南史 巻二十七 巻二十八

南史

巻二十七 巻二十八

孔靖

孔靖は字を季恭といい、会稽郡山陰県の人である。名は宋の武帝の祖父の諱と同じであるため、字をもって称された。祖父の愉は、晋の車騎将軍であった。父の誾は、 散騎常侍 さんきじょうじ であった。

季恭は初め孝廉に察挙され、累進して 司徒 しと 左西掾となったが、拝命せずに母の喪に服した。隆安五年、起用されて山陰県令に任ぜられたが、就任しなかった。

宋の武帝が東征して孫恩を討つ際、しばしば会稽に至り、季恭の邸宅の前を通った。季恭がちょうど昼寝をしていると、衣服が尋常ならざる神人が現れて言うには、「起きよ、天子が門におられる。」やがてその者は消え失せたので、急いで外に出ると、ちょうど帝を見かけ、招き入れて交わりを結び、手を執って言った、「卿は後に大いに貴くなるであろう。願わくは身をもって託さん。」そこで心を尽くして礼遇し、供給は甚だ厚かった。

帝が後に孫恩を討った時、桓玄の さん 奪の形跡は既に明らかであった。帝は山陰で義兵を挙げようとした。季恭は山陰は路遠く、かつ玄は未だ極位に就いていないとして、その さん 奪後に京口で図る方がよいとし、帝もこれを然りとした。時に虞嘯父が会稽内史であったが、季恭がその府司馬を求めて得られず、そこで出向いて都へ赴いた。帝が桓玄を平定した後、季恭を会稽内史に任じ、封板を持たせて拝授させようとしたところ、ちょうど季恭と出会った。季恭はすぐに舟を返して夜のうちに帰還し、到着すると戸を叩いて郡に入った。嘯父はもともと桓玄によって任じられた者で、玄の敗北を聞き、門を開いて罪を請うた。季恭は慰め励まし、暫くそのままの住所に安住するよう命じ、翌日になってから移転させた。季恭が任に着くと、浮華を整理し、遊惰を罰して剪除した。これにより境内は粛然として清まった。

累進して呉興太守となり、冠軍将軍の号を加えられた。先に、呉興では頻繁に太守が死去し、項羽の神が卞山王となり、郡の庁舎に居座り、二千石(太守)は常にこれを避けると言われていた。季恭が庁舎に居住したが、ついに害はなかった。尚書左僕射に転じたが、固辞した。義熙八年、再び会稽内史となり、学校を修飾し、課業を監督して誦習させた。十年、再び右僕射となったが、また辞退して拝命しなかった。領軍将軍を除され、 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられた。

十二年、致仕し、金紫光禄大夫を拝された。この年、武帝が北伐すると、季恭は従軍を求め、太尉軍諮祭酒に任ぜられた。関中・洛陽平定に従った。

宋の台府が初めて建てられた時、 尚書令 しょうしょれい に任ぜられたが、また辞退したため、侍中・特進・左光禄大夫を拝された。職務を辞して東帰する際、帝は自ら戯馬台で餞別し、百官は皆詩を賦してその美を述べた。武帝が受禅すると、開府儀同三司を加えられたが、季恭は累年辞退して受けず、薨去後にこれを贈られた。

子の霊符は、丹陽尹、会稽太守の位にあり、まもなく 章王劉子尚の撫軍長史を加えられた。霊符の家はもともと豊かで、産業は甚だ広く、また永興県に別荘を建て、周囲三十三里、水陸の田地二百六十五頃、二つの山を含み、また果樹園が九か所あった。役人に糾弾されたが、詔により赦された。しかし霊符の答弁が事実に合わず、これにより免官された。まもなくまた官に復した。霊符は誠実で才能と幹略があり、華美な飾りを好まず、任官するごとに政績を上げてよく治めた。廃帝の景和年間、近臣に逆らい、讒言によって陥れられ、使者を遣わして鞭打ちの刑で殺害された。二人の子、湛之と深之は都で賜死された。明帝が即位すると、霊符を追贈して金紫光禄大夫とした。

深之は大明年間に尚書比部郎であった。時に安陸郡応城県の者、張江陵が妻の呉氏と共に母の黄氏を罵り死ねと言い、黄氏は憤恨して自縊死した。既に赦令が発布されていた。律を調べると、子が父母を賊害し殺傷殴打した者は梟首、罵詈した者は棄市、夫の父母を謀殺した者も棄市とある。赦令に会えば、刑を免れて冶工に補せられる。江陵が母を罵り、母が自殺したことは、傷害殴打よりも重い。もし殺人と同じ科条を用いれば重すぎる疑いがあり、傷害殴打及び罵詈の科条を用いれば軽すぎる疑いがある。制度にはただ母を殴打して赦令に遇ってもなお梟首とするものがあり、母を罵って死に至らしめ赦令に会う場合の科条はない。深之が議して言うには、「題(表札)に裏切り心とあれば仁者は入らず、名ですらこれを悪む、ましてや人の行いにおいておや。故に殴打傷害し呪詛することは、法が許さず、罵詈して死に至らしめるならば、理において赦すべきではない。罰に軽きに従うのは、善を失う疑いがあるからであって、条文の趣旨を求めれば、このことを言うのではない。江陵は赦恩に遇ったとはいえ、やはり梟首にすべきである。妻はもともと義によって結ばれ、天性の親族ではない。黄氏が恨んだのは、その情は呉氏には向けられていない。死罪を赦して冶工に補するのは、正法に允当する。」詔は深之の議の通りとし、呉氏は棄市を免れた。

霊符の弟の霊運は著作郎の位にあった。霊運の子は琇之である。

琇之は吏能があり、斉に仕えて呉県令となった。十歳の小児が隣家の稲一束を盗み刈りしたので、琇之はこれを獄に付して罪を問おうとした。ある者が諫めると、琇之は言った、「十歳にしてすでに盗みを為すことができるなら、成長して何を為さないことがあろうか。」県中は皆震え肅然とした。尚書左丞に遷り、また職務によって有名となった。後に左戸尚書、廷尉卿を兼ねた。臨海太守として出向し、在任中は清廉で倹約であった。郡を罷めて帰還する際、乾薑二千斤を献上した。斉の武帝はその少なさを嫌ったが、琇之の清廉さを知ると、ため息をついた。呉興郡を監察するため出向し、まもなく太守を拝命し、政治は清廉厳格と称された。

明帝が政を輔けるにあたり、諸王を防備し、上佐(長史など)に密旨を伝え、便宜を以て事を行わせた。隆昌元年、琇之を しん 熙王冠軍長史・江夏内史に遷し、 郢州 えいしゅう の事務を行わせ、 しん 熙王を殺させようとした。琇之は辞退したが許されず、自決しようとした。友人陸閑が諫めたが、琇之は従わず、遂に食を絶って死んだ。

子の臻は、太子舍人、尚書三公郎に至る。臻の子の幼孫は、梁の甯遠枝江公主簿・無錫令となる。幼孫の子が奐である。

奐は字を休文といい、数歳にして孤となり、叔父の虔孫に養われた。学を好み、文を属することを善くした。沛国の劉顯は博学をもって称せられ、常に深く相歎美し、その手を執って曰く、「昔、伯喈(蔡邕)の墳籍(書籍)は悉く仲宣(王粲)に与えられた。我は彼の蔡君に希い、足下は王氏に愧じることなからん。所保の書籍は、尋いで以て相付せん」と。

梁に仕えて尚書儀曹侍郎となる。時に左戸郎の沈炯が飛書(匿名の誹謗文)によって謗られ、重い刑に陥らんとし、台閣の官を連ねて、人皆憂懼を懐いたが、奐が廷議においてこれを理し、竟に明白を得させた。

侯景が建鄴を陥落させると、朝士は皆拘束され、或る者が奐を賊の率いる侯子鑒に薦めたので、桎梏を脱し、厚く遇せられ、書記を掌らせた。時に子鑒は侯景の腹心であり、朝士は卑屈ならざる者なく、奐のみは下ること無かった。或る者が奐に諫めて曰く、「高抗すべからず」と。奐曰く、「吾が性命には在り処あり。豈に凶醜に取媚して、以て全きを求めんや」と。時に賊徒は子女を掠め、士庶を拘逼したが、奐が保持して全うするを得た者は甚だ衆かった。

尋いで母の憂に遭う。時に天下喪乱し、皆三年の喪を終えることができなかったが、唯だ奐及び呉国の張種のみは寇乱の中にあって、法度を守り、並びに孝をもって聞こえた。

侯景が平定されると、 司徒 しと の王僧辯が先ず辟書を下し、左西掾に引いた。梁元帝が荊州において即位し、奐及び沈炯を征召すると、僧辯は累表して留めることを請うた。帝は手勅を以て報じて曰く、「孔・沈の二士は、今しばらく公に借す」と。その朝廷に重んぜられること、此の如しであった。

僧辯が揚州刺史となると、また中従事史に補した。時に侯景が新たに平定されたばかりで、事毎に草創し、憲章故事は、再び存する者無かった。奐は博物強識で、故実を甄明し、問うて知らざること無く、儀注体式、箋書表翰は、皆奐より出た。

陳の武帝が丞相となると、 司徒 しと 左長史に除され、給事黄門侍郎に遷る。斉が東方老・蕭軌を遣わして来寇し、四方が壅隔され、糧運が継がず、三軍の取給は、唯だ都下に在るのみとなった。乃ち奐を建康令に除す。武帝は克日して決戦せんとし、乃ち奐に命じて麦飯を多く営ませ、荷葉を以てこれを包ませ、一宿の間に、数万包を得た。軍人は旦に食い終わり、その余りを尽く棄て、これによって決戦し、大いに賊を破った。武帝が禅を受けると、太子中庶子に遷る。永定三年、晋陵太守に除される。晋陵は宋・斉以来大郡であったが、寇擾を経たれども、猶全実であり、前後の二千石(太守)は多く侵暴を行った。奐は清白自ら守り、妻子は並びに之に之官せず、唯だ単船を以て郡に臨んだ。得たる秩俸は、随って即ち孤寡に分かち贍い、郡中に神君と号せられた。曲阿の富人殷綺は奐の居処が儉素なるを見て、乃ち衣氈一具を以て餉った。奐曰く、「太守は身美祿に居る。何ぞこれを弁える能わざらんや。但だ百姓未だ周からず、独り温飽を享くるを容れず。卿の厚意を労するも、幸いに煩わすことなかれ」と。

陳の文帝が即位すると、御史中丞に徴される。奐は性剛直にして、糾劾すること多く、朝廷は甚だこれを敬憚した。又政体に達し、奏する所のものは、未だ嘗て善しと称せられざることなく、百司の滞事は、皆付して咨決せしめた。

散騎常侍 さんきじょうじ に遷り、步兵 校尉 こうい ・中書舎人を領す。重ねて御史中丞に除され、尋いで五兵尚書となる。時に文帝は不 であり、台閣の衆事は、並びに僕射の到仲挙に共に決せしめた。帝の疾篤に及んで、奐は宣帝及び到仲挙並びに吏部尚書袁枢・中書舎人劉師知等と共に医薬に侍した。文帝は嘗て奐等に謂いて曰く、「今三方鼎峙す。長君を須うべし。朕は近くは則ち晋の成帝に、遠くは殷の法を隆くせんと欲す。卿等は須らく此の意に遵うべし」と。奐は乃ち流涕歔欷して跪きて対えて曰く、「陛下の御膳違和すれども、痊復は久しからず。皇太子は春秋鼎盛にして、聖德日躋す。廃立の事は、臣敢えて聞かず」と。帝曰く、「古の遺直、復た卿に見る」と。乃ち奐を用いて太子詹事と為す。

廃帝が即位すると、 散騎常侍 さんきじょうじ ・国子祭酒に除される。出でて南中郎康楽侯長史・尋陽太守となり、江州事を行なう。宣帝が即位すると、始興王長史となる。奐は在職清儉にして、規正すること多く、宣帝はこれを嘉し、米五百斛を賜い、並びに累りて勅書を降し、殷勤に労問した。太建六年、吏部尚書となる。八年、侍中を加えられる。時に北辺に事有り、淮・泗を克復し、封賞叙用が紛紜重畳したが、奐は応接引進し、門に停賓無し。加うるに人物を識鑒し、百氏に詳練で、凡そ甄抜する所のものは、衣冠搢紳悦服せざる者無し。

性耿介にして、諸の請托を絶ち、儲副の尊きも、公侯の重きも、溺情相及ぶも、終に屈せられず。始興王叔陵が湘州に在りて、累りて有司に諷し、固く台鉉(三公の位)を求めた。奐曰く、「袞章(三公の服章)は本より徳を以て重しと為し、必ずしも皇枝(皇族)に非ず」と。因りて宣帝に抗言す。帝曰く、「始興は何ぞ忽ち公を望まん。且つ朕が児が公と為るは、須らく鄱陽王の後に在るべし」と。奐曰く、「臣の見る所も、亦た聖旨の如し」と。後主が時に東宮に在り、江総を以て太子詹事と為さんと欲し、管記の陸瑜に命じて之を奐に言わしめた。奐曰く、「江は潘・陸の華有れども、園・綺の実無し。儲貳を輔弼するは、窃かに材に非ずと謂う」と。後主は深く以って恨みと為し、乃ち自ら宣帝に言う。宣帝将に之を許さんとす。奐は乃ち奏して曰く、「江総は文華の人なり。今皇太子は文華少なからず、総に藉ること無し。臣の愚見の如くは、願わくは敦重の才を選び、以て輔導に居らしめん」と。帝曰く、「誰か可ならん」と。奐曰く、「都官尚書の王廓は、代に懿徳有り、識性敦敏なり。以て之に居らしむべし」と。後主も時に側に在りて、乃ち曰く、「廓は王泰の子なり。太子詹事に居るべからず」と。奐又曰く、「宋朝の范曄は即ち范泰の子なり。亦た太子詹事と為れり」と。後主固く之を争う。帝は総を以て詹事と為し、これによって旨に忤う。

初め、後主は其の私寵に官せんと欲し、微かに奐に諷したが、奐は従わなかった。左僕射の陸繕が職を遷すに及び、宣帝は奐を用いて繕に代えんと欲し、已に詔を草し終わったが、後主が抑えて遂に行われず。

十四年、 散騎常侍 さんきじょうじ ・金紫光禄大夫に為り、前軍将軍を領す。未だ行かず、改めて弘范宮衛尉を領す。至徳元年に卒す。年七十余。集十五巻、弾文四巻有り。子に紹安・紹薪・紹忠有り。紹忠は字を孝揚といい、亦た才学有り、位は太子洗馬・鄱陽王東曹掾に至る。

孔琳之

孔琳之は字を彦琳といい、会稽郡山陰県の人である。曾祖父の孔群は、晋の御史中丞であった。祖父の孔沈は、丞相掾であった。父の孔廞は、光禄大夫であった。

琳之は強直で志と気力があり、若い頃から文義を好み、音律に通じ、弾棋ができ、草書・隷書に妙を得ていた。桓玄が輔政として太尉となった時、西閣祭酒に任じた。桓玄が当時、銭貨を廃して穀物と布帛を用いようと議論した際、琳之は次のように論議した。

『洪範』八政において、貨は食に次ぐとしている。これは、交易の資とするものが、用いる上で最も重要なものだからではないか。故に聖王は無用の貨を制して、有用の財を通わすのであり、既に毀敗する費用がなく、また運搬の困難な苦労も省ける。これが銭貨が亀貝の功を継ぎ、歴代廃されなかった所以である。穀帛は宝たるもの、本来は衣食を満たすものである。今これを分けて貨と為せば、損なうところ甚だ多く、また商販の手に煩わせ、切断して用いることに消耗棄損する。この弊害は、昔から顕著である。故に鍾繇は言う、「巧偽の人は、競って湿った穀物で利を求め、薄い絹を制して資と為す」と。魏の世は厳刑をもって制したが、禁じることはできなかった。それ故に司馬芝は「銭貨を用いることは、ただ国を豊かにするだけでなく、刑罰を省く所以でもある」と考えた。今既に用いているものを廃すれば、百姓はたちまちその利益を失い、銭はあっても糧食のない者は皆、坐して飢え困窮することになる。これが断つことの弊害である。魏の明帝の時、銭を廃し穀物を用いて四十年であったが、人々に不便であるため、朝廷を挙げて大議論が行われ、精才で政事に通じた人士は、皆、銭を復用すべきであると考えた。彼らでさえ穀帛を捨てて銭を用いたのであるから、穀帛の弊害が既に試みられて明らかであることを十分に示している。

桓玄はまた肉刑を復活させようと議論した。琳之は次のように考えた。

唐虞の象刑、夏禹の刑辟の制定は、淳朴と薄俗の違いにより、教化を致す方法が異なるからである。『書経』に「世軽世重」とあるのは、時勢に随うことを言うのである。三代は風俗が純朴で事柄が簡素であったから、刑辟を犯すことは稀であった。末世は習俗が巧みで事務が殷盛であるから、動くごとに法網に陥るのである。もし三千の刑罰が末世に行われれば、必ず踊(足切り用の義足)が高価になるような過ちが生じる。これが五帝が法を相循らず、肉刑を悉く復活させることができない所以である。漢の文帝は仁惻の意を発し、自新の道が無いことを傷み、古制を革めて新たに創制し、刑措(刑罰が用いられない状態)と称した。しかし名目は軽く実質は重く、かえって人を傷つけることになった。故に孝景帝が嗣位すると、刑罰を緩やかにして軽くしたが、緩やかになると人は怠慢になり、また邪悪を禁じることができなかった。刑罰の中庸を期したことが、昔に比べて美とされる所以であり、歴代詳しく論じられたが、その中庸を得ることはできなかったのである。兵乱と凶荒の後は、法に罹る者が更に多く、棄市の刑は本来は右足趾を斬る刑であった。漢の文帝の一つの誤りを承けて革めなかったので、前賢は悵恨し、議論したが弁明されなかった。鍾繇、陳群の意見は小異があるが、右足趾の刑で棄市に代えようとした。もし彼らの言うことに従えば、生き延びる者は多いであろう。死刑を降して生かすことは、誠に軽い法であり、その性命を全うさせ、その産育を増やすことができる。仁は既に物を済し、功もまた衆に益する。また今の患いとして、逃亡が第一であり、屡叛して改めない者には、逃亡しても身を置く所がないようにすべきであり、また未だ犯していない者を厳しく戒め、永遠に悪の根源を絶つべきである。その余の条項については、宜しく且つ旧に依るべきである。桓玄は人に附き悦ぶことを好んだが、琳之はその旨に順うことができず、それ故に知られなかった。累遷して尚書左丞、揚州中従事史となり、居官する所で績を著した。

時に衆官に便宜(有益な意見)を献上することを求め、議者は学校を修め、刑典を恤れみ、官の職掌を審らかにし、黜陟を明らかにし、逸材を挙げて才能を抜き、農業に務めて調役を簡素にすべきであると論じた。琳之は衆議の外に別に建言して言った。

璽印というものは、官爵を弁章し、契約と符信を立てるものである。官は皇帝より大なるはなく、爵は公侯より尊いものはない。しかし伝国の璽は歴代受け継いで用い、襲封の印は代々相伝する。貴ぶところは旧に仍ることであり、改作を取る必要はない。今世ではただ尉の職のみが一つの印を専用し、内外の群官については、毎回遷転するごとに悉く改める。その意義を討尋すると、私には理解できない。もし官ごとに姓が異なり、伝襲と異なると言うならば、異なる時代の方が殊に異なるというわけではない。もしその名器を論ずれば、公卿の貴さがあっても、帝王の重さには及ばない。もし誅夷された臣があり、その凶穢を忌むと言うならば、漢は秦の璽を用いて、国祚四百年を伝えたが、子嬰が身を戮せられ国が亡んだからといって、佩用を棄てたとは聞かない。帝王公侯の尊さは、璽を伝えることに疑いがなく、人臣衆僚の卑さは、即座に印を用いることに何の嫌疑があろうか。載籍にはその説を聞かず、例を推しても自らその準則に乖いている。そして年中刻鑄し、功を喪い実を消し、金銀銅炭の費用は称言するに堪えない。旧貫を因循し、易簡の道に適うものではない。愚考するに、衆官は即ち一つの印を用い、改作する煩わしさを無くすべきである。もし新たに官を置き、また官が多く印が少なく、文様が零失するようなことがあれば、その後に乃ち鑄造すれば、天の府庫(朝廷)を仰ぎ裨益するものであり、小さな益のみではない。

また言った。

凶門柏裝(喪家の門に柏の枝を飾る風習)は、礼典に出ず、末代に起こり、積習して常となり、遂に旧俗となり、天子より庶人に至るまで行われた。誠に行うに由緒はあるが、急に革めれば必ず驚くであろう。しかしもし情に関わることがなく、礼度に過ちがあり、存続させても明らかなところがなく、除去しても失うところがなければ、固より先典に遵い、後の謬りを厘革すべきである。況んや兼ねて遊費(無駄な出費)を加え、実に人々の患いとなっているではないか。凡そ人士の喪儀は、多くは閭里(民間)から出るもので、毎にこの必要があると、動いて十数万を費やし、人の財力を損ない、義として取るべきところがない。寒庶(貧しい庶民)に至っては、人は自ら竭くすことを思い、たとえ家が懸罄(つるした瓶のように空)の如くであっても、産を傾け財を単にすることをしない者はない。いわゆる「礼をもって葬る」とは、このようなことであろうか。宜しく一様に凶門の様式を罷めるべきであると考える。尚書吏部郎に遷った。義熙十一年、宋の武帝の平北将軍・征西将軍の長史に除され、侍中に遷った。宋の台(朝廷)が初めて建てられた時、宋国の侍中に除された。永初二年、御史中丞となり、憲法を明らかにし法を直くし、屈橈することなく、 尚書令 しょうしょれい 徐羨之が憲典に虧違したことを奏劾した。時に羨之は揚州刺史を領しており、琳之の弟の璩之が中従事であった。羨之は璩之に琳之を説得させ、その事を停め寝かせようとした。琳之は許さず、言った、「私は宰相に触忤したのであり、政として罪は一身に止まるべきである。汝は必ずや従坐すべきではない。何ぞ勤々とする必要があろうか」。これより百僚は震肅し、敢えて禁令を犯す者はいなかった。武帝は大いにこれを嘉し、蘭台を行経する際、親しく臨幸を加えた。祠部尚書に遷った。産業に事とせず、家は特に貧素であった。景平元年に卒去し、太常を追贈された。

子の邈は父の風があり、官は揚州中従事に至った。邈の子が覬である。

覬は字を思遠といい、若い頃から骨鯁で風力があり、是非を己の任とした。口吃であったが、読書を好み、早くから知名であった。中書黄門侍郎を歴任した。初め、晋の安帝の時、 散騎常侍 さんきじょうじ の選望は甚だ重く、侍中と異ならなかったが、その後職任が閑散となり、用人も次第に軽んじられた。孝建三年、孝武帝はその選を重くしようと欲し、そこで吏部尚書の顔竣が、覬及び 司徒 しと 左長史の王景文を挙げるよう奏上した。帝は威権が下に在ることを欲せず、その後吏部尚書を分けて二人とし、その任を軽くした。侍中の蔡興宗は人に謂って言った、「選曹(吏部)は要重であり、常侍は閑淡である。名を改めても実を改めず、たとえ主上の意図として軽重を為そうとしても、人心はどうして変えることができようか」。既にして常侍の選は再び卑くなり、選部の貴さは異ならなかった。

大明元年、太子中庶子に転じ、翊軍 校尉 こうい を領した。秘書監、廷尉卿を歴任し、御史中丞となった。令史を鞭打ったことを有司に糾弾されたが、原諒されて問われなかった。

六年、安陸王子綏の後軍長史・江夏内史に任ぜられた。性は酒を嗜み気焔を振るい、酔うごとに終日醒めず、同僚の間で多くは凌辱軽視し、特に権幸に意を曲げることができず、畏れ憎まれる者はいなかった。平素は常に貧窮し、豊かさや倹約について、未だ気にかけたことはなかった。府の長史として、典簽が諮問する際は、呼ばれなければ前に進まず、去ることを命じられなければ去らなかった。酔っている日が多いながらも、政事に明るく、醒めている時に判決を下しても、滞ることはなかった。人々は皆言った、「孔公は一月に二十九日酔っているが、世人の二十九日醒めているより勝っている」と。孝武帝は引見しようとするたびに、先ず人を遣わしてその酔い醒めを窺わせた。

性質は真実素朴で、虚飾を尚ばず、宝玩を得れば、服用に疑わず、他の物は粗末でも、終に改易しなかった。時に呉郡の顧覬之もまた倹素を尚び、衣裘や器服は皆粗末なものを選んだ。宋の世の清貧倹約は、この二人を称えた。

覬の弟道存と従弟の徽は、産業を営むことに熱心で、二人の弟が東へ帰るために休暇を請うと、覬は渚に出迎え、輜重は十余船に及び、皆綿絹や紙席の類であった。覬はこれを見て偽って喜び、言った、「私は近頃困窮していたので、これを得るのは大変有難い」と。そこで岸辺に置かせ、やがて厳しい顔色で言った、「汝らは士流に預かる身でありながら、どうして東へ帰って商人になるようなことをするのか」と。焼き尽くすことを命じて去った。

先に、庾徽之が御史中丞であったが、性質は豪華で、服玩は甚だ華美であった。覬がこれを代わると、衣冠や器用は皆粗末であった。蘭台令史は皆三呉の富人で、軽んじる意を抱いていた。覬は蓬髪に緩帯、風貌は清厳で、皆重ねて跡を潜め息を殺し、敢えて欺き犯す者はなかった。庾徽之は字を景猷といい、潁川鄢陵の人で、後に南東海太守の任で卒した。

覬は後に 司徒 しと 左長史となり、道存が覬に代わって後軍長史・江夏内史となった。時に東土は大旱魃で、都邑では米価が高騰し、一斗が百銭に迫ろうとしていた。道存は覬が甚だ困窮しているのを慮り、吏に五百斛の米を載せて送らせた。覬は吏を呼んで言った、「私は彼の地に三年いたが、官を去る日に、道中の糧さえ用意できなかった。郎(道存)が彼の地に着いて間もないのに、どうしてこの米を得られようか。米を載せて彼の地へ返せ」と。吏は言った、「古来より米を上流へ載せて行くことはありません。都下では米が高いので、ここで売らせてください」と。聞き入れず、吏は米を載せて去った。

永光元年、侍中に遷り、後に尋陽王右軍長史・行会稽郡事となった。明帝が即位すると、召されて太子詹事とされ、旧臣の平西司馬庾業を右軍司馬として遣わし、覬に代わって会稽郡事を行わせた。時に上流で反乱が起こり、帝は都水使者孔璪を東へ遣わして慰労させた。璪が到着すると、覬に説いて、廃帝が奢侈浪費し、倉儲が尽き果て、都下は空乏し、資用は既に枯渇したこと、今南北共に兵を挙げ、遠近離反し、もし五郡の精鋭を擁し、三呉を招き動かせば、事は成らぬことはないと述べた。覬はその言葉に同意し、兵を発し檄を飛ばした。覬の子長公、璪の二子淹と玄は共に都におり、密書を馳せて報せた。泰始二年正月、共に逃れて東へ帰った。書を遣わして呉郡太守顧琛を誘った。琛は母が高齢で病弱であり、また建鄴に近いため、長子宝素と謀議したが決断できなかった。少子宝先は時に山陰令で、書を馳せて琛に報せ、南軍が既に近づき、朝廷は孤立弱体で、直ちに従わなければ必ず覆滅の禍があると述べた。覬の前鋒軍が既に浙江を渡ったので、琛は郡を拠てて同調して反した。呉興太守王曇生、義興太守劉延熙、 しん 陵太守袁標が一時に呼応した。

庾業が既に東へ向かうと、明帝は直ちに彼を代わって義興太守とし、劉延熙を巴陵王休若の鎮東長史とした。業は長塘湖に至ると、即ち延熙と合流した。明帝は建威将軍沈懐明を遣わして東討させ、尚書張永に進軍を督させた。巴陵王休若が東討諸軍を統率した。時に覬が派遣した孫曇瓘らの軍は しん 陵九里に駐屯し、陣容は甚だ盛んであった。懐明は奔牛に至ったが、率いる兵は寡弱であり、張永は曲阿に至ったが、懐明の安否を知らず、退いて延陵で休若に合流した。諸将帥は皆退いて破岡を守るよう勧めたが、休若は敢えて退却を言う者を斬ると宣令し、軍は少し落ち着いた。軍主劉亮がまた続いて到着し、兵力は次第に集まり、人心はようやく安まった。

時に斉高帝が軍を率いて東討し、張永らと しん 陵九里曲で陣を結び、東軍と対峙した。帝は積射将軍江方興、南台御史王道隆を しん 陵に遣わして賊の形勢を視察させた。賊帥孫曇瓘、程扞宗、陳景遠は合わせて五城を有し、互いに連絡していた。扞宗の城は未だ堅固でなかったので、道隆は率いる兵を率いて急襲し、間もなく城は陥ち、扞宗の首を斬った。劉亮は果敢で力強く、刀と楯を用い、楯を背負って進み、直ちに重なる柵の中へ入り、諸軍はこれに続き、即ち皆打ち破った。斉高帝と張永らは勝ちに乗じて馳せ撃ち、また大いにこれを破った。曇瓘はこの敗北により逃走し、孔璪と曇生は倉庫を焼き、銭唐へ奔った。

会稽では西軍が次第に近づくと聞き、将兵は多く逃亡し、覬は再び制御できなくなった。上虞令王晏が兵を起こして郡を攻めた。覬は憂慮慌てて為すべきことを知らなかった。その夜、千人を率いて東討と声を上げ、実は石賜へ向かった。潮が干いて進めず、兵は皆離反し、門生が小船に載せて山脊村へ逃げ込んだ。村人が縛って王晏に送ると、晏はからかって言った、「この事は孔璪の仕業で、卿には関係ない。首謀者の供述書を作れば、上申してやろう」と。覬は言った、「江東の処分は、全て我が身による。罪を委ねて生き延びようとするのは、君らのやり方だ」と。晏はそこで東の外郭で彼を斬った。臨終に酒を求め、言った、「これは平生の好みである」と。顧琛、王曇生、袁標らは皆呉喜の下へ赴いて罪を謝し、喜は皆これを赦した。東軍の主将は凡そ七十六人、陣中で十七人を斬り、残りは皆赦免した。

覬が兵を挙げた時、宣陽門の道を歩く夢を見、顧みれば皆丘陵であった。覬は覚めて、密かに人に告げて言った、「丘陵とは平らでないことで、建康は恐らく陥とし難いであろう」と。

覬の弟道存は、黄門吏部郎・南郡太守の位にあった。晋安王子勲が偽号を建てると、侍中とし、雍州事を行わせた。事敗れて殺された。

殷景仁

殷景仁は、陳郡長平の人である。曾祖父の融は、晋の太常であった。祖父の茂之は、特進・左光禄大夫であった。父の道裕は、早くに亡くなった。

景仁は幼少より大成の器量があり、 司徒 しと 王謐はこれを見て娘を娶らせた。宋武帝の太尉行参軍となり、中書侍郎の位を歴任した。景仁は文章を書かずとも機敏に思慮があり、義理を談じずとも深く道理に通じ、国典朝儀、旧章記注に至るまで、撰録せぬものはなく、識者は彼に当世を志す心があることを知った。

嘗て百官に人材を推挙させ、推薦の可否によって陟黜することを建議し、武帝は甚だこれを認めた。少帝が即位すると、侍中に補されたが、累表して辞譲した。優詔でその請いを認め、黄門侍郎とし、左衛将軍を歴任した。文帝が即位すると、信任は一層厚くなった。間もなく侍中に遷り、左衛将軍は元の如くであった。時に王華、王曇首、劉湛の四人と共に侍中となり、風力と局務の才幹をもって一世を冠し、同升の美は近代及ぶ者なかった。元嘉三年、車駕が謝晦を征伐した時、 司徒 しと 王弘が中書下省に入り、景仁は常に直し、共に留守の任を掌った。晦が平定されると、到彦之に代わって中領軍となり、侍中は元の如くであった。

文帝の生母である章太后は早くに亡くなり、帝は太后の生んだ蘇氏を非常に謹んで仕えた。六年、蘇氏が卒去すると、車駕自ら臨哭し、詔を下して二漢の推恩の典に従おうとした。景仁は議して「漢氏が推恩して爵を加えたのは、当時秦の弊を承け、儒術蔑如であり、盛明の世が踏襲すべき軌範ではない。晋は二代を監み、朝政の因るところとし、君の挙動は必ず記録され、哲王の慎むところである。至公を体する者は爵賞を無私に懸け、天統を奉ずる者は毎に情を屈して制を申べ、以て万国に信をなし、後昆に則を遺す」と論じた。帝はこれに従った。

母の喪に服し、葬儀が終わると、起用されて領軍将軍となったが、固辞した。帝は綱紀に代わって拝礼させ、中書舎人周赳に輿に載せて府に赴かせた。喪明け後、尚書僕射に遷った。太子詹事劉湛が代わって領軍となった。湛は景仁と元来親しく、共に武帝に遇され、宰相と許されていた。湛は常に外任にあった。王弘・王華・王曇首が相次いで亡くなると、景仁は湛を召し還して朝政に参じさせた。湛が入朝すると、景仁の位遇が本来己を超えぬのに、一朝にして己の前に居ることを憤慨した。文帝が景仁を信頼し仗っていることが動かし難いと知り、深く 司徒 しと 彭城王義康と結び、宰相の重みを倚りて彼を傾けようとした。十二年、景仁は中書令・護軍将軍に遷り、僕射は元のままとし、まもなく吏部を領すことを加えられた。湛はますます怒り、義康は湛の言を容れ、文帝に景仁を誹謗したが、帝の遇するはますます厚かった。景仁は密かに相王(義康)の権が重きは社稷の計にあらずと陳べ、帝も然りとされた。景仁は親旧に向かって嘆いて「彼を引き入れたが、入れば人を ぜい う」と言った。そこで疾を称して解任を請うたが、許されず、家に停めて養病させた。湛は議して、外で賊の如き者を遣わして彼を殺させ、文帝が知っても至親の愛を傷つけぬと思い込んだ。帝は微かにこれを聞き、景仁を西掖門外の晋の鄱陽主の邸に移し、護軍府とした。宮禁に密邇するため、その計は行われなかった。

景仁は臥病すること五年、帝に謁見せぬながらも密函の往来は日に十数を数え、朝政の大小必ず彼に問うた。影跡周密で、その際を窺う者無かった。湛を収めんとする日に及んで、景仁は衣冠を整えた。臥病久しく、左右皆その意を悟らなかった。その夜、帝は華林園延賢堂に出て彼を召し、景仁はなお脚疾を称し、小床に輿して就座し、誅討の処分は一切彼に委ねた。

義康に代わって揚州刺史となり、僕射・吏部は元のまま。使者を遣わして印綬を授け、主簿が代拝を終えると、たちまち疾が甚だしく、情理に乖錯した。性は元来寛厚であったが、忽ち苛暴に変じ、左右に「今年は男の婚が多いか、女の嫁が多いか」と問うた。この冬大雪が降り、景仁は輿に乗って庁事に出て眺め、忽ち驚いて「当閣に何ぞ大樹あるを得ん」と言い、既にして「我誤れり」と言った。疾篤く、文帝は州に在るは不利と謂い、還らせて僕射下省に住まわせた。州に在ること凡そ月余りで卒し、或いは劉湛の祟りを見たという。侍中・ 司空 しくう を追贈し、諡して文成公といった。大明五年、孝武帝が景仁の墓を経過し、詔を遣わして祭を致させた。

子の道矜は幼くして慧くなく、位は太中大夫。道矜の子の恒は、明帝の時、侍中・度支尚書に至った。父の疾が積久に及んだため、有司に奏された。詔に「道矜は生まれながら病あり、更に横疾無し。恒は愚に因り惰に習い、久しく清序を妨ぐ。 散騎常侍 さんきじょうじ を除くべし」とあった。淳は字を粹遠といい、景仁の従祖弟である。祖父の允は晋の太常。父の穆は和謹をもって称され、五兵尚書より宋武帝の相国左長史となった。元嘉中、位は特進・右光禄大夫、始興王師を領した。官に卒し、諡して元子といった。

淳は少より学を好み、美名あり、中書黄門侍郎を歴任した。黄門は清切なる職で、直ちに下省に留まるべきところ、父老のため特に家に還ることを聴された。高簡寡言で、早くより清尚あり、文義を愛好し、未だ嘗て捨てたことがなかった。秘書閣において四部書の大目を撰し、凡そ四十巻、世に行われる。元嘉十一年に卒し、朝廷痛惜した。

子の孚は父の風有り。嘗て侍中何勖と共に食し、孚の羹が尽きると、勖が「殷蓴羹を益せ」と言った。勖は 司空 しくう 無忌の子である。孚は徐に箸を輟めて「何ぞ無忌諱せん」と言った。孚は位は吏部郎、順帝の撫軍長史となった。

子の臻は字を後同といい、幼より名行有り、 袁粲 えんさん ・褚彥回共に賞異した。二公の席に造る毎に、輒ち清言して日暮れまで及んだ。王儉が丹陽尹となると、郡丞に引いた。袁昂が先に秘書丞に拝され、臻に到省の表を作ることを求めた。臻は答えて「何ぞ拝を倩うを見ずして、表を作ることを倩うや」と言い、遂に作らなかった。太子洗馬を歴任した。

淳の弟の沖は字を希遠といい、御史中丞の位にあり、司直の称有り。再び度支尚書に遷った。元凶(劉劭)の妃は即ち淳の女であり、沖は東宮で劭に知遇された。劭が しい 逆して立つと、司隷 校尉 こうい とした。沖は学義文辞有り、劭は彼に尚書符を作らせ、孝武帝を罪状し、また劭のために尽力した。建鄴平定後、賜死された。

沖の弟の淡は字を夷遠といい、また黄門吏部郎、太子中庶子を歴任した。大明中、また文章をもって知られた。

【論】

論じて曰く、季恭は命偶く興王に合い、恩深く惟旧に及び、位崇寵に致るに及んでも、毎に謙挹を存す。夫れ持満の戒めを観るに、古人を追跡するに足る。琇の貞素の風は、義なき地を践まず。易に曰く「王臣蹇蹇たり、其の動きも直し」と。休文の己を行う度は、之に近しと謂うべし。琳の二議は、変通の道に深く達す。覬の身を持する節も亦た一時の良と曰うべく、而して言を聴けば悖り、晩に覆没を致す、痛しいかな。景仁の遠大の情は、初筮に著れり。元嘉の盛、卒に宗臣を致し、言聴き計従わる、斯に於いて重し、美しいかな。

原本を確認する(ウィキソース):南史 巻027