南史

巻十八から巻十九

巻十八から巻十九

南史

巻十八から巻十九

趙倫之・蕭思話・臧燾

原文趙倫之蕭思話臧燾

趙倫之

原文趙倫之

趙倫之は、字あざなを幼成といい、下邳の僮県の人で、宋の孝穆皇后の弟である。幼くして孤貧となり、母に仕えて孝行をもって称された。宋の武帝が兵を起こすと、軍功により閬中県の五等侯に封ぜられ、累進して雍州刺史となった。

原文赵伦之,字幼成,下邳僮人,宋孝穆皇后之弟也。幼孤贫,事母以孝称。宋武帝起兵,以军功封阆中县五等侯,累迁雍州刺史。

武帝が北伐すると、倫之は順陽太守の傅弘之と扶風太守の沈田子を遣わして嶢柳から出撃させ、藍田において姚泓を大破した。武帝が天命を受けると、佐命の功により、霄城県侯に封ぜられた。少帝が即位すると、召されて護軍に任ぜられた。元嘉三年、領軍将軍を拝命した。

原文武帝北伐,倫之遣順陽太守傅弘之、扶風太守沈田子出嶢柳,大破姚泓于藍田。及武帝受命,以佐命功,封霄城縣侯。少帝即位,徵拜護軍。元嘉三年,拜領軍將軍。

倫之は外戚として貴寵を受けながらも、身を処することは質素で、性質は野鄙で口下手であり、世間の事柄については多く理解していなかった。長く地方長官の任にあり、公私ともに富貴であった。中央に入って護軍となると、資力がその地位にふさわしくないと思い、左遷されたと感じた。光禄大夫の范泰は冗談を好み、笑って言った。「司徒公の欠員があれば、必ずお前を使うだろう。私はお前の資質や経歴がその任に適うとは言わないが、要は外戚としての高い官位の順序でその地位に至るだけだ。」倫之は大いに喜び、しばしば酒肴を車に載せて范泰を訪ねた。五年、卒去し、諡は元侯といった。子の伯符が後を嗣いだ。

原文倫之雖外戚貴寵,而居身儉素,性野拙澀,於人間世事多所不解。久居方伯,公私富貴。入為護軍,資力不稱,以為見貶。光祿大夫范泰好戲,笑謂曰:「司徒公缺,必用汝老奴。我不言汝資地所任,要是外戚高秩次第所至耳。」倫之大喜,每載酒肴詣泰。五年,卒,諡元侯。子伯符嗣。

伯符は字を潤遠といい、若い頃から弓馬を好み、寧遠将軍となり、義徒を総領して宮城の北に駐屯した。火災が起こったり強盗があったりするたびに、自ら甲冑を身につけ、郡県の討伐を助け、武帝はこれを大いに称賛した。

原文伯符字潤遠,少好弓馬,為甯遠將軍,總領義徒,以居宮城北。每火起及有劫盜,輒身貫甲胄,助郡縣赴討,武帝甚嘉之。

文帝が即位すると、累進して徐・兗二州刺史となった。政治は苛酷で暴虐であり、官吏や民衆は虎狼と同居するかのように畏れおののいたが、強盗は遠く逃げ去り、敢えて境内に入る者はなかった。元嘉十八年、召されて領軍将軍となった。これ以前は、外監は領軍に隷属せず、統率すべき事柄については別に詔勅があったが、この時から初めて統領するようになった。後に丹陽尹となり、郡において厳格で残酷であったため、曹局(役所)はもはや命令に堪えられず、ある者は職務を放棄して逃亡し誅殺され、ある者は水に身を投げて死んだ。典筆吏が筆を取るのに命令に背いたため、ただちに五十回の鞭打ちを加えた。子の倩は文帝の第四皇女である海塩公主を娶り、非常に寵愛され重んじられた。倩がかつて冗談のつもりで言い、手を上げて公主を打ったことがあり、事が上聞に達すると、文帝は怒り、離縁させた。伯符は恥じ恐れ、発病して卒去し、諡は粛といった。封国は孫の勖に伝わったが、斉が禅譲を受けると、封国は除かれた。

原文文帝即位,累遷徐、兗二州刺史。為政苛暴,吏人畏懼如與虎狼居,而劫盜遠迸,無敢入境。元嘉十八年,徵為領軍將軍。先是,外監不隸領軍,宜相統攝者,自有別詔,至此始統領焉。後為丹陽尹,在郡嚴酷,曹局不復堪命,或委叛被戮,透水而死。典筆吏取筆失旨,頓與五十鞭。子倩尚文帝第四女海鹽公主,甚愛重。倩嘗因言戲,以手擊主,事上聞,文帝怒,離婚。伯符慚懼,發病卒,諡曰肅。傳國至孫勖,齊受禪,國除。

蕭思話

原文蕭思話

蕭思話は、南蘭陵の人で、宋の孝懿皇后の弟の子である。父の源之は字を君流といい、徐・兗二州刺史を歴任した。永初元年に卒去し、前将軍を追贈された。

原文蕭思話,南蘭陵人,宋孝懿皇后弟子也。父源之字君流,曆徐、兗二州刺史。永初元年卒,贈前將軍。

思話は十歳余りの時、まだ書物を知らず、屋根の棟に乗ることを好み、細腰鼓を打ち、近隣を侵害し暴れたので、これを患い憎まない者はなかった。ここから節を改め、数年の中に良い評判を得るに至った。隷書にかなり巧みで、琴を弾じ、騎射をよくした。後に爵を襲い封陽県侯に封ぜられた。

原文思話十許歲時,未知書,好騎屋棟,打細腰鼓,侵暴鄰曲,莫不患毒之。自此折節,數年中遂有令譽。頗工隸書,善彈琴,能騎射。後襲爵封陽縣侯。

元嘉年間、青州刺史となった。亡命の司馬朗之兄弟が徒党を集めて乱を謀ると、思話は北海太守の蕭汪之を遣わして討伐し斬らせた。

原文元嘉中,為青州刺史。亡命司馬朗之兄弟聚党謀為亂,思話遣北海太守蕭汪之討斬之。

八年、魏軍が大挙して到来すると、鎮を棄てて平昌に奔った。魏軍は結局到来せず、このことで罪に問われ尚方に拘禁された。かつて青州にいた時、常に用いていた銅の斗が薬櫃の下に伏せてあったが、ふと斗の下で二羽の死んだ雀を得た。思話は嘆いて言った。「斗が覆り二羽の雀が死ぬとは、不祥ではないか?」やがて拘禁された。梁州刺史の甄法護が任地で不和を生じ、氐の首長楊難当がこれに乗じて漢中を侵犯すると、徒役の中から思話を起用して梁・南秦二州刺史とし、漢中を平定し、侵された土地をことごとく奪回し、葭萌水に戍を置いた。思話は鎮を南鄭に移した。

原文八年,魏軍大至,乃棄鎮奔平昌。魏軍定不至,由是征系尚方。初在青州,常所用銅鬥覆在藥廚下,忽於鬥下得二死雀。思話歎曰:「鬥覆而雙雀殞,其不祥乎?」既而被系。及梁州刺史甄法護在任失和,氐帥楊難當因此寇漢中,乃自徒中起思話為梁、南秦二州刺史,平漢中,悉收侵地,置戍葭萌水。思話遷鎮南鄭。

法護は、中山の無極県の人である。長江を渡り、南郡に寓居した。弟の法崇は少府から益州刺史となった。法護は鎮を放棄した罪により、官府に収監され、獄中で賜死された。文帝は法崇が一方の任を受けていることから、法護が病死したと発表するよう命じた。文帝は思話に漢中平定の経緯を上奏させ、これを史官に下した。

原文法護,中山無極人也。過江,寓居南郡。弟法崇自少府為益州刺史。法護委鎮之罪,為府所收,於獄賜死。文帝以法崇受任一方,命言法護病卒。文帝使思話上定漢中本末,下之史官。

十四年、臨川王劉義慶の平西長史・南蠻校尉に遷る。文帝は弓と琴を賜い、手詔して曰く、「前にこの琴を得たり、旧物なりと言う。今以て相借し、併せて往く桑弓一張、材質の理は乃ち快なり。良材美器は、宜しく尽く用いるの地に在るべし、丈人は真に与えて譲る所無し」と。嘗て文帝に従い鍾山の北嶺に登る。中道に磐石と清泉有り、上は石上に於いて琴を弾かしめ、因って銀鍾の酒を賜い、謂いて曰く、「相賞するに松石の間の意有り」と。甯蠻校尉、雍州刺史を歴任し、四州の軍事を監す。吏部尚書に徴される。思話は州を去れば再び事力無からんことを以て、府の軍身九人を請う。文帝戯れて之に曰く、「丈人は終に閭里に田父たらざるべし、何ぞ人を使う無きを憂えんや」と。未だ拝せずして、護軍将軍に遷る。

原文十四年,遷臨川王義慶平西長史、南蠻校尉。文帝賜以弓琴,手敕曰:「前得此琴,言是舊物,今以相借,並往桑弓一張,材理乃快。良材美器,宜在盡用之地,丈人真無所與讓也。」嘗從文帝登鍾山北嶺,中道有磐石清泉,上使于石上彈琴,因賜以銀鍾酒,謂曰:「相賞有松石間意。」曆甯蠻校尉,雍州刺史,監四州軍事,徵為吏部尚書。思話以去州無復事力,倩府軍身九人。文帝戲之曰:「丈人終不為田父于閭里,何憂無人使邪?」未拜,遷護軍將軍。

是の時、魏が懸瓠を攻む。文帝将に大いに挙げて北侵せんとす。朝士僉に同じくし、思話固く諫むも従わず。魏軍退き、即ち孝武帝に代わり徐・兗二州刺史となり、四州の軍事を監す。後に碻磝城を囲むも抜けず、師を退き歴下に至り、江夏王劉義恭に奏せられて官を免ぜらる。

原文是時,魏攻懸瓠,文帝將大舉北侵,朝士僉同,思話固諫不從。魏軍退,即代孝武為徐、兗二州刺史,監四州軍事。後為圍碻磝城不拔,退師曆下,為江夏王義恭所奏免官。

元凶(劉劭)弑逆して立つ。徐・兗二州刺史と為す。即ち起義して孝武帝に応ず。孝武帝即位し、尚書左僕射に徴す。固く辞し、改めて中書令・丹陽尹・散騎常侍と為す。時に都下劫掠多く、二旬の中十七発有り。咎を引き陳べて遜るも、許さず。後に郢州えいしゅう刺史を拝し、都督を加えらる。卒す。征西将軍・開府儀同三司を贈られ、諡して穆侯と曰う。思話は外戚の令望にして、早くより任待を見、十二州を歴任し、節を杖し監督する者は九たびなり。

原文元凶弑立,以為徐、兗二州刺史,即起義以應孝武。孝武即位,徵為尚書左僕射,固辭,改為中書令、丹陽尹、散騎常侍。時都下多劫掠,二旬中十七發,引咎陳遜,不許。後拜郢州刺史,加都督。卒,贈征西將軍、開府儀同三司,諡曰穆侯。思話外戚令望,早見任待,曆十二州,杖節監督者九焉。

至る所、皎皎たる清節無きも、亦た穢黷の累無し。才を愛し士を好み、人多く之に帰す。

原文所至雖無皎皎清節,亦無穢黷之累。愛才好士,人多歸之。

長子惠開は少より風気有り、文史に渉猟す。家は貴戚と雖も、居服は簡素なり。初め秘書郎と為り、意趣は人と多く同じからず、比肩するも或いは三年語を共にせず。外祖父光禄大夫沛郡の劉成、之を戒めて曰く、「汝は恩戚家の子なり、多く異を以て天下の疾を取ること無かれ」と。太子舎人に転じ、汝南の周朗と同官して友善し、偏奇を以て相尚ぶ。

原文長子惠開少有風氣,涉獵文史,家雖貴戚而居服簡素。初為秘書郎,意趣與人多不同,比肩或三年不共語。外祖光祿大夫沛郡劉成戒之曰:「汝恩戚家子,無多異以取天下之疾。」轉太子舍人,與汝南周朗同官友善,以偏奇相尚。

孝建元年、黄門侍郎と為り、侍中何偃と推積射将軍徐沖之の事を争う。偃は任遇甚だ隆く、怒りて門下に使いて惠開を推弾せしむ。乃ち上表して職を解く。此れ由りて旨に忤う。別勅有司に以て属疾多きを以て、之を免ず。思話は素より恭謹にして、惠開と同じからず、毎に嫌責を加う。及び惠開の自ら解く表を見て、歎じて曰く、「児不幸にして周朗と周旋す、理応に此の如くなるべし」と。之を杖つこと二百。尋いで中庶子を除く。父艱に丁り、喪に居るに孝性有り。家は素より仏を事とし、凡そ父の為に四寺を起す。南岡下は名づけて禅岡寺と曰い、曲阿の旧郷宅は名づけて禅郷寺と曰い、京口の墓亭は名づけて禅亭寺と曰い、封ぜらるる所の封陽県は名づけて禅封寺と曰う。国僚に謂いて曰く、「封秩鮮少にして兄弟甚だ多し。若し全く一人に関せば、則ち我が譲る所に在り。若し人人等分せば、又た事悲恥す可し。寺衆既に立ち、自ら宜しく悉く僧衆に供すべし」と。封陽県侯を襲封し、新安王劉子鸞の冠軍長史と為る。

原文孝建元年,為黃門侍郎,與侍中何偃爭推積射將軍徐沖之事,偃任遇甚隆,怒使門下推彈惠開,乃上表解職,由此忤旨。別敕有司以屬疾多,免之。思話素恭謹,與惠開不同,每加嫌責;及見惠開自解表,歎曰:「兒不幸與周朗周旋,理應如此。」杖之二百。尋除中庶子,丁父艱,居喪有孝性。家素事佛,凡為父起四寺:南岡下名曰禪岡寺,曲阿舊鄉宅名曰禪鄉寺,京口墓亭名曰禪亭寺,所封封陽縣名曰禪封寺。謂國僚曰:「封秩鮮而兄弟甚多,若全關一人,則在我所讓,若人人等分,又事可悲恥。寺眾既立,自宜悉供僧眾。」襲封封陽縣侯,為新安王子鸞冠軍長史。

惠開の妹まさに桂陽王劉休範に適せんとし、女又たまさに孝武帝の子に適せんとす。発遣の資、応に須いること二千萬。乃ち豫章内史と為し、其の肆意に聚納するを聴く。此れ由りて郡に在りて貪暴の声著し。再び御史中丞に遷る。孝武帝、劉秀之に詔して曰く、「今蕭惠開を以て憲司と為す、冀くは当に職に称わんことを。但だ一往眼額するに、已に自ら殊に震うる所有り」と。職に在りては、百僚之を憚る。

原文惠開妹當適桂陽王休範,女又當適孝武子,發遣之資,應須二千萬。乃以為豫章內史,聽其肆意聚納,由是在郡著貪暴之聲。再遷御史中丞。孝武與劉秀之詔曰:「今以蕭惠開為憲司,冀當稱職。但一往眼額,已自殊有所震。」及在職,百僚憚之。

後に益州刺史を拝し、路江陵を経る。時に吉翰の子荊州に在り、惠開と旧有り、女楽を設く。楽人に美なる者あり、惠開就きて求むるも得ず、又た四女妓を以て之に易えんと欲するも、許さず。惠開怒り、吉を収めて斬り、即ち其の妓を納る。啓して云く、「吉は劉義宣に遇せられ、不逞の徒と交結し、臣に向かって朝政を訕毀す。輒ち已に之を戮す」と。孝武帝快と称す。

原文後拜益州刺史,路經江陵。時吉翰子在荊州,共惠開有舊,為設女樂。樂人有美者,惠開就求不得,又欲以四女妓易之,不許。惠開怒,收吉斬之,即納其妓。啟云:「吉為劉義宣所遇,交結不逞,向臣訕毀朝政,輒已戮之。」孝武稱快。

惠開は素より大志有り、蜀に至りて広く経略を樹えんと欲す。叙述に善くし、其の言を聞く者皆大功立つ可しと為す。才疎く意広く、竟に成功無し。威刑を厳に用い、蜀人は号して「臥虎」と曰う。明識人に過ぎ、嘗て三千の沙門を供し、一たび其の名を閲し、退いて失う所無し。

原文惠開素有大志,至蜀欲廣樹經略。善於敘述,聞其言者皆以為大功可立。才疏意廣,竟無成功。嚴用威刑,蜀人號曰:「臥虎」。明識過人,嘗供三千沙門,一閱其名,退無所失。

明帝即位し、晉安王劉子勛反す。惠開乃ち将佐を集めて謂いて曰く、「吾れ世祖(孝武帝)の眷を荷い、当に袂を投じて萬里、九江(子勛)を推奉すべし」と。蜀人は素より惠開の厳しきを怨み、是に及びて遣わす兵皆前に得ず。晉原郡反し、諸郡悉く応じ、併せて来りて城を囲む。城内の東兵二千に過ぎず、凡そ蜀人は、惠開之を疑い、悉く皆遣い出す。子勛尋いで敗る。蜀人は併せて城を屠り、以て厚賞を望まんと欲す。明帝は蜀土険遠なるを以て、其の誅責を赦し、其の弟惠基を使いとし蜀に使いせしめて旨を宣べしむ。然るに蜀人は志城を屠るに在り、王命の速かに達するをさせず、惠基を遏み留む。惠基其の渠帥きょすいを破り、然る後に前に得る。惠開旨を奉じて帰順し、城囲解かる。明帝又た惠開の宗人宝首を遣わし水路より益州を慰労せしむ。宝首は平蜀を以て功と為さんと欲し、更に蜀人を奨め説き、処処蜂起ほうきす。惠開乃ち啓して情事を陳べ、宋甯太守蕭惠訓・州別駕費欣業を遣わし分兵して併せて進み、之を大破し、宝首を禽えて之を送る。惠開都に至る。明帝其の故を問う。侍衛左右悚然として側目する者莫し。惠開挙動自若とし、従容として答えて曰く、「臣は唯だ逆順を知るのみ、天命を識らず」と。又た云く、「臣に非ざれば乱れず、臣に非ざれば平らかならず」と。

原文明帝即位,晉安王子勳反,惠開乃集將佐謂曰:「吾荷世祖之眷,當投袂萬里,推奉九江。」蜀人素怨惠開嚴,及是所遣兵皆不得前。晉原郡反,諸郡悉應,並來圍城。城內東兵不過二千,凡蜀人,惠開疑之,悉皆遣出。子勳尋敗,蜀人並欲屠城,以望厚賞。明帝以蜀土險遠,赦其誅責,遣其弟惠基使蜀宣旨。而蜀人志在屠城,不使王命速達,遏留惠基。惠基破其渠帥,然後得前。惠開奉旨歸順,城圍得解。明帝又遣惠開宗人寶首水路慰勞益州,寶首欲以平蜀為功,更獎說蜀人,處處蜂起。惠開乃啟陳情事,遣宋甯太守蕭惠訓、州別駕費欣業分兵並進,大破之,禽寶首送之。惠開至都,明帝問其故,侍衛左右莫不悚然側目,惠開舉動自若,從容答曰:「臣唯知逆順,不識天命。」又云:「非臣不亂,非臣不平。」

初め、惠開の府録事参軍劉希微、蜀人の責むる所の将百万を負う。責主に制せられ、俱に還るを得ず。惠開は希微と共に事えて厚からず。而して廄中凡そ馬六十匹有るも、悉く以て希微に乞い、責を償わしむ。其の意趣常ならざるは是の如し。惠開還る資二千餘萬、悉く道俗に散施し、一も留むる所無し。

原文初,惠開府錄事參軍劉希微負蜀人責將百萬,為責主所制,未得俱還。惠開與希微共事不厚,而廄中凡有馬六十匹,悉以乞希微償責。其意趣不常如是。惠開還資二千餘萬,悉散施道俗,一無所留。

後に桂陽王劉休範の征北長史・南東海太守を除く。其の年、会稽太守蔡興宗の郡に之く。惠開京口より仮を請いて都に還る。曲阿に於いて相逢う。惠開先に興宗と名位略同じく、又た情款を経たり。自ら負釁摧屈を以て、興宗の己に詣らざるを慮り、部下を戒勒す。蔡会稽の部伍若し問わば、慎んで答うるを得ずと。惠開は素より厳しく、部下敢えて違う者莫し。興宗、惠開の舟力甚だ盛んなるを見て、人を遣わして訪訊す。事力二三百人皆低頭して直ちに去り、一人も答うる者無し。

原文後除桂陽王休範征北長史、南東海太守。其年,會稽太守蔡興宗之郡,惠開自京口請假還都,相逢于曲阿。惠開先與興宗名位略同,又經情款,自以負釁摧屈,慮興宗不能詣己,戒勒部下:蔡會稽部伍若問,慎不得答。惠開素嚴,部下莫敢違。興宗見惠開舟力甚盛,遣人訪訊,事力二三百人皆低頭直去,無一人答者。

尋いで少府を除き、給事中を加う。惠開は素より剛なり。是に至りて益々志を得ず。曰く、「大丈夫喉舌に入り管し、方伯に出て蒞るも、乃ち復た低頭して中に入るか」と。寺内の住む所の斎前、向かって花草を種うること甚だ美なりしに、惠開悉く剷除し別に白楊を種う。毎に人に謂いて曰く、「人生胸懷を行うを得ずんば、寿百歳と雖も猶お夭なり」と。病を発し血を嘔し、物を吐くこと肝肺の如き者。卒す。子睿嗣ぐ。齊、禅を受く。国除かる。

原文尋除少府,加給事中。惠開素剛,至是益不得志,曰:「大丈夫入管喉舌,出蒞方伯,乃復低頭入中邪。」寺內所住齋前,向種花草甚美,惠開悉剷除別種白楊。每謂人曰:「人生不得行胸懷,雖壽百歲猶為夭也。」發病嘔血,吐物如肝肺者。卒,子睿嗣,齊受禪,國除。

惠開は諸弟と並びに睦まず。惠基の使い益州に至るも、遂に相見えず。同産弟惠明と亦た嫌隙を致すと云う。

原文惠開與諸弟並不睦,惠基使至益州,遂不相見。與同產弟惠明亦致嫌隙云。

蕭惠明はその次弟であり、また当時に誉れがあった。泰始(宋明帝の年号)の初め、呉興太守となり、郡の境界に卞山があり、その山下に項羽廟があった。伝承によれば項羽がしばしば郡の庁舎に居座り、前後の太守は敢えて上ることができなかった。惠明は綱紀(郡の属官)に言った、「孔季恭(孔靖)がかつてこの郡を治めたが、災いがあったとは聞かない」と。そこで盛大に筵と榻を設けて賓客を迎えたところ、数日後、身の丈一丈いちじょう余りの者が弓を引き矢を構えて惠明に向かうのを見たが、やがて見えなくなった。そのため背中に癰ができ、十日ほどで死去した。

原文惠明其次弟也,亦有時譽。泰始初,為吳興太守,郡界有卞山,山下有項羽廟。相承雲羽多居郡聽事,前後太守不敢上。惠明謂綱紀曰:「孔季恭嘗為此郡,未聞有災。」遂盛設筵榻接賓,數日,見一人長丈餘,張弓挾矢向惠明,既而不見。因發背,旬日而卒。

子の蕭視素は、梁の天監年間に、丹陽尹丞の位にあった。初めて拝命した日、武帝(梁の武帝蕭衍)から銭八万を賜り、視素は一朝にしてこれを親友に散じた。司徒左西属・南徐州中從事に遷った。

原文子視素,梁天監中,位丹陽尹丞。初拜日,武帝賜錢八萬,視素一朝散之親友。遷司徒左西屬、南徐州中從事。

性質は静かで退け、嗜欲は少なく、学問を好み、清談ができ、栄利を心にかけず、喜怒を顔色に表さなかった。在野の時も官職にあっても、共に任情で通達し率直であり、自らを誇らず、天然の簡素さがあった。京口におりし時から、すでにそこに終焉を定めようとする志があった。後に中書侍郎となった。在位して間もなく、諸暨県令を求めた。県に着いて十余日後、衣冠を県門に掛けて去った。独居して俗事を屏い、親戚でなければその籬の門に至ることを得なかった。妻は斉の太尉王儉の娘であったが、久しく別居し、ついに子がなかった。死去すると、親故がその事跡と行いを跡づけ、貞文先生と諡した。

原文性靜退,少嗜欲,好學,能清言,榮利不關於中,喜怒不形於色。在人間及居職,並任情通率,不自矜尚,天然簡素。及在京口,便有終焉之志。後為中書侍郎。在位少時,求為諸暨令。到縣十餘日,掛衣冠於縣門而去。獨居屏事,非親戚不得至其籬門。妻即齊太尉王儉女,久與別居,遂無子。卒,親故跡其事行,諡曰貞文先生。

蕭惠明の弟の蕭惠基は、幼くして外戚として宋の江夏王劉義恭に引見され、その詳しく審らかなことを歎賞され、娘を娶らせて婚姻を結んだ。中書黄門郎を歴任した。惠基は隷書と囲碁に巧みで、斉の高帝(蕭道成)とは情好相得た。桂陽王劉休范の妃は惠基の姉であった。高帝は彼に言った、「卿の家の桂陽王が、また賊をなすとは」と。高帝が新亭の塁に駐屯した時、惠基を軍副とした。惠基の弟の惠朗は親しく休范のために攻戦したが、惠基は城内にあって少しも自ら疑うことはなかった。後に長兼侍中となった。

原文惠明弟惠基,幼以外戚見宋江夏王義恭,歎其詳審,以女結婚。曆中書黃門郎。惠基善隸書及弈棋,齊高帝與之情好相得。桂陽王休范妃,惠基姊也,高帝謂之曰:「卿家桂陽,遂復作賊。」高帝頓新亭壘,以惠基為軍副。惠基弟惠朗親為休范攻戰,惠基在城內了不自疑。後為長兼侍中。

袁粲・劉彦節(劉秉)が兵を起こした夜、高帝は彦節が惠基の妹婿であることから、惠基が当時省中に直していたので、王敬則を遣わしてその意向を観察させた。惠基が平静で、彦節と通じていないのを見て、これによってますます恩信を加えた。

原文袁粲、劉彥節起兵之夕,高帝以彥節是惠基妹夫,惠基時直在省,遣王敬則觀其指趣,見惠基安靜,不與彥節相知,由是益加恩信。

斉に仕えて都官尚書となり、吏部を掌った。永明年間に侍中となり、驍騎将軍を領した。尚書令王儉は朝廷で尊ばれ重んじられたが、惠基は同じく礼閣(尚書省)にあって、公事でなければ私的に面会しなかった。太常に遷り、給事中を加えられた。

原文仕齊為都官尚書,掌吏部。永明中為侍中,領驍騎將軍。尚書令王儉朝宗貴望,惠基同在禮閣,非公事不私覿焉。遷太常,加給事中。

宋の大明年間以来、声伎(音楽・舞踊)で尊ばれるものは多く鄭・衛の俗楽であり、雅楽正声を好む者は少なかった。惠基は音律を解し、特に魏の三祖(曹操・曹丕・曹叡)の曲と相和歌を好み、奏されるごとに賞悦してやまなかった。

原文自宋大明以來,聲伎所尚,多鄭、衛,而雅樂正聲鮮有好者。惠基解音律,尤好魏三祖曲及相和歌,每奏輒賞悅不能已。

当時囲碁の上手として琅邪の王抗が第一品、呉郡の褚思莊・会稽の夏赤松が第二品であった。赤松は思考が速く、大局に長け、思莊は対局が遅く、局部の戦い(闘棋)に巧みであった。宋の文帝の時、羊玄保が会稽太守となったが、帝は思莊を東方に遣わし、玄保と対局させ、そこで棋局の図を記し、帰って帝の前でそれを再現した。斉の高帝は思莊に王抗と対局させて賭けをさせた。朝食の時から日暮れまでかかって一局がようやく終わった。上(高帝)は疲れて、彼らを省舎に帰らせたが、五更になってようやく決着した。王抗は局の後で寝てしまい、褚思莊は夜明けまで眠らなかった。時に言うには、思莊が品第が高いのは、その思考が深く長く、人が対抗できないからだという。王抗・褚思莊はともに給事中に至った。永明年間、詔勅により王抗に棋士の品定めをさせ、竟陵王蕭子良は蕭惠基にこの事を掌らせた。初め、蕭思話(惠基の父)が先に曲阿に邸宅を建て、閑曠の趣があった。惠基は常に親しい者に言った、「婚嫁が済み次第、古い屋敷に帰って老いを養おう」と。立身は退いて質素であり、朝廷では善士と称された。死去し、金紫光禄大夫を追贈された。

原文當時能棋人琅邪王抗第一品,吳郡褚思莊、會稽夏赤松第二品。赤松思速,善於大行,思莊戲遲,巧於鬥棋。宋文帝時,羊玄保為會稽,帝遣思莊入東,與玄保戲,因置局圖,還於帝前覆之。齊高帝使思莊與王抗交賭,自食時至日暮,一局始竟。上倦,遣還省,至五更方決。抗睡於局後寢,思莊達旦不寐。時或云,思莊所以品第致高,緣其用思深久,人不能對。抗、思莊並至給事中。永明中,敕使抗品棋,竟陵王子良使惠基掌其事。初,思話先于曲阿起宅,有閑曠之致。惠基常謂所親曰:「須婚嫁畢,當歸老舊廬。」立身退素,朝廷稱為善士。卒,贈金紫光祿大夫。

子の蕭洽は字を宏稱という。幼くして聡明で悟りが早く、七歳で楚辞をほぼ暗誦した。成長すると、学問を好み広く渉猟し、文章をよくした。梁に仕えて南徐州中從事の位にあった。近畿の重鎮で、職吏は数千人おり、前後この職にあった者は皆巨富を得た。洽は身を清くして職務に率い、贈り物は一切受けず、妻子は飢え寒さを免れなかった。累遷して臨海太守となり、政治は清く平らかで、威猛を尚ばず、人々の風俗に適った。還って司徒左長史に任じられた。詔勅により当塗堰の碑文を撰し、文辞は甚だ豊かで麗しかった。官の任上で死去した。文集二十巻が世に行われた。

原文子洽字宏稱。幼敏寤,年七歲,誦楚辭略上口。及長,好學博涉,善屬文。仕梁位南徐州中從事。近畿重鎮,職吏數千人,前後居者皆致巨富。洽清身率職,饋遺一無所受,妻子不免饑寒。累遷臨海太守,為政清平,不尚威猛,人俗便之。還拜司徒左長史。敕撰當塗堰碑,辭甚贍麗。卒於官。文集二十卷行於世。

蕭惠基の弟の蕭惠休。斉の永明四年、広州刺史となり、任を罷めると、蓄財を傾けて献上した。上(武帝蕭賾)は中書舎人茹法亮に命じて言った、「蕭惠休に問うてみよ、やはり再び私蓄はないのか? 我はそれを分けて受け取りたい」と。後に建安県子に封ぜられた。

原文惠基弟惠休。齊永明四年,為廣州刺史,罷任,獻奉傾資。上敕中書舍人茹法亮曰:「可問蕭惠休,故當不復私邪?吾欲分受之也。」後封建安縣子。

永元元年、呉興太守に転じた。尚書右僕射に徴された。呉興郡の項羽神は従来霊験が厳しく、人々は惠休が神を謹んで祀ったので、良い転任を得たと言った。当時朝廷の士は多く殺害されていた。二年、惠休が平望まで帰還した時、帝(東昏侯蕭宝巻)は薬を服ませて死なせ、金紫光禄大夫を追贈した。

原文永元元年,徙吳興太守。徵為尚書右僕射。吳興郡項羽神舊酷烈,人云惠休事神謹,故得美遷。于時朝士多見殺,二年,惠休還至平望,帝令服藥而卒,贈金紫光祿大夫。

蕭惠休の弟の蕭惠朗は、桂陽王の賊に同調したが、斉の高帝はこれを赦した。後に西陽王征虜長史となり、南兗州の事務を行ったが、法に坐して免官された。

原文惠休弟惠朗,同桂陽賊,齊高帝赦之。後為西陽王征虜長史,行南兗州事,坐法免官。

蕭惠朗の弟の蕭惠蒨は、斉に仕えて左戸尚書となった。子に蕭介がいる。

原文惠朗弟惠蒨,仕齊左戶尚書。子介。

蕭介は字を茂鏡といい、幼くして穎悟で、器量と識見があった。梁の大同年間、武陵王蕭紀が揚州刺史となった時、介を府長史とし、在職中は清白をもって称された。武帝は何敬容に言った、「蕭介は甚だ貧しい。一郡を治めさせることができる」と。また言った、「始興郡は頻りに良守がおらず、介をこれに任ずることができる」と。これによって始興太守として出向した。到着すると、甚だ威徳を顕著にした。

原文介字茂鏡,少穎悟,有器識。梁大同中,武陵王紀為揚州刺史,以介為府長史,在職以清白稱。武帝謂何敬容曰:「蕭介甚貧,可處以一郡。」復曰:「始興郡頻無良守,可以介為之。」由是出為始興太守。及至,甚著威德。

少府卿に徴され、まもなく散騎常侍を加えられた。時に侍中に欠員が生じ、選司が王筠ら四人を推挙したが、いずれも帝の意にかなわなかった。帝は言った、「我が門中(一族・家門)には久しくこの職がなかった。蕭介を用いてこれに当たらせるのがよい」と。左右に応対し、多く匡正するところがあり、帝は甚だ彼を重んじた。

原文徵為少府卿,尋加散騎常侍。會侍中闕,選司舉王筠等四人,並不稱旨。帝曰:「我門中久無此職,宜用蕭介為之。」應對左右,多所匡正,帝甚重之。

都官尚書に遷り、軍国大事があるごとに必ずまず蕭介に諮問した。帝は朱異に言った、「端右の材である」と。中大同二年、病を理由に致仕を願い出たが、帝は優詔をもって許さず、ついに起きようとしなかったので、謁者僕射の魏祥を遣わして就いて光禄大夫を拝した。

原文遷都官尚書,每軍國大事,必先訪介。帝謂朱異曰:「端右材也。」中大同二年,辭疾致仕,帝優詔不許,終不肯起,乃遣謁者僕射魏祥就拜光祿大夫。

太清年間、侯景が渦陽で敗走し、寿陽に入った。帝は助防の韋黯に命じてこれを容れさせようとしたが、蕭介はこれを聞き上表して諫め、極言して不可であるとした。帝は表を省みて嘆息したが、ついに用いることはできなかった。

原文太清中,侯景于渦陽敗走,入壽陽。帝敕助防韋黯納之,介聞而上表致諫,極言不可。帝省表歎息,卒不能用。

蕭介の性質は高潔簡素で、交遊は少なく、ただ族兄の蕭琛、従兄の蕭眎素および蕭洽の従弟の蕭淑らと文酒の賞会を催し、当時の人はこれを謝氏の烏衣の遊びに比した。

原文介性高簡,少交遊,唯與族兄琛、從兄視素及洽從弟淑等文酒賞會,時人以比謝氏烏衣之遊。

初め、武帝は後進二十余人を招き延べ、酒を置き詩を賦した。臧盾は詩が成らなかったので、罰として酒一斗を飲まされた。臧盾は飲み尽くし、顔色を変えず、言笑自若であった。蕭介は筆を染めてたちまち成し、文に加筆する点がなかった。帝は両者を称えて言った、「臧盾の飲み、蕭介の文は、即席の美である」と。年七十三、家で卒した。

原文初,武帝招延後進二十餘人,置酒賦詩。臧盾以詩不成,罰酒一斗。盾飲盡,顏色不變,言笑自若。介染翰便成,文無加點。帝兩美之曰:「臧盾之飲,蕭介之文,即席之美也。」年七十三,卒於家。

第三子の蕭允は字を叔佐といい、若くして知名であった。風神は凝遠で、通達し識鑑があり、容止は醞藉であった。梁に仕えて太子洗馬に至った。侯景が台城を攻め陥とした時、百官は奔散したが、蕭允ひとり衣冠を整えて宮坊に坐し、侯景の軍もこれを敬い、彼を逼ることはしなかった。まもなく出て京口に居した。時に寇賊が縦横し、百姓は波のように駭いたが、蕭允ひとり行かなかった。人がその故を問うと、蕭允は言った、「性命には自ら常分があり、どうして逃れて免れることができようか。今の百姓は、争って奮臂して大功を論じようとしている。一書生に何事があろうか。荘周のいわゆる影を畏れ跡を避けることは、私はしない」と。そこで門を閉じて静処し、二日に一度食し、ついに患いを免れた。

原文第三子允字叔佐,少知名。風神凝遠,通達有識鑒,容止醞藉。仕梁位太子洗馬。侯景攻陷台城,百僚奔散,允獨整衣冠坐于宮坊,景軍敬焉,弗之逼也。尋出居京口。時寇賊縱橫,百姓波駭,允獨不行。人問其故,允曰:「性命自有常分,豈可逃而免乎。方今百姓,爭欲奮臂而論大功,何事于一書生哉。莊周所謂畏影避跡,吾弗為也。」乃閉門靜處,並日而食,卒免於患。

陳の永定年間、侯安都が南徐州刺史となった時、自らその廬を訪れ、長幼の敬いを表した。宣帝が即位すると、黄門侍郎となった。晋安王が南豫州に出ると、その長史とした。時に王はまだ年少で、人事に親しまなかったので、蕭允に府事を行わせた。入朝して光禄卿となった。

原文陳永定中,侯安都為南徐州刺史,躬造其廬,以申長幼之敬。宣帝即位,為黃門侍郎。晉安王為南豫州,以為長史。時王尚少,未親人務,故委允行府事。入為光祿卿。

蕭允の性質は敦重で、栄利をもって懐を干したことはなかった。晋安王が湘州に出鎮する時、また蕭允を連れて行くのを苦にした。蕭允は若い時蔡景歴と親善で、その子の蔡征が父の党としての敬いを修め、蕭允が行くことを聞き、蕭允のもとに詣でて言った、「公は年徳ともに高く、国の元老である。従容として坐鎮し、旦夕に自ずから列曹となるべきであり、どうしてあえて辛苦して蕃外に出ようとするのか」と。答えて言った、「すでに晋安王に許した以上、どうして信を忘れられようか」と。その栄勢に恬淡たる様はこのようであった。

原文允性敦重,未嘗以榮利幹懷。及晉安出鎮湘州,又苦攜允。允少與蔡景曆善,子征修父党之敬,聞允將行,乃詣允曰:「公年德並高,國之元老,從容坐鎮,旦夕自為列曹,何為方辛苦蕃外。」答曰:「已許晉安,豈可忘信。」其恬榮勢如此。

至徳年間、鄱陽王が会稽に出鎮すると、蕭允はまた長史となり、会稽郡丞を帯びた。行く途上、延陵季子の廟を経て、蘋藻の薦を設け、異代の交わりを託し、詩を作って意を叙し、辞理は清典であった。後主がかつて蔡征に蕭允の為人を問うと、蔡征は言った、「その清虚玄遠は、測りがたい。文章に至っては、言うことができる」と。そこで蕭允の詩を誦して答えた。後主は久しく嗟賞した。まもなく光禄大夫を拝した。

原文至德中,鄱陽王出鎮會稽,允又為長史,帶會稽郡丞。行經延陵季子廟,設蘋藻之薦,托異代之交,為詩以敘意,辭理清典。後主嘗問蔡征,允之為人,征曰:「其清虛玄遠,殆不可測;至於文章,可得而言。」因誦允詩以對。後主嗟賞久之。尋拜光祿大夫。

隋の師が江を渡ると、蕭允は関右に遷された。時に南方の士で長安に至った者は、例によってみな官を授けられたが、蕭允と尚書僕射の謝伷は老病を理由に辞した。隋の文帝はこれを義とし、ともに厚く帛を賜った。まもなく卒し、年八十四であった。

原文及隋師濟江,允遷于關右。時南士至長安者,例皆授官,允與尚書僕射謝伷辭以老疾。隋文帝義之,並厚賜帛。尋卒,年八十四。

弟の蕭引は字を叔休といい、方正にして器度があり、性質は聡敏で、博学にしてよく文を属した。梁に仕えて西昌侯儀同府主簿に至った。

原文弟引字叔休,方正有器度,性聰敏,博學善屬文。仕梁位西昌侯儀同府主簿。

侯景の乱の時、梁の元帝が荊州刺史となると、朝士の多くは彼のもとに帰った。蕭引は言った、「諸王が力争い、禍患がまさに始まろうとしている。今日の難を逃れるのに、君主を選ぶ秋ではない。わが家は再世始興郡を為し、遺愛が人にあり、ただ南行して家門を存するのみである」と。そこで弟の蕭肜および宗親ら百余り人とともに南に奔って嶺表に至った。時に始興の人欧陽頠が衡州刺史であったので、往ってこれに依った。

原文侯景之亂,梁元帝為荊州刺史,朝士多歸之。引曰:「諸王力爭,禍患方始,今日逃難,未是擇君之秋。吾家再世為始興郡,遺愛在人,政可南行以存家門耳。」乃與弟肜及宗親等百餘人南奔嶺表。時始興人歐陽頠為衡州刺史,乃往依焉。

欧陽頠が広州に遷って病没すると、その子の欧陽紇がその衆を領した。蕭引は欧陽紇に異図ありと疑い、事に因って規正したので、これによって情礼は次第に疎遠となった。欧陽紇が反した時、都下の士人岑之敬、公孫挺らはみな惶駭したが、ただ蕭引は怡然として、岑之敬らに言った、「管幼安、袁曜卿もただ安坐したのみである。君子は身を正して道を明らかにし、己を直くして義を行えば、また何を憂えようか」と。章昭達が番禺を平定すると、蕭引は初めて北還し、尚書金部侍郎を拝した。

原文頠遷廣州病死,子紇領其眾,引疑紇異圖,因事規正,由是情禮漸疏。及紇反,時都下士人岑之敬、公孫挺等並惶駭,唯引怡然,謂之敬等曰:「管幼安、袁曜卿亦但安坐耳。君子正身以明道,直己以行義,亦何憂乎。」及章昭達平番禺,引始北還,拜尚書金部侍郎。

蕭引は隷書をよくし、当時に重んぜられた。宣帝がかつて奏事を披き、蕭引の署名を指して言った、「この字の筆趣は翩翩として、鳥の飛ばんとするに似ている」と。蕭引は謝して言った、「これは陛下がその毛羽をお与えになったからです」と。帝はまた蕭引に言った、「私は毎々忿ることがあるが、卿を見ると意が解ける。どうしてか」と。蕭引は言った、「これは陛下が自ら怒りを遷さないからであり、臣がどうしてこの恩に預かりましょうか」と。

原文引善隸書,為當時所重,宣帝嘗披奏事,指引署名曰:「此字筆趣翩翩,似鳥之欲飛。」引謝曰:「此乃陛下假其毛羽耳。」帝又謂引曰:「我每有所忿,見卿輒意解,何也?」引曰:「此自陛下不遷怒,臣何預此恩。」

蕭引の性質は抗直で、権貴に事えず、宣帝が毎々遷用しようとすると、つねに用事者によって裁かれた。呂梁で軍が覆えし、軍需が空匱すると、蕭引を転じて庫部侍郎とし、営造を掌知させた。蕭引は在職一年で、器械は充足した。中書、黄門、吏部侍郎を歴任した。広州刺史の馬靖は嶺表の人心を大いに得て、甲兵は精練であり、毎年俚洞に深入りし、しばしば戦功があったので、朝野に異議がかなり生じた。宣帝は蕭引が嶺外の物情に詳しいので、蕭引を遣わして馬靖を観察させ、その挙措を審らかにし、諷して質を送らせようとした。到着すると、馬靖はただちに旨を悟り、子弟を質として遣わした。

原文引性抗直,不事權貴,宣帝每欲遷用,輒為用事者所裁。及呂梁覆師,戎儲空匱,轉引為庫部侍郎,掌知營造。引在職一年,而器械充足。曆中書,黃門,吏部侍郎。廣州刺史馬靖甚得嶺表人心,而甲兵精練,每年深入俚洞,數有戰功,朝野頗生異議。宣帝以引悉嶺外物情,且遣引觀靖,審其舉措,諷令送質。及至,靖即悟旨,遣兒弟為質。

後主が即位すると、中庶子、建康令となった。時に殿内隊主の呉璡および宦者の李善度、蔡脱児らが多く請属したが、蕭引は一切許さなかった。蕭引の族子の蕭密は、時に黄門郎であったが、蕭引を諫めて言った、「李、蔡の権勢は在位の者みな憚っている。少しは身のためを計るべきである」と。蕭引は言った、「私の立身には自ら本末がある。どうして李、蔡のために屈することができようか。たとえ不遇となっても、免職されるに過ぎない」と。呉璡はついに飛書を作り、李、蔡がこれを証したので、官を免ぜられ、家で卒した。子の蕭徳言が最も知名である。弟の蕭肜は、太子中庶子、南康王長史に至った。

原文後主即位,為中庶子、建康令。時殿內隊主吳璡及宦者李善度、蔡脫兒等多所請屬,引一皆不許。引始族子密,時為黃門郎,諫引曰:「李、蔡之權,在位皆憚,亦宜少為身計。」引曰:「吾之立身,自有本末,亦安能為李、蔡致屈;就令不平,不過免職耳。」吳璡竟作飛書,李、蔡證之,坐免官,卒於家。子德言最知名。引弟肜,位太子中庶子,南康王長史。

蕭琛は字を彦瑜といい、蕭恵開の従子である。祖父は蕭僧珍、宋の廷尉卿。父は蕭恵訓、斉の末年に巴東相となった。梁の武帝が兵を起こすと、斉の和帝が荊州で即位し、恵訓は巴西太守魯休烈とともに郡を挙げて抵抗し、恵訓は子の蕭璝をして上明を占拠させた。建康城が平定されて初めて降伏した。武帝はこれを許し、太中大夫とし、官のまま卒した。

原文琛字彥瑜,惠開從子也。祖僧珍,宋廷尉卿。父惠訓,齊末為巴東相。梁武帝起兵,齊和帝於荊州即位,惠訓與巴西太守魯休烈並以郡相抗,惠訓使子璝據上明。建康城平,始歸降。武帝宥之,以為太中大夫,卒官。

蕭琛は幼少より明敏で才弁があった。数歳の時、従伯の恵開がこれを見て奇異とし、その背を撫でて言うには、「必ずや我が宗族を興すであろう。」初官は斉の太学博士。時に王儉が朝廷にあり、蕭琛は年少で、まだ儉に知られていなかった。その才気を恃み、楽遊苑で王儉が宴を催すのを待ち、虎皮の靴を履き、桃の枝の杖を執り、直ちに王儉の座に赴いた。儉はこれと語り大いに喜んだ。儉は当時丹陽尹であり、主簿に辟召した。

原文琛少明悟,有才辯。數歲時,從伯惠開見而奇之,撫其背曰:「必興吾宗。」起家齊太學博士。時王儉當朝,琛年少,未為儉所識。負其才氣,候儉宴于樂遊,乃著虎皮靴,策桃枝杖,直造儉坐。儉與語大悅。儉時為丹陽尹,辟為主簿。

永明九年、魏が初めて通好し、蕭琛は再び命を帯びて北使し、帰って通直散騎侍郎となった。時に魏が李彪を使者として遣わし、斉の武帝がこれに宴を賜った。蕭琛は御筵において酒を挙げて彪を勧めたが、彪は受けず、言うには、「公庭に私礼なし、勧めを受けるべからず。」蕭琛は答えて言うには、「詩に所謂『雨我公田、遂及我私』なり。」座する者皆喜んで服し、彪は蕭琛の酒を受けた。

原文永明九年,魏始通好,琛再銜命北使,還為通直散騎侍郎。時魏遣李彪來使,齊武帝燕之。琛於御筵舉酒勸彪,彪不受,曰:「公庭無私禮,不容受勸。」琛答曰:「詩所謂'雨我公田,遂及我私'。」坐者皆悅服,彪乃受琛酒。

累遷して尚書左丞となった。時に斉の明帝は法を用いること峻厳で、尚書郎が杖罰に坐する者は皆直ちに処罰を執行した。蕭琛は密かに啓上して言うには、「郎官の杖罰は後漢に起こり、その時郎官の位は卑しく、自ら文案を主管し、令史と異ならなかった。故に郎三十五人、令史二十人、これにより古人は多くこの職を恥じた。魏・晋以来、郎官は次第に重んぜられる。今は高貴の家柄を参用し、吏部はまた通貴に近く、官は昔の品より高くして、罰は昔の科に従うべきではない。これまで弾劾・推挙があっても、空文に在るのみで、推し遷延することを許してきた。或いは赦恩に逢い、或いは春令に入れば、便ち止息を得た。宋の元嘉・大明の間、罰を受けた者があれば、別に主君の心に犯忤した由によるもので、常の準則に関わるものではない。泰始・建元以来、施行されたことがなく、事は廃れて久しく、人情も未だ習わない。勅命を奉じて以来、既に倉部郎江重欣に杖督五十を行ったが、皆人として慚懼を懐かざるはない。兼ねて子弟が成長すれば、ますます儀礼に適うことが難い。その応に行う罰は、特に輸贖を賜い、令史と異ならしめ、優緩の恩沢を顕わすべきである。」帝はこれを容れた。これより応に罰を受くべき者は、旧に依り行わなかった。

原文累遷尚書左丞。時齊明帝用法嚴峻,尚書郎坐杖罰者皆即科行,琛乃密啟曰:「郎有杖起自後漢,爾時郎官位卑,親主文案,與令史不異。故郎三十五人,令史二十人,是以古人多恥為此職。自魏、晉以來,郎官稍重。今方參用高華,吏部又近於通貴,不應官高昔品,而罰遵曩科。所以從來彈舉,雖在空文,而許以推遷。或逢赦恩,或入春令,便得息停。宋元嘉、大明中,經有被罰者,別由犯忤主心,非關常准。自泰始、建元以來,未經施行,事廢已久,人情未習。自奉敕之後,已行倉部郎江重欣杖督五十,皆無不人懷慚懼。兼有子弟成長,彌復難為儀適。其應行罰,可特賜輸贖,使與令史有異,以彰優緩之澤。」帝納之。自是應受罰者,依舊不行。

東昏侯が初めて嗣立した時、廟見の礼文について議論がなかった。蕭琛は議して、周頌の烈文・閔予を拠り所とし、皆即位して廟に朝する典とするとした。ここにおいてこれに従った。

原文東昏初嗣立,時議無廟見文。琛議據周頌烈文、閔予,皆為即位朝廟之典。於是從之。

梁の武帝が西邸に在った時、蕭琛と旧交があった。梁の台府が建つと、御史中丞とした。天監九年、累遷して平西長史・江夏太守となった。

原文梁武在西邸,與琛有舊。梁台建,以為御史中丞。天監九年,累遷平西長史、江夏太守。

初め蕭琛が宣城太守であった時、北の僧が南に渡り、ただ一つの瓢箪を携え、その中に漢書序伝があった。僧は言う、「三輔の旧老が相伝えて、班固の真本と為す。」蕭琛は固くこれを求め得た。その書は多く今のものと異なり、紙墨もまた古く、文字は多く龍挙の例の如く、隷でも篆でもなかった。蕭琛はこれを甚だ秘蔵した。ここにおいてこの書を以て鄱陽王蕭範に贈り、東宮に献上した。

原文始琛為宣城太守,有北僧南度,唯齎一瓠蘆,中有漢書序傳。僧云:「三輔舊老相傳,以為班固真本。」琛固求得之,其書多有異今者,而紙墨亦古,文字多如龍舉之例,非隸非篆。琛甚秘之。及是以書餉鄱陽王范,獻於東宮。

後に呉興太守となり、郡に項羽の廟があり、土地の人は「憤王」と称し、甚だ霊験があった。ここにおいて郡の聴事に床幕を設けて神座とし、公私の請祷があった。前後二千石の太守は皆聴事で拝祠し、軛下の牛を以て祭を充し、他室に避居した。蕭琛が至ると、履を履いて聴事に登り、室中に叱る声を聞いた。蕭琛は厳しい色をして言うには、「生きて漢の高祖と中原を争うことができず、死してこの聴事を占拠するとは、何ぞや。」ここにおいてこれを廟に遷した。また牛を殺して祀りを解くことを禁じ、脯を以て肉に代えた。蕭琛は頻りに大郡を治め、産業を事とせず、欠ければ取るも、これを嫌わなかった。左戸尚書・度支尚書を歴任し、侍中となった。

原文後為吳興太守,郡有項羽廟,土人名為「憤王」,甚有靈驗,遂於郡聽事安床幕為神座,公私請禱。前後二千石皆於聽拜祠,以軛下牛充祭而避居他室。琛至,著履登聽事,聞室中有叱聲。琛厲色曰:「生不能與漢祖爭中原,死據此聽事,何也?」因遷之於廟。又禁殺牛解祀,以脯代肉。琛頻蒞大郡,不事產業,有闕則取,不以為嫌。曆左戶、度支二尚書,侍中。

帝は毎朝宴に、旧恩を以て蕭琛を接した。嘗て武帝の偏諱いみなを犯し、帝は顔色を改めた。蕭琛は従容として言うには、「二名は偏諱せず。陛下は順を諱むべからず。」上は言う、「各々家風有り。」蕭琛は言う、「礼を如何。」また御筵に預かり酔って伏したことがあり、上は棗を以て蕭琛に投げた。蕭琛は直ちに栗を取って上に擲ち、正しく顔面に中った。御史中丞が座に在った。帝は色を動かして言う、「此の中に人あり、かくの如くすべからず。豈に説有らんや。」蕭琛は即ち答えて言う、「陛下は臣に赤心を投げ給う。臣敢えて戦慄を以て報いざらんや。」上は笑って喜んだ。上は毎に蕭琛を宗老と呼び、蕭琛もまた昔の恩を奉陳し、「早く中陽に簉し、夙に同閈に忝くす。興運に迷うと雖も、猶洪慈を荷う。」と。上は答えて言う、「早く契闊すと云うと雖も、乃ち自ら同志に非ず。興運の初を談ずること勿れ、且つ狂奴の異を道え。」と。

原文帝每朝燕,接琛以舊恩。嘗犯武帝偏諱,帝斂容。琛從容曰:「二名不偏諱。陛下不應諱順。」上曰:「各有家風。」琛曰:「其如禮何。」又經預御筵醉伏,上以棗投琛,琛仍取栗擲上,正中面。御史中丞在坐,帝動色曰:「此中有人,不得如此,豈有說邪?」琛即答曰:「陛下投臣以赤心,臣敢不報以戰慄。」上笑悅。上每呼琛為宗老,琛亦奉陳昔恩,以「早簉中陽,夙忝同閈,雖迷興運,猶荷洪慈」。上答曰:「雖云早契闊,乃自非同志。勿談興運初,且道狂奴異。」

蕭琛は常に言った、「少壮の時三つの好み有り:音律・書・酒。年長じて以来、二事は皆廃す。唯書籍のみ衰えず。」と。而して蕭琛の性は通脱で、常に自ら竈を解き、事畢わって余った食物は、必ず陶然として酔いに至った。位は特進・金紫光禄大夫。卒す。諸子に遺令して言う、「妻と同墳異蔵とし、祭りは蔬菜を以てす。葬は車十乗に止め、事は率素を存す。」と。乗輿臨んで哭すること甚だ哀しく、諡して平子といった。蕭琛の撰した漢書文府・斉梁拾遺、並びに諸文集、数十万言。

原文琛常言:「少壯三好:音律、書、酒。年長以來,二事都廢;唯書籍不衰。」而琛性通脫,常自解灶,事畢餘餕,必陶然致醉。位特進、金紫光祿大夫。卒,遺令諸子:「與妻同墳異藏,祭以蔬菜。葬止車十乘,事存率素。」乘輿臨哭甚哀,諡曰平子。琛所撰漢書文府、齊梁拾遺,並諸文集,數十萬言。

子の蕭遊、位は少府卿。蕭遊の子蕭密は字を士幾といい、幼くして聡敏、博学で文詞有り。位は黄門郎、太子中庶子、散騎常侍。

原文子遊,位少府卿。遊子密字士幾,幼聰敏,博學有文詞。位黃門郎,太子中庶子,散騎常侍。

臧燾

原文臧燾

臧燾は字を徳仁といい、東莞莒の人、宋の武敬皇后の兄である。少くして学を好み、三礼に善く、貧約に自立し、操行は郷里に称された。晋の太元中、衛将軍謝安が初めて国学を立て、徐・兗二州刺史謝玄が臧燾を挙げて助教とした。晋の孝武帝が庶祖母宣太后を追崇しようとし、議者は或いは中宗に配食すべしと言った。臧燾は議して言うには、「春秋の義、母は子を以て貴し。故に仲子・成風皆夫人と称す。経に仲子の宮を考うと言う。若し恵廟に配食すれば、則ち宮は別に築く縁無し。前漢の孝文太后・孝昭太后は共に子に系って号と為し、寝園に祭り、高祖・孝武の廟に配さず。後漢の和帝の母は恭懐皇后、安帝の祖母は敬隠皇后、順帝の母は恭湣皇后と曰い、子に系って号と為さずと雖も、亦陵寝に祭り、章帝・安帝の二帝に配さず。此れは二漢に太后皇后の異有りと雖も、至って並びに配食せず、義は春秋に同じ。唯光武が呂后を追廃した故に、薄后を以て高廟に配した。又衛后既に廃せられ、霍光が李夫人を追尊して皇后と為し、孝武廟に配した。此れは母は子を以て貴しの例に非ず、直に高・武の二廟に配する者無き故のみ。又漢世は陵に寝を立て、是れ自ら晋の制と異なる。謂うべし、遠く春秋の宮を考うるの義に準え、近く二漢の配せざるの典を慕うべし。尊号既に正しければ、則ち罔極の情申び、別に寝廟を建てれば、則ち厳禰の義顕わる。子に系って称と為し、兼ねて母貴の由る所を明らかにす。一挙にして三義に允う、固より哲王の高致なり。」議者はこれに従った。

原文臧燾字德仁,東莞莒人,宋武敬皇后兄也。少好學,善三禮,貧約自立,操行為鄉里所稱。晉太元中,衛將軍謝安始立國學,徐、兗二州刺史謝玄舉燾為助教。晉孝武帝追崇庶祖母宣太后,議者或謂宜配食中宗。燾議曰:「陽秋之義,母以子貴,故仲子、成風咸稱夫人。經言考仲子宮,若配食惠廟,則宮無緣別築。前漢孝文孝昭太后並系子為號,祭於寢園,不配于高祖、孝武之廟。後漢和帝之母曰恭懷皇后,安帝祖母曰敬隱皇后,順帝之母曰恭湣皇后,雖不系子為號,亦祭於陵寢,不配章、安二帝。此則二漢雖有太后皇后之異,至於並不配食,義同陽秋。唯光武追廢呂後,故以薄後配高廟。又衛後既廢,霍光追尊李夫人為皇后,配孝武廟。此非母以子貴之例,直以高、武二廟無配故耳。又漢世立寢於陵,自是晉制所異。謂宜遠准陽秋考宮之義,近慕二漢不配之典。尊號既正,則罔極之情申,別建寢廟,則嚴禰之義顯。系子為稱,兼明母貴之所由。一舉而允三義,固哲王之高致也。」議者從之。

間もなく官を去り、父母老いて家貧しきを以て、弟の臧熹と共に人事を棄て、躬耕自業し、己を約して親を養うこと十余年。父母喪亡し、居喪六年、毀瘠を以て著われた。

原文頃之去官,以父母老家貧,與弟熹俱棄人事,躬耕自業,約己養親者十餘年。父母喪亡,居喪六年,以毀瘠著稱。

宋の武帝の義旗建つと、右将軍何無忌の軍事に参じ、府に随って転じて鎮南参軍。武帝が京口を鎮すと、帝の中軍軍事に参じ、入って尚書度支郎を補し、祠部を掌ることを改め、高陵亭侯を襲封した。

原文宋武帝義旗建,參右將軍何無忌軍事,隨府轉鎮南參軍。武帝鎮京口,參帝中軍軍事,入補尚書度支郎,改掌祠部,襲封高陵亭侯。

時に太廟の鴟尾に災あり、燾、著作郎徐廣に謂ひて曰く、「昔し孔子、斉に在りて魯の廟の災を聞き、曰く必ず桓・僖なりと。今征西・京兆四府君は毀落に在るべくして、猶ほ廟饗に列す、此れ其の征か」と。乃ち議を上りて曰く、

原文時太廟鴟尾災,燾謂著作郎徐廣曰:「昔孔子在齊聞魯廟災,曰必桓、僖也。今征西、京兆四府君宜在毀落,而猶列廟饗,此其征乎。」乃上議曰:

臣聞く、「国の大事は、祀と戎とに在り」と。将に宮室を営まんとすれば、宗廟を首とす。古の先哲の王、肅恭の誠心を致さず、祖考に崇厳を尽くさざるは莫く、然る後に能く淳化を四海に流し、幽感を神明に通ぜしむ。固より宜しく古典に於ける廃興を詳らかにし、情礼に循ひて中を求むべきなり。

原文臣聞「國之大事,在祀與戎」。將營宮室,宗廟為首。古先哲王莫不致肅恭之誠心,盡崇嚴乎祖考,然後能流淳化于四海,通幽感於神明,固宜詳廢興於古典,循情禮以求中者也。

礼に、天子七廟、三昭三穆と太祖とにして七なり。考廟より以て祖考五廟に至るまで、皆月祭す。遠廟を祧と為し、二祧有りて、享嘗にて乃ち止む。祧を去りて壇と為し、壇を去りて墠と為し、祷り有りて然る後に之を祭る。此れ宗廟の次第、親疏の序なり。鄭玄は祧を文王武王の廟と為すと以為ひ、王肅は五世六世の祖と為すと以為ふ。祧を去るとの言を尋ぬれば、則ち祧は文・武の廟に非ざるなり。文・武は周の祖宗なり、何ぞ祧を去りて壇と為すと云はんや。遠廟を祧と為すは、服なき祖なることを明らかにす。又た遠廟には則ち享嘗の降有り、祧を去れば則ち壇墠の殊有り、世遠き者は其の義弥く疏なることを明らかにす。若し祧は文・武の廟なりとせば、宜しく太祖に月祭を同じくすべし。後稷を推して以て天に配すと雖も、功徳の始むる所に由るなり。尊崇の義毎に差降有るに非ざるなり。又た礼に多きを以て貴しと為す者有り、故に伝に称して「徳厚き者は光を流し、徳薄き者は卑しきを流す」と。又た言ふ、上より以下に降殺して両を以てす、礼なりと。此れ則ち尊卑等級の典、上下殊異の文なり。而して天子諸侯倶に五廟を祭ると云ふは、何ぞや。又た王は嫡殤を祭り、下りて来孫に及ぶ。而るに上祀の礼は高祖を過ぎず。隆恩を下流に推し、誠敬を尊廟に替ふるも、亦た聖人の礼を制するの意に非ざるなり。是を以て泰始に廟を建つるに、王氏の議に従ひ、礼に父を士と為し、子を天子諸侯と為せば、天子諸侯を以て祭り、其の屍は士服を以て服す。故に上りて征西に及び、以て六世の数を備ふ。宣皇は太祖と為すと雖も、尚ほ子孫の位に在り、殷祭の日に至りても、未だ東向の礼を申さず、所謂子は斉聖と雖も、父の食に先んぜずと謂ふ者なり。今京兆以上既に遷り、太祖始めて正に居るを得たり。議者、昭穆未だ足らざるを以てし、太祖を卑坐に屈せんと欲す。臣以為ふ、礼典の旨に非ざるなりと。所謂太祖と而して七と為すは、是れ自ら昭穆既に足り、太廟は六世の外に在り、七廟に満つるを須ひて乃ち太祖に居るを得るに非ざるなり。

原文禮,天子七廟,三昭三穆與太祖而七。自考廟以至祖考五廟,皆月祭之。遠廟為祧,有二祧,享嘗乃止。去祧為壇,去壇為墠,有禱然後祭之,此宗廟之次、親疏之序也。鄭玄以為祧者文王武王之廟,王肅以為五世六世之祖。尋去祧之言,則祧非文、武之廟矣。文、武,周之祖宗,何雲去祧為壇乎?明遠廟為祧者,無服之祖也。又遠廟則有享嘗之降,去祧則有壇墠之殊,明世遠者其義彌疏也。若祧是文、武之廟,宜同月祭于太祖,雖推後稷以配天,由功德之所始,非尊崇之義每有差降也。又禮有以多為貴者,故傳稱「德厚者流光,德薄者流卑「。又言自上以下降殺以兩,禮也。此則尊卑等級之典,上下殊異之文。而雲天子諸侯俱祭五廟,何哉?又王祭嫡殤,下及來孫。而上祀之禮不過高祖。推隆恩於下流,替誠敬於尊廟,亦非聖人制禮之意也。是以泰始建廟,從王氏議,以禮父為士,子為天子諸侯,祭以天子諸侯,其屍服以士服。故上及征西,以備六世之數。宣皇雖為太祖,尚在子孫之位,至於殷祭之日,未申東向之禮,所謂子雖齊聖,不先父食者矣。今京兆以上既遷,太祖始得居正,議者以昭穆未足,欲屈太祖于卑坐,臣以為非禮典之旨也。所謂與太祖而七,自是昭穆既足,太廟在六世之外,非為須滿七廟乃得居太祖也。

議者又た四府君の神主は、宜しく永く殷祫に同じくすべしと為す。臣又た以為ふ、然らずと。伝に所謂毀廟の主は、太祖に陳ぶとは、太祖以下の先君の主を謂ふなり。故に白虎通に云く、「禘祫は遷廟者を祭るは、其の君の体を継ぎ、其の統を持ちて絶えざらしむるを以てなり」と。豈に四府君の太祖の前に在るが如からんや、統を継ぐの主に非ず、霊命の瑞無く、王業の基に非ず。昔は世近きを以てして及べども、今は則ち情礼已に遠く、而して当に長く殷祫を饗し、永く太祖の位を虚しくせんとは、礼籍に求めても、未だ其の可なるを見ず。昔し永和の初め、大いに此の礼を議す。時に虞喜・范宣並びに洪儒碩学を以てし、咸に四府君の神主は縁無くして永く百世に存すべからずと謂ふ。或ひは之を両階に瘞めんと欲し、或ひは之を石室に蔵めんと欲し、或ひは之が為に改築せんと欲す。執る所小異と雖も、大帰は是れ同じなり。若し宣皇既に群廟の上に居りて、而して四主の禘祫已まずば、則ち大晉の殷祭は長く太祖の位無からん。夫れ理は中を貴ぶ、必ずしも厚きを過ぐすに及ばず。礼は世と共に遷る、豈に順ひて断ぜざらんや。故に臣子の情は篤しと雖も、而して霊・厲の諡は弥く彰れ、追遠の懐は切なりと雖も、而して遷毀の礼は用ひらる。豈に厚く加ふるに心無からんや、顧みるに礼制は踰ゆべからざるのみ。石室は則ち廟北に蔵め、改築は則ち処する所を知らず。虞主は神に依る所以なり、神移れば則ち瘞埋の礼有り。四主若し饗祀廃すべければ、亦た神の依らざる所なり。傍の事例に准へば、宜しく虞主の瘞埋に同じくすべし。然れども經典は詳らかにし難く、群言錯繆す。臣が浅識の能く折中するに非ざるなり。時に学者多く燾の議に従ふも、竟に施行せず。

原文議者又以四府君神主,宜永同于殷祫。臣又以為不然。傳所謂毀廟之主,陳乎太祖,謂太祖以下先君之主也。故白虎通云:「禘祫祭遷廟者,以其繼君之體,持其統而不絕也。」豈如四府君在太祖之前乎,非繼統之主,無靈命之瑞,非王業之基。昔以世近而及,今則情禮已遠,而當長饗殷祫,永虛太祖之位,求之禮籍。未見其可。昔永和之初,大議斯禮,于時虞喜、范宣並以洪儒碩學,咸謂四府君神主無緣永存於百世。或欲瘞之兩階,或欲藏之石室,或欲為之改築,雖所執小異,而大歸是同。若宣皇既居群廟之上,而四主禘祫不已,則大晉殷祭長無太祖之位矣。夫理貴有中,不必過厚,禮與世遷,豈可順而不斷?故臣子之情雖篤,而靈、厲之諡彌彰,追遠之懷雖切,而遷毀之禮為用。豈不有心于加厚,顧禮制不可踰耳。石室則藏於廟北,改築則未知所處。虞主所以依神,神移則有瘞埋之禮。四主若饗祀宜廢,亦神之所不依也。准傍事例,宜同虞主之瘞埋。然經典難詳,群言錯繆,非臣淺識所能折中。時學者多從燾議,竟未施行。

宋の武帝、命を受く。太常に拝す。外戚貴顕と雖も、而して弥く自ら沖約たり。茅屋蔬飧、其の旧を改めず。得る所の奉祿は、親戚と之を共にす。永初三年に致事し、光禄大夫に拝し、金章紫綬を加ふ。卒す。少帝、左光禄大夫を贈る。

原文宋武帝受命,拜太常。雖外戚貴顯,而彌自沖約。茅屋蔬飧,不改其舊。所得奉祿,與親戚共之。永初三年致事,拜光祿大夫,加金章紫綬。卒,少帝贈左光祿大夫。

長子邃、宜都太守。邃の子凝之、学に渉り当世の才有り、司空徐湛之と異常の交りを為す。年少の時、傅僧佑と倶に通家の子を以てし、始めて文帝に引見せらる。時に上は何尚之と鑄錢の事を論ず。凝之便ち其の語次に干す。上因りて回りて語らふ。僧佑、凝之の衣を引きて止めしむ。凝之大言して曰く、「明主は再遇し難し、便応に政めて懐ふ所を尽くすべし」と。上と往復十余反す。凝之の辞韻詮序す。上甚だ之を賞す。後に尚書左丞と為り、徐湛之の党を以て、元凶に殺さる。凝之の子寅、字は士若、事は沈攸之伝に在り。寅の弟棱、後軍参軍。棱の子嚴。

原文長子邃,宜都太守。邃子凝之,學涉有當世才,與司空徐湛之為異常交。年少時,與傅僧佑俱以通家子,始為文帝所引見。時上與何尚之論鑄錢事,凝之便幹其語次,上因回與語。僧佑引凝之衣令止,凝之大言曰:「明主難再遇,便應政盡所懷。」上與往復十餘反,凝之辭韻詮序,上甚賞焉。後為尚書左丞,以徐湛之党,為元凶所殺。凝之子寅字士若,事在沈攸之傳。寅弟棱,後軍參軍。棱子嚴。

嚴、字は彥威、幼より孝性有り、父の憂に居りて毀れて聞こゆ。孤貧にして勤学し、行止書巻手を離れず。從叔未甄、江夏郡と為り、嚴を携へて官に之く。途に於て屯遊賦を作り、又た七算を作る。辞並びに典麗なり。

原文嚴字彥威,幼有孝性,居父憂以毀聞。孤貧勤學,行止書卷不離手。從叔未甄為江夏郡,攜嚴之官,於途作屯遊賦,又作七算,辭並典麗。

性孤介にして、未だ嘗て造請せず。梁の僕射徐勉、之を識らんと欲すも、嚴終に詣らず。累遷して湘東王宣惠軽車府参軍兼記室と為る。嚴は学に於て諳記する所多く、尤も漢書に精しく、諷誦略皆上口す。王嘗て自ら四部書目を執りて之を試みる。嚴は甲より丁の巻に至るまで各々一事に対し、並びに作者の姓名を挙ぐ。遂に遺失無し。王、荊州に遷る。府に随ひて転じて西中郎安西録事参軍と為り、義陽・武寧郡守を歴る。郡界は蛮左なり。前の郡守は常に武人を選びて兵を以て之を鎮む。嚴独り数門生を以て単車にて境に入る。群蛮悦服す。後に鎮南諮議参軍に卒す。文集十巻。

原文性孤介,未嘗造請。梁僕射徐勉欲識之,嚴終不詣。累遷湘東王宣惠輕車府參軍兼記室。嚴於學多所諳記,尤精漢書,諷誦略皆上口。王嘗自執四部書目試之,嚴自甲至丁卷中各對一事,並作者姓名,遂無遺失。王遷荊州,隨府轉西中郎安西錄事參軍,曆義陽、武寧郡守。郡界蠻左,前郡守常選武人以兵鎮之,嚴獨以數門生單車入境,群蠻悅服。後卒于鎮南諮議參軍。文集十卷。

嚴の族叔未甄は、燾の曾孫なり。父は潭之、左戸尚書。未甄は才幹有り、少くして外兄汝南周顒に知らる。梁に仕えて太尉長史と為る。生母の憂に丁し、三年墓側に廬す。廷尉卿、江夏太守を歴り、卒す。子は盾。

原文嚴族叔未甄,燾曾孫也。父潭之,左戶尚書。未甄有才幹,少為外兄汝南周顒所知,仕梁為太尉長史。丁所生母憂,三年廬於墓側。曆廷尉卿,江夏太守,卒。子盾。

盾、字は宣卿、幼より征士琅邪諸葛璩に従ひて五経を受く。璩の学徒常に数十百人有り。盾其の間に処りて、狎比する所無し。璩曰く、「此生は王佐の才なり」と。尚書中兵郎と為る。風姿美くしく、容止善し。毎に趨奏するに、梁の武帝甚だ之を悦ぶ。入りて中書通事舍人を兼ぬ。

原文盾字宣卿,幼從征士琅邪諸葛璩受五經。璩學徒常有數十百人,盾處其間,無所狎比。璩曰:「此生王佐才也。」為尚書中兵郎。美風姿,善容止,每趨奏,梁武帝甚悅焉。入兼中書通事舍人。

盾に孝性有り。嘗て父に随ひて廷尉府に宿直す。母劉氏、宅に在りて夜暴かに亡ぶ。盾の左手中指忽ち痛みて寝るを得ず。及び旦、宅の信果たして凶問を報ず。其の感通此の如し。服未だ終はらざるに、父卒す。喪に居ること五年、廬戸を出でず。形骸枯悴し、家人識らず。武帝累たび敕して抑譬す。後に累遷して御史中丞と為る。性公強にして、甚だ職に称す。中大通五年、帝、同泰寺に幸して開講し、四部大会を設け、衆数万人。南越の献ずる所の馴象、忽ち衆中に於て狂逸す。衆皆駭散す。唯だ盾と散騎侍郎裴之礼と嶷然として自若たり。帝甚だ之を嘉す。

原文盾有孝性,嘗隨父宿直廷尉府,母劉氏在宅夜暴亡,盾左手中指忽痛不得寢。及旦,宅信果報凶問,其感通如此。服未終,父卒,居喪五年,不出廬戶,形骸枯悴,家人不識。武帝累敕抑譬。後累遷御史中丞,性公強,甚稱職。中大通五年,帝幸同泰寺開講,設四部大會,眾數萬人。南越所獻馴象忽於眾中狂逸,眾皆駭散,唯盾與散騎侍郎裴之禮嶷然自若,帝甚嘉焉。

大同二年(536年)、中領軍となった。領軍は天下の兵権を管轄し、監局の事務は多く、臧盾は人となり敏捷で才知に富み、風力(果断な気風)があり、煩雑な事務を処理するのに長け、職務をよく治めた。先に呉平侯蕭景がこの職にあり名声を挙げていたが、この時臧盾が再びこれを継いだ。後に領軍將軍の任で没し、諡して忠といった。

原文大同二年,為中領軍。領軍管天下兵要,監局事多,盾為人敏贍,有風力,長於撥繁,職事甚理。先是吳平侯蕭景居此職著聲,至是盾復繼之。後卒于領軍將軍,諡曰忠。

臧盾の弟臧厥は字を献卿といい、やはり幹局(才幹と器量)を称された。晋安太守となった。郡は山海に位置し、常に逃亡者を結集させ、前の二千石(太守)が討伐捕縛しても止められなかった。臧厥が着任して教化を宣布すると、凶党は皆子を背負って出頭し、これより住民は生業に戻った。しかし政は厳しく、百姓は彼を臧彪と呼んだ。前後二度中書通事舎人を兼ね、兼司農卿の任で没した。

原文盾弟厥字獻卿,亦以幹局稱。為晉安太守,郡居山海,常結聚逋逃,前二千石討捕不能止。厥下車宣化,凶黨皆繈負而出,自是居人復業。然政嚴,百姓謂之臧彪。前後再兼中書通事舍人,卒于兼司農卿。

臧厥は前後して職にあり、管掌する局の大事や蘭台・廷尉で決断できない事柄は、勅命により全て臧厥に付された。弁断は精緻明察で、皆その理を得た。没後、登聞鼓を叩いて訴え、清直舎人に付すことを求める者があった。帝は言った、「臧厥が既に亡くなった以上、この事はもはや付すべき者がいない」。そのように見知られていたのである。子の臧操は尚書三公郎となった。

原文厥前後居職,所掌之局大事及蘭台廷尉所不能決者,敕並付厥。辯斷精明,咸得其理。卒後,有撾登聞鼓訴求付清直舍人,帝曰:「臧厥既亡,此事便無所付。」其見知如此。子操,尚書三公郎。

臧熹は字を義和といい、臧燾の弟である。臧燾と共に経学を好んだ。隆安元年(397年)に兵乱が起こると、臧熹は騎射を習い、功名を立てる志を持った。かつて溧陽令の阮崇と狩りをした時、猛獣が突進して包囲し、狩りの仲間は皆散り散りになったが、臧熹がこれを射ると、弦に応じて倒れた。

原文熹字義和,燾之弟也,與燾並好經學。隆安初兵起,熹乃習騎射,志立功名。嘗與溧陽令阮崇獵,遇猛獸突圍,獵徒並散,熹射之,應弦而倒。

宋の武帝(劉裕)に従って京城に入り、建鄴に進んだ。桓玄が逃走すると、武帝は直ちに臧熹を宮中に入れて図書器物を収め、府庫を封じさせた。金飾りの楽器があり、武帝は臧熹に尋ねた、「卿はこれを欲しいか」。臧熹は厳しい顔色で言った、「主上は幽閉逼迫され、流浪の身でおられる。将軍がまず大義を立て、王室のために労苦されている。たとえ不肖の身であっても、実に音楽に心を寄せる余裕はありません」。帝は笑って言った、「ただ戯れに言っただけだ」。建義の功により始興県五等侯に封ぜられ、武帝の車騎将軍・中軍将軍の軍事に参じた。

原文從宋武入京城,進至建鄴。桓玄走,武帝便使熹入宮收圖書器物,封府庫。有金飾樂器,武帝問熹:「卿欲此乎?」熹正色曰:「主上幽逼,播越非所,將軍首建大義,劬勞王室,雖復不肖,實無情于樂。」帝笑曰:「聊以戲耳。」以建義功,封始興縣五等侯,參武帝車騎、中軍軍事。

武帝が広固を征討しようとした時、議論する者は多く反対したが、臧熹はその出撃を支持した。

原文武帝將征廣固,議者多不同,熹贊成其行。

武帝は朱齢石に大軍を統率させて蜀を伐たせ、臧熹に奇兵を率いて中水から出撃するよう命じ、建平・巴東二郡太守を兼ねさせた。蜀主の譙縦は大将の譙撫之を牛脾に駐屯させ、また譙小苟に重兵を率いて打鼻を塞がせた。臧熹が牛脾に至ると、撫之は敗走し、追撃してこれを斬った。成都が平定された。臧熹は病に罹り蜀で没し、光禄勲を追贈された。

原文武帝遣朱齡石統大眾伐蜀,命熹奇兵出中水,領建平、巴東二郡太守。蜀主譙縱遣大將譙撫之屯牛脾,又遣譙小苟重兵塞打鼻。熹至牛脾,撫之敗走,追斬之,成都平。熹遇疾卒於蜀,追贈光祿勳。

子の臧質は字を含文といい、若い頃から鷹や犬を好み、樗蒲や意銭(賭博の一種)の遊戯を得意とした。身長六尺七寸、顔は大きく口が突出し、頭頂は禿げて髪は縮れていた。初め世子中軍参軍となり、かつて護軍趙倫之を訪ねた。趙倫之は名声地位が既に重かったが、応対しなかった。臧質は憤然として立ち上がり言った、「大丈夫それぞれ老女(母)を門戸の頼りとしているのに、どうしてこれほどまでに互いに軽んじ合うことがあろうか」。趙倫之は恥じて謝罪したが、臧質は袖を払って去った。

原文子質字含文,少好鷹犬,善蒱博意錢之戲。長六尺七寸,出面露口,頹頂拳發。初為世子中軍參軍,嘗詣護軍趙倫之,倫之名位已重,不相接。質憤然起曰:「大丈夫各以老嫗作門戶,何至以此中相輕。」倫之慚謝,質拂衣而去。

後に江夏王劉義恭の撫軍参軍となったが、軽薄で行いを慎まなかったため、文帝(劉義隆)に嫌われ、給事中に転じた。会稽長公主が度々彼のために取りなしたので、出向して建平太守となり、蛮族や楚の民の心を大いに得た。竟陵内史、巴東・建平二郡太守を歴任し、官吏民衆に便利とされた。臧質は年齢が三十を出たばかりで、たびたび名郡の長官を務め、文史に広く通じ、書簡文書に敏速で、気骨と才幹があり、兵事を好んで論じた。文帝は大任に堪えうると考え、徐・兗二州刺史とし、都督を加えた。任地で奢侈浪費し、爵位任命に規律がなく、有司に糾弾された。赦令に遇った。范曄・徐湛之らと親しく交わった。范曄が謀反を企てた時、臧質も必ずこれに与すると推量された。事件が発覚すると、また義興太守となった。

原文後為江夏王義恭撫軍參軍,以輕薄無檢,為文帝所嫌,徙給事中。會稽長公主每為之言,乃出為建平太守,甚得蠻楚心。曆竟陵內史,巴東建平二郡太守,吏人便之。質年始出三十,屢居名郡,涉獵文史,尺牘便敏,有氣幹,好言兵。文帝謂可大任,以為徐、兗二州刺史,加都督。在鎮奢費,爵命無章,為有司所糾。遇赦。與范曄、徐湛之等厚善。曄謀反,量質必與之同。會事發,復為義興太守。

元嘉二十七年(450年)、南譙王劉義宣の司空司馬・南平内史に転じた。着任しないうちに、北魏の太武帝(拓跋燾)が汝南を包囲し、戍主の陳憲が固守して危急を告げたため、文帝は臧質に軽装で寿陽に向かい、安蛮司馬劉康祖らと共に陳憲を救援させた。後に太武帝が数十万の大軍を率いて彭城に向かうと、臧質を輔国将軍として北進救援させた。臧質が盱眙に到着した時、太武帝は既に淮水を渡っていた。二十八年正月、太武帝は広陵から北帰し、全力で盱眙を攻撃し、臧質に酒を求めた。臧質は小便を封じてこれに与えた。太武帝は大いに怒り、長い包囲陣を築き、一夜で完成させた。臧質は太武帝に返書して云った、「お前は童謡を聞かないのか。虜馬江水を飲み、仏狸卯年に死す。冥々たる期運がそうさせるのであって、もはや人の力ではない。寡人は命を受けて汝を滅ぼさんとし、期するは白登(の戦いのよう)である。軍が未だ遠くに行かぬうちに、お前は自ら死を送りに来た。どうして再びお前に桑幹河を享有させることができようか。たとえ寡人がお前を殺せなくとも、お前は我によって死ぬのだ。お前に幸いあれば、乱兵に殺されるであろう。お前に不幸あれば、生きて鎖で縛られ、一頭の驢馬に載せられ、都の市に引き据えられるであろう。お前の識見知恵と兵力は、どうして苻堅に勝てようか。近年お前が跳梁したのは、お前が未だ江水を飲まず、太歳が卯年でなかったからに過ぎない」。当時、魏の地の童謡に云った、「軺車北より来たり雉を穿つが如し、意えず虜馬江水を飲む。虜主北に帰り石済に死し、虜江を渡らんと欲すれば天徙わず」。故に返書でこれを引用したのである。太武帝は大いに怒り、鉄の床を作り、その上に鉄の鑱(鋭い先端)を施し、云った、「城を破って臧質を得たら、必ずこの上に座らせよう」。臧質はまた魏軍に書を送り、朝廷の懸賞格(台格)を書き写し、太武帝を斬った者に万戸侯を封じ、布絹各一万匹を賜うと伝えた。

原文二十七年,遷南譙王義宣司空司馬、南平內史。未之職,會魏太武帝圍汝南,戍主陳憲固守告急,文帝遣質輕往壽陽,與安蠻司馬劉康祖等救憲。後太武率大眾數十萬向彭城,以質為輔國將軍北救。始至盱眙,太武已過淮。二十八年正月,太武自廣陵北返,悉力攻盱眙,就質求酒。質封溲便與之,太武怒甚,築長圍一夜便合。質報太武書云:「爾不聞童謠言邪?虜馬飲江水,佛狸死卯年。冥期使然,非復人事。寡人受命相滅,期之白登,師行未遠,爾自送死,豈容復令爾饗有桑幹哉。假令寡人不能殺爾,爾由我而死。爾若有幸,得為亂兵所殺;爾若不幸,則生相鎖縛,載以一驢,負送都市。爾識智及眾,豈能勝苻堅邪?頃年展爾陸梁者,是爾未飲江太歲未卯故耳。」時魏地童謠曰:「軺車北來如穿雉,不意虜馬飲江水。虜主北歸石濟死,虜欲度江天不徙。」故答書引之。太武大怒,乃作鐵床,于上施鐵鑱,云:「破城得質,當坐之此上」。質又與魏軍書,寫台格購斬太武封萬戶侯,賜布絹各萬疋。

魏軍は鉤車で城壁の楼閣を引っ掛けた。城内では数百人が綱を結びつけて叫びながら引き、車を退かせなかった。臧質は夜に木桶に人を入れて城外に吊り下げ、その鉤を切断して奪った。翌日また衝車で城を攻撃したが、土塁は堅固で密であり、衝車が当たる度に崩れ落ちる土は数斗に過ぎなかった。魏軍は肉薄して城に登り、墜落してもまた登り、退く者はなかった。殺傷は万を数え、死者は城と高さを同じくした。このように三十日が過ぎ、死者は半数を超えたため、太武帝は包囲を解いて帰還した。上(孝武帝)は臧質の功を賞し、甯蛮校尉・雍州刺史・監四州諸軍事とした。翌年、文帝はまた北征し、臧質に現有兵力を率いて潼関に向かわせた。臧質は兵を留めて時を移さず出発せず、また寵妾を顧み恋慕し、軍営を棄てて単騎で城に戻り、朝廷の庫の現銭六、七百万を散財したため、有司に糾弾されたが、上は問わなかった。

原文魏以鉤車鉤垣樓,城內系絙,數百人叫呼引之,車不能退。質夜以木桶盛人,縣出城外,截其鉤獲之。明日又以沖車攻城,土堅密,每至,頹落下不過數斗。魏軍乃肉薄登城,墜而復升,莫有退者。殺傷萬計,死者與城平。如此三旬,死者過半,太武乃解圍而歸。上嘉質功,以為甯蠻校尉、雍州刺史、監四州諸軍事。明年,文帝又北侵,使質率見力向潼關。質頓兵不肯時發,又顧戀嬖妾,棄軍營壘,單馬還城,散用台庫見錢六七百萬,為有司所糾,上不問。

元凶(劉劭)が弑逆して即位すると、臧質を丹陽尹とした。臧質の家から門生の師顗が臧質に報告し、文帝の崩御の報を詳しく伝えた。臧質は使者を遣わして司空劉義宣及び孝武帝(劉駿)に告げさせ、自らは五千の兵を率いて急ぎ下り、逆賊を討とうとし、陽口から進んで江陵で劉義宣に会った。当時臧質の諸子は都にいたが、臧質が義兵を挙げたと聞き、皆逃亡した。劉義宣は初めて臧質の報せを得ると、即日に挙兵し、急使を立てて孝武帝に報せ、板授により臧質の号を征北将軍に進めた。孝武帝が即位すると、臧質に車騎将軍・開府儀同三司・都督江州諸軍事を加えた。臧質を白下から歩いて上らせ、薛安都・程天祚らもまた南掖門から入り、臧質と共に太極殿の庭で合流し、元凶を生け捕りにした。引き続き臧質に朝堂を留守させ、始興郡公に封じた。任地に赴く時、船は千余艘、隊列は前後百余里に及び、六艘の平乗(楼船)に全て龍子幡を掲げた。

原文元凶弑立,以質為丹陽尹。質家遣門生師顗報質,具言文帝崩問。質使告司空義宣及孝武帝,而自率眾五千馳下討逆,自陽口進江陵見義宣。時質諸子在都,聞質舉義,並逃亡。義宣始得質報,即日舉兵馳信報孝武,板進質號征北將軍。孝武即位,加質車騎將軍、開府儀同三司、都督江州諸軍事。使質自白下步上,薛安都、程天祚等亦自南掖門入,與質同會太極殿庭,生禽元凶,仍使質留守朝堂,封始興郡公。之鎮,舫千餘乘,部伍前後百餘里,六平乘並施龍子幡。

当時、孝武帝は自ら威権を掌握していたが、臧質は年少の君主として遇し、刑罰政事や慶事賞与について、再び朝廷に諮詢せず、自らその人材が一世の英傑に足ると称した。初めて国の禍(文帝弑逆)を聞いた時から、既に異なる図り(野心)があり、劉義宣が凡庸で暗愚で制御しやすいと考え、外見上推戴奉じてその志を成そうとした。江陵に至ると、すぐに拝礼して名を称した。臧質は劉義宣とは兄弟ではあったが、年齢はほぼ十歳上であった。劉義宣は驚いて言った、「君はどうして弟に拝礼するのか」。臧質は言った、「事態の中では当然のことです」。当時劉義宣は既に孝武帝を推戴していたので、その計略は実現しなかった。臧質は常に事が漏れることを憂慮し、新亭に至ると、また江夏王劉義恭に拝礼した。劉義恭は愕然として、臧質にその理由を尋ねた。臧質は言った、「天下は艱難危険にあり、礼儀は平常の日とは異なります。以前荊州におりました時も、司空(劉義宣)に拝礼しました」。

原文時孝武自攬威權,而質以少主遇之,刑政慶賞,不復諮稟朝廷,自謂人才足為一世英傑。始聞國禍,便有異圖,以義宣凡闇易制,欲外相推奉以成其志。及至江陵,便致拜稱名。質于義宣雖為兄弟,而年近大十歲。義宣驚曰:「君何意拜弟?「質曰:「事中宜然。」時義宣已推崇孝武,故其計不行。每慮事泄,及至新亭,又拜江夏王義恭。義恭愕然,問質所以。質曰:「天下屯危,禮異常日,前在荊州,亦拜司空。」

時に義宣は孝武帝に対して遺恨を抱いており、臧質はこれに乗じて密かに書信を送り説き誘い、朝廷の得失を述べた。また、君主を震駭させる威勢は長く持続し得ないと説いた。臧質の娘は義宣の子劉悰の妻であったので、臧質に異心はないと考え、その説を受け入れた。また、義宣の腹心の将佐である蔡超・竺超人等も皆富貴を願う気持ちがあり、義宣を勧めた。義宣は当時まだ丞相に任じられておらず、臧質の子臧敦は黄門侍郎として、詔を奉じて義宣を勧め慰めるため、道中尋陽を経由したので、臧質は臧敦に命じてさらに詳しく譬えを以て義宣を説かせた。義宣の決意はそこで固まり、豫州刺史魯爽に急報を送り、孝建元年の秋に同時に挙兵することを約した。

原文會義宣有憾于孝武,質因此密信說誘,陳朝廷得失。又謂震主之威不可持久。質女為義宣子悰妻,謂質無復異同,納其說。且義宣腹心將佐蔡超、竺超人等咸有富貴情願,又勸義宣。義宣時未受丞相,質子敦為黃門侍郎,奉詔敦勸,道經尋陽,質令敦具更譬說義宣。義宣意乃定,馳報豫州刺史魯爽,期孝建元年秋同舉。

魯爽は意図を誤解し、直ちに兵を起こし、都に人を遣わして弟の魯瑜に報せ、一族を率いて奔走して叛いた。魯瑜の弟魯弘は臧質の府の佐官であったので、孝武帝は急使を馳せて臧質に魯弘を誅殺するよう報せた。そこで臧質は台使を捕らえ、慌てふためいて挙兵し、義宣に急報を送った。孝武帝は撫軍將軍柳元景を遣わし、豫州刺史王玄謨らを統率させて梁山洲に駐屯させ、両岸に偃月形の堡塁を築き、水陸で待ち構えさせた。柳元景が檄文を発布して宣告すると、義宣の軍も相次いで到着した。江夏王劉義恭の書状に「昔、桓玄が仲堪から兵を借りたことが、今日のことに似ている」とあった。義宣はこれによって臧質を疑うようになった。臧質は進んで計略を述べた。「今、一万の兵で南州を取れば、梁山の連絡は断たれ、一万の兵で王玄謨を引きつければ、彼は必ず軽々しく動かないでしょう。臧質が外江に舟を浮かべて、直ちに石頭城に向かうのが、上策です」。

原文爽失旨,即起兵,遣人至都報弟瑜,席捲奔叛。瑜弟弘為質府佐,孝武馳使報質誅弘,於是執台使,狼狽舉兵,馳報義宣。孝武遣撫軍將軍柳元景統豫州刺史王玄謨等屯梁山洲,兩岸築偃月壘,水陸待之。元景檄書宣告,而義宣亦相次系至。江夏王義恭書曰:「昔桓玄借兵于仲堪,有似今日。」義宣由此與質相疑。質進計曰:「今以萬人取南州,則梁山中絕,萬人綴玄謨,必不敢輕動。質浮舟外江,直向石頭,此上略也。」

義宣がこれに従おうとしたところ、義宣の食客である顔楽之が義宣に説いた。「臧質がもし再び東城を攻略すれば、大功はすべて彼のものになってしまいます。ご自身の麾下を遣わして行かせるべきです」。義宣は腹心の劉諶之を臧質のもとに遣わし、軍を城南に布陣させた。王玄謨は老弱兵を留めて城を守らせ、精兵をすべて率いて出戦した。薛安都の騎兵隊が前に出て、垣護之が諸将を督してこれに続き、臧質軍は大敗した。臧質は義宣に会って事を計らおうとしたが、密かに義宣は既に逃走していた。臧質はどうしてよいか分からず、やはり逃走して尋陽に至り、府舎を焼き、妓妾を車に載せて南湖に入り、蓮を摘んで食った。追兵が来ると、荷葉で頭を覆い、水中に沈み、鼻を出した。軍主の鄭俱兒がこれを見て、その心臓を射ると、兵刃が乱れ到り、腹や胃は水草に絡みついた。隊主の裘応が臧質を斬り、その首を建鄴に伝送した。録尚書事の江夏王劉義恭らが上奏し、漢の王莽の故事に倣い、その頭を漆で塗り固めて武庫に蔵めることを請うた。詔はこれを許可した。

原文義宣將從之,義宣客顏樂之說義宣曰:「質若復拔東城,則大功盡歸之矣。宜遣麾下自行。」義宣遣腹心劉諶之就質陳軍城南。玄謨留羸弱守城,悉精兵出戰。薛安都騎軍前出,垣護之督諸將繼之,乃大潰。質求義宣欲計事,密已走矣。質不知所為,亦走至尋陽,焚府舍,載妓妾入南湖,摘蓮噉之。追兵至,以荷覆頭,沈于水,出鼻。軍主鄭俱兒望見,射之中心,兵刃亂至,腹胃纏縈水草。隊主裘應斬質,傳首建鄴。錄尚書江夏王義恭等奏依漢王莽事,漆其頭藏於武庫,詔可。

論

原文論

論じて曰く、趙倫之と蕭思話はともに外戚の縁故により、共に風雲の機会に接した。親密さを言えば趙氏の方が密であり、声望を論じれば蕭氏の方が重かった。古人が「人は能く道を弘む」と言ったのは、まさにこのことを言うのであろうか。蕭惠開は親族への礼節は篤かったが、弟との不和は特に著しく、方寸の内に、孝と友との情が異なっていた。山川よりも険しいとは、ここにその証がある。臧氏は文義の美を累代に伝えたが、臧質(含文)は誅滅を招いた。乱を好んだことによるものであろうか。

原文論曰:趙倫之、蕭思話俱以外戚之親,並接風雲之會,言親則在趙為密,論望則于蕭為重。古人云:「人能弘道」,蓋此之謂乎。惠開親禮雖篤,弟隙尤著,方寸之內,孝友異情。嶮于山川,有驗於此。臧氏文義之美,傳於累代,含文以致誅滅,好亂之所致乎。