劉敬宣
劉敬宣、字は万寿、彭城の人である。父は牢之、晋の鎮北将軍。敬宣は八歳で母を喪い、昼夜号泣し、中表の者はこれを異とした。輔国将軍桓序が蕪湖に鎮した時、牢之は序の軍事に参じた。四月八日、敬宣は衆人が仏に灌水するのを見て、自らの頭上金鏡を下ろして母の像に灌ぎ、悲泣して自ら勝えなかった。序は牢之に言う、「卿のこの児はただ家の孝子たるのみならず、必ずや国の忠臣とならん」と。
宋の武帝が既に累ねて妖賊を破り、功名日に盛んとなるに及び、敬宣は深く結び憑んだ。元顕が驃騎将軍に進号すると、敬宣は仍って府に随って転じた。元顕は驕り放恣で、群下もこれに化したが、敬宣は毎度宴会に預かるも、調戯に酬答することなく、元顕は甚だ悦ばなかった。
玄は既に志を得て、元顕を害し、道子を廃し、牢之を会稽太守とした。牢之は敬宣と謀りて玄を襲わんとし、期を明旦と定めた。その日大霧が立ち、府門は遅く開き、日旰も敬宣至らず。牢之は謀り泄れたるかと謂い、広陵に奔らんと欲し、而して敬宣は京口に還って家を迎えていた。牢之は已に玄に擒えられたるかと謂い、乃ち縊死した。敬宣は喪に奔り、哭し畢りて、司馬休之・高雅之等と共に洛陽に奔り、長安に往来し、姚興に救援を求め、後に慕容徳に奔った。
敬宣は平素より天文に明るく、必ずや晋室を興復する者あることを知っていた。尋ねて丸土を服する夢を見、覚めて喜んで曰く、「丸は桓なり、桓を吞む、吾れ当に本土に復せんか」と。乃ち青州の大姓諸崔・封らと結び、徳を滅ぼすを謀り、休之を主と推した。時に徳の司空劉軌は大いに任用され、高雅之はまた軌を要したが、謀り泄れ、乃ち相与に軌を殺して去った。会に宋の武帝が京口を平定し、手書を以て敬宣を召すと、即ち馳せ還り、武岡県男を襲封し、後に江州刺史拝された。
劉毅が若き頃、或る人は雄桀を以てこれを許した。敬宣曰く、「この人は外は寛にして内は忌み、自ら伐りて人を尚び、若し一旦遭逢すれば、当に陵上を以て禍を取らん」と。毅聞きて深く恨んだ。江陵に在る時、敬宣の還るを知り、尋ねて江州となるを知り、大いに駭惋した。敬宣は愈々自ら安からず。安帝が反正すると、自ら表して解職を求めた。武帝の恩款は周渉し、賜う所はこれと比ぶるもの莫し。敬宣の女が嫁ぐに、銭三百万、雑彩千匹を賜う。
五年、武帝が慕容超を伐つに当たり、中軍諮議参軍を除かれ、兗州刺史劉藩と共に超軍を大破し、進んで広固を囲み、屡々規略を献じた。盧循が建鄴に逼ると、敬宣は分かれて鮮卑の獣斑突騎を領し、陣を置くこと甚だ整たり。循走り、仍って南討に従い、左衛将軍となる。敬宣は寛厚にして、士を善く遇い、多伎芸、弓馬音律、事として善からざるは無し。尚書僕射謝混は才地美にして、交納すること少なかったが、敬宣と遇えば便ち礼を尽くした。或る人混に問う、「卿未だ嘗て軽く交わさず、而るに劉寿に傾蓋す、何ぞや」と。混曰く、「孔文挙が太史子義を礼したる、天下豈にこれを非とせんや」と。
初め、敬宣が蜀より還ると、劉毅は重法を以てこれを縛せんと欲した。武帝が既に任待し、又何無忌が私憾を以て至公を傷つくべからざるを謂う。毅は止むも、猶武帝に謂いて曰く、「平生の旧、豈に孤信すべけんや。光武は龐萌に之を悔い、曹公は孟卓に之を失う。宜しく深く之を慎むべし」と。毅が荊州に出ると、敬宣に謂いて曰く、「卿を屈して長史・南蛮たらしめんと欲す、豈に輔くるの意有らんや」と。敬宣は禍を懼れ、以て武帝に告ぐ。帝笑いて曰く、「但だ老兄の平安を令するのみ、必ず過慮無からん」と。後に冀州刺史を領す。
時に帝が西討して劉毅を討つに当たり、豫州刺史諸葛長人は太尉軍事を監し、敬宣に書を貽して曰く、「盤龍(劉毅)狼戾専恣、自ら夷滅を取る。異端将に尽き、世路方に夷らかならん、富貴の事、相与に之を共にせん」と。敬宣報じて曰く、「下官常に福過ぎて災生ずるを懼れ、実に盈を避け損に居らんことを思う。富貴の旨、敢えて当うる所に非ず」と。便ち長人の書を呈す。帝は王誕に謂いて曰く、「阿寿故に我に負かず」と。
十一年、右軍將軍に進號した。時に晉の宗室司馬道賜は敬宣の参軍であった。武帝が司馬休之を西征した際、道賜はひそかに同府の辟閭道秀・左右小将王猛子らと結託して謀反を企てた。道賜は自ら齊王と号し、広固を占拠して兵を挙げ、休之に呼応しようとした。猛子が敬宣の刀を取って敬宣を殺害すると、文武の佐吏はただちに道賜・道秀・猛子を討ち斬った。初めに敬宣が夜、僚佐と宴を開いた時、空中から一隻の芒屩が座中に投げ込まれ、敬宣の食盤の上に墜ちた。長さ三尺五寸で、すでに人が履いたものであり、耳と鼻の間は壊れようとしており、まもなく敗れた。喪が至ると、武帝は臨哭して甚だ哀しんだ。子の光祖が嗣いだ。宋が禅を受けると、封国は除かれた。
劉懷肅
劉懷肅は彭城の人であり、宋の武帝の従母兄である。家は代々貧窮していたが、自ら耕作して学問を好んだ。晉に仕えて費県令となった。武帝が起義したと聞くと、県を棄てて来奔した。
蔚祖が卒去すると、子の道存が嗣いだ。位は太尉江夏王義恭の諮議参軍に至った。孝武帝が元凶を討伐すると、道存は義軍に奔ったため、元凶はその母を殺して見せしめとした。景和年中、義恭の太宰從事中郎となった。義恭が敗れると、党与として獄に下され死んだ。
懷肅の次弟懷敬は、口が重く才能がなかった。初め、武帝が生まれて皇妣が亡くなると、孝皇帝は貧しく、乳母を得る方法がなく、養育を断念しようと議した。武帝の従母が懷敬を生んでまだ一年にもならぬうちに、懷敬の乳を断って自ら武帝を養育した。武帝は旧恩により、懷敬は累次寵愛を受けて任用され、会稽太守に至った。時に速やかすぎるとされたが、武帝は「亡き姨は我に恩が重い、これをどうして忘れられようか」と言った。尚書・金紫光禄大夫を歴任した。
子の德願が嗣いだ。大明初年、遊撃將軍となり、石頭戍事を兼ねた。賈客韓佛智から賄賂を受けた罪に坐し、獄に下されて爵位を奪われた。後に秦郡太守となった。德願は性粗率で、孝武帝に狎れ侮られた。上の寵姫殷貴妃が薨じ、葬儀が終わると、帝は数回群臣を率いて殷の墓に至った。德願に「卿が貴妃を悲しんで哭すれば、厚く賞を加えよう」と言うと、德願は声に応じて号慟し、胸を撫でて踊り、涕泗が交流した。上は甚だ悦び、豫州刺史とした。また医術人羊志に殷氏を哭させると、志もまた嗚咽した。他日に志に問う者が「卿はどうしてあの急な涙を得たのか」と言うと、志は時に新たに愛妾を喪っており、答えて「私はあの日、自ら亡き妾を哭していたのです」と言った。志は滑稽で、諧謔を善くし、上もまた愛狎した。
德願は車の御し方を善くし、かつて二本の柱を立て、その間をかろうじて車軸が通るほど狭くし、百余歩の上から轡を振って長駆し、数尺に至らぬうちに牛を打って柱の間を真っ直ぐに駆け抜けさせた。その精妙さはこのようなものであった。孝武帝はその能を聞き、自ら画輪車に乗り、太宰江夏王義恭の邸に幸した。德願は籠冠を高くかぶり、短い朱衣を着て、轡を執り進退し、甚だ容状があった。永光年中、廷尉となり、柳元景と厚く親善した。元景が敗れると、獄に下されて誅された。
懷慎の庶長子榮祖は、若い頃から騎射を好み、武帝に知られた。盧循が攻め逼った時、賊が小艦に乗って淮に入り柵を抜いたが、武帝は三軍に賊をみだりに射ることを禁ずるよう宣令した。榮祖は憤怒に耐えず、禁を犯してこれを射ると、射た所は弦に応じて倒れ、帝はますます奇異とした。戦功により太尉軍事に参じ、司馬休之討伐に従った。彭城内史徐逵之が敗没すると、諸将は意気沮喪したが、榮祖はますます激しく戦いを請うたので、上は自らの着ていた鎧を解いて授けた。榮祖は陣を陷し、身に数カ所の創傷を受けた。帝が北伐すると、鎮西中兵参軍に転じた。水軍が河に入り、朱超石とともに半城で魏軍を大破した。帝は戦士を大いに饗し、榮祖に「卿は寡をもって衆を克ち、堅城なくして攻め落とす。古の名将といえどもどうしてこれを超えようか」と言った。永初中、輔國將軍となった。半城の功を追論し、都郷侯の爵を賜った。榮祖は人となり財を軽んじ義を貴び、将士を善く撫でた。しかし性褊狭で、士君子の心を頗る失った。官にて卒去した。
懷慎の弟懷默は、江夏内史となった。子の孫登は武陵内史となった。孫登の子亮は、若い頃から刀楯を巧みにし、軍功により順陽縣侯に封ぜられ、梁・益二州刺史を歴任した。在任中は廉潔で、得た公禄を悉く官に還したので、宋の明帝は詔を下して褒め称えた。亮は梁州で突然服食し、長生を得ようとし、武当山の道士孫懷道を迎えて仙薬を合わせさせた。薬が成ると、これを服して卒去した。殯に就けると、屍は弱く生きているようであった。剛侯と諡された。孫登の弟道隆は、前廃帝の景和年中、右衛將軍の位にあり、永昌縣侯に封ぜられ、腹心の任を委ねられた。泰始初年、また明帝に尽力し、左衛將軍・中護軍に遷った。賜死され、事は建安王休仁伝にある。
劉粹
劉粹は字を道沖といい、沛郡蕭県の人である。家は京口にあった。初め州の従事となり、宋の武帝に従って建鄴を平定し、広固を征討し、功により西安縣五等侯に封ぜられた。累遷して中軍諮議参軍となった。盧循が逼った時、京口は重任であったが、文帝は時に四歳であり、武帝は粹に文帝を奉じて京口を鎮守させた。後に江夏相となった。
弟の劉道済
十年正月、賊が再び大挙して至り、成都を攻め迫った。劉道済が卒去すると、裴方明らは共に屍を後ろの部屋に埋め、劉道済の筆跡に似せて書かせた教令を用いた。応答や署名・上疏は、普段と変わらぬ日々のようであり、母や妻も知らなかった。二月、程道養が壇に登って郊天の礼を行い、ちょうど柴を焚こうとした時、裴方明が撃って大いにこれを破った。おりしも平西将軍臨川王劉義慶が巴東太守周籍之に命じて兵を率い成都を救援させた。趙広らは広漢に屯して拠り、郫川を分かち守った。周籍之と裴方明は郫を攻めてこれを落とした。裴方明は偽の驃騎将軍司馬龍伸を捕らえて斬った。龍伸とは程道助である。涪・蜀は皆平定された。
まもなく張尋が陰平を攻め落とし、再び程道養と合流し、郪山に逃れた。その余の群賊は出て盗賊となり絶えなかった。文帝は甯朔将軍蕭汪之を派遣してこれを討たせた。十四年、余党はようやく平定され、趙広・張尋らを建鄴に移した。十六年、趙広・張尋は再び国山県令司馬敬琳と謀反を企て、誅殺された。
劉粹の族弟の劉損、字は子騫、衛将軍劉毅の従父弟である。父の劉鎮之、字は仲徳、劉毅の貴顕により、京口に閑居し、一度も召しに応じなかった。常に劉毅に言った、「汝は必ず我が家を破るであろう」と。劉毅は大いに畏れ憚り、京口に帰るたびに、敢えて儀仗を立てて劉鎮之の門に入ることはなかった。左光禄大夫として召されたが、就かず、家で卒去した。劉損は元嘉年間に呉郡太守となり、昌門に至ると、すぐに太伯廟に入った。当時、廟の建物は崩れ壊れ、垣根も修繕されていなかった。劉損は悲しげに言った、「清らかな塵さえなお彷彿としうるのに、廟舎はなんと破れていることか」。すぐに修繕させた。卒去し、太常を追贈された。
劉損の同郡の宗族に劉伯龍という者がいた。若い時は貧しく薄遇され、成長すると、尚書左丞・少府・武陵太守の官を歴任したが、貧窮は特に甚だしかった。常に家で慨嘆し、左右を呼んで什一の税の方法を営もうとした時、ふと一人の鬼が傍らで手を打って大笑いするのを見た。劉伯龍は嘆いて言った、「貧窮はもとより天命にあるのに、さらに鬼に笑われるとは」。そこでやめた。
孫処
孫処、字は季高、会稽郡永興県の人である。戸籍に字を注記したため、故に字をもって行われる。若い時より気性を任せ、武帝が孫恩を征討する時、季高は喜んで従った。建鄴が平定されると、新夷県五等侯に封ぜられた。盧循の難に際し、武帝は季高に言った、「この賊は敗走するであろうが、卿でなければその窟穴を破ることはできない」。すぐに季高を派遣して海を渡り番禺を襲撃させ、これを陥落させた。盧循の父の盧嘏・長史の孫建之・司馬の虞尪夫らは軽舟で始興に奔った。すぐに振武将軍沈田子らを分遣して嶺表の諸郡を討平させた。盧循は左裏から逃れ戻り広州を襲撃したが、季高がこれを破って敗走させた。義熙七年、季高は卒去し、南海太守を追贈され、候官県侯に封ぜられた。九年、武帝は上表して交州刺史を追贈させた。
蒯恩
蒯恩、字は道恩、蘭陵郡承県の人である。武帝が孫恩を征討した時、県は蒯恩を徴発して馬の草を刈らせた。常に大きな束を負い、他の人より倍も多く担った。毎度草を地に置くたびに嘆いて言った、「大丈夫たるもの三石の弓を引きしめて、どうして馬丁の役を満たすことがあろうか」。武帝はこれを聞き、すぐに武器を与えた。妖賊征討以来、常に先鋒となり、胆力は人に優れ、大いに信愛された。婁県での戦いで、矢が右目に当たった。京城を平定し、建鄴を定め、軍功により都郷侯に封ぜられた。広固討伐に従い、盧循を破り、劉藩に従って徐道覆を追撃斬殺し、王鎮悪と共に江陵を襲撃し、朱齢石に従って蜀を伐ち、また司馬休之討伐に従った。征討に従って以来、およそ百余戦し、身に重傷を負った。武帝はその前後の功績を記録し、新寧県男に封ぜた。
武帝が北伐する時、蒯恩を留めて世子の侍衛とし、朝士に命じて彼と交わらせた。蒯恩はますます自ら謙遜し、人と話す時は常に官位を呼び、自らを鄙人と称し、士卒を撫でるには大いに恩紀があった。世子が開府すると、再び司馬に遷った。後に潼関に入り桂陽公劉義真を迎えたが、赫連勃勃に没した。封国は孫に伝わったが、子がなく、封国は除かれた。
向靖
向靖、字は奉仁、小字は彌、河内郡山陽県の人である。名が武帝の祖父の諱と同じであるため、小字をもって行われる。彌は武帝と旧知であり、京城平定に従い、建武軍事に参じ、進んで建鄴を平定し、功により山陽県五等侯に封ぜられた。また広固征討、盧循討伐に従い、所在で功績を著わし、安南県男に封ぜられた。武帝が司馬休之を西伐し、関中を征討する時、共に任用された。武帝が天命を受けると、創業の功により、曲江県侯に封ぜられ、太子左衛率の位に至り、散騎常侍を加えられた。官で卒去した。彌は身を立てるに倹約し、家屋を営まず、園田や商売の財産もなく、当時の人に称えられた。
子の植が嗣ぎ、過失多く、母の訓戒を受けず、爵位を奪われる。更めて植の次弟の楨を立てて封を紹ぎしむるも、また人を殺した罪に坐し、国除となる。
楨の弟の柳、字は玄季、学義才能あり、立身方雅なり。太尉袁淑、司空徐湛之、東揚州刺史顏竣皆これと友善す。竣の貴ぶに及び、柳なお素情を以て自ら許し、先んずることを推さず。順陽の范璩、柳に誡めて曰く、「名位同じからず、礼に異数あり、卿何ぞ曩時の意を作すを得んや」と。柳曰く、「我と士遜(顏竣)とは心期すること久し、豈に一旦勢利を以てこれに処せんや」と。柳の南康郡守となるに及び、義宣の事に渉り敗れ、建康の獄に繋がる。屡々密かに竣に請い、相申し救わんことを求む。
孝武帝嘗て竣と柳の事を言及し、竟にこれを助けず。柳遂に法に伏す。璩、字は伯玉、平北將軍汪の曾孫なり、位は淮南太守。
劉鍾
劉鍾、字は世之、彭城の人なり。少孤、郷人中山太守劉回に依り共に居し、常に貧賤に慷慨す。宋武帝に従い征伐し、其の心力を尽くす。義旗建つに及び、帝、鍾を板して郡主簿と為し、曰く、「豫(予め)是れ彭城郷人の義に赴く者は、並びに劉主簿に依るべし」と。ここに義隊を立て、連戦皆捷す。桓謙の東陵に屯し、卞範之の覆舟山西に屯するに及び、武帝、賊に伏兵あるを疑い、左右を顧み、正に鍾を見て、これに謂ひて曰く、「此の山下に当に伏兵あらん、卿往きてこれを探るべし」と。鍾馳せ進み、果たして伏兵あり、一時奔走す。後に南齊國內史を除かれ、安丘県五等侯に封ぜらる。父祖及び親属十喪を改葬せんことを求め、帝厚く資給を加ふ。
広固に従征し、孟龍符陣に於いて陷没す。鍾直ちに入り其の屍を取りて返る。盧循建鄴に逼るや、鍾柵を拒ぎ、身に重創を受け、賊入るを得ず。循南走し、鍾又劉藩に随ひ徐道覆を追ひ、これを斬る。
後に朱齢石に随ひ蜀を伐ち前鋒と為り、成都を去ること二百里、鍾当時脚疾あり、齢石乃ち鍾に詣り、謀りて且つ鋭を養ひ兵を息し、以て其の隙を伺はんと欲す。鍾曰く、「然らず、前に大衆を揚言して内水に向かふと為し、譙道福敢へて涪城を捨てず、今重軍卒至り、其の不意に出づ、蜀人は已に胆を破れり。賊今兵を阻み険を守るは、是れ其の懼れて敢へて戦はざるなり、能く持久するに非ざるなり。其の兇懼に因りてこれを攻めば、其の勢必ず克たん。若し兵を緩くせば、彼将に人の虚実を知り、当に蜀子の虜と為らんのみ」と。齢石これに従ふ、明日、其の二城を陷し、径に成都を平ぐ。広固の功を以て、永新県男に封ぜらる。
虞丘進
虞丘進、字は豫之、東海郯の人なり。少時謝玄に随ひ苻堅を討ち功あり、関内侯に封ぜらる。後に宋武帝に従ひ孫恩を征し、頻りに戦ひ功あり。建鄴を定むるに従ひ、燕國內史を除かれ、龍川県五等侯に封ぜらる。
孟懷玉
孟懷玉、平昌安丘の人なり、世京口に居す。宋武帝東伐して孫恩を討つに、建武司馬と為す。義旗に豫り、京口を平げ建鄴を定むるに従ひ、功を以て鄱陽県五等侯に封ぜらる。盧循都に逼るや、戦功を以て中軍諮議参軍と為る。循平ぎ、陽豊県男に封ぜられ、位は江州刺史・南中郎将。官に卒す。子無く、国除となる。
懷玉の弟龍符、驍果にして胆気あり、早く武帝に知られ、軍功を以て平昌県五等子に封ぜらる。広固を伐つに従ひ、車騎参軍を以て龍驤將軍・広川太守を加へらる。勝に乗り奔を追ひ、囲まれて害せらる。青州刺史を追贈され、臨沅県男に封ぜらる。
胡藩
胡藩、字は道序、豫章郡南昌県の人である。幼くして孤となり、喪に服して身を毀すことで知られた。太守韓伯が彼を見て、藩の叔父の尚書少広に謂って曰く、「卿のこの甥は義烈をもって名を成すであろう」と。州府が召し出したが就かず、二人の弟の元服と婚礼が終わるのを待って、郗恢の征虜軍事に参じた。時に殷仲堪が荊州刺史となっており、藩の従兄の羅企生が仲堪の参軍であった。藩が江陵を訪れて企生を見舞い、ついで仲堪を説いて曰く、「桓玄は意趣常ならず、節下(仲堪)がこれを崇めて遇すること過ぎ、将来の計にあらず」と。仲堪は悦ばず。藩は退いて企生に謂って曰く、「戈を倒して人に授くれば、必ず大禍に至る。早く去らざれば、後悔しても及ばぬ」と。後に玄が夏口より仲堪を襲い、藩は玄の後軍軍事に参じた。仲堪は敗れ、企生は果たして附従したことで禍に及んだ。
藩は転じて太尉大将軍相国軍事に参じた。宋の武帝が兵を起こすと、玄は戦いに敗れて出奔せんとした。藩が馬を叩いて曰く、「今、羽林の射手なお八百あり、皆は義故の西人なり。一旦これを捨てて、帰らんと欲するも、再び得ることはできましょうか」と。玄はただ鞭を以て天を指すのみであった。ここにおいて奔散して互いに見失い、蕪湖において玄に追い及んだ。玄は藩を見て喜び、張須無に謂って曰く、「卿の州(豫章)はもとより多士なり。今また王修を見る」と。桑落の敗戦に、藩の艦は焼かれ、鎧を着たまま水中に入り、潜行すること三十歩余り、ようやく岸に登った。そこで家に還った。
武帝はかねてより藩が殷氏に対して直言したことを聞き、また玄に節を尽くしたので、召して鎮軍軍事に参じさせた。慕容超を征討することに従い、超の軍は臨朐に屯聚していた。藩は武帝に言上して曰く、「賊は城外に軍を屯め、留守の者は必ず寡し。今、その城を取ってその旗幟を斬らば、これ韓信の趙を克った所以なり」と。帝はすなわち檀韶と藩を遣わし潜行して往かせ、即時にその城を陥とした。賊は城の陥落を見て、一時に奔走し、還って広固を保った。これを包囲し、陥さんとする夜、忽ちに鵝の如き大さの鳥、蒼黒色のものが飛来して帝の帳裏に入った。衆は不祥と為した。藩が賀して曰く、「蒼黒色なるは、胡虜の色なり。胡虜我に帰す、大吉の祥なり」と。明旦、城を攻めて、これを陥とした。左裏において盧循を討つことに従い、頻りに戦って功有り、呉平県五等子に封ぜられた。
尋いて鄱陽太守を除かれ、劉毅を伐つことに従った。初め、毅が荊州に赴かんとする時、表を上して東道より建鄴に還り墓に辞することを求めた。都を去ること数十里にして、闕を拝せずに過ぎた。帝は倪塘に出て毅と会した。藩はこれを殺すことを請うた。すなわち帝に謂って曰く、「公は劉衛軍(毅)が公の下に立つと謂われますか」と。帝曰く、「卿はどう思うか」と。対えて曰く、「豁達大度にして、功は天下に高く、百万の衆を連ね、天人の望みに允なれば、毅は固よりこれをもって公に服します。しかし、記伝に渉猟し、一詠一談、自ら雄豪と許し、これに誇伐を加え、搢紳白面の士が輻湊して帰する、これ毅の公の下に立たざる所以なり」と。帝曰く、「吾と毅とは俱に克復の功有り。その過未だ顕われず、自ら相図るべからず」と。この時に至り、藩に謂って曰く、「昔、卿の倪塘の謀に従わざりしが故に、今の挙(挙兵)無きなり」と。
また司馬休之を征することに従い、再び参軍となった。徐逵之が敗没すると、帝は怒り、即日馬頭岸より江を渡った。江津の岸は壁立すること数丈、休之は岸に臨んで陣を置き、登る由無し。帝は藩を呼んで登らせようとした。藩に疑う色有り。帝は怒り、左右に命じて録(捕ら)えて来させ、斬らんとした。藩は命を受けず、顧みて曰く、「寧ろ前に死すべし」と。刀の頭(切先)を以て岸を穿ち、わずかに足指を容れる径を上り、これに従う者次第に多くなった。登るに及び、殊死に戦い、これを敗った。
関中を伐つことに従い、太尉軍事に参じ、別軍を統率して河東に至った。暴風が輜重艦を漂わせて北岸に渡らせ、魏軍がこの艦を牽き得た。藩は気憤し、左右十二人を率いて小船に乗り径ちに往った。魏の騎兵五六百、藩の来るを見て並びにこれを笑った。藩は平素より射を善くし、岸に登ってこれを射れば、弦に応じて倒れる者十余人。魏軍は皆退き、失ったものを悉く収めて還った。また藩及び朱超石らを遣わし半城において魏軍を追わしむ。魏の騎兵数万が合囲した。藩及び超石の兵は五千に満たず、力戦してこれを大破した。武帝は彭城に還り、相国軍事に参じた。司馬休之及び広固の功を論じ、陽山県男に封ぜられた。元嘉年中、太子左衛率に位した。卒し、諡して壮侯と曰う。子の隆世が嗣いだ。
劉康祖
劉康祖、彭城郡呂県の人、代々京口に居住した。父の虔之は、財を軽んじ施すことを好み、江夏相に位した。宋の武帝が西征して司馬休之及び魯宗之を討つ時、宗之の子の軌が襲って虔之を殺した。追贈して梁・秦二州刺史と為し、新康県男に封ぜられた。
康祖は弓馬に便で、膂力人に絶し、浮蕩(放蕩)と蒱酒(賭博と酒)を事とした。毎度法を犯して郡県に録(捕ら)えられると、すぐに屋を越え牆を踰え、これを擒える者無し。夜に人家に入り、有司に囲まれると、囲みを突破して去り、併せて敢えて追う者無く、よって夜に京口に還れば、半夕(半晩)にして便ち至った。明くる朝、守門を詣で府州の要職に至ると、俄かに建康より移書してこれを録しようとした。府州の執事者は並びに康祖がその夕べ京口に在ったことを証したので、遂に恙無く済んだ。前後屡々糾劾されたが、文帝は勲臣の子であることを以て毎度これを原し貸した。後に封を襲い員外郎に拝されたが、再び蒱戯に坐して免官された。孝武帝が豫州刺史となり、歴陽に鎮した時、康祖を征虜中兵参軍とした。委任されるに及び、節を折り自ら修めた。南平王鑠の安蛮府司馬を歴任した。
元嘉二十七年、魏の太武帝自ら大衆を率いて汝南を攻囲した。文帝は諸軍を遣わし救援せしめ、康祖が総統して前駆となった。新蔡に次り、魏軍を攻破し、懸瓠より四十里の地に去った。太武帝は営を焼いて還った。転じて左軍将軍となった。文帝は大挙して北侵せんと欲した。康祖は歳月既に晩しとして、来年を待つことを請うた。上は許さず。その年の秋、蕭斌・王玄謨・沈慶之らが河に入り、康祖は豫州の軍を率いて許・洛より出た。玄謨らは敗れて帰り、南平王鑠が寿陽に在った。上は魏に囲まれることを慮り、康祖を召して速やかに反らしめた。康祖は軍を回し、寿陽に至らぬこと数十里、時に魏の永昌王が長安の衆八万騎を以て、康祖と尉武において相及んだ。康祖には八千人あり、乃ち車営を結んで進んだ。魏軍は四面より来攻し、衆は三つに分かれ、且つ休み且つ戦った。康祖は将士を率い厲ませば、一もって百に当たらぬ者無く、魏軍の死者太半、流れる血は踝を没した。矢が頭に中って死す。ここにおいて大敗し、挙営淪覆し、免れた者は僅かに数十人に過ぎなかった。魏人は康祖の首を伝えて彭城に示せば、面は生けるが如し。益州刺史を追贈し、諡して壮と曰う。
康祖の伯父の簡之は、志幹有り、宋の武帝に知られた。帝が興復を謀らんとして、才力の士を収集した時、嘗て再び簡之を訪れたが、客有り。簡之はその意を悟り、虔之に謂って曰く、「劉下邳(武帝)再び来る、必ずや意有るべし。既に語るを得ず、汝は試みに往きてこれを見よ」と。虔之の至るに及び、武帝は既に京口を克っていた。虔之は即ち義に投じた。簡之はこれを聞き、耕牛を殺し、衆を会してこれに赴いた。太尉諮議参軍に位した。簡之の弟の謙之は学を好み、『晋紀』二十巻を撰し、広州刺史、太中大夫に位した。
五年、詔して延孫に曰く「旧京には親を樹つること、由来常の准なり。今この防久しく弭ぎたり、当に還して小児に授くべし」と。乃ち延孫を征して侍中・尚書左僕射とし、護軍を領せしめた。延孫は病み、拝赴に堪えず。卒し、司徒を贈られ、班剣二十人を給された。有司奏して諡を忠穆とす。詔してこれを文穆と改む。子の質が嗣いだ。
論じて曰く、
劉敬宣は宋武と恩を龍潜に結び、義分早く合い、興復の始めは事隔てて逢迎すれども、深き期し久しき要は、未だこれ爽かず。隆赫の任は、遂に人存に止まり、飾終の数は、身後に聞こえず。恩礼の厚薄あるは、将に別に以てか。劉懷肅・劉懷慎・劉粹・孫処・蒯恩・向靖・劉鍾・虞丘進・孟懷玉・孟龍符・胡藩らは、或いは恩旧に階縁し、その心力を一にし、或いは風雲に攀附し、その鱗羽を奮い、皆よく塵滓を振抜き、自ら封侯に致る。詩に云う「徳無きは報いられず」と、その言信ずるかな。康祖は門に興王を奉じ、早く封壌を裂き、疆埸に委を受け、赴蹈を期とす。道産は績を漢南に樹て、年歴十を踰え、遺風余烈、称するに足るものあり。その行事を覧るに、異跡均しく美なりと謂うべし。延孫は隆名盛寵、択びて後に授け、遂に腹心の托を以て、自ら宗臣の重きに致る。またその遇いなり。