南史
巻二十六より巻二十七
列伝第十六
袁湛
袁湛は字を士深といい、陳郡陽夏の人である。祖父の耽は晋の歴陽太守、父の質は琅邪内史であり、ともに名を知られた。湛は若くして弟の豹とともに従外祖父の謝安に認められ、安はその兄の子である玄の娘を湛に娶せた。
宋の武帝が兵を起こすと、鎮軍諮議参軍に任じられた。征討に従った功績により、晋寧県五等男に封ぜられた。義熙十二年、尚書右僕射となった。武帝が北伐すると、湛は太尉を兼ね、兼 司空 尚書の范泰とともに九錫の礼器を奉じて武帝に拝授したが、帝は謙譲した。湛らは軍に従って洛陽に至り、柏谷塢に駐屯した。泰は使者の任務が未だ完了していないとして、晋の皇帝の諸陵を拝礼すべきでないと議したが、湛は独り五陵に赴き敬意を表し、当時の人々はこれを称えた。
初め、陳郡の謝重は王胡之の外孫であったが、諸々の舅に対する礼敬に欠けるところが多かった。重の子の絢は湛の甥であるが、かつて公の座で湛を侮慢したことがあり、湛は厳しい顔色でこれに言った、「汝はまさに二世にわたり渭陽の情け無しというべきである」と。絢は恥じ入る色を示した。十四年、卒去し、左光禄大夫を追贈された。文帝が即位すると、后の父として侍中を追贈され、左光禄大夫、開府儀同三司を加えられ、諡して敬公といった。大明三年、孝武帝が籍田に臨幸し、湛の墓の前を通った際、使者を遣わして祭奠を行わせ、墓守の戸数を五戸増やした。
子の淳、淳の子の植は、ともに早世した。
弟 豹
湛の弟の豹は字を士蔚といい、学問を好み博識で、雅俗を交えた談論に長じた。古今を論じ較べる毎に、朗詠を交えるので、聞く者は疲れを忘れた。御史中丞の時、鄱陽県侯の孟懐玉が母の檀氏を国太夫人に拝することを上奏し、有司がこれを許すよう奏上した。豹は、婦人は夫の爵に従うべきであり、懐玉の父である大司農の綽が現に列卿の位にある以上、妻が子の爵に従うのは宜しくないとし、尚書右僕射の劉柳らの官を免ずるよう奏上した。詔によりいずれも贖罪をもって論ぜられた。後に丹陽尹、太尉長史となり、義熙九年、官のまま卒去した。蜀征伐の謀議に参与した功により、南昌県五等子を追封された。子に淑がいる。
豹の子 淑
淑は字を陽源といい、若くして気概があった。数歳の時、伯父の湛は人に言った、「これは凡児ではない」と。十余歳に至り、姑の夫である王弘に賞賛され、広く典籍に渉り多く通暁し、章句の学に拘らなかった。文采は剛健で華麗、縦横に才弁を振るった。彭城王の義康が 司徒 祭酒に任じた。義康は文学を好まず、外見上は礼遇して接したが、内心の好意は甚だ疎遠であった。従母兄の劉湛は淑を自己に附けさせようとしたが、淑はその意を改めようとせず、これにより大きく乖離した。淑はそこで詩を賦して曰く、「蘭を種うるに門に当たるを忌み、璧を懐くも楚に向かうなかれ。楚に別玉の人少なく、門は蘭を植うる所に非ず」と。まもなく久しい病により官を免ぜられた。
元嘉二十六年、累進して尚書吏部郎となった。その秋、大いに北征が行われた時、淑は悠々として言った、「今や趙・魏を席捲し、岱宗にて玉を検めるべき時、願わくは封禅の書一篇を上らん」と。文帝は言った、「盛徳の事業は、我何ぞ以てこれに当たるに足らんや」と。出されて始興王の濬の征北長史・南東海太守となった。淑が初めて府に到着すると、濬は引見して言った、「思いがけず舅が遂に屈して補佐されるとは」と。淑は答えて言った、「朝廷が下官を遣わされたのは、もとより公の府の声望を輝かすためでございます」と。還って御史中丞となった。
時に魏軍が南伐して瓜歩に至ると、文帝は百官に防禦の術を議させた。淑が上奏した意見は、その言が甚だ荒唐であった。淑は誇張を好み、しばしば当時の人々に嘲笑された。始興王の濬がかつて銭三万を淑に贈ったが、一晩でまた人を遣わして追い取らせ、使者が誤ったと言って、淑をからかおうとした。淑は濬に書を送って言った、「前に志に聞くところによれば、『七年のうちに、一たび与え一たび奪うは、義士すらなおこれを非とす』と。ましてや旬日のうちに密接して行われたこと、何とその増減の急なることか。窃かに恐れるのは、二三の諸侯が以て大国の政を観る有らんことである」と。太子左衛率に転じた。
元凶(劉劭)が逆を為そうとしたその夜、淑は直宿していた。劭は淑及び蕭斌らを呼び、涙を流して「明朝大事を行わんとす、相ともに力を尽くすことを望む」と告げた。淑と斌はともに言った、「古よりこのようなことはありません、どうか善くお考えください」と。劭は怒り、斌は恐れて言った、「謹んで命令を奉じます」と。淑はこれを叱って言った、「卿は殿下が真にこれを為そうとしているとでも言うのか。殿下は幼少の頃、風疾を患ったことがあり、あるいはその病が発動したのであろう」と。劭はますます怒り、そこで問うて言った、「事は成るか」と。淑は言った、「疑わざる地に居れば、何ぞ成らざるを患えん。ただ成った後は、天地の容れるところとならず、大禍もまた直ちに至るのみ」と。劭の左右の者が淑の衣を引いて言った、「これは何事ぞ、やめると言えることか」と。劭は立ち上がり、淑らに袴褶を賜い、また主衣から錦を取り、三尺を裁って一段とし、さらに真ん中から裂き、斌と淑及び左右の者に分け与え、袴褶を縛らせた。淑は出て省中に戻り、床を巡って四更になってようやく寝た。劭が出発しようとする時、既に蕭斌と同車に乗り、淑を大いに急いで呼んだが、淑は眠り続けて遂に起きなかった。劭は奉化門で車を停め、相次いで催促した。淑はゆっくりと起きて車の後ろに至った。劭は車に登らせようとしたが、淑は辞して登らなかった。劭は左右の者に命じて奉化門外の槐樹の下で淑を殺させた。劭が即位すると、太常を追贈した。孝武帝が即位すると、侍中・太尉を追贈し、諡して忠憲公といった。また詔して淑及び徐湛之・江湛・王僧綽・卜天与の四家に長く俸給を給することを命じた。淑の文集は世に伝わった。諸子はともに早世した。
淑の兄の洵の子に顗あり。
兄の洵は、呉郡太守となり、諡して貞と曰う。洵の子は顗。
顗は字を国章といい、初め 豫 州主簿となり、累遷して 晉 陵太守に至り、南昌県五等子を襲封した。大明の末、侍中に拝され、前軍将軍を領す。時に新安王子鸞は母の寵愛により盛んな寵遇を受け、太子は東宮に在って過失多く、帝は微かに太子を廃し子鸞を立てんとする意あり、従容として之を言う。顗は太子の好学を盛んに称え、日々新たなる美徳あるを述ぶ。帝怒り、衣を振るって入り、顗もまた厲色を以て出づ。左丞徐爰、帝に言い、之を宥すを請う。帝の意解く。後、帝また沈慶之の才用多くあらずとし、言論頗る相嗤毀するを以て、顗また慶之の忠勤にして幹略あるを陳べ、重任に堪うるを述ぶ。是によりて前廃帝は深く顗に感き、慶之も亦その徳を懐く。
景和元年、群公を誅し、顗を引進して朝政に任ぜんと欲し、吏部尚書に遷し、新淦県子を封ず。俄にして意趣乖異し、寵待頓に衰え、始めて顗に沈慶之・徐爰と選事に参知せしむ。尋いで復た以て罪と為し、有司をして糾奏せしめ、白衣として職を領するに坐す。湖熟に幸するに従い、往反数日命を受けず。顗は禍を慮り求出を求め、乃ち建安王休仁の安西長史を除す。休仁行かず、即ち顗を以て寧蛮 校尉 ・雍州刺史を領し、 都督 を加う。顗の舅蔡興宗謂いて曰く、「襄陽は星悪し、豈に冒すべけんや」と。顗曰く、「白刃前に交わりても、流矢を救わず。今日の行いは、本より彪口より生ぜんことを願う。且つ天道は遼遠なり、何ぞ必ずしも皆験あらん。若し其れ徴あらば、当に徳を修めて以て之を禳わん」と。是に於いて狼狽して上路し、恒に追見せられんことを慮る。後に尋陽に至りて曰く、「今免るるを知る」と。鄧琬と款狎常に過ぎ、毎に清閑すれば必ず日を尽くし夜を窮む。顗と琬は人地本より殊なり、衆其の異志あるを知る。
襄陽に至るに及び、劉胡に兵械を繕修せしむ。会に明帝大事を定め、顗の号を右将軍に進む。荊州典簽邵宰を遣わし、駅を乗りて江陵に還らしむ。道は襄陽に由る。顗の反意已に定まり、而して糧仗未だ足らず、且く明帝に表を奉らんと欲す。顗の子秘書丞戩曰く、「一たび表疏を奉れば、便ち彼の臣と為り、臣を以て君を伐つは、義に於いて不可なり」と。顗之に従う。顗は詐りて太皇太后の令を受けたると云い、其の兵を起さしむ。便ち牙を建て檄を馳せ、晋安王子勳の大位に即くを奉勸し、琬に書して甲を解かざらしむ。子勳即位し、顗の号を安北将軍に進め、尚書左僕射を加う。顗は本より将略無く、軍中に在りて未だ戎服せず、語は戦陣に及ばず、唯だ詩を賦し義を談ずるのみ。諸将を撫接すること能わず。劉胡毎に事を論ずるも、酬対甚だ簡にして、此に由りて大いに人情を失う。胡は常に切歯して恚恨す。
胡は南運未だ至らず、軍士匱乏するを以て、就きて顗に襄陽の資を換えんとす。顗答えて曰く、「都下の両宅未だ成らず、方に応に經理すべく、損徹す可からず」と。又往来の言を信じ、都下米貴く、斗数百に至ると言い、攻伐を労せずして、行くに自ら離散すと為し、是に於いて甲を擁して以て之を待つ。明帝は顗の旧門生徐碩をして手詔を奉らしめ、顗に譬えて曰く、「卿未だ臣と為る経ず、今竇融を追蹤するも、猶未だ晩からず」と。劉胡の叛走し顗に告げざるに及び、顗夜に至りて方に知り、大怒し罵って曰く、「今年小子に誤らる」と。飛燕を取るを呼び、其の衆に謂いて曰く、「我当に自ら出でて之を追わん」と。因って又遁走す。鵲頭に至り、戍主薛伯珍及び其の領する数千と、歩みて青林を取る。尋陽に向かわんと欲す。夜、山間に止まり宿し、馬を殺して将士を労う。顗顧みて伯珍に曰く、「我八州を挙げて以て王室を謀るも、一戦せずして散ず。豈に天ならずや。死せざるに非ず、豈に草間に求めて活かんと欲せん。一たび尋陽に至り、主上に謝罪し、然る後に自刎せんことを望むのみ」と。因って慷慨し左右を叱して節を索むるも、復た応ずる者無し。旦に及び、伯珍間言を求む。乃ち顗の首を斬り、詣でて銭溪の馬軍主襄陽の俞湛之に降る。湛之は因って伯珍を斬り、並びに首を送りて以て己が功と為す。明帝は顗の違叛を忿り、屍を江に流す。弟子の彖、収めて石頭の後岡に瘞す。後廃帝即位し、方に改葬を得。
顗の子は戩・昂。戩は黄門侍郎となり、盆城を戍る。尋陽敗れ、伏誅す。
洵の弟の濯の子に粲あり。
粲は字を景倩といい、洵の弟の子なり。父の濯は揚州秀才にして、早く卒す。粲幼くして孤となり、祖父之を哀しみ、之に名づけて湣孫と曰う。伯叔並びに当世栄顕なりしも、湣孫は饑寒足らず。母は琅邪の王氏、太尉長史誕の女なり。躬ら績紡に事えて、以て朝夕を供す。
湣孫少くして好学し、清才あり。伯父の洵が呉郡に為るに随い、弊衣を擁して書を読み、足戸を踰えず。其の従兄の顗出遊し、湣孫を要すも、湣孫は輒ち疾を称して動かず。叔父の淑雅重く之し、子弟に語りて曰く、「我が門に賢を乏しからず、湣孫必ず復た三公と為らん」と。或いは顗と婚せんと欲する者あり。顗の父の洵曰く、「顗は堪えず、政に湣孫と婚す可きのみ」と。湣孫坐に在りて、流涕して起ち出づ。早く操行を以て知られ、宋の孝武帝即位し、稍く遷りて尚書吏部郎・太子右衛率・侍中となる。孝建元年、文帝の諱日に、群臣並びに中興寺にて八関斋を行い、中食竟りて、湣孫別に黄門郎張淹と更に進みて魚肉を食す。 尚書令 何尚之は法を奉ずること素より謹み、密かに以て孝武帝に白す。孝武帝、御史中丞王謙之をして糾奏せしめ、並びに免官せらる。
大明元年、復た侍中となり、射声 校尉 を領し、興平県子を封ず。三年、山陰の人丁承文の貨を納め、挙げて会稽郡孝廉と為したるに坐し、免官す。五年、左衛将軍となり、給事中を加う。七年、吏部尚書に転じ、左衛は元の如し。其の年、皇太子冠す。上東宮に臨宴し、顔師伯・柳元景・沈慶之等と並びに摴蒱す。湣孫、師伯に酒を勧むるも、師伯飲まず。湣孫因って相裁辱して曰く、「佞人と周旋する能わず」と。師伯は上に寵せられ、上は常に湣孫が寒素を以て之を陵ぐを嫌い、此に因りて怒りを発して曰く、「袁濯の児朕に逢わずば、員外郎未だ得可からざるなり。而るを敢えて寒士を以て物に遇すや」と。将に手刃せんとし、命じて席より引下さしむ。湣孫色変わず。沈・柳並びに起ちて謝す。久しくして釈かるるを得。出でて海陵太守と為る。廃帝即位し、湣孫郡に在りて、日其の胸の上に堕つるを夢み、因りて驚く。尋いで徴せられて機密を管し、歴りて吏部尚書・侍中・ 驍 衛将軍となる。湣孫は儀範に峻にして、廃帝之を裸にして走らしむるを迫るも、湣孫雅歩常の如く、顧みて言いて曰く、「風雨晦るる如く、鶏鳴已まず」と。明帝泰始元年、 司徒 左長史・南東海太守と為る。
湣孫は清らかで整い風操があり、自らを遇する甚だ高く、嘗て妙徳先生伝を著して嵇康の高士伝の後に続け、以て自らに況えて曰く、「妙徳先生有り、陳国の人也。気志深く虚しく、姿神清く映え、性孝にして履順、棲沖にして業簡、舜の遺風有り。先生は幼夙より疾多く、性疏懶にして、営む所尚ぶ所無し。然れども九流百氏の言、雕龍談天の藝、皆広く其の大帰を識り、而も以て成名せず。家貧しく嘗て仕ふ、其の好む所に非ざる也。其の声跡を混じ、其の心用を晦まし、席門常に掩ひ、三徑裁ちて通ず。揚子の寂漠、厳叟の沈冥と雖も、是に過ぎず。道を修め志を遂ぐるも、終に得る所無くして称ふる有り」と。又嘗て周旋の人に謂ひて曰く、「昔し一国有り、国中に一水有りて狂泉と号す、国人此の水を飲むに狂はざる無し、唯だ国君井を穿ちて汲むのみ、独り恙無きを得たり。国人既に並びに狂ひ、反って国主の狂はざるを狂ひと謂ひ、是に於て謀を聚めて共に国主を執り、其の狂疾を療せんとす。火艾針薬、必ず具はらざる莫し、国主其の苦しみに堪へず、是に於て泉の所に到りて水を酌みて之を飲む、飲み畢りて便ち狂ふ、君臣大小其の狂ふこと若し一の如し、衆乃ち歓然たり。我既に狂はず、独り立つこと難し、比も亦た此の水を試みに飲まんと欲す」と。
幼くして荀奉倩の為人を慕ひ、孝武の時に名を改めて粲と為さんことを求め、許さず、明帝の立つに至り、乃ち改めて粲と為さんことを請ふ、字は景倩。其の外孫王筠又云ふ、「明帝は忌諱多く、反語に袁湣を『殞門』と為す、帝意之を悪み、乃ち改めしむ」と。二年、領軍将軍に遷り、仗士三十人を以て六門に入る。其の年、中書令に徙り、太子詹事を領す。三年、尚書僕射に転じ、尋いで吏部を領す。五年、中書令を加へ、又丹陽尹を領す。
粲は才を負ひ気を尚び、虚遠を愛好し、位任隆重と雖も、事務を以て懐を経ること無し。独り園林を歩み、詩酒自ら適す。家居は負郭に在り、毎に杖策して逍遙し、其の意得るに当たりては、悠然として反るを忘る。郡南の一家頗る竹石有り、粲率爾として歩往し、亦た主人に通ぜず、直ちに竹の所に造り、嘯詠自得す。主人出で、語笑款然たり。俄にして車騎羽儀並びに門に至り、方に是れ袁尹なるを知る。又嘗て歩屧して白楊の郊野間に在り、道に一の士大夫に遇ひ、便ち呼びて与に酣飲す、明日此人知顧せられたると謂ひ、門に到りて進を求む。粲曰く、「昨飲酒偶無く、聊か相要するのみ」と。竟に与に相見えず。嘗て五言詩を作り、言ふ、「跡を訪ふと雖も中宇に在り、寄りを循るは乃ち滄洲なり」と。蓋し其の志なり。
七年、 尚書令 と為る。初め、粲孝武に忤ひ、其の母乗輿の出づるを候ひ、磚を負ひ頭を叩きて血を流し、磚碎けて目を傷つく。此の後より、粲人の与に語るに、誤りて眇目と道ふ者有らば、輒ち涕泣して日を彌ぐ。嘗て疾有り、母憂念し、晝寝し、夢に父の容色平生の如くを見、母と語りて曰く、「湣孫憂ふること無かれ、将に国家の器と為らんとす、沈没を患へず。但だ富貴を恐る、終に当に傾滅すべし」と。母未だ嘗て言及せず。粲貴重たり、恒に傾滅を懼れ、乃ち以て之に告ぐ、粲故に自ら挹損す。明帝崩に臨み、粲褚彥回・劉勉と並びに顧命を受け、班剣二十人を加へ、鼓吹一部を給す。後廃帝即位し、兵五百人を加ふ。元徽元年、母憂に丁し、葬竟り、令を摂し親職し、衛将軍を加へ、受けず。性至孝にして、喪に居りて毀甚だしく、祖日及び祥に、詔して衛軍に客を断たしむ。
二年、桂陽王休範逆を為し、粲扶曳して殿に入り、詔して兵を加へて自ら随ひ、府に佐吏を置く。時に兵難危急し、賊已に南掖門に至り、諸将意沮ぎ、咸く奮ふこと能はざる莫し。粲慷慨として諸将帥に謂ひて曰く、「寇賊已に逼り、而して衆情離阻す、孤子先帝の顧托を受け、本より死を以て報ぜんとす、今日当に褚護軍と同しく社稷に死せん」と。因りて左右に命じて馬を被らしめ、辞色哀壮なり。是に於て陳顕達等感激して出戦し、賊即ち平殄す。事寧ぎ、 中書監 を授け、即ち本号開府儀同三司とし、 司徒 を領す。揚州を以て解きて府と為すも、固より肯て移らず。三年、 尚書令 に徙り、衛軍・開府故の如く、並びに固辞し、服終りて乃ち命を受く。侍中を加へ、侯に爵を進め、又受けず。
時に粲斉高帝・褚彥回・劉彥節と遞日に直に入り、万機を平決す。粲閑默にして寡言、肯て当事せず、主書毎に往きて諮決すれば、或いは高詠して之に対す。時に一意を立てば、則ち衆改むること能はず。素より往来寡く、門に雑賓無く、閑居して高臥し、一も接する所無し。談客文士、見る所一両人に過ぎず。順帝即位し、 中書監 に遷り、 司徒 ・侍中故の如し。斉高帝既に東府に居るを以て、故に粲をして石頭を鎮めしむ。粲素より静退にして、毎に朝命有れば、逼切已むを得ず、然る後方に就く。及び詔して石頭に移さしむれば、即ち便ち旨に順ふ。周旋の人解望気有り、粲に謂ひて曰く、「石頭の気甚だ凶し、往けば必ず禍有らん」と。粲答えず。又油絡通幰車を給し、仗士五十人を以て殿に入る。
時に斉高帝方に革命せんとし、粲自ら身顧托を受けたるを以て、二姓に事へんと欲せず、密かに異図有り。劉彥節は宋氏の宗室、前湘州刺史王蘊は太后の兄の子、素より武事を好み、並びに斉高帝に見容れられざるを慮り、皆粲と結び、諸将帥黄回・任候伯・孫曇瓘・王宜興・彭文之・卜伯興等並びに粲と合す。昇明元年、荊州刺史沈攸之兵を挙げて反し、斉高帝自ら粲に詣るも、粲疾を称して見えず。粲の宗人袁達は異同を示すべからざる以為ふ。粲曰く、「彼若し我を劫して台に入らば、便ち拒むに辞無く、一たび此くの如くせば、復た出づることを得ず」と。時に斉高帝朝堂に入り屯し、彥節の従父弟領軍将軍韞門下省に直に入り、卜伯興直合と為り、黄回諸将皆軍を率いて新亭に出づ。粲日を克ちて謀りて太后の令を矯ひ、韞・伯興をして宿衛兵を率ひて朝堂に於て斉高帝を攻めしめ、回軍を率ひて来り応へしめ、彥節・候伯等並びに石頭に赴かしめんとす。事泄る。先づ是れ、斉高帝将薛深・蘇烈・王天生等を遣はして兵を領ひて石頭を戍らしめ、云く以て粲を助けんと、実は之を禦ぐ也。又腹心王敬則をして直合と為らしめ、伯興と共に禁兵を総べしむ。王蘊彥節の已に奔れるを聞き、歎じて曰く、「今年事敗れたり」と。乃ち狼狽として部曲を率ひて石頭に向ひ、薛深等門に拠りて之を射る。蘊は粲已に敗れたりと謂ひ、乃ち便ち散走す。斉高帝以て敬則に報じ、敬則韞並びに伯興を誅し、又軍主戴僧静を遣はして石頭に向はしめ薛深を助けて倉門より入らしむ。時に粲彥節等と兵を列ねて東門に登り、僧静兵を分けて府の西門を攻む、彥節児と与に城を踰えて出づ。粲還り坐し、燭を列ねて自ら照らし、其の子最に謂ひて曰く、「本より知る一木は大廈の崩るるを止むること能はずと、但だ名義を以て此に至るのみ」と。僧静身を挺して暗く往き、刀を奮ひて直前にして之を斬らんと欲す。子最も異有るを覚え、大叫して父を抱きて先ず死なんことを乞ふ、兵士人々涕を隕さざる莫し。粲曰く、「我は忠臣を失はず、汝は孝子を失はず」と。仍りて筆を求めて啓を作りて云く、「臣義大宋に奉じ、策名両畢す、今便ち魂を帰して墳壟に就き、永く山丘に就かん」と。僧静乃ち並びに之を斬る。
初め、粲大明の中に蕭恵開・周朗と同車に行き、大珩開に逢ひて車を駐め、恵開自ら鏡を照らして曰く、「年無くして仕ふ可し」と。朗鏡を執ること良久くして曰く、「死を視ること帰するが如し」と。粲最後に曰く、「三公に至るも終はらず」と。是に至りて言の如し。
袁最は字を文高といい、当時十七歳であった。既に父子ともに死に、左右の者は散り散りとなり、任候伯らはその夜いずれも新亭から石頭に赴き、その後皆誅殺された。
袁粲 の幼い子が数歳で、乳母が彼を 袁粲 の門下生である狄霊慶のもとに投じようとした。霊慶は言った、「郎君を出す者には厚い賞があると聞く。今や袁氏は既に滅びた。汝が匿っても尚誰のためになろうか」と。遂に抱えて首を差し出した。乳母は号泣して天を呼び、「公は昔汝に恩があった。故に難を冒して汝に帰したのに、どうして郎君を殺して小利を求めようとするのか。もし天地鬼神に知るところあらば、我は汝の滅門を見るであろう」と言った。この児が死んだ後、霊慶は常に児が大寧の毛狗に乗って普段のように遊んでいるのを見た。一年余り経って、闘場で忽ち一匹の狗が走り込んでその家に入り、庭で霊慶に出会って噛み殺した。間もなく妻子も皆亡くなった。この狗は即ち袁郎が常に乗っていたものである。
斉の永明元年、武帝は詔して言った、「 袁粲 ・劉彦節は共に先朝とともに宋室を助け、沈攸之は景和の世において特に誠心があった。末節は終わらなかったとはいえ、始めの誠は記録すべきである。歳月が遠く過ぎ去った今、宜しく優れた恩恵を浴びるべきである」と。そこで共に命じて改葬させた。
袁粲 の省事である莫嗣祖は、 袁粲 が常に委任信頼していた者で、劉彦節らと密謀を宣べていた。この時、斉の高帝が問うて言った、「汝は 袁粲 が謀逆を企てたことを知っていたのに、何故啓上しなかったのか」と。嗣祖は言った、「小人に識見はなく、曲がりなりにも袁公の厚恩を蒙り、実に背くことは仰ぎません。今日死に就くのは甘んじて受けます。官がもし命を賜われば、また 袁粲 を背いて独り生きることも忍びません」と。戴僧静は彼を殺すよう勧めた。帝は言った、「彼は各々その主のために尽くしたのだ」と。遂に赦し、省事に用いた。歴朝に賞された。梁の 豫 章王が新たに合を出た時、中旨によって嗣祖を師とした。
袁顗の弟袁覬の子 袁彖
袁彖は字を偉才といい、袁顗の弟袁覬の子である。袁覬は学問を好み才に優れ、早くから清い名声があり、宋に仕えて武陵内史となった。袁彖は若い頃から気風があり、文章をよくし、また玄談を善くし、秀才に挙げられ、諸王府の参軍を歴任したが、就任しなかった。袁覬は臨終に兄袁顗に書を送って言った、「史公の才識は喜ばしく、先人の基業を十分に盛んにしうるであろう」と。史公は袁彖の幼名である。袁顗が誅殺されると、宋の明帝はその屍を江中に投げ入れ、殯葬を許さなかった。袁彖は旧奴一人と共に、微服で屍を求め、四十余日にしてようやく得て、密かに石頭の後岡に埋葬し、自ら土を背負った。その文集を懐にして、身から離さなかった。明帝が崩じた後、ようやく袁顗を改葬した。従叔の 司徒 袁粲 、祖舅の征西将軍蔡興宗は共に彼を器とした。
宋に仕えて斉の高帝の太傅相国主簿、秘書丞となった。斉に仕えて中書郎、兼太子中庶子となった。また中書郎として御史中丞を兼ねた。謝超宗を弾劾した簡奏が依違したことに坐し、免官された。後に廬陵王諮議に拝された。時に南郡江陵県の人苟蔣之の弟胡之の妻が曾口寺の沙門に淫された。夜、苟家に入り、蔣之が沙門を殺し、官司に検挙された。蔣之は家門の穢行を列挙し、告げようとすれば恥ずかしく、忍ぼうとすればならず、実に己が殺したこと、胡之の列挙もまたこのようであり、兄弟は死を争った。江陵令の宗躬が州に啓上し、荊州刺史の廬江王が広く議論を求めた。袁彖は言った、「寒さが厳しく節が急な時にこそ、松や竹の節操が現れ、危機が遠く構えられた時にこそ、貞孤の風が識られる。窃かに蔣之・胡之の殺人は、心を原れば暴ではない。弁讞の日、友愛して生を譲り、事は左右を憐れみ、義は行路を哀しむ。昔、孔文挙が謗りを引き受け、疏網を漏れた。蔣之の心跡は古人に符する。もし深刑に陥れたら、実に善を為すことを傷つけるであろう」と。これによって蔣之兄弟は死を免れた。
累遷して太子中庶子となり、出て冠軍将軍、監呉興郡事となった。袁彖の性質は剛直で固く、微言によって武帝に逆らい、また王晏の為人を軽んじ、王晏が交わりを請うても答えなかった。武帝が便殿で金の柄の刀子で瓜を切っていた時、王晏が側らで言った、「外聞に金刀の言があります。恐らくこの物を用いるのは宜しくないでしょう」と。帝はその所以を窮問した。王晏は言った、「袁彖が臣にこれを説きました」と。上は怒りを懐いて久しく思った。袁彖が郡に着くと、禄銭を使い過ぎたことに坐し、免官されて東冶に付された。袁彖の妹は竟陵王蕭子良の妃であり、子良の世子蕭昭冑は当時八歳で、武帝に会って容貌が惨悴していた。帝がその故を問うと、昭冑は涙を流して言った、「臣の舅が罪を負い、今尚方におります。臣の母は悲泣して食事を取らず既に数日になります。臣が安らかでない所以です」と。帝は言った、「特に汝のために赦そう」と。既にして帝が孫陵に遊び、東冶を望んで言った、「冶中に一人の良い貴囚がいる」と。数日後、朝臣と共に冶に行幸し、庫蔵を巡行し、宴飲に因んで、囚徒に酒肉を賜い、袁彖に会って語るよう敕し、明日に彼を釈放した。後に侍中となった。袁彖は充腴で衆に異なり、毎度雉を射るために郊野に行く時、数人が推し扶けてようやく徒歩できるほどであった。幼くして母が亡くなり、伯母の王氏に養われ、彼女を実の親のように仕え、閨門に孝義があった。隆昌元年に卒し、諡して靖子といった。
袁彖の宗人である袁廓之は、字を思度といい、袁宏の曾孫である。父の袁景雋は宋の世に淮南太守となったが、罪なくして誅殺された。廓之は終身音楽を聴かず、布衣蔬食で、足を門外に出さず、宋に臣としないことを示し、時に人はこれを晋の王裒に比した。顔延之が彼の幼少時を見て、歎じて言った、「子として袁廓の如きがあれば足りる」と。斉国が建てられて初めて出仕し、次第に殿中郎となり、王儉・柳世隆は心を傾けて彼を待遇した。太子洗馬となった。当時、何間もまた才子と称され、文恵太子のために楊畔歌を作り、辞は甚だ側麗で、太子は甚だ悦んだ。廓之は諫めて言った、「楊畔というものは、既に典雅ではなく、その声は甚だ哀思に富みます。殿下は簫韶に意を降すべきであり、どうして亡国の響きを聴かれるのですか」と。太子は顔色を改めて謝した。
袁顗の子 袁昂
袁昂は字を千里といい、雍州刺史袁顗の子である。袁顗が敗れると、沙門に匿われた。沙門が彼を連れて関を出ようとした時、関吏が常人でないと疑った。沙門が杖で彼を打ちながら語ったので、遂に免れた。或いは言う、袁顗が敗れた時、袁昂は五歳で、乳媼が抱き匿って廬山に隠れた。州郡が野で彼を求め、乳媼の隠れた所で一匹の彪を見たので、去ったため、遂に免れた、と。赦に会って出ることができたが、なお晋安に徙された。南方ではただ勤勉に学び、元徽年間に至って還ることを聴され、当時十五歳であった。初め袁顗が敗れて首が建鄴に伝えられ、武庫に蔵され、漆で袁顗の名を題して標とした。この時に至って初めてそれが還された。袁昂は号慟して血を嘔き、絶えてまた蘇り、涙で洗ったところ題した漆の字が皆消え、人は孝感によるものとした。葬り終えると、更に喪服を着て墓の傍らに廬を結び、従兄の袁彖が常に撫で見て抑えて譬えた。
袁昂は容貌質素が修偉で、人倫を冠絶し、父が理不尽に亡くなったため、終身音楽を聴かなかった。後に袁彖と共に従叔の 司徒 袁粲 に会った。 袁粲 は袁彖に言った、「袁昂は幼くして孤となったが、ここまでできる。故に名器は自ら在るところがあるのだ」と。斉に仕えて王儉の鎮軍府功曹史となった。王儉が後に丹陽尹となった時、後堂で独り袁昂を引見し、北堂を指して言った、「卿は必ずここに居るであろう」と。累遷して黄門郎となった。
袁昂は本名を千里といった。斉の永明年間、武帝が言った、「昂々たる千里の駒は、卿にこれがある。今卿の名を昂と改め、即ち字を千里とせよ」と。後に衛軍武陵王長史となった。母の喪に服し、哀毀が礼を過ぎ、喪服が除けないうちに従兄の袁彖が卒した。袁昂は幼くして孤となり、袁彖に養われたので、期服を制した。人が怪しんで問うと、袁昂は書を致してこれを諭して言った。
後に御史中丞となった。時に 尚書令 王晏の弟の王詡が広州にあり、多く賄賂を受け取った。袁昂は事に依って劾奏し、権家を憚らず、当時正直と号された。
初めに、袁昂が洗馬であった時、明帝(蕭鸞)は領軍将軍であり、袁昂の風采と素行を欽慕し、しばしば車駕を降りて訪れた。帝位に即くと、奏事の際に多く留めて語り、言うには、「我は昔、卿に美名あるを以て、親しく相詣でた。」袁昂は答えて曰く、「陛下が在野の時、すでに三顧の礼を草廬に蒙りました。」帝は大いに悦んだ。まもなく出向して 豫 章内史となり、生母の喪に服して職を去った。喪を帯びて帰還する途、江路で風潮が暴駭し、袁昂は衣を縛りつけて棺に着き、共に沈溺することを誓った。風が止むと、余りの船は皆没したが、袁昂の船のみが全きを得、皆が精誠の致すところと謂った。葬儀を終え、起用されて呉興太守となった。
永元(斉東昏侯年号)の末、梁の武帝(蕭衍)が兵を起こすと、州郡は風に望んで皆降ったが、袁昂のみが境を拒んだ。帝は手書を以てこれを諭して曰く、
袁昂は答えて曰く、
建康城が平定されると、袁昂は哀慟して哭した。時に帝は 豫 州刺史李元履をして東土を巡撫せしめ、元履に勅して曰く、「袁昂は道素の門にして、世に忠節あり、天下須らく共にこれを容るべし、兵威を以て陵辱する勿れ。」元履が至って旨を宣すと、袁昂もまた降を請わず、門を開き備えを徹するのみであった。帝の下に至っても、帝もまたその過ちを問わなかった。
天監二年、後軍臨川王参軍事に任ぜられた。袁昂は啓を上り謝して曰く、
武帝は答えて曰く、「朕は射鉤(管仲の故事)を遺す、卿は自ら外と為す無かれ。」
まもなく侍中となり、吏部尚書に遷った。帝は謂って曰く、「斉の明帝は卿を用いて黒頭尚書と為し、我は卿を用いて白頭尚書と為す、まことに以て多く愧ず。」対えて曰く、「臣は茲に於いて四十七年生きております。四十以前は、臣の自有するところ、七年以後は、陛下の養うところ。七歳(白頭の年で)の尚書、未だ晩達とは為さず。」帝曰く、「士は固より妄りに名有るものに非ず。」
十五年、尚書左僕射となり、まもなく 尚書令 となった。時に僕射徐勉は勢天下に傾き、袁昂の処で宴し、賓主甚だ歓んだ。徐勉は袁昂に出でて内人に杯を伝えさせんことを求め、袁昂は良久しく出でず、徐勉は苦しくこれを求めた。袁昂は已むを得ず、五、六人を出せと命じ、始めて齋閣に至ると、袁昂は徐勉に謂って曰く、「我に少年(若い妾)は無く、老嫗は並びに児の母、王妃の母に非ず、便ちは主大家(公主の姑)なり、今に卿に問訊せしむ。」徐勉は聞き大いに驚き求めて止め、始めて袁昂の貴きを知った。
袁昂は朝に在って謇諤(直言)し、世に宗臣と号された。昭明太子(蕭統)が薨じ、晋安王綱(蕭綱)を立てて皇太子と為すと、袁昂は独り表を上り、宜しく昭明の長子蕭歓を立てて皇太孫とすべしと言った。用いられざるも、朝野に声を擅にした。是より告老して骸骨を乞い、時務に干与せず。
袁昂は雅に人鑒有り、遊処雑ならず、その門に入る者は龍門に登ると号した。大通中、 司空 の位に至り、大同六年に薨じ、時に八十歳。詔して即日に哀を挙げしむ。初め、袁昂は臨終に遺疏をして贈諡を受けず、諸子に勅して上行状を言い及び銘志を立てることを得ざらしめ、凡そ須うところのものは、悉く皆停省すべしと。因りて復た曰く、「吾が褐を釈ぎて仕に従い、富貴を期せず、但だ官序は等倫を失わず、衣食は粗く栄辱を知り、此を以て棺を闔じ、郷里に慚じ無し。往きて忝くも呉興に在り、昏明の際に属し、既に前覚に闇く、聖朝に誠無く、天命を識らず、甘んじて顕戮を貽す。幸いに殊恩に遇い、門戸を全うするを得たり。自ら念うに、罪を負いて私門に、階栄望絶え、性命を保存するを以て幸甚と為す。謂わざりき、叨に寵霊を竊むること、一に此に至らんとは。常に誠を竭くして酬報し、吾が乃心を申さんと欲す。所以に朝廷毎に師を興して北伐すれば、吾は輒ち啓して行を求む。丹款を誓う、実に矯言に非ず。既に庸懦にして施す無く、皆蒙許されず。命を罄くせんと欲すと雖も、その議従う莫し。今日目を瞑み、恨みを泉壤に畢す。聖朝は古に遵う、吾が名品の如きは、或いは追遠の恩有らん。 脱 官を贈る有らば、慎んで祗奉する勿れ。」諸子累表して陳奏すれども、詔して許さず、諡して穆正公と曰う。集二十巻有り。
初め、袁昂が梁に帰した時、馬仙琕という者もまた義烈を以て称された。
馬仙琕
仙琕は字を霊馥と云い、扶風郿の人。父は伯鸞、宋の冠軍司馬。仙琕は少より果敢を以て聞こえ、父の憂いに毀瘠して礼を過ぎ、土を負って墳を成し、手ずから松柏を植えた。斉に仕えて 豫 州刺史の位に至る。
梁の武帝が兵を起こすと、その故人姚仲賓をして説かしむ。仙琕は先ず酒を設け、乃ち軍門に於いて斬りて徇らしめた。帝は又その族叔の馬懐遠をして説かしむ。仙琕曰く、「大義は親を滅す。」又命じてこれを斬らんとす。懐遠は号泣し、軍中が請うて乃ち免れた。
武帝が新林に至ると、仙琕は猶も江西に於いて日々漕運を抄掠した。建康城が平定されると、仙琕は哀を挙げて衆に謂って曰く、「我は人の任寄を受け、義として降るを容れず。今衆寡侔わず、勢い必ず屠滅せられん。公等は二心無しと雖も、その親老を如何せん。我は忠臣と為り、君は孝子と為り、各々その道を尽くす、亦た可ならずや。」ここに於いて城内の兵を悉く遣わして出降せしめ、余りの壮士数十人は、門を閉じて独り守った。俄かに兵入り、之を囲むこと数十重。仙琕は士に皆満を持たしむるを令す。兵は敢えて近づかず。日が暮れて乃ち弓を投げて曰く、「諸君但だ来たりて取れ、我は義として降らじ。」乃ち檻車に送られて建康に至り、石頭に至って之を脱がれた。帝は袁昂の至るを待って俱に入らしめ、曰く、「天下に二義士を見しめよ。」帝は之を労って曰く、「射鉤斬袪(管仲・勃鞮の故事)、昔人は忌まず、卿は戮使断運を以て苟も自ら嫌絶する勿れ。」謝して曰く、「小人は主を失える犬の如し、後の主之に飼えば、便ち復た用いらる。」帝は笑って之を美とした。俄かに母卒す。帝はその貧しきを知り、賻給甚だ厚し。仙琕は号泣して弟の仲艾に謂って曰く、「大造の恩を蒙り、未だ上報を獲ず。今復た殊沢を荷う、当に爾と心力を以て自ら効せん。」
天監四年、軍は魏を侵し、仙琕は戦うごとに常に三軍の魁たり、諸将と論議するも、口に功を言うこと未だ嘗てせず。人其の故を問うに、仙琕曰く、「大丈夫時により知らるるは、進みて名を求めず、退きて罪を逃れず、乃ち平生の願なり、何の功か論ずべき」と。南義陽太守となり、累ねて山蛮を破り、郡境清謐たり。功により浛洭県伯に封ぜらる。司州刺史に遷り、貞威将軍の号を進む。
魏の 豫 州人白早生、懸瓠を以て降らんと使し、武帝仙琕をして之に赴かしめ、又直閤将軍武会超・馬広を遣わし衆を率いて援と為さしむ。仙琕進みて楚王城に頓し、副将斉苟児を遣わし懸瓠を守るを助けしむ。魏の中山王英懸瓠を攻め、斉苟児を執り、進みて馬広を禽え洛陽に送る。仙琕救う能わず。会超等も亦相次いで退散し、魏軍進みて三関を拠す。仙琕坐し征されて還り雲騎将軍と為る。
十年、朐山の人琅邪太守劉晰を殺し、城を以て魏に降る。詔して仙琕に節を仮し之を討たしむ。魏の徐州刺史盧昶衆十余万を以て之に赴く。仙琕累戦して之を破り走らしむ。爵を進めて侯と為し、 豫 州刺史に遷り、 都督 を加う。
仙琕将たるより州郡に居るに及び、士卒と労逸を同じうする能く、身に衣るは布帛を過ぎず、居る所に幃幕衾屏無く、行くときは飲食塚養の最も下なる者と同じ。其の辺境に在りては、常に単身敵境に潜入し、壁壘村落の険要なる所を伺い知り、攻戦多く克捷す。士卒も亦甘心して用いられんとす。帝雅く之を愛し仗す。州に卒す。左衛将軍を贈られ、諡して剛と曰う。初め、仙琕幼名を仙婢とす。長ずるに及び婢の名典ならずと以て、乃ち玉を以て女に代うと云う。子岩夫嗣ぐ。
昂の子、君正。
昂の子君正、字は世忠、少しく聡敏なり。数歳の時、父疾有り、昼夜眠らず、専ら左右に侍す。家人暫く臥すを勧むるに、答えて曰く、「官既に未だ差えず、眠りも亦安からず」と。歴位して太子庶子と為る。
君正は風儀美しく、自ら居処するに善く、貴公子として早く時誉を得たり。 豫 章内史と為る。性巫邪を信ぜず。師万世栄と称する者道術有り、一郡の巫長と為る。君正郡に在りて小疾有り、主簿熊嶽之を薦む。師云く、「須らく疾者の衣を以て信命と為すべし」と。君正著する襦を以て之に与う。事竟りて襦を取るに、云く、「神将送りて北斗君に与う」と。君正諸身を検せしむるに、衣裏に之を獲たり。乱政と以為い、即ち市に刑し神を焚く。一郡巫を行うを敢えてせず。
吳郡太守に遷る。侯景乱に、数百人を率いて邵陵王綸に随い赴援す。台城陥るに及び、郡に還る。君正官に当たり事に蒞るに名称有りと雖も、而して財産を蓄聚し、服玩靡麗なり。賊張太墨を遣わし之を攻む。新城戍主戴僧易拒守せしむるを勧め、己れ戍兵を以て外より之を撃たんとす。君正決する能わず。吳人陸映公等済わざるを懼れ、賊其の家を種族せんとし、之を勧めて賊を迎えしむ。君正性怯懦なり、乃ち米及び牛酒を送り郊に賊を迎う。賊其の財物子女を掠奪す。因りて是に疾を感じ卒す。子樞。
君正の子、樞。
樞、字は踐言、容儀を美くし、性沈静、学を好み、手巻を釋かず。家本より顕貴、貲産充積す。而るに樞独り処するに率素、傍ら交往無く、公事に非ざれば未だ嘗て出遊せず、栄利の懐淡如たり。
侯景の乱、樞吳郡に往き父の疾を省み、父憂に丁る。時四方擾乱し、人苟も免れんことを求む。樞喪に居りて至孝を以て聞こゆ。王僧辯侯景を平らげ、建鄴に鎮す。衣冠争いて往き造請す。樞門を杜し静かに居り、聞達を求めず。
紹泰中、歴りて吏部尚書・吳興郡太守と為る。陳の永定中、徴されて侍中と為り、選を掌る。都官尚書に遷り、選を掌ること故の如し。
樞博学、旧章に明悉なり。初め、陳武帝の長女永嗣公主、先に陳留太守錢蕆に適し、子岊を生む。主及び岊並びに梁の時に卒す。武帝命を受く。唯だ主追封せらる。
是に至り将に葬らんとす。尚書議して蕆に駙馬都尉を加え、並びに岊に官を贈ることを請う。樞議して曰く。
時の議之を当たりと以為う。
天嘉三年(562年)、吏部尚書となり、丹陽尹を兼ねた。父の葬儀のために上表して職務を辞そうとしたが、詔により葬儀終了後も邸宅に留まって郡の事務を見ることを命じられ、喪が明けてから職務に復帰した。当時、僕射の到仲挙は選挙の事務を掌っていたが、人材の評価と登用はすべて袁樞の手から出ており、その推薦は多く皇帝の意向に合っていた。彼は慎重で周密であり、清廉潔白を自ら守り、文武の官職にある者で、その門を遊歴する者はほとんどいなかった。廃帝(陳伯宗)が即位すると、尚書左僕射に昇進し、死去した。諡は簡懿。文集十巻が世に行われた。弟に袁憲がいる。
袁樞の弟、袁憲。
袁憲は字を徳章といい、幼い頃から聡明で学問を好み、雅量があった。梁の武帝が学校を建て、別に五つの学館を開いたが、その一館が袁憲の邸宅の西にあった。袁憲はしばしば諸生を招き寄せて談論し、新たな見解は人々の意表を突き、同輩は皆嘆服した。
大同八年(542年)、武帝が『孔子正言章句』を撰すると、詔を下して国子学でその旨義を宣べさせた。袁憲は当時十四歳で、召されて正言生となった。祭酒の到溉が彼を見送り、その神采を愛した。国子博士の周弘正が袁憲の父の袁君正に言った。「賢子は今年、策試を受けさせようと思わないか。」君正は言った。「まだ試させようとは思いません。」数日後、君正は門客の岑文豪を袁憲とともに弘正のもとに遣わした。ちょうど弘正が講義の座に上がろうとし、弟子たちが集まっていた時で、袁憲を室に招き入れ、麈尾を授けて、義を立てさせた。時に謝岐、何妥が同席していた。弘正が彼らに言った。「二賢は奥義を極めているが、この後生を畏れないか。」何、謝は次々に議論の端緒を立て、理致を極めて深く論じた。袁憲は数回往復し、応対は悠揚迫らず敏であった。弘正は何妥に言った。「卿の問うところを存分にせよ、幼少とみなすな。」見物人は重なり合っていたが、袁憲は神色自若で、弁論に余裕があり、弘正もまた数回難問を立てたが、ついに屈服させることができなかった。そこで文豪に告げて言った。「卿は帰って袁呉郡(君正)に諮問せよ。この郎はすでに博士に代わるに堪える。」当時、生徒の対策には賄賂を行う者が多かったので、文豪は礼(束修)を整えるよう請うた。君正は言った。「私はどうして金で息子の及第を買えようか。」学司はこれを恨んだ。袁憲が試験を受けると、争って激しい難問を立てたが、袁憲は問いに応じて答え、分析は流れるようであった。到溉が袁憲を顧みて言った。「袁君正には後継者がいる。」君正が呉郡太守として赴任する時、到溉は征虜亭で餞別の宴を開き、君正に言った。「昨日の策試の生、蕭敏孫、徐孝克は義を解さないわけではないが、風神と器量においては、賢子とは遠く及ばない。」まもなく高第に挙げられ、貴公子として選ばれて南沙公主(梁の簡文帝の娘)に尚った。
大同元年(535年)、初めて官に就き秘書郎となり、太子舎人に遷った。侯景が乱を起こすと、袁憲は東の呉郡へ行った。まもなく父の喪に服し、哀傷のあまり礼を越えた。陳の武帝(陳霸先)が宰相となると、 司徒 戸曹に任じられた。初めて謁見した時、長揖の礼を抗して行った。中書令の王勱が袁憲に言った。「卿はどうして衆に矯って、録公(陳霸先)に拝礼しないのか。」袁憲は言った。「理の上から拝礼すべきではありません。」衛尉の趙知礼は言った。「袁生の挙動は詳らかで中正であり、まさに陳寔、汝南の袁氏の風がある。」
陳が天命を受けると、中書侍郎に任じられ、 散騎常侍 を兼ね、黄門郎の王瑜とともに北斉に使者として赴いたが、数年留め置かれ、天嘉(560-566年)の初年にようやく帰還した。
太建三年(571年)、累進して御史中丞、羽林監となった。時に 豫 章王の陳叔英が法度を奉ぜず、人馬を強奪したので、袁憲は事に依って弾劾し上奏し、叔英を免官させた。これより朝野は厳しく畏れた。
袁憲は朝儀に詳しく練達し、特に訴訟の裁断に明るく、獄情が尽くされていないのに有司が法を適用しようとする場合には、機会を窺って皇帝に言上し、理を申し立てて救った者は非常に多かった。承香閣で宴に陪したことがあり、賓客が退いた後、宣帝(陳頊)は袁憲と衛尉の樊俊を留め、席を山亭に移して、終日談笑した。帝は樊俊に言った。「袁家にはもとより人材がいる。」このように重んじられた。
侍中から呉郡太守に遷ろうとしたが、父がかつてその任にあったことを理由に固辞し、改めて南康内史に任じられた。吏部尚書に遷った。袁憲は長く清要な地位に居たことを理由に、累次上表して自ら解任を求めた。帝は言った。「諸人は在職中、しばしば誹謗の書があるが、卿は事を処すること多く、清廉潔白と言える。別に選び登用するから、しばらく辞退することを述べるな。」
右僕射に遷り、選挙の事務を掌った。先に袁憲の長兄の袁樞が左僕射であったが、この時袁憲が右僕射となったので、台省では袁樞を大僕射、袁憲を小僕射と呼び、朝廷はこれを栄誉とした。
宣帝が病に伏せると、袁憲は吏部尚書の毛喜とともに顧命を受けた。始興王の陳叔陵が乱を起こした時、袁憲は指揮して部署を分け、予め力を与えた。後主(陳叔宝)が傷つき病篤くなり、袁憲の手を執って言った。「我が子はまだ幼い。後事は卿に委ねる。」袁憲は言った。「群情は仰ぎ望み、聖体の康復を願っております。後事の委任については、詔を奉ずることはできません。」
功績により建安県伯に封じられ、太子中庶子を兼ねた。まもなく侍中、太子詹事に任じられた。皇太子が元服し、釈奠の礼を行うと、袁憲は上表して職務の解除を請うたが、許されず、まもなく扶持二人を与えられた。皇太子はかなり典訓に従わなかったので、袁憲は自ら手で表文を書き、十条の諫言を陳べた。いずれも古今を援引し、言葉は切実で率直であった。太子は表面上は受け入れる様子を示したが、内心は改めようとしなかった。後主は寵姫の張貴妃の子の始安王を後継ぎに立てようと思い、かつて穏やかにそのことを言った。吏部尚書の蔡征は旨に順って称賛したが、袁憲は厳しい顔色でこれを挫いて言った。「皇太子は国家の儲副であり、億兆の心の拠り所である。卿は何者か、軽々しく廃立を言うのか。」しかしその夏、ついに太子を廃して呉興王とした。後主は袁憲に規諫の事があったことを知り、嘆いて言った。「袁徳章はまさに骨鯁の臣である。」即日に詔して尚書僕射とした。
禎明三年(589年)、隋軍が攻めて来た。隋将の賀若弼が進軍して宮城の北掖門を焼き、兵衛は皆散り散りに逃げ、朝士はそれぞれ身を隠したが、袁憲のみが左右に侍した。後主は言った。「私はこれまで卿を余人に先んじて待遇したことはないが、今日卿を見るに、歳寒くして松柏の後凋を知るというものだ。ただ私に徳がなかったばかりでなく、江東の衣冠の道も尽きたのだ。」後主が隠れようとすると、袁憲は厳しい顔色で言った。「北兵が入っても、必ずや犯すところはないでしょう。大事このように至りました。陛下はどうして安んじていられましょうか。臣は陛下が梁の武帝が侯景に会った故事に倣ってこれに対されることを願います。」聞き入れられず、帝は床を下りて疾走して去った。袁憲は後について後堂の景陽殿に出ると、後主は井戸に身を投げた。袁憲は拝礼して泣き、出て行った。
長安に至ると、隋の文帝はその高雅な節操を嘉し、詔を下して江表の称する首領とし、開府儀同三司、昌州刺史に任じた。開皇十四年(594年)、晋王楊広の府長史に任じられた。開皇十八年(598年)、死去した。時に七十歳。大将軍、安成郡公を追贈され、諡は簡。
長子の袁承家は、隋に仕えて秘書丞、国子司業に至った。
君正の弟、敬。
敬は字を子恭といい、純朴で素直な風格があった。幼い頃から篤学であり、老いても倦むことがなかった。梁に仕えて太子中舎人に至る。魏が江陵を陥落させると、嶺表に流寓した。陳の武帝が禅譲を受けると、敬は広州において欧陽頠に寄寓した。頠が卒すると、その子の紇が州を占拠し、異心を抱こうとした。敬は累次諫めたが、従わなかった。
宣帝が即位し、章昭達を派遣して紇を討たせた。紇が敗れようとする時、敬の言を容れなかったことを悔やんだ。朝廷はその義を重んじ、敬を召し出して太子中庶子とした。左戸尚書、都官尚書の二尚書、太常卿、 散騎常侍 、金紫光禄大夫を歴任し、特進を加えられた。至徳三年に卒した。諡は靖徳子。子の元友が後を嗣いだ。敬の弟に泌がいる。
敬の弟、泌。
泌は字を文洋といい、清く正しく幹局があり、容体は魁岸で、志行は修謹であった。梁に仕えて諸王府の佐官を歴任した。
侯景の乱の時、泌の兄の君正が呉郡太守であった。梁の簡文帝が東宮におられた時、板授により泌を東宮領直とし、呉中に赴き士卒を召募するよう命じた。景が台城を包囲すると、泌は率いる兵を率いて救援に赴いた。城が陥落すると、鄱陽嗣王蕭範に依った。範が卒すると、泌は景に降った。景が平定されると、王僧辯が泌を富春太守とし、丹陽尹を兼ねるよう上表した。貞陽侯蕭淵明が僭位すると、侍中とし、斉に使わした。
陳の武帝が禅譲を受けると、泌は斉から梁の永嘉王蕭荘に従い王琳のところへ赴いた。蕭荘が尊号を称すると、泌を侍中・丞相長史とした。琳が敗れると、衆は皆散ったが、泌のみが軽舟で北境まで送り届け、御史中丞劉仲威に蕭荘を託し、その後拝辞して陳に帰り罪を請うた。文帝は深くその義を重んじた。
累遷して通直 散騎常侍 となり、侍中を兼ね、周に聘された。宣帝が輔政に入ると、泌を 司徒 左長史とし、官にて卒した。臨終に子の芳華を戒めて言うには、「私は朝廷に対し元来功績が無い。瞑目した後は、手足を整えすぐに葬り、贈官や諡を受けてはならない」と。その子が泌の遺意を述べたが、朝廷は許さず、金紫光禄大夫を追贈し、諡を質といった。
史評。
論じて言う。天は長く地は久しく、四時は代謝し、霊化は悠遠である。生は再び来たらず、故に洪図(大計)に拠って天下を軽んじ、寸陰を惜しんで尺璧を賤しむ。義は生より重しとは、空しく前人の誥に伝わるが、身を投げ出して主に殉ずる者は、稀にその人に遇う。宋・斉以来を観るに、袁氏の門は代々忠義を踏み行い、まさに風霜の概(気概)、松竹のその性を知る。陽源( 袁粲 )の節が無ければ、丹青(史書)は何を取って貴ぶことがあろうか。袁顗は末路に猖獗したが、その本心には根源があった。袁彖の出処進退の踏み行ったところは、実に家風を盛んにした。 袁粲 の執り行った跡は、仁勇に近く、古人のいう疾風に勁草、まさにこれをいうのであろうか。昔、王経の峻烈な節操は既に晋の世に旌表され、 袁粲 の貞固もまた斉の朝に改葬された。その激励の方法は、時代は異なるも符合するものである。袁昂は命が崩離に属し、身は危き季世に逢い、たとえ独夫が徳を喪っても、臣の節は改めなかった。梁武帝の命を拒んだことは、義烈が存する。従兄の喪服を重んじたことは、悌の心が既に高い。その後、皇嗣について直言し、直道を忘れず、栄誉を身後に辞し、黜殯(葬儀の簡素化)を心がけた。初めから終わりまで、風範を損なうことなく、微から著に至るまで、皆その職に称していた。まさに一代の名公である。袁枢は風格峻厳整斉であり、袁憲は仁義に率由した。韓子が「人臣は質を委ねて、心に二つ無し」と言うが、憲は歳暮(晩節)を変えず、まことに称すべきである。敬と泌の立脚した地も、また廃れることがなかった。