南史
巻十八から巻十九
趙倫之、蕭思話、臧燾
趙倫之
趙倫之は、字を幼成といい、下邳の僮県の人で、宋の孝穆皇后の弟である。幼くして孤貧となり、母に仕えて孝行をもって称された。宋の武帝が兵を起こすと、軍功により閬中県の五等侯に封ぜられ、累進して雍州刺史となった。
武帝が北伐すると、倫之は順陽太守の傅弘之と扶風太守の沈田子を遣わして嶢柳から出撃させ、藍田において姚泓を大破した。武帝が天命を受けると、佐命の功により、霄城県侯に封ぜられた。少帝が即位すると、召されて護軍に任ぜられた。元嘉三年、領軍将軍を拝命した。
倫之は外戚として貴寵を受けながらも、身を処することは質素で、性質は野鄙で口下手であり、世間の事柄については多く理解していなかった。長く地方長官の任にあり、公私ともに富貴であった。中央に入って護軍となると、資力がその地位にふさわしくないと思い、左遷されたと感じた。光禄大夫の范泰は冗談を好み、笑って言った。「 司徒 公の欠員があれば、必ずお前を使うだろう。私はお前の資質や経歴がその任に適うとは言わないが、要は外戚としての高い官位の順序でその地位に至るだけだ。」倫之は大いに喜び、しばしば酒肴を車に載せて范泰を訪ねた。五年、卒去し、諡は元侯といった。子の伯符が後を嗣いだ。
伯符は字を潤遠といい、若い頃から弓馬を好み、寧遠将軍となり、義徒を総領して宮城の北に駐屯した。火災が起こったり強盗があったりするたびに、自ら甲冑を身につけ、郡県の討伐を助け、武帝はこれを大いに称賛した。
文帝が即位すると、累進して徐・兗二州刺史となった。政治は苛酷で暴虐であり、官吏や民衆は虎狼と同居するかのように畏れおののいたが、強盗は遠く逃げ去り、敢えて境内に入る者はなかった。元嘉十八年、召されて領軍将軍となった。これ以前は、外監は領軍に隷属せず、統率すべき事柄については別に詔勅があったが、この時から初めて統領するようになった。後に丹陽尹となり、郡において厳格で残酷であったため、曹局(役所)はもはや命令に堪えられず、ある者は職務を放棄して逃亡し誅殺され、ある者は水に身を投げて死んだ。典筆吏が筆を取るのに命令に背いたため、ただちに五十回の鞭打ちを加えた。子の倩は文帝の第四皇女である海塩公主を娶り、非常に寵愛され重んじられた。倩がかつて冗談のつもりで言い、手を上げて公主を打ったことがあり、事が上聞に達すると、文帝は怒り、離縁させた。伯符は恥じ恐れ、発病して卒去し、諡は粛といった。封国は孫の勖に伝わったが、斉が禅譲を受けると、封国は除かれた。
蕭思話
蕭思話は、南蘭陵の人で、宋の孝懿皇后の弟の子である。父の源之は字を君流といい、徐・兗二州刺史を歴任した。永初元年に卒去し、前将軍を追贈された。
思話は十歳余りの時、まだ書物を知らず、屋根の棟に乗ることを好み、細腰鼓を打ち、近隣を侵害し暴れたので、これを患い憎まない者はなかった。ここから節を改め、数年の中に良い評判を得るに至った。隷書にかなり巧みで、琴を弾じ、騎射をよくした。後に爵を襲い封陽県侯に封ぜられた。
元嘉年間、青州刺史となった。亡命の司馬朗之兄弟が徒党を集めて乱を謀ると、思話は北海太守の蕭汪之を遣わして討伐し斬らせた。
八年、魏軍が大挙して到来すると、鎮を棄てて平昌に奔った。魏軍は結局到来せず、このことで罪に問われ尚方に拘禁された。かつて青州にいた時、常に用いていた銅の斗が薬櫃の下に伏せてあったが、ふと斗の下で二羽の死んだ雀を得た。思話は嘆いて言った。「斗が覆り二羽の雀が死ぬとは、不祥ではないか?」やがて拘禁された。梁州刺史の甄法護が任地で不和を生じ、氐の首長楊難当がこれに乗じて漢中を侵犯すると、徒役の中から思話を起用して梁・南秦二州刺史とし、漢中を平定し、侵された土地をことごとく奪回し、葭萌水に戍を置いた。思話は鎮を南鄭に移した。
法護は、中山の無極県の人である。長江を渡り、南郡に寓居した。弟の法崇は少府から益州刺史となった。法護は鎮を放棄した罪により、官府に収監され、獄中で賜死された。文帝は法崇が一方の任を受けていることから、法護が病死したと発表するよう命じた。文帝は思話に漢中平定の経緯を上奏させ、これを史官に下した。
十四年、臨川王劉義慶の平西長史・南蠻 校尉 に遷る。文帝は弓と琴を賜い、手詔して曰く、「前にこの琴を得たり、旧物なりと言う。今以て相借し、併せて往く桑弓一張、材質の理は乃ち快なり。良材美器は、宜しく尽く用いるの地に在るべし、丈人は真に与えて譲る所無し」と。嘗て文帝に従い鍾山の北嶺に登る。中道に磐石と清泉有り、上は石上に於いて琴を弾かしめ、因って銀鍾の酒を賜い、謂いて曰く、「相賞するに松石の間の意有り」と。甯蠻 校尉 、雍州刺史を歴任し、四州の軍事を監す。吏部尚書に徴される。思話は州を去れば再び事力無からんことを以て、府の軍身九人を請う。文帝戯れて之に曰く、「丈人は終に閭里に田父たらざるべし、何ぞ人を使う無きを憂えんや」と。未だ拝せずして、護軍将軍に遷る。
是の時、魏が懸瓠を攻む。文帝将に大いに挙げて北侵せんとす。朝士僉に同じくし、思話固く諫むも従わず。魏軍退き、即ち孝武帝に代わり徐・兗二州刺史となり、四州の軍事を監す。後に碻磝城を囲むも抜けず、師を退き歴下に至り、江夏王劉義恭に奏せられて官を免ぜらる。
元凶(劉劭) 弑 逆して立つ。徐・兗二州刺史と為す。即ち起義して孝武帝に応ず。孝武帝即位し、尚書左僕射に徴す。固く辞し、改めて中書令・丹陽尹・ 散騎常侍 と為す。時に都下劫掠多く、二旬の中十七発有り。咎を引き陳べて遜るも、許さず。後に 郢州 刺史を拝し、 都督 を加えらる。卒す。征西将軍・開府儀同三司を贈られ、諡して穆侯と曰う。思話は外戚の令望にして、早くより任待を見、十二州を歴任し、節を杖し監督する者は九たびなり。
至る所、皎皎たる清節無きも、亦た穢黷の累無し。才を愛し士を好み、人多く之に帰す。
長子惠開は少より風気有り、文史に渉猟す。家は貴戚と雖も、居服は簡素なり。初め秘書郎と為り、意趣は人と多く同じからず、比肩するも或いは三年語を共にせず。外祖父光禄大夫沛郡の劉成、之を戒めて曰く、「汝は恩戚家の子なり、多く異を以て天下の疾を取ること無かれ」と。太子舎人に転じ、汝南の周朗と同官して友善し、偏奇を以て相尚ぶ。
孝建元年、黄門侍郎と為り、侍中何偃と推積射将軍徐沖之の事を争う。偃は任遇甚だ隆く、怒りて門下に使いて惠開を推弾せしむ。乃ち上表して職を解く。此れ由りて旨に忤う。別勅有司に以て属疾多きを以て、之を免ず。思話は素より恭謹にして、惠開と同じからず、毎に嫌責を加う。及び惠開の自ら解く表を見て、歎じて曰く、「児不幸にして周朗と周旋す、理応に此の如くなるべし」と。之を杖つこと二百。尋いで中庶子を除く。父艱に丁り、喪に居るに孝性有り。家は素より仏を事とし、凡そ父の為に四寺を起す。南岡下は名づけて禅岡寺と曰い、曲阿の旧郷宅は名づけて禅郷寺と曰い、京口の墓亭は名づけて禅亭寺と曰い、封ぜらるる所の封陽県は名づけて禅封寺と曰う。国僚に謂いて曰く、「封秩鮮少にして兄弟甚だ多し。若し全く一人に関せば、則ち我が譲る所に在り。若し人人等分せば、又た事悲恥す可し。寺衆既に立ち、自ら宜しく悉く僧衆に供すべし」と。封陽県侯を襲封し、新安王劉子鸞の冠軍長史と為る。
惠開の妹まさに桂陽王劉休範に適せんとし、女又たまさに孝武帝の子に適せんとす。発遣の資、応に須いること二千萬。乃ち 豫 章内史と為し、其の肆意に聚納するを聴く。此れ由りて郡に在りて貪暴の声著し。再び御史中丞に遷る。孝武帝、劉秀之に詔して曰く、「今蕭惠開を以て憲司と為す、冀くは当に職に称わんことを。但だ一往眼額するに、已に自ら殊に震うる所有り」と。職に在りては、百僚之を憚る。
後に益州刺史を拝し、路江陵を経る。時に吉翰の子荊州に在り、惠開と旧有り、女楽を設く。楽人に美なる者あり、惠開就きて求むるも得ず、又た四女妓を以て之に易えんと欲するも、許さず。惠開怒り、吉を収めて斬り、即ち其の妓を納る。啓して云く、「吉は劉義宣に遇せられ、不逞の徒と交結し、臣に向かって朝政を訕毀す。輒ち已に之を戮す」と。孝武帝快と称す。
惠開は素より大志有り、蜀に至りて広く経略を樹えんと欲す。叙述に善くし、其の言を聞く者皆大功立つ可しと為す。才疎く意広く、竟に成功無し。威刑を厳に用い、蜀人は号して「臥虎」と曰う。明識人に過ぎ、嘗て三千の沙門を供し、一たび其の名を閲し、退いて失う所無し。
明帝即位し、 晉 安王劉子勛反す。惠開乃ち将佐を集めて謂いて曰く、「吾れ世祖(孝武帝)の眷を荷い、当に袂を投じて萬里、九江(子勛)を推奉すべし」と。蜀人は素より惠開の厳しきを怨み、是に及びて遣わす兵皆前に得ず。 晉 原郡反し、諸郡悉く応じ、併せて来りて城を囲む。城内の東兵二千に過ぎず、凡そ蜀人は、惠開之を疑い、悉く皆遣い出す。子勛尋いで敗る。蜀人は併せて城を屠り、以て厚賞を望まんと欲す。明帝は蜀土険遠なるを以て、其の誅責を赦し、其の弟惠基を使いとし蜀に使いせしめて旨を宣べしむ。然るに蜀人は志城を屠るに在り、王命の速かに達するをさせず、惠基を遏み留む。惠基其の渠帥を破り、然る後に前に得る。惠開旨を奉じて帰順し、城囲解かる。明帝又た惠開の宗人宝首を遣わし水路より益州を慰労せしむ。宝首は平蜀を以て功と為さんと欲し、更に蜀人を奨め説き、処処蜂起す。惠開乃ち啓して情事を陳べ、宋甯太守蕭惠訓・州別駕費欣業を遣わし分兵して併せて進み、之を大破し、宝首を禽えて之を送る。惠開都に至る。明帝其の故を問う。侍衛左右悚然として側目する者莫し。惠開挙動自若とし、従容として答えて曰く、「臣は唯だ逆順を知るのみ、天命を識らず」と。又た云く、「臣に非ざれば乱れず、臣に非ざれば平らかならず」と。
初め、惠開の府録事参軍劉希微、蜀人の責むる所の将百万を負う。責主に制せられ、俱に還るを得ず。惠開は希微と共に事えて厚からず。而して廄中凡そ馬六十匹有るも、悉く以て希微に乞い、責を償わしむ。其の意趣常ならざるは是の如し。惠開還る資二千餘萬、悉く道俗に散施し、一も留むる所無し。
後に桂陽王劉休範の征北長史・南東海太守を除く。其の年、会稽太守蔡興宗の郡に之く。惠開京口より仮を請いて都に還る。曲阿に於いて相逢う。惠開先に興宗と名位略同じく、又た情款を経たり。自ら負釁摧屈を以て、興宗の己に詣らざるを慮り、部下を戒勒す。蔡会稽の部伍若し問わば、慎んで答うるを得ずと。惠開は素より厳しく、部下敢えて違う者莫し。興宗、惠開の舟力甚だ盛んなるを見て、人を遣わして訪訊す。事力二三百人皆低頭して直ちに去り、一人も答うる者無し。
尋いで少府を除き、給事中を加う。惠開は素より剛なり。是に至りて益々志を得ず。曰く、「大丈夫喉舌に入り管し、方伯に出て蒞るも、乃ち復た低頭して中に入るか」と。寺内の住む所の斎前、向かって花草を種うること甚だ美なりしに、惠開悉く剷除し別に白楊を種う。毎に人に謂いて曰く、「人生胸懷を行うを得ずんば、寿百歳と雖も猶お夭なり」と。病を発し血を嘔し、物を吐くこと肝肺の如き者。卒す。子睿嗣ぐ。齊、禅を受く。国除かる。
惠開は諸弟と並びに睦まず。惠基の使い益州に至るも、遂に相見えず。同産弟惠明と亦た嫌隙を致すと云う。
蕭惠明はその次弟であり、また当時に誉れがあった。泰始(宋明帝の年号)の初め、呉興太守となり、郡の境界に卞山があり、その山下に項羽廟があった。伝承によれば項羽がしばしば郡の庁舎に居座り、前後の太守は敢えて上ることができなかった。惠明は綱紀(郡の属官)に言った、「孔季恭(孔靖)がかつてこの郡を治めたが、災いがあったとは聞かない」と。そこで盛大に筵と榻を設けて賓客を迎えたところ、数日後、身の丈一丈余りの者が弓を引き矢を構えて惠明に向かうのを見たが、やがて見えなくなった。そのため背中に癰ができ、十日ほどで死去した。
子の蕭視素は、梁の天監年間に、丹陽尹丞の位にあった。初めて拝命した日、武帝(梁の武帝蕭衍)から銭八万を賜り、視素は一朝にしてこれを親友に散じた。 司徒 左西属・南徐州中從事に遷った。
性質は静かで退け、嗜欲は少なく、学問を好み、清談ができ、栄利を心にかけず、喜怒を顔色に表さなかった。在野の時も官職にあっても、共に任情で通達し率直であり、自らを誇らず、天然の簡素さがあった。京口におりし時から、すでにそこに終焉を定めようとする志があった。後に中書侍郎となった。在位して間もなく、諸暨県令を求めた。県に着いて十余日後、衣冠を県門に掛けて去った。独居して俗事を屏い、親戚でなければその籬の門に至ることを得なかった。妻は斉の太尉王儉の娘であったが、久しく別居し、ついに子がなかった。死去すると、親故がその事跡と行いを跡づけ、貞文先生と諡した。
蕭惠明の弟の蕭惠基は、幼くして外戚として宋の江夏王劉義恭に引見され、その詳しく審らかなことを歎賞され、娘を娶らせて婚姻を結んだ。中書黄門郎を歴任した。惠基は隷書と囲碁に巧みで、斉の高帝(蕭道成)とは情好相得た。桂陽王劉休范の妃は惠基の姉であった。高帝は彼に言った、「卿の家の桂陽王が、また賊をなすとは」と。高帝が新亭の塁に駐屯した時、惠基を軍副とした。惠基の弟の惠朗は親しく休范のために攻戦したが、惠基は城内にあって少しも自ら疑うことはなかった。後に長兼侍中となった。
袁粲 ・劉彦節(劉秉)が兵を起こした夜、高帝は彦節が惠基の妹婿であることから、惠基が当時省中に直していたので、王敬則を遣わしてその意向を観察させた。惠基が平静で、彦節と通じていないのを見て、これによってますます恩信を加えた。
斉に仕えて都官尚書となり、吏部を掌った。永明年間に侍中となり、 驍 騎将軍を領した。 尚書令 王儉は朝廷で尊ばれ重んじられたが、惠基は同じく礼閣(尚書省)にあって、公事でなければ私的に面会しなかった。太常に遷り、給事中を加えられた。
宋の大明年間以来、声伎(音楽・舞踊)で尊ばれるものは多く鄭・衛の俗楽であり、雅楽正声を好む者は少なかった。惠基は音律を解し、特に魏の三祖(曹操・曹丕・曹叡)の曲と相和歌を好み、奏されるごとに賞悦してやまなかった。
当時囲碁の上手として琅邪の王抗が第一品、呉郡の褚思莊・会稽の夏赤松が第二品であった。赤松は思考が速く、大局に長け、思莊は対局が遅く、局部の戦い(闘棋)に巧みであった。宋の文帝の時、羊玄保が会稽太守となったが、帝は思莊を東方に遣わし、玄保と対局させ、そこで棋局の図を記し、帰って帝の前でそれを再現した。斉の高帝は思莊に王抗と対局させて賭けをさせた。朝食の時から日暮れまでかかって一局がようやく終わった。上(高帝)は疲れて、彼らを省舎に帰らせたが、五更になってようやく決着した。王抗は局の後で寝てしまい、褚思莊は夜明けまで眠らなかった。時に言うには、思莊が品第が高いのは、その思考が深く長く、人が対抗できないからだという。王抗・褚思莊はともに給事中に至った。永明年間、詔勅により王抗に棋士の品定めをさせ、竟陵王蕭子良は蕭惠基にこの事を掌らせた。初め、蕭思話(惠基の父)が先に曲阿に邸宅を建て、閑曠の趣があった。惠基は常に親しい者に言った、「婚嫁が済み次第、古い屋敷に帰って老いを養おう」と。立身は退いて質素であり、朝廷では善士と称された。死去し、金紫光禄大夫を追贈された。
子の蕭洽は字を宏稱という。幼くして聡明で悟りが早く、七歳で楚辞をほぼ暗誦した。成長すると、学問を好み広く渉猟し、文章をよくした。梁に仕えて南徐州中從事の位にあった。近畿の重鎮で、職吏は数千人おり、前後この職にあった者は皆巨富を得た。洽は身を清くして職務に率い、贈り物は一切受けず、妻子は飢え寒さを免れなかった。累遷して臨海太守となり、政治は清く平らかで、威猛を尚ばず、人々の風俗に適った。還って 司徒 左長史に任じられた。詔勅により当塗堰の碑文を撰し、文辞は甚だ豊かで麗しかった。官の任上で死去した。文集二十巻が世に行われた。
蕭惠基の弟の蕭惠休。斉の永明四年、広州刺史となり、任を罷めると、蓄財を傾けて献上した。上(武帝蕭賾)は中書舎人茹法亮に命じて言った、「蕭惠休に問うてみよ、やはり再び私蓄はないのか? 我はそれを分けて受け取りたい」と。後に建安県子に封ぜられた。
永元元年、呉興太守に転じた。尚書右僕射に徴された。呉興郡の項羽神は従来霊験が厳しく、人々は惠休が神を謹んで祀ったので、良い転任を得たと言った。当時朝廷の士は多く殺害されていた。二年、惠休が平望まで帰還した時、帝(東昏侯蕭宝巻)は薬を服ませて死なせ、金紫光禄大夫を追贈した。
蕭惠休の弟の蕭惠朗は、桂陽王の賊に同調したが、斉の高帝はこれを赦した。後に西陽王征虜長史となり、南兗州の事務を行ったが、法に坐して免官された。
蕭惠朗の弟の蕭惠蒨は、斉に仕えて左戸尚書となった。子に蕭介がいる。
蕭介は字を茂鏡といい、幼くして穎悟で、器量と識見があった。梁の大同年間、武陵王蕭紀が揚州刺史となった時、介を府長史とし、在職中は清白をもって称された。武帝は何敬容に言った、「蕭介は甚だ貧しい。一郡を治めさせることができる」と。また言った、「始興郡は頻りに良守がおらず、介をこれに任ずることができる」と。これによって始興太守として出向した。到着すると、甚だ威徳を顕著にした。
少府卿に徴され、まもなく 散騎常侍 を加えられた。時に侍中に欠員が生じ、選司が王筠ら四人を推挙したが、いずれも帝の意にかなわなかった。帝は言った、「我が門中(一族・家門)には久しくこの職がなかった。蕭介を用いてこれに当たらせるのがよい」と。左右に応対し、多く匡正するところがあり、帝は甚だ彼を重んじた。
都官尚書に遷り、軍国大事があるごとに必ずまず蕭介に諮問した。帝は朱異に言った、「端右の材である」と。中大同二年、病を理由に致仕を願い出たが、帝は優詔をもって許さず、ついに起きようとしなかったので、謁者僕射の魏祥を遣わして就いて光禄大夫を拝した。
太清年間、侯景が渦陽で敗走し、寿陽に入った。帝は助防の韋黯に命じてこれを容れさせようとしたが、蕭介はこれを聞き上表して諫め、極言して不可であるとした。帝は表を省みて嘆息したが、ついに用いることはできなかった。
蕭介の性質は高潔簡素で、交遊は少なく、ただ族兄の蕭琛、従兄の蕭眎素および蕭洽の従弟の蕭淑らと文酒の賞会を催し、当時の人はこれを謝氏の烏衣の遊びに比した。
初め、武帝は後進二十余人を招き延べ、酒を置き詩を賦した。臧盾は詩が成らなかったので、罰として酒一斗を飲まされた。臧盾は飲み尽くし、顔色を変えず、言笑自若であった。蕭介は筆を染めてたちまち成し、文に加筆する点がなかった。帝は両者を称えて言った、「臧盾の飲み、蕭介の文は、即席の美である」と。年七十三、家で卒した。
第三子の蕭允は字を叔佐といい、若くして知名であった。風神は凝遠で、通達し識鑑があり、容止は醞藉であった。梁に仕えて太子洗馬に至った。侯景が台城を攻め陥とした時、百官は奔散したが、蕭允ひとり衣冠を整えて宮坊に坐し、侯景の軍もこれを敬い、彼を逼ることはしなかった。まもなく出て京口に居した。時に寇賊が縦横し、百姓は波のように駭いたが、蕭允ひとり行かなかった。人がその故を問うと、蕭允は言った、「性命には自ら常分があり、どうして逃れて免れることができようか。今の百姓は、争って奮臂して大功を論じようとしている。一書生に何事があろうか。荘周のいわゆる影を畏れ跡を避けることは、私はしない」と。そこで門を閉じて静処し、二日に一度食し、ついに患いを免れた。
陳の永定年間、侯安都が南徐州刺史となった時、自らその廬を訪れ、長幼の敬いを表した。宣帝が即位すると、黄門侍郎となった。晋安王が南 豫 州に出ると、その長史とした。時に王はまだ年少で、人事に親しまなかったので、蕭允に府事を行わせた。入朝して光禄卿となった。
蕭允の性質は敦重で、栄利をもって懐を干したことはなかった。晋安王が湘州に出鎮する時、また蕭允を連れて行くのを苦にした。蕭允は若い時蔡景歴と親善で、その子の蔡征が父の党としての敬いを修め、蕭允が行くことを聞き、蕭允のもとに詣でて言った、「公は年徳ともに高く、国の元老である。従容として坐鎮し、旦夕に自ずから列曹となるべきであり、どうしてあえて辛苦して蕃外に出ようとするのか」と。答えて言った、「すでに晋安王に許した以上、どうして信を忘れられようか」と。その栄勢に恬淡たる様はこのようであった。
至徳年間、鄱陽王が会稽に出鎮すると、蕭允はまた長史となり、会稽郡丞を帯びた。行く途上、延陵季子の廟を経て、蘋藻の薦を設け、異代の交わりを託し、詩を作って意を叙し、辞理は清典であった。後主がかつて蔡征に蕭允の為人を問うと、蔡征は言った、「その清虚玄遠は、測りがたい。文章に至っては、言うことができる」と。そこで蕭允の詩を誦して答えた。後主は久しく嗟賞した。まもなく光禄大夫を拝した。
隋の師が江を渡ると、蕭允は関右に遷された。時に南方の士で長安に至った者は、例によってみな官を授けられたが、蕭允と尚書僕射の謝伷は老病を理由に辞した。隋の文帝はこれを義とし、ともに厚く帛を賜った。まもなく卒し、年八十四であった。
弟の蕭引は字を叔休といい、方正にして器度があり、性質は聡敏で、博学にしてよく文を属した。梁に仕えて西昌侯儀同府主簿に至った。
侯景の乱の時、梁の元帝が荊州刺史となると、朝士の多くは彼のもとに帰った。蕭引は言った、「諸王が力争い、禍患がまさに始まろうとしている。今日の難を逃れるのに、君主を選ぶ秋ではない。わが家は再世始興郡を為し、遺愛が人にあり、ただ南行して家門を存するのみである」と。そこで弟の蕭肜および宗親ら百余り人とともに南に奔って嶺表に至った。時に始興の人欧陽頠が衡州刺史であったので、往ってこれに依った。
欧陽頠が広州に遷って病没すると、その子の欧陽紇がその衆を領した。蕭引は欧陽紇に異図ありと疑い、事に因って規正したので、これによって情礼は次第に疎遠となった。欧陽紇が反した時、都下の士人岑之敬、公孫挺らはみな惶駭したが、ただ蕭引は怡然として、岑之敬らに言った、「管幼安、袁曜卿もただ安坐したのみである。君子は身を正して道を明らかにし、己を直くして義を行えば、また何を憂えようか」と。章昭達が番禺を平定すると、蕭引は初めて北還し、尚書金部侍郎を拝した。
蕭引は隷書をよくし、当時に重んぜられた。宣帝がかつて奏事を披き、蕭引の署名を指して言った、「この字の筆趣は翩翩として、鳥の飛ばんとするに似ている」と。蕭引は謝して言った、「これは陛下がその毛羽をお与えになったからです」と。帝はまた蕭引に言った、「私は毎々忿ることがあるが、卿を見ると意が解ける。どうしてか」と。蕭引は言った、「これは陛下が自ら怒りを遷さないからであり、臣がどうしてこの恩に預かりましょうか」と。
蕭引の性質は抗直で、権貴に事えず、宣帝が毎々遷用しようとすると、つねに用事者によって裁かれた。呂梁で軍が覆えし、軍需が空匱すると、蕭引を転じて庫部侍郎とし、営造を掌知させた。蕭引は在職一年で、器械は充足した。中書、黄門、吏部侍郎を歴任した。広州刺史の馬靖は嶺表の人心を大いに得て、甲兵は精練であり、毎年俚洞に深入りし、しばしば戦功があったので、朝野に異議がかなり生じた。宣帝は蕭引が嶺外の物情に詳しいので、蕭引を遣わして馬靖を観察させ、その挙措を審らかにし、諷して質を送らせようとした。到着すると、馬靖はただちに旨を悟り、子弟を質として遣わした。
後主が即位すると、中庶子、建康令となった。時に殿内隊主の呉璡および宦者の李善度、蔡脱児らが多く請属したが、蕭引は一切許さなかった。蕭引の族子の蕭密は、時に黄門郎であったが、蕭引を諫めて言った、「李、蔡の権勢は在位の者みな憚っている。少しは身のためを計るべきである」と。蕭引は言った、「私の立身には自ら本末がある。どうして李、蔡のために屈することができようか。たとえ不遇となっても、免職されるに過ぎない」と。呉璡はついに飛書を作り、李、蔡がこれを証したので、官を免ぜられ、家で卒した。子の蕭徳言が最も知名である。弟の蕭肜は、太子中庶子、南康王長史に至った。
蕭琛は字を彦瑜といい、蕭恵開の従子である。祖父は蕭僧珍、宋の廷尉卿。父は蕭恵訓、斉の末年に巴東相となった。梁の武帝が兵を起こすと、斉の和帝が荊州で即位し、恵訓は巴西太守魯休烈とともに郡を挙げて抵抗し、恵訓は子の蕭璝をして上明を占拠させた。建康城が平定されて初めて降伏した。武帝はこれを許し、太中大夫とし、官のまま卒した。
蕭琛は幼少より明敏で才弁があった。数歳の時、従伯の恵開がこれを見て奇異とし、その背を撫でて言うには、「必ずや我が宗族を興すであろう。」初官は斉の太学博士。時に王儉が朝廷にあり、蕭琛は年少で、まだ儉に知られていなかった。その才気を恃み、楽遊苑で王儉が宴を催すのを待ち、虎皮の靴を履き、桃の枝の杖を執り、直ちに王儉の座に赴いた。儉はこれと語り大いに喜んだ。儉は当時丹陽尹であり、主簿に辟召した。
永明九年、魏が初めて通好し、蕭琛は再び命を帯びて北使し、帰って通直散騎侍郎となった。時に魏が李彪を使者として遣わし、斉の武帝がこれに宴を賜った。蕭琛は御筵において酒を挙げて彪を勧めたが、彪は受けず、言うには、「公庭に私礼なし、勧めを受けるべからず。」蕭琛は答えて言うには、「詩に所謂『雨我公田、遂及我私』なり。」座する者皆喜んで服し、彪は蕭琛の酒を受けた。
累遷して尚書左丞となった。時に斉の明帝は法を用いること峻厳で、尚書郎が杖罰に坐する者は皆直ちに処罰を執行した。蕭琛は密かに啓上して言うには、「郎官の杖罰は後漢に起こり、その時郎官の位は卑しく、自ら文案を主管し、令史と異ならなかった。故に郎三十五人、令史二十人、これにより古人は多くこの職を恥じた。魏・晋以来、郎官は次第に重んぜられる。今は高貴の家柄を参用し、吏部はまた通貴に近く、官は昔の品より高くして、罰は昔の科に従うべきではない。これまで弾劾・推挙があっても、空文に在るのみで、推し遷延することを許してきた。或いは赦恩に逢い、或いは春令に入れば、便ち止息を得た。宋の元嘉・大明の間、罰を受けた者があれば、別に主君の心に犯忤した由によるもので、常の準則に関わるものではない。泰始・建元以来、施行されたことがなく、事は廃れて久しく、人情も未だ習わない。勅命を奉じて以来、既に倉部郎江重欣に杖督五十を行ったが、皆人として慚懼を懐かざるはない。兼ねて子弟が成長すれば、ますます儀礼に適うことが難い。その応に行う罰は、特に輸贖を賜い、令史と異ならしめ、優緩の恩沢を顕わすべきである。」帝はこれを容れた。これより応に罰を受くべき者は、旧に依り行わなかった。
東昏侯が初めて嗣立した時、廟見の礼文について議論がなかった。蕭琛は議して、周頌の烈文・閔予を拠り所とし、皆即位して廟に朝する典とするとした。ここにおいてこれに従った。
梁の武帝が西邸に在った時、蕭琛と旧交があった。梁の台府が建つと、御史中丞とした。天監九年、累遷して平西長史・江夏太守となった。
初め蕭琛が宣城太守であった時、北の僧が南に渡り、ただ一つの瓢箪を携え、その中に漢書序伝があった。僧は言う、「三輔の旧老が相伝えて、班固の真本と為す。」蕭琛は固くこれを求め得た。その書は多く今のものと異なり、紙墨もまた古く、文字は多く龍挙の例の如く、隷でも篆でもなかった。蕭琛はこれを甚だ秘蔵した。ここにおいてこの書を以て鄱陽王蕭範に贈り、東宮に献上した。
後に呉興太守となり、郡に項羽の廟があり、土地の人は「憤王」と称し、甚だ霊験があった。ここにおいて郡の聴事に床幕を設けて神座とし、公私の請祷があった。前後二千石の太守は皆聴事で拝祠し、軛下の牛を以て祭を充し、他室に避居した。蕭琛が至ると、履を履いて聴事に登り、室中に叱る声を聞いた。蕭琛は厳しい色をして言うには、「生きて漢の高祖と中原を争うことができず、死してこの聴事を占拠するとは、何ぞや。」ここにおいてこれを廟に遷した。また牛を殺して祀りを解くことを禁じ、脯を以て肉に代えた。蕭琛は頻りに大郡を治め、産業を事とせず、欠ければ取るも、これを嫌わなかった。左戸尚書・度支尚書を歴任し、侍中となった。
帝は毎朝宴に、旧恩を以て蕭琛を接した。嘗て武帝の偏諱を犯し、帝は顔色を改めた。蕭琛は従容として言うには、「二名は偏諱せず。陛下は順を諱むべからず。」上は言う、「各々家風有り。」蕭琛は言う、「礼を如何。」また御筵に預かり酔って伏したことがあり、上は棗を以て蕭琛に投げた。蕭琛は直ちに栗を取って上に擲ち、正しく顔面に中った。御史中丞が座に在った。帝は色を動かして言う、「此の中に人あり、かくの如くすべからず。豈に説有らんや。」蕭琛は即ち答えて言う、「陛下は臣に赤心を投げ給う。臣敢えて戦慄を以て報いざらんや。」上は笑って喜んだ。上は毎に蕭琛を宗老と呼び、蕭琛もまた昔の恩を奉陳し、「早く中陽に簉し、夙に同閈に忝くす。興運に迷うと雖も、猶洪慈を荷う。」と。上は答えて言う、「早く契闊すと云うと雖も、乃ち自ら同志に非ず。興運の初を談ずること勿れ、且つ狂奴の異を道え。」と。
蕭琛は常に言った、「少壮の時三つの好み有り:音律・書・酒。年長じて以来、二事は皆廃す。唯書籍のみ衰えず。」と。而して蕭琛の性は通脱で、常に自ら竈を解き、事畢わって余った食物は、必ず陶然として酔いに至った。位は特進・金紫光禄大夫。卒す。諸子に遺令して言う、「妻と同墳異蔵とし、祭りは蔬菜を以てす。葬は車十乗に止め、事は率素を存す。」と。乗輿臨んで哭すること甚だ哀しく、諡して平子といった。蕭琛の撰した漢書文府・斉梁拾遺、並びに諸文集、数十万言。
子の蕭遊、位は少府卿。蕭遊の子蕭密は字を士幾といい、幼くして聡敏、博学で文詞有り。位は黄門郎、太子中庶子、 散騎常侍 。
臧燾
臧燾は字を徳仁といい、東莞莒の人、宋の武敬皇后の兄である。少くして学を好み、三礼に善く、貧約に自立し、操行は郷里に称された。晋の太元中、衛将軍謝安が初めて国学を立て、徐・兗二州刺史謝玄が臧燾を挙げて助教とした。晋の孝武帝が庶祖母宣太后を追崇しようとし、議者は或いは中宗に配食すべしと言った。臧燾は議して言うには、「春秋の義、母は子を以て貴し。故に仲子・成風皆夫人と称す。経に仲子の宮を考うと言う。若し恵廟に配食すれば、則ち宮は別に築く縁無し。前漢の孝文太后・孝昭太后は共に子に系って号と為し、寝園に祭り、高祖・孝武の廟に配さず。後漢の和帝の母は恭懐皇后、安帝の祖母は敬隠皇后、順帝の母は恭湣皇后と曰い、子に系って号と為さずと雖も、亦陵寝に祭り、章帝・安帝の二帝に配さず。此れは二漢に太后皇后の異有りと雖も、至って並びに配食せず、義は春秋に同じ。唯光武が呂后を追廃した故に、薄后を以て高廟に配した。又衛后既に廃せられ、霍光が李夫人を追尊して皇后と為し、孝武廟に配した。此れは母は子を以て貴しの例に非ず、直に高・武の二廟に配する者無き故のみ。又漢世は陵に寝を立て、是れ自ら晋の制と異なる。謂うべし、遠く春秋の宮を考うるの義に準え、近く二漢の配せざるの典を慕うべし。尊号既に正しければ、則ち罔極の情申び、別に寝廟を建てれば、則ち厳禰の義顕わる。子に系って称と為し、兼ねて母貴の由る所を明らかにす。一挙にして三義に允う、固より哲王の高致なり。」議者はこれに従った。
間もなく官を去り、父母老いて家貧しきを以て、弟の臧熹と共に人事を棄て、躬耕自業し、己を約して親を養うこと十余年。父母喪亡し、居喪六年、毀瘠を以て著われた。
宋の武帝の義旗建つと、右将軍何無忌の軍事に参じ、府に随って転じて鎮南参軍。武帝が京口を鎮すと、帝の中軍軍事に参じ、入って尚書度支郎を補し、祠部を掌ることを改め、高陵亭侯を襲封した。
時に太廟の鴟尾に災あり、燾、著作郎徐廣に謂ひて曰く、「昔し孔子、斉に在りて魯の廟の災を聞き、曰く必ず桓・僖なりと。今征西・京兆四府君は毀落に在るべくして、猶ほ廟饗に列す、此れ其の征か」と。乃ち議を上りて曰く、
臣聞く、「国の大事は、祀と戎とに在り」と。将に宮室を営まんとすれば、宗廟を首とす。古の先哲の王、肅恭の誠心を致さず、祖考に崇厳を尽くさざるは莫く、然る後に能く淳化を四海に流し、幽感を神明に通ぜしむ。固より宜しく古典に於ける廃興を詳らかにし、情礼に循ひて中を求むべきなり。
礼に、天子七廟、三昭三穆と太祖とにして七なり。考廟より以て祖考五廟に至るまで、皆月祭す。遠廟を祧と為し、二祧有りて、享嘗にて乃ち止む。祧を去りて壇と為し、壇を去りて墠と為し、祷り有りて然る後に之を祭る。此れ宗廟の次第、親疏の序なり。鄭玄は祧を文王武王の廟と為すと以為ひ、王肅は五世六世の祖と為すと以為ふ。祧を去るとの言を尋ぬれば、則ち祧は文・武の廟に非ざるなり。文・武は周の祖宗なり、何ぞ祧を去りて壇と為すと云はんや。遠廟を祧と為すは、服なき祖なることを明らかにす。又た遠廟には則ち享嘗の降有り、祧を去れば則ち壇墠の殊有り、世遠き者は其の義弥く疏なることを明らかにす。若し祧は文・武の廟なりとせば、宜しく太祖に月祭を同じくすべし。後稷を推して以て天に配すと雖も、功徳の始むる所に由るなり。尊崇の義毎に差降有るに非ざるなり。又た礼に多きを以て貴しと為す者有り、故に伝に称して「徳厚き者は光を流し、徳薄き者は卑しきを流す」と。又た言ふ、上より以下に降殺して両を以てす、礼なりと。此れ則ち尊卑等級の典、上下殊異の文なり。而して天子諸侯倶に五廟を祭ると云ふは、何ぞや。又た王は嫡殤を祭り、下りて来孫に及ぶ。而るに上祀の礼は高祖を過ぎず。隆恩を下流に推し、誠敬を尊廟に替ふるも、亦た聖人の礼を制するの意に非ざるなり。是を以て泰始に廟を建つるに、王氏の議に従ひ、礼に父を士と為し、子を天子諸侯と為せば、天子諸侯を以て祭り、其の屍は士服を以て服す。故に上りて征西に及び、以て六世の数を備ふ。宣皇は太祖と為すと雖も、尚ほ子孫の位に在り、殷祭の日に至りても、未だ東向の礼を申さず、所謂子は斉聖と雖も、父の食に先んぜずと謂ふ者なり。今京兆以上既に遷り、太祖始めて正に居るを得たり。議者、昭穆未だ足らざるを以てし、太祖を卑坐に屈せんと欲す。臣以為ふ、礼典の旨に非ざるなりと。所謂太祖と而して七と為すは、是れ自ら昭穆既に足り、太廟は六世の外に在り、七廟に満つるを須ひて乃ち太祖に居るを得るに非ざるなり。
議者又た四府君の神主は、宜しく永く殷祫に同じくすべしと為す。臣又た以為ふ、然らずと。伝に所謂毀廟の主は、太祖に陳ぶとは、太祖以下の先君の主を謂ふなり。故に白虎通に云く、「禘祫は遷廟者を祭るは、其の君の体を継ぎ、其の統を持ちて絶えざらしむるを以てなり」と。豈に四府君の太祖の前に在るが如からんや、統を継ぐの主に非ず、霊命の瑞無く、王業の基に非ず。昔は世近きを以てして及べども、今は則ち情礼已に遠く、而して当に長く殷祫を饗し、永く太祖の位を虚しくせんとは、礼籍に求めても、未だ其の可なるを見ず。昔し永和の初め、大いに此の礼を議す。時に虞喜・范宣並びに洪儒碩学を以てし、咸に四府君の神主は縁無くして永く百世に存すべからずと謂ふ。或ひは之を両階に瘞めんと欲し、或ひは之を石室に蔵めんと欲し、或ひは之が為に改築せんと欲す。執る所小異と雖も、大帰は是れ同じなり。若し宣皇既に群廟の上に居りて、而して四主の禘祫已まずば、則ち大 晉 の殷祭は長く太祖の位無からん。夫れ理は中を貴ぶ、必ずしも厚きを過ぐすに及ばず。礼は世と共に遷る、豈に順ひて断ぜざらんや。故に臣子の情は篤しと雖も、而して霊・厲の諡は弥く彰れ、追遠の懐は切なりと雖も、而して遷毀の礼は用ひらる。豈に厚く加ふるに心無からんや、顧みるに礼制は踰ゆべからざるのみ。石室は則ち廟北に蔵め、改築は則ち処する所を知らず。虞主は神に依る所以なり、神移れば則ち瘞埋の礼有り。四主若し饗祀廃すべければ、亦た神の依らざる所なり。傍の事例に准へば、宜しく虞主の瘞埋に同じくすべし。然れども經典は詳らかにし難く、群言錯繆す。臣が浅識の能く折中するに非ざるなり。時に学者多く燾の議に従ふも、竟に施行せず。
宋の武帝、命を受く。太常に拝す。外戚貴顕と雖も、而して弥く自ら沖約たり。茅屋蔬飧、其の旧を改めず。得る所の奉祿は、親戚と之を共にす。永初三年に致事し、光禄大夫に拝し、金章紫綬を加ふ。卒す。少帝、左光禄大夫を贈る。
長子邃、宜都太守。邃の子凝之、学に渉り当世の才有り、 司空 徐湛之と異常の交りを為す。年少の時、傅僧佑と倶に通家の子を以てし、始めて文帝に引見せらる。時に上は何尚之と鑄錢の事を論ず。凝之便ち其の語次に干す。上因りて回りて語らふ。僧佑、凝之の衣を引きて止めしむ。凝之大言して曰く、「明主は再遇し難し、便応に政めて懐ふ所を尽くすべし」と。上と往復十余反す。凝之の辞韻詮序す。上甚だ之を賞す。後に尚書左丞と為り、徐湛之の党を以て、元凶に殺さる。凝之の子寅、字は士若、事は沈攸之伝に在り。寅の弟棱、後軍参軍。棱の子嚴。
嚴、字は彥威、幼より孝性有り、父の憂に居りて毀れて聞こゆ。孤貧にして勤学し、行止書巻手を離れず。從叔未甄、江夏郡と為り、嚴を携へて官に之く。途に於て屯遊賦を作り、又た七算を作る。辞並びに典麗なり。
性孤介にして、未だ嘗て造請せず。梁の僕射徐勉、之を識らんと欲すも、嚴終に詣らず。累遷して湘東王宣惠軽車府参軍兼記室と為る。嚴は学に於て諳記する所多く、尤も漢書に精しく、諷誦略皆上口す。王嘗て自ら四部書目を執りて之を試みる。嚴は甲より丁の巻に至るまで各々一事に対し、並びに作者の姓名を挙ぐ。遂に遺失無し。王、荊州に遷る。府に随ひて転じて西中郎安西録事参軍と為り、義陽・武寧郡守を歴る。郡界は蛮左なり。前の郡守は常に武人を選びて兵を以て之を鎮む。嚴独り数門生を以て単車にて境に入る。群蛮悦服す。後に鎮南諮議参軍に卒す。文集十巻。
嚴の族叔未甄は、燾の曾孫なり。父は潭之、左戸尚書。未甄は才幹有り、少くして外兄汝南周顒に知らる。梁に仕えて太尉長史と為る。生母の憂に丁し、三年墓側に廬す。廷尉卿、江夏太守を歴り、卒す。子は盾。
盾、字は宣卿、幼より征士琅邪諸葛璩に従ひて五経を受く。璩の学徒常に数十百人有り。盾其の間に処りて、狎比する所無し。璩曰く、「此生は王佐の才なり」と。尚書中兵郎と為る。風姿美くしく、容止善し。毎に趨奏するに、梁の武帝甚だ之を悦ぶ。入りて中書通事舍人を兼ぬ。
盾に孝性有り。嘗て父に随ひて廷尉府に宿直す。母劉氏、宅に在りて夜暴かに亡ぶ。盾の左手中指忽ち痛みて寝るを得ず。及び旦、宅の信果たして凶問を報ず。其の感通此の如し。服未だ終はらざるに、父卒す。喪に居ること五年、廬戸を出でず。形骸枯悴し、家人識らず。武帝累たび敕して抑譬す。後に累遷して御史中丞と為る。性公強にして、甚だ職に称す。中大通五年、帝、同泰寺に幸して開講し、四部大会を設け、衆数万人。南越の献ずる所の馴象、忽ち衆中に於て狂逸す。衆皆駭散す。唯だ盾と散騎侍郎裴之礼と嶷然として自若たり。帝甚だ之を嘉す。
大同二年(536年)、中領軍となった。領軍は天下の兵権を管轄し、監局の事務は多く、臧盾は人となり敏捷で才知に富み、風力(果断な気風)があり、煩雑な事務を処理するのに長け、職務をよく治めた。先に呉平侯蕭景がこの職にあり名声を挙げていたが、この時臧盾が再びこれを継いだ。後に領軍將軍の任で没し、諡して忠といった。
臧盾の弟臧厥は字を献卿といい、やはり幹局(才幹と器量)を称された。晋安太守となった。郡は山海に位置し、常に逃亡者を結集させ、前の二千石(太守)が討伐捕縛しても止められなかった。臧厥が着任して教化を宣布すると、凶党は皆子を背負って出頭し、これより住民は生業に戻った。しかし政は厳しく、百姓は彼を臧彪と呼んだ。前後二度中書通事舎人を兼ね、兼司農卿の任で没した。
臧厥は前後して職にあり、管掌する局の大事や蘭台・廷尉で決断できない事柄は、勅命により全て臧厥に付された。弁断は精緻明察で、皆その理を得た。没後、登聞鼓を叩いて訴え、清直舎人に付すことを求める者があった。帝は言った、「臧厥が既に亡くなった以上、この事はもはや付すべき者がいない」。そのように見知られていたのである。子の臧操は尚書三公郎となった。
臧熹は字を義和といい、臧燾の弟である。臧燾と共に経学を好んだ。隆安元年(397年)に兵乱が起こると、臧熹は騎射を習い、功名を立てる志を持った。かつて溧陽令の阮崇と狩りをした時、猛獣が突進して包囲し、狩りの仲間は皆散り散りになったが、臧熹がこれを射ると、弦に応じて倒れた。
宋の武帝(劉裕)に従って京城に入り、建鄴に進んだ。桓玄が逃走すると、武帝は直ちに臧熹を宮中に入れて図書器物を収め、府庫を封じさせた。金飾りの楽器があり、武帝は臧熹に尋ねた、「卿はこれを欲しいか」。臧熹は厳しい顔色で言った、「主上は幽閉逼迫され、流浪の身でおられる。将軍がまず大義を立て、王室のために労苦されている。たとえ不肖の身であっても、実に音楽に心を寄せる余裕はありません」。帝は笑って言った、「ただ戯れに言っただけだ」。建義の功により始興県五等侯に封ぜられ、武帝の車騎将軍・中軍将軍の軍事に参じた。
武帝が広固を征討しようとした時、議論する者は多く反対したが、臧熹はその出撃を支持した。
武帝は朱齢石に大軍を統率させて蜀を伐たせ、臧熹に奇兵を率いて中水から出撃するよう命じ、建平・巴東二郡太守を兼ねさせた。蜀主の譙縦は大将の譙撫之を牛脾に駐屯させ、また譙小苟に重兵を率いて打鼻を塞がせた。臧熹が牛脾に至ると、撫之は敗走し、追撃してこれを斬った。成都が平定された。臧熹は病に罹り蜀で没し、光禄勲を追贈された。
子の臧質は字を含文といい、若い頃から鷹や犬を好み、樗蒲や意銭(賭博の一種)の遊戯を得意とした。身長六尺七寸、顔は大きく口が突出し、頭頂は禿げて髪は縮れていた。初め世子中軍参軍となり、かつて護軍趙倫之を訪ねた。趙倫之は名声地位が既に重かったが、応対しなかった。臧質は憤然として立ち上がり言った、「大丈夫それぞれ老女(母)を門戸の頼りとしているのに、どうしてこれほどまでに互いに軽んじ合うことがあろうか」。趙倫之は恥じて謝罪したが、臧質は袖を払って去った。
後に江夏王劉義恭の撫軍参軍となったが、軽薄で行いを慎まなかったため、文帝(劉義隆)に嫌われ、給事中に転じた。会稽長公主が度々彼のために取りなしたので、出向して建平太守となり、蛮族や楚の民の心を大いに得た。竟陵内史、巴東・建平二郡太守を歴任し、官吏民衆に便利とされた。臧質は年齢が三十を出たばかりで、たびたび名郡の長官を務め、文史に広く通じ、書簡文書に敏速で、気骨と才幹があり、兵事を好んで論じた。文帝は大任に堪えうると考え、徐・兗二州刺史とし、 都督 を加えた。任地で奢侈浪費し、爵位任命に規律がなく、有司に糾弾された。赦令に遇った。范曄・徐湛之らと親しく交わった。范曄が謀反を企てた時、臧質も必ずこれに与すると推量された。事件が発覚すると、また義興太守となった。
元嘉二十七年(450年)、南譙王劉義宣の 司空 司馬・南平内史に転じた。着任しないうちに、北魏の太武帝(拓跋燾)が汝南を包囲し、戍主の陳憲が固守して危急を告げたため、文帝は臧質に軽装で寿陽に向かい、安蛮司馬劉康祖らと共に陳憲を救援させた。後に太武帝が数十万の大軍を率いて彭城に向かうと、臧質を輔国将軍として北進救援させた。臧質が盱眙に到着した時、太武帝は既に淮水を渡っていた。二十八年正月、太武帝は広陵から北帰し、全力で盱眙を攻撃し、臧質に酒を求めた。臧質は小便を封じてこれに与えた。太武帝は大いに怒り、長い包囲陣を築き、一夜で完成させた。臧質は太武帝に返書して云った、「お前は童謡を聞かないのか。虜馬江水を飲み、仏狸卯年に死す。冥々たる期運がそうさせるのであって、もはや人の力ではない。寡人は命を受けて汝を滅ぼさんとし、期するは白登(の戦いのよう)である。軍が未だ遠くに行かぬうちに、お前は自ら死を送りに来た。どうして再びお前に桑幹河を享有させることができようか。たとえ寡人がお前を殺せなくとも、お前は我によって死ぬのだ。お前に幸いあれば、乱兵に殺されるであろう。お前に不幸あれば、生きて鎖で縛られ、一頭の驢馬に載せられ、都の市に引き据えられるであろう。お前の識見知恵と兵力は、どうして苻堅に勝てようか。近年お前が跳梁したのは、お前が未だ江水を飲まず、太歳が卯年でなかったからに過ぎない」。当時、魏の地の童謡に云った、「軺車北より来たり雉を穿つが如し、意えず虜馬江水を飲む。虜主北に帰り石済に死し、虜江を渡らんと欲すれば天徙わず」。故に返書でこれを引用したのである。太武帝は大いに怒り、鉄の床を作り、その上に鉄の鑱(鋭い先端)を施し、云った、「城を破って臧質を得たら、必ずこの上に座らせよう」。臧質はまた魏軍に書を送り、朝廷の懸賞格(台格)を書き写し、太武帝を斬った者に万戸侯を封じ、布絹各一万匹を賜うと伝えた。
魏軍は鉤車で城壁の楼閣を引っ掛けた。城内では数百人が綱を結びつけて叫びながら引き、車を退かせなかった。臧質は夜に木桶に人を入れて城外に吊り下げ、その鉤を切断して奪った。翌日また衝車で城を攻撃したが、土塁は堅固で密であり、衝車が当たる度に崩れ落ちる土は数斗に過ぎなかった。魏軍は肉薄して城に登り、墜落してもまた登り、退く者はなかった。殺傷は万を数え、死者は城と高さを同じくした。このように三十日が過ぎ、死者は半数を超えたため、太武帝は包囲を解いて帰還した。上(孝武帝)は臧質の功を賞し、甯蛮 校尉 ・雍州刺史・監四州諸軍事とした。翌年、文帝はまた北征し、臧質に現有兵力を率いて潼関に向かわせた。臧質は兵を留めて時を移さず出発せず、また寵妾を顧み恋慕し、軍営を棄てて単騎で城に戻り、朝廷の庫の現銭六、七百万を散財したため、有司に糾弾されたが、上は問わなかった。
元凶(劉劭)が 弑 逆して即位すると、臧質を丹陽尹とした。臧質の家から門生の師顗が臧質に報告し、文帝の崩御の報を詳しく伝えた。臧質は使者を遣わして 司空 劉義宣及び孝武帝(劉駿)に告げさせ、自らは五千の兵を率いて急ぎ下り、逆賊を討とうとし、陽口から進んで江陵で劉義宣に会った。当時臧質の諸子は都にいたが、臧質が義兵を挙げたと聞き、皆逃亡した。劉義宣は初めて臧質の報せを得ると、即日に挙兵し、急使を立てて孝武帝に報せ、板授により臧質の号を征北将軍に進めた。孝武帝が即位すると、臧質に車騎将軍・開府儀同三司・ 都督 江州諸軍事を加えた。臧質を白下から歩いて上らせ、薛安都・程天祚らもまた南掖門から入り、臧質と共に太極殿の庭で合流し、元凶を生け捕りにした。引き続き臧質に朝堂を留守させ、始興郡公に封じた。任地に赴く時、船は千余艘、隊列は前後百余里に及び、六艘の平乗(楼船)に全て龍子幡を掲げた。
当時、孝武帝は自ら威権を掌握していたが、臧質は年少の君主として遇し、刑罰政事や慶事賞与について、再び朝廷に諮詢せず、自らその人材が一世の英傑に足ると称した。初めて国の禍(文帝 弑 逆)を聞いた時から、既に異なる図り(野心)があり、劉義宣が凡庸で暗愚で制御しやすいと考え、外見上推戴奉じてその志を成そうとした。江陵に至ると、すぐに拝礼して名を称した。臧質は劉義宣とは兄弟ではあったが、年齢はほぼ十歳上であった。劉義宣は驚いて言った、「君はどうして弟に拝礼するのか」。臧質は言った、「事態の中では当然のことです」。当時劉義宣は既に孝武帝を推戴していたので、その計略は実現しなかった。臧質は常に事が漏れることを憂慮し、新亭に至ると、また江夏王劉義恭に拝礼した。劉義恭は愕然として、臧質にその理由を尋ねた。臧質は言った、「天下は艱難危険にあり、礼儀は平常の日とは異なります。以前荊州におりました時も、 司空 (劉義宣)に拝礼しました」。
時に義宣は孝武帝に対して遺恨を抱いており、臧質はこれに乗じて密かに書信を送り説き誘い、朝廷の得失を述べた。また、君主を震駭させる威勢は長く持続し得ないと説いた。臧質の娘は義宣の子劉悰の妻であったので、臧質に異心はないと考え、その説を受け入れた。また、義宣の腹心の将佐である蔡超・竺超人等も皆富貴を願う気持ちがあり、義宣を勧めた。義宣は当時まだ丞相に任じられておらず、臧質の子臧敦は黄門侍郎として、詔を奉じて義宣を勧め慰めるため、道中尋陽を経由したので、臧質は臧敦に命じてさらに詳しく譬えを以て義宣を説かせた。義宣の決意はそこで固まり、 豫 州刺史魯爽に急報を送り、孝建元年の秋に同時に挙兵することを約した。
魯爽は意図を誤解し、直ちに兵を起こし、都に人を遣わして弟の魯瑜に報せ、一族を率いて奔走して叛いた。魯瑜の弟魯弘は臧質の府の佐官であったので、孝武帝は急使を馳せて臧質に魯弘を誅殺するよう報せた。そこで臧質は台使を捕らえ、慌てふためいて挙兵し、義宣に急報を送った。孝武帝は撫軍將軍柳元景を遣わし、 豫 州刺史王玄謨らを統率させて梁山洲に駐屯させ、両岸に偃月形の堡塁を築き、水陸で待ち構えさせた。柳元景が檄文を発布して宣告すると、義宣の軍も相次いで到着した。江夏王劉義恭の書状に「昔、桓玄が仲堪から兵を借りたことが、今日のことに似ている」とあった。義宣はこれによって臧質を疑うようになった。臧質は進んで計略を述べた。「今、一万の兵で南州を取れば、梁山の連絡は断たれ、一万の兵で王玄謨を引きつければ、彼は必ず軽々しく動かないでしょう。臧質が外江に舟を浮かべて、直ちに石頭城に向かうのが、上策です」。
義宣がこれに従おうとしたところ、義宣の食客である顔楽之が義宣に説いた。「臧質がもし再び東城を攻略すれば、大功はすべて彼のものになってしまいます。ご自身の麾下を遣わして行かせるべきです」。義宣は腹心の劉諶之を臧質のもとに遣わし、軍を城南に布陣させた。王玄謨は老弱兵を留めて城を守らせ、精兵をすべて率いて出戦した。薛安都の騎兵隊が前に出て、垣護之が諸将を督してこれに続き、臧質軍は大敗した。臧質は義宣に会って事を計らおうとしたが、密かに義宣は既に逃走していた。臧質はどうしてよいか分からず、やはり逃走して尋陽に至り、府舎を焼き、妓妾を車に載せて南湖に入り、蓮を摘んで食った。追兵が来ると、荷葉で頭を覆い、水中に沈み、鼻を出した。軍主の鄭俱兒がこれを見て、その心臓を射ると、兵刃が乱れ到り、腹や胃は水草に絡みついた。隊主の裘応が臧質を斬り、その首を建鄴に伝送した。録尚書事の江夏王劉義恭らが上奏し、漢の王莽の故事に倣い、その頭を漆で塗り固めて武庫に蔵めることを請うた。詔はこれを許可した。
論
論じて曰く、趙倫之と蕭思話はともに外戚の縁故により、共に風雲の機会に接した。親密さを言えば趙氏の方が密であり、声望を論じれば蕭氏の方が重かった。古人が「人は能く道を弘む」と言ったのは、まさにこのことを言うのであろうか。蕭惠開は親族への礼節は篤かったが、弟との不和は特に著しく、方寸の内に、孝と友との情が異なっていた。山川よりも険しいとは、ここにその証がある。臧氏は文義の美を累代に伝えたが、臧質(含文)は誅滅を招いた。乱を好んだことによるものであろうか。