南史 巻三十 (巻三十一に続く)

南史

巻三十 (巻三十一に続く)

列伝第二十

何尚之

何尚之は若い頃は軽薄で、博打を好んだが、成長すると節を折り道を踏み、操行の確かさで称えられた。陳郡の謝混に認められ、交遊した。家は貧しく、初め臨津県令となった。宋の武帝が征西将軍を領すると、主簿に補任された。長安征討に従軍したが、公事の過失で免官され、都に戻った。労病を患って数年、婦人の乳を飲んでようやく癒えた。従軍の功労により、都郷侯の爵位を賜った。

少帝が即位すると、廬陵王劉義真の車騎諮議参軍となった。義真は 司徒 しと 徐羨之・ 尚書令 しょうしょれい 傅亮らと不和で、しばしば不平の言葉を口にした。尚之が諫め戒めたが聞き入れられなかった。義真が廬陵王を廃されると、尚之は入朝して中書侍郎となり、吏部郎に転じた。休暇を取って実家に帰省する際、朝臣の総出で冶渚まで見送られた。郡に着くと、叔父の何叔度が言った。「汝がここに来ると聞き、朝臣総出で見送ったそうだが、客はどれほどいたか。」答えて言う。「およそ数百人です。」叔度は笑って言った。「これは吏部郎を見送ったのであって、何彦徳(尚之の字)のためではない。昔、殷浩もかつて 章に帰省した時、見送りの者は非常に多かったが、廃されて東陽に流された時は、船が征虜亭に何日も停泊しても、親戚旧友で再び訪ねてくる者は一人もいなかった。」

後に左衛将軍に任じられ、太子中庶子を兼ねた。尚之は風雅を好み、文義を愛し、ゆったりと詩文の会を楽しんだので、文帝に大いに知られた。元嘉十三年、彭城王劉義康が 司徒 しと 長史劉斌を丹陽尹にしようとしたが、帝が許さず、代わりに尚之をそれに任じた。尚之は都の南郭外に邸宅を建て、学を立てて生徒を集めた。東海の徐秀、廁江の何曇・黄回、潁川の荀子華、太原の孫宗昌・王延秀、魯郡の孔惠宣らが皆、その道を慕って遊学し、これを南学と呼んだ。王球は常々言った。「尚之には西河の風(子夏の学風)が廃れていない。」尚之もまた言った。「王球には正始の風(何晏・王弼らの清談の気風)がなお存する。」

尚之の娘は劉湛の子劉黯に嫁いだが、劉湛と尚之の仲は深くなかった。劉湛が丹陽尹を兼ねようとし、尚之を祠部尚書に転任させ、国子祭酒を兼ねさせた。尚之は甚だ不満であった。劉湛が誅殺されると、尚之は吏部尚書に転じた。

当時、左衛将軍范曄が機密に参与していたが、尚之はその志向が異常であると察し、文帝に言上した。「広州刺史として外任させるべきです。もし朝廷内で禍が熟すれば、斧鉞を加えざるを得なくなります。度々大臣を誅殺することは、皇化を損なうことになります。」帝は言った。「劉湛らを誅したばかりで、これから後進を登用しようとしているところだ。范曄の罪状がまだ明らかでないのに、予め排斥すれば、万民は卿らが才を容れられず、朕が讒言を信じると思い込むだろう。ただ、共にこのことを知らしめるだけで、大変事に至ることを憂えるには及ばない。」後に范曄が謀反を企て誅殺されると、帝は尚之の先見の明を称えた。

二十二年、尚書左僕射となった。この年、玄武湖を造営し、帝は湖中に方丈・蓬萊・瀛洲の三神山を築こうとしたが、尚之が強く諫めたので中止した。当時また華林園を造営しており、盛暑の中でも人夫を酷使した。尚之がまた諫めたが、帝は許さず、言った。「小人(庶民)は普段から背中を日に曝しているのだ。これは労苦とは言えない。」当時、帝の行幸が多く、帰還が夜中に及ぶことが多かったので、尚之はまた上表して諫め、帝は丁重な詔でこれを受け入れた。

以前から貨幣不足を患い、四銖銭を鋳造したが、民間で盛んに私鋳が行われ、多くは古銭を切り削って銅を取っていたので、帝はこれを憂えた。二十四年、録尚書事の江夏王劉義恭の意見を採り上げ、一大銭を二銖に当てる(大銭一枚を二銖銭二枚分の価値とする)ことで、切り削りを防ごうとし、議論する者も多くはこれに同調した。尚之は議して言った。「およそ制度を創め法を改めるには、人情に順うべきで、衆に背き物を矯めて長く続くものはありません。貨幣の廃興は、軽率に議論すべきではありません。前代の赤仄銭や白金銭も、たちまち廃止され、六貨(王莽の貨幣)は混乱し、人は市で泣きました。これはまさに事が統一されず、遵行し難いからです。急病を救う一時的な措置でない限り、長世の業を守るべきです。もし今の制度が施行されれば、富者の財産は自ずと倍加し、貧者はますます困窮を増すでしょう。均しくしようとする意図に合わないことを恐れます。」中領軍沈演之は、大銭を二銖に当てれば、国は朽ち難い宝を伝え、家は一倍の利を得、刑罰を加えずとも、巧みな私鋳の源は絶たれると考えた。帝は演之の意見に従い、遂に一銭を二銖に当てることにした。施行してしばらく経つと、公私共に不便であり、遂に廃止された。

二十八年、 尚書令 しょうしょれい ・太子詹事となった。二十九年に致仕を願い出て、方山に『退居賦』を著して守る所を明らかにしたが、議論する者は皆、尚之が志を固守できないと言った。文帝は江夏王劉義恭に詔して言った。「羊(玄保)や孟(顗)でさえも告謝(致仕の礼)を得られないのに、尚之は任用と待遇が特別であるから、今はまだ許すべきではない。」尚之は職務に復帰した。羊とは羊玄保、孟とは孟顗である。

尚之が職務に復帰すると、帝の待遇はますます厚くなり、そこで袁淑は古来の、行跡はあるが姓名の伝わらない隠士を集めて『真隠伝』を編み、尚之をあざ笑った。時に軍を派遣して北方に侵攻することがあり、軍旅への物資供給は全て尚之に委ねられた。

元凶(劉劭)が しい 逆して即位すると、 司空 しくう 尚書令 しょうしょれい に進位した。当時、三方で義兵が起こり、その将佐で家族が都にいる者を、劉劭は皆誅殺しようとした。尚之が様々に説得し、皆ことごとく全うさせた。

孝武帝が即位すると、再び 尚書令 しょうしょれい となった。丞相南郡王劉義宣・車騎将軍臧質が反乱を起こし、義宣の司馬竺超・臧質の長史陸展兄弟は皆従って誅殺に応ずべきところであったが、尚之が上言して法に照らして重すぎるとし、超ら連座すべき者はこれにより赦された。

時に荊州を分けて 郢州 えいしゅう を置かんと欲し、その治所を議す。江夏王義恭・蕭思話は巴陵に在るべしと為す。尚之議して曰く、「夏口は荊・江の中に在り、正しく沔口に対し、雍・梁に通接し、実に津要たり、事に於いて允当なり」と。上その議に従う。荊・揚二州の戸口は江南の半を占め、江左以来、揚州を根本と為し、荊州に閫外を委ねたり、是に至りて並びに分ち、臣下の権を削らんと欲す。而して荊・揚並びに此れに因りて虚耗す。尚之建言して宜しく復た二州を合すべしとす、上許さず。

大明二年、左光禄・開府儀同三司と為し、侍中は元の如し。尚之は家に在りて、常に鹿皮帽を著く。及び開府拝命に及び、天子臨軒し、百僚陪位す。沈慶之殿庭に於いて之を戯れて曰く、「今日何ぞ鹿皮冠を著かざる」と。慶之累ねて爵命を辞し、朝廷敦勸甚だ苦し。尚之之に謂ひて曰く、「主上虚懐側席す、豈に固辞すべきや」と。慶之曰く、「沈公は何公の去りて復た還るに效はざるなり」と。尚之愧色有り。

尚之は文義を愛尚し、老いても休まず。太常顔延之と少しく相好狎み、二人並びに短小なり。尚之常に延之を沐と謂ひ、延之は尚之を目して猴と為す。同しく太子西池に游びしに、延之路人に問ひて云く、「吾二人誰か猴に似る」と。路人尚之を指して似たりと為す。延之喜笑す、路人曰く、「彼は猴に似たるのみ、君は乃ち真の猴なり」と。

或人嘗て吏部郎を求むる有り、尚之歎じて曰く、「此れ風俗を敗るなり。官は人を図るべし、人安んぞ官を図るを得ん」と。延之大笑して曰く、「我聞く、古は才を以て官人す、今は勢を以て官人す、彼の勢の求むる所、子何ぞ疑はん」と。延之と論議往反する所のもの、並びに世に伝はる。

尚之は立身簡約にし、車服率素なり。妻亡して娶らず、又姬妾無し。衡を執りて朝に当たり、権柄を畏れて遠ざけ、親故一も薦挙せず。既に此れを以て怨みを致し、亦此れを以て称せらる。復た本官を以て中書令を領す。薨ず、年七十九、 司空 しくう を贈られ、諡して簡穆公と曰ふ。子偃。

尚之の子 偃

偃は字を仲弘とす。元嘉中、位は太子中庶子。元凶 しい 立し、偃を以て侍中と為し、詔誥を掌る。時に尚之は 司空 しくう 尚書令 しょうしょれい たり、偃は門下に居る。父子並びに権要に処る、時に寒心と為す。而して尚之及び偃は機宜を摂むるに善く、曲く時誉を得たり。

会す孝武即位し、任遇改まる無し。歴位して侍中、太子中庶子を領す。時に讜言を求めしに、偃以為く「宜しく農を重んじ本を恤み、官を併せ事を省き、考課を以て能否を知り、奉を増して吏奸を除くべし。良守を責成し、其の職に久しくし、 都督 ととく 刺史は宜しく其の任を別つべし」と。

改めて ぎょう 騎將軍を領し、親遇隆密にして、旧臣に加ふる有り。吏部尚書に転ず。尚之選を去ること未だ五載ならず、偃復た其の跡を襲ふ、世以て栄と為す。侍中顔竣是に至りて始めて貴く、偃と倶に門下に在り、文義を以て賞会し、相得甚だ歓ばし。竣既に任遇隆密なり、重き大なるに居るべしと謂ふに、而して位次偃と等しくして未だ殊ならず、意稍く悦ばず。及び偃竣に代はりて選を領するに及び、竣愈よ憤懣し、偃と遂に隙有り。竣時に権朝野に傾け、偃自ら安からず、遂に悸病を発し、意慮乖僻なり。表を上して職を解き、霊に告げて仕えず。孝武偃に遇すること既に深く、備へて医療を加ふる乃ち差ゆ。

偃は素より玄を談ずるを好み、荘子逍遥篇を注して時に伝はる。官に ついに す。孝武顔竣に詔し、甚だ之を傷惜す。諡して靖と曰ふ。子戢。

偃の子 戢

戢は字を慧景とす。選ばれて宋孝武の長女山陰公主に尚し、駙馬都尉拝す。累遷して中書郎。景和の世、山陰主帝に就きて吏部郎褚彥回の己に侍することを求めしに、彥回は拘逼せらるれども、終に肯て従はず。戢と同しく居止すること月余日、是に由りて特に関好を申す。元徽初、彥回朝政に参じ、戢を引いて侍中と為す、時に年二十九。戢は年未だ三十ならざるを以て、内侍を苦しく辞し、改めて 司徒 しと 左長史を授く。

斉高帝領軍と為り、戢と来往し、数へて歓宴を申す。高帝は水引餅を好む、戢毎に之を設けて上る。久しくして、復た侍中と為る。累遷して高帝相国左長史。建元元年、 散騎常侍 さんきじょうじ ・太子詹事に遷る。尋で侍中に改め、詹事は元の如し。上戢を転じて選を領せしめんと欲し、 尚書令 しょうしょれい 褚彥回に問ふ。戢の資重きを以て、 散騎常侍 さんきじょうじ を加へんと欲す。彥回曰く、「宋の時王球は侍中・中書令より単に吏部尚書と作し、資は戢に相似たり。選職を領すること方に昔より小軽く、頓に常侍を加ふるを容れず。聖旨毎に蟬冕は過多すべからずと為し、臣と王儉既に左珥せり。若し復た戢に加はば、則ち八座便ちに三蟬有らん。若し之を ぎょう ・遊に帖せば、亦少なからず」と。乃ち戢を以て吏部尚書と為し、 ぎょう 騎將軍を加ふ。

戢は容儀美くしく、動止褚彥回に相慕ひ、時人号して「小褚公」と為す。家業富盛にして、性又華侈なり。衣被服飾、極めて奢麗なり。出でて吳興太守と為る。上頗る画扇を好む。宋孝武戢に蟬雀扇を賜ふ、善く画く者顧景秀の画ける所なり。時に吳郡陸探微・顧寶先皆能く画き、其の巧絶を歎ず。戢王晏に因りて之を献ず、上晏に令して其の意に厚く酬はしむ。卒す年三十六、諡して懿子と曰ふ。女は郁林王の后と為る。又追贈して侍中・右光禄大夫と為す。

戢の從子 求

求は字を子有といい、偃の弟の子である。父の鑠は宋に仕えて宜都太守の位にあった。求は元嘉の末に文帝の挽郎となり、太子洗馬・丹陽郡丞を歴任し、清廉で退き、嗜欲がなかった。後に太子中舍人となった。泰始年間、妻が亡くなると、呉に戻って旧墓に葬った。中書郎に任ぜられたが拝命せず、そのまま呉に住み、波若寺に隠居して、足を戸の外に出さず、人々はその面を見ることがなかった。

宋の明帝が崩ずると、国哀に駆けつけ、永嘉太守に任ぜられた。求は当時南澗寺に寄宿していたが、台城に赴くことを肯まず、野外で拝受することを乞うと、許された。一夜、突然小船に乗って呉に逃げ帰り、武丘山に隠れた。斉の永明四年、太中大夫に任ぜられたが就かず、そのまま卒した。

初め、求の父の鑠は元来風疾を患っており、理由なく求の母の王氏を害し、法に坐して死んだ。求兄弟はこれにより官途に志がなくなった。求の弟に點がいる。

求の弟 點

點は字を子皙といい、十一歳の時、父母の喪に服し、ほとんど身を滅ぼさんばかりであった。成長して家の禍を感じ、婚姻と官途を絶とうとしたが、尚之が強いて琅邪王氏を娶らせた。礼が終わり、親迎しようとした時、點は幾度も涙を流して泣き、本来の志を貫くことを求め、遂に取りやめになった。

點は目は明るく眉は秀で、容貌は方正で雅やかであり、真摯で質素、通じて美しく、家柄をもって自ら誇らなかった。群書に博通し、談論を善くした。家は本来素族であり、親族姻戚の多くは貴い官にあった。點は城府に入らなかったが、性質は率直で、人物と親しむことを好んだ。世間を遊歴し、簪も帯もせず、人柄と地歩ともに高いため、屈することがなく、公卿に対しても大言して踞み、敬って下った。ある時は柴車に乗り、草鞋を履き、心の赴くままに遊び、酔うまで飲んで帰った。故に世の論は點を孝隠士、弟の胤を小隠士とし、大夫多くは慕ってこれに従った。当時の人はその通達を称え重んじ、「遊侠処士」と号した。兄の求もまた呉郡武丘山に隠れた。求が卒すると、點は菜食して酒を飲まず、三年に至るまで、腰帯が半分に減った。

宋の泰始末、太子洗馬に徴された。斉の初め、累次にわたり中書侍郎・太子中庶子に徴されたが、いずれも就かなかった。陳郡の謝伷・呉国の張融・会稽の孔徳璋と莫逆の友となった。點の家は代々仏を信じ、従弟の遁が東籬門の園に住まわせ、徳璋がそのために室を築いた。園には卞忠貞の塚があり、點は塚の傍らに花を植え、飲むたびに必ず酒を捧げてこれを祭った。勝れた友を招き携え、名徳ある沙門を交え、清言し賦詠して、優遊自得した。

初め、褚彦回・王儉が宰相となった時、點は人に言った、「私は斉書を作り終えた。賛に云う、『回は既に世族、儉もまた国華、舅氏に頼らず、いずくんぞ国家を恤れんや』と」。王儉はこれを聞き、點を訪ねようとしたが、会えないと知って止めた。 章王の嶷は車駕を命じて點を訪ねたが、點は後門から逃げ去った。 司徒 しと 竟陵王の子良はこれを聞き、「 章王ですら塵を望んで及ばず、私は岫を望んで心を休めよう」と言った。後に點が法輪寺にいた時、子良が会いに行くと、點は角巾のまま席に登り、子良は欣悦して已まず、點に嵇叔夜の酒杯と徐景山の酒槍を贈った。

點は少時、嘗て渇利(糖尿病)を患い、数年治らなかった。後に呉中の石仏寺で講を建て、講所で昼寝をしていると、一人の道人(道士)の夢を見た。形貌は尋常でなく、丸薬一掬を授け、夢中でこれを服すると、これより平癒した。当時の人は淳徳の感ずるところと為した。

性質は通侻で施しを好み、遠近から贈り物があっても、一切拒まず、すぐにまた散じてしまった。嘗て朱雀門街を行き過ぎた時、車の後ろから點の衣を盗む者がいたが、見ても言わず、傍の人が盗人を捕えて與えると、點は衣を盗人に施した。盗人は受け取ろうとせず、點は役所に告げるよう命じたので、盗人は恐れて受け取った。

點は雅に人倫を鑑識する才があり、多く人を甄抜した。呉興の丘遅を幼童の時に知り、済陽の江淹を寒素の時に称揚し、全てその言の如くなった。哀楽は人を過ぎた。嘗て行く途中葬列に出逢い、歎じて言った、「この哭く者の懐は、豈に思うべけんや」。ここにおいて悲慟して禁じえなかった。

年老いてまた魯国の孔嗣の女を娶った。嗣もまた隠者である。點は婚姻したが、妻と会うこともなく、別室を築いて住まわせ、人はその意を理解できなかった。呉国の張融は若い時免官され、詩に高言があった。點が答詩して言った、「昔、東都の日を聞くも、簡書の前に在らず」。戯れであったが、融は長くこれを病んだ。後に點が婚姻すると、融は初めて詩を作り點に贈って言った、「惜しいかな何居士、薄暮に荒淫に遇う」。點もまたこれを病んだ。

永元年間、崔慧景が城を囲み、世間に薪がなくなると、點は園の樹を全て伐って親族・朋党に供給した。慧景は仏義を好む性質で、以前から點と交わりを慕っていたが、點は顧みなかった。この時になって慧景は點を強いて召し出そうとし、點は裙を裂いて袴とし、その軍に赴き、終日談説して、軍事には及ばなかった。その語るも黙するも、かくの如き跡であった。慧景が平定された後、東昏侯は大いに怒り、點を誅殺しようとした。王瑩がこれを恐れ、蕭暢に計を求めた。暢は茹法珍に言った、「點がもし賊を誘って共に講じなかったならば、未だ量り難く、このことを以て言えば、却って封ずべきである」。東昏侯はやめて止めた。

梁の武帝は點と旧交があり、践祚すると、手詔で旧誼を述べ、鹿皮巾などを賜い、併せて召し出した。點は巾褐のまま華林園に導き入れられ、帝は詩と酒を贈り、恩礼は旧の如く、さらに詔を下して侍中に徴した。點は帝の鬚を撫でて言った、「乃ち老子を臣とせんと欲するか」。病を理由に辞して起たなかった。再び詔を下して詳細に資給を加え、併せて在所より出で、日々の費用に必要なものは太官が別に給することとした。

天監二年に卒した。詔して第一品の材一具を給し、喪事に必要なものは内監が経理した。點の弟に胤がいる。

何點の弟、何胤。

何胤は字を子季といい、叔父の何曠の後を継いだので、改めて字を胤叔とした。八歳の時に喪に服し、成人のように憔悴した。成長すると軽薄で放縦であったが、晩年に至って態度を改めて学問を好み、沛国の劉瓛に師事し、易及び礼記、毛詩を受けた。また鍾山の定林寺に入って内典を聴講し、その学業はすべて通じた。しかし感情に任せて節度に欠け、当時の人々は彼を知らなかったが、ただ劉瓛と汝南の周顒のみが深くその非凡さを認めた。斉に仕えて建安太守となり、政治には恩信があり、人々は欺くに忍びなかった。毎年伏祭や臘祭の際には囚人を釈放して家に帰らせ、期日通りに戻ってきた。

黄門侍郎、太子中庶子を歴任した。 尚書令 しょうしょれい の王儉が詔を受けて新礼を撰修したが、完成せずに死去した。また特進の張緒に続けて完成させたが、張緒もまた死去し、その任は 司徒 しと 竟陵王の蕭子良に属した。子良はこれを何胤に譲ったので、学士二十人を置いて何胤を補佐させて撰録させた。

後に国子祭酒として太子中庶子の王瑩とともに侍中となった。当時、何胤は単独で祭酒を務めており、着用すべき服が問題となった。陸澄は博識で古事に通じていたが、これも根拠を立てられず、結局玄服(黒衣)で試験に臨んだ。その後詳細に議論し、朱服を用いることとなった。祭酒が朱服を着るのは、これが始まりである。

郁林王が帝位を継ぐと、何胤は外戚であったため、非常に親しく遇せられた。中書令となり、臨海王・巴陵王の師傅を兼任した。何胤は貴顕であったが、常に足るを知る心を持っていた。建武の初めには、すでに郊外に家屋を築き、常に学徒たちとその中で交遊していた。この時、園宅を売って東の地(会稽)に入ろうとした。まだ出発しないうちに、謝朏が呉興郡の太守を罷免されて帰らないと聞き、何胤は彼に後れを取ることを恐れ、上表して職を解くことを請い、返答を待たずに去った。明帝は大いに怒り、御史中丞の袁昂に奏上させて何胤を逮捕させようとした。まもなく詔があり、これを許した。

何胤は会稽の山々に霊異が多いとして、そこへ遊びに行き、若邪山の雲門寺に住んだ。初め、何胤の二人の兄、何求と何點はともに隠遁していたが、何求は先に死去し、この時何胤もまた隠れたので、世間は何點を「大山」、何胤を「小山」と呼び、また「東山」とも言った。兄弟は出発点こそ異なったが、結局ともに隠遁したので、世間は何氏の三高士と呼んだ。

永元年間、太常・太子詹事に徴されたが、いずれも就任しなかった。梁の武帝が覇府を建てると、軍謀祭酒に引き立て、詔勅の起草も任せたが、赴かなかった。武帝が帝位に即くと、特進・光禄大夫に任じる詔を下し、領軍司馬の王杲之に手詔を持たせて意向を諭させ、同時に謝朏も徴した。

王杲之が先に何胤のもとに至ると、何胤は謝朏が出ないことを恐れ、まず自分が起ちうることを示すため、単衣に鹿皮の巾を着け経巻を手にし、床から下りて跪いて詔を受けた。詔を読み終えると、席に就いて伏して読んだ。何胤は王杲之に言った。「私は昔、斉の朝廷で二、三の事を述べようとした。一つは郊丘の礼を正すこと、二つは九鼎を改めて鋳造すること、三つは双闕を建てることである。世に伝わるには、晋室が闕を立てようとした時、王丞相が牛頭山を指して『これが天闕である』と言ったという。これは闕を立てる意味が明らかでない。闕とは象魏というもので、その上に法を懸け、十日で収める。象は法、魏は道に当たり高く大きい様である。鼎は神器であり、国を持つ者が先ず為すべきものである。円丘と南郊は、旧典で異なる。南郊では五帝の霊威仰などを祀り、円丘では天皇大帝・北極大星を祀るのである。過去の時代が郊丘を合せたのは、先儒の大きな誤りである。今、梁の徳が始まろうとしているのに、前代の誤りをそのまま踏襲すべきではない。卿はこれを述べるがよい。」王杲之は言った。「私のような卑陋な者が、どうして軽々しく国典を議することができましょう。これは叔孫通のような方をお待ちするほかありません。」

王杲之が謝朏のもとから戻り、何胤に出仕の時期を尋ねると、何胤は謝朏がすでに召しに応じたと知り、王杲之に答えて言った。「私はすでに五十七歳、月に四斗の米も食べ尽くせない。どうしてまた官途への志がありえようか。」王杲之は顔色を失って答えられなかった。何胤は反って言った。「卿はどうして伝詔(使者)を朝廷に返して上表させず、留まって私とともに遊ばないのか。」王杲之は愕然として言った。「古今この例は聞きません。」何胤は言った。「檀弓の両巻は、すべて物事の始まりを言っている。卿から始めればよい。必ずしも先例が要るものか。」何胤と謝朏はともに前代の高士であったが、何胤の名声は特に勝っていた。

王杲之が戻り、何胤の意向を奏上すると、詔があり白衣の尚書としての俸禄を与えた。何胤は固辞した。また詔があり山陰の庫銭から月に五万を給するとしたが、また受けなかった。そこで何子朗・孔寿ら六人に命じて東山で学問を受けさせた。太守の衡陽王蕭元簡は深く礼敬を加え、月にしばしば車を駕してその門を訪れ、終日談論した。

何胤は若邪山が地形が狭く、学徒を収容できないとして、秦望山に移った。山に飛泉があったので、学舎を建て、林を利用して垣とし、岩を利用して壁とした。別に小さい合室を作り、その中に寝起きし、自ら戸を開閉し、童僕も至ることができなかった。山の側に二頃の田を営み、講義の合間に生徒たちとそこを巡った。何胤が移り住んで室を築こうとした時、突然二人の人物が玄冠をかぶり、容貌甚だ偉い者が現れ、何胤に問うて言った。「君はここに住もうとするのか。」そして一つの場所を指して言った。「ここは殊に吉である。」忽然として見えなくなった。何胤はその言葉に従って占った。まもなく山に洪水が起こり、樹木や岩石はすべて倒れ引き抜かれたが、ただ何胤の居室のみが巍然として独り残った。蕭元簡は記室参軍の鍾嶸に命じて瑞室頌を作らせ、石に刻んでこれを顕彰した。

蕭元簡が郡を去る時、山に入って何胤と別れを告げた。何胤は都賜埭まで送り、郡を去ること三里の所で、言った。「私は人との交わりを捨てて以来、交遊の道は絶えている。貴人が山藪に降りて来られなければ、どうしてまた城邑を望むことができようか。この埭での遊びは、今を限りで絶えるであろう。」手を握って涙を流した。

何氏が長江を渡って以来、晋の 司空 しくう の何充から並んで呉の西山に葬られていた。何胤の家系はみな年寿が永くなく、ただ祖父の何尚之のみが七十二歳まで生きた。何胤が祖父の寿齢に達すると、呉に移り戻し、別山の詩一首を作り、言葉は甚だ悲愴であった。

呉に至り、武丘山の西寺で経論を講じると、学僧たちもまた彼に従った。東境の地方長官でその地を通る者は、ことごとく訪れた。何胤は常に殺生を禁じていた。ある時、虞人が鹿を追うと、鹿はまっすぐに何胤のもとに走り寄り、伏して動かなかった。また、鶴のようで赤い色をした異鳥が講堂に集まり、馴れて家禽のようであった。

初め、開善寺の蔵法師が秦望山で何胤と出会い、後に都に戻り、鍾山で死去した。その死んだ日、何胤が波若寺にいると、一人の名僧が現れ、何胤に香炉の箱と函に入った書物を授け、言った。「貧道は揚都より発し、何居士に呈する。」言い終わると所在がわからなくなった。何胤が函を開くと、それは大荘厳論で、世の中に未だなかったものであった。香炉を尋ねると、それは蔵公が常用していたものであった。また寺内に明珠柱を立てると、柱は七日七夜光を放った。太守の何遠がその状況を昭明太子に啓上すると、太子はその徳を欽慕し、舎人の何思澄に手令を持たせて褒め称えさせた。中大通三年に卒去。八十六歳。

先に何胤が病んだ時、妻の江氏が夢に神が告げるのを見た、「汝の夫の寿命は尽きたが、既に至徳があるので、延びるべきである。爾が代わるべし。」妻は覚めて語ったが、やがて病を得て亡くなり、胤の病は癒えた。ここに至って胤は夢に一人の神女と八十人ばかりの人々を見た、皆衣帢を着て、行列して前に立ち、ともに床下に拝した。覚めてもまたそれを見たので、直ちに凶具を準備させた。既にして病が重くなり、再び癒えることはなかった。

初め、何胤は味に贅沢で、食えば必ず方丈の膳であったが、後には次第に甚だしいものを除こうとし、それでも白魚、夔脯、糖蟹を食し、生き物を見ないものとしていた。蚶蠣を食すことを疑い、門人に議論させた。学生の鍾岏が曰く、「夔が脯となるのは、屈伸を繰り返すことであり、蟹が糖漬けになるのは、躁擾が甚だしい。仁人の心遣いは、深く痛む思いである。車螯蚶蠣に至っては、眉目が内に欠け、渾沌の奇に恥じ、獰猛な殻が外を閉ざし、金人の慎みではない。悴せず栄えず、草木にも及ばず、馨も無く臭も無く、瓦礫と何の違いがあろう。故に長く庖厨に充ち、永く口実となるに宜しい。」竟陵王蕭子良は岏の議を見て大いに怒った。汝南の周顒が何胤に書を送り、菜食を勧めて曰く、「変わりの中で大きいものは、死生に過ぎず、生において重んずるものは、性命に越えるものはない。性命は彼にとって極めて切実であり、滋味は我にとっては疎かにできる。もし三世の理が虚偽ならば、それは幸いで大いに快いが、もしこの道が真実で、形を受けることが未だ止まず、一往一來、生死は常の事であるならば、心を傷つける惨事は、行くところ自らにも及ぶ。丈人は血気の類について、自らは践まないとしても、晨鳧夜鯉に至っては、屠門に備えることを取らざるを得ない。財貝が盗人の手を経ることでさえ、廉士に棄てられるのに、生あるものが一旦鑾刀を啓かれれば、どうして慈心が忍ぶことができようか。騶虞は飢えていても、自ら死んだ草でなければ食わない、その風を聞けば、どうして人を多く愧じさせないことがあろうか。丈人はこのことを得て素よりある、聊か片言を以て発起するのみである。」故に何胤は末年遂に血味を絶った。

何胤は『百論』『十二門論』に各一卷の注を付け、『周易』十卷、『毛詩総集』六卷、『毛詩隠義』十卷、『礼記隠義』二十卷、『礼答問』五十五卷を注した。子の何撰も仕えず、高風があった。

何胤の従弟に何炯がいる。

何炯は字を士光といい、何胤の従弟である。父は何撙、太中大夫であった。何炯は十五歳の時、何胤に就いて学業を受け、一期の間に五経の章句を並びに通じた。色白く容貌美しく、従兄の何求、何點が常に言った、「叔宝は神が清く、杜乂は膚が清い、今この子を見れば、また衛玠、杜乂が目に見えるようだ。」従兄の何戢が人に謂って曰く、「この子はただ我が門の宝であるだけでなく、一代の偉人でもある。」

何炯は常に恬退を慕い、進んで仕えることを好まなかった。従叔の何昌宇が謂って曰く、「何求、何點は既に高蹈している、汝は再びそうあるべきではない。且つ君子の出処もまた各々一つの途がある。」

十九歳で、解褐して揚州主簿となり、秀才に挙げられ、累遷して梁の仁威将軍南康王の限内記室、書侍御史となった。父の病気のため解任を陳請した。何炯は病気の父に侍すること十余日、衣を解かず帯を緩めず、頭を櫛で梳らず沐せず、二晩の間に、形貌は頓に改まった。父が卒すると、号慟して声が絶えず、地に臥して腰脚が虚腫した。医者が云うには、「豬蹄湯を服すべきである。」と。何炯は肉味があるので服することを肯わず、親友が譬えて請うたが、終に応じず、遂に毀瘠して卒した。

先に家人に謂って曰く、「王孫、玄晏の崇尚する所は同じからず、長魚、慶緒の事は為すを得たり。必ず儉にして礼に中り、苟も異なることを取るなかれ。月の朝十五日には、一甌の粗粥を置き、常日進む所の如くせよ。」また両兄が共に仕進に淡泊であったことを傷み、故に禄が及ばず、今より後、温飽の資無からんことを恐れた。乃ち漼然として涙を下し、外には言う所無かった。

何尚之の従子に何昌宇がいる。

何昌宇は字を儼望といい、何尚之の弟の子である。父は何佟之、侍中に位した。何昌宇は幼くして清靖で、独立して群れず、交わる者は必ず当世の清名ある者であり、是以風流籍甚であった。宋に仕えて尚書儀曹郎、建平王劉景素の征北将軍南徐州府主簿となり、風素を以て重んぜられた。母が老いて禄を求めたので、出て湘東太守となった。還って斉の高帝の驃騎功曹となった。

何昌宇が郡に在った時、景素が誅殺され、昌宇はこれを痛み、ここに至って高帝に上啓してその冤罪を理め、また 司空 しくう 褚彥回に書を送って極言した。高帝はその義を嘉した。歴位して中書郎、王儉の衛軍長史となり、王儉が何昌宇に謂って曰く、「後に朝事を任す者は、卿でなくて誰か。」

臨海王蕭昭秀が荊州となると、何昌宇を西中郎長史、南郡太守とし、荊州事を行わせた。明帝が践阼せんとし、先に裴叔業を使わして旨を喪って詔し、何昌宇に便宜を以て事を行わせようとした。何昌宇は拒んで曰く、「国家は身を委ねて上流の重きを任じ、身を付して万里の事を託した。臨海王に失い無く、どうして君の単なる詔に従えようか。即時に自ら啓聞し、反って更に議するを須う。」叔業曰く、「もし然らばこれ詔を拒むことなり、詔を拒めば、軍法にて事を行わんのみ。」答えて曰く、「能く殺すを見る者は君なり、能く詔を拒む者は僕なり。君は殺すを見ることができず、政めに沿流の計有るのみ。」何昌宇は素より名徳有り、叔業は逼ること敢えずして退いた。上は聞いてこれを嘉し、昭秀はこれによって都に還ることができた。

何昌宇は後に吏部尚書となり、嘗て一客有りて姓は閔、官を求めた。何昌宇が謂って曰く、「君は誰の後か。」答えて曰く、「子騫の後なり。」何昌宇は団扇で口を掩って笑い、座客に謂って曰く、「遙遙たる華胄なり。」

何昌宇は交遊を雑ぜず、通和して泛くに愛し、歴郡皆清白を以て称された。後に侍中、領 ぎょう 騎将軍の時に卒した。太常を贈られ、諡して簡子といった。子に何敬容がいる。

何昌宇の子に何敬容がいる。

敬容は字を國禮といい、弱冠にして齊の武帝の女長城公主を娶り、駙馬都尉に任ぜられた。梁の天監年間、建安内史となり、清廉公正で美しい治績を挙げ、吏民に称えられた。累進して吏部尚書を守り、官吏の選考序列を明らかに審査し、称職と号された。出て吳郡太守となり、政務は民の苦しみを労り、訴訟を裁くこと神の如く、職務に当たること四年、治績は天下第一となった。吏民が宮闕に赴いて碑を建てることを請うと、詔してこれを許した。再び吏部尚書・侍中となり、太子中庶子を領した。

敬容は身長八尺、色白く鬚眉美しく、性質は謹厳で、衣冠は鮮やか麗しかった。武帝は自らは洗いざらしの衣を着ていても、左右の者の衣は必ず清潔でなければならなかった。かつて侍臣の衣帯が巻き折れていたことがあり、帝は怒って言った、「卿の衣帯は縄のようである、何を縛ろうとするのか」。敬容は帝の意を迎えようとしたので、ますます鮮明にした。常に膠の清きもので鬚を刷り、衣裳が整わないときは、床に伏してこれを熨し、あるいは暑い月には背中が焦げるほどであった。公庭に列するごとに、容姿举止は人に抜きん出ていた。尚書右僕射となり、選事に参与してこれを掌った。左僕射・丹陽尹に遷り、ともに従前の如く大選を参与して掌った。

敬容は賓朋と応対するときは、言葉は訥弁のようであったが、二宮(天子と太子)に酬答するときは、音韻が調子よく流暢であった。大同年間、朱雀門が火災に遭い、武帝が群臣に言った、「この門は造りが狭い、私は改めて構えようと思い始めたところに、天火に遭った」。群臣は顔を見合わせて答えなかったが、敬容だけが言った、「これはいわゆる天に先んじて天違わず、というものでございます」。時に名答とされた。

五年、 尚書令 しょうしょれい に改められ、従前の如く選事に参与した。敬容は久しく台閣に処し、 しん ・魏以来の旧事に詳しく通じ、かつ聡明で識見に達し、簿領に勤勉で、早朝から政務を処理し、日が暮れても休まなかった。職は高く任は重く、機密に専ら預かったが、草隸を書くのは拙く、学術には浅く、贈り物のやり取りには通じ、賄賂がなければ少しも言葉を交わさなかった。 しん ・宋以来、宰相は皆文義をもって自ら逸楽していたが、敬容だけは庶務に勤しみ、貪欲吝嗇で当時に嗤笑軽蔑された。

その署名する「敬」の字は、大きく書くときは「苟」、小さく書くときは「文」とし、「容」の字は大きく書くときは「父」、小さく書くときは「口」とした。陸倕が戯れて言った、「公の家の『苟』は既に奇しく大きく、『父』もまた小さからず」。敬容は遂に答えることができなかった。また禁中の言葉を漏らすことが多く、故に嘲り誚られることが日に日に至った。かつて吉という姓の客があり、敬容が問うた、「卿は邴吉と遠近は如何」。答えて言った、「明公が蕭何とされるようなものでございます」。時に蕭琛の子の巡は軽薄の才頗るあり、卦名・離合などの詩を作ってこれを嘲ったが、敬容も屑としなかった。

帝はかつて朝服を具えて太廟に入り、拝伏して悲感する夢を見、朝に延務殿で見た夢を語った。敬容が対えて言った、「臣は聞きます、孝悌の至りは神明に通ずると。陛下の天性は天に通じます故に、この夢に応じて感ずるのでございます」。上は大いに然りとし、直ちに陵を拝する議があった。

後に妾の弟の費慧明が道倉丞として夜に官米を盗み、禁司に捕らえられ、領軍府に送られたことで連座した。時に河東王の蕭譽が領軍であった。敬容は手紙で慧明を釈放するよう頼んだ。蕭譽は以前に依頼された事が行われなかったので、このため即座にその手紙を封じて上奏した。帝は大いに怒り、南司に付して推問させた。御史中丞の張綰が敬容が私に協力して上を欺いたと奏上し、棄市に合うとした。詔して特に関職を免じた。到溉が朱異に言った、「天候がようやく晴れ渡ったようだ」。そのように嫉まれたのである。

初め、沙門の釈宝志がかつて敬容に言った、「君は後必ず貴くなるが、終には『何』によって敗れるであろう」。敬容が宰相となったとき、何という姓がその禍となると考え、故に宗族を抑えて没落させ、仕進する者を無くしたが、ここに至って竟に河東王によって敗れたのである。

中大同元年三月、武帝が同泰寺に行幸して金字の三慧経を講じたとき、敬容は聴講に預かることを啓上し、勅許された。また起用されて金紫光禄大夫となり、拝受せず、さらに侍中を加えられた。敬容の旧時の賓客門生は昔のように喧嘩し、その再起用を期待した。会稽の謝鬱が手紙を送ってこれを戒めて言った。

草莽の者である私が、巷の噂に聞くところでは、君侯は既に朝夕に天顔を拝し、禁門を出入りできるようになられたとか。酔った尉も敢えて呵することなく、灰が再び燃え始める兆しも無くはない、大変結構なことです。敢えて前に賀し、また将に弔おうとします。

昔、流言が裁して至ると、周公旦は東奔し、燕からの書が始めて来ると、霍子孟(霍光)は入らなかった。聖賢でさえ虚偽の過ちを被って自ら退くのであり、時に隙があってなお親しみを求める者は無い。かつて暴鰓の魚は杯酌の水を念わず、雲霄の翼は籠樊の糧を顧みない。何故か。託する所が既に盛んなからである。昔、君侯は納言(尚書)として首に加え、鳴玉を腰に帯び、豊かな貂尾を翻して文昌(尚書省)に歩み、高き蝉の冠を聳やかせて武帳に趨った。盛んなことと言えよう。この時に才を薦め士を抜き、少しでも聖主の恩に報いることをせず、今、卒に爰絲(爰盎)の説く如く、責めを受けて過ちを見られ、方また更に朝廷を窺い、万分の一を望むとは、窃かに左右の取るところとはしません。昔、竇嬰・楊惲もまた明時に罪を得て、賓客を謝絶できず、なお党援を交わし、遂に後の福無く、終には前の禍を増すのみでした。私の弔うところ、実にここにあります。

人々がなお君侯の門に踵を接する所以は、必ずしも皆恩恵を感じ仁を懐き、灌夫・任安の義があるからではなく、ただ翟公の大いなる掲示を戒めとし、君侯の再起用を期待しているのです。過ちを思う日に在って、再起用の意を挟むことは、智者に説くべくもありません。君侯は宜しく門を閉じて過失を思い、通ずる所無く、鍾阜に茅葺きの屋を築き、聊か優遊して歳を卒え、憐れむべき意を見せ、終わりを待つ情を著わし、仲尼の能く改むの言を復し、子貢の更なりの譬えを思い、少しでも衆口の言を止め、微かに竹帛に自救いし、いわゆる「東隅に失い、桑榆に収む」と為すべきです。このようにして、明主に聞こえ知らしめれば、なお望みがあるでしょう。

私は東皋の鄙人、穴居して幸いに貧乏の恥辱無く、天下の士たる者として恥ずかしく思い、執事にこれを説かぬわけにはいかず、故に肝胆を披き、情素を示します。君侯はどうかこれを鑑みて下さい。

太清元年、太子詹事に遷り、侍中は従前の如くであった。二年、侯景が建鄴を襲撃すると、敬容は邸から家族を台城内に移した。初め、侯景が渦陽で退敗したとき、確実な情報が得られず、伝える者はその将の暴顯が反逆し、侯景自身と兵衆は共に没したと言った。朝廷はこれを憂えた。敬容がまもなく東宮に参上すると、簡文帝が言った、「淮北からようやくまた便りがあり、侯景はきっと身をもって免れた」。敬容は言った、「侯景が死んだならば、深く朝廷の福です」。簡文帝は色を失い、その故を問うと、答えて言った、「侯景は翻覆する叛臣、終には国を乱すでしょう」。

この年、簡文帝は頻りに玄圃で自ら老荘の二書を講じ、学士の呉孜が時に詹事府に寄寓し、毎日聴講に入った。敬容は呉孜に言った、「昔、 しん 氏の喪乱は、頗る虚玄を祖尚したことによるもので、胡賊遂に中夏を覆した。今、東宮がまたこれを襲うとは、殆ど人事ではなく、戎(異民族)の為す所となるであろう」。間もなく侯景の乱が起こり、その言葉は徴があったのである。三年、包囲された城内で卒した。

何氏は、晋の 司空 しくう 何充、宋の 司空 しくう 何尚之が仏法を奉じ、ともに塔寺を建立して以来、敬容に至ってはまた邸宅の東を捨てて伽藍とし、権勢に趨る者がこれに因って財を助けて造営したが、敬容は一概に拒まず、故に寺の堂宇は甚だ宏麗であった。時に軽薄な者はこれに因って「衆造寺」と呼んだ。敬容が免職されて邸宅を出るに及んで、ただ常用の器物及び囊衣のみあり、竟に余分の財貨無く、時にこれをもって彼を称えた。

敬容は特に従兄の何胤に親愛され、胤が若邪山に在って嘗て病篤く、書に云う、「田疇館宇は悉く衆僧に奉じ、書経は並びに従弟敬容に帰す」と。その知られしこと此の如し。敬容はただ一子有り、年始めて八歳。吳に在り、臨んで還るに当たり胤と別れんとし、胤名を問う。敬容曰く、「仍ち兄に就きて名を求めんと欲す」と。胤即ち紙筆を命じ、名を玨と曰う。曰く、「書に云う、両玉を玨と曰う。吾と弟、二家此の一子を共にす、所謂鈺なり」と。位は秘書丞、早卒す。

論じて曰く、尚之は雅道を以て自ら処し、公輔に致るを用い、己を行う跡は、動もて閑を踰えず。及んで洗合して譏を取るに至り、皮冠して誚を獲る、貞粹の地は、高人未だ之を全く許さず。然れども父子一時に並び処りて権要に在り、屯詖を経るも、咸に功名を以て自ら卒す、古の所謂巧宦は、此れを之れ謂うか。点・胤の弟兄は俱に遁逸と雲えども、其の蹈履を求めれば、則ち山林と曰うに非ず、其の持身を察すれば、則ち未だ名譽を捨てず。夫子皙の慧景に赴くを観、子季の敬沖を矯るるを観るに、跡を以て心を以て、居然として測る可し。而して高く自ら標緻し、一代帰宗す、之を以て入用するは、未だ取る所を知らず。斯れ殆ど虚勝の風、江東の尚ぶ所、然らずんば何を以てか此れに至らんや。昌宇は雅に名節を仗し、殆ど人望と曰う。敬容は材実幹蠱有り、賄にて業を敗る、惜しいかな。

原本を確認する(ウィキソース):南史 巻030