南史
巻三十一より巻三十二
列伝第二十一
張裕
茂度は仕えて宋の武帝の太尉主簿・揚州中従事となり、累進して別駕に遷った。武帝が西征して劉毅を討ち、北伐して関洛を征した時は、いずれも留守を任され州の事務を執った。出て 都督 ・広州刺史・平越中郎将となり、百越を綏撫して静め、嶺外を安んじた。
元嘉元年、侍中・ 都督 ・益州刺史となった。帝が荊州刺史謝晦を討つと、詔して益州に軍を遣わし江陵を襲わせた。謝晦が平定された時、西方の軍はようやく白帝に到着した。茂度は謝晦と平素親しく、議する者はその出軍が遅滞したことを疑った。弟の邵は当時湘州刺史であり、兵を起こして大駕(皇帝)に応じた。上は邵の誠節を以て、故に罪を加えなかった。累進して太常となり、脚疾のため出て義興太守となった。上はゆったりと謂いて曰く、「西蜀のことを気にかけるな」と。対えて曰く、「臣は陛下の明に遭わなければ、墓の木はすでに拱(両手で抱えるほど)となっていたでしょう」と。
後に都官尚書となり、疾のために就いて光禄大夫を拝し、金章紫綬を加えられた。茂度は内に財に足り、自ら人事を絶ち、本県の華山に経始して居止とした。野沢を優遊すること、このようにして七年を過ごした。十八年、会稽太守を除された。平素より吏能があり、職事はよく治まった。官において卒し、諡して恭子といった。
裕の子 演
子の演は、位は太子中舎人に至った。演の四弟、鏡・永・辯・岱はともに知名で、当時にこれを「張氏の五龍」といった。
裕の子 鏡
鏡は若い時、光禄大夫顔延之と隣り合わせに住み、顔は談義し酒を飲み、喧呼絶えず、しかるに鏡は静黙して言声がなかった。後に鏡が客と談じると、延之は籬の辺りからこれを聞き、胡床を取って坐り聴き、その言辞の義は清く玄妙であった。延之は心服し、客に謂って曰く、「彼には人あり」と。ここより再び酣叫しなくなった。仕えて新安太守に至った。演・鏡兄弟の中では名声が最も高く、その余は並び及ばなかった。
初め、裕の曾祖の澄が父を葬らんとした時、郭璞が墓地を占い、曰く、「某の処に葬れば、年は百歳を過ぎ、位は三司に至るが、子孫は蕃えず。某の処では年はほぼ半減し、位は卿校に止まるが、累世貴顕である」と。澄は乃ちその劣った処に葬った。位は光禄に至り、年六十四で亡くなり、その子孫は遂に昌えたという。
裕の子 永
永は字を景雲といい、初め郡主簿となり、累進して尚書中兵郎に遷った。先に尚書中の条制は繁雑であり、元嘉十八年、修撰を加えんと欲し、永を徙めて刪定郎とし、その任を掌らせた。二十二年、建康令を除され、居る所にはいずれも称すべき績があった。また広陵王誕の北中郎録事参軍を除された。永は書史に渉猟し、文章を作ることを能くし、隷書を善くし、騎射雑芸に、触類して兼ねて善くした。また巧思があり、益々文帝に知られた。紙墨はいずれも自ら営造し、上は永の表啓を得る毎に、輒ち執り玩びて咨嗟し、自ら供御する者も全く及ばないと歎じた。二十三年、華林園・玄武湖を造営し、並びに永に監統させた。凡そ制置する所は、皆永に則を受けた。永は既に才能があり、毎に心力を尽くしたので、文帝は将と為すに堪えると謂った。二十九年、永を以て揚威将軍・冀州刺史とし、 都督 を加えた。王玄謨・申坦等の諸将を督して河南を経略し、碻磝を進攻したが、累旬抜けず、魏軍に殺される者が甚だ衆かった。永は即ち夜に囲みを撤して退軍したが、諸将に報告せず、衆軍は驚擾し、魏に乗ぜられ、死敗して塗地に帰した。永及び申坦は並びに統府の撫軍将軍蕭思話に収められ、歴城の獄に繋がれた。文帝は屡征して功無く、諸将は任に堪えざるを以て、詔して永等と思話を責めた。また江夏王義恭に与える書に曰く、「早く諸将輩が此の如きを知らば、恨みて白刃を以て之を駆らずんばあらず、今者悔ゆるも何ぞ及ばん」と。
三十年、元凶(劉劭)が 弑 逆して立ち、永を起して青州刺史とした。及び 司空 南譙王義宣が起義すると、また永を改めて冀州刺史とし、 都督 を加えた。永は司馬崔勲之・中兵参軍劉宣則の二軍を遣わし、馳せて国難に赴かせた。時に蕭思話は彭城におり、義宣は二人が相諧い緝まぬを慮り、思話に与える書に、永と坦懐することを勧めた。また永の従兄の長史張暢に永に与える書をさせてこれを勖め、遠くは廉頗・藺相如の公に在るの徳を慕い、近くは陳平・周勃の私を亡くすの美を效えしめた。事が平らぎ、召されて江夏王義恭の大司馬従事中郎となり、中兵を領した。
孝武帝孝建元年、臧質が反乱を起こすと、張永を派遣して武昌王劉渾を補佐させ、京口を鎮守させた。大明三年、累進して廷尉となった。帝は彼に言った、「卿は張釈之と同姓であるから、天下に再び冤罪の者なきことを望む」。張永は音律に通暁しており、太極殿前の鐘の音がかすれていたので、孝武帝はかつて張永に問うた。張永は答えて、鐘に銅の滓があるためであると言い、そこで鐘を叩いてその場所を求め、鑿で取り除くと、音は清らかで遠く響くようになった。
明帝が即位すると、青州・冀州二州刺史となり、四州諸軍事を監督し、諸将を統率して徐州刺史薛安都を討ち、累戦して勝利を収めた。薛索児を撃破した。また鎮軍将軍に遷り、まもなく南兗州刺史となり、 都督 を加えられた。
時に薛安都が彭城を拠点として降伏を請うたが、誠心は篤くなかった。明帝は張永と沈攸之に重兵を率いてこれを迎えさせ、 都督 前鋒諸軍事を加えた。彭城に進軍した。薛安都が魏の兵を招き寄せて到着すると、張永は慌てふためいて軍を率いて撤退し、魏軍に追撃されて大敗し、さらに寒雪に遭い、士卒は離散した。張永の足の指は切断して落ち、かろうじて身一つで逃れ、その第四子を失った。
三年、会稽太守に転じ、 都督 を加えられ、将軍の号はもとのままとした。北征で軍律を失ったことを以て、固く自ら貶めることを求め、称号を左将軍に降格された。張永は失った子を痛く悼み、常人の倍する悲哀があり、喪服の期間は終わったが、なお霊座を設け、飲食や衣服を、生きているかのように供えた。毎回外出する際には、常に別に名車と良馬を用意し、これを侍従と号した。軍事があるたびに、左右の者に告げて「郎君に知らせよ」と言った。薛索児撃破の功績により、孝昌県侯に封ぜられた。会稽においては、賓客の謝方童・阮須・何達之らがその権力を窃み、贓物が山積みとなった。謝方童らは贓罪で獄に下され死に、張永はまた称号を冠軍将軍に降格された。
廃帝が即位すると、右光禄大夫・侍中となり、安成王師を兼任した。出て吳郡太守となった。元徽二年、征北将軍・南兗州刺史となり、 都督 を加えられた。張永は若い頃から駆け回り、力を尽くすことを志し、将帥として、士卒と苦楽を共にすることができた。朝廷から賜与された干し肉や生肉は、必ず地面に座って整然と切り分け、自ら手ずから頒賜した。年は既に老いていたが、志気は衰えず、悠々と閑職にあり、心中甚だ楽しまなかった。この任を受けると、非常に喜び、即日車を走らせて都に戻った。赴任地に着く前に、桂陽王劉休範の乱が起こり、張永は率いる軍を率いて白下に駐屯した。劉休範が新亭に至り、前鋒が南掖門を攻撃すると、張永は人を遣わして賊情を偵察させたが、戻ってくると、台城が陥落したと大声で言い、張永の軍衆は潰走し、軍を棄てて帰還した。旧臣であることを以て罪に問わず、ただ免官と爵位削除に留めた。慚愧のあまり発病して卒した。
張裕の子、張岱。
張岱は字を景山といい、州から従事に辟召され、累進して東遷県令となった。時に殷沖が呉興太守であったが、人に言った、「張東遷は親が貧しく養わねばならぬため、下邑に留まっているのである。しかし名声と地位はまさに顕れようとしており、終には大いに至るであろう」。
後に 司徒 左西曹掾となった。母が八十歳で、戸籍の記載が満期になっていなかったが、張岱は官を去り、実情に従って帰郷し養った。有司は張岱が制度に違反したとして、糾弾しようとした。宋の孝武帝は言った、「過ちを見れば仁を知ることができる。取り調べる必要はない」。
累進して山陰県令となり、職務は閑かで整然としていた。巴陵王劉休若が北徐州刺史となったが、まだ政事に親しまず、張岱を冠軍諮議参軍とし、彭城太守を兼任させ、府・州・国の事務を行わせた。後に臨海王が征虜将軍広州刺史となり、 豫 章王が車騎将軍揚州刺史となり、 晉 安王が征虜将軍南兗州刺史となると、張岱は歴めて三府の諮議・三王の行事となり、典籤や主帥と共に事に当たり、事は成就し情実も得られた。ある者が張岱に言った、「主君たる王は既に幼く、執事する者も多門であるのに、毎度公私を調和させることができるのは、どうしてこのようにできるのか」。張岱は言った、「古人が言う、一心をもって百君に仕えることができる、と。私は政務を公正平明に行い、物事に礼をもって接するので、悔やむべき事態が及ぶ由もない。明暗や短長は、さらに才能の多少によるのみである」。
入朝して黄門郎となった。新安王劉子鸞が盛んな寵愛を以て南徐州刺史となり、呉郡を割いてこれに属させた。佐史を厳選するにあたり、孝武帝は張岱を召して言った、「卿の美しい功績は夙に著しく、また官歴も既に多い。今、卿を用いて子鸞の別駕とし、刺史の任を総べさせたい。小なる屈辱とは言わず、終には大いに伸びるであろう」。帝が崩御すると、累進して吏部郎となった。泰始末年、呉興太守となった。元徽年間、益州刺史となり、 都督 を加えられた。数年で、益州の地はその政治に安んじた。
累進して吏部尚書となった。王儉が吏部郎であった時、専ら曹事を断行し、張岱は毎度これに異を唱えて執拗に反対した。王儉が宰相となると、このことで甚だ仲が良くなかった。
兄の子の張瓌と弟の張恕が呉郡太守劉遐を誅殺した。斉の高帝は張恕を 晉 陵郡太守にしようとした。張岱は言った、「張恕は政事に慣れておらず、美しい錦織を濫りに裁つべきではありません」。高帝は言った、「張恕の為人は私が悉く知っている。また張瓌と共に勲功を立てたので、自ら賞を受けるべきである」。張岱は言った、「もし家が貧しいことを以て禄を賜うのであれば、これは論じません。功績を語り事績を推すとなれば、臣が門の恥です」。 散騎常侍 を加えられた。
建元元年、詔勅により朝臣の序列が定められ、右僕射に張岱を擬するようになった。褚彦回は言った、「これを得るのは過分である。もし別に忠誠があり、特に昇進させるべき者があるならば、また別の道理である」。詔により再考することとなった。
出て呉郡太守となった。高帝は張岱が歴任して清廉正直であることを知っており、郡に着任して間もなく、手ずからの詔勅を下して言った、「大郡は任が重いので、まだ交代させたくはないが、ただ軍務を総べることは殷賑であり、声望と実力が必要である。今、卿を用いて護軍とする。給事中を加える」。張岱が拝命し終えると、詔してその家を府とさせた。
武帝が即位すると、再び呉興太守となった。張岱は晩年に呉興におり、寛容と恕しみをもって著名となった。南兗州刺史に遷ったが、拝命せずに卒した。
張岱は初め遺言を作り、家財を分けて箱の中に封じ置いたが、家業が増減するにつれて改易し、このように十数年を経た。諡して貞子という。
(張裕の孫)張演の子、張緒。
張緒は字を思曼といい、張岱の兄の子である。父の張演は、宋の太子中舎人であった。緒は若くして名を知られ、清簡で寡欲であり、従伯父の張敷や叔父の張鏡、従叔父の張暢は皆、彼を貴重で異なるものと見なした。鏡は彼を楽広に比べ、敷は「これは我々の仲間である」と言った。暢は孝武帝に言上し、彼を尚書倉部郎に用いた。都令史が郡県の米に関する事を諮問したが、緒は蕭然として直視し、心にかけなかった。宋の明帝は緒を見るたびに、その清淡さを嘆じた。
太子中庶子・本州大中正に転じ、 司徒 左長史に遷った。吏部尚書の 袁粲 が帝に言った。「臣が観るに、張緒には正始の遺風があります。宮職にふさわしいでしょう。」再び中庶子に転じた。後に侍中となり、吏部郎に遷り、大選を参掌した。元徽の初め、東宮の官が廃止されると、選曹は舎人王儉を格外の記室に擬した。緒は、儉が人望と家柄を兼ね備えているとして、秘書丞に転ずべきだと主張した。これに従った。緒はまた侍中に遷ったが、かつて客に私的に言った。「一生、諾(承諾)を作ることを解さない。」これを 袁粲 と褚彦回に告げる者があり、これによって呉郡太守として出されたが、緒は初め知らなかった。
昇明二年、祠部尚書から斉の高帝の太傅長史となった。建元元年、中書令となった。緒は玄談をよくし、深く敬異された。僕射の王儉はかつて言った。「緒は江を渡って以来未だかつてなかった人物で、北土に求められるべきである。陳仲弓や黄叔度が彼に勝るかどうかわからない。」
帝が荘厳寺に行幸し、僧達道人の維摩経の講義を聴かれた時、座が遠くて緒の言葉が聞こえなかった。上は緒を移動させるのは難しく、僧達を近くに遷らせた。時に帝は緒を右僕射に用いようとし、王儉に問うた。儉は言った。「緒は若くして清望があり、誠に美選です。しかし南士は由来自らこの職に就くことは少ない。」褚彦回は言った。「儉は年少で覚えていないかもしれないが、江左では陸玩や顧和を用いた。皆、南人である。」儉は言った。「晋氏の衰政は、則とすべきではありません。」先に緒の諸子は皆軽侠であり、中子の張充は少時より細行を護らなかったので、儉はまたこれを言上し、そこで止めた。
国学が立てられると、緒を太常卿とし、国子祭酒を領させ、王延之が緒に代わって中書令となった。何点は嘆じて言った。「晋は子敬(王献之)と季琰(王珉)をこの職とした。今、王延之と張緒をこれにしたのは、清官と言えよう。後にこれを継ぐ者は、実に容易ではない。」緒は周易に長け、その言は精微で道理は深奥であり、一時に宗とされた。常に言った。「何平叔(何晏)は易の中の七事を解さなかった。」
武帝が即位すると、吏部尚書に転じ、祭酒はもとの通りであった。永明二年、南郡王師を領し、給事中を加えられた。三年、太子詹事に転じ、師・給事はもとの通りであった。緒が朝見するたび、武帝は目で送り、王儉に言った。「緒は位をもって我を尊び、我は徳をもって緒を貴ぶ。」 散騎常侍 ・金紫光禄大夫に遷り、師はもとの通り、親信二十人を与えられた。
また中正を領した。長沙王蕭晃が、選用について呉郡の聞人邕を州議曹に属させようとしたが、緒は資籍が相当でないとして、執って許さなかった。晃は緒に書を遺して固く請うたが、緒は正色して晃の使者に言った。「これは身(私)の家郷の州です。殿下どうして逼迫なさるのですか。」そこで止んだ。
緒の吐納は風流であり、聴く者は皆飢えと疲れを忘れ、見る者は肅然として宗廟にいるかのようであった。終日ともに居ても、彼を測り知る者はなかった。劉悛が益州の刺史となった時、蜀柳数株を献上した。枝条は甚だ長く、状は絲縷のようであった。時に旧宮の芳林苑が成り始めたので、武帝はこれを太昌霊和殿の前に植えさせ、常に賞玩して嘆じ、「この楊柳は風流で可愛らしく、張緒の当年の時に似ている」と言った。このように賞愛されたのである。王儉が 尚書令 ・丹陽尹であった時、諸令史が問訊に来た。一人の令史が俯仰に巧みで、進止が観るべきものがあった。儉は賞異して、「かつて誰と共に事をしたか」と問うた。答えて「十余歳の時、張令(張緒)の門下におりました」と言う。儉は目で送った。時に尹丞の殷存至が座にいたが、言った。「これは康成(鄭玄)の門人である。」
七年、竟陵王蕭子良が国子祭酒を領した時、武帝は王晏に勅して言った。「 司徒 (子良)に祭酒を辞させて張緒に授けたいが、物議はどう思うか。」子良は結局拝せず、緒に国子祭酒を領させた。
緒は口に利を言わず、財があればすぐに散じた。清談して端坐し、あるいは終日食事をとらないこともあった。門生が緒の飢えているのを見て、食事を用意したが、しかし彼は求めたことはなかった。
死んだ日、殯する宅がなく、遺言に「凶事には柳翣を設けず、ただ蘆葭で止める。輀車で柩を引き、霊の上に杯水と香火を置き、祭を設けない」とあった。従弟の張融は緒を敬い、親兄のように事とした。緒の霊前に酒を捧げて酌み飲み慟哭して言った。「阿兄の風流が頓に尽きた。」 散騎常侍 ・特進・光禄大夫を追贈され、諡して簡子という。
子の張完は、宋の後廃帝の時に正員郎となり、険しい行いで寵愛を受けたが、罪に坐して錮された。完の弟の張允は、永明の中に安西功曹となり、淫通して人を殺し、法に伏した。允の兄の張充は名を知られた。
(張裕の孫)張演の子、張充。
張充は字を延符といい、若い頃は安逸な遊びを好んだ。張緒が休暇を取って呉に帰った時、西郭に入ったところで、張充が狩りをしているのに出会った。右腕に鷹を止まらせ、左手に犬を引いていた。張緒の船が来ると、すぐに綱を放ち靴を脱いで水辺で拝礼した。張緒が言うには、「一身で二つの役をこなすのは、さぞかし労苦であろう」。張充は跪いて言った、「充は三十にして立つと聞きます。今、充は二十九です。来年までお待ちください」。張緒は言った、「過ちを改めることができれば、顔氏の子(顔回)に匹敵する」。そして翌年には行いを改め、多くのことに通暁し、特に老子・易経に明るく、清談ができた。従叔の張稷とともに美しい評判があった。
尚書殿中郎、武陵王友を歴任した。当時、 尚書令 の王儉が朝廷で権勢を振るい、斉の武帝はすべて彼に決裁を委ねていた。王儉がちょうど親族や賓客を集めている時、張充は縠の頭巾に葛の帔を着て現れ、来るなり酒を求め、言論は奔放で、一座の者をみな傾倒させた。武帝が張緒を尚書僕射にしようとしていると聞き、王儉が反対した。張充はこれを恨みに思い、王儉に手紙を送った。
近頃は道のりが長く、長雨と霞で日が隠れ、暑さが収まらず、ご無事でお過ごしのことと存じます。充は幸いにも漁釣の閑、鎌を取って採る暇に、時折書物を繰って自らを楽しませ、前代の史書の中を逍遥しております。縦横に万古を眺めれば、行動と沈黙の道は多様であり、百年の事績が入り乱れれば、昇降の道は一様ではありません。故に金は剛く水は柔らかい、これは性質の違いであり、円は転がり四角は止まる、これは器の違いです。性質をよく治める者は、金と水の本質に背かず、器をよく作る者は、円と四角の用途を変えません。充は生来、伴侶が少なく、利欲を胸に抱かず、三十六年、ほぼ貧しさに甘んじて淡泊に過ごしてまいりました。孤高の志は、霜に覆われた崖のように聳え立ち、確固たる心情は、海岸に横たわる峰のようです。天閣に冠の纓を揺らすこと、すなわち朝廷の栄華には及ばず、雲台に印綬を帯びること、結局は衣冠の優れた者たちには恥ずかしく思います。実に気性が疎放で凝り固まらず、心情の道が偏狭で隔たっているからです。ただひたすら自分の抱懐を師とし、俗人には認められず、孤高に神の如き崖に立ち、常に世間に疎んぜられております。魚や鳥の群れと長く過ごし、一日中松の木陰に身を置いております。たとえ玉が珪を探す時に埋もれ、桂が芳を求める日に隠れ、漁父の遊びに浸り、卜居の機会に安息するとしても、このような有様で、充に何がわかるでしょう。
さて、驚くべき岩が日を覆い、海が天に吐き出し、聳え立つ石が尋(八尺)の高さで崩れ、危険な場所が仞(七尺)の高さで落ちる。桂や蘭が美しく、山の奥深くに雑然と茂り、松や柏が陰鬱に、谷のほとりで絡み合う。元卿(蒋詡)はここに帰らず、伯休(韓康)もまたここに長く隠棲しました。釣り竿を飛ばして渚で釣りをし、足を洗って滄洲に身を置き、煙霞の中を独り漂い、風月の下に高臥し、悠悠と琴と酒を楽しみ、遠くの峰に誰が来ることもなく、燦然たる文章は、ただ方寸(心)の中に思い描くのみです。知らず知らずのうちに鬱然として千里も隔たり、道は江や川で遮られ、西風が吹くたびに、何度ため息をついたことでしょう。丈人(王儉)は年齢もまだ壮年で、学問に優れて仕官し、道をもって蒼生を補佐し、功績は海内の望みを超え、まさにその時代において徳が盛んで、孤松がひときわ秀でていると言えましょう。しかし茂陵(司馬相如)の俊才たちは、冠蓋(高官)を見ては長く思いを馳せ、渭川の民は、簪裾(貴人)を待ち望んでは敬虔に嘆息する、惜しむこと無きを得ましょうか。充は昆山の西の一百姓、泰山の外の一人、蚕を飼って衣とし、耕して食とします。王侯に仕え、知己を求め、時人に取り入り、遊説を駆使することはできません。屠畜や賭博の間にゆったりと身を置き、その歓びは甚だしいものです。しかし世間の者は皆、充を狂人と言います。充もまたどうして諸君にそれを説くことができましょうか。それゆえに見聞を披き、心胸を掃い、平生を述べ、語るべきこと黙すべきことを論じます。夢を通わせ魂を交わし、襟を開き抱擁を送ることができるのは、ただ丈人だけです。宮廷は遠く隔たり、手紙を書き終えても届けるすべがありません。もし樵夫にでも出会えば、妄りに執事(王儉)に塵をかける所存です。王儉はこれを粗略であるとして重んじず、その手紙を張緒に見せた。張緒は彼を杖で百回打った。また御史中丞の到撝に奏上され、官を免ぜられて出仕を禁じられた。沈約はその手紙を見て、嘆息して言った、「張充は初めはそれで失敗したが、結局はそれで成功するだろう」。しばらくして、 司徒 諮議参軍となり、琅邪の王思遠、同郡の陸慧曉らとともに 司徒 竟陵王(蕭子良)の賓客となった。累進して義興太守となり、政治は清静で、役人や民衆に便利であった。後に侍中となった。梁の武帝(蕭衍)の軍が建鄴に至り、東昏侯(蕭宝巻)が殺害されると、百官は西鍾の下に集まり、張充を召したが、張充は来なかった。武帝の覇府が建てられると、張充を大司馬諮議参軍とした。天監初年、太常卿、吏部尚書を歴任し、選挙の任に当たって公平で妥当であると称された。再び転じて 散騎常侍 、国子祭酒となった。堂に登って講説すると、皇太子以下がみな来た。当時、王侯の多くが学問に在り、経書を手に持って拝礼した。張充は朝服を着て立ち、敢えてそれを受けることはなかった。再び転じて尚書僕射となった。まもなく、出向して呉郡太守となった。着任すると貧しい者や老人を救済し、旧知の者たちはみな喜んだ。呉郡で死去し、諡は穆子といった。子の張最が後を嗣いだ。
〈張裕の孫〉張永の子 張瑰
張瑰は字を祖逸といい、宋の征北将軍、南兗州刺史張永の子である。宋に仕え、累進して桂陽内史となった。先に兄の張瑋が禄を受けていたのを好まず、自ら辞退して拝命しなかった。後に 司徒 右長史、通直 散騎常侍 、 驍 騎将軍となった。
初め、張瑰の父の張永が白下で桂陽王劉休範を防いだが、敗北した。阮佃夫らが罪を加えようとしたが、斉の高帝(蕭道成)が固く弁明したので、張瑰はこの恩に感じて自ら心を寄せた。後に父母の喪に遭い、呉に帰って喪に服した。升明元年、劉彦節(劉秉)に異心があり、弟の劉遐が呉郡太守で、密かに呼応していた。高帝は密かに殿中将軍の卞白龍を遣わし、張瑰に劉遐を捕らえさせた。張氏一族は代々豪気があり、張瑰の邸宅には常に父の時代からの旧部曲が数百人いた。劉遐は張瑰を召し出して軍事を委ねた。張瑰は偽ってこれを受け、叔父の張恕とともに兵十八人を率いて郡府に入り、劉遐を斬った。郡内で敢えて動く者はいなかった。事が成功すると、高帝は左軍将軍の張沖に告げた。張沖は言った、「張瑰は一族百人の命を賭けて一手を打ち、一挙に勝利を得た」。すぐに呉郡太守に任じ、嘉名を賜り、義城県侯に封じられた。従弟の張融がこれを聞き、張瑰に手紙を送って言った、「呉郡太守になるのが何と遅かったことか、どうして王(高帝)に反逆する必要があったのか、聞いて驚き嘆いたが、それは兄上だったのか」。郡人の顧暠、陸閑はいずれも若年で未だ名が知られていなかったが、張瑰は二人を綱紀(主簿など)に抜擢し、後に二人とも名を立てた。世間は張瑰が人を見抜く目があると思った。
斉の建元元年、平都侯に改封され、侍中に転じ、侍中の沈文季とともに門下省にいた。高帝は常に言った、「卿らは我が臣ではあるが、我が親しむことは蕭賾(武帝)や蕭嶷らと変わらない」。沈文季が毎日直務から帰ると、器物がまるで引っ越したかのようであったが、張瑰は朝服だけだった。当時、集書省はしばしば門下省を兼ねており、東省(門下省)は実に清貧な者が多く、張瑰を知らない者が、常に彼を散騎( 散騎常侍 )と呼んだ。
出向して呉興太守となった。張瑰は既に国からの俸禄(侯爵としての封邑の収入)があるとして、郡からの俸禄を受け取らなかった。高帝は上庫に命じて別に彼の俸禄を保管させ、その清廉さを表彰した。
武帝(蕭賾)が即位すると、甯蛮 校尉 、雍州刺史となり、 都督 を加えられた。召されて左戸尚書に任じられ、右軍将軍を加えられた。帰還後、安陸王蕭紆が雍州を監察し、部内を巡行して蔓山に登った時、野老が来て施しを乞うた。蕭紆が問うた、「なぜ生業に就かずに物乞いをするのか」。答えて言った、「張使君(張瑰)が州を治められた時は、百姓は家を保つことができました。後の人は政治が厳しく、それで物乞いをするに至りました」。蕭紆はこれによって深く賞賛した。
後に太常に任じられたが、自ら閑職であると言って、すぐに帰宅した。武帝が言った、「卿らは富貴になる前は、人が与えてくれないと言い、既に富貴になったら、今度は辞めて去ろうとする」。張瑰は言った、「陛下が臣らを御するのは、馬を養うようなものです。用事がなければ閑廄に置き、用事があればまた引き出してくる」。帝はなお怒り、ついに 散騎常侍 、光禄大夫とした。
郁林王(蕭昭業)が廃されると、朝臣は宮門に行って明帝(蕭鸞)に参拝した。張瑰は足の病気を理由に行かなかった。海陵王(蕭昭文)が立つと、明帝は地方の藩王が兵を起こすことを疑い、張瑰を石頭城に駐屯させ、諸軍の軍事を監督させた。張瑰は朝廷に多くの困難があるのを見て、常に病気と称して臥せっていた。
建武末年、たびたび上奏して呉に帰ることを求め、許された。住まいは豪華で富み、伎妾が部屋に満ちていた。ある者がその老いてなお伎妾を蓄えることを非難した。張瑰は言った、「私は若い頃から音楽を好み、老いてようやく理解した。平生の嗜欲は、もう一つも残っていない。ただこれを遣り過ごすことができないだけだ」。
明帝の病が重くなると、大司馬王敬則を防ぎ疑い、張瓌に平東将軍・呉郡太守を授け、これに備えさせた。
敬則が反乱を起こすと、瓌は兵を派遣して松江で迎え撃った。
敬則軍の太鼓の音を聞くと、兵は一時に散り散りに逃げた。
瓌は郡を棄てて民間に逃れ、事が収まってから郡に戻ったが、有司に奏上され、官を免ぜられ爵位を削られた。
永元の初め、光禄大夫となった。
三年、梁の武帝が兵を起こすと、東昏侯は瓌に節を与え、石頭を守らせたが、まもなく城を棄てて宮中に戻った。
梁の天監元年、給事中・右光禄大夫に任ぜられ、脚の病のため自宅で拝命した。
四年に卒去した。
瓌には十二人の子がおり、常々「中には良い者がいるはずだ」と言っていた。
子の張率が名を知られた。
〈張裕の曾孫〉瓌の子 率
率は字を士簡といい、性質は寛大で雅やかであった。
十二歳で文章を作ることができ、常に一日の制限として詩を一篇作り、あるいは数日作らないことがあれば追って補った。
やがて進んで賦や頌を作るようになり、十六歳になる頃には、これまでに二千余首を作った。
虞訥という者がこれを見て誹謗したので、率はある朝に一度に焼き捨て、改めて詩を作って示し、沈約の作と偽って託した。
性質は粗放で率直、明敏で才略があり、著作佐郎として起家したが、拝命しなかった。父の張永と嫡母の丘氏が相次いで没すると、六年の間墓の側に廬居した。斉の永明年中、 豫 章王蕭嶷の主簿となり、彭城の劉繪と共に礼遇を受け、名で呼ばれることはなく、常に劉四、張五と呼ばれた。貧しさのため剡県令を求め、ほとんど政務を見ず、多くは小山で遊んだ。時に山賊の唐宇之が乱を起こすと、張稷は部民を率い励まして県境を保全した。
生母の劉氏は仮に琅邪郡の黄山に葬られていたが、建武年中に葬儀を改めて行い、贈り物の助けは多く集まった。当時は拒絶しなかったが、事が終わるとすぐに返した。幼い時から長じるまで、数十年の間、常に劉氏の神座を設けた。出る時は告げ、帰ると面し、生きているように事えた。
給事中黄門侍郎、新興・永寧二郡太守を歴任した。郡名が私諱に触れたため、永寧を長寧に改めた。永元末年、侍中となり、宮城を宿衛した。梁の武帝の軍が至ると、兼衛尉の江淹が出奔したため、張稷が兼衛尉卿となり、王瑩を副えて城内諸軍事を 都督 した。当時、東昏侯が淫虐であったので、北徐州刺史の王珍國が張稷のもとに謀り、直閤の張齊を使わして含徳殿で 弑 逆を行わせた。張稷は右僕射の王亮らを召して殿前西鍾下に列坐させ、国子博士の范雲・中書舎人の裴長穆らを石頭城に派遣して武帝に詣でさせることを議し、張稷を侍中・左衛将軍とし、大司馬左司馬に遷した。
梁朝が建つと、 散騎常侍 ・中書令となった。上(武帝)が即位すると、江安県子に封ぜられ、領軍将軍の位にあった。武帝が楽寿殿内で宴した時、張稷は酔った後、怨みの言葉が多く顔色に現れた。帝も時に酣であったが、「卿の兄は郡守を殺し、弟はその君を殺し、袖に帝の首を提げ、衣に天の血を染めた。卿の兄弟のような者に、何の名声があろうか」と言った。張稷は「臣は確かに名声はありませんが、陛下については勲功がないとは言えません。東昏侯が暴虐であったので、義師もまた伐ったのであり、ただ臣だけによるものではありません」と言った。帝はその鬚を撫でて「張公は畏るべき人だ」と言った。中丞の陸杲が張稷を弾劾して「領軍張稷は、家門に忠貞なく、官職は必ず険しく達し、君を殺し主を害することを、常としている」と云った。武帝は奏文を中に留めて遂に問わなかった。
累遷して尚書左僕射となった。帝が張稷の宅に行幸しようとしたが、盛暑のため僕射省に留まった。旧来、行幸の供具は全て太官の饌直に酬いたが、帝は張稷が清貧であるため、手詔して受け取らせなかった。宋の時に孝武帝が張永を訪ね、張稷に至る三世、いずれも万乗の身を降ろして訪れたので、論者はこれを栄えたと評した。
張稷は朝右に居ながら、常に口実を恥じ、その子に伊を字して懐尹とし、霍を字して希光とし、畯を字して農人とした。同じ字を用いず、字を見れば同じでないようにして、その志を顕した。既に懼れ且つ恨んで、出ることを求め、許された。青・冀二州刺史として出向したが、志を得ず、常に閤を閉じて仏経を読んだ。禁防が寛弛であったので、僚吏が侵擾を致すことが多かった。州人の徐道角らが夜に州城を襲い、遂にこれを害した。有司が爵土を削ることを奏上した。
張稷の性質は明らかで烈しく、人と交わることを善くし、歴官して蓄えがなく、俸禄は全て親戚故旧に頒ち、家に余財がなかった。呉興太守として、着任すると遺老を慰問し、その子孫を引き立てて右職に置き、政治は寛恕と称された。
初めて郡を去り僕射に徴された時、道すがら呉を通ると、郷人が張稷を待つ者が水陸に満ちた。張稷は単身軽装で直ちに都下に還り、人々は彼を識る者なく、その質素な様はこのようであった。
張稷の長女の楚媛は会稽の孔氏に嫁いだが、子がなく実家に帰り、張稷が害される時に出逢い、女は身をもって刃を蔽い、父に先立って卒した。
張稷は族兄の張充・張融・張巻と共に知名で、当時、張充・張融・張巻・張稷を四張と目した。張巻は字を令遠といい、若くから和理をもって著称し、清談ができ、都官尚書の位にあり、天監初年に卒した。
〈張裕の曾孫〉張稷の子 張嵊
張嵊は字を四山という。張稷が初めて剡県令となった時、嵊亭で彼を生んだため、嵊と名付け、字を四山とした。幼い時から孝行を厚くし、三十余歳になってもまだ綵衣を着て張稷の杖罰を受け、動いて数百に至っても、涙を収めて欣然とした。方正雅量で志操があり、清談ができ、家禍を感じて、終身蔬食布衣とし、手に刃物を執らず、音楽を聴かなかった。弟の張淮の言動が道理に合わないと、張嵊は涙を垂れて訓導した。
秘書郎として起家し、累遷して鎮南湘東王長史・尋陽太守となった。王が暇な日に玄言をしていた時、筮をしたところ、節卦を得た。王は張嵊に「卿は後に東に入って郡守となるが、恐らく天年を全うできないだろう」と言った。張嵊は「貴いのはその所を得ることです」と言った。時に伏挺が同座していたが、「君王は畏るべき人だ」と言った。
還って太府卿・呉興太守となった。侯景が建鄴を囲むと、弟の張伊に郡兵を率いさせて赴援させた。城が陥落すると、御史中丞の沈浚が難を避けて東に帰ったので、張嵊は往って会い、「賊臣が陵駕するは、人臣が命を尽くす時である。今、兵刃を集め、貴郷を保拠しようと思う。たとえ万死すとも、誠に恨みはない」と言った。沈浚は固く張嵊に挙義を勧めた。時に邵陵王蕭綸が東に奔って銭唐に至り、これを聞いて、前舎人の陸丘公を使わし板授して張嵊を征東将軍とした。張嵊は「天子が蒙塵している今日、どうして情的に栄号を受けられようか」と言い、板だけを留めた。
賊の行台劉神茂が義興を攻め破り、使者を遣わして張嵊を説いたが、張嵊はその使者を斬り、直ちに軍を遣わして劉神茂を破った。侯景はそこで中軍の侯子鑒を遣わして劉神茂を助け張嵊を撃たせた。張嵊の軍は敗れ、そこで戎服を脱ぎ聴事に坐した。賊が刃を臨めても終に屈せず、捕らえて侯景に送った。侯景は彼を赦そうとしたが、張嵊は「速やかに死ぬことが幸いだ」と言った。そこで殺した。子弟で害に遇った者は十余人であった。侯景が一人の子を存命させようとすると、張嵊は「我が一門は既に鬼録にある。お前の所で恩を求めはしない」と言った。そこで皆死んだ。賊が平定されると、元帝は侍中・中衛将軍・開府儀同三司を追贈し、忠貞子と諡した。張嵊の弟の張睾は知名であった。
(劉裕の曾孫)劉辯の孫 劉種
劉種は字を士苗といい、劉永の従孫である。祖父の劉辯は、宋の大司農・広州刺史であった。父の劉略は、太子中庶子・臨海太守であった。
劉種は若い頃から恬静で、居処は雅正であり、傍らに請いを造る者もなかった。当時の人は言った。「宋では劉敷・劉演が称され、梁では劉巻・劉充がいる。清虚の学尚は、劉種がその風を有している」と。梁に仕えて中軍宣城王府主簿となり、時に既に四十余歳であった。家が貧しかったため、始豊県令を求めた。武陵王蕭紀が益州刺史となった時、府僚を重ねて選び、劉種を左西曹掾とした。劉種は母が老いていることを理由に辞退したが、有司に奏上され、罪に坐して免官された。
侯景の乱の時、母を奉じて東に郷里へ奔った。母が亡くなると、劉種は時に五十歳であったが、毀瘠が甚だしかった。また凶荒に迫られて未だ葬っていなかったため、喪服は終わったが、家に居て飲食するにも、常に喪中にあるが如くであった。侯景が平定されると、初め 司徒 王僧辯がその状を奏上し、中従事として起用し、併せて葬禮を具えた。葬り終わって、劉種は初めて吉に即した。僧辯はまた劉種が年老いて子がないことを以て、妾と居処の具を賜った。陳の武帝が禅を受けると、太常卿となった。左戸尚書・侍中・中書令・金紫光禄大夫を歴任した。
劉種は沈深虚静であり、識量は宏博で、当時は宰相の器とされた。僕射徐陵はかつて表を抗して劉種に位を譲り、左執に居るべきと為した。その推されること、この如くであった。卒し、特進を贈られ、諡して元子といった。劉種は仁恕で寡欲であり、顕位を歴任したが、家産は屡々空しく、終日晏然として、病と為さなかった。太建の初め、娘が始興王妃となった時、居処が僻陋であることを以て、特に宅一区を賜った。また累ねて無錫・嘉興県の秩を賜った。かつて無錫で重囚が獄にあるのを見、天寒く、囚を呼び出して日に曝したところ、遂に囚を失った。帝は大笑して深く責めなかった。集十四巻がある。
(劉裕の曾孫)劉種の弟 劉稜
劉種の弟劉稜もまた清静で識度があり、 司徒 左長史の位に至り、光禄大夫を贈られた。
論
論うに曰く、張裕(劉裕)は有宋の初め、早くより覇政に参じ、出で内に歴る所、清顕ならざるはなく、諸子並びに崇構を荷い、克く家声を挙げ、その美誉の帰する所、豈に徒然ならんや。思曼(劉瑱)は身を立つるに簡素にして、殆んど人望か。夫れ纓を濯ぎて事に従うは、理として二つ無く、一主に信を取るは、義として百心を絶つ。永元の末を以て、人塗炭を憂うるに、公喬(劉瑱)は重囲の内に在りて、首めて大謀を創め、而して旋って猜嫌を見る。又況んや斯れに異なるをや。然らば則ち士の己を行う、深く議う無かるべし。四山の蹈むに赴くの方、其の違いを矯うと謂うべし。