南史 巻七十 列傳第六十 循吏

南史

巻七十 列傳第六十 循吏

昔、漢の宣帝は「政事が平らかで訴訟が治まるのは、優れた二千石(郡守)によるものではないか」と考えた。前史(『漢書』)もまた、「今の郡守は、古の諸侯である」と云う。故に長吏の職は、親民(民に親しむ)と号される。道徳を以て礼を整え、風俗を移し易えることについては、これ(長吏)によらないものはなかった。

宋の武帝は庶民の身から起こり、人事の艱難を知っていた。宰相に登庸されて後は、吏職に心を留めた。しかし、外に向けては王略を挙げ、内務に暇がなく、軍を奉ずる費用は日に千金を消耗した。このような寛大で簡素な政治は、未だ行う暇はなかったが、己を貶め欲を退け、倹をもって身を治め、側近には幸いを求めて謁見する私情がなく、閨房には文綺の飾りがなかった。故に、戎車を毎年出動させても、邦甸(都の周辺)は乱れなかった。文帝は幼少より寛仁で、大業を継承した。難が陝服(陝州一帯)に起こり、六戎(諸異民族)を討伐するに及んでは、師を興し将を命ずる動きは、時に応じて救済することにあった。費用は府庫の実物から出し、事は外からの煩わしさがなかった。これより後、国内は安らかで、民衆は繁殖し、上に奉じ徭役に供することは、歳賦に限られ、朝に出て暮れに帰り、自らの仕事をするのみであった。守宰の任期は六年を限界とし、没世まで転任しないことも、昔の時代には及ばなかったが、人は係る所があり、吏は苟且に得る所がなく、家は給し人は足り、その事は困難ではあったが、溝渠に転がり死ぬことは、当時は免れることができた。およそ百戸の郷、市のある邑には、歌謡や舞踊が、至る所で群れを成し、これは宋の世の極めて盛んな時であった。元嘉二十七年に至り、境外を守ることを挙行し、ここに資を傾け蓄えを掃うも、なお供給しきれず、賦を深くし斂を厚くして、天下は騒動した。これより孝建に至るまで、兵事は連なり止むことがなかった。小さな江東の地、狭く迫った地域に、師旅を繰り返し加え、凶荒に因ることで、かつての盛時は、ここより衰えた。晋の世の諸帝は多く内房に居り、朝宴の臨む所は、東西二堂のみであった。孝武帝の末年、清暑殿がようやく構築され、永初年間に受命して後は、改作することなく、居所はただ西殿と称し、嘉名を制定せず、文帝もこれを因襲し、また合殿の称があった。孝武帝が統を承けるに及んで、制度は増長し、犬馬には菽粟が余り、土木には綈繡を衣せしめた。前の規を追って陋とし、改めて正光・玉燭・紫極の諸殿を造営した。欒(柱上の曲木)を彫り節(柱の節)を綺にし、珠の窓に網の戸、寵愛する女や幸臣には、府庫の蔵を傾けて賜い、四海を尽くしてもその欲に供せず、人命を尽くしてもその心を快くさせなかった。明帝が位を継ぐと、ますます浮華奢侈に篤く、恩恵は下を恤れまず、ついに横流に至った。人を治める官は、遷転が毎年のように属し、竈の煤も黒くならず(墨子の故事)、席も暖まる暇がなく、蒲や密の教化(後漢の良吏劉矩・卓茂の治績)は、事として容易に及ぶ段階ではなかった。ただ吏が古に及ばず、人が昔に乖くのみならず、上に乱されることにより、教化を行うに従うことができなかったのである。

斉の高帝はこの奢侈放縱を受け継ぎ、幼主を輔立して、人の疾苦を振るい起こそうと考え、百城に風を移した。政を為して一年にも満たず、山陰令傅琰を抜擢して益州刺史とし、華を損ない樸に返り、己を恭しくして南面し、躬行をもって人を導き、煩わせないことを意とした。山陰は大邑であり、獄訟が繁く滋すため、建元三年、別に獄丞を置き、建康と同等とした。永明の世が運を継ぎ、政術に心を垂れ、威を杖として善く断じたが、なお漏網は多く、長吏が法を犯せば、刃を封じて誅を行った。郡県の居職は、三周(三年)を以て小満とした。水旱の災害があれば、すぐに救恤を加えた。十年余りの間、百姓に犬吠の驚きがなく、都邑の盛んなこと、士女は安楽で、歌声舞節、華やかな服に美しい妝い。桃花と淥水の間、秋月春風の下、至る所が適わない所はなかった。明帝は布衣の時より、吏事に通達し、宸扆(帝位)に居るに及んでは、専ら刀筆(文書行政)に務めた。未だ枉(曲)げて法を申し恩を行うことはなく、守宰はこれによって震え上がった。時に魏軍が侵入伐つに属し、疆埸は大いに乱れ、兵車は連年、起居に暇がなく、軍国は糜耗し、ここより衰えた。続いて昏乱が継ぎ、政は群孽(奸臣たち)により行われ、賦調は雲の如く起こり、徭役は度を失った。守宰は多く権門に倚附し、互いに貪虐を長じ、裒め刻み聚斂し、黎民を侵擾した。天下は動揺し、手足を措く所を知らなかった。

梁の武帝は在野の時、人の疾苦を知り、乱を定める始めにおいて、なお寛大な詔書を下した。東昏侯の時の雑調はことごとく除省され、ここに四海の内は始めて息肩(重荷を下ろす)することができた。皇極(帝位)に践み、庶事を躬覧し、日が西に傾いても政を聴き、疾苦を求め隠れた者を恤れんだ。そこで輶軒(使者の車)を命じて方俗を省みさせ、肺石を置いて窮人の訴えを通じさせた。労苦は己が先んじ、事は急病を救うことのみを旨とした。元年、人ごとの財産税を廃し、丁を計って布を課した。身に着けるのは洗濯した衣、御府には文錦の飾りがなかった。太官の常膳は、ただ菜蔬のみ、円卓に陳べるものは、三盞を超えず、倹をもって海内に先んじたのである。故に長吏を選ぶ毎に、必ず廉潔公平な者を求め、皆を前に召見し、親しく政道を勧めた。始めに尚書殿中郎の到溉を抜擢して建安内史とし、左戸侍郎の劉鬷を しん 安太守とした。溉らは官に居り、ともに廉潔をもって著名であった。また令を定めた。小県に能ある者は、大県の令に遷し、大県に能ある者は、二千石に遷す。ここにおいて山陰令の丘仲孚は異績があり、長沙内史とし、武康令の何遠は清公であり、宣城太守とした。剖符して吏となる者は、往々にしてこの風を承けた。これも近代の奨励の方策である。

前史(『史記』『漢書』など)には各々循吏伝を立て、その徳美を序している。今、併せてその事績を掇采し、以てこの篇を備える。

吉翰、字は休文、 馮翊郡 ひょうよくぐん 池陽県の人である。初め龍驤将軍劉道憐の参軍となり、府に随って転じて征虜左軍参軍となり、道憐に随って北征し広固を攻め、建城県五等侯の爵を賜った。宋の武帝の中軍軍事・臨淮太守を参じた。再び道憐の驃騎中兵参軍・従事中郎となった。将佐として十余年、清謹で勤勉正直であり、大いに武帝に知遇賞賛された。

元嘉年間、梁・南秦二州刺史を歴任し、益州刺史に転じ、 都督 ととく を加えられた。在任中に美しい治績を著し、方伯(地方長官)の体をよく得て、論者はこれを称えた。

累遷して徐州刺史・監徐兗二州 州之梁郡諸軍事となった。時に死罪の囚人がおり、典簽がこれを生かそうと考え、吉翰が八関斎を行っている時に事を呈上した。吉翰が閲覧を終え、暫く去るよう命じ、明日また改めて呈上するよう言った。翌朝、典簽は再び入ることを敢えず、呼ばれてようやく来た。昨日呈上した事案を取り視終えると、言った。「卿の意はこの囚人の死命を宥めようとするであろう。昨日斎座でその事を見て、また心に生きさせようと思った。しかしこの囚人は罪が重く、全く許すことはできない。既に恩を加えようとするならば、卿が代わってその罪を任ずべきである。」そこで左右に命じて典簽を収め獄に付して殺し、この囚人の生命を赦した。その刑政はこのような類いであった。下僚は畏服し、敢えて禁を犯す者はなかった。官にて卒した。

杜驥、字は度世、京兆杜陵の人である。高祖の杜預は、晋の征南将軍であった。曾祖の杜耽は、河西に避難し、張氏に仕えた。苻堅が涼州を平定すると、父祖は始めて関中に帰還した。

驥の兄 坦

兄の坦はよく史伝に渉猟した。宋の武帝が長安を平定すると、随従して南還した。元嘉年間、青・冀二州刺史の位に至った。晩くに渡ってきた北方の人であるため、南朝では常に傖荒(粗野な辺境者)として遇され、たとえ才能を施すことができても、毎回清途(清要な官途)に隔てられ、坦は常にこれを慨然とした。かつて文帝と史籍について言及した時、上(文帝)が言った。「金日磾は忠孝淳深で、漢朝でも及ぶ者がない。恨むらくは今の世に再びこのような人がいないことだ。」坦は言った。「日磾の美点は、誠に聖詔の通りです。仮に今の世に出たとしても、馬を養う暇もなく、どうして知られましょうか。」上は顔色を変えて言った。「卿はどうして朝廷の薄情を量るのか。」坦は言った。「臣を以って申し上げます。臣は本来中華の高族ですが、亡き曾祖が晋氏の喪乱に因り、涼土に播遷しました。ただ南渡が早くなかったばかりに、荒傖として隔てを賜ったのです。日磾は胡人で、身は牧圉(馬飼い)でありながら、すぐに超えて内侍に入り、名賢の列に歯しました。聖朝においてもまた才を抜擢しますが、臣は恐らく必ずしもできるとは思いません。」上は默然とした。

北土の旧法として、病を問うには必ず子弟を遣わす。杜驥は十三歳の時、父が同郡の韋華を見舞わせた。韋華の子の韋玄は高名があり、彼を見て異とし、娘を妻とさせた。累遷して長沙王劉義欣の後軍録事参軍となった。

元嘉七年、到彦之に従って河南に入り、建武将軍を加えられた。魏が河南の戍を撤して悉く河北に帰ると、彦之は驥に洛陽を守らせた。洛陽城は廃れて久しく、また糧食もなく、彦之が敗退すると、驥は城を棄てて走らんとしたが、文帝に誅せられることを慮った。初め、武帝が関・洛を平らげ、鍾虡の旧器を南に還すことを致した。一大鍾が洛水に墜ち、この時帝は将の姚聳夫を遣わし千五百人を率いてこれを迎えさせた。時に聳夫は正に率いる所領を以て洛水で鍾を牽いていた。驥は乃ち使者を遣わしこれを欺いて曰く、「虜既に南度し、洛城の勢弱し。今城池を修理し、並びに已に堅固なり。軍糧また足れり。乏しき者は人のみ。君衆を率いて見就き、共に此の城を守らば、大功既に立ち、鍾を取るに晩き無からん」。聳夫これを信じ、率いる所領を以て驥に就く。及んで城は守るべからず、また糧食無し。ここに於いて衆を引いて去り、驥もまた城を委ねて南奔した。文帝に白して曰く、「本より死を以て固守せんと欲す。姚聳夫城に入りて便ち走る。人情沮敗し、復た禁ず可からず」。上怒り、建威将軍鄭順之をして寿陽において聳夫を殺さしむ。聳夫は、呉興武康の人、勇果にして気力有り、宋の偏裨の小将及ぶ者無し。

十七年、驥は青・冀二州刺史となり、任に在ること八年、恵化斉土に著る。義熙より宋末に至るまで、刺史は唯だ羊穆之及び驥のみが吏人に称詠せらる。後に左軍将軍に徴され、兄の坦が刺史を代わり、北土以て栄と為す。

坦の長子は琬。

坦の長子の琬は員外散騎侍郎となり、文帝嘗て函詔を有りて坦に敕す。琬輒ち開き視る。信未だ発せず、又追いてこれを取り、敕函已に発す。大いに推検す。上主書を遣わし驥を詰責し、並びに函を開くの主を検す。驥答えて曰く、「函を開くは臣が第四息の季文なり。伏して刑坐を待つ」。上特ちに原ゆて問わず。官に卒す。

坦の第五子は幼文。

第五子の幼文は行いに薄く、明帝の初め、軍功を以て邵陽県男に封ぜられ、尋いで巧妄に坐して爵を奪わる。後に太尉廬江王劉褘の謀反の事を発するを以て、給事黄門侍郎に拝せらる。廃帝の元徽中、 散騎常侍 さんきじょうじ となる。幼文の蒞む所貪横にして、家累千金。沈勃・孫超之と居止接近し、又並びに阮佃夫と厚く善し。佃夫既に死し、廃帝深くこれを疾む。帝微行し、夜輒ち幼文の門墉の間に在りて其の弦管を聴く。積久して転じて能わず平らかならず、ここに於いて自ら宿 えい 兵を率いて幼文・勃・超之等を誅す。兄の叔文は長水 校尉 こうい となり、亦誅せらる。

申怙は字を公休と云い、魏郡魏の人なり。曾祖の鍾は、石季龍の 司徒 しと と為る。宋武帝が広固を平らげ、怙の父の宣・宣の従父兄の永は皆晋に帰るを得、並びに幹用を以て知らる。武帝践阼し、太中大夫を拝す。宣は元嘉の初め、兗・青二州刺史を歴任す。怙の兄の謨は朱修之と滑台を守る。魏滑台を克ちて虜と見ゆ。後に還るを得、竟陵太守と為る。

怙は初め驃騎劉道憐の長兼行参軍と為る。宋命を受く、東宮殿中将軍に辟せらる。台に度還し、直省十年、休急を請わず。下邳・北海二郡太守を歴任し、至る所皆政績有り。又北譙・梁二郡太守と為る。郡境辺接して任榛に接し、屢寇抄せらる。怙到任し、密かに賊来るを知り、乃ち要害に伏兵し、其の不意に出で、悉く皆禽殄す。

元嘉十二年、督魯東平済北三郡諸軍事・泰山太守に遷り、威恵兼ねて著しく、吏人これを便とす。二十一年、冀州鎮を歴下に移し、怙を以て冀州刺史と為し、督を加う。明年、済南太守を加う。孝武践阼し、青州刺史と為り、尋いで督を加う。斉地連年兵を興し、百姓凋弊す。怙辺境を防禦し、農桑を勧課し、二三年の間、遂に皆優実と為る。

性清約にして、頻りに州郡に処すも、妻子饑寒を免れず、世これをもって之を称す。後に 州刺史を拝し、疾を以て征還せられ、道に卒す。死するの日、家に遺財無し。

怙の子は寔。

子の寔は、南譙太守。

怙の従子は元嗣。

謨の子の元嗣は、海陵太守。

元嗣の弟、謙。

元嗣の弟の謙は、臨川内史であった。

従伯父の永の子、坦。

永の子の坦は、孝建の初めに太子右衛率・徐州刺史となった。大明元年、魏が兗州を攻めると、孝武帝は太子左衛率の薛安都・東陽太守の沈法系を派遣して北辺を防がせたが、兗州に到着した時には魏軍は既に去っていた。坦は、任榛の亡命者がたびたび辺境の民を犯しているので、今、軍を出して功績がないならば、この機に乗じて討伐すべきだと建議した。上はこれに従った。亡命者は先にこれを聞き知り、村を挙げて逃走した。安都と法系は白衣のまま職務を領することを命じられ、坦は棄市に処せられようとした。群臣が請うたが許されなかった。刑が執行されようとする時、始興公の沈慶之が市中に入り、坦を抱いて慟哭して言うには、「卿は罪がないのに、朝廷に枉げられて誅殺されようとしている。私も市中に入るのも遠くないであろう」と。市の役人がこれを上に報告すると、ようやく生命を許され、尚方に拘禁された。まもなく赦され、ふたたび ぎょう 騎将軍となった。病没した。

坦の子、令孫。

子の令孫は、明帝の時に徐州刺史となり、薛安都を討った。淮陽まで進軍すると、すぐに安都と合流した。弟の闡は当時済陰太守であり、睢陵城を守備していたが、安都に従わずに朝廷に順奉したので、安都が攻囲しても陥落させることができなかった。ちょうど令孫が到着したので、睢陵に派遣して闡を説得させた。闡は降伏したが、殺害された。令孫もまた殺害された。

杜慧度は、交址の朱鳶の人である。本来は京兆に属していた。曾祖父の元は甯浦太守となり、そこで交址に居住した。父の瑗は字を通言といい、州府に出仕して日南・九徳・交址の太守となった。初め、九真太守の李遜父子は勇壮で権力があり、交土を威圧して支配していた。刺史の滕遯之が着任すると聞くと、二人の子を分遣して水陸の要衝を遮断させた。瑗は兵を集めて李遜を斬り、州内は安寧を得た。後に龍驤将軍・交州刺史となった。宋の武帝が義旗を掲げると、進んで冠軍将軍の号を賜った。盧循が広州を窃拠し、使者を送って友好を求めてきたが、瑗はこれを斬った。義熙六年に卒去した。八十四歳。右将軍を追贈された。

慧度は、瑗の第五子である。七年、交州刺史に任ぜられたが、詔書が届かないうちに、その年の春、盧循が合浦を襲撃して破り、まっすぐ交州に向かった。慧度は文武の兵六千を率いて石碕で盧循を迎え撃ち、これを破った。盧循は敗れたが、残党は皆軍事に習熟しており、李遜の子孫の李弈・李移・李脱らは皆石碕に奔り、俚・獠と結託し、それぞれ部曲を持っていた。盧循は李弈らが杜氏と怨みがあることを知り、使者を送って招いた。李弈らは盧循の節度を受けた。六月庚子、盧循は早朝に南津に進み、三軍に城に入ってから食事を取るよう命じた。慧度は宗族の私財をすべて出して賞与に充て、自ら高い艦に登って合戦し、火箭を放った。盧循の軍艦はすべて燃え上がり、一時に散乱崩壊した。盧循は矢に中って水に飛び込み死んだ。盧循とその父の嘏、および盧循の二人の子を斬り、首を建鄴に伝送した。慧度は龍編県侯に封ぜられた。

武帝が即位すると、輔国将軍の号を進められた。その年、南の林邑を討伐した。林邑は降伏を乞い、生口・象・金銀・古貝などを献上したので、これを許した。長史の江攸を派遣して上表し、勝利を献上した。慧度は布衣と粗食に甘んじ、質素で倹約であった。琴を弾くことができ、老荘を好んだ。淫祀を禁断し、学校を修復して重んじた。凶作で人々が飢えると、私禄をもって救済した。政務は細やかで、家にいるかのようであり、これによって威厳と恩恵が行き渡り、奸盗は起こらなかった。ついには城門を夜も閉めず、道に落ちた物を拾わないようになった。卒去し、左将軍を追贈された。慧度の長子の弘文を振遠将軍・交州刺史とした。

初め、武帝が関・洛を北征した時、慧度は板授により弘文を行九真太守とした。父の後を継いで刺史となるときも、寛和によって人々の支持を得、龍編侯の爵位を襲封した。元嘉四年、文帝は廷尉の王徽を交州刺史としたので、弘文は召還されたが、重い病気にかかり、車に乗せられて出発した。親族や旧知はその病状が重いのを見て、病気が癒えるのを待つよう勧めた。弘文は言った、「私は代々皇恩を蒙り、三世にわたって節を杖としてきた。常に帝庭に身を投じて、受けた恩に報いようと思っていた。ましてや親しく征命を受けたのに、どうして平然としていられようか」と。弘文の母の阮は年老いており、弘文が病を抱えて出発するのを見て、別れを忍びず、広州まで同行し、そこで卒去した。臨終に際し、弟の弘猷を建鄴に派遣した。朝廷はこれを大いに哀れんだ。

孝建年間、 章太守の檀和之を 州刺史とした。和之は以前に始興太守・交州刺史を歴任し、任地において威名があり、盗賊は跡を絶った。狩りに出るたびに、猛獣は伏して起ち上がらなかった。

阮長之は字を景茂といい、またの字を善業といい、陳留の尉氏の人である。祖父の思曠は、金紫光禄大夫であった。父の普は、驃騎諮議参軍であった。

長之は十五歳の時に父を喪い、孝行の性があり、その哀しみは傍らにいる人をも感動させた。喪服を除いた後も、粗食を続けること数年であった。閑居して篤く学び、怠ける様子はなかった。

初めは諸府の参軍となったが、母が年老いていたので、襄垣令を補任することを求めた。督郵が無礼にも彼を鞭打ったので、職を去った。後に武昌太守に任ぜられた。当時、王弘が江州刺史であり、彼を深く知り重んじ、車騎従事中郎に引き立てた。

元嘉十一年、臨海太守に任ぜられた。在官中は常に古びた綿をまとっていた。郡に着任して間もなく、母が亡くなり、葬儀を終えると憂いのあまり卒去した。

時に郡の田禄は芒種を限界とし、これ以前に官を去る者は一年の秩禄が皆後任者に入る。元嘉末に始めてこの科を改め、月を計って禄を分つ。長之が武昌郡を去る時、代官が未だ至らず、芒種の前日に印綬を解く。初めて都を発する時、親故或いは器物を贈別し、得るや便ち緘録し、後に帰り、悉く以て之を還す。中書郎として省に直し、夜隣の省に往き、誤って屐を著けて閣を出で、事に依り自ら列す。門下は闇夜人知らずとして、列を受けず。長之は固く遣送して曰く、「一生暗室を侮らず。」前後歴任の官に、皆風政有り、後人に思はる。宋の世に善政を言ふ者は皆之を称す。文帝深く之を惜しみて曰く、「景茂は方に大用に堪ふべし、豈に直に清苦を以て惜しまるるのみならんや。」子は師門、原郷令。

元嘉初め、文帝大使を遣わして四方を巡行せしめ、 散騎常侍 さんきじょうじ を兼ねる王歆之等上言す。「宣威將軍・陳南頓二郡太守李元德は清勤均平にして、奸盗止息す。彭城内史魏恭子は廉惜修慎にして、公に在りて私を忘れ、安約守儉にして、久しくして弥固し。前宋県令成浦は政を為すに寛済にして、遺詠人に在り。前鮦陽令李熙國は事に在りて方有り、人其の政を思ふ。故山桑令何道は少より清廉にして、白首弥厲し。応に褒賚を加へ、以て後に勧むべし。」各褒賜を受く。歆之は字は叔道、河東の人。曾祖愆期は晋の世に名有り、官は南蛮 校尉 こうい に至る。歆之の位は左戸尚書・光禄大夫、官に卒す。

甄法崇は中山の人なり。父の匡は少府卿の位に在り、清を以て聞こゆ。法崇は宋の永初中に江陵令と為り、任に在りて厳整にして、県境粛然たり。時に、南平の繆士通は江安令として官に卒す。其の年末に至り、法崇は聴事に在りしに、士通前に見ゆ。法崇は其の已に亡きを知り、愕然として未だ言はず。坐定まりて云く、「卿の県人宋雅、米千余石を負ひて還さず、児をして窮弊自存せしめず、故に自ら訴ふ。」法崇因りて命じて口に辞を受けしめ、因りて遜謝して席を下る。而して法崇は問ひ為し、宋家狼狽して輸送す。太守王華聞きて之を歎美す。

法崇の孫 彬

法崇の孫の彬。彬は行業有り、郷党善を称す。嘗て一束の苧を以て州の長沙寺の庫に就きて銭を質し、後に苧を贖ひ還る。苧束の中に五両の金を得、手巾を以て之を裹む。彬得て、送りて寺庫に還す。道人驚きて云く、「近く有人此の金を以て銭を質し、時に事有りて挙げずして失す。檀越乃ち能く見還す、輒ち金の半を以て仰酬せんとす。」往復十数、彬は堅然として受けず、因りて謂ひて曰く、「五月に羊裘を披きて薪を負ふ、豈に遺金を拾ふ者ならんや。」卒に金を還す。梁武帝布衣にして之を聞き、及践阼し、西昌侯藻を益州刺史と為すに、乃ち彬を以て府録事参軍と為し、郫県令を帯ぶ。将に行かんとす、同列五人、帝廉慎を以て誡む。彬に至りて、独り曰く、「卿昔に還金の美有り、故に復た此の言を以て相属せず。」此に由りて名徳益彰る。及蜀に在り、藻之を礼すること甚厚しと云ふ。

傅琰は字は季珪、北地霊州の人なり。曾祖の弘仁は宋武帝の外弟、中表を以て歴官顕はれ、位は太常卿。祖の劭は字は彦先、員外散騎侍郎。父の僧佑は山陰令、能名有り。

琰は姿儀美しく、宋に仕えて武康令と為り、遷りて山陰令と為り、並びに能名著はし、二県皆之を傅聖と謂ふ。爵を新亭侯に賜ふ。元徽中、尚書左丞に遷る。母喪す、隣家火を失ひ、延焼して琰の屋に及ぶ。柩を抱いて動かず。隣人競ひ来りて赴救し、乃ち得て俱に全し。琰の股髀の間已に煙焰に被る。

斉の高帝政を輔ふるに、山陰の獄訟煩積を以て、復た琰を以て山陰令と為す。針を売る・糖を売る老姥、団絲を争ひて琰に詣る。琰団絲を柱に掛けて之を鞭ち、密かに視るに鉄屑有り、乃ち糖を売る者を罰す。又二の野父、鶏を争ふ。琰各に何を以て鶏に食はすと問ふ。一人は粟と云ひ、一人は豆と云ふ。乃ち鶏を破りて粟を得、豆と云ふ者を罪す。県内神明と称し、敢えて偷を為す者無し。琰父子並びに奇績を著はし、時に諸傅に理県の譜有りと云ひ、子孫相伝へ、以て人に示さず。

升明中、益州刺史に遷る。県より州に遷るは、近世罕なり。斉の建元四年、 ぎょう 騎將軍・黄門郎を征す。永明中、廬陵王安西長史・南郡内史と為り、荊州の事を行ふ。卒す。琰の喪西還するに、詔有りて出で臨哭す。

時に長沙太守王沈・新蔡太守劉聞慰・晋平太守丘仲起・長城県令何敬叔・故鄣県令丘寂之、皆能名有り、而も琰に及ばず。沈は字は彦流、東海の人、錢唐・山陰・秣陵令を歴へ、南平・長沙太守と為り、清廉戒慎、身恒に禄に居りて居処日貧し。死するの日宅無くして憩ふ可く、故吏棺柩を営む。聞慰は自ら伝有り。仲起は沈憲伝に見ゆ、敬叔は子思澄伝に見ゆ。

附 丘寂之

寂之は字は徳玄、吳興烏程の人。年十七、州の西曹と為り、兼ねて直主簿。刺史王彧県を行き夜還る。前駆已に至るも、寂之肯へて門を開かず、曰く、「墨旨を奉ぜず。」彧方に車中に於て教を為し、然る後に開く。彧歎じて曰く、「意はざりき郅君章近く合下に在るを。」即ち転じて主簿と為す。県に在りて専ら廉潔を以て下を禦ふ。時に丹徒県令沈巑之清廉を以て罪に抵る。寂之之を聞きて曰く、「清吏真に為す可からず、政当に季・孟の間に処らんか。」

附 沈巑之

巑之は吳興武康の人、性疏直、県に在りて自ら清廉を以て左右に事へず、浸潤日より至り、遂に鎖系されて尚方に至る。歎じて曰く、「一たび天子を見るは足れり。」上召して問ひて曰く、「復た何をか陳せんと欲す。」答へて曰く、「臣清を坐するを以て罪を獲たり。」上曰く、「清復た何を以てか罪せらる。」曰く、「要人に承奉する無きを以てなり。」上曰く、「要人は誰ぞ。」巑之手板を以て四面を指して曰く、「此の赤衣の諸賢皆是なり。若し臣更に鳴くを得ば、必ず清誉日の至らしめん。」巑之危言すと雖も、上亦責めず。後其の罪無きを知り、重ねて丹徒令を除く。県界に入る、吏人之を候ひて謂ひて曰く、「我今重ねて来る、当に人肝を以て米に代へん、然らずんば清名立たず。」

又汝南の周洽有り、句容・曲阿・上虞・吳令を歴へ、廉約私無く、都水使者に卒す。殯斂するに以て無く、吏人棺器を買ふ。斉の武帝聞きて之を非とし、曰く、「洽累歴名邑にして居処理れず、遂に車宅無きに坐して死し、吏をして衣棺せしむ。此れ故に宜しく罪貶すべく、褒恤を論ずる無からん。」乃ち勅して贈賚を与へず。

琰の子、翽。

琰の子の翽は、官に任じてもまた有能な名声があり、後に呉県令となり、別に建康令の孫廉に会い、廉はそこで問うて言うには、「聞くところによれば、丈人は奸悪を摘発し、伏した者を暴き、教化は神の如くであると。どうしてこのようになったのか」と。答えて言うには、「他に何もない。ただ勤勉で清廉であるのみ。清廉であれば法綱は自ずから行われ、勤勉であれば事は処理されないものはない。法綱が自ずから行われれば吏は欺くことができず、事が自ずから処理されれば物事に滞りはない。どうして処理されないことがあろうか」と。時に臨淮の劉玄明もまた吏能があり、山陰・建康の令を歴任し、政績は常に天下第一であり、ついに司農卿となった。後に翽はまた玄明に代わって山陰令となり、玄明に問うて言うには、「旧政を新たな令尹に告げたい」と。答えて言うには、「私に奇術がある。卿の家譜には載っていない。別れに臨んで示そう」と。やがて言うには、「県令たるものはただ一日に一升の飯を食い、酒を飲まぬこと、これが第一の策である」と。翽は天監年間に建康令となり、また有能な名声があり、位は驃騎諮議に至った。子に岐。

翽の子、岐。

岐は字を景平といい、梁に仕えて南康王左常侍より起家し、後に尚書金部郎を兼ね、母の喪により職を去り、喪に服して礼を尽くした。喪が明けて後、長く病み廃したが、また始新令に任ぜられた。県人に闘争で殴り合い死んだ者がおり、死者の家が郡に訴えた。郡はその仇人を捕らえ、拷問を尽くしたが、ついに咎を認めなかった。郡はそこで獄を県に移した。岐はただちに械を外させ、和やかな言葉で問うと、すぐに自白した。法は死を償うべきところであったが、ちょうど冬至の節が来たので、岐は彼を家に帰らせた。獄曹掾が固く争って言うには、「古にこのようなことがあったが、今は行うべきではない」と。岐は言う、「もし信に背くようなことがあれば、県令が罪を負う」と。ついに期日通りに戻ってきた。太守は深く嘆異し、急いでその状況を上奏した。岐が後に県を去るとき、人は老若を問わず皆、境を出て拝礼して送り、号哭の声は数十里に聞こえた。都に至り、廷尉正に任ぜられ、入って中書通事舍人を兼ね、累進して安西中記室となり、兼ねた舍人はもとの通りであった。

岐は容貌立ち居振る舞いが美しく、広く渉猟し、応対に長じた。大同年間に魏と和親し、その使者が年に二度来たが、常に岐を遣わして応対させた。

太清元年、累進して太僕、司農卿となり、舍人はもとの通りであった。岐は禁省に十余年おり、機密の事に密かに勤め、朱異に次いだ。この年の冬、貞陽侯蕭明が彭城を伐ち、兵敗れて魏に囚われた。二年、明は使者を遣わし還らせ、魏が和好を通じたいと述べさせた。勅により有司及び近臣に議を定めさせた。左 えい の朱異は言う、「辺境はしばらく賊を静め民を休ませることができ、事にとって都合がよい」と。議する者たちは皆これをよしとした。ただ岐だけが言う、「高澄は既に新たに志を得たばかりで、何事のために和を須いようか。必ずや間隙を設けているのであり、故に貞陽に使者を遣わさせ、侯景に自ら疑いを抱かせ、貞陽をもって景と交換しようとしているのである。景の心は安からず、必ずや禍乱を図るであろう。もし和を通ずることを許せば、まさにその計中に陥るのである。かつ彭城では去歳に軍を喪い、渦陽でもまた新たに敗退した。今、使者を遣わして和を結べば、ますます国家の弱さを示すことになる。和は許すべきではない」と。異らは固く主張し、帝はついにそれに従った。使者を遣わすと、景は果たしてこの疑いを抱き、ついに兵を挙げて侵入し、朱異の誅殺を請うた。

三年、中領軍に遷り、舍人はもとの通りであった。二月、侯景が宮門の前で上表し、江右の四州を割いて部下を安置することを乞い、包囲を解いて鎮に還るとした。勅してこれを許し、城西で盟を結んだ。宣城王を出して送るよう求められた。岐は固く宣城王が嫡嗣として重いことを主張し、許すべきではないとした。そこで石城公大款を遣わして送らせた。景と盟を結び終えると、城中の文武は喜び躍り、包囲が解けることを期待した。ただ岐だけが衆に向かって言う、「賊が兵を挙げて逆をなしたのに、どうして和を求めることがあろうか」と。景が盟に背くと、誰もが嘆服した。まもなく詔があり、岐の勤労により南豊県侯に封ぜられた。固辞して受けなかった。宮城が陥落すると、岐は病を帯びて包囲を出、宅で卒した。

虞愿は字を士恭といい、会稽郡余姚県の人である。祖父の賚は、給事中・監利侯であった。父の望之は早くに卒した。賚の中庭の橘の木が冬に熟すと、子孫が競って取りに来た。愿が数歳の時、ただ一人取らなかった。賚と家人は皆これを異とした。

宋の元嘉年間、湘東王の国常侍となった。明帝が立つと、愿が儒吏として学問に渉猟し、かつ藩国の旧恩があることから、待遇は甚だ厚かった。太常丞、尚書祠部郎、通直散騎侍郎に任ぜられた。帝は性猜忌で、体が肥えて風を憎み、夏月に常に小皮衣を着た。左右の二人を司風令史に任じ、風が起こる方角があれば、すぐに先に啓上して知らせさせた。星文の災変については、太史を信ぜず、外からの上奏を聞き入れず、勅して霊台の知星二人を愿に付け、常に内省に直し、異変があれば先に啓上させ、互いに検察させた。

帝は旧宅に湘宮寺を建て、費用は極めて奢侈であった。孝武帝の荘厳寺の塔が七層であるのに対し、帝は十層を建てようとしたが、立てられず、二つの塔に分け、各五層とした。新安太守の巢尚之が郡を罷めて還り、帝に会い、言うには、「卿は湘宮寺に至ったか。私がこの寺を建てたのは大いなる功德である」と。愿が側にいて言うには、「陛下がこの寺を建てられたのは、皆、百姓が子を売り、妻を添えた銭である。仏もし知ることがあれば、悲しみ哭いて哀れむであろう。罪は仏塔よりも高く、何の功德があろうか」と。 尚書令 しょうしょれい 袁粲 えんさん が座にいたが、これに色を失った。帝は大いに怒り、人をして引きずり下殿させたが、愿はゆっくりと去り、異なる様子はなかった。旧恩により、少日のうちにまた召し入られた。

帝は囲碁を好み、甚だ拙く、格から七八路離れており、世間の評判では皆、第三品と欺いており、第一品の王抗と囲碁を打ち、品に依って賭けをした。抗は帝に譲って言うには、「皇帝の飛碁は、臣の抗には断つことができません」と。帝は終に気づかず、本当のことと思い、ますます熱中した。愿はまた言う、「堯はこれをもって丹朱を教えたのであり、人主の好むべきものではありません」と。たびたび旨に逆らったが、賞賜を受けることはなお余人と異なっていた。中書郎を兼ねた。

帝が病に臥せると、愿は常に医薬に侍った。帝は特に逐夷(塩漬けの魚の腸)を好み、銀の鉢に蜜を盛って漬け、一度に数鉢を食べた。揚州刺史の王景文に言うには、「これは奇味である。卿は十分か」と。景文は答えて言うには、「臣は昔からこの物を好みますが、貧しくて手に入れるのは甚だ難しいのです」と。帝は甚だ悦んだ。逐夷を食べて積もり多く、胸腹が痞えて脹れ、気が絶えようとした。左右が数升の酢酒を飲ませると、ようやく消えた。病が甚だ重くなり、一度に汁と滓を食べてもなお三升に至った。水の患いが積もり久しく、薬は再び効かなくなった。危篤の日、正坐して道人を呼び、合掌して便ち絶えた。

愿は侍疾が久しかったため、正員郎に転じた。出て しん 平太守となった。郡にあっては生業に従事せず、前任の政務で百姓と交渉があり、その子や婦を質に取っていたのを、愿は人を遣わして道で奪い取り、還した。郡に学堂を立てて教授した。郡は以前から髯蛇が出て、胆は薬とすることができた。愿に蛇を贈る者がいたが、愿は殺すに忍びず、二十里外の山中に放した。一夜にして蛇が床の下に戻ってきた。さらに四十里の山に送ると、一晩経ってまた帰ってきた。論ずる者は仁心の致すところであるとした。海辺に越王石があり、常に雲霧に隠れ、伝えていうには、「清廉な太守のみが見ることができる」と。愿が往って観ると、清澈として隠れるところがなかった。後に琅邪の王秀之が郡守となったとき、朝士に書を送って言うには、「この郡は虞公の後を承け、善政はなお存し、遺風は遵いやすく、少しは事なきを得ている」と。

母が老いたため職を解き、後軍将軍に任ぜられた。褚彥回がかつて愿を訪ねたが、愿は不在で、その寝台の上に埃が積もり、数帙の書があるのを見て、嘆じて言うには、「虞君の清さはここに至るか」と。人に命じて地を掃き床を払って去った。

中書郎に遷り、東観祭酒を領した。兄の季が上虞令として卒すると、愿は省中から歩いて出て家に還り、詔を待たずに東に帰った。 ぎょう 騎将軍に任ぜられ、廷尉に遷り、祭酒はもとの通りであった。

沈愿はかつて宋の明帝に仕え、斉の初年に神主が汝陰廟に遷されると、愿は拝辞して涙を流した。建元元年に卒去した。愿は五経論問を著し、会稽記を撰し、文翰数十篇を遺した。

王洪軌は上谷の人である。宋の泰始年間、魏が青州を攻略したとき、洪軌は別駕清河の崔祖歓の女を得て、これを妻とした。祖歓の女は洪軌に南帰を勧めた。宋の桂陽王の乱のとき、斉の高帝に従って新亭を鎮守し、常に身を以て矢を防いだ。高帝が「我は自ら楯を持つ、卿は自ら防げばよい」と言うと、答えて「天下に洪軌が無くとも何かあろうか、蒼生はまさに乱れている、一日たりとも公が無くてはならぬ」と言った。帝は大いにこれを賞した。

後に晋寿太守となったが、多くの賄賂を貪り、州から糾弾された。大いに恐れ、郡を棄てて建鄴に奔った。高帝が政を輔けると、腹心として引き立てられた。建武初年、青・冀二州刺史となり、晋寿の時に貨賄で敗れたことを悔い、一層清節を励ました。先に青州は魚塩の利を資とし、ある者は強いて百姓の麦地を借りて紅花を植え、多く部下と交易して利益を求めた。洪軌が至ると、一切これを断った。魏を侵すことを請い、黄郭・塩倉など数箇の戍を得た。後に敗戦に遇い、死傷地を塗すほどで、深く自らを咎め責めた。そこで謝禄山の南に地を除き、広く茵席を設け、三牲を殺し、戦死者の魂を招いて祭った。人人の名を呼び、自ら沃酹し、なお慟哭して自ら勝えず、病を発して亡くなった。洪軌は北人でありながら清正であり、州人は「虜父使君」と呼び、これを言うと皆涙を落とした。

附 李珪之

永明年間に、江夏の李珪之、字は孔璋という者がおり、位は尚書右丞、兼ねて都水使者となり、歴職して清能と称された。後に少府を兼ねて卒去した。

沈瑀は字を伯瑜といい、呉興武康の人である。父の昶は、宋の建平王景素に仕えた。景素が謀反を企てると、昶は先にこれを去り、敗れると連座して獄に繋がれた。瑀が台に詣でて陳請し、罪を免れることができ、これによって知名となった。奉朝請となり、かつて斉の尚書左丞殷濔に詣でたとき、濔が語り政事に及ぶと、大いにこれを器として、「卿の才幹を見るに、まさに我がこの職に居るべきである」と言った。 司徒 しと 竟陵王の子良が瑀の名を聞き、府行参軍に引き、揚州部伝従事を領せしめた。時に建康令の沈徽孚が勢いを恃んで瑀を傲ったが、瑀は法をもってこれを糾し、衆はその強さを憚った。子良は大いに知遇して賞し、家事に至るまで皆瑀に委ねた。子良が薨じると、瑀はまた刺史始安王の遙光に仕え、かつて人丁を送ることを使わされ、速やかで怨みが無かった。遙光は同使の吏に「お前は何故沈瑀の為すところを学ばないのか」と言い、そこで瑀に州の獄事を専ら知らせた。

湖熟県の方山埭は高峻で、冬月には公私の行旅がこれを艱難とした。明帝が瑀に行かせて修繕させた。瑀は四つの洪を開き、行客を断って就役させ、三日で便ち辦じた。揚州の書佐が私行し、詐って州使と称し、就役を肯わなかったので、瑀はこれを四十鞭打った。書佐が帰って遙光に訴えると、遙光は「沈瑀は必ず枉げて汝を鞭うつことはない」と言い、覆按すると果たして詐りがあった。明帝はまた瑀に赤山塘を築かせ、費用は材官の量った数十万を減じた。帝はますますこれを善しとした。建徳令となり、人に一丁あたり十五株の桑、四株の柿および梨栗を植えさせ、女子は丁の半ばとした。人皆歓悦し、間もなく林となった。

官を去って都に還り、行選曹郎を兼ね、陳伯之の軍に従って江州に至った。梁の武帝が兵を起こして郢城を囲むと、瑀は伯之を説いて武帝を迎えさせようとした。伯之は泣いて「我が子は都に在る」と言うと、瑀は「然らず、人情匈匈として、皆計を改めんと思う。若し早く図らざれば、衆散じて合い難し」と言った。伯之は遂に降った。初め、瑀が竟陵王家に在ったとき、平素より範雲と善くし、斉の末に嘗て雲の宿に就き、屋梁柱上に坐る夢を見て、仰ぎ見ると天中に「范氏宅」の字があった。この時に至り瑀が帝にこれを説くと、帝は「雲は死なず、この夢は験すべし」と言った。帝が即位すると、雲は深く瑀を薦め、自ら暨陽令より擢て兼尚書右丞とした。時に天下初めて定まり、陳伯之が瑀が運輸を催督したと言い、軍国は済うことを得た。帝は能ありとし、尚書駕部郎に遷し、兼右丞は元の如くとした。瑀は族人の沈僧隆・僧照に吏幹有りと薦め、帝は共にこれを納れた。

母憂により職を去り、起られて余姚令となった。県の大姓虞氏は千余家あり、請謁市の如く、前後の令長は絶つことができなかった。瑀が到着してからは、訟訴でなければ通ずる所無く、法をもってこれを糾した。県の南また豪族数百家有り、子弟は縦横にし、互いに庇蔭し、厚く自ら封植し、百姓は甚だこれを患えた。瑀はその老者を召して石頭倉監とし、少者は県僮に補い、皆道路で号泣し、これより権右は屏跡した。瑀が初めて到着したとき、富める吏は皆鮮衣美服を以て自ら別たんと彰したので、瑀は怒って「汝らは下県の吏なり、何ぞ自ら貴人に擬するを得んや」と言い、悉く芒屨粗布を着せ、終日侍立せしめ、足に蹉跌あれば、輒ち榜捶を加えた。瑀が微時に嘗てここに至り瓦器を鬻ぎ、富人の辱めを受けたので、故に因って報いたのである。これにより士庶は駭怨した。瑀は廉潔自守したので、故にその意を行い得た。

後に安南長史・尋陽太守となった。江州刺史の曹景宗が卒すると、仍って信威の蕭穎達の長史となり、太守は元の如くとした。瑀の性は屈強で、毎度穎達に忤い、穎達はこれを銜んだ。天監八年、因って入って事を諮るに、辞また激厲であった。穎達は色をなして「朝廷は君を行事として用いるのか」と言った。瑀は出て、人に「我は死して後已む、終に傾側して面従することはできぬ」と言った。この日、路において人に殺され、多くは穎達の害すところと為した。子の続が累ねてこれを訟した。穎達が間もなく卒するに遇い、事は窮竟されなかった。続は乃ち布衣蔬食を以てその身を終えた。

范述曾は字を子玄といい、一字は穎彦、呉郡銭唐の人である。幼くして学を好み、余杭の呂道恵に従って五経を受け、略く章句に通じた。道恵は「この子は必ず王者の師とならん」と言った。斉の文恵太子・竟陵文宣王が幼いとき、斉の高帝が述曾を引きて師友と為し、起家して宋の晋熙王国侍郎となった。斉の初めに南郡王国郎中令に至り、太子歩兵 校尉 こうい に遷り、開陽令を帯びた。述曾は人となり騫諤で、宮中で多く諫争し、太子は全く用いることはできなかったが、然れどもまたこれを罪としなかった。竟陵王は深く相器重し、周舍と号した。太子左 えい 率の沈約もまた述曾を汲黯に方せしめた。

斉の明帝が即位すると、永嘉太守となった。政を為すに清平で、威猛を尚ばず、甿俗はこれを便とした。管轄する横陽県の山谷は嶮峻で、逋逃の聚まる所となり、前後の二千石は討捕するも息むことができなかった。述曾が下車すると、恩信を開示し、凡そ諸凶党は、繈負して出で、編戸属籍する者二百余家となった。これより商旅は流通し、居人は安業した。志を励まして清白とし、饋遺を受けなかった。明帝は詔を下して褒美し、遊撃将軍に徴した。郡が故旧の銭二十余万を送ったが、一も受けず、唯だ白桐木の火籠樸十余枚を得たのみであった。東

昏のとき、中散大夫を拝し、郷里に還った。梁の武帝が践祚すると、乃ち軽行して闕に詣で、仍って辞して還った。武帝は詔を下して褒美し、太中大夫と為した。述曾は生平得たる所の奉禄は、皆以て分施し、老いに及んで遂に壁立して資無し。天監八年に卒去した。易の文言に注し、雑詩賦数十篇を著した。

後に呉興の丘師施もまた廉潔と称され、臨安県を罷めて還るに、唯だ二十籠の簿書有るのみで、並びに倉庫の券帖であった。当時、これを述曾に比した。位は台郎に至った。

孫謙は字を長遜といい、東莞郡莒県の人である。歴陽に客居し、自ら耕作して弟妹を養い、郷里ではその敦睦を称えられた。宋に仕えて句容県令となり、清廉で慎み深く記憶力に優れ、県民は神明と号した。宋の明帝は彼を巴東・建平二郡の太守とした。郡は三峡に位置し、常に威力をもって鎮撫していた。謙が任地に赴こうとしたとき、詔勅で千人を募って随行させようとした。謙は言った、「蛮夷が服従しないのは、おそらく待遇に節度を欠くからである。どうして兵役を煩わせ、国費を費やそうか」と。固辞して受けなかった。郡に至ると、恩恵と教化を施し、蛮獠はこれを懐き、競って金宝を贈った。謙は慰撫して返し、少しも受け取らなかった。また捕虜を得たときは、皆家に放還した。俸禄から吏人の分を出していた者は、全てこれを免除した。郡内は和合し、威厳と恩恵は大いに顕れた。

職務について三年、召還されて撫軍中兵参軍となり、越騎 校尉 こうい ・征北司馬に転じた。府主の建平王が挙兵しようとし、謙の剛直さを憂慮し、事を託して都に使いを遣わし、その後乱を起こした。建平王が誅殺されると、左軍将軍に転じた。

斉の初年、銭唐県令となり、煩雑な事を簡素な方法で処理し、獄中に拘留された囚人はいなかった。官を去る際、百姓は謙が在職中に贈り物を受け取らなかったので、追いかけて絹帛を車に載せて贈った。謙は辞退して受け取らなかった。官を去るたびに私邸がなく、空いた車庫を借りて住んだ。

永明の初年、江夏太守となったが、後任と交代するとすぐに郡を離れた罪で尚方に拘禁された。しばらくして、中散大夫として免罪された。明帝が廃立を行おうとし、謙を腹心として引き入れようとし、兼 えい 尉とし、甲仗百人を与えた。謙はその機会に身を置くことを望まず、甲士を解散させた。帝は罪に問わなかったが、再び任用しなかった。

梁の天監六年、零陵太守となり、年は既に老いていたが、なおも力を尽くして政務を行い、吏民は安んじた。以前、郡内には猛獣の被害が多かったが、謙が着任すると跡を絶った。官を去った夜、猛獣はすぐに住民を害した。謙が郡県を治める時は、常に農桑を勧めて励まし、地の利を尽くすことに務め、収入は常に隣境より多かった。九年、老齢のため光禄大夫として召された。都に至ると、帝はその清潔さを嘉し、非常に礼遇した。毎回の朝見で、なおも煩劇な職務を請うて自ら尽力しようとした。帝は笑って言った、「朕は卿の知恵を使うのであって、卿の力を用いるのではない」と。十四年、詔して優れた俸禄を加え、親信二十人を与え、さらに扶持を与えた。

謙は少年から老年に至るまで、二県五郡を歴任し、在任地ごとに廉潔であった。身を立てるのは質素で、寝台には葦の簀と屏風を置いた。冬は布団と蒲の敷物を用い、夏は蚊帳がなく、夜寝ても蚊蚋に刺されたことがなく、人々はこれを怪しんだ。九十歳を超えても、五六十歳のように強壮であった。毎回の朝会には、必ず人より先に公門に着いた。仁義に力を尽くし、己の行いは常人よりはるかに優れていた。従兄の霊慶が病気で謙に寄寓したことがあり、謙が出かけて帰り、安否を尋ねると、霊慶は言った、「さきほど冷たいものと熱いものを不調和に飲み、今もまだ渇いている」と。謙は退いて自分の妻を遣わした。彭城の劉融というものが物乞いをし、病が重く帰る所がなかった。友人が車で謙の家に送ると、謙は応接の間を開けてこれを受け入れた。劉融が死ぬと、礼をもって葬り、人々は皆その行いと義に感服した。晚年、頭に二つの肉角が生え、それぞれ一寸の長さであった。

十五年、官のまま死去した。時に九十二歳。臨終に諸子に遺命して言った、「私は若い頃から世間の意に適うことを望まず、故に自ら名声を求めず、しかし三代に仕え、両朝で官を成した。私の資質と名声をもってすれば、あるいは贈位や諡号を蒙るかもしれないが、それは公の体裁によるものである。息が絶えたらすぐに幅巾のまま葬り、常に倹約と質素を心がけよ。近ごろ見るに霊柩車が過度に精巧であるが、それは私の志ではない。士安(劉寔)は葦の簀で包み、王孫(楊王孫)は裸で地下に入ったが、これは匹夫の節操であり、人情から見て妥当とは言えない。今、棺は体を納めるのに足り、墓穴は柩を収めるのに足りればよい。幡には爵位と郷里を書き、そうしないわけにはいかない。旒は命数(官位)を示すが、やめてよい。ただ糯床(粗末な寝台)を借り、席で装えばよい。常に乗っていた車を魂車とし、他には用いないように」と。第二子の貞巧は、細かい席を織って霊柩を飾り、竹で鈴と佩玉を作った。質素ながらも華やかであった。帝は哀悼の意を表し、非常に悼み惜しんだ。

謙の従子に廉がいる。

従子の廉は字を思約という。父の奉伯は少府卿・淮南太守の位にあった。廉は口達者で巧みに官途を歩み、斉の時には既に大県を歴任し、尚書右丞となった。天監の初年、沈約・範雲が朝廷で権勢を振るうと、廉は心を傾けてこれに奉じた。また中書舎人の黄睦之らにも、特に結び付いた。貴人や要人が食事をするたび、廉は必ず毎日美味を進上し、皆自ら調理し、労苦を厭わなかった。そこで列卿、御史中丞、 しん 陵・呉興太守となった。広陵の高爽は険薄な才を持ち、廉の客となった。廉は文書の記録を彼に委ねた。爽はかつて求めが叶わなかったことがあり、そこで履の謎を作って廉を喩えて言った、「鼻を刺しても嚏が出ず、面を踏んでも怒らず、歯を噛みしめて歩数を数え、これを持って人に勝つ」。恥辱を顧みず、これをもって名位を得ることを風刺したのである。しかし官に処するのは公平で正直であり、遂に善政で称された。武帝はかつて言った、「東莞の二孫とは、謙と廉のみである」と。

何遠は字を義方といい、東海郡郯県の人である。父の慧炬は、斉の尚書郎であった。遠は斉に仕えて奉朝請となり、崔慧景の敗亡事件に連座し、 尚書令 しょうしょれい の蕭懿に抵触したが、懿は深く匿って保護した。赦令に会って出獄した。まもなく、懿が難に遭い、子弟は皆潜伏した。遠は懿の弟の融を探し出して匿った。やがて発覚し、遠は垣を越えて難を免れたが、融は禍に遇い、遠の家族は尚方に拘禁された。遠はそこで逃亡して江を渡り、魏に降った。寿陽に入り刺史の王肅に会い、梁の武帝を迎えることを求め、肅は兵を遣わして護送させた。武帝は遠を見て張弘策に言った、「何遠は大丈夫である。家を破って旧徳に報いることができた。容易に及ぶ者ではない」と。武帝が即位すると、奉迎の功績により、広興男に封じられ、後軍鄱陽王蕭恢の録事参軍となった。遠と恢は元より親しく、王府でその志と力を尽くし、知る限りのことは何でも行った。恢もまた心を推して彼を頼り、恩寵と信頼は非常に密接であった。

武昌太守に転じた。遠は本来、洒落て気ままな性格で、軽侠を尊んでいた。この時になってようやく節を曲げて吏となり、交遊を絶ち、贈り物は微細なものも一切受け取らなかった。武昌の風習は皆江水を汲んでいたが、盛夏に遠は水温を憂い、常に金を払って人の井戸の冷水を買った。金を取らない者には、水を汲んで返した。他の事も多くこのようであった。行跡は偽りのように見えたが、よく細やかな心遣いができた。車や衣服は特に粗末で質素であり、器物に銅や漆のものはなかった。江左では水産物は非常に安かったが、遠が食事するのは干魚数切れだけであった。しかし性格は剛直で厳格であり、吏人は些細な事で鞭打ちの罰を受けることが多く、そこで人に訴えられ、廷尉に召し下され、十数条の弾劾を受けた。当時、士大夫が法に坐しても測罰(拷問)を受けないのが常であったが、遠は己に贓物がないと推し量り、測罰に就いて三七日間も自白せず、それでも私的に禁制の武器を蔵していた罪で除名された。後に武康県令となり、ますます廉節を励まし、淫祀を廃し、身を正して職務に率い、人々は非常に称えた。太守の王彬が属県を巡視したとき、諸県は皆盛大な供応の設えでこれを持てなした。武康に至ると、遠だけが干飯と水を設けただけであった。彬が去るとき、遠は境まで送り、斗酒と一羽の鵝を進めて別れた。彬は戯れて言った、「卿の礼は陸納を超えている。古人に笑われはしないか」と。武帝はその才能を聞き、宣城太守に抜擢した。県令から近畿の大郡の太守となるのは、近代にはまだなかったことである。郡は寇賊の掠奪を受けていたが、遠は心を尽くして安撫治理し、再び名声と事跡を顕した。一年後、樹功将軍・始興内史に転じた。時に泉陵侯蕭朗が桂州にいたが、道中で略奪が多く、始興の境界に入ると、草木にすら犯すところがなかった。

顧遠は官にあっては好んで巷路を開き、牆屋を修繕し、人々の居住する市里や城隍・厩庫に至るまで、その経過する所はあたかも家を営むが如くであった。田秩や俸銭には一切手を付けず、年末には特に困窮する者を選んでその租調に充て、これを常例とした。しかしその訴訟を聴くことは常人と同様で、特に優れた裁断を下すわけではなかった。しかし性質は果断であり、人々は畏れて惜しみ、その赴任した地では皆生前に祠を立て、政績を上表して言上したので、帝は常に優詔をもって答えられた。後に給事黄門侍郎、信武将軍を歴任し、呉郡を監した。呉では酒の過失が多かった。東陽太守に転じた。顧遠は職に在っては、強き富める者を仇讎の如く憎み、貧しき細民を子弟の如く慈しみ、特に豪族から畏憚された。東陽に在ること一年余り、再び罰を受けた者から誹謗され、罪に坐して免官となり帰郷した。

顧遠の性質は耿介で私曲がなく、世間に在っては請謁を絶ち、人を訪ねることもなかった。貴賤を問わず書簡を交わす際も、礼は対等であった。その会遇する所では、一度も顔色を和らげて人にへつらうことはなかった。このため俗士からは多く憎まれた。その清廉公正は実に天下第一であった。数郡の太守を歴任し、欲望を引き起こすものを見ても終始その心を変えず、妻子は飢寒に迫られて下層の貧者の如くであった。東陽を去って帰郷してからは、数年を経ても栄辱を口にせず、士人層はますますこれを称賛した。その財を軽んじ義を好み、人の急難を救い、言葉に虚妄がないのは、天性によるものであった。よく冗談で人に言った、「卿が私の一言の虚言を得ることができれば、一匹の絹で卿に謝ろう」と。人々は共に窺ったが、記録することはできなかった。後に征西諮議参軍、中撫軍司馬となり、卒した。

郭祖深は襄陽の人である。梁の武帝が挙兵した初め、客として従った。後に蔡道恭に従って司州に在った。北に陷って帰還し、上書して辺境の事情を述べたが、用いられなかった。長兼南梁郡丞に選ばれ、後に行参軍に転じた。帝が内教(仏教)に情を溺らせ、朝政が緩み弛んでいたので、祖深は棺を車に載せて宮門に赴き封事を上奏した。その要旨は次の通りである。

大梁は天運に応じ、その功は百王を超え、慈悲は既に広大であるが、法度は廃れている。愚かな輩はこれを識らず、怠慢が起こっている。各々奢侈を競い、貪欲と汚穢が生じている。これは陛下が勲功を寵遇し過ぎ、臣下を統御するに寛容すぎるためである。故に廉潔な者は進む途がなく、貪婪な者は取り入る道が多く、直き者は溝壑に沈み、曲がった者は重ねて昇進する。口先巧みな者は互いに推薦し合い、訥直で信義を守る者は埋もれてしまう。功労深く勲厚い者には禄賞が均しからず、功のない側近が反って寵愛と抜擢を受ける。昔、宋人の酒売りは犬が凶暴で酒が酸っぱくなったというが、陛下の犬(側近)はそれより甚だしい。

臣は聞く、民は国の根本であり、食は人の命である。故に礼に「国に六年の儲えなければ、その国とは言わない」とある。これを推して言えば、農は急務である。しかし郡県は苛暴で、勧奨を加えず、今年は豊作であるのに、なお人々に飢えた顔色がある。もし水旱の災いに遇えば、どうして救えようか。陛下は往年は学を尚び、五館を設立し、歩き詠み座り詠みして、誦読の声が国中に溢れた。近ごろは法(仏法)を慕い、天下に信向が広がり、家々は斎戒し、人々は懺悔礼拝し、農桑に務めず、空しく彼岸を談じている。農桑は今日の生活を救い育てるものであり、功德は将来の善因である。どうして根本を堕として末節に勤め、近きを置いて遠きを求めようか。今、商旅はますます繁くなり、遊食の徒はますます多く、耕夫は日々減り、機織りは日々空しくなる。陛下もし広く屯田を興し、金を賤しみ粟を貴び、農桑に勤める者を階級で抜擢し、耕織を怠る者には明らかな刑罰をもって戒めれば、数年で家々は豊かになり人々は足り、廉譲の心が生まれるであろう。

君子と小人とは、智計が異なる。君子は道を志し、小人は利を謀る。道を志す者は国を安んじ人を救い、利を志す者は物を損ない己を図る。道人(仏教者)は国を害する小人であり、忠良は国を守る君子である。臣が見るに、病む者は道士に行けば奏章を勧められ、僧尼に行けば斎講を命じられ、俗師(民間の祈祷師)に行けば鬼禍を解くべきと言われ、医師の診察では湯熨や散丸を用いるが、皆まず自分自身のために行うのである。臣は思うに、国の根本を治めることは病気を治療するのと似ており、病気を治すには巫鬼を去って華佗・扁鵲を求め、国を治めるには佞邪を退けて管仲・晏嬰を用いるべきである。今任用されている者は、腹背の毛(取るに足らない者)に過ぎない。外廷を論ずれば徐勉・周捨がおり、内廷を説けば朱異・陸杲がいる。朱異・陸杲の議するところは世俗を傷つけ仏法を盛んにし、徐勉・周捨の志すところはただ江東に安枕することを願うのみである。主は慈しみ、臣は臆病で、外境への謀略を止め、中国の士女をして南を望んで冤みを懐かしめている。もし賈誼が生き返ったならば、豈に慟哭しないことがあろうか。臣が今直言して顔を犯す罪は許されるかもしれないが、貴臣に逆らえば禍いは測り知れない。それでも鼎鑊を恐れず、わずかな身で必ず聞き届けられんとするのは、正に社稷の計が重く、蟻の命が軽いからである。臣の言葉が入って身が滅びようとも、臣は何の恨みがあろうか。

謀臣良将は、いずれの時代にいないことがあろうか。貴いのは見知られることであり、要は用いられることである。陛下の皇基が兆し始めて二十余年、臣子の節として、諫争した者は誰か。執事たちは皆同調して和せず、答問は唯々諾々とするのみである。内対では聖旨は神の衷(心)であると言い、外に出ては誰が逆耳の言をしようかと論ずる。過ちは下にあるのに譴責は上に見え、遂には聖皇が誠を降し、自ら引責し、宰輔は平然として、少しも謙退しない。かつ百官卿士で、奉公する者は少なく、禄をむさぼり利を競い、廉潔を尚ばない。金を積み銭を蓄え、列に侍って仙人の如く、田も耕さず商いもせず、どうしてそうなるのか。法は人の父母であり、恵みは人の仇敵である。法が厳しければ人は善を思い、徳が多ければ物事に悪が生じる。悪は長くしてはならず、欲望は恣にしてはならない。伏して願わくは、貪濁を去り廉平を進め、法令を明らかにし刑罰を厳しくし、奢侈を禁じ賦斂を薄くすれば、天下は幸いである。謹んで封事二十九条を上る。伏して願わくは、独断の明を抑え、少しばかり愚瞽の言を察せられんことを。時に帝は大いに釈典(仏典)を弘め、以て風俗を変えようとしていたので、祖深は特にその事を言い、条陳して次のようにした。

都下の仏寺は五百余所、極めて宏壮華麗である。僧尼は十余万、資産は豊かで沃かなり。所在の郡県では数え切れない。道人(僧侶)にはまた白徒(無籍の弟子)がおり、尼は皆養女を蓄えている。これらは皆人籍に編入されず、天下の戸口はほぼ半分を失っている。そして僧尼は多く法に背き、養女は皆羅や紈を着ている。その風俗を蝕み法を傷つけるのは、まさにこれによるものである。請う、精しく検査し、もし道行がなければ、四十歳以下の者は皆還俗させて農に附せしめよ。白徒・養女を罷め、奴婢を蓄えることを聴許せよ。婢にはただ青布の衣を着せ、僧尼には皆蔬食を命ぜよ。このようにすれば、法は興り俗は盛んになり、国は富み民は殷かになる。そうでなければ、将来は処々に寺が成り、家々に剃落(出家)し、尺土一人も、もはや国の所有ではなくなるであろう。

朝廷は勲功ある旧臣を抜擢して、三辺の州郡に任用するが、民を治める道を顧みず、ただ貪婪で残忍なことを務めとする。善良な民を脅迫し、その害は豺狼よりも甚だしい。江州・湘州の人々は特にその弊害を受けた。三関より外は、いたるところ毒害に遭った。しかしてこれらの勲功の者が帰順した当初は、ただ一身のみであったが、任用されるに及んで、皆部曲を募集した。そして揚州・徐州の人々は、多くの労役に迫られて、多くその募集に応じ、その財貨を利とした。皆虚名を簿籍に上申し、ただ三津まで送り出すのみで、名目は遠方の役務にありながら、身は郷里に帰る。また本属の検問を恐れて、ここに他境に逃亡し、僑戸の興起は、まことにこれが故である。また梁が興って以来、人を徴発して役務に就かせ、三五と号した。また投募の将客については、主将が恩恵なく、慰撫養護の理を失い、多く死亡し、すぐに逃亡者として刺記する。あるいは身は戦場に斃れながら、名は逃亡者の名簿にあり、監符が下って討伐を命じ、逋叛と称し、その家の丁男を拘束する。一家がまた叛くと、同籍の者を取る。同籍がまた叛くと、比伍を取る。比伍がまた叛くと、村を見て取る。一人が罪を犯せば、村全体が皆空になる。たとえ赦令が時に下り、罪を洗い清めることが始まっても、監符はなお旧来のまま下され、厳しい期限を限る。上は下を信任せず、転々と督促する。台使が州に到れば、州はまた押使を郡に遣わし、州郡は競って急迫し、同じく下城に赴く。県令の多くは凡庸の才で、風聞に畏れて屈服する。ここに戸ごとに課税を徴収し、その筐篚を献上させ、人に重い賄賂を納めさせ、空文の書類を作成することを許す。その百里の微官が俗を矯正しようとすれば、厳しい法令がすぐに至り、ここより所在の官吏は恣意に利を貪り、上官に事える。また「境界の首で生口を北に入れることを断ち、関津の廃弛を糾弾すべきである」と請う。また言うには、「廬陵王は年少であり、襄陽を鎮守させるのは適さない。左僕射王暕は喪中にあるのに、起用されて呉郡太守となり、まったく辞譲しなかった」と。その言は深刻である。また「郊祀の四星を復すことを請う」。帝は悉く用いることはできなかったが、その正直を嘉して、 章鍾陵令、員外 散騎常侍 さんきじょうじ に抜擢した。

普通七年、南州津を南津 校尉 こうい と改め、祖深をこれに任じた。雲騎将軍を加え、秩二千石とした。部曲二千を募ることを命じた。南州に至ると、公事に厳しく清廉で峻烈であった。従来、王侯の勢家は津を出入りするのに、法綱を忌まず、亡命者を匿った。祖深は奸悪を捜索検査し、強権を避けず、動いて刑罰に致した。江州刺史邵陵王、太子詹事周舍の贓罪を奏上した。遠近の者は側足して、敢えて放恣に振る舞う者はいなかった。淮南太守は彼を上府の如く畏れた。

常に古い布の短衣を着、素木の机を用い、食事は一肉を超えなかった。ある老婦が早青瓜を一つ贈ると、祖深は布帛一疋で報いた。後に富人がこれに倣って財貨を贈ると、鞭打って衆に示した。朝野は彼を畏れ、請託は絶えた。統領する兵は皆精鋭で、令は行き渡り禁は止まる。討伐追捕する時は、越境して追い捕らえた。江中に賊がいた時、祖深は自ら率いて討伐し、陣を列ねて敢えて進まず、そこで親しい者を先に登らせたが、時を待たず進まなかったので、これを斬った。遂に賊を大破し、威は遠近に振るい、長江は粛清された。

論ずるに、善政が人に対しては、ちょうど良工が粘土に対してと同じで、用いる功は少ないが成す器は多い。漢代は戸口が殷盛で、刑務は簡略で寛大であり、郡県の職務は外からの横暴な擾乱がなく、賞を勧め刑を威し、事柄は多く専断し、尺一の詔書は、邦邑を治めることは稀であった。官に居る吏はあるいは子孫が成長するまで在任し、皆徳政を敷いて人和を尽くし、義譲を興して簡素で長久な状態を保った。故に龔遂・黄霸の教化は、成し遂げやすいものであった。降って近世に及ぶと、情偽が繁雑に起こり、人は昔より減り、務めは前世より殷盛である。業績を立て風教を垂れることは、難易が百倍である。もし上古の教化をもってこの世の人を治め、今の吏の良き者をもって前代の風俗を撫するならば、武城の弦歌すら、まだ暇がないであろうし、淮陽の臥鎮は、あるいは努めることができるかもしれない。必ずしも今の才が古を陋しむのではなく、教化に醇厚と薄いとがあるのである。

原本を確認する(ウィキソース):南史 巻070