南史

列傳第六

列傳第六

列傳第六

王鎭惡

原文王鎭惡

王鎭惡は北海郡劇県の人である。祖父の王猛は苻堅に仕え、将相の任を兼ねた。父の王休は河東太守となった。鎭惡は五月に生まれたので、家人は俗忌により、疎遠な宗族に養子に出そうとした。王猛は言った、「これは尋常の児ではない。昔、孟嘗君は忌月に生まれて斉の相となった。この児もまた我が家門を内側から興すであろう」。故に名を鎭惡とした。十三歳の時に苻氏が敗れ、澠池の李方の家に寄食した。李方は彼を厚遇し、鎭惡は李方に言った、「もし英雄の主君に遇えば、万戸侯を得ようと志す。その時は厚く報いよう」。李方は言った、「君は丞相の孫で、人材このようである。富貴にならぬことを何の憂いがあろうか。その時には、本県の県令に用いられることを願うだけで足りる」。

原文王鎭惡,北海劇人也。祖猛,仕苻堅,任兼将相。父休,爲河東太守。鎭惡以五月生,家人以俗忌,欲令出繼疎宗。猛曰:「此非常儿。昔孟嘗君惡月生而相齊,是儿亦将興吾内矣。」故名爲鎭惡。年十三而苻氏敗,寓食澠池人李方家。方善遇之,谓方曰:「若遭英雄主,要取万戸侯,当厚相报。」方曰:「君丞相孙,人材如此,何患不富貴,至時願見用爲本縣令足矣。」

後に叔父の王曜に従って晉に帰順し、荊州に客寓した。諸子や兵書をよく読み、軍国大事を論ずることを好んだ。騎射は得意ではなかったが、縦横に策をめぐらし、果断に優れていた。宋の武帝が広固を討伐した時、鎭惡は天門郡臨澧県令であった。ある人が武帝に推薦したので、召し出して語らうと、異才を認め、そのまま宿を共にした。翌朝、武帝は諸僚佐に言った、「鎭惡は王猛の孫である。いわゆる将門に将ありというものだ」。すぐに前部賊曹に任じた。盧循を防いで功績があり、博陸県五等子に封ぜられた。

原文後隨叔父曜歸晉,客荊州,頗讀諸子兵書,喜論軍國大事,騎射非長,而從橫善果斷。宋武帝伐廣固,鎭惡時爲天門郡臨澧令。人或薦之武帝,召與語,異焉,因留宿。旦謂諸佐曰:「鎭惡王猛孫,所謂將門有將。」即以署前部賊曹。拒盧循有功,封博陸縣五等子。

武帝が劉毅を討つことを謀ると、鎭惡は言った、「公がもし西楚(荊州)に事あらば、百艘の船を与えられ、前駆を務めさせてください」。西征の際には、鎭惡を参軍事に転じ、龍驤将軍蒯恩に率いられた百艘の船団を先発させた。鎭惡は命を受けると、昼夜兼行し、声を揚げて「劉兗州(劉藩)が上ってくる」と触れ回った。劉毅はこれを真実と信じ、襲撃されるとは知らなかった。

原文武帝謀討劉毅,鎭惡曰:「公若有事西楚,請給百舸爲前驅。」及西討,轉鎭惡參軍事,使率龍驤將軍蒯恩百舸前發。鎭惡受命,便晝夜兼行,揚聲劉兗州上。毅謂爲信,不知見襲。

鎭惡は江陵城から二十里の地点で船を捨てて歩兵となり、蒯恩の軍が前、鎭惡が次いだ。各船には一、二人を残し、船に対岸に旗を立て鼓を据えさせた。残された者に言った、「我らが城に至る頃合いを見計らって、盛大に警鼓を鳴らし、あたかも後方に大軍があるかのように見せよ」。また別隊を後方に分遣し、江津の船を焼かせた。鎭惡はまっすぐに進んで城を襲った。津の守備兵や百姓は皆、劉藩が本当に上ってきたと言い、平然として疑わなかった。城に近づいた時、劉毅の要請でやってきた将軍の朱顯之が馳せ来て、劉藩の所在を問うた。兵士は答えて「後方におります」と言った。軍の後方に行っても劉藩が見えず、また江津の船艦が焼かれ、鼓の音が甚だ盛んなのを望見し、劉藩の来訪ではないと知ると、すぐに馬を飛ばして劉毅に告げ、城門を閉ざさせた。鎭惡もまた馳せ進んで城内に入り、風に乗じて火を放ち、大城の南門と東門を焼いた。また人を遣わして詔書と赦文、および武帝の親書、合わせて三通の文書を劉毅に示したが、劉毅は全て焼いて見ようとしなかった。金城内もまた帝が自ら来たとは信じていなかった。短兵相接して戦うと、鎭惡の軍人と劉毅の配下の将兵とは、あるいは父兄子弟、あるいは中表の親族であり、戦いながら語り合い、武帝が後方にいることを知ると、人心は離れ緩んだ。

原文鎭惡去江陵城二十里,舍船歩上,蒯恩軍在前,鎭惡次之,舸留一二人,對舸岸上豎旗安鼓。語所留人曰:「計我將至城,便長嚴,令如後有大軍狀。又分隊在後,令燒江津船。鎭惡徑前襲城,津戍及百姓皆言劉藩實上,晏然不疑。將至城,逢毅要將朱顯之馳前問藩所在,軍人答云:「在後」。及至軍後不見藩,又望見江津船艦被燒而鼓聲甚盛,知非藩上,便躍馬告毅,令閉城門。鎭惡亦馳進得入城,便因風放火,燒大城南門及東門。又遣人以詔及赦文並武帝手書凡三函示毅,毅皆燒不視。金城内亦未信帝自來。及短兵接戰,鎭惡軍人與毅下將或是父兄子弟中表親親,且鬥且語,知武帝在後,人情離懈。

初め、劉毅が常に乗っていた馬は城外におり入ることができず、慌てて馬がなくなり、子の劉肅に馬を求めさせたが、劉肅は与えなかった。朱顯之が言った、「人が汝の父を捕らえようとしているのに、馬を惜しむとは。汝はどこへ逃げようとするのか」。馬を奪って劉毅に与えた。劉毅は大城の東門から出奔し、牛牧仏寺で自縊した。鎭惡は身に五本の矢を受け、手に持っていた矛は手中で折れていた。江陵平定後二十日して、大軍がようやく到着した。功により漢壽県子に封ぜられた。武帝が北伐する時、鎭西諮議、行龍驤将軍となり、前鋒を率いた。出発に際し、前将軍劉穆之が言った、「昔、晉の文王が蜀を鄧艾に委ねたように、今、卿に関中を委ねる。卿は努めよ」。鎭惡は言った、「我らは風雲に託し、共に抜擢を受けた。今、咸陽を落とさねば、誓って江を渡って帰らぬ。三秦が平定され、公(武帝)に九錫が下らなければ、それは卿(劉穆之)の責任である」。

原文初,毅常所乘馬在城外不得入,倉卒無馬,使就子肅取馬,肅不與。朱顯之謂曰:「人取汝父而惜馬,汝走欲何之?」奪馬以授毅,從大城東門出奔牛牧佛寺自縊。鎭惡身被五箭,手所執矟於手中破折。江陵平後二十日,大軍方至,以功封漢壽縣子。及武帝北伐,爲鎭西諮議,行龍驤將軍,領前鋒。將發,前將軍劉穆之謂曰:「昔晉文王委蜀于鄧艾,今亦委卿以關中,卿其勉之。」鎭惡曰:「吾等因托風雲,並蒙抽擢,今咸陽不克,誓不濟江。三秦若定,而公九錫不至,亦卿之責矣。」

鎭惡は賊の境内に入り、戦えば必ず勝ち、虎牢及び柏穀塢を破った。進軍して澠池に駐屯し、旧知の李方の家を訪れた。堂に上がって母に会い、厚く報酬を与え、すぐに李方を澠池県令に任じた。車道を並べて進み、まっすぐに潼関を占拠した。将兵は食糧に乏しくなり、自ら弘農に行って民の租税を監督した。百姓は競って義捐の粟を送り、軍糧は再び豊かになった。

原文鎭惡入賊境,戰無不捷,破虎牢及柏穀塢。進次澠池,造故人李方家,升堂見母,厚加酬賚,即授方澠池令。方軌徑據潼關,將士乏食,乃親到弘農督人租。百姓競送義粟,軍食復振。

初め、武帝は鎭惡らと約束した。もし洛陽を攻略したならば、必ず大軍を待ち、軽率に前進してはならない、と。その後、鎭惡らが潼関に至ると、偽(後秦)の大将軍姚紹に阻まれて進めず、急使を走らせて武帝に食糧と援軍を求めた。当時、帝の軍は河に入り、魏軍が河岸に駐屯していたため、軍を進めることができなかった。帝は遣わされた者を呼び、船室の北の戸を開けて河上の軍勢を示し、言った、「私は進むなと言ったのに深く入り込んだ。岸上がこの様子では、どうして軍を遣わすことができようか」。鎭惡は義捐の租税を得た後、姚紹もまた病死し、偽の撫軍将軍姚贊が姚紹に代わって険要を守り、その兵力はなお盛んであった。武帝が湖城に至ると、姚贊は退却した。

原文初,武帝與鎭惡等期,若克洛陽,須待大軍,未可輕前。既而鎭惡等至潼關,爲偽大將軍姚紹所拒不得進,馳告武帝求糧援。時帝軍入河,魏軍屯河岸,軍不得進。帝呼所遣人開舫北戸指河上軍示之曰:「我語令勿進而深入,岸上如此,何由得遣軍。」鎭惡既得義租,紹又病死,偽撫軍將軍姚贊代紹守嶮,衆力猶盛。武帝至湖城,贊引退。

大軍は潼関に駐屯し、進取の計を謀った。鎭惡は水軍を率いて河から渭水に入り、まっすぐに渭橋まで進むことを請うた。鎭惡の乗る船は皆、蒙衝小艦であり、船を操る者は全て艦内にいて、渭水を遡って進んだので、艦外には行船する人が見えなかった。北方の土地には元来、舟船がなく、皆、驚いて神のごとく思った。鎭惡が到着すると、将士に食事を終えさせ、すぐに船を捨てて上陸した。渭水の流れは急で、諸艦は全て流れ去った。鎭惡は士卒を慰撫して言った、「ここは長安城の北門外であり、家からは万里離れている。船も衣糧も全て流れ去った。ただ死戦するのみで、大功を立てることができる」。そして自ら士卒の先頭に立ち、すぐに長安城を陥落させた。城内は六万余戸あり、鎭惡は新たに帰附した者を慰撫し、号令は厳粛であった。灞上で武帝を奉迎すると、武帝は労って言った、「我が覇業を成した者は、まさに卿である」。鎭惡は謝して言った、「これは明公の威光と、諸将の力によるものです」。帝は笑って言った、「卿は馮異に学ぼうとするのか」。

原文大軍次潼關,謀進取計,鎭惡請率水軍自河入渭,直至渭橋。鎭惡所乘皆蒙沖小艦,行船者悉在艦内,泝渭而進,艦外不見有行船人。北土素無舟烜,莫不驚以爲神。鎭惡既至,令將士食畢,便棄船登岸。渭水流急,諸艦悉逐流去,鎭惡撫慰士卒曰:「此是長安城北門外,去家萬里,而舫乘衣糧並已逐流,唯宜死戰,可立大功。」乃身先士卒,即陷長安城。城内六萬餘戸,鎭惡撫慰初附,號令嚴肅。于灞上奉迎,武帝勞之曰:「成吾霸業者眞卿也。」謝曰:「此明公之威,諸將之力。」帝笑曰:「卿欲學馮異邪。」

当時、関中は豊かで充実していた。鎭惡は性分が貪欲で、子女や玉帛を収奪すること数えきれず、帝はその功績が大きいとして問わなかった。ある時、帝に「鎭惡が姚泓の偽の輦(皇帝の車)を隠し、異志を抱いている」と告げる者があった。帝は偵察させると、鎭惡が輦の金銀の飾りを剥ぎ取り、輦を垣の傍らに捨てているのを知り、帝は安心した。

原文時關中豐全,鎭惡性貪,收斂子女玉帛不可勝計,帝以其功大不問。時有白帝言鎭惡藏姚泓偽輦,有異志,帝使覘之,知鎭惡剔取飾輦金銀,棄輦於垣側,帝乃安。

帝は第二子の桂陽公劉義眞を安西将軍・雍秦二州刺史として留め、長安を鎮守させた。鎭惡は征虜将軍として安西司馬・馮翊太守を兼ね、防禦の任を委ねられた。

原文帝留第二子桂陽公義眞爲安西將軍、雍秦二州刺史,鎭長安。鎭惡以征虜將軍領安西司馬、馮翊太守,委以扞禦之任。

大軍が東還すると、赫連勃勃が北地に迫った。劉義眞は中兵参軍沈田子を遣わしてこれを防がせた。虜の勢いは甚だ盛んで、沈田子は退いて劉因堡に駐屯し、使者を還して鎭惡に報告させた。鎭惡は沈田子の使者に対し、安西長史王修に言った、「公(武帝)は十歳の児(劉義眞)を我らに託された。共に力を尽くすことを思うべきである。今、兵を擁して進まず、どうして賊を平定できようか」。使者がこの言葉を伝えると、沈田子は甚だ恐れた。

原文及大軍東還,赫連勃勃逼北地,義眞遣中兵參軍沈田子拒之。虜甚盛,田子退屯劉因堡,遣使還報鎭惡。鎭惡對田子使謂安西長史王修曰:「公以十歳兒付吾等,當共思竭力,今擁兵不進,賊何由得平?」使反言之,田子甚懼。

王猛が苻堅の宰相であった時、北方の人々は彼を諸葛亮になぞらえた。関中に入った功績もまた、鎭惡が第一であり、当時の論者は彼を深く畏れた。沈田子の嶢柳での勝利は威勢が三輔に震うたが、鎭惡と功績を争った。武帝が帰還する際、沈田子を鎭惡と共に留め置き、密かに沈田子に言った、「鍾会がその乱を遂げられなかったのは、衞瓘らがいたからである。諺に言う、『猛獣も群狐には及ばない』と。卿ら十余人で、どうして王鎭惡を恐れようか」。故に二人は常に猜疑心を抱いていた。当時、鎭惡は涇水のほとりに軍を駐め、沈田子と共に傅弘之の陣営で会った。沈田子は人払いを求め、幕下で鎭惡を斬った。兄の王基、弟の王鴻・王遵・王深、従弟の王昭・王朗・王弘、合わせて七人である。傅弘之は駆けつけて劉義眞に告げた。劉義眞は王智・王修を率い、甲冑を着て横門に登り、その変事を察した。やがて沈田子が到着し、鎭惡が謀反したと言った。王修は沈田子を捕らえ、専断で殺戮した罪により斬った。この年は、義熙十四年正月十五日であった。左将軍・青州刺史を追贈された。帝が受禅すると、龍陽県侯を追封され、諡は壮といった。封国は曾孫の王叡まで伝わり、齊が禅を受けると、封国は除かれた。

原文王猛之相苻堅也,北人以方諸葛亮。入關之功,又鎭惡爲首,時論者深憚之。田子嶢柳之捷,威震三輔,而與鎭惡爭功。武帝將歸,留田子與鎭惡,私謂田子曰:「鍾會不得遂其亂者,爲有衞瓘等也。語曰:'猛獸不如群狐。'卿等十餘人何懼王鎭惡。」故二人常有猜心。時鎭惡師於涇上,與田子倶會傅弘之壘,田子求屛人,因斬之幕下,並兄基弟鴻、遵、深從弟昭、朗、弘,凡七人。弘之奔告義眞,義眞率王智、王修被甲登橫門以察其變。俄而田子至,言鎭惡反。修執田子,以專戮斬焉。是歳,義熙十四年正月十五日也。追贈左將軍、靑州刺史。及帝受命,追封龍陽縣侯,諡曰壯。傳國至曾孫叡,齊受禪,國除。

朱齡石

原文朱齡石

朱齢石は字あざなを伯兒といい、沛郡沛の人である。代々将軍を務め、伯父の憲及び斌はともに西中郎袁眞の将佐であった。桓温が寿陽において袁眞を討つと、袁眞は憲兄弟がひそかに桓温と通じたとして、ともにこれを殺した。齢石の父の綽は逃れて桓温に帰順した。寿陽が平定され、袁眞は既に死んでいたが、綽は勝手に棺を開いて屍を辱めた。桓温は怒ってこれを斬ろうとしたが、桓温の弟の沖が請うて免じられた。綽は沖の更生の恩を受け、沖を父のように仕えた。位は西陽・広平太守に至った。沖が薨ずると、綽は血を吐いて死んだ。

原文朱齡石字伯兒,沛郡沛人也。世爲將,伯父憲及斌並爲西中郎袁眞將佐。桓温伐眞于壽陽,眞以憲兄弟潛通温,並殺之,齡石父綽逃歸温。壽陽平,眞已死,綽輒發棺戮屍。温怒將斬之,温弟沖請得免。綽受沖更生之恩,事沖如父。位西陽、廣平太守。及沖薨,綽歐血而死。

齢石は若い頃から武を好み、行いを慎むことはなかった。母方の叔父の淮南の蔣氏は才能が劣っていた。齢石は叔父を役所に臥させ、一寸四方の紙を切り、叔父の枕に貼り付け、八九尺離れたところから刀子を投げてこれを射た。百投百中であった。叔父は齢石を恐れ、ついに動こうとしなかった。叔父の頭には大きな瘤があった。齢石はその眠りをうかがい、密かにこれを切り取ったところ、即死した。武帝が京城を平定すると、建武参軍に任じた。江乗に従って戦おうとした時、齢石は「代々桓氏の恩を受けており、兵刃を向けることはできません」と言い、軍の後方にいることを乞うた。帝はその義を認めて許した。鎮軍参軍に任じ、武康県令に遷った。県民の姚系祖は専ら強盗を働き、郡県もこれを恐れて討伐できなかった。齢石が県に着くと、厚遇するふりをして参軍に召し出した。系祖はその強さを頼みとして出て応召した。齢石はこれを斬り、その家を襲い、兄弟をことごとく殺した。これにより一部は清らかになった。後に中兵を領した。齢石は武幹があり、また吏職に練達していたので、帝は大いに親しくこれを任せた。盧循を平定して功があり、西陽太守となった。

原文齡石少好武,不事崖檢。舅淮南蔣氏才劣,齡石使舅臥聽事,翦紙方寸帖著舅枕,以刀子縣擲之,相去八九尺,百擲百中。舅畏齡石,終不敢動。舅頭有大瘤,齡石伺眠密割之即死。武帝克京城,以爲建武參軍。從至江乘將戰,齡石言世受桓氏恩,不容以兵刃相向,乞在軍後。帝義而許之。以爲鎭軍參軍,遷武康令。縣人姚系祖專爲劫,郡縣畏不能討,齡石至縣,偽與厚,召爲參軍。系祖恃強,乃出應召。齡石斬之,掩其家,悉殺其兄弟,由是一部得淸。後領中兵。齡石有武幹,又練吏職,帝甚親委之。平盧循有功,爲西陽太守。

義熙九年、益州刺史に転じ、元帥として蜀を伐った。初め、帝は齢石と密かに進取の謀を巡らし、言った。「劉敬宣は往年、黄武から出撃したが、功なくして退いた。賊は我らが今は外水から行くべきだと考えているが、我らがその不意を衝いてなお内水から来ると予想し、必ず重兵を以て涪城を守り内道に備えるであろう。もし黄武に向かえば、まさにその計に陥る。今、大衆を以て外水から成都を取る一方、疑兵を内水に出せば、これこそ敵を制する奇策である。」しかしこの情報が先に漏れることを憂い、賊に虚実を悟られぬよう、別に封書を齢石に渡し、「白帝に至って開け」と記した。諸軍は進んだが、処分を知らず、白帝に至って書を開くと、こうあった。「衆軍はことごとく外水より成都を取れ。臧熹・朱枚は中水より広漢を取れ。羸弱の者を高艦十余隻に乗せ、内水より黄武に向かわせよ。」譙縱は果たして内水に備え、その大将の譙道福を涪城に戍らせ、その秦州刺史の侯暉・僕射の譙詵らを彭模に屯させ、水を挟んで城を築かせた。十年六月、齢石は彭模に至った。七月、齢石は劉鍾・蒯恩らを率いて北城において侯暉・譙詵を斬った。朱枚は広漢に至り、また譙道福の別軍を破った。譙縱は涪城に奔り、巴西の人王志がこれを斬って送り、道福をも捕らえ、軍門で斬った。

原文義熙九年,徙益州刺史,爲元帥伐蜀。初,帝與齡石密謀進取,曰:「劉敬宣往年出黃武,無功而退。賊謂我今應從外水往,而料我當出其不意猶從内水來也,必重兵守涪城以備内道。若向黃武,正墮其計。今以大衆自外水取成都,疑兵出内水,此制敵之奇也。」而慮此聲先馳,賊審虚實,別有函封付齡石,署曰至白帝乃開。諸軍雖進,未知處分,至白帝發書,曰:「衆軍悉從外水取成都;臧熹、朱枚于中水取廣漢;使羸弱乘髙艦十餘,由内水向黃武。」譙縱果備内水,使其大將譙道福戍涪城,遣其秦州刺史侯暉、僕射譙詵等屯彭模,夾水爲城。十年六月,齡石至彭模。七月,齡石率劉鍾、蒯恩等於北城斬侯暉、譙詵。朱枚至廣漢,復破譙道福別軍。譙縱奔涪城,巴西人王志斬送之,並獲道福,斬於軍門。

帝が蜀を伐つにあたり、元帥を謀ろうとして、齢石を推挙した。衆は皆、齢石の資歴と名声はまだ軽く、事を成し得まいと慮り、論ずる者が甚だ多かったが、帝は従わなかった。そこで大軍の半分を分け、猛将勁卒をことごとくこれに配属させた。臧熹は敬皇后の弟であるが、これもまたその節度を受けることを命じられた。戦いに勝利すると、衆は皆、帝の人を知ることに服し、また齢石の事を善くすることを称えた。蜀平定の功により、豊城侯に封じられた。

原文帝之伐蜀,將謀元帥,乃舉齡石。衆咸謂齡石資名尚輕,慮不克辦,論者甚衆,帝不從。乃分大軍之半,令猛將勁卒悉以配之。臧熹,敬皇后弟也,亦命受其節度。及戰克捷,衆咸服帝知人,又美齡石善於事。以平蜀功,封豐城侯。

十四年、桂陽公義眞が召還されると、齢石を雍州刺史とし、関中の諸軍事を督させた。齢石が長安に至ると、義眞は出発した。義眞が青泥で敗れると、齢石もまた城を挙げて奔走し、殺害された。封国は孫に伝わったが、斉が禅を受けると、国は除かれた。

原文十四年,桂陽公義眞被征,以齡石爲雍州刺史,督關中諸軍事。齡石至長安,義眞乃發。義眞敗於靑泥,齡石亦舉城奔走見殺。傳國至孫,齊受禪,國除。

齢石の弟の超石もまた果断鋭敏であった。将家の出ではあるが、兄弟ともに尺牘(文書)に通じていた。桓謙が衛将軍となった時、行参軍に補任された。後に武帝の徐州主簿となり、桓謙の遺体と首を収め迎え、自ら葬儀を営んだ。

原文齡石弟超石,亦果鋭。雖出自將家,兄弟並閑尺牘。桓謙爲衞將軍,以補行參軍。後爲武帝徐州主簿,收迎桓謙身首,躬營殯葬。

義熙十二年の北伐に際し、超石は前鋒として河に入った。時に軍人は河南岸に沿って百丈(船を引く綱)を牽いていた。北岸に漂着した者は、ことごとく魏軍に殺害・略奪された。帝は白直隊主の丁旿に七百人と車百乗を率いさせ、河北岸に却月陣を布かせた。両端は河に抱かれ、車ごとに七人の兵士を置いた。事が終わると、一本の長い白い飾り毛(毦)を立てさせた。魏軍はその意を解せず、動かなかった。帝は先に超石に二千人を戒厳させるよう命じていた。白毦が挙がると、超石はこれに赴き、大弩百張を携え、一車ごとにさらに二十人を増やし、轅の上に彭排(盾)を設けた。魏軍は営陣が立ったのを見て、進んで営を囲んだ。超石はまず弱弓小箭でこれを射た。魏軍は四面から皆至った。魏の明元皇帝はまた南平公の長孫嵩に三万騎を遣わし、肉薄して営を攻撃させた。ここにおいて百弩が一斉に発射された。魏軍は多く、弩では制しきれなかった。超石は出発の際、別に大槌と千余張の矟(矛)を携えていた。そこで矟を三四尺に断ち切り、槌でこれを打つと、一矟で三四人を貫通した。魏軍は当たることができず、ついに潰走した。大軍は進んで蒲阪を攻克し、超石を河東太守とした。

原文義熙十二年北伐,超石爲前鋒入河。時軍人縁河南岸牽百丈。有漂度北岸者,輒爲魏軍所殺略。帝遣白直隊主丁旿率七百人及車百乘于河北岸爲卻月陣,兩頭抱河,車置七仗士。事畢,使豎一長白毦。魏軍不解其意,並未動。帝先命超石戒嚴二千人,白毦既舉,超石赴之,並齎大弩百張,一車益二十人,設彭排於轅上。魏軍見營陣立,乃進圍營。超石先以弱弓小箭射之,魏軍四面倶至。魏明元皇帝又遣南平公長孫嵩三萬騎肉薄攻營,於是百弩倶發。魏軍既多,弩不能制,超石初行,別齎大槌並千餘張矟,乃斷矟三四尺以槌槌之,一矟輒洞貫三四人。魏軍不能當,遂潰。大軍進克蒲阪,以超石爲河東太守。

後に中書侍郎に任じられ、興平県五等侯に封じられた。関中が乱れると、帝は超石を河洛に慰労に遣わしたが、齢石とともに赫連勃勃に没し、殺害された。

原文後除中書侍郎,封興平縣五等侯。關中亂,帝遣超石慰勞河洛,與齡石倶沒赫連勃勃,見殺。

毛修之

原文毛修之

毛修之は字を敬文といい、滎陽陽武の人である。祖父の武生、伯父の璩はともに益州刺史であった。父の瑾は、梁・秦二州刺史であった。

原文毛修之字敬文,滎陽陽武人也。祖武生、伯父璩並益州刺史。父瑾,梁、秦二州刺史。

修之は桓玄に仕えて屯騎校尉となり、玄に従って西に奔った。玄が漢川に奔ろうとした時、修之はこれを誘って蜀に入らせた。馮遷が枚洄洲で玄を斬ったのは、修之の力によるものであった。宋の武帝はこれを鎮軍諮議とし、右衛将軍に遷した。既に玄を斬る謀があり、また父と伯父がともに蜀にいたので、帝はこれを外助として引き入れようとし、頻りに栄爵を加えた。

原文修之仕桓玄爲屯騎校尉,隨玄西奔。玄欲奔漢川,修之誘令入蜀。馮遷斬玄於枚洄洲,修之力也。宋武帝以爲鎭軍諮議,遷右衞將軍。既有斬玄之謀,又父伯並在蜀,帝欲引爲外助,故頻加榮爵。

父の瑾が譙縱に殺害されると、帝は修之を龍驤将軍に上表し、兵を配して奔赴させた。時に益州刺史の鮑陋は進んで討とうとしなかった。修之がその状況を言上すると、帝は冠軍将軍の劉敬宣に蜀を伐たせたが、功なくして退いた。譙縱はこれにより、修之の父・伯父及び中表の喪柩と家族をことごとく還した。後に劉毅が西に鎮して江陵にいた時、これを衛軍司馬・南郡太守とした。修之は劉毅の将佐ではあったが、深く帝と結びつき、劉毅が敗れると赦された。時に朱齢石を遣わして蜀を伐たせようとしたが、修之は固く行くことを求めた。帝は、修之が蜀に至って多く誅殺を行い、また土人が既に毛氏と嫌隙があるならば、死をもって自らを固守するであろうと慮り、許さなかった。

原文及父瑾爲譙縱所殺,帝表修之爲龍驤將軍,配兵遣奔赴。時益州刺史鮑陋不肯進討,修之言狀,帝乃令冠軍將軍劉敬宣伐蜀,無功而退。譙縱由此送修之父伯及中表喪柩口累並得還。後劉毅西鎭江陵,以爲衞軍司馬、南郡太守。修之雖爲毅將佐,而深結於帝,及毅敗見宥。時遣朱齡石伐蜀,修之固求行。帝慮修之至蜀多所誅殺,且土人既與毛氏有嫌,亦當以死自固。不許。

修之は鬼神を信じず、至るところで必ず祠廟を焼いた。時に蔣山の廟には良い牛馬があり、ことごとくこれを奪い取った。累遷して相国右司馬、行司州事となった。洛陽を戍り、城塁を修築した。武帝が至り、巡行してこれを善しとし、衣服玩好を賜った。当時の評価は二千万に相当した。

原文修之不信鬼神,所至必焚房廟。時蔣山廟中有好牛馬,並奪取之。累遷相國右司馬,行司州事。戍洛陽,修立城壘。武帝至,履行善之,賜衣服玩好,當時評直二千萬。

王鎮悪が死ぬと、修之は代わって安西司馬となった。桂陽公義眞が敗れると、赫連勃勃に捕らえられた。赫連昌が滅びると、魏に入った。修之は洛陽において、嵩高の道士の寇謙之を敬って仕えた。謙之は魏の太武帝に信敬されていたので、これを庇護し、故に死ななかった。修之はかつて羊羹を作って魏の尚書に進めた。尚書はこれを絶味とし、太武帝に献上した。大いに喜び、太官令とし、寵愛を受け、ついに尚書・光禄大夫となり、南郡公に封じられた。太官令・尚書はもとのままであった。

原文王鎭惡死,修之代爲安西司馬。桂陽公義眞敗,爲赫連勃勃所禽。及赫連昌滅,入魏。修之在洛,敬事嵩髙道士寇謙之。謙之爲魏太武帝信敬,營護之,故不死。修之嘗爲羊羹薦魏尚書,尚書以爲絶味,獻之太武,大悅,以爲太官令,被寵,遂爲尚書、光祿大夫,封南郡公,太官令、尚書如故。

後に朱修之が魏に捕らえられて寵愛を受けると、毛修之は朱修之に尋ねた。「南国で権力を握っている者は誰か。」答えは殷景仁であった。修之は笑って言った。「私が昔南にいた時、殷はまだ幼少だった。私が罪に帰する日には、きっと巾韝(礼装)をして門に来るだろう。」一年経っても家の消息を忍びずに問うことはせず、久しくしてようやく尋ねた。修之は詳しく答え、また言った。「賢子の元矯は、よく自ら処している。」修之は悲しみで言葉が出ず、直視すること久しく、ついに長嘆して言った。「嗚呼!」これ以降、一度も及ぶことはなかった。

原文後朱修之俘于魏亦見寵,修之問朱修之,南國當權者爲誰,答云殷景仁。修之笑曰:「吾昔在南,殷尚幼少,我歸罪之日,便當巾韝到門。」經年不忍問家消息,久之乃訪焉。修之具答,並云:「賢子元矯甚能自處。」修之悲不得言,直視良久,乃長歎曰:「嗚呼!」自此一不復及。

初め、北朝の者が往来して言うには、修之が魏に侵攻を勧め、かつ南朝の礼制を教えたというので、文帝は甚だ疑って責めた。朱修之が後に帰還し、詳しく申し開きをしたので、上の疑念は解けた。修之は魏において多くの妻妾を持ち、男女の子が甚だ多く、その身遂に魏にて死んだ。

原文初,北人去來言修之勸魏侵邊,並教以在南禮制,文帝甚疑責之。朱修之後得還,具相申理,上意乃釋。修之在魏多妻妾,男女甚衆,身遂死于魏。

孫惠素は、斉に仕えて少府卿となった。性、至孝であり、母の喪服が除かれた後、更に母の住んでいた所の床帳・屏風・帷を整え、毎月の朔(一日)と十五日に帷に向かって悲泣し、傍らの人も之に感傷した。終身このようであった。

原文孫惠素,仕齊爲少府卿。性至孝,母服除後,更修母所住處床帳屛帷,毎月朔十五向帷悲泣,傍人爲之感傷,終身如此。

惠素は吏才が強く有能であったが、事に臨んで清廉峻刻であり、勅命で銅官碧青一千二百斤を買い求め御用の画に供したところ、費用は六十五万銭であった。惠素が利を納めたと讒言する者がおり、武帝は怒り、尚書に評価させたところ、価格は二十八万余銭であり、有司が奏上したので、誅殺された。死後、家は徒に四壁あるのみで、武帝は後に無罪であることを知り、甚だ悔恨した。

原文惠素吏才強濟,而臨事淸刻,敕市銅官碧靑一千二百斤供禦畫,用錢六十五萬。有讒惠素納利,武帝怒,敕尚書評價,貴二十八萬餘,有司奏,伏誅。死後家徒四壁,武帝后知無罪,甚悔恨之。

傅弘之

原文傅弘之

傅弘之、字は仲度、北地郡泥陽県の人である。傅氏は旧く霊州に属していたが、漢末に土地を失い、馮翊に寄寓し、泥陽・富平の二県を置き、霊州を廃したので、故に傅氏は悉く泥陽に属した。晋の武帝太康三年に再び霊州県を立てると、傅氏は霊州に還属した。弘之の高祖父祗は、晋の司徒となり、後に霊州公に封ぜられたが、本県に封ぜられることを欲せず、故に祗の一門は泥陽に還属した。曾祖父暢は秘書丞となり、石勒に没し、子洪を生んだ。晋の穆帝永和年中、石氏が乱れ、江を渡った。洪は梁州刺史歆を生み、歆は弘之を生んだ。

原文傅弘之字仲度,北地泥陽人也。傅氏舊屬靈州,漢末失土,寄馮翊,置泥陽、富平二縣,廢靈州,故傅氏悉屬泥陽。晉武帝太康三年復立靈州縣,傅氏還屬靈州。弘之髙祖祗,晉司徒,後封靈州公。不欲封本縣,故祗一門還屬泥陽。曾祖暢,秘書丞,沒石勒,生子洪。晉穆帝永和中,石氏亂,度江。洪生梁州刺史歆,歆生弘之。

少にして倜儻として大志有り、歴任して太尉行参軍となった。宋の武帝が北伐すると、弘之は扶風太守沈田子ら七軍と共に武関より入った。弘之は平素より騎乗に習熟し、姚泓の馳道内で馬を走らせて遊び、甚だ姿態に制があり、羌胡の観衆数千人、皆歎称して善しとした。留め置かれて桂陽公義真の雍州中従事史となった。

原文少倜儻有大志,歴位太尉行參軍。宋武帝北伐,弘之與扶風太守沈田子等七軍自武關入。弘之素習騎乘,于姚泓馳道内戲馬,甚有姿制,羌胡觀者數千,並歎稱善。留爲桂陽公義眞雍州中從事史。

義真が東帰するに及んで、赫連勃勃が国を傾けて追撃し、青泥にて大戦し、弘之は自ら甲冑を貫き、気は三軍に冠し、軍敗れて陷没したが、之に屈しなかった。時に天は大寒であり、弘之を裸にすると、弘之は叫罵して殺された。

原文及義眞東歸,赫連勃勃傾國追躡,於靑泥大戰,弘之躬貫甲胄,氣冠三軍,軍敗陷沒,不爲之屈。時天大寒裸弘之,弘之叫駡見殺。

朱修之

原文朱修之

朱修之、字は恭祖、義陽郡平氏県の人である。曾祖父燾は、晋の平西将軍。祖父序は、豫州刺史。父諶は、益州刺史。

原文朱修之字恭祖,義陽平氏人也。曾祖燾,晉平西將軍。祖序,豫州刺史。父諶,益州刺史。

修之は初め州主簿となり、宋の元嘉年中、累遷して司徒従事中郎となった。文帝は謂いて曰く、「卿の曾祖父は昔、王導丞相の中郎となり、卿は今また王弘の中郎となった。爾が祖に忝かじと謂うべし」と。

原文修之初爲州主簿,宋元嘉中,累遷司徒從事中郎。文帝謂曰:「卿曾祖昔爲王導丞相中郎,卿今又爲王弘中郎,可謂不忝爾祖矣。」

後に右軍到彦之に従って北侵し、彦之は河南より回還したが、修之は留まって滑台を戍守し、魏の将安頡に攻囲された。糧尽き、将士は鼠を燻して食った。修之が囲まれて既に久しく、母は常に悲憂していたが、忽ち一朝、乳汁が驚いて出た。母は号慟して家人に告げて曰く、「我は年老いて再び乳汁の有る時ではない。今此の如きは、児必ず没したに違いない」と。魏は果たしてその日に滑台を攻克し、之を囚えた。太武帝は其の固守の節を嘉し、以て雲中鎮将と為し、宗室の女を妻とした。

原文後隨右軍到彦之北侵,彦之自河南回,修之留戍滑台,被魏將安頡攻圍。糧盡,將士熏鼠食之。修之被圍既久,母常悲憂,忽一旦乳汁驚出,母號慟告家人曰:「我年老非復有乳汁時,今如此,兒必沒矣。」魏果以其日克滑台,囚之。太武嘉其固守之節,以爲雲中鎭將,妻以宗室女。

修之は密かに南帰を謀った。妻は之を疑い、毎に流涕して謂いて曰く、「君の叙述に停まる意無きを観る。何ぞ実を以て我に告げずんや。義、相い負わざるべし」と。修之は深く其の義を嘉したが告げなかった。太武帝が馮弘を伐つに及んで、修之及び同じく没した人邢懷明は並びに従った。また徐卓という者も魏に没し、復た南人を率いて窃かに発起せんとしたが、事泄れて誅殺された。修之・懷明は禍を懼れ、共に馮弘に奔ったが、礼遇されなかった。一年留まったところ、宋の使者が至った。修之の名位は平素より顕著であったので、伝詔(使者)は見るや便ち拝した。彼の国は伝詔を敬い、之を天子の辺人と呼んだ。伝詔が敬意を表するのを見て、乃ち始めて之を礼遇した。

原文修之潛謀南歸,妻疑之,毎流涕謂曰:「觀敘無停意,何不告我以實,義不相負。」修之深嘉其義而不告也。及太武伐馮弘,修之及同沒人邢懷明並從。又有徐卓者亦沒魏,復欲率南人竊發,事泄見誅。修之、懷明懼禍,同奔馮弘,不見禮。停一年,會宋使至。修之名位素顯,傳詔見便拜。彼國敬傳詔,呼爲天子邊人。見傳詔致敬,乃始禮之。

時に魏は屡々黄龍を伐ち、馮弘は使者を遣わして救援を求めた。修之は乃ち伝詔をして説得させて遣わした。海を渡り、未だ東萊に至らざるに、舫の舵が折れ、風猛しく、海師は海北に向かわんことを慮り、長い索を垂らすと、舫は乃ち正した。海師は上に鳥の飛ぶを見て、岸に遠からざるを知り、須臾にして東萊に至った。至るに及んで、以て黄門侍郎と為した。

原文時魏屢伐黃龍,弘遣使求救,修之乃使傳詔説而遣之。泛海,未至東萊,舫柂折,風猛,海師慮向海北,垂長索,舫乃正。海師視上有鳥飛,知去岸不遠,須臾至東萊。及至,以爲黃門侍郎。

孝武帝の初め、累遷して寧蛮校尉・雍州刺史となり、都督を加えられた。修之の政は寛簡に在り、士庶悦服した。荊州刺史南郡王義宣が反するに及んで、檄を以て修之に挙兵を求めた。雍州の地は時に飢饉であり、修之は偽って之と同調した。既にして使者を遣わして孝武帝に陳情すると、孝武帝は之を嘉し、以て荊州刺史と為し、都督を加えた。義宣は乃ち修之が同調せざるを聞き、更に魯秀を以て雍州刺史と為し、襄陽を撃たせた。修之は馬鞍山の道を断つことを命じ、秀は前進できず乃ち退いた。修之は衆を率いて江陵に向かい、竺超が既に義宣を捕らえたので、修之の至るに及んで、獄中にて之を殺した。功により南昌県侯に封ぜられた。

原文孝武初,累遷甯蠻校尉、雍州刺史,加都督。修之政在寬簡,士庶悅附。及荊州刺史南郡王義宣反,檄修之舉兵。雍土時饑,修之偽與之同;既而遣使陳情于孝武,孝武嘉之,以爲荊州刺史,加都督。義宣乃聞修之不同,更以魯秀爲雍州刺史,撃襄陽。修之命斷馬鞍山道,秀不得前乃退。修之率衆向江陵,竺超已執義宣,修之至,於獄殺之。以功封南昌縣侯。

修之は立身清廉倹約であり、百城の贈り物を一も受けなかった。唯、蛮人は存撫し受け入れるべきであるとして、贈り物は皆受け、得るや直ぐに佐史と之を賭け、未だ嘗て己に入れなかった。鎮を去る日、秋毫も犯さず。州に在って以来の計算では、灯油及び私牛馬の官穀草を食った分を、私銭六十万を以て償った。しかし倹約峻刻で潤い無く、恩情に薄く、姉が郷里に在り、飢寒に立たされていたが、修之は貴く刺史と為りながら、未だ嘗て供養しなかった。姉の家に往くと、姉は菜羹粗飯を設けて以て之を激した。修之は曰く、「此れは貧家の良い食事なり、進めて飽かしむ」と。先に、新野の庾彦達が益州刺史となり、姉を携えて鎮に赴き、資給供奉し、秩禄を中分したので、西土に称えられた。

原文修之立身淸約,百城貺贈,一無所受。唯以蠻人宜存撫納,有餉皆受,得輒與佐史賭之,未嘗入己。去鎭之日,秋毫無犯。計在州以來,然油及私牛馬食官穀草,以私錢六十萬償之。而儉刻無潤,薄于恩情,姊在鄕里,饑寒不立,修之貴爲刺史,未曾供贍。往姊家,姊爲設菜羹粗飯以激之,修之曰:「此是貧家好食,進之致飽。」先是,新野庾彦達爲益州刺史,攜姊之鎭,資給供奉,中分秩祿,西土稱焉。

修之の後、左戸尚書・領軍將軍に任ぜられた。建鄴に至る時、牛が暴れて車から落ち、足を折ったため、尚書を辞し、崇憲太僕に転じ、引き続き特進・金紫光祿大夫を加えられた。足の病で独り歩きして拝謁することができず、特に扶侍を給された。死去し、貞侯と諡された。

原文修之後拜左戸尚書、領軍將軍。至建鄴,牛奔墜車折腳,辭尚書,徙崇憲太僕,仍加特進、金紫光祿大夫。腳疾不堪獨行見,特給扶侍。卒,諡貞侯。

王玄謨

原文王玄謨

王玄謨は字を彦德といい、太原郡祁県の人である。六世の祖の宏は、河東太守・綿竹侯であったが、従叔の司徒王允の難に連座して官を棄て、北方の新興に居住し、そのまま新興・鴈門太守となった。これは彼の自序によるものである。祖父の牢は慕容氏に仕えて上谷太守となり、慕容徳に従って青州に居住した。父の秀は早くに亡くなった。

原文王玄謨字彦德,太原祁人也。六世祖宏,河東太守、綿竹侯,以從叔司徒允之難,棄官北居新興,仍爲新興、鴈門太守。其自序云爾。祖牢,仕慕容氏爲上谷太守,隨慕容德居靑州。父秀,早卒。

玄謨は幼い頃より衆に抜きん出ており、伯父の蕤は人を見抜く眼識があり、常に笑って言った。「この児は気概が高く清らかで、太尉(王凌)彦雲の風がある。」宋の武帝が徐州に臨んだ時、従事史に辟召され、語り合って彼を異才と認めた。少帝の末、謝晦が荊州にいた時、南蠻行参軍・武寧太守として請じられた。謝晦が敗れると、大帥ではなかったため罪を赦された。

原文玄謨幼而不群,世父蕤有知人鑒,常笑曰:「此兒氣概髙亮,有太尉彦雲之風。」宋武帝臨徐州,辟爲從事史,與語異之。少帝末,謝晦爲荊州,請爲南蠻行參軍、武甯太守。晦敗,以非大帥見原。

元嘉年間、長沙王劉義欣の鎮軍中兵参軍を補任され、汝陰太守を兼ねた。しばしば北方侵攻の計画を上奏し、皇帝(文帝)は殷景仁に言った。「王玄謨の陳述を聞くと、人に封狼居胥(霍去病の故事)の意を起こさせる。」

原文元嘉中,補長沙王義欣鎭軍中兵參軍,領汝陰太守。毎陳北侵之規,上謂殷景仁曰:「聞王玄謨陳説,使人有封狼居胥意。」

後に興安侯劉義賓の輔国司馬・彭城太守となった。義賓が薨じると、玄謨は上表し、彭城は水陸の要衝を兼ねているとして、皇子をして州政を統治させるよう請うた。そこで孝武帝が出鎮することとなった。

原文後爲興安侯義賓輔國司馬、彭城太守。義賓薨,玄謨上表,以彭城要兼水陸,請以皇子撫臨州政,乃以孝武出鎭。

大規模な北征が行われると、玄謨は寧朔將軍とされた。前鋒として黄河に入り、輔国將軍蕭斌の節度を受けた。軍が碻磝に至り、玄謨は滑台に向かって進軍し、城を二百余日包囲した。魏の太武帝自らが救援に来ると、兵は百万と号し、鼓鞞の音が天地を震わせた。玄謨の出陣には、兵力も少なくなく、兵器も精良であったが、専ら自分の考えに頼り、多く殺戮を行った。初め城を包囲した時、城内には茅屋が多く、兵士たちが火箭で焼くことを求めた。玄謨は「軍需物資を損なう」と言って聞き入れなかった。城中では直ちにそれらを取り壊し、地下に穴を掘って窟室とした。魏の救援軍が迫ると、兵士たちが車を並べて営塁とするよう請うたが、またも従わなかった。将士は皆、離反の怨みを抱いた。また、物資の売買で利益を貪り、布一匹に対して梨八百個を要求し、これによって人心をますます失った。太武帝の軍が到着すると、夜遁走し、麾下の兵はほぼ全滅した。蕭斌は彼を斬ろうとしたが、沈慶之が強く諫めて言った。「仏狸(太武帝)は天下に威を震わせ、百万の兵を率いている。玄謨がどうして当たることができようか。戦将を殺して自らを弱くするのは、良策ではない。」斌はやめて止めた。

原文及大舉北侵,以玄謨爲甯朔將軍。前鋒入河,受輔國將軍蕭斌節度。軍至碻磝,玄謨進向滑台,圍城二百餘日。魏太武自來救之,衆號百萬,鼓鞞動天地。玄謨之行也,衆力不少,器械精嚴,而專仗所見,多行殺戮。初圍城,城内多茅屋,衆求以火箭燒之。玄謨曰:「損亡軍實。」不聽。城中即撤壞之,穴地爲窟室。及魏救將至,衆請發車爲營,又不從。將士並懷離怨。又營貨利,一匹布責人八百梨,以此倍失人心。及太武軍至,乃夜遁,麾下散亡略盡。蕭斌將斬之,沈慶之固諫曰:「佛狸威震天下,控絃百萬,豈玄謨所能當。殺戰將以自弱,非良計也。」斌乃止。

初め、玄謨が斬られようとした時、夢の中で人が告げて言った。「観世音を千遍誦すれば免れる。」玄謨は夢の中で「どうして誦し終えられようか」と言った。すると教えられ、目覚めてそれを誦し、千遍に達した。翌日、刑に処されようとする時も誦するのを止めなかった。突然、刑の停止が伝えられ、代わって碻磝を守備するよう命じられた。江夏王劉義恭が征討都督となると、碻磝の沙城は守れないとして、召還を命じた。魏軍に追撃され、大敗し、流れ矢が臂に当たった。二十八年正月、歴城に戻った。義恭は玄謨に書を送って言った。「敗北を転じて成功となすと聞く。臂の上の金創(矢傷)は、まさに金印の兆しではあるまいか。」

原文初,玄謨始將見殺,夢人告曰:「誦觀世音千遍則免。」玄謨夢中曰:「何可竟也。」仍見授,既覺誦之,且得千遍。明日將刑,誦之不輟。忽傳唱停刑,遣代守碻磝。江夏王義恭爲征討都督,以碻磝沙城不可守,召令還。爲魏軍所追,大破之,流矢中臂。二十八年正月,還至暦城。義恭與玄謨書曰:「聞因敗爲成,臂上金創,將非金印之征邪?」

元凶(劉劭)が帝を弑して立つと、玄謨を冀州刺史とした。孝武帝が逆賊を討伐すると、玄謨は済南太守垣護之らに兵を率いて義軍に赴かせた。事が平定されると、徐州刺史に任ぜられ、都督を加えられた。

原文元凶弑立,以玄謨爲冀州刺史。孝武伐逆,玄謨遣濟南太守垣護之等將兵赴義。事平,除徐州刺史,加都督。

南郡王劉義宣と江州刺史臧質が反乱を起こすと、朝廷は玄謨に輔国將軍の仮号を与え、前鋒として南討させ、豫州刺史に任じた。臧質がまもなく到着し、これを大破した。都督を加えられ、曲江県侯に封ぜられた。中軍司馬劉沖之が孝武帝に上言し、玄謨が梁山で義宣と通謀したと告げた。調べても実証はなかったが、皇帝の疑念は晴れず、官吏に命じて玄謨が賊から得た宝物を隠匿し、戦果を水増し報告したと奏上させ、徐州刺史垣護之と共に免官された。

原文及南郡王義宣與江州刺史臧質反,朝廷假玄謨輔國將軍,爲前鋒南討,拜豫州刺史。質尋至,大破之。加都督,封曲江縣侯。中軍司馬劉沖之白孝武,言玄謨在梁山與義宣通謀。檢雖無實,上意不能明,使有司奏玄謨沒匿所得賊寶物,虚張戰簿,與徐州刺史垣護之並免官。

まもなく寧蠻校尉・雍州刺史となり、都督を加えられた。雍州には多くの僑寓の民がおり、玄謨は上言して、自分が統轄する僑郡には境土がなく、新旧が錯乱し、租税の徴収が期日通りでないので、合併すべきであると述べた。許された。そこで郡県を省併し、これ以後便利となった。百姓は当時、戸籍に属することを望まなかった。その年、玄謨はまた九品以上の者に租を課し、貧富を通わせようとしたので、管内はみな嘆き怨んだ。世間に玄謨が謀反を企てているという風説が流れた。当時柳元景が権力を握っており、元景の弟の僧景が新城太守であったが、元景の勢いを借りて、雍州の南陽・順陽・上庸・新城の諸郡に一斉に兵を発し、玄謨を討伐しようとした。玄謨は内外を平然とさせて人々の疑惑を解き、早馬で孝武帝に上奏し、事の次第を詳しく陳述した。帝はそれが虚偽であると知り、主書の呉喜公を急派して慰撫させた。また答えて言った。「玄謨の啓上を読んで明らかになった。七十の老公が反逆して何を求めようか。ひとまず笑い話にしておこう。卿の眉間の皺を伸ばすには十分であろう。」玄謨は性質が厳格で、滅多に笑わなかったため、当時の人は玄謨の眉間の皺が伸びたことがないと言い、故にこの言葉でからかったのである。

原文尋爲甯蠻校尉、雍州刺史,加都督。雍土多諸僑寓,玄謨上言所統僑郡無有境土,新舊錯亂,租課不時,宜加併合。見許。乃省並郡縣,自此便之。百姓當時不願屬籍。其年,玄謨又令九品以上租,使貧富相通,境内莫不嗟怨。人間訛言玄謨欲反,時柳元景當權,元景弟僧景爲新城太守,以元景之勢,制令雍土南陽順陽上庸新城諸郡併發兵,欲討玄謨。玄謨令内外晏然,以解衆惑,馳啓孝武,具陳本末。帝知其虚,馳遣主書呉喜公慰撫之。又答曰:「玄謨啓明白之日,七十老公反欲何求?聊復爲笑,想足以申卿眉頭耳。」玄謨性嚴,未曾妄笑,時人言玄謨眉頭未曾申,故以此見戲。

後に金紫光祿大夫となり、太常を兼ねた。明堂が建てられる時、本官のまま起部尚書を兼ね、また北選(北方士人の選抜)を管掌した。孝武帝は群臣を弄んで侮り、それぞれに呼び名をつけ、髭の多い者を羊と呼び、背の高低や肥痩にも全て比喩があった。顔師伯は歯が欠けていたので齴(欠けた歯)と号し、劉秀之は倹約家で吝嗇だったので、常に老慳と呼んだ。黄門侍郎宗霊秀は体躯が肥満で、拝礼や起立が困難であったため、集会がある度に、その場で霊秀に器物・衣服・飲食を賜り、前後相次いで与え、彼が拝謝して転倒するのを見て、笑いの種とした。また木を刻んで霊秀の父である光禄勲の宗叔献の像を作り、その家の応接間に送りつけた。柳元景や垣護之は共に北方の出身であったが、玄謨だけが老傖(年取った田舎者)という呼び名を受けた。これらの呼称は、四方への書簡でも同様に用いられた。かつて玄謨のために四時詩を作って言った。「菫茹(野菜)を春の膳に供え、粟の漿を夏の餐に充て、瓟ひょうたんの醬で秋の菜を調え、白醝(白酒)で冬の寒さを解す。」また、崑崙奴の子で白主という名の者を寵愛し、常に側近くに置き、群臣を杖で打たせた。柳元景以下、皆その毒手に罹った。

原文後爲金紫光祿大夫,領太常。及建明堂,以本官領起部尚書,又領北選。孝武狎侮群臣,各有稱目,多須者謂之羊,短長肥瘦皆有比擬。顏師伯缺齒,號之曰齴,劉秀之儉吝,常呼爲老慳。黃門侍郎宗靈秀軀體肥壯,拜起艱難,毎一集會,輒於坐賜靈秀器服飲食,前後相系,欲其占謝傾踣,以爲歡笑。又刻木作靈秀父光祿勳叔獻像送其家聽事。柳元景、垣護之雖並北人,而玄謨獨受老傖之目。凡諸稱謂,四方書疎亦如之。嘗爲玄謨作四時詩曰:「菫茹供春膳,粟漿充夏餐,瓟醬調秋菜,白醝解冬寒。」又寵一昆侖奴子名白主,常在左右,令以杖撃群臣。自柳元景以下皆罹其毒。

玄謨はまもなく徐州刺史に転じ、都督を加えられた。当時、北方で災害と飢饉があったため、私穀十万斛こくと牛千頭を散じて救済した。孝武帝が崩御すると、諸公卿と共に顧命を受けた。当時、朝政は多門に分かれ、玄謨は厳格で直諫するため容れられず、青・冀二州刺史に転じ、都督を加えられた。少帝が顔師伯・柳元景らを誅殺すると、狂悖はますます甚だしくなり、領軍將軍として玄謨を召還した。子や甥たちは皆、病気と称するよう勧めた。玄謨は言った。「難を避けて苟くも免れることは、既に君に仕える節に背き、かつて先朝の厚恩を受けた我は、なおさら逡巡すべきではない。」都に至ると、たびたび上表して諫め、また涙を流して刑罰を緩め殺戮を止め、民衆を安んじるよう請うた。少帝は大いに怒った。

原文玄謨尋遷徐州刺史,加都督。時北土災饉,乃散私谷十萬斛牛千頭以賑之。孝武崩,與群公倶被顧命。時朝政多門,玄謨以嚴直不容,徙靑、冀二州刺史,加都督。少帝誅顏師伯、柳元景等,狂悖滋甚,以領軍征玄謨,子侄咸勸稱疾。玄謨曰:「避難苟免,既乖事君之節,且吾荷先朝厚恩,彌不得逡巡。」及至,屢表諫諍,又流涕請緩刑去殺,以安元元之意。少帝大怒。

明帝が即位すると、礼遇はますます厚くなった。当時、四方で反乱が起こり、玄謨は水軍の前鋒を率いて南討し、足の病が癒えていなかったため、輿に乗って出入りすることを許された。まもなく車騎將軍・江州刺史に任ぜられ、赭圻において司徒建安王劉休仁の副将となり、諸葛亮の筩袖鎧を賜った。ほどなくして、左光禄大夫・開府儀同三司とされ、護軍將軍を兼ね、南豫州刺史に転じ、都督を加えられた。八十二歳で薨じ、莊公と諡された。

原文明帝即位,禮遇益崇。時四方反叛,玄謨領水軍前鋒南討,以腳疾未差,聽乘輿出入。尋除車騎將軍、江州刺史,副司徒建安王休仁於赭圻,賜以諸葛亮筩袖鎧。頃之,以爲左光祿大夫、開府儀同三司,領護軍將軍,遷南豫州刺史,加都督。薨年八十二,諡曰莊公。

子の深は早くに亡くなり、深の子の繢が後を嗣いだ。深の弟の寬は、泰始初年に随郡太守となった。四方の反乱に遭い、父の玄謨が建鄴にいたため、寬は郡を棄てて自ら帰還した。母が西方(随郡)にいて賊に捕らえられたため、西行を請い、遂に随郡を襲撃して破り、母を救出した。事が平定されると、明帝はこれを賞賛し、寬の姿を描いて献上させた。斉の永明元年、太常となったが、邸宅で牛を殺した罪に坐して免官された。後に光禄大夫の任で死去した。

原文子深早卒,深子繢嗣。深弟寬,泰始初,爲隨郡太守。逢四方反,父玄謨在建鄴,寬棄郡自歸。以母在西,爲賊所執,請西行,遂襲破隨郡,收其母。事平,明帝嘉之,使圖寬形以上。齊永明元年,爲太常,坐于宅殺牛,免官。後卒于光祿大夫。

王寛の弟の王瞻は字を明遠といい、またの字を叔鸞という。気概に任せて世俗を傲り、人物を貶し裁くことを好んだ。宋に仕えて王府参軍となった。かつて劉彦節を訪ね、直ちに寝台に登って言うには、「君侯は公孫(諸侯の孫)であり、僕は公子(諸侯の子)である。杯を満たして膝を促し、ただ我ら二人のみ。」彦節は表面上はこれに応じたが、心中は甚だ快く思わなかった。斉の豫章王蕭嶷が年少の時、早くから王瞻と友誼を結んだ。王瞻は常に蕭嶷を訪れて高論を交わした。斉の武帝(当時はまだ即位前)が大床で寝ていた時、王瞻は蕭嶷に言った、「帳中(帷帳の中、武帝を指す)の人物もまた人の寝起きに従うものだ。」蕭嶷が話の途中で突然、王景文の兄の王楷と殷道矜とではどちらが賢愚かと問うた。王瞻は言った、「卿はまた他人の兄のことを言うのか。」武帝は笑って蕭嶷の幼名の阿玉を呼び、「汝の兄は愚かである。どうして突然王参軍(王瞻)がこのような言葉を発するのか。」王瞻は言った、「ただ卿のような話しぶりが来ることを恐れただけだ。」武帝はこれを恨みに思ったが、顔色には表さなかった。後に黄門侍郎を歴任した。

原文寬弟瞻字明遠,一字叔鸞。負氣傲俗,好貶裁人物。仕宋爲王府參軍。嘗詣劉彦節,直登榻曰:「君侯是公孫,僕是公子,引滿促膝,唯餘二人。」彦節外跡雖酬之,意甚不悅。齊豫章王嶷少時,早與瞻友。瞻常候嶷髙論,齊武帝時在大床寢,瞻謂嶷曰:「帳中人物亦復隨人寢興。」嶷言次忽問王景文兄楷賢愚何如殷道矜,瞻曰:「卿遂復言他人兄邪。」武帝笑稱嶷小名阿玉,「汝兄愚,那得忽來王參軍此句」。瞻曰:「直恐如卿來談。」武帝銜之,未嘗形色。後暦黃門侍郎。

斉の建元元年の初め、王瞻は永嘉太守となったが、宮廷に詣でて跪拝する際に礼儀にかなわなかった。武帝はこれを知り、東宮に召し入れ、そのまま廷尉に送り付けて殺させた。左右の者に命じて高帝(武帝の父、蕭道成)に啓上させて言わせた、「父が辱められれば子は死す。王瞻が朝廷を傲ったので、臣は直ちにこれを収監しました。」高帝は言った、「これはどうして問題に足るものか。」そして王瞻がすでに死んだと聞くと、黙って何も言わなかった。

原文及齊建元初,瞻爲永嘉太守,詣闕跪拜不如儀。武帝知之,召入東宮,仍送付廷尉殺之。命左右啓髙帝曰:「父辱子死;王瞻傲朝廷,臣輒已收之。」髙帝曰:「此何足計。」及聞瞻已死,乃默無言。

王玄謨の従弟の王玄象は、下邳太守の位にあった。墓を暴くことを好み、その地には完璧な外棺が無かった。世間で垣の内に小さな塚があり、墳丘はほぼ平らになっていて、毎朝日が昇る時、一人の女子が塚の上に立っているのを見たが、近くで見ると消えていた。ある人がこれを王玄象に告げると、直ちに発掘を命じた。一つの棺がまだ完全で、金の蚕や銅の人形が数百個あった。棺を割って見ると、一人の女子がおり、年は二十ほど、容姿は生きているようで、横たわって言うには、「私は東海王家の娘です。生き返るはずで、資財を差し上げます。どうか害さないでください。」女の腕には玉の釧(腕輪)があり、塚を破った者がその腕を斬ってそれを取った。そこで女は再び死んだ。王玄謨は当時徐州刺史であったが、このことを上奏して聞かせた。王玄象は罪に坐して郡守を免じられた。

原文玄謨從弟玄象,位下邳太守。好發塚,地無完槨。人間垣内有小塚,墳上殆平,毎朝日初升,見一女子立塚上,近視則亡。或以告玄象,便命發之。有一棺尚全,有金蠶、銅人以百數。剖棺見一女子,年可二十,姿質若生,臥而言曰:「我東海王家女,應生,資財相奉,幸勿見害。」女臂有玉釧,破塚者斬臂取之,於是女復死。玄謨時爲徐州刺史,以事上聞,玄象坐免郡。

王玄載は字を彦休といい、王玄謨の従弟である。父の王蕤は、東莞太守であった。王玄載は宋に仕え、益州刺史の位に至った。沈攸之の乱の時、王玄載は義兵を起こし、誠意を斉の高帝(蕭道成)に送り、鄂県子に封じられた。斉の建元元年、左戸尚書となった。永明四年、兗州刺史の位にあり、任地で死去した。諡は烈子。

原文玄載字彦休,玄謨從弟也。父蕤,東莞太守。玄載仕宋,位益州刺史。沈攸之之難,玄載起義,送誠于齊髙帝,封鄂縣子。齊建元元年,爲左戸尚書。永明四年,位兗州刺史,卒官。諡烈子。

王玄載の弟の王玄邈は字を彦遠といい、宋に仕えて青州刺史の位に至った。斉の高帝が淮陰に鎮していた時、宋の明帝に疑われ、北へ赴いて魏を勧誘しようとし、書簡を送って王玄邈と結ぼうとした。王玄邈の長史の房叔安が進言して言った、「布衣韋帯の士といえども、一餐の恩を忘れないのは、義がそうさせるのです。今将軍は方州の重責に居り、君臣の義を託されているのに、故なく忠孝を挙げてこれを棄てようとされます。三斉の士は寧ろ東海に身を投げて死にましょうとも、敢えて将軍に従いません。」王玄邈の決意は固まった。そこで房叔安を使者として建鄴に遣わし、高帝の謀略を暴露させた。高帝は途中で彼を捕らえ、併せて王玄邈の上奏文を求めた。叔安は答えて言った、「我が君が上表させたのは天子に上るものであり、将軍に上るものではありません。且つ僕の言うことは、国家に利ありて将軍に利あらず。答えるべきことはありません。」荀伯玉が彼を殺すよう勧めたが、高帝は言った、「物は各々その主のためである。責めることはない。」王玄邈は州の職を罷めて帰還する途中、高帝が路上でこれを遮ろうとしたが、王玄邈は厳しい軍備でまっすぐ通り過ぎた。都に戻り、宋の明帝に啓上して、高帝に異謀があると称したが、高帝は恨まなかった。升明年中、高帝は彼を驃騎司馬・泰山太守に抜擢した。王玄邈は甚だ恐れたが、高帝は以前と同様に彼を遇した。再び西戎校尉・梁南秦二州刺史に遷り、河陽県侯に封じられ、兄弟が同時に方伯(地方長官)となった。

原文玄載弟玄邈字彦遠,仕宋位靑州刺史。齊髙帝之鎭淮陰,爲宋明帝所疑,乃北勸魏,遣書結玄邈。玄邈長史房叔安進曰:「夫布衣韋帶之士,銜一餐而不忘,義使之然也。今將軍居方州之重,托君臣之義,無故舉忠孝而棄之,三齊之士寧蹈東海死耳,不敢隨將軍也。」玄邈意乃定。仍使叔安使建鄴,發髙帝謀。髙帝于路執之,並求玄邈表。叔安答曰:「寡君使表上天子,不上將軍。且僕之所言,利國家而不利將軍,無所應問。」荀伯玉勸殺之,髙帝曰:「物各爲主,無所責也。」玄邈罷州還,髙帝塗中要之,玄邈嚴軍直過。還都,啓宋明帝,稱髙帝有異謀,髙帝不恨也。升明中,髙帝引爲驃騎司馬、泰山太守。玄邈甚懼,髙帝待之如初。再遷西戎校尉、梁南秦二州刺史,封河陽縣侯,兄弟同時爲方伯。

斉の建元元年の初め、亡命の李烏奴が梁州の地で乱を起こした。王玄邈は人を遣わし偽って李烏奴に降り、彼に告げさせた、「王使君(王玄邈)の兵は弱く、愛妾二人を連れて既に去りました。」烏奴は喜び、軽兵で州城を襲撃した。王玄邈は奇兵をもってこれを撃破した。高帝はこれを聞いて言った、「玄邈は果たして我に背かなかった。」

原文齊建元初,亡命李烏奴作亂梁部,玄邈使人偽降烏奴,告之曰:「王使君兵弱,攜愛妾二人已去矣。」烏奴喜,輕兵襲州城,玄邈奇兵破之。髙帝聞之曰:「玄邈果不負吾。」

延興元年、中護軍となった。明帝(蕭鸞)が王玄邈を江州に遣わし晋安王蕭子懋を殺させようとしたが、王玄邈は苦しんで辞し行かなかった。また王広之を広陵に遣わし安陸王蕭子敬を捕らえさせようとした時、王玄邈は已むなく詔を奉じた。建武年中、護軍の任で死去した。雍州刺史を追贈され、諡は壮侯。叔安は字を子仁といい、清河の人である。高帝が即位すると、その忠正を思い、当時益州司馬・甯蜀太守であったが、そのまま前将軍に任じられた。まさに梁州に用いられようとした時、病で死去した。帝は嘆いて言った、「叔安の節義は、古人の中に求めねばならぬ。方伯に至らずして終わることを恨む。」子の長瑜もまた義行があり、永明年中、州の中従事となった。

原文延興元年,爲中護軍。明帝使玄邈往江州殺晉安王子懋,玄邈苦辭不行,及遣王廣之往廣陵取安陸王子敬,玄邈不得已奉旨。建武中,卒於護軍,贈雍州刺史,諡壯侯。叔安字子仁,淸河人。髙帝即位,懷其忠正,時爲益州司馬、甯蜀太守,就拜前將軍。方用爲梁州,會病卒。帝歎曰:「叔安節義,古人中求之耳,恨不至方伯而終。」子長瑜,亦有義行,永明中,爲州中從事。

論

原文論

論じて言う。晋室が遷都して以来、揚州・越の地に来て住み、関辺は遥かに隔たり、汧・隴は遠く荒れ、区甸(地域)はその内外を分かち、山河はその表裏を判じた。桓温は一代の英傑であり、晋の鼎(政権)を移す志があったが、もし兵が覇上で屈せず、戦いが枋頭で敗れなければ、光宅(天下を治める)の運は、中年にして確かに集まったであろう。宋の武帝は布衣から屈起し、他人の称賛を借りず、一旦烏合の衆を駆り率いて、忽ち覇業を興し、功は余りあるが徳はまだ行き渡っていなかった。難局に立ち奇功を樹てず、大威を四海に震わさなければ、則ち天に配する業を成し、異同の心を一つにすることはできなかった。故に外に武功を積み、以て人望を収める必要があった。金墉が帰順を請い、元勲が既に立ち、心は龍門に旗を掛け、冀・趙の地で折衝し、桓氏の功を跨ぎ、昔人の高みを取ろうとした。まさに再び兵を崤・渭に観し、師を天険に陳べんとした。霊威が薄く震うに及び、重関自ら辟く。故に知る、英算の包むところは、先に勝ちて後に戦うのである。王鎮悪は鋒を推して直指し、前に強陣無く、宋の方叔(周の名将)たり、その壮なることかな。朱齢石・朱超石・毛修之・傅弘之らは、帰順した衆の固め難き情にあり、英勇が機に乗ずる運に逢い、以て顛陥に至り、不幸というべきである。修之の滑台の守りは、疎勒の難(後漢の耿恭)にあり、苟くも誠節そこにあれば、所在重しと為す。その大國に栄を取りしは、豈に徒然ならんや。終に仮道して自ら帰りしは、首丘の義なり。玄謨の封狼(狼居胥山に封ずる、霍去病の故事)の心は、帝の念いには簡(軽んじられた)れども、然れども天方に魏を相けんとし、人豈に支えんや。宋氏は三呉の弱卒を以て、八州の勁勇に当たらんとし、以て勝ちを邀えんと欲するも、亦た難からずや。境を蹙めて師を亡うは、固より其れ宜なり。夫の慶之(陳慶之)の言を観るに、時変に達したと謂うべし。瞻は傲佷にして悔い改めず、卒に亡軀に至る。然れども斉の武帝は魚服(微行)を追恨し、匹夫懼るるあり。玄邈の己を行う度は、士君子の風有るか。

原文論曰:自晉室播遷,來宅揚、越,關邊遙阻,汧、隴遐荒,區甸分其内外,山河判其表裏。桓温一代英人,志移晉鼎,自非兵屈霸上,戰衄枋頭,則光宅之運,中年允集。宋武帝屈起布衣,非藉人譽,一旦驅率烏合,奄興霸緒,功雖有餘而德猶未洽。非樹奇功於難立,震大威于四海,則不能成配天之業,一異同之心。故須外積武功,以收人望。及金墉請吏,元勳既立,心欲掛旆龍門,折沖冀、趙,跨功桓氏,取髙昔人。方復觀兵崤、渭,陳師天嶮。及靈威薄震,重關自辟,故知英算所包,先勝而後戰也。王鎭惡推鋒直指,前無強陣,爲宋方叔,其壯矣乎。朱齡石、超石、毛修之、傅弘之等,以歸衆難固之情,逢英勇乘機之運,以至顛陷,爲不幸矣。修之滑台之守,有疎勒之難,苟誠節在焉,所在爲重,其取榮大國,豈徒然哉。終假道自歸,首丘之義也。玄謨封狼之心,雖簡帝念;然天方相魏,人豈能支。宋氏以三呉之弱卒,當八州之勁勇,欲以邀勝,不亦難乎。蹙境亡師,固其宜也。觀夫慶之言,可謂達于時變。瞻傲佷不悔,卒至亡軀,然齊武追恨魚服,匹夫懼矣。玄邈行己之度,有士君子之風乎。