南史 巻二十八より巻二十九

南史

巻二十八より巻二十九

列伝第十八

褚裕之は字を叔度といい、河南陽翟の人、晋の太傅褚裒の曽孫である。祖父の褚歆は秘書監、父の褚爽は金紫光禄大夫であった。長兄の褚秀之は字を長倩といい、大司馬琅邪王の従事中郎、黄門侍郎、宋の武帝の鎮西長史を歴任した。秀之の妹は、晋の恭帝の后である。秀之は晋の姻戚であったが、武帝に心を尽くした。侍中に遷り、出て大司馬右司馬を補った。晋の恭帝が即位すると、祠部尚書となった。宋が天命を受けると、太常に転じた。元嘉の初め、官にて卒した。

秀之の弟の褚淡之は字を仲原といい、これも顕官を歴任し、宋の武帝の車騎従事中郎、尚書吏部郎、廷尉卿、左衛将軍となった。宋が天命を受けると、侍中となった。

淡之兄弟はともに忠を尽くして武帝に仕え、恭帝が男児を生むたびに、機会を見て殺させた。あるときは内人を誘い賄い、あるときは密かに毒を加えて害し、前後このようなことが一度や二度ではなかった。恭帝が位を譲って秣陵宮に居るとき、常に禍に遭うことを恐れ、褚后と共に一室に留まり、毒を慮って自ら前にて煮炊きして食した。武帝が恭帝を殺そうとし、人を遣わして内に入らせるのを好まず、淡之兄弟に后を見させた。褚后が出て別室で会うと、兵士が垣を越えて入り、恭帝に薬を進めた。帝は飲もうとせず、「仏教では自殺した者は再び人身を得られぬという」と言った。そこで被をもって掩い殺した。

後に会稽郡に欠員が生じ、朝議は蔡廓を用いようとしたが、武帝は言った、「彼はもとより蔡家の佳児であるが、何ぞ人事に関わらん。褚仏を用いるべし」。仏は、淡之の小字である。そこで淡之を用いて会稽太守とした。

景平元年、富陽の孫氏が門宗を集めて謀逆を図り、その支党が永興県に潜み影響し合った。永興県令の羊恂がその謀りごとに気づき、淡之に告げたが、淡之は信じず、かえって人を誣いる罪をもって県の職局を収監した。ここにおいて孫法先は自ら冠軍大将軍と号し、孫道慶らと共に県邑を攻め落とし、互いに官位を樹て置き、遠く鄮県令の司馬文宣を征西大将軍に任じ、旗を建て鼓を鳴らし、直ちに山陰を攻めた。

淡之は自ら陵江将軍を仮し、山陰県令の陸邵に司馬を領させ、振武将軍を加え、前員外 散騎常侍 さんきじょうじ の王茂之を長史とし、前国子博士の孔欣、前員外 散騎常侍 さんきじょうじ の謝苓之をともに参軍事とし、行参軍七十余人を召し集めた。前鎮西諮議参軍の孔甯子、左光禄大夫の孔季恭の子の孔山士はともに服喪中であったが、皆起用して将軍とした。隊主の陳願、郡議曹掾の虞道納の二軍を遣わして浦陽江を渡らせた。陳願らが戦いに敗れると、賊は鋒を推して進み、城を去ること二十余里となった。淡之は陸邵に水軍を率いさせてこれを防がせ、自らは率いる所領を率いて出て近郊に駐屯した。陸邵は行参軍の漏恭期と合力し、柯亭において賊を大破した。淡之はまもなく卒し、諡して質子といった。

裕之の名は武帝(劉裕)と同じであったため、字を行った。初め太宰琅邪王の行参軍、武帝の車騎参軍、 司徒 しと 左西属、中軍諮議参軍となり、中兵を署し、建威将軍を加えられた。鮮卑征伐に従い、その誠力を尽くした。盧循が査浦を攻めると、叔度は力戦して功があった。盧循が南に走ると、武帝は板授して広州刺史とし、 都督 ととく を加え、建威将軍、平越中郎将を領させた。任に四年、広く資貨を営み、資財豊かに積み、これにより官を免ぜられ、終身禁錮に処された。都に還ると、すべての親旧および一面の交誼ある者に、厚く贈遺を加えぬ者はなかった。まもなく太尉諮議参軍、相国右司馬に除かれた。武帝が天命を受けると、右衛将軍となった。武帝はその名家でありながら能く心力を竭くすことを嘉し、番禺県男に封じた。まもなく 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられた。永初三年、出て雍州刺史となり、寧蛮 校尉 こうい を領した。任に三年、清簡をもって称された。景平二年、卒した。

次子 褚寂之

子の褚恬之が嗣いだ。恬之の弟の寂之は著作佐郎となり、早卒した。

孫〈寂之の子〉 褚曖

寂之の子の褚曖は宋の文帝の第六女琅邪貞長公主を尚し、位は太宰参軍、これも早卒した。

曾孫〈曖の子〉 褚繢

曖の子繢は太子舍人に位し、また宋の公主を娶る。

玄孫(繢の子) 繢

繢の子球は字を仲寶といい、幼くして孤貧であったが、篤志好学、才思あり。宋の建平王景素は、元徽年中に誅滅され、ただ一女を存すのみであった。故吏の何昌寓・王思遠は球の清立を聞き、この女をして妻とせしむ。

斉に仕えて溧陽令となり、県において清白、公奉を資とするのみ。梁に仕えて都官尚書、通直 散騎常侍 さんきじょうじ 、秘書監、著作を領し、 司徒 しと 右長史、常侍・著作はもとの如し。魏の孫禮・ しん の荀組以後、台佐に貂を加ふるは、球より始まる。後に 散騎常侍 さんきじょうじ 、光禄大夫となり、給事中を加えらる。

從子(兄秀の子) 湛之

湛之は字を休玄といい、秀の子なり。宋武帝の第七女始安哀公主を娶り、駙馬都尉・著作佐郎に拝す。哀公主薨じ、また武帝の第五女吳郡宣公主を娶る。公主を娶る者は、みな世胄に因るも、必ずしも才能あるに非ず。湛之は謹実にして意幹あり、故に文帝に知らる。顕位を歴て、太子中庶子、 司徒 しと 左長史、侍中、左 えい 將軍、左戸尚書、丹陽尹となる。

元凶 しい 逆し、吏部尚書と為し、また出でて丹陽尹となり、石頭の戍事を統ぶ。孝武入伐す。劭自ら新亭の壘を攻め、湛之をして水師を率いて俱に進ましむ。湛之は因りて二息彥回・澄を携え、軽舟に登りて南奔す。彥回始めて一男を生むも、劭に殺さる。孝武即位し、尚書右僕射と為す。孝建元年、中書令・丹陽尹となる。後に尚書左僕射に拝し、南奔の功により都郷侯の爵を賜う。大明四年卒す。諡して敬侯という。子彥回。

從孫(湛之の子) 彥回

彥回は幼くして清譽あり。宋の元嘉末、魏軍瓜歩に逼る。百姓みな擔負して立つ。時に父湛之丹陽尹たり、その子弟をして並びに芒屩を著けしめ、齋前に行を習わしむ。或いはこれを譏る。湛之曰く、「安にして危うきを忘れざるなり」と。彥回時に年十余、甚だ慚色あり。湛之一牛あり、至って愛す。故なくして聽事前の井に墮つ。湛之左右を率い躬自らこれを營救す。郡中喧擾す。彥回簾を下して視ず。また門生その衣を盜むあり。彥回遇見し、謂ひて曰く、「密かにこれを藏し、人に見しむることなかれ」と。この門生慚じて去り、敢えて復た還らず。後に貴なりて乃ち罪に歸す。初めの如くこれを待つ。

宋文帝の女南郡獻公主を娶り、駙馬都尉に拝し、著作佐郎を除かれ、累遷して秘書丞となる。湛之卒す。彥回財を悉く推して弟澄に與へ、唯だ書数千巻を取るのみ。湛之兩廚の寶物あり、彥回の生母郭氏の間に在り。嫡母吳郡主これを求めむとす。郭與へざらんと欲す。彥回曰く、「但だ彥回の在るを令すれば、何ぞ物なきを患へん」と。猶ほ許さず。彥回流涕固く請ふ。乃ちこれに從ふ。都郷侯の爵を襲ぎ、尚書吏部郎に歴位す。

景和中、山陰公主淫恣にして、彥回を窺見しこれを悅び、以て帝に白す。帝彥回を召して西上閣に宿すること十日。公主夜これに就き、備りて逼迫を見る。彥回身を整へて立ち、夕より暁に至るまで、志を移さず。公主謂ひて曰く、「君の須髯戟の如し。何ぞ丈夫の意無きや」と。彥回曰く、「回不敏と雖も、何ぞ敢へて首めて亂階と為らんや」と。

宋の明帝即位し、累遷して吏部尚書となる。官を求むる者あり、密かに袖中に一餅の金を將ひ、因りて請ひて間を求め、金を出してこれを示し、曰く、「人知る者無し」と。彥回曰く、「卿自ら官を得るべし。この物を假る無からん。若し必ず見與せば、相啓えざるを得ず」と。この人大いに懼れ、金を収めて去る。彥回その事を敘すれども、その名を言はず。時に人これを知る莫し。

帝の蕃に在りし時、彥回と風素を以て相善し、ここに至りて深く相委仗し、事を陳ぶる皆從はる。雩都伯に改封せられ、侍中、尚書を領し、右 えい 將軍に歴る。

彥回は儀貌美しく、容止善くし、俯仰進退、咸く風則あり。毎に朝會す。百僚遠國の使、延首目送せざる莫し。明帝嘗て歎じて曰く、「褚彥回は能く行を遲くし歩を緩くすれば、便ち宰相を得ん」と。時に人何平叔に方ふ。嘗て 袁粲 えんさん の舍に聚る。初秋涼夕、風月甚だ美なり。彥回琴を援りて別鵠の曲を奏す。宮商既に調ひ、風神諧暢なり。王彧・謝莊並びに粲の坐に在り、節を撫じて歎じて曰く、「無累の神を以て、有道の器に合す。宮商暫く離るるも、得べからざるのみ」と。

時に傖人常珍奇と薛安都逆を為し、降叛一に非ず。後また降を求めむ。明帝重位を以てこれを加ふ。彥回謂ふ、その首領を全うするは、事に於いて已に弘し、大いに寵異を加ふるに足らずと。帝從はず。珍奇尋いでまた叛す。

彦回は後に呉興太守となったが、帝が病に臥せって危篤となると、使者を走らせて召し寄せ、後事を託そうとした。召されて入ると、帝は帳中に坐して涙を流し言うには、「朕は近く危篤であるゆえ、卿を召して黄羅襦を着せようと思った」と。床頭の大きな函を指して言うには、「文書は皆この函の中に置いてある。この函は再び開けてはならない」と。彦回もまた悲しみに耐えられなかった。黄羅襦とは乳母の服である。帝は少し小康を得たが、なおも身後のことを憂慮していた。建安王休仁は人材が優れ美しく、人望も集めていたが、帝は彦回と謀ってこれを誅殺しようとし、彦回は不可と為した。帝は怒って言うには、「卿は愚かで事を議するに足りぬ」と。彦回は恐れて詔旨に奉じた。再び吏部尚書、衛尉卿、尚書右僕射となった。母が老いて病んでいるため、朝夕養わねばならず、衛尉を辞したが、許されなかった。

明帝が崩御し、遺詔によって中書令・護軍将軍と為り、 尚書令 しょうしょれい 袁粲 えんさん と共に顧命を受け、幼主を輔佐した。粲らは共に託されたが、その意は彦回にあった。彦回は心を同じくして事を理め、倹約を広く務めたので、百姓はこれに頼った。やがて王道隆・阮佃夫が権力を用い、奸悪な賄賂が公然と行われたが、彦回はこれを禁じることができなかった。

実母の喪に遭い、憔悴して元の面影もなく、一年間も髪を梳かず顔を洗わず、ただ涙の流れた所だけがその本来の膚を見せるほどであった。詔によって哭泣を断ち、弔客を禁じた。葬儀が終わると、中軍将軍として起用され、本来の官職は元の通りであった。元徽二年、桂陽王休範が反乱を起こすと、彦回は衛将軍 袁粲 えんさん と共に宮省に入って守衛し、衆心を鎮め集めた。彦回が初めて丹陽尹であった時、従弟の照と同車していたが、道で斉の高帝に逢い、彦回は手を挙げて高帝の車を指し、照に言うには、「これは常人ではない」と。呉興に出向した時、高帝が別れの贈り物を届けると、彦回はまた人に語って言うには、「この人は才貌が並々ならず、将来は測り知れぬ」と。そして顧命の際には、高帝を参画させたのである。

高帝が桂陽王を平定すると、中領軍に遷り、南兗州を領したが、高帝は固く辞譲し、彦回及び衛軍 袁粲 えんさん に書を送って心情を述べた。彦回と粲が返書で従わないので、高帝はようやく任命を受けた。その年、彦回は 尚書令 しょうしょれい ・侍中を加えられ、班剣二十人を与えられたが、 尚書令 しょうしょれい を固く辞した。三年、侯爵に進んだ。喪が明けると、 中書監 ちゅうしょかん に改めて授けられ、侍中・護軍は元の通りとされ、鼓吹一部を与えられた。

当時、淮北は失われ、江南には再び鰒魚がなく、あるいは苦労して手に入れたものが届くこともあったが、一尾で数千銭の値段であった。ある人が彦回に鰒魚三十尾を贈ると、彦回は当時貴い身分であったが、貧しく乏しすぎており、門生がこれを売れば十万銭を得られると献策した。彦回は顔色を変えて言うには、「私はこれを食物と思い、財貨とは思わぬ。かつ売って銭に換えられるとも知らず、ただ受け取っただけである。たとえ儉約に乏しくとも、どうして贈り物を売って銭を得ようか」と。すべて親しい遊び仲間と食べてしまい、数日で尽きてしまった。

翌年、嫡母である呉郡公主が薨去し、憔悴して骨と皮ばかりとなった。葬儀が終わると、詔によって職務を摂行せよと命じられたが固く辞し、また周忌の祭礼が迫ったため、上表して職務解除を願い出たが、いずれも許されなかった。

蒼梧王(後廃帝)の暴虐が次第に甚だしくなると、斉の高帝は彦回及び 袁粲 えんさん と時事を語り、粲は言うには、「主上は幼年であり、些細な過ちは改めやすい。伊尹・霍光のような事は末世に行うべきではなく、たとえ功を成しても、結局は全き地は無いであろう」と。彦回は黙然とし、心を高帝に寄せるようになった。蒼梧王を廃する時、諸公が集まって議したが、 袁粲 えんさん ・劉彦節(劉秉)は既に任を受けようとせず、彦回は言うには、「蕭公でなければこの事を了えることはできぬ」と。手ずから事案を取って高帝に授けた。高帝は言うには、「互いに肯んじないのに、私がどうして辞することができようか」と。事はこうして定まった。順帝が立つと、衛将軍・開府儀同三司に改号され、侍中は元の通りとされ、甲仗五十人を率いて殿中に入ることが許された。

袁粲 えんさん が武心を抱いた時、言うには、「褚公の眼睛は白い部分が多い。いわゆる白虹日を貫くというやつで、宋を亡ぼす者は結局この人であろう」と。ある日、粲は彦回に言うには、「国家が倚り頼む者は、公と劉丹陽(劉秉)及び私だけである。どうか各自努め、竹帛(史書)に笑われることのないように願いたい」と。彦回は言うには、「私の心を公の腹に寄せておけばよいでしょう」と。しかし結局は節操を固く保つことはできなかった。

高帝が輔政すると、王儉が黄鉞を加えることを議し、任遐は言うには、「これは大事である。褚公に報いるべきだ」と。帝は言うには、「褚がもし与えなければ、卿はどうするつもりか」と。遐は言うには、「彦回は妻子を保ち、性命を愛する者で、奇才異節があるわけではない。私が制することができる」と。果たして違異はなかった。

沈攸之の乱が起こると、高帝は彦回を召して謀議し、彦回は言うには、「西夏(西方、沈攸之)の難は、事必ず成らず。公はまず内(朝廷内)を備えるべきです」と。高帝は密かにその備えをした。乱が平定されると、 中書監 ちゅうしょかん 司空 しくう に進んだ。

斉の台府が建てられると、彦回は高帝に申し出て、何曾が魏の 司徒 しと から晋の丞相となった故事を引き、斉の官を求めた。高帝は謙譲して許さなかった。建元元年、 司徒 しと に進位し、侍中・ 中書監 ちゅうしょかん は元の通りとされ、南康郡公に改封された。彦回は 司徒 しと を辞譲し、僕射王儉に書を送り、蔡謨の事例に倣いたいと願った。儉は言うべきことではないとして、彦回に受命を勧めた。結局就任しなかった。まもなく 尚書令 しょうしょれい を加えられた。二年、前命を重ねて 司徒 しと とするが、また固く辞譲した。

魏軍が動くと、高帝は王公以下で官の無い者を従軍させようとしたが、彦回は諫めて、実用に益なく、空しく擾乱を招くだけだとし、上(高帝)はやめた。

三年七月、帝が親しく酎酒を嘗めようとし、盛暑のため夜に出ようとした。彦回と左僕射王儉が諫めて、「漢の宣帝以来、夜に廟に入ることはない。これは非常を戒めるためである。人君の重み、慎むべきである」と言った。帝はこれに従った。

当時、朝廷の機密事には、彦回が多く参与して謀議し、その意見はしばしば容れられ、礼遇は非常に重かった。上(武帝)が大いに宴集し、酒後に朝臣に向かって言うには、「卿らは皆宋の時の公卿である。私が天子を得るべきとは言わなかったであろう」と。王儉らがまだ答えないうちに、彦回は笏を整えて言うには、「陛下は臣が早くから龍顔を識らなかったとはおっしゃれません」と。上は笑って言うには、「私は文叔(光武帝)に愧じる。公が朱佑であることを知って久しい」と。

彦回は琵琶を弾くのが巧みで、斉の武帝が東宮にあった時、宴集で金鏤の柄に銀の柱の琵琶を賜った。性質は温和で雅やか、器量があり、妄りに行動しなかった。邸宅が一度火事になり、煙焔が非常に迫ったが、左右の者は驚き騒ぎ、彦回は神色怡然として、輿を求めゆっくりと去った。しかし世間はかなりその名節を譏り、当時、百姓の言葉に曰く、「憐れむべき石頭城、 袁粲 えんさん のために死すとも、彦回として生くることなかれ」と。

高帝が崩御し、遺詔により録尚書事とされた。江左以来、単独で録を拝する者はなく、有司は優策を立てるべきか疑った。 尚書令 しょうしょれい 王儉が議して、「現に本官に居り、別に録を拝するには、策書があるべきであるが、旧事に記載されていない。中朝以来、三公王侯には、優策ともに設けられる。官品第二の者は、策はあるが優はない。優は褒美であり、策は委任の寄託を兼ねて明らかにするものである。尚書の職は天官に居り、政化の本であるから、 尚書令 しょうしょれい は品こそ第三であるが、拝するには必ず策がある。録尚書の品秩は見えないが、総任はますます重く、前代は多く本官と同拝したので、別に策がなかった。事に即し情に縁れば、凡僚に均しくすべきではなく、策書があるべきで、隆厚な寄託を申し述べるのに用いる。既に王侯とは異なるから、優文を仮る必要はない」とした。これに従った。まもなく彦回に班剣三十人を増し、五日に一朝することとなった。

ほどなくして病臥した。彦回は若い時に重病にかかり、夢に人が卜蓍一具を与え、その一つを失い、病が癒えたことがあった。この年四十八歳となり、年の初めから病臥した。しかも太白と熒惑が相次いで上将を犯し、彦回は病が癒えぬことを慮り、位を譲る上表をした。武帝は許さず、 司空 しくう ・驃騎将軍に改めて授け、侍中・録尚書事はもとのままとした。薨去した年は四十八歳、家に余財なく、負債数十万を負い、詔により東園秘器を給された。

時に 司空 しくう 掾属は、彦回が未だ拝していないので、吏として敬礼すべきかどうか疑った。王儉が議して、「礼によれば、婦が途上で、夫家の喪を聞き、服を改めて入る。今、掾属は未だ勤めに服していないが、吏の礼節は天朝より稟るものであり、礼敬を申すべきである」とした。 司徒 しと 府の史はまた、彦回が既に職を解かれ、後任の授けを恭んでいないので、府は上服すべきかどうか疑った。儉がまた議して、「中朝の士孫徳祖が楽陵より陳留に遷り、未だ境に入らずに卒した時、楽陵郡の吏は現君の礼に依り、陳留の迎吏は『聚女に吉日あり、斎衰して弔う』に依った。 司徒 しと 府は居官の制に依り服を制すべきである」とした。また詔して太宰を贈り、侍中・録尚書・公はもとのまま、班剣を六十人に増し、葬送の礼はすべて宋の太保王弘の故事に依り、諡して文簡といった。これ以前、庶姓の三公の輶車には定まった格式がなく、王儋が議して官品第一は皆、幢絡を加えることとし、彦回から始まった。また詔して彦回の妻である宋の故巴西主の埏隧を暫く開き、南康郡公夫人を贈るべきとした。

従曾孫(彦回の長子) 賁

長子の賁は字を蔚先といい、若い時から耿介であった。父が 袁粲 えんさん らに背き高帝に附いたことを、賁は深く異とし、終身これを愧恨し、隠退の志があった。位は侍中。彦回が薨じ、服喪が終わり、武帝に謁見した時、賁は涙を流して自ら勝えなかった。上は大いにこれを嘉し、侍中・領歩兵 校尉 こうい ・左戸尚書とした。常に病と称して外にあり、上はこれをもって望み、遂に爵を辞するよう諷し、弟の蓁に譲り、なお墓下に居た。王儋が薨じると、水牛に騎って出て弔問し、門外の柱に繋ぎ、入って哀哭を尽くして退き、家人は知らなかった。病が篤くなり、その子の霽が車に載せて帰った。病が少し間もなく、元の場所でないと知り、大いに怒り、再び飲食せず、内外の戸をすべて釘で塞ぎ、人と相通ぜず、数日で僅かに息があるのみとなった。謝伷がその困窮を聞き、往って候うたが、戸を開けられず、杵で打ち破り、進んで賁に会い、「得られざるものは身であり、全うされざるものは名である。名と身ともに滅ぶ者は君である。どうして全うしないのか」といった。賁は、「私は若い時から人間の心がなく、どうして身名を慕うことがあろうか。ただ手を啓き全きに帰ることを願い、必ず旧隴にある。児輩は不才で、私の余趣を達せず、屍を移し殯を徙せて、私の素心を失い、更にこれを恨みとするのみである」といった。永明七年に卒した。

従曾孫(賁の弟) 蓁

蓁は字を茂緒といい、位は義興太守。八年、巴東郡公に改封された。明年、上表して封を譲り、賁の子の霽に還し、詔してこれを許した。建武の末、蓁は位は太子詹事・度支尚書、領前軍将軍。永元元年に卒し、太常を贈られ、諡して穆子といった。

従玄孫(蓁の子) 向

蓁の子の向は字を景政といい、数歳の時、父母相継いで亡くなり、哀毀すること成人のようで、親族はこれを異とした。長じて、淹雅にして器量があり、位は長兼侍中。向は風儀端麗で、眉目画の如く、公庭に列する毎に、衆人の瞻望するところとなった。梁に仕え、北中郎廬陵王長史の任で卒した。子に翔。

従来孫(蓁の孫、向の子) 翔

翔は字を世挙といい、秘書郎より起家し、累遷して宣城王主簿となった。中大通五年、梁武帝が群臣を楽游苑に宴し、別に詔して翔と王訓に二十韻の詩を作らせ、三刻を限って成すことを命じた。翔は座に立ち奏上し、帝はこれを異とし、即日に宣城王文学を補し、まもなく友に遷った。時に宣城の友・文学は正王の二等を加えられていたが、翔はこれを超えて任じられ、時の論はこれを美とした。

出て義興太守となり、政においては己を潔くし、繁苛を省き、游費を去り、百姓はこれを安んじた。郡の西亭に古樹があり、積年枯死していたが、翔が郡に至ると、忽ち枝葉を更生し、皆善政の感ずるところと為した。秩満に当たり、吏民が闕に詣でて留任を請い、勅許された。まもなく吏部郎に徴され、郡を去る時、百姓は老少を問わず追って境外まで送り、涕泣して拝辞した。翔は小選(吏部郎)の職に公清に居り、請託によって意を変えず、平允と号された。侍中に遷った。

太清二年、吏部尚書を守り、母の憂に服し、毀瘠して卒した。翔は若い時から孝行があり、侍中であった時、母の病が篤く、沙門に請い祈福したところ、夜中に忽ち戸外に異光を見、また空中に弾指の音を聞いた。朝に至り、疾は遂に癒え、皆精誠の致すところと為したという。

従孫(彦回の弟) 澄

澄は字を彦道といい、彦回の弟である。初め湛之が始安公主を尚し、薨じた後、側室の郭氏を納れ、彦回を生んだ。後に呉郡主を尚し、澄を生んだ。彦回は主に事えて孝謹で、主はこれを愛した。湛之が亡くなると、主は表して彦回を嫡とした。澄は宋文帝の女廬江公主を尚し、駙馬都尉を拝した。清顕の官を歴任し、医術に善かった。

建元年間、呉郡太守となり、百姓の李道念が公事で郡に来たとき、褚澄は彼を見て言った、「汝には重い病がある」と。答えて言うには、「昔から冷えの病があり、今に至るまで五年、多くの医者も治せなかった」と。澄は脈を診て言った、「汝の病は冷えでも熱でもない、白ゆで卵を食べ過ぎたためであろう」と。蘇一升を取って煮て飲ませよと命じた。一度飲ませると、一つの物を吐き出した、升ほどの大きさで、涎に包まれて動き、開けて見ると雛鶏であり、羽や翼、爪や距が全て揃い、歩くことができた。澄は言った、「これはまだ尽きていない」と。残りの薬をさらに飲ませると、また先ほどのような鶏を十三頭吐き出し、病は全く治った。当時、妙と称された。 章王が病に罹ったとき、高帝は澄を召して治療させると、たちまち癒えた。まもなく左戸尚書に遷った。

彦回が薨じると、澄は銭一万一千をもって招提寺に赴き、高帝が彦回に賜わった白貂の座褥を贖い出し、これを壊して裘と纓とを作り、また彦回の介幘と犀導、及び彦回が常に乗っていた黄牛を贖い出した。永明元年、御史中丞袁彖に奏劾され、官を免ぜられて禁錮されたが、後に赦されて許された。侍中に遷り、右軍将軍を領し、勤勉で謹厳であることを知られた。澄の娘は東昏侯の皇后となった。永元元年に卒し、金紫光禄大夫を追贈された。

従孫(褚湛之の弟の法顕の子、彦回の従父弟) 褚炤

褚炤は字を彦宣といい、彦回の従父弟である。父は法顕、鄱陽太守であった。

炤は若い頃から高い節操を持ち、王儉がかつてその才能は保傅に堪えると称した。安成郡から還ると、一つの目が眇めであったため、国子博士に召されたが、拝命しなかった。

常に彦回が二代に仕えたことを非難した。彦回の子の賁が訊ねに行くと、炤は問うて言った、「 司空 しくう (彦回)は今日どこにおられるか」と。賁が「璽紱を奉じて、斉の大司馬門におります」と答えると、炤は厳しい顔色で言った、「汝の家の 司空 しくう が一家の物をまた一家に与えることを、何と言うべきか知らぬ」と。彦回が 司徒 しと に拝されたとき、賓客が満座していたが、炤は嘆いて言った、「彦回は若くして名声と行いを立てたのに、どうしてここまで乱れるのか。門戸の不幸として、また今日の拝命がある。彦回がもし中書郎のままで死んでいたならば、一人の名士ではなかったか。名声と徳が盛んではなく、かえって百歳の長寿を得たのだ」と。

彦回はふざけるのが好きで、軺車を炤に与えた。炤は大いに怒って言った、「これをつけて門戸を辱しめるようなことが、どうして人に見せられようか」と。火を求めて焼こうとしたので、御者は車を走らせてやっと免れた。炤の弟に炫がいる。

従孫(炤の弟) 褚炫

褚炫は字を彦緒といい、若い頃から清廉で簡素であり、従舅の王景文に知られた。従兄の彦回は人に言った、「従弟の廉潔で勝れた独立心は、私の十倍である」と。

正員郎となった。宋の明帝に従って雉を射たとき、帝は日中になっても何も得られず、甚だ恥じ入って怒り、侍臣を召して問うた、「吾は朝より如皋(狩場)に来たが、結局空しく行ったのは笑うべきことだ」と。座っている者で答える者はなかったが、炫だけが言った、「今は季節こそ適しているが、雲霧がまだ凝っているため、この美しい鳥(雉)の心は驕って警戒していないのです。ただ神駕(帝)が遊楽なされば、群臣の心情も皆歓びに満ちるでしょう」と。帝の気持ちが和らぎ、雉場に酒宴を設けた。中書侍郎、 司徒 しと 右長史に遷った。

升明の初め、炫は清廉で高尚であることにより、彭城の劉俁、陳郡の謝朏、済陽の江斅と共に殿中に入り文義に侍し、四友と号された。斉の台府が建てられると、侍中となり、歩兵 校尉 こうい を領した。家が貧しかったため、建元の初め、出て東陽太守を補った。前後三度侍中となったが、従兄の彦回と操行が異なっていたため、彦回の時代には、大官には至らなかった。

永明元年、吏部尚書となった。炫は身を清く立て、弔問以外には交遊を雑えず、論者はこれを美とした。選部(吏部)に在ったときは、門庭は蕭索として、賓客が来ることは稀であった。外出するとき、左右の者が常に一つの黄紙の帽箱を捧げていたが、風に吹かれて紙が剥がれほぼ尽きた。江夏郡を罷めて還るとき、銭十七万を得て、石頭で親族に分け与えた。病んで薬を買う資がなく、冠と剣を質に入れた。上表して自ら解任を願い出て、 散騎常侍 さんきじょうじ に改めて授けられ、安成王師を領した。国学が建てられると、本官のまま博士を領した。拝命せずに卒し、殯斂する資がなく、時に年四十一であった。太常を追贈され、諡して貞子といった。子に澐がいる。

従曾孫(炫の子) 褚澐

褚澐は字を士洋という。梁に仕えて曲阿令となった。晋安王中録事、正員郎、烏程令を歴任した。兄の游が亡くなると、県を棄てて還り、太尉属、延陵令、中書侍郎、太子率更令、御史中丞、湘東王府諮議参軍となった。卒した。

澐が県令であったとき、清廉で慎み深く、記録に値する。学問を好み、音律に通じ、賓客を重んじ、大いに湘東王に親愛された。

玄孫(褚澐の子)に当たる者 褚蒙

褚澐の子褚蒙は太子舍人の位にあった。褚蒙の子は褚玠である。

来孫(褚澐の孫、褚蒙の子)に当たる者 褚玠

褚玠は字を溫理といい、九歳で孤児となり、叔父の驃騎從事中郎褚隨に養育された。早くから美しい評判があり、先達の多くはその才能と器量を認めた。成長すると、風采は美しく、応対に巧みで、博学で文章を綴ることができ、言葉と内容は典雅で実質的であり、淫靡なものを尊ばなかった。

陳の天嘉年間、通直 散騎常侍 さんきじょうじ を兼ねて斉に使いし、帰還後は中書侍郎に遷った。

太建年間、山陰県には多くの豪族や狡猾な者がおり、前後の県令は皆、汚職で免職となっていた。宣帝は中書舍人蔡景厯に言った。「稽陰は大邑であるのに、長らく良き宰(県令)がいない。卿は文士の中から、適任者を考えてみよ。」景厯が褚玠を推挙すると、帝は言った。「甚だ善い。卿の言は朕の意と同じである。」そこで山陰令に任じた。県民の張次的、王休達らは諸々の狡猾な役人と賄賂を通じて結託し、全丁の大戸は多くが戸籍から隠れていた。褚玠は張次的らを拘束し、詳細な状況を尚書台に報告した。宣帝は手ずから詔を下して慰労し、使者を遣わして褚玠の調査を助けさせ、軍人八百余戸を戸籍に現出させた。当時、舍人曹義達は宣帝に寵愛されており、県民の陳信は家が裕福で、義達にへつらって仕えていた。陳信の父陳顯文はその勢いを恃んで横暴であった。褚玠は使者を遣わして陳顯文を捕らえ、百回鞭打った。これにより役人たちは股が震えるほど恐れた。陳信は後に曹義達を通じて褚玠を讒言し、ついに褚玠は罪に坐して免官された。褚玠は任にあった一年余り、ただ禄俸を守るだけであった。官を去る日、自ら帰京する旅費もなく、そこで県内に留まって野菜を栽培して自給した。ある者が褚玠は百里(一県)を治める才ではないと言うと、褚玠は言った。「私は租税の納入や成績は、他の県に劣らなかった。残虐な者を除き、暴虐な者を去り、奸吏を畏縮させた。もし私が脂膏(私腹を肥やすこと)を潤すことができないと言うのなら、その通りである。しかし、政治を行うのに通じていないと言うなら、私は承服しない。」当時の人々はこれを真実であると認めた。皇太子は褚玠に帰京の支度がないと知り、自ら書をしたためて粟米二百斛を賜った。そこで都に戻った。

後に累進して御史中丞となった。褚玠は剛毅で胆力と決断力があり、騎射を得意とした。かつて 司空 しくう 侯安都に従って徐州で狩りに出た時、猛獣に遭遇し、褚玠がこれを射ると、矢を放つごとに口から腹へと命中し、間もなく獣は斃れた。御史中丞となってからは、まっすぐに法を適用する者として非常に称えられた。官の任上で卒去した。皇太子は自ら志銘を撰し、旧臣を顕彰した。至徳二年、秘書監を追贈された。撰した章奏や雑文二百余篇は、いずれも事理に適切であり、これによって世に重んじられた。

晜孫(褚澐の曾孫、褚蒙の孫、褚玠の子)に当たる者 褚亮

子の褚亮は、尚書殿中侍郎の位にあった。

論じて言う。褚氏は江南に渡って以来、人材が途絶えることがなかった。褚彥回はこの家柄を世の資とし、早くから世評が集まったが、興隆する運命に迎合した時には、誹謗と非議が沸騰した。人望をもって推挙されたが、また人望をもって責められたのである。褚炤の貞固で勁直な性質、褚炫の清廉で勝れた風采は、古人に求めても、どうしてこれ以上あろうか。褚玠は公平で誠実正直、文武の資質を兼ね備え、世業を墜とさなかった者と言えよう。

原本を確認する(ウィキソース):南史 巻028