南史

巻三十 (巻三十一に続く)

巻三十 (巻三十一に続く)

南史

巻三十 (巻三十一に続く)

列伝第二十

何尚之

原文何尚之

何尚之は若い頃は軽薄で、博打を好んだが、成長すると節を折り道を踏み、操行の確かさで称えられた。陳郡の謝混に認められ、交遊した。家は貧しく、初め臨津県令となった。宋の武帝が征西将軍を領すると、主簿に補任された。長安征討に従軍したが、公事の過失で免官され、都に戻った。労病を患って数年、婦人の乳を飲んでようやく癒えた。従軍の功労により、都郷侯の爵位を賜った。

原文何尚之少頗輕薄,好摴蒱,及長,折節蹈道,以操立見稱。為陳郡謝混所知,與之遊處。家貧,初為臨津令。宋武帝領征西將軍,補主簿。從征長安,以公事免,還都。因患勞病積年,飲婦人乳乃得差。以從征之勞,賜爵都鄉侯。

少帝が即位すると、廬陵王劉義真の車騎諮議参軍となった。義真は司徒徐羨之・尚書令傅亮らと不和で、しばしば不平の言葉を口にした。尚之が諫め戒めたが聞き入れられなかった。義真が廬陵王を廃されると、尚之は入朝して中書侍郎となり、吏部郎に転じた。休暇を取って実家に帰省する際、朝臣の総出で冶渚まで見送られた。郡に着くと、叔父の何叔度が言った。「汝がここに来ると聞き、朝臣総出で見送ったそうだが、客はどれほどいたか。」答えて言う。「およそ数百人です。」叔度は笑って言った。「これは吏部郎を見送ったのであって、何彦徳(尚之の字あざな)のためではない。昔、殷浩もかつて豫章に帰省した時、見送りの者は非常に多かったが、廃されて東陽に流された時は、船が征虜亭に何日も停泊しても、親戚旧友で再び訪ねてくる者は一人もいなかった。」

原文少帝即位,為廬陵王義真車騎諮議參軍。義真與司徒徐羨之、尚書令傅亮等不協,每有不平之言。尚之諫戒不納。義真被廢,入為中書侍郎,遷吏部郎。告休定省,傾朝送別於冶渚。及至郡,叔度謂曰:「聞汝來此,傾朝相送,可有幾客?」答曰:「殆數百人。」叔度笑曰:「此是送吏部郎耳,非關何彥德也。昔殷浩亦嘗作豫章定省,送別者甚眾,及廢徙東陽,船泊征虜亭積日,乃至親舊無復相窺者。」

後に左衛将軍に任じられ、太子中庶子を兼ねた。尚之は風雅を好み、文義を愛し、ゆったりと詩文の会を楽しんだので、文帝に大いに知られた。元嘉十三年、彭城王劉義康が司徒長史劉斌を丹陽尹にしようとしたが、帝が許さず、代わりに尚之をそれに任じた。尚之は都の南郭外に邸宅を建て、学を立てて生徒を集めた。東海の徐秀、廁江の何曇・黄回、潁川の荀子華、太原の孫宗昌・王延秀、魯郡の孔惠宣らが皆、その道を慕って遊学し、これを南学と呼んだ。王球は常々言った。「尚之には西河の風(子夏の学風)が廃れていない。」尚之もまた言った。「王球には正始の風(何晏・王弼らの清談の気風)がなお存する。」

原文後拜左衛將軍,領太子中庶子。尚之雅好文義,從容賞會,甚為文帝所知。元嘉十三年,彭城王義康欲以司徒長史劉斌為丹陽尹,上不許,乃以尚之為之。立宅南郭外,立學聚生徒。東海徐秀,廬江何曇、黃回,潁川荀子華,太原孫宗昌、王延秀,魯郡孔惠宣並慕道來遊,謂之南學。王球常云:「尚之西河之風不墜。」尚之亦云:「球正始之風尚在。」

尚之の娘は劉湛の子劉黯に嫁いだが、劉湛と尚之の仲は深くなかった。劉湛が丹陽尹を兼ねようとし、尚之を祠部尚書に転任させ、国子祭酒を兼ねさせた。尚之は甚だ不満であった。劉湛が誅殺されると、尚之は吏部尚書に転じた。

原文尚之女適劉湛子黯,而湛與尚之意好不篤。湛欲領丹陽,乃徙尚之為祠部尚書,領國子祭酒。尚之甚不平。湛誅,遷吏部尚書。

当時、左衛将軍范曄が機密に参与していたが、尚之はその志向が異常であると察し、文帝に言上した。「広州刺史として外任させるべきです。もし朝廷内で禍が熟すれば、斧鉞を加えざるを得なくなります。度々大臣を誅殺することは、皇化を損なうことになります。」帝は言った。「劉湛らを誅したばかりで、これから後進を登用しようとしているところだ。范曄の罪状がまだ明らかでないのに、予め排斥すれば、万民は卿らが才を容れられず、朕が讒言を信じると思い込むだろう。ただ、共にこのことを知らしめるだけで、大変事に至ることを憂えるには及ばない。」後に范曄が謀反を企て誅殺されると、帝は尚之の先見の明を称えた。

原文時左衛將軍范曄任參機密,尚之察其意趣異常,白文帝:「宜出為廣州,若在內釁成,不得不加以鈇鉞。屢誅大臣,有虧皇化。」上曰:「始誅劉湛等,方欲引升後進。曄事蹟未彰,便豫相黜斥,萬姓將謂卿等不能容才,以我為信受讒說。但使共知如此,不憂致大變也。」曄後謀反伏誅,上嘉其先見。

二十二年、尚書左僕射となった。この年、玄武湖を造営し、帝は湖中に方丈・蓬萊・瀛洲の三神山を築こうとしたが、尚之が強く諫めたので中止した。当時また華林園を造営しており、盛暑の中でも人夫を酷使した。尚之がまた諫めたが、帝は許さず、言った。「小人(庶民)は普段から背中を日に曝しているのだ。これは労苦とは言えない。」当時、帝の行幸が多く、帰還が夜中に及ぶことが多かったので、尚之はまた上表して諫め、帝は丁重な詔でこれを受け入れた。

原文二十二年,為尚書左僕射。是歲造玄武湖,上欲于湖中立方丈、蓬萊、瀛洲三神山,尚之固諫乃止。時又造華林園,並盛暑役人。尚之又諫,上不許,曰:「小人常日曝背,此不足為勞。」時上行幸,還多侵夜,尚之又表諫,上優詔納之。

以前から貨幣不足を患い、四銖銭を鋳造したが、民間で盛んに私鋳が行われ、多くは古銭を切り削って銅を取っていたので、帝はこれを憂えた。二十四年、録尚書事の江夏王劉義恭の意見を採り上げ、一大銭を二銖に当てる(大銭一枚を二銖銭二枚分の価値とする)ことで、切り削りを防ごうとし、議論する者も多くはこれに同調した。尚之は議して言った。「およそ制度を創め法を改めるには、人情に順うべきで、衆に背き物を矯めて長く続くものはありません。貨幣の廃興は、軽率に議論すべきではありません。前代の赤仄銭や白金銭も、たちまち廃止され、六貨(王莽の貨幣)は混乱し、人は市で泣きました。これはまさに事が統一されず、遵行し難いからです。急病を救う一時的な措置でない限り、長世の業を守るべきです。もし今の制度が施行されれば、富者の財産は自ずと倍加し、貧者はますます困窮を増すでしょう。均しくしようとする意図に合わないことを恐れます。」中領軍沈演之は、大銭を二銖に当てれば、国は朽ち難い宝を伝え、家は一倍の利を得、刑罰を加えずとも、巧みな私鋳の源は絶たれると考えた。帝は演之の意見に従い、遂に一銭を二銖に当てることにした。施行してしばらく経つと、公私共に不便であり、遂に廃止された。

原文先是患貨少,鑄四銖錢,人間頗盜鑄,多翦鑿古錢以取銅,上患之。二十四年,錄尚書江夏王義恭議,以一大錢當兩,以防翦鑿,議者多同。尚之議曰:「凡創制改法,宜順人情,未有違眾矯物而可久也。泉布廢興,未容驟議。前代赤仄白金,俄而罷息,六貨憒亂,人泣於市。良由事不畫一,難用遵行。自非急病權時,宜守長世之業。若今制遂行,富人之貲自倍,貧者彌增其困,懼非所以欲均之意。」中領軍沈演之以為若以大錢當兩,則國傳難朽之寶,家贏一倍之利,不俟加憲,巧源自絕。上從演之議,遂以一錢當兩。行之經時,公私非便,乃罷。

二十八年、尚書令・太子詹事となった。二十九年に致仕を願い出て、方山に『退居賦』を著して守る所を明らかにしたが、議論する者は皆、尚之が志を固守できないと言った。文帝は江夏王劉義恭に詔して言った。「羊(玄保)や孟(顗)でさえも告謝(致仕の礼)を得られないのに、尚之は任用と待遇が特別であるから、今はまだ許すべきではない。」尚之は職務に復帰した。羊とは羊玄保、孟とは孟顗である。

原文二十八年,為尚書令、太子詹事。二十九年致仕,于方山著退居賦以明所守,而議者咸謂尚之不能固志。文帝與江夏王義恭詔曰:「羊、孟尚不得告謝,尚之任遇有殊,便當未宜申許。」尚之還攝職。羊即羊玄保,孟即孟顗。

尚之が職務に復帰すると、帝の待遇はますます厚くなり、そこで袁淑は古来の、行跡はあるが姓名の伝わらない隠士を集めて『真隠伝』を編み、尚之をあざ笑った。時に軍を派遣して北方に侵攻することがあり、軍旅への物資供給は全て尚之に委ねられた。

原文尚之既任事,上待之愈隆,於是袁淑乃錄古來隱士有跡無名者,為真隱傳以嗤焉。時或遣軍北侵,資給戎旅,悉以委之。

元凶(劉劭)が弑逆して即位すると、司空・尚書令に進位した。当時、三方で義兵が起こり、その将佐で家族が都にいる者を、劉劭は皆誅殺しようとした。尚之が様々に説得し、皆ことごとく全うさせた。

原文元凶弑立,進位司空、尚書令。時三方興義,將佐家在都者,劭悉欲誅之。尚之誘說百端,並得全免。

孝武帝が即位すると、再び尚書令となった。丞相南郡王劉義宣・車騎将軍臧質が反乱を起こし、義宣の司馬竺超・臧質の長史陸展兄弟は皆従って誅殺に応ずべきところであったが、尚之が上言して法に照らして重すぎるとし、超ら連座すべき者はこれにより赦された。

原文孝武即位,復為尚書令。丞相南郡王義宣、車騎將軍臧質反,義宣司馬竺超、質長史陸展兄弟並應從誅,尚之上言於法為重,超從坐者由是得原。

時に荊州を分けて郢州えいしゅうを置かんと欲し、その治所を議す。江夏王義恭・蕭思話は巴陵に在るべしと為す。尚之議して曰く、「夏口は荊・江の中に在り、正しく沔口に対し、雍・梁に通接し、実に津要たり、事に於いて允当なり」と。上その議に従う。荊・揚二州の戸口は江南の半を占め、江左以来、揚州を根本と為し、荊州に閫外を委ねたり、是に至りて並びに分ち、臣下の権を削らんと欲す。而して荊・揚並びに此れに因りて虚耗す。尚之建言して宜しく復た二州を合すべしとす、上許さず。

原文時欲分荊州置郢州,議其所居。江夏王義恭、蕭思話以為宜在巴陵。尚之議曰:「夏口在荊、江之中,正對沔口,通接雍、梁,寔為津要,於事為允。」上從其議。荊、揚二州戶口居江南之半,江左以來,揚州為根本,委荊州以閫外,至是並分,欲以削臣下之權。而荊、揚並因此虛耗。尚之建言宜復合二州,上不許。

大明二年、左光禄・開府儀同三司と為し、侍中は元の如し。尚之は家に在りて、常に鹿皮帽を著く。及び開府拝命に及び、天子臨軒し、百僚陪位す。沈慶之殿庭に於いて之を戯れて曰く、「今日何ぞ鹿皮冠を著かざる」と。慶之累ねて爵命を辞し、朝廷敦勸甚だ苦し。尚之之に謂ひて曰く、「主上虚懐側席す、豈に固辞すべきや」と。慶之曰く、「沈公は何公の去りて復た還るに效はざるなり」と。尚之愧色有り。

原文大明二年,以為左光祿、開府儀同三司,侍中如故。尚之在家,常著鹿皮帽。及拜開府,天子臨軒,百僚陪位,沈慶之於殿庭戲之曰:「今日何不著鹿皮冠?」慶之累辭爵命,朝廷敦勸甚苦。尚之謂曰:「主上虛懷側席,詎宜固辭。」慶之曰:「沈公不效何公去而復還也。」尚之有愧色。

尚之は文義を愛尚し、老いても休まず。太常顔延之と少しく相好狎み、二人並びに短小なり。尚之常に延之を沐と謂ひ、延之は尚之を目して猴と為す。同しく太子西池に游びしに、延之路人に問ひて云く、「吾二人誰か猴に似る」と。路人尚之を指して似たりと為す。延之喜笑す、路人曰く、「彼は猴に似たるのみ、君は乃ち真の猴なり」と。

原文尚之愛尚文義,老而不休。與太常顏延之少相好狎,二人並短小,尚之常謂延之為沐,延之目尚之為猴。同游太子西池,延之問路人云:「吾二人誰似猴?」路人指尚之為似。延之喜笑,路人曰:「彼似猴耳,君乃真猴。」

或人嘗て吏部郎を求むる有り、尚之歎じて曰く、「此れ風俗を敗るなり。官は人を図るべし、人安んぞ官を図るを得ん」と。延之大笑して曰く、「我聞く、古は才を以て官人す、今は勢を以て官人す、彼の勢の求むる所、子何ぞ疑はん」と。延之と論議往反する所のもの、並びに世に伝はる。

原文有人嘗求為吏部郎,尚之歎曰:「此敗風俗也。官當圖人,人安得圖官。」延之大笑曰:「我聞古者官人以才,今官人以勢,彼勢之所求,子何疑焉。」所與延之論議往反,並傳於世。

尚之は立身簡約にし、車服率素なり。妻亡して娶らず、又姬妾無し。衡を執りて朝に当たり、権柄を畏れて遠ざけ、親故一も薦挙せず。既に此れを以て怨みを致し、亦此れを以て称せらる。復た本官を以て中書令を領す。薨ず、年七十九、司空を贈られ、諡して簡穆公と曰ふ。子偃。

原文尚之立身簡約,車服率素,妻亡不娶,又無姬妾。執衡當朝,畏遠權柄,親故一無薦舉。既以此致怨,亦以此見稱。復以本官領中書令。薨年七十九,贈司空,諡曰簡穆公。子偃。

尚之の子 偃

原文尚之子 偃

偃は字を仲弘とす。元嘉中、位は太子中庶子。元凶弑立し、偃を以て侍中と為し、詔誥を掌る。時に尚之は司空・尚書令たり、偃は門下に居る。父子並びに権要に処る、時に寒心と為す。而して尚之及び偃は機宜を摂むるに善く、曲く時誉を得たり。

原文偃字仲弘,元嘉中,位太子中庶子。元凶弑立,以偃為侍中,掌詔誥。時尚之為司空、尚書令,偃居門下。父子並處權要,時為寒心;而尚之及偃善攝機宜,曲得時譽。

会す孝武即位し、任遇改まる無し。歴位して侍中、太子中庶子を領す。時に讜言を求めしに、偃以為く「宜しく農を重んじ本を恤み、官を併せ事を省き、考課を以て能否を知り、奉を増して吏奸を除くべし。良守を責成し、其の職に久しくし、都督刺史は宜しく其の任を別つべし」と。

原文會孝武即位,任遇無改。歷位侍中,領太子中庶子。時求讜言,偃以為「宜重農恤本,並官省事,考課以知能否,增奉以除吏奸。責成良守,久於其職;都督刺史,宜別其任」。

改めて驍騎將軍を領し、親遇隆密にして、旧臣に加ふる有り。吏部尚書に転ず。尚之選を去ること未だ五載ならず、偃復た其の跡を襲ふ、世以て栄と為す。侍中顔竣是に至りて始めて貴く、偃と倶に門下に在り、文義を以て賞会し、相得甚だ歓ばし。竣既に任遇隆密なり、重き大なるに居るべしと謂ふに、而して位次偃と等しくして未だ殊ならず、意稍く悦ばず。及び偃竣に代はりて選を領するに及び、竣愈よ憤懣し、偃と遂に隙有り。竣時に権朝野に傾け、偃自ら安からず、遂に悸病を発し、意慮乖僻なり。表を上して職を解き、霊に告げて仕えず。孝武偃に遇すること既に深く、備へて医療を加ふる乃ち差ゆ。

原文改領驍騎將軍,親遇隆密,有加舊臣。轉吏部尚書。尚之去選未五載,偃復襲其跡,世以為榮。侍中顏竣至是始貴,與偃俱在門下,以文義賞會,相得甚歡。竣既任遇隆密,謂宜居重大,而位次與偃等未殊,意稍不悅。及偃代竣領選,竣逾憤懣,與偃遂隙。竣時權傾朝野,偃不自安,遂發悸病,意慮乖僻。上表解職,告靈不仕。孝武遇偃既深,備加醫療乃得差。

偃は素より玄を談ずるを好み、荘子逍遥篇を注して時に伝はる。官に卒ついにす。孝武顔竣に詔し、甚だ之を傷惜す。諡して靖と曰ふ。子戢。

原文偃素好談玄,注莊子逍遙篇傳于時。卒官,孝武與顏竣詔,甚傷惜之。諡曰靖。子戢。

偃の子 戢

原文偃子 戢

戢は字を慧景とす。選ばれて宋孝武の長女山陰公主に尚し、駙馬都尉拝す。累遷して中書郎。景和の世、山陰主帝に就きて吏部郎褚彥回の己に侍することを求めしに、彥回は拘逼せらるれども、終に肯て従はず。戢と同しく居止すること月余日、是に由りて特に関好を申す。元徽初、彥回朝政に参じ、戢を引いて侍中と為す、時に年二十九。戢は年未だ三十ならざるを以て、内侍を苦しく辞し、改めて司徒左長史を授く。

原文戢字慧景,選尚宋孝武長女山陰公主,拜駙馬都尉。累遷中書郎。景和世,山陰主就帝求吏部郎褚彥回侍己,彥回雖拘逼,終不肯從。與戢同居止月餘日,由是特申情好。元徽初,彥回參朝政,引戢為侍中,時年二十九。戢以年未三十,苦辭內侍,改授司徒左長史。

斉高帝領軍と為り、戢と来往し、数へて歓宴を申す。高帝は水引餅を好む、戢毎に之を設けて上る。久しくして、復た侍中と為る。累遷して高帝相国左長史。建元元年、散騎常侍・太子詹事に遷る。尋で侍中に改め、詹事は元の如し。上戢を転じて選を領せしめんと欲し、尚書令褚彥回に問ふ。戢の資重きを以て、散騎常侍を加へんと欲す。彥回曰く、「宋の時王球は侍中・中書令より単に吏部尚書と作し、資は戢に相似たり。選職を領すること方に昔より小軽く、頓に常侍を加ふるを容れず。聖旨毎に蟬冕は過多すべからずと為し、臣と王儉既に左珥せり。若し復た戢に加はば、則ち八座便ちに三蟬有らん。若し之を驍・遊に帖せば、亦少なからず」と。乃ち戢を以て吏部尚書と為し、驍騎將軍を加ふ。

原文齊高帝為領軍,與戢來往,數申歡宴。高帝好水引餅,戢每設上焉。久之,復為侍中。累遷高帝相國左長史。建元元年,遷散騎常侍、太子詹事。尋改侍中,詹事如故。上欲轉戢領選,問尚書令褚彥回,以戢資重,欲加散騎常侍。彥回曰:「宋時王球從侍中、中書令單作吏部尚書,資與戢相似,領選職方昔小輕,不容頓加常侍。聖旨每以蟬冕不宜過多,臣與王儉既已左珥,若復加戢,則八座便有三蟬,若帖以驍、遊,亦不為少。」乃以戢為吏部尚書,加驍騎將軍。

戢は容儀美くしく、動止褚彥回に相慕ひ、時人号して「小褚公」と為す。家業富盛にして、性又華侈なり。衣被服飾、極めて奢麗なり。出でて吳興太守と為る。上頗る画扇を好む。宋孝武戢に蟬雀扇を賜ふ、善く画く者顧景秀の画ける所なり。時に吳郡陸探微・顧寶先皆能く画き、其の巧絶を歎ず。戢王晏に因りて之を献ず、上晏に令して其の意に厚く酬はしむ。卒す年三十六、諡して懿子と曰ふ。女は郁林王の后と為る。又追贈して侍中・右光禄大夫と為す。

原文戢美容儀,動止與褚彥回相慕,時人號為「小褚公」。家業富盛,性又華侈,衣被服飾,極為奢麗。出為吳興太守。上頗好畫扇,宋孝武賜戢蟬雀扇,善畫者顧景秀所畫。時吳郡陸探微、顧寶先皆能畫,歎其巧絕。戢因王晏獻之,上令晏厚酬其意。卒年三十六,諡懿子。女為郁林王后。又追贈侍中、右光祿大夫。

戢の從子 求

原文戢從子 求

求は字を子有といい、偃の弟の子である。父の鑠は宋に仕えて宜都太守の位にあった。求は元嘉の末に文帝の挽郎となり、太子洗馬・丹陽郡丞を歴任し、清廉で退き、嗜欲がなかった。後に太子中舍人となった。泰始年間、妻が亡くなると、呉に戻って旧墓に葬った。中書郎に任ぜられたが拝命せず、そのまま呉に住み、波若寺に隠居して、足を戸の外に出さず、人々はその面を見ることがなかった。

原文求字子有,偃弟子也。父鑠,仕宋位宜都太守。求元嘉末為文帝挽郎。歷位太子洗馬,丹陽郡丞,清退無嗜欲。後為太子中舍人。泰始中,妻亡,還吳葬舊墓。除中書郎,不拜。仍住吳,隱居波若寺,足不踰戶,人莫見其面。

宋の明帝が崩ずると、国哀に駆けつけ、永嘉太守に任ぜられた。求は当時南澗寺に寄宿していたが、台城に赴くことを肯まず、野外で拝受することを乞うと、許された。一夜、突然小船に乗って呉に逃げ帰り、武丘山に隠れた。斉の永明四年、太中大夫に任ぜられたが就かず、そのまま卒した。

原文宋明帝崩,出奔國哀,除永嘉太守。求時寄住南澗寺,不肯詣台,乞於野外拜受,見許。一夜忽乘小船逃歸吳,隱武丘山。齊永明四年,拜太中大夫,不就,卒。

初め、求の父の鑠は元来風疾を患っており、理由なく求の母の王氏を害し、法に坐して死んだ。求兄弟はこれにより官途に志がなくなった。求の弟に點がいる。

原文初,求父鑠素有風疾,無故害求母王氏,坐法死,求兄弟以此無宦情。求弟點。

求の弟 點

原文求弟 點

點は字を子皙といい、十一歳の時、父母の喪に服し、ほとんど身を滅ぼさんばかりであった。成長して家の禍を感じ、婚姻と官途を絶とうとしたが、尚之が強いて琅邪王氏を娶らせた。礼が終わり、親迎しようとした時、點は幾度も涙を流して泣き、本来の志を貫くことを求め、遂に取りやめになった。

原文點字子皙,年十一,居父母憂,幾至滅性。及長,感家禍,欲絕昏宦,尚之強為娶琅邪王氏。禮畢,將親迎,點累涕泣,求執本志,遂得罷。

點は目は明るく眉は秀で、容貌は方正で雅やかであり、真摯で質素、通じて美しく、家柄をもって自ら誇らなかった。群書に博通し、談論を善くした。家は本来素族であり、親族姻戚の多くは貴い官にあった。點は城府に入らなかったが、性質は率直で、人物と親しむことを好んだ。世間を遊歴し、簪も帯もせず、人柄と地歩ともに高いため、屈することがなく、公卿に対しても大言して踞み、敬って下った。ある時は柴車に乗り、草鞋を履き、心の赴くままに遊び、酔うまで飲んで帰った。故に世の論は點を孝隠士、弟の胤を小隠士とし、大夫多くは慕ってこれに従った。当時の人はその通達を称え重んじ、「遊侠処士」と号した。兄の求もまた呉郡武丘山に隠れた。求が卒すると、點は菜食して酒を飲まず、三年に至るまで、腰帯が半分に減った。

原文點明目秀眉,容貌方雅,真素通美,不以門戶自矜。博通群書,善談論。家本素族,親姻多貴仕。點雖不入城府,性率到,好狎人物。遨遊人間,不簪不帶,以人地並高,無所與屈,大言踑踞公卿,敬下。或乘柴車,躡草屩,恣心所適,致醉而歸。故世論以點為孝隱士,弟胤為小隱士,大夫多慕從之。時人稱重其通,號曰:「遊俠處士」。兄求亦隱吳郡武丘山。求卒,點菜食不飲酒,訖於三年,腰帶減半。

宋の泰始末、太子洗馬に徴された。斉の初め、累次にわたり中書侍郎・太子中庶子に徴されたが、いずれも就かなかった。陳郡の謝伷・呉国の張融・会稽の孔徳璋と莫逆の友となった。點の家は代々仏を信じ、従弟の遁が東籬門の園に住まわせ、徳璋がそのために室を築いた。園には卞忠貞の塚があり、點は塚の傍らに花を植え、飲むたびに必ず酒を捧げてこれを祭った。勝れた友を招き携え、名徳ある沙門を交え、清言し賦詠して、優遊自得した。

原文宋泰始末,徵為太子洗馬。齊初,累征中書侍郎、太子中庶子,並不就。與陳郡謝伷、吳國張融、會稽孔德璋為莫逆友。點門世信佛,從弟遁以東籬門園居之,德璋為築室焉。園有卞忠貞塚,點植花於塚側,每飲必舉酒酹之。招攜勝侶,乃名德桑門,清言賦詠,優遊自得。

初め、褚彦回・王儉が宰相となった時、點は人に言った、「私は斉書を作り終えた。賛に云う、『回は既に世族、儉もまた国華、舅氏に頼らず、いずくんぞ国家を恤れんや』と」。王儉はこれを聞き、點を訪ねようとしたが、会えないと知って止めた。豫章王の嶷は車駕を命じて點を訪ねたが、點は後門から逃げ去った。司徒竟陵王の子良はこれを聞き、「豫章王ですら塵を望んで及ばず、私は岫を望んで心を休めよう」と言った。後に點が法輪寺にいた時、子良が会いに行くと、點は角巾のまま席に登り、子良は欣悦して已まず、點に嵇叔夜の酒杯と徐景山の酒槍を贈った。

原文初,褚彥回、王儉為宰相,點謂人曰:「我作齊書已竟,贊雲'回既世族,儉亦國華,不賴舅氏,遑恤國家'。」王儉聞之,欲候點,知不可見,乃止。豫章王嶷命駕造點,點從後門遁去。司徒竟陵王子良聞之,曰:「豫章王尚望塵不及,吾當望岫息心。」後點在法輪寺,子良就見之,點角巾登席,子良欣悅無已,遺點嵇叔夜酒杯、徐景山酒槍。

點は少時、嘗て渇利(糖尿病)を患い、数年治らなかった。後に呉中の石仏寺で講を建て、講所で昼寝をしていると、一人の道人(道士)の夢を見た。形貌は尋常でなく、丸薬一掬を授け、夢中でこれを服すると、これより平癒した。当時の人は淳徳の感ずるところと為した。

原文點少時嘗患渴利,積歲不愈。後在吳中石佛寺建講,於講所晝寢,夢一道人,形貌非常,授丸一掬,夢中服之,自此而差,時人以為淳德所感。

性質は通侻で施しを好み、遠近から贈り物があっても、一切拒まず、すぐにまた散じてしまった。嘗て朱雀門街を行き過ぎた時、車の後ろから點の衣を盗む者がいたが、見ても言わず、傍の人が盗人を捕えて與えると、點は衣を盗人に施した。盗人は受け取ろうとせず、點は役所に告げるよう命じたので、盗人は恐れて受け取った。

原文性通侻好施,遠近致遺,一無所逆,隨復散焉。嘗行經朱雀門街,有自車後盜點衣者,見而不言,旁人禽盜與之,點乃以衣施盜。盜不敢受,點令告有司,盜懼乃受之。

點は雅に人倫を鑑識する才があり、多く人を甄抜した。呉興の丘遅を幼童の時に知り、済陽の江淹を寒素の時に称揚し、全てその言の如くなった。哀楽は人を過ぎた。嘗て行く途中葬列に出逢い、歎じて言った、「この哭く者の懐は、豈に思うべけんや」。ここにおいて悲慟して禁じえなかった。

原文點雅有人倫鑒,多所甄拔。知吳興丘遲于幼童,稱濟陽江淹於寒素,悉如其言。哀樂過人。嘗行逢葬者,歎曰:「此哭者之懷,豈可思邪。」於是悲慟不能禁。

年老いてまた魯国の孔嗣の女を娶った。嗣もまた隠者である。點は婚姻したが、妻と会うこともなく、別室を築いて住まわせ、人はその意を理解できなかった。呉国の張融は若い時免官され、詩に高言があった。點が答詩して言った、「昔、東都の日を聞くも、簡書の前に在らず」。戯れであったが、融は長くこれを病んだ。後に點が婚姻すると、融は初めて詩を作り點に贈って言った、「惜しいかな何居士、薄暮に荒淫に遇う」。點もまたこれを病んだ。

原文老又娶魯國孔嗣女,嗣亦隱者。點雖昏,亦不與妻相見,築別室以處之,人莫諭其意。吳國張融少時免官,而為詩有高言,點答詩曰:「昔聞東都日,不在簡書前。」雖戲而融久病之。及點後昏,融始為詩贈點曰:「惜哉何居士,薄暮遘荒淫。」點亦病之。

永元年間、崔慧景が城を囲み、世間に薪がなくなると、點は園の樹を全て伐って親族・朋党に供給した。慧景は仏義を好む性質で、以前から點と交わりを慕っていたが、點は顧みなかった。この時になって慧景は點を強いて召し出そうとし、點は裙を裂いて袴とし、その軍に赴き、終日談説して、軍事には及ばなかった。その語るも黙するも、かくの如き跡であった。慧景が平定された後、東昏侯は大いに怒り、點を誅殺しようとした。王瑩がこれを恐れ、蕭暢に計を求めた。暢は茹法珍に言った、「點がもし賊を誘って共に講じなかったならば、未だ量り難く、このことを以て言えば、却って封ずべきである」。東昏侯はやめて止めた。

原文永元中,崔慧景圍城,人間無薪,點悉伐園樹以贍親黨。慧景性好佛義,先慕交點,點不顧之。至是乃逼召點,點裂裙為褲,往赴其軍,終日談說,不及軍事。其語默之跡如此。慧景平後,東昏大怒,欲誅之。王瑩為之懼,求計于蕭暢。暢謂茹法珍曰:「點若不誘賊共講,未必可量,以此言之,乃應得封。」東昏乃止。

梁の武帝は點と旧交があり、践祚すると、手詔で旧誼を述べ、鹿皮巾などを賜い、併せて召し出した。點は巾褐のまま華林園に導き入れられ、帝は詩と酒を贈り、恩礼は旧の如く、さらに詔を下して侍中に徴した。點は帝の鬚を撫でて言った、「乃ち老子を臣とせんと欲するか」。病を理由に辞して起たなかった。再び詔を下して詳細に資給を加え、併せて在所より出で、日々の費用に必要なものは太官が別に給することとした。

原文梁武帝與點有舊,及踐阼,手詔論舊,賜以鹿皮巾等,並召之。點以巾褐引入華林園,帝贈詩酒,恩禮如舊,仍下詔徵為侍中。捋帝須曰:「乃欲臣老子。」辭疾不起。復下詔詳加資給,並出在所,日費所須,太官別給。

天監二年に卒した。詔して第一品の材一具を給し、喪事に必要なものは内監が経理した。點の弟に胤がいる。

原文天監二年卒,詔給第一品材一具,喪事所須,內監經理。點弟胤。

何點の弟、何胤。

原文點弟 胤

何胤は字を子季といい、叔父の何曠の後を継いだので、改めて字を胤叔とした。八歳の時に喪に服し、成人のように憔悴した。成長すると軽薄で放縦であったが、晩年に至って態度を改めて学問を好み、沛国の劉瓛に師事し、易及び礼記、毛詩を受けた。また鍾山の定林寺に入って内典を聴講し、その学業はすべて通じた。しかし感情に任せて節度に欠け、当時の人々は彼を知らなかったが、ただ劉瓛と汝南の周顒のみが深くその非凡さを認めた。斉に仕えて建安太守となり、政治には恩信があり、人々は欺くに忍びなかった。毎年伏祭や臘祭の際には囚人を釈放して家に帰らせ、期日通りに戻ってきた。

原文胤字子季,出繼叔父曠,故更字胤叔。年八歲,居憂,毀若成人。及長輕薄不羈,晚乃折節好學,師事沛國劉瓛,受易及禮記、毛詩。又入鍾山定林寺聽內典,其業皆通。而縱情誕節,時人未之知也,唯瓛與汝南周顒深器異之。仕齊為建安太守,政有恩信,人不忍欺。每伏臘放囚還家,依期而反。

黄門侍郎、太子中庶子を歴任した。尚書令の王儉が詔を受けて新礼を撰修したが、完成せずに死去した。また特進の張緒に続けて完成させたが、張緒もまた死去し、その任は司徒竟陵王の蕭子良に属した。子良はこれを何胤に譲ったので、学士二十人を置いて何胤を補佐させて撰録させた。

原文曆黃門侍郎,太子中庶子。尚書令王儉受詔撰新禮,未就而卒。又使特進張緒續成,緒又卒,屬在司徒竟陵王子良。子良以讓胤,乃置學士二十人佐胤撰錄。

後に国子祭酒として太子中庶子の王瑩とともに侍中となった。当時、何胤は単独で祭酒を務めており、着用すべき服が問題となった。陸澄は博識で古事に通じていたが、これも根拠を立てられず、結局玄服(黒衣)で試験に臨んだ。その後詳細に議論し、朱服を用いることとなった。祭酒が朱服を着るのは、これが始まりである。

原文後以國子祭酒與太子中庶子王瑩並為侍中。時胤單作祭酒,疑所服。陸澄博古多該,亦不能據,遂以玄服臨試。爾後詳議,乃用朱服。祭酒朱服,自此始也。

郁林王が帝位を継ぐと、何胤は外戚であったため、非常に親しく遇せられた。中書令となり、臨海王・巴陵王の師傅を兼任した。何胤は貴顕であったが、常に足るを知る心を持っていた。建武の初めには、すでに郊外に家屋を築き、常に学徒たちとその中で交遊していた。この時、園宅を売って東の地(会稽)に入ろうとした。まだ出発しないうちに、謝朏が呉興郡の太守を罷免されて帰らないと聞き、何胤は彼に後れを取ることを恐れ、上表して職を解くことを請い、返答を待たずに去った。明帝は大いに怒り、御史中丞の袁昂に奏上させて何胤を逮捕させようとした。まもなく詔があり、これを許した。

原文及郁林嗣位,胤為後族,甚見親待。為中書令,領臨海、巴陵王師。胤雖貴顯,常懷止足。建武初,已築室郊外,恒與學徒游處其內。至是遂賣園宅欲入東。未及發,聞謝朏罷吳興郡不還,胤恐後之,乃拜表解職,不待報輒去。明帝大怒,使御史中丞袁昂奏收胤。尋有詔許之。

何胤は会稽の山々に霊異が多いとして、そこへ遊びに行き、若邪山の雲門寺に住んだ。初め、何胤の二人の兄、何求と何點はともに隠遁していたが、何求は先に死去し、この時何胤もまた隠れたので、世間は何點を「大山」、何胤を「小山」と呼び、また「東山」とも言った。兄弟は出発点こそ異なったが、結局ともに隠遁したので、世間は何氏の三高士と呼んだ。

原文胤以會稽山多靈異,往游焉,居若邪山雲門寺。初,胤二兄求、點並棲遁,求先卒,至是胤又隱,世號點為「大山」,胤為「小山」,亦曰:「東山」。兄弟發跡雖異,克終皆隱,世謂何氏三高。

永元年間、太常・太子詹事に徴されたが、いずれも就任しなかった。梁の武帝が覇府を建てると、軍謀祭酒に引き立て、詔勅の起草も任せたが、赴かなかった。武帝が帝位に即くと、特進・光禄大夫に任じる詔を下し、領軍司馬の王杲之に手詔を持たせて意向を諭させ、同時に謝朏も徴した。

原文永元中,徵為太常、太子詹事,並不就。梁武帝霸朝建,引為軍謀祭酒,並與書詔,不至。及帝踐阼,詔為特進、光祿大夫,遣領軍司馬王杲之以手敕諭意,並征謝朏。

王杲之が先に何胤のもとに至ると、何胤は謝朏が出ないことを恐れ、まず自分が起ちうることを示すため、単衣に鹿皮の巾を着け経巻を手にし、床から下りて跪いて詔を受けた。詔を読み終えると、席に就いて伏して読んだ。何胤は王杲之に言った。「私は昔、斉の朝廷で二、三の事を述べようとした。一つは郊丘の礼を正すこと、二つは九鼎を改めて鋳造すること、三つは双闕を建てることである。世に伝わるには、晋室が闕を立てようとした時、王丞相が牛頭山を指して『これが天闕である』と言ったという。これは闕を立てる意味が明らかでない。闕とは象魏というもので、その上に法を懸け、十日で収める。象は法、魏は道に当たり高く大きい様である。鼎は神器であり、国を持つ者が先ず為すべきものである。円丘と南郊は、旧典で異なる。南郊では五帝の霊威仰などを祀り、円丘では天皇大帝・北極大星を祀るのである。過去の時代が郊丘を合せたのは、先儒の大きな誤りである。今、梁の徳が始まろうとしているのに、前代の誤りをそのまま踏襲すべきではない。卿はこれを述べるがよい。」王杲之は言った。「私のような卑陋な者が、どうして軽々しく国典を議することができましょう。これは叔孫通のような方をお待ちするほかありません。」

原文杲之先至胤所,胤恐朏不出,先示以可起,乃單衣鹿皮巾執經卷,下床跪受。詔出,就席伏讀。胤因謂杲之曰:「吾昔于齊朝欲陳三兩條事:一者欲正郊丘,二者欲更鑄九鼎,三者欲樹雙闕。世傳晉室欲立闕,王丞相指牛頭山雲,'此天闕也'。是則未明立闕之意。闕者謂之象魏,懸法於其上,浹日而收之。象者法也,魏者當塗而高大貌也。鼎者神器,有國所先。圓丘南郊,舊典不同。南郊祠五帝靈威仰之類,圓丘祠天皇大帝、北極大星是也。往代合之郊丘,先儒之巨失。今梁德告始,不宜遂因前謬。卿宜陳之。」杲之曰:「僕之鄙劣,豈敢輕議國典,此當敬俟叔孫生耳。」

王杲之が謝朏のもとから戻り、何胤に出仕の時期を尋ねると、何胤は謝朏がすでに召しに応じたと知り、王杲之に答えて言った。「私はすでに五十七歳、月に四斗の米も食べ尽くせない。どうしてまた官途への志がありえようか。」王杲之は顔色を失って答えられなかった。何胤は反って言った。「卿はどうして伝詔(使者)を朝廷に返して上表させず、留まって私とともに遊ばないのか。」王杲之は愕然として言った。「古今この例は聞きません。」何胤は言った。「檀弓の両巻は、すべて物事の始まりを言っている。卿から始めればよい。必ずしも先例が要るものか。」何胤と謝朏はともに前代の高士であったが、何胤の名声は特に勝っていた。

原文及杲之從謝朏所還,問胤以出期。胤知朏已應召,答杲之曰:「吾年已五十七,月食四斗米不盡,何容復有宦情?」杲之失色不能答。胤反謂曰:「卿何不遣傳詔還朝拜表,留與我同遊邪?」杲之愕然曰:「古今不聞此例。」胤曰:「檀弓兩卷,皆言物始。自卿而始,何必有例?」胤、朏俱前代高士,胤處名譽尤邁矣。

王杲之が戻り、何胤の意向を奏上すると、詔があり白衣の尚書としての俸禄を与えた。何胤は固辞した。また詔があり山陰の庫銭から月に五万を給するとしたが、また受けなかった。そこで何子朗・孔寿ら六人に命じて東山で学問を受けさせた。太守の衡陽王蕭元簡は深く礼敬を加え、月にしばしば車を駕してその門を訪れ、終日談論した。

原文杲之還,以胤意奏聞,有敕給白衣尚書祿。胤固辭。又敕山陰庫錢月給五萬,又不受。乃敕何子朗、孔壽等六人於東山受學。太守衡陽王元簡深加禮敬,月中常命駕式閭,談論終日。

何胤は若邪山が地形が狭く、学徒を収容できないとして、秦望山に移った。山に飛泉があったので、学舎を建て、林を利用して垣とし、岩を利用して壁とした。別に小さい合室を作り、その中に寝起きし、自ら戸を開閉し、童僕も至ることができなかった。山の側に二頃の田を営み、講義の合間に生徒たちとそこを巡った。何胤が移り住んで室を築こうとした時、突然二人の人物が玄冠をかぶり、容貌甚だ偉い者が現れ、何胤に問うて言った。「君はここに住もうとするのか。」そして一つの場所を指して言った。「ここは殊に吉である。」忽然として見えなくなった。何胤はその言葉に従って占った。まもなく山に洪水が起こり、樹木や岩石はすべて倒れ引き抜かれたが、ただ何胤の居室のみが巍然として独り残った。蕭元簡は記室参軍の鍾嶸に命じて瑞室頌を作らせ、石に刻んでこれを顕彰した。

原文胤以若邪處勢迫隘,不容學徒,乃遷秦望山。山有飛泉,乃起學舍,即林成援,因岩為堵;別為小合室,寢處其中,躬自啟閉,僮僕無得至者。山側營田二頃,講隙從生徒遊之。胤初遷將築室,忽見二人著玄冠,容貌甚偉,問胤曰:「君欲居此邪?」乃指一處云:「此中殊吉。」忽不復見。胤依言而卜焉。尋而山發洪水,樹石皆倒拔,唯胤所居室巋然獨存。元簡乃命記室參軍鍾嶸作瑞室頌,刻石以旌之。

蕭元簡が郡を去る時、山に入って何胤と別れを告げた。何胤は都賜埭まで送り、郡を去ること三里の所で、言った。「私は人との交わりを捨てて以来、交遊の道は絶えている。貴人が山藪に降りて来られなければ、どうしてまた城邑を望むことができようか。この埭での遊びは、今を限りで絶えるであろう。」手を握って涙を流した。

原文及元簡去郡,入山與胤別。胤送至都賜埭,去郡三里,因曰:「僕自棄人事,交遊路斷,自非降貴山藪,豈容復望城邑。此埭之游,於今絕矣。」執手涕零。

何氏が長江を渡って以来、晋の司空の何充から並んで呉の西山に葬られていた。何胤の家系はみな年寿が永くなく、ただ祖父の何尚之のみが七十二歳まで生きた。何胤が祖父の寿齢に達すると、呉に移り戻し、別山の詩一首を作り、言葉は甚だ悲愴であった。

原文何氏過江,自晉司空充並葬吳西山。胤家世年皆不永,唯祖尚之至七十二。胤年登祖壽,乃移還吳,作別山詩一首,言甚悽愴。

呉に至り、武丘山の西寺で経論を講じると、学僧たちもまた彼に従った。東境の地方長官でその地を通る者は、ことごとく訪れた。何胤は常に殺生を禁じていた。ある時、虞人が鹿を追うと、鹿はまっすぐに何胤のもとに走り寄り、伏して動かなかった。また、鶴のようで赤い色をした異鳥が講堂に集まり、馴れて家禽のようであった。

原文至吳,居武丘山西寺講經論,學僧復隨之。東境守宰經途者,莫不畢至。胤常禁殺,有虞人逐鹿,鹿徑來趨胤,伏而不動。又有異鳥如鶴紅色,集講堂,馴狎如家禽。

初め、開善寺の蔵法師が秦望山で何胤と出会い、後に都に戻り、鍾山で死去した。その死んだ日、何胤が波若寺にいると、一人の名僧が現れ、何胤に香炉の箱と函に入った書物を授け、言った。「貧道は揚都より発し、何居士に呈する。」言い終わると所在がわからなくなった。何胤が函を開くと、それは大荘厳論で、世の中に未だなかったものであった。香炉を尋ねると、それは蔵公が常用していたものであった。また寺内に明珠柱を立てると、柱は七日七夜光を放った。太守の何遠がその状況を昭明太子に啓上すると、太子はその徳を欽慕し、舎人の何思澄に手令を持たせて褒め称えさせた。中大通三年に卒去。八十六歳。

原文初,開善寺藏法師與胤遇于秦望山,後還都,卒於鍾山。死日,胤在波若寺見一名僧,授胤香爐奩並函書,云:「貧道發自揚都,呈何居士。」言訖失所在。胤開函,乃是大莊嚴論,世中未有。訪之香爐,乃藏公所常用。又于寺內立明珠柱,柱乃七日七夜放光。太守何遠以狀啟昭明太子,太子欽其德,遣舍人何思澄致手令以褒美之。中大通三年卒,年八十六。

先に何胤が病んだ時、妻の江氏が夢に神が告げるのを見た、「汝の夫の寿命は尽きたが、既に至徳があるので、延びるべきである。爾が代わるべし。」妻は覚めて語ったが、やがて病を得て亡くなり、胤の病は癒えた。ここに至って胤は夢に一人の神女と八十人ばかりの人々を見た、皆衣帢を着て、行列して前に立ち、ともに床下に拝した。覚めてもまたそれを見たので、直ちに凶具を準備させた。既にして病が重くなり、再び癒えることはなかった。

原文先是胤疾,妻江氏夢神告曰:「汝夫壽盡,既有至德,應獲延期,爾當代之。」妻覺說焉,俄得患而卒,胤疾乃瘳。至是胤夢見一神女並八十許人,並衣帢,行列在前,俱拜床下,覺又見之,便命營凶具。既而疾困不復瘳。

初め、何胤は味に贅沢で、食えば必ず方丈の膳であったが、後には次第に甚だしいものを除こうとし、それでも白魚、夔脯、糖蟹を食し、生き物を見ないものとしていた。蚶蠣を食すことを疑い、門人に議論させた。学生の鍾岏が曰く、「夔が脯となるのは、屈伸を繰り返すことであり、蟹が糖漬けになるのは、躁擾が甚だしい。仁人の心遣いは、深く痛む思いである。車螯蚶蠣に至っては、眉目が内に欠け、渾沌の奇に恥じ、獰猛な殻が外を閉ざし、金人の慎みではない。悴せず栄えず、草木にも及ばず、馨も無く臭も無く、瓦礫と何の違いがあろう。故に長く庖厨に充ち、永く口実となるに宜しい。」竟陵王蕭子良は岏の議を見て大いに怒った。汝南の周顒が何胤に書を送り、菜食を勧めて曰く、「変わりの中で大きいものは、死生に過ぎず、生において重んずるものは、性命に越えるものはない。性命は彼にとって極めて切実であり、滋味は我にとっては疎かにできる。もし三世の理が虚偽ならば、それは幸いで大いに快いが、もしこの道が真実で、形を受けることが未だ止まず、一往一來、生死は常の事であるならば、心を傷つける惨事は、行くところ自らにも及ぶ。丈人は血気の類について、自らは践まないとしても、晨鳧夜鯉に至っては、屠門に備えることを取らざるを得ない。財貝が盗人の手を経ることでさえ、廉士に棄てられるのに、生あるものが一旦鑾刀を啓かれれば、どうして慈心が忍ぶことができようか。騶虞は飢えていても、自ら死んだ草でなければ食わない、その風を聞けば、どうして人を多く愧じさせないことがあろうか。丈人はこのことを得て素よりある、聊か片言を以て発起するのみである。」故に何胤は末年遂に血味を絶った。

原文初,胤侈於味,食必方丈,後稍欲去其甚者,猶食白魚、夔脯,糖蟹,以為非見生物。疑食蚶蠣,使門人議之。學生鍾岏曰:「夔之就脯,驟于屈申,蟹之將糖,躁擾彌甚。仁人用意,深懷如怛。至於車螯蚶蠣,眉目內闕,慚渾沌之奇,獷殼外緘,非金人之慎。不悴不榮,曾草木之不若,無馨無臭,與瓦礫其何算。故宜長充庖廚,永為口實。」竟陵王子良見岏議大怒。汝南周顒與胤書,勸令食菜,曰:「變之大者,莫過死生,生之所重,無逾性命。性命之於彼極切,滋味之在我可賒。若雲三世理誣,則幸矣良快,如使此道果然,而受形未息,一往一來,生死常事,則傷心之慘,行亦自及。丈人于血氣之類,雖不身踐,至於晨鳧夜鯉,不能不取備屠門。財貝之經盜手,猶為廉士所棄,生性之一啟鑾刀,寧復慈心所忍。騶虞雖饑,非自死之草不食,聞其風者,豈不使人多媿。丈人得此有素,聊復片言發起耳。」故胤末年遂絕血味。

何胤は『百論』『十二門論』に各一卷の注を付け、『周易』十卷、『毛詩総集』六卷、『毛詩隠義』十卷、『礼記隠義』二十卷、『礼答問』五十五卷を注した。子の何撰も仕えず、高風があった。

原文胤注百論、十二門論各一卷,注周易十卷,毛詩總集六卷,毛詩隱義十卷,禮記隱義二十卷,禮答問五十五卷。子撰亦不仕,有高風。

何胤の従弟に何炯がいる。

原文胤從弟 炯

何炯は字を士光といい、何胤の従弟である。父は何撙、太中大夫であった。何炯は十五歳の時、何胤に就いて学業を受け、一期の間に五経の章句を並びに通じた。色白く容貌美しく、従兄の何求、何點が常に言った、「叔宝は神が清く、杜乂は膚が清い、今この子を見れば、また衛玠、杜乂が目に見えるようだ。」従兄の何戢が人に謂って曰く、「この子はただ我が門の宝であるだけでなく、一代の偉人でもある。」

原文何炯字士光,胤從弟也。父撙,太中大夫。炯年十五,從胤受業,一期並通五經章句。白皙美容貌,從兄求、點每曰:「叔寶神清,杜乂膚清,今觀此子,復見衛、杜在目。」從兄戢謂人曰:「此子非止吾門之寶,亦為一代偉人。」

何炯は常に恬退を慕い、進んで仕えることを好まなかった。従叔の何昌宇が謂って曰く、「何求、何點は既に高蹈している、汝は再びそうあるべきではない。且つ君子の出処もまた各々一つの途がある。」

原文炯常慕恬退,不樂進仕。從叔昌宇謂曰:「求、點皆已高蹈,汝無宜復爾。且君子出處亦各一途。」

十九歳で、解褐して揚州主簿となり、秀才に挙げられ、累遷して梁の仁威将軍南康王の限内記室、書侍御史となった。父の病気のため解任を陳請した。何炯は病気の父に侍すること十余日、衣を解かず帯を緩めず、頭を櫛で梳らず沐せず、二晩の間に、形貌は頓に改まった。父が卒すると、号慟して声が絶えず、地に臥して腰脚が虚腫した。医者が云うには、「豬蹄湯を服すべきである。」と。何炯は肉味があるので服することを肯わず、親友が譬えて請うたが、終に応じず、遂に毀瘠して卒した。

原文年十九,解褐揚州主簿,舉秀才,累遷梁仁威南康王限內記室,書侍御史。以父疾陳解。炯侍疾踰旬,衣不解帶,頭不櫛沐,信宿之間,形貌頓改。及父卒,號慟不絕聲,藉地腰腳虛腫。醫云:「須服豬蹄湯。」炯以有肉味不肯服,親友請譬,終於不回,遂以毀卒。

先に家人に謂って曰く、「王孫、玄晏の崇尚する所は同じからず、長魚、慶緒の事は為すを得たり。必ず儉にして礼に中り、苟も異なることを取るなかれ。月の朝十五日には、一甌の粗粥を置き、常日進む所の如くせよ。」また両兄が共に仕進に淡泊であったことを傷み、故に禄が及ばず、今より後、温飽の資無からんことを恐れた。乃ち漼然として涙を下し、外には言う所無かった。

原文先是謂家人曰:「王孫、玄晏所尚不同,長魚、慶緒於事為得。必須儉而中禮,無取苟異。月朝十五日,可置一甌粗粥,如常日所進。」又傷兩兄並淡仕進,故祿所不及,恐而今而後,溫飽無資。乃漼然下泣,自外無所言。

何尚之の従子に何昌宇がいる。

原文尚之從子 昌宇

何昌宇は字を儼望といい、何尚之の弟の子である。父は何佟之、侍中に位した。何昌宇は幼くして清靖で、独立して群れず、交わる者は必ず当世の清名ある者であり、是以風流籍甚であった。宋に仕えて尚書儀曹郎、建平王劉景素の征北将軍南徐州府主簿となり、風素を以て重んぜられた。母が老いて禄を求めたので、出て湘東太守となった。還って斉の高帝の驃騎功曹となった。

原文何昌宇字儼望,尚之弟子也。父佟之,位侍中。昌宇少而清靖,獨立不群,所交者必當世清名,是以風流籍甚。仕宋為尚書儀曹郎、建平王景素征北南徐州府主簿,以風素見重。母老求祿,出為湘東太守。還為齊高帝驃騎功曹。

何昌宇が郡に在った時、景素が誅殺され、昌宇はこれを痛み、ここに至って高帝に上啓してその冤罪を理め、また司空褚彥回に書を送って極言した。高帝はその義を嘉した。歴位して中書郎、王儉の衛軍長史となり、王儉が何昌宇に謂って曰く、「後に朝事を任す者は、卿でなくて誰か。」

原文昌宇在郡,景素被誅,昌宇痛之,至是啟高帝理其冤,又與司空褚彥回書極言之。高帝嘉其義。歷位中書郎、王儉衛軍長史,儉謂昌宇曰:「後任朝事者,非卿而誰?」

臨海王蕭昭秀が荊州となると、何昌宇を西中郎長史、南郡太守とし、荊州事を行わせた。明帝が践阼せんとし、先に裴叔業を使わして旨を喪って詔し、何昌宇に便宜を以て事を行わせようとした。何昌宇は拒んで曰く、「国家は身を委ねて上流の重きを任じ、身を付して万里の事を託した。臨海王に失い無く、どうして君の単なる詔に従えようか。即時に自ら啓聞し、反って更に議するを須う。」叔業曰く、「もし然らばこれ詔を拒むことなり、詔を拒めば、軍法にて事を行わんのみ。」答えて曰く、「能く殺すを見る者は君なり、能く詔を拒む者は僕なり。君は殺すを見ることができず、政めに沿流の計有るのみ。」何昌宇は素より名徳有り、叔業は逼ること敢えずして退いた。上は聞いてこれを嘉し、昭秀はこれによって都に還ることができた。

原文臨海王昭秀為荊州,以昌宇為西中郎長史、南郡太守,行荊州事。明帝將踐阼,先使裴叔業喪旨詔昌宇,令以便宜從事。昌宇拒之曰:「國家委身以上流之重,付身以萬里之事,臨海王未有失,寧得從君單詔邪?即時自有啟聞,須反更議。」叔業曰:「若爾便是拒詔,拒詔,軍法行事耳。」答曰:「能見殺者君也,能拒詔者僕也。君不能見殺,政有沿流之計耳。」昌宇素有名德,叔業不敢逼而退。上聞而嘉之,昭秀由此得還都。

何昌宇は後に吏部尚書となり、嘗て一客有りて姓は閔、官を求めた。何昌宇が謂って曰く、「君は誰の後か。」答えて曰く、「子騫の後なり。」何昌宇は団扇で口を掩って笑い、座客に謂って曰く、「遙遙たる華胄なり。」

原文昌宇後為吏部尚書,嘗有一客姓閔求官。昌宇謂曰:「君是誰後?」答曰:「子騫後。」昌宇團扇掩口而笑,謂坐客曰:「遙遙華胄。」

何昌宇は交遊を雑ぜず、通和して泛くに愛し、歴郡皆清白を以て称された。後に侍中、領驍騎将軍の時に卒した。太常を贈られ、諡して簡子といった。子に何敬容がいる。

原文昌宇不雜交遊,通和泛愛,曆郡皆以清白稱。後卒於侍中,領驍騎將軍。贈太常,諡曰簡子。子敬容。

何昌宇の子に何敬容がいる。

原文昌宇子 敬容

敬容は字を國禮といい、弱冠にして齊の武帝の女長城公主を娶り、駙馬都尉に任ぜられた。梁の天監年間、建安内史となり、清廉公正で美しい治績を挙げ、吏民に称えられた。累進して吏部尚書を守り、官吏の選考序列を明らかに審査し、称職と号された。出て吳郡太守となり、政務は民の苦しみを労り、訴訟を裁くこと神の如く、職務に当たること四年、治績は天下第一となった。吏民が宮闕に赴いて碑を建てることを請うと、詔してこれを許した。再び吏部尚書・侍中となり、太子中庶子を領した。

原文敬容字國禮,弱冠尚齊武帝女長城公主,拜駙馬都尉。梁天監中,為建安內史,清公有美績,吏人稱之。累遷守吏部尚書,銓序明審,號為稱職。出為吳郡太守,為政勤恤人隱,辯訟如神,視事四年,政為天下第一。吏人詣闕請樹碑,詔許之。復為吏部尚書、侍中,領太子中庶子。

敬容は身長八尺、色白く鬚眉美しく、性質は謹厳で、衣冠は鮮やか麗しかった。武帝は自らは洗いざらしの衣を着ていても、左右の者の衣は必ず清潔でなければならなかった。かつて侍臣の衣帯が巻き折れていたことがあり、帝は怒って言った、「卿の衣帯は縄のようである、何を縛ろうとするのか」。敬容は帝の意を迎えようとしたので、ますます鮮明にした。常に膠の清きもので鬚を刷り、衣裳が整わないときは、床に伏してこれを熨し、あるいは暑い月には背中が焦げるほどであった。公庭に列するごとに、容姿举止は人に抜きん出ていた。尚書右僕射となり、選事に参与してこれを掌った。左僕射・丹陽尹に遷り、ともに従前の如く大選を参与して掌った。

原文敬容身長八尺,白皙美鬚眉,性矜莊,衣冠鮮麗。武帝雖衣浣衣,而左右衣必須潔。嘗有侍臣衣帶卷折,帝怒曰:「卿衣帶如繩,欲何所縛。」敬容希旨,故益鮮明。常以膠清刷須,衣裳不整,伏床熨之,或暑月背為之焦。每公庭就列,容止出人。為尚書右僕射,參掌選事。遷左僕射、丹陽尹,並參掌大選如故。

敬容は賓朋と応対するときは、言葉は訥弁のようであったが、二宮(天子と太子)に酬答するときは、音韻が調子よく流暢であった。大同年間、朱雀門が火災に遭い、武帝が群臣に言った、「この門は造りが狭い、私は改めて構えようと思い始めたところに、天火に遭った」。群臣は顔を見合わせて答えなかったが、敬容だけが言った、「これはいわゆる天に先んじて天違わず、というものでございます」。時に名答とされた。

原文敬容接對賓朋,言詞若訥,酬答二宮,則音韻調暢。大同中,朱雀門災,武帝謂群臣曰:「此門制狹,我始欲改構,遂遭天火。」相顧未答,敬容獨曰:「此所謂先天而天不違。」時以為名對。

五年、尚書令に改められ、従前の如く選事に参与した。敬容は久しく台閣に処し、晉・魏以来の旧事に詳しく通じ、かつ聡明で識見に達し、簿領に勤勉で、早朝から政務を処理し、日が暮れても休まなかった。職は高く任は重く、機密に専ら預かったが、草隸を書くのは拙く、学術には浅く、贈り物のやり取りには通じ、賄賂がなければ少しも言葉を交わさなかった。晉・宋以来、宰相は皆文義をもって自ら逸楽していたが、敬容だけは庶務に勤しみ、貪欲吝嗇で当時に嗤笑軽蔑された。

原文五年,改為尚書令,參選事如故。敬容久處台閣,詳悉晉魏以來舊事,且聰明識達,勤於簿領,詰朝理事,日旰不休。職隆任重,專預機密,而拙於草隸,淺於學術,通包苴餉饋,無賄則略不交語。自晉宋以來,宰相皆文義自逸,敬容獨勤庶務,貪吝為時所嗤鄙。

その署名する「敬」の字は、大きく書くときは「苟」、小さく書くときは「文」とし、「容」の字は大きく書くときは「父」、小さく書くときは「口」とした。陸倕が戯れて言った、「公の家の『苟』は既に奇しく大きく、『父』もまた小さからず」。敬容は遂に答えることができなかった。また禁中の言葉を漏らすことが多く、故に嘲り誚られることが日に日に至った。かつて吉という姓の客があり、敬容が問うた、「卿は邴吉と遠近は如何」。答えて言った、「明公が蕭何とされるようなものでございます」。時に蕭琛の子の巡は軽薄の才頗るあり、卦名・離合などの詩を作ってこれを嘲ったが、敬容も屑としなかった。

原文其署名「敬」字,則大作「苟」,小為「文」,「容」字大為「父」,小為「口」。陸倕戲之曰:「公家'苟'既奇大,'父'亦不小。」敬容遂不能答。又多漏禁中語,故嘲誚日至。嘗有客姓吉,敬容問:「卿與邴吉遠近?」答曰:「如明公之與蕭何。」時蕭琛子巡頗有輕薄才,因制卦名、離合等詩嘲之,亦不屑也。

帝はかつて朝服を具えて太廟に入り、拝伏して悲感する夢を見、朝に延務殿で見た夢を語った。敬容が対えて言った、「臣は聞きます、孝悌の至りは神明に通ずると。陛下の天性は天に通じます故に、この夢に応じて感ずるのでございます」。上は大いに然りとし、直ちに陵を拝する議があった。

原文帝嘗夢具朝服入太廟拜伏悲感,旦於延務殿說所夢。敬容對曰:「臣聞孝悌之至,通於神明。陛下性與天通,故應感斯夢。」上極然之,便有拜陵之議。

後に妾の弟の費慧明が道倉丞として夜に官米を盗み、禁司に捕らえられ、領軍府に送られたことで連座した。時に河東王の蕭譽が領軍であった。敬容は手紙で慧明を釈放するよう頼んだ。蕭譽は以前に依頼された事が行われなかったので、このため即座にその手紙を封じて上奏した。帝は大いに怒り、南司に付して推問させた。御史中丞の張綰が敬容が私に協力して上を欺いたと奏上し、棄市に合うとした。詔して特に関職を免じた。到溉が朱異に言った、「天候がようやく晴れ渡ったようだ」。そのように嫉まれたのである。

原文後坐妾弟費慧明為道倉丞夜盜官米,為禁司所執,送領軍府。時河東王譽為領軍,敬容以書解慧明。譽前經屬事不行,因此即封書以奏。帝大怒,付南司推劾。御史中丞張綰奏敬容協私罔上,合棄市。詔特免職。到溉謂朱異曰:「天時便覺開霽。」其見嫉如此。

初め、沙門の釈宝志がかつて敬容に言った、「君は後必ず貴くなるが、終には『何』によって敗れるであろう」。敬容が宰相となったとき、何という姓がその禍となると考え、故に宗族を抑えて没落させ、仕進する者を無くしたが、ここに至って竟に河東王によって敗れたのである。

原文初,沙門釋寶志嘗謂敬容曰:「君後必貴,終是'何'敗耳。」及敬容為宰相,謂何姓當為其禍,故抑沒宗族,無仕進者,至是竟為河東所敗。

中大同元年三月、武帝が同泰寺に行幸して金字の三慧経を講じたとき、敬容は聴講に預かることを啓上し、勅許された。また起用されて金紫光禄大夫となり、拝受せず、さらに侍中を加えられた。敬容の旧時の賓客門生は昔のように喧嘩し、その再起用を期待した。会稽の謝鬱が手紙を送ってこれを戒めて言った。

原文中大同元年三月,武帝幸同泰寺講金字三慧經,敬容啟預聽,敕許之。又起為金紫光祿大夫,未拜,又加侍中。敬容舊時賓客門生喧嘩如昔,冀其復用。會稽謝鬱致書戒之曰:

草莽の者である私が、巷の噂に聞くところでは、君侯は既に朝夕に天顔を拝し、禁門を出入りできるようになられたとか。酔った尉も敢えて呵することなく、灰が再び燃え始める兆しも無くはない、大変結構なことです。敢えて前に賀し、また将に弔おうとします。

原文草萊之人,聞諸道路,君侯已得瞻望朝夕,出入禁門。醉尉將不敢呵,灰然不無其漸,甚休!敢賀於前,又將吊也。

昔、流言が裁して至ると、周公旦は東奔し、燕からの書が始めて来ると、霍子孟(霍光)は入らなかった。聖賢でさえ虚偽の過ちを被って自ら退くのであり、時に隙があってなお親しみを求める者は無い。かつて暴鰓の魚は杯酌の水を念わず、雲霄の翼は籠樊の糧を顧みない。何故か。託する所が既に盛んなからである。昔、君侯は納言(尚書)として首に加え、鳴玉を腰に帯び、豊かな貂尾を翻して文昌(尚書省)に歩み、高き蝉の冠を聳やかせて武帳に趨った。盛んなことと言えよう。この時に才を薦め士を抜き、少しでも聖主の恩に報いることをせず、今、卒に爰絲(爰盎)の説く如く、責めを受けて過ちを見られ、方また更に朝廷を窺い、万分の一を望むとは、窃かに左右の取るところとはしません。昔、竇嬰・楊惲もまた明時に罪を得て、賓客を謝絶できず、なお党援を交わし、遂に後の福無く、終には前の禍を増すのみでした。私の弔うところ、実にここにあります。

原文昔流言裁至,公旦東奔,燕書始來,子孟不入。夫聖賢被虛過以自斥,未有嬰時釁而求親者也。且暴鰓之魚,不念杯酌之水,雲霄之翼,豈顧籠樊之糧。何者?所托已盛也。昔君侯納言加首,鳴玉在腰,回豐貂以步文昌,聳高蟬而趨武帳,可謂盛矣。不以此時薦才拔士,少報聖主之恩,今卒如爰絲之說,受責見過,方復欲更窺朝廷,觖望萬分,竊不為左右取也。昔竇嬰、楊惲亦得罪明時,不能謝絕賓客,猶交黨援,卒無後福,終益前禍。僕之所吊,實在於斯。

人々がなお君侯の門に踵を接する所以は、必ずしも皆恩恵を感じ仁を懐き、灌夫・任安の義があるからではなく、ただ翟公の大いなる掲示を戒めとし、君侯の再起用を期待しているのです。過ちを思う日に在って、再起用の意を挟むことは、智者に説くべくもありません。君侯は宜しく門を閉じて過失を思い、通ずる所無く、鍾阜に茅葺きの屋を築き、聊か優遊して歳を卒え、憐れむべき意を見せ、終わりを待つ情を著わし、仲尼の能く改むの言を復し、子貢の更なりの譬えを思い、少しでも衆口の言を止め、微かに竹帛に自救いし、いわゆる「東隅に失い、桑榆に収む」と為すべきです。このようにして、明主に聞こえ知らしめれば、なお望みがあるでしょう。

原文人人所以頗猶有踵君侯之門者,未必皆感惠懷仁,有灌夫、任安之義,乃戒翟公之大署,冀君侯之復用也。夫在思過之日,而挾復用之意,未可為智者說矣。夫君侯宜杜門念失,無有所通,築茅茨於鍾阜,聊優遊以卒歲,見可憐之意,著待終之情,復仲尼能改之言,惟子貢更也之譬,少戢言於眾口,微自救於竹帛,所謂「失之東隅,收之桑榆」。如此,令明主聞知,尚有冀也。

私は東皋の鄙人、穴居して幸いに貧乏の恥辱無く、天下の士たる者として恥ずかしく思い、執事にこれを説かぬわけにはいかず、故に肝胆を披き、情素を示します。君侯はどうかこれを鑑みて下さい。

原文僕東皋鄙人,入穴幸無銜寠,恥天下之士,不為執事道之,故披肝膽,示情素,君侯豈能鑒焉。

太清元年、太子詹事に遷り、侍中は従前の如くであった。二年、侯景が建鄴を襲撃すると、敬容は邸から家族を台城内に移した。初め、侯景が渦陽で退敗したとき、確実な情報が得られず、伝える者はその将の暴顯が反逆し、侯景自身と兵衆は共に没したと言った。朝廷はこれを憂えた。敬容がまもなく東宮に参上すると、簡文帝が言った、「淮北からようやくまた便りがあり、侯景はきっと身をもって免れた」。敬容は言った、「侯景が死んだならば、深く朝廷の福です」。簡文帝は色を失い、その故を問うと、答えて言った、「侯景は翻覆する叛臣、終には国を乱すでしょう」。

原文太清元年,遷太子詹事,侍中如故。二年,侯景襲建鄴,敬容自府移家台內。初,景渦陽退敗,未得審實,傳者乃雲其將暴顯反,景身與眾並沒。朝廷以為憂。敬容尋見東宮,簡文謂曰:「淮北始更有信,侯景定得身免。」敬容曰:「得景遂死,深是朝廷之福。」簡文失色,問其故,對曰:「景翻覆叛臣,終當亂國。」

この年、簡文帝は頻りに玄圃で自ら老荘の二書を講じ、学士の呉孜が時に詹事府に寄寓し、毎日聴講に入った。敬容は呉孜に言った、「昔、晉氏の喪乱は、頗る虚玄を祖尚したことによるもので、胡賊遂に中夏を覆した。今、東宮がまたこれを襲うとは、殆ど人事ではなく、戎(異民族)の為す所となるであろう」。間もなく侯景の乱が起こり、その言葉は徴があったのである。三年、包囲された城内で卒した。

原文是年,簡文頻于玄圃自講老莊二書,學士吳孜時寄詹事府,每日入聽。敬容謂孜曰:「昔晉氏喪亂,頗由祖尚虛玄,胡賊遂覆中夏。今東宮復襲此,殆非人事,其將為戎乎。」俄而侯景難作,其言有征也。三年,卒於圍內。

何氏は、晋の司空何充、宋の司空何尚之が仏法を奉じ、ともに塔寺を建立して以来、敬容に至ってはまた邸宅の東を捨てて伽藍とし、権勢に趨る者がこれに因って財を助けて造営したが、敬容は一概に拒まず、故に寺の堂宇は甚だ宏麗であった。時に軽薄な者はこれに因って「衆造寺」と呼んだ。敬容が免職されて邸宅を出るに及んで、ただ常用の器物及び囊衣のみあり、竟に余分の財貨無く、時にこれをもって彼を称えた。

原文何氏自晉司空充、宋司空尚之奉佛法,並建立塔寺,至敬容又舍宅東為伽藍,趨權者因助財造構,敬容並不拒,故寺堂宇頗為宏麗。時輕薄者因呼為「眾造寺」。及敬容免職出宅,止有常用器物及囊衣而已,竟無餘財貨,時亦以此稱之。

敬容は特に従兄の何胤に親愛され、胤が若邪山に在って嘗て病篤く、書に云う、「田疇館宇は悉く衆僧に奉じ、書経は並びに従弟敬容に帰す」と。その知られしこと此の如し。敬容はただ一子有り、年始めて八歳。吳に在り、臨んで還るに当たり胤と別れんとし、胤名を問う。敬容曰く、「仍ち兄に就きて名を求めんと欲す」と。胤即ち紙筆を命じ、名を玨と曰う。曰く、「書に云う、両玉を玨と曰う。吾と弟、二家此の一子を共にす、所謂鈺なり」と。位は秘書丞、早卒す。

原文敬容特為從兄胤所親愛,胤在若邪山嘗疾篤,有書云:「田疇館宇悉奉眾僧,書經並歸從弟敬容。」其見知如此。敬容唯有一子,年始八歲。在吳,臨還與胤別,胤問名,敬容曰:「仍欲就兄求名。」胤即命紙筆,名曰玨。曰:「書雲兩玉曰玨,吾與弟二家共此一子,所謂鈺也。」位秘書丞,早卒。

論

原文論

論じて曰く、尚之は雅道を以て自ら処し、公輔に致るを用い、己を行う跡は、動もて閑を踰えず。及んで洗合して譏を取るに至り、皮冠して誚を獲る、貞粹の地は、高人未だ之を全く許さず。然れども父子一時に並び処りて権要に在り、屯詖を経るも、咸に功名を以て自ら卒す、古の所謂巧宦は、此れを之れ謂うか。点・胤の弟兄は俱に遁逸と雲えども、其の蹈履を求めれば、則ち山林と曰うに非ず、其の持身を察すれば、則ち未だ名譽を捨てず。夫子皙の慧景に赴くを観、子季の敬沖を矯るるを観るに、跡を以て心を以て、居然として測る可し。而して高く自ら標緻し、一代帰宗す、之を以て入用するは、未だ取る所を知らず。斯れ殆ど虚勝の風、江東の尚ぶ所、然らずんば何を以てか此れに至らんや。昌宇は雅に名節を仗し、殆ど人望と曰う。敬容は材実幹蠱有り、賄にて業を敗る、惜しいかな。

原文論曰:尚之以雅道自居,用致公輔,行己之跡,動不踰閑。及乎洗合取譏,皮冠獲誚,貞粹之地,高人未之全許。然父子一時並處權要,雖經屯詖,咸以功名自卒,古之所謂巧宦,此之謂乎。點、胤弟兄俱雲遁逸,求其蹈履,則非曰山林,察其持身,則未舍名譽。觀夫子皙之赴慧景,子季之矯敬沖,以跡以心,居然可測。而高自標緻,一代歸宗,以之入用,未知所取。斯殆虛勝之風,江東所尚,不然何以至於此也?昌宇雅仗名節,殆曰人望。敬容材實幹蠱,賄而敗業,惜乎。