南史 巻二十五より巻二十六

南史

巻二十五より巻二十六

列伝第十五

仲徳は若くして沈着で思慮深く、謀略を有し、母に仕えること甚だ謹み深く、学問は陰陽に通じ、声律を精しく解した。苻氏の敗北の時、仲徳は十七歳であった。兄の叡と共に義兵を起こし、慕容垂と戦って敗れ、仲徳は重傷を負って逃走し、家族と離散した。道中大沢を経過し、疲労して進めず、林中に臥していた。一人の青衣の小児、年齢は七、八歳ほど、牛に乗って行き、仲徳を見て驚いて言うには、「漢は既に食したか未だか」。仲徳が飢えていると言うと、小児は去り、しばらくして再び来て、飯を得てこれに与えた。食し終えて行こうとしたが、暴雨で渡し場や道筋が分からず、一頭の白狼が前に至り、天を仰いで号し、号し終えて仲徳の衣を銜え、これにより水を渡り、仲徳はその後について渡ることができ、叡と合流した。河を渡って滑台に至り、また翟遼に留められ、将帥とされた。数年を経て仲徳は南帰を欲し、ついに遼を棄てて泰山に奔った。遼の追騎が急で、夜行中に突然前に猛き炬火が導くのを見、火に乗じて百里余りを行き、免れた。晋の太元末年に、彭城に移り住んだ。兄弟の名は晋の宣帝・元帝の諱に犯すため、故に皆、字をもって行世した。叡は字を元徳という。

北土では同姓を重んじ、皆これを骨肉と称し、遠方より来て投ずる者あれば、力を尽くして養い助けねばならなかった。もし一人でも来ない者がいれば、不義と見做され、郷邑に容れられなかった。仲徳は王愉が江南で貴盛であり、太原の人であると聞き、遠くより来て愉に帰した。愉の待遇は甚だ薄く、これにより姑孰に至り桓玄に投じた。ちょうど玄が さん 奪した時、輔国将軍張暢に会い、時事について語った。仲徳は言う、「古より革命は誠に一族のみにあらず、然れども今の起こる者は恐らく大事を成すに足らぬ」。元徳は果勁にして計略あり、宋の武帝は甚だこれを知り、義挙を告げ、都下において玄を襲撃させた。仲徳はその謀を聞き、元徳に言う、「天下の事は密にせざるべからず、且つ兵もまた遅巧を貴ばず。玄の情は遠慮なく、夜間の出入りを好む。今これを取るには正に一夫の力を須いるのみ」。事が洩れ、元徳は玄に誅殺され、仲徳は逃走した。時に義軍が建鄴を攻克し、仲徳は元徳の子方回を抱いて出て武帝を待ち迎えた。帝は馬上にて方回を抱き、仲徳と相対して号慟した。元徳を追贈して給事中とし、安復県侯に封じ、仲徳を鎮軍中兵参軍とした。

武帝が広固を伐つに当たり、仲徳は前駆となり、戦えば必ずこれを破り、大小二十余戦した。盧循が寇逼すると、衆議は皆遷都を欲したが、仲徳は正色して言う、「今、天子は陽に当たり南面し、明公は命世の輔たり、新たに大功を建て、威は六合に震う。妖寇は豕突し、我が遠征を恃み、既に凱旋の入りを聞けば、自ら奔散せんとす。今日、草莽に投ずれば則ち匹夫と同じく、匹夫の号令、何をもって物を威せん。この謀若し立てば、請う、ここより辞せん」。帝は喜んだ。武帝が左裏において循と戦うに及び、仲徳の功は諸将に冠し、新淦県侯に封じられた。義熙十二年の北伐に、仲徳を進めて征虜将軍とし、冀州刺史を加え、前鋒諸軍事を督せしめた。冠軍将軍檀道済・龍驤将軍王鎮悪は洛陽に向かい、甯朔将軍劉遵考・建武将軍沈林子は石門より出で、甯朔将軍朱超石・胡藩は半城に向かい、皆仲徳の統べる所となった。仲徳は龍驤将軍朱牧・甯遠将軍竺霊秀・厳綱らを率いて钜野を開き河に入り、ついに衆軍を総べて進み潼関を占拠した。長安平定後、仲徳を太尉諮議参軍とした。

武帝は洛陽に遷都せんと欲し、衆議は皆これに適うと為した。仲徳は言う、「非常の事は人を駭かす。今、暴師経年、士卒に帰心あり、故に当に建鄴を以て王基とすべし。遷都は文軌の大同を俟うに宜しい」。帝は深くこれを納れた。姚泓を衛送して先ず彭城に還らせた。武帝が天命を受けると、累遷して徐州刺史となり、 都督 ととく を加えられた。

元嘉年中、到彦之が北侵するに、仲徳は同行した。魏が河南を棄て、司・兗の三州平定し、三軍皆喜んだが、仲徳は憂色を帯びて言う、「諸賢は北土の情偽に諳んぜず、必ずその計に堕すべし」。諸軍が進んで霊昌に屯すと、魏軍は委粟津より河を渡り、虎牢・洛陽は共に守られず。彦之は二城が共に陥落したと聞き、舟を焚き歩行で逃走せんと欲した。仲徳は言う、「洛陽既に敗れ、虎牢は自立するに足らず、理数の必然なり。今、賊は我より猶お千里を去り、滑台には尚ほ強兵あり。若し便ち舟を捨てれば、士卒必ず散ず。且つ当に済に入り馬耳穀口に至り、更に宜しき所を詳かにすべし」。ついに軍を回し済に沿って南に歴城に至り歩行で上り、舟を焚き甲を棄て、還って彭城に至った。仲徳は坐して免官された。尋いで檀道済と共に滑台を救援したが、糧尽きて乃ち帰還した。ここより再び河南を失った。

九年、また徐州刺史となった。仲徳は三たび徐州に臨み、威徳は彭城に著しかった。仏寺を建立し、塔の中に白狼・童子の像を作った。これは河北において遭遇したことによる。進んで号を鎮北大将軍とした。十五年、卒去し、諡して桓侯という。また廟に白狼・童子の壇を立て、毎祭必ずこれを祠った。子の正循が嗣ぎ、家僮に殺された。

仲徳の兄の孫、文和は、景和年中、征北義陽王昶の府佐となった。昶が彭城より魏に奔ると、部曲は皆散じたが、文和は独り界上まで送った。昶はこれに謂う、「諸人皆去るに、卿には老母あり、何ぞ独り去らざる」。文和は乃ち去った。升明年中、巴陵内史となった。沈攸之の事が起こると、文和はその使者を斬り、馳せて斉の武帝に報告した。斉の永明年中に及び、歴任して青・冀・兗・益の四州刺史となった。

到彦之、字は道 、彭城武原の人、楚の大夫屈到の後裔である。宋の武帝が孫恩を討つに、郷里の者として喜んで従い、毎たび戦功があった。

義旗将に起こらんとする時、彦之の家は広陵にあり、臨川武烈王劉道規が桓弘を攻克した。彦之は当時近く出行しており、事の捷報を聞き馳せて帰ったが、道規は既に南して江を渡り、倉卒のため遅くして方や渡ることができた。京口に至るに及び、武帝は既に建鄴に向かい、孟昶が居守し、彼を留めた。武帝に拝謁して責められた時、自ら陳べず、昶もまた理を申し立てなかったため、官を加えられなかった。

義熙元年、鎮軍行参軍を補った。六年、盧循が都を逼ると、彦之は檀道済と共に循の輜重を掩襲したが、循の党荀林と戦って敗れ、免官された。後に軍功により佷山県子に封じられ、太尉中兵参軍となった。驃騎将軍劉道憐が江陵に鎮すると、彦之を驃騎諮議参軍とし、尋いで司馬・南郡太守に遷った。また文帝が西に鎮するに従い、使持節・南蛮 校尉 こうい に除された。武帝が天命を受けると、爵を進めて侯とした。

彦之は荊楚を佐守すること、垂二十年、威信は士庶に懐かれた。文帝が大統を奉じて入るに及び、徐羨之らが新たに さん 虐ありとて、懼れ、彦之に兵を領せしめて前駆たらしめんと欲した。彦之は言う、「彼が不貳たることを了すれば、便ち朝服して順流すべし。若し虞有らしむれば、この師既に恃むに足らず、更に嫌隙の端を開くは、遠邇の望に副う所以に非ず」。時に雍州刺史褚叔度が卒したため、乃ち彦之を遣わして権りに襄陽を鎮せしめた。羨之らは即ち彦之を以て雍州とせんと欲したが、上は許さず、中領軍に徴し、戎政を委ねた。彦之が襄陽より下るに、謝晦は既に鎮に至っており、彦之が己を過ぎざるを慮り、彦之が楊口に至ると、歩行して江陵に往き、深く誠款を布き、晦もまた厚く自ら結納した。彦之は馬及び利剣名刀を留めて晦に与え、晦はここにより大いに安んじた。

元嘉三年(426年)、謝晦を討伐するにあたり、彦之を鎮軍将軍に進めたが、彭城洲の戦いで不利となり、皆が夏口への撤退を望んだが、彦之は引き返さなかった。檀道済が到着したことで、謝晦は敗走した。江陵が平定されると、彦之は荊州州府事を監察し、建昌県公に改封された。その秋、南 州刺史・六州諸軍事監に遷り、歴陽に鎮した。

文帝は彦之に厚い恩寵を寄せ、開府儀同三司を加えようとし、先に功績を立てさせようとした。元嘉七年(430年)、彦之に王仲德・竺霊秀・尹沖・段宏・趙伯符・竺霊真・庾俊之・朱修之らを督して北侵させ、淮水から泗水に入った。泗水は水が少なく、一日に十里ほどしか進めなかった。四月から七月にかけて、ようやく東平郡須昌県に至った。魏の滑台・虎牢・洛陽の守兵は皆逃走した。彦之は朱修之に滑台を守らせ、尹沖に虎牢を、杜驥に金墉を守らせた。十月、魏軍が金墉城に向かい、次いで虎牢に至ると、杜驥は逃走し、尹沖の軍は潰滅して戦死した。魏軍はさらに滑台に進んだ。時に黄河の氷が結び始め、食糧も尽き、彦之は以前から目疾を患っていたが、この時大いに悪化し、将士も疫病にかかったため、軍を返し、舟を焼いて歩行で彭城に至った。初め彦之を派遣した時は物資が非常に豊富であったが、帰還する頃には全てが失われ、府庫は空となった。文帝は檀道済を北に派遣して滑台を救援させ、彦之を収監して官を免じた。兗州刺史竺霊秀は軍を棄てて誅殺された。翌年の夏、護軍として起用された。九年(432年)、封邑を復したが、固辞した。翌年に卒去すると、先の戸邑を復し、諡して忠公といった。孝建三年(456年)、詔により彦之は王華・王曇首とともに文帝廟庭に配食された。

長子は元度。

長子の元度は益州刺史の位に至った。

少子は仲度。

少子の仲度が後を嗣ぎ、驃騎従事中郎の位に至った。兄弟ともに才能があり用いられたが、皆早世した。仲度の子は撝。

仲度の子は撝。

撝は字を茂謙という。建昌公の爵を襲封した。宋の明帝が即位し、人心を収めようとし、撝が功臣の後裔であることから、長兼左戸郎中から太子洗馬に抜擢した。

撝は豪富の家柄を頼み、自らの生活を厚く養い、一身の一月の費用は十万に及んだ。邸宅・庭園・山池、伎妾の容貌と技芸は、いずれも最上品を極めた。才気は豊かで、交遊を広く結ぶことを得意とした。愛伎の陳玉珠を、明帝が求めても与えず、強奪されたため、撝は大いに怨んだ。帝は役人に誣告させ、殺そうとした。撝が獄に入ると、数夜で鬚と鬢が皆白くなり、死を免れて尚方に拘禁された。封爵は奪われて弟の賁に与えられ、撝はこれにより一層質素に振る舞うようになった。明帝が崩御すると、弟の賁が封を譲って撝に返そうとし、朝議はこれを許した。

弟の遁は、元徽年間に南海太守となり、広州に在った。升明元年(477年)、沈攸之が反乱を起こすと、刺史陳顕達が朝廷に応じて兵を起こし、遁は躊躇して殺された。遁の家族が都にいて、野から夜帰ると、二、三人が白土でその家の門を塗るのを見たが、たちまち消え失せ、翌日に遁の死の報せが届いた。撝は恐れ、斉の高帝に謝罪に赴くと、すぐに板授により武帝(蕭賾)の中軍諮議参軍に任じられた。建元初年、封国は除かれた。

武帝(蕭賾)が即位すると、累遷して 司徒 しと 左長史となった。宋の時代、武帝は撝と共に宋の明帝に従って郊野で雉を射た時、渇き疲れたところ、撝が早青瓜を得て、上(武帝)と共に割いて食べた。上はまたしばしば撝の家に遊び、その旧恩を懐いていたため、この時は一年に三度昇進した。永明元年(483年)、御史中丞となった。車駕が丹陽郡に行幸し、宴飲した時、撝は旧恩を頼み、酒後に同列を侮弄し、庾杲之に「蠢爾たる蛮荊、その俗は鄙し」と言い、また虞悰に「断髪文身、その風は陋し」と言った。王晏が貴くなり、優雅な歩みで従容としているのを見て、また問うて「王散騎はまたどうしてそうなのか」と言った。王晏は以前、国常侍から員外散騎郎に転じていたが、この二職は清華の士が就かないものだったので、これをもって嘲ったのである。王敬則が 榠查 かりん を手に持ち、刀子で削っていると、また言った、「これは元徽(宋後廃帝の年号)の頭ではないのに、どうして自ら刻むのか」。左丞の庾杲之に弾劾され、贖罪で済まされた。再び左衛将軍に遷った。随郡王蕭子隆が彭城郡を帯びた時、撝が問訊するのに部下としての礼を修めなかったため、役人に挙劾され、官を免じられた。後に五兵尚書、廬陵王中軍長史となり、卒去した。子の沆が後を嗣いだ。

撝の子は沆。

沆は字を茂瀣といい、幼くして聡明で、五歳の時、父の撝が屏風に古詩を書き写していると、沆は教えを請い一遍読み聞かせると、すぐに暗誦できた。成長すると、文章を作ることに長け、篆書・隷書に巧みで、風采は美しく、容姿・立ち居振る舞いは人を悦ばせた。

梁の天監初年、征虜主簿となった。東宮が建てられると、太子洗馬に任じられた。時に文徳殿に学士省が置かれ、高才で学識豊かな者を召して待詔とし、沆もその籍に通じた。武帝が華光殿で宴を開き、群臣に詩を賦させたが、沆だけに詔して二百字とし、三刻(約45分)で完成させた。沆は座から立ち上がって奏上し、その文は甚だ美しかった。まもなく洗馬として東宮の書記及び散騎省の優れた策文を管掌した。

三年(504年)、詔して尚書郎のうち職務に清廉で有能な者を侍郎とし、沆を殿中曹侍郎とした。この曹は文才によって選ばれ、沆の従父兄の溉・洽はいずれも才名があり、時に代わる代わるこの職に就き、当世の栄誉とされた。太子舎人に遷った。

到沆は人となり謙虚で慎み深く、口を開いて人の短所を論じなかった。任昉・範雲はいずれも彼と親しく交わった。後に北中郎諮議参軍の任上で没した。著した詩賦は百余篇に及ぶ。

到沆の従父兄に到溉がいる。

到溉は字を茂灌といい、到撝の弟の子である。父の到坦は、斉の中書郎であった。到溉は幼くして孤貧となり、兄の到沼・弟の到洽とともに名声を得、出仕して王国左常侍となった。楽安の任昉は大いに賞賛して好み、常に到溉・到洽の二人を引き立て、広く名声を高めてやった。生母の魏氏はもと寒門の家柄であったが、越中の財産をすべてなげうって、二人の息子のために任昉に仕えるよう取り計らった。

梁の天監初年、任昉が義興太守として出向する際、到溉・到洽を郡に招き、山水の遊びをともにした。任昉が都に戻って御史中丞となると、後進の者たちは皆彼を宗仰した。当時、彭城の劉孝綽・劉苞・劉孺、呉郡の陸倕・張率、陳郡の殷芸、沛国の劉顯、および到溉・到洽らがおり、車馬が毎日のように訪れ、蘭台聚と号された。陸倕が任昉に贈った詩に、「和風雑美気、下有真人游、壮矣荀文若、賢哉陳太丘。今則蘭台聚、方古信為儔。任君本達識、張子復清修、既有絶塵到、復見黄中劉」とある。当時、任昉を任君と呼び、漢代の三君に比し、「到」とは到溉兄弟のことである。尚書殿中郎に任じられた。後に建安太守となった時、任昉が詩を贈って、二つの衫(単衣)の布地を求めた。「鉄銭両当一、百代易名実、為恵当及時、無待涼秋日」と。到溉は答えて、「余衣本百結、閩中徒八蠶、仮令金如粟、詎使廉夫貪」と詠んだ。都に戻って太子中舎人となった。

到溉は身長八尺、眉目は点のごとく、色白く美しい鬚髯をたくわえ、挙動は風采があり、応対に巧みであった。上(武帝)は彼を通事舎人、中書郎、吏部を兼ね、太子中庶子に用いた。湘東王蕭繹が会稽太守となった時、到溉を軽車長史とし、府郡の事務を行わせた。武帝は蕭繹に勅して言った、「到溉は単に汝のために事務を行うのみならず、汝の師とすべき人物である」と。到溉はかつて武帝が諸子を遍く見る夢を見、湘東王のところに至ると帽子を脱いで彼に与えたので、密かに敬って仕えた。母の喪に遭い、喪に服して礼を尽くした。喪に服した廬は四方四尺に開け、憔悴やつれは人に勝っていた。喪が明けた後も、なお蔬食布衣の生活を数年続けた。

御史中丞、都官尚書・左戸尚書を歴任し、吏部尚書を掌った。当時、何敬容が 尚書令 しょうしょれい として選挙に参与していたが、事に允当でないことがあると、到溉は必ず異議を唱えて争った。敬容は人に言った、「到溉にはなお糞の臭いが残っているのに、貴人になることを学んでいる」と。敬容は日に日に貴寵を増し、人々は皆彼にへつらったが、到溉は以前と変わらず彼に逆らった。到溉の祖父の到彦之は初め糞を担いで生計を立てたので、世間はこれを以て嘲笑したのである。後に省門の鴟尾が雷に打たれ、到溉は左遷されて光禄大夫となった。歴任した地では清廉潔白をもって自らを修め、性質はまた質素率直で、声楽や女色を好まず、空虚な部屋に単床を置き、傍らに妾や侍女を侍らせなかった。冠や履は十年に一度替え、朝服は穴が開き繕うほどになるまで着用し、道を清めて伝呼するのは、朝廷の礼儀を示すためだけであった。

後に 散騎常侍 さんきじょうじ ・侍中・国子祭酒となった。武帝の撰した『正言』を学官に列するよう上表し、正言助教二人、学生二十人を置くことを請うた。尚書左丞の賀琛もまた博士一人を加えて置くことを請うた。

到溉は特に武帝の賞賛と寵遇を受け、しばしば帝と対局し、夕方から朝に至ることもあった。ある時はまた眠りを失い、うつらうつらと居眠りしたので、帝は詩を作って彼を嘲って言った、「状は喪家の狗の若く、又た懸風の槌に似たり」と。当時、笑い楽しみとされた。到溉の邸宅は淮水に近く、書斎前の山池に奇礓石があり、長さ一丈六尺あった。帝は戯れてこれを賭け、併せて礼記一部を賭け、到溉は共に負けた。まだ進上しないうちに、帝は朱異に言った、「卿は到溉の賭けに負けたものを、もう送ることができると思うか」と。朱異は笏を胸に当てて答えて言った、「臣は既に君に仕えております。どうして礼を失することができましょうか」と。帝は大笑いし、そのように親愛されたのである。石はすぐに迎えられて華林園の宴殿前に置かれた。石を移した日、都中の人々が総出で見物に訪れ、いわゆる到公石である。到溉の囲碁は第六品に入り、常に朱異・韋黯と御前で碁を打って勝負を競い、再現しても一手の誤りもなかった。後に病気のために失明し、詔によって金紫光禄大夫・ 散騎常侍 さんきじょうじ として邸宅で療養した。到溉は若くして美名がありながら、遂に僕射にはならず、人々は彼のためを惜しんだが、到溉は淡々としていた。

家門は和やかで睦まじく、兄弟は特に互いに親愛し合った。初め弟の到洽と常に一つの書斎に共に住み、到洽が没した後、そのまま寺に施した。蒋山に延賢寺があり、到溉の家が代々建立したものである。到溉が得る禄俸は、すべてこの二つの寺に充てた。これにより腥膻を断ち、生涯蔬食を通した。別に小室を営み、朝夕僧徒に従って礼誦した。武帝は毎月三度清浄な食物を届けさせ、恩礼は甚だ篤かった。性質上交遊を好まず、ただ朱異・劉之遴・張綰と志を同じくして親密に交わった。病臥するに及んで、門前雀羅を張るがごとく訪れる者もなく、ただこの三人が毎年折々に馬丁を鳴らしてわざわざ道を曲げて見舞いに来ては、酒を置いて極めて歓び去っていった。

太清二年に没した。臨終に張綰・劉之遴に託して、子孫に薄葬の礼を命じさせた。言うには、「息が絶えればすぐに殯し、殯には法服を用い、先に墓穴があるので、殯が終わればすぐに葬れ、日を選ぶ必要はない。凶事は必ず倹約を旨とせよ。孫や甥たちはこの言葉に背いてはならない」と。すぐに家族を退かせて僧を請い経を読ませ讃唄し、没するに及んで、顔色は平常のままで、手に二本の指を屈していた。これは仏道のいう得果である。当時朝廷は多事であったため、遂に贈官や諡はなかった。文集二十巻が当時に流行した。子に到鏡がいる。

到溉の子に到鏡がいる。

到鏡は字を円照といい、母が懐妊した初め、その母は鏡を懐く夢を見、生まれたので、これによって名付けた。到鏡は五歳で口授によって詩を作り、婉麗で文辞の趣きがあった。位は太子舎人となり、『七悟』の文を作って甚だ美しく、父の到溉に先立って没した。

到溉の孫に到藎がいる。

到鏡の子の到藎は、早くから聡明で慧く、位は尚書殿中郎に至った。かつて武帝に従って京口に行幸し、北顧楼に登って詩を賦した。到藎は詔を受けるとすぐに作り上げ、帝はこれを到溉に示して言った、「到藎は確かに才子である。翻って卿がこれまでの文章を到藎に代作させていたのではないかと恐れる」と。そこで絹二十匹を賜った。後に到溉がしばしば御製の詩に和すると、上は手詔で戯れて到溉に言った、「『貽厥』(子孫に遺す)の力によるのではあるまいか」と。また到溉に連珠を賜って言った、「硯は墨を磨いて以て文を騰せ、筆は毫を飛ばして以て信を書す、飛蛾の火に赴くが如く、豈に焚身の吝むべきや。必ず耄年其れ已に及べば、少藎に仮つべし」と。このように知遇と賞賛を受けた。後に丹陽尹丞に任じられた。太清の乱に遭い、江陵に赴いて没した。到溉の弟に到洽がいる。

到溉の弟に到洽がいる。

到洽は字を茂沿といい、清く聡明で才学があった。父の坦は、洽に外家(母方の実家)がないのを以て、羊玄保に娶りを求めて外氏と為さんとした。洽は十八歳の時、徐州の迎西曹行事となった。謝朓の文章は一時に盛んであったが、洽を見て深く賞賛し好み、常にその文武両道の資質を称えた。朓は後に吏部となったが、彼を推薦しようとした。洽は時世が乱れんとするのを見て、深く拒絶し、遂に岩の間に室を築き、幽居すること数年、世人は居士と号した。任昉は洽の兄の沼・溉と共に親しく、嘗て田舎の家に洽を訪ね、嘆じて言うには、「この子は日下に双ぶものなし」と。遂に親しみを結ぶ礼を交わした。

梁の武帝が嘗て待詔の丘遅に問うて曰く、「到洽は沆・溉に比べて如何か」と。遅は曰く、「正しい情は沆に過ぎ、文章は溉に劣らず、清談を加えれば、恐らく及ぶべからず」と。即ち召して太子舎人と為した。帝が華光殿に幸し、詔して洽及び沆・蕭琛・任昉に侍宴せしめ、二十韻の詩を賦せしめたところ、洽の辞が最も巧みであったので、絹二十匹を賜うた。上は昉に謂いて曰く、「諸到は才子と謂うべし」と。

昉は曰く、「臣は常に窃かに議す、宋はその武を得、梁はその文を得たりと」。 司徒 しと 主簿に遷り、直ちに待詔省に直し、勅を奉じて甲部の書を抄録し十二巻と為した。尚書殿中郎に遷る。後に太子中舎人となり、庶子の陸倕と対して東宮の管記を掌った。俄かに侍読となり、侍読省には仍て学士二人を置き、洽はその選に充てられた。国子博士に遷り、勅を奉じて太学碑を撰す。累遷して尚書吏部郎となり、請託を行わず。左丞に転じ、準縄を以て貴戚を避けず。時に帝は親しく戎に臨まんと欲し、軍国の礼容は多く洽より出づ。

尋いで御史中丞に遷り、勁直と号せられた。少時に劉孝綽と善くし、任に着くや便ち名教に隠れた穢れを以て、まず彼を弾劾した。孝綽は諸弟に与うる書を託し、実は湘東王に聞かせんと欲した。公事により左遷されたが、猶職に居た。旧制では中丞は尚書の下舎に入ることを得ず、洽の兄の溉が左戸尚書であった。洽は服属の親族であることを引き、障りあるべからずとし、省に刺して詳らかに決せしめた。左丞の蕭子雲が議して溉の省に入ることを許し、またその兄弟が素より篤く別け隔てないことを以てした。出でて尋陽太守となる。卒し、侍中を贈られ、諡して理子といった。洽は容貌質素に美しく、言葉遣いが巧みであった。弱年にして伏曼容の講義を聴くに、嘗て傍らに膝を着けず、伏は深くこれを嘆じた。文集は世に行われる。子に仲挙あり。

溉の子、仲挙。

仲挙は字を徳言といい、他の芸業は無かったが、身を立てるに耿直であった。梁に仕えて長城令となり、政治は廉平と称された。陳の文帝が郷里に居た時、嘗て仲挙を訪ねた。時に天は陰雨、仲挙は独り斎内に坐し、城外に簫鼓の声有るを聞く。俄かに文帝至る。仲挙はこれを異とし、乃ち深く自ら結んだ。帝はまた嘗て飲宴によりて夜、仲挙の帳中に宿ったが、忽ち神光五采有りて室内を照らす。これによりて祗事すること益々恭しくした。侯景が平定された後、文帝が呉興太守となると、仲挙を郡丞とし、潁川の庾持と共に文帝の賓客とした。文帝が嗣位すると、侍中を授け、選事を参掌せしめた。天嘉元年、都官尚書を守り、宝安県侯に封ぜられる。三年、尚書左僕射・丹陽尹に遷り、参掌は元の如し。建昌県侯に改封される。

仲挙は既に学術無く、朝章はその長ずる所ではなかった。選挙に引用する者は、皆袁枢より出づ。性は疎簡にして、時務に干与せず、朝士と親狎すること無く、ただ財を聚め酣飲するのみであった。文帝は積年臥病し、万機に親しまず、尚書・中書の事は皆仲挙に断決せしめた。天康元年、侍中・尚書僕射に遷る。文帝の病篤く、入りて医薬に侍す。帝崩ずるに及び、宣帝は遺詔を受けて 尚書令 しょうしょれい として入朝し輔政す。仲挙は左丞の王暹・中書舎人の劉師知・殷不佞と、朝望の帰する所有るを以て、乃ち不佞を遣わし旨を宣して宣帝を東府に還らしめんとした。事発し、師知は獄に下され賜死し、暹・不佞は並びに推問に付され、乃ち仲挙を貞毅将軍・金紫光禄大夫と為す。

初め、仲挙の子の郁は文帝の妹の信義長公主を尚し、官は中書侍郎に至り、出でて宣城太守となる。文帝は士馬を配した。この年、南康内史に遷るが、国哀(文帝の喪)のため未だ任に就かず。仲挙は既に廃されて私宅に居り、郁と共に自ら安んぜず。時に韓子高が都に在り、人馬は平素より盛んであった。郁は毎度小輿に乗り婦人の衣を蒙って子高と謀った。子高の軍主がその事を告発し、宣帝は子高・仲挙及び郁を収め、並びに獄にて賜死せしめた。郁の諸男女は帝の甥であることを以て免れた。

垣護之は字を彦宗といい、略陽の桓道人である。族姓は豪強、石季龍の時、略陽より鄴に徙る。祖父の敞は苻氏に仕え、長楽国の郎中令となった。伯父の遵・父の苗は慕容超に仕え、並びに委任された。遵は尚書となり、苗は京兆太守となった。宋の武帝が広固を囲んだ時、遵・苗は城を踰えて帰降し、並びに太尉行参軍と為された。元嘉年中、遵は員外 散騎常侍 さんきじょうじ となり、苗は屯騎 校尉 こうい となり、仍って下邳に家した。

護之は少にして倜儻、小節に拘わらず、形状は短陋であったが気幹は強果であった。元嘉初年に殿中将軍となり、到彦之に従って北侵し魏を討つ。彦之が師を回そうとした時、護之は書を以て諫めたが、彦之は納れず、散敗して帰った。文帝は聞いてこれを善しとした。累遷して鍾離太守となり、王玄謨に従って河に入る。玄謨が滑台を攻めると、護之は百艘の船を率いて前鋒となり、進んで石済を占拠した。魏の救い将に至らんとするに及び、馳せて書を送り玄謨に急攻を勧めたが、従われなかった。玄謨敗退し、護之に報いる暇なく、魏軍は悉く玄謨の水軍の大艚を牽き、鉄鎖を以て三重に連ね、河を断って護之の還路を絶った。河水迅急、護之は中流を下り、鉄鎖に至る毎に長柄の斧を以てこれを断ち、魏人は禁ずることが出来なかった。ただ一艦を失うのみで、余の艦は並びに全うした。麋溝城に留まって戍った。還って江夏王義恭の驃騎戸曹参軍となり、淮陰に戍り、済北太守を領した。

三十年、文帝崩ず。還って歴下に屯す。孝武帝が入討するに、率いる所領を馳せて赴き、帝は冀州刺史と為す。南郡王義宣の反するに及び、兗州刺史の徐遺宝は、護之の妻の弟であり、護之に書を送り、同逆を勧めた。護之は馳せて使者を以て聞かせ、軍を率いて沈慶之等に従い魯爽を撃った。義宣は大衆を率いて梁山に至り、王玄謨と相持した。柳元景は護之及び護之の弟の詢之・柳叔仁・鄭琨等を率いて出鎮し新亭に居る。玄謨救援を求め、上は元景等を遣わし進んで南州を占拠せしめた。護之の水軍先発し、賊将の龐法起を大破す。元景は乃ち精兵を護之に配して追討せしめ、朱修之が既に江陵を平定したに会い、尋陽に至って還った。徐州刺史に遷り、益陽県侯に封ぜられる。後に青・冀二州刺史を拝し、歴城に鎮す。

大明三年、徴されて右衛将軍として還る。道中にて竟陵王誕が広陵に拠りて反すを聞き、護之は即ち部曲を率いて車騎大将軍沈慶之の節度を受けた。事平らぎ、転じて臨淮太守となり、 州刺史に徙る。護之の蒞む所、多く賄貨を聚斂した。七年、坐して獄に下され免官。明年、起用されて太中大夫となったが、未だ拝せずして憤死す。諡して壮侯といった。

従子、崇祖。

崇祖は字を敬遠といい、一字は僧寶、護之の弟の子である。父の詢之は ぎょう 勇で気力があった。元凶(劉劭)が逆 しい をなすと、輔国将軍張柬の副となった。時に張超之が自ら大逆を行い、また軍を率いて張柬に隷属していたが、詢之はこれを殺そうと謀り、張柬が同意しないことを慮った。張柬はかねてよりこの志を抱いていたが、また詢之が同調するかどうか測りかね、互いに様子を窺っていた。ちょうど超之が事を論じに来たとき、張柬の顔色が動き、詢之はそれに気づき、即座に共に謀を定め、超之を召し寄せようとした。超之は疑って来ず、別の宿所に移ったが、詢之は知らず、直ちに往ってこれを斬り、その僕を床で殺し、そこで張柬とともに南へ奔った。時に孝武帝(劉駿)は既に即位しており、積射将軍とした。梁山の役において、力戦して流れ矢に当たり卒し、冀州刺史を追贈された。

崇祖は十四歳の時、幹略があり、伯父の護之は門宗に向かって言った、「この児は必ずや我が門を大いにするであろう」。後に徐州刺史薛安都に従って魏に入った。まもなくまた門宗を率いて朐山を占拠し宋に帰順し、淮北で功を立てようと求め、明帝(劉彧)はこれをもって北琅邪・蘭陵二郡太守とし、下邳子に封じた。

斉の高帝(蕭道成)が淮陰を鎮守するに及んで、崇祖は時に朐山を戍っていたが、 都督 ととく を受けると、恭しく奉仕すること甚だ篤く、帝はその武勇を以て、善く遇した。崇祖はその妹婿の皇甫肅に言った、「これ真に我が君なり」と、遂に密かに誠節を布いた。高帝の威名は既に著しく、宋の明帝は特にこれを忌み憎み、黄門郎に徴して、高帝を害そうと謀ったが、崇祖が策を建てて免れさせた。これによって甚だ親しくされ、密謀に参与した。元徽の末、高帝は禍を懼れ、崇祖に魏に入るよう命じた。崇祖は即座に家口を皇甫肅に託し、数百人を率いて魏の境界に入らんとし、更に後の旨を待っていたところ、ちょうど蒼梧王(劉昱)が廃され、崇祖を召して還都させた。斉の高帝が新たに践祚すると、魏が討伐を来たすことを恐れ、劉昶を送ることを口実とした。軍の要衝は必ず寿春にあると考え、崇祖でなければ防ぐことができないとして、 州刺史・監 司二州諸軍事に転じ、望蔡侯に封じた。

建元二年、魏は劉昶を遣わして寿春を攻めた。崇祖はそこで城の西北に堰を築いて肥水を塞ぎ、堰の北に小城を築き、数千人をしてこれを守らせた。長史の封延伯に言った、「虜は必ず全力を挙げて小城を攻めよう。もしこの堰を破れば、水を放ち一激すれば、急流は三峡を超え、自然と溺れ沈む。これ小労にして大利とは言わないか」。魏軍が西道より堰の南に集まり、軍を分けて東路より肉薄して小城を攻めるに及んで、崇祖は白紗帽を着け、肩輿に乗って城に上り、自ら式を転じた。日暮れ時、小史埭を決壊させると、水勢は奔流して下り、魏の攻城の衆は溺死すること千数に及び、大衆は退走した。初め、崇祖が淮陰で高帝に会った時、自ら韓信・白起に比し、ただ上(高帝)のみがこれを認めた。魏軍を破った啓が届くと、上は朝臣に言った、「崇祖は常に自ら韓・白に擬していたが、今まさにその人である」。 都督 ととく に進めた。崇祖は陳顕達・李安人が皆、軍儀の給与を増やされたと聞き、鼓吹横吹を求める啓を上った。上は勅して言った、「韓・白にどうして衆と異ならざるを与えられようか」。鼓吹一部を与えた。

崇祖は魏が再び淮北を攻めることを慮り、下蔡の戍を淮東に移すよう啓上した。その冬、魏は果たして下蔡を攻めようとし、内徙したと聞くと、声を揚げて故城を平らげ除こうとした。衆は魏が故城に戍を立てるであろうと疑ったが、崇祖は言った、「下蔡は鎮(寿春)から咫尺の距離にある。魏がどうして敢えて戍を置くことがあろうか。実はこの城を除こうとしているのであり、ただ奔走して殺し尽くせないことを恐れているだけである」。魏は果たして下蔡城を平らげ掘り起こしたが、崇祖はこれを大破した。

武帝(蕭賾)が即位すると、五兵尚書となり、 ぎょう 騎将軍を領した。初め、 章王(蕭嶷)が盛んな寵遇を受けていた時、武帝が東宮にあったが、崇祖は自ら附かず。魏軍を破った後、詔によって朝に還され、共に密議したが、武帝はこれを疑い、ことさらに礼遇を加えた。酒後に言った、「世間の流言については、私は既に懐抱を豁然としている。今より以後は、富貴を我に任せよ」。崇祖は拝謝した。去った後、高帝がまた荀伯玉を遣わし、辺境の事について勅を下し、旨を受けて夜発し、東宮に辞することができなかったため、武帝は誠心が尽くされていないと考え、これを恨んだ。永明元年、詔して、荀伯玉とともに辺荒を構扇したと称し、これを誅した。故人で敢えて至る者なく、ただ前 州主簿の夏侯恭叔のみが家財を出して殯を行い、時に人は欒布に比した。恭叔は譙国の人で、崇祖が 州にあった時、その才義を聞き、主簿に辟し、兼ねて書翰を掌らせた。高帝が即位すると、方鎮は皆賀表を上ったが、王儉が崇祖の啓を見て、しばらく嘆息し、言った、「これは恭叔の文辞である」。時に宋氏の封爵は、運に随って遷り改まったが、恭叔は柳元景が中興の元勳であり、劉勔が王事に殞身したことを以て、廃されるべきでないとし、上表して論じ、甚だ義理があった。事は従われなかったが、優詔をもって答えた。後に竟陵令となり、恵化が大いに行われた。木が連理となり、その上に光が燭の如くあり、皆善政によるものとした。

従子に榮祖あり。

榮祖は字を華先といい、崇祖の従父兄である。父の諒之は、宋の北中郎府参軍であった。榮祖は幼少より騎射を学び、ある人が言った、「どうして書を学ばないのか」。榮祖は言った、「曹操・曹丕は、上馬すれば槊を横たえ、下馬すれば談論する。これこそ飲食を負わざるものである。君ら輩は自らを全うする技なくして、犬羊と何の異なることがあろうか」。

宋の孝建年間、後軍参軍となった。伯父の 州刺史護之の子の襲祖が淮陽太守であったが、孝武帝が事によってこれを嶺南に徙し、護之は食を絶って死んだ。帝が病篤くなると、また襲祖を殺させた。臨終に際し榮祖に書を送り言った、「弟はかつて我に危行言遜を勧めたが、今果たして敗れた」。

明帝(劉彧)が初め即位すると、四方が反し、榮祖を冗従僕射に除し、徐州に還って刺史薛安都を説くよう遣わした。「天の廃する所、誰か能くこれを興さん。使君は今、八百諸侯に同じからず、下官の見る所では、計略のうちに非ず」。安都は言った、「今、京都に百里の地もなく、攻囲して勝を取るは論ずるまでもなく、自ら手を拍って笑い殺すべきである。かつ私は孝武に背きたくない」。榮祖は言った、「孝武の行い、余殃を致すに足る。今、天下雷同するといえども、正に速死するのみで、為す能わざるなり」。安都は言った、「諸人がどう言おうと知らないが、私はこれを畏れない。大蹄の馬が近くにいる、急いで計略をなせ」。榮祖は拘束されて還ることができず、安都の将領となった。安都が魏軍を引き入れて彭城に入ると、榮祖は家族を携えて南へ朐山に奔った。斉の高帝が淮陰におられると、榮祖は帰附し、高帝はこれを保護した。宋の明帝が崩ずると、高帝は書を送って榮祖を僕射褚彥回のもとに詣らせ、東海太守に除した。彥回は言った、「蕭公が卿の幹略を称えられたので、郡をもって処遇するのである」。

榮祖は弾を善くし、西楼に登り、雲中を翔る鵠を見て、左右に生け捕りにすべきと言った。そこでその両翅を弾くと、毛がことごとく脱け、地に墜ちても傷つかず、毛が生えるまで養って後に飛び去らせた。その妙技はこのようであった。

元徽の末、蒼梧王(劉昱)が凶狂で、常に高帝を危害せんと欲した。帝は広陵に奔って起事しようとし、荀伯玉らは皆これを賛成した。榮祖は諫めて言った、「領府は台(宮城)から百歩の距離です。公が走り出れば人が知らぬはずがありません。もし単騎で軽く行けば、広陵の人々が一旦門を閉じて受け入れなければ、公はどこへ行かれますか。公が今、床から足を動かせば、恐らく直ちに台門を叩く者がありましょう。公の大事は去ります」。蒼梧王は翌夕、自ら領府に至り門を叩き、帝を害そうとした。帝はかつて書案の下に鼻を安じたものを楯とし、鉄をもって書鎮の如意を作り、甚だ壮大で、不虞に備え、杖の代わりにしようとした。蒼梧王が府に至り、言った、「しばらく今夕を延ばそう。必ず一処に行って楽しみをなす。還ったら奴を取るであろう」。まもなく殺害に遇った。斉の高帝は榮祖に言った、「卿の言を用いなかったら、ほとんど成すところがなかったであろう」。 め佐命の勲に与かり、将楽県子に封じられた。

永明二年、尋陽相・南新蔡太守となった。大形の棺に兵器を盛り、郷人に命じて江北に運ばせたと告発されたが、取り調べても事実無根であり、許された。後に兗州刺史に任じられた。初め、巴東王子響の事件の際、方鎮は皆、子響が叛逆したと上奏したが、栄祖は言った、「これは言うべきではない。ただ劉寅らが恩賞に背き、巴東王を逼迫して、このような事態に至らせたとすべきである」と。当時、諸方の上奏は通じなかったが、事態が収まった後、上はそれらを閲覧し、栄祖を以て言葉を知る者とした。九年に卒した。

従弟に歴生あり。

従弟の歴生もまた ぎょう 将として、太子右率の位に至った。性質は苛暴であり、始安王遙光とともに反乱を起こし、誅殺された。

栄祖の従父に閎あり。

閎は字を叔通といい、栄祖の従父である。父の遵は員外常侍の位にあった。閎は宋の孝武帝の南中郎参軍となった。孝武帝が即位すると、交州刺史に任じられた。当時、交州の土地は豊かであり、閎が州を罷めて帰還する際、資財は巨万に及んだ。孝武帝の末年は貪欲で、刺史・二千石が任を罷めて都に還ると、必ず献上を制限し、また樗蒲の賭けでそれを取り上げ、尽きるまでやめさせなかった。閎が南州に至った時、孝武帝は崩御し、南方の資財を擁して富人となった。明帝の初め、司州刺史に任じられた。北において薛道摽を破り、楽郷県男に封ぜられた。出て益州刺史となった。蜀から還る際の貨もまた数千金に上り、先に献上物を送り、西の資財の半分を傾けたが、明帝はなお少ないと嫌った。閎が都に至ると、廷尉に赴いて自ら帳簿を提出し、先に詔により獄官が閎を留め置いたので、ここに資財を全て送り、その後処分を受けた。凡そ蛮夷は鞭罰を受けず、財を輸して罪を贖うことを賧といい、当時の人は閎を賧された刺史と呼んだ。度支尚書、衛尉を歴任した。

斉の高帝が政を輔ける時、褚彦回を使わして子の晃に閎の女を求めさせたが、閎は「斉は大なり、 つりあい に非ず」と辞退した。帝はその退譲を嘉したが、心には喜びえず、直ちに晃を王伷の女と婚わせた。 章王嶷に謂って言った、「前に白象を垣公と婚させようとしたのは、その夷澹(質朴恬淡)を重んじたからだ。事は遂げられなかったが、心は常に依然としている」。白象は晃の小字である。高帝が即位すると、誠心があったとして、封爵は元の通りとした。金紫光禄大夫の任で卒し、諡して定といった。子の憘伯が爵を襲った。

憘伯は若くして気概に富み豪侠であり、雉を射ることを妙解し、特に武帝に重んじられ、直閤将軍とされた。王文和とともに任にあり、頗る地勢を以て彼を陵いだ。後に出て巴西・梓潼二郡太守となった時、文和が益州刺史であり、言った、「かつて共に閤下にいた頃を思い出す。卿は当時、私を見下していたが、今の私が卿を見るようなものだ」と。因ってその罪を誣い、急使を以て上奏し、また直ちに蕭寅を遣わして憘伯に代わって郡を治めさせた。憘伯も別に使者を台に遣わして上奏し、門を閉じて返答を待ったが、寅が兵を以てこれを包囲した。斉の明帝が政を輔ける時、その無罪を知りながら、文和に背くことを欲せず、乃ち憘伯に郡を解くよう勅した。還る途上、寅の軍に追跡され、手を束ねて害された。閎の弟の子の曇深は、行義をもって称された。臨城県令となり、罷めて帰ると、銭十万を得て、宅を買い兄に奉り、退いて私蓄はなかった。先に劉楷が交州に赴く時、王儋に言った、「南土で聞こえた者一人を同行させたい」。儋はしばらくして言った、「得たり。昔、垣閎が交州にあり、閎の弟の閲はまた九真郡太守となり、皆南中に信義を著した。羽林監の曇深は、閲の子である。雅に学行あり、同行させるべきだ」。楷に随ったが、交州に至らずして卒し、楷は長く惆悵した。曇深の妻鄭氏、字は献英、 滎陽 けいよう の人、当時二十歳、子の文凝が生まれたばかりで、仍って楷に随って鎮に到った。昼夜紡織し、傍らに親族の援助なく、年は盛んで美しく、甚だ容徳あり、自ら氷霜を励み、敢えてその門を望む者もなかった。一年居て、私の装いが整うと、乃ち楷に告げて帰還を求めた。楷は大いに驚き言った、「郷里を去ること万里、固より寡婦の為し得るところではない」と、遂に許さなかった。鄭はまた言った、「垣氏の羇魂(旅の魂)は還らず、その孤み幼きこと、妾もし灰壌(死)を同じくすれば、何の面目をもって先姑(亡き姑)に見えようか」。因って大いに悲泣した。楷は愴然としてこれを許し、厚く送り出した。ここに間関危險を経て、遂に郷里に至った。葬り終えると、乃ち言った、「これで先姑に下って会える」と。時に文凝は年甫四歳、親しく経礼を教え、義方をもって訓え、州裏に称美された。

また呉興に丘景賓、字は彦先あり、亦た節義をもって聞こえた。父の康祖は無錫県令、亡き後、僮僕数十人及び宅宇・産畜を、景賓は悉く兄の鎮之に譲った。鎮之はまた斎屋三間を彼に推譲したが、亦た受けようとしなかった。太守の孔山士は歎じて言った、「柳下恵の風を聞けば、貪夫も廉となり、懦夫も立志す、と。再びこれを見た」。奉朝請の任で終わった。

張興世は字を文徳といい、竟陵の人である。本は単名で世といったが、宋の明帝が興世と増やした。少時家貧しく、白衣のまま王玄謨に従って蛮を討った。後に孝武帝に従って尋陽に鎮し、南中郎参軍督護に補され、従って入り元凶を討った。南郡王義宣が反すると、また玄謨に従って梁山に出て、戦功があった。

明帝が即位し、四方が反叛すると、興世を進めて龍驤将軍とし、水軍を領して南賊を拒がせた。時に台軍は赭圻を占拠し、朝廷は吏部尚書褚彦回を遣わして赭圻に行選させた。この役では、皆先に戦って位を授け、檄板が供給されないため、ここに黄紙札ができた。南賊は鵲尾に屯し、持久して決せず、興世は建議して言った、「賊は上流を占拠し、兵は地の利に張っている。今、奇兵を潜かにその上に出し、その首尾を周惶させ、進退を疑沮させ、糧運を艱礙ならしめれば、乃ち制勝の奇策である」。沈攸之・呉喜ともにその計に賛同し、戦士七千を分けて配した。興世は乃ち軽舸を令して流を溯って上らせ、旋ってまた回還させ、一二日の内にまたこのようにし、賊に備えさせなかった。賊帥の劉胡は興世が上ろうとするのを聞き、笑って言った、「我すら尚お彼の下を越えて揚州を取ることを敢えず、興世は何者ぞや、我が上を占拠せんとするとは」。興世は攸之らに謂って言った、「上流には唯だ銭溪が拠るべき所である」。乃ち往きてこれを占拠した。劉胡が来攻すると、将士は迎撃しようとしたが、興世は言った、「賊来るは尚お遠くして気は驟に盛んである。夫れ驟は既に力尽き、盛んも亦た易く衰う、これ曹劌の斉を破る所以なり。将士妄りに動くべからず」。賊が転じて近づくと、興世は乃ち寿寂之・任農夫に命じて壮士を率い撃ち走らせた。袁顗は慍って言った、「賊は人の肝蔵の裏に拠る、云何ぞ生き得ん」。その月の朔、赭圻の軍士が木を伐って柵と為す時、青山で一童子に遇い、言った、「賊は下旬に当たりて平らぐ、自ら苦しむことなかれ」。忽ち見えなくなった。ここに至って果たして敗れた。興世はまたその糧道を遮り、賊衆は漸く飢え、劉胡は軍を棄てて走り、袁顗も亦た奔散し、興世は遂に呉喜と共に江陵を平定した。右軍将軍に遷り、作唐県侯に封ぜられた。雍州刺史、左衛将軍を歴任した。病のため、光禄大夫に転じ、尋ねて卒した。興世は臨沔水に居し、襄陽より以下江に至る二千里、先には洲嶼無かりしが、興世の初生の時、その門前の水中に、一旦忽ち洲が生じ、年年漸く大となった。興世が方伯となるに及んで、洲上は遂に十余頃となった。

父の仲子は興世によって給事中の位に至った。興世が彼を襄陽に連れて行こうとしたが、郷里を愛して肯って行かなかった。嘗て興世に謂って言った、「我は田舎の老爺ながら、鼓角を聞くことを楽しむ。汝一部を送れ、行田の時に吹かんと欲する」。興世は素より恭謹で法を畏れ、譬えて言った、「これは天子の鼓角、田舎の老爺の吹く所に非ず」。興世が墓参しようとすると、仲子は謂って言った、「汝の衛従余りに多し、先人は必ず驚怖すべし」。興世は減撤して行った。子に欣泰あり。

子に欣泰あり。

欣泰は字を義亨といい、武業を以て自ら処することなく、隷書を好み、子史を読んだ。十余歳の時、吏部尚書褚彦回を訪ねると、彦回は「張郎の弓馬はどれほどか」と問うた。答えて「性来臆病で馬を畏れ、弓を引く力もありません」と言うと、彦回は大いに異と感じた。諸王府の佐官を歴任した。

宋の元徽年間、興世(欣泰の父)が家にいた時、雍州から持ち帰った現銭三千万を所有していたが、蒼梧王(後廃帝劉昱)が自ら人を率いてこれを奪い、一夜にしてほぼ尽きてしまい、興世は憂懼して病没した。欣泰の兄欣華は当時安成郡にいたので、欣泰は残りの財産を全て封じて彼を待った。斉の建元初年、尚書都官郎となった。武帝(蕭賾)は欣泰と早くから親しく交わっており、即位すると、直閤将軍に任じた。後に武陵内史となったが、贓物を収め私的に人を殺した罪で糾弾され、許された。再び直閤・歩兵 校尉 こうい となり、羽林監を兼ねた。

欣泰は雅俗に通じ、交際する者は多く名望ある素族であり、勤務が終わるとすぐに鹿皮の冠を戴き、衲衣をまとい錫杖を持ち、素琴を抱えた。ある者がこれを武帝に報告すると、帝は「将軍の家の子が、どうしてこのような振る舞いをすることができようか」と言った。後に帝の車駕に従って新林に出た時、欣泰に巡察を命じたが、欣泰は儀仗を止めて松の下で酒を飲み詩を賦した。制局監の呂文度が武帝に報告すると、帝は大いに怒り、追い出した。数日して怒りが解け、召し出して「卿は武職を好まぬなら、卿を清貴な職に処そう」と言い、正員郎に任じた。外任して鎮軍中兵参軍・南平内史となった。

巴東王子響が僚佐を殺害すると、上(武帝)は中庶子胡諧之を西討に遣わし、欣泰を副将とした。欣泰は諧之に言った。「今、太歳は西南にあり、太歳に逆らって行軍することは、兵家が深く忌むところです。もし暫く夏口に軍を留め、禍福を宣明すれば、戦わずして捕らえることができましょう」。諧之は従わず、江津に進軍し、尹略らは殺された。事が平定されると、欣泰は随王子隆の鎮西中兵に転じ、河東内史を兼ねるよう改められた。子隆は深く愛重し、しばしば談宴を共にし、待遇は謝朓に次ぐものであった。典籤が密かにこれを報告すると、武帝は怒り、都に召還した。家巷に閉居し、南岡の下に邸宅を構え、松山に面し、欣泰は弩を負って雉を射、思いのままに閑放し、声伎雑芸を多く解した。明帝(蕭鸞)が即位すると、領軍長史となり、諮議参軍に遷った。便宜二十条を上書し、その一条に塔寺を廃毀すべきと述べると、帝は全て詔を優しくして答えた。

建武二年、魏が鍾離を包囲すると、欣泰は軍主となり、崔慧景に従って救援した。魏軍が退いた時、邵陽洲に残兵一万人がおり、馬五百匹を献上して道を借りたいと申し出た。慧景は退路を断って攻撃しようとした。欣泰は慧景を説得して言った。「帰る師を遮るなかれとは古人が畏れたところであり、死地の兵は軽んずべからざるものです」。慧景はついに通過を許した。当時、領軍蕭坦之も鍾離を救援しており、帰還して明帝に報告した。「邵陽洲に死賊一万人がいるのに、慧景と欣泰は放って捕らえなかった」。帝はこのことで両者とも賞を加えなかった。四年、外任して永陽太守となった。永元初年、都に戻った。崔慧景が城を包囲すると、欣泰は入城して守備した。事が鎮まると、廬陵王安東司馬に任じられた。梁武帝(蕭衍)が兵を起こすと、東昏侯(蕭宝巻)は欣泰を雍州刺史とした。欣泰は弟の前始安内史欣時と密謀し、太子右率胡松、前南譙太守王霊秀、直閤将軍鴻選、含徳主帥苟励、直後劉霊運らと結び、共に盟約した。帝(東昏侯)は中書舎人馮元嗣を監軍として派遣し、郢を救援させ、茹法珍・梅虫児及び太子右率李居士、制局監楊明泰ら十余人が中興堂で見送った。

欣泰らは人に懐刀を持たせ、座席で元嗣を斬り、その首は果物の盆に落ちた。また明泰を斬り、その腹を破った。虫児は数か所の傷を負い、指も全て落ちた。居士は塀を越えて逃げ出し、茹法珍も散走して台城に戻った。霊秀は直ちに石頭へ赴き建安王宝寅を迎え、文武数百人を率い、警蹕を唱え、杜姥宅に至った。欣泰は初め事が起こったと聞き、馬を馳せて宮中に入り、法珍らが外におり、城内の処分は必ず全て自分に委ねられるだろうと期待し、廃立を行おうとした。やがて法珍が戻り、門を閉ざし儀仗兵を配置する処分を下し、欣泰に兵を配属せず、鴻選も殿内で敢えて発動できず、城外の衆は間もなく散った。数日して事が発覚し、欣泰・胡松らは皆誅殺された。

欣泰が若い時、ある人が彼の相を見て三公を得るだろうが、年はわずか三十と言った。後に屋根瓦が落ちて額を傷つけ、また相者に問うと、「もはや公の相はなく、年寿は更に増し、方伯を得るに過ぎない」と言った。死んだ時は三十六歳であった。

論じて言う。王仲德は二世に任を受け、功名を以て終始することができた。入関の役では、檀道済・王鎮悪も皆その下にあった。元嘉の北討では、人に督せられ、藺相如の志はあれども、関羽の憤りはなく、長者であった。道 (劉勔)は地は豊・沛に居しながらも、栄誉は恩寵によるものではなく、時に四代を歴て、その人材は絶えず、文武の道はこの門に墜ちず、優れていると言えよう。垣氏は宋・斉の際、代々武節を顕わし、崇祖は疆場に力を尽くし、韓信・白起を自らに擬したが、遂に杜郵の酷禍に遭い、痛むべきである。興世の鵲浦の奇策は、遠く深い趣きがあり、その組を垂れ旆を建てたのは、徒然ではなかった。

原本を確認する(ウィキソース):南史 巻025