南史

巻二十二より巻二十三

巻二十二より巻二十三

南史

巻二十二より巻二十三

列伝第十二

王曇首

原文王曇首

曇首は智謀と器量を備え、喜怒の色を表さず、家門内は和やかであった。手に金玉を執らず、婦女もまた飾りや玩物とすることがなかった。禄賜以外は、一毫たりとも人から受け取らなかった。文帝の鎮西長史となった時、武帝は文帝に言った、「曇首は輔相の才である。汝は何事につけても彼に諮問せよ」と。文帝が迎えられて大統を奉じることになった時、議者たちは皆疑念を抱いたが、曇首は到彦之と従兄の王華と共に上(文帝)の行くことを勧め、上はなお許さなかった。曇首が固く陳述し、併せて天人の符応を言上すると、上はようやく決断し、府州の文武を率いて厳兵して自衛し、台(中央)が派遣した百官や衆力が部伍に近づくことを許さなかった。中兵参軍の朱容子は刀を抱いて平乗の戸外に立ち、帯を解かずに数十日を過ごした。即位後、上は曇首に言った、「宋昌の独見がなければ、ここに至ることはできなかった」と。曇首を侍中とし、驍騎将軍を領させ、容子を右軍将軍とした。徐羨之らを誅し、また謝晦を平定したのは、皆曇首と王華の力によるものであった。

原文曇首有智局,喜慍不見於色,閨門內雍雍如也。手不執金玉,婦女亦不得以為飾玩。自非祿賜,一毫不受於人。為文帝鎮西長史,武帝謂文帝曰:「曇首輔相才也,汝可每事諮之。」及文帝被迎入奉大統,議者皆致疑,曇首與到彥之、從兄華並勸上行,上猶未許。曇首固陳,並言天人符應。上乃下,率府州文武嚴兵自衛,台所遣百官眾力不得近部伍。中兵參軍朱容子抱刀在平乘戶外,不解帶者累旬。及即位,謂曇首曰:「非宋昌獨見,無以致此。」以曇首為侍中,領驍騎將軍,容子為右軍將軍。誅徐羨之等及平謝晦,皆曇首及華力也。

元嘉四年、車駕が北堂を出て、三更が終わるのを待ち、広莫門を開かせようとした。南台が言うには、「白獸幡と銀字あざなの檀が必要である」と。開門を肯んじなかった。尚書左丞の羊玄保が御史中丞傅隆以下を免官するよう上奏した。曇首は言った、「墨敕もなく、また幡檀も欠けている。上旨と称するも、単なる刺(文書)と異ならない。元嘉元年・二年には再び門を開いた例があるが、これは前事の違失である。今、旧を守るのは非礼とは言えない。白獸幡・銀字檀を請わなかったため、開門が時を失したのは、尚書が相承してきた過失によるもので、これもまた糾正すべきである」と。上は特に問責せず、改めて科条を立てた。太子詹事に遷り、侍中は元の通りであった。

原文元嘉四年,車駕出北堂,使三更竟,開廣莫門。南台雲,「應須白獸幡、銀字檀」。不肯開。尚書左丞羊玄保奏免御史中丞傅隆以下。曇首曰:「既無墨敕,又闕幡檀,雖稱上旨,不異單刺。元嘉元年、二年,雖有再開門例,此乃前事之違。今之守舊,未為非禮。其不請白獸幡、銀字檀,致開門不時,由尚書相承之失,亦合糾正。」上特無問,更立科條。遷太子詹事,侍中如故。

謝晦平定後、上は曇首らを封じようと思い、宴席の機会に酒を挙げて勧め、御床を撫でて言った、「この座が卿兄弟でなければ、今日はなかったであろう」と。詔書を取り出して見せた。曇首は言った、「どうして国の災いを因って、身の幸いとすることができましょう。陛下が臣を私しようとなされても、直筆の史官にどうお答えになりますか」と。封じることは遂に中止された。

原文自謝晦平後,上欲封曇首等,會燕集,舉酒勸之,因拊御床曰:「此坐非卿兄弟,無復今日。」出詔以示之。曇首曰:「豈可因國之災,以為身幸。陛下雖欲私臣,當如直史何。」封事遂寢。

当時、王弘が尚書事を録し、また揚州刺史であった。曇首は上に親任され、両宮に兼ねて任じられていた。彭城王の劉義康は王弘と共に録していたが、常に不満を抱き、また揚州を得たいと思っていた。曇首が中央にいてその権任を分けているので、ますます悦ばなかった。曇首は固く呉郡を乞うたが、文帝は言った、「どうして大廈を建てようとしてその棟梁を遺すことがあろうか。賢兄(王弘)は近頃たびたび病を称し、固く州の任を辞している。将来もし申し許すことになれば、この処(揚州)は卿でなくて誰か」と。当時、王弘は長く病んでおり、たびたび位を譲ろうとしたが、許されなかった。義康は賓客に言った、「王公が久しく病んで起きず、神州(揚州)を臥して臨むことがあろうか」と。曇首は王弘に府兵の半分を減らして義康に配するよう勧め、ようやく義康は悦んだ。

原文時弘錄尚書事,又為揚州刺史。曇首為上所親委,任兼兩宮。彭城王義康與弘並錄,意常怏怏,又欲得揚州。以曇首居中分其權任,愈不悅。曇首固乞吳郡,文帝曰:「豈有欲建大廈而遺其棟樑?賢兄比屢稱疾,固辭州任,將來若相申許,此處非卿而誰?」時弘久疾,屢遜位,不許。義康謂賓客曰:「王公久疾不起,神州詎合臥臨?」曇首勸弘減府兵力之半,以配義康,乃悅。

七年に卒去した。時に三十七歳。文帝は臨んで慟哭し、嘆いて言った、「王詹事の病が救えなかったのは、国の衰えである」と。中書舎人の周赳が側に侍って言った、「王家が衰えようとする時、賢者が先に殞ちるのです」と。上は言った、「ただ我が家が衰えるだけである」と。光禄大夫を追贈された。九年、徐羨之らを誅する謀に参与した功により、豫寧県侯を追封され、諡して文といった。孝武帝が即位すると、文帝廟庭に配饗された。子の僧綽が嗣いだ。

原文七年卒,時年三十七。文帝臨慟,歎曰:「王詹事所疾不救,國之衰也。」中書舍人周赳侍側曰:「王家欲衰,賢者先殞。」上曰:「直是我家衰耳。」贈光祿大夫。九年,以預誅徐羨之等謀,追封豫甯縣侯,諡曰文。孝武即位,配饗文帝廟庭。子僧綽嗣。

子 僧綽

原文子 僧綽

僧綽は幼少より大成の器量があり、人々は国器と認めた。学問を好み、朝典に通暁した。十三歳の時、文帝に引見され、拝すると涙を流して咽び、上もまた悲しみに堪えなかった。豫寧県侯の封を襲ぎ、文帝の長女である東陽献公主を娶った。初め江夏王劉義恭の司徒参軍となった。累遷して尚書吏部郎となり、大選を参掌し、流品を究め識り、任用推挙は全てその分に尽くした。

原文僧綽幼有大成之度,眾便以國器許之。好學,練悉朝典。年十三,文帝引見,拜便流涕哽咽,上亦悲不自勝。襲封豫甯縣侯,尚文帝長女東陽獻公主。初為江夏王義恭司徒參軍。累遷尚書吏部郎,參掌大選,究識流品,任舉咸盡其分。

僧綽は深沈で器量があり、才能をもって人に高ぶらなかった。父の曇首は王華と共に任用遇されたが、王華の子の新建侯王嗣は才能劣り、位遇も軽かった。僧綽はかつて中書侍郎の蔡興宗に言った、「弟(王嗣)の名位は新建と並ぶべきであるのに、弟が今日に至るまで超えているのは、姻戚によるものであろう」と。侍中に遷った時、二十九歳であった。始興王の劉浚がかつてその年齢を尋ねると、僧綽は早達を自ら嫌い、逡巡して良久くしてから答えた。その謙退ぶりはこのようであった。

原文僧綽深沈有局度,不以才能高人。父曇首與王華並被任遇,華子新建侯嗣,才劣位遇亦輕。僧綽嘗謂中書侍郎蔡興宗曰:「弟名位應與新建齊,弟超至今日,蓋姻戚所致也。」遷侍中,時年二十九。始興王浚嘗問其年,僧綽自嫌早達,逡巡良久乃答,其謙退若此。

元嘉の末、文帝は後事をかなり気にかけ、大いに付託し、朝政の大小に参画させた。従兄の王微は清介の士であり、その盛んすぎることを恐れ、損抑するよう勧めた。僧綽は呉郡及び広州を求めたが、いずれも許されなかった。巫蠱の事が漏洩した時、上はまず僧綽を召して詳しく話した。廃立を行おうとする時、前朝の旧典を求めさせた。劉劭が東宮で夜に将士を饗したことを、僧綽は密かに上聞した。上はまた漢・魏以来の諸王廃立の故事を撰ばせて江湛・徐湛之に送らせた。湛之は随王劉誕を立てようとし、江湛は南平王劉鑠を立てようとし、文帝は建平王劉宏を立てようとしたが、議論は久しく決しなかった。誕妃は湛之の娘であり、鑠妃は江湛の妹であった。僧綽は言った、「建立の事は、聖慮に仰ぐほかありません。臣は速やかに断ずるべきであると考えます。機事は密であっても、慮表(思慮の外)に難を生じさせ、千載の笑いを取るべきではありません」と。上は言った、「卿は大事を断ずることができると言えよう。この事は殷勤でなければならない。かつ庶人(劉劭)が始めて亡くなったばかりで、人々は我に慈愛の道がないと言うであろう」と。僧綽は言った、「千載の後、陛下はただ弟を裁くことができ、児を裁くことができなかったと言われることを恐れます」と。上は黙然とした。江湛が閣を出て僧綽に言った、「卿が先ほど言ったことは、直を傷つけはしないか」と。僧綽は言った、「弟もまた君が直でないことを恨む」と。

原文元嘉末,文帝頗以後事為念,大相付託,朝政大小皆參焉。從兄微,清介士也,懼其太盛,勸令損抑。僧綽乃求吳郡及廣州,並不許。會巫蠱事泄,上先召僧綽具言之。及將廢立,使尋求前朝舊典。劭於東宮夜饗將士,僧綽密以啟聞。上又令撰漢、魏以來廢諸王故事送與江湛、徐湛之。湛之欲立隨王誕,江湛欲立南平王鑠,文帝欲立建平王宏,議久不決。誕妃即湛之女,鑠妃湛妹也。僧綽曰:「建立之事,仰由聖懷。臣謂惟宜速斷,幾事雖密,不可使難生慮表,取笑千載。」上曰:「卿可謂能斷大事,此事不可不殷勤;且庶人始亡,人將謂我無復慈愛之道。」僧綽曰:「恐千載之後,言陛下惟能裁弟,不能裁兒。」上默然。江湛出合謂僧綽曰:「卿向言將不傷直邪?」僧綽曰:「弟亦恨君不直。」

劉劭が弑逆を起こした時、江湛は尚書上省におり、変事を聞いて言った、「王僧綽の言を用いなかったためにここに至った」と。劉劭が立つと、僧綽を吏部尚書に転じた。文帝の巾箱及び江湛の家の書疏を検査した時、僧綽が上啓した将士饗宴及び諸王廃立の事を得て、ついに収捕して害した。これにより北第の諸侯王を陥れ、僧綽と異志ありとさせた。孝武帝が即位すると、金紫光禄大夫を追贈し、諡して湣侯といった。

原文及劭弑逆,江湛在尚書上省,聞變,曰:「不用王僧綽言至此。」劭立,轉僧綽吏部尚書。及檢文帝巾箱及湛家書疏,得僧綽所啟饗士並廢諸王事,乃收害焉,因此陷北第諸侯王,以為與僧綽有異志。孝武即位,追贈金紫光祿大夫,諡曰湣侯。

初め、太社の西の空地は、本来は呉の時の丁奉の宅であり、孫皓がその家を流徙させた。江左の初め、周顗・蘇峻の宅となり、後に袁悦の宅となり、また章武王司馬秀の宅となったが、皆凶終した。臧燾に給してもまた頻りに禍に遇ったので、世に凶地と称された。僧綽はかつて宅に吉凶はないと言い、これを第宅とすることを請い、造り始めたが、住むに及ばずして敗れた。子に王儉がいる。

原文初,太社西空地,本吳時丁奉宅,孫皓流徙其家。江左初,為周顗、蘇峻宅,後為袁悅宅,又為章武王司馬秀宅,皆以凶終;及給臧燾,亦頻遇禍,故世稱凶地。僧綽嘗謂宅無吉凶,請以為第,始造,未及居而敗。子儉。

僧綽の子は儉。

原文僧綽子 儉

儉は字を仲寶といい、生まれて間もなく僧綽が害に遭い、叔父の僧虔に養育された。数歳にして豫寧縣侯の爵を襲い、茅土を受けるに当たり、涙を流して嗚咽した。幼い頃から篤学で、手から書物を離さなかった。賓客が称賛すると、僧虔は言った。「私はこの児に名がないことを患わず、ただ名が盛んになり過ぎることを恐れるのみである。」そこで自ら崔子玉の座右銘を書いて彼に与えた。丹陽尹の袁粲はその名を聞き、会って言った。「宰相の家柄である。栝柏や豫章は小さいながらも、既に棟梁の気があり、いずれは国家の大事を任されるであろう。」宋の明帝にこれを言上し、陽羨公主に尚わせ、駙馬都尉に任じた。帝は儉の嫡母である武康公主が太初の巫蠱の事に関与したため、姑とすることができないと考え、墓を開いて別葬しようとした。儉は機会を得て自ら申し出、密かに死を以て請願したため、この話は実行されなかった。

原文儉字仲寶,生而僧綽遇害,為叔父僧虔所養。數歲,襲爵豫甯縣侯。拜受茅土,流涕嗚咽。幼篤學,手不釋卷。賓客或相稱美,僧虔曰:「我不患此兒無名,政恐名太盛耳。」乃手書崔子玉座右銘以貽之。丹陽尹袁粲聞其名,及見之曰:「宰相之門也。栝柏豫章雖小,已有棟樑氣矣,終當任人家國事。」言之宋明帝,選尚陽羨公主,拜駙馬都尉。帝以儉嫡母武康公主同太初巫蠱事,不可以為婦姑,欲開塚離葬。儉因人自陳,密以死請,故事不行。

十八歳の時、秘書郎、太子舍人に初任し、超えて秘書丞に遷った。七略に依拠して七志四十巻を撰し、上表して献上した。また元徽の四部書目を撰定した。母の喪に服し、喪が明けると、司徒右長史となった。晉の令では、公府の長史は朝服を着用したが、宋の大明以来は朱衣を着用していた。儉は旧制に復すべきと上言したが、時の議論は許さなかった。蒼梧王が暴虐を極めると、儉は袁粲に外任を求め、晉の新安公主の婿である王獻之が呉興に任じられた例を引き合いに出し、義興太守に補せられた。

原文年十八,解褐秘書郎,太子舍人,超遷秘書丞。依七略撰七志四十卷,表獻之。又撰定元徽四部書目。母憂,服闋,為司徒右長史。晉令,公府長史著朝服,宋大明以來著朱衣。儉上言宜復舊制,時議不許。及蒼梧暴虐,儉告袁粲求外出,引晉新安主婿王獻之任吳興為例,補義興太守。

升明二年、長兼侍中となったが、父がこの職で亡くなったため、固辞した。先に、齊の高帝が宰相であった時、時の賢人を引き入れて大業に参画させようとし、謝朏が長史であった。帝は夜に朏を召し出し、人を退けてしばらく語ったが、朏は何も言わなかった。ただ二人の小児が燭を捧げていただけである。帝は朏が難しいと思っていると考え、燭を取って小児を遣わしたが、朏はまた何も言わなかった。帝は左右を呼んだ。儉は平素から帝の雄大な異才を知っており、後に機会を得て帝に言った。「功績が高くて賞せられないことは、古来一つや二つではない。公の今日の地位をもって、北面して人臣の位に居ようとされるのは、果たしてよいでしょうか。」帝は厳しい顔色でこれを制したが、内心の表情は和らいでいた。儉はさらに言った。「儉は公の特別なご厚情を蒙っているからこそ、言い難きことを吐露するのです。どうしてこれほど深くお拒みになるのですか。宋が景和・元徽の淫虐な政治を行った時、公でなければどうして再び安寧を得ることができたでしょうか。ただ人情は薄く、長くは持たないものです。公が少しでも遷延なされれば、人々の望みは去ってしまいます。大業が永久に失われるだけでなく、七尺の身さえ保てるでしょうか。」帝は笑って言った。「卿の言うことは道理がないわけではない。」儉はさらに言った。「公の今の名位は、まさに通常の宰相です。群臣を礼で絶し、少し変革を示されるべきです。まず褚公に知らせるべきで、儉が命を受けて行きます。」帝は言った。「私が自ら行こう。」数日後、帝は自ら彥回を訪ね、打ち解けて長く語り、そして言った。「私は夢で官を得るべきと出た。」彥回は言った。「今任命されたばかりで、一二年の間は容易に動かせないでしょう。かつ吉夢は必ずしも旦夕のうちに現れるものではありません。」帝は帰って儉に告げた。儉は言った。「褚は道理に通じていないのです。」虞整が当時中書舎人で、文章に非常に通じていた。儉は自ら整に報せ、詔を作らせた。高帝が太尉となると、儉を右長史に引き入れ、まもなく左に転じ、専ら任用された。大典が行われようとする時、礼儀や詔策は全て儉が出し、褚彥回はただ禅譲の詔を作ったのみで、また儉に参画させて決定させた。

原文升明二年,為長兼侍中,以父終此職,固讓。先是,齊高帝為相,欲引時賢參贊大業,時謝朏為長史,帝夜召朏,卻人與語久之,朏無言。唯有二小兒捉燭,帝慮朏難之,仍取燭遣兒,朏又無言,帝乃呼左右。儉素知帝雄異,後請間言於帝曰:「功高不賞,古來非一,以公今日位地,欲北面居人臣,可乎?」帝正色裁之,而神采內和。儉因又曰:「儉蒙公殊眄,所以吐所難吐,何賜拒之深。宋以景和、元徽之淫虐,非公豈復寧濟;但人情澆薄,不能持久,公若小復推遷,則人望去矣,豈唯大業永淪,七尺豈可得保?」帝笑曰:「卿言不無理。」儉又曰:「公今名位,故是經常宰相,宜禮絕群後,微示變革。當先令褚公知之,儉請銜命。」帝曰:「我當自往。」經少日,帝自造彥回,款言移晷,乃謂曰:「我夢應得官。」彥回曰:「今授始爾,恐一二年間未容便移。且吉夢未必便在旦夕。」帝還告儉,儉曰:「褚是未達理。」虞整時為中書舍人,甚閑辭翰,儉乃自報整,使作詔。及高帝為太尉,引儉為右長史,尋轉左,專見任用。大典將行,禮儀詔策,皆出於儉,褚彥回唯為禪詔,又使儉參懷定之。

齊の朝廷が建てられると、尚書右僕射に遷り、吏部を領した。時に二十八歳。多くの人材を引き入れた。時に譚という姓の客が、官を求めて儉を訪ねた。儉は言った。「齊の桓公が譚を滅ぼした。どうして君がいるのか。」答えて言った。「譚子が莒に奔った。それゆえに私がいるのです。」儉はその巧みな典故の引用を賞賛し、ついに職を得させた。高帝はかつて気楽に儉に言った。「私は今日、青溪を鴻溝としようと思う。」答えて言った。「天が応じ人が順うのですから、楚漢の事のごときはないでしょう。」

原文齊台建,遷尚書右僕射,領吏部,時年二十八。多所引進。時客有姓譚者,詣儉求官,儉謂曰:「齊桓滅譚,那得有君?「答曰:「譚子奔莒,所以有僕。」儉賞其善據,卒得職焉。高帝嘗從容謂儉曰:「我今日當以青溪為鴻溝。」對曰:「天應人順,庶無楚、漢之事。」

当時、朝廷の儀礼は草創期で、衣服の制度に定まった基準がなかった。儉は議して言った。「漢の景帝六年、梁王が入朝した時、中郎謁者が金貂を着けて殿門を出入りした。左思の魏都賦に『藹藹たる列侍、金貂齊光』とある。これが藩国の侍臣に貂がある明らかな文証である。晉の百官表に『太尉参軍四人、朝服武冠』とある。これまた宰相府の明らかな文証である。」また、百官が齊公を敬う礼について疑義があった。儉はまた言った。「晉王が天命を受けた時、勧進の文に『沖等眷眷』とあり、名を称えるならば礼を尽くすべきです。」また世子の礼の等級が定まっていなかった。儉はまた言った。「春秋に、曹の世子が来朝した時、上公の礼をもって待遇し、その君より一等下げた。今、齊公は九命であり、礼は諸侯の上にあり、世子もまた特別な扱いとすべきです。」いずれも従われた。世子が石頭城を鎮守し、これを以て世子の宮とした。儉はまた言った。「魯に霊光殿があった。漢の前例である。聴事を崇光殿とし、外斎を宣徳殿とし、散騎常侍の張緒を世子詹事とし、車服は全て東宮の制度に依るべきです。」

原文時朝儀草創,衣服制則,未有定準,儉議曰:「漢景六年,梁王入朝,中郎謁者金貂出入殿門。左思魏都賦雲'藹藹列侍,金貂齊光',此藩國侍臣有貂之明文。晉百官表雲'太尉參軍四人,朝服武冠',此又宰府之明文。」又疑百僚敬齊公之禮,儉又曰:「晉王受命,勸進雲,'沖等眷眷',稱名則應盡禮。」而世子禮秩未定,儉又曰:「春秋曹世子來朝,待以上公之禮,下其君一等。今齊公九命,禮冠列蕃,世子亦宜異數。」並從之。世子鎮石頭城,仍以為世子宮,儉又曰:「魯有靈光殿,漢之前例也。聽事為崇光殿,外齋為宣德殿,以散騎常侍張緒為世子詹事,車服悉依東宮制度。」

高帝が即位すると、儉と佐命の功臣について議論し、気楽に言った。「卿の謀謨の功績は、並ぶ者がない。卿の封戸は二千に過ぎず、少ないと思う。趙充国でさえ西零の任を自ら挙げることができた。まして卿と私の情誼は尋常ではない。」儉は言った。「昔、宋の太祖が創業した時、佐命の諸公の開国の封戸は二千を超えませんでした。臣を彼らと比べると、ただ超越していると感じます。」上は笑って言った。「張良が侯を辞したとしても、どうしてこれを超えようか。」

原文高帝踐阼,與儉議佐命功臣,從容謂曰:「卿謀謨之功,莫與為二,卿止二千戶,意以為少。趙充國猶能自舉西零之任,況卿與我情期異常。」儉曰:「昔宋祖創業,佐命諸公,開國不過二千,以臣比之,唯覺超越。」上笑曰:「張良辭侯,何以過此。」

建元元年、南昌縣公に改封された。当時、都下は錯雑し、かつ奸盗が多かった。上は符伍の制度を立て、家ごとに相互に検察させようとした。儉は諫めて言った。「京師は翼翼として、四方より人が集まる所です。必ず符を持たせるとなれば、事柄が煩雑になり、道理として行き届かなくなります。謝安の言う『そうでなければどうして京師といえようか』という通りです。」そこでやめた。この年、有司が郊祀と殷祭の礼を定めるよう奏上した。儉は、今年十月に宗廟で殷祭を行い、これ以後五年ごとに再び殷祭を行うべきと考えた。二年正月の上辛の日に南郊で祭祀を行い、その日に明堂を還祭し、また次辛の日に北郊を饗祀し、いずれも配祀はないとした。従われた。翌年、左僕射に転じ、選挙を領するのは以前の通りであった。

原文建元元年,改封南昌縣公。時都下舛雜,且多奸盜,上欲立符伍,家家以相檢括。儉諫曰:「京師翼翼,四方是湊,必也持符,於事既煩,理成不曠,謝安所謂'不爾何以為京師'。」乃止。是歲,有司奏定郊殷之禮,儉以為宜以今年十月殷祭宗廟,自此以後,五年再殷祭。二年正月上辛,有事南郊,即以其日還祭明堂;又用次辛饗祀北郊,而並無配。從之。明年轉左僕射,領選如故。

初め、宋の明帝の紫極殿は珠簾や綺柱で、金玉で飾られ、江左では未だかつてなかったものであった。高帝はその材木を用いて宣陽門を建てようとした。儉は褚彥回および叔父の僧虔と連名で表を奉って諫め、上手詔で受け入れられた。宋の時代、宮門外の六門の城には竹籬が設けられていた。この年初め、白虎樽を開けて言う者があった。「白門三重の門、竹籬穿ちて完からず」。上はこの言葉に感じ入り、都の城壁を改めて立てた。儉がまた諫めると、上は答えて言った。「私は後世にこれ以上加えることがないようにしたいのだ。」朝廷が初めて基盤を築き、制度が草創期にあって、儉の問うことは決まらないことがなかった。上は常に言った。「詩に『惟れ嶽神を降し、甫及び申を生む』とある。今、天は私のために儉を生んだのだ。」その年、選挙の職を解くことを固く請い、許された。

原文初,宋明帝紫極殿珠簾綺柱,飾以金玉,江左所未有,高帝欲以其材起宣陽門,儉與褚彥回及叔父僧虔連名表諫,上手詔酬納。宋世,宮門外六門城設竹籬,是年初,有發白虎樽言:「白門三重門,竹籬穿不完」。上感其言,改立都牆。儉又諫,上答曰:「吾欲後世無以加也。」朝廷初基,制度草創,儉問無不決。上每曰:「詩雲'惟嶽降神,生甫及申',今天為我生儉也。」其年固請解選,見許。

帝が楽遊苑で宴集し、儉に言った。「卿は音楽を好むが、朕とどちらが優れているか。」儉は言った。「唐の風俗に浴し、事は家ごとに兼ねております。また既に齊におりましてからは、肉の味も知りません。」帝は善しとされた。後に華林苑で宴集し、各自が技芸を披露させた。褚彥回は琵琶を弾き、王僧虔・柳世隆は琴を弾き、沈文季は子夜来を歌い、張敬兒は舞った。儉は言った。「臣は解することは何もありません。ただ書を誦するのみ知っています。」そこで跪いて上前で司馬相如の封禅書を誦した。上は笑って言った。「これは盛徳の事である。私にどうして堪えられようか。」後に上は陸澄に孝経を誦させ、「仲尼居」から始めた。儉は言った。「澄のいうことは博にして要を得ない。臣が誦します。」そこで君子之事上の章を誦した。上は言った。「善い。張子布もまた奇ならずと覚える。」そこで王敬則が朝服を脱ぎ、肩を露わにし、絳色の紐で髻を結い、腕を奮って拍張し、叫んで左右を動かした。上は快く思わず言った。「三公がこのようであると聞いたことがあるか。」答えて言った。「臣は拍張によって三公を得たのです。拍張を忘れることはできません。」時に名答とされた。

原文帝幸樂遊宴集,謂儉曰:「卿好音樂,孰與朕同?」儉曰:「沐浴唐風,事兼比屋,亦既在齊,不知肉味。」帝稱善。後幸華林宴集,使各效伎藝。褚彥回彈琵琶,王僧虔、柳世隆彈琴,沈文季歌子夜來,張敬兒舞。儉曰:「臣無所解,唯知誦書。」因跪上前誦相如封禪書。上笑曰:「此盛德之事,吾何以堪之。」後上使陸澄誦孝經,起自「仲尼居」,儉曰:「澄所謂博而寡要。臣請誦之。」乃誦君子之事上章。上曰:「善,張子布更覺非奇也。」於是王敬則脫朝服袒,以絳糾髻,奮臂拍張,叫動左右。上不悅曰:「豈聞三公如此。」答曰:「臣以拍張,故得三公,不可忘拍張。」時以為名答。

王儉はまもなく本官のまま太子詹事を兼任し、兵三百人を加えられた。時に皇太子妃が薨去し、左衛将軍沈文季はかつて宮臣であったが、喪服を着るべきかどうか詳らかでなかった。王儉が議して言うには、「漢・魏以来、宮僚は先に臣隷の礼節を備え、君臣の義は三に具わる。存する時は既に敬を尽くすならば、亡き後になして服なからんや。昔、庾翼が妻を喪った時、王允・滕含はなお府吏は小君の服を着るべきであると言い、まして臣節の重きに於いてはなおさらである。礼に依って旧君の妻に斉衰三月を着て除くべきである」。上(武帝)が崩御し、遺詔により王儉は侍中・尚書令・鎮軍将軍となった。毎朝上する時、令史が常に三五十人随従し、事を諮り弁析するが、未だかつて滞ることがなかった。褚彦回が時に司徒・録尚書事であったが、笑って王儉に言うには、「令の判断を観るは甚だ楽しきかな」。王儉は言う、「私の思いを措くことが出来る所以は、実に明公の不言の化を稟けたるによる」。武帝が即位すると、班剣二十人を給され、衛将軍に進号し、選事を掌った。時に有司が前代の嗣位に際し、或いは前の郊年のままにし、或いは別に郊の始めと為し、晋・宋以来、画一していないことを以て問題とした。王儉が議して言うには、「晋の明帝太寧三年に南郊し、その年九月に崩御した。成帝が即位し、明年に改元し、また郊した。簡文帝咸安二年に南郊し、その年七月に崩御した。孝武帝が即位し、明年に改元し、また郊した。宋の元嘉三十年正月に南郊し、二月に崩御した。孝武帝が嗣位し、明年にまた郊した。これら二代の明らかな例は、ほぼ依拠し倣うことが出来る。今、聖明が業を継ぎ、幽顕が心を宅す。化を言えば頻繁な郊祀も嫌うに足らず、事を語れば元号初めて改まる。禋燎して配天に登り、孝敬を兼ねて遂げる。明年正月に二郊を饗祀し、明堂を虔祭すべきであると謂う。これより後は、旧に依って間歳ごとに行うべし」。有司はまた明年正月上辛に南郊すべきであるが、立春が上辛の後にあり、郊祀が立春の前にあることを疑った。王儉は言う、「宋の景平元年正月三日辛丑に南郊し、その月十一日に立春あり。元嘉十六年正月六日辛未に南郊し、その月八日に立春あり。これら近世の明らかな例である」。いずれもこれに従った。

原文儉尋以本官領太子詹事,加兵三百人。時皇太子妃薨,左衛將軍沈文季經為宮臣,未詳服不。儉議曰:「漢、魏以來,宮僚先備臣隸之節,具體在三。存既盡敬,亡豈無服?昔庾翼喪妻,王允、滕含猶謂府吏宜有小君之服,況臣節之重。宜依禮為舊君之妻齊衰三月而除。」上崩,遺詔以儉為侍中、尚書令、鎮軍。每上朝,令史恒有三五十人隨上,諮事辯析,未嘗壅滯。褚彥回時為司徒、錄尚書,笑謂儉曰:「觀令判斷甚樂。」儉曰:「所以得厝私懷,實由稟明公不言之化。」武帝即位,給班劍二十人,進號衛將軍,掌選事。時有司以前代嗣位,或仍前郊年,或別為郊始,晉、宋以來,未有畫一。儉議曰:「晉明帝太寧三年南郊,其年九月崩;成帝即位,明年改元,亦郊。簡文咸安二年南郊,其年七月崩;孝武即位,明年改元,亦郊。宋元嘉三十年正月南郊,二月崩;孝武嗣位,明年亦郊。此二代明例,差可依放。今聖明系業,幽顯宅心,言化則頻郊非嫌,語事則元號初改,禋燎登配,孝敬兼遂。謂明年正月宜饗祀二郊,虔祭明堂。自茲以後,依舊間歲。」有司又以明年正月上辛應南郊,而立春在上辛後,郊在立春前為疑。儉曰:「宋景平元年正月三日辛丑南郊,其月十一日立春,元嘉十六年正月六日辛未南郊,其月八日立春,此近世明例也。」並從之。

永明二年、丹陽尹を兼任した。三年、国子祭酒を兼任し、また太子少傅を兼任した。旧来、太子は二傅(太傅・少傅)を同じく敬ったが、この時に至り朝議で少傅には賓友の礼で接することとした。宋の時代に国学は頽廃し、修復する暇がなく、宋の明帝泰始六年に総明観を置いて学士を集め、或いは東観と呼び、東観祭酒一人、総明訪挙郎二人を置いた。儒・玄・文・史の四科、科ごとに学士十人を置き、その他の令史以下それぞれ差等があった。この年、国学が既に設立されたので、総明観を省き、王儉の宅に学士館を開き、総明観の四部の書を以てこれを充てた。また詔して王儉に家を以て府と為すことを許した。四年、本官のまま吏部を兼任した。先に宋の孝武帝が文章を好み、天下ことごとく文采を以て相尚び、専ら経学を業とする者はなかった。王儉は弱年より三礼に留意し、特に春秋に善く、発言吐論、造次にも必ず儒教に於いて、これにより衣冠の士は翕然として並び経学を尚び、儒教はここに大いに興った。何承天の礼論三百巻を、王儉は八帙に抄し、また別に条目を抄して十三巻とした。朝儀旧典、晋・宋以来施行の故事を、撰次し諳憶して、遺漏するものはなかった。これにより当朝に事を理め、断決すること流るるが如しであった。毎に博議して引証するに、先儒にその例あるは稀で、八坐・丞郎も異を唱える者はなかった。令史が事を諮り、賓客満席するも、王儉は応接し銓序して、傍らに留滞するものはなかった。十日に一度還り、諸生を監試し、巾巻が庭にあり、剣衛・令史、儀容甚だ盛んであった。解散幘を作り、斜めに簪を挿し、朝野これに慕い、相与に倣効した。王儉は常に人に謂って言う、「江左の風流宰相は、ただ謝安のみ有り」と、蓋し自ら況えたのである。武帝は深くこれを委仗し、士流の選用は、奏上して不可なるものはなかった。

原文永明二年,領丹陽尹。三年,領國子祭酒,又領太子少傅。舊太子敬二傅同,至是朝議接少傅以賓友禮。宋時國學頹廢,未暇修復,宋明帝泰始六年,置總明觀以集學士,或謂之東觀,置東觀祭酒一人,總明訪舉郎二人;儒、玄、文、史四科,科置學士十人,其餘令史以下各有差。是歲,以國學既立,省總明觀,於儉宅開學士館,以總明四部書充之。又詔儉以家為府。四年,以本官領吏部。先是宋孝武好文章,天下悉以文采相尚,莫以專經為業。儉弱年便留意三禮,尤善春秋,發言吐論,造次必於儒教,由是衣冠翕然,並尚經學,儒教於此大興。何承天禮論三百卷,儉抄為八帙,又別抄條目為十三卷。朝儀舊典,晉、宋來施行故事,撰次諳憶,無遺漏者。所以當朝理事,斷決如流。每博議引證,先儒罕有其例,八坐丞郎,無能異者。令史諮事,賓客滿席,儉應接銓序,傍無留滯。十日一還,監試諸生,巾卷在庭,劍衛令史,儀容甚盛。作解散幘,斜插簪,朝野慕之,相與放效。儉常謂人曰,「江左風流宰相,惟有謝安」,蓋自況也。武帝深委仗之,士流選用,奏無不可。

五年、王儉は即ち本号のまま開府儀同三司に任ぜられたが、固く辞譲した。六年、前命を重ねて申し命じた。先に詔して王儉に三日に一度朝廷に還ることを許し、尚書令史が外に出て事を諮ったが、上(武帝)は往来煩数であることを以て、詔して王儉に尚書下省に還り、月に十日の外出行を聴することを許した。王儉は選事の解任を啓請したが、上は許さなかった。七年、乃ち上表して固く請い、許され、中書監を兼任することに改め、選事を参掌した。その年に疾を患い、上は親しく臨視した。薨去、年三十八。詔して衛軍の文武及び台より給する兵仗は、悉く侍葬を停めしめた。また詔して太尉を追贈し、羽葆・鼓吹を加え、班剣を六十人に増し、葬礼は太宰文簡公褚彦回の故事に依った。諡して文憲公と為す。

原文五年,儉即本號開府儀同三司,固讓。六年,重申前命。先是詔儉三日一還朝,尚書令史出外諮事,上以往來煩數,詔儉還尚書下省,月聽十日出外。儉啟求解選,上不許。七年,乃上表固請,見許,改領中書監,參掌選事。其年疾,上親臨視。薨,年三十八。詔衛軍文武及台所給兵仗,悉停侍葬。又詔追贈太尉,加羽葆、鼓吹,增班劍為六十人,葬禮依太宰文簡公褚彥回故事。諡文憲公。

王儉は嗜欲寡く、ただ経国を務めとし、車服は塵素、家に遺財無し。手筆は典裁、当時に重んぜられた。少より便ち宰臣の志有り、詩を賦して云う、「稷契は虞夏を匡く、伊呂は商周を翼く」。及び子を生み、字して玄成と曰い、仍世相を為すの義を取った。古今喪服集記並びに文集を撰し、並びに世に行わる。梁の武帝が禅を受けると、詔して王儉の為に碑を立て、爵を降じて侯と為した。

原文儉寡嗜欲,唯以經國為務,車服塵素,家無遺財。手筆典裁,為當時所重。少便有宰臣之志,賦詩云:「稷契匡虞夏,伊呂翼商周。」及生子,字曰玄成,取仍世作相之義。撰古今喪服集記並文集,並行於世。梁武帝受禪,詔為儉立碑,降爵為侯。

王儉の弟の王遜は、宋の升明中に丹陽丞となり、劉彦節の事を告げたが、封賞を受けなかった。建元初め、晋陵太守となり、怨言有り。王儉は禍と為るを慮り、褚彦回を因って啓聞し、中丞陸澄が事に依って挙奏した。詔して王儉が誠を竭くして命を佐けたことを以て、特に刑書を降して王遜を宥し、永嘉郡に遠徙させ、道中に於いて誅殺された。長子の王騫が嗣いだ。

原文儉弟遜,宋升明中為丹陽丞,告劉彥節事,不蒙封賞。建元初,為晉陵太守,有怨言。儉慮為禍,因褚彥回啟聞,中丞陸澄依事舉奏。詔以儉竭誠佐命,特降刑書宥遜,遠徙永嘉郡,於道伏誅。長子騫嗣。

王儉の子 王騫

原文儉子 騫

王騫は字を思寂と云い、本字は玄成であったが、斉の高帝の偏諱いみなと同じであるので、故に改めた。性は凝簡、楽広の為人を慕い、未だかつて人の短を言わなかった。諸女子・姪は皆王に嬪し主に尚し、朔望に帰来する時、輜軿填咽するも、欲する所では無く、歳中に一度再見を過ぎざることを敕した。嘗て従容として諸子に謂って言う、「吾が家は本より素族、自ら流に依って平進すべく、苟も求むるを須いず」。黄門郎・司徒右長史を歴任した。産業に事えず、旧墅が鍾山に八十余頃有り、諸宅及び故旧と共にこれを佃った。常に人に謂って言う、「我は鄭公業の如くにはあらず。田四百頃有りながら、食常に周しまざる有り」。これを以て愧とした。永元末、侍中に召されたが、拝さず。三年春、枉矢が昼に西方に見え、長さ十余丈。王騫は言う、「これ旧を除き新を布くの象なり」。及び梁の武帝が兵を起こすと、王騫は言う、「天時人事、其れ此に在るか」。梁の武帝の霸府が建つと、大司馬諮議参軍に引かれ、侍中に遷った。及び帝が禅を受けると、降封されて侯と為った。度支尚書、中書令を歴任した。武帝が鍾山西に大愛敬寺を造営すると、王騫の旧墅で寺の側にあるものは、即ち王導の賜田であった。帝は主書を遣わし旨を宣し、王騫に就いてこれを買い取り、寺に施さんと欲した。答えて云う、「この田は売らず。若し敕して取らば、敢えて言う所に非ず」。酬対また脱略であった。帝は怒り、遂に市に付して田価を評させ、直を以て逼ってこれを還した。これにより旨に忤い、出されて呉興太守と為った。

原文騫字思寂,本字玄成,與齊高帝偏諱同,故改焉。性凝簡,慕樂廣為人,未嘗言人之短。諸女子侄皆嬪王尚主,朔望來歸,輜軿填咽,非所欲也,敕歲中不過一再見。嘗從容謂諸子曰:「吾家本素族,自可依流平進,不須苟求也。」曆黃門郎、司徒右長史。不事產業,有舊墅在鍾山八十餘頃,與諸宅及故舊共佃之。常謂人曰:「我不如鄭公業有田四百頃,而食常不周。」以此為愧。永元末,召為侍中,不拜。三年春,枉矢晝見西方,長十餘丈。騫曰:「此除舊佈新之象也。」及梁武起兵,騫曰:「天時人事,其在此乎。」梁武霸府建,引為大司馬諮議參軍,遷侍中。及帝受禪,降封為侯。歷位度支尚書,中書令。武帝於鍾山西造大愛敬寺,騫舊墅在寺側者,即王導賜田也。帝遣主書宣旨,就騫市之,欲以施寺。答云:「此田不賣;若敕取,所不敢言。」酬對又脫略。帝怒,遂付市評田價,以直逼還之。由是忤旨,出為吳興太守。

王騫は性、味に於いては侈るも服に於いては儉しく、頗る多忌を以て累と為した。また接物に惰り、主書が宣敕するも、或いは時を過ぎて見えざること有り。才望は弟の王暕に及ばず、特だ王儉の嫡子であることを以て、故に時に棄てられず。王暕は尚書左丞僕射となり、当朝用事した。王騫は中書令より郡守と為り、邑邑として楽しまず、郡に在って臥して事を視ず。征されて復た度支尚書と為り、給事中を加えられ、射声校尉を兼任した。母の憂いを以て職を去った。普通三年に卒し、年四十九。侍中・金紫光禄大夫を贈られ、諡して安と曰う。子に王規が有る。

原文騫性侈於味而儉於服,頗以多忌為累。又惰於接物,雖主書宣敕,或過時不見。才望不及弟暕,特以儉之嫡,故不棄于時。暕為尚書左丞僕射,當朝用事,騫自中書令為郡,邑邑不樂,在郡臥不視事。征復為度支尚書,加給事中,領射聲校尉。以母憂去職。普通三年卒,年四十九。贈侍中、金紫光祿大夫,諡曰安。子規。

王騫の子 王規

原文騫子 規

王規は字を威明といい、八歳の時に実母の喪に遭い、喪に服しては天性の孝心を示した。斉の太尉徐孝嗣は彼を見るたびに必ず涙を流し、「孝童」と称えた。叔父の王暕もまた深く彼を器重し、常に「この児は我が家の千里駒である」と言った。十二歳で五経の大義をほぼ通暁し、成長すると、広く学問に渉り口弁も優れた。本州の迎主簿に任じられた。初官は秘書郎であり、累進して太子洗馬となった。

原文規字威明,八歲丁所生母憂,居喪有至性。齊太尉徐孝嗣每見必為流涕,稱曰:「孝童」。叔父暕亦深器重之,常曰:「此兒吾家千里駒也。」年十二,略通五經大義,及長,遂博涉有口辯。為本州迎主簿。起家秘書郎,累遷太子洗馬。

天監十二年、太極殿の改築が完成すると、王規は新殿賦を献上し、その文辞は甚だ巧みであった。後に晋安王蕭綱の雲麾諮議参軍となり、長くして新安太守となった。父の喪で職を去り、喪が明けると、南昌県侯の封を襲い、中書黄門侍郎に任じられた。詔勅により陳郡の殷芸、琅邪の王錫、范陽の張緬と共に東宮に侍し、皆、昭明太子に礼遇された。湘東王蕭繹が当時丹陽尹であり、朝士と宴会を開いた際、王規に酒令を執るよう命じた。王規は従容として言った、「江左以来、このような挙はありません」。特進の蕭琛と金紫光禄大夫の傅昭が同席しており、共に識見ある言葉であると言った。朱異がかつて酒席で王規を「卿」と呼んだことがあり、王規は無礼を責めた。

原文天監十二年,改造太極殿畢,規獻新殿賦,其辭甚工。後為晉安王綱雲麾諮議參軍,久之,為新安太守。父憂去職,服闋,襲封南昌縣侯。除中書黃門侍郎,敕與陳郡殷芸、琅邪王錫、范陽張緬同侍東宮,俱為昭明太子所禮。湘東王繹時為丹陽尹,與朝士宴集,屬規為酒令。規從容曰:「江左以來,未有茲舉。」特進蕭琛、金紫光祿大夫傅昭在坐,並謂為知言。朱異嘗因酒卿規,規責以無禮。

普通の初め、陳慶之が北征して洛陽を陥落させると、百官が慶賀した。王規は退いて言った、「弔うべきことである。どうして賀するのか。道家に言う、功を為すは難からず、功を成すは難し、と。昔、桓温は得てまた失い、宋武帝は結局成功しなかった。我らは孤軍で援けなく、深く敵境に入れば、乱の階となるであろう」。間もなく敗没したことが明らかになった。

原文普通初,陳慶之北侵,陷洛陽,百僚稱慶。規退曰:「可吊也,又何賀焉。道家有云:非為功難,成功難也。昔桓溫得而復失,宋武竟無成功。我孤軍無援,深入寇境,將為亂階。」俄見覆沒。

六年、武帝が文徳殿で広州刺史元景隆の餞別を行い、詔して群臣に詩を賦させ、皆五十韻を用いた。王規は筆を取ってすぐに奏上し、その文もまた美しく、武帝はこれを嘉して、即日に侍中に任じた。後に晋安王の長史となった。王が太子に立てられると、引き続き散騎常侍、太子中庶子となり、東宮に侍した。太子は自ら着用していた貂蟬を賜り、併せて令書を下し、この挙を喜んだ。まもなく呉郡太守となり、主書の芮珍宗の家が呉にあり、前任の太守・県令らは皆、心を傾けて彼に附いていた。この時、珍宗が休暇で帰郷すると、王規は彼を甚だ冷淡に遇した。珍宗が都に戻ると、密かに王規が郡の政務を治めないと奏上した。間もなく左戸尚書に召された。郡内の千余人が宮門に赴いて留任を請い、三度上表したが許されなかった。郡内に碑を建てることを求め、許された。

原文六年,武帝於文德殿餞廣州刺史元景隆,詔群臣賦詩,同用五十韻。規援筆立奏,其文又美,武帝嘉焉,即日授侍中。後為晉安王長史。王立為太子,仍為散騎常侍、太子中庶子,侍東宮。太子賜以所服貂蟬,並降令書,悅是舉也。尋為吳郡太守,主書芮珍宗家在吳,前守宰皆傾意附之。至是珍宗假還,規遇之甚薄,珍宗還都,密奏規不理郡事。俄徵為左戶尚書。郡境千餘人詣闕請留,表三奏不許。求于郡樹碑,許之。

王規は常に門宗が貴盛であることを思い、常に退くことを考えていた。後に太子中庶子、兼ねて歩兵校尉に任じられたが、病気を理由に拝命せず、遂に鍾山の宋熙寺に室を築いて居住した。死去すると、光禄大夫を追贈され、諡して文といった。皇太子が臨哭し、湘東王蕭繹に令して言った、「王威明は風韻が勁く上品で、神峰が映え、千里に跡絶え、百尺に枝無く、実に俊人である。ひとたび過隙の如く、永く長夜に帰し、金刀は芒を掩い、長淮は涸れ絶える。去歳の冬中には既に劉子(劉孝綽か)を傷み、今しがたの寒孟(初冬)にはまた王生を悼む。共に往きし傷み、確かに虚説ではない」。王規は後漢の諸家の異同を集め、続漢書二百巻に注した。文集二十巻。

原文規常以門宗貴盛,恒思減退。後為太子中庶子,領步兵校尉,辭疾不拜,遂于鍾山宋熙寺築室居焉。卒,贈光祿大夫,諡曰文。皇太子出臨哭,與湘東王繹令曰:「王威明風韻遒上,神峰標映,千里絕跡,百尺無枝,實俊人也。一爾過隙,永歸長夜,金刀掩芒,長淮絕涸。去歲冬中,已傷劉子,今茲寒孟,復悼王生。俱往之傷,信非虛說。」規集後漢眾家異同,注續漢書二百卷。文集二十卷。

子の王褒は、魏が江陵を陥落させた時、長安に入った。

原文子褒,魏克江陵,入長安。

王騫の弟、王暕。

原文騫弟 暕

王暕は字を思晦といい、王騫の弟である。数歳で風神が聡明抜群で、成人の風格があった。当時父の王儉が宰相を務め、賓客が門に満ちていたが、王暕を見て言った、「公の才、公の望、またここに在り」。弱冠で淮南長公主に尚し、駙馬都尉に任じられ、秘書丞を歴任した。斉の明帝が異士を求める詔を下すと、始安王蕭遙光が王暕及び東海の王僧孺を推薦した。王暕は驃騎従事中郎に任じられ、天監年間に侍中、吏部尚書、兼ねて国子祭酒を歴任した。門地が貴いため、世間と隔たり、寒素の士に心を留めず、頗る刻薄と称された。後に尚書左僕射、兼ねて国子祭酒となった。死去し、諡して靖といった。子の王承、王幼、王訓は皆、通顕した。

原文暕字思晦,騫弟也。年數歲而風神警拔,有成人之度。時父儉作宰相,賓客盈門,見暕曰:「公才公望,復在此矣。」弱冠選尚淮南長公主,拜駙馬都尉,曆秘書丞。齊明帝詔求異士,始安王遙光薦暕及東海王僧孺。除暕驃騎從事中郎,天監中,歷位侍中,吏部尚書,領國子祭酒。門貴,與物隔,不能留心寒素,頗稱刻薄。後為尚書左僕射,領國子祭酒。卒,諡曰靖。子承、幼、訓,並通顯。

王暕の弟、王承。

原文暕弟 承

王承は字を安期といい、初め秘書郎となり、累進して中書黄門侍郎、兼ねて国子博士となった。当時、膏腴の貴遊子弟は皆、文学を以て相尚とし、経術を業とする者は稀であった。ただ王承のみが儒業を好んだ。長兼侍中に遷り、まもなく国子祭酒に転じた。王承の祖父王儉、父王暕共にこの職に就き、三世国師となり、前代に未だかつてなかったことである。長くして、出て東陽太守となった。政治は寛恵を旨とし、吏民はこれを喜んだ。郡で死去し、諡して章といった。

原文承字安期,初為秘書郎,累遷中書黃門侍郎,兼國子博士。時膏腴貴遊,咸以文學相尚,罕以經術為業;唯承獨好儒業。遷長兼侍中,俄轉國子祭酒。承祖儉父暕皆為此職,三世為國師,前代未之有。久之,出為東陽太守。政存寬惠,吏人悅之。卒郡,諡曰章。

王承は性質が簡素で貴重、風格があった。右衛将軍朱異が朝廷で権勢を振るい、休暇の度毎に、車馬が門に充ちた。魏郡の申英という者がおり、門地は寒微だが才俊で、危言高論を好んで権門に逆らった。かつて朱異の門を指して言った、「ここに輻湊する者は、皆、利に赴く者である。来ることができない者は、大小の王東陽のみである」。小東陽とは即ち王承の弟、王幼である。当時、王承兄弟と褚翔のみが朱異の門を訪れず、世間は併せて称えた。王訓は字を懐範といい、生まれた時に紫の胞衣に包まれ、産婆が「法として貴くなるべき相である」と言った。幼少より聡明で機敏、識見と度量があった。僧正の恵超は彼を見て奇異とし、門人の羅智国に言った、「四郎(王訓)は眉目が疏朗で、挙動が和やかで韻があり、これは門戸を興す者である」。智国がこれを王暕に告げると、王暕もまた言った、「基業を墜とさない者は、文殊に在り」。文殊は王訓の小字である。十三歳の時、王暕が亡くなると、憂いのあまり憔悴し、家人も識別できなかった。十六歳で文徳殿に召見され、応対が爽やかで明徹であったため、上(武帝)は長く見送り、朱異に言った、「相門に相有りと言えよう」。初め国子生に補され、師の袁昂に謁見した。袁昂は言った、「久しく高名を籍(記)し、虚想を労していたが、容止を観れば、雲霧を披くが如し」。まもなく諸袁の子弟が来ると、袁昂は諸助教に言った、「我が子は十数人いるが、もし一人でもこのような子があれば、実に恨み無し」。射策に及第し、秘書郎に任じられ、累進して秘書丞となった。かつて詩を賦して云った、「旦奭は世を匡うる功、蕭曹は甿俗を佐く」。祖父王儉の志を追ったのである。

原文承性簡貴,有風格。右衛朱異當朝用事,每休下,車馬填門。有魏郡申英者,門寒才俊,好危言高論以忤權右。嘗指異門曰:「此中輻湊,皆為利往,能不至者,唯大小王東陽耳。」小東陽即承弟幼也。時唯承兄弟及褚翔不至異門,世並稱之。訓字懷範,生而紫胞,師媼云:「法當貴」。幼聰警,有識量,僧正惠超見而奇之,謂門人羅智國曰:「四郎眉目疏朗,舉動和韻,此是興門戶者。」智國以白暕,暕亦曰:「不墜基業,其在文殊。」文殊,訓小字也。年十三,暕亡,憂毀,家人莫識。十六召見文德殿,應對爽徹,上目送久之,謂朱異曰:「可謂相門有相。」初補國子生,問說師袁昂。昂曰:「久籍高名,有勞虛想,及觀容止,若披雲霧。」俄而諸袁子弟來,昂謂諸助教曰:「我兒出十數,若有一子如此,實無所恨。」射策,除秘書郎,累遷秘書丞。嘗賦詩云:「旦奭匡世功,蕭曹佐甿俗。」追祖儉之志也。

後に侍中に拝され、入朝して武帝に謁見した。帝は何敬容に問うて言った、「褚彥回(褚淵)は何歳で宰相となったか」。敬容が「三十を少し過ぎて」と答えると、上は言った、「今の王訓は、褚彥回に謝(譲)るところ無し」。王訓は容儀が美しく、進退の礼に優れ、文章は後進の領袖であった。二十六歳で死去し、諡して温子といった。

原文後拜侍中,入見武帝。帝問何敬容曰:「褚彥回年幾為宰相?」敬容曰:「少過三十。」上曰:「今之王訓,無謝彥回。」訓美容儀,善進止,文章為後進領袖。年二十六,卒,諡溫子。

子、王僧虔。

原文子 僧虔

王僧虔は、金紫光禄大夫王僧綽の弟である。父の王曇首は、兄弟が集まって子孫を任せて遊戯させた。王僧達は地に跳び下りて虎の子(彪子)の真似をした。その時、王僧虔は十二個の博棋を積み重ね、落とすこともなく、また重ね直すこともしなかった。王僧綽は蝋燭の珠を採って鳳凰を作り、王僧達が奪い取って打ち壊しても、また惜しむ様子もなかった。伯父の王弘は歎じて言った、「僧達は俊爽で、人に劣ることはないだろう。しかし我が家を亡ぼす者は、結局この子である。僧虔は必ず三公に至り、僧綽は名義によって美を顕わすであろう」。或る説では、王僧虔が燭珠を採って鳳凰を作り、王弘が彼を長者と称えたという。王僧虔は弱冠で、特に隷書を善くし、宋の文帝が彼の書いた素扇を見て歎じて言った、「ただ筆跡が子敬(王献之)を超えるのみならず、器量の雅さもまた彼を過ぎるであろう」。太子舎人となり、退いて黙し、交際は少なかった。袁淑、謝莊と親善し、袁淑は常に彼を歎じて言った、「卿の文情は鴻麗で、学解は深く抜きん出ている。しかも光を韜み実を潜め、人々はこれを窺うことができない。たとえ魏の陽元(魏舒)の射、王汝南(王湛)の騎であっても、これに加えることはできない」。司徒左西属に遷った。

原文僧虔,金紫光祿大夫僧綽弟也。父曇首,與兄弟集會子孫,任其戲適。僧達跳下地作彪子。時僧虔累十二博棋,既不墜落,亦不重作。僧綽采蠟燭珠為鳳皇,僧達奪取打壞,亦復不惜。伯父弘歎曰:「僧達俊爽,當不減人;然亡吾家者,終此子也。僧虔必至公,僧綽當以名義見美。」或云僧虔采燭珠為鳳皇,弘稱其長者云。僧虔弱冠,雅善隸書,宋文帝見其書素扇,歎曰:「非唯跡逾子敬,方當器雅過之。」為太子舍人,退默少交接。與袁淑、謝莊善,淑每歎之曰:「卿文情鴻麗,學解深拔,而韜光潛實,物莫之窺,雖魏陽元之射,王汝南之騎,無以加焉。」遷司徒左西屬。

兄の僧綽が宋の元凶に害せられると、親族賓客は皆彼に逃げるよう勧めたが、僧虔は泣いて言った、「我が兄は国に奉じて忠貞を尽くし、我を慈愛をもって撫でてくれた。今日の事態は、ただ兄に及ばなかったことを苦しむのみである。もし共に九泉に帰するならば、それは羽化するようなものだ」と。孝武帝の初め、武陵太守として出向し、諸子や甥を連れて行った。兄の子の儉が途中で病を得ると、僧虔は寝食を忘れ、同行の客が慰め諭した。僧虔は言った、「昔、馬援が子や甥の間にあって一情も異ならず、鄧攸は弟子に対しては更に生んだ子以上であった。我は実にその心を懐き、誠に古人と異ならない。亡き兄の胤を、軽んじてはならぬ。もしこの児が救われぬならば、直ちに舟を返し職を辞そう」と。還って中書郎となり、再び太子中庶子に遷った。

原文兄僧綽為宋元凶所害,親賓咸勸之逃,僧虔泣曰:「吾兄奉國以忠貞,撫我以慈愛,今日之事,苦不見及耳。若同歸九泉,猶羽化也。」孝武初,出為武陵太守,攜諸子侄。兄子儉中塗得病,僧虔為廢寢食,同行客慰喻之。僧虔曰:「昔馬援處子侄之間,一情不異,鄧攸于弟子,更逾所生,吾實懷其心,誠未異古。亡兄之胤,不宜忽諸,若此兒不救,便當回舟謝職。」還為中書郎,再遷太子中庶子。

孝武帝は書の名声を独占しようとしたので、僧虔は顕わに跡を表さず、大明の世には常に拙い筆で書いたため、これによって容れられた。後に御史中丞となり、驍騎将軍を領した。甲族は元来多く憲台に居らず、王氏の分家で烏衣に住む者は、位官がやや減じていた。僧虔がこの官に就くと、言った、「これは烏衣の諸郎の坐する所、我も試みに為し得よう」と。泰始年間、吳興太守となった。かつて王献之が書を善くし、吳興郡守となり、及んで僧虔も書に巧みで、また郡守となったので、論者はこれを称えた。

原文孝武欲擅書名,僧虔不敢顯跡,大明世常用掘筆書,以此見容。後為御史中丞,領驍騎將軍。甲族由來多不居憲台,王氏分枝居烏衣者,位宦微減。僧虔為此官,乃曰:「此是烏衣諸郎坐處,我亦可試為耳。」泰始中,為吳興太守。始王獻之善書,為吳興郡,及僧虔工書,又為郡,論者稱之。

會稽太守に転じた。中書舎人阮佃夫の家は東にあり、帰省を請うと、客が僧虔に、佃夫は要幸の臣であるから礼を加えて接すべきだと勧めた。僧虔は言った、「我が立身には素より節があり、どうして曲げてこの輩に意を通じられようか。彼がもし悪しとすれば、衣を払って去るのみである」と。佃夫が宋の明帝に言上し、御史中丞孫敻に僧虔を弾劾させ、坐して官を免ぜられた。まもなく白衣のまま侍中を領した。

原文徙會稽太守。中書舍人阮佃夫家在東,請假歸,客勸僧虔以佃夫要幸,宜加禮接。僧虔曰:「我立身有素,豈能曲意此輩;彼若見惡,當拂衣去耳。」佃夫言于宋明帝,使御史中丞孫敻奏僧虔,坐免官。尋以白衣領侍中。

元徽年間、吏部尚書となり、まもなく散騎常侍を加えられ、右僕射に転じた。升明二年、尚書令となった。かつて飛白の書で尚書省の壁に題して言った、「円く行き方に止まるは、物の定質なり。これを修めて已まざれば則ち溢れ、これを高くして已まざれば則ち慄き、これを馳せて已まざれば則ち躓き、これを引いて已まざれば則ち重なる。是の故にこれを去るには疾きに宜し」と。当時これを嗟賞し、座右の銘に比した。兄の子の儉が毎回謁見するたびに、必ず以前の言行や忠貞・止足の道を勧めた。

原文元徽中,為吏部尚書,尋加散騎常侍,轉右僕射。升明二年,為尚書令。嘗為飛白書題尚書省壁曰:「圓行方止,物之定質,修之不已則溢,高之不已則栗,馳之不已則躓,引之不已則疊,是故去之宜疾。」當時嗟賞,以比坐右銘。兄子儉每覲見,輒勖以前言往行、忠貞止足之道。

文史を雅く好み、音律を解し、朝廷の礼楽が多く正典に違うこと、民間で競って新声を作ることを以て、時に斉の高帝が政を輔けていたので、僧虔は上表して声楽を正すことを請うた。高帝は侍中蕭惠基に清商の音律を調正させた。

原文雅好文史,解音律,以朝廷禮樂,多違正典,人間競造新聲。時齊高帝輔政,僧虔上表請正聲樂,高帝乃使侍中蕭惠基調正清商音律。

斉が天命を受けると、侍中・丹陽尹に転じた。郡県の獄では相承いて上湯(熱湯)で囚人を殺すことがあった。僧虔は上言して、「湯は本来疾を救うものだが、実は冤暴を行っている。もし罪が必ず重きに入るならば、自ずと正刑あり。もし悪を去るに疾きを宜しとするならば、則ち先ず啓すべきである。どうして死生の大命を、ひそかに下邑に制せられようか」と言った。上はその言を容れて止めた。

原文齊受命,轉侍中、丹陽尹。郡縣獄相承有上湯殺囚,僧虔上言:「湯本救疾,而實行冤暴,若罪必入重,自有正刑,若去惡宜疾,則應先啟,豈有死生大命,而潛制下邑。」上納其言而止。

文恵太子が雍州を鎮守していた時、古塚を発掘する盗賊があり、相伝えて楚王の塚であると言い、玉履・玉屏風・竹簡の書・青絲の綸など宝物を多く獲た。簡は幅数分、長さ二尺で、皮の節は新しきが如かった。十数簡を得た者が僧虔に見せると、これは科斗書の考工記で、周官の欠けている文であると言った。

原文文惠太子鎮雍州,有盜發古塚者,相傳云是楚王塚,大獲寶物:玉履、玉屏風、竹簡書、青絲綸。簡廣數分,長二尺,皮節如新。有得十餘簡以示僧虔,雲是科斗書考工記,周官所闕文也。

高帝は元来書を善くし、篤く好んで已まなかった。僧虔と書を賭けた後、言った、「誰が第一か」と。答えて言った、「臣の書は第一、陛下もまた第一です」と。帝は笑って言った、「卿は善く自ら謀るというべし」と。あるいは帝が問うて、「我が書は卿に如何」と。答えて言った、「臣は正書第一、草書第二。陛下は草書第二、而して正書第三。臣に第三は無く、陛下に第一は無し」と。帝は大笑して言った、「卿は善く辞す。然れども天下に道あれば、丘も与に易えず」と。帝は僧虔に古跡十一巻を示し、能書の人名を求めた。僧虔は人間に所有するもので巻中に無いもの、呉の大皇帝・景帝・帰命侯の書、桓玄の書、及び王丞相導・領軍洽・中書令瑉・張芝・索靖・衛伯儒・張翼の十一巻を得て、奏上した。また羊欣の撰する能書人名一卷を上った。湘州刺史に遷り、侍中は元の如し。清簡で財産を営まず、百姓はこれに安んじた。

原文高帝素善書,篤好不已,與僧虔賭書畢,謂曰:「誰為第一?」對曰:「臣書第一,陛下亦第一。」帝笑曰:「卿可謂善自為謀。」或云帝問:「我書何如卿?」答曰:「臣正書第一,草書第二;陛下草書第二,而正書第三。臣無第三,陛下無第一。」帝大笑曰:「卿善為辭;然天下有道,丘不與易也。」帝示僧虔古跡十一卷,就求能書人名。僧虔得人間所有卷中所無者:吳大皇帝、景帝、歸命侯書,桓玄書,及王丞相導、領軍洽、中書令瑉、張芝、索靖、衛伯儒、張翼十一卷,奏之。又上羊欣所撰能書人名一卷。遷湘州刺史,侍中如故。清簡不營財產,百姓安之。

武帝が即位すると、風疾を理由に陳解を欲し、侍中・左光禄大夫・開府儀同三司に遷った。僧虔が若い時、一族の者たちが一堂に会し、客が相を見て言った、「僧虔は年齢と地位が最も高く、仕えて公に至り、余人は及ばない」と。この授けに及んで、僧虔は兄の子の儉に言った、「汝は朝において重任を負い、行くところ八命の礼あらん。我もしまたこの授けを受ければ、一門に二つの台司あり、実に畏懼すべきところである」と。乃ち固く辞し、上は優詔を以てこれを許した。客がその故を問うと、僧虔は言った、「我が栄位は既に過ぎており、国に報いること無し。どうして更に高爵を受け、まさに官の謗りを貽さんや」と。儉が既に朝の宰となって長梁斎を建てると、制度が少し過ぎていた。僧虔はこれを見て喜ばず、遂に戸に入らなかった。儉は即日にこれを毀した。永明三年に薨じ、時に六十歳。司空を追贈され、侍中は元の如し。諡して簡穆といった。

原文武帝即位,以風疾欲陳解,遷侍中、左光祿大夫、開府儀同三司。僧虔少時,群從並會,客有相之云:「僧虔年位最高,仕當至公,余人莫及。」及此授,僧虔謂兄子儉曰:「汝任重於朝,行當有八命之禮,我若復此授,一門有二台司,實所畏懼。」乃固辭,上優而許之。客問其故,僧虔曰:「吾榮位已過,無以報國,豈容更受高爵,方貽官謗邪。」儉既為朝宰,起長梁齋,制度小過,僧虔視之不悅,竟不入戶。儉即日毀之。永明三年薨,時年六十。追贈司空,侍中如故。諡簡穆。

僧虔は星文を頗る解し、夜坐して豫章の分野に事故あるべきを見た。時に僧虔の子の慈が豫章内史であり、公事あることを慮った。しばらくして僧虔が薨じると、郡を棄てて奔赴した。時に前将軍陳天福が、唐宇之を討つに当たり銭唐で百姓の財物を掠奪した罪に坐し、棄市された。先に天福が行くに当たり、家人に命じて予め寿塚を作らせた。未だ東に至らぬうちに、また信を送って速やかに成らせるよう催促した。塚が成って罪を得たので、因ってこれに葬った。また宋の世の光禄大夫劉鎮之は三十歳ばかりの時、病篤く、既に凶具を整えた。既にして疾が癒え、因って棺を蓄えて寿棺とし、九十余歳で亡くなり、この器が初めて用いられた。これによって言えば、天道は未だ易く知り難いのである。

原文僧虔頗解星文,夜坐見豫章分野當有事故,時僧虔子慈為豫章內史,慮有公事;少時而僧虔薨,棄郡奔赴。時有前將軍陳天福,坐討唐宇之于錢唐掠奪百姓財物棄市。先是天福將行,令家人豫作壽塚,未至東,又信催速就。塚成而得罪,因以葬焉。又宋世光祿大夫劉鎮之年三十許,病篤,已辦凶具;既而疾愈,因畜棺以為壽,九十餘乃亡,此器方用。因此而言,天道未易知也。

僧虔が書論において云う、「宋の文帝の書は、自ら言うに王子敬に比すべしと。当時の議者は云う、『天然は羊欣に勝り、功夫は欣より少なし』と。王平南廙は、右軍の叔父、江を渡り、右軍以前において最も優れたりと為す。亡き曾祖領軍の書は、右軍云う、『弟の書遂に吾に減ぜず』と。古制を変じ、今に至るは唯右軍のみ。領軍は然らず、今に至るも猶鍾・張を法とす。亡き従祖中書令の書は、子敬云う、『弟の書は騾に騎るが如く、駸駸として恒に驊騮の前を度らんと欲す』と。庾征西翼の書は、少時に右軍と名を斉しくし、右軍後進すれども、庾猶分たず。荊州に在りて都下の人に与える書に云う、『小児輩家鶏を賤しみ、皆逸少の書を学び、須らく吾が下って当に之に比すべし』と。張翼は、王右軍自ら表を書し、晋の穆帝翼に命じて後に題し答えしめしを写さしむ。右軍当時に別たず、久しうして後方に悟り、云う『小人幾らか真を乱さんと欲す』と。張芝・索靖・韋誕・鍾会・二衛は、並びに名前代に得たり、以て其の優劣を弁ずる無し、唯其の筆力の驚異なるを見るのみ。張澄も当時に亦意有りと呼ばる。郗愔の章草は右軍に亜ぐ。郗嘉賓の草は二王に亜ぎ、緊媚その父を過ぐ。桓玄自ら右軍の流と謂うも、論者は以て孔琳之に比す。謝安も亦能書録に入り、亦自ら重んじ、子敬の為に嵇康の詩を書す。羊欣の書は一時に見重んぜられ、親しく子敬に受く。行書は尤も善くし、正書は乃ち名に称せず。孔琳之の書は、天然縦放にして、極めて筆力有り、規矩は恐らく羊欣の後に在らん。丘道護は羊欣と倶に面して子敬に受けし故、故に当に欣の後に在るべし。范曄は蕭思話と同師羊欣、後に小叛し、既に故歩を失い、復た小意有るのみ。蕭思話の書は、羊欣の影にして、風流趨好、殆ど当に減ぜざるべく、筆力を恨みて弱し。謝綜の書は、其の舅云う緊生起と。是れ賞を得たり、恨みて媚好少なし。謝霊運の書は乃ち倫ならず、其の合時に遇えば、亦流に入るを得。賀道力の書は丘道護に亜ぐ。庾昕は右軍を学び、亦た真を乱さんと欲す」と。

原文僧虔論書云:「宋文帝書,自言可比王子敬。時議者雲,'天然勝羊欣,功夫少於欣'。王平南廙,右軍叔,過江,右軍之前以為最。亡曾祖領軍書,右軍云:'弟書遂不減吾。'變古制,今惟右軍。領軍不爾,至今猶法鍾、張。亡從祖中書令書,子敬云:'弟書如騎騾,駸駸恒欲度驊騮前。'庾征西翼書,少時與右軍齊名,右軍後進,庾猶不分。在荊州與都下人書云:'小兒輩賤家雞,皆學逸少書,須吾下當比之。'張翼,王右軍自書表,晉穆帝令翼寫題後答,右軍當時不別,久後方悟,雲'小人幾欲亂真'。張芝、索靖、韋誕、鍾會、二衛,並得名前代,無以辨其優劣,唯見其筆力驚異耳。張澄當時亦呼有意。郗愔章草亞於右軍。郗嘉賓草亞于二王,緊媚過其父。桓玄自謂右軍之流,論者以比孔琳之。謝安亦入能書錄,亦自重,為子敬書嵇康詩。羊欣書見重一時,親受子敬。行書尤善,正乃不稱名。孔琳之書,天然縱放,極有筆力,規矩恐在羊欣後。丘道護與羊欣俱面受子敬,故當在欣後。范曄與蕭思話同師羊欣,後小叛,既失故步,為復小有意耳。蕭思話書,羊欣之影,風流趨好,殆當不減,筆力恨弱。謝綜書,其舅雲緊生起。是得賞也,恨少媚好。謝靈運書乃不倫,遇其合時,亦得入流。賀道力書亞丘道護。庾昕學右軍,亦欲亂真矣。」

僧虔嘗て自ら尚書令を譲る表を書き、辞制既に雅にして、筆跡又麗なり。時に人以て子敬の崇賢に比す。呉郡の顧宝先は卓越多奇、自ら伎能を以てす。僧虔乃ち飛白を作りて以て之を示す。宝先曰く、「下官今飛白に為りて屈す」と。僧虔書賦を著し、儉注序を為りて甚だ工なり。

原文僧虔嘗自書讓尚書令表,辭制既雅,筆跡又麗,時人以比子敬崇賢。吳郡顧寶先卓越多奇,自以伎能,僧虔乃作飛白以示之。寶先曰:「下官今為飛白屈矣。」僧虔著書賦,儉為注序甚工。

僧虔宋の世に嘗て書を有りて子を誡めて曰く、

原文僧虔宋世嘗有書誡子曰:

汝が吾の未だ汝に学を許さざるを恨むを知る。自ら悔厲せんと欲し、或いは棺を闔うるを以て自ら欺き、或いは更に美業を択ばんとし、且つ慨有るを得、亦た窮生を慰む。但だ亟に斯の唱を聞くも、未だ其の実を見ず。吾未だ汝を信ぜず、徒然に非ざるなり。往年史に意有り、三国志を取りて床頭に聚め置き、百日許りして、復た業を徙えて玄に就く。汝曾て其の題目を窺わず、其の指帰を弁ぜずして、終日自ら人を欺くも、人汝が欺くを受げず。吾の学ばざるに由り、以て訓とする無し。然れども重華に厳父無く、放勳に令子無し、亦各己に由るのみ。汝輩窃に議するも、亦当に云うべし『阿越学ばず、何ぞ忽ち自ら課す』と。汝其の一を見るのみ、全く爾らず。設令吾が学馬・鄭の如くとも、亦復甚だ勝れ、復た倍して如かずとも、今亦必ず大いに減ず。之を致すに由有り、身より来るなり。汝今壮年、自ら数倍勤めば、許すに劣及び吾に勝るを。

原文知汝恨吾未許汝學,欲自悔厲,或以闔棺自欺,或更擇美業,且得有慨,亦慰窮生。但亟聞斯唱,未睹其實,吾未信汝,非徒然也。往年有意于史,取三國志聚置床頭,百日許,復徙業就玄。汝曾未窺其題目,未辨其指歸,而終日自欺人,人不受汝欺也。由吾不學,無以為訓,然重華無嚴父,放勳無令子,亦各由己耳。汝輩竊議,亦當云'阿越不學,何忽自課'?汝見其一耳,不全爾也。設令吾學如馬、鄭,亦復甚勝,復倍不如,今亦必大減,致之有由,從身上來也。汝今壯年,自勤數倍,許勝劣及吾耳。

吾世に在りて徳素に乏しと雖も、要復た人間を推排すること数十許年、故に是れ一の旧物、人或は以て数えて汝に比す耳。即ち化したるの後、若し自ら調度無くば、誰か復た汝が事を知らんや。舎中亦た少なからず令誉を負い、弱冠にして清級を越超する者有り。当時の王家の門中、優者は龍鳳、劣れるも猶虎豹たり。蔭を失ったるの後、豈に龍虎の議あらんや。況んや吾汝が為に蔭を為す能わず、政応に各自努力すべし耳。或いは身三公を経て蔑爾として聞こえ無く、布衣寒素にして卿相体を屈し、父子貴賤殊なり、兄弟声名異なる有り。何ぞや。体尽く数百巻の書を読みしのみ。吾今悔ゆるも及ぶ所無し、以て前車を欲して爾が後乗を誡めんとす。汝年立境に入り、方に宦に従うべく、兼ねて室累有り、何れの処にか復た帷を下すことを王郎の時の如く得んや。各爾が身に已に切なり、豈に復た吾に関らんや。鬼唯だ深松茂柏を愛するを知るのみ、寧んぞ子弟の毀誉の事を知らん。汝に因りて感有り、故に略ね胸懐を叙す。子慈。

原文吾在世雖乏德素,要復推排人間數十許年,故是一舊物,人或以比數汝耳。即化之後,若自無調度,誰復知汝事者。舍中亦有少負令譽、弱冠越超清級者,于時王家門中,優者龍鳳,劣猶虎豹。失蔭之後,豈龍虎之議?況吾不能為汝蔭,政應各自努力耳。或有身經三公,蔑爾無聞,布衣寒素,卿相屈體,父子貴賤殊,兄弟聲名異,何也?體盡讀數百卷書耳。吾今悔無所及,欲以前車誡爾後乘也。汝年入立境,方應從宦,兼有室累,何處復得下帷如王郎時邪?各在爾身已切,豈復關吾邪!鬼唯知愛深松茂柏,寧知子弟毀譽事。因汝有感,故略敘胸懷。子慈。

僧虔の子 慈

原文僧虔子 慈

慈字は伯宝。年八歳、外祖宋の太宰江夏王義恭之を内斎に迎え、宝物を施して恣に取らしむ。慈素琴・石硯及び孝子図を取るのみ。義恭之を善しとす。袁淑其の幼時に見て、其の背を撫でて曰く、「叔慈は内潤なり」と。

原文慈字伯寶。年八歲,外祖宋太宰江夏王義恭迎之內齋,施寶物恣所取,慈取素琴石硯及孝子圖而已,義恭善之。袁淑見其幼時,撫其背曰;「叔慈內潤也。」

少時に従弟の儉と共に書学す。謝鳳の子超宗嘗て僧虔を候い、仍って東斎に往きて慈に詣る。慈正に書を学び、未だ即ち筆を放たず。超宗曰く、「卿の書何如なる、虔公に」と。慈曰く、「慈が書大人に比するは、鶏の鳳に比するが如し」と。超宗狼狽して退く。十歳の時、蔡興宗の子約と寺に入りて仏を礼す。正に沙門の懺に遇う。約慈を戯れて曰く、「衆僧今日謂うべし虔虔たるを」と。慈声に応じて曰く、「卿此の如くして、何を以てか蔡氏の宗を興さん」と。歴位して呉郡太守・大司馬長史・侍中・歩兵校尉を領し、司徒左長史と為る。慈脚を患う。斉の武帝王晏に勅して曰く、「慈微疾有り、騎する能わず、車に乗じて仗の後に在るを聴け」と。江左以来少例なり。

原文少與從弟儉共書學。謝鳳子超宗嘗候僧虔,仍往東齋詣慈。慈正學書,未即放筆,超宗曰:「卿書何如虔公?」慈曰:「慈書比大人,如雞之比鳳。」超宗狼狽而退。十歲時,與蔡興宗子約入寺禮佛,正遇沙門懺,約戲慈曰:「眾僧今日可謂虔虔。」慈應聲曰:「卿如此,何以興蔡氏之宗。」歷位吳郡太守,大司馬長史,侍中,領步兵校尉,司徒左長史。慈患腳,齊武帝敕王晏:「慈有微疾,不能騎,聽乘車在仗後。」江左以來少例也。

慈の妻は劉彦節の女、子の観は武帝の長女呉県公主に尚り、婦礼を修め、姑嘗て交答せず。江夏王鋒南徐州と為り、王妃は慈の女なり。慈を以て東海太守と為し、南徐州府州の事を行わしむ。還りて冠軍将軍・廬陵王中軍長史と為る。未だ拝せず、永明九年卒す。太常を贈られ、諡して懿と曰う。子泰。

原文慈妻劉彥節女,子觀尚武帝長女吳縣公主,修婦禮,姑未嘗交答。江夏王鋒為南徐州,王妃,慈女也,以慈為東海太守,行南徐州府州事。還為冠軍將軍、廬陵王中軍長史,未拜,永明九年卒。贈太常,諡懿。子泰。

慈の子 泰

原文慈子 泰

泰字は仲通、幼くして敏悟なり。年数歳の時、祖母諸孫侄を集め、棗栗を床に散ず。群児之を競うも、泰独り取らず。其の故を問うに、対えて曰く、「取らざれば自ら当に賜わるを得べし」と。是れに由りて中表之を異とす。少くして学を好み、手の抄写する所二千許巻。長ずるに及び、通和温雅、家人喜慍の色を見ず。姉婿斉の江夏王鋒斉の明帝に害せられ、外生蕭子友並びに孤弱なり。泰資給撫訓し、子侄に逾えり。

原文泰字仲通,幼敏悟。年數歲時,祖母集諸孫侄,散棗栗於床,群兒競之,泰獨不取。問其故,對曰:「不取自當得賜。」由是中表異之。少好學,手所抄寫二千許卷。及長,通和溫雅,家人不見喜慍之色。姊夫齊江夏王鋒為齊明帝害,外生蕭子友並孤弱,泰資給撫訓,逾于子侄。

梁の天監元年秘書丞と為る。斉の永元の末より、後宮火延焼して秘書に及び、図書散乱殆んど尽きんとす。泰表を上りて校定繕写せんことを請う。武帝之に従う。歴て中書侍郎・吏部を掌り、仍って即真す。江を過ぎて以来、吏部郎復た大選を典せず、令史以下、小人求競する者輻湊前後すれども、少なき能く職に称す。泰之が為に、貴賤の請属を為さず意を易えず、天下平なりと称す。転じて黄門侍郎と為る。毎に朝宴に預かり、燭を刻みて詩を賦し、文点を加えず。帝深く賞歎す。沈約常に曰く、「王に養・炬有り、謝に覧・挙有り」と。養は泰の小字、炬は筠の小字なり。

原文梁天監元年為秘書丞。自齊永元之末,後宮火延燒秘書,圖書散亂殆盡。泰表校定繕寫,武帝從之。曆中書侍郎,掌吏部,仍即真。自過江,吏部郎不復典大選,令史以下,小人求競者輻湊前後,少能稱職。泰為之,不為貴賤請屬易意,天下稱平。轉黃門侍郎,每預朝宴,刻燭賦詩,文不加點,帝深賞歎。沈約常曰:「王有養、炬,謝有覽、舉。」養,泰小字,炬,筠小字也。

始めて大理を革め、泰を以て廷尉卿と為す。再び歴て侍中、後都官尚書と為る。泰能く人士に接す。故に毎に其の選官に居るを願う。頃くして吏部尚書と為り、衣冠属望す。未だ選挙に及ばず、仍って疾有り、改めて除して散騎常侍・左驍騎将軍と為す。未だ拝せずして卒す。諡して夷と曰う。子廓。

原文始革大理,以泰為廷尉卿,再曆侍中,後為都官尚書。泰能接人士,故每願其居選官。頃之,為吏部尚書,衣冠屬望。未及選舉,仍疾,改除散騎常侍、左驍騎將軍,未拜,卒,諡夷。子廓。

慈の弟 志

原文慈弟 志

王志は字を次道といい、王慈の弟である。九歳の時、実母の喪に服し、哀しみの表情で憔悴し、親族の間で異例の者とされた。弱冠にして宋の孝武帝の娘安固公主を娶り、駙馬都尉に任ぜられた。褚彥回が司徒となった時、王志を主簿に引き立て、その父の王僧虔に言った。「朝廷の恩寵は、もともと特別なものであり、光栄とすべきは、賢子を屈するにある」と。

原文志字次道,慈之弟也。九歲,居所生母憂,哀容毀瘠,為中表所異。弱冠,選尚宋孝武女安固公主,拜駙馬都尉。褚彥回為司徒,引志為主簿。謂其父僧虔曰:「朝廷之恩,本為殊特,所可光榮,在屈賢子。」

累遷して宣城内史となり、清廉で慎み深く恩恵を行った。郡民の張倪と呉慶が田畑を争い、長年にわたり決着がつかなかった。王志が着任すると、父老たちは互いに言った。「王府君には徳政があるのに、我が郷里にこのような争いがあるとは」と。張倪と呉慶は手を携えて謝罪し、訴訟のあった土地は遂に空き地となった。後に東陽太守となり、郡の牢獄に重罪の囚人が十数人いたが、冬至の日に皆を家に帰し、節季を過ぎて皆が戻ったが、ただ一人が期限に遅れた。王志は言った。「これは太守の責任である。担当者は心配するな」と。翌朝、果たしてその囚人は到着し、妻の妊娠が理由であった。役人たちはますます感服した。

原文累遷宣城內史,清謹有恩惠。郡人張倪、吳慶爭田,經年不決。志到官,父老相謂曰:「王府君有德政,吾鄉里乃有如此爭。」倪、慶因相攜請罪,所訟地遂成閒田。後為東陽太守,郡獄有重囚十餘,冬至日,悉遣還家,過節皆反,唯一人失期。志曰:「此自太守事,主者勿憂。」明旦果至,以婦孕。吏人益嘆服之。

吏部尚書となり、選任において温和で道理に適っていると称された。崔慧景の乱が平定されると、前例により右軍将軍を加えられ、臨汝侯に封ぜられた。固辞して、改めて右衛将軍を領した。梁の武帝の軍が到着し、城内で東昏侯が殺されると、百官が署名してその首を送った。王志は嘆いて言った。「冠はたとえ破れていても、足に掛けることができようか」と。そこで庭の木の葉を揉んで飲み込み、仮に気絶したふりをして署名しなかった。梁の武帝が名簿を見て王志の署名がないのを知り、心の中で賞賛し、責めなかった。霸府が開かれると、驃騎大将軍長史となり、梁の朝廷が建てられると、散騎常侍・中書令の位に就いた。天監の初年、丹陽尹となり、政治は清静であった。配下に子のない寡婦がおり、姑が亡くなって借金をして葬儀を行い、葬った後は返済する術がなかった。王志はその義理を哀れみ、自分の俸給で返済した。当時は凶作で、毎朝郡の門で粥を作って百姓に与え、人々は皆その恩恵を称えた。常に満足を知る心を持ち、子や甥たちに言った。「謝莊は宋の孝武帝の時、位は中書令に止まった。私は自らを顧みて、どうしてそれを越えられようか」と。三年、散騎常侍・中書令となったが、病と称して多くを辞し、賓客との交際を簡素にした。九年、散騎常侍・金紫光禄大夫に戻り、死去した。

原文為吏部尚書,在選以和理稱。崔慧景平,以例加右軍將軍,封臨汝侯。固讓,改領右衛將軍。及梁武軍至,城內殺東昏,百僚署名送首。志歎曰:「冠雖弊,可加足乎?」因取庭樹葉捼服之,偽悶不署名。梁武覽箋無志署,心嘉之,弗以讓也。霸府開,為驃騎大將軍長史,梁台建,位散騎常侍、中書令。天監初,為丹陽尹,為政清靜。部下有寡婦無子,姑亡舉責以斂,葬既而無以還之。志湣其義,以俸錢償焉。時年饑,每旦為粥於郡門以賦百姓,眾悉稱惠。常懷止足,謂諸子侄曰:「謝莊在宋孝武時,位止中書令,吾自視豈可過之。」三年,為散騎常侍、中書令,因多謝病,簡通賓客。九年,還為散騎常侍、金紫光祿大夫,卒。

王志は草書・隷書に優れ、当時は手本とされた。斉の遊撃将軍徐希秀も書を能くすると言われ、常に王志を「書聖」と呼んだ。王志の家は建康の禁中裏馬糞巷にあった。父の王僧虔の家風は寛大で、王志は特に篤実で温厚であり、歴任した役職で罪や過失を理由に人を弾劾することはなかった。門下の客がかつて王志の車の幌を盗んで売ったが、王志は知りながら問わず、以前と同様に扱った。賓客がその門を訪れる者は、専らその過失を覆い隠して善を称えた。兄弟や子・甥たちは皆、篤実で謙虚で温和であり、当時の人々は馬糞の王氏を長者と呼んだ。普通四年、王志が改葬されると、武帝は厚く葬儀の金品を贈り、諡して安といった。五人の子がいた。王緝、王休、王諲、王操、王素である。

原文志善草隸,當時以為楷法。齊遊擊將軍徐希秀亦號能書,常謂志為「書聖」。志家居建康禁中裏馬糞巷。父僧虔門風寬恕,志尤惇厚,所曆不以罪咎劾人。門下客嘗盜脫志車幰賣之,志知而不問,待之如初。賓客遊其門者,專蓋其過而稱其善。兄弟子侄皆篤實謙和,時人號馬糞諸王為長者。普通四年,志改葬,武帝厚賻贈之,諡曰安。有五子:緝、休、諲、操、素。

王志の弟 王揖

原文志弟 揖

王志の弟の王揖は太中大夫の位にあり、王揖の子は王筠である。

原文志弟揖位太中大夫,揖子筠。

王揖の子 王筠

原文揖子 筠

王筠は字を元礼、一字を徳柔といい、幼い頃から聡明で悟りが早く、七歳で文章を作ることができた。十六歳の時、『芍薬賦』を作り、その文辞は甚だ美しかった。成長すると、清静で学問を好み、従兄の王泰と名声を並べた。沈約が王筠を見て、外祖父の袁粲に似ていると思い、僕射の張稷に言った。「王郎はただ額が袁公に似ているだけでなく、風韻も皆似ようとしている」と。張稷は言った。「袁公は人に会うと常に厳格だが、王郎は人に会うと必ず和やかに笑う。ただこの一点だけが、酷似していない」と。

原文筠字元禮,一字德柔,幼而警悟,七歲能屬文。年十六,爲芍藥賦,其辭甚美。及長,清靜好學,與從兄泰齊名。沈約見筠,以爲似外祖袁粲,謂僕射張稷曰:「王郎非唯額類袁公,風韻都欲相似。」稷曰:「袁公見人輒矜嚴,王郎見人必娛笑。唯此一條,不能酷似。」

仕えて尚書殿中郎となった。王氏が江を渡って以来、郎署に居た者はおらず、ある者は就任を勧めなかったが、王筠は言った。「陸平原(陸機)は東南の秀才であり、王文度(王坦之)は江東で独歩した。私が昔の人に並ぶことができれば、何の恨みがあろうか」と。そこで喜んで職に就いた。

原文仕爲尚書殿中郎,王氏過江以來,未有居郎署,或勸不就,筠曰:「陸平原東南之秀,王文度獨步江東。吾得比蹤昔人,何所多恨。」乃欣然就職。

沈約は王筠の文章を見るたびに感嘆し、かつて言った。「昔、蔡伯喈(蔡邕)が王仲宣(王粲)を見て、『王公の孫なり、我が家の書籍は全て与えるべきである』と称えた。私は不敏ではあるが、この言葉に加わりたい。謝朓ら諸賢が零落して以来、平生の意気投合する友はほとんど絶えていたが、老いの身でまた君に逢うとは思わなかった」と。沈約は郊外の住居の楼閣の書斎で、王筠に草木十詠を書いて壁に貼るよう頼み、皆直接文辞を書き、篇題を加えなかった。沈約は人に言った。「この詩は物を指し形を描いており、題を借りる必要はない」と。沈約が『郊居賦』を作った時、構想に長い時間をかけ、まだ全て完成していなかったが、草稿を王筠に見せた。王筠が「雌霓(五的反)連蜷」と読むところまで来ると、沈約は手を打って喜んで言った。「私は常に人がこれを霓(五兮反)と呼ぶのを恐れていた」と。次に「墜石磓星」および「冰懸埳而帶坻」に至ると、王筠は皆手を打って称賛した。沈約は言った。「知音は稀で、真の賞賛はほとんど絶えている。私が君を必要としたのは、正にこの数句のためである」と。王筠はまたかつて詩を作って沈約に呈したが、沈約はすぐに返書をして感嘆し詠み、後進の美を独占すると称えた。王筠はまた強韻を用いることができ、毎回公の宴で共に作詩すると、文辞は必ず美しく華麗であった。沈約はかつて上奏して言った。「近ごろの名家で王筠に先んじる者はない」と。また、御宴で王志に言った。「賢弟の文章の美は、後世で独歩と言えよう。謝朓が常に語っていた。『良い詩は円く美しく流転して弾丸のようだ』と。近ごろその数首を見て、この言葉が真実であることを知った」と。

原文沈約每見筠文咨嗟,嘗謂曰:「昔蔡伯喈見王仲宣,稱曰王公之孫,吾家書籍悉當相與。僕雖不敏,請附斯言。自謝朓諸賢零落,平生意好殆絕,不謂疲暮復逢於君。」約于郊居宅閣齋,請筠爲草木十詠書之壁,皆直寫文辭,不加篇題。約謂人曰:「此詩指物程形,無假題署。」約制郊居賦,構思積時,猶未都畢,示筠草。筠讀至「雌霓〈五的反〉連蜷」,約撫掌欣抃曰:「僕常恐人呼爲霓〈五兮反〉。」次至「墜石磓星」,及「冰懸埳而帶坻」。筠皆擊節稱贊。約曰:「知音者希,真賞殆絶,所以相要,政在此數句耳。」筠又嘗爲詩呈約,約即報書歎詠以爲後進擅羙。筠又能用强韻,每公宴竝作,辭必妍靡。約嘗唘上言:「晚来名家無先筠者。」又於御筵謂王志曰:「賢弟手文章之羙,可謂後來獨步。謝朓常見語云:『好詩圓羙流轉如彈丸』。近見其數首,方知此言爲實。」

累遷して太子洗馬、中舎人となり、共に東宮の記録を掌った。昭明太子は文学の士を愛し、常に王筠及び劉孝綽、陸倕、到洽、殷鈞らと玄圃で遊宴し、太子はただ王筠の袖を執り、劉孝綽の肩を撫でて言った。「いわゆる左に浮丘の袖を把り、右に洪崖の肩を拍つとはこのことだ」と。そのように重んじられた。王筠はまた殷鈞と共に方正で高雅であるとして礼遇された。後に中書郎となり、勅命により開善寺の宝志法師の碑文を作り、文辞は甚だ麗しく優雅であった。また勅命により中書の表奏三十巻を撰し、及び献上した賦頌を全て一つの集とした。

原文累遷太子洗馬,中舍人,並掌東宮管記。昭明太子愛文學士,常與筠及劉孝綽、陸倕、到洽、殷鈞等游宴玄圃,太子獨執筠袖,撫孝綽肩曰:「所謂左把浮丘袖,右拍洪崖肩。」其見重如此。筠又與殷鈞以方雅見禮。後爲中書郎,奉敕制開善寺寶志法師碑文,辭甚麗逸。又敕撰中書表奏三十卷,及所上賦頌都爲一集。

後に太子家令となり、再び記録を掌管した。普通元年、母の喪により職を去った。王筠は孝行の性があり、礼を越えて憔悴した。中大通二年、司徒左長史となった。三年、昭明太子が薨じ、勅命により哀策文を作り、再び感嘆賞賛された。まもなく出向して臨海太守となり、郡で収奪や酷使を行い、帰還時の資財には芒屩(草鞋)が二艘分あり、他の物品もそれに相応しかった。役所に奏上され、数年も昇進しなかった。後に秘書監、太府卿、度支尚書、司徒左長史を歴任した。簡文帝が即位すると、太子詹事となった。

原文後爲太子家令,復掌管記。普通元年,以母憂去職。筠有孝性,毀瘠過禮。中大通二年,爲司徒左長史。三年,昭明太子薨,敕制哀策文,復見嗟賞。尋出爲臨海太守,在郡侵刻,還資有芒屩兩舫,他物稱是。爲有司奏,不調累年。後曆秘書監,太府卿,度支尚書,司徒左長史。及簡文即位,爲太子詹事。

王筠の家には千金の財産があったが、性質は倹約で吝嗇であり、外見の衣服は粗末で、乗る牛には常に青草を与えていた。乱に遭い、旧宅は先に賊に焼かれたため、国子祭酒の蕭子雲の宅に寄寓した。夜、突然盗賊が攻めて来て、井戸に落ちるのを恐れ、死去した。時に六十九歳であった。家族十三人が共に殺害され、人々は死体を空の井戸の中に投げ捨てて積み上げた。

原文筠家累千金,性儉嗇,外服粗弊,所乘牛嘗飼以青草。及遇亂,舊宅先爲賊焚,乃寓居國子祭酒蕭子雲宅。夜忽有盜攻,懼墜井,卒,時年六十九。家人十三口同遇害,人棄屍積于空井中。

王筠は容貌が小さく、背丈は六尺に満たなかった。性質は寛大で、技芸をもって人を見下すことはしなかった。しかし若くして才名を擅にし、劉孝綽とともに当時に重んぜられた。その自序に云う、「余は少より書を抄するを好み、老いてますます篤く、たとえ偶に見て瞥観するも、皆すなわち疏記す。後に重ねて省覧すれば、歓興ますます深し。習い性と成り、筆倦むを覚えず。十三四歳の年より、建武二年乙亥より、梁の大同六年に至るまで、四十六年なり。幼年に五経を読み、皆七八十遍す。左氏春秋を愛し、吟諷常に口実と為す。広く略し取り去り、凡そ三過五抄し、その他の経書及び周官・儀礼・国語・爾雅・山海経・本草は並びに再抄し、子史諸集は皆一遍す。未だ嘗て人に請うて手を仮らず、並びに躬自ら抄録し、大小百余巻なり。好事に伝うるに足らず、蓋し以て遺忘を備うるのみ」と。また諸児に与える書に家門の集を論じて云う、「史伝は安平の崔氏及び汝南の応氏は並びに累葉文才有りと称す、故に范蔚宗は崔氏を彫龍と云う。然れども父子両三世を過ぎず、七葉の中に名徳重光し、爵位相継ぎ、人人集有ること、吾が門の如きは無し。沈少傅の約は常に人に語りて云う、『吾は少より百家の言を好み、身は四代の史を為す。開闢以来、未だ爵位蝉聯し、文才相継ぐこと王氏の盛んなるが如きは無し』と。汝等は堂構を仰ぎ観て、各努力を思え」と。筠は自らその文章を撰し、一官を以て一集と為し、洗馬・中書・中庶・吏部・左佐・臨海・太府各十巻、尚書三十巻、凡そ百巻、世に行わる。

原文筠狀貌寢小,長不滿六尺。性弘厚,不以藝能高人。而少擅才名,與劉孝綽見重當時。其自序云:「餘少好抄書,老而彌篤,雖偶見瞥觀,皆即疏記。後重省覽,歡興彌深。習與性成,不覺筆倦。自年十三四,建武二年乙亥,至梁大同六年,四十六載矣。幼年讀五經,皆七八十遍。愛左氏春秋,吟諷常爲口實。廣略去取,凡三過五抄,余經及周官、儀禮、國語、爾雅、山海經、本草並再抄,子史諸集皆一遍。未嘗倩人假手,並躬自抄錄,大小百餘卷。不足傳之好事,蓋以備遺忘而已。」又與諸兒書論家門集云:「史傳稱安平崔氏及汝南應氏並累葉有文才,所以范蔚宗雲崔氏雕龍。然不過父子兩三世耳,非有七葉之中,名德重光,爵位相繼,人人有集,如吾門者也。沈少傅約常語人云∶'吾少好百家之言,身爲四代之史。自開闢以來,未有爵位蟬聯、文才相繼如王氏之盛也。'汝等仰觀堂構,思各努力。」筠自撰其文章,以一官爲一集,自洗馬、中書、中庶、吏部、左佐、臨海、太府各十卷,尚書三十卷,凡一百卷,行於世。

子の祥は陳に仕えて黄門侍郎の位に至る。揖の弟に彬あり。

原文子祥,仕陳位黃門侍郎。揖弟彬。

揖の弟に彬あり。

原文揖弟 彬

彬は字を思文と云い、文章を好み、篆隸を習い、志と名を斉しくす。時人の之が為に語りて曰く、「三真六草、天下の宝と為る」と。斉の武帝が旧宮を起すに、彬は賦を献じ、文辞典麗なり。斉の高帝の女臨海長公主に尚し、駙馬都尉に拝す。斉に仕え、太子中庶子を歴任し、永嘉太守に転ず。積穀山に室を卜し、終焉の志有り。梁の天監年中、吏部尚書・秘書監を歴任す。卒し、諡して惠と曰う。彬は身を立て清白にし、賢を推し士に接すること、士君子の風有り。彬の弟に寂あり。

原文彬字思文,好文章,習篆隸,與志齊名。時人為之語曰:「三真六草,為天下寶。」齊武帝起舊宮,彬獻賦,文辭典麗。尚齊高帝女臨海長公主,拜駙馬都尉。仕齊,曆太子中庶子,徙永嘉太守。卜室于積穀山,有終焉之志。梁天監中,曆吏部尚書、秘書監。卒,諡惠。彬立身清白,推賢接士,有士君子風。彬弟寂。

寂は字を子玄と云い、性質迅動にして、文章を好む。范滂伝を読みて、未だ嘗て歎悒せざるは無し。王融敗れたる後、賓客多く之に帰す。斉の建武初め、中興頌を献ぜんと欲す。兄の志之に謂ひて曰く、「汝は膏粱の年少、何ぞ達せざるを患えん。静を以て之を鎮めざれば、将に譏りを貽すべし」と。寂乃ち止む。秘書郎の位に至る。卒す年二十一。

原文寂字子玄,性迅動,好文章。讀范滂傳,未嘗不歎悒。王融敗後,賓客多歸之。齊建武初,欲獻中興頌,兄志謂曰:「汝膏粱年少,何患不達?不鎮之以靜,將恐貽譏。」寂乃止。位秘書郎。卒年二十一。

論す。

原文論

論じて曰く、王曇首の才器、王僧綽の忠直、その世祿替はざるは、豈に徒然ならんや。仲寶は雅道を以て自ら居り、早く伊・呂の志を懐き、竟に時に逢ひ主に遇ひ、自ら宰輔の隆きを致す、所謂衣冠礼楽尽く是れに在りと謂ふ。斉に人焉有り、斯れに於て盛んなり。その余の文雅儒素、各々家風を稟け、箕裘墜ちず、亦云う美なりと。

原文論曰:王曇首之才器,王僧綽之忠直,其世祿不替也,豈徒然哉。仲寶雅道自居,早懷伊、呂之志,竟而逢時遇主,自致宰輔之隆,所謂衣冠禮樂盡在是矣。齊有人焉,于斯為盛。其餘文雅儒素,各稟家風,箕裘不墜,亦云美矣。