南史

巻第十七列伝第七から巻第十八

巻第十七列伝第七から巻第十八

南史

巻第十七列伝第七から巻第十八

劉敬宣

原文劉敬宣

劉敬宣、字あざなは万寿、彭城の人である。父は牢之、晋の鎮北将軍。敬宣は八歳で母を喪い、昼夜号泣し、中表の者はこれを異とした。輔国将軍桓序が蕪湖に鎮した時、牢之は序の軍事に参じた。四月八日、敬宣は衆人が仏に灌水するのを見て、自らの頭上金鏡を下ろして母の像に灌ぎ、悲泣して自ら勝えなかった。序は牢之に言う、「卿のこの児はただ家の孝子たるのみならず、必ずや国の忠臣とならん」と。

原文刘敬宣,字万寿,彭城人也。父牢之,晋镇北将军。敬宣八岁丧母,昼夜号泣,中表异之。辅国将军桓序镇芜湖,牢之参序军事。四月八日,敬宣见众人灌佛,乃下头上金镜为母灌像,因悲泣不自胜。序谓牢之曰:"卿此儿非唯家之孝子,必为国之忠臣。"

王恭の前軍参軍として起家し、また会稽世子元顕の征虜軍事に参じた。隆安二年、王恭が京口で兵を起こし、司馬尚之を誅することを名目とした。牢之は当時恭の前軍司馬であった。恭は豪戚を以て自ら任じ、甚だ相陵ぎ忽せにしたので、牢之の心は平らかでなかった。恭がこの挙に出るに及び、牢之をして前鋒たらしめたので、牢之は敬宣を遣わして恭を襲撃させ、これを破った。元顕は敬宣を後将軍諮議参軍とした。

原文起家王恭前軍參軍,又參會稽世子元顯征虜軍事。隆安二年,王恭起兵京口,以誅司馬尚之為名,牢之時為恭前軍司馬。恭以豪戚自居,甚相陵忽,牢之心不能平。及恭此舉,使牢之為前鋒,牢之遣敬宣襲恭,敗之。元顯以敬宣為後將軍諮議參軍。

三年、孫恩が乱を為すと、牢之は自ら表して東討を請い、敬宣は騎兵を率いて南山に沿ってその後方を急襲することを請うた。呉の賊は馬を畏れ、また首尾敵を受けることを懼れ、遂に大いにこれを破り、進んで会稽を平定した。後軍従事中郎に遷った。

原文三年,孫恩為亂,牢之自表東討,敬宣請以騎傍南山趣其後。吳賊畏馬,又懼首尾受敵,遂大敗之,進平會稽。遷後軍從事中郎。

宋の武帝が既に累ねて妖賊を破り、功名日に盛んとなるに及び、敬宣は深く結び憑んだ。元顕が驃騎将軍に進号すると、敬宣は仍って府に随って転じた。元顕は驕り放恣で、群下もこれに化したが、敬宣は毎度宴会に預かるも、調戯に酬答することなく、元顕は甚だ悦ばなかった。

原文宋武帝既累破祅賊,功名日盛,敬宣深相憑結。元顯進號驃騎,敬宣仍隨府轉。元顯驕肆,群下化之,敬宣每預宴會,調戲無所酬答,元顯甚不悅。

元興元年、牢之が桓玄を南討するに当たり、元顕は征討大都督であったが、日夜昏酣していた。牢之は道子の昏闇、元顕の淫凶を以て、玄を平らげた後の日、乱政が方に始まらんことを慮り、時に玄が使者を遣わして牢之を説くに会い、牢之は玄の手を借りて執政を誅し、然る後に玄の隙に乗じて、天下を得志せんことを欲した。将に玄に降らんとす。敬宣は諫めて、玄の威望既に成れば則ち図り難からんことを恐れた。牢之怒って曰く、「吾れ豈に今日これを取ること反かえ覆の手の如きを知らざらんや、但だ平らげた後、我をして驃騎を如何せしめん」と。敬宣を任に遣わした。

原文元興元年,牢之南討桓玄,元顯為征討大都督,日夜昏酣。牢之以道子昏闇,元顯淫凶,慮平玄之日,亂政方始;會玄遣信說牢之,牢之欲假手于玄誅執政,然後乘玄之隙,可以得志天下。將許玄降。敬宣諫恐玄威望既成,則難圖。牢之怒曰:「吾豈不知今日取之如反復手,但平後令我奈驃騎何?」遣敬宣為任。

玄は既に志を得て、元顕を害し、道子を廃し、牢之を会稽太守とした。牢之は敬宣と謀りて玄を襲わんとし、期を明旦と定めた。その日大霧が立ち、府門は遅く開き、日旰くれても敬宣至らず。牢之は謀り泄れたるかと謂い、広陵に奔らんと欲し、而して敬宣は京口に還って家を迎えていた。牢之は已に玄に擒とらえられたるかと謂い、乃ち縊死した。敬宣は喪に奔り、哭し畢りて、司馬休之・高雅之等と共に洛陽に奔り、長安に往来し、姚興に救援を求め、後に慕容徳に奔った。

原文玄既得志,害元顯,廢道子,以牢之為會稽太守。牢之與敬宣謀襲玄,期以明旦。爾日大霧,府門晚開,日旰,敬宣不至。牢之謂謀泄,欲奔廣陵,而敬宣還京口迎家。牢之謂已為玄禽,乃縊而死。敬宣奔喪,哭畢,就司馬休之、高雅之等俱奔洛陽,往來長安,求救于姚興,後奔慕容德。

敬宣は平素より天文に明るく、必ずや晋室を興復する者あることを知っていた。尋ねて丸土を服する夢を見、覚めて喜んで曰く、「丸は桓なり、桓を吞む、吾れ当に本土に復せんか」と。乃ち青州の大姓諸崔・封らと結び、徳を滅ぼすを謀り、休之を主と推した。時に徳の司空劉軌は大いに任用され、高雅之はまた軌を要したが、謀り泄れ、乃ち相与に軌を殺して去った。会に宋の武帝が京口を平定し、手書を以て敬宣を召すと、即ち馳せ還り、武岡県男を襲封し、後に江州刺史拝された。

原文敬宣素明天文,知必有興復晉室者。尋夢丸土服之,覺而喜曰:「丸者,桓也,桓吞,吾當復本土乎。」乃結青州大姓諸崔、封謀滅德,推休之為主。時德司空劉軌大被任,高雅之又要軌,謀泄,乃相與殺軌而去。會宋武帝平京口,手書召敬宣,即馳還,襲封武岡縣男,後拜江州刺史。

劉毅が若き頃、或る人は雄桀を以てこれを許した。敬宣曰く、「この人は外は寛にして内は忌み、自ら伐りて人を尚び、若し一旦遭逢すれば、当に陵上を以て禍を取らん」と。毅聞きて深く恨んだ。江陵に在る時、敬宣の還るを知り、尋ねて江州となるを知り、大いに駭惋した。敬宣は愈々自ら安からず。安帝が反正すると、自ら表して解職を求めた。武帝の恩款は周渉し、賜う所はこれと比ぶるもの莫し。敬宣の女が嫁ぐに、銭三百万、雑彩千匹を賜う。

原文劉毅之少,人或以雄桀許之。敬宣曰:「此人外寬內忌,自伐而尚人,若一旦遭逢,當以陵上取禍。」毅聞深恨。及在江陵,知敬宣還,尋知為江州,大駭惋。敬宣愈不自安。安帝反正,自表求解。武帝恩款周洽,所賜莫與為比。敬宣女嫁,賜錢三百萬,雜彩千匹。

帝は方に大いに寵任し、功を立てしめんと欲した。義熙三年、表して敬宣を遣わして蜀を伐たしむ。博士周祗諫めて以てす、「道遠く運漕継ぎ難く、毛修之の家讐雪がず、死を得るを恨みと為すべからず。劉敬宣は生存の恩を蒙り、亦た性命を以て仰ぎ答うべし。将軍二死の甘心を駆り立てんと欲し、国家の重計を忘るるは、愚情窃に未だ安からず」と。従わず。敬宣に節を仮し、征蜀諸軍事を監せしむ。敬宣は黄武に至り、成都を去ること五百里、食尽き、疾疫に遇いて還った。有司に奏せられて官を免ぜられた。

原文帝方大相寵任,欲令立功。義熙三年,表遣敬宣伐蜀。博士周祗諫,以為「道遠運漕難繼,毛修之家讎不雪,不應以得死為恨。劉敬宣蒙生存之恩,亦宜性命仰答。將軍欲驅二死之甘心,忘國家之重計,愚情竊所未安」。不從。假敬宣節,監征蜀諸軍事。敬宣至黃武,去成都五百里,食盡,遇疾疫而還。為有司奏免官。

五年、武帝が慕容超を伐つに当たり、中軍諮議参軍を除かれ、兗州刺史劉藩と共に超軍を大破し、進んで広固を囲み、屡々規略を献じた。盧循が建鄴に逼ると、敬宣は分かれて鮮卑の獣斑突騎を領し、陣を置くこと甚だ整たり。循走り、仍って南討に従い、左衛将軍となる。敬宣は寛厚にして、士を善く遇い、多伎芸、弓馬音律、事として善からざるは無し。尚書僕射謝混は才地美にして、交納すること少なかったが、敬宣と遇えば便ち礼を尽くした。或る人混に問う、「卿未だ嘗て軽く交わさず、而るに劉寿に傾蓋す、何ぞや」と。混曰く、「孔文挙が太史子義を礼したる、天下豈にこれを非とせんや」と。

原文五年,武帝伐慕容超,除中軍諮議參軍,與兗州刺史劉藩大破超軍,進圍廣固,屢獻規略。盧循逼建鄴,敬宣分領鮮卑獸斑突騎,置陣甚整。循走,仍從南討,為左衛將軍。敬宣寬厚,善待士,多伎藝,弓馬音律,無事不善。尚書僕射謝混美才地,少所交納,與敬宣遇便盡禮。或問混:「卿未嘗輕交,而傾蓋劉壽,何也?」混曰:「孔文舉禮太史子義,天下豈有非之邪。」

初め、敬宣が蜀より還ると、劉毅は重法を以てこれを縛せんと欲した。武帝が既に任待し、又何無忌が私憾を以て至公を傷つくべからざるを謂う。毅は止むも、猶武帝に謂いて曰く、「平生の旧、豈に孤信すべけんや。光武は龐萌に之を悔い、曹公は孟卓に之を失う。宜しく深く之を慎むべし」と。毅が荊州に出ると、敬宣に謂いて曰く、「卿を屈して長史・南蛮たらしめんと欲す、豈に輔くるの意有らんや」と。敬宣は禍を懼れ、以て武帝に告ぐ。帝笑いて曰く、「但だ老兄の平安を令するのみ、必ず過慮無からん」と。後に冀州刺史を領す。

原文初,敬宣蜀還,劉毅欲以重法繩之。武帝既相任待,又何無忌謂不宜以私憾傷至公。毅雖止,猶謂武帝曰:「平生之舊,豈可孤信?光武悔之于龐萌,曹公失之于孟卓。宜深慎之。」毅出為荊州,謂敬宣曰:「欲屈卿為長史、南蠻,豈有見輔意乎?」敬宣懼禍,以告武帝。帝笑曰:「但令老兄平安,必無過慮。」後領冀州刺史。

時に帝が西討して劉毅を討つに当たり、豫州刺史諸葛長人は太尉軍事を監し、敬宣に書を貽して曰く、「盤龍(劉毅)狼戾専恣、自ら夷滅を取る。異端将に尽き、世路方に夷らかならん、富貴の事、相与に之を共にせん」と。敬宣報じて曰く、「下官常に福過ぎて災生ずるを懼れ、実に盈を避け損に居らんことを思う。富貴の旨、敢えて当うる所に非ず」と。便ち長人の書を呈す。帝は王誕に謂いて曰く、「阿寿故に我に負かず」と。

原文時帝西討劉毅,豫州刺史諸葛長人監太尉軍事,貽敬宣書曰:「盤龍狼戾專恣,自取夷滅。異端將盡,世路方夷,富貴之事,相與共之。」敬宣報曰:「下官常懼福過災生,實思避盈居損。富貴之旨,非所敢當。」便以長人書呈,帝謂王誕曰:「阿壽故為不負我。」

十一年、右軍將軍に進號した。時に晉の宗室司馬道賜は敬宣の参軍であった。武帝が司馬休之を西征した際、道賜はひそかに同府の辟閭道秀・左右小将王猛子らと結託して謀反を企てた。道賜は自ら齊王と号し、広固を占拠して兵を挙げ、休之に呼応しようとした。猛子が敬宣の刀を取って敬宣を殺害すると、文武の佐吏はただちに道賜・道秀・猛子を討ち斬った。初めに敬宣が夜、僚佐と宴を開いた時、空中から一隻の芒屩が座中に投げ込まれ、敬宣の食盤の上に墜ちた。長さ三尺五寸で、すでに人が履いたものであり、耳と鼻の間は壊れようとしており、まもなく敗れた。喪が至ると、武帝は臨哭して甚だ哀しんだ。子の光祖が嗣いだ。宋が禅を受けると、封国は除かれた。

原文十一年,進號右軍將軍。時晉宗室司馬道賜為敬宣參軍。會武帝西征司馬休之,而道賜乃陰結同府辟閭道秀、左右小將王猛子等謀反。道賜自號齊王,規據廣固,舉兵應休之。猛子取敬宣刀殺敬宣,文武佐吏即討道賜、道秀、猛子斬之。先是敬宣嘗夜與僚佐宴,空中有投一隻芒屩於坐,墜敬宣食盤上,長三尺五寸,已經人著,耳鼻間並欲壞,頃之而敗。喪至,武帝臨哭甚哀。子光祖嗣。宋受禪,國除。

劉懷肅

原文劉懷肅

劉懷肅は彭城の人であり、宋の武帝の従母兄である。家は代々貧窮していたが、自ら耕作して学問を好んだ。晉に仕えて費県令となった。武帝が起義したと聞くと、県を棄てて来奔した。

原文劉懷肅,彭城人,宋武帝從母兄也。家世貧窶,而躬耕好學。仕晉為費令。及聞武帝起義,棄縣來奔。

義熙元年、輔國將軍・淮南歴陽二郡太守となった。二年、また劉毅の撫軍司馬を兼ね、建義の功により東興縣侯に封ぜられた。その冬、桓石綏・司馬國璠・陳襲が胡桃山に徒党を集めて寇賊となったので、懷肅はこれを討ち破った。江・淮の間の群蛮および桓氏の残党が乱を起こすと、懷肅は自ら討伐を請うたが、出陣して命令に背いたため、劉毅が上表して懷肅の官を免じた。三年に卒去し、左將軍を追贈された。子がなく、弟の懷慎が子の蔚祖を嗣がせた。位は江夏内史に至った。

原文義熙元年,為輔國將軍、淮南曆陽二郡太守。二年,又領劉毅撫軍司馬,以建義功,封東興縣侯。其冬,桓石綏、司馬國璠、陳襲於胡桃山聚眾為寇,懷肅討破之。江、淮間群蠻及桓氏餘黨為亂,懷肅自請討之,及行失旨,毅上表免懷肅官。三年卒,追贈左將軍。無子,弟懷慎以子蔚祖嗣,位江夏內史。

蔚祖が卒去すると、子の道存が嗣いだ。位は太尉江夏王義恭の諮議参軍に至った。孝武帝が元凶を討伐すると、道存は義軍に奔ったため、元凶はその母を殺して見せしめとした。景和年中、義恭の太宰從事中郎となった。義恭が敗れると、党与として獄に下され死んだ。

原文蔚祖卒,子道存嗣,位太尉江夏王義恭諮議參軍。孝武伐元凶,道存出奔義軍,元凶乃殺其母以徇。景和中,為義恭太宰從事中郎。義恭敗,以黨與下獄死。

懷肅の次とどま弟懷敬は、口が重く才能がなかった。初め、武帝が生まれて皇妣が亡くなると、孝皇帝は貧しく、乳母を得る方法がなく、養育を断念しようと議した。武帝の従母が懷敬を生んでまだ一年にもならぬうちに、懷敬の乳を断って自ら武帝を養育した。武帝は旧恩により、懷敬は累次寵愛を受けて任用され、会稽太守に至った。時に速やかすぎるとされたが、武帝は「亡き姨は我に恩が重い、これをどうして忘れられようか」と言った。尚書・金紫光禄大夫を歴任した。

原文懷肅次弟懷敬,澀訥無才能。初,武帝產而皇妣殂,孝皇帝貧薄,無由得乳人,議欲不舉,帝從母生懷敬,未期,乃斷懷敬乳而自養帝。帝以舊恩,懷敬累見寵授,至會稽太守。時以為速,武帝曰:「亡姨于我恩重,此何可忘?」曆尚書,金紫光祿大夫。

懷敬の子真道は銭唐県令となった。元嘉十三年、東土が飢饉となると、帝は揚州中從事史沈演之を行在所に巡行させ、演之は真道および余杭県令劉道錫に善政があると上表した。上はこれを嘉し、各々に穀千斛こくを賜い、真道を歩兵校尉とした。

原文懷敬子真道為錢唐令,元嘉十三年,東土饑,帝遣揚州中從事史沈演之巡行在所,演之表真道及余杭令劉道錫有美政。上嘉之,各賜穀千斛,以真道為步兵校尉。

十四年、梁・南秦二州刺史として出向した。十八年、氐の帥楊難當が漢中に侵寇したので、真道はこれを討ち破ったが、難當の寇盗はなお止まず、文帝は龍驤將軍裴方明に禁兵五千を率いさせ、真道の節度を受けるようにした。十九年、方明が武興に至り、太子積弩將軍劉康祖らを率いて進軍し、大いに勝利を収めた。真道を建威將軍・雍州刺史とし、方明を輔國將軍・梁南秦二州刺史とした。また詔して、故晉壽太守姜道盛が鋒鏑に斃れたので、給事中を追贈し、銭十万を賜うとした。道盛は古文尚書を注して世に行われた。真道・方明はともに仇池を破り、金銀諸雑の宝貨を断ち割り、また難當の良馬を隠匿した罪に坐し、獄に下されて死んだ。懷敬の弟懷慎は、若い頃から謹慎して質直であった。宋の武帝に従って征討し、位は徐州刺史に至った。政務は厳猛で、境内は震え肅んだ。広固・盧循平定の功により、南城縣男に封ぜられた。十二年、武帝が北伐すると、中領軍・征虜將軍とし、輦轂を宿衛させた。府内で相殺しあった罪に坐して免官された。名位が転じて優れたものとなっても、恭恪はいよいよ甚だしかった。赴く所では、位任が己を超えない者に対しても、皆束帯して門外で下車した。その謹退ぶりはこのようなものであった。

原文十四年,出為梁、南秦二州刺史。十八年,氐帥楊難當侵寇漢中,真道討破之,而難當寇盜猶不已,文帝遣龍驤將軍裴方明率禁兵五千,受真道節度。十九年,方明至武興,率太子積弩將軍劉康祖等進軍,大致克捷,以真道為建威將軍、雍州刺史,方明輔國將軍、梁南秦二州刺史。又詔故晉壽太守姜道盛殞身鋒鏑,可贈給事中,賜錢十萬。道盛注古文尚書行于世。真道、方明並坐破仇池斷割金銀諸雜寶貨,又藏難當善馬,下獄死。懷敬弟懷慎,少謹慎質直。從宋武帝征討,位徐州刺史。為政嚴猛,境內震肅。以平廣固、盧循功,封南城縣男。十二年,武帝北伐,以為中領軍、征虜將軍,宿衛輦轂。坐府內相殺免官。雖名位轉優,而恭恪愈至。每所之造,位任不踰己者,皆束帶門外下車,其謹退類如此。

永初元年、佐命の功により、侯に進爵し、位は五兵尚書、散騎常侍・光禄大夫を加えられた。景平元年、護軍將軍に遷った。禄賜は宗族に分け与え、家に余財がなく、卒して肅侯と諡された。

原文永初元年,以佐命功,進爵為侯,位五兵尚書,加散騎常侍、光祿大夫。景平元年,遷護軍將軍。祿賜班於宗族,家無餘財,卒諡肅侯。

子の德願が嗣いだ。大明初年、遊撃將軍となり、石頭戍事を兼ねた。賈客韓佛智から賄賂を受けた罪に坐し、獄に下されて爵位を奪われた。後に秦郡太守となった。德願は性粗率で、孝武帝に狎れ侮られた。上の寵姫殷貴妃が薨じ、葬儀が終わると、帝は数回群臣を率いて殷の墓に至った。德願に「卿が貴妃を悲しんで哭すれば、厚く賞を加えよう」と言うと、德願は声に応じて号慟し、胸を撫でて踊り、涕泗が交流した。上は甚だ悦び、豫州刺史とした。また医術人羊志に殷氏を哭させると、志もまた嗚咽した。他日に志に問う者が「卿はどうしてあの急な涙を得たのか」と言うと、志は時に新たに愛妾を喪っており、答えて「私はあの日、自ら亡き妾を哭していたのです」と言った。志は滑稽で、諧謔を善くし、上もまた愛狎した。

原文子德願嗣。大明初,為遊擊將軍,領石頭戍事。坐受賈客韓佛智貨,下獄奪爵。後為秦郡太守。德願性粗率,為孝武狎侮。上寵姬殷貴妃薨,葬畢,數與群臣至殷墓。謂德願曰:「卿哭貴妃若悲,當加厚賞。」德願應聲便號慟,撫膺擗踴,涕泗交流。上甚悅,以為豫州刺史。又令醫術人羊志哭殷氏,志亦嗚咽。他日有問志:「卿那得此副急淚?」志時新喪愛姬,答曰:「我爾日自哭亡妾耳。」志滑稽,善為諧謔,上亦愛狎之。

德願は車の御し方を善くし、かつて二本の柱を立て、その間をかろうじて車軸が通るほど狭くし、百余歩の上から轡を振って長駆し、数尺に至らぬうちに牛を打って柱の間を真っ直ぐに駆け抜けさせた。その精妙さはこのようなものであった。孝武帝はその能を聞き、自ら画輪車に乗り、太宰江夏王義恭の邸に幸した。德願は籠冠を高くかぶり、短い朱衣を着て、轡を執り進退し、甚だ容状があった。永光年中、廷尉となり、柳元景と厚く親善した。元景が敗れると、獄に下されて誅された。

原文德願善御車,嘗立兩柱,使其中劣通車軸,乃于百餘步上振轡長驅,未至數尺,打牛奔從柱間直過,其精如此。孝武聞其能,為之乘畫輪車,幸太宰江夏王義恭第。德願岸著籠冠,短朱衣,執轡進止,甚有容狀。永光中,為廷尉,與柳元景厚善。元景敗,下獄誅。

懷慎の庶長子榮祖は、若い頃から騎射を好み、武帝に知られた。盧循が攻め逼った時、賊が小艦に乗って淮に入り柵を抜いたが、武帝は三軍に賊をみだりに射ることを禁ずるよう宣令した。榮祖は憤怒に耐えず、禁を犯してこれを射ると、射た所は弦に応じて倒れ、帝はますます奇異とした。戦功により太尉軍事に参じ、司馬休之討伐に従った。彭城内史徐逵之が敗没すると、諸将は意気沮喪したが、榮祖はますます激しく戦いを請うたので、上は自らの着ていた鎧を解いて授けた。榮祖は陣を陷し、身に数カ所の創傷を受けた。帝が北伐すると、鎮西中兵参軍に転じた。水軍が河に入り、朱超石とともに半城で魏軍を大破した。帝は戦士を大いに饗し、榮祖に「卿は寡をもって衆を克ち、堅城なくして攻め落とす。古の名将といえどもどうしてこれを超えようか」と言った。永初中、輔國將軍となった。半城の功を追論し、都郷侯の爵を賜った。榮祖は人となり財を軽んじ義を貴び、将士を善く撫でた。しかし性褊狭で、士君子の心を頗る失った。官にて卒去した。

原文懷慎庶長子榮祖,少好騎射,為武帝所知。及盧循攻逼,時賊乘小艦入淮拔柵,武帝宣令三軍不得輒射賊。榮祖不勝憤怒,冒禁射之,所中應弦而倒,帝益奇焉。以戰功,參太尉軍事,從討司馬休之。彭城內史徐逵之敗沒,諸將意沮,榮祖請戰愈厲,上乃解所著鎧授之。榮祖陷陣,身被數創。及帝北伐,轉鎮西中兵參軍。水軍入河,與朱超石大破魏軍於半城。帝大饗戰士,謂榮祖曰:「卿以寡克眾,攻無堅城,雖古名將何以過此。」永初中,為輔國將軍。追論半城功,賜爵都鄉侯。榮祖為人輕財貴義,善撫將士;然性褊,頗失士君子心。卒於官。

懷慎の弟懷默は、江夏内史となった。子の孫登は武陵内史となった。孫登の子亮は、若い頃から刀楯を巧みにし、軍功により順陽縣侯に封ぜられ、梁・益二州刺史を歴任した。在任中は廉潔で、得た公禄を悉く官に還したので、宋の明帝は詔を下して褒め称えた。亮は梁州で突然服食し、長生を得ようとし、武当山の道士孫懷道を迎えて仙薬を合わせさせた。薬が成ると、これを服して卒去した。殯に就けると、屍は弱く生きているようであった。剛侯と諡された。孫登の弟道隆は、前廃帝の景和年中、右衛將軍の位にあり、永昌縣侯に封ぜられ、腹心の任を委ねられた。泰始初年、また明帝に尽力し、左衛將軍・中護軍に遷った。賜死され、事は建安王休仁伝にある。

原文懷慎弟懷默,江夏內史。子孫登,武陵內史。孫登子亮,少工刀楯,以軍功封順陽縣侯,曆梁、益二州刺史。在任廉儉,所得公祿,悉以還官,宋明帝下詔褒美。亮在梁州忽服食,欲致長生,迎武當山道士孫懷道使合仙藥,藥成,服之而卒。及就斂,屍弱如生。諡曰剛侯。孫登弟道隆,前廢帝景和中,位右衛將軍,封永昌縣侯,委以腹心之任。泰始初,又為明帝盡力,遷左衛將軍、中護軍。賜死,事在建安王休仁傳。

劉粹

原文劉粹

劉粹は字を道沖といい、沛郡蕭県の人である。家は京口にあった。初め州の従事となり、宋の武帝に従って建鄴を平定し、広固を征討し、功により西安縣五等侯に封ぜられた。累遷して中軍諮議参軍となった。盧循が逼った時、京口は重任であったが、文帝は時に四歳であり、武帝は粹に文帝を奉じて京口を鎮守させた。後に江夏相となった。

原文劉粹字道沖,沛郡蕭人也。家在京口。初為州從事,從宋武帝平建鄴,征廣固,以功封西安縣五等侯。累遷中軍諮議參軍。盧循之逼,京口任重,文帝時年四歲,武帝使粹奉文帝鎮京口。後為江夏相。

族兄の劉毅が武帝に背いたが、劉粹は劉毅と同調せず、武帝に誠心を尽くした。武帝が劉毅を討とうとすると、人々は皆、劉粹が夏口にいることを疑ったが、武帝はますます彼を信頼した。大軍が到着すると、劉粹は誠意と力を尽くした。事が平定されると、灄陽県男に封ぜられた。永初元年、創業の功により、建安県侯に改封された。文帝が即位すると、雍州刺史となり、都督を加えられた。

原文族兄毅貳于武帝,粹不與毅同而盡心武帝。帝將謀毅,眾並疑粹在夏口,帝愈信之。及大軍至,竭其誠力。事平,封灄陽縣男。永初元年,以佐命功,改封建安縣侯。文帝即位,為雍州刺史,加都督。

元嘉三年、謝晦を討伐した。初め、謝晦は劉粹と親しかったため、劉粹の子の劉曠之を参軍としたので、この時、帝は大いに疑った。王弘が言うには、「劉粹に私心はなく、必ず心配ない」と。南討の命を受けると、少しも顧みることがなかった。文帝はこれにより彼を賞賛した。謝晦もまた劉曠之を害せず、帰還させた。劉粹はまもなく卒去し、劉曠之が後を嗣いだ。

原文元嘉三年,討謝晦。初,晦與粹善,以粹子曠之為參軍,至是帝甚疑之。王弘曰:「粹無私,必無憂也。」及受命南討,一無所顧。文帝以此嘉之。晦亦不害曠之,遣還。粹尋卒,曠之嗣。

弟の劉道済

原文弟 道濟

劉粹の弟の劉道済は、益州刺史の地位にあり、長史の費謙らを任用して収奪を行わせ、政治を損ない民を苦しめた。初め、晋末に司馬飛龍という者がおり、晋の宗室を自称し、仇池に逃れた。元嘉九年、劉道済の綏撫が不和であると聞き、ついに仇池から綿竹に入って乱を起こした。劉道済は軍を派遣して討ち斬った。これより先、劉道済は五城の人帛氐奴・梁顕を参軍督護にしようとしたが、費謙が固執して認めなかった。遠方から商人が来ると、費謙はまたこれを抑圧した。商人たちは嘆き、百姓は皆乱を起こそうとし、帛氐奴らは徒党を組んで盗賊となった。そして趙広らが詐って「司馬殿下はなお陽泉山中におられる」と言った。蜀の地の僑民・旧来の民が一斉に反旗を翻し、道人の程道養を奉じて、これが飛龍であると言った。程道養は枹罕の人である。趙広は名を龍興と改め、蜀王・車騎大将軍・益梁二州牧と号し、元号を泰始元年と建て、百官を備え置き、程道養の弟の程道助を驃騎将軍・長沙王として、涪城に鎮守させた。趙広は自ら鎮軍将軍と号し、帛氐奴を征虜将軍とし、梁顕を鎮北将軍として、程道養を奉じて成都を包囲した。劉道済は中兵参軍の裴方明を派遣してしばしばこれを撃破した。

原文粹弟道濟,位益州刺史,任長史費謙等聚斂,傷政害人。初,晉末有司馬飛龍者,自稱晉宗室,走仇池。元嘉九年,聞道濟綏撫失和,遂自仇池入綿竹為亂,道濟遣軍討斬之。先是道濟以五城人帛氐奴、梁顯為參軍督護,費謙固執不與;遠方商人至者,謙又抑之。商旅呼嗟,百姓咸欲為亂,氐奴等因聚黨為盜,及趙廣等詐言司馬殿下猶在陽泉山中。蜀土僑舊翕然並反,奉道人程道養,言是飛龍。道養,枹罕人也。趙廣改名為龍興,號為蜀王、車騎大將軍、益梁二州牧,建號泰始元年,備置百官,以道養弟道助為驃騎將軍、長沙王,鎮涪城。廣自號鎮軍將軍,帛氐奴為征虜將軍,梁顯為鎮北將軍,奉道養圍成都。道濟遣中兵參軍裴方明頻破之。

十年正月、賊が再び大挙して至り、成都を攻め迫った。劉道済が卒去すると、裴方明らは共に屍を後ろの部屋に埋め、劉道済の筆跡に似せて書かせた教令を用いた。応答や署名・上疏は、普段と変わらぬ日々のようであり、母や妻も知らなかった。二月、程道養が壇に登って郊天の礼を行い、ちょうど柴を焚こうとした時、裴方明が撃って大いにこれを破った。おりしも平西将軍臨川王劉義慶が巴東太守周籍之に命じて兵を率い成都を救援させた。趙広らは広漢に屯して拠り、郫川を分かち守った。周籍之と裴方明は郫を攻めてこれを落とした。裴方明は偽の驃騎将軍司馬龍伸を捕らえて斬った。龍伸とは程道助である。涪・蜀は皆平定された。

原文十年正月,賊復大至,攻逼成都,道濟卒,方明等共埋屍於後齋,使書與道濟相似者為教。酬答簽疏,不異常日,雖母妻不知也。二月,道養升壇郊天,方就柴燎,方明擊,大敗之。會平西將軍臨川王義慶使巴東太守周籍之帥眾援成都,廣等屯據廣漢,分守郫川。籍之與方明攻郫,克之。方明禽偽驃騎將軍司馬龍伸,斬之。龍伸即道助也。涪、蜀皆平。

まもなく張尋が陰平を攻め落とし、再び程道養と合流し、郪山に逃れた。その余の群賊は出て盗賊となり絶えなかった。文帝は甯朔将軍蕭汪之を派遣してこれを討たせた。十四年、余党はようやく平定され、趙広・張尋らを建鄴に移した。十六年、趙広・張尋は再び国山県令司馬敬琳と謀反を企て、誅殺された。

原文俄而張尋攻破陰平,復與道養合,逃於郪山,其餘群賊出為盜不絕。文帝遣甯朔將軍蕭汪之討之。十四年,餘党乃平,遷趙廣、張尋等於建鄴。十六年,廣、尋復與國山令司馬敬琳謀反,伏誅。

劉粹の族弟の劉損、字は子騫、衛将軍劉毅の従父弟である。父の劉鎮之、字は仲徳、劉毅の貴顕により、京口に閑居し、一度も召しに応じなかった。常に劉毅に言った、「汝は必ず我が家を破るであろう」と。劉毅は大いに畏れ憚り、京口に帰るたびに、敢えて儀仗を立てて劉鎮之の門に入ることはなかった。左光禄大夫として召されたが、就かず、家で卒去した。劉損は元嘉年間に呉郡太守となり、昌門に至ると、すぐに太伯廟に入った。当時、廟の建物は崩れ壊れ、垣根も修繕されていなかった。劉損は悲しげに言った、「清らかな塵さえなお彷彿としうるのに、廟舎はなんと破れていることか」。すぐに修繕させた。卒去し、太常を追贈された。

原文粹族弟損字子騫,衛將軍毅從父弟也。父鎮之字仲德,以毅貴顯,閒居京口,未嘗應召。常謂毅,「汝必破我家」。毅甚畏憚,每還京口,未嘗敢以羽儀入鎮之門。以左光祿大夫征,不就,卒於家。損元嘉中為吳郡太守,至昌門,便入太伯廟。時廟室頹毀,垣牆不修,損愴然曰:「清塵尚可髣佛,衡宇一何摧頹!」即令修葺。卒,贈太常。

劉損の同郡の宗族に劉伯龍という者がいた。若い時は貧しく薄遇され、成長すると、尚書左丞・少府・武陵太守の官を歴任したが、貧窮は特に甚だしかった。常に家で慨嘆し、左右を呼んで什一の税の方法を営もうとした時、ふと一人の鬼が傍らで手を打って大笑いするのを見た。劉伯龍は嘆いて言った、「貧窮はもとより天命にあるのに、さらに鬼に笑われるとは」。そこでやめた。

原文損同郡宗人有劉伯龍者,少而貧薄,及長,歷位尚書左丞,少府,武陵太守,貧寠尤甚。常在家慨然,召左右將營十一之方,忽見一鬼在傍撫掌大笑。伯龍歎曰:「貧窮固有命,乃復為鬼所笑也。」遂止。

孫処

原文孫處

孫処、字は季高、会稽郡永興県の人である。戸籍に字を注記したため、故に字をもって行われる。若い時より気性を任せ、武帝が孫恩を征討する時、季高は喜んで従った。建鄴が平定されると、新夷県五等侯に封ぜられた。盧循の難に際し、武帝は季高に言った、「この賊は敗走するであろうが、卿でなければその窟穴を破ることはできない」。すぐに季高を派遣して海を渡り番禺を襲撃させ、これを陥落させた。盧循の父の盧嘏・長史の孫建之・司馬の虞尪夫らは軽舟で始興に奔った。すぐに振武将軍沈田子らを分遣して嶺表の諸郡を討平させた。盧循は左裏から逃れ戻り広州を襲撃したが、季高がこれを破って敗走させた。義熙七年、季高は卒去し、南海太守を追贈され、候官県侯に封ぜられた。九年、武帝は上表して交州刺史を追贈させた。

原文孫處字季高,會稽永興人也。籍注字,故以字行。少任氣,武帝征孫恩,季高樂從。及平建鄴,封新夷縣五等侯。盧循之難,武帝謂季高曰:「此賊行破,非卿不能破其窟穴。」即遣季高泛海襲番禺,拔之。循父嘏、長史孫建之、司馬虞尪夫等輕舟奔始興,即分遣振武將軍沈田子等討平嶺表諸郡。循于左裏走還襲廣州,季高破走之。義熙七年,季高卒,追贈南海太守,封候官縣侯。九年,武帝表贈交州刺史。

蒯恩

原文蒯恩

蒯恩、字は道恩、蘭陵郡承県の人である。武帝が孫恩を征討した時、県は蒯恩を徴発して馬の草を刈らせた。常に大きな束を負い、他の人より倍も多く担った。毎度草を地に置くたびに嘆いて言った、「大丈夫たるもの三石の弓を引きしめて、どうして馬丁の役を満たすことがあろうか」。武帝はこれを聞き、すぐに武器を与えた。妖賊征討以来、常に先鋒となり、胆力は人に優れ、大いに信愛された。婁県での戦いで、矢が右目に当たった。京城を平定し、建鄴を定め、軍功により都郷侯に封ぜられた。広固討伐に従い、盧循を破り、劉藩に従って徐道覆を追撃斬殺し、王鎮悪と共に江陵を襲撃し、朱齢石に従って蜀を伐ち、また司馬休之討伐に従った。征討に従って以来、およそ百余戦し、身に重傷を負った。武帝はその前後の功績を記録し、新寧県男に封ぜた。

原文蒯恩字道恩,蘭陵承人也。武帝征孫恩,縣差恩伐馬芻,常負大束,兼倍餘人。每舍芻於地,歎曰:「大丈夫彎弓三石,奈何充馬士。」武帝聞之,即給器仗。自征祅賊,常為先登,膽力過人,甚見愛信。于婁縣戰,箭中右目。平京城,定建鄴,以軍功封都鄉侯。從伐廣固,破盧循,隨劉藩追斬徐道覆,與王鎮惡襲江陵,隨朱齡石伐蜀,又從伐司馬休之。自從征討,凡百餘戰,身被重創。武帝錄其前後功,封新寧縣男。

武帝が北伐する時、蒯恩を留めて世子の侍衛とし、朝士に命じて彼と交わらせた。蒯恩はますます自ら謙遜し、人と話す時は常に官位を呼び、自らを鄙人と称し、士卒を撫でるには大いに恩紀があった。世子が開府すると、再び司馬に遷った。後に潼関に入り桂陽公劉義真を迎えたが、赫連勃勃に没した。封国は孫に伝わったが、子がなく、封国は除かれた。

原文武帝北伐,留恩侍衛世子,命朝士與之交。恩益自謙損,與人語常呼官位,自稱鄙人,撫士卒甚有恩紀。世子開府,再遷為司馬。後入關迎桂陽公義真,沒于赫連勃勃。傳國至孫,無子,國除。

向靖

原文向靖

向靖、字は奉仁、小字は彌、河内郡山陽県の人である。名が武帝の祖父の諱いみなと同じであるため、小字をもって行われる。彌は武帝と旧知であり、京城平定に従い、建武軍事に参じ、進んで建鄴を平定し、功により山陽県五等侯に封ぜられた。また広固征討、盧循討伐に従い、所在で功績を著わし、安南県男に封ぜられた。武帝が司馬休之を西伐し、関中を征討する時、共に任用された。武帝が天命を受けると、創業の功により、曲江県侯に封ぜられ、太子左衛率の位に至り、散騎常侍を加えられた。官で卒去した。彌は身を立てるに倹約し、家屋を営まず、園田や商売の財産もなく、当時の人に称えられた。

原文向靖字奉仁,小字彌,河內山陽人也。名與武帝祖諱同,故以小字行。彌與武帝有舊,從平京城,參建武軍事,進平建鄴,以功封山陽縣五等侯。又從征廣固,討盧循,所在著績,封安南縣男。武帝西伐司馬休之,征關中,並見任使。及帝受命,以佐命功,封曲江縣侯,位太子左衛率,加散騎常侍。卒於官。彌立身儉約,不營室宇,無園田商貨之業,時人稱之。

子の植が嗣ぎ、過失多く、母の訓戒を受けず、爵位を奪われる。更めて植の次弟の楨を立てて封を紹ぎしむるも、また人を殺した罪に坐し、国除となる。

原文子植嗣,多過失,不受母訓,奪爵。更以植次弟楨紹封,又坐殺人,國除。

楨の弟の柳、字は玄季、学義才能あり、立身方雅なり。太尉袁淑、司空徐湛之、東揚州刺史顏竣皆これと友善す。竣の貴ぶに及び、柳なお素情を以て自ら許し、先んずることを推さず。順陽の范璩、柳に誡めて曰く、「名位同じからず、礼に異数あり、卿何ぞ曩時の意を作すを得んや」と。柳曰く、「我と士遜(顏竣)とは心期すること久し、豈に一旦勢利を以てこれに処せんや」と。柳の南康郡守となるに及び、義宣の事に渉り敗れ、建康の獄に繋がる。屡々密かに竣に請い、相申し救わんことを求む。

原文楨弟柳字玄季,有學義才能,立身方雅。太尉袁淑、司空徐湛之、東揚州刺史顏竣皆與友善。及竣貴,柳猶以素情自許,不推先之。順陽范璩誡柳曰:「名位不同,禮有異數,卿何得作曩時意邪?」柳曰:「我與士遜心期久矣,豈可一旦以勢利處之。」及柳為南康郡,涉義宣事敗,系建康獄。屢密請竣,

孝武帝嘗て竣と柳の事を言及し、竟にこれを助けず。柳遂に法に伏す。璩、字は伯玉、平北將軍汪の曾孫なり、位は淮南太守。

原文求相申救。孝武嘗與竣言及柳事,竟不助之。柳遂伏法。璩字伯玉,平北將軍汪曾孫也,位淮南太守。

劉鍾

原文劉鍾

劉鍾、字は世之、彭城の人なり。少孤、郷人中山太守劉回に依り共に居し、常に貧賤に慷慨す。宋武帝に従い征伐し、其の心力を尽くす。義旗建つに及び、帝、鍾を板して郡主簿と為し、曰く、「豫(予め)是れ彭城郷人の義に赴く者は、並びに劉主簿に依るべし」と。ここに義隊を立て、連戦皆捷す。桓謙の東陵に屯し、卞範之の覆舟山西に屯するに及び、武帝、賊に伏兵あるを疑い、左右を顧み、正に鍾を見て、これに謂ひて曰く、「此の山下に当に伏兵あらん、卿往きてこれを探るべし」と。鍾馳せ進み、果たして伏兵あり、一時奔走す。後に南齊國內史を除かれ、安丘県五等侯に封ぜらる。父祖及び親属十喪を改葬せんことを求め、帝厚く資給を加ふ。

原文劉鍾字世之,彭城人也。少孤,依鄉人中山太守劉回共居,常慷慨於貧賤。從宋武帝征伐,盡其心力。及義旗建,帝板鍾為郡主簿,曰:「豫是彭城鄉人赴義者,並可依劉主簿。」於是立義隊,連戰皆捷。及桓謙屯於東陵,卞範之屯覆舟山西,武帝疑賊有伏兵,顧左右,政見鍾,謂曰:「此山下當有伏兵,卿可往探之。」鍾馳進,果有伏兵,一時奔走。後除南齊國內史,封安丘縣五等侯。求改葬父祖及親屬十喪,帝厚加資給。

広固に従征し、孟龍符陣に於いて陷没す。鍾直ちに入り其の屍を取りて返る。盧循建鄴に逼るや、鍾柵を拒ぎ、身に重創を受け、賊入るを得ず。循南走し、鍾又劉藩に随ひ徐道覆を追ひ、これを斬る。

原文從征廣固,孟龍符於陣陷沒,鍾直入取其屍而反。盧循逼建鄴,鍾拒柵,身被重創,賊不得入。循南走,鍾又隨劉藩追徐道覆,斬之。

後に朱齢石に随ひ蜀を伐ち前鋒と為り、成都を去ること二百里、鍾当時脚疾あり、齢石乃ち鍾に詣り、謀りて且つ鋭を養ひ兵を息し、以て其の隙を伺はんと欲す。鍾曰く、「然らず、前に大衆を揚言して内水に向かふと為し、譙道福敢へて涪城を捨てず、今重軍卒至り、其の不意に出づ、蜀人は已に胆を破れり。賊今兵を阻み険を守るは、是れ其の懼れて敢へて戦はざるなり、能く持久するに非ざるなり。其の兇懼に因りてこれを攻めば、其の勢必ず克たん。若し兵を緩くせば、彼将に人の虚実を知り、当に蜀子の虜と為らんのみ」と。齢石これに従ふ、明日、其の二城を陷し、径みちに成都を平ぐ。広固の功を以て、永新県男に封ぜらる。

原文後隨朱齡石伐蜀為前鋒,去成都二百里,鍾于時腳疾,齡石乃詣鍾,謀且欲養銳息兵,以伺其隙。鍾曰:「不然,前揚言大眾向內水,譙道福不敢舍涪城,今重軍卒至,出其不意,蜀人已破膽矣。賊今阻兵守險,是其懼不敢戰,非能持久也。因其兇懼攻之,其勢必克;若緩兵,彼將知人虛實,當為蜀子虜耳。」齡石從之,明日,陷其二城,徑平成都。以廣固功,封永新縣男。

十二年、武帝北伐し、鍾居守す。累遷して右衛將軍となる。元熙元年卒す。国は孫に伝はり、斉の禅を受けて、国除となる。

原文十二年,武帝北伐,鍾居守。累遷右衛將軍。元熙元年卒。傳國至孫,齊受禪,國除。

虞丘進

原文虞丘進

虞丘進、字は豫之、東海郯の人なり。少時謝玄に随ひ苻堅を討ち功あり、関内侯に封ぜらる。後に宋武帝に従ひ孫恩を征し、頻りに戦ひ功あり。建鄴を定むるに従ひ、燕國內史を除かれ、龍川県五等侯に封ぜらる。

原文虞丘進字豫之,東海郯人也。少時隨謝玄討苻堅有功,封關內侯。後從宋武帝征孫恩,頻戰有功。從定建鄴,除燕國內史,封龍川縣五等侯。

盧循都に逼るに及び、孟昶等天子を奉じて江を過がんことを議す。進廷議にて不可とし、面して昶等を折り、武帝甚だこれを嘉す。鄱陽太守を除かる。後に劉藩に随ひ徐道覆を斬る。義熙九年、前後の功を以て、望蔡県男に封ぜらる。永初二年、累遷して太子右衛率となる。卒し、司馬休之を討つ功を追論し、爵を進めて子と為す。国は曾孫に伝はり、斉の禅を受けて、国除となる。

原文及盧循逼都,孟昶等議奉天子過江,進廷議不可,面折昶等,武帝甚嘉之。除鄱陽太守。後隨劉藩斬徐道覆。義熙九年,以前後功,封望蔡縣男。永初二年,累遷太子右衛率。卒,追論討司馬休之功,進爵為子。傳國至曾孫,齊受禪,國除。

孟懷玉

原文孟懷玉

孟懷玉、平昌安丘の人なり、世京口に居す。宋武帝東伐して孫恩を討つに、建武司馬と為す。義旗に豫り、京口を平げ建鄴を定むるに従ひ、功を以て鄱陽県五等侯に封ぜらる。盧循都に逼るや、戦功を以て中軍諮議参軍と為る。循平ぎ、陽豊県男に封ぜられ、位は江州刺史・南中郎将。官に卒す。子無く、国除となる。

原文孟懷玉,平昌安丘人也,世居京口。宋武帝東伐孫恩,以為建武司馬。豫義旗,從平京口,定建鄴,以功封鄱陽縣五等侯。盧循逼都,以戰功為中軍諮議參軍。循平,封陽豐縣男,位江州刺史、南中郎將。卒官。無子,國除。

懷玉の弟龍符、驍果にして胆気あり、早く武帝に知られ、軍功を以て平昌県五等子に封ぜらる。広固を伐つに従ひ、車騎参軍を以て龍驤將軍・広川太守を加へらる。勝に乗り奔を追ひ、囲まれて害せらる。青州刺史を追贈され、臨沅県男に封ぜらる。

原文懷玉弟龍符,驍果有膽氣,早為武帝所知,以軍功封平昌縣五等子。從伐廣固,以車騎參軍加龍驤將軍、廣川太守。乘勝追奔,被圍見害,追贈青州刺史,封臨沅縣男。

胡藩

原文胡藩

胡藩、字は道序、豫章郡南昌県の人である。幼くして孤となり、喪に服して身を毀すことで知られた。太守韓伯が彼を見て、藩の叔父の尚書少広に謂って曰く、「卿のこの甥は義烈をもって名を成すであろう」と。州府が召し出したが就かず、二人の弟の元服と婚礼が終わるのを待って、郗恢の征虜軍事に参じた。時に殷仲堪が荊州刺史となっており、藩の従兄の羅企生が仲堪の参軍であった。藩が江陵を訪れて企生を見舞い、ついで仲堪を説いて曰く、「桓玄は意趣常ならず、節下(仲堪)がこれを崇めて遇すること過ぎ、将来の計にあらず」と。仲堪は悦ばず。藩は退いて企生に謂って曰く、「戈を倒して人に授くれば、必ず大禍に至る。早く去らざれば、後悔しても及ばぬ」と。後に玄が夏口より仲堪を襲い、藩は玄の後軍軍事に参じた。仲堪は敗れ、企生は果たして附従したことで禍に及んだ。

原文胡藩字道序,豫章南昌人也。少孤,居喪以毀聞。太守韓伯見之,謂藩叔尚書少廣曰:「卿此侄當以義烈成名。」州府辟不就,須二弟冠婚畢,乃參郗恢征虜軍事。時殷仲堪為荊州刺史,藩外兄羅企生為仲堪參軍。藩過江陵省企生,因說仲堪曰:「桓玄意趣不常,節下崇待太過,非將來計也。」仲堪不悅。藩退謂企生曰:「倒戈授人,必至大禍,不早去,後悔無及。」後玄自夏口襲仲堪,藩參玄後軍軍事。仲堪敗,企生果以附從及禍。

藩は転じて太尉大将軍相国軍事に参じた。宋の武帝が兵を起こすと、玄は戦いに敗れて出奔せんとした。藩が馬を叩いて曰く、「今、羽林の射手なお八百あり、皆は義故の西人なり。一旦これを捨てて、帰らんと欲するも、再び得ることはできましょうか」と。玄はただ鞭を以て天を指すのみであった。ここにおいて奔散して互いに見失い、蕪湖において玄に追い及んだ。玄は藩を見て喜び、張須無に謂って曰く、「卿の州(豫章)はもとより多士なり。今また王修を見る」と。桑落の敗戦に、藩の艦は焼かれ、鎧を着たまま水中に入り、潜行すること三十歩余り、ようやく岸に登った。そこで家に還った。

原文藩轉參太尉大將軍相國軍事。宋武帝起兵,玄戰敗將出奔,藩扣馬曰:「今羽林射手猶有八百,皆是義故西人,一旦舍此,欲歸可復得乎?」玄直以鞭指天而已。於是奔散相失,追及玄於蕪湖。玄見藩喜謂張須無曰:「卿州故為多士,今復見王修。」桑落之敗,藩艦被燒,並鎧入水,潛行三十許步,方得登岸。乃還家。

武帝はかねてより藩が殷氏に対して直言したことを聞き、また玄に節を尽くしたので、召して鎮軍軍事に参じさせた。慕容超を征討することに従い、超の軍は臨朐に屯聚していた。藩は武帝に言上して曰く、「賊は城外に軍を屯め、留守の者は必ず寡し。今、その城を取ってその旗幟を斬らば、これ韓信の趙を克った所以なり」と。帝はすなわち檀韶と藩を遣わし潜行して往かせ、即時にその城を陥とした。賊は城の陥落を見て、一時に奔走し、還って広固を保った。これを包囲し、陥さんとする夜、忽ちに鵝の如き大さの鳥、蒼黒色のものが飛来して帝の帳裏に入った。衆は不祥と為した。藩が賀して曰く、「蒼黒色なるは、胡虜の色なり。胡虜我に帰す、大吉の祥なり」と。明旦、城を攻めて、これを陥とした。左裏において盧循を討つことに従い、頻りに戦って功有り、呉平県五等子に封ぜられた。

原文武帝素聞藩直言于殷氏,又為玄盡節,召參鎮軍軍事。從征慕容超,超軍屯聚臨朐。藩言于武帝曰:「賊屯軍城外,留守必寡,今往取其城而斬其旗幟,此韓信所以克趙也。」帝乃遣檀韶與藩潛往,即克其城。賊見城陷,一時奔走,還保廣固。圍之,將拔之夜,忽有鳥大如鵝,蒼黑色,飛入帝帳裏,眾以為不祥。藩賀曰:「蒼黑者,胡虜色。胡虜歸我,大吉之祥。」明旦攻城,陷之。從討盧循于左裏,頻戰有功,封吳平縣五等子。

尋いて鄱陽太守を除かれ、劉毅を伐つことに従った。初め、毅が荊州に赴かんとする時、表を上して東道より建鄴に還り墓に辞することを求めた。都を去ること数十里にして、闕を拝せずに過ぎた。帝は倪塘に出て毅と会した。藩はこれを殺すことを請うた。すなわち帝に謂って曰く、「公は劉衛軍(毅)が公の下に立つと謂われますか」と。帝曰く、「卿はどう思うか」と。対えて曰く、「豁達大度にして、功は天下に高く、百万の衆を連ね、天人の望みに允まことなれば、毅は固よりこれをもって公に服します。しかし、記伝に渉猟し、一詠一談、自ら雄豪と許し、これに誇伐を加え、搢紳白面の士が輻湊して帰する、これ毅の公の下に立たざる所以なり」と。帝曰く、「吾と毅とは俱に克復の功有り。その過未だ顕われず、自ら相図るべからず」と。この時に至り、藩に謂って曰く、「昔、卿の倪塘の謀に従わざりしが故に、今の挙(挙兵)無きなり」と。

原文尋除鄱陽太守,從伐劉毅。初,毅當之荊州,表求東道還建鄴辭墓。去都數十里,不過拜闕。帝出倪塘會毅,藩請殺之,乃謂帝曰:「公謂劉衛軍為公下乎?」帝曰:「卿謂何如?「對曰:「夫豁達大度,功高天下,連百萬之眾,允天人之望,毅固以此服公。至於涉獵記傳,一詠一談,自許以雄豪,加以誇伐,搢紳白麵之士,輻湊而歸,此毅不肯為公下也。」帝曰:「吾與毅俱有克復功,其過未彰,不可自相圖。」至是謂藩曰:「昔從卿倪塘之謀,無今舉也。」

また司馬休之を征することに従い、再び参軍となった。徐逵之が敗没すると、帝は怒り、即日馬頭岸より江を渡った。江津の岸は壁立すること数丈、休之は岸に臨んで陣を置き、登る由無し。帝は藩を呼んで登らせようとした。藩に疑う色有り。帝は怒り、左右に命じて録(捕ら)えて来させ、斬らんとした。藩は命を受けず、顧みて曰く、「寧ろ前に死すべし」と。刀の頭(切先)を以て岸を穿ち、わずかに足指を容れる径を上り、これに従う者次第に多くなった。登るに及び、殊死しゅしに戦い、これを敗った。

原文又從征司馬休之,復為參軍。徐逵之敗沒,帝怒,即日於馬頭岸度江。江津岸壁立數丈,休之臨岸置陣,無由可登。帝呼藩令上,藩有疑色。帝怒,命左右錄來,欲斬之。藩不受命,顧曰:「寧前死耳。」以刀頭穿岸,劣容腳指徑上,隨之者稍多。及登,殊死戰,敗之。

関中を伐つことに従い、太尉軍事に参じ、別軍を統率して河東に至った。暴風が輜重しちょう艦を漂わせて北岸に渡らせ、魏軍がこの艦を牽き得た。藩は気憤し、左右十二人を率いて小船に乗り径ちに往った。魏の騎兵五六百、藩の来るを見て並びにこれを笑った。藩は平素より射を善くし、岸に登ってこれを射れば、弦に応じて倒れる者十余人。魏軍は皆退き、失ったものを悉く収めて還った。また藩及び朱超石らを遣わし半城において魏軍を追わしむ。魏の騎兵数万が合囲した。藩及び超石の兵は五千に満たず、力戦してこれを大破した。武帝は彭城に還り、相国軍事に参じた。司馬休之及び広固の功を論じ、陽山県男に封ぜられた。元嘉年中、太子左衛率に位した。卒し、諡して壮侯と曰う。子の隆世が嗣いだ。

原文從伐關中,參太尉軍事,統別軍至河東。暴風漂輜重艦度北岸,魏軍牽得此艦。藩氣憤,率左右十二人乘小船徑往。魏騎五六百,見藩來並笑之。藩素善射,登岸射之,應弦而倒者十許人。魏軍皆退,悉收所失而反。又遣藩及朱超石等追魏軍於半城,魏騎數萬合圍,藩及超石不盈五千,力戰,大破之。武帝還彭城,參相國軍事。論平司馬休之及廣固功,封陽山縣男。元嘉中,位太子左衛率。卒,諡曰壯侯。子隆世嗣。

藩の諸子は多く法度を遵ばず、第十四子の遵世は孔熙先の逆謀に同調した。文帝は藩が功臣であることを以て、その事を顕わにせず、江州に命じて他事を以てこれを殺させた。第十六子の誕世、第十七子の茂世は、後に庶人義康を奉ぜんと欲し、交州刺史檀和之が豫章に至って討ち平らげた。

原文藩諸子多不遵法度,第十四子遵世同孔熙先逆謀,文帝以藩功臣,不欲顯其事,使江州以他事殺之。十六子誕世,十七子茂世,後欲奉庶人義康,交州刺史檀和之至豫章討平之。

劉康祖

原文劉康祖

劉康祖、彭城郡呂県の人、代々京口に居住した。父の虔之は、財を軽んじ施すことを好み、江夏相に位した。宋の武帝が西征して司馬休之及び魯宗之を討つ時、宗之の子の軌が襲って虔之を殺した。追贈して梁・秦二州刺史と為し、新康県男に封ぜられた。

原文劉康祖,彭城呂人也,世居京口。父虔之,輕財好施,位江夏相。宋武帝西征司馬休之及魯宗之,宗之子軌襲殺虔之,追贈梁、秦二州刺史,封新康縣男。

康祖は弓馬に便で、膂力人に絶し、浮蕩(放蕩)と蒱酒(賭博と酒)を事とした。毎度法を犯して郡県に録(捕ら)えられると、すぐに屋を越え牆を踰え、これを擒える者無し。夜に人家に入り、有司に囲まれると、囲みを突破して去り、併せて敢えて追う者無く、よって夜に京口に還れば、半夕(半晩)にして便ち至った。明くる朝、守門を詣で府州の要職に至ると、俄かに建康より移書してこれを録しようとした。府州の執事者は並びに康祖がその夕べ京口に在ったことを証したので、遂に恙無く済んだ。前後屡々糾劾されたが、文帝は勲臣の子であることを以て毎度これを原ゆるし貸した。後に封を襲い員外郎に拝されたが、再び蒱戯に坐して免官された。孝武帝が豫州刺史となり、歴陽に鎮した時、康祖を征虜中兵参軍とした。委任されるに及び、節を折り自ら修めた。南平王鑠の安蛮府司馬を歴任した。

原文康祖便弓馬,膂力絕人,以浮蕩蒱酒為事。每犯法為郡縣所錄,輒越屋踰牆,莫之能禽。夜入人家,為有司所圍,突圍去,並莫敢追,因夜還京口,半夕便至。明旦守門詣府州要職,俄而建康移書錄之,府州執事者並證康祖其夕在京口,遂得無恙。前後屢被糾劾,文帝以勳臣子每原貸之。後襲封拜員外郎,再坐蒱戲免官。孝武為豫州刺史,鎮曆陽,以康祖為征虜中兵參軍。既被委任,折節自修。曆南平王鑠安蠻府司馬。

元嘉二十七年、魏の太武帝自ら大衆を率いて汝南を攻囲した。文帝は諸軍を遣わし救援せしめ、康祖が総統して前駆となった。新蔡に次り、魏軍を攻破し、懸瓠より四十里の地に去った。太武帝は営を焼いて還った。転じて左軍将軍となった。文帝は大挙して北侵せんと欲した。康祖は歳月既に晩しとして、来年を待つことを請うた。上は許さず。その年の秋、蕭斌・王玄謨・沈慶之らが河に入り、康祖は豫州の軍を率いて許・洛より出た。玄謨らは敗れて帰り、南平王鑠が寿陽に在った。上は魏に囲まれることを慮り、康祖を召して速やかに反らしめた。康祖は軍を回し、寿陽に至らぬこと数十里、時に魏の永昌王が長安の衆八万騎を以て、康祖と尉武において相及んだ。康祖には八千人あり、乃ち車営を結んで進んだ。魏軍は四面より来攻し、衆は三つに分かれ、且つ休み且つ戦った。康祖は将士を率い厲はげませば、一もって百に当たらぬ者無く、魏軍の死者太半、流れる血は踝くるぶしを没した。矢が頭に中って死す。ここにおいて大敗し、挙営淪覆し、免れた者は僅かに数十人に過ぎなかった。魏人は康祖の首を伝えて彭城に示せば、面は生けるが如し。益州刺史を追贈し、諡して壮と曰う。

原文元嘉二十七年,魏太武帝親率大眾攻圍汝南,文帝遣諸軍救援,康祖總統為前驅。次新蔡,攻破魏軍,去懸瓠四十里。太武燒營而還。轉左軍將軍。文帝欲大舉北侵,康祖以歲月已晚,請待明年。上不許。其年秋,蕭斌、王玄謨、沈慶之等入河,康祖率豫州軍出許、洛。玄謨等敗歸,南平王鑠在壽陽,上慮為魏所圍,召康祖速反。康祖回軍,未至壽陽數十里,會魏永昌王以長安之眾八萬騎,與康祖相及于尉武。康祖有八千人,乃結車營而進。魏軍四面來攻,眾分為三,且休且戰。康祖率厲將士,無不一當百,魏軍死者太半,流血沒踝。矢中頭而死,於是大敗,舉營淪覆,免者裁數十人。魏人傳康祖首示彭城,面如生。贈益州刺史,諡曰壯。

康祖の伯父の簡之は、志幹有り、宋の武帝に知られた。帝が興復を謀らんとして、才力の士を収集した時、嘗て再び簡之を訪れたが、客有り。簡之はその意を悟り、虔之に謂って曰く、「劉下邳(武帝)再び来る、必ずや意有るべし。既に語るを得ず、汝は試みに往きてこれを見よ」と。虔之の至るに及び、武帝は既に京口を克っていた。虔之は即ち義に投じた。簡之はこれを聞き、耕牛を殺し、衆を会してこれに赴いた。太尉諮議参軍に位した。簡之の弟の謙之は学を好み、『晋紀』二十巻を撰し、広州刺史、太中大夫に位した。

原文康祖伯父簡之,有志幹,為宋武帝所知。帝將謀興復,收集才力之士,嘗再造簡之,會有客。簡之悟其意,謂虔之曰:「劉下邳再來,必當有意。既不得語,汝可試往見之。」及虔之至,武帝已克京口。虔之即投義。簡之聞之,殺耕牛,會眾以赴之。位太尉諮議參軍。簡之弟謙之,好學,撰晉紀二十卷,位廣州刺史,太中大夫。

簡之の子は道産、初め無錫県令となり、爵を襲い晋安県五等侯となった。元嘉三年、累進して梁・南秦二州刺史となり、都督を加えられた。州にあっては恵みの政治を行った。後に雍州刺史・甯蠻校尉を領し、都督を加えられ、兼ねて襄陽太守となった。職務に臨むことに長け、雍州部での政績は特に顕著であり、蛮夷で以前より教化を受けなかった者も皆順服し、百姓は生業を楽しんだ。これにより襄陽楽歌が生じ、道産に始まるのである。官にて卒し、諡して襄侯という。道産の恩沢は西土に及び、喪が還るに及んで、諸蛮は皆縗絰を備え号哭し、追送して沔口に至った。

原文簡之子道產,初為無錫令,襲爵晉安縣五等侯。元嘉三年,累遷梁、南秦二州刺史,加都督。在州有惠化。後為雍州刺史、領甯蠻校尉,加都督,兼襄陽太守。善於臨職,在雍部政績尤著,蠻夷前後不受化者皆順服,百姓樂業,由此有襄陽樂歌,自道產始也。卒於官,諡曰襄侯。道產澤被西土,及喪還,諸蠻皆備縗絰號哭,追送至於沔口。

長子は延孫、孝武帝の初め、侍中に位し、東昌県侯に封ぜられ、累進して尚書右僕射となった。大明元年、金紫光禄大夫を除かれ、太子詹事を領した。また出て南徐州刺史となった。先に、武帝の遺詔に「京口は要地にして、都に密邇す。宗室近戚にあらざればこれに居らしむべからず」とあった。劉氏の彭城に居る者は三里に分かれ、帝室は綏輿裏に居り、左将軍劉懷肅は安上裏に居り、豫州刺史劉懷武は叢亭裏に居った。三里及び延孫の居る呂県、凡そ四劉、楚元王より同じく出づるも、由来昭穆を序せず。延孫は帝室と本より同宗にあらず、この授けあるべきにあらず。時に司空竟陵王誕が徐州にあり、上は深く畏忌し、京口に居らしむるを欲せず、これを広陵に遷した。広陵は京口と対岸なり、腹心をして徐州と為し京口を拠りて誕を防がしむ。故に南徐州を延孫に授け、これと合族し、諸王に親を序せしめた。

原文長子延孫,孝武初,位侍中,封東昌縣侯,累遷尚書右僕射。大明元年,除金紫光祿大夫,領太子詹事。又出為南徐州刺史。先是,武帝遺詔:京口要地,去都密邇,自非宗室近戚不得居之。劉氏之居彭城者,分為三里,帝室居綏輿裏,左將軍劉懷肅居安上裏,豫州刺史劉懷武居叢亭裏。三里及延孫所居呂縣凡四劉,雖同出楚元王,由來不序昭穆。延孫于帝室本非同宗,不應有此授。時司空竟陵王誕為徐州,上深相畏忌,不欲使居京口,遷之廣陵。廣陵與京口對岸,使腹心為徐州據京口以防誕,故以南徐州授延孫,而與之合族,使諸王序親。

三年、南兗州刺史竟陵王誕が罪ありて征を受けず、延孫は馳せて中兵参軍杜幼文を遣わし赴討せしめた。至るに及んで、誕は既に城を閉ざして自ら守り、乃ち還った。誕は劉公泰を遣わし書を齎してこれを要す。延孫は公泰を斬り、首を建鄴に送り、また幼文を遣わして沈慶之の節度を受けしめた。

原文三年,南兗州刺史竟陵王誕有罪不受征,延孫馳遣中兵參軍杜幼文赴討。及至,誕已閉城自守,乃還。誕遣劉公泰齎書要之,延孫斬公泰,送首建鄴,復遣幼文受沈慶之節度。

五年、詔して延孫に曰く「旧京には親を樹つること、由来常の准なり。今この防久しく弭ぎたり、当に還して小児に授くべし」と。乃ち延孫を征して侍中・尚書左僕射とし、護軍を領せしめた。延孫は病み、拝赴に堪えず。卒し、司徒を贈られ、班剣二十人を給された。有司奏して諡を忠穆とす。詔してこれを文穆と改む。子の質が嗣いだ。

原文五年,詔延孫曰:「舊京樹親,由來常准。今此防久弭,當以還授小兒。」乃征延孫為侍中、尚書左僕射,領護軍。延孫病,不任拜赴。卒,贈司徒,給班劍二十人。有司奏諡忠穆,詔改為文穆。子質嗣。

論じて曰く、

原文【史評】

劉敬宣は宋武と恩を龍潜に結び、義分早く合い、興復の始めは事隔てて逢迎すれども、深き期し久しき要は、未だこれ爽かず。隆赫の任は、遂に人存に止まり、飾終の数は、身後に聞こえず。恩礼の厚薄あるは、将に別に以てか。劉懷肅・劉懷慎・劉粹・孫処・蒯恩・向靖・劉鍾・虞丘進・孟懷玉・孟龍符・胡藩らは、或いは恩旧に階縁し、その心力を一にし、或いは風雲に攀附し、その鱗羽を奮い、皆よく塵滓を振抜き、自ら封侯に致る。詩に云う「徳無きは報いられず」と、その言信ずるかな。康祖は門に興王を奉じ、早く封壌を裂き、疆埸に委を受け、赴蹈を期とす。道産は績を漢南に樹て、年歴十を踰え、遺風余烈、称するに足るものあり。その行事を覧るに、異跡均しく美なりと謂うべし。延孫は隆名盛寵、択びて後に授け、遂に腹心の托を以て、自ら宗臣の重きに致る。またその遇いなり。

原文論曰:劉敬宣與宋武恩結龍潛,義分早合,雖興復之始,事隔逢迎,而深期久要,未之或爽。隆赫之任,遂止於人存,飾終之數,無聞於身後。恩禮之有厚薄,將別有以乎?劉懷肅、劉懷慎、劉粹、孫處、蒯恩、向靖、劉鍾、虞丘進、孟懷玉、孟龍符、胡藩等,或階緣恩舊,一其心力,或攀附風雲,奮其鱗羽,咸能振拔塵滓,自致封侯。詩云:「無德不報」,其言信矣。康祖門奉興王,早裂封壤,受委疆埸,赴蹈為期。道產樹績漢南,歷年踰十,遺風餘烈,有足稱焉。覽其行事,可謂異跡均美。延孫隆名盛寵,擇而後授,遂以腹心之托,自致宗臣之重,亦其遇也。