:「沈公爪牙者耳,安得預政事。」慶之聞而切齒,乃泄其謀。尋與太宰江夏王義恭同誅,六子皆見殺。明帝即位,諡曰荒。

沈懷文

原文沈懷文

沈懷文は字を思明といい、呉興郡武康県の人である。祖父の寂は、晋の光禄勲であった。父の宣は、新安太守であった。

原文沈懷文字思明,呉興武康人也。祖寂,晉光祿勳。父宣,新安太守。

懷文は若い時から玄理を好み、文章をよくし、楚昭王二妃の詩を作り、世に称賛された。江夏王義恭の東閣祭酒となった。父の喪に服し、新安郡から送られた故吏の贈り物は豊かであったが、葬送の礼を終えると、残りはすべて親戚に分け与え、少しも留めなかった。文帝はこれを聞いて賞賛し、奴婢六人を賜った。喪が明けると、尚書殿中郎に任ぜられた。隠士の雷次宗が召し出されて鍾山に住み、後に南に帰って廬江に至った。何尚之が餞別の宴を設けると、文義の士が皆集まった。連句詩を作り、懷文の作ったものが特に優れ、文辞は一座の上にあった。随王誕が襄陽に鎮すると、後軍主簿として出向し、諮議参軍の謝荘とともに辞令を掌り、義成太守を領した。

原文懷文少好玄理,善爲文章,爲楚昭王二妃詩,見稱於世。爲江夏王義恭東合祭酒。丁父憂,新安郡送故豐厚,奉終禮畢,余悉班之親戚,一無所留。文帝聞而嘉之,賜奴婢六人。服闋,除尚書殿中郎。隱士雷次宗被征居鍾山,後南還廬江。何尚之設祖道,文義之士畢集。爲連句詩,懷文所作尤美,辭高一座。隨王誕鎭襄陽,出爲後軍主簿,與諮議參軍謝莊共掌辭令,領義成太守。

元嘉二十八年、誕が広州刺史となるべき時、懷文を安南府記室にしようとし、先に通直郎に任じた。懷文は固く南行を辞退したので、上は喜ばなかった。弟の懷遠が東陽公主の養女王鸚鵡を妾にしたが、元凶が巫蠱を行い、鸚鵡がこれに関与し、事が漏れた。懷文はこのため官を失調し、治書侍御史となった。

原文元嘉二十八年,誕當爲廣州,欲以懷文爲安南府記室,先除通直郎。懷文固辭南行,上不悅。弟懷遠納東陽公主養女王鸚鵡爲妾,元凶行巫蠱,鸚鵡豫之,事泄,懷文因此失調,爲治書侍御史。

元凶が帝を弑して立つと、中書侍郎とした。孝武帝が討伐に入ると、呼んで符檄を作らせようとしたが、固く辞退した。劉劭は大いに怒ったが、殷沖が救って免れることができた。病気と偽って落馬し、間道を行って新亭に奔り、竟陵王誕の驃騎録事参軍・淮陵太守とされた。当時、国の喪が明けておらず、誕が内斎を起こそうとした。懷文は良くないと考え、やめさせた。まもなく揚州中従事史に転じた。当時、録尚書を省くことが議論されたが、懷文は適切でないと考え、上奏して議論したが聞き入れられなかった。別駕従事史に遷った。

原文元凶弑立,以爲中書侍郎。孝武入討,呼之使作符檄,固辭。劭大怒,會殷沖救得免。托疾落馬,間行奔新亭,以爲竟陵王誕驃騎錄事參軍、淮陵太守。時國哀未釋,誕欲起內齋。懷文以爲不可,乃止。尋轉揚州中從事史。時議省錄尚書,懷文以爲非宜,上議不從。遷別駕從事史。

江夏王義恭が西陽王子尚を揚州刺史に遷すと、職は以前のままとした。当時、熒惑が南斗を守ると、上は西州の旧館を廃し、子尚を東城に移住させてこれを鎮めようとした。懷文は言った、「天道が変化を示すなら、徳をもって応ずべきです。今たとえ西州を空にしても、恐らく益はないでしょう」。聞き入れられず、西州はついに廃された。

原文及江夏王義恭遷西陽王子尚爲揚州,居職如故。時熒惑守南斗,上乃廢西州舊館,使子尚移居東城以厭之。懷文曰:「天道示變,宜應之以德,今雖空西州,恐無益也。」不從,而西州竟廢。

大明二年、尚書吏部郎に遷った。当時、朝廷で古制に依って王畿を置き、揚州を会稽に移そうと議論した。これも星変のためであった。懷文は言った、「周の制では王畿を封じ、漢では司隷を置き、それぞれ時の宜しきに因ったのであって、反対を存するためではありません。人を安んじ国を定めることは、その道理は同じです。もし人心が安んずるなら、天もこれに従います。必ずしも今を改めて古に追うことで、平一を致すわけではありません。神州の旧壤は、歴代相承し、辺州とは異なり、置いたり罷めたりします。すでに物情が悦ばず、化の本を損なう恐れがあります」。また聞き入れられなかった。

原文大明二年,遷尚書吏部郎,時朝議欲依古制置立王畿,揚州移居會稽,猶以星變故也。懷文曰:「周制封畿,漢置司隸,各因時宜,非存相反。安人定國,其揆一也。苟人心所安,天亦從之。未必改今追古,乃致平一。神州舊壤,歷代相承,異于邊州,或置或罷。既物情不悅,容虧化本。」又不從。

三年、子尚が会稽に移鎮した。撫軍長史に遷り、府州の事を行った。当時、囚人が多く、動かすのに年月を経ていた。懷文が任に着くと、五郡九百三十六の獄を訊問し、皆が公平であると称えた。入朝して侍中となり、寵愛と待遇は厚く親密であった。竟陵王誕が広陵に拠って反乱を起こし、城が陥落すると、士庶は皆裸身で顔を鞭打たれてから刑に加えられ、殺した人の首を石頭の南岸に集め、これを髑髏山といった。懷文はこれが良くないと陳べたが、上は受け入れなかった。

原文三年,子尚移鎭會稽。遷撫軍長史,行府州事。時囚繫甚多,動經年月,懷文到任,訊五郡九百三十六獄,眾咸稱平。入爲侍中,寵待隆密。竟陵王誕據廣陵反,及城陷,士庶皆裸身鞭面然後加刑,聚所殺人首于石頭南岸,謂之髑髏山。懷文陳其不可,上不納。

孝武帝がかつて円丘で祭祀を行おうとした時、期日に至らないうちに雨が降り、夜通し暗かった。明くる朝、風が晴れ、雲の色が甚だ美しかったので、帝は壇に登って喜んだ。懷文が慶賀して言った、「昔、漢の皇帝が郊祀で太一を祀った時、白日に重輪が現れ、神光が四方を照らしました。今、陛下がこの礼を行おうとされ、膏雨が夜を迎え、清らかな景色が朝に麗しい。これは実に聖明が幽玄に感ずる所によるものです。臣は侍臣とともにこれを賦したいと願います」。上は笑って善しと称えた。

原文孝武嘗有事圓丘,未至期而雨晦竟夜。明旦風霽,雲色甚美,帝升壇悅。懷文稱慶曰:「昔漢後郊祀太一,白日重輪,神光四燭。今陛下有事茲禮,而膏雨迎夜,清景麗朝,斯實聖明幽感所致,臣願與侍臣賦之。」上笑稱善。

揚州が会稽に移ると、上は浙江東の人情が和合しないことを憤り、その労禄を貶めようとし、ただ西州の旧人だけは改めなかった。懷文は言った、「揚州が居を移すことは、すでに人情に背き、一州に二つの格があることは、特に大体を失います」。上は聞き入れなかった。

原文揚州移會稽,上忿浙江東人情不和,欲貶其勞祿,唯西州舊人不改。懷文曰:「揚州徙居,既乖人情,一州兩格,尤失大體。」上不從。

沈懐文は顔竣・周朗と元来親しく、竣は上意に背いて誅殺され、朗もまた上意に逆らって罪を得た。帝は懐文に謂う、「竣が朕が彼を殺すと知っていたなら、かくまで敢えてしなかったであろうに」と。懐文は黙然としていた。またかつて歳末に謝莊・王景文・顔師伯と共に勅命を受けて尚書省に入ったが、まだ進み出ぬうちに、景文が談話の間に竣と朗の人才の優れていることを称え、懐文もそれに応和した。師伯は後に語らいの席で帝に奏上し、景文らのこの言葉を述べた。懐文はたびたび上意に触れることがあり、このことで帝はますます悦ばなかった。

原文懷文與顏竣、周朗素善,竣以失旨見誅,朗亦以忤意得罪。上謂懷文曰:「竣若知我殺之,亦當不敢如此。」懷文默然。又嘗以歲夕與謝莊、王景文、顏師伯被敕入省,未及進,景文因談言次稱竣、朗人才之美,懷文與相酬和。師伯後因語次白上,敘景文等此言。懷文屢經犯忤,至此上倍不悅。

帝はまた諸郡の士族を徴発して将吏に充てたが、彼らは兵役に服さず、ついには悉く逃亡するに至った。厳しい制令を加えても禁じ得ず、そこで軍法に改め、逃亡すればその場で斬ることにした。山野や湖沢に奔り竄り、盗賊となって屯集する者が後を絶たなかった。懐文はまたこれについて意見を述べた。

原文上又壞諸郡士族以充將吏,並不服役,至悉逃亡。加以嚴制不能禁,乃改用軍法,得便斬之。莫不奔竄山湖,聚爲盜賊。懷文又以爲言。

斉庫(宮中の倉庫)に上納する絹の年調は巨万匹に及び、綿もまたこれに匹敵し、期限は厳しく峻烈であった。民間では絹一匹が二三千銭、綿一両が三四百銭にまでなり、貧しい者は妻子を売り、甚だしい者は自ら縊死する者もあった。懐文は民の困窮を詳細に陳述し、これによって綿と絹の徴収はわずかに減額されたが、まもなく元に戻った。

原文齋庫上絹年調钜萬疋,綿亦稱此,期限嚴峻。人間買絹一疋至三二千,綿一兩三四百,貧者賣妻子,甚者或自縊死。懷文具陳人困,由是綿絹薄有所減,俄復舊。

子尚ら諸皇子は皆邸舎を設け、什一の利を逐い、その禍患は天下に遍く及んだ。懐文はまた言う、「市店を並べて販売することは、古人の非とするところである。卜式は雨の降らぬ由縁を明らかにし、桑弘羊は旱魃を招いた責めを受けた。もし費用が足りぬというのであれば、まさに量を加え減らし倹約すべきである」と。聞き入れられなかった。

原文子尚等諸皇子皆置邸舍,逐什一之利,爲患遍天下。懷文又曰:「列肆販賣,古人所非。卜式明不雨之由,弘羊受致旱之責。若以用度不充,故宜量加減省。」不聽。

孝建年間以来、諸弟を抑圧し疎外し、広陵王の乱平定後、さらにその科条を峻しくしようとした。懐文は言う、「漢の明帝はその子を光武帝の子と同等に扱わず、前史はこれを美談とする。陛下は既に管叔・蔡叔の誅罰を明らかにされたのであるから、願わくは唐叔・衞康叔のような厚い寄託を尊びたてられますように」と。海陵王休茂が誅殺された後、前の議を遂行しようとした。太宰江夏王義恭が密旨を探り得て、先んじて議題を発したが、懐文は固く不可を請い、これによって事は止んだ。

原文孝建以來,抑黜諸弟,廣陵平後,復欲更峻其科。懷文曰:「漢明不使其子比光武之子,前史以爲美談。陛下既明管、蔡之誅,願崇唐、衞之寄。」及海陵王休茂誅,欲遂前議。太宰江夏王義恭探得密旨,先發議端,懷文固請不可,由是得息。

時に帝の遊幸は度を過ぎ、太后や六宮(后妃)が常に副車に乗って後を従えた。懐文と王景文はたびたび、頻繁に出御すべきでないと諫めた。後に松樹の下に従坐していた時、風雨が甚だ急驟であった。景文が言う、「卿、言うべき時である」と。懐文は言う、「一人で言っても継ぐ者がない。共に陳べるべきである」と。江智深が草むらに臥していたが、これも善いと言った。まもなく召されて共に雉場に入ると、懐文は言う、「風雨この如きは、聖躬の宜しくするところにあらず」と。景文もまた言う、「懐文の啓すところ従うべし」と。智深がまだ言い出す暇もないうちに、帝は弩に矢をつがえ、色をなして言う、「卿は顔竣の真似をしたいのか。どうしていつも人事を知っているのだ」と。また言う、「顔竣の小僧、面を鞭打つことができぬのが恨めしい」と。

原文時游幸無度,太后六宮常乘副車在後。懷文與王景文每諫不宜亟出,後因從坐松樹下,風雨甚驟。景文曰:「卿可以言矣。」懷文曰:「獨言無繼,宜相與陳之。」江智深臥草側,亦謂之善。俄而被召俱入雉場,懷文曰:「風雨如此,非聖躬所宜。」景文又曰:「懷文所啟宜從。」智深未及有言,上方注弩,作色曰:「卿欲效顏竣邪?何以恒知人事。」又曰:「顏竣小子,恨不得鞭其面。」

帝は宴席を開くたびに、在座の者を皆酔いつぶれるまで飲ませた。懐文は元来酒を飲まず、また遊戯を好まなかったので、帝はわざと自分と異なろうとしていると思った。謝莊はかつて懐文に戒めて言う、「卿はいつも人と異なるが、それではどうして長くやっていけようか」と。懐文は言う、「私は幼少の頃からこのようである。一朝にして変えられようか。異なった物事を欲しているのではなく、天性がそうできないのである」と。

原文上每宴集,在坐者咸令沈醉。懷文素不飲酒,又不好戲,上謂故欲異己。謝莊嘗誡懷文曰:「卿每與人異,亦何可久。」懷文曰:「吾少來如此,豈可一朝而變。非欲異物,性之所不能耳。」

大明五年、出向して晉安王子勳の征虜長史・広陵太守となった。明帝が朝正の儀を終えて座に就くと、遣わされて北に還ることを命じられたが、娘の病気を理由に延期を求め、辞去の際にもまた三日の停留を乞い、期限が尽きてもまだ去らなかったため、有司に糾弾され、官を免じられ、十年間出仕を禁じられた。免官された後、邸宅を売って東の故郷に還ろうとした。帝は大いに怒り、廷尉に収監して死を賜った。

原文五年,出爲晉安王子勳征虜長史、廣陵太守。明帝坐朝正事畢,被遣還北,以女病求申,臨辭又乞停三日,訖猶不去,爲有司所糾,免官,禁錮十年。既被免,賣宅還東。上大怒,收付廷尉賜死。

弟の懐遠は始興王劉濬の征北長流参軍となり、深く親しみ遇せられた。王鸚鵡を妾に納めた罪で、孝武帝は彼を広州に流した。刺史の宗愨が彼を殺そうとしたが、ちょうど南郡王義宣が反乱を起こした。懐遠は文筆にかなり通じていたので、愨が義兵を起こすと、檄文を作らせ、また命を受けて始興に至り、始興相の沈法系と起義の事を論じた。乱が平定されると、愨が詳しく陳情して請うたため、これによって罪を赦された。孝武帝の世が終わるまで還ることを得なかった。前廃帝の世に帰還し、武康県令の位に至り、『南越志』を撰し、また懐文の文集と共に世に伝わった。懐文に三人の子あり、淡・深・沖である。

原文弟懷遠爲始興王浚征北長流參軍,深見親待。坐納王鸚鵡爲妾,孝武徙之廣州。刺史宗愨欲殺之,會南郡王義宣反,懷遠頗閑文筆,愨起義,使造檄書,並銜命至始興,與始興相沈法系論起義事。事平,愨具爲陳請,由此見原。終孝武世不得還。前廢帝世歸,位武康令,撰南越志,及懷文文集並傳於世。懷文三子:淡、深、 沖。

懐文の子、沖。

原文懷文子 沖

斉の武帝が江州刺史であった時、沖は征虜長史・尋陽太守となった。斉の建元年間、累遷して太子中庶子となった。武帝が東宮にいた時、旧恩をもって遇せられた。即位すると、御史中丞・侍中に転じた。永明四年、五兵尚書となった。沖は兄の淡・深と名声に優劣があり、世に「腰鼓兄弟」と号された。淡と深は共に御史中丞を歴任した。兄弟三人皆が司直(御史中丞の職掌)となったのは、晋・宋以来未曾有のことである。

原文齊武帝爲江州, 沖爲征虜長史、尋陽太守。齊建元中,累遷太子中庶子。武帝在東宮,待以恩舊。及即位,轉御史中丞、侍中。永明四年,爲五兵尚書。 沖與兄淡、深名譽有優劣,世號爲「腰鼓兄弟」。淡、深並曆御史中丞。兄弟三人皆爲司直,晉、宋所未有也。

中丞は案じて裁断する職務であり、悪とされる者は多く怨みを結んだ。永明年間、深は呉興太守袁彖を弾劾した。建武年間、彖の従弟の袁昂が中丞となり、着任して数日後、深の子の繢が父の存命中に白い幌の車を借りて乗ったことを奏上して弾劾し、免官・禁錮に処した。沖の母の孔氏が東方にいた時、隣家が失火し、人が放火したのではないかと疑われ、大呼して言う、「我が三児は皆御史中丞となっている。人とどうして善くあろうか。今まさに肌は分かれ骨は散らんと恐れるところ、どうしてただ焼かれるのみならんや」と。兄弟は後に共に侍中を歴任し、武帝がまさに沖を任用しようとした時、まもなく卒去した。太常を追贈され、諡して恭子といった。

原文中丞案裁之職,被惡者多結怨。永明中,深彈呉興太守袁彖。建武中,彖從弟昂爲中丞,到官數日,奏彈深子繢父在僦白幰車,免官禁錮。 沖母孔氏在東,鄰家失火,疑爲人所焚爇,大呼曰:「我三兒皆作御史中丞,與人豈有善者。方恐肌分骨散,何但焚如。」兄弟後並曆侍中,武帝方欲任 沖,尋卒。追贈太常,諡曰恭子。

懐文の従父兄、曇慶。

原文懷文從父兄 曇慶

曇慶は、懐文の従父兄である。父の沈発は員外散騎侍郎であった。曇慶は宋に仕えて尚書左丞の位に至った。時に水害と旱害のある年があり、曇慶は常平倉を立てて民の急を救うことを議し、文帝はその言を容れたが、事は行われなかった。

原文曇慶,懷文從父兄也。父發,員外散騎侍郎。曇慶仕宋位尚書左丞。時歲有水旱,曇慶議立常平倉以救人急,文帝納其言而事不行。

大明元年、徐州刺史となった。時に殿中員外将軍の裴景仁が彭城の戍守を助けており、景仁は元来北方の出身で、関中の事情に詳しかった。曇慶は彼に『秦記』十巻を撰ばせ、苻氏(前秦)の事を叙述させた。その書は世に伝わった。

原文大明元年,爲徐州刺史。時殿中員外將軍裴景仁助戍彭城,景仁本北人,多悉關中事。曇慶使撰秦記十卷,敘苻氏事,其書傳於世。

曇慶は謹み深く実直で清廉公正であり、任官した地では称賛される治績を挙げた。常々子弟に言うには、「私は世に処する才能がなく、ただ大老子(大した老人)たることを図るのみである」と。世間は長者として彼を称えた。祠部尚書の任で没した。

原文曇慶謹實清正,所蒞有稱績。常謂子弟曰:「吾處世無才能,圖作大老子耳。」世以長者稱之。卒于祠部尚書。

周朗

原文周朗

周朗、字は義利、汝南安成の人である。父の淳は、宋の初年に侍中、太常の官を歴任した。兄の嶠は武帝の第四皇女である宣城徳公主を娶った。二人の娘は建平王劉宏と廬江王劉褘に嫁いだ。貴戚として顕官となった。朗は若くして奇を愛し、風雅で気概があり、嶠とは志や趣向が異なり、嶠は大いにこれを憎んだ。江夏王劉義恭の太尉参軍となった。

原文周朗字義利,汝南安成人也。父淳,宋初歷位侍中,太常。兄嶠尚武帝第四女宣城德公主。二女適建平王宏、廬江王褘。以貴戚顯官。朗少而愛奇,雅有風氣,與嶠志趨不同,嶠甚疾之。爲江夏王義恭太尉參軍。

元嘉二十七年の春、朝廷で北魏への侵攻が議論され、江夏王義恭を彭城に出鎮させ、諸軍の総指揮官とすることとなった。朗はこれを聞いて官職を辞した。義恭が出鎮するに及んで、府の主簿羊希が従軍し、朗に手紙を送ってからかい、奇策を献上するよう勧めた。朗は返書で古義を援用し、文辞と内容は洒落ていた。

原文元嘉二十七年春,朝議北侵魏,當遣義恭出鎭彭城,爲諸軍大統。朗聞之解職。及義恭出鎭,府主簿羊希從行,與朗書戲之,勸令獻奇進策。朗報書援引古義,辭意倜儻。

孝武帝が即位すると、建平王劉宏の中軍録事参軍に任じられた。当時、百官に率直な意見を求める詔が広く出され、朗は上書して得失を述べたが、多くは自らを誇るものであった。上書した内容が帝の意に逆らい、自ら官を辞して去った。

原文孝武即位,除建平王宏中軍錄事參軍。時普責百官讜言,朗上書陳述得失,多自矜誇。書奏忤旨,自解去職。

後に廬陵内史となった。郡の境界は荒れ果て、多くの野獣がいた。母の薛氏が狩猟を見たいと言ったので、朗は包囲して火を放ち、母に見せた。火が延焼して郡の官舎を焼いた。朗は俸禄の米をすべて用いて家屋を建て、焼失した分を弁償した。病気を理由に官を辞したが、州の役人に糾弾され、都に戻って孝武帝に謝罪して言うには、「州の役人が臣の過失を挙げるのは多くが不当です。臣が郡にいる間、猛獣が三度人を食い、虫や鼠が作物を害しました。この二つの事で陛下に申し訳なく思っています」と。帝は顔色を変えて言った、「州の役人の不当は、あるいはあり得よう。虫獣の災いは、どうして卿の小さな責任に関わろうか(いや、関わらない)。」

原文後爲廬陵內史,郡界荒蕪,頗有野獸。母薛氏欲見獵,朗乃合圍縱火,令母觀之。火逸燒郡解,朗悉以秩米起屋,償所燒之限。稱疾去官,爲州司所糾,還都謝孝武曰:「州司舉臣愆失多不允,臣在郡猛獸三食人,蟲鼠犯稼,以此二事上負陛下。」上變色曰:「州司不允,或可有之。蟲獸之災,甯關卿小物。」

朗はまもなく母の喪に服したが、泣くたびに必ず慟哭し、その他の点では喪に服する通常の礼節によく従わなかった。大明四年、帝は役人に命じて、朗が喪に服する礼を守らなかったことを上奏させた。詔して言うには、「朗は礼に背き口が達者である。まさに斬刑に処すべきであるが、些細な者をもって刑典を乱すに足らず、特に辺境の郡に送致せよ」と。そこで寧州に護送され、途中で殺害された。

原文朗尋丁母憂,每哭必慟,其餘頗不依居喪常節。大明四年,上使有司奏其居喪無禮。詔曰:「朗悖禮利口,宜合翦戮,微物不足亂典刑,特鎖付邊郡。」於是傳送甯州,於道殺之。

朗の族孫 顒

原文朗族孫 顒

朗の族孫の顒。顒、字は彦倫、晋の左光禄大夫である周顗の七世の孫である。祖父の虎頭は員外常侍。父の恂は帰鄕相。

原文朗族孫顒。顒字彥倫,晉左光祿大夫顗七世孫也。祖虎頭,員外常侍。父恂,歸鄕相。

顒は若くして族祖父の朗に認められ、初官として海陵国の侍郎となった。益州刺史の蕭恵開は顒を賞賛し、蜀に連れて行き、厲鋒将軍とし、肥郷・成都の二県令を兼ね、引き続き府の主簿とした。常々恵開の性格があまりに険悪であると言い、たびたび諫めたので、恵開は喜ばず、顒に答えて言った、「天険・地険、王侯が険を設ける、ただその険をどう用いるかを問うのみである」と。恵開に従って都に戻った。

原文顒少爲族祖朗所知,解褐海陵國侍郎。益州刺史蕭惠開賞異顒,攜入蜀,爲厲鋒將軍,帶肥鄕、成都二縣令,仍爲府主簿。常謂惠開性太險,每致諫,惠開不悅,答顒曰:「天險地險,王侯設險,但問用險何如耳。」隨惠開還都。

宋の明帝は玄理を大いに好み、顒に文辞と道理があるとして、殿内に引き入れ、側近として宿直させた。帝が行う残酷なことについて、顒は公然と諫めることはできず、経典中の因縁や罪福の話を誦するだけであったが、帝もそれで少しは止めた。元徽年間、詔により剡県令となり、恩恵を施したので、百姓は彼を慕った。斉の高帝が政務を補佐すると、斉の殿中郎となった。建元初年、長沙王の後軍参軍、山陰令となった。都に戻って文恵太子の中軍録事参軍となった。文恵太子が東宮にいる時、顒は正員郎、始興王の前軍諮議に転じ、殿省に直侍し、深く賞遇を受けた。

原文宋明帝頗好玄理,以顒有辭義,引入殿內,親近宿直。帝所爲慘毒之事,顒不敢顯諫,輒誦經中因緣罪福事,帝亦爲之小止。元徽中,詔爲剡令,有恩惠,百姓思之。齊高帝輔政,爲齊殿中郎。建元初,爲長沙王后軍參軍、山陰令。還爲文惠太子中軍錄事參軍。文惠在東宮,顒遷正員郎,始興王前軍諮議,直侍殿省,深見賞遇。

顒は言葉が明晰で美しく、仏理に長け、『三宗論』を著して空と仮の義を論じた。西涼州の智林道人が顒に手紙を送り深く賞賛して言うには、「麈尾を取ってから四十余年、多くの宗録を見たが、この道(空仮の義)について白黒(是非)を論じ得た者は一人もいなかった。そのため病み、思いがけずこの教えが耳に入ってきた」と。その論がこのように重んじられた。顒は鍾山の西に隠居所を建て、休暇のたびにそこに帰った。

原文顒音辭辯麗,長於佛理,著三宗論言空假義。西涼州智林道人遺顒書深相讚美,言:「捉麈尾來四十餘載,頗見宗錄,唯此塗白黑無一人得者,爲之發病,非意此音猥來入耳」。其論見重如此。顒於鍾山西立隱舍,休沐則歸之。

太子僕に転じ、著作を兼ね、起居注を撰した。中書郎に遷り、引き続き著作を兼ねた。常に東宮に侍して遊んだ。若い頃、母方の外戚である車騎将軍臧質の家で衛恒の散隷書法を得て、学び非常に巧みであった。文恵太子は顒に玄圃の茅斎の壁に書かせた。国子祭酒の何胤が倒薤書で顒と交換を求めた。顒は笑って答えて言った、「天下に道あれば、丘(孔子)も易えようとはしない」と。

原文轉太子僕,兼著作,撰起居注。遷中書郎,兼著作如故。常遊侍東宮。少從外氏車騎將軍臧質家得衞恒散隸書法,學之甚工。文惠太子使顒書玄圃茅齋壁。國子祭酒何胤以倒薤書求就顒換之。顒笑答曰:「天下有道,丘不與易也。」

賓客や友人が集まるたびに、顒は席を空けて語り合い、言葉の調べが流れるように出て、聞く者は倦みを忘れた。兼ねて老子・易に通じ、張融と出会うと、いつも玄言(深遠な議論)で滞り、一日中解けなかった。清貧で寡欲であり、終日野菜を食べ、妻子はいたが、山舎に独り住まいした。非常に機知に富み弁が立った。衛将軍の王儉が顒に言った、「卿は山中で何を食べているのか」と。顒は言った、「赤米と白塩、緑の葵と紫の蓼です」と。文恵太子が顒に菜食でどの味が最も優れているかと尋ねると、顒は言った、「春の初めの早韭と、秋の末の晩菘です」と。何胤もまた仏法を深く信じ、妻を持たなかった。太子がまた顒に尋ねた、「卿の精進は何胤と比べてどうか」と。顒は言った、「三途八難は、共に免れられません。しかし、それぞれに煩いがあります」と。太子が言った、「その煩いとは何か」と。答えて言った、「周(顒)には妻が、何(胤)には肉が」と。その言葉の応変はこのようなものであった。

原文每賓友會同,顒虛席晤語,辭韻如流,聽者忘倦。兼善老、易,與張融相遇,輒以玄言相滯,彌日不解。清貧寡欲,終日長蔬,雖有妻子,獨處山舍。甚機辯,衞將軍王儉謂顒曰:「卿山中何所食?」顒曰:「赤米白鹽,綠葵紫蓼。」文惠太子問顒菜食何味最勝,顒曰:「春初早韭,秋末晩菘。」何胤亦精信佛法,無妻。太子又問顒:「卿精進何如何胤?」顒曰:「三塗八難,共所未免,然各有累。」太子曰:「累伊何?」對曰:「周妻何肉。」其言辭應變如此。

国子博士に転じ、引き続き著作を兼ねた。太学の諸生はその風采を慕い、華やかな弁論を競った。初めて『四声切韻』を著し、当時に流行した。後に官の任で没した。子に舍がいる。

原文轉國子博士,兼著作如故。太學諸生慕其風,爭事華辯。始著四聲切韻行于時。後卒於官。子舍。

顒の子に舍あり。

原文顒子 舍

舍は字を升逸といい、幼くして聡明で、顒はこれを異とした。臨終に謂いて曰く、「汝は富貴ならざるを患うることなかれ、但だこれに将するに道徳を以てすべし」と。長じて博学となり、特に義理に精しく、詩書を誦するに善く、音韻清らかに弁ず。弱冠にして秀才となり、太学博士に除せられる。従兄の綿が剡県令となり、贓汙少なからず、資財を籍没せられると、舍は乃ち宅を推してこれを助く。

原文舍字升逸,幼聰穎,顒異之。臨終謂曰:「汝不患不富貴,但當將之以道德。」及長博學,尤精義理,善誦詩書,音韻清辯。弱冠秀才,除太學博士。從兄綿爲剡縣,贓汙不少,籍沒資財,舍乃推宅助焉。

建武年中、魏人呉苞が南帰し、儒学あり。尚書僕射江祏が苞を招いて講ぜしめると、舍は坐に造りて苞を折し、辞理遒逸にして、ここにより名を口弁と為す。王亮が丹陽尹となり、これを聞きて悦び、主簿に辟し、政事多くこれを委ぬ。太常丞に遷る。

原文建武中,魏人呉苞南歸,有儒學。尚書僕射江祏招苞講,舍造坐折苞,辭理遒逸,由是名爲口辯。王亮爲丹陽尹,聞而悅之,辟爲主簿,政事多委焉。遷太常丞。

梁の武帝即位し、吏部尚書范雲は顒と素より善くし、舍の才器を重んじ、武帝にこれを言い、召して尚書祠部郎に拝す。礼儀の損益は、多く舍より出づ。先に、帝は諸王及び呉平侯に与うる書に皆「弟」と云えり、舍は議を立て、武王・周公の故事を引き、皆「汝」と曰うべしとし、これに従う。

原文梁武帝即位,吏部尚書范雲與顒素善,重舍才器,言之武帝,召拜尚書祠部郎。禮儀損益,多自舍出。先是,帝與諸王及呉平侯書皆云弟,舍立議,引武王、周公故事,皆曰汝,從之。

累遷して鴻臚卿となる。時に王亮は罪を得て家に帰り、故人至る者なく、舍独り恩旧を敦くす。亮の卒するに及び、身を以て殯葬を営み、時に人これを称す。尚書吏部郎、太子右衞率、右衞将軍に遷る。職に居ること屡び徙るも、常に省内に留まり、休下を得ること罕なり。国史詔誥、儀体法律、軍旅謀謨、皆兼ねてこれを掌る。日夜上に侍し、機密に預かること二十余年、未だ左右を離れず。帝は公輔の器有りと為す。

原文累遷鴻臚卿。時王亮得罪歸家,故人莫至,舍獨敦恩舊。及亮卒,身營殯葬,時人稱之。遷尚書吏部郎,太子右衞率,右衞將軍。雖居職屢徙,而常留省內,罕得休下。國史詔誥,儀體法律,軍旅謀謨,皆兼掌之。日夜侍上,豫機密二十餘年,未嘗離左右。帝以爲有公輔器。

初め、范雲卒す、僉に沈約の枢管に允当たるを以てす。帝は約の輕易なるは徐勉に如かずと為し、ここに於いて勉・舍同じく国政に参ず。勉は小嫌に中りて廃せられ、舍は専ら権轄を掌る。雅量は勉に及ばざれども清簡はこれを過ぎ、両人倶に賢相と称せらる。

原文初,范雲卒,僉以沈約允當樞管,帝以約輕易不如徐勉,於是勉、舍同參國政。勉小嫌中廢,舍專掌權轄,雅量不及勉而清簡過之,兩人俱稱賢相。

時に国史を議し、文帝紀伝の名を疑う。舍は以て「帝紀は百事を籠むること、幹象の六爻を包むが如し。今若し追いて紀と為さば、則ち事包むる所無く、若し直ちに功德を書かば、則ち伝にして紀に非ず。応に上紀の前に於いて、略かに仰述有るべし」とす。これに従う。

原文時議國史,疑文帝紀傳之名。舍以爲「帝紀之籠百事,如幹象之包六爻,今若追而爲紀,則事無所包,若直書功德,則傳而非紀。應于上紀之前,略有仰述」。從之。

舍は占対弁捷にして、嘗て直廬に居るに、語嗜好に及び、裴子野は言う、従来姜を嘗むることなしと。舍は声に応じて曰く、「孔は'徹せず'と称し、裴は乃ち嘗めず」と。一座皆悦ぶ。人と論謔するも、終日絶えず、而して竟に機事の漏泄を言わず、衆特にこれを服す。性倹素にして、衣服器用、居処床席、布衣の貧者の如し。毎に官府に入るも、広廈華堂と雖も、閨閣重邃たりとも、舍の居る則ち塵埃満積す。荻を以て障いと為し、壊るるも修めず。侍中・太子詹事を歴任す。普通五年、南津校尉郭祖深が始興相白渦の書を獲、舍に衣履及び婢を餉り、以て聞こえしむ。坐して免官せらる。右驍騎将軍を以て詹事を知る。卒す。上臨哭して哀しみ左右を動かし、侍中・護軍将軍を追贈し、諡して簡子と曰う。

原文舍占對辯捷,嘗居直廬,語及嗜好,裴子野言從來不嚐食薑。舍應聲曰:「孔稱'不徹',裴乃不嚐。」一坐皆悅。與人論謔,終日不絶,而竟不言漏泄機事,眾尤服之。性儉素,衣服器用,居處床席,如布衣之貧者。每入官府,雖廣廈華堂,閨閣重邃,舍居之則塵埃滿積。以荻爲障,壞亦不修。曆侍中、太子詹事。普通五年,南津校尉郭祖深獲始興相白渦書,餉舍衣履及婢,以聞,坐免官。以右驍騎將軍知詹事。卒。上臨哭哀動左右,追贈侍中、護軍將軍,諡曰簡子。

初め、帝は中原に鋭意し、群臣皆不可と言う。唯だ舍のみこれを賛成す。普通年中、累ねて捷を献ず。帝その功を思い、詔を下してその徳美を述ぶ。以て「往者南司白渦の劾有り、外議朕に私有りと謂うを恐れ、この黜免を致す。この人一介の善を追愧し、外は量りて褒異を加え、以て善人を旌ぐべし」と為す。舍の集二十巻。二子弘義・弘信、弟子弘正。

原文初,帝銳意中原,群臣咸言不可,唯舍贊成之。普通中,累獻捷,帝思其功,下詔述其德美。以爲「往者南司白渦之劾,恐外議謂朕有私,致此黜免。追愧若人一介之善,外可量加褒異,以旌善人」。舍集二十卷。二子弘義、弘信,弟子弘正。

舍の従子に弘正あり。

原文舍從子 弘正

弘正は字を思行という。父は宝始、梁の司徒祭酒。弘正は幼くして孤となり、弟の弘讓・弘直と倶に伯父舍に養わる。年十歳、老子・周易に通ず。舍は毎に談論するに、輒ちこれを異とし、曰く、「汝の清理警発を観るに、後世知名、当に吾が右に出づべし」と。河東の裴子野は深く相賞納し、請うて女を以てこれに妻せんとす。十五歳、召されて国子生に補せられ、仍て国学に於いて易を講じ、諸生その義を伝習す。季春に入学し、孟冬に応挙せんとす。学司は日浅きを以て許さず。博士到洽曰く、「周郎弱冠にして経を講ず、豈に策試を俟たんや」と。

原文弘正字思行。父寶始,梁司徒祭酒。弘正幼孤,及弟弘讓、弘直俱爲伯父舍所養。年十歲,通老子、周易。舍每與談論,輒異之,曰:「觀汝清理警發,後世知名,當出吾右。」河東裴子野深相賞納,請以女妻之。十五,召補國子生,仍于國學講易,諸生傳習其義。以季春入學,孟冬應舉,學司以日淺不許。博士到洽曰:「周郎弱冠講經,豈俟策試?」

普通年中、初めて司文義郎を置き、寿光省に直し、弘正を以て司義侍郎と為す。弘正は醜にして陋ならず、吃にして能く談じ、俳諧は優に似、剛腸は直に似、玄理に善く、当世の宗と為る。蔵法師が開善寺に於いて講説し、門徒数百、弘正は年少にして未だ名を知られず、紅褌を著け、錦絞髻を結い、門に踞りて聴く。眾人これを蔑むも、譴れず。既にして間を乗じて進みて難じ、挙坐尽く傾く。法師は世人に非ざるを疑い、覘い知りて、大いに相賞狎す。劉顕が尋陽に之かんとし、朝賢畢く祖道す。顕は帛十匹を県け、約して曰く、「険衣来る者を以てこれを賞す」と。眾人競いに常服を改むるも、長短の間に過ぎず。顕曰く、「将にこれに甚だしき者有らん」と。既にして弘正は緑絲布の褲、繡假種を着け、軒昂として至り、標を折りて帛を取る。中大通三年、昭明太子薨じ、その嗣華容公立つことを得ず。乃ち晋安王綱を以て皇太子と為す。弘正は奏記し、請うて「目夷の上仁の義に抗し、子臧の大賢の節を執らん」と。その抗直守正この如し。

原文普通中,初置司文義郎,直壽光省,以弘正爲司義侍郎。弘正醜而不陋,吃而能談,俳諧似優,剛腸似直,善玄理,爲當世所宗。藏法師于開善寺講説,門徒數百,弘正年少,未知名,著紅褌,錦絞髻,踞門而聽,眾人蔑之,弗譴也。既而乘間進難,舉坐盡傾,法師疑非世人,覘知,大相賞狎。劉顯將之尋陽,朝賢畢祖道,顯縣帛十匹,約曰:「險衣來者以賞之。」眾人競改常服,不過長短之間。顯曰:「將有甚於此矣。」既而弘正綠絲布褲,繡假種,軒昂而至,折標取帛。中大通三年,昭明太子薨,其嗣華容公不得立,乃以晉安王綱爲皇太子。弘正奏記,請「抗目夷上仁之義,執子臧大賢之節」。其抗直守正如此。

常に自ら才有りて相無しと称す。僕射徐勉は選を掌り、その陋なるを以て尚書郎に堪えずと為し、乃ち勉に献書し、その言甚だ切なり。稍く遷って国子博士となる。学中に宋の元凶の孝経を講ずる碑有り、歴代改めず。弘正始めて官に到り、即ち表して刊除を請う。時に城西に士林館を立て、弘正は居りて以て講授し、聴く者朝野を傾く。弘正は周易疑義凡そ五十条を啓し、又乾坤二系を釈せんことを請う。復た詔を以てこれに答う。

原文常自稱有才無相,僕射徐勉掌選,以其陋不堪爲尚書郎,乃獻書於勉,其言甚切。稍遷國子博士。學中有宋元凶講孝經碑,歷代不改,弘正始到官,即表刊除。時于城西立士林館,弘正居以講授,聽者傾朝野焉。弘正啟周易疑義凡五十條,又請釋乾坤二系,復詔答之。

後に平西邵陵王府諮議参軍となり、罪有りて流徙に応ず。勅を以て幹陀利国に賜う。未だ去らず、尚方に寄系せらる。獄に於いて武帝の講武詩を上す。勅を降して罪を原し、仍て本位に復す。

原文後爲平西邵陵王府諮議參軍,有罪應流徙,敕以賜幹陀利國。未去,寄系尚方。于獄上武帝講武詩,降敕原罪,仍復本位。

弘正は博物にして、玄象を知り、占候に善し。大同末、嘗て弟弘讓に謂いて曰く、「国家は数年に阨せられ、当に兵起こるべし。吾と汝は何の所にかこれに逃るるを知らん」と。武帝が侯景を納るるに及び、弘正は弘讓に謂いて曰く、「乱の階これなり」と。台城陥ち、弘正は王偉に諂附し、又周石珍と合族し、景の諱いみなを避け、姓を改めて姬氏と為し、太常に拝す。景の将に篡せんとする際、礼儀を掌らしむ。

原文弘正博物,知玄象,善占候。大同末,嘗謂弟弘讓曰:「國家阨在數年,當有兵起,吾與汝不知何所逃之。」及武帝納侯景,弘正謂弘讓曰:「亂階此矣。」台城陷,弘正諂附王偉,又與周石珍合族,避景諱,改姓姬氏,拜太常。景將篡之際,使掌禮儀。

王僧辯が東征するに及んで、元帝は僧辯に言った、「王師が近くに駐屯するにあたり、朝士のうち誰が先に来るであろうか」。王僧辯は言った、「それは周弘正でしょう。弘正は智謀は機会に遅れず、体躯は勝負に耐え、妻子の顧慮がなく、独断の明がある。その他は碌碌として及ばない」。ほどなく前部から伝えられて弘正が到着したというので、僧辯は飛騎を以て迎えた。会見すると、大いに喜び、言った、「私はもとより王僧達が機会に遅れぬ者であると知っていた。公は私の膝の上に座ってもよい」。弘正は答えて言った、「進んで膝の上に載せられんとするが如しと謂うべきで、老いぼれ何をもってか当たらん」。僧辯は即日に元帝に啓上し、元帝は手書を弘正に与え、使者を遣わして迎えさせ、朝士に言った、「晋氏が呉を平らげたときは、二陸を得て喜んだ。今、私が賊を討つに、また両周を得た」。到着すると、礼遇は甚だ厚く、朝臣に比ぶるものなし。黄門侍郎を授け、侍中省に直す。ほどなく左戸尚書に遷り、散騎常侍を加えられる。夏の月に犢鼻褌を着け、朱衣を衣て、有司に弾劾された。その放達はこのようであった。

原文及王僧辯東討,元帝謂僧辯曰:「王師近次,朝士孰當先來?」王僧辯曰:「其周弘正乎。弘正智不後機,體能濟勝,無妻子之顧,有獨決之明,其餘碌碌不逮也。」俄而前部傳云弘正至,僧辯飛騎迎之。及見,歡甚,曰:「吾固知王僧達非後機者,公可坐吾膝上。」對曰:「可謂進而若將加諸膝,老夫何足以當。」僧辯即日啟元帝,元帝手書與弘正,仍遣使迎之,謂朝士曰:「晉氏平呉,喜獲二陸,今我討賊,亦得兩周。」及至,禮數甚優,朝臣無比。授黃門侍郎,直侍中省。俄遷左戸尚書,加散騎常侍。夏月著犢鼻褌,衣朱衣,爲有司所彈。其放達如此。

元帝はかつて『金樓子』を著し、言った、「私は諸僧の中では招提の琰法師を重んじ、隠士では華陽の陶貞白を重んじ、士大夫では汝南の周弘正を重んず。その義理についての清く転ずること窮まりなく、また一時の名士である」。

原文元帝嘗著金樓子,曰:「余于諸僧重招提琰法師,隱士重華陽陶貞白,士大夫重汝南周弘正,其于義理清轉無窮,亦一時之名士也。」

弘正は清談を善くし、梁末において玄宗の冠たるものであった。侯景が平定されると、僧辯は秘府の図籍を送ることを啓上し、弘正に勅して校勘させた。

原文弘正善清談,梁末爲玄宗之冠。及侯景平,僧辯啟送秘府圖籍,敕弘正讎校。

当時、遷都の議があったが、元帝は再び荊陝に臨んで、前後二十余年、情が安んじて恋い慕い、建業に帰ることを欲しなかった。兼ねて旧府の臣僚は皆楚人であり、ともに江陵に即時に都することを欲し、言った、「建康は旧都であるが、荒廃は極まっている。かつ王気は既に尽き、また北朝と止だ一江を隔てるのみで、もし不慮の事あれば、悔いても及ばない。かつ臣らはまた聞く、荊南に天子気ありと。今その応ずるところであろう」。元帝に去る意思はなかった。時に尚書左僕射の王褒及び弘正がともに侍っていた。帝は顧みて言った、「卿らの意見はどうか」。王褒らは帝が猜忌深いことを以て、衆中で公然と害を言うことを敢えず、唯唯とするのみであった。王褒は後に清閑な時を因み、密かに丹陽に還ることを諫めて甚だ切実であり、帝はこれを納れたが、色は悦ばなかった。翌日、衆中で王褒に言った、「卿は昨日建鄴に還ることを勧めたが、道理がないわけではない。私は昨夜考えたが、なお疑念を抱いている」。王褒は受け入れられぬと知り、止めた。他日、弘正は厳正な顔色で諫め、再三に及び、言った、「もし士大夫の如きは、ただ聖王の都とするところであり、本より定まった処はない。黔首に至っては、建鄴城に入るのを見ずして、未だ天子にあらずと謂い、なお列国の諸王の如し。今日、百姓の心に赴くには、建鄴に帰らざるべからず」。当時は頗る相酬い許諾した。弘正が退いた後、黄羅漢、宗懍が言った、「弘正、王褒はともに東の人であり、東下を勧めるは、国の計のためではない」。弘正は密かにその言を知り、他日また進み出て面と向かって二人を折伏し、言った、「もし東の人が下ることを勧めるのを私計と謂うならば、西の人が西に留まることを勧めるのもまた私計ではないか」。衆人は黙然とし、而して人情はともに遷都を勧めた。上はまた後堂に文武を大集させ、その会に預かる者四五百人、帝は人情を遍く試みようと欲し、言った、「私が去ることを勧める者は左袒せよ」。ここに於いて左袒する者は過半に及んだ。武昌太守の朱買臣は、上の旧左右であり、而して閹人であるが、頗る幹用があり、故に上はこれを抜擢した。この時に至って上に遷都を勧め、言った、「買臣の家は荊州にある。豈に官長が住むことを願わざらんや。但し恐らくは買臣の富貴であって、官の富貴ではないか」。上はその言を深く感じたが、ついに用いることができなかった。

原文時朝議遷都,但元帝再臨荊陝,前後二十餘年,情所安戀,不欲歸建業。兼故府臣僚皆楚人,並欲即都江陵,云:「建康蓋是舊都,雕荒已極。且王氣已盡,兼與北止隔一江,若有不虞,悔無所及。且臣等又聞荊南有天子氣,今其應矣。」元帝無去意。時尚書左僕射王褒及弘正咸侍,帝顧曰:「卿意何如?」褒等以帝猜忌,弗敢眾中公害,唯唯而已。褒後因清閒,密諫還丹陽甚切,帝雖納之,色不悅。及明日,眾中謂褒曰:「卿昨勸還建鄴,不爲無理,吾昨夜思之,猶懷疑惑。」褒知不引納,乃止。他日,弘正乃正色諫,至於再三,曰:「若如士大夫,唯聖王所都,本無定處。至如黔首,未見入建鄴城,便謂未是天子,猶列國諸王。今日赴百姓之心,不可不歸建鄴。」當時頗相酬許。弘正退後,黃羅漢、宗懍乃言:「弘正、王褒並東人,仰勸東下,非爲國計」。弘正竊知其言,他日乃復上前面折二人,曰:「若東人勸下東,謂之私計,西人勸住西,亦是私計不?」眾人默然,而人情並勸遷都。上又曾以後堂大集文武,其預會者四五百人,帝欲遍試人情,曰:「勸吾去者左袒。」於是左袒者過半。武昌太守朱買臣,上舊左右,而閹人也,頗有幹用,故上擢之。及是勸上遷,曰:「買臣家在荊州,豈不願官長住,但恐是買臣富貴,非官富貴邪!」上深感其言,卒不能用。

魏が江陵を平定するに及んで、弘正は遁れて建鄴に帰った。太平元年、侍中を授けられ、国子祭酒を領し、太常卿・都官尚書に遷る。陳の武帝は太子詹事を授けた。天嘉元年、侍中・国子祭酒に遷り、長安に往って宣帝を迎えた。三年、周より還る。廃帝が位を嗣ぐと、都官尚書を領し、五礼の事を総知する。宣帝が即位すると、特進に遷り、国子祭酒を領し、扶を加えられる。太建五年、尚書右僕射を授けられる。ほどなく勅して東宮に侍し、論語・孝経を講論する。太子は弘正の徳望が平素より重いことを以て、師資としての敬いがあった。

原文及魏平江陵,弘正遁歸建鄴。太平元年,授侍中,領國子祭酒,遷太帝卿、都官尚書。陳武帝授太子詹事。天嘉元年,遷侍中、國子祭酒,往長安迎宣帝。三年,自周還。廢帝嗣位,領都官尚書,總知五禮事。宣帝即位,遷特進,領國子祭酒,加扶。太建五年,授尚書右僕射。尋敕侍東宮講論語、孝經。太子以弘正德望素重,有師資之敬焉。

弘正は特に玄言を善くし、兼ねて釈典に明るく、碩徳の名僧といえども、質疑滞りを請わざるはなかった。六年、官に卒す。年七十九。侍中・中書監を贈られ、諡して簡子という。著すところに『周易講疏』十六巻、『論語疏』十一巻、『莊子疏』八巻、『老子疏』五巻、『孝経疏』二巻、『集』二十巻あり、世に行われる。

原文弘正特善玄言,兼明釋典,雖碩德名僧,莫不請質疑滯。六年,卒官,年七十九,贈侍中、中書監,諡曰簡子。所著周易講疏十六卷,論語疏十一卷,莊子疏八卷,老子疏五卷,孝經疏二卷,集二十卷,行於代。

子の豫玄、年十四、ともに車に載せられて東に入り、小船に乗って岸を渡るに、藤の花を見て、弘正がこれを引っ張ると、船は覆りともに溺れた。弘正は僅かに免れ、豫玄は遂に心驚の疾を得た。次子の墳、尚書吏部郎。

原文子豫玄,年十四,與俱載入東,乘小船度岸,見藤花,弘正挽之,船覆俱溺,弘正僅免,豫玄遂得心驚疾。次子墳,尚書吏部郎。

弘正の弟 弘讓

原文弘正弟 弘讓

弘讓は性質簡素、博学で通ずること多し。初め仕えて志を得ず、句容の茅山に隠れ、頻りに征召されても出なかった。晩年に侯景に仕え、中書侍郎となり、人がその故を問うと、答えて言った、「昔は王道が正直であり、礼を以て進退することができた。今は乾坤が易位し、至らざれば将に人に害を及ぼさんとする。私は死を畏れるのみ」。初め彭城の劉孝先も辟命を辞し、兄の孝勝に随って蜀に在った。武陵王が建号すると、仕えて世子府諮議参軍となる。二隠ともに世に譏りを獲た。

原文弘讓性簡素,博學多通。始仕不得志,隱于句容之茅山,頻征不出。晩仕侯景,爲中書侍郎,人問其故,對曰:「昔王道正直,得以禮進退,今乾坤易位,不至將害於人,吾畏死耳。」始彭城劉孝先亦辭辟命,隨兄孝勝在蜀。武陵建號,仕爲世子府諮議參軍。二隱並獲譏於代。

弘讓は承聖初年、国子祭酒となる。二年、仁威將軍となり、句容に城してこれに居住させ、名付けて仁威壘という。陳の天嘉初年、白衣のまま太常卿・光禄大夫を領し、金章紫綬を加えられる。

原文弘讓承聖初,爲國子祭酒。二年,爲仁威將軍,城句容以居之,命曰仁威壘。陳天嘉初,以白衣領太常卿、光祿大夫,加金章紫綬。

弘讓の弟 弘直

原文弘讓弟 弘直

弘讓の弟の弘直、字は思方、幼くして聡敏なり。梁に仕えて西中郎湘東王外兵記室参軍となり、東海の鮑泉、南陽の宗懍、平原の劉緩、沛国の劉彀とともに書記を掌る。王が江州・荊州二州に出鎮すると、累ねて諮議参軍に除される。承制に及んで、湘濱県侯に封ぜられる。累遷して昌州刺史となる。

原文弘讓弟弘直,字思方,幼而聰敏。仕梁爲西中郎湘東王外兵記室參軍,與東海鮑泉、南陽宗懍、平原劉緩、沛國劉彀同掌書記。王出鎭江、荊二州,累除諮議參軍。及承制,封湘濱縣侯。累遷昌州刺史。

王琳が挙兵すると、弘直は湘州に在ったが、王琳が敗れると、陳に入り、位は太常卿・光禄大夫、金章紫綬を加えられる。

原文王琳之舉兵,弘直在湘州,琳敗,乃入陳,位太帝卿、光祿大夫,加金章紫綬。

弘直は方正雅やかで敦厚、気調は次兄より高し。或る人が三周孰れか賢いかと問うと、人は言った、「蜂腰の如し」。太建七年に卒す。遺疏に、「気絶の後は、直ちに市中に見える材の小形のものを買え。斂には時服を用い、古人の通制である。但し下って先人に会うには、必ず礼を備えねばならぬ。単衣の裙衫と故履を着けよ。既に侍養に応ずるには、宜しく紛帨を備うべし。或いは善友に逢えば、また香煙を須い、棺内には唯だ白布の手巾と粗き香炉を安んずるのみ。此外用いるところなし」。家に卒す。年七十六。集二十巻あり。

原文弘直方雅敦厚,氣調高於次昆。或問三周孰賢,人曰:「若蜂腰矣」。太建七年卒。遺疏:「氣絶之後,便買市中見材小形者。斂以時服,古人通制,但下見先人,必須備禮,可著單衣裙衫故履。既應侍養,宜備紛帨,或逢善友,又須香煙,棺內唯安白布手巾粗香爐而已,此外無所用。」卒於家,年七十六。有集二十卷。

子の確、字は士潛、容儀美しく、寬大に行檢あり。経史に博く渉り、篤く玄言を好む。位は都官尚書、禎明初年に卒す。

原文子確,字士潛,美容儀,寬大有行檢。博涉經史,篤好玄言。位都官尚書,禎明初卒。

史評

原文史評

論ずるに、文人は細行を護らず、古今の同然とするところなり。その声裁の知る所によるが故に、人に忤うことを取るなり。顔・謝の宋朝に於けるを観るに、一代に名高からざるに非ず、霊運は既に以て斃れを取し、延之も亦当年に躓けり、向に所謂身を貴ぶは、翻って己を害する者と成れり。士遜は筆を援いて罪を数え、讎を陵ぎて難を犯し、彼の慈親を餌として、之を獣の吻に棄つ、此を以て忠と為すも、前誥に聞こえず。夫れ自ら其の親を忍ぶは、必ず将に人の親を忍ばんとす、士遜は自ら其の孝を忘れ、期して以て人の孝を申さんとす、自ら厳父の辞允にして義愜たるに非ざれば、則ち免れ難きかな。師伯の己を行なうは欲に縦し、進を好みて退を忘る、既に此を以て始まり、亦此を以て終わる、宜なるかな。懐文の蹈履する所は、以て古烈を追蹤するに足れり、孔母の中丞に懼れを致すは、其の誡深し。周朗の始終の節は、亦倜儻として尤もと為す。顒・舍父子は、文雅墜ちず、弘正兄弟の義業は、ほとんど徳門に幾る者かな。

原文論曰:文人不護細行,古令之所同焉。由夫聲裁所知,故取忤於人者也。觀夫顏、謝之於宋朝,非不名高一代,靈運既以取斃,延之亦躓當年,向之所謂貴身,翻成害己者矣。士遜援筆數罪,陵讎犯難,餌彼慈親,棄之獸吻,以此爲忠,無聞前誥。夫自忍其親,必將忍人之親,士遜自忘其孝,期以申人之孝,自非嚴父之辭允而義愜,則難乎免矣。師伯行己縱欲,好進忘退,既以此始,亦以此終,宜乎。懷文蹈履之地,足以追蹤古烈,孔母致懼中丞,其誡深矣。周朗始終之節,亦倜儻爲尤。顒、舍舍父子,文雅不墜,弘正兄弟義業,幾乎德門者焉。