謝晦(謝裒の玄孫)

謝晦(謝裒の玄孫)

謝晦、字は宣明、陳郡陽夏の人、晋の太常謝裒の玄孫である。裒の子は奕・據・安・萬・鐵、ともに前史に著名である。據の子朗、字は長度、位は東陽太守。朗の子重、字は景重、位は会稽王司馬道子の驃騎長史。重は絢・瞻・晦・㬭・遯を生む。絢は位は宋の武帝の鎮軍長史に至り、早世す。

晦は初め孟昶の建威府中兵参軍となった。昶が死ぬと、帝(劉裕)は劉穆之に問うた、「昶の府で誰が府に入るに堪えるか。」穆之は晦を推挙し、即座に太尉参軍に命じた。武帝が獄を訊かんとした時、その朝、刑獄参軍が病み、晦を以てこれに代えた。晦は車中で訊牒を一覧し、問うに随い、酬対に失い無し。帝はこれを奇とし、即日に刑獄賊曹に署した。累遷して太尉主簿。司馬休之を征討に従い、時に徐逵之が戦死し、帝は自ら岸に登らんとし、諸将は諫めて従わず。晦は帝を抱き抱えて持し、帝は曰く、「我卿を斬らん。」晦は曰く、「天下は晦無くとも可なり、公無くしては不可なり、晦の死何かあらん。」胡藩が岸に登るに会い、賊退き、乃ち止む。

晦は風姿美しく、言笑を善くし、眉目分明、鬢髪墨の如し。文義に渉猟し、博贍にして多く通じ、時に人は楊徳祖に比し、微かに将に及ばずとす。晦聞き猶以て恨みと為す。帝深く愛賞を加え、関・洛に従征し、内外の要任悉くこれを委ねる。帝、彭城に於いて大会し、紙筆を命じて詩を賦せしむ。晦は帝に失有らんことを恐れ、起ちて帝を諫め、即ち代わりに作って曰く、「先ず臨淄の穢を蕩し、却って河洛の塵を清む、華陽に逸驥有り、桃林に伏輪無し。」ここに於いて群臣並びに作る。時に謝混の風華は江左第一と為り、嘗て晦と俱に武帝の前に在り、帝これに目して曰く、「一時頓に両玉人有るのみ。」

劉穆之は使いを遣わして事を陳ぶるも、晦は往々にして異同す。穆之怒って曰く、「公また還る時有るか。」及び帝、晦を以て従事中郎と為さんと欲す。穆之は堅く執って与えず、故に穆之の世終わるまで遷さず。及び穆之の喪の問い至るや、帝これを哭すること甚だ慟し、曰く、「我が賢友を喪う。」晦は時に正しく直し、喜ぶこと甚だしく、自ら合に入り参審す。その日教出で、晦を転じて従事中郎と為す。宋の台建つや、右衛将軍と為り、侍中を加う。

武帝、咸陽の淪没を聞き、復た北伐せんと欲す。晦、士馬疲怠を以て諫め、乃ち止む。ここに於いて城に登り北を望み、慨然として悦ばず、乃ち群僚に命じて詩を誦せしむ。晦は王粲の詩を詠じて曰く、「南に登る霸 しの の岸、首を回らして長安を望む、彼の下泉の人を悟り、喟然として心肝を傷む。」帝流涕自ら勝えず。及び帝命を受くや、石頭に於いて壇に登り、法駕を備えて宮に入る。晦は遊軍を領して警と為す。中領軍を加えられ、武昌県公に封ぜらる。

永初二年、行璽を以て鎮西司馬南郡太守王華を封ずるに坐し、誤って北海太守球を封ず。板を以て晦の侍中を免ず。尋いで領軍将軍に転じ、 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられ、晋の中軍羊祜の故事に依り、殿省に入り直し、宿衛を総統す。及び帝 せず、班剣二十人を給し、徐羨之・傅亮・檀道濟と並びに医薬に侍る。少帝即位し、中書令を加えられ、徐・傅と輔政す。及び少帝廃せらるるや、徐羨之は晦を以て護南蛮 校尉 こうい ・荊州刺史を領せしめ、 都督 ととく を加え、外に居らしめて援と為さんと欲す。文帝の至らんことを慮り、或いは別に人を用いんとし、故に遽かにこの授有り。精兵旧将、悉く以てこれに配す。文帝即位す。晦は去るを得ざるを慮り、甚だ憂惶す。及び新亭を発し、石頭城を顧みて喜びて曰く、「今脱するを得たり。」進みて建平郡公に封ぜられんとす。固く譲る。また鼓吹一部を給う。江陵に至り、深く侍中王華と結び、以て禍を免れんことを冀う。二女は彭城王義康・新野侯義賓に配すべし。元嘉二年、妻及び長子世休を遣わして女を還都に送らしむ。先ず是れより、景平中、魏の師河南を攻め取り、是に至りて羨之等を誅し並びに晦を討たんと欲し、声は北行と言い、また京陵を拝すと言い、舟艦を装う。傅亮、晦に書を寄せ、言う、「河朔を薄伐するも、事猶未だ已まず、朝野の慮、憂懼する者多し」。また言う、「当に外監万幼宗を遣わして往かしむべし」。時に朝廷の処分異常、その謀頗る泄る。三年正月、晦の弟黄門侍郎嚼、使いを馳せて告ぐ。晦は猶以て然らずと謂い、諮議参軍何承天を呼びて亮の書を示し曰く、「計らく幼宗一二日必ず至らん、傅公は我の好事を慮り、故に先ずこの書を遣わす。」承天曰く、「外間に聞く所、皆西討已に定まれりと謂う、幼宗豈に上の理あらんや。」晦尚虚と謂い、承天に命じて予め答詔啓の草を立てしむ、北行は須らく明年とすべし。江夏内史程道慧、尋陽人の書を得、その事已に審かなるを言う。晦に示さしむ。晦、計を承天に問う。対えて曰く、「将軍の殊顧を蒙り、常に徳を報いんと思う、事変至れり、何ぞ敢えて情を隠さんや。然れども明日戒厳し、軍法を動用せば、区区の懐う所、尽くすを得ざるを懼る。」晦懼れて曰く、「卿豈に我に自裁せしめんとするか。」承天曰く、「未だ此に至らず、其れ境外に在り。」晦曰く、「荊州は用武の地、兵糧給し易し。聊か且く決戦し、走るも復た何ぞ晩き。吾は死を愛しまず、先帝の顧みに負く、如何。」また承天に謂いて曰く、「幼宗未だ至らず、若し後二三日消息無くば、便ち是れ復た来らざるか。」承天曰く、「程の説く其事已に判ず、豈に容れ復た疑わんや。」晦は南蛮の兵籍を焚かんと欲し、見力を率いて決戦せんとす。土人多く兵を発するを勧む。晦、諸将に問う、「戦士三千城を守るに足るか。」南蛮司馬周超曰く、「徒に城を守るのみに非ず、若し外寇有らば、亦た勲を立て可し。」司馬庾登之、司馬・南郡を解きてこれを授くるを請う。晦即ち超を命じて司馬と為し、登之を転じて長史と為す。

文帝、羨之等及び晦の子世休を誅し、嚼・嚼の子世平・兄の子紹等を収む。晦知り訖り、先ず羨之・亮の哀を挙げ、次いで子弟の凶問を発す。既にして自ら射堂に出で、精兵三万人を得て集め、乃ち表を奉り、言う、「臣等若し志権を専らに欲し、国典を顧みざれば、便ち当に幼主を輔翼し、天日に孤背すべし、豈に流に沿うこと二千、館を虚しくすること三月し、鑾駕を奉迎し、以て下武に したが わんや。故に廬陵王は営陽の世に於いて、屡く彼の猜嫌に被り、積怨して上を犯し、自ら非命を貽す。廃する所無くんば、将に何を以て興さん、耿弇は賊を以て君父に遺さず、臣亦た何ぞ宋室に負くこと有らんや。」また言う、「羨之・亮は罪無くして誅せられ、王弘兄弟は軽躁昧進し、王華は猜忌忍害す」。帝時に已に戒厳し、尚書符して荊州にその罪状を暴く。

晦、衆二万を率いて江陵より発し、舟艦江津より破塚に至るまで列ね、旗旌相照す。歎じて曰く、「恨むらくはこれを以て勤王の師と為さざることを。」檄を建鄴に移し、王弘・曇首・王華等の罪を言う。また上表して情を陳ぶ。初め、晦は徐・傅と謀り自全の計と為す:晦は上流に据わり、檀は広陵に鎮し、各強兵有り、朝廷を制するに足る;羨之・亮は中に在りて権を知り、持久を得可し。及び帝将に行かんとし、檀道濟を召して衆をこれに委ぬ。晦始め道濟の全からざるを謂い、及びその来るを聞き、大衆皆潰ゆ。晦は小船を得て江陵に還る。

初めに、雍州刺史劉粹は弟の竟陵太守道済を遣わし、臺軍主沈敞之と共に江陵を襲撃したが、沙橋に至り、周超がこれを大破した。間もなく謝晦が江陵に到着したが、他に処分することなく、ただ周超に慚愧の謝罪をしたのみであった。周超はその夜、到彦之の下に赴いて降伏し、謝晦は弟の遯、兄の子世基ら七騎を伴い北へ逃走した。遯は肥満して馬に乗れず、謝晦は毎度待たされて速やかに進めなかった。安陸の延頭に至り、謝晦の旧吏である戍主光順之が檻車に乗せて建鄴に送った。途中で『悲人道』を作り自らを哀しんだ。

周超が降伏すると、到彦之は彼を参府事に任じた。劉粹が彦之に告げて、沙橋の敗戦は周超に原因があると伝えた。彦之は周超を捕らえ、謝晦らと共に誅殺した。

世基は謝絢の子である。才気があり、臨終に連句の詩を作って曰く、「偉大なるかな横海の鱗、壮麗なるかな垂天の翼、一旦風水を失えば、翻って螻蟻の食と為る」と。謝晦がこれに続けて曰く、「功遂げて昔人に侔い、退きを保つに智力無し。既に太行の険に渉り、斯の路は信じ難く陟る」と。謝晦の娘は彭城王劉義康の妃であり、聡明で才貌に優れ、髪を乱し跣足で謝晦と訣別して曰く、「父上、大丈夫は戦場に横屍すべきであり、何ぞ都市に狼藉するや」と。言い終わって絶叫し、行く人は之がために涙を落とした。

謝晦が死んだ時、年三十七であった。庾登之、殷道鸞、何承天は謝晦の配下から皆許された。

謝晦の兄 謝瞻

謝瞻は字を宣遠といい、一説には名を簷、字を通遠といい、謝晦の次兄である。六歳で文を作ることができ、『紫石英賛』『果然詩』を作り、当時の才士に歎異された。従叔の謝混、族弟の謝霊運と共に盛名があった。嘗て『喜霽詩』を作り、謝霊運がこれを書き、謝混がこれを詠んだ。王弘が座に在り、三絶と為した。

謝瞻は幼くして孤となり、叔母の劉氏が養育して恩があり、兄弟は彼女を至親と同様に仕えた。劉氏の弟の柳が呉郡太守となり、姉を伴って赴任しようとした時、謝瞻は遠く離れるに忍びず、楚臺秘書郎を解任して随従したため、柳の建威長史となった。後に宋武帝の相国從事中郎となった。謝晦は当時宋臺右衛であり、権勢遇待は既に重く、彭城から都に帰って家族を迎える時、賓客が 湊した。時に謝瞻は家に在り、驚駭して謝晦に謂って曰く、「我が家は素より退くを業とす。汝遂に勢朝野を傾けたり、此れ豈に門戸の福ならんや」と。乃ち門庭に籬を隔てて曰く、「吾は此れを見るに忍びず」と。後に宴席の機会に、謝霊運が謝晦に問うて曰く、「潘岳、陸機と賈充の優劣は」と。謝晦曰く、「安仁(潘岳)は権門に諂い、士衡(陸機)は競い邀うこと已まず、並びに身を保つ能わず、自ら多福を求む。公閭(賈充)は勲名世を佐け、並ぶべからず」と。謝霊運曰く、「安仁、士衡の才は一時の冠たり。之を公閭に比するは、本より遼絶せり」と。謝瞻は顔を引き締めて曰く、「若し貴きに処りて能く権を遺わば、則ち是と非と得て生ぜず、傾き危うきこと因無くして至らん。君子は明哲を以て身を保つ、其れ此れに在らんか」と。常にこのように謝晦を制止した。

彭城に戻ると、武帝に言上して曰く、「臣は元より素の士であり、父祖の位は二千石を過ぎず。弟は年始めて三十、志用凡近にして、位任は顕密に至り、福過ぎて災生ず。特に降黜を乞い、以て衰門を保たん」と。前後屡々陳べた。帝は謝瞻を呉興郡太守に任じようとしたが、また自ら陳請したため、 章太守となった。

謝晦が或いは朝廷の密事を謝瞻に語ると、謝瞻は直ちに親旧に向かってこれを話し、戯笑として、以てその言を絶やそうとした。謝晦が遂に佐命の功を立てると、謝瞻は愈々憂懼した。永初二年、郡において病に罹り治療せず、永からざるを幸いとした。謝晦は病と聞き奔走して来た。謝瞻これを見て曰く、「汝は国大臣たり、又戎重を総べ、万里遠出すれば、必ず疑謗を生ぜん」と。時に果たして詐って謝晦の謀反を告げる者があった。

謝瞻の病篤くして都に戻ると、帝は謝晦が禁旅を率いているため、外泊できないことから、謝瞻を晋の南郡公主の婿羊賁の旧邸に住まわせた。それは領軍府の東門にあった。謝瞻曰く、「吾に先人の弊廬有り、何ぞ此れに於いてせん」と。臨終に謝晦に遺書して曰く、「吾が骨を山の足に帰するを得ば、亦何ぞ多く恨む所あらん。弟は自ら勉め、国の為、家の為にせよ」と。卒した時、年三十五。

謝瞻の文章の美は、従叔の謝混、族弟の謝霊運と互角であった。謝霊運の父の謝瑍は才能無く、秘書郎として早世したが、謝霊運は人物を臧否することを好んだ。謝混はこれを患い、裁折を加えようとしたが、その方無かりき。謝瞻に謂って曰く、「汝に非ざれば莫し」と。乃ち謝晦、謝曜、謝弘微らと共に遊戯し、謝瞻をして謝霊運と共に車に乗らしめた。謝霊運は車に登ると直ちに人物を商較し始めた。謝瞻これに謂って曰く、「秘書(父謝瑍)は早く亡くなり、談ずる者も亦互いに同異有り」と。謝霊運は黙然とし、言論は此れより衰え止んだ。

謝晦の弟 謝嚼

弟の謝嚼は字を宣鏡といい、数歳の時、生母の郭氏が病むと、謝嚼は朝晩温凊を尽くし、勤容戚顔を改めず。僕役が病の世話に懈倦するを恐れ、自ら労を執り、母は病のために驚きを畏れ、微かに歩み過ぎることを、一家の尊卑は謝嚼の至性に感じ、皆履を行い、気を屏いて語り、このようにすること十余年であった。位は黄門侍郎に至り、連座して誅殺された。

謝晦の従叔 謝澹

謝澹は字を景恆といい、謝晦の従叔である。祖父は謝安、晋の太傅。父は謝瑤、琅邪王友。謝澹は任達して気概を仗とし、当世を営まず、順陽の范泰と雲霞の交わりを結んだ。歴任して尚書に至った。

宋の武帝が禅譲を受けようとしたとき、有司が侍中の劉叡に璽を進めさせようと議したが、帝は言った、「この選は人望のある者を要す」。そこで謝澹に摂行させた。謝澹はかつて帝の宴に侍し、酣に飲んで大言し屈するところなく、鄭鮮之がこれを糾そうとしたが、帝は謝澹を方外の士とみなし、規矩をもって縛るには適さないと考えた。しかし内心は快く思わず、重任を委ねなかった。後にまた飲みに侍したとき、酔って帝に言った、「陛下が群臣を用いるには、ただ委屈して順う者だけを貴び、汲黯の徒は用いない」。帝は大笑した。

景平年間、累遷して光禄大夫となった。従子の謝晦が荊州に任じられ、鎮に赴こうとして謝澹に別れを告げに来た。謝晦の顔色は自ら誇る様子であった。謝澹が謝晦の年齢を尋ねると、三十五と答えた。謝澹は笑って言った、「昔、荀中郎は二十九歳で北府 都督 ととく となった。卿はこれに比べれば既に老いている」。謝晦の顔色は甚だ恥じ入った。元嘉年間、侍中・特進・金紫光禄大夫の位に至り、卒した。

初め、謝澹の従弟の謝混が劉毅と親密であったため、謝澹は常に憂いとし、次第に謝混を疎んじ、弟の謝璞や従子の謝瞻に毎度言った、「益寿(謝混の字)のこの性分は、終には家を破るであろう」。謝混は間もなく誅殺されたが、朝廷は謝澹が先に言っていたことを考慮し、故に禍に及ばなかった。

謝澹の弟 謝璞

謝璞は字を景山といい、幼少より孝友であり、祖父の謝安は深く賞愛した。光禄勲の位に至った。

謝裕〈謝裒の曾孫、謝晦の従父〉

謝裕は字を景仁といい、謝朗の弟の謝允の子であり、謝晦の従父である。名は宋の武帝の諱と同じであるため、字をもって行われる。謝允は字を令度といい、宣城内史の位に至った。景仁は幼少の時より従祖の謝安に認められ、初め前軍行参軍となった。会稽王の世子元顕の寵臣張法順が一時権勢を傾け、内外でその門を造らぬ者はなかったが、ただ景仁だけは至らなかった。三十歳にしてようやく著作佐郎となった。桓玄が元顕を誅したとき、景仁を見て、四座に言った、「司馬庶人父子はどうして敗れないことがあろうか、遂に謝景仁を三十歳にしてようやく著作郎を佐けしめた」。桓玄が楚臺を建てると、黄門侍郎に補した。及び帝位を さん すると、 ぎょう 騎将軍を領した。

景仁は博聞強識で、前言往行をよく語り、桓玄は毎度彼と話して倦むことがなかった。桓玄が出行するとき、殷仲文や卞範之の徒は皆馬に乗って散従したが、景仁をして輦に陪乗させた。宋の武帝が桓修の撫軍中兵参軍であったとき、かつて景仁のところに事を諮りに赴いた。景仁は話して悦び、帝を引き留めて食事を供した。食事がまだ整わないうちに、景仁は桓玄に召された。桓玄の性格はせっかちで、俄頃の間に騎馬の詔使が続けざまに来た。帝はたびたび去ろうとしたが、景仁は許さず、言った、「主上は私を遇するに、必ずや道理があるはずです。私は客と食事をしたい、どうして待つことができましょうか」。ついに安坐して飽食し、それから応召した。帝は甚だこれを感じた。建鄴を平定したとき、景仁は百官と共に拝謁した。武帝はこれを見て言った、「これは名公の孫である」。武帝の鎮軍司馬を歴任し、また車騎司馬となった。

義熙五年、帝が慕容超を討伐しようとしたとき、朝議は皆不可と言った。劉毅が当時姑孰に鎮しており、固く帝を止め、「苻堅が国境を侵したときでさえ、謝太傅(安)はなお自ら行かなかった。宰相が遠く出ることは、根本を傾動させる」と以為した。景仁のみが言った、「公は桓・文の功業を建て、天人の心に応じている。業は振古に高くとも、徳刑は未だ樹てられていない。亡きを推し存するを固め、威略を広く振るうべきである。平定の後、鋭を養い徒を息ませ、それから洛汭に兵を観、園寢を修復すべきで、どうして敵を放って患いを遺すことがあろうか」。帝はこれに従った。北伐のとき、大司馬琅邪王は天子の同母弟で、儲副に当たるべき身であったため、帝は深く根本を憂い、景仁を大司馬左司馬に転じ、専ら府の任を総べさせた。また吏部尚書に遷った。時に従兄の謝混が尚書左僕射であり、制度により互いに監察できないことになっていたが、帝は啓上して、僕射王彪之や尚書王劭の前例に依り職を解かないことを認めさせた。吏部令史の邢安泰を都令史・平原太守に選んだことで坐し、二官を共に除したが、安泰が令史の職務として陵廟に拝謁したことを、御史中丞鄭鮮之に糾弾され、白衣のまま職を領した。十一年、左僕射となった。

景仁の性格は矜厳で整潔を好み、住居は清浄美麗であった。痰を吐くたびに左右の者の衣に吐き、事が済むと、即ち一日の洗濯を許した。痰を吐こうとするたびに、左右の者が争ってこれを受けに来た。武帝はかねてより彼を知り重んじ、婚姻をもって結んだ。廬陵王義眞の妃は、景仁の娘である。十二年、卒した。金紫光禄大夫を追贈された。葬儀の日、武帝は自ら臨み甚だ慟哭した。

謝裕の子 謝恂

子の謝恂は字を泰温といい、鄱陽太守の位に至った。

謝恂の子 謝孺子

謝恂の子の孺子は、若くして族兄の謝荘と齊名した。多芸多能で、特に声律を善くした。車騎将軍王彧は、孺子の姑の子である。かつて孺子と桐臺で宴し、孺子が笙を吹くと、王彧は自ら舞い、既にして嘆じて言った、「今日は眞に人をして飄颻として伊・洛の間の意ありとせしめる」。新安王の主簿となり、出て廬江郡太守となろうとしたが、辞退した。宋の孝武帝は有司に言った、「謝孺子を屈して小郡とすべからず」。そこで 司徒 しと 主簿とした。後に家が貧しいことを理由に、西陽太守を求め、官に卒した。

孺子の子 謝璟

子の謝璟は、幼少より従叔父の謝朓と共に名を知られ、斉の竟陵王蕭子良が西邸を開いて文学を招いた際、謝璟もこれに預かった。位は中書郎に至り、梁の天監年間には左戸尚書となり、再び侍中に遷ったが、老齢を理由に固辞して金紫を求め、帝はこれを悦ばず叙任されぬうちに卒した。

謝璟の子は謝微である。

子の謝微は字を玄度といい、風采美しく、学を好み文を善くし、位は中書舍人を兼ねた。河東の裴子野、沛国の劉顕と同官として親しく交わり、時に魏の中山王元略が北に還る際、梁の武帝が武徳殿で餞別し、三十韻の詩を賦することを命じ、三刻の制限を設けたが、謝微は二刻で成し遂げ、文は甚だ美しく、帝は再びこれを覧た。また臨汝侯蕭猷のために放生文を制作し、これも世に賞された。後に尚書左丞に除せられ、昭明太子が薨じ、帝が晋安王蕭綱を皇太子に立てようとした際、詔を出すにあたり、尚書右僕射何敬容、宣恵将軍孔休源及び謝微の三人のみを召して議した。謝微は当時年位なお軽かったが、任遇は既に重かった。後に北中郎 章王長史、南蘭陵太守の任に在りて卒した。文集二十巻がある。

謝裕の弟は謝純である。

謝純は字を景懋といい、謝景仁の弟である。劉毅が江陵を鎮守した時、衛軍長史・南平相とした。王鎮悪が劉毅を襲撃した際、劉毅は病んでおり、佐史らは兵の来るを聞き、馳せて府に還り入り、左右が車を引いて外廨に還らんとしたが、謝純はこれを叱して言うには、「我は人吏なり、逃げて何処に往かんとするか」と。入ると、劉毅の兵は敗れて衆は散じ、謝純は人に殺された。

謝純の弟は謝甝である。

謝純の弟の謝甝は字を景甝といい、位は 司徒 しと 右長史に至った。

謝甝の弟は謝述である。

謝甝の弟の謝述は字を景先といい、小字を道兒という。幼少より至行あり、謝純に従って江陵に在ったが、謝純が害に遇うと、謝述は謝純の喪を奉じて都に還る途中、西塞で暴風に遇い、謝純の喪を載せた舫は流れ漂って所在を知らず、謝述は小船に乗ってこれを求め、謝純の妻の庾氏の舫の を通った。庾氏は人を遣わして言うには、「小郎(謝述)が行っても必ず及ばず、寧ろ存亡共に尽きるべきか」と。謝述は号泣して答えて言うには、「もし安全に岸に至れば、尚お営理を要す。もし既に意外に致せば、述もまた独り存する心なし」と。因って浪を冒して進み、謝純の喪船が殆ど没せんとするを見て、謝述は号叫して天を呼び、幸いに免れた。皆これを精誠の致す所とし、武帝は聞いてこれを嘉した。臨 州の時、中正に諷して迎主簿とし、甚だ器遇された。

謝景仁は謝甝を愛し謝述を憎み、嘗て饌を設けて宋の武帝を請い、ひそかに謝甝を座に預からんことを望んだが、帝は謝述を召した。謝述はこれが謝景仁の平素の意にあらずと知り、又帝の命ずるを慮り、急を請いて従わなかった。帝は馳せて使いを遣わし謝述を呼び、至るを待って乃ち餐した。その見重されること此の如しであった。謝景仁が疾むと、謝述は心を尽くして湯薬を視、飲食は必ず嘗めて後に進めた。衣を解かず帯を解かず、盥櫛せざること累旬に及び、謝景仁は深く感愧し、友愛遂に篤くなった。謝景仁が卒すると、哀号して礼を過ぎた。謝景仁は肥壮であったため、材木を数具買うも皆用に合わず、謝述は哀惶して親ら選びて乃ち獲た。

太尉参軍となり、司馬休之征討に従い、吉陽県五等侯に封ぜられた。元嘉二年、中書侍郎を拝した。後に彭城王劉義康の驃騎長史となり、南郡太守を領した。劉義康が相に入ると、謝述はまた 司徒 しと 左長史となり、左衛将軍に転じた。官に莅むこと清約で、私に宅舎なく、劉義康はこれを遇すること甚だ厚かった。尚書僕射殷景仁、領軍将軍劉湛は共に謝述と異常の交わりを為した。謝述は風姿美しく、挙止を善くし、劉湛は毎に人に謂って言うには、「我謝道兒を見て未だ嘗て足りたることなし」と。雍州刺史張邵が貨を黷して大辟に致らんとした時、謝述は上表して張邵の先朝の旧勳を陳べ、優貸を受くべきことを述べ、文帝は手詔を下してこれを詶納した。謝述は子の謝綜に語って言うには、「主上は張邵の夙誠を矜み、自ら曲恕せんとす。吾が啓する所謬って会し、故に特に見納せられたるなり。若し此の跡を宣佈せば、則ち主恩を侵奪するなり」と。謝綜をして前にしてこれを焼かしめた。帝は後に張邵に謂って言うには、「卿の免るるは、謝述の力なり」と。

謝述は心虛の疾を患い、性理時に或は乖謬す。吳興太守の任に在りて卒した。喪が還り都に至らぬこと数十里、殷景仁、劉湛は同乗して迎え赴き、船を望んで流涕した。劉湛が誅せられ、劉義康が外鎮するに当たり、将に行くに歎いて言うには、「謝述は唯吾が退くを勧め、劉湛は唯吾が進むを勧む。謝述亡くして劉湛存す、吾の罪を得る所以なり」と。文帝も亦言うには、「謝述若し存せば、劉義康必ず此くの如くに至らず」と。三子あり:謝綜、謝約、謝緯。

謝述の子は謝綜である。

謝綜は才芸あり、隷書を善くし、太子中舎人となった。范曄と謀反を図り誅せられ、謝約も亦死した。

謝述の子は謝緯である。

謝緯は宋の文帝の第五女である長城公主を娶り、もとより謝綜・謝約に憎まれており、死罪を免れ、広州に流され、孝建年間に都に還った。方正高雅にして父の風あり、位は正員郎に至った。子に謝朓あり。

謝緯の子 謝朓

謝朓は字を玄暉といい、少より学を好み、美名あり、文章は清麗であった。斉の随王蕭子隆の鎮西功曹となり、文学に転じた。子隆は荊州にあって、辞賦を好み、謝朓は特に賞愛され、日夜離れなかった。長史王秀之は謝朓が年少で動かされることを憂い、啓上して聞かせようとした。謝朓はこれを知り、事に因って還ることを求め、道中に詩を作り西府に寄せて曰く、「常に鷹隼の撃つを恐れ、時に菊は厳霜に委す。言を罻羅者に寄せん、寥廓已に高く翔けり」と。これである。やがて新安王中軍記室を除された。謝朓は箋を奉り子隆に辞して曰く、謝朓聞く、潢汙の水は朝宗を思いて毎に竭き、駑蹇の乗は沃若を希いて中に疲る、と。何ぞや。皋壤は落ちて、之に対し惆悵し、岐路は東西にして、或いは以て嗚唈す。況んや乃ち義に服するも徒に擁し、志を帰するも従う莫きは、邈として墜つる雨の若く、飄として秋の蔕の似たり。謝朓は実に庸流、行い能ひ算ふる無く、天地の休明に属し、山川の受納するに遭ひ、一介を褒采し、小善を搜揚するにより、故に耒を場圃に捨て、筆を奉じて兔園に至るを得たり。東に三江に泛かび、西に七沢に浮かび、戎旃に契闊し、燕語に従容す。長裾は日々に曳かれ、後乗は脂を載す。栄は府廷に立ち、恩は顔色に加はり、髪を沐ひ陽に くも、未だ涯涘を測らず。臆を撫でて報を論ずれば、早く肌骨に誓ふ。悟らざりき、滄溟未だ運ばずして波臣自ら蕩き、渤澥方に春なれば旅翮先づ謝すと。清切なる蕃房、寂寥たる旧蓽、軽舟は反って泝り、影を弔ひて独り留まる。白雲は天に在り、龍門見えず、徳を去ること滋く永く、徳を思ふこと滋く深し。唯だ青江の望む可きを待ち、春渚に帰艎を候ひ、朱邸方に開けば、秋実に蓬心を効はんことを。其の簪屨或は存し、衽席改むること無くば、復た身溝壑に塡るとも、猶ほ妻子の帰るを知らんことを望まん。涕を攬りて告辞し、悲来たりて横に集る、と。時に荊州より信使が去るを待ち、謝朓は筆を執れば便ち成り、文に点易無かりき。

本官のまま尚書殿中郎を兼ねた。隆昌初年、詔して謝朓に北使を接せしめんとしたが、謝朓は自ら口訥なりとして、譲ることを啓上し、許された。明帝が政を輔けるに及び、驃騎諮議と為し、記室を領し、霸府の文筆を掌った。また中書詔誥を掌り、中書郎に転じた。

出でて しん 安王鎮北諮議・南東海太守となり、南徐州事を行った。王敬則の反逆の謀を啓上し、上は甚だ之を賞し、尚書吏部郎に遷った。謝朓は三度譲ることを上表した。中書は謝朓の官が未だ譲るに及ばぬかと疑い、以て国子祭酒沈約に問うた。沈約曰く、「宋の元嘉中、范曄は吏部を譲り、朱修之は黄門を譲り、蔡興宗は中書を譲り、並びに三表して詔答あり。近代は小官は譲らず、遂に恒俗と成り、恐らくは譲の意に乖かん。王藍田・劉安西は並びに貴重なりしも、初より自ら譲らず、今豈に此の譲らざるを慕ふ可けんや。孫興公・孔覬は並びに記室を譲れり、今豈に三署皆な譲る可けんや。謝吏部今に超階を授けらる、譲る別に意有り、豈に官の大小に関らんや。撝謙の美は、本より人情に出づ、若し大官必ず譲らば、便ち闕に詣でて章表するに異ならず。例既に此の如し、謂ふ都て疑ふに非ず」と。謝朓の譲るを、優詔を以て答え許さず。

謝朓は草隷を善くし、五言詩に長じ、沈約は常に云ふ、「二百年来此の詩無し」と。敬皇后が山陵に遷祔するに当たり、謝朓は哀策文を撰し、斉の世に之に及ぶ者無かりき。

東昏侯が徳を失い、江祏は江夏王蕭寶玄を立てんと欲したが、末に更に回惑し、弟の江祀と密かに謝朓に謂ひて曰く、「江夏王は年少、もし堪へずば、復た廃立を行ふ可からず。始安王は年長にして入りて纂ぐは、物望に乖かず。是を以て富貴を要するに非ず、只だ国家を安んずるを求むるのみ」と。蕭遙光もまた親人劉渢を遣はして謝朓に意を致さしめた。謝朓は自ら明帝の恩を受けたるを以て、肯へて答えず。少日して、遙光は謝朓に衛尉事を兼ね知らしめんとした。謝朓は引かれるを懼れ、即ち江祏等の謀を左興盛に告げ、また劉暄に説いて曰く、「始安王一旦南面せば、則ち劉渢・劉晏は卿の今の地に居り、只だ卿を以て反覆の人と為さんのみ」と。劉暄は陽に驚き、馳せて始安王及び江祏に告げた。始安王は謝朓を出して東陽郡と為さんと欲したが、江祏は固く執ひて与へず。先づ是より、謝朓は常に江祏の為人を軽んじ、江祏は常に謝朓を詣づるも、謝朓は因りて一詩有りと言ひ、左右を呼びて取らしむるも、既にして便ち停めた。江祏其の故を問ふと、云く、「定めて復た急がしからず」と。江祏は以て己を軽んずると思へり。後江祏及び弟の江祀・劉渢・劉晏俱に謝朓を候ふ。謝朓は江祏に謂ひて曰く、「二江の双流を帯ぶと謂ふ可し」と。以て之を嘲弄せり。江祏は転じて堪へず、是に至りて構へて之を害せしめた。詔して其の過悪を暴き、収めて廷尉に付す。又御史中丞範岫をして奏して謝朓を収めしめ、獄に下して死せしむ。時に年三十六。臨終に門賓に謂ひて曰く、「沈公に寄語せよ、君方に三代の史を為すも、亦た没を見るを得ざらん」と。

初め、謝朓が王敬則の反を告げし時、敬則の女は謝朓の妻たり、常に刀を懐きて謝朓に報いんと欲し、謝朓は敢へて相見ゆること無かりき。吏部に拝せらるるに当たり、謙挹すること尤も甚だしく、尚書郎範縝之を嘲りて曰く、「卿の人才は小選に慚づる無し、但だ寡妻に刑する可からざるを恨むのみ」と。謝朓は慚色有りき。誅せらるるに臨み、歎じて曰く、「天道其れ昧む可からざるか。我れ王公を殺さずと雖も、王公我に因りて死す」と。

謝朓は人才を奨めることを好み、会稽の孔覬は粗に才筆有りと雖も、未だ時に知られず、孔珪嘗て草の譲表を作らしめて謝朓に示す。謝朓は嗟吟すること良久く、手ずから簡を折りて之を書き、孔珪に謂ひて曰く、「士子の声名未だ立たず、応に共に奨成すべし、歯牙の余論を惜しむ無かれ」と。其の善を好むこと此の如し。

謝朓及び殷叡は素より梁の武帝と文章を以て相得、帝は長女の永興公主を殷叡の子殷鈞に適せしめ、第二女の永世公主を謝朓の子謝謨に適せしめた。帝が雍州に在りし時、二女は並びに暫く母に随ひて州に向かふ。武帝即位に及び、二主始めて内に随ひて還る。武帝は謝謨を薄くし、又以て門単なりとし、更に張弘策の子に適せしめんと欲し、弘策卒し、又以て王志の子王諲に与へんとす。而して謝謨は堪へず歎恨し、書状を詩の如く作って主に贈る。主は以て帝に呈す、甚だ矜歎を蒙れりと雖も、婦は終に還るを得ず。尋いで謝謨を用ひて信安県令と為し、稍く王府諮議に遷る。時に以て沈約が早く謝朓と善くし、此の書を制せりと云ふ。

謝方明〈謝裒の曾孫、謝裕の従祖弟〉

謝方明は、謝裕の従祖弟なり。祖の謝鉄は字を鉄石といい、位は永嘉太守に至る。父の謝沖は字を秀度といい、中書郎、家は会稽に在り、病にて帰り、孫恩に殺され、 散騎常侍 さんきじょうじ を贈られた。方明は伯父の呉興太守謝邈に随ひて郡に在り。孫恩会稽を寇す、東土諸郡これに応じ、呉興の人胡桀・郜驃は東遷県を破る。方明は謝邈に避くるを勧むるも、従はず、賊至りて害せられ、方明は逃れて免る。

初め、謝邈の舅の子なる長楽の馮嗣之及び北方の学士馮翊の仇玄達は俱に謝邈に投ずるも、礼遇甚だ簡なりき。二人は並びに恨み、遂に孫恩と通謀す。劉牢之・謝琰等、孫恩を討つ。恩は臨海に走る。馮嗣之等は同じく去るを得ず、方に更に聚合す。方明は体素より羸弱なりと雖も、勇決人に過ぎ、謝邈の門生を結びて馮嗣之等を討ち、悉く禽らへ手ずから之を刃す。時に乱後吉凶の礼廃れ、方明は合門禍に遇ひ、資産遺る無しと雖も、凶功を営挙すること尽力し、数月にして葬送並びに畢る。平世の備礼も以て加ふる無し。頃にして、孫恩重ねて会稽を陥し、謝琰害せらる。因りて方明を購ふること甚だ急なり。方明は上虞に於て母妹を載せて東陽に奔り、黄櫱嶠より出でて鄱陽に至り、便船に附載して還都し、国子学に寄居す。流離險厄し、屯苦備経すと雖も、貞履の操、約に在りて改むること無かりき。

桓玄が建鄴を平定すると、丹陽尹の卞範之は朝廷内外に勢力を振るい、娘を方明に嫁がせようとしたが、方明は終に応じなかった。桓玄はこれを聞いて賞賛し、ただちに著作佐郎に任じた。後に従兄の景仁が推挙して宋の武帝の中軍主簿となった。方明は知る限りのことは何でも行い、帝は言った、「瓜衍の賞(大功への恩賞)をまだ与えずに恥ずかしい。しばらく卿と共に 章国の禄を分かち合おう」。たびたび賞賜を加えられた。

方明は厳格で、自らの立ち居振る舞いをよくわきまえ、暗室であっても怠けた様子を見せたことはなかった。従兄の混は重い名声があったが、方明は歳時や節句の朝拝に参加するだけだった。丹陽尹の劉穆之は当時権勢を握り、朝廷内外の人が車の輻のように集まったが、来ない者は混、方明、郗僧施、蔡廓の四人だけであった。穆之は甚だ恨んだ。混らが誅殺された後、方明と廓が穆之のもとを訪ねて来ると、穆之は大いに喜び、武帝に言上した、「謝方明は名門の駿馬と言えましょう。また蔡廓はまさに台鼎(三公・宰相)の人であり、その上さらに才能があるかどうかは論ずるまでもありません」。間もなく、転じて從事中郎となり、引き続き左將軍の道憐の長史となった。武帝は府中の諸事を全て彼に諮って決裁させた。府が中軍長史に転じると、まもなく しん 陵太守を加えられ、さらに驃騎長史・南郡相となり、信任は以前のようであった。かつて年の暮れに、江陵県の獄中の囚人を罪の軽重を問わず全て家に帰し、正月三日を過ぎたら戻って来るよう命じた。重罪の者二十余人を含み、綱紀(主簿以下の役人)以下は皆疑い恐れた。当時、 しん 陵郡から送られてきた前任の主簿の弘季咸と徐壽之が共に西(江陵)におり、強く諫めて言った、「昔の人にもこうした事はあったが、あるいは記録が誇張しているのでしょう。しかも当今の人情は偽りが多く薄情です。古の義をもって約束すべきではありません」。方明は聞き入れず、一度に囚人を帰した。囚人とその父兄は皆驚き喜んで涙を流し、死に就くにも恨みなしと思った。期日になると、重罪の一人が酔って帰れず、二日遅れて戻った。もう一人の囚人は十日たっても来なかった。五官の朱幹期が面会を請い、自ら討ちに行こうとした。方明は囚人の事と知り、左右の者に命じて五官には入らぬよう断らせ、囚人は自ずから戻るだろうと言った。囚人は村里をうろつき、自ら帰ることができず、郷村の者が責め立てて率いて送り届けたので、結局逃げた者はなかった。遠近の人々は嘆服した。

宋の武帝が天命を受けると、侍中・丹陽尹の位にあり、有能な名声があった。會稽太守に転じた。江東は戸口が殷盛で、風俗は峻烈厳しく、強者弱者が互いに陵ぎ、奸吏が蜂の如く起こり、符書(命令書)が下るや、文書による召喚が相次いだ。方明は政体に深く通じ、文法に拘泥せず、苛細な点は大まかにし、統率することを務めた。貴族や豪族は、禁令を犯す者はなかった。比伍(隣保)の連座を除き、長く拘束された獄を判決した。前後の征伐で、兵員の輸送が不足するたびに、全て士庶に借り出し、事が収まると皆を本籍に帰還させた。しかし守宰(地方官)が不明で、任用・罷免が道理に外れ、人事が行き届かないと、必ず抑圧された。方明は簡選淘汰して精当にし、それぞれの適宜に従わせたので、東土(會稽地方)の人々は称え詠んだ。性格は特に人物を愛惜し、是非を論じたことはなかった。前任者を引き継いでも、その政治を変えず、必ず改めるべきものは、徐々に変えて跡形もなくした。官のまま卒した。

方明の子、惠連。

子の惠連は、十歳で文章を作ることができ、族兄の霊運がこれを嘉賞し、言った、「詩篇を作るたびに、惠連に対すると佳句を得る」。かつて永嘉の西堂で詩を思案し、一日中できなかったが、突然惠連の夢を見て、ただちに「池塘春草を生ず」を得、大いに巧みであると思った。常々言った、「この句には神の働きがある。私の言葉ではない」。本州が主簿に辟召したが、就任しなかった。

惠連は以前、會稽郡の吏である杜徳霊を寵愛し、父の喪に服している時、五言詩十余首を贈った。「乗流帰路に遵う」などの篇がそれである。このため罪に坐り、栄位に預からなかった。尚書僕射の殷景仁はその才能を愛し、言葉のついでに文帝に言上し、言った、「臣が小児の時からこの文を見ており、論者は惠連の作と言いますが、実はそうではありません」。文帝は言った、「そうであれば通すべきである」。元嘉七年、ようやく 司徒 しと 彭城王義康の法曹行参軍となった。義康が東府城を修築した時、城の堀の中から古い塚が見つかり、これを改葬し、惠連に祭文を作らせた。使者を留めて完成を待ったが、その文は甚だ美しかった。また『雪賦』を作り、その高麗(優美)さをもって珍奇とされた。霊運はその新しい文を見るたびに言った、「張華が生き返っても、これを変えることはできない」。文章は共に世に行われ、三十七歳で卒した。早く亡くなり、軽薄で咎めが多いことが多かったため、官位は顕れなかった。子はない。惠連の弟の惠宣は、臨川太守の位にあった。

謝霊運(裒の玄孫、晦の従曾祖兄)。

謝霊運は、安西將軍弈の曾孫であり、方明の従子である。祖父の玄は、 しん の車騎將軍。父の瑍は、生まれつき聡明でなく、祕書郎の位にあり、早く亡くなった。霊運は幼い時から穎悟で、玄は甚だ異とし、親しい者に言った、「私は瑍を生んだが、瑍の子はなぜ私に及ばないのか」。

霊運は若くして学を好み、群書を博覧し、文章の美は、顔延之と共に江左第一であった。縦横に才気を発揮する点は延之を超えるが、深密さは及ばなかった。従叔の混は特に彼を知り愛した。康楽公の封を襲ぎ、国公の例により員外散騎侍郎に任じられたが、就任しなかった。琅邪王大司馬行参軍となった。性格は豪奢で、車や服は鮮麗であり、衣服器物は多く旧来の形制を改め、世の人々は皆これを尊び、咸に謝康楽と称した。累遷して秘書丞となったが、事に坐して免官された。

宋の武帝が長安にいた時、霊運は世子中軍諮議・黄門侍郎となり、使者として彭城で武帝を慰労し、『撰征賦』を作った。後に相国從事中郎、世子左衛率となったが、門生を勝手に殺した罪で免官された。宋が天命を受けると、公爵から侯に降格され、また太子左衛率となった。

霊運は礼度に違うことが多く、朝廷はただ文義をもって処遇し、実務に応える者とは認めなかった。自らは才能をもって権要に参与すべきと思い、知られないと、常に憤りを抱いた。廬陵王義眞は若くして文籍を好み、霊運とは情誼が格別に厚かった。少帝が即位すると、権力は大臣にあり、霊運は異同を構え扇動し、執政を非難誹謗したので、 司徒 しと 徐羨之らはこれを憂い、永嘉太守として出させた。郡には名高い山水があり、霊運が平素から愛好していた。太守として出て志を得られないと、恣に遊び巡り、諸県を遍歴し、動けば十日や一月を超えた。民を治め訴訟を聴くことは、もはや心にかけず、至る所で詩を詠んでその意を表した。

郡に一年いて、病気と称して職を去った。従弟の晦、曜、弘微らは皆手紙を送って止めたが、従わなかった。霊運の父祖は共に始寧県に葬られ、また旧宅と別荘があったので、籍を會稽に移し、旧業を修営した。山に傍い江を帯び、幽居の美を尽くしていた。隠士の王弘之、孔淳之らと放蕩して楽しみ、ここに終わる志があった。一首の詩が都に届くたびに、貴賤を問わず競って書き写し、一夜のうちに士庶に遍く行き渡り、名声は都を動かした。『山居賦』を作り、自ら注を付けてその事を述べた。

文帝が徐羨之らを誅殺すると、謝霊運を秘書監に召し出したが、二度召しても出仕しなかった。光禄大夫の范泰に命じて書を送らせて敦促し奨励すると、ようやく出仕した。秘閣の書籍を整理して欠落を補わせ、また晋書の撰述を命じたが、大綱を立てただけで、結局完成しなかった。まもなく侍中に転じ、厚く遇された。霊運の詩と書はともに独自の絶品であり、文章を書き終えるたびに自ら筆写したので、文帝は二宝と称した。もともと自分は名門の家柄で、時政に参与すべきと考えていたが、この時はただ文芸の才をもって遇されるのみで、上に侍して宴席に列するたび、談笑と賞玩だけであった。王曇首・王華・殷景仁らは名声・地位ともに本来彼に及ばなかったが、いずれも重用され遇されたので、心中不平を抱き、しばしば病気と称して朝直に出なかった。池を掘り垣根を植え、竹を植え果樹を植え、公役を駆使して課役させ、期度を顧みなかった。城外に出て遊行し、時に百六七十里にも及び、十日を経ても帰らなかった。上表して奏聞することもなく、急な休暇も請わなかった。帝は大臣を傷つけたくなく、婉曲に自ら辞任するよう示唆した。霊運は上表して病気を陳じ、休暇を賜って東帰した。出発に際し、上書して河北征伐を勧めた。そして遊興と宴集にふけり、夜を日に継いだ。再び御史中丞の傅隆に弾劾されて官を免ぜられ、この年は元嘉五年であった。

霊運が東帰すると、族弟の謝恵連・東海の何長瑜・潁川の荀雍・泰山の羊璿之と文章を賞玩して交わり、共に山水を遊覧し、当時の人は四友と呼んだ。恵連は幼少より奇才があったが、父の謝方明に知られていなかった。霊運が永嘉を去って始寧に帰った時、方明は会稽太守であった。霊運が方明を訪ね、恵連に出会い、大いに知己として賞賛した。霊運は性来推服する者がなかったが、ただ恵連を重んじ、刎頸の交わりを結んだ。当時、何長瑜が恵連に読書を教えており、郡内にいたが、霊運はまた彼を絶倫と認めた。方明に言うには、「阿連(恵連)はかくも才悟に優れているのに、貴殿は常児として遇している。長瑜は当今の王仲宣(王粲)であるのに、下客の食事を与えている。貴殿が賢者を礼遇できないなら、長瑜を霊運に返すべきである。」と言い、車に乗せて連れ去った。荀雍は字を道雍といい、員外散騎郎に至った。璿之は字を曜璠といい、臨川内史となり、 司空 しくう 竟陵王の劉誕に遇されたが、誕が敗れると連座して誅殺された。長瑜の才は恵連に次ぎ、荀雍・羊璿之は及ばなかった。臨川王の劉義慶が文士を招集すると、長瑜は国侍郎から平西記室参軍となった。かつて江陵で同族の何勖に手紙を送り、韻文で義慶の州府の僚佐を風刺して言うには、「陸展は白髪を染め、側室に媚びんとす、青青たるも久しからず解けず、星星たるは行きて復た出づ。」このような句が五、六あった。軽薄な少年たちがこれを広め、あらゆる人士に題目として、いずれも激しい言葉や苦しい句を加え、その文が流行した。義慶は大いに怒り、文帝に上奏し、広州管下の曾城県令に左遷した。義慶が薨じると、朝士たちがこぞって邸に赴いて哀悼の意を表した。何勖が袁淑に言うには、「長瑜を戻すべきである。」淑は言うには、「国(藩国)は新たに宗族の英傑を喪い、流人を気にかけるべきではない。」廬陵王の劉紹が尋陽に鎮すると、長瑜を南中郎行参軍とし、書記の任を執らせた。板橋まで行き、暴風に遭い溺死した。

霊運は祖父の資産により、生業が甚だ豊かで、奴僕・僮僕が多く、義故・門生が数百人おり、山を穿ち湖を浚い、工役が絶えなかった。山を尋ね嶺に登るには、必ず幽峻な所に至り、岩峰数十重にも及ぶ山々を、ことごとく極めた。登攀する時は常に木屐を履き、上山には前歯を外し、下山には後歯を外した。かつて始寧の南山から伐木して道を開き、臨海郡まで直行し、従者は数百人であった。臨海太守の王琇は驚愕し、山賊と思い、霊運であると知って安堵した。また琇にさらに進むよう求めたが、琇は肯わなかった。霊運は琇に詩を贈り、「邦君は地嶮を難じ、旅客は山行を易し」と詠んだ。会稽でも多くの徒党を従え、県邑を驚かせた。太守の孟顗は仏事に精懇であったが、霊運に軽んじられ、かつて顗に言うには、「得道は慧業を須うべきであり、丈人は生天は霊運の前に在るべく、成仏は必ず霊運の後に在るべし。」顗はこの言葉を深く恨んだ。また王弘之らと千秋亭に出て酒を飲み、裸身で大声をあげた。顗は甚だ耐えがたく、使者を遣わして伝えさせた。霊運は大いに怒り、「身自ら大声をあげただけで、痴人の何事に関わるか。」と言った。

会稽の東郭に回踵湖があり、霊運はこれを排水して田とするよう求めた。文帝は州郡に実地調査を命じた。この湖は城郭に近く、水産物の産地で、百姓が惜しんだため、孟顗は固執して与えなかった。霊運は回踵湖を得られず、また始寧の休崲湖を田とするよう求めたが、顗はまた固執した。霊運は、顗が民の利益を考えているのではなく、ただ湖を決壊させると多くの生命を害することを憂慮しているのだと論じ、言論で彼を傷つけた。顗との間に遂に隙が生じた。霊運の横暴・放恣を理由に、彼に異志があると上表し、自ら兵を発して防備し、露板をもって上言した。霊運は馳せて宮闕に詣で上表し、事の経緯を陳述した。文帝は彼が誣告されたと知り、罪に問わなかった。再び東帰させることを望まず、臨川内史とした。

郡において遊興放縦、永嘉の時と変わらず、有司に糾弾された。 司徒 しと が使者を遣わし、州従事の鄭望生に随行させて霊運を逮捕させた。霊運は兵を興して逃亡し、遂に逆志を抱いた。詩を作り、「韓亡びて子房奮い、秦帝して魯連恥ず、本自江海の人、忠義君子に感ず」と詠んだ。追討して捕らえ、廷尉に送ると、廷尉は斬刑を論じた。帝はその才を愛し、官を免ずるのみとしようとした。彭城王の劉義康が強く主張し、許すべからずと述べた。詔して「謝玄の勲は管仲に参ずるものあり、その後嗣に及びて宥すべし、死を降して広州に徙す」とした。

後に秦郡の府将である宋齊が使いで塗口に至り、桃墟村に達した時、七人が道端で集まって語っているのを見て、常人でないと疑い、郡県に報告した。兵を派遣して宋齊に随行させ、包囲討伐して捕らえた。その一人は趙欽という姓で名で、言うには、「同村の薛道雙が先に霊運と共事し、道雙が同村の成国を通じて欽に報じた。『霊運は事を犯して広州に徙され、銭を与えて弓箭・刀楯などを買わせ、道雙に命じて郷里の健児を三江口で集め、奪還させようとしている。もし志を得て如意の後は、功労は同じである。』と。そこで徒党を集めて謝氏を要請したが得られず、帰還して飢饉に陥り、沿道で劫掠を働いた。」有司が収監を上奏すると、文帝は詔して広州において棄市に処した。臨終に詩を作り、「龔勝余生生無く、李業終盡有り、嵇公理既に迫り、霍生命亦殞つ」と詠んだ。称する龔勝・李業は、先の詩の子房・魯連と同じ意である。時に元嘉十年、年四十九。著した文章は世に伝わった。

孟顗は字を彦重といい、平昌安丘の人で、衛将軍の孟昶の弟である。昶と顗はともに風姿が美しく、当時の人は双珠と呼んだ。昶が貴盛であった時、顗は召しに応じなかった。昶の死後、顗は侍中・僕射・太子詹事・ 散騎常侍 さんきじょうじ ・左光禄大夫を歴任した。かつて徐羨之のもとを訪れ、関中・洛中の旧事を語り合った時、顗が劉穆之の死後は後継者がいないと嘆じた。王弘も同席しており、甚だ不平に思い、「昔、魏朝は張郃を酷く重用し、一日も欠くべからずと言った。郃が死んでも、何が興廃に関わろうか。」と言った。顗は悦ばず、賓客たちは笑って取りなした。後に会稽太守として卒した。

謝霊運の子、謝鳳。

謝霊運の子の謝鳳は、霊運の連座で嶺南に徙され、早世した。

謝鳳の子、謝超宗。

謝鳳の子の謝超宗。父の謝鳳に従って嶺南にあり、元嘉末年になって帰還できた。慧休道人と往来した。学を好み文辞があり、盛んな名誉を得た。新安王劉子鸞の国常侍に選補された。王の母の殷淑儀が卒すると、超宗が誄を作って奏上した。帝は大いに嘆賞し、謝莊に言うには、「超宗は殊に鳳毛有り、霊運の再出なり。」と。時に右衛将軍の劉道隆が御座に侍しており、退出して超宗を待ち、「君に異物があると聞く、見せてもらえるか。」と言った。超宗は言うには、「懸磬の室に、また異物有りや。」と。道隆は武人で無識であり、ちょうどその父の名(鳳)に触れて言うには、「さきほど侍宴の席で、至尊が君に鳳毛があるとおっしゃった。」と。超宗は徒跣で内室に戻った。道隆は鳳毛を探し求めていると思い、暗くなるまで待っても得られず、去った。

泰始年間(宋明帝の年号)、尚書殿中郎となった。三年、都令史の駱宰が秀才・孝廉の試験の基準について議論し、五問全て正解なら上、四問か三問なら中、二問なら下、一問も正解しなければ不合格と定めた。超宗は異議を唱えたが、詔により駱宰の案が採用された。

斉の高帝(蕭道成)が領軍将軍であった時、その才能を愛し、衛将軍の 袁粲 えんさん がこれを聞き、高帝に言った。「超宗は明るく聡明で、語り合うに値する人物である。」長史・臨淮太守に抜擢した。 袁粲 えんさん が誅殺されると、高帝は超宗を義興太守に任じた。昇明二年、公務上の過失で免官された。東府の門を訪れて自ら面会を求めた日は風が寒かったが、高帝は周囲の者に言った。「この客が来ると、着物を着なくても自然と体が温まるようだ。」超宗が着座すると、数杯の酒を飲み、言葉の勢いが溢れ出た。高帝は彼に対面して大いに喜んだ。

斉が禅譲を受けると、黄門郎となった。有司が郊廟の歌を撰するよう上奏したので、上(武帝)は 司徒 しと の褚彦回、侍中の謝朏、散騎侍郎の孔珪、太学博士の王咺之、総明学士の劉融、何法図、何曇秀ら、合わせて十人の作者に命じたが、超宗の文辞のみが特に採用された。

人となりは才能を恃み酒に任せ、多くの者を凌ぎ軽んじ、直省(宮中の宿直所)にいる時は常に酔っていた。上(武帝)が召し出して北方(北魏)の情勢について話すと、超宗は言った。「虜(北魏)の動きは二十年にもなります。仏が出てもどうしようもありません。」儀礼を失したとして南郡王中軍司馬に左遷された。人が尋ねた。「朝廷の任命があったと承りましたが、どこの府でしょうか?」超宗は怨望を抱き、答えた。「司馬なのか、司驢なのか分からない。驢府(驢馬の役所)ならば、まさに司驢であるべきだ。」有司に奏上され、怨望の罪で免官、十年間の禁錮に処された。後に 司徒 しと の褚彦回が湘州刺史の王僧虔を見送る際、閣道(渡り廊下)が壊れて水に落ちた。僕射の王儉は驚いて靴も履かずに車から飛び降りた。超宗は手を打って笑い、「落水の三公、墜車の僕射。」と言った。彦回が水から上がると、ずぶ濡れで狼狽していた。超宗は先に僧虔の船に乗っており、声を張り上げて言った。「天道があるという。天も容れず、地も受け入れぬ。河伯に投げ与えても、河伯も受け取らぬ。」彦回は激怒して言った。「寒士(身分の低い者)が無礼である。」超宗は言った。「袁(粲)や劉(秉)を売って富貴を得ることもできず、どうして寒士でいられようか。」前後の嘲りの言葉は、次第に朝廷から民間にまで広まった。

武帝が即位すると、国史を執筆させた。竟陵王征北諮議参軍に任じられ、記室を兼任したが、ますます志を得なかった。超宗は子に張敬児の娘を娶わせたので、帝は大いに疑念を抱いた。敬児が誅殺されると、超宗は丹陽尹の李安人に言った。「往年は韓信を殺し、今年は彭越を殺した。君はどうするつもりか?」安人はこれを全て上奏した。上(武帝)はかねてから超宗の軽慢さを心に留めており、兼中丞の袁彖に命じて超宗を廷尉に付すよう上奏させた。武帝はその上奏を認めたが、袁彖の言い回しが曖昧であったため、左丞の王逡之に袁彖を「軽率に上奏文を省略し、法を曲げて非を容認した」と奏上させ、「袁彖の現職を免ずるよう」求めた。詔により「袁彖は実情を隠して国を欺き、私情に陥って主君を惑わした」として免官、十年間の禁錮に処された。超宗は廷尉に下され、一晩で髪が真っ白になった。詔により越巂に流罪とされ、 章まで来た時、上(武帝)は 章内史の虞悰に命じて自尽させ、その形骸を傷つけないよう命じた。

翌年、超宗の門生である王永先がまた、超宗の子の才卿に二十余条の死罪があると告発した。上(武帝)はその虚偽を疑い、才卿を廷尉に付して審議させ、事実無根として赦免した。永先は獄中で処刑された。

超宗の子、幾卿。

才卿の弟の幾卿は、明晰な弁舌を持ち、当時神童と称された。超宗が越巂に流される時、詔により家族は付き従うことを許されなかった。幾卿は八歳で、新亭で父と別れる際、悲しみに耐えられず、ついに江に身を投げた。超宗は商人数人に命じて水に入らせ救助させた。しばらくして浮き上がり、岸にたどり着いたが、耳・目・口・鼻から水を流し出し、数斗の水を吐き出し、十余日経ってやっと話せるようになった。父の喪に服しては哀哭し礼を越えて憔悴した。十二歳の時、召されて国子生に補された。斉の文恵太子が自ら策試を臨み、王儉に言った。「幾卿は本来玄理(老荘の哲理)に長けているが、今は経義(経書の解釈)で試してみよう。」王儉は命を受けて質問を発すると、幾卿は淀みなく弁明・解釈したので、文恵太子は大いに賞賛した。王儉は人に言った。「謝超宗は死なずに済んだ。」成長すると、博学で文采があった。斉に仕えて太尉晋安王主簿となった。

梁の天監年間、尚書三公郎から書侍御史となった。旧来、郎官からこの職に転じる者は、世に「南奔(南方に逃げる、左遷の意)」と言われた。幾卿は大いに志を失い、しばしば病気と称して、御史台の事務をほとんど処理しなかった。累進して尚書左丞となった。

幾卿は故事旧例に詳しく、僕射の徐勉は疑問がある度に、多く彼に相談した。しかし性格は豁達で、気が向けばすぐ行動し、朝廷の規律に拘らなかった。かつて楽遊苑の宴に参加した時、酔わないうちに帰ることになり、道端の酒屋を訪れ、車を停めて帷を上げ、車の前で三人の騶者(御者)と向かい合って飲んだ。見物人が壁のようだったが、幾卿は平然としていた。後に省庁で夜に犢鼻褌(ふんどしのような下着)を着て、門生と閣道に登り酒を飲んで騒ぎ叫んだため、有司に糾弾され、免官に処された。

普通六年、詔により西昌侯蕭藻が諸軍を督いて北征することになり、幾卿は従軍を願い出て、藻の軍師長史に抜擢された。出発に際し、僕射の徐勉と別れると、徐勉が言った。「淮水・淝水の戦い(淝水の戦い)では、先の謝(謝玄)がすでに奇功を立てた。今の謝がどうかは分からないが。」幾卿は即座に答えた。「今の徐が先の徐(徐勉の先祖か?)に勝っているのは見えています。後の謝がどうして先の謝に恥じる必要がありましょうか。」徐勉は黙り込んだ。軍が渦陽に至って退却・敗北したため、幾卿は連座して免官された。

白楊の石井の邸宅に住み、朝廷の親しい友人たちが酒を載せて訪れ、客は常に満座だった。当時、左丞の庾仲容も免官されて帰っており、二人は意気投合し、共に勝手気ままに振る舞い、ある時は幌のない車に乗って郊外を遊覧し、酔うと鐸(楽器)を執り挽歌を歌い、世間の非議を意に介さなかった。湘東王蕭繹が荊州鎮守の時、手紙を送って慰労・激励した。

後に太子率更令となった。放達で容儀を整えることをせず、性格的に非を容れず、人と多く衝突し、自分にそぐわない者には、思うままに罵り、引き下がって後は何も言わなかった。左丞に転じた。僕射省で公卿の会議が開かれた時、幾卿は外から戻り、前夜の酔いが醒めず、枕を取って高く寝そべり、傍若無人であった。またかつて閣省で裸で袒ぎ、酣に飲み、酔って小便をし、それが下の令史にかかったため、南司(御史台)に弾劾されたが、幾卿も気に留めなかった。左光禄長史に転じた。没し、文集が世に行われた。

幾卿は行いを慎まなかったが、家門に対しては篤く睦まじかった。兄の才卿が早世し、その子の謝藻が幼く孤児となると、幾卿は非常に手厚く養育した。謝藻が成人し、清官(名誉職)を歴任したのは、全て幾卿の奨励・訓導の力によるものであった。

論。

論ずるに、謝晦は佐命の功を以て、顧託の重きに当たり、殷憂の日に在りて、昏きを黜し聖を啓き、社稷の計に於いて、蓋し大なるものと為す。但だ廬陵の殞つるは、事主命に非ず、昌門の覆るるは、臣道に乖く。博陸の慎む所、理は斯に異なり。加うるに身は上流に処り、兵権は己に総べ、将に外を以て内を制せんと欲す、豈に人主の久しく堪えんや。向令徐・傅亡びず、道済外に居らば、四権命を制し、力相侔うに足り、劉氏の危きは、則ち累卵に逾えん。此を以て罰を論ずれば、豈に妄りに誅すと曰わんや。宣遠の寒心する所為は、其の萌しを睹ると謂うべし。然れども謝氏は晋より以降、雅道相伝え、景恆・景仁は徳素を以て美を伝え、景懋・景先は節義を以て誉れを流す。方明の己を行うの度、玄暉の藻繢の奇、各々一時に擅り、徳門と謂うべし。霊運の才名、江左に独り振るう;而して猖獗已まず、自ら覆亡を致す。人各々能有り、茲の言乃ち信ず、惜しいかな。

原本を確認する(ウィキソース):南史 巻019