南史
卷二十九
列傳第十九
蔡廓
蔡廓は広く群書に渉猟し、言行は礼に則り、著作佐郎として起家した。後に宋の武帝の太尉参軍・中書黄門郎となり、方正で剛直、閑静で質素なことにより、武帝に知られた。累遷して太尉従事中郎となったが、拝命せず、母の喪に遭う。性は至孝で、三年間櫛を使わず髪を洗わず、ほとんど喪に堪えられぬほどであった。
宋の台( 尚 書省)が建てられると、侍中となり、建議して「獄を審理するに、子孫に供述させて父祖の罪を明言させるのは不適当である。教化を損ない人情を傷つけること、これより甚だしいものはない。今後はただ家人に囚人と面会させるだけでよく、再審を求める訴えがなければ、すでに罪を認めたことを明らかにするのに十分であり、家人に供述させる必要はない」とした。朝議はこれに従った。
世子左衛率の謝霊運が人を殺すと、御史中丞の王準之は糾弾しなかった罪で免官された。武帝は廓の剛直さを以て、御史中丞に補任した。多くを糾弾上奏し、百官は震え肅然とした。当時、中書令の傅亮は任寄が重く、学問は当世に冠たり、朝廷の儀礼典章は皆亮の決定に委ねられていた。亮は何事も廓に諮問してから実行し、亮の意見に異なることがあっても、廓は終に屈しなかった。 司徒 左長史に遷り、出向して 豫 章太守となった。
吏部尚書に徴された。廓は北地の傅隆を通じて亮に問うた「選任の事柄を全て私に任せてくだされば、異論はない。そうでなければ、拝命できない」。亮はこの言葉を録尚書の徐羨之に伝えると、羨之は言った「黄門郎以下は全て蔡に委ねよう。我々はもはや気にかけない。それ以上は、やはり共に異同を参酌すべきだ」。廓は言った「私は徐幹木のために紙末に署名することはできない」。遂に拝命しなかった。幹木は、羨之の幼名である。選任の案は黄紙に記し、録尚書と吏部尚書が連名するので、廓は紙末に署名すると言ったのである。羨之もまた廓の正直さから、彼を権要の地位に置きたくなく、祠部尚書に転任させた。
(前後の文脈が欠けており、独立した行として訳出)不可である。ただ二人の兄を殺し、その者を北面させ、主君を震わせる威勢を頼み、上流の要地を拠点としている。古を以て今を推すに、自ら免れることは難しいであろう。
廓は年齢も地位も軽かったが、当時の名流に推重され、毎年節句には、皆帯を締めてその門を訪れた。兄の軌を父のように奉じ、家事の大小を問わず、諮問してから実行し、公の俸禄や賞賜は全て軌に納め、必要なものがあれば、全て管理者に請うた。武帝に従って彭城にいた時、妻の郗氏が手紙を寄こして夏服を求めた。廓は返書に答えて「夏服が必要と知る。給事中(兄軌)が自ら供給すべきと考える。別に送る容れ物はない」と言った。当時、軌は給事中であった。元嘉二年、廓は卒去した。武帝は常に言った「羊徽と蔡廓は、平世の三公となしうる」と。末子が興宗である。
興宗は字を興宗といい、幼い時から父の廓に重んじられ、己に似た風格があると言われた。親しい旧知に手紙を書いて「小児は四歳で、神気はよろしいようだ。非類の室に入らず、小人と遊ばない」と言った。故に興宗を名とし、興宗を字としたのである。
十歳の時に父を喪い、哀傷して身を毀すことは凡庸な童子とは異なっていた。廓が 豫 章郡を罷めて帰還し、二つの邸宅を建て、先に東の宅を完成させて兄の軌に与えた。軌が長沙郡を罷めて帰還し、五十万銭を送って宅の代価の足しにしようとした。興宗は十一歳で、母に言った「一家は元来、豊かさも倹約も必ず共にするものです。今日の宅の代価は受けるべきではありません」。母は喜んでこれに従った。軌は深く慚愧の色を示し、その子の淡に言った「私は六十歳だが、行いが十歳の小児に及ばない」。間もなくまた母を喪った。
若くして学問を好み、業を尚び素行が確立していると称えられ、中書侍郎となった。中書令の建平王劉宏、侍中の王僧綽は共に彼と親しく善しとした。元凶(劉劭)が 弑 逆して即位すると、僧綽は誅殺され、凶悪な威勢が盛んな時、親しい旧知は敢えて赴く者もなかったが、興宗だけが臨んで哭し、哀悼の情を尽くした。
孝武帝が践祚すると、累遷して尚書吏部郎となった。当時、尚書の何偃が病気であった。上(孝武帝)は興宗に言った「卿は清濁(人物の優劣)に詳しく練達している。今、選任の事柄を卿に任せる。直ちに門を開いてこれを担当せよ。遠慮する必要はない」。
後に侍中に拝され、毎回正しい言論で得失を論じ、顧み憚ることがなかった。孝武帝が新年に陵墓を拝謁する時、興宗は璽を背負って陪乗した。帰還する際、上はこれに因んで雉を射ようとした。興宗は厳しい顔色で言った「今、園陵に虔敬を致すのは、情も敬いも共に重いことです。鳥獣を追うことはまだ日を改めることができます。どうか他の日をお待ちください」。上は大いに怒り、下車を命じて遣わした。これにより上意を失った。竟陵王の劉誕が広陵に拠って叛逆し、事が平定されると、孝武帝の車駕は宣陽門を出た。左右の文武に命じて万歳を叫ばせた。興宗は時に輦に陪乗していた。帝は振り返って言った「卿だけが叫ばないのか」。興宗は落ち着いて厳しい顔色で答えた「陛下は今日、まさに涕泣して誅罰を行うべきであり、どうして軍中で皆が万歳を称することができましょう」。帝は快く思わなかった。
興宗は詔を奉じて広陵を慰労し、州別駕の範義は興宗と平素より親しく、城内で同じく誅殺された。興宗が到着すると、自ら収殯し、喪を致して 豫 章の旧墓に還した。上(皇帝)は聞いて言った、「卿はどうして敢えて故意にこのように法網に触れるのか」。興宗は抗言して答えた、「陛下は自ら賊を殺し、臣は自ら周旋(友人)を葬ります。既に厳しい制を犯した以上、まさに斧鉞(刑罰)に甘んずるのみです」。帝は慚愧の色を示した。また廬陵内史の周朗が正言を以て罪を得、鎖をかけられて甯州に送られることとなり、親戚故人で敢えて見送る者はいなかったが、興宗は当時直(宮中当直)にあり、急を請い、朗のもとに別れを告げに行った。上は知って特に怒った。病気を理由に多日間出仕せず、白衣(無官の身)のまま職務を掌った。
後に廷尉卿となり、解士先という者が申坦が昔丞相の義宣と共謀したと告げた。時に坦は既に死んでおり、子の令孫は山陽郡に在り、自ら廷尉に縛られて出頭した。興宗が議して言うには、「もし坦が昔の首謀者であり、その身が今も尚存するならば、累次の赦しを経ているとしても、なお宥されるべきである。令孫は天属(肉親)であり、理として互いに隠すべきである。況や人亡び事遠く、追って誣告し合うことを、礼律を以て断ずれば、義として関わるべきではない」。この意見は容れられた。
出て東陽太守となり、後に左戸尚書に転じ、吏部を掌る。時に上(皇帝)は盛んに淫宴を催し、群臣を虐げ侮り、江夏王義恭以下皆穢辱を加えられた。ただ興宗のみは方正剛直で憚られ、侵され侮られることはなかった。尚書僕射の顔師伯が儀曹郎の王耽之に言った、「蔡尚書は常に昵戯(親しい戯れ)を免れ、人から実に遠い」。耽之は言った、「蔡 豫 章(興宗の父蔡廓)は昔相府(丞相府)にあっても、方正厳格で親しみを狎れず、武帝が宴私の日にも、嘗て召されることはなかった。毎に官賭(公の賭け事)に至っては、常に勝ち組にいた。蔡尚書は今日、能く負荷(先人の志を継ぐ)したと言えよう」。
大明の末、前廃帝が即位すると、興宗は太宰の江夏王義恭に策文が必要であると告げた。義恭は言った、「儲副(皇太子)を立てたのは、本来今日のためであり、また何ぞこれを用いん」。興宗は言った、「累朝の故事、然らざるは莫し。近く永初の末、営陽王が即位した時にも文策があり、今尚書に在り、検視すべきです」。従わなかった。
時に義恭は録尚書として、遺詔を受けて幼主を輔政し、阿衡(補佐)の任にあったが、身を引いて事を避け、政は近習に帰した。越騎 校尉 の戴法興、中書舎人の巣尚之が朝権を専制し、威は近遠に行き渡った。興宗は職として九流(官吏の流品)を管掌し、銓衡(人材評価)の任を寄せられており、毎に上朝するごとに、令・録以下に対し賢を登用し士を進める意を陳べ、また得失を箴規し、朝政を博く論じた。義恭は元来臆病で 撓 やすく、法興に阿順し、常に旨に背くことを慮り、興宗の言を聞くごとに、戦慄して策無かった。
先に、大明の世は奢侈度を越え、多く造営し、賦調は煩厳で、征役は過酷であったが、この時に至り詔を発して悉く削除することとした。これにより紫極殿南北の馳道の類は皆毀壊され、孝建以来大明末に至るまでの凡ゆる制度、存するものは無かった。興宗は都坐(尚書省の政庁)で慨然として顔師伯に言った、「先帝は盛徳とは言えぬまでも、道を以て始終した。三年改めざるは、古典の貴ぶところである。今殯宮(殯の宮)始めて撤き、山陵(陵墓)未だ遠からず、而して凡ゆる制度興造、是非を論ぜず、一皆刊削するは、復た禅代(易姓革命)にしても、此の如くには至らぬ。天下の識者有りて、当に此を以て人を窺うべし」。師伯は用いなかった。
興宗が毎に選事(人事任用案)を奏上すると、法興・尚之らは直ちに点定し回換(書き換え)し、僅かに存するもののみであった。興宗は朝堂で義恭及び師伯に言った、「主上は諒闇(喪中)にあり、万機に親しまず、選挙の密事は多く刪改され、もはや公(義恭)の筆跡ではなく、是れ如何なる天子の意か知らぬ」。王景文・謝荘らの遷授は順序を失い、興宗は又これを美選(良い地位)に改めようとした。時に薛安都は 散騎常侍 ・征虜将軍、太子率の殷恒は中庶子であった。興宗は先に安都を左衛将軍に選び、常侍は元の如く、殷恒を黄門とし、校(領校?)を領せしめようとした。太宰(義恭)は安都の官が多すぎることを嫌い、単に左衛のみとしようとした。興宗は言った、「率と衛とは、幾何の隔たりがあるというのか。且つ既に征虜を失い、超越(越格昇進)にあらず、復た常侍を奪うは、則ち頓に降貶となる。若し安都が晩節に微人(卑しい者)の過ちを犯したとして、本宜しく裁抑すべきというならば、名器を軽んぜず、宜しく選序(選任の順序)有るべく、謹んで選体(選任の体裁)に依るのであり、安都に私するのではない」。義恭は言った、「若し宮官(東宮の官)に越授を加うべきならば、殷恒は便ち侍中となるべきで、何ぞ黄門に止まるのみならんや」。興宗は又言った、「中庶と侍中とは、相去ること実に遠し。且つ安都は率を十年作り、殷恒は中庶百日、今又校を領するは、少なからず」。選令史の顔禕之・薛慶先等を遣わして往復論執させ、義恭は然る後に案(文書)に署名した。既にして中旨(内旨)により安都を右衛とし、給事中を加えた。これにより大いに義恭及び法興らに忤った。興宗を出して呉郡太守とす。固辞し、又転じて南東海太守とす。また拝せず、苦しく益州を求めた。義恭はここにおいて大いに怒り、上表して興宗の過失を言上した。詔して外に付して詳議せしむ。義恭は因って 尚書令 の柳元景に奏せしめ、興宗及び尚書の袁湣孫が私相許与し、自ら相選署し、群を乱し政を害し、大猷(大道)を混穢すと。ここにおいて興宗を新昌太守と除す。郡は交州に属す。朝廷喧然として、嗟駭せざるは莫し。先に、興宗は何后寺の尼の智妃を妾とし、姿貌甚だ美しかった。迎車既に出発したが、師伯が密かに人を遣わして誘い、潜かに往き載せ取ったので、興宗は迎え入れることができなかった。及んで興宗が徙(左遷)せられた時、論者は皆師伯のためと言い、師伯は甚だ病(苦)とした。法興らは既に大臣を徙すことを名とせず、師伯も又物議を止息せんと欲し、これにより行(左遷)を停めた。
間もなく、法興は殺され、尚之は捕らえられ、義恭・師伯は共に誅殺され、復た興宗を起用して臨海王子頊の前軍長史・南郡太守とし、荊州事を行わしめようとしたが、行かなかった。時に前廃帝は凶暴であり、興宗の甥の袁顗は雍州刺史として、固く興宗に行くことを勧め、言った、「朝廷の形勢、人情の見る所、内に在る大臣は朝夕保ち難い。舅今陝西(荊州方面)に出て居り、八州行事たり、顗は襄・沔に在り、地勝り兵強く、江陵に咫尺し、水陸通便なり。若し一朝事有らば、共に桓・文の功を立てんことを得べし。豈に凶狂に制を受けて、禍難測るべからざる者と同年に語らんや」。興宗は言った、「吾は素門(寒門)より平進し、主上と甚だ疎く、患い有るを容れず。宮省内外既に人自ら保たず、比者(近頃)応に変有るべし。若し内難得て 弭 めば、外釁(外患)未だ必ずしも量るべからず。汝は外に全きを求めんと欲し、我は内に居りて禍を免れんと欲す。各其の見る所を行う、亦善からずや」。時に士庶危惧し、衣冠(士大夫)皆遠く徙らんと欲し、後皆外難に流離し、百に一も存せず。
重ねて吏部尚書を除かれる。太尉沈慶之は危禍を深く慮り、門を閉ざして賓客を通じず、嘗て左右の範羨を遣わして興宗に属事せしむ。興宗、羨に謂ひて曰く、「公は門を閉ざし客を絶つは、以て悠悠の請謁を避くるのみ。身に求むる所あるに非ず、何を以てか拒まれる。」羨、復命す。慶之、興宗を要せしむ。興宗、因りて之を説きて曰く、「主上の比者の行はるる所、人倫の道尽きたり。今忌憚する所、唯公に在り。公の威名素より著はしく、天下服する所なり。今挙朝惶惶たり、人危怖を懐く。指撝の日、誰か影従せざらん。其の断たざるが如くんば、旦暮に禍及ばん。僕、昔貴府を佐け、眷を蒙ること異常なり。故に敢へて言を尽くし、願くは其の計を思へ。」慶之曰く、「僕、比日、前慮して復た自保せず。但だ忠を尽くし国に奉じ、始終之を以てす。正に天に委ね命に任すべきのみ。加ふるに老いて私門に罷み、兵力頓に闕く。其の意有りと雖も、事亦従ふ無からん。」興宗曰く、「当時、謀を懐き奮はんと思ふ者は、復た富貴を要し、功賞を期するに非ず。各々朝夕の死を救はんと欲するのみ。殿内の将帥、正に外間の消息を聴く。若し一人首を唱へば、則ち俯仰に定む可し。況んや公の威風先づ著はしく、戎を統ぶること累朝、諸の旧部曲、宮省に布く。誰か従はざらん。僕、尚書中に在りて、自ら百僚を唱率し、前世の故事に案じ、更に賢明を簡び、以て社稷に奉ぜん。又朝廷の諸の行造する所、人間皆言ふ、公悉く之に 豫 る、と。今若し沈疑して決せずんば、当に公に先だちて事を起す者有らん。公亦悪に附するの禍を免れざらん。且つ車駕屡々貴第に幸し、酣酔弥留す。又聞く、左右を斥屏し、独り閤内に入る、と。此れ万世の一時、機失ふ可からず。僕、眷を荷ふこと深重なり。故に梯を去るの言を吐く。公宜しく其の禍福を詳にすべし。」慶之曰く、「此の事大なり、僕の能く行ふ所に非ず。事至らば、政に忠を抱きて以て没すべきのみ。」之を頓つ。慶之果たして以て忌まれるを見て禍を致す。
時に領軍将軍王玄謨は大将として威名有り。邑裏に訛言有りて、玄謨当に大事を建つべし、或ひは已に誅せられたりと云ふ。玄謨の典簽包法栄は家を東陽にす。興宗の故郡の人なり。玄謨の信ずる所となり、使はして興宗の間に至らしむ。興宗、謂ひて曰く、「領軍、比日殊に憂懼すべし。」法栄曰く、「頃者殆ど復た食はず、夜も亦眠らず。恒に収むる者已に門に在り、俄頃を保たずと云ふ。」興宗、法栄に因りて玄謨を勧めて事を挙げしむ。玄謨、又法栄をして報ぜしめて曰く、「此れ亦未だ易く行ふ可からず。其れ当に君の語を泄らさざるべし。」右衛将軍劉道隆は帝の寵信する所となり、専ら禁兵を統ぶ。乗輿、当に夜著作佐郎江斅の宅に幸す。興宗、馬車に乗りて従ふ。道隆、車後に従ひて過ぐ。興宗、謂ひて曰く、「劉公、比日一閑写を思ふ。」道隆、此の旨を深く達し、興宗の手を掐みて曰く、「蔡公、言ふ勿れ。」
時に帝は毎に朝宴に因り、群臣を棰毆す。驃騎大将軍建安王休仁以下、侍中袁湣孫等咸に陵曳せらるるを見る。唯だ興宗のみ免る。
頃くして、明帝大事を定む。玄謨、親故の吏郭季産・女婿韋希真等を責めて曰く、「艱難の時に当たりて、周旋の輩一言も相ひ扣発する者無し。」季産曰く、「蔡尚書、包法栄の道ふ所は、機に会はざるに非ず。但だ大事は行ひ難し。季産の言ふも亦何の益か有らん。」玄謨慚色有り。
明帝の事を起す夜に当たり、廃帝は横屍して太醫閤口にす。興宗、尚書右僕射王景文に謂ひて曰く、「此れ凶悖と雖も、是れ天下の主なり。喪礼を粗足らしむべし。若し直に此の如くんば、四海必ず将に人に乗ぜん。」
時に諸方並びに兵を挙げて反す。朝廷の保つ所は丹陽・淮南数郡、其の間の諸県或は已に賊に応ず。東兵は已に永世に至り、宮省危懼す。上群臣を集めて以て成敗を謀る。興宗曰く、「宜しく静を以て之を鎮め、至信を以て人に待つべし。比者、逆徒の親戚宮省に布く。若し法を以て之を繩せば、則ち土崩立至すべし。罪相及ばざるの義を明らかにすべし。」上之に従ふ。
尚書右僕射に遷る。尋いで衛尉を領す。明帝、興宗に謂ひて曰く、「頃日の人情言ふ所何如。事当に済むや否や。」興宗曰く、「今米甚だ豊賤く、而して人情更に安し。此を以て之を算すれば、清蕩必す可し。但だ臣の憂ふる所は、更に事後に在り。猶ほ羊公の言ふ既に平ぎての後、方に当に聖慮を労すべきが如し。」尚書褚彦回、手板を以て興宗を築く。興宗言ふこと已まず。上曰く、「卿の言ふ如し。」
赭圻平ぐ。函にて袁顗の首を送る。勅して従ひて南掖門楼に登りて以て之を観せしむ。興宗潸然として涕を流す。上悦ばず。事平ぎて、興宗を始昌県伯に封ず。固く譲るも許さず。 楽 安県伯に改封す。国秩の吏力、終に以て受けず。
時に殷琰、寿陽に拠りて逆を為す。輔国将軍劉勉を遣わして之を攻囲せしむ。四方既に平ぎ、琰城を嬰りて固く守る。上、中書をして詔を作りて琰に譬へしむ。興宗曰く、「天下既に定まり、是れ琰の順を思ふの日なり。陛下宜しく手詔数行を賜ふべし。今直に中書をして詔を作らしむれば、彼必ず真に非ずと疑はん。」従はず。琰詔を得て、劉勉の詐りて造る所と謂ひ、果たして敢へて降らず。久しくして乃ち帰順す。
先づ是れ、徐州刺史薛安都、彭城に拠りて反す。後使を遣わして款に帰す。泰始二年冬、鎮軍将軍張永を遣わして軍を率ひて之を迎へしむ。興宗曰く、「安都使を遣わして帰順す。此れ誠に虚しからず。今は単使一人・咫尺の書を須ふるに過ぎず。若し重兵を以て之を迎へば、勢ひ疑懼を生じ、或は能く北虜を招引し、患ひ測る可からず。」時に張永已に行く。信ぜられず。安都大軍の淮を過ぐるを聞き、果たして魏軍を引く。永戦ひ大敗し、遂に淮北四州を失ふ。其の先見此の如し。初め、永敗の問至る。上幹明殿に在り。先づ 司徒 建安王休仁を召し、又興宗を召す。休仁に謂ひて曰く、「吾蔡僕射に慚づ。」敗書を興宗に示して曰く、「我卿に愧づ。」
三年、出でて 郢州 刺史と為る。初め、呉興丘珍孫は言論常に興宗を侵す。珍孫の子景先は人才甚だ美なり。興宗之と周旋す。景先の鄱陽郡と為るに及び、会ふに晋安王子勳の逆を為すに、転じて竟陵に在り、呉喜に殺さる。母老ひ女幼く、夏口に流離す。興宗郢州に至り、親しく臨哭し、其の喪柩を致し、家累皆東還を得しむ。
会稽太守に遷り、兵を領し佐を置き、 都督 を加ふ。会稽は諸の豪右多く、王憲を遵はず。幸臣近習、宮省に参半す。山湖を封略し、人を妨げ政を害す。興宗皆法を以て之を繩す。又王公妃主多く邸舍を立て、子息滋長し、督責窮まり無し。啓して之を省罷せしめ、並びに諸の逋負を原し、雑役を解遣するを陳ぶ。並びに従はる。三呉旧に郷射の礼有り。元嘉中、羊玄保呉郡と為りて之を行ふ。久しく復た修めず。興宗之を行ふ。礼儀甚だ整ふ。
明帝が崩御すると、興宗は 尚書令 袁粲 ・右僕射褚彦回・中領軍劉勉・鎮軍将軍沈攸之と共に顧命を受けた。興宗を征西将軍・開府儀同三司・ 都督 ・荊州刺史とし、班剣二十人を加え、都に召還された。時に右軍将軍王道隆は国政に参与し、一時権勢を振るったが、興宗の前では履を引きずって進み、席に就くことを敢えず、久しくしてようやく去った。結局座らせようとはしなかった。元嘉の初め、中書舎人秋當が太子詹事王曇首を訪れた時、坐ることを敢えなかった。その後中書舎人弘興宗は文帝に寵遇され、上は彼に言った、「卿が士人たらんと欲するなら、王球の座に就くことができて初めて認められよう、殷・劉(の家)は雑であり益はない。もし球を訪れるならば、旨に従って席に就けと称せよ。」至った時、球は扇を挙げて言った、「君はそうすることはならぬ。」弘は帰り、事の次第を啓上した。帝は言った、「我といえどもかくの如きには如何ともし難し。」今に至り、興宗もまた同様であった。
道隆らは興宗が剛直であることを以て、上流に兵を擁せしめたくなく、 中書監 ・左光禄大夫・開府儀同三司に改めたが、固辞して拝受しなかった。
興宗は己れを行うに恭謹であり、光禄大夫北地の傅隆は父廓と親しく、興宗は常に父の友としての礼を修めた。また太原の孫敬玉はかつて興宗の侍児と私通し、捕らえられて手を後ろに縛られたが、興宗は杖を与えるよう命じた。敬玉は少しも恥じる様子がなかった。興宗はその言動を奇とし、縛を解くよう命じ、伎能を試みたところ、その筆札を高く評価し、侍児を賜い、家屋を建ててやり、位は尚書右丞に至った。悪を抑え善を揚げることはこのようであった。敬玉の子廉は梁に仕え、清廉な才能により位は御史中丞に至った。
興宗の家の行いは特に謹厳であり、帰宗した姑に仕え、寡婦の嫂に事え、孤児となった兄の子を養い、世に聞こえた。太子左率王錫の妻范は聡明な婦人であり、才学があった。書をして錫の弟僧達を譲り、「昔謝太傅は寡婦の嫂王夫人に慈母の如く仕え、今蔡興宗にも恭和の称がある。」と記した。世に重んぜられることはこのようであった。
妻劉氏は早くに亡くなり、一女は甚だ幼かった。甥の袁覬が初めて子彖を生んだが、妻劉氏もまた亡くなった。興宗の姉は即ち覬の母である。一孫一姪を自ら養育し、年齢も近く、婚姻させようと、興宗に会う度にこの意を言った。大明の初め、詔により興宗の女は南平王敬猷と婚することとなった。興宗は姉の平生の思いを以て、繰り返し上奏した。帝は答えて言った、「卿ら諸人が各々己れの意を行おうとするなら、国家はどうして婚姻を得られようか。かつ姉の言葉はどうして違えられぬところであろうか。」旧来の意に背き、彖もまた他に娶った。その後彖の家は良く終わらず、顗もまた禍敗し、彖もまた当時に淪落し、孤微にして理尽きた。敬猷は害に遇い、興宗の女は子なく寡居したが、名門高族は多く婚姻を結ぼうとした。明帝もまた謝氏に嫁ぐよう勅したが、興宗は共に許さず、女を彖に嫁がせた。
泰 豫 元年に卒し、年五十八。遺命は薄葬とし、封爵を奉還することを命じた。追贈して後授けられたが、子順は固辞して受けず、また表疏を十余度奉った。詔は特にその請いを許し、克譲の風を表彰した。
初め、興宗が郢州にあった時、府参軍彭城の顔敬が式占いをして言った、「亥年に公となるであろう。官に大字のつくものは受けてはならぬ。」開府の授けがあった時、太歳は亥に在り、果たして光禄大夫の官で薨じたという。文集は世に伝わる。
子順は字を景玄といい、方正雅量にして父の風があり、位は太尉従事中郎。昇明末に卒す。弟に約がいる。約は字を景撝といい、若くして宋の孝武帝の女安吉公主を尚り、駙馬都尉に拝された。斉に仕え、累遷して太子中庶子・屯騎 校尉 を領す。永明八年八月の合朔の日、約は武冠を脱ぎ剣を解き、省中で眠り下鼓になっても起きず、有司に奏され、贖罪の論となった。
宜都王冠軍長史・淮南太守として出向し、府州の事を行った。武帝は言った、「今卿を用いて近蕃の上佐とす。我が期する所に副うことを想う。」約は言った、「南 豫 は京師に密邇し、化せずして自ずから治まります。臣また何の人ぞ、爝火の息まざるが如し。」時に諸王の行事は多く裁断を加えたが、約が右任に居ると、主佐の間は穆如たり。
司徒 左長史に遷る。斉の明帝が録尚書として政を輔けると、百官は履を脱いで席に就いたが、約は履を履いたまま改めなかった。帝は江祏に言った、「蔡氏は礼度の門である。故に自ずから悦ばしい。」祏は言った、「大将軍に揖客あり、今また見る。」
約は酒を好み、淡泊として世と雑じなかった。永元二年、太子詹事の任で卒し、年四十四。太常を追贈された。弟に撙がいる。
撙は字を景節といい、若くして方正雅量で退き黙し、第四兄の寅と共に知名であった。斉に仕えて給事黄門侍郎の位。母の憂に服し、墓側に廬した。斉末は多難であり、服喪が終わっても、墓所に住み続けた。太子中庶子・太尉長史に除されたが、いずれも就かなかった。
梁の朝廷が建つと、侍中となり、臨海太守に遷る。公事により左遷されて太子中庶子となり、再び侍中・呉興太守となる。初め、撙が臨海にいた時、百姓楊元孫が婢采蘭を同里の黄権に質入れし、子を生んだら乳哺の代価を支払うと約した。権の死後、元孫は権の妻呉の許に赴き、婢母子五人を贖おうとしたが、呉は約に背いて返さなかった。元孫が訴えると、撙は本主に返すと判じた。呉は巫を行うことができ、撙の内室に出入りし、金釧で撙の妾に賄賂し、判決を改めて呉に与えた。元孫が登聞鼓を叩いて訟じ、有司に弾劾された。時に撙は既に郡を去っており、罪には問われなかったが、常に恥じた。口に銭を言わず、呉興に在った時、郡の井戸水を飲まず、斎前で自ら白莧と紫茄を植え、常の食物とし、詔はその清を褒めた。信武将軍を加えられた。
時に帝は昭明太子の妃を迎えようとし、意は謝氏に在った。袁昂が言った、「当今貞素簡勝なるは、唯だ蔡撙のみ。」そこで吏部尚書徐勉を遣わして訪ねさせたが、車を停めて三度伝えても返答がなかった。勉は笑って言った、「我が召す必要がある。」そこで名刺を投じて入った。
天監九年、宣城郡の吏呉承伯が妖道を挟んで衆を聚め宣城を攻め、太守朱僧勇を殺し、転じて呉興を寇した。吏民は皆避けるよう請うたが、撙は堅く守って動かず、衆を命じて出戦させ、撃破して承伯を斬り、余党悉く平らげた。
累進して吏部尚書に至り、選任にあたっては寛大で簡潔であり、名声があった。また侍中となり、秘書監を兼ねた。武帝がかつて言われた、「卿の門下には、なおも事に堪える者はどれほどいるか」。撙は答えて、「臣の門客の沈約・範岫はそれぞれすでに昇進しております。このほかにはおりません」。沈約は当時太子少傅、範岫は右衛将軍であった。
撙は風骨が剛直で、気概は英邁であり、朝廷にあって屈することも譲ることもなかった。かつて琅邪の王筠を殿中郎に推挙して任用するよう上奏したところ、武帝は参掌(尚書の長官)が通署(連署)していないのを不満とし、白い文書を香橙(香炉台)の下に押しやって言われた、「卿はまったく事を弁えていない」。撙は顔色を正して身をかがめ文書を拾い上げ、言った、「臣は思いますに、『爾を知る者を挙げよ』(論語)と申します。許允(三国魏の人物)にも先例があります。すでに知るところの者を用いるのであれば、わざわざ参掌に署名させる必要はございません。臣撙は若くして官に就いて以来、『事を弁えず』との評を受けたことはございません」。そこで文書を捧げてまっすぐ退出し、そのまま車を呼んで立ち去り、さらに上表して自らを弁明しようとした。帝はまもなく後悔し、その事を取り上げて処理した。
帝がかつて大臣のための餅の宴を設け、撙も同席していた。帝がたびたび姓名で呼んだが、撙は終始答えず、相変わらず餅を食べていた。帝はその意地を張っているのに気づき、そこで「蔡尚書」と呼びかえると、撙はようやく箸を置き笏を執って「はい」と答えた。帝が「卿はさっきはどうして耳が聞こえなかったのか、今はどうして聞こえるのか」と問うと、答えて言った、「臣は外戚の一員であり、かつ職は納言(意見を聞き入れること)にあります。陛下は姓名でお呼びになるべきではありません」。帝は恥じ入る様子であった。
性質は非常に厳格で、自らの処し方をよくわきまえていた。娘が昭明太子の妃となると、詹事以下がみな訪ねてきたが、しばしば病気と称して面会を断り、時折会っても引き合わせるだけで、挨拶の言葉を交わすのみで、それ以外に余計な言葉はなかった。
後に中書令となり、呉郡太守の任中に卒した。諡は康子。 司空 の袁昂がかつて賓客たちに言った、「蔡侯が亡くなってから、再びこのような人物を見なくなった」。このように名望ある人々に認められていたのである。子の彦深は宣城内史となった。彦深の弟の彦高は給事黄門侍郎となった。彦高の子が凝である。
凝は字を子居といい、容姿・立ち居振る舞いが美しかった。成長すると、経書・史伝に広く通じ、文辞に優れ、特に草書・隷書をよくした。陳の太建元年、累進して太子中舎人となった。名門の公子として選ばれて信義公主に尚せられ、駙馬都尉・中書侍郎に任じられ、さらに晋陵太守に転じた。郡に赴任するにあたり、あらためて左右の者に中書省の官舎を修繕させ、賓客・友人に言った、「後の者が労苦しないようにとの思いである」。
まもなく吏部侍郎に任じられた。凝は年齢・地位はまだ高くなかったが、才能と家柄が当時に重んじられ、常に西の書斎に端座し、もとから貴い名士でなければ、めったに交際せず、時流に乗ろうとする者たちは多くこれを非難した。宣帝がかつて凝に言われた、「朕は義興公主の婿の銭粛を黄門侍郎に用いたいと思うが、卿の考えはどうか」。凝は顔色を正して言った、「帝郷の旧戚であれば、恩寵は聖旨によるものであり、それ以上問うことはありません。もし衆議によって律すれば、黄門侍郎・散騎侍郎の職は、もとより人柄と門地の両方が優れていることを要します」。帝は黙り込んでやめた。銭粛はこれを聞いて不平を抱き、義興公主は日々凝を讒言したため、まもなく免官され、交趾に左遷された。しばらくして追還された。
後主が位を継ぐと、給事黄門侍郎となった。後主がかつて酒宴を設け、大いに楽しんでいたが、宴を弘範宮に移そうとし、人々はみな従ったが、ただ凝と袁憲だけは行かなかった。後主が「なぜか」と問うと、凝は答えた、「長楽宮(太后の宮殿)は尊厳な場所であり、酒後の行くべき所ではありません。臣は詔を奉じることができません」。一同は顔色を失った。後主は「卿は酔っている」と言い、退出を命じた。ある日、後主が吏部尚書の蔡征に言われた、「蔡凝は地歩(家柄)を恃み才能を誇るが、用いるに足りない」。まもなく信威将軍・晋熙王府長史に転じたが、鬱々として志を得ず。そこで慨然として嘆いて言った、「天道には廃興がある。夫子(孔子)も『天を楽い命を知る』と言われた。この道理はほぼ達しうるであろう」。そこで『小室賦』を著して志を表した。陳が滅びて隋に入り、途中で病没した。四十七歳。子の君知は、かなり有名であった。
論じて言う。蔡廓は体業(行い)が広く正しく、風格は高くすぐれていた。興宗は出仕と退隠の間で実践し、家の名声を損なわなかった。位は具臣(備えの臣)にありながら、その心情は伊尹・霍光のようであり、仁者に勇ありとは、まさにここに現れている。しかし廓から凝に至るまで、四代の歳月が移り変わっても、高潔な風操と清らかな気質は、時に乏しくなかった。彼らが貴ばれたのは、むだではなかったのである。至って傲慢な失点については、これはおそらくその家風に通じるものであり、正道によって律すれば、やはり名教(儒教の礼教)の深い過ちと言えよう。