南史

巻三十一より巻三十二

巻三十一より巻三十二

南史

巻三十一より巻三十二

列伝第二十一

張裕

原文張裕

茂度は仕えて宋の武帝の太尉主簿・揚州中従事となり、累進して別駕に遷った。武帝が西征して劉毅を討ち、北伐して関洛を征した時は、いずれも留守を任され州の事務を執った。出て都督・広州刺史・平越中郎将となり、百越を綏撫して静め、嶺外を安んじた。

原文茂度仕為宋武帝太尉主簿、揚州中從事,累遷別駕。武帝西伐劉毅,北伐關洛,皆居守留任州事。出為都督、廣州刺史、平越中郎將,綏靜百越,嶺外安之。

元嘉元年、侍中・都督・益州刺史となった。帝が荊州刺史謝晦を討つと、詔して益州に軍を遣わし江陵を襲わせた。謝晦が平定された時、西方の軍はようやく白帝に到着した。茂度は謝晦と平素親しく、議する者はその出軍が遅滞したことを疑った。弟の邵は当時湘州刺史であり、兵を起こして大駕(皇帝)に応じた。上は邵の誠節を以て、故に罪を加えなかった。累進して太常となり、脚疾のため出て義興太守となった。上はゆったりと謂いて曰く、「西蜀のことを気にかけるな」と。対えて曰く、「臣は陛下の明に遭わなければ、墓の木はすでに拱(両手で抱えるほど)となっていたでしょう」と。

原文元嘉元年,為侍中、都督、益州刺史。帝討荊州刺史謝晦,詔益州遣軍襲江陵。晦平,西軍始至白帝。茂度與晦素善,議者疑其出軍遲留。弟邵時為湘州刺史,起兵應大駕。上以邵誠節,故不加罪。累遷太常,以腳疾出為義興太守。上從容謂曰:「勿以西蜀介懷。」對曰:「臣不遭陛下之明,墓木拱矣。」

後に都官尚書となり、疾のために就いて光禄大夫を拝し、金章紫綬を加えられた。茂度は内に財に足り、自ら人事を絶ち、本県の華山に経始して居止とした。野沢を優遊すること、このようにして七年を過ごした。十八年、会稽太守を除された。平素より吏能があり、職事はよく治まった。官において卒し、諡して恭子といった。

原文後為都官尚書,以疾就拜光祿大夫,加金章紫綬。茂度內足於財,自絕人事,經始本縣之華山為居止。優遊野澤,如此者七年。十八年,除會稽太守。素有吏能,職事甚理。卒於官,諡曰恭子。

裕の子 演

原文裕子 演

子の演は、位は太子中舎人に至った。演の四弟、鏡・永・辯・岱はともに知名で、当時にこれを「張氏の五龍」といった。

原文子演,位太子中舍人。演四弟鏡、永、辯、岱俱知名,時謂之「張氏五龍」。

裕の子 鏡

原文裕子 鏡

鏡は若い時、光禄大夫顔延之と隣り合わせに住み、顔は談義し酒を飲み、喧呼絶えず、しかるに鏡は静黙して言声がなかった。後に鏡が客と談じると、延之は籬の辺りからこれを聞き、胡床を取って坐り聴き、その言辞の義は清く玄妙であった。延之は心服し、客に謂って曰く、「彼には人あり」と。ここより再び酣叫しなくなった。仕えて新安太守に至った。演・鏡兄弟の中では名声が最も高く、その余は並び及ばなかった。

原文鏡少與光祿大夫顏延之鄰居,顏談義飲酒,喧呼不絕,而鏡靜默無言聲。後鏡與客談,延之從籬邊聞之,取胡床坐聽,辭義清玄。延之心服,謂客曰:「彼有人焉。」由是不復酣叫。仕至新安太守。演、鏡兄弟中名最高,餘並不及。

初め、裕の曾祖の澄が父を葬らんとした時、郭璞が墓地を占い、曰く、「某の処に葬れば、年は百歳を過ぎ、位は三司に至るが、子孫は蕃えず。某の処では年はほぼ半減し、位は卿校に止まるが、累世貴顕である」と。澄は乃ちその劣った処に葬った。位は光禄に至り、年六十四で亡くなり、その子孫は遂に昌えたという。

原文初,裕曾祖澄當葬父,郭璞為占墓地,曰:「葬某處,年過百歲,位至三司,而子孫不蕃。某處年幾減半,位裁卿校,而累世貴顯。」澄乃葬其劣處。位光祿,年六十四而亡,其子孫遂昌云。

裕の子 永

原文裕子 永

永は字あざなを景雲といい、初め郡主簿となり、累進して尚書中兵郎に遷った。先に尚書中の条制は繁雑であり、元嘉十八年、修撰を加えんと欲し、永を徙めて刪定郎とし、その任を掌らせた。二十二年、建康令を除され、居る所にはいずれも称すべき績があった。また広陵王誕の北中郎録事参軍を除された。永は書史に渉猟し、文章を作ることを能くし、隷書を善くし、騎射雑芸に、触類して兼ねて善くした。また巧思があり、益々文帝に知られた。紙墨はいずれも自ら営造し、上は永の表啓を得る毎に、輒ち執り玩びて咨嗟し、自ら供御する者も全く及ばないと歎じた。二十三年、華林園・玄武湖を造営し、並びに永に監統させた。凡そ制置する所は、皆永に則を受けた。永は既に才能があり、毎に心力を尽くしたので、文帝は将と為すに堪えると謂った。二十九年、永を以て揚威将軍・冀州刺史とし、都督を加えた。王玄謨・申坦等の諸将を督して河南を経略し、碻磝を進攻したが、累旬抜けず、魏軍に殺される者が甚だ衆かった。永は即ち夜に囲みを撤して退軍したが、諸将に報告せず、衆軍は驚擾し、魏に乗ぜられ、死敗して塗地に帰した。永及び申坦は並びに統府の撫軍将軍蕭思話に収められ、歴城の獄に繋がれた。文帝は屡征して功無く、諸将は任に堪えざるを以て、詔して永等と思話を責めた。また江夏王義恭に与える書に曰く、「早く諸将輩が此の如きを知らば、恨みて白刃を以て之を駆らずんばあらず、今者悔ゆるも何ぞ及ばん」と。

原文永字景雲,初為郡主簿,累遷尚書中兵郎。先是尚書中條制繁雜,元嘉十八年,欲加修撰,徙永為刪定郎,掌其任。二十二年,除建康令,所居皆有稱績。又除廣陵王誕北中郎錄事參軍。永涉獵書史,能為文章,善隸書,騎射雜藝,觸類兼善。又有巧思,益為文帝所知。紙墨皆自營造,上每得永表啟,輒執玩咨嗟,自歎供禦者了不及也。二十三年,造華林園、玄武湖,並使永監統。凡所制置,皆受則於永。永既有才能,每盡心力,文帝謂堪為將。二十九年,以永為揚威將軍、冀州刺史,加都督。督王玄謨、申坦等諸將經略河南,進攻碻磝,累旬不拔,為魏軍所殺甚眾。永即夜撤圍退軍,不報告諸將,眾軍驚擾,為魏所乘,死敗塗地。永及申坦並為統府撫軍將軍蕭思話所收,系於曆城獄。文帝以屢征無功,諸將不可任,詔責永等與思話。又與江夏王義恭書曰:「早知諸將輩如此,恨不以白刃驅之,今者悔何所及。」

三十年、元凶(劉劭)が弑逆して立ち、永を起して青州刺史とした。及び司空南譙王義宣が起義すると、また永を改めて冀州刺史とし、都督を加えた。永は司馬崔勲之・中兵参軍劉宣則の二軍を遣わし、馳せて国難に赴かせた。時に蕭思話は彭城におり、義宣は二人が相諧い緝まぬを慮り、思話に与える書に、永と坦懐することを勧めた。また永の従兄の長史張暢に永に与える書をさせてこれを勖め、遠くは廉頗・藺相如の公に在るの徳を慕い、近くは陳平・周勃の私を亡くすの美を效えしめた。事が平らぎ、召されて江夏王義恭の大司馬従事中郎となり、中兵を領した。

原文三十年,元凶弑立,起永為青州刺史。及司空南譙王義宣起義,又改永為冀州刺史,加都督。永遣司馬崔勳之、中兵參軍劉宣則二軍馳赴國難。時蕭思話在彭城,義宣慮二人不相諧緝,與思話書,勸與永坦懷。又使永從兄長史張暢與永書勖之,使遠慕廉、藺在公之德,近效平、勃亡私之美。事平,召為江夏王義恭大司馬從事中郎,領中兵。

孝武帝孝建元年、臧質が反乱を起こすと、張永を派遣して武昌王劉渾を補佐させ、京口を鎮守させた。大明三年、累進して廷尉となった。帝は彼に言った、「卿は張釈之と同姓であるから、天下に再び冤罪の者なきことを望む」。張永は音律に通暁しており、太極殿前の鐘の音がかすれていたので、孝武帝はかつて張永に問うた。張永は答えて、鐘に銅の滓があるためであると言い、そこで鐘を叩いてその場所を求め、鑿で取り除くと、音は清らかで遠く響くようになった。

原文孝武孝建元年,臧質反,遣永輔武昌王渾鎮京口。大明三年,累遷廷尉。上謂曰:「卿既與釋之同姓,欲使天下復無冤人。」永曉音律,太極殿前鐘聲嘶,孝武嘗以問永。永答鍾有銅滓,乃扣鍾求其處,鑿而去之,聲遂清越。

明帝が即位すると、青州・冀州二州刺史となり、四州諸軍事を監督し、諸将を統率して徐州刺史薛安都を討ち、累戦して勝利を収めた。薛索児を撃破した。また鎮軍将軍に遷り、まもなく南兗州刺史となり、都督を加えられた。

原文明帝即位,為青冀二州刺史,監四州諸軍事,統諸將討徐州刺史薛安都,累戰克捷。破薛索兒。又遷鎮軍將軍,尋為南兗州刺史,加都督。

時に薛安都が彭城を拠点として降伏を請うたが、誠心は篤くなかった。明帝は張永と沈攸之に重兵を率いてこれを迎えさせ、都督前鋒諸軍事を加えた。彭城に進軍した。薛安都が魏の兵を招き寄せて到着すると、張永は慌てふためいて軍を率いて撤退し、魏軍に追撃されて大敗し、さらに寒雪に遭い、士卒は離散した。張永の足の指は切断して落ち、かろうじて身一つで逃れ、その第四子を失った。

原文時薛安都據彭城請降,而誠心不款。明帝遣永與沈攸之重兵迎之,加都督前鋒諸軍事,進軍彭城。安都招引魏兵既至,永狼狽引軍還,為魏軍追大敗,復遇寒雪,士卒離散。永腳指斷落,僅以身免,失其第四子。

三年、会稽太守に転じ、都督を加えられ、将軍の号はもとのままとした。北征で軍律を失ったことを以て、固く自ら貶めることを求め、称号を左将軍に降格された。張永は失った子を痛く悼み、常人の倍する悲哀があり、喪服の期間は終わったが、なお霊座を設け、飲食や衣服を、生きているかのように供えた。毎回外出する際には、常に別に名車と良馬を用意し、これを侍従と号した。軍事があるたびに、左右の者に告げて「郎君に知らせよ」と言った。薛索児撃破の功績により、孝昌県侯に封ぜられた。会稽においては、賓客の謝方童・阮須・何達之らがその権力を窃み、贓物が山積みとなった。謝方童らは贓罪で獄に下され死に、張永はまた称号を冠軍将軍に降格された。

原文三年,徙會稽太守,加都督,將軍如故。以北行失律,固求自貶,降號左將軍。永痛悼所失之子,有兼常哀,服制雖除,猶立靈座,飲食衣服,待之如生。每出行,常別具名車好馬,號曰侍從。有軍事,輒語左右報郎君知也。以破薛索兒功,封孝昌縣侯。在會稽,賓客有謝方童、阮須、何達之等竊其權,贓貨盈積。方童等坐贓下獄死,永又降號冠軍將軍。

廃帝が即位すると、右光禄大夫・侍中となり、安成王師を兼任した。出て吳郡太守となった。元徽二年、征北将軍・南兗州刺史となり、都督を加えられた。張永は若い頃から駆け回り、力を尽くすことを志し、将帥として、士卒と苦楽を共にすることができた。朝廷から賜与された干し肉や生肉は、必ず地面に座って整然と切り分け、自ら手ずから頒賜した。年は既に老いていたが、志気は衰えず、悠々と閑職にあり、心中甚だ楽しまなかった。この任を受けると、非常に喜び、即日車を走らせて都に戻った。赴任地に着く前に、桂陽王劉休範の乱が起こり、張永は率いる軍を率いて白下に駐屯した。劉休範が新亭に至り、前鋒が南掖門を攻撃すると、張永は人を遣わして賊情を偵察させたが、戻ってくると、台城が陥落したと大声で言い、張永の軍衆は潰走し、軍を棄てて帰還した。旧臣であることを以て罪に問わず、ただ免官と爵位削除に留めた。慚愧のあまり発病して卒した。

原文廢帝即位,為右光祿大夫、侍中,領安成王師。出為吳郡太守。元徽二年,為征北將軍、南兗州刺史,加都督。永少便驅馳,志在宣力,其為將帥,能與士卒同甘苦。朝廷所給賜脯餼,必棋坐齊割,手自頒賜。年雖已老,志氣未衰,優遊閑任,意甚不樂。及有此授,喜悅非常,即日命駕還都。未之鎮,遇桂陽王休範作亂,永率所領屯白下。休范至新亭,前鋒攻南掖門,永遣人覘賊,既反,唱言台城陷,永眾潰,棄軍還。以舊臣不加罪,止免官削爵。以愧發病卒。

張裕の子、張岱。

原文裕子 岱

張岱は字を景山といい、州から従事に辟召され、累進して東遷県令となった。時に殷沖が呉興太守であったが、人に言った、「張東遷は親が貧しく養わねばならぬため、下邑に留まっているのである。しかし名声と地位はまさに顕れようとしており、終には大いに至るであろう」。

原文岱字景山,州辟從事,累遷東遷令。時殷沖為吳興太守,謂人曰:「張東遷親貧須養,所以棲遲下邑。然名器方顯,終當大至。」

後に司徒左西曹掾となった。母が八十歳で、戸籍の記載が満期になっていなかったが、張岱は官を去り、実情に従って帰郷し養った。有司は張岱が制度に違反したとして、糾弾しようとした。宋の孝武帝は言った、「過ちを見れば仁を知ることができる。取り調べる必要はない」。

原文後為司徒左西曹掾。母年八十,籍注未滿,岱便去官,從實還養。有司以岱違制,將欲糾舉。宋孝武曰:「觀過可以知仁,不須案也。」

累進して山陰県令となり、職務は閑かで整然としていた。巴陵王劉休若が北徐州刺史となったが、まだ政事に親しまず、張岱を冠軍諮議参軍とし、彭城太守を兼任させ、府・州・国の事務を行わせた。後に臨海王が征虜将軍広州刺史となり、豫章王が車騎将軍揚州刺史となり、晉安王が征虜将軍南兗州刺史となると、張岱は歴めて三府の諮議・三王の行事となり、典籤や主帥と共に事に当たり、事は成就し情実も得られた。ある者が張岱に言った、「主君たる王は既に幼く、執事する者も多門であるのに、毎度公私を調和させることができるのは、どうしてこのようにできるのか」。張岱は言った、「古人が言う、一心をもって百君に仕えることができる、と。私は政務を公正平明に行い、物事に礼をもって接するので、悔やむべき事態が及ぶ由もない。明暗や短長は、さらに才能の多少によるのみである」。

原文累遷山陰令,職事閑理。巴陵王休若為北徐州,未親政事,以岱為冠軍諮議參軍,領彭城太守,行府、州、國事。後臨海王為征虜將軍廣州,豫章王為車騎揚州,晉安王為征虜南兗州,岱曆為三府諮議三王行事,與典簽主帥共事,事舉而情得。或謂岱曰:「主王既幼,執事多門,而每能緝和公私,云何致此?」岱曰:「古人言,一心可以事百君。我為政端平,待物以禮,悔吝之事,無由而及;明闇短長,更是才用多少耳。」

入朝して黄門郎となった。新安王劉子鸞が盛んな寵愛を以て南徐州刺史となり、呉郡を割いてこれに属させた。佐史を厳選するにあたり、孝武帝は張岱を召して言った、「卿の美しい功績は夙に著しく、また官歴も既に多い。今、卿を用いて子鸞の別駕とし、刺史の任を総べさせたい。小なる屈辱とは言わず、終には大いに伸びるであろう」。帝が崩御すると、累進して吏部郎となった。泰始末年、呉興太守となった。元徽年間、益州刺史となり、都督を加えられた。数年で、益州の地はその政治に安んじた。

原文入為黃門郎。新安王子鸞以盛寵為南徐州,割吳郡屬焉。高選佐史,孝武召岱謂曰:「卿美效夙著,兼資宦已多,今欲用卿為子鸞別駕,總刺史之任,無謂小屈,終當大申也。」帝崩,累遷吏部郎。泰始末,為吳興太守。元徽中,為益州刺史,加都督。數年,益土安其政。

累進して吏部尚書となった。王儉が吏部郎であった時、専ら曹事を断行し、張岱は毎度これに異を唱えて執拗に反対した。王儉が宰相となると、このことで甚だ仲が良くなかった。

原文累遷吏部尚書。王儉為吏部郎,時專斷曹事,岱每相違執。及儉為宰相,以此頗不相善。

兄の子の張瓌と弟の張恕が呉郡太守劉遐を誅殺した。斉の高帝は張恕を晉陵郡太守にしようとした。張岱は言った、「張恕は政事に慣れておらず、美しい錦織を濫りに裁つべきではありません」。高帝は言った、「張恕の為人は私が悉く知っている。また張瓌と共に勲功を立てたので、自ら賞を受けるべきである」。張岱は言った、「もし家が貧しいことを以て禄を賜うのであれば、これは論じません。功績を語り事績を推すとなれば、臣が門の恥です」。散騎常侍を加えられた。

原文兄子瑰、弟恕誅吳郡太守劉遐,齊高帝欲以恕為晉陵郡。岱曰:「恕未閑從政,美錦不宜濫裁。」高帝曰:「恕為人我所悉,其又與瑰同勳,自應有賞。」岱曰:「若以家貧賜祿,此所不論;語功推事,臣門之恥。」加散騎常侍。

建元元年、詔勅により朝臣の序列が定められ、右僕射に張岱を擬するようになった。褚彦回は言った、「これを得るのは過分である。もし別に忠誠があり、特に昇進させるべき者があるならば、また別の道理である」。詔により再考することとなった。

原文建元元年,中詔序朝臣,欲以右僕射擬岱。褚彥回謂得此過優,若別有忠誠,特宜升引者,別是一理。」詔更量。

出て呉郡太守となった。高帝は張岱が歴任して清廉正直であることを知っており、郡に着任して間もなく、手ずからの詔勅を下して言った、「大郡は任が重いので、まだ交代させたくはないが、ただ軍務を総べることは殷賑であり、声望と実力が必要である。今、卿を用いて護軍とする。給事中を加える」。張岱が拝命し終えると、詔してその家を府とさせた。

原文出為吳郡太守。高帝知岱歷任清直,至郡未幾,手敕曰:「大郡任重,乃未欲回換,但總戎務殷,宜須望實。今用卿為護軍。加給事中。」岱拜竟,詔以家為府。武

武帝が即位すると、再び呉興太守となった。張岱は晩年に呉興におり、寛容と恕しみをもって著名となった。南兗州刺史に遷ったが、拝命せずに卒した。

原文帝即位,復為吳興太守。岱晚節在吳興,更以寬恕著名。遷南兗州刺史,未拜卒。

張岱は初め遺言を作り、家財を分けて箱の中に封じ置いたが、家業が増減するにつれて改易し、このように十数年を経た。諡して貞子という。

原文岱初作遺命,分張家財,封置箱中,家業張減,隨復改易,如此十數年。諡曰貞子。

(張裕の孫)張演の子、張緒。

原文〈裕孫〉演子 緒

張緒は字を思曼といい、張岱の兄の子である。父の張演は、宋の太子中舎人であった。緒は若くして名を知られ、清簡で寡欲であり、従伯父の張敷や叔父の張鏡、従叔父の張暢は皆、彼を貴重で異なるものと見なした。鏡は彼を楽広に比べ、敷は「これは我々の仲間である」と言った。暢は孝武帝に言上し、彼を尚書倉部郎に用いた。都令史が郡県の米に関する事を諮問したが、緒は蕭然として直視し、心にかけなかった。宋の明帝は緒を見るたびに、その清淡さを嘆じた。

原文緒字思曼,岱兄子也。父演,宋太子中舍人。緒少知名,清簡寡欲,從伯敷及叔父鏡、從叔暢並貴異之。鏡比之樂廣,敷云:「是我輩人」。暢言于孝武帝,用為尚書倉部郎。都令史諮詳郡縣米事,緒蕭然直視,不以經懷。宋明帝每見緒,輒歎其清淡。

太子中庶子・本州大中正に転じ、司徒左長史に遷った。吏部尚書の袁粲が帝に言った。「臣が観るに、張緒には正始の遺風があります。宮職にふさわしいでしょう。」再び中庶子に転じた。後に侍中となり、吏部郎に遷り、大選を参掌した。元徽の初め、東宮の官が廃止されると、選曹は舎人王儉を格外の記室に擬した。緒は、儉が人望と家柄を兼ね備えているとして、秘書丞に転ずべきだと主張した。これに従った。緒はまた侍中に遷ったが、かつて客に私的に言った。「一生、諾(承諾)を作ることを解さない。」これを袁粲と褚彦回に告げる者があり、これによって呉郡太守として出されたが、緒は初め知らなかった。

原文轉太子中庶子、本州大中正,遷司徒左長史。吏部尚書袁粲言於帝曰:「臣觀張緒有正始遺風,宜為宮職。」復轉中庶子。後為侍中,遷吏部郎,參掌大選。元徽初,東宮官罷,選曹擬舍人王儉為格外記室。緒以儉人地兼美,宜轉秘書丞。從之。緒又遷侍中,嘗私謂客曰:「一生不解作諾。」有以告袁粲、褚彥回者,由是出為吳郡太守,緒初不知也。

昇明二年、祠部尚書から斉の高帝の太傅長史となった。建元元年、中書令となった。緒は玄談をよくし、深く敬異された。僕射の王儉はかつて言った。「緒は江を渡って以来未だかつてなかった人物で、北土に求められるべきである。陳仲弓や黄叔度が彼に勝るかどうかわからない。」

原文升明二年,自祠部尚書為齊高帝太傅長史。建元元年,為中書令。緒善談玄,深見敬異。僕射王儉嘗云:「緒過江所未有,北士可求之耳。不知陳仲弓、黃叔度能過之不?」

帝が荘厳寺に行幸し、僧達道人の維摩経の講義を聴かれた時、座が遠くて緒の言葉が聞こえなかった。上は緒を移動させるのは難しく、僧達を近くに遷らせた。時に帝は緒を右僕射に用いようとし、王儉に問うた。儉は言った。「緒は若くして清望があり、誠に美選です。しかし南士は由来自らこの職に就くことは少ない。」褚彦回は言った。「儉は年少で覚えていないかもしれないが、江左では陸玩や顧和を用いた。皆、南人である。」儉は言った。「晋氏の衰政は、則とすべきではありません。」先に緒の諸子は皆軽侠であり、中子の張充は少時より細行を護らなかったので、儉はまたこれを言上し、そこで止めた。

原文駕幸莊嚴寺聽僧達道人講維摩,坐遠不聞緒言,上難移緒,乃遷僧達以近之。時帝欲用緒為右僕射,以問王儉。儉曰:「緒少有清望,誠美選也。南士由來少居此職。」褚彥回曰:「儉少年或未憶耳,江左用陸玩、顧和,皆南人也。」儉曰:「晉氏衰政,不可為則。」先是緒諸子皆輕俠,中子充少時又不護細行,儉又以為言,乃止。

国学が立てられると、緒を太常卿とし、国子祭酒を領させ、王延之が緒に代わって中書令となった。何点は嘆じて言った。「晋は子敬(王献之)と季琰(王珉)をこの職とした。今、王延之と張緒をこれにしたのは、清官と言えよう。後にこれを継ぐ者は、実に容易ではない。」緒は周易に長け、その言は精微で道理は深奥であり、一時に宗とされた。常に言った。「何平叔(何晏)は易の中の七事を解さなかった。」

原文及立國學,以緒為太常卿,領國子祭酒,以王延之代緒為中書令。何點歎曰:「晉以子敬、季琰為此職,今以王延之、張緒為之,可謂清官。後接之者,實為未易。」緒長於周易,言精理奧,見宗一時。常云:「何平叔不解易中七事」。

武帝が即位すると、吏部尚書に転じ、祭酒はもとの通りであった。永明二年、南郡王師を領し、給事中を加えられた。三年、太子詹事に転じ、師・給事はもとの通りであった。緒が朝見するたび、武帝は目で送り、王儉に言った。「緒は位をもって我を尊び、我は徳をもって緒を貴ぶ。」散騎常侍・金紫光禄大夫に遷り、師はもとの通り、親信二十人を与えられた。

原文武帝即位,轉吏部尚書,祭酒如故。永明二年,領南郡王師,加給事中。三年,轉太子詹事,師、給事如故。緒每朝見,武帝目送之,謂王儉曰:「緒以位尊我,我以德貴緒。」遷散騎常侍、金紫光祿大夫,師如故,給親信二十人。

また中正を領した。長沙王蕭晃が、選用について呉郡の聞人邕を州議曹に属させようとしたが、緒は資籍が相当でないとして、執って許さなかった。晃は緒に書を遺して固く請うたが、緒は正色して晃の使者に言った。「これは身(私)の家郷の州です。殿下どうして逼迫なさるのですか。」そこで止んだ。

原文復領中正。長沙王晃屬選用吳郡聞人邕為州議曹,緒以資籍不當,執不許。晃遺書於緒固請之,緒正色謂晃信曰:「此是身家州鄉,殿下何得見逼。」乃止。

緒の吐納は風流であり、聴く者は皆飢えと疲れを忘れ、見る者は肅然として宗廟にいるかのようであった。終日ともに居ても、彼を測り知る者はなかった。劉悛が益州の刺史となった時、蜀柳数株を献上した。枝条は甚だ長く、状は絲縷のようであった。時に旧宮の芳林苑が成り始めたので、武帝はこれを太昌霊和殿の前に植えさせ、常に賞玩して嘆じ、「この楊柳は風流で可愛らしく、張緒の当年の時に似ている」と言った。このように賞愛されたのである。王儉が尚書令・丹陽尹であった時、諸令史が問訊に来た。一人の令史が俯仰に巧みで、進止が観るべきものがあった。儉は賞異して、「かつて誰と共に事をしたか」と問うた。答えて「十余歳の時、張令(張緒)の門下におりました」と言う。儉は目で送った。時に尹丞の殷存至が座にいたが、言った。「これは康成(鄭玄)の門人である。」

原文緒吐納風流,聽者皆忘饑疲,見者肅然如在宗廟。雖終日與居,莫能測焉。劉悛之為益州,獻蜀柳數株,枝條甚長,狀若絲縷。時舊宮芳林苑始成,武帝以植於太昌靈和殿前,常賞玩咨嗟,曰:「此楊柳風流可愛,似張緒當年時。」其見賞愛如此。王儉為尚書令、丹陽尹,時諸令史來問訊,有一令史善俯仰,進止可觀。儉賞異之,問曰:「經與誰共事?」答云:「十餘歲在張令門下。」儉目送之。時尹丞殷存至在坐,曰:「是康成門人也。」

七年、竟陵王蕭子良が国子祭酒を領した時、武帝は王晏に勅して言った。「司徒(子良)に祭酒を辞させて張緒に授けたいが、物議はどう思うか。」子良は結局拝せず、緒に国子祭酒を領させた。

原文七年,竟陵王子良領國子祭酒,武帝敕王晏曰:「吾欲令司徒辭祭酒以授張緒,物議以為如何?」子良竟不拜,以緒領國子祭酒。

緒は口に利を言わず、財があればすぐに散じた。清談して端坐し、あるいは終日食事をとらないこともあった。門生が緒の飢えているのを見て、食事を用意したが、しかし彼は求めたことはなかった。

原文緒口不言利,有財輒散之。清談端坐,或竟日無食。門生見緒饑,為之辦餐,然未嘗求也。

死んだ日、殯する宅がなく、遺言に「凶事には柳翣を設けず、ただ蘆葭で止める。輀車で柩を引き、霊の上に杯水と香火を置き、祭を設けない」とあった。従弟の張融は緒を敬い、親兄のように事とした。緒の霊前に酒を捧げて酌み飲み慟哭して言った。「阿兄の風流が頓に尽きた。」散騎常侍・特進・光禄大夫を追贈され、諡して簡子という。

原文死之日,無宅以殯,遺命「凶事不設柳翣,止以蘆葭。車需車引柩,靈上置杯水香火,不設祭」。從弟融敬緒,事之如親兄。齎酒於緒靈前酌飲慟哭曰:「阿兄風流頓盡。」追贈散騎常侍、特進、光祿大夫,諡簡子。

子の張完は、宋の後廃帝の時に正員郎となり、険しい行いで寵愛を受けたが、罪に坐して錮された。完の弟の張允は、永明の中に安西功曹となり、淫通して人を殺し、法に伏した。允の兄の張充は名を知られた。

原文子完,宋後廢帝時為正員郎,險行見寵,坐廢錮。完弟允,永明中安西功曹,淫通殺人伏法。允兄充知名。

(張裕の孫)張演の子、張充。

原文〈裕孫〉演子 充

張充は字を延符といい、若い頃は安逸な遊びを好んだ。張緒が休暇を取って呉に帰った時、西郭に入ったところで、張充が狩りをしているのに出会った。右腕に鷹を止まらせ、左手に犬を引いていた。張緒の船が来ると、すぐに綱を放ち靴を脱いで水辺で拝礼した。張緒が言うには、「一身で二つの役をこなすのは、さぞかし労苦であろう」。張充は跪いて言った、「充は三十にして立つと聞きます。今、充は二十九です。来年までお待ちください」。張緒は言った、「過ちを改めることができれば、顔氏の子(顔回)に匹敵する」。そして翌年には行いを改め、多くのことに通暁し、特に老子・易経に明るく、清談ができた。従叔の張稷とともに美しい評判があった。

原文充字延符,少好逸遊。緒嘗告歸至吳,始入西郭,逢充獵,右臂鷹,左牽狗。遇緒船至,便放絏脫鞋拜于水次。緒曰:「一身兩役,無乃勞乎。」充跪曰:「充聞三十而立,今充二十九矣,請至來歲。」緒曰:「過而能改,顏氏子有焉。」及明年便修改,多所該通,尤明老、易,能清言。與從叔稷俱有令譽。

尚書殿中郎、武陵王友を歴任した。当時、尚書令の王儉が朝廷で権勢を振るい、斉の武帝はすべて彼に決裁を委ねていた。王儉がちょうど親族や賓客を集めている時、張充は縠の頭巾に葛の帔を着て現れ、来るなり酒を求め、言論は奔放で、一座の者をみな傾倒させた。武帝が張緒を尚書僕射にしようとしていると聞き、王儉が反対した。張充はこれを恨みに思い、王儉に手紙を送った。

原文曆尚書殿中郎、武陵王友。時尚書令王儉當朝用事,齊武帝皆取決焉。儉方聚親賓,充縠巾葛帔,至便求酒,言論放逸,一坐盡傾。及聞武帝欲以緒為尚書僕射,儉執不可。充以為慍,與儉書曰:

近頃は道のりが長く、長雨と霞で日が隠れ、暑さが収まらず、ご無事でお過ごしのことと存じます。充は幸いにも漁釣の閑、鎌を取って採る暇に、時折書物を繰って自らを楽しませ、前代の史書の中を逍遥しております。縦横に万古を眺めれば、行動と沈黙の道は多様であり、百年の事績が入り乱れれば、昇降の道は一様ではありません。故に金は剛く水は柔らかい、これは性質の違いであり、円は転がり四角は止まる、これは器の違いです。性質をよく治める者は、金と水の本質に背かず、器をよく作る者は、円と四角の用途を変えません。充は生来、伴侶が少なく、利欲を胸に抱かず、三十六年、ほぼ貧しさに甘んじて淡泊に過ごしてまいりました。孤高の志は、霜に覆われた崖のように聳え立ち、確固たる心情は、海岸に横たわる峰のようです。天閣に冠の纓を揺らすこと、すなわち朝廷の栄華には及ばず、雲台に印綬を帯びること、結局は衣冠の優れた者たちには恥ずかしく思います。実に気性が疎放で凝り固まらず、心情の道が偏狭で隔たっているからです。ただひたすら自分の抱懐を師とし、俗人には認められず、孤高に神の如き崖に立ち、常に世間に疎んぜられております。魚や鳥の群れと長く過ごし、一日中松の木陰に身を置いております。たとえ玉が珪を探す時に埋もれ、桂が芳を求める日に隠れ、漁父の遊びに浸り、卜居の機会に安息するとしても、このような有様で、充に何がわかるでしょう。

原文頃日路長,霖霞韜晦,敘暑未平,想無虧攝。充幸以漁釣之閑,鎌采之暇,時復引軸以自娛,逍遙乎前史。從橫萬古,動默之路多端,紛綸百年,升降之塗不一。故金剛水柔,性之別也;圓行方止,器之異也。善禦性者,不違金水之質;善為器者,不易方圓之用。充生平少偶,不以利欲幹懷,三十六年,差得以棲貧自澹。介然之志,峭聳霜崖,確乎之情,峰橫海岸。至如彯纓天閣,既謝廊廟之華,綴組雲台,終愧衣冠之秀。實由氣岸疏凝,情塗狷隔。獨師懷抱,不見許於俗人,孤秀神崖,每邅回於在世。長群魚鳥,畢景松阿。雖復玉沒於訪珪之辰,桂掩於搜芳之日,氾濫于漁父之游,偃息于卜居之會,如此而已,充何識哉。

さて、驚くべき岩が日を覆い、海が天に吐き出し、聳え立つ石が尋(八尺)の高さで崩れ、危険な場所が仞(七尺)の高さで落ちる。桂や蘭が美しく、山の奥深くに雑然と茂り、松や柏が陰鬱に、谷のほとりで絡み合う。元卿(蒋詡)はここに帰らず、伯休(韓康)もまたここに長く隠棲しました。釣り竿を飛ばして渚で釣りをし、足を洗って滄洲に身を置き、煙霞の中を独り漂い、風月の下に高臥し、悠悠と琴と酒を楽しみ、遠くの峰に誰が来ることもなく、燦然たる文章は、ただ方寸(心)の中に思い描くのみです。知らず知らずのうちに鬱然として千里も隔たり、道は江や川で遮られ、西風が吹くたびに、何度ため息をついたことでしょう。丈人(王儉)は年齢もまだ壮年で、学問に優れて仕官し、道をもって蒼生を補佐し、功績は海内の望みを超え、まさにその時代において徳が盛んで、孤松がひときわ秀でていると言えましょう。しかし茂陵(司馬相如)の俊才たちは、冠蓋(高官)を見ては長く思いを馳せ、渭川の民は、簪裾(貴人)を待ち望んでは敬虔に嘆息する、惜しむこと無きを得ましょうか。充は昆山の西の一百姓、泰山の外の一人、蚕を飼って衣とし、耕して食とします。王侯に仕え、知己を求め、時人に取り入り、遊説を駆使することはできません。屠畜や賭博の間にゆったりと身を置き、その歓びは甚だしいものです。しかし世間の者は皆、充を狂人と言います。充もまたどうして諸君にそれを説くことができましょうか。それゆえに見聞を披き、心胸を掃い、平生を述べ、語るべきこと黙すべきことを論じます。夢を通わせ魂を交わし、襟を開き抱擁を送ることができるのは、ただ丈人だけです。宮廷は遠く隔たり、手紙を書き終えても届けるすべがありません。もし樵夫にでも出会えば、妄りに執事(王儉)に塵をかける所存です。王儉はこれを粗略であるとして重んじず、その手紙を張緒に見せた。張緒は彼を杖で百回打った。また御史中丞の到撝に奏上され、官を免ぜられて出仕を禁じられた。沈約はその手紙を見て、嘆息して言った、「張充は初めはそれで失敗したが、結局はそれで成功するだろう」。しばらくして、司徒諮議参軍となり、琅邪の王思遠、同郡の陸慧曉らとともに司徒竟陵王(蕭子良)の賓客となった。累進して義興太守となり、政治は清静で、役人や民衆に便利であった。後に侍中となった。梁の武帝(蕭衍)の軍が建鄴に至り、東昏侯(蕭宝巻)が殺害されると、百官は西鍾の下に集まり、張充を召したが、張充は来なかった。武帝の覇府が建てられると、張充を大司馬諮議参軍とした。天監初年、太常卿、吏部尚書を歴任し、選挙の任に当たって公平で妥当であると称された。再び転じて散騎常侍、国子祭酒となった。堂に登って講説すると、皇太子以下がみな来た。当時、王侯の多くが学問に在り、経書を手に持って拝礼した。張充は朝服を着て立ち、敢えてそれを受けることはなかった。再び転じて尚書僕射となった。まもなく、出向して呉郡太守となった。着任すると貧しい者や老人を救済し、旧知の者たちはみな喜んだ。呉郡で死去し、諡は穆子といった。子の張最が後を嗣いだ。

原文若夫驚岩罩日,吐海逢天,竦石崩尋,分危落仞。桂蘭綺靡,叢雜於山幽,松柏陰森,相繚於澗側。元卿於是乎不歸,伯休亦以茲長往。至於飛竿釣渚,濯足滄洲,獨浪煙霞,高臥風月,悠悠琴酒,岫遠誰來,灼灼文言,空擬方寸。不覺郁然千里,路隔江川,每至西風,何嘗不歎。丈人歲路未強,學優而仕,道佐蒼生,功橫海望,可謂德盛當時,孤松獨秀者也。而茂陵之彥,望冠蓋而長懷,渭川之甿,佇簪裾而竦歎,得無惜乎。充昆西百姓,岱表一人,蠶而衣,耕而食。不能事王侯,覓知己,造時人,騁遊說。容與于屠博之間,其歡甚矣。然舉世皆謂充為狂,充亦何能與諸君道之哉。是以披聞見,掃心胸,述平生,論語默。所可通夢交魂、推襟送抱者,唯丈人而已。闕廷敻阻,書罷莫因,儻遇樵夫,妄塵執事。儉以為脫略,弗之重,仍以書示緒,緒杖之一百。又為御史中丞到撝所奏,免官禁錮。沈約見其書,歎曰:「充始為之敗,終為之成。」久之,為司徒諮議參軍,與琅邪王思遠、同郡陸慧曉等並為司徒竟陵王賓客。累遷義興太守,為政清靜,吏人便之。後為侍中。梁武帝兵至建鄴,東昏逢殺,百官集西鍾下,召充,充不至。武帝霸府建,以充為大司馬諮議參軍。天監初,曆太常卿、吏部尚書,居選以平允稱。再遷散騎常侍、國子祭酒。登堂講說,皇太子以下皆至。時王侯多在學,執經以拜,充朝服而立,不敢當。再遷尚書僕射。頃之,出為吳郡太守。下車恤貧老,故舊莫不忻悅。卒于吳郡,諡曰穆子。子最嗣。

〈張裕の孫〉張永の子 張瑰

原文〈裕孫〉永子 瑰

張瑰は字を祖逸といい、宋の征北将軍、南兗州刺史張永の子である。宋に仕え、累進して桂陽内史となった。先に兄の張瑋が禄を受けていたのを好まず、自ら辞退して拝命しなかった。後に司徒右長史、通直散騎常侍、驍騎将軍となった。

原文瑰字祖逸,宋征北將軍、南兗州刺史永之子也。仕宋,累遷桂陽內史。不欲前兄瑋處祿,自免不拜。後為司徒右長史,通直散騎常侍,驍騎將軍。

初め、張瑰の父の張永が白下で桂陽王劉休範を防いだが、敗北した。阮佃夫らが罪を加えようとしたが、斉の高帝(蕭道成)が固く弁明したので、張瑰はこの恩に感じて自ら心を寄せた。後に父母の喪に遭い、呉に帰って喪に服した。升明元年、劉彦節(劉秉)に異心があり、弟の劉遐が呉郡太守で、密かに呼応していた。高帝は密かに殿中将軍の卞白龍を遣わし、張瑰に劉遐を捕らえさせた。張氏一族は代々豪気があり、張瑰の邸宅には常に父の時代からの旧部曲ぶきょくが数百人いた。劉遐は張瑰を召し出して軍事を委ねた。張瑰は偽ってこれを受け、叔父の張恕とともに兵十八人を率いて郡府に入り、劉遐を斬った。郡内で敢えて動く者はいなかった。事が成功すると、高帝は左軍将軍の張沖に告げた。張沖は言った、「張瑰は一族百人の命を賭けて一手を打ち、一挙に勝利を得た」。すぐに呉郡太守に任じ、嘉名を賜り、義城県侯に封じられた。従弟の張融がこれを聞き、張瑰に手紙を送って言った、「呉郡太守になるのが何と遅かったことか、どうして王(高帝)に反逆する必要があったのか、聞いて驚き嘆いたが、それは兄上だったのか」。郡人の顧暠、陸閑はいずれも若年で未だ名が知られていなかったが、張瑰は二人を綱紀(主簿など)に抜擢し、後に二人とも名を立てた。世間は張瑰が人を見抜く目があると思った。

原文初,瑰父永拒桂陽王休范于白下,敗績,阮佃夫等欲加罪,齊高帝固申明之,瑰由此感恩自結。後遭父母喪,還吳持服。升明元年,劉彥節有異圖,弟遐為吳郡,潛相影響。高帝密遣殿中將軍卞白龍令瑰取遐。諸張世有豪氣,瑰宅中常有父時舊部曲數百。遐召瑰委以軍事,瑰偽受命,與叔恕領兵十八人入郡斬之,郡內莫敢動。事捷,高帝以告左軍張沖。沖曰:「瑰以百口一擲,出手得盧矣。」即授吳郡太守,錫以嘉名,封義城縣侯。從弟融聞之,與瑰書曰:「吳郡何晚,何須王反,聞之嗟驚,乃是阿兄。」郡人顧暠、陸閑並少年未知名,瑰並引為綱紀,後並立名,世以為知人。

斉の建元元年、平都侯に改封され、侍中に転じ、侍中の沈文季とともに門下省にいた。高帝は常に言った、「卿らは我が臣ではあるが、我が親しむことは蕭賾(武帝)や蕭嶷らと変わらない」。沈文季が毎日直務から帰ると、器物がまるで引っ越したかのようであったが、張瑰は朝服だけだった。当時、集書省はしばしば門下省を兼ねており、東省(門下省)は実に清貧な者が多く、張瑰を知らない者が、常に彼を散騎(散騎常侍)と呼んだ。

原文齊建元元年,改封平都侯,遷侍中,與侍中沈文季俱在門下。高帝常謂曰:「卿雖我臣,我親卿不異賾、嶷等。」文季每還直,器物若遷;瑰止朝服而已。時集書每兼門下,東省實多清貧,有不識瑰者,常呼為散騎。

出向して呉興太守となった。張瑰は既に国からの俸禄(侯爵としての封邑の収入)があるとして、郡からの俸禄を受け取らなかった。高帝は上庫に命じて別に彼の俸禄を保管させ、その清廉さを表彰した。

原文出為吳興太守。瑰以既有國秩,不取郡奉。高帝敕上庫別藏其奉,以表其清。

武帝(蕭賾)が即位すると、甯蛮校尉、雍州刺史となり、都督を加えられた。召されて左戸尚書に任じられ、右軍将軍を加えられた。帰還後、安陸王蕭紆が雍州を監察し、部内を巡行して蔓山に登った時、野老が来て施しを乞うた。蕭紆が問うた、「なぜ生業に就かずに物乞いをするのか」。答えて言った、「張使君(張瑰)が州を治められた時は、百姓は家を保つことができました。後の人は政治が厳しく、それで物乞いをするに至りました」。蕭紆はこれによって深く賞賛した。

原文武帝即位,為甯蠻校尉、雍州刺史,加都督。徵拜左戶尚書,加右軍將軍。還後,安陸王紆臨雍州,行部登蔓山,有野老來乞。紆問:「何不事產而行乞邪?」答曰:「張使君臨州理物,百姓家得相保。後人政嚴,故至行乞。」紆由是深加嗟賞。

後に太常に任じられたが、自ら閑職であると言って、すぐに帰宅した。武帝が言った、「卿らは富貴になる前は、人が与えてくれないと言い、既に富貴になったら、今度は辞めて去ろうとする」。張瑰は言った、「陛下が臣らを御するのは、馬を養うようなものです。用事がなければ閑廄に置き、用事があればまた引き出してくる」。帝はなお怒り、ついに散騎常侍、光禄大夫とした。

原文後拜太常,自謂閒職,輒歸家。武帝曰:「卿輩未富貴,謂人不與;既富貴,那復欲委去。」瑰曰:「陛下禦臣等若養馬,無事就閑廄,有事復牽來。」帝猶怒,遂以為散騎常侍、光祿大夫。

郁林王(蕭昭業)が廃されると、朝臣は宮門に行って明帝(蕭鸞)に参拝した。張瑰は足の病気を理由に行かなかった。海陵王(蕭昭文)が立つと、明帝は地方の藩王が兵を起こすことを疑い、張瑰を石頭城に駐屯させ、諸軍の軍事を監督させた。張瑰は朝廷に多くの困難があるのを見て、常に病気と称して臥せっていた。

原文郁林之廢,朝臣到宮門參承明帝。瑰托腳疾不至。海陵立,明帝疑外藩起兵,以瑰鎮石頭,督眾軍事。瑰見朝廷多難,遂恒臥疾。

建武末年、たびたび上奏して呉に帰ることを求め、許された。住まいは豪華で富み、伎妾が部屋に満ちていた。ある者がその老いてなお伎妾を蓄えることを非難した。張瑰は言った、「私は若い頃から音楽を好み、老いてようやく理解した。平生の嗜欲は、もう一つも残っていない。ただこれを遣り過ごすことができないだけだ」。

原文建武末,屢啟求還吳,見許。居室豪富,伎妾盈房。或者譏其衰暮畜伎。瑰曰:「我少好音律,老而方解。平生嗜欲,無復一存,唯未能遣此耳。」

明帝の病が重くなると、大司馬王敬則を防ぎ疑い、張瓌に平東将軍・呉郡太守を授け、これに備えさせた。敬則が反乱を起こすと、瓌は兵を派遣して松江で迎え撃った。敬則軍の太鼓の音を聞くと、兵は一時に散り散りに逃げた。瓌は郡を棄てて民間に逃れ、事が収まってから郡に戻ったが、有司に奏上され、官を免ぜられ爵位を削られた。永元の初め、光禄大夫となった。三年、梁の武帝が兵を起こすと、東昏侯は瓌に節を与え、石頭を守らせたが、まもなく城を棄てて宮中に戻った。梁の天監元年、給事中・右光禄大夫に任ぜられ、脚の病のため自宅で拝命した。四年に卒去した。

原文明帝疾甚,防疑大司馬王敬則,授瑰平東將軍、吳郡太守,以為之備。及敬則反,瑰遣兵迎拒於松江。聞敬則軍鼓聲,一時散走。瑰棄郡逃人間,事平乃還郡,為有司奏,免官削爵。永元初,為光祿大夫。三年,梁武帝起兵,東昏假瑰節,戍石頭,尋棄城還宮。梁天監元年,拜給事中、右光祿大夫,以腳疾拜於家。四年卒。

瓌には十二人の子がおり、常々「中には良い者がいるはずだ」と言っていた。子の張率が名を知られた。

原文瑰有子十二人,常云:「中應有好者」。子率知名。

〈張裕の曾孫〉張瓌の子 張率

原文〈裕曾孫〉瑰子 率

張率は字を士簡といい、性質は寛大で雅やかであった。十二歳で文章を作ることができ、常に一日の制限として詩を一篇作り、数日作らないことがあれば追って補った。やがて進んで賦や頌を作るようになり、十六歳になる頃には、二千余首を作った。虞訥という者がこれを見て誹謗したので、張率はある朝にこれを一度に焼き捨て、改めて詩を作って示し、沈約の作と偽って託した。虞訥は句ごとに感嘆して称賛し、良いと言わない字はなかった。張率が「これは私の作である」と言うと、虞訥は恥じ入って退いた。当時、陸少玄の家に父の陸澄の書が万余巻あったが、張率は陸少玄と親交があり、書籍を融通し合って、その書をすべて読み尽くした。

原文率字士簡,性寬雅。十二能屬文,常日限為詩一篇,或數日不作,則追補之,稍進作賦頌,至年十六,向作二千餘首。有虞訥者見而詆之,率乃一旦焚毀,更為詩示焉,托雲沈約。訥便句句嗟稱,無字不善。率曰:「此吾作也。」訥慚而退。時陸少玄家有父澄書萬餘卷,率與少玄善,遂通書籍,盡讀其書。

建武三年、秀才に挙げられ、太子舎人に任ぜられた。同郡の陸倕・陸厥と幼少より親交を結んだ。かつて同乗して左衛将軍沈約を訪ねた際、任昉がそこに居合わせた。沈約は任昉に「この二子は後進の秀才で、いずれも南金(美材)である。卿も知っておくがよい」と言った。これによって任昉とも友人となった。

原文建武三年,舉秀才,除太子舍人,與同郡陸倕、陸厥幼相友狎。嘗同載詣左衛將軍沈約,遇任昉在焉。約謂昉曰:「此二子後進才秀,皆南金也,卿可識之。」由此與昉友。

梁の天監年中、司徒謝朏の掾となり、文徳待詔省に宿直し、勅命により乙部書を抄録し、また古代の婦人の事績を撰述した。能書家の琅邪王琛・呉郡范懐約らにこれを清書させて後宮に給した。張率は休暇を取って東方に帰省したが、論者はこれを世を傲るものと見なした。張率は恐れて「待詔賦」を作って奏上したところ、甚だ称賛された。武帝は手勅で答えて「司馬相如は巧みだが敏捷でなく、枚皐は速いが巧みでなかった。卿は金馬門において二人の長所を兼ね備えていると言えよう」と評した。また宴に侍して詩を賦すと、武帝は別に張率に詩を賜って「東南に才子あり、故によく官政に服す。余は古昔に慚ずといえども、人を得ること今を盛んとす」と詠んだ。張率は返答の詩を奏上して往復六首に及んだ。後に玉衡殿に引見され、武帝は「卿は東南の重望あり、朕も平素より聞き及んでいる。卿は宰相とはいかなる人か、天から降るにあらず、地から出ずるにあらずと言う。卿は名家の奇才であり、もし礼律に意を用いれば、まさにその人である。秘書丞は天下の清官であり、東南の望族でこれに就いた者はまだいない。今、卿をこれに任じ、卿の名誉を定めよう」と言った。まもなく秘書丞となり、集書詔策を掌った。

原文梁天監中,為司徒謝朏掾,直文德待詔省,敕使抄乙部書,又使撰古婦人事。使工書人琅邪王琛、吳郡範懷約等寫給後宮。率取假東歸,論者謂為傲世,率懼,乃為待詔賦奏之,甚見稱賞。手敕答曰:「相如工而不敏,枚皋速而不工,卿可謂兼二子于金馬矣。」又侍宴賦詩,武帝別賜率詩曰:「東南有才子,故能服官政,余雖慚古昔,得人今為盛。」率奏詩往反六首。後引見於玉衡殿,謂曰:「卿東南物望,朕宿昔所聞。卿言宰相是何人,不從天下,不由地出。卿名家奇才,若復以禮律為意,便是其人。秘書丞天下清官,東南望胄未有為之者,今以相處,為卿定名譽。」尋以為秘書丞,掌集書詔策。

四年、華光殿で禊飲した際、その日に河南国が赤龍駒を献上した。拝伏することができ、舞をよくした。詔して張率と到漑・周興嗣に賦を作らせ、武帝は張率と周興嗣の作を巧みであるとした。

原文四年,禊飲華光殿,其日河南國獻赤龍駒,能拜伏,善舞。詔率與到溉、周興嗣為賦,武帝以率及興嗣為工。

その年、父の喪に遭って職を辞した。父の代からの歌妓が数十人おり、歌をよくする者は美貌であった。同郷の儀曹郎顧珖之が求婚したが、歌妓は望まず、ついに仏門に入って尼となった。かつて張率の宅で斎会があった際、顧珖之は張率と密通していると誣告する書を飛ばした。南司(御史台)が奏上したが、武帝はその才能を惜しんで奏文を留め置いた。しかしなお当時の世論の批判を招いた。喪が明けた後、久しく仕官しなかった。

原文其年,父憂去職。有父時妓數十人,其善謳者有色貌,邑子儀曹郎顧珖之求娉,謳者不願,遂出家為尼。嘗因齋會率宅,珖之乃飛書言與率奸。南司以事奏聞,武帝惜其才,寢其奏,然猶致時論。服闋,久之不仕。

七年、中権建安王中記室参軍に任ぜられ、まもなく寿光省に宿直して丙丁部書抄を修纂した。累遷して晋安王宣恵諮議参軍となった。張率は府に在ること十年、恩礼は甚だ篤かった。後に揚州別駕となった。張率は官職を歴任したものの、公文書の管理に心を留めることはなかった。別駕として奏事した際、武帝が上奏文を見て下問したが、答えられず、ただ「事は牒(文書)の中にあります」と答えたため、帝は不興を買った。後に黄門侍郎を歴任し、出向して新安太守となったが、生母の喪に遭って卒去した。

原文七年,除中權建安王中記室參軍,俄直壽光省,修丙丁部書抄。累遷晉安王宣惠諮議參軍。率在府十年,恩禮甚篤。後為揚州別駕。率雖曆居職務,未嘗留心簿領。及為別駕奏事,武帝覽牒問之,並無對,但答云:「事在牒中。」帝不悅。後曆黃門侍郎。出為新安太守,丁所生母憂卒。

張率は酒を嗜んで政務を執らず、家務については特に無頓着であった。新安にあった時、家僕に米三千石を運ばせて自邸に送らせたが、到着すると大半が減っていた。張率がその理由を問うと、「雀や鼠の食い散らし(雀鼠耗)です」と答えた。張率は笑って「壮んなるかな雀鼠よ」と言い、ついに追及しなかった。幼少より文章を作り、『七略』や『漢書』芸文志に載る詩賦で、散逸した文章をすべて補作した。著書に『文衡』十五巻、文集四十巻が世に行われた。子に長公がある。張率の弟は張盾である。

原文率嗜酒不事,于家務尤忘懷。在新安遣家僮載米三千石還宅,及至遂耗太半。率問其故,答曰:「雀鼠耗。」率笑而言曰:「壯哉雀鼠。」竟不研問。自少屬文,七略及藝文志所載詩賦,今亡其文者,並補作之。所著文衡十五卷,文集四十卷行於世。子長公。率弟盾。

〈張裕の曾孫〉張率の弟 張盾

原文〈裕曾孫〉率弟 盾

張盾は字を士宣といい、謹直重厚をもって称された。無錫県令となった時、強盗に遭い、「何が必要か」と問うと、強盗が刀でその頬を斬りつけた。張盾は「とっ、とっ(ああ)、容易なことではないな」と言うのみで、他には何も言わなかった。財産はすべて奪われたが、意に介さなかった。湘東王記室となり、出向して富陽県令を監した。広やかで独り処し、何にも執着しなかった。死んだ日、家に遺財はなく、ただ文集と書物千余巻、酒と米数甕があるのみであった。

原文盾字士宣,以謹重稱。為無錫令,遇劫,問劫何須,劫以刀斫其頰,盾曰:「咄,咄,不易。」餘無所言。於是生資皆盡,不以介懷。為湘東王記室,出監富陽令。廓然獨處,無所用心。身死之日,家無遺財,唯有文集並書千餘卷,酒米數甕而已。

〈張裕の孫〉張瓌の弟 張稷

原文〈裕孫〉瑰弟 稷

張稷は字を公喬といい、張瓌の弟である。幼少より孝心があり、生母の劉氏は寵愛を受けず、病に罹った。当時、張稷は十一歳であったが、帯を解かずに看病し、病が重くなると連夜寝なかった。母が没すると、悲しみで痩せ衰えること人並み以上で、杖をついてようやく起き上がることができた。同年代の幼童を見ると、いつも咽び泣いて涙を流し、郷里の人々はこれを「純孝」と称えた。

原文稷字公喬,瑰弟也。幼有孝性,所生母劉無寵,遘疾。時稷年十一,侍養衣不解帶,每劇則累夜不寢。及終,毀瘠過人,杖而後起。見年輩幼童,輒哽咽泣淚,州裏謂之淳孝。

長兄の張瑋は箏を弾くのが得意であったが、張稷は母の劉氏が生前この芸を好んでいたことから、張瑋が清調を奏でるのを聞くたびに悲しみに打ちひしがれ、ついに終生これを聴くことはなかった。

原文長兄瑋善彈箏,稷以劉氏先執此伎,聞瑋為清調,便悲感頓絕,遂終身不聽之。

性質は粗放で率直、明敏で才略があり、著作佐郎として起家したが、拝命しなかった。父の張永と嫡母の丘氏が相次いで没すると、六年の間墓の側に廬居した。斉の永明年中、豫章王蕭嶷の主簿となり、彭城の劉繪と共に礼遇を受け、名で呼ばれることはなく、常に劉四、張五と呼ばれた。貧しさのため剡県令を求め、ほとんど政務を見ず、多くは小山で遊んだ。時に山賊の唐宇之が乱を起こすと、張稷は部民を率い励まして県境を保全した。

原文性疏率,朗悟有才略,起家著作佐郎,不拜。父永及嫡母丘相繼殂,六年廬於墓側。齊永明中,為豫章王嶷主簿,與彭城劉繪俱見禮接,未嘗被呼名,每呼為劉四、張五。以貧求為剡令,略不視事,多為小山遊。會山賊唐宇之作亂,稷率厲部人保全縣境。

生母の劉氏は仮に琅邪郡の黄山に葬られていたが、建武年中に葬儀を改めて行い、贈り物の助けは多く集まった。当時は拒絶しなかったが、事が終わるとすぐに返した。幼い時から長じるまで、数十年の間、常に劉氏の神座を設けた。出る時は告げ、帰ると面し、生きているように事えた。

原文所生母劉先假葬琅邪黃山,建武中改申葬禮,賻助委積。于時雖不拒絕,事畢隨以還之。自幼及長,數十年中,常設劉氏神座。出告反面,如事生焉。

給事中黄門侍郎、新興・永寧二郡太守を歴任した。郡名が私諱いみなに触れたため、永寧を長寧に改めた。永元末年、侍中となり、宮城を宿衛した。梁の武帝の軍が至ると、兼衛尉の江淹が出奔したため、張稷が兼衛尉卿となり、王瑩を副えて城内諸軍事を都督した。当時、東昏侯が淫虐であったので、北徐州刺史の王珍國が張稷のもとに謀り、直閤の張齊を使わして含徳殿で弑逆を行わせた。張稷は右僕射の王亮らを召して殿前西鍾下に列坐させ、国子博士の范雲・中書舎人の裴長穆らを石頭城に派遣して武帝に詣でさせることを議し、張稷を侍中・左衛将軍とし、大司馬左司馬に遷した。

原文曆給事中黃門侍郎,新興、永甯二郡太守。郡犯私諱,改永寧為長寧。永元末,為侍中,宿衛宮城。梁武師至,兼衛尉江淹出奔,稷兼衛尉卿,副王瑩都督城內諸軍事。時東昏淫虐,北徐州刺史王珍國就稷謀,乃使直合張齊行弑於含德殿。稷乃召右僕射王亮等列坐殿前西鍾下,議遣國子博士范雲、中書舍人裴長穆等使石頭城詣武帝,以稷為侍中、左衛將軍,遷大司馬左司馬。

梁朝が建つと、散騎常侍・中書令となった。上(武帝)が即位すると、江安県子に封ぜられ、領軍将軍の位にあった。武帝が楽寿殿内で宴した時、張稷は酔った後、怨みの言葉が多く顔色に現れた。帝も時に酣であったが、「卿の兄は郡守を殺し、弟はその君を殺し、袖に帝の首を提げ、衣に天の血を染めた。卿の兄弟のような者に、何の名声があろうか」と言った。張稷は「臣は確かに名声はありませんが、陛下については勲功がないとは言えません。東昏侯が暴虐であったので、義師もまた伐ったのであり、ただ臣だけによるものではありません」と言った。帝はその鬚を撫でて「張公は畏るべき人だ」と言った。中丞の陸杲が張稷を弾劾して「領軍張稷は、家門に忠貞なく、官職は必ず険しく達し、君を殺し主を害することを、常としている」と云った。武帝は奏文を中に留めて遂に問わなかった。

原文梁朝建,為散騎常侍,中書令。及上即位,封江安縣子,位領軍將軍。武帝嘗于樂壽殿內宴,稷醉後言多怨辭形於色。帝時亦酣,謂曰:「卿兄殺郡守,弟殺其君,袖提帝首,衣染天血,如卿兄弟,有何名稱。」稷曰:「臣乃無名稱,至於陛下不得言無勳。東昏暴虐,義師亦來伐之,豈在臣而已。」帝埒其須曰:「張公可畏人。」中丞陸杲彈稷云:「領軍張稷,門無忠貞,官必險達,殺君害主,業以為常。」武帝留中竟不問。

累遷して尚書左僕射となった。帝が張稷の宅に行幸しようとしたが、盛暑のため僕射省に留まった。旧来、行幸の供具は全て太官の饌直に酬いたが、帝は張稷が清貧であるため、手詔して受け取らせなかった。宋の時に孝武帝が張永を訪ね、張稷に至る三世、いずれも万乗の身を降ろして訪れたので、論者はこれを栄えたと評した。

原文累遷尚書左僕射。帝將幸稷宅,以盛暑留幸僕射省。舊臨幸供具,皆酬太官饌直。帝以稷清貧,手詔不受。宋時孝武帝經造張永,至稷三世,並降萬乘,論者榮之。

張稷は朝右に居ながら、常に口実を恥じ、その子に伊を字して懐尹とし、霍を字して希光とし、畯を字して農人とした。同じ字を用いず、字を見れば同じでないようにして、その志を顕した。既に懼れ且つ恨んで、出ることを求め、許された。青・冀二州刺史として出向したが、志を得ず、常に閤を閉じて仏経を読んだ。禁防が寛弛であったので、僚吏が侵擾を致すことが多かった。州人の徐道角らが夜に州城を襲い、遂にこれを害した。有司が爵土を削ることを奏上した。

原文稷雖居朝右,每慚口實,乃名其子伊字懷尹,霍字希光,畯字農人。同字不見,見字不同,以旌其志。既懼且恨,乃求出,許之。出為青冀二州刺史,不得志,常閉合讀佛經。禁防寬弛,僚吏頗致侵擾。州人徐道角等夜襲州城,乃害之。有司奏削爵土。

張稷の性質は明らかで烈しく、人と交わることを善くし、歴官して蓄えがなく、俸禄は全て親戚故旧に頒ち、家に余財がなかった。呉興太守として、着任すると遺老を慰問し、その子孫を引き立てて右職に置き、政治は寛恕と称された。

原文稷性明烈,善與人交,曆官無畜聚,奉祿皆頒之親故,家無餘財。為吳興太守,下車存問遺老,引其子孫置之右職,政稱寬恕。

初めて郡を去り僕射に徴された時、道すがら呉を通ると、郷人が張稷を待つ者が水陸に満ちた。張稷は単身軽装で直ちに都下に還り、人々は彼を識る者なく、その質素な様はこのようであった。

原文初去郡就僕射征,道由吳,鄉人候稷者滿水陸。稷單裝徑還都下,人莫之識,其率素如此。

張稷の長女の楚媛は会稽の孔氏に嫁いだが、子がなく実家に帰り、張稷が害される時に出逢い、女は身をもって刃を蔽い、父に先立って卒した。

原文稷長女楚媛適會稽孔氏,無子歸宗,至逢稷見害,女以身蔽刃,先父卒。

張稷は族兄の張充・張融・張巻と共に知名で、当時、張充・張融・張巻・張稷を四張と目した。張巻は字を令遠といい、若くから和理をもって著称し、清談ができ、都官尚書の位にあり、天監初年に卒した。

原文稷與族兄充、融、卷俱知名,時目云充、融、卷、稷為四張。卷字令遠,少以和理著稱,能清言,位都官尚書,天監初卒。

〈張裕の曾孫〉張稷の子 張嵊

原文〈裕曾孫〉稷子 嵊

張嵊は字を四山という。張稷が初めて剡県令となった時、嵊亭で彼を生んだため、嵊と名付け、字を四山とした。幼い時から孝行を厚くし、三十余歳になってもまだ綵衣を着て張稷の杖罰を受け、動いて数百に至っても、涙を収めて欣然とした。方正雅量で志操があり、清談ができ、家禍を感じて、終身蔬食布衣とし、手に刃物を執らず、音楽を聴かなかった。弟の張淮の言動が道理に合わないと、張嵊は涙を垂れて訓導した。

原文嵊字四山。稷初為剡令,至嵊亭生之,因名嵊,字四山。少敦孝行,年三十餘,猶斑衣受稷杖,動至數百,收淚歡然。方雅有志操,能清言,感家禍,終身蔬食布衣,手不執刀刃,不聽音樂。弟淮言氣不倫,嵊垂泣訓誘。

秘書郎として起家し、累遷して鎮南湘東王長史・尋陽太守となった。王が暇な日に玄言をしていた時、筮をしたところ、節卦を得た。王は張嵊に「卿は後に東に入って郡守となるが、恐らく天年を全うできないだろう」と言った。張嵊は「貴いのはその所を得ることです」と言った。時に伏挺が同座していたが、「君王は畏るべき人だ」と言った。

原文起家秘書郎,累遷鎮南湘東王長史、尋陽太守。王暇日玄言,因為之筮,得節卦,謂嵊曰:「卿後當東入為郡,恐不得終其天年。」嵊曰:「貴得其所耳。」時伏挺在坐,曰:「君王可畏人也。」

還って太府卿・呉興太守となった。侯景が建鄴を囲むと、弟の張伊に郡兵を率いさせて赴援させた。城が陥落すると、御史中丞の沈浚が難を避けて東に帰ったので、張嵊は往って会い、「賊臣が陵駕するは、人臣が命を尽くす時である。今、兵刃を集め、貴郷を保拠しようと思う。たとえ万死すとも、誠に恨みはない」と言った。沈浚は固く張嵊に挙義を勧めた。時に邵陵王蕭綸が東に奔って銭唐に至り、これを聞いて、前舎人の陸丘公を使わし板授して張嵊を征東将軍とした。張嵊は「天子が蒙塵している今日、どうして情的に栄号を受けられようか」と言い、板だけを留めた。

原文還為太府卿,吳興太守。侯景圍建鄴,遣弟伊率郡兵赴援。城陷,御史中丞沈浚違難東歸,嵊往見之,謂曰:「賊臣憑陵,人臣效命之日,今欲收集兵刃,保據貴鄉,雖復萬死,誠亦無恨。」浚固勸嵊舉義。時邵陵王綸東奔至錢唐,聞之,遣前舍人陸丘公板授嵊征東將軍。嵊曰:「天子蒙塵,今日何情復受榮號。」留板而已。

賊の行台劉神茂が義興を攻め破り、使者を遣わして張嵊を説いたが、張嵊はその使者を斬り、直ちに軍を遣わして劉神茂を破った。侯景はそこで中軍の侯子鑒を遣わして劉神茂を助け張嵊を撃たせた。張嵊の軍は敗れ、そこで戎服を脱ぎ聴事に坐した。賊が刃を臨めても終に屈せず、捕らえて侯景に送った。侯景は彼を赦そうとしたが、張嵊は「速やかに死ぬことが幸いだ」と言った。そこで殺した。子弟で害に遇った者は十余人であった。侯景が一人の子を存命させようとすると、張嵊は「我が一門は既に鬼録にある。お前の所で恩を求めはしない」と言った。そこで皆死んだ。賊が平定されると、元帝は侍中・中衛将軍・開府儀同三司を追贈し、忠貞子と諡した。張嵊の弟の張睾は知名であった。

原文賊行台劉神茂攻破義興,遣使說嵊,嵊斬其使,仍遣軍破神茂。侯景乃遣其中軍侯子鑒助神茂擊嵊。嵊軍敗,乃釋戎服坐於聽事。賊臨以刃終不屈,執以送景。景將舍之,嵊曰:「速死為幸。」乃殺之。子弟遇害者十餘人。景欲存其一子嵊曰:「吾一門已在鬼錄,不就爾處求恩。」於是皆死。賊平,元帝追贈侍中、中衛將軍、開府儀同三司,諡忠貞子。嵊弟睾知名。

(劉裕の曾孫)劉辯の孫 劉種

原文〈裕曾孫〉辯孫 種

劉種は字を士苗といい、劉永の従孫である。祖父の劉辯は、宋の大司農・広州刺史であった。父の劉略は、太子中庶子・臨海太守であった。

原文種字士苗,永從孫也。祖辯,宋大司農,廣州刺史。父略,太子中庶子,臨海太守。

劉種は若い頃から恬静で、居処は雅正であり、傍らに請いを造る者もなかった。当時の人は言った。「宋では劉敷・劉演が称され、梁では劉巻・劉充がいる。清虚の学尚は、劉種がその風を有している」と。梁に仕えて中軍宣城王府主簿となり、時に既に四十余歳であった。家が貧しかったため、始豊県令を求めた。武陵王蕭紀が益州刺史となった時、府僚を重ねて選び、劉種を左西曹掾とした。劉種は母が老いていることを理由に辞退したが、有司に奏上され、罪に坐して免官された。

原文種少恬靜,居處雅正,傍無造請。時人語曰:「宋稱敷、演,梁則卷、充,清虛學尚,種有其風。」仕梁為中軍宣城王府主簿,時已四十餘。家貧,求為始豐令。及武陵王紀為益州刺史,重選府僚,以種為左西曹掾。種辭以母老,為有司奏,坐黜免。

侯景の乱の時、母を奉じて東に郷里へ奔った。母が亡くなると、劉種は時に五十歳であったが、毀瘠が甚だしかった。また凶荒に迫られて未だ葬っていなかったため、喪服は終わったが、家に居て飲食するにも、常に喪中にあるが如くであった。侯景が平定されると、初め司徒王僧辯がその状を奏上し、中従事として起用し、併せて葬禮を具えた。葬り終わって、劉種は初めて吉に即した。僧辯はまた劉種が年老いて子がないことを以て、妾と居処の具を賜った。陳の武帝が禅を受けると、太常卿となった。左戸尚書・侍中・中書令・金紫光禄大夫を歴任した。

原文侯景之亂,奉母東奔鄉里。母卒,種時年五十,而毀瘠過甚。又迫以凶荒未葬,服雖畢,居家飲食,恒若在喪。景平,初司徒王僧辯以狀奏,起為中從事,並為具葬禮,葬訖,種方即吉。僧辯又以種年老無子,賜以妾及居處之具。陳武帝受禪,為太常卿。歷位左戶尚書,侍中,中書令,金紫光祿大夫。

劉種は沈深虚静であり、識量は宏博で、当時は宰相の器とされた。僕射徐陵はかつて表を抗して劉種に位を譲り、左執に居るべきと為した。その推されること、この如くであった。卒し、特進を贈られ、諡して元子といった。劉種は仁恕で寡欲であり、顕位を歴任したが、家産は屡々空しく、終日晏然として、病と為さなかった。太建の初め、娘が始興王妃となった時、居処が僻陋であることを以て、特に宅一区を賜った。また累ねて無錫・嘉興県の秩を賜った。かつて無錫で重囚が獄にあるのを見、天寒く、囚を呼び出して日に曝したところ、遂に囚を失った。帝は大笑して深く責めなかった。集十四巻がある。

原文種沈深虛靜,識量宏博,時以為宰相之器。僕射徐陵嘗抗表讓位於種,以為宜居左執,其為所推如此。卒,贈特進,諡元子。種仁恕寡欲,雖曆顯位,家產屢空,終日晏然,不以為病。太建初,女為始興王妃,以居處僻陋,特賜宅一區。又累賜無錫、嘉興縣秩。嘗於無錫見重囚在獄,天寒,呼囚暴日,遂失之,帝大笑而不深責。有集十四卷。

(劉裕の曾孫)劉種の弟 劉稜

原文〈裕曾孫〉種弟 稜

劉種の弟劉稜もまた清静で識度があり、司徒左長史の位に至り、光禄大夫を贈られた。

原文種弟稜亦清靜有識度,位司徒左長史,贈光祿大夫。

論

原文論

論うに曰く、張裕(劉裕)は有宋の初め、早くより覇政に参じ、出で内に歴る所、清顕ならざるはなく、諸子並びに崇構を荷い、克く家声を挙げ、その美誉の帰する所、豈に徒然ならんや。思曼(劉瑱)は身を立つるに簡素にして、殆んど人望か。夫れ纓を濯ぎて事に従うは、理として二つ無く、一主に信を取るは、義として百心を絶つ。永元の末を以て、人塗炭を憂うるに、公喬(劉瑱)は重囲の内に在りて、首めて大謀を創め、而して旋って猜嫌を見る。又況んや斯れに異なるをや。然らば則ち士の己を行う、深く議う無かるべし。四山の蹈むに赴くの方、其の違いを矯うと謂うべし。

原文論曰:張裕有宋之初,早參霸政,出內所曆,莫非清顯,諸子並荷崇構,克舉家聲,其美譽所歸,豈徒然也。思曼立身簡素,殆人望乎。夫濯纓從事,理存無二,取信一主,義絕百心。以永元之末,人憂塗炭,公喬重圍之內,首創大謀,而旋見猜嫌,又況異於斯也。然則士之行己,可無深議。四山赴蹈之方,可謂矯其違矣。