南史

卷二十三 列傳第十三

卷二十三 列傳第十三

南史

卷二十三 列傳第十三

王誕

原文王誕

盧循が広州を占拠すると、王誕をその平南府の長史とし、甚だ賓客の礼をもって遇した。王誕は久しく客として留まり帰郷を思うようになり、そこで盧循を説いて言うには、「下官は劉鎮軍(劉裕)と情誼浅からず、もし北帰することができれば、必ずや任用されるでしょう」と。時に広州刺史の呉隠之もまた盧循によって拘留されていたが、王誕はさらに言うには、「将軍が今、呉公を留めるのは、公私ともに良策ではありません。孫伯符(孫策)が華子魚(華歆)を留めようとしなかったのは、ただ一つの境域に二人の君主を容れられないからです」と。ここにおいて王誕および呉隠之はともに帰還することができた。

原文盧循據廣州,以誕為其平南府長史,甚賓禮之。誕久客思歸,乃說循曰:「下官與劉鎮軍情味不淺,若得北歸,必蒙任寄。」時廣州刺史吳隱之亦為循所拘留,誕又曰:「將軍今留吳公,公私非計。孫伯符豈不欲留華子魚,但以一境不容二君耳。」於是誕及隱之俱得還。

王誕は宋の武帝(劉裕)の太尉長史となり、心を尽くして帰順し奉仕したので、帝は甚だ彼を頼りとした。盧循が蔡洲から南へ逃走すると、劉毅は固く追討を求めた。王誕は密かに帝に申し上げて言うには、「公は既に広固を平定し、さらに盧循を滅ぼせば、その功績は往古に冠絶し、勲功に二つとないものとなります。このような大いなる威光を、どうして他の者に分からせることができましょうか。劉毅は公と共に布衣から起こり、一時は互いに推し合ったに過ぎず、今や既に敗北を喫している以上、再び功を立てさせてはなりません」と。帝はその説を容れた。後に呉国内史となったが、母の喪により官を去った。

原文誕為宋武帝太尉長史,盡心歸奉,帝甚仗之。盧循自蔡洲南走,劉毅固求追討。誕密白帝曰:「公既平廣固,復滅盧循,則功蓋終古,勳無與二。如此大威,豈可使餘人分之?毅與公同起布衣,一時相推耳,今既喪敗,不宜復使立功。」帝納其說。後為吳國內史,母憂去職。

武帝が劉毅を討伐する際、輔国将軍として起用されたが、王誕は固く辞退し、喪服のまま従軍した。時に諸葛長人(諸葛長民)が太尉留府事を行い、心に不安を抱いており、武帝は甚だこれを憂慮していた。劉毅が平定されると、王誕は先に下ることを求めた。帝は言う、「長人は自ら疑う心があるようだ。卿はどうしてすぐに去ることができようか」と。王誕は言う、「長人は下官が公のご眷顧を受けていることを知っています。今、軽身で単独で下れば、必ずや憂いなしと考えるでしょう。少しばかりその心を安んじることができます」と。帝は笑って言う、「卿の勇気は賁・育(孟賁・夏育)に勝る」と。ここにおいて先に帰還した。後に卒去し、作唐県五等侯を追封された。

原文武帝伐劉毅,起為輔國將軍,誕固辭,以墨絰從行。時諸葛長人行太尉留府事,心不自安,武帝甚慮之。毅既平,誕求先下。帝曰:「長人似有自疑心,卿詎宜便去?」誕曰:「長人知下官蒙公垂盼,今輕身單下,必當以為無虞,可少安其意。」帝笑曰:「卿勇過賁、育矣。」於是先還。後卒,追封作唐縣五等侯。

子の王詡は早世した。王誕の兄の王嘏は字あざなを偉世といい、侍中・左戸尚めと書・始興公となった。王嘏の子は王偃である。王偃は字を子游といい、母は晋の孝武帝の女の鄱陽公主である。宋が禅譲を受けると、永成君に封ぜられた。王偃は宋の武帝の第二女の呉興長公主(諱いみなは栄男)に尚った。公主は常に王偃を裸にして庭の木に縛り付け、時に夜雪が降り、長く凍えさせた。王偃の兄の王恢が戸を押し開けて公主を罵り、ようやく免れた。

原文子詡早卒。誕兄嘏字偉世,侍中、左戶尚書、始興公。嘏子偃。偃字子游,母晉孝武帝女鄱陽公主。宋受禪,封永成君。偃尚宋武帝第二女吳興長公主,諱榮男。常裸偃縛諸庭樹,時天夜雪,噤凍久之。偃兄恢排合詬主,乃免。

王偃は謙虚で恭謹であり、世事に関心を寄せず、位は右光禄大夫に至り、開府儀同三司を追贈され、諡は恭公となった。

原文偃謙虛恭謹,不以世事關懷,位右光祿大夫,贈開府儀同三司,諡恭公。

長子の王藻は、東陽太守の位にあり、文帝の第六女の臨川長公主(諱は英媛)に尚った。公主は性来嫉妬深く、王藻は別に側近の者呉崇祖を寵愛した。景和年中、公主が廃帝に讒言したため、王藻は獄に下されて死に、公主は王氏と離婚した。宋の世の諸公主は厳しく嫉妬深くない者はなく、明帝は常にこれを憎んだ。湖熟県令の袁慆の妻は嫉妬のため賜死され、近臣の虞通之に『妒婦記』を撰ばせた。左光禄大夫の江湛の孫の江学が孝武帝の女に尚ることになったとき、上(明帝)は人に命じて江学のために表を作らせて婚姻を辞退させ、次のように言わせた。

原文長子藻,位東陽太守,尚文帝第六女臨川長公主,諱英媛。公主性妒,而藻別愛左右人吳崇祖。景和中,主讒之於廢帝,藻下獄死,主與王氏離婚。宋世諸主莫不嚴妒,明帝每疾之。湖熟令袁慆妻以妒賜死,使近臣虞通之撰妒婦記。左光祿大夫江湛孫學當尚孝武帝女,上乃使人為學作表讓婚曰:

詔旨を拝承いたしますに、臨汝公主を降嫁せしめられるとのこと、栄誉は望外のものであり、恩寵は典外に加えられます。顧みて愚昧を省みますに、憂い恐れを抱いております。臣は寒門の悴族、人並みの質朴な身であり、里巷に配偶があり、本来天縁とは隔たっておりました。臣のような素流の者、家は貧しく業は少なく、年齢も冠に近づき、皆既に家室を持っております。荊の釵に布の裙、以て礼を成すに足ります。常々自ら解せず、配偶なく今日に至り、媒を訪ねても求められず、素族に問うてもいませんでした。ただひたすらに家門の慶びとして、公主降嫁の身に預かり、天恩の及ぶところ、凡末にまで及びます。憂いを抱き恐れを抱き、免れ得ぬことを慮り、徴命の当たる所、果たしてこの挙に応じることとなりました。門は泰え宗は栄えましょうが、臣にとっては幸いではなく、聖上の寛容に縁り、愚かな実情を冒して陳べます。

原文伏承詔旨,當以臨汝公主降嬪,榮出望表,恩加典外。顧審輶蔽,伏用憂惶。臣寒門悴族,人凡質陋,閭閻有對,本隔天姻。如臣素流,家貧業寡,年近將冠,皆已有室。荊釵布裙,足得成禮。每不自解,無偶迄茲,媒訪莫尋,素族弗問。自惟門慶,屬降公主,天恩所覃,庸及醜末。懷憂抱惕,慮不獲免,征命所當,果膺茲舉。雖門泰宗榮,於臣非幸,仰緣聖貸,冒陳愚實。

晋氏以来、王姬に配尚した者は、累代の美しい家柄であり、しばしば名高い才を持つ者であります。しかし王敦が気を呑まれ、桓温が威を収め、真長(劉惔)は愚かさを装って免れを求め、子敬(王献之)は足を灸して禍を避け、王偃は仲都(の耐寒の質)がなくして北階に裸で雪に晒され、何瑀は龍工(の優れた姿)を欠きながら深井に身を投じ、謝庄は蒙叟(荘子)の害に殆ど自ら陥り、殷沖は強鉏(の害)からほとんど免れませんでした。それらの数人の者は、才意がなかったわけではなく、崇貴なる者に勢いを屈し、聞覧(上聞)から事が隔てられ、悲しみを呑み気を飲み、訴えるところがありませんでした。制限は僕隷よりも甚だしく、防閑は婢妾よりも過ぎ、往来出入りは人倫の常であり、賓客を待つのは朋従の義であるのに、轍を掃い駕を止めさせ、門を窺う期もなく、筵を廃し席を抽き、接対の理を絶たせます。交友が離異するのみならず、兄弟さえも疎遠になります。第令(公主の家令)は酒肉の賜を受けると、その動静を制し、監子(公主の家監)は銭帛の私を与えられると、その言笑を節します。姆奶(乳母)は媚びを争い、厳しさをもって勧め合い、尼媼は競って前に出て、急き立てることで諂います。第令は必ず凡庸の下才であり、監子は皆葭萌(取るに足らぬ)の愚かな者です。挙止を議すれば是非に通じておらず、言語を聞けば虚実を誤ります。姆奶は耆旧を恃んで、ただ嫉妬を賛助し、尼媼は自ら多く知ると唱え、口舌を検束することに務めます。その間にはまた応答問訊、卜筮師母があり、さらには残った飲食、誰に与えたかを詰問弁明させ、衣被が古びれば、必ず頭領(責任者)を責めます。また出入りの適宜、繁簡は衷を得難く、あるいは進んでも前に出られず、あるいは入っても出ることを聴かれません。入らなければ疎遠にしたいと疑われ、出ることを求めれば別意があると疑われます。召しは必ず三晡(夕方)を期とし、遣わすは必ず日出を限りとします。夕には晚魄(月)を見ず、朝には曙星を知りません。夜に月を歩き琴を弄し、昼に袂を拱して巻物を披くようなこと、一生の内に、これと長く乖離します。また声や影が僅かに聞こえると、小婢が奔走し、裾袂が席に向かうと、醜い老婆が群がって来ます。左右が整え磨くと、寵愛を疑われて嫌われ、賓客が冠をしていないと、若い容貌ゆえに斥けられます。礼には列媵があり、象には貫魚があり、本来嫡を侮る嫌疑はなく、どうして婦を軽んじる誚りがありましょうか。今、傍らの私情を断ち切り、正しい配偶に虔恭であるのに、何事につけても必ず無礼だと言い、言葉を設けてはすぐに「私を軽んじる」と言います。また密かに諸公主の集まるのを聞きますに、ただ夫の一族を論じ、緩やかな者は急な者の法とならず、急な者は緩やかな者の師となると。互いに扇動し誘い、その恒常の意は、貸し借りができず、固く実に常套の言葉です。あるいは「野で敗れた」と言い、あるいは「人が私を笑う」と言います。家事とは言え、王憲よりも甚だしく、口を開いて言うことは、常に科律と同じです。王藻は強情ではありましたが、学問に広く渉り、戯笑の事が、遂に冤魂となりました。褚曖は憂憤し、以て夭絶を致し、理を傷つけ義を害すること、具に聞くに忍びません。螽斯の徳は、実に克昌を致すものであり、専妒の行いは、繁衍を妨げます。これ故に尚主の門は往々にして嗣を絶ち、駙馬の身は通じて釁咎に離れます。臣のような凡弱な者が、どうして堪えられましょうか。必ずや族を毀ち門を淪ぼすことになり、ただ身の過ちのみでしょうか。前後この災いに遭った者は、その人は多く、しかし皆その患いが遠近に顕彰され、事が天朝に隔てられているため、言葉を呑み道理を咽び、敢えて論訴する者がいません。

原文自晉氏以來,配尚王姬者,雖累經美胄,亟有名才。至如王敦懾氣,桓溫斂威,真長佯愚以求免,子敬灸足以違禍,王偃無仲都之質,而裸雪於北階,何瑀闕龍工之姿,而投軀于深井,謝莊殆自害于蒙叟,殷沖幾不免于強鉏。彼數人者,非無才意,而勢屈於崇貴,事隔于聞覽,吞悲茹氣,無所逃訴。制勒甚於僕隸,防閑過於婢妾,往來出入,人理之常,當待賓客,朋從之義;而令掃轍息駕,無窺門之期,廢筵抽席,絕接對之理。非唯交友離異,乃亦兄弟疏闊。第令受酒肉之賜,制以動靜,監子待錢帛之私,節其言笑。姆奶爭媚,相勸以嚴,尼媼競前,相諂以急。第令必凡庸下才,監子皆葭萌愚豎。議舉止則未閑是非,聽言語則謬於虛實。姆奶敢恃耆舊,唯贊妒忌,尼媼自唱多知,務檢口舌。其間又有應答問訊,卜筮師母,乃至殘餘飲食,詰辯與誰,衣被故弊,必責頭領。又出入之宜,繁省難衷,或進不獲前,或入不聽出。不入則嫌於欲疏,求出則疑有別意。召必以三晡為期,遣必以日出為限。夕不見晚魄,朝不識曙星。至於夜步月而弄琴,晝拱袂而披卷,一生之內,與此長乖。又聲影裁聞,則少婢奔迸,裾袂向席,則醜老叢來。左右整刷,以疑寵見嫌,賓客未冠,以少容致斥。禮有列媵,象有貫魚,本無嫚嫡之嫌,豈有輕婦之誚?今義絕傍私,虔恭正匹,而每事必言無儀適,設辭輒云輕易我。又竊聞諸主聚集,唯論夫族,緩不足為急者法,急則可為緩者師。更相扇誘,本其恒意,不可貸借,固實常辭。或云野敗去,或云人笑我。雖曰家事,有甚王憲,發口所言,恒同科律。王藻雖復強佷,頗經學涉,戲笑之事,遂為冤魂。褚曖憂憤,用致夭絕,傷理害義,難以具聞。夫螽斯之德,實致克昌,專妒之行,有妨繁衍。是以尚主之門,往往絕嗣,駙馬之身,通離釁咎。以臣凡弱,何以克堪。必將毀族淪門,豈伊身眚?前後嬰此,其人雖眾,然皆患彰遐邇,事隔天朝,故吞言咽理,無敢論訴。

臣は幸いにも聖明の世に属し、道によって憐み照らされ、物を弘めるには典をもってし、親を処するには公をもってされますので、臣の鄙陋な思いを、自ら尽くすことができます。臣の家門の分際として、世々殊栄を荷い、前代の基業を守るに足り、既に提拂(引き立て)に預かっております。清官顕位は、あるいは才によって昇り、一度婚姻の戚となれば、皆恩寵によって仮(与)えられます。ここにおいて非宜を冒し、丹実を披露するのは、ただ一己を陳べて身の願いを全うしようとするのみならず、実に広く諸門の受ける患いの切なることを申し上げるためです。伏して天慈の照察を願い、特に蠲停(免除停止)を賜わり、燕雀の微群をして叢蔚を保たしめ、蠢く物の生を憐れむ心を、自ずから一層篤くせんことを。もし恩詔が降り難く、披請が申し上げられずば、すなわち膚を刊み髪を剪り、山に投じ海に竄らんとします。帝はこの表を諸公主に遍く示して風刺し戒め、併せて戯笑とした。元徽年中、臨川公主(王藻の妻)は表を上って王族に身を還し、弱い嗣子を守り養うことを求め、許された。

原文臣幸屬聖明,矜照由道,弘物以典,處親以公,臣之鄙懷,可得自盡。如臣門分,世荷殊榮,足守前基,便預提拂。清官顯位,或由才升,一叨婚戚,咸成恩假。是以仰冒非宜,披露丹實,非唯止陳一己,規全身願,實乃廣申諸門受患之切。伏願天慈照察,特賜蠲停,使燕雀微群,得保叢蔚,蠢物憐生,自己彌篤。若恩詔難降,披請不申,便當刊膚剪發,投山竄海。帝以此表遍示諸主以諷切之,並為戲笑。元徽中,臨川主表求還身王族,守養弱嗣,許之。

王藻の弟の王懋は字を昌業といい、光禄大夫となり、南郷侯に封ぜられた。王懋の子は王瑩である。

原文藻弟懋字昌業,光祿大夫,封南鄉侯。懋子瑩。

王瑩は字を奉光といい、宋の臨淮公主を娶り、駙馬都尉に任ぜられた。累遷して義興太守となり、謝超宗の後任となった。超宗が郡を去る際、瑩と仲違いし、都に戻って王懋に書を求めて瑩に属吏一人を求めるよう頼んだ。曰く、「丈人(王懋)の一言は、湯を雪に注ぐが如し」と。届いたところ、瑩は公の吏は不可と返答した。超宗が王懋のところへ行き、諸賓客の前で王懋に言うには、「湯は決して雪を注げない」と。王懋は顔面が真っ赤になり、ただ大いに恥じ愧じた。後に王懋が超宗のところへ行くと、精白鮑、美鮓、獐肶を用意していた。王懋がどこでこんな佳味を得たのかと問うと、超宗は偽って義興(の王瑩)が初めて贈ってきたと言い、わざと驚いて言うには、「丈人(王懋)はどうして得られなかったのですか」と。王懋は大いに憤り、朝廷に言上して、王瑩が供養(贈り物)が足りないと称し、これにより郡を失い、長く廃棄された。

原文瑩字奉光,選尚宋臨淮公主,拜駙馬都尉。累遷義興太守,代謝超宗。超宗去郡,與瑩交惡,還都就懋求書屬瑩求一吏,曰:「丈人一旨,如湯澆雪耳。」及至,瑩答旨以公吏不可。超宗往懋處,對諸賓謂懋曰:「湯定不可澆雪。」懋面洞赤,唯大恥愧。懋後往超宗處,設精白鮑、美鮓、獐肶。懋問那得佳味,超宗詭言義興始見餉;陽驚曰:「丈人豈應不得邪?」懋大忿,言於朝廷,稱瑩供養不足,坐失郡,廢棄久之。

後に侍中、東陽太守を歴任した。郡に在って善政があったため、吳興太守に遷った。斉の明帝は庶政に勤め憂い、王瑩は頻繁に二郡を治め、いずれも能吏の名声があった。還って中領軍随王長史となったが、意に平らかでなく、太子詹事、中領軍に改められた。

原文後曆侍中,東陽太守。以居郡有惠政,遷吳興太守。齊明帝勤憂庶政,瑩頻處二郡,皆有能名。還為中領軍隨王長史。意不平,改為太子詹事、中領軍。

永元の初め、政権は群小にあり、王瑩は職務を守るのみで、是非を論ずることができなかった。尚書令徐孝嗣が誅殺されると、王瑩はしばし朝政を総覧し、孝嗣の住んでいた邸宅を取るよう上奏し、また孝嗣の封爵名である枝江県侯を自分の封爵とした。従弟の王亮が言うには、「これは盛徳ではない」と。王瑩は怒って言うには、「私はかつて東へ渡って吳興太守となった時、身を慎んで登岸した。徐(孝嗣)は当時宰相であったが、私を知らず、相(随王)に用いて領軍長史とした。今その邸宅に住むのは、少しも恥じるところはない」と。当時の人々は皆、徳を失ったと言った。王亮が朝廷に当たるようになると、王瑩とは元々仲が良くなかったが、時に彼を引き入れて共に事に当たらせようとした。尚書左僕射に遷ったが、拝命しないうちに、護軍崔慧景が京口から江夏王を奉じて内に向かったため、王瑩は湖頭で慧景を防いだ。衆が敗れ、王瑩は水に赴き、舫に乗って楽遊苑に入り、これにより台城に還ることができた。慧景が敗れると、王瑩は領軍府に還って住んだ。梁の武帝の兵が至ると、再び仮節・都督宮城諸軍事を授かった。建康が平定されると、王瑩は邸宅を徐氏に返還した。

原文永元初,政由群小,瑩守職而已,不能有所是非。及尚書令徐孝嗣誅,瑩頗綜朝政,啟取孝嗣所居宅,及取孝嗣封名枝江縣侯以為己封。從弟亮謂曰:「此非盛德也。」瑩怒曰:「我昔從東度為吳興,束身登岸,徐時為宰相,不能見知,相用為領軍長史。今住其宅,差無多慚。」時人咸謂失德。亮既當朝,於瑩素雖不善,時欲引與同事。遷尚書左僕射,未拜;會護軍崔慧景自京口奉江夏王內向,瑩拒慧景於湖頭。眾敗,瑩赴水,乘舫入樂遊,因得還台城。慧景敗,瑩還居領軍府。梁武兵至,復假節、都督宮城諸軍事。建康平,瑩乃以宅還徐氏。

初め武帝の相国左長史となり、帝が即位すると、建城県公に封ぜられ、累遷して尚書令となった。王瑩は清廉で慎重な性格であり、帝は深くこれを善しとした。時に猛獣が城郭内に入り、上(武帝)は気分を害し、群臣に問うたが、群臣は誰も答えられなかった。王瑩が御筵に侍していたが、笏を引き寄せて答えて言うには、「昔、石を撃ち石を拊つと、百獣率いて舞った。陛下は符籙を受け図を御し、虎や象が来て至るのです」と。帝は大いに喜び、衆は皆感服した。

原文初為武帝相國左長史,及踐阼,封建城縣公,累遷尚書令。瑩性清慎,帝深善之。時有猛獸入郭,上意不悅,以問群臣,群臣莫對。瑩在御筵,乃斂板答曰:「昔擊石拊石,百獸率舞。陛下膺籙御圖,虎象來格。」帝大悅,眾咸服焉。

天監十五年、左光禄大夫・開府儀同三司・丹陽尹の位にあった。公となったので、黄閣を開く必要があった。邸宅の前が狭かったため、南隣の朱侃の邸宅の半分を買おうとした。朱侃は侵害されることを恐れ、百万銭で売った。王瑩はそこで閣を回して東に向けた。当時の人々はこれについて語って言うには、「南へ向かおうとすれば、銭は貪れる。遂に東へ向かう、黄銅のため」と。拝命しようとした時、印工が印を鋳造したが、六度鋳て亀鈕が六度毀れた。完成した時は、頭部が空洞で実がなく、補修して用いた。職に在って六日目、急病で薨去した。諡は静恭。

原文十五年,位左光祿大夫、開府儀同三司、丹陽尹。既為公,須開黃合。宅前促,欲買南鄰朱侃半宅。侃懼見侵,貨得錢百萬,瑩乃回合向東。時人為之語曰:「欲向南,錢可貪;遂向東,為黃銅。」及將拜,印工鑄印,六鑄而龜六毀。及成,頭空不實,補而用之。居職六日暴疾薨,諡曰靜恭。

末子の王実が後を嗣いだ。秘書郎として起家し、梁の武帝の娘安吉公主を娶り、建城県公の爵を襲い、新安太守となった。王実の従兄が郡に来て、告(休暇)を求めた。王実は銅銭五十万を与えたが、郡内や道中で散財することを許さなかった。従兄は密かに郡内で品物を買い、都に還って利を求めた。郡を去ること数十里の時、王実はようやく知り、追わせた。従兄を岸に呼び上げて盤頭(髪を結う)させ、卒に命じて杖を与えさせた。頬を叩いて許しを乞い、辛うじて免れた。後に南康嗣王の湘州長史・長沙郡太守となった。王が三日に禊(祓い)に出ると、王実の衣冠が傾いていた。王は方正で厳格な性格で、これを見て大いに嫌悪した。王実は主君(武帝)の名を称して王に言うには、「蕭玉(王実の名?)は殿下を心に掛けております。殿下はどうしてお憎みになるのですか」と。王は驚き恥じてすぐに立ち上がった。後に密かに上奏され、これにより官を廃され登用を禁じられた。

原文少子實嗣。起家秘書郎,尚梁武帝女安吉公主,襲爵建城縣公,為新安太守。實從兄來郡,就求告。實與銅錢五十萬,不聽於郡及道散用。從兄密于郡市貨,還都求利。及去郡數十里,實乃知,命追之。呼從兄上岸盤頭,令卒與杖,搏頰乞原,劣得免。後為南康嗣王湘州長史、長沙郡。王三日出禊,實衣冠傾崎,王性方嚴,見之意殊惡。實稱主名謂王曰:「蕭玉志念實,殿下何見憎?」王驚赧即起。後密啟之,因此廢錮。

王亮は字を奉叔といい、王瑩の従父弟である。父の王攸は字を昌達といい、宋に仕えて太宰中郎に至り、贈られて給事黄門侍郎となった。王亮は名家の子として、宋末に公主を娶り、駙馬都尉に任ぜられた。秘書丞を歴任した。斉の竟陵王蕭子良が西邸を開き、才俊を招き、士林館とし、工人にその像を図らせたが、王亮もこれに預かった。

原文亮字奉叔,瑩從父弟也。父攸字昌達,仕宋位太宰中郎,贈給事黃門侍郎。亮以名家子,宋末選尚公主,拜駙馬都尉。歷任秘書丞。齊竟陵王子良開西邸,延才俊,以為士林館,使工圖其像,亮亦預焉。

累遷して晉陵太守となり、在職中は清廉公正で、美政があった。時に晉陵令の沈巑之は性格が粗忽で、王亮の諱を犯すのが好きであった。王亮は耐えられず、遂に上奏して彼を代えさせた。沈巑之は不満で、座を造って(訪ねて)言うには、「下官は諱を犯したため代えられましたが、明府(太守)の諱が分かりません。もし攸の字なら、無骹尊(酋)の傍に犬か?犬の傍に無骹尊か?もし有心攸(悠)か?無心攸(攸)か?お教えください」と。王亮は下床に履を履かずに裸足で逃げ出し、沈巑之は手を打って大笑いして去った。

原文累遷晉陵太守,在職清公,有美政。時有晉陵令沈巑之性粗疏,好犯亮諱,亮不堪,遂啟代之。巑之怏怏,乃造坐云:「下官以犯諱被代,未知明府諱。若為攸字,當作無骹尊傍犬?為犬傍無骹尊?若是有心攸?無心攸?乞告示。」亮不履下床跣而走,巑之撫掌大笑而去。

建武末、累遷して吏部尚書となった。時に右僕射の江祏が朝政を管轄し、多く人材を進め抜擢し、士人の帰するところとなった。王亮は自ら選部に居る身として、しばしば異議を唱えた。初め王亮が吏部郎でなかった時、江祏が帝(明帝)の内弟であったため、深く江祏と友誼を結んだ。江祏は彼のために名声を広め、ますます帝に重んじられた。この時には江祏との情誼が薄れ、江祏は以前のように親しんだ。江祏が誅殺されると、群小が命に放縦となり、凡そ除拜は全て内寵(側近の寵臣)によるもので、王亮は止めることができなかった。外見は詳細に審査するようだが、内に明らかな鑑識はなく、選用する者は資格と順序に拘るだけで、当時は能吏とは言われなかった。後に尚書左僕射となった。東昏侯が暴虐を極めると、王亮は容認して免れた。

原文建武末,累遷吏部尚書。時右僕射江祏管朝政,多所進拔,為士所歸。亮自以身居選部,每持異議。始亮未為吏部郎時,以祏帝之內弟,故深友祏。祏為之延譽,益為帝所器重。至是與祏情好攜薄,祏昵之如初。及祏遇誅,群小放命,凡所除拜,悉由內寵,亮弗能止。外若詳審,內無明鑒,所選用,拘資次而已,當時不謂為能。後為尚書左僕射。及東昏肆虐,亮取容以免。

梁の武帝が新林に至ると、内外の百官は皆道で出迎え、抜け出せない者も間道で誠意を示したが、王亮だけは遣わさなかった。東昏侯が殺害されると、張稷は引き続き王亮らを太極殿前の西鍾の下に集めて座らせ、斉の湘東嗣王蕭寶晊を立てようと議した。領軍の王瑩が言うには、「城は閉ざされて久しく、人心は離反している。征東将軍(蕭衍)が近くにいる。どうして諮問しないのか」と。張稷もまた言うには、「桀に昏徳あり、鼎は殷に遷った。今こそ微子が殷を去り、項伯が漢に帰した日である」と。王亮は黙然としていた。朝士が次々と床(席)を下りたので、国子博士の范雲に東昏侯の首を持たせて石頭城に送り、王亮を首班に推した。

原文梁武帝至新林,內外百僚皆道迎,其不能拔者亦間路送誠款,亮獨不遣。及東昏遇殺,張稷仍集亮等於太極殿前西鍾下坐,議欲立齊湘東嗣王寶晊。領軍瑩曰:「城閉已久,人情離解,征東在近,何不諮問?」張稷又曰:「桀有昏德,鼎遷于殷。今實微子去殷、項伯歸漢之日。」亮默然。朝士相次下床,乃遣國子博士范雲齎東昏首送石頭,推亮為首。

城が平定され、朝士は皆到着したが、王亮だけは遅れて、裾と履のまま武帝に拝謁した。帝が言うには、「倒れんとするものを扶けず、どうしてあの宰相を用いるのか」と。王亮は言うには、「もし扶けるものであったなら、明公(武帝)に今日の挙兵があろうはずがありません」と。泣いて去った。霸府が開かれると、大司馬長史とされた。梁の台閣が建てられると、侍中・尚書令を授けられたが固辞し、侍中・中書監、兼尚書令となった。禅譲を受けると、侍中・尚書令・中軍將軍に遷り、豫寧県公に封ぜられた。

原文城平,朝士畢至,亮獨後,裙履見武帝。帝謂曰:「顛而不扶,安用彼相?」亮曰:「若其可扶,明公豈有今日之舉。」因泣而去。霸府開,以為大司馬長史。梁台建,授侍中、尚書令,固讓,乃為侍中、中書監,兼尚書令。及受禪,遷侍中、尚書令、中軍將軍,封豫寧縣公。

天監二年、左光禄大夫に転じた。元日の朝会で、王亮は病気を理由に殿に登らず、別省に饌を設け、語り笑って自若としていた。数日後、詔により公卿が問訊したが、王亮に病色はなかった。御史中丞の楽藹が王亮の大不敬を奏上し、棄市に論じた。詔により爵を削られ、庶人に廃された。

原文天監二年,轉左光祿大夫。元日朝會,亮辭疾不登殿,設饌別省,語笑自若。數日,詔公卿問訊,亮無病色。御史中丞樂藹奏亮大不敬,論棄市。詔削爵,廢為庶人。

天監四年、帝は華光殿で宴を開き、直言を求めた。尚書左丞の范縝が立ち上がって言うには、「司徒謝朏は本来自分の虚名があり、陛下はこのように抜擢なさった。前尚書令の王亮は頗る政体に通じていたが、陛下はあのように棄てられました。愚臣には理解できません」と。帝は顔色を変えて言うには、「卿は他のことを言いなさい」と。范縝が固執して止まないので、帝は不愉快になった。御史中丞の任昉がこれにより范縝が妄りに褒貶を陳べたと奏上し、范縝の官を免ずるよう請うた。詔はこれを許可した。王亮はこれにより世を屏しりぞけ閉じ掃き、賓客と通じなかった。母の憂いに遭い、喪に服して礼を尽くした。後に中書監となり、散騎常侍を加えられた。卒去し、諡は煬子。

原文四年,帝宴華光殿,求讜言。尚書左丞范縝起曰:「司徒謝朏本有虛名,陛下擢之如此;前尚書令王亮頗有政體,陛下棄之如彼。愚臣所不知。」帝變色曰:「卿可更餘言。」縝固執不已,帝不悅。御史中丞任昉因奏縝妄陳褒貶,請免縝官。詔可。亮因屏居閉掃,不通賓客。遭母憂,居喪盡禮。後為中書監,加散騎常侍。卒,諡煬子。

王華

原文王華

王華は字を子陵といい、王誕の従祖弟である。祖父の王薈は衛将軍・会稽内史であった。父の王廞は司徒右長史であった。晋の安帝隆安初年、王恭が兵を起こして王國寶を討ったとき、王廞は母の喪に服して家にいた。王恭が檄を飛ばして起兵を命じると、王廞はただちに衆を集めてこれに応じ、娘を貞烈将軍とし、娘たちを官属とした。王國寶が死ぬと、王恭は檄を飛ばして王廞に兵をやめさせた。王廞が起兵した際、多く誅殺したため、このときやむを得ず、兵を挙げて王恭を討つことを名目とした。王恭は劉牢之を派遣して王廞を撃たせ、王廞は敗走し、行方がわからなくなった。長子の王泰は王恭に殺された。王華は当時十三歳で軍中におり、王廞とはぐれ、沙門の釈曇冰について逃げ、衣包を持たせて後ろからついて行かせたが、関所の巡察兵はみな怪しんだ。王華が歩みが遅いと、曇冰は罵って言った、「下郎が怠けて、私に追いつけないのか」と。杖で王華を数十回打ったので、衆は疑わなくなり、これによって難を免れた。赦令に遇って呉に帰ったが、父の生死がわからぬため、布衣に蔬食、交遊せずに十余年を過ごした。

原文王華字子陵,誕從祖弟也。祖薈,衛將軍、會稽內史。父廞,司徒右長史。晉安帝隆安初,王恭起兵討王國寶,時廞丁母憂在家。恭檄令起兵,廞即聚眾應之,以女為貞烈將軍,以女人為官屬。及國寶死,恭檄廞罷兵。廞起兵之際,多所誅戮,至是不復得已,因舉兵以討恭為名。恭遣劉牢之擊廞,廞敗走,不知所在。長子泰為恭所殺。華時年十三在軍中,與廞相失,隨沙門釋曇冰逃,使提衣襆從後,津邏咸疑焉。華行遲,曇冰罵曰:「奴子怠懈,行不及我。」以杖捶華數十,眾乃不疑,由此得免。遇赦還吳,以父存沒不測,布衣蔬食,不交遊者十餘年。

宋の武帝はその才能を用いようとし、王廞の喪を発し、王華に喪服を着せた。喪が明けると、武帝は長安を北伐し、鎮西将軍・北徐州刺史を兼ね、王華を州の主簿に召し出した。後に別駕となり、歴任の職で称賛された。文帝が江陵を鎮守したとき、西中郎主簿・諮議参軍となった。文帝はまだ政事に親しまず、すべて司馬の張邵に委ねていた。王華の性格は人を凌ぐことを好み、人が己の上に立つことを欲しなかった。張邵の性格は豪放で、往来するたびに常に車の両側に人を引き連れた。王華は出入りに牽車に乗り、従者は二、三人に過ぎず、これをもって張邵に対抗した。かつて道で出会ったとき、王華はあたかも張邵であることを知らないふりをして、左右に言った、「この鹵簿は甚だ盛んである。必ず殿下であろう」と。そこで牽車から降りて道端に立ち、張邵が到ると驚いたふりをした。張邵が白服で城に登ったことを、王華が糾弾し、張邵は罪に坐して召還され、王華が代わって司馬となった。

原文宋武帝欲收其才用,乃發廞喪,使華制服。服闋,武帝北伐長安,領鎮西將軍、北徐州刺史,辟華為州主簿。後為別駕,曆職著稱。文帝鎮江陵,為西中郎主簿、諮議參軍。文帝未親政事,悉委司馬張邵。華性尚物,不欲人在己前。邵性豪,每行來常引夾轂。華出入乘牽車,從者不過兩三人以矯之。嘗相逢,華陽若不知是邵,謂左右曰:「此鹵簿甚盛,必是殿下。」乃下牽車立於道側,及邵至乃驚。邵白服登城,為華所糾,邵坐被征,華代為司馬。

文帝が大統を奉じようとしたとき、少帝が害されたため、下向することを敢えてしなかった。王華は言った、「先帝は天下に大功があり、四海が服している。たとえ嗣主が綱紀を失っても、人望は変わっていない。徐羨之は中才の寒士、傅亮は布衣の諸生、晋の宣帝や王大将軍のような心があるわけではないことは明らかである。廬陵王(劉義真)の厳格な断行を恐れ、将来必ず自ら容れられないと考える。殿下は寛容で聡明、慈愛仁厚、天下に知られており、すでに越次して奉迎し、徳を見せようとしている。世間の論は、おそらく必ずそうではないだろう。羨之・亮・晦(謝晦)の三人はまた檀道済・王弘の五人と同功を求め、誰が肯って互いに譲ろうか。勢い必ずうまくいかない。今日征討に赴けば、万に一つの憂いもない」。帝はこれに従い、言った、「卿はまた我が宋昌となろうとするのか」。そこで王華を留めて後任を総括させた。

原文文帝將入奉大統,以少帝見害,不敢下。華曰:「先帝有大功于天下,四海所服。雖嗣主不綱,人望未改。徐羨之中才寒士,傅亮布衣諸生,非有晉宣帝、王大將軍之心明矣。畏廬陵嚴斷,將來必不自容。殿下寬叡慈仁,天下所知,已且越次奉迎,冀以見德,悠悠之論,殆必不然。羨之、亮、晦又要檀道濟、王弘五人同功,孰肯相讓,勢必不行。今日就征,萬無所慮。」帝從之,曰:「卿復欲為吾之宋昌矣。」乃留華總後任。

帝が即位すると、王華を侍中・右衛将軍とした。先に、会稽の孔甯子は文帝の鎮西諮議参軍となり、文義をもって賞賛されたが、このとき黄門侍郎となり、歩兵校尉を兼ねた。甯子は以前、何無忌の安成国の侍郎となり、東に帰って宅を建てる際、門が高蓋の車を通せるようにさせたので、隣里が笑った。甯子は言った、「大丈夫に常などあろうか」。甯子と王華はともに富貴を願い、羨之らが権力を執ってからは、日夜文帝に讒言した。甯子はかつて東に帰る途中、金昌亭に至り、左右が船を泊めようとしたが、甯子はそれをやめさせて言った、「これは君を殺す亭である。泊めることはできない」。王華は暇あるごとに詩を吟詠し、常に王粲の登楼賦を誦して言った、「王道の一たる平らかなるを冀い、高衢を仮りて力を騁けん」。出入りして羨之らに逢うたびに、毎度歯ぎしりして憤り叱り、嘆いて言った、「太平の時を見ることができようか」。元嘉二年、甯子が卒した。三年、羨之らを誅殺した。王華は護軍将軍に遷り、侍中はもとのまま。宋の世で王華と南陽の劉湛だけは飾り譲りをせず、官を得れば即座に拝命し、これを常とした。

原文上即位,以華為侍中、右衛將軍。先是,會稽孔甯子為文帝鎮西諮議參軍,以文義見賞,至是為黃門侍郎,領步兵校尉。甯子先為何無忌安成國侍郎,還東修宅,令門可容高蓋,鄰里笑之。甯子曰:「大丈夫何常之有。」甯子與華並有富貴之願,自羨之等執權,日夜構之于文帝。甯子嘗東歸至金昌亭,左右欲泊船,寧子命去之,曰:「此殺君亭,不可泊也。」華每閒居諷詠,常誦王粲登樓賦曰:「冀王道之一平,假高衢而騁力。」出入逢羨之等,每切齒憤叱,歎曰:「當見太平時否?」元嘉二年,寧子卒。三年,誅羨之等。華遷護軍將軍,侍中如故。宋世唯華與南陽劉湛不為飾讓,得官即拜,以此為常。

王華は事情が人と異なり、一度も宴会に参加しなかった。終生酒を飲まず、宴があっても赴かなかった。もし事を論じる者がいれば、車に乗って門を訪ね、主人が車のそばに出てきて話した。王弘が政を補佐するようになると、王弘の弟の王曇首は文帝に信任され、王華と肩を並べた。王華は常に己の力が十分に発揮されないと思い、毎度嘆いて言った、「宰相に突然数人もいれば、天下どうして安らかでいられようか」。四年に卒し、四十三歳。九年、羨之誅殺の功により、新建県侯を追封され、諡は宣といった。孝武帝が即位すると、文帝廟庭に配享された。

原文華以情事異人,未嘗預宴集。終身不飲酒,有宴不之詣。若有論事者,乘車造門,主人出車就之。及王弘輔政,而弘弟曇首為文帝所任,與華相埒。華常謂己力用不盡,每歎曰:「宰相頓有數人,天下何由得安?」四年卒,年四十三。九年,以誅羨之功,追封新建縣侯,諡曰宣。孝武即位,配享文帝廟庭。

子の定侯が嗣ぎ、卒した。子の王長が嗣いだが、母を罵った罪で爵を奪われ、王長の弟の王佟が詔により封ぜられた。斉が禅譲を受けると、封国は除かれた。

原文子定侯嗣,卒。子長嗣,坐罵母奪爵,以長弟佟詔封。齊受禪,國除。

王琨は、王華の従父弟である。父の王懌は菽麦も弁えず、当時は殷道矜の流れと見なされた。人は誰も婚姻を肯ぜず、家では獠婢の恭心に世話させたので、王琨が生まれた。初めは昆侖と名づけられたが、王懌が後に南陽の楽玄の女を娶り、子がなかったので、ただちに琨を名とし、嗣子とした。

原文琨,華從父弟也。父懌不辨菽麥,時以為殷道矜之流。人無肯與婚,家以獠婢恭心侍之,遂生琨。初名昆侖,懌後娶南陽樂玄女,無子,故即以琨為名,立以為嗣。

王琨は幼少より謹厳篤実で、従伯の司徒の王謐に愛された。宋の武帝が初め桓修の参軍であったとき、桓修は帝を厚く遇した。後に帝は事を謀って桓修を除こうとしたが、なお昔の恩顧を思い、王華に素門を訪ねさせ、二人の娘を嫁がせた。王華は王琨に長女を娶らせ、次女を潁川の庾敬度に嫁がせた。これも旧族である。王琨を郎中・駙馬都尉・奉朝請に任じた。

原文琨少謹篤,為從伯司徒謐所愛。宋武帝初為桓修參軍,修待帝厚。後帝以事計圖修,猶懷昔顧,使王華訪素門,嫁其二女。華為琨娶大女,以小女適潁川庾敬度,亦是舊族。除琨郎中、駙馬都尉、奉朝請。

先に、王琨の伯父の王廞が晋の世に罪を得て、諸子はみな誅殺に従い、ただ王華だけが免れた。王華は宋の世で貴盛となり、門が衰えたのを憐れみ、王琨を引き立て、恩は同生のごとくし、彼のために名声を広めた。宣城・義熙の太守を歴任し、いずれも廉潔倹約で称された。王華が没すると、また宋の文帝に託したので、王琨はたびたび清顕の職にあった。孝建年間、吏部郎となった。吏曹の選局では、貴要から多く嘱託があったが、王琨は公卿から士大夫に至るまで、例として両名の門生を用いた。江夏王の劉義恭がかつて王琨に二人を用いるよう嘱託したが、後にもう一度嘱託すると、王琨は許さないと答えた。

原文先是,琨伯父廞得罪晉世,諸子並從誅,唯華得免。華宋世貴盛,以門衰,提攜琨,恩若同生,為之延譽。歷位宣城、義熙太守,皆以廉約稱。華終,又托之宋文帝,故琨屢居清顯。孝建中,為吏部郎。吏曹選局,貴要多所屬請,琨自公卿下至士大夫,例為用兩門生。江夏王義恭嘗屬琨用二人,後復屬,琨答不許。

平越中郎将・広州刺史として出向し、都督を加えられた。南方の土地は肥沃で実り多く、在任中は常に巨富を得た。世に言う、広州刺史は城門を一度通るだけで、三千万を得るという。王琨は何も取り立てず、俸禄の半分を献上するよう上表した。鎮には旧来の鼓吹があったが、また返納を上啓した。罷任するとき、孝武帝はその清さを知り、帰還の資産がどれほどかと問うた。王琨は言った、「臣は宅を百三十万で買い、その他の物はこれに相当します」。帝はその答えを喜んだ。後に歴陽内史となった。上は王琨の忠実さにより、寵子の新安王の北中郎長史に転じさせた。再び度支尚書を歴任し、光禄大夫を加えられた。

原文出為平越中郎將、廣州刺史,加都督。南土沃實,在任常致巨富。世雲廣州刺史但經城門一過,便得三千萬。琨無所取納,表獻祿俸之半。鎮舊有鼓吹,又啟輸還。及罷任,孝武知其清,問還資多少?琨曰:「臣買宅百三十萬,餘物稱之。」帝悅其對。後為曆陽內史。上以琨忠實,徙為寵子新安王北中郎長史。再曆度支尚書,加光祿大夫。

初め、王琨の従兄の王華の孫の王長が王華の爵である新建県侯を襲い、酒を嗜み過失が多かったので、王琨は上表して、王長が基緒を傾けようとしているとし、王長の末弟の王佟を嗣がせるよう請うた。王琨は後に呉郡太守として出向し、中領軍に遷ったが、郡において朝舍の銭三十六万を用い、二宮や諸王に贈り物をし、また緋の襖を作って軍用に奉献した罪に坐し、光禄大夫に左遷された。まもなく太常及び金紫光禄大夫を加えられ、散騎常侍を加えられた。廷尉の虞和が社稷はそれぞれ一神であると議したが、王琨は旧例に照らして糾弾し、屈しなかった。当時、虞和は寵愛を受けていたが、朝廷は王琨の強直を嘆じた。

原文初,琨從兄華孫長襲華爵新建縣侯,嗜酒多愆失,琨表以長將傾基緒,請以長小弟佟嗣焉。琨後出為吳郡太守,遷中領軍,坐在郡用朝舍錢三十六萬,營餉二宮諸王及作絳襖奉獻軍用,左遷光祿大夫。尋加太常及金紫,加散騎常侍。廷尉虞和議社稷各一神,琨案舊糾駁,不為屈。時和見寵,朝廷歎琨強正。

明帝が臨終の際、会稽太守として出向させ、都督を加えられたが、誤って囚人を竟(死刑に処)した罪で、冠軍将軍に降格された。順帝が即位すると、右光禄大夫に進んだ。順帝が位を譲るとき、百官が列を陪したが、王琨は画輪車の獺尾にすがり慟哭して言った、「人は寿を以て歓びとす。老臣は寿を以て憂いとす。既に先駆けて蝼蟻となることができず、しばしばこの事を見る」。嗚咽して自ら勝えず、百官も人々涙を雨のごとく流した。

原文明帝臨崩,出為會稽太守,加都督,坐誤竟囚,降為冠軍。順帝即位,進右光祿大夫。順帝遜位,百僚陪列,琨攀畫輪獺尾慟泣曰:「人以壽為歡,老臣以壽為戚。既不能先驅螻蟻,頻見此事。」嗚噎不自勝,百官人人雨淚。

斉の高帝が即位すると、武陵王師を領し、侍中を加えられた。時に王儉が宰相であったが、琨に東海郡の迎吏を用いるよう命じた。琨は使者に告げて言うには、「郎(王儉)に伝えよ。三台五省は皆、郎が人を用いる所である。外方の小郡は、寒賤の者に乞うべきであり、省官がどうしてまたこれを奪うことができようか」と。遂にその事を通さなかった。まもなく王師を解かれた。高帝が崩御すると、琨は国諱(皇帝の死)を聞き、牛車が宅にないため、台(宮城)から数里の所で、遂に歩いて宮中に入った。朝士は皆言うには、「やはり車を待つべきであった。国望を損なう」と。琨は言うには、「今日の奔赴は、皆自ら応ずる所である」と。遂に病を得て卒し、左光禄大夫を追贈され、八十四歳であった。

原文齊高帝即位,領武陵王師,加侍中。時王儉為宰相,屬琨用東海郡迎吏,琨使謂曰:「語郎,三台五省,皆是郎用人,外方小郡,當乞寒賤,省官何容復奪之。」遂不過其事。尋解王師。及高帝崩,琨聞國諱,牛不在宅,去台數里,遂步行入宮。朝士皆謂曰:「故宜待車,有損國望。」琨曰:「今日奔赴,皆自應爾。」遂得病卒,贈左光祿大夫,年八十四。

琨は謙恭謹慎で、老いても変わらず、朝会には必ず早起きし、衣裳を点検し、冠や幘の数を数え、これを数回繰り返し、あるいは軽薄な者に笑われた。大明年間、尚書僕射の顔師伯は豪貴で、下省に女楽を設け、琨は時に度支尚書であったが、琨を誘って共に聴かせ、酒を伝え炙り肉を運ぶのは、皆内妓であった。琨は男女が親しく授受しないとして、伝わる度に、床の上に置かせ、顔を背けて避けてから取り、終わるとまた同じようにし、座中の者は皆手を打って嗤笑したが、琨の容色は自若としていた。師伯は後に楽を設けて琨を招いたが、琨は行かなかった。中領軍の劉勉は、晩年に隠退の志があり、表を上って東陽郡を求めた。尚書令の袁粲以下、これを称賛しない者はなかった。琨は言うには、「永初・景平の頃は、ただ謝晦・殷景仁が中領軍となり、元嘉には到彦之があり、人望と才誉があった。勉は及ばない。近ごろ侍中を加えられたと聞くが、すでに快々としている。すぐに東陽を求めるとは、臣は恐らく子房の赤松(の隠逸)は軽々しく擬すべきではないと思う」と。その剛直さはこのようであった。しかも財用には倹約で、酒を設けても二碗を過ぎず、すぐに言うには、「この酒は得難い」と。塩豉や薑蒜の類は、皆屏風に掛け、酒漿は全て床下に置き、内外の求めに応じて、琨は自ら与えた。景和年間、義陽王の劉昶を討つ時、六軍が戒厳し、紫標が必要となった。左右が調達しようとしたが、琨は言うには、「元嘉初年に謝晦を征した時、紫標が匣の中にある。改めて作る必要はない」と。調べて探すと果たして得られた。しかし避諱が甚だしく、父の名は懌、母の名は恭心で、共に犯すことができず、当時は皆、矯枉過正であると言った。

原文琨謙恭謹慎,老而不渝,朝會必早起,簡閱衣裳,料數冠幘,如此數四,或為輕薄所笑。大明中,尚書僕射顏師伯豪貴,下省設女樂,琨時為度支尚書,要琨同聽,傳酒行炙,皆悉內妓。琨以男女無親授,傳行每至,令置床上,回面避之然後取,畢又如此,坐上莫不撫手嗤笑,琨容色自若。師伯後為設樂邀琨,琨不往。中領軍劉勉,晚節有棲退志,表求東陽郡,尚書令袁粲以下莫不讚美之。琨曰:「永初、景平,唯謝晦、殷景仁為中領軍,元嘉有到彥之,為人望才譽,勉不及也。近聞加侍中,已為怏怏,便求東陽,臣恐子房赤松未易輕擬。」其鯁直如此。而儉於財用,設酒不過兩碗,輒云:「此酒難遇」。鹽豉薑蒜之屬,並掛屏風,酒漿悉置床下,內外有求,琨手自賦之。景和中,討義陽王昶,六軍戒嚴,應須紫標,左右欲營辦,琨曰:「元嘉初征謝晦,有紫標在匣中,不須更作。」檢取果得焉。而避諱過甚,父名懌,母名恭心,並不得犯焉,時咸謂矯枉過正。

王惠

原文王惠

王惠は字を令明といい、王誕の従祖弟である。祖父は王劭、車騎将軍。父は王默、左光禄大夫。

原文王惠字令明,誕從祖弟也。祖劭,車騎將軍。父默,左光祿大夫。

王惠は幼少より平易で簡素であり、叔父の司徒の王謐に知られた。恬静で交遊せず、雑事はなかった。陳郡の謝瞻は才弁があり風概があり、かつて兄弟や一族を率いて王惠を訪れ、談論が激しく起こり、文史の間に発せられた。王惠は時に応答し、言葉は清く道理は遠大で、謝瞻らは慚じて退いた。宋の武帝はその名を聞き、その従兄の王誕に問うと、王誕は言うには、「王惠は後進の秀才で、我が宗族の美である」と。すぐに行参軍とし、累遷して世子中軍長史となった。

原文惠幼而夷簡,為叔父司徒謐所知。恬靜不交遊,未嘗有雜事。陳郡謝瞻才辯有風氣,嘗與兄弟群從造惠,談論鋒起,文史間發,惠時相詶應,言清理遠,瞻等慚而退。宋武帝聞其名,以問其從兄誕,誕曰:「惠後來秀令,鄙宗之美也。」即以為行參軍,累遷世子中軍長史。

時に会稽内史の劉懐敬が郡に赴く時、見送りの者は都を傾け、王惠も別れに訪れた。帰りに従弟の王球の所に寄ると、王球が問うには、「さきほど何を見たか」と。王惠は言うには、「ただ人に逢ったと感じただけである」と。元より謝霊運と面識がなく、かつて言葉を交わしたことがある。謝霊運は弁博で、辞義が激しく起こったが、王惠は時機を見て後に言った。時に荀伯子が同席し、退いて人に告げて言うには、「謝霊運は確かに蕭散で直上するが、王郎は万頃の陂(広大な沼)のようである」と。かつて曲水の宴に臨み、風雨が急に至り、座者は皆逃げ散った。王惠はゆっくりと立ち上がり、平常と変わらず、濡れたからといって改めなかった。

原文時會稽內史劉懷敬之郡,送者傾都,惠亦造別。還過從弟球,球問:「向何所見?」惠言:「唯覺逢人耳。」素不與謝靈運相識,嘗得交言,靈運辯博,辭義鋒起,惠時然後言。時荀伯子在坐,退而告人曰:「靈運固自蕭散直上,王郎有如萬頃陂焉。」嘗臨曲水,風雨暴至,坐者皆馳散。惠徐起,不異常日,不以沾濡而改。

宋国が初めて建てられた時、郎中令を置くこととなり、武帝は適任者に難渋し、傅亮に言うには、「今郎中令を用いるには、袁曜卿(袁渙)に劣ってはならない」と。しばらくして言うには、「私はその人を得た。袁曜卿が独りその奇を擅にするわけにはいかない」と。そこで王惠をこれに任じた。

原文宋國初建,當置郎中令,武帝難其人,謂傅亮曰:「今用郎中令,不可減袁曜卿。」既而曰:「吾得其人矣,曜卿不得獨擅其奇。」乃以惠居之。

宋の少帝が即位すると、蔡廓を吏部尚書としたが、蔡廓は拝受を肯んぜず、そこで王惠を代わりとした。王惠は召されるとすぐに拝受し、一度も客に接しなかった。人が手紙を送って官を求めるものがあれば、得るや閣上に集め、職を去る時には、印の封は元のままであった。当時、蔡廓が拝さず王惠がすぐに拝したことを、事は異なるが意は同じであるとした。

原文宋少帝即位,以蔡廓為吏部尚書,不肯拜,乃以惠代焉。惠被召即拜,未嘗接客。人有與書求官,得輒聚閣上,及去職,印封如初。時以廓不拜惠即拜,事異而意同也。

兄の王鑑は頗る聚斂を好んだが、王惠は意を異にし、言うには、「田を何に用いるのか」と。王鑑は怒って言うには、「田がなければどうして食を得られようか」と。王惠はまた言うには、「食を何に用いるのか」と。その標榜と寄託はこのようであった。卒し、太常を追贈された。子がなかった。

原文兄鑒頗好聚斂,惠意不同,謂曰:「何用田為?」鑒怒曰:「無田何由得食。」惠又曰:「何用食為?」其標寄如此。卒,贈太常,無子。

王球は字を蒨玉といい、司徒の王謐の子で、王惠の従父弟である。幼少より王惠と齊名した。宋の武帝が天命を受けると、太子中舎人、宜都王友となり、転じて諮議参軍となった。文帝が即位すると、王弘兄弟は朝廷で貴顕であったが、王球は終日端拱し、一度も往来せず、王弘もまた雅にこれを敬った。歴任して侍中、中書令、吏部尚書となった。時に中書舎人の徐爰が上(文帝)の寵愛を受け、上はかつて王球と殷景仁に命じて彼と知り合いになるよう言った。王球は辞して言うには、「士と庶の区別は、国の章である。臣は詔を奉ずることはできません」と。上は顔色を改めて謝した。

原文球字蒨玉,司徒謐之子、惠從父弟也,少與惠齊名。宋武帝受命,為太子中舍人,宜都王友,轉諮議參軍。文帝即位,王弘兄弟貴動朝廷,球終日端拱,未嘗相往來,弘亦雅敬之。歷位侍中,中書令,吏部尚書。時中書舍人徐爰有寵於上,上嘗命球及殷景仁與之相知。球辭曰:「士庶區別,國之章也。臣不敢奉詔。」上改容謝焉。

王球は簡素で貴勢を尊び、交遊せず、筵席は虚静で、門に異なる客はなかった。王曇首は常に言うには、「蒨玉もまた玉卮に当(底)がないようなものだ」と。まもなく尚書僕射の殷景仁、領軍将軍の劉湛が共に重権を執り、内外を傾動させたが、王球は通家の姻戚であっても、一度も往来しなかった。選職に居り、客に接することは甚だ稀で、官を求める書疏を見ず、しかも銓衡は秩序があった。光禄大夫に遷り、廬陵王師を領した。

原文球簡貴勢,不交遊,筵席虛靜,門無異客。曇首常云:「蒨玉亦是玉卮無當耳。」既而尚書僕射殷景仁、領軍將軍劉湛並執重權,傾動內外,球雖通家姻戚,未嘗往來。居選職,接客甚稀,不視求官書疏,而銓衡有序。遷光祿大夫,領廬陵王師。

時に大將軍の彭城王劉義康は専ら政事を本とし、刀筆の幹練な者は多く意遇を受けた。劉湛に言うには、「王敬弘、王球の類は、果たして何を施すことができようか。自ら富貴であるだけで、またどうして解せられようか」と。王球の兄の子の王履は深く劉湛と結び、誠を劉義康と劉斌らに委ねた。王球は毎度訓戒したが、受け入れられなかった。大將軍從事中郎から太子中庶子に転じたが、涙を流して劉義康に訴え、離れることを望まず、故に再び從事中郎となった。文帝は甚だこれを恨んだ。劉湛を誅した夜、王履は徒跣で王球に告げた。王球は命じて履を取らせ、先に温酒を与え、言うには、「常日、汝に何と言ったか」と。王履は怖れて答えることができなかった。王球はゆっくりと言うには、「阿父がいる。汝は何を憂うるか」と。左右に命じて郎(王履)を扶けて斎舎に還らせた。上もまた王球の故に、王履は死を免れ家に廢された。

原文時大將軍彭城王義康專以政事為本,刀筆幹練者多被意遇。謂劉湛曰:「王敬弘、王球之屬,竟何所堪施?為自富貴,復那可解。」球兄子履深結劉湛,委誠義康與劉斌等。球每訓厲,不納。自大將軍從事中郎轉太子中庶子,流涕訴義康不願違離,故復為從事中郎。文帝甚銜之。及誅湛之夕,履徒跣告球。球命為取履,先溫酒與之,謂曰:「常日謂汝何?」履怖不得答。球徐曰:「阿父在,汝何憂。」命左右扶郎還齋,上亦以球故,履免死廢於家。

殷景仁が卒すると、王球は尚書僕射に除され、王師は元のままとした。平素より脚疾があり、病多くして家に還り、朝直は極めて少なかった。録尚書の江夏王劉義恭は尚書の何尚之に言うには、「当今は才に乏しく、群下は力を加えるべきであるのに、王球がこのように放恣である。法をもって糾すべきである」と。何尚之は言うには、「王球には素より尚ぶ所があり、また多く疾を抱えている。公は淡退をもってこれを求めるべきであり、文案をもって責めることはできません」と。劉義恭はまた面と向かって文帝に啓上して言うには、「王球は確かに素より誉れがあり、頗る物外を自ら任じています。端任で要切な職は、あるいはその長所ではないかもしれません」と。帝は言うには、「確かにその通りであるが、要するに時望の帰する所である。昔、周伯仁(周顗)は終日飲酒しながらこの任に居た。それは素徳を崇ぶためである」と。遂に優容された。後に白衣のまま職を領した。十八年、卒し、時に四十九歳。特進、金紫光禄大夫を追贈された。子がなく、従孫の王奐が後を継いだ。

原文殷景仁卒,球除尚書僕射,王師如故。素有腳疾,多病還家,朝直至少。錄尚書江夏王義恭謂尚書何尚之曰:「當今乏才,群下宜加戮力,而王球放恣如此,宜以法糾之。」尚之曰:「球有素尚,加又多疾,公應以淡退求之,未可以文案責也。」義恭又面啟文帝曰:「王球誠有素譽,頗以物外自許。端任要切,或非所長。」帝曰:「誠知如此,要是時望所歸。昔周伯仁終日飲酒而居此任,蓋所以崇素德也。」遂見優容。後以白衣領職。十八年,卒,時年四十九。贈特進、金紫光祿大夫。無子,從孫奐為後。

王彧

原文王彧

王彧は字を景文といい、王球の従子である。祖父の穆は字を伯遠といい、司徒の謐の長兄で、臨海太守の位にあった。父の僧朗は、宋に仕えて尚書右僕射の位にあり、明帝の初め、后父として特進を加えられ、開府儀同三司を追贈され、諡は元公といった。彧の名は明帝の諱と同じであったので、字をもって行世した。伯父の智は若くして簡素で尊く、高い名声があり、宋の武帝は大いにこれを重んじた。常に言うには、「王智を見ると人をして仲祖を思わしめる」と。武帝が劉穆之とともに劉毅を討ったとき、智はそこにいた。ある日、穆之が武帝に申し上げて言うには、「国を伐つは重事です。公はどうして王智に知らせたのですか」と。武帝は笑って言った、「この人は高潔で簡素である。どうしてこの輩の論議を聞くことがあろうか」と。そのように見知られていた。宋国の五兵尚書となり、建陵県五等子に封ぜられ、太常を追贈された。

原文王彧字景文,球從子也。祖穆字伯遠,司徒謐之長兄,位臨海太守。父僧朗,仕宋位尚書右僕射,明帝初,以後父加特進,贈開府儀同三司,諡元公。彧名與明帝諱同,故以字行。伯父智少簡貴,有高名,宋武帝甚重之。常言:「見王智使人思仲祖」。武帝與劉穆之討劉毅而智在焉,他日,穆之白武帝曰:「伐國重事,公言何乃使王智知。」武帝笑曰:「此人高簡,豈聞此輩論議。」其見知如此。為宋國五兵尚書,封建陵縣五等子,追贈太常。

智には子がなかったので、父の僧朗が景文を智の後継ぎとした。幼い頃から従叔の球に知られ可愛がられた。風姿が美しく、当時に推されて謝された。袁粲がこれを見て嘆じて言うには、「景文はただ風流で喜ばしいばかりでなく、飲食の仕方もまた見るべきものがある」と。ある客が若い頃謝混を見たことがあり、答えて言うには、「景文を謝叔源と比べれば、野人に過ぎません」と。粲はしばらくの間惆悵として、言うには、「恨むらくは眼中にこの人を見ないことだ」と。

原文智無子,故父僧朗以景文繼智。幼為從叔球所知憐。美風姿,為一時推謝。袁粲見之歎曰:「景文非但風流可悅,乃哺歠亦復可觀。」有一客少時及見謝混,答曰:「景文方謝叔源,則為野父矣。」粲惆悵良久,曰:「恨眼中不見此人。」

景文は理を言うことを好み、若い頃は陳郡の謝荘と名声を並べた。文帝はかつて群臣と天泉池に臨み、帝は釣り糸を垂れて久しく獲るところがなかった。景文が席を越えて言うには、「臣は思いますに、釣り糸を垂れる者は清廉であるので、貪欲な餌にはかからないのです」と。衆みな称善した。文帝は大いに欽重し、故に明帝に景文の妹を娶らせ、そして景文の名をもって明帝の名とした。武帝の第五女の新安公主は先に太原の王景深に嫁いだが、離絶し、景文に嫁がせようとした。景文は病を理由に固く辞したので、婚姻は成らなかった。建陵子の爵を襲いだ。元凶は黄門侍郎に任じようとしたが、就任しないうちに、孝武帝が入って討った。景文は密使を遣わして帰順を申し出た。父が都下にいたため、身を致すことができず、事が平定された後、かなり嫌疑をかけられ責められた。なお旧恩により、累遷して司徒左長史となった。

原文景文好言理,少與陳郡謝莊齊名。文帝嘗與群臣臨天泉池,帝垂綸良久不獲。景文越席曰:「臣以為垂綸者清,故不獲貪餌。」眾皆稱善。文帝甚相欽重,故為明帝娶景文妹而以景文之名名明帝。武帝第五女新安公主先適太原王景深,離絕,當以適景文,景文固辭以疾,故不成婚。襲爵建陵子。元凶以為黃門侍郎,未及就,孝武入討,景文遣間使歸款。以父在都下,不獲致身,事平,頗見嫌責。猶以舊恩,累遷司徒左長史。

上は、散騎常侍が旧来侍中とともに献替を掌るものとして、その選を高くしようとし、景文と会稽の孔覬をともに南北の声望ある者としてこれを補った。まもなくまた司徒左長史となった。姉の墓が開かれても臨赴しなかったことを理由に、官を免ぜられた。後に侍中・射声校尉領・左衛將軍に拝され、給事中・太子中庶子を加えられた。奉朝請の毛法因と蒱戯をして百二十万銭を得た罪により、白衣のまま職を領することとなった。

原文上以散騎常侍舊與侍中俱掌獻替,欲高其選,以景文及會稽孔覬俱南北之望以補之。尋復為司徒左長史。以姊墓開不臨赴,免官。後拜侍中、領射聲校尉、左衛將軍,加給事中、太子中庶子。坐與奉朝請毛法因蒱戲得錢百二十萬,白衣領職。

景和元年、尚書右僕射となった。明帝が即位すると、左衛將軍領を加えられ、まもなく丹陽尹を加えられた。父の憂に遭い、起復して尚書左僕射・丹陽尹となったが、僕射を固辞した。出て江州刺史となり、都督を加えられ、服闋してから詔を受けた。江安県侯に封ぜられたが、固く譲って許されなかった。後に徴されて尚書左僕射・吏部領・揚州刺史となり、太子詹事を加えられた。朝廷に還ることを望まず、湘州を求めたが、許されなかった。当時また、景文が江州で己を潔く保てなかったと言われた。景文は上のお気に入りの臣である王道隆に手紙を送り、深く自ら申し開きをした。

原文景和元年,為尚書右僕射。明帝即位,加領左衛將軍,尋加丹陽尹。遭父憂,起為尚書左僕射、丹陽尹,固辭僕射。出為江州刺史,加都督,服闋乃受詔。封江安縣侯,固讓不許。後徵為尚書左僕射、領吏部、揚州刺史,加太子詹事。不願還朝,求為湘州,不許。時又謂景文在江州不能潔己,景文與上幸臣王道隆書,深自申理。

景文はたびたび内への授任を辞した。上は手詔を下して譬えて言うには、「尚書左僕射は、卿はすでにこの任を経ている。東宮詹事は用人こそ美しいが、職次は政において中書令に比べられるに過ぎない。庶姓で揚州を為す者は、徐幹木(徐羨之)・王休元(王弘)・殷鉄(殷景仁)がみなこれを処して辞さなかった。卿の清令な才望は、何ぞ休元に愧じることがあろうか。中興を輔賛することは、何ぞ幹木に謝することがあろうか。綢繆として相与することは、何ぞ殷鉄に後れることがあろうか。司徒は宰相として神州を帯びるべきではないとし、遠く先旨に遵い、京口は郷基として義重く、畿内に密邇しているので、また驃騎を用いざるを得なかった。陝西の任は要であり、由來宗室を用いる。驃騎が既に去ったので、巴陵(劉休若)が理としてこれに居るべきである。中流は閑地とはいうものの、三江を控え帯び、荊・郢に通接し、経路の要として、由來重鎮があった。このようであれば、揚州は自ずから刺史を欠くことになる。卿もし辞するならば、便ち誰がこれに処すべきか知れない。この選は大いに公卿と疇懐を備えたものであって、聊爾なものではない」と。詹事と選を領することを固辞し、徙って中書令となり、常侍・僕射・揚州刺史はもとのままとした。また中書監に進み、太子太傅を領し、常侍・揚州刺史はもとのままとした。景文は太傅を固辞したが、上は新たに除された尚書右僕射の褚彥回に旨を宣させ、已むを得ず拝受した。

原文景文屢辭內授,上手詔譬之曰:「尚書左僕射,卿已經此任,東宮詹事用人雖美,職次政可比中書令耳。庶姓作揚州,徐幹木、王休元、殷鐵並處之不辭,卿清令才望,何愧休元,毗贊中興,豈謝幹木,綢繆相與,何後殷鐵邪?司徒以宰相不應帶神州,遠遵先旨,京口鄉基義重,密邇畿內,又不得不用驃騎。陝西任要,由來用宗室,驃騎既去,巴陵理應居之,中流雖曰閑地,控帶三江,通接荊、郢,經塗之要,由來有重鎮。如此,則揚州自成闕刺史。卿若有辭,便不知誰應處之。此選大備與公卿疇懷,非聊爾也。」固辭詹事、領選,徙為中書令,常侍、僕射、揚州如故。又進中書監,領太子太傅,常侍、揚州如故。景文固辭太傅,上遣新除尚書右僕射褚彥回宣旨,不得已乃受拜。

当時、太子および諸皇子はみな幼く、上は次第に身後の計を為し、諸将帥の呉喜・寿寂之の徒は、幼主を奉じられないことを慮り、みなこれを殺した。そして景文は外戚として貴盛であり、張永は累ねて軍旅を経ており、またその将来信じ難いことを疑い、自ら謡言を作って言うには、「一士は親しむべからず、弓長は人を射殺す」と。一士は王の字で、景文を指し、弓長は張の字で、張永を指す。景文はますます懼れ、自ら上疏して揚州の任を解くことを求めた。詔が答えて言うには、

原文時太子及諸皇子並小,上稍為身後計,諸將帥吳喜、壽寂之之徒,慮其不能奉幼主,並殺之。而景文外戚貴盛,張永累經軍旅,又疑其將來難信,乃自為謠言曰:「一士不可親,弓長射殺人。」一士王字,指景文,弓長張字,指張永。景文彌懼,乃自陳求解揚州。詔答曰:

人が貴要に居るのは、ただ心がどうであるかを問うのみである。大明の世、巣(巣尚之)・徐(徐爰)・二戴(戴法興・戴明寶)の位は執戟を過ぎず、権は人主に亢した。顔師伯は白衣の僕射でありながら、尚書省中を横行した。袁粲が僕射として選を領した時、人は往々にして粲のいることを知らなかった。粲が令に遷っても、居て疑わなかった。今は既に省録(録尚書事)を省いているので、令は昔の録の任に居り、省事や幹僮を置くのも、みな録の格に依っている。粲が令となってからも、僕射であった時と異ならなかった。人情が粲に向かっても、淡としてまた常を改めなかった。このようにして貴位要任に居るのに、憂い兢ることを致すべきであろうか。卿は今たとえ揚州・太子太傅を為しても、位は貴いが朝政に関わらず、安んじて懼れず、粲よりもましである。卿は虚心に栄を受け、有っても累とならない。貴高なれば危殆の懼れがあり、卑賤なれば溝壑の憂いがある。張(張儀)と単(蘇秦)はともに災いし、木(材木)と雁(雁鶩)は両方とも失う。禍を避けることに心を用いるよりは、運に任せることに心を用いない方がよい。千仞の木は、既に斧斤によって摧かれ、一寸の草もまた踐蹋によって悴む。高崖の修幹と、深谷の浅條と、存亡の要は、巨細一揆である。晋の将の畢萬は七戦みな獲るところがあったが、牖下に死んだ。蜀の相の費禕は従容として坐談していたが、刺客に斃れた。故に危を履むことを甘心すれば、必ずしも禍に逢うとは限らず、安に処することを意のままにすれば、必ずしも福を全うするとは限らない。ただ貴者は自らを惜しむので、常にその身を憂え、賤者は自らを軽んじるので、容易にその己を忘れる。しかし教える者は常に貴を誡めて賤を誡めず、その貴満して好んで自ら恃むことを言うのである。およそ名位が貴達すれば、人はこれを心に留め、泰であれば人に触れて容を改めさせ、否であれば行路の人が嗟愕する。賤者に至っては、否泰は人を動かすに足らず、存亡は数に掛けるに足らず、溝瀆に死に、塗路に困する者は、天地の間にまた何限があろうか、人は意に繫がないだけである。これを推して、貴は何としても難しく処すべきであり、賤は何としても安易であろうか。ただ人生は自ずから卑慎を道とすべきであり、己を行い心を用いるには、務めて謹んで惜しむことを思うべきである。

原文人居貴要,但問心若為耳。大明之世,巢、徐二戴位不過執戟,權亢人主;顏師伯白衣僕射,橫行尚書中。袁粲作僕射領選,而人往往不知有粲。粲遷為令,居之不疑。今既省錄,令便居昔之錄任,置省事及幹僮,並依錄格。粲作令來亦不異為僕射,人情向粲,淡然亦復不改常。以此居貴位要任,當有致憂兢不?卿今雖作揚州、太子太傅,位雖貴而不關朝政,可安不懼,差於粲也。卿虛心受榮,有而不為累。貴高有危殆之懼,卑賤有溝壑之憂,張單雙災,木雁兩失。有心于避禍,不如無心于任運。夫千仞之木,既摧於斧斤,一寸之草,亦悴於踐蹋。高崖之修幹,與深谷之淺條,存亡之要,巨細一揆耳。晉將畢萬七戰皆獲,死於牖下,蜀相費禕從容坐談,斃于刺客。故甘心于履危,未必逢禍,縱意于處安,不必全福。但貴者自惜,故每憂其身,賤者自輕,故易忘其己。然為教者每誡貴不誡賤,言其貴滿好自恃也。凡名位貴達,人以存懷,泰則觸人改容,否則行路嗟愕。至如賤者,否泰不足以動人,存亡不足以絓數,死於溝瀆,困于塗路者,天地之間,亦復何限,人不系意耳。以此而推,貴何必難處,賤何必易安。但人生自應卑慎為道,行己用心,務思謹惜。

およそ吉凶の大期は、正しく理運に委ねるべきである。遭うこと随うこと参差たるは、命によらざるはなし。既に聖人にあらざれば、吉凶の先を見ること能わず、ただ理に依俙して、言うべく行うべきを為すのみ。吉を得るはこれ命の吉、不吉に遇うはこれ命の凶なり。近き事を以てこれを論ずれば、景和の世、晉平庶人(劉子勛)寿陽より乱朝に帰す、人皆これがために戦慄す、しかるに乃ち中興の運に遇う。袁顗禍を避けんと図りて襄陽にあり、当時皆これを羨み、これをもって陵霄の駕鳳と謂う、遂に義嘉(劉子勛)とともに滅ぶ。駱宰狂主(前廃帝劉子業)に見え、人に語りて言う、「越王(勾践)は長頸鳥喩、ともに憂いを共にすべく、ともに楽しみを共にすべからず。范蠡去りて身を全うし、文種留まりて禍に遇う。今主上、口頸頗る越王の状あり、我尚書中に久しく在り、去らざれば必ず危うからん」。遂に南江の小県を求む。諸都の令史京師に住する者は、皆中興の慶に遭い、人々爵級を蒙る。宰は義嘉に染まりて罪に逢い、金木(枷鎖)身に纏わり、性命幾くんぞ絶えんとす。卿が耳目に聞き見る所、安危は運に在り、何ぞ豫め図るべけんや。

原文若乃吉凶大期,正應委之理運。遭隨參差,莫不由命也。既非聖人,不能見吉凶之先,正是依俙於理,言可行而為之耳。得吉者是其命吉,遇不吉者是其命凶。以近事論之:景和之世,晉平庶人從壽陽歸亂朝,人皆為之戰慄,而乃遇中興之運。袁顗圖避禍於襄陽,當時皆羨之,謂為陵霄駕鳳,遂與義嘉同滅。駱宰見狂主,語人言:「越王長頸鳥喙,可與共憂,不可共樂。范蠡去而全身,文種留而遇禍。今主口頸頗有越王之狀,我在尚書中久,不去必危」。遂求南江小縣。諸都令史住京師者,皆遭中興之慶,人人蒙爵級;宰逢義嘉染罪,金木纏身,性命幾絕。卿耳目所聞見,安危在運,何可豫圖邪?

上(明帝)既に疾あり、而して諸弟並びに已に見殺さる。唯だ桂陽王休范は人才本より劣り、疑われず、出でて江州刺史と為る。慮うに一旦晏駕すれば、皇后朝に臨み、則ち景文自然に宰相と成り、門族強盛、元舅の重きを藉り、歳暮には純臣たらざるを。泰豫元年春、上疾篤く、使いを遣わし薬を送りて景文を賜い死せしむ。使いに謂いて曰く、「朕卿に罪有りと謂わず、然れども吾独り死する能わず、請う子先んぜよ」。因りて手詔して曰く、「卿と周旋し、卿が門戸を全うせんと欲す、故に此の処分有り」。勅の至れる夜、景文政に客と棋を打ち、函を扣いて看、復た封を還して局の下に置き、神色怡然として変ぜず。方に客と棋を打ち行を思いて劫を争い竟え、子を斂めて奩に内め畢り、徐ろに客に謂いて曰く、「勅を奉り見賜わりて死せしむ」。方に勅を以て客に示す。酒至れども未だ飲まず、門客焦度側に在り、憤怒して酒を発し地に覆して曰く、「大丈夫安んぞ坐して死を受くべけんや。州中の文武数百人に足る、以て一奮すべし」。景文曰く、「卿が至心を知る。若し我を念う者あらば、我が百口の為に計らえ」。乃ち墨啓して勅に答え、並びに詔を贈りて謝す。酌みて客に謂いて曰く、「此の酒は相勧むべからず」。自ら仰いでこれを飲む。時に年六十。開府儀同三司を追贈し、諡して懿と曰う。長子は絢。

原文上既有疾,而諸弟並已見殺;唯桂陽王休范人才本劣,不見疑,出為江州刺史。慮一旦晏駕,皇后臨朝,則景文自然成宰相,門族強盛,藉元舅之重,歲暮不為純臣。泰豫元年春,上疾篤,遣使送藥賜景文死,使謂曰:「朕不謂卿有罪,然吾不能獨死,請子先之。」因手詔曰:「與卿周旋,欲全卿門戶,故有此處分。」敕至之夜,景文政與客棋,扣函看,復還封置局下,神色怡然不變。方與客棋思行爭劫竟,斂子內奩畢,徐謂客曰:「奉敕見賜以死。」方以敕示客。酒至未飲,門客焦度在側,憤怒發酒覆地曰:「大丈夫安能坐受死。州中文武可數百人,足以一奮。」景文曰:「知卿至心;若見念者,為我百口計。」乃墨啟答敕,並謝贈詔。酌謂客曰:「此酒不可相勸。」自仰而飲之。時年六十。追贈開府儀同三司,諡曰懿。長子絢。

絢は字を長素と為し、早くに慧きり。年五六歳、論語を読んで「周は二代に監みる」に至り、外祖父何尚之これに戯れて曰く、「『耶耶乎文哉』と改むべし」。絢声に応えて答えて曰く、「尊者之名、安んぞ戯るべけんや、寧ろ草翁之風必ず舅と道うべけんや」。長ずるに及び、志を篤くして学を好む。位は秘書丞。景文に先んじて卒す。諡して恭世子と曰う。絢の弟は繢。

原文絢字長素,早惠。年五六歲,讀論語至「周監於二代」,外祖何尚之戲之曰:「可改耶耶乎文哉。」絢應聲答曰:「尊者之名,安可戲,寧可道草翁之風必舅?」及長,篤志好學。位秘書丞。先景文卒,諡曰恭世子。絢弟繢。

繢は字を叔素と為し、弱冠にして秘書郎・太子舎人、転じて中書舎人と為る。景文はこれをもって超階を授け、繢に経年して乃ち受けしむ。景文江安侯に封ぜられ、繢その本爵を襲いて始平県五等男と為る。元徽の末、黄門郎、東陽太守と為る。

原文繢字叔素,弱冠秘書郎、太子舍人,轉中書舍人。景文以此授超階,令繢經年乃受。景文封江安侯,繢襲其本爵為始平縣五等男。元徽末,為黃門郎,東陽太守。

斉の武帝撫軍たりし時、吏部尚書張岱繢を選びて長史と為し、選牒を呈す。高帝笑いて曰く、「此れ素望と謂うべし」。再び義興太守に遷り、輒ち郡吏陳伯喜を録して陽羨の獄に付し、これを殺さんと欲す。県令孔逭何の罪なるかを知らず、繢の教えを受けず。有司に奏せられ、白衣として職を領するに坐す。後に長く侍中を兼ぬ。武帝雉を射に出づ。繢は佛法を信じ、疾を称して従わず。永元元年、太常にて卒す。諡して靖子と曰う。

原文齊武帝為撫軍,吏部尚書張岱選繢為長史,呈選牒,高帝笑曰:「此可謂素望。」再遷義興太守,輒錄郡吏陳伯喜付陽羨獄,欲殺之,縣令孔逭不知何罪,不受繢教,為有司奏,坐白衣領職。後長兼侍中。武帝出射雉,繢信佛法,稱疾不從。永元元年,卒于太常,諡靖子。

繢の女は武帝の寵子安陸王子敬に適す。永明二年妃を納れ、外舅姑の敬を修む。武帝文惠太子を遣わし相随いて繢の家に往かしめ、酒を置き楽を設く。公卿皆冠冕して去り、当世これを栄しとす。

原文繢女適武帝寵子安陸王子敬,永明二年納妃,修外舅姑之敬。武帝遣文惠太子相隨往繢家,置酒設樂,公卿皆冠冕而去,當世榮之。

繢の弟は約。斉の明帝の世、数年廃錮せらる。梁の武帝の時、太子中庶子と為り、嘗て約に謂いて曰く、「卿方に富貴たるべく、必ず久しく滞屈せしめられじ」。及び帝輔政と為り、謂いて曰く、「我嘗て卿を相して富貴たるべしとし、言わざりき卿今日富貴便ち当に見由さるべしと」。歴て侍中、左戸尚書、廷尉と為る。

原文繢弟約,齊明帝世數年廢錮。梁武帝時為太子中庶子,嘗謂約曰:「卿方當富貴,必不容久滯屈。」及帝作輔,謂曰:「我嘗相卿當富貴,不言卿今日富貴便當見由。」曆侍中,左戶尚書,廷尉。

繢の長子は雋。慧からず、位は建安太守に止まる。

原文繢長子雋,不慧,位止建安太守。

雋の子は克。克は容貌美しく、容止善くし、梁に仕え歴て司徒右長史・尚書僕射と為る。台城陥ち、侯景に仕え、位は太宰・侍中・録尚書事。景敗れ、克王僧辯を迎え候う。僧辯克に問いて曰く、「労事す夷狄の君」。克対うること能わず。次に璽紱の何くに在るかを問う。克黙然として良久くして曰く、「趙平原将ち去らん」。平原は名を思賢と曰い、景の腹心なり。景平原太守を授く、故に克かく呼ぶ。僧辯乃ち克を誚して曰く、「王氏百世の卿族、便ち一朝にして墜つ」。陳に仕え、位は尚書右僕射。

原文雋子克。克美容貌,善容止,仕梁曆司徒右長史、尚書僕射。台城陷,仕侯景,位太宰、侍中、錄尚書事。景敗,克迎候王僧辯,問克曰:「勞事夷狄之君」,克不能對。次問璽紱何在?克默然良久曰:「趙平原將去。」平原名思賢,景腹心也,景授平原太守,故克呼焉。僧辯乃誚克曰:「王氏百世卿族,便是一朝而墜。」仕陳,位尚書右僕射。

蘊は字を彦深と為し、彧の兄の子なり。父は楷、太中大夫。楷は人才凡劣なり、故に蘊は群従に礼せられず、常に恥慨を懐く。家貧しく、広徳令と為る。明帝即位し、四方叛逆す。将領を以て自ら奮わんと欲し、毎に刀を撫でて曰く、「龍泉太阿、汝我を知る者」。叔父景文常にこれを誡めて曰く、「阿荅、汝我が門戸を滅ぼさん」。蘊曰く、「荅と童烏とは貴賤異なり」。童烏は絢の小字、荅は蘊の小字なり。及び事寧ぎ、吉陽男に封ぜらる。歴て晋陵・義興太守と為り、蒞む所並びに貪縦なり。後に給事黄門侍郎と為る。

原文蘊字彥深,彧兄子也。父楷,太中大夫。楷人才凡劣,故蘊不為群從所禮,常懷恥慨。家貧,為廣德令。明帝即位,四方叛逆,欲以將領自奮,每撫刀曰:「龍泉太阿,汝知我者。」叔父景文常誡之曰:「阿荅,汝滅我門戶。」蘊曰:「荅與童烏貴賤異。」童烏,絢小字,荅,蘊小字也。及事甯,封吉陽男。曆晉陵、義興太守,所蒞並貪縱。後為給事黃門侍郎。

桂陽(王休范)の逼るや、王道隆乱兵に殺さる。蘊は力戦し、重創を御溝の側に受け、或いは扶けられて免る。事平ぎ、撫軍長史褚澄は呉郡太守と為る。司徒左長史蕭惠明朝に言いて曰く、「褚澄は城を開きて賊を納れ、更に股肱の大郡と為る。王蘊は甲を被り死戦し、棄てて収めず。賞罰かくの如くんば、何ぞ乱れざるを憂えん」。褚彦回慚じ、乃ち蘊を用いて湘州刺史と為すを議す。及び斉の高帝輔政す、蘊は沈攸之と謀を連ね、事敗れ、秣陵市に斬らる。

原文桂陽之逼,王道隆為亂兵所殺,蘊力戰,重創禦溝側,或扶以免。事平,撫軍長史褚澄為吳郡太守,司徒左長史蕭惠明言於朝曰:「褚澄開城以納賊,更為股肱大郡,王蘊被甲死戰,棄而不收,賞罰如此,何憂不亂!」褚彥回慚,乃議用蘊為湘州刺史。及齊高帝輔政,蘊與沈攸之連謀,事敗,斬於秣陵市。

奐は字を道明と為し、彧の兄の子なり。父は粹、字は景深、位は黄門侍郎。奐は従祖の球を継ぐ、故に小字を彦孫と為す。年数歳、常に球の許に侍し、甚だ愛せらる。奐の諸兄は諸王国常侍より出身す、而して奐は著作佐郎より起家す。琅邪の顔延之は球と情款稍く異なり、常に奐の背を撫でて曰く、「阿奴始めて寒士を免る」。

原文奐字道明,彧兄子也。父粹字景深,位黃門侍郎。奐繼從祖球,故小字彥孫。年數歲,常侍球許,甚見愛。奐諸兄出身諸王國常侍,而奐起家著作佐郎。琅邪顏延之與球情款稍異,常撫奐背曰:「阿奴始免寒士。」

奐は少にして強済、叔父景文常に家事をこれに委ぬ。宋に仕え歴て侍中、祠部尚書、転じて吏部を掌る。升明初、丹陽尹に遷る。初め、王晏の父普曜は沈攸之の長史たり、常に攸之の事を挙ぐるを懼れ、還るを得ず。奐吏部たりし時、普曜を転じて内職と為す。晏深くこれに徳す。及び晏斉に仕え、武帝は奐を宋室外戚とし、而して従弟の蘊又同じく逆を為すを以て、異意有るを疑う。晏頭を叩いて奐に異志無きを保つ。時に晏の父母都に在り、請うて以て質と為さんとす。武帝乃ち止む。

原文奐少而強濟,叔父景文常以家事委之。仕宋曆侍中,祠部尚書,轉掌吏部。升明初,遷丹陽尹。初,王晏父普曜為沈攸之長史,常懼攸之舉事,不得還,奐為吏部,轉普曜為內職,晏深德之。及晏仕齊,武帝以奐宋室外戚,而從弟蘊又同逆,疑有異意,晏叩頭保奐無異志。時晏父母在都,請以為質,武帝乃止。

永明年間(斉の武帝の年号)、累進して尚書右僕射となった。王儉が没すると、上(武帝)は王奐を尚書令に用いようとし、王晏に意見を問うた。王晏は既に高位重遇を得ており、王奐を推挙する気はなく、答えて言うには、「柳世隆は勲功と声望があり、おそらく王奐の後位とするのは適切ではありますまい」と。そこで左僕射に転じ、給事中を加えられた。外任として雍州刺史となり、都督を加えられた。甯蠻長史の劉興祖と不和であった。十一年(永明十一年)、王奐は軍主の朱公恩を派遣して蛮を征討させたが失敗し、劉興祖はこれを上聞しようとした。王奐は大いに怒り、彼を捕らえて獄に下した。劉興祖は獄中で針を用いて漆塗りの合盤に文字を刻み、書状として家に届け、冤罪を訴え、上聞するよう求めた。一方、王奐も急使を走らせて上奏し、劉興祖が荒遠の蛮族を扇動したと誣告した。上(武帝)はその冤罪を知り、勅して劉興祖を都に送還させようとした。王奐は供述が翻って不利になることを恐れ、ただちに彼を殺害した。上は大いに怒り、中書舎人の呂文顯と直閤将軍の曹道剛に兵を率いさせて王奐を収監させようとし、別詔で梁州刺史の曹武に江陵から歩兵を率いて襄陽に向かわせた。王奐の子の王彪は凶暴で愚かであり、しばしば時政に干与したため、士人たちは皆、歯ぎしりして恨んだ。時に呂文顯が漆の匣に入れた箜篌を船中に置いていたため、人々は互いに欺いて言うには、「台使(朝廷の使者)が封刀(詔命の刀)を持って王彪を斬るために来た」と。曹道剛、曹武、呂文顯がともに到着すると、その兵力は既に強大であり、また漆の匣の噂も恐れたため、ここに至って門を閉ざして詔命に抵抗することを議した。長史の殷叡は王奐の女婿であったが、諫めて言うには、「今、城門を開き、白衣(罪人の服)を着て台使を迎えれば、せいぜい檻車に乗せられて召還され、官位を奪われ爵位を免じられるだけです」と。王彪は固執して従わなかった。殷叡はまた言うには、「典籤に間道を通って上奏文を送り、自ら申し開きをさせるのがよいでしょう。そうすれば、寛恕されないことを憂えることもありません」と。そこで殷叡に上奏文を書かせ、典籤の陳道斉を遣わして城外に出させたが、すぐに呂文顯に捕らえられた。殷叡はまた言うには、「忠は国に背かず、勇は死を逃れず。百世にわたる家門のため、後の計らいを考えるべきです。どうして自ら毒を仰いで身を全うし、身も名もともに安泰であることに及ぶでしょうか。殷叡が先立って蟻の道を駆けましょう」と。またも従わなかった。王奐の門生の鄭羽が叩頭して王奐に申し上げ、城外に出て台使を迎えることを乞うた。王奐は言うには、「私は賊をなすつもりはない。先に上奏文を送って自ら申し開きをしようと思ったが、ただ曹(道剛)や呂(文顯)の輩のような小人が互いに陵辱し合うことを恐れたので、しばらく門を閉じて自守しているだけだ」と。王彪はついに出戦したが、敗走して帰った。土人(在地の有力者)が義兵を起こし、州城の西門を攻撃した。王彪は門に登って防戦し、これを退けた。司馬の黄瑶起と甯蠻長史の裴叔業が城内で兵を起こして王奐を攻撃した。王奐は兵が入って来たと聞き、礼仏していたが、起き上がる間もなく、軍人に斬り殺された。王彪と弟の王爽、王弼、および殷叡は皆、誅殺された。王奐の長子で太子中庶子の王融、その弟で司徒從事中郎の王琛は、都において市で斬られた。その他の孫たちは皆、罪を許された。王琛の弟の王粛と王秉はともに魏に奔った。後に(王粛は)黄瑶起を捕らえてその肉を切り刻んで食べた。弟の王伷の娘は長沙王蕭晃の妃であったが、男女ともに成長しており、またかつて他家に出嗣していたため、特に離縁はしなかった。

原文永明中,累遷尚書右僕射。王儉卒,上欲用奐為尚書令,以問晏。晏位遇已重,意不推奐,答曰:「柳世隆有勳望,恐不宜在奐後。」乃轉左僕射,加給事中。出為雍州刺史,加都督。與甯蠻長史劉興祖不睦。十一年,奐遣軍主朱公恩征蠻失利,興祖欲以啟聞,奐大怒,收付獄。興祖於獄以針畫漆合盤為書,報家稱枉,令啟聞,而奐亦馳信啟上,誣興祖扇動荒蠻。上知其枉,敕送興祖還都,奐恐辭情翻背,輒殺之。上大怒,遣中書舍人呂文顯、直合將軍曹道剛領兵收奐,又別詔梁州刺史曹武自江陵步出襄陽。奐子彪凶愚,頗幹時政,士人咸切齒。時文顯以漆匣匣箜篌在船中,因相誑云,「台使封刀斬王彪」。及道剛、曹武、文顯俱至,眾力既盛,又懼漆匣之言,於是議閉門拒命。長史殷叡,奐女婿也,諫曰:「今開城門,白服接台使,不過檻車征還,隳官免爵耳。」彪堅執不從,叡又曰:「宜遣典簽間道送啟自申,亦不患不被宥。」乃令叡書啟,遣典簽陳道齊出城,便為文顯所執。叡又曰:「忠不背國,勇不逃死,百世門戶,宜思後計,孰與仰藥自全,則身名俱泰,叡請先驅螻蟻。」又不從。奐門生鄭羽叩頭啟奐,乞出城迎台使,奐曰:「我不作賊,欲先遣啟自申,政恐曹、呂輩小人相陵藉,故且閉門自守耳。」彪遂出戰,敗走歸。土人起義,攻州西門,彪登門拒戰,卻之。司馬黃瑤起、甯蠻長史裴叔業于城內起兵攻奐,奐聞兵入,禮佛,未及起,軍人斬之,彪及弟爽、弼、殷叡皆伏誅。奐長子太子中庶子融,融弟司徒從事中郎琛,於都棄市,余孫皆原宥。琛弟肅、秉並奔魏,後得黃瑤起臠食之。弟伷女為長沙王晃妃,以男女並長,又且出繼,特不離絕。

王奐が誅殺された後、旧知の者で敢えて近づく者はなかったが、汝南の許明達はかつて王奐の参軍であったため、自ら殯斂を行い、葬儀の取り扱いを非常に手厚くした。当時、その節義を高く評価した。王奐の弟に王份がいる。

原文奐既誅,故舊無敢至者,汝南許明達先為奐參軍,躬為殯斂,經理甚厚,當時高其節。奐弟份。

王份は字を季文という。宋に仕えて始安内史の位に至った。袁粲が誅殺された時、親戚故旧で敢えて見舞う者はなかったが、王份だけが赴いて慟哭した。これによって名声が顕れた。累進して大司農となった。王奐が誅殺された後、その子の王粛が魏に奔ると、王份は自ら拘束されて罪を請うた。斉の武帝はこれを許した。王粛はたびたび魏人を引き連れて国境に至った。王份が侍坐していた時、武帝が言うには、「近頃、北方からの便りはあるか?」と。王份は顔色を変えて答えて言うには、「王粛は近くにある祖先の墓(墳柏)さえ忘れているのです。どうして遠くにいる臣(私)のことを思い出すでしょうか」と。帝もこれによって彼を理解した。後に秘書監の位に至った。梁に仕えて散騎常侍、領步兵校尉、兼起部尚書の位に至った。

原文份字季文。仕宋位始安內史。袁粲之誅,親故無敢視者,份獨往致慟,由是顯名。累遷大司農。奐誅後,其子肅奔魏,份自拘請罪,齊武帝宥之。肅屢引魏人至邊,份嘗因侍坐,武帝謂曰:「比有北信不?」份改容對曰:「肅既近忘墳柏,寧遠憶有臣。」帝亦以此亮焉。後位秘書監。仕梁位散騎常侍,領步兵校尉,兼起部尚書。

武帝(梁の武帝蕭衍)はかつて宴席で群臣に問うて言うには、「朕は有であるか、無であるか?」と。王份は言うには、「陛下は万物に応じられるゆえに有であり、至理を体現されるゆえに無であります」と。帝はこれを称善した。後に累進して尚書左僕射となった。侍中、特進、左光禄大夫を歴任し、丹陽尹を監した。没し、諡して鬍子といった。長子の王琳は字を孝璋といい、司徒左長史の位に至った。王琳は斉代に梁武帝の妹である義興長公主を娶り、九人の子があり、ともに知名であった。

原文武帝嘗於宴席問群臣曰:「朕為有為無?」份曰:「陛下應萬物為有,體至理為無。」帝稱善。後累遷尚書左僕射。曆侍中,特進,左光祿大夫,監丹陽尹。卒,諡曰鬍子。長子琳,字孝璋,位司徒左長史。琳齊代取梁武帝妹義興長公主,有子九人,並知名。

長子の王銓は字を公衡といい、風采が美しく、談吐に優れていた。武帝の娘である永嘉公主を尚り、駙馬都尉に任じられた。王銓は学業では弟の王錫に及ばなかったが、孝行においては同等であり、当時の人は王銓と王錫の二人を、玉の兄に金の弟(玉昆金友)と称した。母の長公主が病むと、王銓は形も容貌も痩せ衰え、人はもはや識別できなかった。喪に服した時は、泣き叫ぶことが常でなく、これによって気疾を得た。侍中、丹陽尹の位に至った。衛尉卿の任で没した。子の王溥は字を伯淮といい、簡文帝の娘である余姚公主を尚った。

原文長子銓,字公衡,美風儀,善占吐,尚武帝女永嘉公主,拜駙馬都尉。銓雖學業不及弟錫,而孝行齊焉,時人以為銓、錫二王,可謂玉昆金友。母長公主疾,銓形貌瘠貶,人不復識。及居喪,哭泣無常,因得氣疾。位侍中、丹陽尹。卒于衛尉卿。子溥,字伯淮,尚簡文帝女余姚公主。

王銓の弟の王錫は字を公嘏といい、幼い頃から聡明で悟りが早く、兄弟とともに学業を受けたが、休憩時間になっても、ただ一人留まって起たず、精力を尽くして倦むことを知らず、ついに右目を損なった。十二歳で国子生となり、十四歳で清茂に挙げられ、秘書郎に任じられ、再び太子洗馬に遷った。時に昭明太子はまだ幼く、武帝は王錫と秘書郎の張纘に命じて宮中に入らせ、日数を限らなかった。(彼らは)太子と親しく交わり、情は師友を兼ねた。また陸倕、張率、謝挙、王規、王筠、劉孝綽、到洽、張緬を学士とせよと勅し、十人は尽く一時の選抜された人材であった。王錫は外戚の縁故により、永安侯に封じられた。

原文銓弟錫字公嘏,幼而警悟,與兄弟受業,至應休散,輒獨留不起,精力不倦,致損右目。十二為國子生,十四舉清茂,除秘書郎,再遷太子洗馬。時昭明太子尚幼,武帝敕錫與秘書郎張纘使入宮,不限日數。與太子游狎,情兼師友。又敕陸倕、張率、謝舉、王規、王筠、劉孝綽、到洽、張緬為學士,十人盡一時之選。錫以戚屬,封永安侯。

普通(梁の武帝の年号)の初め、魏が初めて和親を求め、劉善明を使者として来聘させた。武帝は中書舎人の朱異に命じてこれをもてなさせた。劉善明は彭城の旧族で、気概風調が非常に高く、その才気を恃んで、酒が酣になると朱異に言うには、「南国において中書(朱異)のような弁学の士は何人いるか?」と。朱異は言うには、「私が賓宴に接することができるのは、職分としてこれを司っているからです。もし才弁を競うのであれば、私のような者が使われることはないでしょう」と。劉善明はそこで言うには、「王錫と張纘は、北方でも聞くところであるが、どうすれば会えるか?」と。朱異はことごとく上聞し、勅によってすぐに南苑に宴を設けさせた。王錫と張纘、朱異の四人だけであった。劉善明が席に着くと、経史を広く論じ、兼ねて嘲謔を交えた。王錫と張纘はその場に応じて酬対し、疑うところなく、劉善明は大いに感嘆し、敬意を払った。後日、朱異に言うには、「一日にして二賢に会えた。まさに期待に副うものである。君子がなければ、どうして国を治めることができようか」と。宴を引いた日、勅によって左右の徐僧権を座後に置き、発言するごとにこれを記録させた。

原文普通初,魏始連和,使劉善明來聘,敕中書舍人朱異接之。善明彭城舊族,氣調甚高,負其才氣,酒酣謂異曰:「南國辯學如中書者幾人?」異曰:「異所以得接賓宴,乃分職是司,若以才辯相尚,則不容見使。」善明乃曰:「王錫、張纘,北間所聞,云何可見?」異具啟聞,敕即使南苑設宴,錫與張纘、朱異四人而已。善明造席,遍論經史,兼以嘲謔。錫、纘隨方酬對,無所稽疑,善明甚相歎挹。他日謂異曰:「一日見二賢,實副所期,不有君子,安能為國。」引宴之日,敕使左右徐僧權於坐後,言則書之。

累進して吏部郎中となった。時に二十四歳であった。親友に言うには、「私は外戚として誤って時の知遇を受け、かつてから病弱であり、諸々の事務を抱えるのは難しい。どうして自分の好むところを捨てて、自分のできないことに従うことができようか」と。そこで病気と称して拝命せず、すぐに胥徒(下役人)を謝って遣わし、賓客を断り、扉を閉めて深く思索に耽り、住まいは静かであった。諸子が温凊(冬は温かく夏は涼しく)の礼をとるのも、簾を隔てて走り寄り寄りかかった。公主(母の義興長公主)はついに壁に穴を穿たせ、子の王涉と王湜に観察させた。三十六歳で没し、侍中を追贈され、諡して貞子といった。王錫の弟に王僉がいる。

原文累遷吏部郎中,時年二十四。謂親友曰:「吾以外戚謬被時知,兼比羸病,庶務難擁,安能舍其所好而徇所不能。」乃稱疾不拜。便謝遣胥徒,拒絕賓客,掩扉覃思,室宇蕭然。諸子溫凊,隔簾趨倚。公主乃命穿壁,使子涉、湜觀之。卒年三十六,贈侍中,諡貞子。錫弟僉。

王僉は字を公會といい、八歳で父の喪に遭い、哀傷のあまり礼を越えた。初め国子生に補せられ、祭酒の袁昂は通理と称した。累進して始興内史となったが、実母の喪に遭い、固辞して拝命しなかった。また南康内史に任じられ、郡に在任中に義興主(母の義興長公主)が薨じたため、詔によって郡の職務に復帰させられた。後に太子中庶子となり、東宮の管記を掌った。没し、侍中を追贈された。元帝(梁の元帝蕭繹)は詔を下し、「賢にして自ら誇らないことを恭という」として、追諡して恭子といった。王僉の弟に王通がいる。

原文僉字公會,八歲丁父憂,哀毀過禮。初補國子生,祭酒袁昂稱為通理。累遷始興內史,丁所生母憂,固辭不拜。又除南康內史,在郡義興主薨,詔起復郡。後為太子中庶子,掌東宮管記。卒,贈侍中。元帝下詔:賢而不伐曰恭,追諡曰恭子。僉弟通。

王通は字を公達といい、梁に仕えて黄門侍郎となった。敬帝が制を承けると、尚書右僕射とした。陳の武帝が禅を受けると、左僕射に遷った。太建元年(陳の宣帝の年号)、左光禄大夫となった。六年、特進を加えられ、侍中、将軍、光禄、佐史、扶(官名)はすべて以前の通りとした。拝命しないうちに没し、諡して成といった。弟に王勱がいる。

原文通字公達,仕梁為黃門侍郎。敬帝承制,以為尚書右僕射。陳武帝受禪,遷左僕射。太建元年,為左光祿大夫。六年,加特進,侍中、將軍、光祿、佐史、扶並如故。未拜,卒,諡曰成。弟勱。

王勱は字を公齊といい、風采が美しく、広く書史に渉猟し、恬然として清簡であり、かつて利欲を懐に干したことはなかった。梁に仕えて軽車河東王功曹史となった。河東王が京口に出鎮する時、王勱はこれに従って藩国に行こうとした。范陽の張纘が時に選挙を典掌しており、王勱が別れを告げに張纘を訪ねると、張纘はその風采を賞賛し、言うには、「王生の才地をもって、どうして外府(地方官府)を遊歴することができようか?」と。上奏して太子洗馬とした。後に南徐州別駕從事史となった。

原文勱字公齊,美風儀,博涉書史,恬然清簡,未嘗以利欲幹懷。仕梁為輕車河東王功曹史。王出鎮京口,勱將隨之蕃。范陽張纘時典選舉,勱造纘言別,纘嘉其風采,乃曰:「王生才地,豈可遊外府乎?」奏為太子洗馬。後為南徐州別駕從事史。

大同の末、梁の武帝が園陵を謁し、道すがら朱方を出でしとき、勱は例に従い迎候し、勅令により輦の側に従う。経過する山川、問わざるはなく、勱は事に随い応対し、皆故実あり。また北顧楼に登りて詩を賦するに従い、辞義清典にして、帝は甚だこれを嘉した。

原文大同末,梁武帝謁園陵,道出朱方,勱隨例迎候,敕令從輦側。所經山川,莫不顧問,勱隨事應對,咸有故實。又從登北顧樓賦詩,辭義清典,帝甚嘉之。

時に河東王が広州刺史たりしが、乃ち勱を冠軍河東王長史・南海太守となす。王は嶺南に至り、多く侵掠することあり、因りて罪を懼れて疾を称し、州を委ねて朝に還る。勱は州府の事を行ふ。越中は饒沃なれども、前後の守宰は例多く貪縦なりしが、勱は独り清白を以て聞こえたり。入りて給事黄門侍郎となる。

原文時河東王為廣州刺史,乃以勱為冠軍河東王長史、南海太守。王至嶺南,多所侵掠,因懼罪稱疾,委州還朝,勱行州府事。越中饒沃,前後守宰,例多貪縱,勱獨以清白著聞。入為給事黃門侍郎。

侯景の乱に、江陵に奔り、歴位して晋陵太守となる。時に兵饑の後、郡中は凋弊せしが、勱は政を清簡に為し、吏人は便安す。徴されて侍中となり、遷りて五兵尚書となる。

原文侯景之亂,奔江陵,歷位晉陵太守。時兵饑之後,郡中雕弊,勱為政清簡,吏人便安之。徵為侍中,遷五兵尚書。

会に魏軍至り、元帝は湘州刺史宜豊侯蕭循を征し入援せしめ、勱を以て湘州を監せしむ。及び魏江陵を平げ、敬帝制を承くるとき、中書令となし、侍中を加ふ。歴て陳武帝の司空・丞相長史、侍中・中書令は並びに元の如し。

原文會魏軍至,元帝征湘州刺史宜豐侯蕭循入援,以勱監湘州。及魏平江陵,敬帝承制,以為中書令,加侍中。曆陳武帝司空、丞相長史,侍中、中書令並如故。

及び蕭勃平らぎるとき、勱を以て広州刺史となす。未だ行かず、改めて衡州刺史となす。王琳上流を拠有し、衡・広は携貳す。勱は鎮に之くことを得ず、大庾嶺に留まる。

原文及蕭勃平,以勱為廣州刺史。未行,改為衡州刺史。王琳據有上流,衡、廣攜貳,勱不得之鎮,留於大庾嶺。

太建元年、累遷して尚書右僕射となる。時に東境大水あり、勱を以て晋陵太守となす。郡に在りて甚だ威恵あり、郡人は表を上りて碑を立て、勱の政徳を頌することを請ふ。詔してこれを許す。徴されて中書監となり、重ねて尚書右僕射を授けられ、右軍将軍を領す。卒す。諡して温子と曰ふ。勱の弟、質。

原文太建元年,累遷尚書右僕射。時東境大水,以勱為晉陵太守。在郡甚有威惠,郡人表請立碑,頌勱政德,詔許之。徵為中書監,重授尚書右僕射,領右軍將軍。卒,諡曰溫子。勱弟質。

質は字を子貞とす。少より慷慨にして、書史に渉獵す。梁の世に武帝の甥を以て、甲口亭侯に封ぜらる。太子中舎人・庶子を立つ。

原文質字子貞,少慷慨,涉獵書史。梁世以武帝甥,封甲口亭侯。立太子中舍人、庶子。

侯景江を済すとき、質は歩騎を領して宣陽門外に頓す。景の軍都に至り、質は戦はずして潰え、桑門となり、潜かに人間に匿る。城陥落の後、西に奔りて荊州に至る。元帝制を承くるとき、歴位して侍中、呉州刺史となり、鄱陽内史を領す。

原文侯景濟江,質領步騎頓于宣陽門外。景軍至都,質不戰而潰,為桑門,潛匿人間。城陷後,西奔荊州。元帝承制,歷位侍中,吳州刺史,領鄱陽內史。

魏荊州を平げ、侯瑱盆城に鎮す。質と協わず、質は率いる所部を以て留異に依る。陳の永定二年、武帝は命じて質に率いる所部を以て都督周文育に随ひ王琳を討たしむ。質は琳と素より善しとす。或る者譖えて軍中に潜かに信を通ずと雲ふ。武帝は文育に命じて質を殺さしむ。文育啓してこれを救ひ、免るることを得。文帝位を嗣ぎ、五兵尚書となす。宣帝政を輔くるとき、司徒左長史となす。坐して博徒を招聚し、官を免ぜらる。後に都官尚書となる。卒す。諡して安子と曰ふ。弟、固。固は字を子堅とす。少より清正にして、頗る文史に渉る。梁の時に武帝の甥を以て、莫口亭侯に封ぜらる。位は丹陽尹丞。梁の元帝制を承くるとき、相国戸曹属となし、管記を掌る。尋ねて魏に聘す。魏人はその梁氏の外戚を以て、之を待つこと甚だ厚し。

原文魏平荊州,侯瑱鎮盆城,與質不協,質率所部依於留異。陳永定二年,武帝命質率所部隨都督周文育討王琳。質與琳素善,或譖雲於軍中潛信交通,武帝命文育殺質,文育啟救之,獲免。文帝嗣位,以為五兵尚書。宣帝輔政,為司徒左長史。坐招聚博徒,免官。後為都官尚書。卒,諡曰安子。弟固。固字子堅,少清正,頗涉文史。梁時以武帝甥,封莫口亭侯。位丹陽尹丞。梁元帝承制,以為相國戶曹屬,掌管記。尋聘魏,魏人以其梁氏外戚,待之甚厚。

承聖元年、太子中庶子となり、遷りて尋陽太守となる。魏荊州を克つとき、固は鄱陽に之き、兄質に随ひ東嶺を度り、信安県に居る。陳の永定中、移りて呉郡に居す。文帝は固の清静を以て、且つ婚姻を以て申さんと欲す。天嘉中、歴位して中書令、散騎常侍、国子祭酒となる。その女を以て皇太子妃となし、礼遇甚だ重し。

原文承聖元年,為太子中庶子,遷尋陽太守。魏克荊州,固之鄱陽,隨兄質度東嶺,居信安縣。陳永定中,移居吳郡。文帝以固清靜,且欲申以婚姻。天嘉中,歷位中書令,散騎常侍,國子祭酒。以其女為皇太子妃,禮遇甚重。

廃帝即位し、侍中・金紫光禄大夫を授く。宣帝政を輔くるとき、固は廃帝の外戚を以て、奶媼恒に禁中に往来し、頗る密旨を宣す。事泄れ、比党皆誅せらる。宣帝は固本より兵権無く、且つ居処清素なるを以て、止む所の居官を免じ、禁錮す。太建中、太常卿にて卒す。諡して恭子と曰ふ。

原文廢帝即位,授侍中、金紫光祿大夫。宣帝輔政,固以廢帝外戚,奶媼恒往來禁中,頗宣密旨,事泄,比黨皆誅,宣帝以固本無兵權,且居處清素,止免所居官,禁錮。太建中,卒于太常卿,諡恭子。

固は清虚寡欲にして、居喪は孝を以て聞こゆ。又仏法を信ず。及び生母の憂いに遭ひ、遂に終身蔬食し、夜は則ち坐禅し、昼は仏経を誦す。嘗て魏に聘し、宴饗の際に因り、一羊の殺生を停めんことを請ふ。羊は固の前に跪拝す。又昆明池に宴し、魏人は南人の魚を嗜むを以て、大いに罟網を設く。固は仏法を以て之を祝し、遂に一鱗も獲ず。子の寛、位は侍中。

原文固清虛寡欲,居喪以孝聞。又信佛法。及丁所生母憂,遂終身蔬食,夜則坐禪,晝誦佛經。嘗聘魏,因宴饗際,請停殺一羊。羊於固前跪拜。又宴昆明池,魏人以南人嗜魚,大設罟網,固以佛法祝之,遂一鱗不獲。子寬,位侍中。

論ず。

原文論

論じて曰く、王誕は夙に名輩ありて、而して間関夷険し、卒に光日月に攀ることを獲、遭遇は蓋し其の時ならん。奉光・奉叔は並びに官を成して斉代に得たり。而して亮は自ら寒松を著し、固は優るる為り。瑩の印章六たび毀つ、豈に鬼神の盈を害するか。景文は弱年に誉を立て、芳声籍甚たり。栄貴の来るは、勢に由るに非ず。若し泰始の朝に、身外戚に非ずして、袁粲の群公と、方に驂を並べ路を同じくせば、傾覆の災、庶幾くは免るべかりし。庾元規の中書令を譲るは、義此に帰す。奐に愚子あり、自ら誅夷を致す。份の胤嗣克く昌え、特に関門の慶を鍾めり、美しきかな。

原文論曰:王誕夙有名輩,而間關夷險,卒獲攀光日月,遭遇蓋其時焉。奉光、奉叔,並得官成齊代,而亮自著寒松,固為優矣。瑩印章六毀,豈鬼神之害盈乎?景文弱年立譽,芳聲籍甚,榮貴之來,匪由勢至。若使泰始之朝,身非外戚,與袁粲群公,方驂並路,傾覆之災,庶幾可免。庾元規之讓中書令,義歸此矣。奐有愚子,自致誅夷。份胤嗣克昌,特鍾門慶,美矣。