南史
巻三十三 巻三十四
列伝第二十三
泰は初め太学博士となり、外弟の荊州刺史王忱が天門太守に請うた。忱は酒を嗜み、酔うと輒ち旬を累ね、醒めると儼然として端粛であった。泰は酒が既に生を傷つけることを陳べ、深く戒むべきことを説き、その言甚だ切実であった。忱は嗟歎すること久しくして曰く、「 規 める者衆しといえども、未だ此の如き者はあらざるなり」と。或る人が忱に問うて、范泰は謝邈に何如と、忱曰く「茂度は漫なり」と。又問うて殷覬に何如と、忱曰く「伯通は易し」と。忱は常に功を立てんとする意あり、泰に謂いて曰く「今城池既に立ち、軍甲も亦充つ。 将 に中 原 を掃除して、以て宿昔の志を申さんと欲す。伯通は意鋭し、当に戈を擁して前駆せしむべし。君の持重を以て、相委ねて留事をせんと欲す。何如」と。泰曰く「百年の逋寇、前賢の挫屈する者多し。功名は貴しといえども、鄙生の敢えて謀らざる所なり」と。
会に忱病卒す。泰を召して驃騎諮議参軍と為し、中書郎に遷る。時に会稽世子元顕権を専らにし、内外の百官の請假するも、復た表して聞かず、唯だ元顕に簽するのみ。泰言して以て宜しからずと為すも、元顕納れず。父憂を以て職を去り、爵を襲いて陽遂郷侯と為る。
桓玄晋を輔く。御史中丞祖台之をして泰及び前 司徒 左長史王准之、輔国将軍司馬珣之を奏せしめ、並びに喪に居りて礼無しとす。泰坐して廃せられ、丹徒に徙る。
宋武帝の義旗建つ。累遷して黄門侍郎、御史中丞と為る。殷祠の事を議して謬れるに坐し、白衣として職を領す。出でて東陽太守と為る。歴て侍中、度支尚書。時に僕射陳郡謝混は後進にして知名、武帝嘗て従容として混に問う「泰の名輩は誰に比す」と。対えて曰く「王元太の一流の人なり」と。徙めて太常と為す。
初め、 司徒 道規に子無く、文帝を養う。道規薨ずるに及び、兄道憐の第二子義慶を以て嗣と為す。武帝は道規の素より文帝を愛するを以て、又た重きに居らしむ。道規の追封して南郡公と為るに及び、先の華容県公を以て文帝に賜うべきなり。泰議して以て「礼に二主無し」と為す。是より文帝本属に還る。
後に 散騎常侍 を加えられ、尚書兼 司空 と為り、右僕射袁湛と共に宋公に九錫を授け、軍に随って洛陽に到る。武帝彭城に還り、泰と城に登る。泰は足疾有り、特命して輿に乗せしむ。泰は酒を好み、小節に拘わらず、通率として心に任す。公坐といえども、笑言私室に異ならず、武帝甚だ賞愛す。然れども政を為すに短く、故に政事官に在ること得ず。
武帝命を受く。国学を建つるを議し、泰を以て国子祭酒を領せしむ。泰上表して奨進の道を陳ぶ。時に学竟に立たず。又た事を言う者多くは銭貨の減少を以てし、国用足らず、更に五銖を造らんと欲す。泰又た諫めて曰く、
臣聞く、国の弊を拯うには、本を務むるに若くは莫しと。「百姓足らざれば、君孰れと与にか足らん」、人貧にして国富なること未だ有らず、本足らずして末余り有る者も無し。故に囊漏れて貯中にす、識者は吝まず、裘を反して薪を負う、毛を存するは実に難し。王者は有無を言わず、諸侯は多少を説かず、食禄の家は百姓と利を争わず。故に葵を抜くは以て政を明らかにする所以なり、蒲を織るは之を不仁と謂う。是を以て貴賤章有り、職分爽無し。今の憂うる所は、農人尚だ寡く、倉廩未だ充たず、転運已むこと無く、食を資する者衆く、家に私積無く、以て荒に禦し難きのみ。夫れ貨は貿易に存し、多少に在らず、昔日の貴きは、今者の賤しき、彼此之を共にし、其の揆一なり。但だ官人の均通を令すれば、則ち不足を患うること無し。若し必ず貨の広きを資として以て国用を収めんと使わば、則ち亀貝の属は、古より行わるる所なり。銅の器と為るを尋ぬれば、用に在りて博し、鍾律の通ずる所は遠く、機衡の揆うる所は大なり。夏鼎図を負い、実に衆瑞に冠たり、晋鐸象を呈し、亦た休徴を啓く。器に要用有れば、則ち貴賤同じく資し、物に適宜有れば、則ち家国共に急し。今必ず資するの器を毀ちて、施すこと無きの銭と為すは、貨に於いては則ち功労を補わず、用に在りては則ち君人俱に困す。実を以て校うれば、損多く益少なし。伏して願わくは、久しきべきの道を思い、速やかならんと欲するの情を探り、山海の納を弘め、芻牧の説を択ばんことを。
景平の初め、位を加えて特進と為し、明年致仕し、国子祭酒を解く。少帝位に在り、諸の愆失多し。泰封事を上て極諫す。少帝納むること能わざるも、亦た譴を加えず。徐羨之、傅亮等は泰と素より平らかならず、廬陵王義真・少帝害せらるるに及び、泰親しむ所に謂いて曰く「吾古今を観ること多し、未だ遺をうけ顧托して、而して嗣君殺を見、賢王戮に嬰るる者有らず」と。元嘉二年、泰表を上て元正を賀し並びに旱災を陳べ、多く奨励す。表を拝して遂に軽舟にて東陽に游び、心に任せて行止し、朝廷に関せず。有司劾奏すれども、文帝問わず。時に文帝陽に当たり親ら覧すと雖も、羨之等猶重権を執る。泰復た表を上て得失を論じ、言執事に及ぶ。諸子之を禁む。表竟に奏せず。
三年、羨之誅せらる。位を進めて侍中・左光禄大夫・国子祭酒と為し、江夏王師を領し、特進は故の如し。上は泰を先朝の旧臣と以てし、恩礼甚だ重し。脚疾有るを以て、宴見の日は、特ち乗輿を聴して坐に到らしむ。陳ぶ所の時事は、上毎に之を優容す。
其の年秋、旱蝗有り。又た表を上て言う「蝗有るの処は、県官多く人に課して之を捕えしむ。枯苗に益無く、殺害に傷有り。又た女人の宥さるるは、由来尚し。謝晦の婦女猶尚方に在り。匹婦一至るも、亦た能く感激する所有るべし」と。書奏す。上乃ち謝晦の婦女を原す。
時に 司徒 王弘政を輔く。泰弘に謂いて曰く「彭城王は帝の次弟なり。宜しく征還して朝に入り、共に朝政に参ずべし」と。弘其の言を納る。時に旱災未だ已まず、疾疫を以て加う。泰又た表を上て勸誡する所有り。
范泰は広く書物を博覧し、文章を好んで作り、後進を愛して励まし、倦むことなく努めた。古今の善言二十四篇及び文集を撰して世に伝えた。晚年は仏事に甚だ精しく、邸宅の西に祇洹精舎を建立した。五年に卒した。初め開府を贈ることを議したが、殷景仁が言うには、「范泰は平素の声望重からず、台司に擬議すべからず」と。遂に果たさず。葬送の時、王弘が棺を撫でて哭して曰く、「君は平生殷鉄(殷景仁)を重んじたが、今これを以て報いる」と。車騎將軍を追贈し、諡して宣侯と曰う。第四子の曄最も知名なり。
第四子 曄
范曄は字を蔚宗といい、母が厠で彼を産み、額が磚(煉瓦)で傷ついたので、磚を小字とした。従伯の弘之の後を出継ぎ、後に武興県五等侯を襲封した。少より学を好み、文章を善くし、隷書を能くし、音律に通暁した。秘書丞となり、父の憂いにより去職した。服闋(喪明け)の後、征南大将軍檀道済の司馬となり、新蔡太守を領した。後に尚書吏部郎となった。
元嘉九年、彭城太妃が薨じ、葬送に臨み、祖夕(葬前夜の祭)に、僚故(同僚・旧知)が並びに東府に集まった。曄は 司徒 左西属の王深及び弟の 司徒 祭酒の広と夜中に酣飲し、北窓を開いて輓歌を聴き楽しんだ。彭城王義康は大いに怒り、宣城太守に左遷した。志を得ず、乃ち衆家の後漢書を刪して一家の作と為し、屈伸栄辱の際に至っては、未だ嘗て意を致さざること無かりき。
長沙王義欣の鎮軍長史に遷った。兄の暠は宜都太守となり、嫡母が暠に従って任地で亡くなったが、病と報せて、曄は時に赴奔しなかった。出立するに及んで、また伎妾を携えて自ら従い、御史中丞劉損に奏された。文帝はその才を愛し、罪としなかった。服闋の後、累遷して左衛将軍・太子詹事となった。
曄は身長七尺に満たず、肥えて黒く、眉鬢が禿げ、琵琶を善く弾き、新声を作ることができた。上(文帝)が聞きたいと思い、屡々微旨を以てほのめかしたが、曄は知らぬふりをして、終に肯んじなかった。上が嘗て宴飲して快適を勧め、曄に謂って曰く、「我歌わんと欲す、卿は弾くべし」と。曄は乃ち旨を奉じた。上の歌が既に終わると、曄もまた弦を止めた。
初め、魯国の孔熙先は博学で縦横の才志有り、文史星算、兼ねて善くせざる無く、員外散騎侍郎となったが、時に知られず、久しく調(任官)を得なかった。初め、熙先の父の默之が広州刺史となり、贓貨(賄賂)の罪で廷尉に下され、大将軍彭城王義康がこれを保持したので、免れた。義康が黜けられると、熙先は密かに報效を懐き、曄が意志不満であることを以て、彼を引き入れんとしたが、進説する由無し。曄の甥の謝綜は雅(平素)より曄に知られており、熙先は嶺南に遺された財産を藉り、家甚だ富足であったので、身を傾けて綜に事えた。始め綜の諸弟と共に博戯し、故に拙行を為し、物を以てこれに輸(負か)せ、情意次第に款(親)しくなった。綜は乃ち熙先を引きて曄と戯れさせ、熙先は故に敵わざるふりをし、前後曄に物を多く輸した。曄は既にその財宝を利し、又その文芸を愛したので、遂に莫逆の好を申し交わした。熙先は始め微言を以て曄を動かしたが、曄は回(応)じなかった。曄は素より閨庭の論議(家内の評判)有り、朝野に知られ、故に門胄は華やかであるが、国家は姻を結ばず、これを以て激して曰く、「丈人若し朝廷の相待つこと厚しと謂うならば、何故丈人と婚せず、是れ門戸を得ざるが為か。人は犬豕の如く相遇うるに、丈人は之が為に死せんと欲するは、亦惑わしからずや」と。曄は黙然として答えず、その意乃ち定まった。
時に曄と沈演之は並びに上に知遇され、毎に召見される時多く同席した。曄が先に至れば必ず演之を待ち、演之が先に至れば常に独り引見され、曄は又これを以て怨んだ。曄は累ねて義康の府佐を経て、待遇されしこと素より厚く、宣城の授けに及び、意好乖離した。綜は義康の大将軍記室参軍となり、 豫 章に鎮するに従った。綜が還ると、義康の意を曄に申し、晩年の隙を解き、往時の好を復た敦くせんとした。
曄は既に逆謀有り、時の旨を探らんと欲し、乃ち上に言って曰く、「臣が歴観するに前史二漢の故事、諸蕃王は妖詛を以て政め、幸災すれば、便ち大逆の罰を正す。況んや義康の奸心釁跡、遐邇に彰著なるに、而るに今に至るまで恙無し、臣窃かに惑う。且つ大梗常に存すれば、将に乱階を成さんとす」と。上は納れず。
熙先は素より天文に善く、云うには、「文帝は必ず非道にて晏駕し、当に骨肉の相残すに由るべし。江州は天子を出すに応ず」と。義康がこれに当たると為した。綜の父の述も亦義康に遇せられ、綜の弟の約は又義康の女婿であったので、文帝は綜をして南上に随従せしめた。既に熙先に奨め説かれて、亦酬報の心有り。
広州人の周霊甫は家兵部曲を有し、熙先は六十万銭を以てこれに与え、広州に於いて兵を合わせしめた。霊甫は一去して返らず。大将軍府史の仲承祖は、義康が旧く信念した者で、屡々命を銜(奉)じて都に下り、亦密かに腹心を結び、異志を規っていた。熙先に誠有るを聞き、密かに結納した。丹陽尹の徐湛之は素より義康に愛せられ、舅甥たるも、子弟を過ぐる恩有り、承祖は此れに因りて湛之に事え結び、密計を告げた。承祖が南下し、義康の意を蕭思話及び曄に申し、云うには、「本より蕭と結婚せんと欲し、恨むらくは始めの意果たさず。範(曄)とは本情薄からず、中間相失うは、傍人の為す所なり」と。
法略道人有り、先ず義康に養われ、粗く知遇された。又王國寺の法靜尼有り、義康の家内に出入りし、皆旧恩に感激し、相拯拔を規り、並びに熙先と往来した。法略をして道を罷めしむ。法略は本姓孫、名を景玄と改め、臧質の寧遠参軍と為す。
熙先は病を療するに善く、兼ねて脈を診ることができ、法靜尼の妹婿の許耀は領隊として台に在り、殿省を宿衛し、嘗て疾有り、法靜尼に因り熙先に乞い療して損(軽快)を得、因って周旋(交際)を成す。熙先は耀の胆幹を以て、逆謀を告げ、耀は内応を許諾した。 豫 章の胡藩の子の遵世は法靜と甚だ款しく、亦密かに酬和した。法靜尼が南上するに及び、熙先は婢の采藻を遣わしてこれに随い、箋書を付し、図讖を陳説せしむ。法靜が還ると、義康は熙先に銅匕・銅鑷・袍段・棋奩等の物を餉った。熙先は事の泄るるを慮り、采藻を酖して殺した。
湛之は又曄等に謂う、「臧質は見るに異常なる者と与(交)わり、質は蕭思話と款密なり、二人は並びに大将軍の眷遇を受け、必ず異同無からん、兵力の足らざるを憂うるに及ばず、但だ機を失うこと勿かれ」と。乃ち備え相署置す:湛之を撫軍将軍・揚州刺史とし、曄を中軍将軍・南徐州刺史とし、熙先を左衛将軍とす。其の余は皆選擬有り。凡そ素より不善くし及び義康に附せざる者は、又別簿有り、併せて死目に入る。
熙先は弟の休先をして予め檄文を作らしめ、賊臣趙伯符が兵を 肆 にして犯蹕し、禍が儲宰(皇太子)に流れたと言い、乃ち義康を奉戴すと。又大事と為すに既にして、宜しく義康の意旨を須うべしと以て、乃ち義康の湛之に与うる書を作り、同党に宣示した。
二十二年九月、征北将軍衡陽王義季・右将軍南平王鑠が出鎮するに当たり、上は武帳岡において祖道の儀を行った。曄らはその日を期して乱を起こそうとしたが、許耀が上に侍して刀を叩きながら曄に目配せすると、曄は敢えて見ず、やがて座が散じて、食い違いが生じて発動できなかった。十一月、徐湛之上表して状を告げ、ここに檄書・選事および同悪の人名の手跡を悉く提出した。詔して綜らを収監すると、皆ことごとく服罪したが、ただ曄だけは自白しなかった。上は頻りに窮詰させたところ、ようやく「熙先が勝手に臣を引き合いに出したのです」と言った。熙先は曄が服さないと聞き、笑って殿中將軍沈邵之に言うには、「あらゆる処分・符檄・書疏は、皆曄が造り改定したものである。どうしてこのように言い逃れできようか」と。上は曄の墨跡を示すと、曄はようやく罪を認めた。翌日曄を廷尉に送り、獄に入れて、その後湛之の告発によることを知った。
熙先は風向きを見て自白し、言葉の勢いは屈せず、上はその才を奇として、使者に命じて言わせた、「卿の才をもって集書省に滞っているのは、理として異志があって当然であり、これは我が卿に負うところである」と。熙先は獄中より上書して謝罪を述べ、併せて天文占候を陳べ、上に骨肉相残の禍あることを誡め、その言葉は深切であった。
曄は後に謝綜らと隔壁で相見え、遥かに綜に問うて言うには、「誰の告げたものか疑わしい」と。綜は「知らない」と言う。曄はそこで徐湛之の小名を挙げて言うには、「すなわち徐僮である」と。獄中で詩を作りて曰く、「禍福本無兆、性命帰有極、必至定前期、誰能延一息。在生已可知、来縁或無識、好醜共一丘、何足異枉直。豈論東陵上、寧弁首山側、雖無嵇生琴、庶同夏侯色。寄言生存子、此路行復即」と。上は白団扇を甚だ佳いものとして、曄に送り詩賦の美句を書かせた。曄は旨を受けて筆を執りて書きて曰く、「去白日之照照、襲長夜之悠悠」と。上はこれを繰り返し見て淒然とした。
曄は元より獄に入れば即死すると思っていたが、上はその獄事を窮められたので、ついに二旬を経て、曄はさらに生きる望みを持った。獄吏が戯れて言うには、「外では伝え聞くに詹事はあるいは長く繋がれるかもしれぬと」と。曄はこれを聞いて驚喜した。綜・熙先は笑って言うには、「詹事はかつて共に事を論じるに、袂を攘ぎ目を瞋らせぬことはなく、また西池の射堂にては、馬を躍らせて顧みるに、自ら一世の雄と為していた。しかるに今は擾攘紛紜として、死を畏れること乃ちこのようである。仮に今時に命を賜わるとも、人臣として主を図る者、何の顔あって生存できようか」と。曄は衛獄の将に言うには、「惜しいかな、かくの如き人を埋めるとは」と。将は言う、「不忠の人、また何ぞ惜しむに足らん」と。曄は言う、「大将の言う通りである」と。市に赴かんとするに及び、曄は最も前に在り、獄門にて顧みて綜に言うには、「順序は位によるべきか」と。綜は言う、「賊の帥は先と為すべきである」と。道中語り笑って、初めより慚愧恥辱の色無し。市に至りて綜に問うて言うには、「時はまさに至らんとするか」と。綜は言う、「勢い再び久しからず」と。曄は既に食し、また苦しく綜を勧めた。綜は言う、「これは重病とは異なり、何事をか強いて飯を食わん」と。曄の家人は悉く市に至り、監刑の職司が問うて言うには、「相見えることを須いましょうか」と。曄は綜に問うて言うには、「家人既に来たり、幸いに相見え得る。暫しの別れを交わさぬか」と。綜は言う、「別れようと別れまいと、また何の存するところがあろう。来れば必ず号泣するのみで、正に人の意を乱すに足る」と。曄は言う、「号泣は人に関わることではない。先ほど道端にて親故が相瞻望するのを見た。我が意は故に相見えたい」と。ここにおいて呼び寄せた。曄の妻は先ずその子を撫で、振り返って曄を罵って言うには、「君は百歳の阿家のためにもせず、天子の恩遇をも感じず、身死するは固より罪を塞ぐに足らず、如何ぞ子孫を枉げて殺さんとするのか」と。曄は乾笑して、罪至るのみと言う。曄の生母は対して泣きて言うには、「主上は汝を念うこと極まり無し。汝は曾て恩を感ずることができず、また我が老いを念わず、今日如何せん」と。なお手を以て曄の頸及び頰を撃った。曄の妻は言う、「罪人です、阿家は憶い出さず念わずで」と。妹及び妓妾が別れに来ると、曄は悲泣して涙を流した。綜は言う、「舅は夏侯の色に及ばず」と。曄は涙を収めたのみ。綜の母は子弟が自ら逆乱に陷ったことを以て、独り出て視ようとしなかった。曄は綜に言うには、「姉は今来ないが、人に勝るものがある」と。曄は転じて酔い、子の藹もまた酔い、地の土及び果皮を取っては曄に擲ち、別駕と呼ぶこと数十声。曄は問うて言うには、「汝は我を瞋るか」と。藹は言う、「今日何の縁でまた瞋ろうか。ただ父子同じく死するは、悲しまざるを得ないのみ」と。
曄は常に死を滅びと謂い、無鬼論を著そうとしたが、ここに至って徐湛之に書を送り「まさに地下にて相訟えん」と言った。その繆乱この如し。また人に語って言うには、「何僕射に伝言せよ、天下に決して仏鬼は無し。もし霊あらば、自ら相報いせん」と。曄の家を収めると、楽器・服玩は皆な珍麗であり、妓妾もまた盛んに飾っていた。母の住まいは単陋にして、ただ二つの厨に櫵薪を盛るのみ。弟子は冬に被るもの無く、叔父は単布衣であった。曄及び党与は皆な誅せられ、曄の時年四十八。謝綜の弟緯は広州に徙された。藹の子魯連は、呉興昭公主の外孫として、生命の全からんことを請い、また遠く徙されるを得た。孝武帝即位の後、乃ち還った。
曄の性格は精微にして、思致有り、触類多く善く、衣裳・器服は、制度を増損せざるは無く、世人は皆なこれを法として学んだ。和香方を撰び、その序に曰く、「麝本は多く忌み、過分なれば必ず害あり。沈実は易く和し、盈斤も傷けず。零藿は虚燥、詹唐は黏湿。甘松・蘇合・安息・郁金・奈多・和羅の類は、並びに外国に珍ばれ、中土には取る所無し。また棗膏は昏鈍、甲煎は浅俗、唯だ馨烈に助け無きのみならず、乃ちまさに尤疾を弥増すべし」と。言うところは悉く朝士に比類する:麝本多忌は、庾仲文に比す;零藿虚燥は、何尚之に比す;詹唐黏湿は、沈演之に比す;棗膏昏鈍は、羊玄保に比す;甲煎浅俗は、徐湛之に比す;甘松蘇合は、慧琳道人に比す;沈実易和は、自らに比すなり。
曄は獄中にて諸生侄に与える書を以て自序し、その略は曰く、
吾は少より学問に懶く、年三十許りにして、始めて尚ぶところ有り。爾より以来、転じて心化し、至る所通ずる処は、皆な自ら胸懐に得たり。常に謂う、情志の托する所は、故に意を主とすべく、文を以て意を伝うべしと。意を主とすれば、則ちその旨必ず見え;文を以て意を伝えば、則ちその辞流れず。然る後にその芬芳を抽き、その金石を振るうのみ。古今の文人を見るに多く此の処を全く了せず、年少の中では謝莊最もその分有り、手筆は稍易く、文に韻に拘わらざる故なり。吾が思うところは乃ち定方無し、但だ公家の言多く、事外の遠致に少きを以て、此れを恨みと為す。また文名に意無きによる故なり。
そもそも私は史書を開いたことがなく、常に理解できないと感じていた。後漢書を編纂してから、ようやく系統がわかるようになった。古今の著述や評論を詳しく見ると、ほとんど満足できるものは少ない。班固は最も高い名声があるが、感情任せで体例がなく、ただ志の部分だけが推奨できる。博識豊富な点は及ばないが、整理の点では必ずしも恥じることはない。私の雑伝論はすべて精妙な意味と深い主旨があり、循吏以下および六夷の諸序論に至っては、筆勢が縦横に奔放で、まことに天下の奇作である。その中で合致するものは、しばしば賈誼の「過秦論」に劣らない。かつて班固の作ったものと比べてみると、ただ恥じないだけでなく、むしろ勝っている。諸志をすべて作ろうとし、前漢書にあるものはすべて備えさせようとしたが、事柄は必ずしも多くなく、また文章を見て尽くせるようにしたかった。また事に因って巻内に論を発し、一代の得失を正そうとしたが、その意もまた果たせなかった。賛はまさに私の文章の傑出した構想で、ほとんど一字も空設はなく、奇抜な変化に窮まりなく、同じものに合わせて異なる体裁をなし、自らもどう称賛してよいかわからない。この書が行われるならば、当然賞賛する者がいるはずである。紀伝の例はその大略を挙げたに過ぎず、細かい意図は非常に多い。古来、規模が大きく思慮が精緻なものは、これほどではなかった。世の人が十分に理解できず、多くは古きを貴び今を賤しむことを恐れ、それゆえに感情に任せて狂言を述べたのである。
私は音楽において、聴く技量は自ら演奏するには及ばないが、ただ精通しているのが雅楽でないことを残念に思う。しかしながら、絶妙の境地に至れば、また何の違いがあろうか。その中の体得した趣は、言葉では尽くせない。弦外の意、虚響の音は、どこから来るのかわからない。かつて人に授けたこともあるが、士人庶民の中に少しも似た者はなく、これは永久に伝わらないであろう。私の書はわずかに意味があるが、筆勢が速くなく、結局は完成せず、常にこの名声を恥じている。范曄の自序はすべて事実であるため、ここに保存する。范藹は幼少より整斉清潔で、衣服は一年中塵一つついたことがなく、死んだ時は二十歳であった。范曄が若い時、兄の范晏は常に言った。「この子は利益を追い求め、結局は家門を破るであろう。」果たしてその言葉の通りとなった。
初め、何尚之が選挙を担当していた時、自ら天下に埋もれた人材はいないと称していた。孔熙先が捕らえられた後、帝は何尚之を詰問して言った。「孔熙先を三十歳になっても散騎侍郎に留め置いたなら、どうして賊を起こさないことがあろうか。」孔熙先が死んだ後、また何尚之に言った。「孔熙先には美才があり、家柄もまだ論じられるが、その跡を隠して下級官吏に留まったのは、まさに時の宰相が失策したのではないか。」尚之は言った。「臣はかつて誤って選曹の任にありましたが、誠に汚れを洗い清流を揚げることはできませんでした。しかしながら、君子が知恵を持つのは、鵷鳳が文采を持つようなもので、時を待って羽翼を振るえば、どうして雲霞の上に出られないことがあろうか。もし熙先が必ず文采を内に蔵していたなら、自ら泥の中に棄てたのであり、ついに論ずるに足りません。」上は言った。「昔、良才でありながら知己に遇わなかった者は、何ぞ後世に遺恨を残さないことがあろうか。」
荀伯子は、潁川郡潁陰県の人で、晋の驃騎将軍荀羨の孫である。父は荀猗、秘書郎であった。伯子は若くして学問を好み、経書伝記を広く博覧し、率直で雑談を好み、里巷を遊び歩いたため、これによって清流の官途を失った。初官は駙馬都尉・奉朝請・員外散騎侍郎となった。著作郎徐廣はその才学を重んじ、伯子と王韶之をともに佐郎に推挙し、ともに晋史を撰し、桓玄などの伝を著した。尚書祠部郎に遷った。義熙元年、上表して言った。「故太傅钜平侯羊祜は勲功は創業を輔佐し、功績は呉を平定するのに盛大であったが、その祭祀を継ぐ者がなく、祭祀を捧げる場所もない。漢は蕭何の元勲の功により、世が絶えてもすぐに継承させた。愚かには思うに、钜平侯の封は酇侯の国と同じくすべきである。故太尉広陵公陳准は孫秀に与し、禍を淮南に加え、大国の爵禄を窃かに享受し、罪によって利を得た。たまたま西朝(西晋)の政刑が裁きを誤り、中興(東晋)もまたそれに因って奪わなかったが、今王道は新たであり、どうして大きく善悪を判別しないことがあろうか。広陵の国は削除すべきであると考える。故太保衛瓘の本来の爵位は菑陽県公であったが、横禍に遭った後、爵位を進め、蘭陵郡公を加贈され、さらに江夏郡公に転じた。中朝(西晋)の公輔は、多く道理に合わぬ最期を遂げたが、衛瓘の功徳は特別ではなく、またただ一人偏った賞を受ける理由もない。本来の封に復し、国の規程を正すべきである。」詔が門下省に下された。前 散騎常侍 江夏公衛璵および潁川の陳茂先がそれぞれ先代の勲功を陳述し、貶降に服さなかった。詔はすべて門下省に付され、いずれも施行されなかった。
伯子は妻の弟の謝晦に推薦されて、尚書左丞となり、出向して臨川内史を補った。車騎将軍王弘は伯子を「重厚で華美でなく、平陽侯(曹参)の風がある」と称えた。伯子は常に自ら蔭位の美を誇り、王弘に言った。「天下の膏粱(高貴な家柄)は、使君(王弘)と下官だけであり、宣明(謝晦の字)の徒は数えるに足りません。」 散騎常侍 に遷り、また上表して言った。「百官の位次において、陳留王が零陵王の上にあるが、臣は愚かにも疑問を抱きます。昔、武王が殷を克った時、神農の後を焦に封じ、黄帝の後を祝に封じ、帝堯の後を薊に封じ、帝舜の後を陳に封じ、夏の後を杞に封じ、殷の後を宋に封じた。杞と陳はともに列国となったが、薊・祝・焦は聞こえない。これは承継するものを褒め崇めることが、遠い時代のものより優れている明らかな証拠である。それゆえ春秋は諸侯を序列し、宋を杞・陳の上に置いた。近代を考察しても、事柄に徴すべきものがある。晋の泰始元年、詔して山陽公劉康の子弟一人に関内侯の爵を賜い、衛公姫署・宋侯孔紹の子弟一人に駙馬都尉を授けた。また泰始三年、太常が上言して博士劉嘉らの議を称え、衛公署は大晋において三恪の数にあり、降格して侯と称すべきであると言った。臣は思うに、零陵王の位は陳留王の上にあるべきである。」これに従った。
御史中丞となり、職務に勤勉で忠実で、身を顧みない称賛があった。朝廷に立ちて顔色を正し、衆人は皆彼を畏れた。奏上して弾劾するものはすべて、深く誹謗中傷し、あるいは祖先にまで及ばせ、その厳しく直截なことを示した。またしばしば嘲弄や戯れを交えたため、世の人はこれをもって非難した。 司徒 左長史を補い、東陽太守の任で死去した。文集が世に伝わる。
子に赤松あり。
子の赤松は、尚書右丞となり、徐湛之の与党として、元凶(劉劭)に殺害された。
族弟に昶あり。
伯子の族弟の荀昶、字は茂祖、伯子とは五世親等を超えた同族である。元嘉の初め、文義によって中書郎に至った。昶の子に万秋あり。
昶の子に万秋あり。
万秋、字は元宝、また才学をもって自ら顕れた。昶が釈慧琳に会い、言った。「昨日万秋が対策をしたので、お見せしたい。」答えて言った。「これは見る必要はありません。もし先に見ずに答えたのであれば、貧道にはできません。もし先に見て答えたのであれば、貧道の奴でさえできます。」昶は言った。「これは道徳を傷つけないか。」答えて言った。「大徳なる者が徳としない所以である。」そこで相対して笑い、ついに見なかった。万秋は孝武帝の初めに晋陵太守となり、郡に華林合を建て、主衣・主書を置いた罪で、獄に下され免官された。前廃帝の末、御史中丞となり、官で死去した。
徐広、字は野人、東莞郡姑幕県の人である。父は徐藻、都水使者であった。兄の徐邈は太子前衛率であった。家は代々学問を好み、徐広に至って特に精緻であった。百家の数術に、研究閲覧しなかったものはない。家は貧しく、産業を意に介さず、妻は中山の劉謐の娘で、これに憤り、たびたび責めたが、徐広は終いに改めなかった。このように十数年、家計は日々困窮し、ついに徐広と離別した。後に晋の孝武帝は徐広の博学を以って、秘書郎に任じ、秘閣で校書させ、職僚を増設した。
隆安年間、 尚書令 王珣が彼を祠部郎に推挙した。李太后が崩御すると、服喪の礼について広く議論し、言うには、「太皇太后の名位は既に正しく、皇極と同じ体制であり、礼制は備わり尽くし、情と礼は一層明らかである。春秋の義に、母は子によって貴くなる。既に夫人と称するならば、礼服は正に従う。故に成風は夫人の号を顕わし、文公は三年の喪に服した。子にとって父の生んだ者に対しては、体は尊く義は重い。且つ礼は祖が孫を厭わず、固より服を遂げて屈しないのが宜しい。而して情に縁って制を立てるに、もし明文の存せぬことを嫌うならば、疑わしきは重きに従うべきである。祖母の後を継ぐ者と同じく、斉衰三年とすべきであると言う。」時にその議に従った。
会稽王の世子元顕が尚書を録すと、百官に敬意を払わせようとし、台内は徐広に議を立てさせた。これにより内外ともに下官の礼を執るようになり、広は常にこれを愧恨とした。
義熙初年、宋の武帝が車服の儀注を撰ばせ、鎮軍諮議参軍に任じ、記室を領せしめ、楽成県五等侯に封じた。員外 散騎常侍 に転じ、著作郎を領した。二年、尚書が奏上して、徐広が晋史を撰成したと報告した。六年、 驍 騎将軍に遷った。時に風雹の災害があり、広は武帝に献言し、多くを勧勉した。また大司農に転じ、著作郎を領し、秘書監に遷った。
初め、桓玄が帝位を 簒 奪した時、安帝が宮殿を出ると、広は列に陪して悲慟し、哀しみは左右を動かした。及び武帝が禅を受け、恭帝が位を譲ると、広はまた哀感し、涕泗が交流した。謝晦がこれを見て、言うには、「徐公は少し過ぎるのではないか。」広は涙を収めて答えて言うには、「身は君と異なる。君は命を佐けて王を興し、千載の嘉運に逢う。身は世に晋の徳を荷い、故主に眷恋する。」と。因って更に歔欷した。
永初元年、詔により中散大夫を除かれた。広は言うに、墳墓は晋陵丹徒にあり、また京口で生長した。息子の道玄がこの邑の宰を辱うとするので、その官に随い、桑梓に帰って終わりたいと乞うた。許され、贈賜は甚だ厚かった。性は読書を好み、年八十を過ぎても、なお歳に五経を一遍読んだ。元嘉二年に卒した。広の撰した『晋紀』四十二巻は、義熙十二年に成り、表を上って献じた。また答礼問百余条があり、世に行われた。
時に高平の郗紹もまた『晋中興書』を作り、しばしば何法盛に示した。法盛はこれを図る意があり、紹に言うには、「卿は名位貴達であり、もはやこの延誉を俟たない。我は寒士にして、時に聞こえず、袁宏・干宝の徒の如く、著述に頼って後世に声を流す。宜しくこれを恵むべし。」と。紹は与えなかった。書が成った時、斎内の厨中にあった。法盛が紹を訪ね、紹は不在で、直ちに入って書を窃んだ。紹は帰ってこれを失い、再び兼本がなく、ここに於いて何の書が遂に行われることとなった。
広の兄の子に豁。
徐豁は字を万同といい、徐広の兄の子である。父の邈は、晋の太子前衛率であった。豁は宋の永初初年、尚書左丞・山陰令となり、法理に精練で、時に推された。元嘉初年、始興太守となり、三事を表陳した。文帝はこれを嘉し、絹二百匹・穀一千斛を賜った。広州刺史に徙ったが、拝せずして卒した。
鄭鮮之は字を道子といい、 滎陽 開封の人で、魏の将作大匠渾の玄孫である。祖父の襲は大司農で、江乗令を経て、県境に居を定めた。父の遵は尚書郎であった。
鮮之は帷を下ろして読書に励み、交遊の務めを絶った。初め桓偉の輔国主簿となった。先に、兗州刺史滕恬が丁零の翟遼に敗れて没し、屍は帰らなかった。恬の子の羨は仕宦を廃さず、論者はこれを嫌った。桓玄が荊州にいた時、群僚に博議させた。鮮之は議して言うには、「名教の大極は、忠孝のみである。変通抑引に至っては、毎事辄に異なる。本を尋ねれば、皆心を求めて跡を遺す。跡の乗ずる所、遭遇或いは異なる。故に聖人は或いは跡に就いて教を助け、或いは跡に因って罪を成し、屈申与奪は等しく斉うべく難く、その阡陌を挙げれば、皆終わりを言うべし。天は逃れ得るか。而して伊尹は君を廃す。君は脅かし得るか。而して鬻拳は善を見る。忠は愚かにし得るか。而して箕子は同仁す。此れより以来、実は殊なれど声は斉しく、誉は異なれど美は等しき者は、言い尽くせない。今滕羨の情事の如き者は、或いは終身隠処して人事に関わらず、或いは朝に升り理務して前哲を譏らない。滕を通ずる者は無譏を以て証とし、滕を塞ぐ者は隠処を以て美とする。その両中を折れば、異同の情が見えるであろう。夫れ聖人が教を立てるは、猶お礼有りて時無ければ君子行わずと言う。礼有りて時無きは、政は事に変通有り、一を宗とすべからざる故である。」と。
宋の武帝が義兵を起こすと、累遷して御史中丞となった。性剛直で、甚だ司直の体を得た。甥の劉毅は当時権重く、朝野帰附せざるはなかったが、鮮之は武帝に尽心し、独り毅に意を屈せず、毅は甚だこれを恨んだ。毅と舅甥の制は相糾えず、書侍御史丘洹に奏弾させ、毅が輒く伝詔羅道盛を宥したことを弾劾させた。詔は問う所無かった。
時に新制として、長吏が父母の疾を以て官を去る者は、三年禁錮とした。山陰令沈叔任が父の疾を以て職を去ると、鮮之は此に因って上議して言うには、「今父母の疾を省みて罪名を加うるは、義に悖り理を疾む、此れより大なるは莫し。旧に従うべしと謂い、義に於いて允当である。」と。これに従った。ここに於いて二品以上より、父母及び祖父母の後を為す者、墳墓崩壊及び疾病の場合、族属は辄ち去り、並びに禁錮しないこととなった。
劉毅が江陵を鎮守すべき時、武帝は江寧に会し、朝士は畢く集まった。毅は素より摴蒱を好み、ここに於いて会して戯れた。帝と毅は局を斂めて各々その半を得、銭を積んで人を隠すと、毅は帝を呼んで併せた。先に擲って雉を得ると、帝は甚だ悦ばず、良久くして乃ちこれに答え、四坐傾属した。既に擲って盧を得ると、毅の意は大いに悪しく、帝に言うには、「公が大坐席を人に与えぬことを知る。」と。鮮之は大喜びし、徒跣で床を繞り大叫し、声声相続した。毅は甚だ不平で、これに謂うには、「此の鄭君は何を為す者ぞ。」と。甥舅の敬を復たせず。
帝は少くして戎旅に事え、学に経渉せず、宰相となるに及び、頗る風流を慕った。時に或いは談論し、人は皆依違して敢えて難じなかった。鮮之の難ずるは必ず切至で、未だ嘗て寬假しなかった。帝と言うには、須らく帝が理屈するを要し、然る後に之を置いた。帝は時に慚恧して色を変え、その情を輸するを感ずるも、時人は「格佞」と謂った。十二年、武帝が北伐するに、右長史とした。鮮之の曾祖晋の江州長史哲の墓は開封にあり、拜省を求めた。帝は騎を以て之を送った。咸陽に入るに及び、帝は遍く阿房・未央の故地を視て、悽愴として容を動かし、鮮之に秦・漢の得失の所以を問うた。鮮之は具に賈誼の過秦論を以て対えた。帝は言うには、「子嬰に及びて亡ぶは、已に晚きと為す。然れども始皇の為人を観るに、智は是非を見るに足る。任ずる所の人を得ず、何ぞや。」と。答えて言うには、「夫れ佞言は忠に似、奸言は信に似る。中人以上にして、乃ち上を語るべし。始皇は中人に未だ及ばず、識士に暗き所以である。」と。前に渭濱に至ると、帝は復た歎じて言うには、「此の地に寧く復た呂望有るか。」と。鮮之は言うには、「昔、葉公は龍を好みて真龍見え、燕昭は骨を市して駿足至る。明公は旰食を以て士を待つ、豈に海内人無きを患えんや。」と。帝は善しと称すること久しかった。
宋国が初めて建てられた時、奉常に転じた。赫連勃勃が関中を陥落させると、武帝は再び北討を望んだが、鮮之は上表して諫めた。践祚すると、太常・都官尚書に遷った。時に傅亮・謝晦の地位と寵遇は日に日に隆盛となり、範泰がかつて人々の中で鮮之を譲り誚って言うには、「卿は傅・謝と共に聖主に従い関中・洛陽で功績を挙げた。卿は僚首に居るのに、今日は意気消沈し、人々から遠く離れている。何と不肖なことか。」鮮之は熟視して答えなかった。鮮之の人となりは通達で率直であり、武帝の座において、言うことに隠し立てはなく、武帝もまた甚だ畏れ憚った。しかし隠厚篤実で、親族故旧を贍恤し、出かける時に命じて車を駕しても、行く先を知らないことがあり、御者の向かう所に従った。特に武帝に親しまれた。上はかつて内殿で宴飲し、朝貴がことごとく参集したが、ただ鮮之だけは召さなかった。座が定まると、群臣に言うには、「鄭鮮之は必ず自ら来るであろう。」間もなく外より啓上して尚書鄭鮮之が神獣門に詣でて啓事を求むと、帝は大笑いして引き入れた。その遇され方はこのようなものであった。従征の功により、龍陽県五等子に封ぜられた。景平年中、徐羨之・傅亮が権力を握ると、出されて 豫 章太守となった。時に王弘が江州刺史であり、ひそかに人に言うには、「鄭公の徳と素行は、先朝において礼遇されたもので、前代に比すれば、鍾繇・王朗の流れである。今、徐・傅が出して郡守としたのは、おそらく何か理由があるのであろう。」まもなく廃立の事があった。元嘉三年、王弘が入朝して相となると、鮮之を推挙して尚書右僕射とした。四年に卒去した。文集が世に行われた。子の愔は、始安太守となった。
裴松之は字を世期といい、河東郡聞喜県の人である。祖父の昧は、光禄大夫であった。父の珪は、正員外郎であった。
松之は広く典籍を博覧し、身を立てるに簡素であった。二十歳の時、殿中將軍に拝された。この官は左右を直衛するもので、 晉 の孝武帝太元年中に、名家を選抜して顧問に参与させ、初めて琅邪の王茂之・会稽の謝輶を用いたが、皆、南北の声望ある者であった。
義熙初年、呉興郡故彰県令となり、県において治績があった。入朝して尚書祠部郎となった。松之は、世間に私碑が立てられることが事実に背くとし、上表してこれを陳べ、『諸々碑を立てようとする者は、宜しくことごとく言上させ、朝議の許す所となってから、これを聴くべきである。これによって無徴を防遏し、茂実を顕彰することができよう』と論じた。これによって広く断行された。
武帝が北伐する時、司州刺史を領し、松之を州主簿とし、転じて中従事とした。洛陽を克服すると、松之は州の行事を居めた。宋国が初めて建てられた時、毛徳祖が洛陽に使わされ、武帝は彼に勅して言うには、「裴松之は廟堂の才であり、久しく辺務に居らせるのは宜しくない。今、世子洗馬に召す。殷景仁と同じである。知らせるように。」
時に五廟の楽を立てることを議し、松之は妃臧氏の廟で用いる楽もまた四廟と同じくすべきであると論じた。零陵内史を除され、国子博士に徴された。
元嘉三年、 司徒 徐羨之らを誅し、大使を分遣して天下を巡行させ、皆、 散騎常侍 を兼ね、二十四条の詔書を班宣させた。松之は湘州に使わされ、甚だ奉使の義を得て、論者はこれを称美した。
中書侍郎に転じた。上は陳寿の『三国志』に注をつけさせ、松之は伝記を鳩集し、広く異聞を増補した。完成して奏上すると、上はこれを見て言うには、「裴世期は不朽となった。」
出されて永嘉太守となり、百姓を勤め恤れ、吏民はこれを便利とした。後に南琅邪太守となり、致仕して中散大夫に拝された。まもなく国子博士となり、進んで太中大夫となった。何承天の国史を継いで完成させることを命じられたが、撰述に及ばずして卒去した。
子は駰である。
子の駰は、南中郎参軍となった。松之の著した文論及び『 晉 記』、駰が注した司馬遷の『史記』は、共に世に行われた。駰の子は昭明である。
駰の子は昭明である。
昭明は幼少より儒史の業を伝え、宋の泰始年中に太学博士となった。有司が太子の婚儀を奏上し、納徴に玉璧と虎皮を用いるが、何を准擬したか未詳であるとした。昭明が議して言うには、「礼に『納征は儷皮』とある。鄭玄の注に『皮は庭実なり、鹿皮なり』と。 晉 の太子が妃を納れる注に『虎皮二つを用う』と。太元年中、公主の納征に、虎皮・豹皮各一つを用いた。これは婚礼が詳らかでないというのではない。王公の差等であるから、虎豹の文蔚を取ってその事を尊んだのである。虎豹は文があるが、征礼に言わない所である。熊羆は古くからあるが、婚礼に及ばない所である。珪璋は美しいが、用いられる所がそれぞれ異なる。今は経誥に準拠し、凡そ諸々の僻謬を一々に詳らかに正すべきである。」これによって有司が参議し、珪・璋・豹皮・熊羆皮を各二つ加えることとした。
元徽年中、出されて長沙郡丞となった。任を罷めると、刺史王蘊が言うには、「卿は清貧で必ずや帰りの資はないであろう。湘中の人士で一礼の命を必要とする者がいれば、私は惜しまない。」昭明は言うには、「下官、忝くも郡の佐となるも、上府に光益することができず。どうして鴻都の如き事をもって、清風に累を仰せようか。」祠部通直郎を歴任した。
齊の永明三年、魏に使わされ、武帝が言うには、「卿に将命の才があるので、使いから還ったら一郡をもって賞としよう。」還って始安内史となった。郡人の龔玄宜が、「神人が玉印と玉板书を与え、筆を必要とせず、紙に吹きかけると字が成る。」と言い、自ら龔聖人と称し、これをもって衆を惑わし、前後の郡太守は敬って事とした。昭明は獄に付して罪を案じた。帰還すると、甚だ貧窮しており、武帝は言うには、「裴昭明は郡を罷めて還ったが、遂に宅もない。私は書を読まないが、古人の中で誰に比すべきか知らない。」射声 校尉 に遷った。
九年、再び北使となる。建武初め、王玄邈の安北長史・広陵太守となった。明帝はその在職中に啓奏がなかったことをもって、代えて召還して責めたところ、昭明は言うには、「臣は競って要路を執らんと欲せざるが故なり」と。昭明は歴任した郡において皆清廉勤勉であり、常に人に謂うには、「人生何事か須いんや聚畜を、一身の外また何をか須いん。子孫若し才無くんば、我聚めば彼散ず。若し能く自立せば、則ち一経に如かず」と。故に終身一たびも産業に事えず。中興二年に卒す。子に子野あり。
昭明の子、子野。
子野、字は幾原、生まれて母魏氏亡くなり、祖母殷氏に養われる。殷は柔和聡明にして文義あり、章句を以てこれを授く。年九歳、殷氏亡くなり、泣血哀慟し、家人これを異とす。少しく学を好み、善く文を属す。斉に仕えて江夏王行参軍となる。父の憂いに遭い職を去る。初め、父寝疾すること弥年、子野祷請ことごとく至り、涕泗沾濡す。父夜に夢みてその容を見、旦に召して視るに夢の如し、俄にして疾間う。至孝の感ずる所と為す。命じて孝感伝を著わさしむるも、固く辞して乃ち止む。及び喪に居るや、毎に墓所に之くに、草之が為に枯る。白兔白鳩有りて馴擾その側に在り。
梁の天監初め、尚書僕射范雲その至行を嘉し、将に表奏せんとす。会に雲卒して果たさず。楽安任昉盛名有り、後進の慕う所と為り、その門に遊ぶ者、昉必ず推薦す。子野は昉に於いて従中表たり、独り至らず。昉も亦恨みたり、故にこれを善しとせず。
久しくして兼ねて廷尉正と為る。時に三官獄を通じて署す。子野嘗て在らず、同僚輒ちその名を署す。奏に允ならざる有り、子野坐に従って免職せらる。或いは勧めて言う、有司に請えば、咎無かるべしと。子野笑って曰く、「柳季の道に慚ずと雖も、豈に訟を以て服を受くらんや」と。此れより免黜すること久しく、終に恨みの意無し。中書郎范縝は子野と未だ遇わず、その行業を聞きて之を善しとす。会に国子博士に遷らんとす、乃ち上表してこれを譲る。有司資歴次に非ざるを以て、通ぜず。
後に諸暨令と為り、県に在りて鞭罰を行わず、人に争う者有れば、理を以てこれを示す。百姓称悦し、合境訟無し。
初め、子野の曾祖松之、宋の元嘉中に詔を受けて何承天の宋史を継ぎ修す。未だ成らざるに卒す。子野常に先業を継ぎ成さんと欲す。及び斉の永明末、沈約の撰する所の『宋書』に「松之已後に聞くこと無し」と称す。子野更に撰して『宋略』二十巻と為す。その叙事評論多く善くして、云う、「淮南太守沈璞を戮す、その義師に従わざるが故なり」と。約懼れ、徒跣してこれを謝し、両に釈するを請う。その述作を歎じて曰く、「吾逮わず」と。蘭陵蕭琛その評論は過秦・王命と分路揚鑣すべしと言う。ここにおいて吏部尚書徐勉武帝にこれを言い、著作郎と為し、国史及び起居注を修むるを掌らしむ。頃くして、兼ねて中書通事舎人、尋いで通直員外を除く。著作・舎人は故の如し。勅また中書詔誥を掌らしむ。
時に西北の遠辺に白題及び滑国有りて使を遣わし、岷山道より入貢す。此の二国は歴代賓とせず、出づる所を知ること莫し。子野曰く、「漢の潁陰侯胡の白題将一人を斬る。服虔注に云う、『白題、胡の名なり』と。又た漢の定遠侯虜を撃つに、八滑これに従う。此れその後なるか」と。時に人その博識を服す。勅仍って方国使図を撰せしめ、広く懐来の盛を述べしむ。要服より海表に至るまで、凡そ二十国。子野は沛国劉顕・南陽劉之遴・陳郡殷芸・陳留阮孝緒・呉郡顧協・京兆韋棱と皆博学、深く相賞好し、顕特にこれを推重す。時に呉平侯蕭勱・范陽張纘毎に墳籍を討論するに、咸く子野に折衷す。
継母曹氏亡くなり、喪に居ること礼を過ぐ。服闋け、再び員外郎に遷る。普通七年、大いに挙げて北侵す。勅して子野をして魏に移す文を為さしむ。詔を受けて立ち成る。武帝その事体大なるを以て、尚書僕射徐勉・太子詹事周舎・鴻臚卿劉之遴・中書侍郎朱異を召して寿光殿に集め、以てこれを観る。時に並びに嘆服す。武帝子野を目して曰く、「その形は弱しと雖も、その文は甚だ壮なり」と。俄にまた勅して書を為りて魏の相元叉を諭さしむ。その夜旨を受け、子野は旦を待ちて方に奏すべしと謂い、未だこれを為さず。及び五鼓、勅して速やかに上るを催す。子野徐ろに起きて筆を操り、昧爽に便ち就く。及び奏す、武帝深くこれを嘉す。是より諸の符檄皆な具草せしむ。
子野文を為すこと典にして速く、靡麗を尚ばず、制多く古に法り、今の文体と異なる。当時に或いは詆訶する者有り。及びその末、翕然としてこれを重んず。或いはその文を為す速きを問うに、子野答えて云く、「人皆な手に成る、我独り心に成る」と。
中書侍郎・鴻臚卿に遷り、歩兵 校尉 を領す。子野禁省に在ること十余年、黙静自ら守り、未だ嘗て請謁する所有らず。外家及び中表貧乏、得る所の俸悉くこれを給す。宅無く、官地二畝を借り、茅屋数間を起す。妻子恒に飢寒に苦しむ。唯だ教誨を以て本と為し、子姪祗畏し、厳君を奉ずるが若し。劉顕常に師道を以てこれを推高す。末年深く釈教を信じ、終身麦を飯い蔬を食す。中大通二年卒す。是に先立ち、子野自ら死期を占うに庚戌歳を過ぎず。是の年自ら省みて疾を移し、同官劉之亨に謂う、「吾其れ逝かん」と。遺命務め倹約を存す。武帝悼惜し、之が為に涕を流す。 散騎常侍 を贈り、即日に哀を挙ぐ。先きに、五等君及び侍中以上にして乃ち諡有り。及び子野特に関望を以て嘉せられ、諡して貞子と賜う。
子野少時に喪服を集注し、裴氏家伝を続く各二巻、後漢事を抄合すること四十余巻。又た勅して衆僧伝二十巻、百官九品二巻、諡法に附益すること一巻、方国使図一巻、文集二十巻を撰せしむ。並びに世に行わる。又た斉梁春秋を撰せんと欲し、始めて草創す。未だ就かざるに卒す。及び葬るに、湘東王之が為に墓誌銘を為し、蔵内に陳ぶ。邵陵王又た墓誌を立て、羨道に堙す。羨道に志を列す、此れより始まる。子騫、官は通直郎に至る。
何承天は、東海郯の人なり。五歳にして父を喪う。母は徐広の姉なり、聡明博学、故に承天幼より訓義に漸く。宋武起義の初め、撫軍将軍劉毅姑孰に鎮す。板して行参軍と為す。毅嘗て出行す。而して鄢陵県吏陳満鳥を射るに、箭誤って直帥に中つ。人を傷つけずと雖も、法を処するに棄市とす。承天議して曰く、「獄は情断を貴ぶ。疑わしければ則ち軽きに従う。昔漢の文帝の乗輿馬を驚かす者有り。張釈之これを劾して蹕を犯すと為し、罪罰金に止まる。何ぞや。其の馬を驚かすに心無きを明らかにするなり。故に乗輿の重きを以て、異制に加えず。今満の意は鳥を射るに在り、人に中つに心有るに非ず。律を案ずるに過誤人を傷つけて三歳刑、況んや傷つけざるをや。微罰すべし」と。
宋台建つ、尚書祠部郎と為り、傅亮と共に朝儀を撰す。謝晦江陵に鎮す。請うて南蛮長史と為る。晦進みて号して衛将軍と為り、転じて諮議参軍、記室を領す。
元嘉三年、晦(謝晦)が討伐されんとする時、承天に計略を問うた。承天は言う、「大小(兵力)既に異なり、順逆(大義)もまた異なる。境外に全きを求むるは、上計なり。腹心を以て兵を領し義陽を戍らせ、将軍は衆を率いて夏口にて一戦す。若し敗るれば、即ち義陽に趨り、以て北境に出づ、これ其の次なり」と。晦は良久くして言う、「荊楚は武を用うるの国なり、且つ決戦すべし、走るも晩からず」と。晦が敗北した時、承天は留府に在りて従わず。到彦之が馬頭に至ると、承天自ら詣でて罪に帰し、宥免された。後に尚書左丞を兼ねた。
呉興余杭の人薄道挙が強盗を為し、制(法令)では同籍の期親(一年服の親族)を兵士に補充すると定めていた。道挙の従弟である代公・道生らは皆、強盗の大功親(九月服の親族)であり、補充・謫罰の例に応ずる者ではなかった。法司は代公らの母が存命であることを以て期親とし、子は母に随って兵士に補充すべきとした。承天が議して言う、「劫制(強盗に関する規定)を尋ぬるに、同籍の期親は兵士に補充す、大功親は則ち此の例に在らず。婦人は三従あり、既に嫁げば夫に従い、夫死すれば子に従う。今道挙が強盗を為した時、若し其の叔父が尚存ならば、制は補充・謫罰に応ずべく、妻子が営居(兵営に居住)するは、固より其の宜しき所なり。但し強盗を為した時、叔父は既に歿し、代公・道生は並びに従弟、大功の親なり、補謫に合わず。今若し叔母を期親と為し、代公に母に随って兵士に補充せしむるは、既に大功は謫せずの制に背き、又婦人の三従の道を失う。主事者が期親の条文を守るに由り、男女の異を弁ぜざるによる。代公ら母子は並びに宜しく原すべしと謂う」と。
承天は性剛愎にして、朝右(朝廷の高官)に意を屈する能わず、頗る其の長ずる所を以て同列を侮り、僕射殷景仁に平らかにされなかった。出されて衡陽内史となる。昔西方(江夏?)に在った時より士人と多く協わず、郡においても又公清ならず、州司に糾弾され、収監されて獄に繋がれたが、赦に会って免ぜられた。
十六年、著作佐郎に除され、国史を撰す。承天は年既に老い、諸々の佐郎は並びに名家の年少者であった。潁川の荀伯子が之を嘲り、常に奶母(乳母)と呼んだ。承天は言う、「卿は当に鳳凰九子を将いると云うべし、奶母と何を言うや」と。尋いで太子率更令に転じ、著作は元の如し。
時、丹陽溧陽の丁況らが久しく喪に服しながら棺を用いて葬らず、承天が議して言う、「礼に『還葬』と云うは、当に荒儉一時なるを謂い、故に其の財に称して備えを求めざるを許す。丁況の三家は数年中、葬る毎に棺櫬無く、実に浅情薄恩、禽獸に同じきに由る。窃かに丁寶らが同伍積年、未だ嘗て之を以て義を勧め、法を以て縄したること無し。十六年冬、既に新科無く、又旧制を申明せず、何の厳切なるか有りて、欻然として相い糾す。或いは隣曲の分争に由り、以て此の言を興す。聞く所に拠れば、東の諸処に在りては、此の例既に多く、江西・淮北は尤も少なからず。若し只此の三人を謫するのみならば、殆んど肅する所無く、其の一端を開かば、則ち互いに恐れ動く。臣愚かに謂う、況等の三家は且つ問わずとも可なり、此に因りて定制の旨を附すべし:若し人葬法の如くせざれば、同伍は即時に糾言すべし。三年除服の後は、追い相い告引すべからず」と。
十九年、国子学を立て、本官を以て国子博士を領す。皇太子が孝経を講ずるに、承天は中庶子顔延之と共に執経を為した。頃くして、御史中丞に遷る。
時、魏軍が南伐し、文帝は群臣に捍禦の略を訪う。承天は安辺論を上奏し、凡そ四事を陳ぶ:其一は、遠きを移して近きに就き、以て内地を実にす;其二は、城隍を浚復し、以て阻防を増す;其三は、車牛を纂偶し、以て戎械を飾る;其四は、丁を計り仗を課し、闕くらしめざるなり。文多く載せず。
承天は素より弈棋を好み、頗る事を廢するに用いた。又箏を弾くに善し。文帝は局子及び銀裝の箏を賜う。承天は表を奉り陳謝す。上答えて曰く、「局子の賜いは、何ぞ必ずしも張武の金に非ざらんや」と。
承天は古今に博く見え、一時の重んずる所と為る。張永嘗て玄武湖を開くに古塚に遇い、塚上に一の銅鬥を得たり、柄有り。文帝は以て朝士に訪う。承天曰く、「此れ亡新の威鬥なり。王莽の三公亡ぶに、皆之を賜う。一は塚外に在り、一は塚内に在り。時に三台江左に居る者は、唯甄邯大 司徒 たり、必ず邯の墓ならん」と。俄かに永又塚内に更に一斗を得たるを啓く、復た一の石銘有り「大 司徒 甄邯之墓」。時に帝は疑議有る毎に、必ず先ず之を訪い、信命道に相望む。承天は性褊促にして、嘗て主者に対し厲声して曰く、「天何をか言わん、四時行わり、百物生ず」と。文帝之を知り、応に遣わすに先ず戒めて曰く、「善く何(承天)の顔色を候え、其の悦ばざるが如くんば、須く多く陳ぶる無かれ」と。
二十四年、承天は廷尉に遷るも、未だ拝せず。上、吏部郎と為さんと欲し、既に密旨を受けしも、承天之を宣漏し、坐して官を免ぜられる。家に卒す、年七十八。
先ず是れ礼論八百巻有り、承天之を刪減併合し、類を以て相い従い、凡そ三百巻と為し、並びに前伝・雑語・纂文及び文集、並びに世に伝わる。又元嘉暦を改定し、漏刻を用いるに二十五箭を改む、皆之に従う。曾孫遜。
曾孫 遜
遜は字を仲言とす。八歳にして詩を賦する能く、弱冠、州に挙げられ秀才となる。南郷の範雲其の対策を見て、大いに称賞し、因りて忘年の交わりを結ぶ。親しい者に謂いて曰く、「頃く文人を観るに、質なれば則ち儒に過ぎ、麗なれば則ち俗を傷つく。其れ清濁を含み、今古に中る能くするは、之を何生に見る」と。沈約嘗て遜に謂いて曰く、「吾卿が詩を読む毎に、一日三復すれども、猶已む能わず」と。其れ名流に称せられること此の如し。
梁の天監年中、尚書水部郎を兼ね、南平王賓客に引き入れられ、記室事を掌る。後に之を武帝に薦め、呉均と俱に進み幸せられる。後稍く失意す。帝曰く、「呉均均ならず、何遜遜せず。吾が朱異有るに若かず、信に則ち異なり」と。是より疏隔し、復た見ゆることを希う。仁威廬陵王記室に卒す。
初め、遜は南平王に知られ、深く恩礼を被る。遜の卒するを聞き、其の柩を迎えて殯蔵せしめ、並びに其の妻子に餼(食糧)を与う。東海の王僧孺其の文を集めて八巻と為す。
初め、何遜の文章は劉孝綽と共に重んぜられ、当時これを何・劉と称した。梁の元帝が論を著してこれを論じて云う、「詩多くして能き者は沈約、少なくして能き者は謝朓・何遜なり」と。
何遜の従叔 何澗
何遜の従叔何澗は字を彦夷といい、また才をもって聞こえ、官途は達せず、拍張賦を作りて意を喩す。末に云う、「東方曼倩は侏儒に発憤し、遂に火頭食子と稟賜殊ならず」と。位は台郎に至る。
時に会稽の虞騫あり、五言詩を作るに巧みで、名は何遜と匹敵し、官は王国侍郎に至る。後にまた会稽の孔翁帰・済陽の江避あり、並びに南平王大司馬府記室となる。翁帰は詩を作るに巧み、江避は博学にして思理あり、論語・孝経に注す。二人並びに文集あり。
論ずるに、令問令望は詩人の詠ずる所以にして、礼あり法あるは前哲の美を播く由縁なり。范曄・荀伯子の二公を観るに、並びに学業をもって自ら著わり、而して時を幹するの誉は、本期ともに弘ならず。才は則ち余れども望は乃ち足らざるなり。蔚宗(范曄)は芸用に人の美を過ぐるあり、其の行事を跡づくれば、何ぞ利害の相い傾くや。徐広は動くも仁に違わず、義は儒行を兼ぬ。裴松之は雅道を貴しとし、実に徳を載するを光らす。何承天は素訓の資する所、舅氏に慚じず、美しいことかな。