南史 巻二十一より巻二十二

南史

巻二十一より巻二十二

列伝第十一

王弘

王弘は、字を休元といい、琅邪郡臨沂県の人である。曾祖父の王導は晋の丞相、祖父の王洽は中領軍、父の王珣は 司徒 しと であった。

王弘は若くして学問を好み、清らかで悟りが早いことで知られた。弱冠にして会稽王司馬道子の驃騎主簿となった。父の王珣は財貨を蓄積することを好み、その財物は民間に散在していたが、王珣が亡くなると、王弘は借用証書をすべて焼き払い、一切取り立てず、その他の旧来の資産もすべて諸弟に委ねた。当時は内外に困難が多く、喪に服している者も皆、その哀悼を全うすることができなかったが、ただ王弘だけは徴召に一切応じなかった。

桓玄が建業を制圧し、司馬道子を捕らえて廷尉に引き渡したとき、臣下や官吏で敢えて見送る者はなかったが、王弘は当時まだ喪中にあったにもかかわらず、ただ一人、道の傍らで拝礼して別れを告げ、車にすがって涙を流した。論者はこれを称賛した。

宋の武帝(劉裕)が召し出して鎮軍諮議参軍に補任し、功績により華容県の五等侯に封ぜられ、累進して太尉左長史となった。北征に従い、前鋒がすでに洛陽を平定したが、九錫の礼が下されなかったので、王弘は使いを帯びて都に戻り、朝廷にそれとなく勧めた。当時、劉穆之が留守を任されていたが、その旨(九錫を促す勧め)が北(前線)から来たので、劉穆之は恥じ恐れて発病し、遂に亡くなった。宋国が建てられると、尚書僕射となり選挙を掌り、彭城太守を兼ねた。世子左衛率の謝霊運を弾劾上奏した。軍人の桂興が謝霊運の寵妾と淫らな関係を持ったため、謝霊運が桂興を殺して死体を川に棄てたが、御史中丞の王准之がかつてこれを弾劾しなかったというものである。武帝は答えて言った、「端右(尚書僕射)が風紀を粛正するのは、誠に期待に副うところである。今後これを永き制度とせよ」。これにより謝霊運は官を免じられた。後に江州刺史に転じ、租税を減らし労役を簡素化したので、百姓は安堵した。

永初元年(420年)、建国の功績により、華容県公に封ぜられた。三年(422年)に朝廷に入り、衛将軍・開府儀同三司の号を加えられた。帝は宴席で言った、「私は一介の布衣であったが、最初はここまでなるとは望んでいなかった」。傅亮らは皆、文辞を撰して功徳を大いに称えようとした。王弘は軽率に答えて言った、「これはいわゆる天命というもので、求めても得られず、推しやっても去らないものです」。当時、その簡潔で要点を押さえた答えと称された。

少帝の景平二年(424年)、徐羨之らが廃立を謀り、王弘を朝廷に召し出した。文帝が即位すると、策を定めて社稷を安んじた功により、 司空 しくう に進位し、建安郡公に封ぜられようとしたが、固辞して許された。車騎大将軍の号を加えられ、開府・刺史はもとのままとした。徐羨之らが廃立と しい 逆の罪により、誅殺されようとしたとき、王弘は首謀者ではなく、かつ弟の王曇首もまた主上に親しく信任されていた。事が発覚しようとしたとき、密かに使者を送って王弘に報せた。徐羨之が誅殺された後、王弘は侍中・ 司徒 しと ・揚州刺史・録尚書事に転じ、班剣三十人を与えられた。主上(文帝)が西征して謝晦を討つとき、王弘は彭城王劉義康とともに留守を守り、中書下省に入り住み、隊仗を引き連れて出入りし、 司徒 しと 府には臨時に参軍を置いた。元嘉五年(428年)春、大旱魃があり、王弘は過失を引いて辞任を願い出た。以前より彭城王劉義康は荊州刺史として江陵に鎮していたが、平陸県令の河南の成粲が王弘に手紙を送り、満ち溢れること(満盈)を戒め、兼ねて彭城王が朝廷の政務を知るべきこと、竟陵王と衡陽王は外に出て要藩を守るべきことを述べた。王弘はこれにより固く自ら陳請した。そこで衛将軍・開府儀同三司に降格された。

六年(429年)、王弘はまた上表して彭城王が補弼に入るべきことを述べ、兼ねて州(揚州)の職務を解くことを請うた。劉義康はこれにより王弘に代わって 司徒 しと となり、彼と録尚書事を分掌した。王弘はまた録尚書事の分掌を辞した。王弘は政体に博く通練し、諸事に心を留め、時宜に斟酌を加え、常に寛大で妥当な処置を心がけた。八座( 尚書令 しょうしょれい ・僕射・諸曹尚書)や丞郎に上疏して言った、「同伍(隣保組織)が法を犯した場合、士人(官人・士族)には罪を問わない規定はないが、しかし毎度詰問・譴責しようとすると、必ず請願や訴えがある。もし常に恩赦を垂れれば、法は廃れて行われなくなり、事実に基づいて糾弾・責めれば、人々は苦しみとする。恐らく改めて制度を定めるべきであろう」。当時の議論は多く異同があったが、王弘は次のように考えた。

士人と称するならば、すなわち庶人の刑罰を受けないのか。庶人と署するならば、すなわち士人の罰を受けるのか、それは偏っていないか。士人は同伍の譴責を受けず、その罪を奴隷や客に取らせるとして、何の害があろうか。奴隷や客がいなければ、贖罪金を納めさせればよい。身を修めて里巷にあり、群小(庶民)と実際に隔たりがある者、あるいはまた奴僕がおらず、そのことが衆人に明らかな者については、官長(郡守など)である二千石が自ら臨んで列挙して上奏し、事実に基づいて判決を下すように。また、主守(保管責任者)が五匹を盗めば常刑(一般窃盗)で四十匹を盗んだのと同じく、ともに大辟(死刑)に処せられる。議者は皆これを重すぎるとした。王弘は次のように考えた。

小吏は無知であり、財物に臨むと容易く良心が曇る。あるいは怠慢により、重い科条に陥る。主守の窃盗は十匹、常人の窃盗は五十匹で死刑とし、四十匹は兵士に降格するのが妥当であろう。官長以上の者については、栄誉と俸禄を蒙っているので、五匹の利を貪るのはすでに大きいことであり、士人がここに至っては、どうして再び哀れみを加えることができようか。かつこの輩の士人は殺すことはできても譴責することはできない。上奏して聞かせ、聖旨によって決するのがよいと思う。文帝は王弘の議に従った。王弘はまた上言した、「旧制では、人は十三歳で半役、十六歳で全役である。今、四方に事なく、民力を休養させるべきである。十五歳から十六歳を半丁、十七歳を全丁とすることを請う」。これに従った。弟の王曇首が亡くなると、文帝は嘆き悲しみ止むことがなく、王弘に会って涙を流しすすり泣いたが、王弘は顔を引き締めただけであった。後に彭城王劉義康が帝に言った、「王曇首は家の宝であり、また国の器であったのに、王弘の情はそれに相応しくないのは、どうしてか」。帝は言った、「賢者の心は測りがたい」。そのように王弘は理解され、信頼されていたのである。

九年(432年)、太保に進位し、 中書監 ちゅうしょかん を兼ね、その他の官職はもとのままとした。その年に薨去した。太保・ 中書監 ちゅうしょかん を追贈され、節を与えられ、羽葆・鼓吹を加えられ、班剣を六十人に増やされた。諡して文昭公といい、武帝の廟庭に配食された。

王弘はすでに人望が帰するところであり、どんな時でも必ず礼法を保った。すべての動作や振る舞い、および書簡の儀礼作法は、後世の人々が皆これに倣い、王太保の家法と称した。藩鎮の輔佐の任を歴任したが、財利を営まず、亡くなった後、家に余財がなかった。しかし軽率で威儀に欠けるところがあった。客にその諱(避けるべき名)を疑う者がいたが、王弘は言った、「家の諱は蘇子高(蘇峻)と同じである」。性質は狭量で、人が意に逆らうと、すぐに罵り辱めた。若い頃、公城子野の家で樗蒲(賭博)をしたことがあり、後に権力を握ると、ある者が王弘に県令を求めて来た。この者はかつて樗蒲の遊戯で罪を得たことがあった。王弘が詰問して言うと、「あなたは金を得れば賭け事をするのに、どうして俸禄が必要なのか」。答えて言った、「公城子野が今どこにいらっしゃるか存じ上げません」。王弘は黙り込んだ。選挙を掌り、朝廷で総録(録尚書事)を務めて以来、人に栄爵を加えようとするときは、毎回先に大声で叱責し譴責辱めてから施行した。もし良い顔をして目をかけ、言葉を交わして喜び楽しむようなことがあれば、必ず何も成就しなかった。人がその理由を尋ねると、答えて言った、「王爵(高い爵位・官職)を人に加えた上で、さらに慰労すれば、君主と功績を分かち合うことになり、これはいわゆる奸をもって君に事える者である。もし求める者が官職叙任の分際を絶ってしまえば、恩恵を与えることもできず、また少しも顔色を借りることもなければ、即ち大いに怨みの的となり、これもまた浅はかで任に堪えない」。尋ねた者は悦服した。子の王錫が後を嗣いだ。

弘の子、錫。

錫は字を寡光といい、太子左衛率・江夏内史の位にあり、自らの地位待遇を高く見做した。太尉江夏王義恭が朝廷を執る時、錫は箕踞して大坐し、殆ど敬意を払わなかった。卒し、子の僧亮が嗣ぎ、斉が禅を受けると、爵を降格されて侯となった。僧亮の弟僧衍は、侍中の位にあった。弘の少子、僧達。

弘の少子、僧達。

僧達は幼くして聡明敏速であり、弘が揚州刺史であった時、僧達は六、七歳で、訴訟を通達する者があった際、密かにその訴状を閲覧し、道理があると判断した。後に大訴訟者も進み出ると、弘は彼が幼いと思い、傍らに留めたが、僧達はその理を申し立て、暗誦して一句も違わなかった。兄の錫は質朴で口数少なく風采に乏しかった。文帝は僧達の早熟な聡明さを聞き、徳陽殿に召し出して応対させると、閑雅で機敏であり、上は大いに彼を知り、臨川王義慶の女を妻として与えた。

若くして学問を好み、文章を綴ることに長け、太子舎人となった。病気と称しながら揚列橋で鴨の闘いを見物した罪で、役人に糾弾されたが、不問に付された。性来、鷹や犬を好み、里の若者と駆け競い、また自ら牛を屠ることもした。義慶はこれを聞き、側近の沙門慧観に命じて彼を訪ねさせると、僧達は書物を席いっぱいに並べ、文義について論じ、慧観は応答に暇がなく、深く称賛した。家が貧しいと訴えて郡守を求めると、文帝は秦郡を与えようとした。吏部郎の庾仲文が「王弘の子は秦郡にふさわしくない上、僧達も民を治めるには堪えません」と言ったので、取りやめとなった。太子洗馬に遷り、母の喪で職を去った。

兄の錫と不仲であった。錫が臨海郡を罷めて帰還する際、送別の贈り物や俸禄など百万以上を携えてきたが、僧達は一晩で奴僕に車で運び取らせ、残らず持ち去った。喪が明けると、宣城太守となった。性来、遊猟を好み、山間の郡で事が少ないため、僧達は思いのままに駆け回り、あるいは五日、三日してようやく帰還し、訴状を受理し弁論するのも、多くは狩猟の場所であった。人が出会っても彼を識らず、府君の所在を尋ねると、僧達は「近くにおります」と答えた。その後、義興に転任した。

元凶が帝を しい 逆して立つと、孝武帝が尋陽より挙兵した。沈慶之は人に言った。「王僧達は必ず義兵に馳せ参じるだろう。」人がその理由を尋ねると、慶之は言った。「胡馬が江を飲む時、王氏は難に赴く。先帝の御前で彼を見たが、議論は開放的で、意志は明快果断であった。これによって言えば、必ず来るに違いない。」僧達は間もなく到着し、孝武帝は直ちに長史に任じた。帝が即位すると、尚書右僕射となった。僧達は自らの才幹と家柄を恃み、一、二年の内に宰相になることを望んだ。かつて詔に答えて「亡き父、亡き祖父は、 司徒 しと 司空 しくう でございました」と言った。その自負心はこのようなものであった。

後に護軍将軍となったが、志を得ず、徐州を求めたが、上は許さなかった。強く陳情したので、呉郡太守に任じた。この時、一年の内に五度転任し、ますます不満であった。呉の城郭西の台寺には富んだ沙門が多く、僧達は必要なものを求めたが思うに任せず、主簿の顧曠に命じて門客・義徒を率い、寺内の沙門竺法瑤を襲わせ数百万を得た。荊州・江州が反乱を起こすと、僧達に属官を置き兵を率いることを加えた。朝廷の符牒では千人設置を許したが、勝手に三十隊を立て、一隊八十人とした。呉に邸宅を建て、多くの労力を徴発した罪で官を免ぜられた。後に孝武帝が単独で引見すると、傲然として全く謙遜の態度を示さず、ただ目を見開いて見つめるばかりであった。退出後、帝は嘆いて言った。「王僧達は狂気でなければ何というのか。面を戴いて天子に対したとは。」後に顔師伯が訪ねると、僧達は慨然として言った。「大丈夫は寧ろ玉砕すべきであり、どうして默默として生き長らえを求めることができようか。」師伯は答えず、躊躇して退いた。

初め、僧達が太子洗馬として東宮にいた時、軍人の朱霊宝を寵愛し、宣城に出た時には、霊宝は既に成長していた。僧達は死亡と偽って名簿に載せ、宣城の左永之の戸籍に寄せ、子として登録し、名を元序と改めさせた。文帝に上奏して武陵国の典衛令とし、また竟陵国の典書令、建平国の中軍将軍に補任させた。孝建元年、事が発覚し、さらに禁錮を加えられた。上表して謝罪し、側近に依り、権貴に媚びることができないと述べた。上はますます怒った。僧達の族子の確は若くして容姿が美しく、僧達は彼と親密な関係にあった。確の叔父の休が永嘉太守となり、確を連れて郡に赴こうとした時、僧達は無理に引き留めようとしたが、確はその意を知り、避けて行かなかった。僧達は密かに住居の裏に大きな穴を掘り、確を別れに誘い出し、殺して埋めようとした。従弟の僧虔がその謀を知り、制止したので止んだ。御史中丞の劉瑀が収監取り調べるよう上奏したが、上は許さなかった。二年、太常に任ぜられたが、気持ちは特に不愉快であった。間もなく、上表して職を解くことを請い、文意は抑揚に富んでいた。侍中の何偃がその言葉が不遜であるとして、南台に付するよう上奏し、また官を免ぜられた。

以前、何尚之が致仕したが、再び朝命を受け、邸宅で八関斎を設け、朝士を大いに集め、自ら香を捧げて歩み、僧達の番になると「郎にはどうか鷹犬を放ち、遊猟を繰り返さないでください」と言った。僧達は答えて「家で一匹の老犬を飼っており、放しても行く所がなく、既に戻ってきました」と言った。尚之は顔色を失った。大明年間、帰順の功により寧陵県五等侯に封ぜられ、累進して中書令となった。黄門郎の路瓊之は、太后の兄慶之の孫であり、邸宅は僧達の家と隣り合っていた。かつて盛んな車馬と服装で僧達を訪ねたが、僧達は狩猟に出ようとして、既に服装を改めていた。瓊之が座に就くと、僧達は全く言葉を交わさず、「かつて我が門下の騶人であった路慶之という者は、君とどういう親戚か」と言い、遂に瓊之の座っていた床を焼いた。太后は怒り、帝に泣きながら訴えて「私がまだ生きているのに人に陵辱され、私が死んだ後は物乞いをするでしょう」と言った。帝は「瓊之は若年であり、用もなく王僧達の門を訪れ、辱められたのは当然である。僧達は貴公子である、どうしてこれをもって罪を加えることができようか」と言った。太后はまた帝に「私は決して王僧達と共に生きることはありません」と言った。以前、南彭城蕃県の人高闍、沙門の釈曇標、道方らが共に誑惑し、鬼神や龍鳳の瑞祥があると自称し、常に簫鼓の音を聞き、秣陵人の藍宏期らと謀って乱を起こし、また殿中將軍の苗乞食らと結託して兵を起こし宮門を攻めようとした。事が発覚し、党与で死んだ者は数十人に及んだ。僧達は度々罪を犯し逆らったため、上は彼が終に悔い改める心がないと考え、高闍の事件に乗じて陥れ、廷尉に収監し、獄中で死を賜った。時に三十六歳。帝もまたこれを遺憾とし、江夏王義恭に「王僧達は遂に死を免れなかった。太保(王弘)の残した功業を思うと、人を慨然とさせる」と言った。そこで詔を下し、太保華容文昭公(王弘)の門閥・爵位・国戚としての姻戚関係は、一切貶絶しないこととした。

時に蘇宝という者、名は宝生、元は寒門の出身であったが、文義の美があり、官は南台侍御史・江寧令に至り、高闍の謀反を知りながら、直ちに上奏しなかった罪で、また誅殺された。

僧達の子、道琰は新安に流された。元徽年間、廬陵内史となったが、郡に着く前に卒した。

僧達の孫、融。

融は字を元長といい、幼少より神智明晰で機敏聡慧であった。母は臨川太守謝恵宣の女で、性質は篤実で聡明であり、融に書物と学問を教えた。広く涉猟し文才があり、従叔の儉は人に言った。「この児は四十歳までに、名声と地位は自然に祖父に及ぶだろう。」秀才に挙げられ、累進して太子舎人となった。父の官途が通じなかったため、若年より家業を興そうと志し、斉武帝に上奏して自ら試みることを求め、秘書丞に遷った。従叔の儉が初めて儀同の官を授けられた時、儉に詩と書簡を贈ると、儉は大いにこれを奇とし、笑って人に言った。「穣侯の印がどうして簡単に解けるだろうか(早くも重職を担うか)。」丹陽丞、中書郎を歴任した。

永明の末、武帝が北征を望み、毛恵秀に漢武北伐図を描かせたところ、王融はこれにより上疏して、北征の議を開陳した。図が完成すると、上は琅邪城の射堂の壁に掲げ、遊幸のたびにこれを観覧した。九年、芳林園で禊宴が催され、融に曲水詩序を作らせたが、当時これを称賛した。上は融の才弁を認め、主客を兼務させ、魏の使者房景高・宋弁を接遇させた。弁は融が年少であるのを見て、「主客は年齢いくつか」と問うた。融は「五十の年、既にその半ばを久しく過ぎております」と答えた。景高はまた、「北朝において、主客の曲水詩序は顔延之に勝ると聞いており、ぜひ一見したい」と言った。融はこれを見せた。後日、宋弁が瑶池堂で融に言うには、「昔、司馬相如の封禅文を観て、漢武帝の徳を知り、今、王生の詩序を覧て、斉主の盛徳を見る」と。融は「皇家の盛明は、ただ漢武の跡に比するのみならず、さらに拙い詩序を恥じ、遠く相如に匹敵するものはありません」と答えた。上は魏から献上された馬が良くないとして、融に問わせて言わせた。「秦の西、冀の北には、実に多くの駿馬がいるというのに、魏の良馬は駑馬にも及ばない。これは毎日の信誓が、時に爽うということか、あるいは『駉駉』の牧場が、遂に継承されなかったのか」と。宋弁は「おそらく土地に慣れないためでしょう」と言った。融は「周穆王の馬の足跡は天下に遍く、もし騏驥の性質が地によって変わるなら、造父の御法も時に躓くことになります」と言った。弁は「王主客はなぜ千里の馬にこだわるのか」と問うた。融は「貴国が優劣を異にしているので、ひとまず訪ねたまでです。もし千里の馬が到来すれば、聖上は必ずや鼓車を御されるでしょう」と言った。弁は「先ほどのお考えでは、必要であっても、鼓車を御されることはないでしょう」と言った。融は「死んだ馬の骨を買うのも、郭隗の故事によるのです」と言った。弁は答えることができなかった。

王融は名利に躁急で、家柄と人材を恃み、三十歳までに三公・輔弼の地位を望んだ。初め 司徒 しと 法曹となり、王僧祐を訪ねた際、たまたま沈昭略に出会ったが、互いに面識がなかった。昭略がしきりに顧みて、主人(王僧祐)に言うには、「あの年少者は誰か」と。融は甚だ不平で、言った。「私は扶桑より出で、湯谷に入り、天下を照らす者、誰が知らぬと言おうか、それなのに卿はこのような問いをかけるのか」と。昭略は「そんなことは知らない、とりあえず蛤蜊でも食おう」と言った。融は「物は群を以て分かれ、方(人)は類を以て集まる。君は東の隅に長じて、当然この族(蛤蜊)を嗜むべきだ」と言った。このように自らを高く位置づけていた。

中書郎となった時、机を撫でて嘆いて言った。「このように寂しいままでは、鄧禹に笑われるだろう」。朱雀桁が開き、通行人が道を塞いでいるのに行き会うと、車の壁を叩いて言った。「車中に七尺の躯がなくともよいが、車前には八騶(先払いの騎兵)が欠けてはならぬ」。

魏軍が動き出すと、竟陵王蕭子良が東府で兵を募り、板授(臨時の任命)で王融を寧朔将軍・軍主とした。融は文辞が迅速で、文章を作る時は筆を取ればすぐにできあがり、子良は特に親しく交際した。晩年は大いに騎馬を習い、江西の傖楚(荒くれ者)数百人を招集し、皆使い道があり、融は特に謀主となった。武帝が病篤く一時絶命した時、子良は殿内におり、皇太孫(後の鬱林王)はまだ入っていなかった。融は戎服に絳衫を着て、中書省の門を閉ざし東宮の衛兵の進入を断ち、詔を偽って子良を立てようとした。詔の草稿は既にできていたが、上(武帝)が再び蘇生し、朝政は西昌侯蕭鸞に委ねられた。梁の武帝(当時は蕭衍)が範雲に言った。「左手で天下の図を押さえ、右手で自分の喉を刎ねるなど、愚者でもしない。主上の御病状が重く、国家には定められた故事があるのに、巷では噂が立ち、非常の挙げに出ようとしている、卿は聞いているか」。雲は敢えて答えなかった。やがて帝が崩御すると、融は処置をとり、子良の兵をもって諸門を禁じた。西昌侯(蕭鸞)はこれを聞き、急いで雲龍門に馳せつけたが、進入できず、そこで「勅命があって私を召している」と言い、なおも押し入って、皇太孫を奉じて殿上に登らせ、左右に命じて子良を扶け出させた。その指揮する声は鐘の如く、殿内の者は誰も従わない者はなかった。融は事が成らないと知り、そこで礼服を脱いで省(官署)に戻り、嘆いて言った。「公(子良)が私を誤らせた」。

鬱林王は融を深く怨み、即位して十余日で、廷尉の獄に収監した。中丞孔珪に命じて奏文を作らせ、その中で言わせた。「融は性質剛険にして、立身は浮競、その行動は群を驚かせ、発言は常軌を逸する。近ごろ塞外の微塵(小さい騒動)に乗じ、苦しんで将領を求め、遂に不逞の徒を招き入れ、荒くれの傖楚を扇動誘惑した。狡猾に威声を弄び、専ら権利を行い、唇歯の間を反覆し、頰舌の内を傾動し、威福を己れのものとし、忌憚するところなく、朝政を誹謗し、歴代の王公を誹毀した。己れの才流を以て、推し下る者なく、事は遠近に暴かれている。融に源に依り拠って答えさせよ」。融は供述して言った。「囚人は実に頑迷で、行動に過ちが多い。ただ、夙くより家門の素(由緒)を辱め、君子の教えを奉ずるを得た。総角(幼年)の時より、立年(三十歳)に至るまで、州閭郷党においては、愚かではあるが慎重であると認められてきた。過分にも大行皇帝(武帝)の奨育の恩に蒙り、また文皇帝(文帝)の識擢の重荷を負い、 司徒 しと 公(蕭子良)は士林に預からせ賜い、安陸王(蕭子敬)は曲りなきご眷顧を垂れた。前後して虜征伐の計を陳べたことも、また先朝に認められた。今度、犬羊(北魏)が突然擾乱した折、囚人に符詔の草撰を命じられた。また 司徒 しと が勅を宣して募兵した際、同様の例は一つではなく、実に軍事は小事でないため、敢えて教えを承けなかった。続いて軍号を賜り、招集の任を命じられ、勅命を奉じて行動したのであり、敢えて虚偽の扇動をしたのではない。また『威声を張り弄ぶ』と言うなら、形跡があるはずである。『権利を専行する』と言うなら、また贓賄(賄賂)がない。『唇歯の間を反覆する』とは、誰と悉く語ったのか審らかでない。『頰舌の内を傾動する』とは、これを主とする者が全くないわけはない。上(武帝)に献じた甘露頌及び銀甕の啓、三日詩序、虜使接遇の語辞などは、思慮を尽くして称揚したものであり、誹謗ではあるまい。囚人の才分は元より劣り、誤って策用され、悚怍の情は、朝夕兢惕し、自らを循り自らを省みるに、流言を恥じるばかりである。伏して惟うに、明皇(鬱林王)が宇内を臨み、普く天の下に恩沢を蒙り、戊寅の赦恩では、軽重必ず宥され、百日の猶予期間を経て、始めて旬日を蒙った。一介の罪身が、独り憲劾を被るとは」。融が収監されると、朋友や部曲が北寺(廷尉獄)を訪ねて参問する者が道に相継ぎ、子良に救済を請うたが、子良は敢えて救わなかった。西昌侯(蕭鸞)が固く争ったが、聞き入れられなかった。詔により獄中で死を賜り、時に二十七歳であった。臨終に嘆いて言った。「もし百歳の老母がいなければ、一言を吐くところであった」。融の意は、帝(鬱林王)が東宮にいた時の過失を指摘しようとしたのである。先だって、太学生の会稽魏准は、才学を融に賞され、子良を奉じようとした際、准がその事を煽り立てた。太学生の虞羲・丘国賓は密かに語り合って言った。「竟陵王は才弱く、王中書は決断力がない、敗北は目の前だ」。融が誅殺されると、准が舎人省に召し出されて詰問され、遂に恐れて死に、体全体が青くなった。当時の人は准が胆を破られたのだと言った。融の文集は当時に行われた。

従子に王微。

王微は字を景玄といい、王弘の弟で光禄大夫王孺の子である。幼少より学問を好み、文章を作ることに長じ、書に巧みで、音律及び医方・卜筮・陰陽数術の事を兼ねて理解した。宋の文帝は名高い蓍草を賜った。初め始興王(劉濬)の友となり、父の喪で職を去った。微は元より官途への志がなく、喪が明けると、南平王劉鑠の右軍諮議参軍に任じられ、やがて中書侍郎となった。時に兄の王遠が免官されて数年が経ち、微は嘆いて言った。「我が兄は事なくして廃され、私はどうして分を踰えて忝くも任に就いていられようか」。文帝は直ちに王遠を光禄勲とした。

王微は文章を作るに古風を好み、言葉に抑揚があった。袁淑がこれを見て、冤罪を訴えているようだと言った。吏部尚書江湛が微を挙げて吏部郎としようとしたが、微は確乎として動かなかった。当時の論者の中には、微が挙げられたのは廬江の何偃もその議に参与したからだと言う者もいた。偃は微から咎められることを憂慮し、手紙を送って自ら陳べた。微は返書で、塵外(世俗を離れた世界)の適意を深く語った。その従弟の王僧綽が文帝の旨を宣して就職を促し、宿泊させた。微は天文に微妙に通じ、大変事があることを知り、独り僧綽と仰ぎ見て言った。「この天は人を欺かない、智者でなければ誰がこれを免れられようか」。遂に辞して就任しなかった。間もなく元凶(劉劭)の変が起こった。

王微は常に門屋の一間に住み、書を探し古を玩び、遂に足を地に履かず。終日端坐し、床席は皆塵埃を生じ、唯だ坐する所のみ独り浄し。弟の僧謙も亦た才誉有り、太子舎人となり、疾に遇い、微は躬自ら処療す。而して僧謙は薬を服するに度を失い、遂に卒す。深く自ら咎恨し、病を発して復た自ら療せず、僧謙を哀痛して已む能わず、書を以て霊に告ぐ。僧謙の卒する後四旬にして微終る。遺令して薄葬を求め、輀旐鼓挽の属を設けず、五尺の床を施して霊と為し、二宿にして便ち毀ち、常に弾ずる所の琴を床上に置く。何長史偃来たり、琴を以て之を与う。子無し、家人之に遵う。著す所の文集世に伝わる。秘書監を贈られる。

王微の兄 王遠

王微の兄遠は字を景舒と為し、位は光禄勳に至る。時人、遠を屏風の如しと謂い、屈曲して俗に従い、能く風露を蔽う。言う、能く物理に乖かざるなりと。

遠の子僧佑は字を胤宗と為し、幼くして聡悟、叔父微其の首を撫でて曰く、「児神明意用、当に率爾の人を作さざるべし」と。雅に従兄儉に重んぜられ、毎に笳を鳴らし騶を列ねて其の門に到りて之を候うも、僧佑は輒ち疾を称して前に進まず。儉曰く、「此れ吾の若人に望む所なり」と。世皆儉の名徳を愛するを推し、而して僧佑の勢に趨らざるを重んず。

未だ弱冠せずして、頻りに憂を経、喪に居りて至孝なり。服闋し、発落略く尽き、殆ど冠帽を立つるに堪えず。秀才に挙げられ、驃騎法曹と為るも、羸瘠にして命を受くるに堪えず。

雅に博古を好み、老・庄に善くし、繁華を尚ばず。草隸に工み、琴を鼓するに善くし、亭然として独立し、当世と交わらず。沛国の劉瓛風を聞きて悦び、上書して之を薦む。著作佐郎と為り、 司空 しくう 祭酒に遷るも、病を謝して公卿と遊ばず。斉の高帝王儉に謂いて曰く、「卿の従は朝隠と謂うべし」と。答えて曰く、「臣の従は敢えて妄りに高人に同じくするに非ず、直だ閑を愛し病多きのみ」と。経て儉に詩を贈りて云く、「汝が家は市門に在り、我が家は南郭に在り。汝が家は賓侶に饒け、我が家は鳥雀多し」と。儉は時に声一代に高く、賓客門を填すも、僧佑は之が為に屈せず、時人之を嘉す。

稍く しん 安王文学に遷り、而して陳郡の袁利を友と為す。時人以って妙選と為す。斉の武帝数え武を閲し、僧佑講武賦を献ず。王儉借り観んと求むも与えず。竟陵王子良其の琴に工なるを聞き、座に於て琴を取りて之に進むも、命に従わず。永明の末、太子中舎人と為り、直に在りて疾に属し、人に対せずして輒ち去る。中丞沈約之を弾じて云く、「情を肆にし気を運らし、朝典を顧みず、眉を揚げ歩を闊にし、轡を直くし高く駆る」と。坐して贖論と為る。時に何点・王思遠の徒交わりを請うも、並びに意を降さず。天子より侯伯に至るまで、未だ嘗て一人と遊ばず。黄門郎に卒す。子に籍有り。

遠の子 王籍

籍は字を文海と為し、斉に仕えて余杭令と為り、政化神の如く、擿伏に善くし、下よりして能く欺く莫し。性頗る倹ならず、俄然として百姓に訟せらる。又た錢唐県と為り、下車して政を布けば、咸に謂う、数十年來未だ之れ有らざるなりと。

籍は学を好み、才気有り、詩を作るに謝霊運を慕う。其の合するに至りては、殆ど愧色無し。時人咸に謂う、康楽の王籍有るは、仲尼の丘明有るが如く、老聃の厳周有るが如しと。梁の天監中、軽車湘東王諮議参軍と為り、府に随いて会稽郡に至る。若邪溪に至りて詩を賦して云く、「蝉噪りて林逾よ静か、鳥鳴きて山更に幽なり」と。劉孺之を見て、節を撃ちて已む能わず。公事を以て免ぜらる。

及び中散大夫と為り、弥よ忽忽として楽しまず、乃ち徒行して市道し、交遊を択ばず。時に塗中に相識るを見れば、輒ち笠傘を以て面を覆う。後作唐侯相と為り、小邑にして事寡く、弥よ楽しまず、県事を理めず。人に訟する者有れば、鞭ちて之を遣る。未だ幾ばくもせずして卒す。籍は又た甚だ草書に工み、筆勢遒放、蓋し孔琳之の流亜なり。湘東王其の文を集めて十巻と為す。王瞻は字を思範と為し、王弘の従孫なり。祖の柳は字を休季と為し、位は光禄大夫・東亭侯。父の猷は字を世倫と為し、位は侍中・光禄大夫。瞻年六歳にして師に従い、時に伎門を経て過ぐる有り、同業皆出でて観るも、瞻独り視ず、業を習うこと初めの如し。従父の僧達聞きて之を異とし、其の父猷に謂いて曰く、「大宗衰えず、之を此の子に寄す」と。年十二にして父の憂に居り、孝を以て聞こゆ。服闋し、東亭侯を襲封す。後頗る逸遊を好み、閭里の患と為り、軽薄を以て称せらる。及び長じ、節を折りて士操を修め、書記に渉猟し、碁に善く射に工なり。

歴位して驃騎将軍王晏の長史と為る。晏誅せられ、出でて しん 陵太守と為る。己を潔くして政を為し、妻子饑寒を免れず、時に廉平と号す。王敬則乱を作すや、瞻は都に赴く。敬則 しん 陵郡を経るも、人多く之に附す。敬則敗れ、台軍賊党を討たんとす。瞻言う、愚人は動かし易く、法を窮むるに足らずと。斉の明帝之に従う。全うする所万数に及ぶ。御史中丞に遷る。

梁台建つや、侍中・吏部尚書と為る。性率亮にして、選部に居り、挙ぐる所多く其の意を行う。頗る酒を嗜み、毎に飲むこと或は日を弥ごすも、精神朗贍にして、簿領を廃せず。梁武毎に瞻に三術有りと称す:射・棋・酒なり。卒し、諡して康侯と曰う。子の長玄早く卒す。

王弘四弟有り:虞・柳・孺・曇首。虞は字を休仲と為し、位は廷尉卿。虞の子深は字を景度と為し、美名有り、位は新安太守。柳・孺の事は前に列し、曇首は別巻にす。

玄孫 王沖

沖は字を長深といい、王弘の玄孫である。祖父の僧衍は侍中の位にあり、父の茂璋は字を胤光といい、梁に仕えて給事黄門侍郎の位にあった。沖の母は梁の武帝の妹の新安公主で、斉の世に卒した。武帝は沖を深く鍾愛し、東安亭侯の爵を賜った。累遷して侍中・南郡太守となった。法令に習熟し、政治は平理と称され、赫々たる誉れはないものの、久しく在任して思慕された。音楽に通暁し、歌舞を習い、人と交わることを善くし、貴遊の間において声名は甚だ盛んであった。

侯景の乱の際、元帝が承制すると、沖は南郡の任を解き王僧辯に譲ることを請い、併せて女伎十人を献じて軍賞を助けた。侯景が平定されると、丹陽尹を授けられた。魏が江陵を平定し、敬帝が太宰として承制すると、沖を左長史とした。紹泰年間、累遷して左光禄大夫・尚書左僕射・開府儀同三司となり、扶を与えられた。

陳の武帝が禅を受けると、太子少傅を領し、特進・左光禄大夫を加えられ、丹陽尹を領し、律令の撰修に参与した。帝は沖が前代の旧臣であることを以て、特に長幼の敬を表した。文帝が即位すると、益々尊重を加えられ、嘗て 司空 しくう の徐度の宅に従幸し、宴筵の上において、几を賜った。光大元年に薨じ、年七十六、 司空 しくう を追贈され、諡して元簡といった。

沖には三十人の子があり、皆通官に至った。第十二子は瑒である。

沖の第十二子 瑒

瑒は字を子瑛といい、沈静にして器局があり、風儀が美しかった。梁の元帝の時、太子中庶子の位にあった。陳の武帝が輔政に入ると、 司徒 しと 左長史とした。文帝が即位すると、累遷して太子中庶子・ 散騎常侍 さんきじょうじ ・侍中となった。父の沖が嘗て瑒のために中庶子を領することを辞したことがあり、文帝は沖を顧みて言った、「瑒を久しく承華(太子宮)に留めた所以は、正に太子が微かに瑒の風法を有することを欲したからである」。

宣帝が即位すると、中書令、吏部尚書を歴任した。瑒の性格は寛和で、清静を務め、抑揚することがなかった。尚書左僕射に遷り、侍中を加えられ、選事に参与した。

瑒は家に居て篤く睦まじく、毎年時の饋遺は近親に遍く及んだ。諸弟を敦め誘い、その規訓に従わせた。卒すると、特進を追贈され、諡して光子といった。

瑒の弟 瑜

瑒の弟の瑜は字を子珪といい、また知名であった。容儀が美しかった。三十歳で官は侍中に至った。永定元年に斉に使いし、陳郡の袁憲を副使とした。斉は王琳の故を以て、彼らを囚禁した。斉の文宣帝は毎回行幸する際、死囚を載せて従わせ、斉人はこれを供御囚と呼んだ。帝が怒る度に召し出して殺した。瑜と憲は共に危殆に陥ること数度に及んだが、斉の僕射楊遵彦が毎回救護した。天嘉二年に朝廷に還り、再び侍中となった。卒し、諡して貞子といった。

論じて言う。語に云う、「君子無くして、其れ国たることを能くせんや」。晋は中原沸騰して以来、江左に介居し、一隅の地を以て、上国に抗衡し、年三百を移すも、蓋し憑むところ有り。其の初め諺に云う、「王と馬、天下を共にす」。蓋し王氏の人倫の盛んなるは、実に是より始まる。及びて休元(王弘)兄弟に至り、並びに棟梁の任を挙げ、下って世嗣に逮んでも、文雅の風を虧くことがなかった。其の簪纓替わらざる所以は、豈に徒然ならんや。僧達は倡狂として性を成し、元長は躁競して止まなかった。

原本を確認する(ウィキソース):南史 巻021