南史
巻二十より巻二十一
列伝第十
謝弘微
謝密、字は弘微、晋の西中郎将謝万の曾孫、尚書左僕射謝景仁の従子である。祖父は謝韶、車騎司馬。父は謝思、武昌太守。
弘微は十歳の時、従叔父の謝峻の後を継いだ。名は継いだ家の内諱に触れるため、字をもって行われる。幼少の時より精神が端正で慎重、時宜を得て後に言う。継いだ叔父の謝混は人を見る目で知られ、彼を見て異とし、謝思に言うには「この子は深く内に早くから聡明、まさに佳器とならん。子としてかくの如きあれば足る」と。謝峻は 司空 謝琰の子であり、弘微に対しては本来緦麻の服である。親戚中表、平素より相識らず、率意に接しても皆礼の衷に合う。
義熙の初め、爵を襲い建昌県侯となる。弘微の家は平素より貧しく倹約であったが、継いだ家は豊かであった。ただ数千巻の書と国吏数人を受けるのみで、遺された財産や禄秩には一切関与しなかった。謝混はこれを聞き驚嘆し、国郎中令の漆凱之に言うには「建昌国の禄は本来北舎と共にすべきものである。国侯が既に意を措かぬ以上、今は常の分に依り送るべし」と。弘微は重ねて謝混の言葉に背き難く、乃ち少しばかり受け取った。北舎とは、弘微の実家である。
謝混は風格高峻、交わること少なく、ただ族子の謝霊運・謝瞻・謝晦・謝曜・謝弘微と文義を賞して会し、常に共に宴し処す。烏衣巷に住み、故にこれを烏衣の遊と謂う。謝混の詩に言う「昔烏衣に遊び、戚戚たる皆親姓」とはこれである。その外にはたとえ高流の時誉あれども、敢えて門を造る者なし。謝瞻らは才辞弁富、弘微は常に約言をもって之を服せしめ、謝混は特に敬貴し、微子と号す。謝瞻らに謂いて「汝ら諸人は才義豊弁と雖も、必ずしも皆衆心に愜うにはあらず。機賞を領会し、言約にして理要なるに至っては、故に当に我と共に微子を推すべし」と。常に言う「阿遠(謝瞻)は剛躁にして気を負い、阿客(謝霊運)は博にして検め無く、謝曜は才を仗りて操を持するも篤からず、謝晦は自ら知るも善を納るに周からず。設い復た功三才を済すとも、終には亦これを以て恨みと為さん。微子に至りては、吾間に然る無し」。又言う「微子は異なるも物を傷つけず、同じくも正を害さず。若し年六十に造らば、必ず公輔に至らん」。嘗て酣燕の余りに因り、韻語を為して謝霊運・謝瞻らを奨励し曰く「康楽は通度を誕し、実に名家の韻有り、若し繩染の功を加うれば、剖きて瑩るれば乃ち瓊瑾。宣明は遠識を体し、穎達にして且つ沈俊、若し方執を去らば、穆穆として三才順う。阿多は独解を標し、弱冠にして華胤を纂ぐ、質勝りて誠に文無し、其れ尚ふ又能く峻し。通遠は清悟を懐き、采采として蘭訊を摽す、直轡は鮮しとせずして躓かず、抑えて用いて偏吝を解く。微子は微尚に基き、倦むこと無きは藺を慕うに由る、軽んずること勿れ一簣の少なきを、進み往けば必ず千仞。数子勉れ哉、風流爾より振わん。知る所を犯さざるが如く、此の外慎む所無し」と。謝霊運・謝瞻らには並びに誡厲の言有り、唯だ弘微独り褒美を尽くす。謝曜は弘微の兄、多は其の小字。通遠は即ち謝瞻の字。客児は謝霊運の小名なり。晋の世、名家にして身に国封有る者は、起家多く員外散騎侍郎を拝し、弘微も亦た員外散騎侍郎・琅邪王大司馬参軍を拝す。
義熙八年、謝混は劉毅の党として誅せらる。謝混の妻晋陵公主は琅邪王の王練に改めて適す。公主は執意して行かざるも、詔により謝氏と離絶す。公主は謝混の家事を弘微に委ぬ。謝混は累世宰相、一門両封、田業十余処、僮役千人、唯だ二女有り、年並びに数歳。弘微は生業を経紀し、事公に在るが如く、一銭一尺の帛の出入りも、皆文簿有り。宋の武帝命を受く、晋陵公主は封を降りて東郷君と為る。謝混が前代に罪を得たるを以て、東郷君の節義嘉す可く、謝氏に還るを聴す。謝混の亡きより是に至るまで九年、而して室宇修整し、倉廩充盈し、門徒平日に異ならず。田疇墾闢し、旧に加うること有り。東郷君嘆じて曰く「僕射(謝混)生平此の子を重んず、人を知ると謂う可し。僕射亡びず」と。中外の姻親・道俗の義旧、東郷の帰るを見る者、門に入りて嘆息せざるは莫く、或いは流涕す、弘微の義に感ずるなり。
性厳正、挙止必ず礼度に循い、継親の党に事え、恭謹常に過ぐ。伯叔の二母、帰宗の両姑、晨夕瞻奉し、其の誠敬を尽くす。内外或いは伝語通訊するも、輒ち其の衣冠を正す。婢僕の前、妄りに言笑せず。ここに由りて尊卑大小、神の如く之を敬す。時に蔡湛之という者有り、謝安兄弟を見及び、人に謂いて「弘微の貌は中郎(謝万)に類し、而して性は文靖(謝安)に似たり」と。
文帝初め宜都王に封ぜられ、江陵に鎮す。琅邪の王球を友と為し、弘微を文学と為す。母憂にて職を去り、喪に居ること孝を以て称さる。服闋し、蔬素時を踰ゆ。文帝即位し、黄門侍郎と為り、王華・王曇首・殷景仁・劉湛等と、五臣と号す。尚書吏部郎に遷り、機密に参ず。尋いで右衛将軍に転じ、諸の故吏臣佐、並びに弘微に委ねて選擬せしむ。
身を居すること清約、器服華ならず、而して飲食滋味其の豊美を尽くす。兄謝曜は歴任し御史中丞、彭城王劉義康の驃騎長史、官に卒す。弘微哀戚礼を過ぎ、服除くも猶お魚肉を噉わず。沙門釈慧琳嘗て之と食し、其の猶お蔬素なるを見て謂いて「檀越素より既に疾多く、即吉すれども未だ膳を復せず。若し益無きを以て生を傷つくれば、豈に理を得んことを望む所ならんや」と。弘微曰く「衣冠の変、礼踰ゆ可からず。心に在るの哀、実に未だ已む能わず」と。遂に食を廃し歔欷自勝えず。
弘微少くして孤、兄に事うること父の如し。友睦の至り、挙世及ぶ莫し。口に人の短を言わず、兄謝曜の人物を臧否するを好むを見、之を聞く毎に、常に他語を以て乱す。歴位し中庶子、侍中を加う。志は素宦に在り、権寵を畏忌し、固く譲りて拝せず、乃ち中庶子を解くを聴す。毎に献替及び事を陳ぶるに、必ず手書して草を焚く、人之を知る莫し。上は弘微の膳羞能くするを以て、毎に就きて食を求め、弘微は親旧と経営す。進めたる後に及び、親人の上に御する所を問うも、弘微は答えず、別に余語を以て之に酬う。時人これを漢世の孔光に比す。
東郷君薨じ、遺財千万、園宅十余所、又た会稽・呉興・琅邪諸処の太傅謝安・ 司空 謝琰の時の事業、奴僮猶お数百人、公私咸に室内の資財は二女に帰すべく、田宅僮僕は弘微に属すべしと謂うも、弘微は一も取らず。自ら私禄を以て葬を営む。謝混の女夫の殷叡は素より摴蒱を好み、弘微の財物を取らざるを聞き、乃ち濫りに其の妻妹及び伯母両姑の分を奪いて以て戲責に還す。内人は皆弘微の譲りに化し、一として争うこと無し。弘微の舅の子なる領軍将軍劉湛、弘微に謂いて「天下の事は宜しく裁衷有るべし。卿此れを問わずんば、何を以て官に居らん」と。弘微笑って答えず。或いは譏りて「謝氏累世の財産、殷君一朝の戲責に充つ、譬えば物を江海に棄てて以て廉と為すが如きのみ」と。弘微曰く「親戚財を争うは、鄙しきの甚だしきなり。今内人尚お能く言無きに至る。豈に之を導きて争わしむべけんや。今分多く共に少なきも、乏しきに至らず。身死しての後、豈に復た関らんや」と。
東郷君葬られ、謝混の墓開く。弘微は疾を牽き臨み赴き、病遂に甚だし。元嘉十年卒す、年四十二。文帝嘆惜甚だ甚だしく、謝景仁に謂いて「謝弘微・王曇首、年四十を踰え、名位其の才を尽くさず。此れ朕が責なり」と。
弘微は寛大で度量が広く、喜怒の色を表さなかった。晩年、友人と囲碁を打ったことがある。友人の西南の石に死に形があった。もう一人の客が言った、「西南の風が急である。あるいは舟を覆す者があるかもしれぬ。」友人は悟ってそれを救った。弘微は大いに怒り、碁盤を地に投げつけた。識者は彼の晩年の事を知り、果たしてこの年に終わった。時に一つの長鬼が司馬文宣の家に寄宿し、弘微を殺すよう遣わされたと言った。弘微の病が毎回激しくなるたびに、必ず文宣に予告した。弘微が死ぬと、文宣と別れて去った。
弘微は臨終に左右の者に言った、「二通の封じた文書がある。劉領軍が到着するのを待ち、その前で焼くがよい。決して開いてはならぬ。」文書は文帝の手による詔勅であった。上は甚だ痛惜し、二衛の千人をして葬事を営ませ終え、太常を追贈した。
弘微は琅邪の王恵・王球と共に簡淡をもって称せられ、人が沈約に言った、「王恵はどうか。」約は言った、「令明は簡である。」次に王球を問うと、約は言った、「蒨玉は淡である。」また次に弘微を問うと、約は言った、「簡にして失わず、淡にして流れず。古のいわゆる名臣、弘微これに当たる。」そのように賞賛された。子は荘。
荘は字を希逸といい、七歳で文を作ることができた。成長すると、聡明で美しい容貌であった。宋の文帝はこれを見て異とし、尚書僕射の殷景仁・領軍将軍の劉湛に言った、「藍田玉を生ず、豈に虚ならんや。」随王誕の後軍諮議となり、記室を領した。左氏の経伝を分け、国に随って篇を立てた。木を方一丈に製し、山川土地を図し、それぞれ分理があった。離せば州郡は別異となり、合せれば宇内は一つとなる。
元嘉二十七年、魏が彭城を攻め、尚書李孝伯を遣わして鎮軍長史張暢と語らせた。孝伯は荘及び王微を訪ね問うた。その名声が遠くまで及んでいたのはこのようであった。二十九年、太子中庶子に除された。時に南平王鑠が赤い鸚鵡を献上し、広く群臣に詔して賦を作らせた。太子左衛率の袁淑は当時文才で冠たり、賦を作り終えて荘に見せた。荘の賦を見て、歎じて言った、「江東に我がなければ、卿は独り秀でるであろう。我もし卿がなければ、また一時の傑である。」遂に自分の賦を隠した。
元凶が 弑 逆して立つと、 司徒 左長史に転じた。孝武帝が討伐に入ると、密かに檄書を荘に送り、改正して宣布するよう命じた。荘は腹心の門生具慶を遣わし、啓事を奉じて密かに孝武帝に詣で誠意を陳べた。帝が践祚すると、侍中に除された。時に魏が互市を通じることを求め、上は群臣に詔して広く議論させた。荘の議は、拒んで隙を観るに足りて強さを表すと為した。驃騎将軍竟陵王誕が荊州に当たるべき時、丞相荊州刺史南郡王義宣を征して入朝補佐させようとしたが、義宣は固辞して入らなかった。そして誕はすぐに期日を定めて船出しようとした。荘は、丞相には既に入朝の志がなく、驃騎が出発すれば期日があるので、互いに逼迫しようとするかのようだと為した。帝は遂に誕の発つ日を延ばし、義宣も結局出発しなかった。
孝建元年、左将軍に遷った。荘には口弁があった。孝武帝はかつて顔延之に問うた、「謝希逸の月賦はどうか。」答えて言った、「美しいことは美しい。但し荘は初めて『千里を隔てて明月を共にす』を知った。」帝は荘を召し、延之の答を語って聞かせた。荘は声に応じて言った、「延之が秋胡詩を作り、初めて『生くるは久しき離別と為り、没するは長く帰らざると為る』を知った。」帝は一日中手を打った。また王玄謨が荘に、何を双声とし、何を疊韻とするかと問うた。答えて言った、「玄護は双声、碻磝は疊韻である。」その敏捷さはこのようであった。初め、孝武帝はかつて荘に宝剣を賜った。荘はこれを持って 豫 州刺史魯爽に与えた。後で爽が叛くと、帝は宴席で剣の所在を問うた。答えて言った、「昔、魯爽と別れるに当たり、ひそかに陛下の杜郵の賜り物と為しました。」上は甚だ悦び、当時これを知言と為した。
当時、人材を求める道が狭く、荘は表を上して賢を求める意義を陳べた。曰く、
臣は聞く、功は魏后を傾けるも、ただ照車の珍に非ず。徳は秦客を柔ぐるも、豈に秘璧の貴に徒ならんや。隆替の漸る所、成敗の由る所は、何ぞ嘗て賢才を得て興き、士を失いて替わるに因らざらん。故に楚書は善人を宝と為し、虞典は則哲を難と為す。而して進選の挙は既に中代に隳ち、登造の律は未だ当今に聞かず。必ずや本を豊かにし務めを康らかにし、人を庇い俗を済わんと欲すれば、惉懘を更えざれば、何を以て九成を取らん。夫れ才は時に生じ、古今豈に二ならん。士は世に出で、屯泰何ぞ殊ならん。中陽に歴を升れば、英賢は徐沛より起り、白水に籙を受ければ、茂異は荊宛より出づ。寧ぞ二都は智の産む所、七隩は愚の育つ所ならんや。実に遇うと遇わざると、用うると用いざるとの違いである。今大道は光亨し、万務は徳を俟つ。而して九服の広さ、九流の艱しさを、鈞を提げ衡を懸けて選部に委ねる。一人の鑑は限り易く、天下の才は源り難し。限り易き鑑を以て、源り難き才を鏡とし、国に賢を遺すことなく、野に器の滞ることなからしむるは、其れ得べけんや。昔、公叔は臣を登用し、管仲は盗を昇進せしめ、趙文は私親を非とせず疏嗣を為さず、祁奚は豈に讎を諂いて子を比せんや。茅を茹いて以て匯るは、前経に範を作り、爾の知る所を挙ぐるは、往牒に式を昭かにす。且つ古より任薦は、賞罰を弘明にし、成子は三哲を挙げて身は魏輔に致し、応侯は二士を任じて已に秦相を捐て、臼季は冀缺を称して田采を以て疇し、張勃は陳湯を進めて坐して爵を褫かる。此れは先事の盛んなる準則、亦た後王の彝鑑である。臣は謂う、宜しく普く大臣に命じ、各々知る所を挙げ、以て尚書に付し分に依りて銓用すべし。若し任ずるに其の才を得ば、挙主は賞を延べ、職に称せざる有れば、宜しく其の坐に及ぶべし。重き者は免黜し、軽き者は左遷す。挙げられたる身には、加以て禁錮を加え、年数の多少は、愆に随いて議して制す。若し大辟を犯せば、則ち任じたる者は刑論すべし、と。
又、政平らかに訟理まるは、人を親しむに先んずる莫く、人を親しむ要は、実に守宰に帰す。故に黄霸は潁川に蒞ること累稔、杜畿は河東に居ること歴載、或いは就いて恩秩を加えられ、或いは入って暉寵を崇められた。今、人に蒞る職は、宜しく六年の限に遵うべく、進めば章明に庸惰なることを得、退けば人の勤労せざるを得ず。此くの如くすれば、則ち上は能を棄つること靡く、下に浮謬無く、考績の風は載せて泰らぎ、薪槱の歌は克く昌んず。初め、文帝の世、年三十に限りて郡県に仕え、六周にして選代し、刺史は或いは十年余りであった。是に至って皆之を易え、仕える者は長少に拘わらず、人に蒞ることを三周を以て満と為し、宋の善政はここに於いて衰えた。
是の年、吏部尚書に拝された。荘は平素より疾多く、選部に居ることを願わず、大司馬江夏王義恭に箋を送り、自ら陳べて「両脇の癖疢は、殆ど生と倶にし、一月に発動すること、両三に減ぜず。毎痛来りて心を逼れば、気余ること綖の如し。患を利すること数年、遂に痼疾と成る。岋岋惙惙、常に行屍の如し。眼患は五月来りて便ち復た夜坐を得ず、恒に帷を閉じて風を避く。昼夜惛懵、此れが為に復た諸王に朝謁し、親旧を慶吊することを得ず。今の止まる所は、唯だ小合に在り。下官の微命は、天下に於いて至って軽しと雖も、己に在りては重からざるを得ず。家世に年無く、亡き高祖四十、曾祖三十三、亡き祖四十七、下官新歳便ち三十五。加以て疾患此の如し、復た幾時を当てん。入年には当に前請を申し、以て死を以て自ら固めん。願わくは侍坐言次の際、賜わりて接助を垂れ給わん」と。三年、疾多きに坐して免官された。
大明元年、起用されて都官尚書となった。帝は時に自ら朝政を覧み、権力が臣下に移ることを慮り、吏部尚書が選挙を司ることを以て、その勢力を軽くせんとした。二年、詔して吏部尚書を郎に依り分置し、併せて閑曹を詳らかに省くべしと。また別に太宰江夏王義恭に詔して曰く、「吏部尚書は由来録と共に選挙を掌る。良く一人の識見は洽通を弁ぜず、兼ねて与奪の威権は専一にすべからざる故なり」と。ここに吏部尚書二人を置き、五兵尚書を省く。謝莊及び度支尚書顧覬之は並びに選職を補す。左衛将軍に遷り、給事中を加えられた。時に河南より舞馬を献じ、群臣に賦を作ることを詔し、謝莊の上したるは甚だ美なり。また謝庄に舞馬歌を作らしめ、楽府にこれを歌わしむ。
五年、また侍中となり、前軍将軍を領す。時に孝武帝出行して夜還り、門を開くことを敕す。謝庄は居守し、棨信或いは虚なるを以て、墨詔を須いて乃ち開く。帝後に宴に因り、従容として曰く、「卿は郅君章に效わんと欲するか」と。対えて曰く、「臣聞く、搜巡には度有り、郊祀には節有り、游田に盤するは、前に誡めを著すと。陛下今塵露を蒙犯し、晨に往き宵に還るは、容れ易く不逞の徒を致し、妄りに矯詐を生ぜん。臣是を以て神筆を伏して須つ」と。
六年、また吏部尚書となり、国子博士を領す。公車令張奇を選ぶに坐して免官せらる。事は顔師伯伝に在り。後に呉郡太守を除す。
前廃帝即位し、金紫光禄大夫と為す。初め、孝武帝の寵姫殷貴妃薨じ、謝庄が誄を作り、「堯門に軌を讃す」と言う。漢の昭帝の母趙婕妤の堯母門の故事を引き、廃帝東宮に在りてこれを銜む。ここに至り人を遣わして謝庄を詰めて曰く、「卿昔く殷貴妃の誄を作りしに、東宮有るを知りしや」と。将にこれを誅せんとす。孫奉伯、帝に説いて曰く、「死は人の同くする所、政復た一往の苦しみ、以て困と為すに足らず。謝庄は少くより富貴に長じ、且つこれを尚方に繋ぎ、天下の苦劇を知らしめ、然る後にこれを殺すも未だ晩からず」と。帝曰く、「卿の言理有り」と。左尚方に繋ぐ。明帝乱を定めて出でしめ、赦詔を作らしむ。謝庄夜に出でて署門に方に坐し、命じて酒を酌ましむ。既に微酔い、伝詔停めて詔の成るを待つ。その文甚だ工なり。後に尋陽王師と為り、中書令・ 散騎常侍 を加えらる。尋いで金紫光禄大夫を加えられ、親信二十人を給う。卒す。右光禄大夫を贈られ、諡して憲子と曰う。著す所の文章四百余首、世に行わる。
五子:揚・朏・顥・嵷・瀹。世に謝庄が子の名を風月景山水に以てつけると言う。揚は晋平太守の位に至り、女は順帝の皇后となり、金紫光禄大夫を追贈される。
朏、字は敬沖、幼くして聡慧なり。謝庄これを器とし、常に左右に置く。十歳にして文を属する能う。謝庄土山に游び、朏に命じて篇を作らしむ。筆を攬げて便ち就る。琅邪の王景文、謝庄に謂いて曰く、「賢子足れり以て神童と称すべく、復た後来の特達と為らん」と。謝庄朏の背を撫でて曰く、「真に吾が家の千金なり」と。宋の孝武帝姑孰に游び、謝庄に敕して朏を携え従駕せしむ。詔して洞井賛を作らしめ、坐に於いてこれを奏す。帝曰く、「小なれども重し」と。
宋に仕えて衛将軍 袁粲 の長史と為る。 袁粲 性簡峻、時人これを李膺に方ぶ。謝朏謁して退く。 袁粲 曰く、「謝令死せず」と。宋の明帝嘗て謝朏に敕して謝鳳の子超宗と共に鳳庄門より入らしむ。二人倶に至る。超宗曰く、「君命は以て往かざるべからず」と。乃ち趨って入る。謝朏曰く、「君は臣を以て礼に処す」と。遂に退きて入らず。時人両つながらこれを称し、王尊・王陽に比す。後に臨川内史と為り、賄を以て劾せらる。 袁粲 その事を寝す。
斉の高帝驃騎将軍として政を輔く。謝朏を選びて長史と為す。高帝方に禅代を図り、謝朏を以て佐命せんと欲し、左長史に遷す。毎夕酒を置き、独り謝朏と魏・晋の故事を論じ、石苞早く晋文を勧めず、死して方に慟哭するは、これを馮異に方ぶれば、機を知るに非ずと言う。謝朏曰く、「昔魏の臣魏武に勧めて即帝位せしむる者有り。魏武曰く、'我を用うる者有らば、其れ周の文王か'と。晋文は世々魏氏に事え、将に必ず終身北面せん。仮使魏早く唐・虞の故事に依らば、亦た三譲して弥高からん」と。帝悦ばず、更に王儉を引きて左長史と為し、謝朏を以て侍中と為し、秘書監を領せしむ。
斉の禅を受くるに及び、謝朏当時に直に在り、百僚位に陪す。侍中当に璽を解くべし。謝朏佯りて知らず、曰く、「何の公事か有る」と。伝詔云う、「璽を解き斉王に授けよ」と。謝朏曰く、「斉自ら応に侍中有るべし」と。乃ち枕を引いて臥す。伝詔懼れ、乃ち疾有りと称せしめ、兼人を取らんと欲す。謝朏曰く、「我疾無し、何をか道せん」と。遂に朝服して東掖門を出で、乃ち車を得、仍って宅に還る。是の日、遂に王儉を以て侍中と為し璽を解かしむ。既にして武帝謝朏を誅せんことを請う。高帝曰く、「これを殺せば則ちその名を成す。正に応にこれを度外に容るべし」と。又家貧を以て郡を乞う。辞旨抑揚し、詔して官を免し禁錮五年。永明中、義興太守と為り、郡に在りて雑事を省みず、悉く綱紀に付し、曰く、「吾は主者吏を作ること能わず、但だ太守を作る能うのみ」と。都官尚書・中書令・侍中を歴て、新安王師を領す。求出で、仍って呉興太守と為る。
明帝謀りて嗣位に入らんとし、朝廷の旧臣を引く。謝朏内に止足を図り、且つ実に事を避く。弟の瀹時に吏部尚書と為る。謝朏郡に至り、瀹に数斛の酒を致し、書を遺して曰く、「力を此を飲み、人事に 豫 する勿れ」と。謝朏郡に居り、毎に理めず、常務聚斂す。衆頗るこれを譏るも、亦た屑とせず。
建武四年、侍中・中書令に徴す。応ぜず。諸子を遣わして都に還らしめ、独り母と留まる。郡の西郭に室を築く。明帝詔して優礼を加え、その素概を旌し、床帳褥席を賜い、卿禄を以て奉ず。時に国子祭酒廬江の何胤も亦た表を抗して会稽に還る。永元中、詔して謝朏・何胤を征す。並びに屈せず。時に東昏皆命を迫遣す。会す梁武帝兵を起こす。建鄴平ぐるに及び、謝朏・何胤を征し、並びに軍諮祭酒を補す。皆至らず。即位に及び、詔して謝朏を侍中・左光禄大夫・開府儀同三司に征し、何胤を 散騎常侍 ・特進・右光禄大夫に征す。又並びに屈せず。仍って領軍司馬王果を遣わし謝朏を敦譬す。謝朏何胤に謀る。何胤独りその節を高くせんと欲し、紿いて曰く、「興王の世、安んぞ久しく処る可けんや」と。
明年六月、謝朏軽舟を出だし、闕に詣り自ら陳す。帝笑いて曰く、「子陵遂に志を屈する能うか」と。詔して侍中・ 司徒 ・ 尚書令 と為す。謝朏脚疾を辞し、拝謁に堪えず。乃ち角巾肩輿して雲龍門に詣り謝す。詔して華林園に見えしむ。小車に乗りて席に就く。明旦、乗輿出でて幸に謝朏の宅に至り、宴語歓を尽くす。謝朏固より本志を陳す。許さず。又固より自ら還り母を迎えんことを請う。許す。発するに臨み、輿駕臨幸し、詩を賦して餞別す。王人送迎、道に相望む。都に到り、材官に敕して旧宅に府を起さしむ。武帝軒に臨み、謁者を遣わし府に於いて拝授せしむ。詔して諸の公事及び朔望の朝謁を停む。
三年の元会、詔して謝朏小輿に乗りて殿に升らしむ。謝朏素より煩を憚る。台鉉に居り、兼ねて内台を掌るに及び、職事多く覧みず。此を以て頗る衆望を失う。その年母憂有り。尋いで詔有りて職を摂すること故の如くせしむ。
五年、 中書監 ・ 司徒 ・衛将軍に改授す。固より譲りて受けず。謁者を遣わし敦授す。府門に留まり暮に及び、春夏を経るに至る。八月、乃ち拝受す。是の冬薨ず。車駕出で臨哭す。諡して孝靖と曰う。
建武の初め、朏は呉興に在りて、鶏卵を人に賦し、鶏数千を収む。及びんで節を遯れて全からず、清談に少くせらる。著書及び文章世に行わる。
子の諼は、位は 司徒 右長史に至り、牛を殺したる罪に坐して廃黜せらる。東陽内史となり、及んで還るに、五官が銭一万を送るも、止めて百を留むるのみ。答えて曰く、「数多くは劉寵の如し、更に以て愧じと為す。」
次子の譓は、妄りに交接せず、門に雑賓無し。時に独り酔ひて曰く、「吾が室に入る者は但だ清風有り、吾に對して飲む者は唯だ明月を當つべし。」位は右光禄大夫に至る。
子の哲は、字は穎 豫 、風儀美しく、挙止醞藉たり、襟情豁朗にして、士君子の重んずる所と為る。梁に仕えて広陵太守に至り、侯景の乱に因りて寓居す。陳に仕えて歴任し吏部尚書、中書令、侍中、 司徒 左長史。卒し、諡して康子と曰ふ。
顥は字を仁悠と云ひ、朏の弟なり。少より簡静なり。宋末に 豫 章太守と為り、石頭に至りて、遂に白服を以て烽火楼に登り、坐して免官せらる。齊の高帝に詣で自ら占謝し、言辭清麗、容儀端雅、左右之が為に傾目し、宥して問はざりき。齊の永明の初め、友學を高選し、顥を以て竟陵王友と為す。歴任し吏部郎、簡秀の目有り。北中郎長史に在りて卒す。
顥の弟瀹は字を義潔と云ふ。年七歳、王景文之を見て異とし、宋の孝武帝に言ふ。人衆の中に召見す。瀹の挙止閑詳、應對旨に合ひ、帝悦び、詔して公主に尚せしむ。景和敗れ、事寢す。僕射褚彥回、女を以て之に妻し、厚く資送を為す。
性甚だ敏贍なり。嘗て劉悛と飲み、推讓すること久し。悛曰く、「謝莊の兒は飲めざると云ふべからず。」瀹曰く、「苟くも其の人を得ば、自ら流湎すること千日も可なり。」悛甚だ慚じ、言無し。齊に仕えて累遷し中書侍郎。衛軍王儉之を引いて長史と為し、雅に禮遇す。後に拝して吏部尚書と為る。
明帝、郁林王を廃し、兵を領して殿に入る。左右驚き走りて報ずるに瀹にす。瀹は客と圍碁を打ち、毎に子を下すごとに輒ち云く、「其れ當に意有らん」と。竟局して乃ち齋に還り臥し、竟に外事を問はず。明帝即位し、瀹又疾に属し、公事を知らず。蕭諶、兵を以て臨みて之を起す。瀹曰く、「天下の事は、公卿之を處するに足れり。且つ死するは命なり、何ぞ以て此れを以て人を懼れしむるに足らん。」
後に功臣を宴會し上酒す。 尚書令 王晏等席を興すも、瀹独り起たずして曰く、「陛下命を受けて天に應ず。王晏は以て己が力と為す。」獻觴して遂に報ぜられず。上大笑して之を解く。座罷りて、晏、瀹を呼びて共に載り、相撫悦せんと欲す。瀹又正色して曰く、「君が巢窟は何處に在るか。」晏初めて班劍を得たり。瀹之に謂ひて曰く、「身家太傅たりしも、裁ち得ること六人のみ。何事をか頓に二十を得ん。」晏甚だ之を憚り、江祏に謂ひて曰く、「彼の上人は、酬對為り難し。」右軍將軍を領することを加ふ。
兄の朏、呉興に在りて、公事を論啓すること稽晚なり。瀹輒ち朏に代はりて啓を為す。上、朏の手跡に非ざるを知り、問はるるも原ゆるさる。永泰元年、太子詹事に在りて卒す。金紫光禄大夫を贈られ、諡して簡子と曰ふ。
初め、朏が呉興に在りし時、瀹は征虜渚にて送別す。朏、瀹の口を指して曰く、「此の中には唯だ酒を飲むに宜し。」瀹、建武の朝に在りて、専ら長酣を以て事と為し、劉瑱・沈昭略と交はり、飲むこと各数斗に至る。齊の武帝、王儉に問ふ、「當今誰か能く五言を為す者あらん。」儉曰く、「朏は父の膏腴を得、江淹は意有り。」上、禪靈寺を起し、敕して瀹に碑文を撰せしむ。瀹の子は覽。
覽は字を景滌と云ひ、選ばれて齊の錢唐公主に尚し、駙馬都尉を拝す。梁の武帝建鄴を平ぐ。朝士王亮・王瑩等数人は揖す。自餘は皆拝す。覽時に年二十餘、太子舍人たりしも、亦た長揖するのみ。意氣閒雅、視瞻聰明、武帝目送すること良久く、徐勉に謂ひて曰く、「覺ゆるに此生は芳蘭竟體す、謝莊政に當に此の如からんと思ふ。」此より仍ち賞味せらる。
天監元年、中書侍郎と為り、吏部事を掌る。頃にして即真す。嘗て侍坐し、敕を受けて侍中王暕と詩を為し答贈す。其の文甚だ工なり。乃ち重ねて作らしむるも、復た旨に合す。帝詩を賜ひて云く、「雙文既に後進たり、二少實に名家なり。豈伊れ爾が棟隆ならんや、信に乃ち俱に國華なり。」侍中と為り、頗る酒を樂しむ。宴席に因りて 散騎常侍 蕭琛と辭相詆毀し、有司に奏せらる。武帝、覽の年少にして直からざるを以て、中權長史に出づ。
後に拝して吏部尚書と為り、出でて呉興太守と為る。中書舍人黄睦之、家は烏程に居る。子弟横暴にして、前太守皆折節して之に事ふ。覽未だ郡に到らざるに、睦之の子弟迎ふるも、覽其の船を逐ひ去り、吏を通ずる者を杖す。是より睦之の家は門を杜して出でず。郡境に劫多し、東道の患と為るも、覽下車して肅然たり。初め齊の明帝及び覽の父瀹・東海の徐孝嗣並びに呉興たりしも、名守と號せらる。覽は皆之を過ぐ。覽昔し新安に在りし時、頗る聚斂す。是に至りて遂に廉潔を稱せらる。時人之を王述に方ふ。官に在りて卒す。中書令を贈らる。
覽の弟舉は字を言揚と云ひ、幼より學を好み、覽と齊名す。年十四、嘗て沈約に詩を贈る。約の賞する所と為る。弱冠にして父憂に丁り、幾くんぞ毀滅に致らんとす。服闋けて、太常博士と為り、兄の覽と俱に元會に預る。江淹一見して並びに相欽挹し、曰く、「所謂『二龍を長塗に馭す』者なり。」と。
太子家令となり、記録を管掌し、深く昭明太子の賞遇を受けた。秘書監任昉が新安郡に出向する際、別れの詩に『詎念耋嗟人、方深老夫托』と詠んだ。その属意はこのようであった。梁の武帝が陸挙について陸覧に尋ねると、陸覧は『識見と技芸は臣よりはるかに優れていますが、酒を飲むことだけは臣に及びません』と答えた。帝は大いに喜んだ。まもなく安成郡守に任じられたが、母が郡で死去したため、辞退して赴任しなかった。左戸尚書を歴任し、吏部尚書を管掌する官に転じた。陸挙の祖父の陸倹、父の陸瀹、兄の陸覧はいずれもこの職を経ており、前代に比類は少なかった。
陸挙は特に玄理と仏教の義理に長け、晋陵郡守の時、常に義学の僧と交代で経論を講じ、征士の何胤が虎丘山から出てこれに赴いた。その盛況はこのようであった。先に、北から渡来した盧広は儒学を修め、国子博士となり、学舎で講義を開くと、僕射徐勉以下がことごとく出席した。陸挙が座に臨み、しばしば盧広を論破し、その言辞と道理は雄勁で卓越していた。盧広は深く嘆服し、手にしていた麈尾と斑竹の杖、滑石の書格を陸挙に贈り、重ねた座席に比すべき敬意を表した。侍中を加えられ、尚書右僕射に転じた。
大同三年、外任して呉郡太守となった。先に、何敬容がこの郡に在って善政を布き、世に「何呉郡」と称された。陸挙が政務を執るとき、その名声と事績はほぼ比肩するものであった。かつて何征君を招いて中論を講じさせた際、何征君は巾褐(隠者の服)で南門から入ることを難じ、東園から進んだ。詩をやり取りし、虎丘山賦を寺に題した。
内任して侍中・太子詹事・翊左将軍となった。陸挙の父の陸瀹は斉の時にこの官で終わり、累次上表して改任を乞うたが、詔勅は許さなかった。後に尚書僕射に転じ、侍中・将軍はもとのままとした。陸挙はたびたび宰相の地位にあったが、一度も時政に参与しようとせず、身を保ち寵を固めるのみで、何ら発明するところがなかった。病を理由に解任を願い出ると、詔勅はただちに休暇を賜い、処方箋を下し、上薬を給することを加えた。その恩遇はこのようであった。
侯景が降伏を申し出ると、帝は朝臣に諮問した。陸挙および朝士は皆、これを受け入れるべきでないと請うた。帝は朱異の言葉に従ってこれを受け入れ、侯景が趙・魏の地で功を立てられると考えた。陸挙らは再び言上することができなかった。太清二年、 尚書令 に転じ、内台で死去した。上は言われた。「陸挙はただ官歴が多いのみならず、人倫の儀表であり、久しく公望が著しかった。未だにこれを授けずに恨みを残した。侍中・中衛将軍・開府儀同三司を追贈せよ」。
陸挙は邸宅内の山斎を寺に施し、その泉石の美はほとんど自然のようであった。臨川王・始興王ら諸王が常に遊行した。邵陵王蕭綸が婁湖に園を造り、大宴会を開き、酒の後、賓客の冠を集めては自ら手で裂き破り、唾壺に投げ入れるのを好み、誰も敢えて言う者がなかった。陸挙がかつて宴会に出席した時、王は陸挙の幘を取ろうとした。陸挙は厳しい顔色で言った。「冠冕を裂き毀つこと、下官は命を聞き入れることはできません」。衣を払って退出した。王がたびたび呼び戻したが戻らず、大いに慚愧の色を示した。陸挙は情趣を玄遠な境地に託し、特に仏理に長じ、浄名経に注釈を加え、常に自ら講説した。文集二十巻がある。子に陸嘏。
陸嘏は字を含茂といい、風神は清雅で、文章をよくした。梁に仕えて太子中庶子、建安太守となった。侯景の乱の時、広州に赴き蕭勃に依った。蕭勃が敗れると、周迪の門下にいた。後に陳宝応に依り、宝応が平定されて初めて朝廷に赴いた。侍中、中書令、都官尚書を歴任した。死去し、諡を光子といった。文集が世に行われた。
子の陸儼は侍中・御史中丞・太常卿の位に至り、陸瀹は尚書僕射の位に至った。
陸挙の兄の子の陸僑は字を国美という。父の陸玄大は梁に仕えて侍中となった。陸僑は平素から高貴であったが、ある日一朝に食物がなく、その子の陸啓が班固の『漢書』を質に入れて金に換えようとした。陸僑は答えて言った。「寧ろ餓死しようとも、どうしてこれで食を満たすことができようか」。太清元年に死去し、文集十巻がある。長子は陸褘。
陸僑の弟の陸劄は字を世高といい、これまた広く文史に渉猟し、湘東王諮議の位に至り、陸僑に先立って死去した。
論じて言う。易経に「積善の家には必ず余慶あり」とある。謝弘微の立ち振る舞いと踏み行うところは、人倫の美を広め、その家が代々衰えなかったのは、おそらく拠り所があったからであろう。何敬沖は三代(宋・斉・梁)に出入りし、たびたび王朝の変革を経たが、俗を遁れる志については、貞固の道を聞かず、官に居る方については、貨財の累いを免れなかった。背を屈めて敬を成し、その時代に身を任せた。古人が言う「処士は全く虚声を盗む」とは、このことを言うのであろう。