南史

巻三十二より巻三十三

巻三十二より巻三十三

南史

巻三十二より巻三十三

列伝第二十二

張邵

原文張邵

桓玄が帝位を簒奪すると、父の張敞は先に尚書であったが、答申の事柄に些細な誤りがあったため、降格されて廷尉卿となった。宋の武帝が桓玄を討伐した際、張邵は父の敞に上表して忠誠を献上するよう進言し、武帝は大いに喜び、官寺の門に「張廷尉の家を犯す者あれば、軍法をもって論ず」と掲げるよう命じた。事が平定すると、敞を呉郡太守とした。王謐が揚州刺史となった時、張邵を召し出して主簿に補任した。

原文桓玄篡位,父敞先為尚書,以答事微謬,降為廷尉卿。及宋武帝討桓玄,邵白敞表獻忠款,帝大悅,命署寺門曰:「有犯張廷尉家者,軍法論。」事平,以敞為吳郡太守。及王謐為揚州,召邵補主簿。

劉毅は副宰相の地位にあり、士を好み才を愛し、当時の人々は皆そのもとに集まったが、張邵のみは赴かなかった。親族や旧知が怪しんで問うと、張邵は言った。「主公(劉毅)は命世の人傑である。どうしてわざわざ多くを問う必要があろうか。」劉穆之がこのことを武帝に言上すると、武帝はますます彼を親しくし、太尉参軍に転じ、長流賊曹を担当させた。

原文劉毅位居亞相,好士愛才,當世莫不輻湊,唯邵不往。親故怪而問之,邵曰:「主公命世人傑,何煩多問。」劉穆之言於帝,帝益親之,轉太尉參軍,署長流賊曹。

盧循が蔡洲に至ると、武帝は石頭城に赴き、張邵に南城を守備させた。当時、民衆が水辺で賊軍を眺めていたが、武帝はその意図を理解できず、張邵に問うた。張邵は言った。「節鉞(将軍の印)が未だ返還されず、逃げ散る暇もないのに、どうして眺める暇があろうか。今はもう恐れることはないでしょう。」武帝は張邵が勤勉で練達し、公事を憂えていると認め、重ねて州主簿に補任した。張邵は政事に心を砕き、その精力は人に優れていた。劉藩を誅殺する時、張邵は西州の直廬にいたが、その夜すぐに諸曹の役人に戒めて言った。「大軍が大討伐を行うであろう。各自、倉庫と舟船の人員・数量を条書きにし、明け方までに整えておけ。」翌朝、武帝が諸々の帳簿を求めると、時を移さずに届き、その速さを怪しんで問うた。諸曹の役人は答えて言った。「昨夜、張主簿の指示を受けました。」武帝は言った。「張邵はまさに人の憂いを共にしていると言えよう。」

原文盧循至蔡洲,武帝至石頭,使邵守南城。時百姓水際望賊,帝不解其意,以問邵。邵曰:「節鉞未反,奔散之不暇,亦何暇觀望,今當無復恐耳。」帝以邵勤練憂公,重補州主簿。邵悉心政事,精力絕人,及誅劉藩,邵時在西州直廬,即夜誡眾曹曰:「大軍當大討,可各各條倉庫及舟船人領,至曉取辦。」旦日,帝求諸簿最,應時即至,怪問其速。諸曹答曰:「宿受張主簿處分。」帝曰:「張邵可謂同人憂慮矣。」

九年、世子(劉義符)が初めて征虜府を開くと、張邵を補任して録事参軍とし、中軍府の称号に転じ、諮議参軍に昇進させ、記室を兼任させた。

原文九年,世子始開徵虜府,以邵補錄事參軍,轉號中軍,遷諮議參軍,領記室。

十一年、武帝が北伐を行うと、張邵は謁見を請い言った。「人生は危うくもろいものであり、遠慮を持つべきです。もし劉穆之が不慮の不幸に遭われたなら、誰が彼に代わり得ましょうか。尊い大業がこのような状況で、万一のことがあれば、その処分はどのようになさいますか。」武帝は言った。「これは穆之と卿に委ねるものだ。」

原文十一年,武帝北伐,邵請見曰:「人生危脆,宜有遠慮。若劉穆之邂逅不幸,誰可代之?尊業如此,若有不諱,則處分云何?」帝曰:「此自委穆之與卿耳。」

青州刺史の檀祗が広陵を鎮守していた時、たびたび軍勢を率いて滁中に至り、逃亡者を襲撃討伐した。劉穆之は彼が変事を起こすことを憂慮し、軍を派遣することを議した。張邵は言った。「檀韶が中流を押さえ、檀道済が軍の首長となっています。もし疑わしい形跡があれば、大府(将軍府)はたちまち危険に陥ります。むしろ逆に慰労の使者を派遣すれば、必ず禍いはないでしょう。」檀祗は果たして動かなかった。

原文青州刺史檀祗鎮廣陵,輒率眾至滁中掩討亡命,劉穆之慮其為變,議欲遣軍。邵曰:「檀韶據中流,道濟為軍首,若有相疑之跡,則大府立危。不如逆遣慰勞,必無患也。」祗果不動。

劉穆之が急死すると、朝廷は恐れ慌て、すぐに詔を発して司馬の徐羨之を後任とした。張邵のみが言った。「今は確かに急を要する病状であり、任は最終的に徐羨之にあります。しかし、世子に独断で行う義理はなく、諮問を待つべきです。」使者が戻り、ようやく世子に命を出させて言った。「朝廷及び大府の事柄は全て徐司馬に諮問せよ。その他の上奏は戻すこと。」武帝は彼が事に臨んで屈せず、大臣の節操を備えていることを良しとした。

原文及穆之暴卒,朝廷恇懼,便發詔以司馬徐羨之代之。邵獨曰:「今誠急病,任終在徐;然世子無專行之義,宜須諮。」信反,方使世子出命曰:「朝廷及大府事悉諮徐司馬,其餘啟還。」武帝善其臨事不撓,得大臣節。

十四年、世子が改めて荊州を授けられると、張邵は諫めて言った。「皇太子の重責は、四海の命運がかかっております。外に出るべきではありません。敢えて死を賭してお願いします。」世子は結局赴任しなかった。

原文十四年,世子改授荊州,邵諫曰:「儲貳之重,四海所系,不宜外出,敢以死請。」世子竟不行。

文帝が中郎将・荊州刺史となると、張邵を司馬とし、南郡相を兼任させ、多くの政事を全て張邵に決裁させた。武帝が帝位につくと、佐命の功により臨沮伯に封じられた。荊州を分けて湘州を立て、張邵を刺史とした。府を設置しようとしたが、張邵は長沙は内陸の地であり、武力を用いる国ではなく、府を置けば民を煩わせ、政治の要諦に背くと主張した。(文帝は)これに従った。荊州刺史の謝晦が反乱を起こし、書簡を送って張邵を誘ったが、張邵は封を開かず、そのまま文帝に呈上させた。

原文文帝為中郎將、荊州刺史,以邵為司馬,領南郡相,眾事悉決于邵。武帝受命,以佐命功封臨沮伯。分荊州立湘州,以邵為刺史,將署府,邵以長沙內地,非用武之國,置府妨人,乖為政要。從之。荊州刺史謝晦反,遺書要邵,邵不發函,使呈文帝。

元嘉五年、征虜将軍に転じ、甯蛮校尉・雍州刺史を兼任し、都督を加えられた。初め、王華は張邵と不仲であったが、王華が枢要に参与すると、親族や旧知は張邵の身を危惧した。張邵は言った。「子陵(王華の字あざな)は今まさに至公を広めようとしている。どうして私的な不和をもって正義を害することがあろうか。」この任には、実は王華が推挙したのである。

原文元嘉五年,轉征虜將軍,領甯蠻校尉、雍州刺史,加都督。初,王華與邵不和,及華參要,親舊為之危心。邵曰:「子陵方弘至公,豈以私隙害正義。」是任也,華實舉之。

襄陽に到着すると、長い囲いを築き、堤防や用水路を整備し、数千頃の田畑を開拓して、公私ともに豊かになった。丹川と淅川の蛮族がたびたび寇掠を行ったため、張邵はその首長らを誘い出し、大集会の機会に誅殺し、軍を派遣してその村落を襲撃し、全て捕らえた。しかし、蛮族全体に対して信義を失ったため、各地で一斉に蜂起ほうきし、水陸の道が断絶した。七年、子の張敷が襄陽に赴いて父母の安否を問うた後、都に戻ろうとした時、蛮族らは彼を捕らえようとしたが、丁度蠕蠕国(柔然)の献上使節団が下向してきたため、蛮族はこれを張敷と思い、掠奪した。張邵はこれに連座して、揚烈将軍に降号された。

原文及至襄陽,築長圍,修立堤堰,創田數千頃,公私充給。丹、淅二川蠻屢為寇,邵誘其帥並出,因大會誅之,遣軍掩其村落,悉禽。既失信群蠻,所在並起,水陸路斷。七年,子敷至襄陽定省,當還都,群蠻欲斷取之,會蠕蠕國獻使下,蠻以為是敷,因掠之。邵坐降號揚烈將軍。

江夏王劉義恭が江陵を鎮守したとき、張邵を撫軍長史・持節・南蠻校尉に任じた。元嘉九年、雍州において私的に蓄財し贓物二百四十五万を取った罪により、廷尉に下され、官を免ぜられ爵位と封土を削られた。後に吳興太守となり、任地で死去した。爵位と封邑を追復され、諡して簡伯といった。

原文江夏王義恭鎮江陵,以邵為撫軍長史、持節、南蠻校尉。九年,坐在雍州營私畜取贓貨二百四十五萬,下廷尉,免官削爵土。後為吳興太守,卒。追復爵邑,諡曰簡伯。

張邵は臨終に遺命して、祭りには野菜と果物を用い、葦の席を輿車とし、諸子はこれに従えと命じた。長子は張敷である。

原文邵臨終遺命,祭以菜果,葦席為車需車,諸子從焉。長子敷。

長子は張敷。

原文長子 敷

張敷は字を景胤といい、生まれてすぐに母を亡くした。数歳の時にこのことを知り、まだ幼いながらも感慕の色を示した。十歳ほどになったとき、母の遺物を求めたが、すでに散逸してしまっており、ただ一つの扇を得たのみであった。そこでこれを箱に納めて大切にした。感慕の念にかられるたびに、箱を開けては涙を流した。従母に会うと、悲しみのあまり声を詰まらせた。

原文敷字景胤,生而母亡。年數歲問知之,雖童蒙便有感慕之色。至十歲許,求母遺物,而散施已盡,唯得一扇,乃緘錄之。每至感思,輒開笥流涕。見從母,悲感哽咽。

性質は整然として尊く、風韻は甚だ高く、玄言を読むことを好み、また文論を綴ることを兼ねた。初め、父の張邵が高士の南陽宗少文(宗炳)と系象について談論させるため、数度にわたって往復させた。少文は毎回議論で屈せんとし、麈尾を握って嘆いて言った、「わが道は東へ行く(張敷に受け継がれる)」。これにより名声と評価は日増しに高まった。

原文性整貴,風韻甚高,好讀玄言,兼屬文論。初,父邵使與高士南陽宗少文談系象,往復數番。少文每欲屈,握麈尾歎曰:「吾道東矣。」於是名價日重。

宋の武帝(劉裕)はその美才を聞き、召し出して見て奇異とし、「真の千里駒である」と言った。世子(劉義符)の中軍参軍とし、しばしば接見して引き立てた。累遷して江夏王劉義恭の撫軍記室参軍となった。義恭が文帝(劉義隆)に学問に優れた沙門一人を求めたとき、ちょうど張敷が休暇を終えて江陵に戻る途中で、文帝に別れの挨拶をしに来た。文帝は後続の車にその沙門を乗せて行かせようとし、「道中で語り合うことができるであろう」と言った。張敷は詔に従わず、「臣は性質として雑多なことを耐えられません」と答えた。上(文帝)は甚だ不悦であった。

原文宋武帝聞其美,召見奇之,曰:「真千里駒也。」以為世子中軍參軍,數見接引。累遷江夏王義恭撫軍記室參軍。義恭就文帝求一學義沙門,會敷赴假還江陵,入辭,文帝令以後車載沙門往,謂曰:「道中可得言晤。」敷不奉詔,曰:「臣性不耐雜。」上甚不悅。

正員中書郎に遷った。張敷の小名は樝ざくろといい、父の張邵の小名は梨といった。文帝が戯れて言った、「樝は梨に比べてどうか」。答えて言った、「梨は百果の宗(根本)であります。樝がどうして比べられましょうか」。中書舍人の秋當と周赳はともに枢要な事務を管掌し、張敷が同じ官省の名家であることから、彼を訪ねようとした。周赳が言った、「彼がもし我々を受け入れてくれなければ、行かない方がましだ。軽々しく行くべきではない」。秋當が言った、「我々はすでに員外郎になっているではないか。どうして同席できないことがあろうか」。張敷はあらかじめ傍らに二つの床を設け、壁から三四尺離しておいた。二人の客が席に着くと、張敷は左右の者に呼びかけて言った、「私を遠くの客から離してくれ」。周赳らは顔色を失って立ち去った。彼が自らを標榜し待遇する様はこのようなものであった。

原文遷正員中書郎。敷小名樝,父邵小名梨。文帝戲之曰:「樝何如梨?」答曰:「梨是百果之宗,樝何敢比也。」中書舍人秋當、周赳並管要務,以敷同省名家欲詣之。赳曰:「彼若不相容接,便不如勿往,詎可輕行。」當曰:「吾等並已員外郎矣,何憂不得共坐。」敷先旁設二床,去壁三四尺。二客就席,敷呼左右曰:「移我遠客。」赳等失色而去,其自標遇如此。

音声と儀容を整えることに長け、詳しく緩やかな趣きを極めた。人と別れるとき、手を執って「便りを聞かせてくれ」と言い、その余韻が久しく絶えなかった。張氏の後進たちは皆これを慕い、その源流は張敷から始まったのである。

原文善持音儀,盡詳緩之致,與人別,執手曰:「念相聞。」餘響久之不絕。張氏後進皆慕之,其源起自敷也。

黄門侍郎、始興王劉浚の後將軍司徒左長史に遷ったが、拝命しないうちに、父が吳興で亡くなった。喪服を着てから十余日間、ようやく水や粥を口にした。葬儀が終わっても塩気のある菜を食べず、ついに衰弱して病気になった。伯父の張茂度がたびたび慰め諭したが、そのたびにますます悲嘆に暮れ、気絶してはまた息を吹き返した。茂度は言った、「私はお前を諭して益があることを望んだが、かえってひどくなっただけだ」。それ以来、二度と行かなくなった。喪に服して一年にも満たないうちに死去した。孝武帝(劉駿)が即位すると、詔してその孝道を表彰し、侍中を追贈し、その住んでいた里を孝張里と改称させた。

原文遷黃門侍郎,始興王浚後將軍司徒左長史,未拜,父在吳興亡,成服凡十餘日,始進水漿。葬畢不進鹽菜,遂毀瘠成疾。伯父茂度每止譬之,輒更感慟,絕而復續。茂度曰:「我冀譬汝有益,但更甚耳。」自是不復往。未期而卒。孝武即位,詔旌其孝道,追贈侍中,改其所居稱孝張里。

子は張敷の弟、張柬。

原文子 敷弟 柬

張敷の弟の張柬が父の封爵を襲い、通直郎の位にあった。張柬は勇力があり、素手で猛獣と格闘した。元凶(劉劭)が彼を輔國將軍とした。孝武帝が新亭に至ると、張柬は出奔し、淮水に落ちて死んだ。子の張式が後を嗣いだ。弟に張沖がいる。

原文敷弟柬襲父封,位通直郎。柬勇力,手格猛獸,元凶以為輔國將軍。孝武至新亭,柬出奔,墜淮死。子式嗣。弟沖。

孫は張柬の子、張沖。

原文孫 柬子 沖

張沖は字を思約といい、伯父の張敷の後を嗣いだ。張沖の母は戴顒の娘で、儀礼の模範があり、張氏の内室では彼女を手本とした。張沖は幼少より至誠の性質があり、従叔父の張永に従って将帥となり、盱眙太守に任じられた。張永が彭城を征したとき寒さに遭い、兵士の足の脛が凍えて切れた者が十のうち七八に及んだが、張沖の足の指も全て脱落した。齊の永明八年、仮節を与えられ、青・冀二州の行刺史事を監察した。張沖の父が亡くなったとき、遺命して「私を祭るには必ず郷土の産物を用い、犠牲の動物を用いるな」と言った。張沖が鎮守の地にいる間、四季折々に吳國に戻って果物や野菜を取り寄せ、毎回の烝嘗の祭りには、涙を流してこれを供えた。やがて刺史に転じた。

原文沖字思約,出繼伯父敷。沖母戴顒女,有儀范,張氏內取則焉。沖少有至性,隨從叔永為將帥,除盱眙太守。永征彭城遇寒,軍人足脛凍斷者十七八,沖足指皆墮。齊永明八年,為假節,監青冀二州行刺史事。沖父初卒,遺命「祭我必以鄉土所產,無用牲物」。沖在鎮,四時還吳國取果菜,每至烝嘗,輒流涕薦焉。仍轉刺史。

永元二年、南兗州刺史となり、司州刺史に遷った。裴叔業が壽春を挙げて魏に降ると、また張沖を南兗州刺史に遷そうとしたが、いずれも拝命しなかった。崔慧景の乱が平定されると、建安王蕭寶夤を都に召還し、張沖を郢州えいしゅう刺史とした。一年のうちに、四州刺史を次々と授けられたが、この時になってようやく任を受けた。定襄侯に封ぜられた。

原文永元二年,為南兗州刺史,遷司州。裴叔業以壽春降魏,又遷沖南兗州刺史,並未拜。崔慧景事平,征建安王寶夤還都,以沖為郢州刺史,一歲之中,頻授四州刺史,至是乃受任,封定襄侯。

梁の武帝(蕭衍)が兵を起こすと、自ら手紙を書いて意を諭し、また弁士を遣わして説得したが、張沖は確固として心を動かさなかった。東昏侯(蕭寶巻)は驍騎將軍の薛元嗣と制局監の暨榮伯に兵と糧食の運送を率いさせて張沖に送り、西方の軍(梁武帝軍)を防がせようとした。薛元嗣らは劉山陽の敗北を戒めとし、張沖を疑って進もうとせず、夏首浦に停泊した。梁武帝の軍が迫ると聞くと、薛元嗣と榮伯は相率いて郢城に入った。時に竟陵太守の房僧寄が交代で帰還する途中郢に至り、東昏侯は僧寄に魯山を留守させよと勅し、驍騎將軍に任じた。僧寄は張沖に言った、「下官は朝廷の深恩を蒙ってはいませんが、実に先帝の厚い恩沢を受けました。その樹の蔭を受ける者はその枝を折らず、微力ながら塵ほどの功績を立てたいと願います」。張沖は深くこれを認め、共に盟誓を結び、部署を分けて拒み守った。軍主の孫樂祖に数千人を率いさせて僧寄を助け、魯山の岸に城塁を築かせて守らせた。

原文梁武帝起兵,手書喻意,又遣辯士說之,沖確然不回。東昏遣驍騎將軍薛元嗣、制局監暨榮伯領兵及糧運送沖,使拒西師。元嗣等懲劉山陽之敗,疑沖不敢進,停住夏首浦。聞梁武師將至,元嗣、榮伯相率入郢城。時竟陵太守房僧寄被代還至郢,東昏敕僧寄留守魯山,除驍騎將軍。僧寄謂沖曰:「下官雖未荷朝廷深恩,實蒙先帝厚澤。蔭其樹者不折其枝,實欲微立塵效。」沖深相許諾,共結盟誓,分部拒守。遣軍主孫樂祖數千人助僧寄據魯山岸立城壘。

翌年二月、梁の武帝が魯山城を包囲し、軍主曹景宗らを派遣して江を渡り郢城を攻撃させた。沖の中兵参軍陳光静らが間隙をうかがって出撃したが、光静は戦死し、沖は堅く守って出撃しなかった。病が重くなって死の間際に、府の僚属に対し忠節を励まし、言い終わって卒去した。元嗣・栄伯は沖の子の孜および長史江夏の程茂と共に固守した。東昏侯は詔して沖に散騎常侍・護軍将軍を追贈した。

原文明年二月,梁武圍魯山城,遣軍主曹景宗等過江攻郢城。沖中兵參軍陳光靜等間出擊之,光靜戰死,沖固守不出。病將死,厲府僚以誠節,言終而卒。元嗣、榮伯與衝子孜及長史江夏程茂固守。東昏詔贈沖散騎常侍、護軍將軍。

元嗣らは包囲された城中にあり、他に方策もなく、ただ蒋子文と蘇侯神を迎え、日が午後に州庁の上で祀りを行い福を求め、鈴鐸の音は昼夜止むことがなかった。また子文の先導に従って城壁に登り巡行し、翌日もまた同じことを繰り返した。識者はこれをもって滅亡の兆しと知った。

原文元嗣等處圍城之中,無他經略,唯迎蔣子文及蘇侯神,日禺中於州聽上祀以求福,鈴鐸聲晝夜不止。又使子文導從登陴巡行,旦日輒復如之。識者知其將亡。

僧寄は病没し、孫の楽祖は窮して城を降した。

原文僧寄病死,孫樂祖窘,以城降。

郢城は二百余日包囲され、士民で病死した者は七八百家に及んだ。魯山陥落の二日後、程茂と元嗣らは降伏を議し、孜に命じて梁の武帝に書を送らせた。沖の旧吏である青州中従事の房長瑜は孜に言った、「先の使君(張沖)の忠誠は天に貫き、操行は松竹よりも高く、郎君はただ端座して画一(確固たる方針)を守り、析薪(父の事業)を継ぐべきである。もし天運が味方せずとも、幅巾(隠者の服装)で命を待ち、下って使君に従うべきだ。今もし諸人の計に従えば、ただ郢州の士女が高山(仰ぎ見るもの)を失うのみならず、恐らく彼方(梁武帝)も取らぬであろう」。孜は従わず、ついに郢城を降した。時に沖と房僧寄を臧洪の被囲に比した。僧寄に益州刺史を追贈した。

原文郢被圍二百餘日,士庶病死者七八百家。魯山陷後二日,程茂及元嗣等議降,使孜為書與梁武帝。沖故吏青州中從事房長瑜謂孜曰:「前使君忠貫昊天,操愈松竹,郎君但當端坐畫一,以荷析薪。若天運不與,幅巾待命,以下從使君。今若隨諸人之計,非唯郢州士女失高山之望,亦恐彼所不取也。」不從,卒以郢城降。時以沖及房僧寄比臧洪之被圍也。贈僧寄益州刺史。

甥 暢

原文從子 暢

暢は字を少微といい、邵の兄の褘の子である。褘は若くして操行があり、晋の琅邪王国の郎中令となった。王に従って洛陽に至り、都に帰還した後、宋の武帝が薬酒一罌を褘に託し、密かに毒を加えるよう命じたが、褘は道中で命を受けて自ら飲み卒した。

原文暢字少微,邵兄褘子也。褘少有操行,為晉琅邪王國郎中令。從王至洛。還京都,宋武帝封藥酒一罌付褘,使密加酖毒,受命於道自飲而卒。

暢は若くして従兄の敷・演・鏡と名声を並べ、後進の秀才とされた。初めて官に就き、太守徐佩之の主簿となった。佩之が誅殺されると、暢は駆けつけて赴き、喪服を着て哀悼の意を尽くし、論者の称賛を受けた。弟の牧が猘犬に傷つけられ、医者が蝦蟇を食すべきと言ったので、牧は甚だ難色を示した。暢は笑みを含んで先に嘗め、牧はそれによって食し、傷も直ちに癒えた。

原文暢少與從兄敷、演、鏡齊名,為後進之秀。起家為太守徐佩之主簿,佩之被誅,暢馳出奔赴,制服盡哀,為論者所美。弟牧嘗為猘犬所傷,醫云宜食蝦蟆,牧甚難之。暢含笑先嘗,牧因此乃食,創亦即愈。

累進して太子中庶子となった。孝武帝が彭城を鎮守する時、暢は安北長史・沛郡太守となった。元嘉二十七年、魏の太武帝が南征し、太尉江夏王義恭が諸軍を統率して彭城に出鎮した。太武帝は自ら大軍を率い、彭城から数十里のところに迫った。彭城の兵力は多いが軍糧が足りず、義恭は彭城を棄てて南帰しようとし、議論は一日中決まらなかった。時に歴城は兵少なく食糧多し、安北中兵参軍沈慶之は、車営を函箱の陣とし、精兵を外翼とし、二王と妃嬪を奉じて歴城に直行し、城兵の一部を護軍将軍蕭思話に配して留守を守らせることを議した。太尉長史何勖はこれに異を唱え、一挙に鬱洲に奔り、海路で都に還ることを望んだ。二つの議論未決のうち、再び群僚を集めて謀った。暢は言った。

原文累遷太子中庶子。孝武鎮彭城,暢為安北長史、沛郡太守。元嘉二十七年,魏太武南征,太尉江夏王義恭統諸軍出鎮彭城。太武親率大眾,去彭城數十里。彭城眾力雖多,軍食不足,義恭欲棄彭城南歸,計議彌日不定。時曆城眾少食多,安北中兵參軍沈慶之議欲以車營為函箱陣,精兵為外翼,奉二王及妃媛直趨曆城,分城兵配護軍將軍蕭思話留守。太尉長史何勖不同,欲席捲奔鬱洲,自海道還都。二議未決,更集群僚謀之。暢曰:

「もし歴城・鬱洲に至る理があるならば、下官は敢えて大いに賛成しないわけにはいきません。今城内は食糧に乏しく、百姓は皆逃げる気持ちがあるが、ただ関門が厳重で固く閉ざされているため、去ろうとしても従えないだけです。もし一旦足を動かせば、各自散り散りに逃走し、目指す所に至るなど、どうしてできましょうか。今軍糧は少ないとはいえ、朝夕の用にはまだ窮迫してはいません。どうして万全の術を捨てて、危亡の道に就くことがありましょう。もしこの計を用いるとすれば、下官は頸の血をもって君の馬跡を汚すことを請います」。孝武帝は暢の議論を聞き、義恭に言った、「張長史の言は異を唱えることはできない」。義恭はやめて止めた。

原文「若曆城、鬱洲有可至之理,下官敢不高贊。今城內乏食,百姓咸有走情,但以關扃嚴固,欲去莫從耳。若一旦動腳,則各自散走,欲至所在,何由可得?今軍食雖寡,朝夕猶未窘罄,豈有舍萬安之術,而就危亡之道。若此計必用,下官請以頸血汙君馬跡。」孝武聞暢議,謂義恭曰:「張長史言不可異也。」義恭乃止。

魏の太武帝が到着すると、やがて城南の亜父塚に登り、戯馬台に氈屋を立てた。先に隊主の蒯応が捕らえられ、その日晡時(午後四時頃)、太武帝は応を小巿門に送り届けて意を伝え、甘蔗と酒を求めた。孝武帝は人を遣わして酒二器、甘蔗百挺を送り、駱駝を求めた。翌日、太武帝はまた自ら戯馬台に上り、再び使者を小巿門に遣わし、孝武帝との面会を求め、駱駝を送り届け雑物を贈り、南門で受け取らせた。暢は城上で魏の尚書李孝伯と語った。孝伯が問う、「君は何姓か」。答えて「張姓です」と言う。孝伯は「張長史か」と言った。暢は「君はどうして知っているのか」と問うと、孝伯は「君の声名は遠く聞こえ、私に知らしめるに足る」と言った。そこでしばらく語り合った。城内に具思という者がおり、かつて魏にいたことがあったので、義恭が視察に遣わすと、これが孝伯であると知り、門を開いて贈り物を進めた。

原文魏太武得至,仍登城南亞父塚,于戲馬台立氈屋。先是隊主蒯應見執,其日晡時,太武遣送應至小巿門致意,求甘蔗及酒。孝武遣人送酒二器,甘蔗百挺;求駱駝。明日,太武又自上戲馬台,復遣使至小巿門求與孝武相見,遣送駱駝並致雜物,使于南門受之。暢于城上與魏尚書李孝伯語。孝伯問:「君何姓?」答云:「姓張。」孝伯曰:「張長史。」暢曰:「君何得見識?」孝伯曰:「君聲名遠聞,足使我知。」因言說久之。城內有具思者嘗在魏,義恭遣視,知是孝伯,乃開門進餉物。

太武帝はまた酒と甘橘を求め、暢は孝武帝の旨を宣べ、さらに螺杯と雑粽を贈った。これらは南方の珍品である。太武帝はまた孝伯に命じて伝言させた、「魏主が詔して博具を借りたい」。暢は言った、「博具は申し送るべきですが、詔という言葉は、まさにそちらの国に施すべきもので、ここで称すべきものではありません」。孝伯は「隣国の君主が、どうして隣国の臣に対し詔と称してはならないのか」と言う。暢は「君のこの称は、まだ中華に聞かせることもできない。まして諸王の貴きに対して、ただ隣国の君と言うだけではどうか」と言った。孝伯は「魏主が言うには、太尉・鎮軍は久しく南方からの音信がなく、大いに憂慮している。もし使者を遣わしたいならば、護送しよう」と言った。暢は「この方には間道が多く、これをもって魏主を煩わせることはありません」と言った。孝伯は「水路もあることは知っているが、白賊に遮断されているようだ」と言う。暢は「君は白衣を着ているから、白賊と称するのか」と言うと、孝伯は大笑いして「今の白賊も黄巾・赤眉と異ならない」と言った。暢は「黄巾・赤眉は江南にはいないようです」と言うと、孝伯は「青州・徐州を離れてもいない」と言った。暢は「今、青・徐には確かに賊がいますが、白賊ではありません」と言った。また博具を求め、間もなく送り与えた。

原文太武又求酒及甘橘,暢宣孝武旨,又致螺杯雜粽,南土所珍。太武復令孝伯傳語曰:「魏主有詔借博具。」暢曰:「博具當為申致,有詔之言,政可施于彼國,何得稱之於此。」孝伯曰:「鄰國之君,何為不稱詔於鄰國之臣?」暢曰:「君之此稱,尚不可聞于中華,況在諸王之貴,而獨曰鄰國之君邪。」孝伯曰:「魏主言太尉、鎮軍久闕南信,殊當憂邑,若欲遣信,當為護送。」暢曰:「此方間路甚多,不復以此勞魏主。」孝伯曰:「亦知有水路,似為白賊所斷。」暢曰:「君著白衣,故稱白賊邪?」孝伯大笑曰:「今之白賊亦不異黃巾、赤眉。」暢曰:「黃巾、赤眉似不在江南。」孝伯曰:「亦不離青、徐。」暢曰:「今者青、徐實為有賊,但非白賊耳。」又求博具,俄送與。

太武帝はまた氈と九種の塩および胡豉を送り届けさせ、言った、「これらの塩はそれぞれに適した用途がある。白塩は魏主が食するもの。黒塩は腹脹気悶を治し、細かく削り六銖を取り、酒で服用する。胡塩は目痛を治す。柔塩は食用に用いず、馬の背中の傷を治す。赤塩・駁塩・臭塩・馬歯塩の四種は、いずれも食用に適さない。胡豉も食べられる」。また黄甘(柑橘)を求め、さらに言った、「魏主が太尉・安北に意を致す。どうして人を我が間(陣中)に遣わさないのか。彼此の情は尽くせないとはいえ、我が大小(規模)を見、我が老少を知り、我が人となりを観る必要がある。もし諸佐(側近)を遣わせなければ、童でもよい」。暢はまた旨を宣べて答えた、「魏主の形状才力は、久しく往来によって具わっている。李尚書が自ら命を奉じて来ているので、彼此が尽くせぬことを憂うるには及ばない。故に再び使者を遣わさない」。また言った、「魏主は先に送った馬が甚だ意にかなわないことを恨んでいる。安北が大馬を必要とするなら、さらに送ろう。もし蜀馬が必要なら、良いものもある」。暢は「安北は良駟に乏しくはありません。送るのはそちらの意向であり、こちらが求めたものではありません」と言った。義恭はまた炬燭十挺を贈り、孝武帝も錦一匹を贈った。また言った、「さらに黄甘が必要と知るが、惜しむわけではないが、ただ一軍に行き渡らせるには足りない。先に魏主に与えた分も、まだ乏しいはずはないので、重ねて付さない」。

原文太武又遣送氈及九種鹽並胡豉,云:「此諸鹽各有所宜:白鹽是魏主所食;黑者療腹脹氣懣,細刮取六銖,以酒服之;胡鹽療目痛;柔鹽不用食,療馬脊創;赤鹽、駁鹽、臭鹽、馬齒鹽四種,並不中食。胡豉亦中噉。」又求黃甘,並云:「魏主致意太尉、安北,何不遣人來至我間?彼此之情雖不可盡,要須見我小大,知我老少,觀我為人。若諸佐不可遣,亦可使僮來。」暢又宣旨答曰:「魏主形狀才力,久為來往所具,李尚書親自銜命,不患彼此不盡。故不復遣信。」又云:「魏主恨向所送馬殊不稱意,安北若須大馬,當更送之;脫須蜀馬,亦有佳者。」暢曰:「安北不乏良駟,送自彼意,非此所求。」義恭又餉炬燭十挺,孝武亦致錦一匹。又曰:「知更須黃甘,誠非所吝,但會不足周彼一軍。向給魏主,未應便乏,故不復重付。」

太武帝はまた甘蔗と安石榴を求めた。暢は「石榴は鄴下の産であり、彼らが乏しいものではないでしょう」と言った。孝伯は「君は南土の膏粱(貴族)であるのに、どうして草鞋を履いているのか。君がこれを履けば、将士たちはどう思うか」と言った。暢は「膏粱の身という言葉は、誠に愧ずかしい。ただ武に優れず、命を受けて軍を統べるため、軍陣の間では緩やかな服装は許されないのです」と言った。

原文太武復求甘蔗安石榴,暢曰:「石榴出自鄴下,亦當非彼所乏。」孝伯曰:「君南土膏粱,何為著屩?君而著此,使將士雲何?」暢曰:「膏粱之言,誠為多愧,但以不武,受命統軍,戎陣之間,不容緩服。」

太武帝はまた二王(江夏王義恭と孝武帝)に箜篌・琵琶・箏・笛などの楽器と棋子を借りようと遣わした。孝伯の弁舌も北土の優れたものであり、暢は状況に応じて受け答えし、言葉は流れる如く、音韻は詳雅で、風儀は華やかで潤いがあった。孝伯と左右の人々は皆見交わして嘆息した。

原文太武又遣就二王借箜篌、琵琶、箏、笛等器及棋子。孝伯辭辯亦北土之美,暢隨宜應答,吐屬如流,音韻詳雅,風儀華潤。孝伯及左右人並相視歎息。

時に魏の声が襄陽より出づと云はれたるにより、故に暢を以て南譙王義宣の司空長史・南郡太守となす。三十年、元凶弑逆す。義宣哀を発するの日、即ち兵を挙ぐ。暢は元佐たり、僚首に位し、哀容俯仰、当時に蔭映す。挙哀畢りて、服を改め黄褲褶を著し、射堂に出でて人を簡ぶ。音姿容止、目を注がざる莫く、見る者は皆命を尽くさんと願ふ。事平らぎて、吏部尚書に徴せられ、夷道県侯に封ぜらる。

原文時魏聲雲當出襄陽,故以暢為南譙王義宣司空長史、南郡太守。三十年,元凶弑逆,義宣發哀之日,即便舉兵。暢為元佐,位居僚首,哀容俯仰,蔭映當時。舉哀畢,改服著黃褲褶,出射堂簡人。音姿容止,莫不矚目,見者皆願為盡命。事平,徵為吏部尚書,封夷道縣侯。

義宣既に異図有り、蔡超等は暢の人望を以て、義宣を勧めて之を留めしむ。乃ち南蛮校尉を解きて以て暢に授け、冠軍将軍を加へ、丞相長史を領せしむ。暢は門生荀僧宝を遣はして都に下らしめ、顔竣に因りて義宣の釁状を陳ぶ。僧宝に私貨有り、巴陵に停まりて時に下らず。会に義宣兵を起こし、津路断絶す。僧宝遂に去ることを得ず。

原文義宣既有異圖,蔡超等以暢人望,勸義宣留之。乃解南蠻校尉以授暢,加冠軍將軍,領丞相長史。暢遣門生荀僧寶下都,因顏竣陳義宣釁狀。僧寶有私貨,停巴陵不時下。會義宣起兵,津路斷絕,僧寶遂不得去。

義宣将に逆を為らんとし、嬖人翟霊宝を遣はして暢に告ぐ。暢は必ず此の理無からんことを陳べ、死を以て之を保たんことを請ふ。霊宝は暢の回らざるを知り、義宣を勧めて以て衆に徇はしめんとす。丞相司馬竺超人の頼りにて免る。撫軍と号し進め、別に軍部を立て、以て人望を収む。暢は文檄に署すと雖も、酒を飲みて常に酔ひ、文書を省みず。義宣に随ひて東下す。梁山に戦ひ敗れ、乱兵の中に於て自ら帰り、軍人に掠められ、衣服尽く都て尽きぬ。右将軍王玄謨の乗輿に出営するに遇ふ。暢は已に敗衣を得たれば、因りて玄謨を排し輿に上る。玄謨意甚だ悦ばず。諸将之を殺さんことを請ふ。隊主張世の救ひにて免る。執へて都に送り、廷尉に下す。尋いで原せらる。

原文義宣將為逆,遣嬖人翟靈寶告暢,暢陳必無此理,請以死保之。靈寶知暢不回,勸義宣殺以徇眾,賴丞相司馬竺超人得免。進號撫軍,別立軍部,以收人望。暢雖署文檄,而飲酒常醉,不省文書。隨義宣東下。梁山戰敗,於亂兵自歸,為軍人所掠,衣服都盡。遇右將軍王玄謨乘輿出營,暢已得敗衣,因排玄謨上輿。玄謨意甚不悅,諸將請殺之,隊主張世營救得免。執送都,下廷尉,尋見原。

起きて都官尚書となり、転じて侍中、子淹に代はりて太子右衛率を領す。孝武朝賢に宴し、暢も亦座に在り。何偃酔ひに因りて曰く「張暢故に是れ奇才なり。義宣と同く賊を作すと雖も、亦能く咎無し。才に非ずして何を以てか此に致さん」と。暢乃ち声を厲して曰く「太初の時、誰か其の合を黄にせし」と。帝曰く「何事か相苦しむる」と。初め、元凶の時、偃の父尚之は元凶の司空たり。義師新林に至り、門生皆逃ぐ。尚之父子は婢妾と共に黄合を洗ふ。故に暢之を譏る。

原文起為都官尚書,轉侍中,代子淹領太子右衛率。孝武宴朝賢,暢亦在坐。何偃因醉曰:「張暢故是奇才,同義宣作賊,亦能無咎,非才何以致此?」暢乃厲聲曰:「太初之時,誰黃其合?」帝曰:「何事相苦。」初,元凶時,偃父尚之為元凶司空,義師至新林,門生皆逃,尚之父子與婢妾共洗黃合,故暢譏之。

孝建二年、出でて会稽太守となる。卒す。諡して宣と曰ふ。暢は弟子輯を愛し、臨終遺命して、輯と合墳せしむ。論者之を非とす。

原文孝建二年,出為會稽太守。卒,諡曰宣。暢愛弟子輯,臨終遺命,與輯合墳,論者非之。

従子 暢の弟 悦

原文從子 暢弟 悅

暢の弟悦も亦美称有り。侍中・臨海王子頊前軍長史・南郡太守を歴任す。晋安王子勳偽号を建つ。召し拜して吏部尚書と為し、鄧琬と共に偽政を輔く。事敗れて、悦は琬を殺し帰降す。復た太子中庶子と為る。後に雍州刺史を拜す。泰始六年、明帝巴郡に於て三巴校尉を置き、悦を以て之に補ひ、持節・輔師将軍を加へ、巴郡太守を領せしむ。未だ拜せずして卒す。

原文暢弟悅亦有美稱,曆侍中、臨海王子頊前軍長史、南郡太守。晉安王子勳建偽號,召拜為吏部尚書,與鄧琬共輔偽政。事敗,悅殺琬歸降,復為太子中庶子。後拜雍州刺史。泰始六年,明帝于巴郡置三巴校尉,以悅補之,加持節、輔師將軍,領巴郡太守。未拜卒。

従孫 暢の子 浩

原文從孫 暢子 浩

暢の子浩、官は義陽王昶の征北諮議参軍に至る。

原文暢子浩,官至義陽王昶征北諮議參軍。

従孫 浩の弟 淹

原文從孫 浩弟 淹

浩の弟淹、黄門郎、広晋県子に封ぜられ、太子右衛率・東陽太守。郡吏を逼りて臂を焼き仏を照らさしむ。百姓罪有れば、礼仏せしめて愆を贖はしめ、動もすれば数千拜に至る。官を免ぜられ禁錮に坐す。起きて光禄勳・臨川内史と為る。後に晋安王子勳と同く逆を為り、軍敗れて殺さる。淹の弟融。

原文浩弟淹,黃門郎,封廣晉縣子,太子右衛率,東陽太守。逼郡吏燒臂照佛。百姓有罪,使禮佛贖愆,動至數千拜。坐免官禁錮。起為光祿勳,臨川內史。後與晉安王子勳同逆,軍敗見殺。淹弟融。

従孫 淹の弟 融

原文從孫 淹弟 融

融字は思光、弱冠にして名有り。道士同郡の陸修静、白鷺羽の麈尾扇を以て之に遺し曰く「此れ既に異物なり。以て異人に奉る」と。褐を解きて宋の新安王子鸞の行参軍と為る。王の母殷淑儀薨ず。後四月八日に斎を建て並びに仏を灌ぐ。僚佐儭する者多きは一万に至り、少なくとも五千を減ぜず。融独り儭に百銭を注ぐ。帝悦ばずして曰く「融殊に貧し。佳禄を以て序すべし」と。出でて封渓令と為る。従叔永後渚に出でて之を送りて曰く「朝旨を聞くに似たり。汝尋いで当に還るべし」と。融曰く「還らざるを患へず。政恐らくは還りて復た去らんことを」と。行くに及び、路嶂嶮を経る。獠賊融を執へ将に殺し食はんとす。融神色動かず、方に洛生詠を作す。賊之を異とし害せず。

原文融字思光,弱冠有名。道士同郡陸修靜以白鷺羽麈尾扇遺之,曰:「此既異物,以奉異人。」解褐為宋新安王子鸞行參軍。王母殷淑儀薨,後四月八日建齋並灌佛,僚佐儭者多至一萬,少不減五千,融獨注儭百錢。帝不悅曰:「融殊貧,當序以佳祿。」出為封溪令。從叔永出後渚送之曰:「似聞朝旨,汝尋當還。」融曰:「不患不還,政恐還而復去。」及行,路經嶂嶮,獠賊執融將殺食之。融神色不動,方作洛生詠,賊異之而不害也。

海を浮かびて交州に至る。海中に於て風に遇ふ。終に懼色無く、方に詠じて曰く「乾魚自ら可く其の本郷に還る。肉脯復た何を為さんとする者ぞ」と。又た海賦を作る。文辞詭激にして、独り衆と異なる。後に以て鎮軍将軍顧覲之に示す。覲之曰く「卿此の賦実に玄虚を超ゆ。但だ塩を道はずを恨む」と。融即ち筆を求めて注ぎて曰く「沙を漉きて白を構へ、波を熬きて素を出だす。雪を積みて春の中に、霜を飛ばして暑の路に」と。此の四句は後に足せし所なり。覲之は融の兄と恩好有り。覲之卒すれば、融身を負ひて墳土す。南に在りて交趾太守卞展と善し。展嶺南に於て人の為に殺さる。融身を挺して奔赴す。

原文浮海至交州,于海中遇風,終無懼色,方詠曰:「幹魚自可還其本鄉,肉脯復何為者哉。」又作海賦,文辭詭激,獨與眾異。後以示鎮軍將軍顧覬之,覬之曰:「卿此賦實超玄虛,但恨不道鹽耳。」融即求筆注曰:「漉沙構白,熬波出素,積雪中春,飛霜暑路。」此四句後所足也。覬之與融兄有恩好,覬之卒,融身負墳土。在南與交趾太守卞展善。展於嶺南為人所殺,融挺身奔赴。

秀才に挙げられ、対策して第に中る。尚書殿中郎と為るも就かず、改めて儀曹郎と為る。尋いで仮を請ひて叔父の喪に奔る。道中に幹の銭敬道を罰し鞭杖五十、延陵の獄に寄せて系ぐ。大明五年の制、二品清官行の僮幹を杖するは、十を出づるを得ず。左丞孫緬の奏する所と為り、官を免ぜらる。重ねて定め、祠部・倉部の二曹を摂る。時に領軍劉勉戦死す。融祠部の議を以てし、上応に勉を哭すべしとす。従はる。又た俗人正月を忌みて太倉を開く。融議して小忌に拘束すべからずとす。尋いで正厨を兼ね掌る。宰殺を見て、車を回し径ちに去り、自ら表して職を解く。

原文舉秀才,對策中第。為尚書殿中郎,不就,改為儀曹郎。尋請假奔叔父喪,道中罰幹錢敬道鞭杖五十,寄系延陵獄。大明五年制,二品清官行僮幹杖,不得出十。為左丞孫緬所奏,免官。重定,攝祠部、倉部二曹。時領軍劉勉戰死,融以祠部議,上應哭勉,見從。又俗人忌以正月開太倉,融議不宜拘束小忌。尋兼掌正廚,見宰殺,回車徑去,自表解職。

再び南陽王友に遷る。融の父暢は丞相長史となり、義宣の事変の際、暢は王玄謨に殺されんとした。時に玄謨の子瞻は南陽王長史であった。融は官を去ることを請うたが、許されなかった。融は家が貧しく禄を欲し、従叔の征北将軍永に書を送って言うには、「融は昔幼くして学び、早く家風を訓み、不敏ながらも率いて性を成す。布衣韋帯、弱年の安んずる所、簞食瓢飲、不覚不楽。但だ世業清貧、人生多待、榛栗棗修、女贄既に長じ、束帛禽鳥、男礼已に大なり。身を勉めて官に就き、十年に七仕し、代耕せんと欲せず、何ぞ此の事に至らんや。昔三呉の一丞を求めしは、舛錯に属すと雖も、今南康に守の缺あるを聞き、願わくは之が為さんことを得ん。融は階級を知らず、階級も亦た融を知る可からず、政として丞を求めて得ざるを以て、郡を求むる所以なり、郡を求めて得ざれば、亦た復た丞を求むる可し」と。又た吏部尚書王僧虔に書を送って言うには、「融は天地の逸人なり、進みて貴を弁ぜず、退きて賤を知らず、実に家貧累積、孤寡傷心、八姪倶に孤、二弟頓に弱きを以てす。豈に山海の陋禄を能くし、融の情累を申べんや。阮籍は東平の土風を愛し、融も亦た晋平の閑外を欣ぶ」と。時に議する所、融は御人の才に非ずとして、竟に果たさず。

原文再遷南陽王友。融父暢為丞相長史,義宣事難,暢將為王玄謨所殺,時玄謨子瞻為南陽王長史,融啟求去官,不許。融家貧欲祿,乃與從叔征北將軍永書曰:「融昔幼學,早訓家風,雖則不敏,率以成性。布衣韋帶,弱年所安,簞食瓢飲,不覺不樂。但世業清貧,人生多待,榛栗棗修,女贄既長,束帛禽鳥,男禮已大。勉身就官,十年七仕,不欲代耕,何至此事。昔求三吳一丞,雖屬舛錯,今聞南康缺守,願得為之。融不知階級,階級亦可不知融,政以求丞不得,所以求郡,求郡不得,亦可復求丞。」又與吏部尚書王僧虔書曰:「融天地之逸人也,進不辨貴,退不知賤,實以家貧累積,孤寡傷心,八侄俱孤,二弟頓弱,豈能山海陋祿,申融情累。阮籍愛東平土風,融亦欣晉平閑外。」時議以融非御人才,竟不果。

斉の太傅掾に辟せられ、稍く中書郎に遷るも、其の好む所に非ず。中散大夫たることを乞うも、許されず。張氏は敷以来、並びに理音辞・修儀範を事とす。融に至りては、風止詭越、坐するに常に危膝し、行くには則ち曳歩し、身を翹げて首を仰ぎ、意制甚だ多し。見る者驚異し、聚観して巿を成すも、融は了て慙色無し。例に随って同行するも、常に稽遅して進まず。高帝は素より融を愛し、太尉たりし時、融と款接す。融を見て常に笑いて曰く、「此人は一無くす可からず、二有る可からず」と。即位後、手詔して融に衣を賜いて曰く、「卿の衣服粗故なるを見るに、誠に乃ち素懐に本有り。爾に交えて藍縷たるは、亦た朝望を虧く。今一通の故衣を送る、意は謂う、故と雖も、乃ち新に勝るなりと。是れ吾の著する所、已に裁減を令し、卿の体に称す。並びに履一量を賜う」と。高帝が太極殿西室に出でし時、融入りて問訊す、弥時を経て方に階に登る。席に就きし時、上曰く、「何ぞ乃ち遅きを為すや」と。対えて曰く、「地より天に升るは、理として速を得可からず」と。時に魏主淮に至りて退く。帝問う、「何の意ぞ忽ち来たり忽ち去る」と。未だ答うる者無し。融時に下坐に在り、声を抗げて曰く、「道無きを以て来たり、道有るを見て去るなり」と。公卿皆以て捷と為す。

原文辟齊太傅掾,稍遷中書郎,非其所好。乞為中散大夫,不許。張氏自敷以來,並以理音辭、修儀範為事。至融風止詭越,坐常危膝,行則曳步,翹身仰首,意制甚多。見者驚異,聚觀成巿,而融了無慚色。隨例同行,常稽遲不進。高帝素愛融,為太尉時,與融款接。見融常笑曰:「此人不可無一,不可有二。」即位後,手詔賜融衣曰:「見卿衣服粗故,誠乃素懷有本。交爾藍縷,亦虧朝望。今送一通故衣,意謂雖故,乃勝新也。是吾所著,已令裁減,稱卿之體;並履一量。」高帝出太極殿西室,融入問訊,彌時方登階。及就席,上曰:「何乃遲為?「對曰:「自地升天,理不得速。」時魏主至淮而退,帝問:「何意忽來忽去。」未有答者,融時下坐,抗聲曰:「以無道而來,見有道而去。」公卿咸以為捷。

融は草書を善くし、常に自ら其の能を美とす。帝曰く、「卿の書は殊に骨力有り、但だ二王の法無きを恨む」と。答えて曰く、「臣に二王の法無きを恨むに非ず、亦た二王に臣の法無きを恨むなり」と。融、仮を賜わって郷に還り、王儉に詣で別れんとす。儉此の地に立ちて袂を挙げて前らず、融も亦た手を挙げて儉を呼びて曰く、「歜曰く'王前'と」と。儉已むを得ず趨きて之に就く。融曰く、「融をして勢を慕わざらしめ、而して君をして趍士たらしむるは、豈に善からずや」と。常に歎じて云う、「我古人を見ざるを恨まず、恨む所は古人又た我を見ざるなり」と。

原文融善草書,常自美其能。帝曰:「卿書殊有骨力,但恨無二王法。」答曰:「非恨臣無二王法,亦恨二王無臣法。」融假還鄉,詣王儉別。儉立此地舉袂不前,融亦舉手呼儉曰:「歜曰'王前'。」儉不得已趨就之。融曰:「使融不為慕勢,而令君為趍士,豈不善乎。」常歎云:「不恨我不見古人,所恨古人又不見我。」

融は吏部尚書何戢と善し、戢を詣でんとし、誤って尚書劉澄に通ず。車を下り門に入りて、乃ち曰く、「是に非ず」と。戸に至りて澄を望み、又た曰く、「是に非ず」と。既に席に造りて澄を視て曰く、「都て自ら是に非ず」と。乃ち去る。其の異なること此の如し。

原文融與吏部尚書何戢善,往詣戢,誤通尚書劉澄。下車入門,乃曰:「非是。」至戶望澄,又曰:「非是。」既造席視澄曰:「都自非是。」乃去。其為異如此。

又た長沙王鎮軍、竟陵王征北諮議となり、並びに記室を領し、司徒従事中郎となる。永明二年、総明観に講じ、朝臣を集めて聴かしむるを敕す。融、扶け入られて榻に就き、私に酒を索めて之を飲む。事畢りて、乃ち長歎して曰く、「嗚呼!仲尼独り何人ぞや」と。御史中丞到撝の奏する所となりて官を免ぜられ、尋いて復職す。

原文又為長沙王鎮軍,竟陵王征北諮議,並領記室,司徒從事中郎。永明二年,總明觀講,敕朝臣集聽。融扶入就榻,私索酒飲之。事畢,乃長歎曰:「嗚呼!仲尼獨何人哉。」為御史中丞到撝所奏免官,尋復職。

融は形貌短醜なりと雖も、精神清澈なり。王敬則、融の革帯の寛なるを見て、殆んど髀に至らんとす、謂いて曰く、「革帯太だ急なり」と。融曰く、「既に歩吏に非ず、急帯何の為ぞや」と。融、仮を賜わって東に出づ。武帝、融の住む所を問う。答えて曰く、「臣陸処に屋無く、舟居に水無し」と。後、上其の従兄緒に問う。緒曰く、「融近く東に出で、未だ居止有らず、権に小船を牽きて岸上に住む」と。上大笑す。

原文融形貌短醜,精神清澈,王敬則見融革帶寬,殆將至髀,謂曰:「革帶太急。」融曰:「既非步吏,急帶何為?」融假東出,武帝問融住在何處,答曰:「臣陸處無屋,舟居無水。」後上問其從兄緒,緒曰:「融近東出,未有居止,權牽小船於岸上住。」上大笑。

後に融をして北使李道固に対接せしむ。席に就きし時、道固顧みて言う、「張融は宋の彭城長史張暢の子に非ずや」と。融嚬蹙すること久しくして曰く、「先君不幸にして、名六夷に達す」と。豫章王賓僚を大会す。融炙を食らうに、始めて行き畢り、行炙人便ち去る。融塩蒜を求めんと欲すも、口終に言わず、方に食指を揺すり、半日にして乃ち息む。朝廷に出入するに、皆目を拭いて驚き之を観る。

原文後使融接對北使李道固,就席,道固顧而言曰:「張融是宋彭城長史張暢子不?」融嚬蹙久之,曰:「先君不幸,名達六夷。」豫章王大會賓僚,融食炙,始行畢,行炙人便去。融欲求鹽蒜,口終不言,方搖食指,半日乃息。出入朝廷,皆拭目驚觀之。

八年、朝臣衆瑞の公事を賀す。融、扶け入られて拝起し、復た有司の奏する所となり、原せらる。司徒兼右長史に遷る。竟陵の張欣時、時に諸暨令たり、罪に坐して当に死すべし。欣時の父興世、宋の南譙王義宣を討ちし時、官軍融の父暢を殺さんと欲す。興世袍を以て暢を覆い、而して之に坐せしめ、此を以て免るるを得たり。興世卒す。融高履を著けて土を負い墳を成す。此に至り、融啓して竟陵王子良に欣時に代わりて死なんことを乞う。子良答えて曰く、「此れ乃ち長史の美事なり、恐らく朝に常典有り、長史の懐く所の如くを得ざるべし」と。黄門郎、太子中庶子、司徒左長史に遷る。

原文八年,朝臣賀眾瑞公事,融扶入拜起,復為有司所奏,見原。遷司徒兼右長史。竟陵張欣時為諸暨令,坐罪當死,欣時父興世討宋南譙王義宣,官軍欲殺融父暢,興世以袍覆暢而坐之,以此得免。興世卒,融著高履為負土成墳。至是,融啟竟陵王子良乞代欣時死。子良答曰:「此乃是長史美事,恐朝有常典,不得如長史所懷。」遷黃門郎,太子中庶子,司徒左長史。

融に孝義有り、忌月三旬楽を聴かず、嫂に事うること甚だ謹し。父暢臨終に諸子に謂いて曰く、「昔丞相事難の時、吾以て同ぜざるを将て殺されんとす、司馬竺超人の縁にて活くを得たり。爾等必ず其の子に報いよ」と。後、超人の孫微、冬月に母喪に遭い貧に居る。融之を吊い、悉く衣を脱ぎて以て賻と為し、牛被を披いて反る。常に兄の如く微に事う。豫章王嶷・竟陵王子良薨ず。自ら身を以て佐吏を経たるを以て、哭するに輙ち慟を尽くす。建武四年、病卒す。遺令して白旐を建て旒無く、祭を設けず、人をして麈尾を捉え屋に登りて復魂せしむ。曰く、「吾が生平の善くする所、自ら陵雲一笑すべし。三千を以て棺を買い、新衾を制せず。左手に孝経・老子を執り、右手に小品法華経を執れ。妾二人哀事畢りて、各々家に還し遣わすべし」と。曰く、「吾が生平の風調、何ぞ婦人を行わしめて哭し声を失わしめんや、暫く閨合に停まるを須いず」と。

原文融有孝義,忌月三旬不聽樂,事嫂甚謹。父暢臨終謂諸子曰:「昔丞相事難,吾以不同將見殺,緣司馬竺超人得活,爾等必報其子。」後超人孫微冬月遭母喪居貧,融吊之,悉脫衣以為賻,披牛被而反。常以兄事微。豫章王嶷、竟陵王子良薨,自以身經佐吏,哭輒盡慟。建武四年,病卒,遺令建白旐無旒,不設祭,令人捉麈尾登屋復魂。曰:「吾生平所善,自當陵雲一笑。三千買棺,無制新衾。左手執孝經、老子,右手執小品法華經。妾二人哀事畢,各遣還家。」曰:「吾生平之風調,何至使婦人行哭失聲,不須暫停閨合。」

張融は玄義に師法なくして、神解人に過ぎ、高談は鮮やかに能く抗拒す。永明の中に疾に遇い、門律を作り、自ら序して云う、「吾が文章の体は、多く世の人に驚かさるる所なり、汝は耳を以て心に師とすべし、耳をして心の師たらしむべからず。夫れ文に豈に常体あらんや、但だ体有るを以て常と為すのみ、政に其の体有るに当たる。丈夫は詩書を刪し、礼楽を制すべし、何ぞ因循して人の籬下に寄するに至らんや」と。臨終に及び、又其の子を戒めて曰く、「手沢存す、父の書を読まず、況んや父の音情、婉として其の韻に在り。吾が意は然らず、別に爾に旨を遺す。吾が文体は英変にして、変じて屡奇なり、豈に吾が天挺か、蓋し家声を隤さざるなり。汝は号哭して之を看よ」と。張融の文集数十巻世に行わる、自ら其の集を名づけて玉海と為す。司徒褚彥回其の故を問う、融云く、「蓋し玉は以て徳を比し、海は上善を崇むるのみ」と。張氏の前に敷・演・鏡・暢有り、後に充・融・巻・稷有り。第六弟宝積、建武の中に、出でて廬陵太守と為る。時に名流謝伷・何点・陸恵曉・孔珪、融の弟鉄の舎に至る。点坐に造りて便ち曰く、「今日は盛集と謂うべし、二五は我が兄弟の流れ、阿六は張氏の家を保つ子なり」と。顧みて王思遠を見て曰く、「卿は詐りに善を作す、実に得る所に非ず」と。二五は孔珪及び融並びに第五を謂う。

原文融玄義無師法,而神解過人,高談鮮能抗拒。永明中遇疾,為門律,自序云:「吾文章之體,多為世人所驚,汝可師耳以心,不可使耳為心師也。夫文豈有常體,但以有體為常,政當有其體。丈夫當刪詩、書,制禮樂,何至因循寄人籬下。」臨卒,又戒其子曰:「手澤存焉,父書不讀,況父音情,婉在其韻。吾意不然,別遺爾旨。吾文體英變,變而屢奇,豈吾天挺,蓋不隤家聲。汝可號哭而看之。」融文集數十卷行於世,自名其集為玉海。司徒褚彥回問其故,融云:「蓋玉以比德,海崇上善耳。」張氏前有敷、演、鏡、暢,後有充、融、卷、稷。第六弟寶積,建武中,出為廬陵太守。時名流謝伷、何點、陸惠曉、孔珪至融弟鐵之舍。點造坐便曰:「今日可謂盛集,二五我兄弟之流,阿六張氏保家之子。」顧見王思遠曰:「卿詐作善,非實得也。」二五謂孔珪及融並第五。

宝積は永元の中に湘州行事蕭穎胄に従い江陵にあり、腰輿に乗りて穎胄に詣り、挙動自若たり。穎胄問う、「何ぞ至るの晚きや」と。答えて曰く、「本朝危乱し、四海横流す、既に比干の死と為る能わず、実に微子の去ると為るを忍びず、是を以て晚し」と。穎胄深く以て善と為し、即ち用いて相府諮議と為す。後に位は御史中丞に至る。

原文寶積永元中為湘州行事蕭穎胄於江陵,乘腰輿詣穎胄,舉動自若。穎胄問:「何至之晚?」答曰:「本朝危亂,四海橫流,既不能為比干之死,實未忍為微子之去,是以至晚。」穎胄深以為善,即用為相府諮議。後位御史中丞。

附 徐文伯

原文附 徐文伯

張融は東海の徐文伯兄弟と厚し。文伯は字は徳秀、濮陽太守徐熙の曾孫なり。熙は黄老を好み、秦望山に隠る。道士過りて飲を求め、一つの瓠盧瓜を留めて之に与え、曰く、「君子孫は宜しく道術を以て世を救うべし、当に二千石を得べし」と。熙之を開くに、乃ち扁鵲鏡経一卷なり、因りて精しく之を学び、遂に名海内に震う。子秋夫を生む、弥に其の術に工なり、仕えて射陽令に至る。嘗て夜に鬼の呻吟有り、声甚だ悽愴なり、秋夫何を須うと問う、答えて姓某、家は東陽に在り、腰痛を患いて死すと云う。鬼と為りと雖も痛み猶難く忍びず、請う療せんことを。秋夫曰く、「云何くに厝法すべきや」と。鬼は芻人と為るを請い、孔穴に案じて之を針せんと、秋夫言の如く、為に灸すること四处、又肩井を針すること三処、祭を設けて之を埋む。明日一人恩を謝するを見る、忽然として見えず。当世其の霊に通ずるに伏す。

原文融與東海徐文伯兄弟厚。文伯字德秀,濮陽太守熙曾孫也。熙好黃、老,隱于秦望山,有道士過求飲,留一瓠盧瓜與之,曰:「君子孫宜以道術救世,當得二千石。」熙開之,乃扁鵲鏡經一卷,因精心學之,遂名震海內。生子秋夫,彌工其術,仕至射陽令。嘗夜有鬼呻吟,聲甚悽愴,秋夫問何須,答言姓某,家在東陽,患腰痛死。雖為鬼痛猶難忍,請療之。秋夫曰:「云何厝法?」鬼請為芻人,案孔穴針之,秋夫如言,為灸四處,又針肩井三處,設祭埋之。明日見一人謝恩,忽然不見。當世伏其通靈。

秋夫は道度・叔向を生む、皆能く其の業を精うす。道度は脚疾有りて行く能わず、宋の文帝小輿に乗じて殿に入ることを令し、諸皇子の疾を療す、絶えて験ならざる無し。位は蘭陵太守に至る。宋の文帝云う、「天下に五絶有り、而して皆出ずるは錢唐なり」と。杜道鞠の弾棋、範悦の詩、褚欣遠の模書、褚胤の囲棋、徐道度の療疾を謂うなり。

原文秋夫生道度、叔向,皆能精其業。道度有腳疾不能行,宋文帝令乘小輿入殿,為諸皇子療疾,無不絕驗。位蘭陵太守。宋文帝云:「天下有五絕,而皆出錢唐。」謂杜道鞠彈棋,範悅詩,褚欣遠模書,褚胤圍棋,徐道度療疾也。

道度は文伯を生み、叔向は嗣伯を生む。文伯も亦其の業を精うし、兼ねて学行有り、倜儻として公卿に意を屈せず、医を以て自ら業とせず。張融文伯・嗣伯に謂いて曰く、「昔王微・嵇叔夜並びに学びて能わず、殷仲堪の徒は故に論ぜず。之を得る者は神明の洞徹に由り、然る後に至る可し、故に吾が徒の及ぶ所に非ず。且つ褚侍中澄は富貴も亦人の疾を救う能く、卿此れ更に達せざるを成さんか」と。答えて曰く、「唯だ達者は此の崇む可きを知り、達せざる者は多く以て深き累と為し、既に之を鄙しむ何ぞ能く之を恥じざらんや」と。文伯の効は嗣伯と相埒す。宋の孝武帝路太后病む、衆医識らず。文伯之を診して曰く、「此れ石の小腸に博するなり」と。乃ち水剤消石湯を為す、病即ち愈ゆ。鄱陽王常侍を除し、千金を遺す、旬日に恩意隆重なり。宋の明帝宮人腰痛心を牽くを患う、至る毎に気絶せんとす、衆医肉症と為す。文伯曰く、「此れ発症なり」と。油を以て之に投ずれば、即ち物を吐き得ること髪の如し。稍々之を引けば長さ三尺、頭已に蛇と成りて能く動き、門上に掛くるに適に一髪のみにして尽き、病都く差ゆ。宋の後廃帝楽游苑門を出づ、一婦人の娠有るに逢う、帝も亦診に善く、之を診して曰く、「此の腹は女なり」と。文伯に問う、曰く、「腹に両子有り、一男一女、男は左辺に在り、青黒く、形は女より小なり」と。帝性急にて、便ち剖かしめんと欲す。文伯惻然として曰く、「若し刀斧は恐らく其の変異有らん、請う之を針せば立って落つ」と。便ち足太陰を寫し、手陽明を補す、胎便ち針に応じて落つ。両児相続いて出づ、其の言の如し。

原文道度生文伯,叔向生嗣伯。文伯亦精其業,兼有學行,倜儻不屈意於公卿,不以醫自業。融謂文伯、嗣伯曰:「昔王微、嵇叔夜並學而不能,殷仲堪之徒故所不論。得之者由神明洞徹,然後可至,故非吾徒所及。且褚侍中澄富貴亦能救人疾,卿此更成不達。」答曰:「唯達者知此可崇,不達者多以為深累,既鄙之何能不恥之。」文伯為效與嗣伯相埒。宋孝武路太后病,眾醫不識。文伯診之曰:「此石博小腸耳。」乃為水劑消石湯,病即愈。除鄱陽王常侍,遺以千金,旬日恩意隆重。宋明帝宮人患腰痛牽心,每至輒氣欲絕,眾醫以為肉症。文伯曰:「此發症。」以油投之,即吐得物如發。稍引之長三尺,頭已成蛇能動,掛門上適盡一發而已,病都差。宋後廢帝出樂游苑門,逢一婦人有娠,帝亦善診,診之曰:「此腹是女也。」問文伯,曰:「腹有兩子,一男一女,男左邊,青黑,形小於女。」帝性急,便欲使剖。文伯惻然曰:「若刀斧恐其變異,請針之立落。」便寫足太陰,補手陽明,胎便應針而落。兩兒相續出,如其言。

子の雄も亦家業を伝え、尤も診察に工なり、位は奉朝請に至る。能く清言し、多く貴遊に善くせらる。母に事うること孝謹、母終わり、毀瘠幾くんば自滅に至らんとす。俄にして兄亡ぶ、杖を扶けて喪に臨み、膺を撫でて一慟すれば、遂に哀に以て卒す。

原文子雄亦傳家業,尤工診察,位奉朝請。能清言,多為貴遊所善。事母孝謹,母終,毀瘠幾至自滅。俄而兄亡,扶杖臨喪,撫膺一慟,遂以哀卒。

文伯の弟 嗣伯

原文文伯弟 嗣伯

嗣伯は字は叔紹、亦孝行有り、清言に善く、位は正員郎、諸府の佐、弥に臨川王蕭映に重んぜらる。時に直合将軍房伯玉五石散十余剤を服す、益無く、更に冷を患い、夏日に常に衣を復す。嗣伯之を診して曰く、「卿は熱を伏せり、須らく水を以て之を発すべし、冬月に非ざれば不可なり」と。十一月に至り、冰雪大いに盛ん、二人を令して伯玉を夾捉せしめ、衣を解かしめて石に坐らしめ、冷水を取りて頭より之を澆ぎ、二十斛こくを尽くす。伯玉口噤み気絶す、家人啼哭して止むるを請う。嗣伯人を遣わして杖を執らしめ合を防ぎ、敢えて諫むる有る者は之を撾さしむ。又水百斛を尽くす、伯玉始めて能く動き、而して背上に彭彭として気有るを見る。俄にして起き坐し、曰く、「熱忍ぶ可からず、冷飲を乞う」と。嗣伯水を以て之に与う、一飲み一升、病都く差ゆ。此れより恒に発熱し、冬月に猶単褌衫を着け、体更に肥壮す。

原文嗣伯字叔紹,亦有孝行,善清言,位正員郎,諸府佐,彌為臨川王映所重。時直合將軍房伯玉服五石散十許劑,無益,更患冷,夏日常復衣。嗣伯為診之,曰:「卿伏熱,應須以水發之,非冬月不可。」至十一月,冰雪大盛,令二人夾捉伯玉,解衣坐石,取冷水從頭澆之,盡二十斛。伯玉口噤氣絕,家人啼哭請止。嗣伯遣人執杖防合,敢有諫者撾之。又盡水百斛,伯玉始能動,而見背上彭彭有氣。俄而起坐,曰:「熱不可忍,乞冷飲。」嗣伯以水與之,一飲一升,病都差。自爾恒發熱,冬月猶單褌衫,體更肥壯。

常に老女が患うところの冷えの病があり、積年治癒せず。嗣伯が診て曰く、「これは屍注なり、死人の枕を取りて煮て服せばすなわち癒ゆべし」と。ここにおいて古塚の中に往きて枕を取りしに、枕はすでに一方腐り欠けたり、服するや即時に癒ゆ。後に秣陵の人張景、年十五、腹脹み面黄ばみ、衆医療すること能わず、もって嗣伯に問う。嗣伯曰く、「これは石蚘なり、極めて療し難し。死人の枕を取りて煮るべし」と。語に依りて枕を煮、湯をもってこれに投ずるに、大利を得、並びに蚘蟲の頭堅きこと石のごとく、五升、病すなわち癒ゆ。後に沈僧翼眼痛を患い、また多く鬼物を見る。もって嗣伯に問う。嗣伯曰く、「邪気肝に入る、死人の枕を覓めて煮て服すべし。竟りて、枕を故き処に埋むべし」と。その言のごとくにしてまた癒ゆ。王晏これに問うて曰く、「三病同じからず、而も皆死人枕を用いて俱に癒ゆ、何ぞや」と。答えて曰く、「屍注は、鬼気伏して未だ起たず、故に人をして沈滞せしむ。死人枕を得てこれに投ずれば、魂気飛び越え、復た体に附くことを得ず、故に屍注は癒ゆべし。石蚘は久しき蚘なり、医療既に僻し、蚘蟲転じて堅し、世間の薬は遣わすこと能わず、鬼物をもってこれを駆り然る後に散ぜしむべし、故に死人枕を煮しむるなり。夫れ邪気肝に入れば、故に眼痛をして魍魎を見しむ、応に邪物を以てこれを鉤すべく、故に死人枕を用いるなり。気は枕に因りて去る、故に塚間に埋めしむるなり」と。また春月南籬門を出でて戯れ、笪屋の中に呻吟の声を聞く。嗣伯曰く、「この病甚だ重し、更に二日療せざれば必ず死す」と。すなわち往きて視るに、一老姥体痛むと称し、而して処々に黒敢黒無数あり。嗣伯還りて鬥余の湯を煮て送り服せしむるに、服し訖りて痛勢愈々甚だしく、床に跳び投ずること無数。須臾にして黒き所皆釘を抜き出だす、長さ寸許。膏をもって諸の瘡口に塗るに、三日にして復たす。云く、「これ名づけて釘疽という」と。

原文常有嫗人患滯冷,積年不差。嗣伯為診之曰:「此屍注也,當取死人枕煮服之乃愈。」於是往古塚中取枕,枕已一邊腐缺,服之即差。後秣陵人張景,年十五,腹脹面黃,眾醫不能療,以問嗣伯。嗣伯曰:「此石蚘耳,極難療。當取死人枕煮之。」依語煮枕,以湯投之,得大利,並蚘蟲頭堅如石,五升,病即差。後沈僧翼患眼痛,又多見鬼物,以問嗣伯。嗣伯曰:「邪氣入肝,可覓死人枕煮服之。竟,可埋枕於故處。」如其言又愈。王晏問之曰:「三病不同,而皆用死人枕而俱差,何也?」答曰:「屍注者,鬼氣伏而未起,故令人沈滯。得死人枕投之,魂氣飛越,不得復附體,故屍注可差。石蚘者久蚘也,醫療既僻,蚘蟲轉堅,世間藥不能遣,所以須鬼物驅之然後可散,故令煮死人枕也。夫邪氣入肝,故使眼痛而見魍魎,應須而邪物以鉤之,故用死人枕也。氣因枕去,故令埋於塚間也。」又春月出南籬門戲,聞笪屋中有呻吟聲。嗣伯曰:「此病甚重,更二日不療必死。」乃往視,見一老姥稱體痛,而處處有黑敢黑無數。嗣伯還煮鬥余湯送令服之,服訖痛勢愈甚,跳投床者無數。須臾所黑處皆拔出釘,長寸許。以膏塗諸瘡口,三日而復,云:「此名釘疽也」。

時にまた薛伯宗あり、癰疽を徙すに善し。公孫泰背を患う。伯宗気をもってこれを封じ、徙して齋前の柳樹上に置く。明旦癰消え、樹辺に便ち一瘤拳の大さのごとく起る。稍稍として二十余日長ずるに、瘤大いに膿れ爛れ、黄赤の汁鬥余を出だす。樹これがために痿損す。

原文時又有薛伯宗善徙癰疽,公孫泰患背,伯宗為氣封之,徙置齋前柳樹上。明旦癰消,樹邊便起一瘤如拳大。稍稍長二十餘日,瘤大膿爛,出黃赤汁鬥餘,樹為之痿損。

論

原文論

論じて曰く、晋自ら淮海に宅してより、張氏賢良に乏しきこと無し。宋斉の間に及び、雅道弥盛なり。その前は則ち雲敷・演・鏡・暢、蓋しその尤も著しき者なり。然れども景胤の敬愛の道、少微の立履する所由、その殆ど優れり。思光の行己卓越、常俗の遵う所に非ず、斉高帝の云う所、「二つ有るべからず、一つ無かるべからず」、この言その幾くんか得たり。徐氏の妙理霊に通ずるは、蓋し常の至る所に非ず、古の和・鵲と雖も、何を以てかこれに加えん。融と文伯とは款好す、故にこれに附す云爾。

原文論曰:有晉自宅淮海,張氏無乏賢良。及宋齊之間,雅道彌盛。其前則云敷、演、鏡、暢,蓋其尤著者也。然景胤敬愛之道,少微立履所由,其殆優矣。思光行己卓越,非常俗所遵,齊高帝所云:「不可有二,不可無一」,斯言其幾得矣。徐氏妙理通靈,蓋非常所至,雖古之和、鵲,何以加茲。融與文伯款好,故附之云爾。