南史

巻十五より巻十六

巻十五より巻十六

南史

巻十五より巻十六

列伝第五

劉穆之

原文劉穆之

劉穆之、字あざなは道和、小字は道人、東莞郡莒県の人である。代々京口に住んだ。初め琅邪府の主簿となり、かつて夢に宋の武帝と共に海を渡り大風に遭い、驚いて俯せて船の下を視ると、二匹の白龍が船を挟んでいるのを見た。やがて一つの山に至り、山峰が聳えて秀麗であるので、心は甚だ悦んだ。

原文刘穆之,字道和,小字道人,东莞莒人也,世居京口。初为琅邪府主簿,尝梦与宋武帝泛海遇大风,惊俯视船下,见二白龙挟船。既而至一山,山峰耸秀,意甚悦。

武帝が京城を平定した時、何無忌に府主簿を求めたところ、無忌は穆之を推挙した。帝は「我もまた彼を知っている」と言い、直ちに馳せて召した。時に穆之は京城に叫び声があるのを聞き、朝に街道に出て、たまたま使者と会い、直視してしばらく言葉もなく、部屋に戻って布の下裳を破いて袴とし、帝に会いに行った。帝は彼に言った、「我は今大義を挙げたばかりで、一人の軍吏が甚だ急に必要である。誰がその選に堪えようか」。穆之は「私より優れた者はいません」と言った。帝は笑って「卿が自ら屈してくれるなら、我が事は成るであろう」と言った。即座に座において任命を受けた。建鄴平定に従い、諸々の大事な処分は皆、慌ただしく立ちながら定められたが、全て穆之の建策によるものであり、やがて動静について諮詢を受けるようになった。穆之もまた節を尽くし誠を尽くし、隠し残すところがなかった。

原文及武帝克京城,從何無忌求府主簿,無忌進穆之。帝曰:「吾亦識之。」即馳召焉。時穆之聞京城有叫聲,晨出陌頭,屬與信會,直視不言者久之,反室壞布裳為褲往見帝,帝謂曰:「我始舉大義,須一軍吏甚急,誰堪其選?」穆之曰:「無見踰者。」帝笑曰:「卿能自屈,吾事濟矣。」即於坐受署。從平建鄴,諸大處分,皆倉卒立定,並穆之所建,遂動見諮詢。穆之亦竭節盡誠,無所遺隱。

当時、晋の綱紀は緩み弛み、威令と禁令は行われず、盛んな族や豪家は、勢いに恃んで陵ぎほしいままに振る舞った。さらに司馬元顕の政令は誤り背き、桓玄の科条は煩雑で細かかった。穆之は時宜を斟酌し、方に随って矯正し、十日と満たないうちに、風俗はたちまち改まった。

原文時晉綱寬弛,威禁不行,盛族豪家,負勢陵縱;重以司馬元顯政令違舛,桓玄科條繁密。穆之斟酌時宜,隨方矯正,不盈旬日,風俗頓改。

尚書祠部郎に遷り、再び府主簿・記室・録事参軍となり、堂邑太守を領した。桓玄平定の功により、西華県五等子に封ぜられた。揚州刺史王謐が薨じた時、帝は次に輔政に入るべきであった。劉毅らは帝が入るのを望まず、議して中領軍謝混を揚州とすることとし、あるいは帝に丹徒において州を領させ、内事を僕射孟昶に付すことを主張した。尚書右丞皮沈を遣わして二つの議を帝に諮った。沈は先に穆之に話したが、穆之は偽って厠に行き、即ち密かに疏を作って帝に申し上げ、沈の言葉に従うべからざることを述べた。帝は沈に会うと、暫く外に出るよう命じ、穆之を呼んで問うた。穆之は言った、「公は今日どうして謙遜に居り、遂に守蕃の将となることができましょうか。劉・孟の諸公は皆、布衣から起こり、共に大義を立てたが、事は一時の相推し合いによるもので、元から定まった君臣の分けではありません。力が敵対し勢いが均衡すれば、終には互いに呑み合うことになります。揚州は根本の係るところで、他人に仮すことはできません。前に王謐に授けたのは、事が権道によるものでした。今もしまた他に授ければ、直ちに人の制を受けることになります。一旦権柄を失えば、再び得る由はありません。公は功高く勲重く、ただちに疑畏を挟まれるべきではありません。すぐに入朝して共に異同を尽くすべきです。公が京邑に至れば、彼らは必ずや公を越えて更に他の者に授けることはできません」。帝はその言葉に従い、これによって輔政に入った。

原文遷尚書祠部郎,復為府主簿、記室、錄事參軍,領堂邑太守。以平桓玄功,封西華縣五等子。及揚州刺史王謐薨,帝次應入輔。劉毅等不欲帝入,議以中領軍謝混為揚州,或欲令帝於丹徒領州,以內事付僕射孟昶。遣尚書右丞皮沈以二議諮帝。沈先與穆之言,穆之偽如廁,即密疏白帝,言沈語不可從。帝既見沈,且令出外,呼穆之問焉。穆之曰:「公今日豈得居謙,遂為守蕃將邪?劉、孟諸公俱起布衣,共立大義,事乃一時相推,非宿定臣主分也。力敵勢均,終相吞咀。揚州根本所系,不可假人。前授王謐,事出權道,今若復他授,便應受制於人。一失權柄,無由可得。公功高勳重,不可直置疑畏,便可入朝共盡同異。公至京邑,彼必不敢越公更授餘人。」帝從其言,由是入輔。

広固から還って盧循を拒ぐに従い、常に幕中に居て策を画した。劉毅らはこれを憎み、しばしば悠々としてその権力が重いと言ったが、帝はますます彼を信頼し頼った。穆之は外で聞き見たことは、大小となく必ず申し上げ、たとえ里巷の戯言や冗談でも、皆一つ二つと聞かせた。帝がしばしば世間の委細な秘密の消息を得て聡明を示すのは、全て穆之によるものであった。また賓客と交遊することを好み、座の客は常に満ち、布いた耳目をもって視聴とし、故に朝野の同異は、穆之が必ず知らないことはなかった。たとえ親しい者の短所や長所でも、皆隠さず陳奏した。ある人がこれを譏ると、穆之は「私は公の恩を受けており、義として隠し諱いみなむべきではありません。これこそ張遼が関羽の叛こうとすることを告げた所以です」と言った。

原文從廣固還拒盧循,常居幕中畫策。劉毅等疾之,每從容言其權重,帝愈信仗之。穆之外所聞見,大小必白,雖閭里言謔,皆一二以聞。帝每得人間委密消息以示聰明,皆由穆之。又愛賓遊,坐客恒滿,布林目以為視聽,故朝野同異,穆之莫不必知。雖親昵短長,皆陳奏無隱。人或譏之,穆之曰:「我蒙公恩,義無隱諱,此張遼所以告關羽欲叛也。」

帝の挙動や振る舞いについて、穆之は皆節度を下した。帝の書は元来拙かったが、穆之は「これは小事ですが、然るに四方遠くに宣布されます。願わくは公、少しまた留意されたし」と言った。帝は既に留意できず、また天賦の分けがあるので、穆之は「公はただ筆を縦にして大字を書かれよ。一字径尺でも差し支えありません。大きければ既に包むところ足り、その勢いもまた美しいです」と言った。帝はこれに従い、一紙に六七字を過ぎずして満ちた。

原文帝舉止施為,穆之皆下節度,帝書素拙,穆之曰:「此雖小事,然宣佈四遠,願公小復留意。」帝既不能留意,又稟分有在,穆之乃曰:「公但縱筆為大字,一字徑尺無嫌。大既足有所包,其勢亦美。」帝從之,一紙不過六七字便滿。

穆之は凡そ推挙し達する者は、採用されなければ止めなかった。常に言った、「私は荀令君(荀彧)の善を挙げるには及ばないが、然しながら不善を挙げない」。穆之は朱齢石と共に尺牘に巧みであり、かつて武帝の座において齢石と共に返書をしたが、朝から日中までに、穆之は百通を得、齢石は八十通を得たが、穆之は応対を廃することがなかった。

原文穆之凡所薦達,不納不止。常云:「我雖不及荀令君之舉善,然不舉不善。」穆之與朱齡石並便尺牘,嘗于武帝坐與齡石並答書,自旦至日中,穆之得百函,齡石得八十函,而穆之應對無廢。

中軍・太尉司馬に遷り、丹陽尹を加えられた。帝が西へ劉毅を討つ時、諸葛長人に留府を監させたが、彼が独任に難があると疑い、穆之を留めて補佐させた。建威将軍を加え、佐吏を置き、実力を配給した。長人は果たして異謀を抱いたが、躊躇して発することができず、人を退けて穆之に言った、「うわさ話に、太尉が私と不和であるというが、どうしてこのようになるのか」。穆之は「公(武帝)は流れを遡って遠征し、老母と弱子を節下(長人)に委ねておられます。もし一毫でも不尽があれば、どうしてこのように容認できましょうか」と言った。長人の心はやや安らぎ、穆之もまた厚く備えをした。長人は親しい者に言った、「貧賤の時は常に富貴を思い、富貴を得れば必ず危機を踏む。今日、丹徒の布衣たることを思うも、得られない」。帝が還ると、長人は誅せられた。前将軍に進んだ。

原文遷中軍、太尉司馬,加丹陽尹。帝西討劉毅,以諸葛長人監留府,疑其難獨任,留穆之輔之。加建威將軍,置佐吏,配給實力。長人果有異謀,而猶豫不能發,屏人謂穆之曰:「悠悠之言,雲太尉與我不平,何以至此?」穆之曰:「公泝流遠伐,以老母弱子委節下,若一豪不盡,豈容若此。」長人意乃小安,穆之亦厚為之備。長人謂所親曰:「貧賤常思富貴,富貴必踐危機。今日思為丹徒布衣,不可得也。」帝還,長人伏誅。進前將軍。

帝が西へ司馬休之を伐つ時、中軍将軍道憐が留任を知ったが、事の大小となく、全て穆之が決断した。尚書右僕射に遷り、選挙を領し、将軍・尹は元の通りであった。帝が北伐する時、世子を中軍将軍・監太尉留府とした。穆之を左僕射に転じ、監軍・中軍二府

原文帝西伐司馬休之,中軍將軍道憐知留任,而事無大小,一決穆之。遷尚書右僕射,領選,將軍、尹如故。帝北伐,留世子為中軍將軍、監太尉留府。轉穆之左僕射、領監軍中軍二府

軍司を領させ、将軍・尹・選挙領は元の通りとし、甲仗五十人を率いて殿に入り、東城に入居して朝政を総べ、外には軍旅を供給し、決断は流れる如く、事は滞ることがなかった。賓客は車の輻が轂に集まるように集まり、訴え求めることは百の端緒に及び、内外からの諮稟は階を満たし室を満たした。目は詞訟を覧、手は箋書に答え、耳は聴受を行い、口は並びに酬応し、互いに参差することなく、皆悉く贍って挙げた。また言談し賞笑することは、日に満ち時を亘り、倦み苦しんだことがなかった。暇が少しでもあれば、手ずから書を写し、篇章を尋ね覧ね、墳籍を校定した。性は奢侈で豪放、食事は必ず方丈(一丈いちじょう四方の食卓)を並べ、朝には十人分の饌を用意し、独りで食事したことはなかった。毎度食事の時、客は十人以内に止め、帳下の者は常の通りに食事を下し、これを常とした。かつて帝に申し上げて言った、「穆之の家は元来貧賤で、生計は多く欠けておりました。忝くも任を受けて以来、常に倹約損減を心がけていますが、朝夕に必要なものは、少し過ぎて豊かです。この外には一毫も公に負うところはありません」。

原文軍司,將軍、尹、領選如故,甲仗五十人入殿,入居東穆之內總朝政,外供軍旅,決斷如流,事無壅滯。賓客輻湊,求訴百端,內外諮稟,盈階滿室。目覽詞訟,手答箋書,耳行聽受,口並酬應,不相參涉,皆悉贍舉。又言談賞笑,彌日亙時,未嘗倦苦。裁有閒暇,手自寫書,尋覽篇章,校定墳籍。性奢豪,食必方丈,旦輒為十人饌,未嘗獨餐。每至食時,客止十人以還,帳下依常下食,以此為常。嘗白帝曰:「穆之家本貧賤,贍生多闕,叨忝以來,雖每存約損,而朝夕所須,微為過豐,此外無一豪負公。」

義熙十三年に卒去した。帝(劉裕)は長安におり、本来は関中に駐留し、趙・魏を経略しようとしていたが、訃報を聞いて驚き慟哭し、数日にわたって哀悼した。根本(建康)が空虚であることを憂い、急ぎ彭城に馳せ戻った。司馬の徐羨之に留台の管理を代行させ、それまで穆之が決裁していた朝廷の大事は、すべて北(彭城)に諮問することとした。穆之の前軍府には文武二万人がいたが、そのうち三千人を羨之の建威府に配属し、残りはすべて世子(劉義符)の中軍府に配属した。穆之を開府儀同三司に追贈した。帝はさらに天子(晋安帝)に上表して言った。「臣は聞く、賢者を崇め善を顕彰することは、王者の教えの先務であり、功を思い労を選ぶことは、遠きを追う義が深い。故に司勳は策を執り、勤めある者は必ず記録し、その徳が美しく明らかな者は、没してますます顕著となる。故尚書左僕射・前将軍の臣穆之は、布衣の身より、義挙の始めに協力し、内には謀猷を尽くし、外には諸政に勤め、軍国に密勿として、心力をともに尽くした。朝右に登庸され、京畿を尹司し、百揆を敷賛し、大猷を翼賛して新たにした。近ごろ戎車遠征の際には、中央にあって防衛し、撫寧の勲功は、実に朝野に満ち、識量は局致あり、棟幹の器であった。まさに盛化を宣賛し、聖世を緝隆せんとする時に、忠績未だ究められず、遠近悼心する。皇恩は褒述し、班位は三事に同じ、栄哀既に備わり、寵霊已に泰う。臣が伏して思うに、義熙の草創より、艱患未だ弭がず、外虞既に殷く、内難もまた重なり、時は屯し世故多く、寧歳有ること無し。臣は寡乏を以て、国の重きを負荷し、実に穆之の匡翼の益に頼った。ただ正しい言論と良き謀略が人々の耳に溢れたのみならず、忠規密謨、帷幕に潜んで慮り、膝を造りて詭辞を尽くすことは、その際限を見ること無し。皇朝に隔てられ、視聴に隠れたる功績は、数え切れない。これをもって一紀の間力を尽くし、遂に成し遂げることができ、出征しては入りて輔弼し、幸いにも命を辱めずに済んだ。あの人の左右えこひいきが無ければ、事を寧済することはできなかったであろう。謙虚に身を処し、寡欲に居り、これを守ることますます固く、封爵の議に及ぶごとに、深く自ら抑止した。これがために勲功は当年に高くながら、茅土に及ばず、事を撫でて永く思えば、どうして昧昧としていられようか。正司を加贈し、土宇を追甄すべきであると謂う。忠貞の烈をして、身後に泯びず、大賚の及ぶところ、永く善人に旌らしめるべきである。臣は契闊屯夷し、終始を旋観し、金蘭の分、義深く情感あり、ここにその懐を献げ、朝聴に布く。」 そこで重ねて侍中・司徒を追贈し、南昌県侯に封じた。

原文義熙十三年卒。帝在長安,本欲頓駕關中,經略趙、魏,聞問驚慟,哀惋者數日。以根本虛,乃馳還彭城。以司馬徐羨之代管留台,而朝廷大事常決于穆之者,並悉北諮。穆之前軍府文武二萬人,以三千配羨之建威府,餘悉配世子中軍府。追贈穆之開府儀同三司。帝又表天子曰:「臣聞崇賢旌善,王教所先,念功簡勞,義深追遠。故司勳執策,在勤必記,德之休明,沒而彌著。故尚書左僕射、前將軍臣穆之,爰自布衣,協佐義始,內竭謀猷,外勤庶政,密勿軍國,心力俱盡。及登庸朝右,尹司京畿,敷贊百揆,翼新大猷。頃戎車遠役,居中作捍,撫寧之勳,實洽朝野,識量局致,棟幹之器也。方宣贊盛化,緝隆聖世,忠績未究,遠邇悼心。皇恩褒述,班同三事,榮哀既備,寵靈已泰。臣伏思尋,自義熙草創,艱患未弭,外虞既殷,內難亦薦,時屯世故,靡有寧歲。臣以寡乏,負荷國重,實賴穆之匡翼之益。豈唯讜言嘉謀,溢於人聽,若乃忠規密謨,潛慮帷幕,造膝詭辭,莫見其際。事隔於皇朝,功隱於視聽者,不可勝紀。所以陳力一紀,遂克有成,出征入輔,幸不辱命。微夫人之左右,未有寧濟其事者矣。履謙居寡,守之彌固,每議及封爵,輒深自抑絕。所以勳高當年,而茅土弗及,撫事永念,胡寧可昧。謂宜加贈正司,追甄土宇。俾忠貞之烈,不泯於身後,大賚所及,永旌于善人。臣契闊屯夷,旋觀終始,金蘭之分,義深情感,是以獻其乃懷,布之朝聽。」於是重贈侍中、司徒,封南昌縣侯。

帝が禅を受けた後、しばしば彼を嘆き思い出し、言った。「穆之が死ななければ、我が天下を治めるのを助けてくれたであろう。まさに『人の雲亡、邦国殄瘁』と言うべきだ。」 光禄大夫の范泰が答えて言った。「聖主が上にいらっしゃり、英彦が朝廷に満ちております。穆之は艱難に功績を著したとはいえ、直ちに興廃に関わるわけにはまいりません。」 帝は笑って言った。「卿は驥騄のことを聞かないのか、貴ぶのは一日に千里を致すことだ。」 帝は後にまた言った。「穆之が死んで、人々が我を軽んじ易くする。」 そのように思慕された。佐命の元勲として、南康郡公に追封され、諡して文宣といった。

原文及帝受禪,每歎憶之,曰:「穆之不死,當助我理天下。可謂'人之雲亡,邦國殄瘁。'」光祿大夫范泰對曰:「聖主在上,英彥滿朝,穆之雖功著艱難,未容便關興毀。」帝笑曰:「卿不聞驥騄乎,貴日致千里耳。」帝后復曰:「穆之死,人輕易我。」其見思如此。以佐命元勳,追封南康郡公,諡曰文宣。

穆之は若い頃、家が貧しく節度に欠け、酒食を嗜み、行いを慎まなかった。妻の兄の家に赴いて食事を乞うことを好み、しばしば辱められたが、恥と思わなかった。その妻は江嗣の娘で、非常に明識があり、しばしば禁じて江氏の家に行かせなかった。後に慶事の会合があり、来ないように言いつけたが、穆之はなおも行き、食事を終えて檳榔を求めた。江氏の兄弟が戯れて言った。「檳榔は食を消すもの、あなたは常に飢えているのに、どうして急にこれを必要とするのか。」 妻はまた髪を切って肴饌を買い、その兄弟のために穆之に食べさせた。以来、穆之の前で髪を梳かず身づくろいをしなかった。穆之が丹陽尹となった時、妻の兄弟を召し出そうとすると、妻は泣いて稽顙して謝した。穆之は言った。「もともと怨みを隠したわけではないから、憂えることはない。」 酒食に飽きるまで楽しませた後、穆之は厨人に金の盤に檳榔一斛こくを盛らせて進ませた。元嘉二十五年、車駕が江寧に行幸し、穆之の墓の前を通った時、詔して墓所で祭らせた。

原文穆之少時,家貧誕節,嗜酒食,不修拘檢。好往妻兄家乞食,多見辱,不以為恥。其妻江嗣女,甚明識,每禁不令往江氏。後有慶會,屬令勿來。穆之猶往,食畢求檳榔。江氏兄弟戲之曰:「檳榔消食,君乃常饑,何忽須此?」妻復截髮市肴饌,為其兄弟以餉穆之,自此不對穆之梳沐。及穆之為丹陽尹,將召妻兄弟,妻泣而稽顙以致謝。穆之曰:「本不匿怨,無所致憂。」及至醉飽,穆之乃令廚人以金柈貯檳榔一斛以進之。元嘉二十五年,車駕幸江甯,經穆之墓,詔致祭墓所。

長子の慮之が後を嗣いだが、卒去した。子の邕が嗣いだ。これ以前、郡県が封国となっている場合、内史・相はともに国主に対して臣と称し、任を去れば止めていた。孝建年間になって初めてこの制度を改め、下官として敬意を表するようになった。河東王の歆之がかつて南康の相となり、平素から邕を軽んじていた。後に歆之と邕がともに元会に参列して並んで座ると、邕は酒を嗜み、歆之に言った。「卿は昔、私を臣として見たが、今は一杯の酒を勧めてくれないか。」 歆之は孫皓の歌を真似て答えて言った。「昔は汝が臣となり、今は汝と肩を並べる。汝に酒を勧めず、また汝の年を願わず。」 邕は性来、瘡の痂を食べることを嗜み、その味が鰒魚に似ていると思っていた。かつて孟霊休を訪ねた時、霊休は先に灸の瘡を患っており、痂が床に落ちていたので、邕は取って食べた。霊休は大いに驚き、まだ落ちていない痂をすべて剥ぎ取って邕に食べさせた。邕が去った後、霊休は何勅に手紙を書いて言った。「劉邕が訪ねて来て食べたので、体中から血が流れ出た。」 南康国の吏員二百人ほどを、罪の有無を問わず順番に鞭打ち、瘡の痂を常に食事に供させた。

原文長子慮之嗣,卒。子邕嗣。先是郡縣為封國者,內史、相並于國主稱臣,去任便止。孝建中始革此制為下官致敬。河東王歆之嘗為南康相,素輕邕。後歆之與邕俱豫元會並坐,邕嗜酒,謂歆之曰:「卿昔見臣,今能見勸一杯酒不?」歆之因斅孫皓歌答曰:「昔為汝作臣,今與汝比肩,既不勸汝酒,亦不願汝年。」邕性嗜食瘡痂,以為味似鰒魚。嘗詣孟靈休,靈休先患灸瘡,痂落在床,邕取食之。靈休大驚,痂未落者,悉褫取飴邕。邕去,靈休與何勖書曰:「劉邕向顧見噉,遂舉體流血。」南康國吏二百許人,不問有罪無罪,遞與鞭,瘡痂常以給膳。

邕が卒去すると、子の肜が嗣いだが、妻を刀で斬りつけた罪で爵位を剥奪され、弟の彪が後を嗣いだ。斉の建元初年、南康県侯・虎賁中郎将に降封された。廟墓を修めなかった罪で、爵位を削られ羽林監となった。また、亡弟の母である楊と別居し、楊が死んでも殯葬しなかった罪(崇聖寺の尼の慧首が剃髪して尼となり、五百銭で棺を買い、泥洹輿で葬送した)を有司に奏上されたが、事は寝て沙汰やみとなった。

原文邕卒,子肜嗣,坐刀斫妻奪爵,以弟彪紹。齊建元初,降封南康縣侯、虎賁中郎將。坐廟墓不修,削爵為羽林監。又坐與亡弟母楊別居,楊死不殯葬,崇聖寺尼慧首剃頭為尼,以五百錢為買棺,以泥洹輿送葬,為有司奏,事寢不出。

中子に式之。

原文中子 式之

穆之の中子、式之は字を延叔といい、宣城・淮南二郡の太守となったが、贓貨の罪を犯した。揚州刺史の王弘が従事を派遣して検査させた。式之は従事を呼んで言った。「使いの君に伝えてくれ、劉式之は国に対して少しばかりの功績がある。数百万銭を盗むことなど何でもない、まして盗んでいないのに。」 従事が帰って王弘に報告すると、これによって取り調べは止んだ。関洛征討に従軍して功績があり、徳陽県五等侯に封じられた。卒去し、諡して恭といった。

原文穆之中子式之字延叔,為宣城、淮南二郡太守,犯贓貨,揚州刺史王弘遣從事檢校之。式之召從事謂曰:「還白使君,劉式之于國粗有微分,偷數百萬錢何有,況不偷邪。」從事還白弘,由此得停。從征關洛有功,封德陽縣五等侯。卒,諡曰恭。

子に瑀。

原文子 瑀

子の瑀は字を茂琳といい、始興王の劉浚が南徐州刺史となった時、瑀を別駕とした。瑀は性来、人を見下し自分の過ちを認めず、当時、浚の征北府行参軍の呉郡の顧邁は軽薄だが才能があり、浚は彼を厚く遇した。瑀はそこで節を折って邁に仕え、邁は瑀が自分に誠意を尽くすものと思い、浚が言った密事をすべて瑀に話した。瑀が邁とともに射堂の下に進んだ時、突然左右を顧みて単衣と幘を求め、邁がその理由を問うと、瑀は言った。「公(劉浚)は家人として卿を遇し、言わぬこと無くしたが、卿は外に洩らした。私は公の吏である、どうして啓白しないでいられようか。」 浚は大いに怒り、文帝に啓上して邁を広州に移させた。

原文子瑀字茂琳,始興王浚為南徐州,以瑀為別駕。瑀性陵物護前,時浚征北府行參軍吳郡顧邁輕薄有才能,浚待之厚。瑀乃折節事邁,邁以瑀與之款盡,浚所言密事,悉以語瑀。瑀與邁共進射堂下,忽顧左右索單衣幘,邁問其故,瑀曰:「公以家人待卿,言無不盡,卿外宣洩。我是公吏,何得不啟白之。」浚大怒,啟文帝徙邁廣州。

瑀は性来、気性が激しく人を圧倒することを好み、後に御史中丞となって、甚だ得意であった。蕭恵開を弾劾して言った。「才なく望みなく、勲なく徳なし。」 王僧達を弾劾して言った。「高華の蔭藉を受け、人品は冗末である。」 朝士はその筆鋒を畏れない者はなかった。

原文瑀性使氣尚人,後為御史中丞,甚得志。彈蕭惠開云:「非才非望,非勳非德。」彈王僧達云:「蔭藉高華,人品冗末。」朝士莫不畏其筆端。

右衛将軍に転じた。年齢と地位は本来何偃より上であったが、孝武帝の初め、偃が吏部尚書となると、瑀は侍中になろうとしたが得られなかった。偃とともに郊祀に従った時、偃が車に乗って前を進み、瑀が駟馬を策して後ろに居り、数十歩離れていたが、瑀は馬を蹴って追いつき、偃に言った。「君の轡は何と速いことか。」 偃は言った。「牛は駿く馭は精しい、それゆえ速いのだ。」 偃は言った。「君の馬は何と遅いことか。」 答えて言った。「騏驥は羈絆に繋がれている、それゆえ後ろに居るのだ。」 偃は言った。「どうして鞭を打って千里を致させないのか。」 答えて言った。「一蹴りで自ら青雲に至る、どうして駑馬と道を争うことがあろうか。」 しかし甚だ意を得ず、親しい者に言った。「人が仕官するには、出なければ入り、入らなければ出るべきで、どうして長く戸限の上に居られようか。」 そこで益州を求めた。出発するに当たり、甚だ意を得ず、江陵に至り、顔竣に手紙を書いて言った。「朱修之は三世の叛兵でありながら、一日荊州に居り、青油の幕下で、謝宣明の面目を以て我に向かい、齋帥に長刀を持たせて我を下席に引きずり下ろさせた。我にとって何の痛痒でもない、ただ匈奴に漢を軽んじさせることが恐れるだけだ。」 人の妻を奪って妾とした罪で官を免ぜられた。

原文轉右衛將軍。年位本在何偃前,孝武初,偃為吏部尚書,瑀圖侍中不得。與偃同從郊祀,時偃乘車在前,瑀策駟居後,相去數十步,瑀蹋馬及之,謂偃曰:「君轡何疾?」偃曰:「牛駿馭精,所以疾耳。」偃曰:「君馬何遲?」曰:「騏驥羅於羈絆,所以居後」。偃曰:「何不著鞭使致千里?」答曰:「一蹙自造青雲,何至與駑馬爭路。」然甚不得意,謂所親曰:「人仕宦,不出當入,不入當出,安能長居戶限上?」因求益州。及行,甚不得意,至江陵,與顏竣書曰:「朱修之三世叛兵,一日居荊州,青油幕下,作謝宣明面目見向,使齋帥以長刀引吾下席,于吾何有,政恐匈奴輕漢耳。」坐奪人妻為妾免官。

後に呉興太守となったが、侍中の何偃がかつて彼を評して言うには、「時望と比較して参伍(匹敵)する」と。王瑀は大いに怒って言った、「私が時望とどうして参伍などできようか」と。そこで何偃と絶交した。族叔の王秀之が丹陽尹となると、王瑀はまた親しい旧知に手紙を書いて言った、「我が家の黒面の阿秀(秀之)が劉安衆(劉宋の安衆県男?)の地位に居るとは、朝廷は人材が多いとは言えないな」と。その年、背中に癰ができ、何偃もまた背中に癰を生じた。王瑀の病はすでに重く、何偃の死を聞くと、歓躍して叫び呼び、ここにてまた卒した。諡して剛といった。

原文後為吳興太守,侍中何偃嘗案之云:「參伍時望。」瑀大怒曰:「我于時望何參伍之有。」遂與偃絕。族叔秀之為丹陽,瑀又與親故書曰:「吾家黑面阿秀遂居劉安眾處,朝廷不為多士。」其年疽發背,何偃亦發背癕。瑀疾已篤,聞偃亡,歡躍叫呼,於是亦卒。諡曰剛。

孫の王祥

原文孫 祥

王祥は字を顯征といい、王式之の孫である。父の王敳は、太宰從事中郎であった。王祥は若い頃から文学を好み、性質は剛直で疎放、軽々しく言葉を発し勝手に振る舞い、身分の上下を避けなかった。斉の建元年間、正員郎となった。司徒の褚彥回が朝廷に入るとき、腰扇で日を遮った。王祥が側を通り過ぎて言うには、「このような挙動をして、恥ずかしげもなく人に顔を合わせ、扇で遮って何の益があろうか」と。彥回は言った、「寒士(貧しい士人)が無礼だ」と。王祥は言った、「袁(粛?)や劉(某)を殺すことができないのであれば、どうして寒士たることを免れられようか」と。

原文祥字顯征,式之孫也。父敳,太宰從事中郎。祥少好文學,性韻剛疏,輕言肆行,不避高下。齊建元中,為正員郎。司徒褚彥回入朝,以腰扇鄣日,祥從側過,曰:「作如此舉止,羞面見人,扇障何益。」彥回曰:「寒士不遜。」祥曰:「不能殺袁、劉,安得免寒士。」

永明の初め、『宋書』を撰し、禅譲による王朝交代を讒斥した。尚書令の王儉が密かにこれを上聞すると、上(武帝)は心に留めたが問わなかった。臨川王の驃騎從事中郎となった。王祥の兄の王整が広州刺史となり、任地で死去した。王祥は王整の妻のところに行き、財産の返還を求めた。このことが朝廷に聞こえた。また朝廷の人士に対しても多く貶し軽んじた。王奐が尚書僕射となったとき、王祥は王奐の子の王融と同車した。中堂まで行くと、道行く人が驢馬を追っているのを見て、王祥は言った、「驢よ、お前はうまくやれ。お前のような人材は、みなすでに令や僕(高官)になっているのだから」と。連珠十五首を著して、その思いを託した。その中で讒議するものに言う、「希世の宝も、時勢に背けば必ず賤しまれ、偉俗の器も、聖人がいなければ埋もれる。それゆえ明玉は楚の岫で退けられ、章甫(殷の冠)は越人の地で行き詰まる」と。ある者が王祥の連珠を上(武帝)に啓上すると、上は御史中丞の任遐に命じてその過失悪行を奏上させ、廷尉に付した。上は別に勅を王祥に遣わして言った、「私は卿の性命を許し、卿に万里の地で過ちを思わせよう。卿もし改めることができれば、必ず卿を帰還させるであろう」と。そこで広州に流した。意を得ず、終日酒にふけり、まもなく卒した。

原文永明初,撰宋書,譏斥禪代,尚書令王儉密以啟聞,上銜而不問。為臨川王驃騎從事中郎。祥兄整為廣州,卒官,祥就整妻求還資,事聞朝廷。又於朝士多所貶忽。王奐為尚書僕射,祥與奐子融同載,行至中堂,見路人驅驢,祥曰:「驢,汝好為之,如汝人才,皆已令僕。」著連珠十五首,以寄其懷。其譏議者云:「希世之寶,違時必賤,偉俗之器,無聖則淪。是以明玉黜于楚岫,章甫窮於越人。」有以祥連珠啟上,上令御史中丞任遐奏其過惡,付廷尉。上別遣敕祥曰:「我當原卿性命,令卿萬里思愆。卿若能改革,當令卿得還。」乃徙廣州。不得意,終日縱酒,少時卒。

従父の兄の子の王秀之

原文從父兄子 秀之

王秀之は字を道寶といい、王穆之の従父の兄の子である。祖父の王爽は山陰令。父の王仲道は余姚令であった。王秀之は幼くして孤貧であり、十歳の時に諸児と前の渚で遊んでいると、突然大蛇が来て、その勢いは甚だ猛であった。皆は転倒し驚き叫んだが、王秀之だけは動じなかった。人々はみなこれを異とした。東海の何承天はかねてより彼を知り器量を認め、娘を妻とした。兄の王欽之は朱齢石の右軍參軍となり、齢石に従って敗没した。王秀之は哀しみ悲しみ、十年の間歓宴を楽しまなかった。

原文秀之字道寶,穆之從父兄子也。祖爽,山陰令。父仲道,余姚令。秀之少孤貧,十歲時與諸兒戲前渚,忽有大蛇來,勢甚猛,莫不顛沛驚呼,秀之獨不動,眾並異之。東海何承天雅相知器,以女妻之。兄欽之為朱齡石右軍參軍,隨齡石敗沒,秀之哀戚不歡宴者十年。

宋の景平二年、駙馬都尉に任じられた。元嘉年間、再び建康令となり、政績に名声があった。孝武帝が襄陽に鎮すると、撫軍錄事參軍・襄陽令とした。襄陽には六門堰があり、良田数千頃あったが、堰は久しく決壊し、公私ともに産業が廃れていた。孝武帝は王秀之に修復を命じ、雍州一帯はこれによって大いに豊かになった。

原文宋景平二年,除駙馬都尉。元嘉中,再為建康令,政績有聲。孝武鎮襄陽,以為撫軍錄事參軍、襄陽令。襄陽有六門堰,良田數千頃,堰久決壞,公私廢業。孝武遣秀之修復,雍部由是大豐。

後に西戎校尉・梁南秦二州刺史に任じられ、都督を加えられた。漢川が飢饉となると、王秀之は自ら倹約に努めた。これ以前、漢川ではすべて絹を通貨としていたが、王秀之は銭貨の使用を制限し、百姓はこれを便利とした。二十七年、大いに挙兵して北へ侵攻し、輔國將軍の楊文德・巴西梓潼二郡太守の劉弘宗を遣わして王秀之の節度を受けさせ、汧隴を震盪させた。

原文後除西戎校尉、梁南秦二州刺史,加都督。漢川饑饉,秀之躬自儉約。先是漢川悉以絹為貨,秀之限令用錢,百姓利之。二十七年,大舉北侵,遣輔國將軍楊文德、巴西梓潼二郡太守劉弘宗受秀之節度,震盪汧隴。

元凶(劉劭)が弑逆を犯すと、王秀之は即日に兵を起こし、襄陽へ赴くことを求めたが、司空の南譙王劉義宣は許さなかった。事態が鎮まると、益州刺史に転じ、俸禄のうち二百八十万を留め置いて梁州の鎮庫に付し、それ以外は清廉であった。梁州・益州は豊かであり、前後の刺史はみな大いに蓄財した。多い者は万金に至った。連れて行った賓僚はみな都の貧しい者で、郡県に出ると、皆苟且に私腹を肥やした。王秀之は政務を整え粛然とし、遠近ともに喜んだ。

原文元凶弑逆,秀之即日起兵,求赴襄陽,司空南譙王義宣不許。事甯,遷益州刺史,折留奉祿二百八十萬付梁州鎮庫,此外蕭然。梁、益豐富,前後刺史莫不大營聚畜,多者致萬金。所攜賓僚並都下貧子,出為郡縣,皆以苟得自資。秀之為政整肅,遠近悅焉。

南譙王劉義宣が荊州に拠って叛逆し、王秀之に徴兵を遣わした。王秀之はその使者を斬った。起義の功により、康樂縣侯に封ぜられ、丹陽尹に転じた。これ以前、王秀之の従叔の王穆之が丹陽尹であったとき、子弟と聽事の上で宴を開き、聽事の柱に一つの穴があった。王穆之は子弟および王秀之に言った、「お前たち、栗を以て遠くから柱に投げてみよ。穴に入った者は後に必ずこの郡(丹陽尹)を得るであろう」と。ただ王秀之だけが入った。その言葉は遂に験しるしした。時に百姓から物を掛け買いして銭を返さないことがあった。王秀之はこれは宜しくないと考え、甚だ切にこれを陳じた。上はその言を受け入れたが、結局用いなかった。

原文南譙王義宣據荊州為逆,遣徵兵於秀之,秀之斬其使。以起義功,封康樂縣侯,徙丹陽尹。先是秀之從叔穆之為丹陽,與子弟聽事上宴,聽事柱有一穿,穆之謂子弟及秀之,汝等試以栗遙擲柱,入穿者後必得此郡。唯秀之獨入焉,其言遂驗。時賒買百姓物不還錢,秀之以為非宜,陳之甚切。雖納其言,竟不用。

尚書右僕射に遷った。時に令を制定するにあたり、人が長吏を殺した場合の科条について疑義が生じ、議者は大赦があれば流刑とするのが妥当であると論じた。王秀之は「律文には人が官長を殺すことの趣旨は明示されていないが、もし赦令に遇えばただ流刑とするだけであれば、それは漫然と人を殺すことと少しも異ならない。人は官長を父母に比して敬う。害を加えた者はたとえ赦令に遇うとも、長く尚方に付してその天命を尽くさせ、家口は兵士に補充すべきであると謂う」と。これに従った。

原文遷尚書右僕射。時定制令,疑人殺長吏科,議者謂會赦宜以徙論。秀之以為「律文雖不顯人殺官長之旨,若遇赦但止徙論,便與悠悠殺人曾無一異。人敬官長比之父母,行害之身雖遇赦,謂宜長付尚方,窮其天命,家口補兵」。從之。

後に甯蠻校尉・雍州刺史となり、都督を加えられた。左僕射に召されようとしたとき、ちょうど卒した。司空を追贈され、諡して忠成公といった。

原文後為甯蠻校尉、雍州刺史,加都督。將徵為左僕射,會卒。贈司空,諡忠成公。

王秀之は野鄙で風采はなかったが、心の力は堅く正しかった。上(武帝)はその官に臨んで清廉潔白であり、家に余財がないことを以て、銭二十万、布三百匹を賜った。封は孫まで伝わったが、斉が禅を受けると、封国は除かれた。

原文秀之野率無風采,而心力堅正。上以其蒞官清潔,家無餘財,賜錢二十萬,布三百疋。傳封至孫,齊受禪,國除。

徐羨之

原文徐羨之

徐羨之は字を宗文といい、東海郡郯県の人である。祖父の徐甯は尚書吏部郎。父の徐祚之は上虞令であった。徐羨之は桓修の撫軍中兵參軍となり、宋の武帝(劉裕)と同じ幕府にあり、深く親しく結びついた。武帝が北伐すると、次第に太尉左司馬に昇進し、留守を掌り、劉穆之の副となった。

原文徐羨之字宗文,東海郯人也。祖甯,尚書吏部郎。父祚之,上虞令。羨之為桓修撫軍中兵參軍,與宋武帝同府,深相親結。武帝北伐,稍遷太尉左司馬,掌留任,副貳劉穆之。

帝が北伐を議すると、朝臣の多くは諫めたが、ただ羨之のみは黙然としていた。或る者が何故独り言わないのかと問うと、羨之は言った、「今二方(後秦・南燕)は既に平定され、万里の地を拓いたが、ただ小羌(西秦・北涼など)が未だ定まらぬ。公(劉裕)は寝食も安からず、どうして軽々しくその議論に加わることができようか」。

原文帝議北伐,朝士多諫,唯羨之默然。或問何獨不言,羨之曰:「今二方已平,拓地萬里,唯有小羌未定。公寢食不安,何可輕豫其議。」

穆之が卒すると、帝は王弘を用いて代えようとした。謝晦が言うには、「休元(王弘の字)は軽率である。徐羨之に及ばない」。そこで羨之を丹陽尹とし、留任の事務を総括して知らしめ、甲仗二十人を出入りさせ、尚書僕射を加えた。

原文穆之卒,帝欲用王弘代之。謝晦曰:「休元輕易,不若徐羨之。」乃以羨之為丹陽尹,總知留任,甲仗二十人出入,加尚書僕射。

義熙十四年、軍人朱興の妻周が子の道扶を生み、三歳の時、先に癇病を得た。周はその病を理由に、地を掘って生き埋めにし、道扶の姑である双女に告発され、周は棄市に処せられた。羨之が議して言うには、「自然の愛は、豺狼でさえ仁あり。周の凶忍には、宜しく顕戮を加うべし。臣は思うに、法律の外にも、尚お通理を弘むべきであり、母が刑に即くのは、子によって法を明らかにするためである。子たる者の道として、どうして自ら容れる地があろうか。愚かには、特にこれを遐裔に申し行うべきと謂う」。これに従った。

原文義熙十四年,軍人朱興妻周生子道扶,年三歲,先得癇病。周因其病,發掘地生埋之,為道扶姑雙女所告,周棄市。羨之議曰:「自然之愛,豺狼猶仁,周之凶忍,宜加顯戮。臣以為法律之外,尚弘通理,母之即刑,由子明法。為子之道,焉有自容之地。愚謂可特申之遐裔。」從之。

武帝が即位すると、南昌県公に封ぜられ、司空・録尚書事・揚州刺史の位に就いた。羨之は布衣から起り、また学術もなく、ただ器量と態度によって、一朝にして廊廟に居り、朝野ともに推服し、皆宰臣の望み有りと謂った。沈黙寡言にして、憂喜をもって色に現さず。頗る囲碁に巧みで、観戦するときは常に未だ解せざるが如く、当世は倍してこれを推した。傅亮・蔡廓は嘗て「徐公は万事に通暁し、異同を安んず」と言った。嘗て傅亮・謝晦と宴聚したとき、亮・晦は才学弁博であったが、羨之は風度詳整にして、時に応じて後に言った。鄭鮮之が歎じて言うには、「徐・傅の言論を観れば、もはや学問を以て長とせず」。武帝が不豫となると、班剣三十人を加えた。宮車晏駕し、中書令傅亮・領軍将軍謝晦・鎮北将軍檀道済と共に顧命を受けた。少帝は羨之・亮に詔して、衆官を率いて内で月に一度獄を決せしめた。

原文及武帝即位,封南昌縣公,位司空、錄尚書事、揚州刺史。羨之起自布衣,又無術學,直以局度,一旦居廊廟,朝野推服,咸謂有宰臣之望。沈密寡言,不以憂喜見色。頗工弈棋,觀戲常若未解,當世倍以此推之。傅亮、蔡廓嘗言徐公曉萬事,安異同。嘗與傅亮、謝晦宴聚,亮、晦才學辯博,羨之風度詳整,時然後言。鄭鮮之歎曰:「觀徐、傅言論,不復以學問為長。」武帝不豫,加班劍三十人。宮車晏駕,與中書令傅亮、領軍將軍謝晦、鎮北將軍檀道濟同被顧命。少帝詔羨之、亮率眾官內月一決獄。

帝が後に失徳すると、羨之らは廃立を謀ろうとしたが、廬陵王義真は過失多く、四海を任せられぬ。そこで先ず義真を廃し、その後帝を廃した。時に謝晦は領軍であり、府舎の内屋が破損し修理すべきを以て、悉く家人を移して宅を出し、将士を府内に聚めた。檀道済は先朝の旧将として、威は殿省に服し、且つ兵衆を有するので、召し入れて朝に謀を告げた。既に帝を廃すると、侍中程道惠が皇子義恭を立てるよう勧めたが、羨之は許さなかった。文帝が即位すると、南平郡公に改封され、固く加封を譲った。有司が車駕は旧に依り華林園に臨んで訟を聴くよう奏上すると、詔して先の二公(羨之・傅亮)に権めて訊問せしむるが如くせしめた。

原文帝后失德,羨之等將謀廢立,而廬陵王義真多過,不任四海。乃先廢義真,然後廢帝。時謝晦為領軍,以府舍內屋敗應修理,悉移家人出宅,聚將士於府內。檀道濟以先朝舊將,威服殿省,且有兵眾,召入朝告之謀。既廢帝,侍中程道惠勸立皇子義恭,羨之不許。及文帝即位,改封南平郡公,固讓加封。有司奏車駕依舊臨華林園聽訟,詔如先二公權訊。

元嘉二年、羨之と傅亮は政を帰し、三度奏上してようやく許された。羨之はなお位を遜り、私第に退いた。兄の子佩之及び程道惠・呉興太守王韶之らは、皆宜しからずと謂い、敦め勧めて甚だ苦しかった。再び詔を奉じて任を摂った。

原文元嘉二年,羨之與傅亮歸政,三奏乃見許。羨之仍遜位,退還私第。兄子佩之及程道惠、吳興太守王韶之等,並謂非宜,敦勸甚苦。復奉詔攝任。

三年正月、帝は羨之・亮・晦が旬月の間に再び酖毒を肆うとして、詔を下してその罪を暴き、誅した。その日、詔して羨之を召し西明門外に至らせた。時に謝晦の弟皭は黄門郎として正直に当たり、亮に報じて「殿中に異なる処分あり」と言った。亮は馳せて羨之に報じ、羨之は内人の問訊車に乗って郭を出、歩いて新林に至り、陶灶の中に入って自縊して死んだ。年六十三。羨之は初め召しに応じず、上は領軍到彦之・右衛将軍王華を遣わして追討させた。死して後、野人が告げ、屍を載せて廷尉に付した。

原文三年正月,帝以羨之、亮、晦旬月間再肆酖毒,下詔暴其罪,誅之。爾日,詔召羨之至西明門外,時謝晦弟皭為黃門郎正直,報亮云:「殿中有異處分。」亮馳報羨之,羨之乘內人問訊車出郭,步走至新林,入陶灶中自縊而死,年六十三。羨之初不應召,上遣領軍到彥之、右衛將軍王華追討。及死,野人以告,載屍付廷尉。

初め、羨之が年少の時、嘗て一人来たりて謂うには、「我は汝が祖なり」。羨之は拝した。この人曰く、「汝には貴相有りて大厄有り。宜しく銭二十八文を以て宅の四角に埋め、災いを免るべし。これを過ぎれば位極人臣に至るべし」。後に羨之は親に従って県に赴き、県内に住んだ。嘗て暫く出でたところ、賊が後より県を破り、県内の人に免れる者無く、鶏犬も亦尽き、ただ羨之のみ外に在って全うされた。又従兄の履之に従って臨海郡楽安県に在った時、嘗て山中を行き経るに、黒龍長さ丈余、頭に角有り、前の両足は皆備わり、後足無く、尾を曳いて行くを見た。司空に拝するに及び、関を守って入ろうとする時、彗星すいせい危宿の南に辰の如く現れた。又拝する時に当たり、双鸛が太極殿の東鴟尾に集まり鳴き喚き、遂に凶を以て終わった。

原文初,羨之年少時,嘗有一人來謂曰:「我是汝祖。」羨之拜。此人曰:「汝有貴相而有大厄,宜以錢二十八文埋宅四角,可以免災。過此可位極人臣。」後羨之隨親之縣,住在縣內。嘗暫出,而賊自後破縣,縣內人無免者,雞犬亦盡,唯羨之在外獲全。又隨從兄履之為臨海樂安縣,嘗行經山中,見黑龍長丈餘,頭有角,前兩足皆具,無後足,曳尾而行。及拜司空,守關將入,彗星辰見危南。又當拜時,雙鸛集太極殿東鴟尾鳴喚,竟以凶終。

兄欽之の子 佩之

原文兄欽之子 佩之

羨之の兄欽之は秘書監の位にあった。欽之の子佩之は軽薄で利を好み、武帝はその姻戚を以て、累ねて寵任を加え、丹陽尹とした。景平の初め、羨之が権を知るを以て、頗る政事に預かり、王韶之・程道惠・中書舎人邢安泰・潘盛と党を為した。時に謝晦は久しく病み灸を連ね、客を見るに堪えず、佩之らは其の疾に托して異図有りと疑い、韶之・道惠と同車に乗って傅亮に詣で、羨之の意を称し、詔を作って之を誅せしめんと欲した。亮曰く、「己等三人同じく顧命を受け、豈に自ら相残戮すべけんや」。佩之らは乃ち止んだ。羨之が既に誅されると、文帝は特に佩之を宥し、免官のみとした。その冬、佩之の謀反が事発して誅された。

原文羨之兄欽之位秘書監。欽之子佩之輕薄好利,武帝以其姻戚,累加寵任,為丹陽尹。景平初,以羨之知權,頗豫政事,與王韶之、程道惠、中書舍人邢安泰、潘盛為黨。時謝晦久病連灸,不堪見客,佩之等疑其托疾有異圖,與韶之、道惠同載詣傅亮,稱羨之意,欲令作詔誅之。亮曰:「己等三人同受顧命,豈可自相殘戮。」佩之等乃止。羨之既誅,文帝特宥佩之,免官而已。其冬佩之謀反事發被誅。

佩之の弟 逵之

原文佩之弟 逵之

佩之の弟逵之は武帝の長女会稽宣公主を尚ぎ、彭城・沛二郡太守となった。武帝の諸子は皆幼く、逵之を姻戚として大任せんとし、先ず功を立てしめんと欲した。司馬休之を討つに及び、軍を統べて前鋒と為らしめ、克つを待って即時に荊州を授けんとしたが、陣において害された。追贈して中書侍郎。子は湛之。

原文佩之弟逵之尚武帝長女會稽宣公主,為彭城、沛二郡太守。武帝諸子並幼,以逵之姻戚,將大任之,欲先令立功。及討司馬休之,使統軍為前鋒,待克當即授荊州,於陣見害。追贈中書侍郎。子湛之。

逵之の子 湛之

原文逵之子 湛之

湛之は字を孝源とし、幼くして孤となり、武帝に愛された。常に江夏王義恭と共に寝食して帝の側を離れなかった。永初三年、詔して公主は一門の嫡長であり、且つ湛之は致節の胤であることを以て、枝江県侯に封ぜられた。数歳の時、弟の淳之と共に車に乗って行き、牛が奔って車が壊れ、左右の人が馳せ来たりて赴いた。湛之は先ず弟を取るよう命じ、衆皆その幼くして識有るを歎いた。長じて頗る文義に渉り、自ら位を待つに善くし、祖母及び母に事えること孝を以て聞こえた。

原文湛之字孝源,幼孤,為武帝所愛。常與江夏王義恭寢食不離帝側。永初三年,詔以公主一門嫡長,且湛之致節之胤,封枝江縣侯。數歲與弟淳之共車行,牛奔車壞,左右人馳來赴之。湛之先令取弟,眾咸歎其幼而有識。及長頗涉文義,善自位待,事祖母及母以孝聞。

元嘉年中、黄門侍郎と為す。祖母年老いて、朝直を以て辞して拝せず。後に秘書監を拝した。会稽公主は身長嫡に居り、文帝に礼せられ、家事の大小必ず諮って後に行った。西征して謝晦を討つに、公主をして台内に留止せしめ、六宮を総摂せしめ、毎に意を得ざる有れば、輒ち号哭し、上は甚だ之を憚った。

原文元嘉中,以為黃門侍郎。祖母年老,辭以朝直不拜。後拜秘書監。會稽公主身居長嫡,為文帝所禮,家事大小必諮而後行。西征謝晦,使公主留止台內,總攝六宮,每有不得意,輒號哭,上甚憚之。

初めに、武帝(劉裕)が微賤の時、貧しく陋巷に過ぎ、嘗て自ら新洲に往きて荻を伐ち、納布の衣襖等あり、皆これ敬皇后(武帝の母)の手自ら作る所なり。武帝既に貴くして、この衣を公主に付して曰く、「後世に若し驕奢にして節せざる者あらば、この衣を以て之を示すべし」と。湛之は大将軍彭城王義康に愛せられ、劉湛等と頗る相附す。及び罪を得、事湛之に連なる。文帝大いに怒り、将に大辟に致さんとす。湛之憂懼して計無く、以て公主に告ぐ。公主即日宮に入り、及び文帝に見え、因りて号泣して床より下り、復た臣妾の礼を施さず。錦囊を以て武帝の納衣を盛り、地に擲ちて以て上に示し曰く、「汝が家は本より賤貧なり、此れは我が母の汝が父の為にこの納衣を作る所なり。今日一頓の飽食有りて、便ち我が児子を残害せんと欲す」と。上も亦号泣し、湛之是れよりして全うするを得たり。

原文初,武帝微時,貧陋過甚,嘗自往新洲伐荻,有納布衣襖等,皆是敬皇后手自作。武帝既貴,以此衣付公主曰:「後世若有驕奢不節者,可以此衣示之。」湛之為大將軍彭城王義康所愛,與劉湛等頗相附。及得罪,事連湛之。文帝大怒,將致大辟。湛之憂懼無計,以告公主。公主即日入宮,及見文帝,因號哭下床,不復施臣妾之禮。以錦囊盛武帝納衣,擲地以示上曰:「汝家本賤貧,此是我母為汝父作此納衣。今日有一頓飽食,便欲殘害我兒子。」上亦號哭,湛之由此得全。

再び太子詹事に遷り、尋ねて侍中を加う。湛之は尺牘に善く、音辞流暢なり。貴戚豪強、産業甚だ厚く、室宇園池、貴游及ぶ莫く、伎楽の妙、一時に冠絶す。門生千余、皆三呉の富人の子、姿質端美、衣服鮮麗なり。毎に出入り行游するに、塗巷盈満す。泥雨の日は、悉く後車に載す。文帝毎に其の侈縱を嫌う。時に安成公何勖は無忌の子、臨汝公孟霊休は昶の子なり、並びに奢豪を名づけ、湛之と肴膳器服車馬を以て相尚す。都下之が為に語りて曰く、「安成食、臨汝飾」と。湛之の美は何・孟を兼ぬ。勖は官侍中に至り、追諡して荒公とす。霊休は弾棋に善く、官秘書監に至る。

原文再遷太子詹事,尋加侍中。湛之善尺牘,音辭流暢;貴戚豪強,產業甚厚,室宇園池,貴游莫及,伎樂之妙,冠絕一時。門生千餘,皆三吳富人子,姿質端美,衣服鮮麗。每出入行游,塗巷盈滿。泥雨日,悉以後車載之。文帝每嫌其侈縱。時安成公何勖,無忌之子,臨汝公孟靈休,昶之子也,並名奢豪,與湛之以肴膳器服車馬相尚,都下為之語曰:「安成食,臨汝飾。」湛之美兼何、孟。勖官至侍中,追諡荒公。靈休善彈棋,官至秘書監。

湛之後に丹陽尹に遷り、散騎常侍を加う。公主の憂に因りて拝せず。葬を過ぎ、復た前職を授く。二十二年、范曄等謀反す。湛之始め之と同く、後に其の事を発す。陳ぶる所多く尽さず、曄等の款辞に連なる所と為る。有司湛之を以て逆党に関与し、事起こること積歳、末に乃ち帰り聞く、多く蔽匿有りとし、官を免じ爵を削り、廷尉に付するを請う。上許さず。湛之闕に詣り上疏して罪を請い、以て「初め其の謀に通じ、誘引の辞と為し、曄等並びに怨咎を見、禍陷を相規む。又昔義康南出の始め、臣を勅して入り相伴慰せしめ、殷懃異意、頗る言旨に形る。臣に利刃を遺し、期を通じて会わしむ。臣苦しく相諫譬し、深く拒塞を加え、怨憤の至る所と為し、虞うに足らずと為し、便ち関啓を以てし、虚妄を成すを懼る。納受する為に非ず、曲く相蔽匿す。又令して情を范曄に申しめ、中間の憾を釈し、懐を蕭思話に致し、婚意未だ申さざるを恨む。此の僥倖を謂い、亦宣達せず。陛下天倫を敦惜し、四海に彰れり。蕃禁優簡、親理咸く通ず。又昔眷顧を蒙り、自ら絶つを容れず、音翰信命、時に相往来す。或いは言少くして意多く、旨深くして文浅く、辞色の間、往々測り難し。臣顧み惟るに心邪悖無く、故に稍も以て自ら嫌わず、慺慺たる丹実、具に此の啓の如し。臣雖だ駑下、情木石に匪ず、豈醜点の嬰る難きを知らざらんや、伏剣は易きと為すを、而して靦然として視息し、此の余生を忍ぶは、実に苟くも微命を吝しみ、漏刻を仮延するに非ず。誠に負戾灰滅し、恥を方来に貽すを以て、視息に及び貪り、少しく自ら披訴せんとす。隳放を蒙るを乞い、鈇鑕に伏して待つ」と。上優詔を以て許さず。

原文湛之後遷丹陽尹,加散騎常侍,以公主憂不拜。過葬,復授前職。二十二年,范曄等謀反,湛之始與之同,後發其事,所陳多不盡,為曄等款辭所連。有司以湛之關豫逆黨,事起積歲,末乃歸聞,多有蔽匿,請免官削爵,付廷尉。上不許。湛之詣闕上疏請罪,以為「初通其謀,為誘引之辭,曄等並見怨咎,規相禍陷。又昔義康南出之始,敕臣入相伴慰,殷懃異意,頗形言旨。遺臣利刃,期以際會。臣苦相諫譬,深加拒塞,以為怨憤所至,不足為虞,便以關啟,懼成虛妄。非為納受,曲相蔽匿。又令申情范曄,釋中間之憾,致懷蕭思話,恨婚意未申。謂此僥倖,亦不宣達。陛下敦惜天倫,彰于四海,蕃禁優簡,親理咸通。又昔蒙眷顧,不容自絕,音翰信命,時相往來。或言少意多,旨深文淺,辭色之間,往往難測。臣顧惟心無邪悖,故不稍以自嫌,慺慺丹實,具如此啟。臣雖駑下,情匪木石,豈不知醜點難嬰,伏劍為易,而靦然視息,忍此餘生,實非苟吝微命,假延漏刻。誠以負戾灰滅,貽恥方來,貪及視息,少自披訴。乞蒙隳放,伏待鈇鑕。」上優詔不許。

二十四年、服闋し、転じて中書令・太子詹事、出でて南兗州刺史と為る。善政倶に肅なり、威恵並びに行わる。広陵旧に高楼有り、湛之更に之を修整し、南に鍾山を望む。城北に陂澤有り、水物豊盛なり。湛之更に風亭・月観、吹台・琴室を起こし、果竹繁茂し、花薬行を成す。文士を招集し、遊玩の適を尽くす。時に沙門釈恵休有りて属文に善く、湛之之と甚だ厚し。孝武命して還俗せしむ。本姓は湯、位揚州従事史に至る。

原文二十四年,服闋,轉中書令、太子詹事,出為南兗州刺史。善政俱肅,威惠並行。廣陵舊有高樓,湛之更修整之,南望鍾山。城北有陂澤,水物豐盛,湛之更起風亭、月觀,吹台、琴室,果竹繁茂,花藥成行。招集文士,盡遊玩之適。時有沙門釋惠休善屬文,湛之與之甚厚。孝武命使還俗。本姓湯,位至揚州從事史。

二十六年、湛之入りて丹陽尹・領太子詹事と為る。二十七年、魏太武帝瓜歩に至る。湛之皇太子と分かち石頭を守る。二十八年、魯爽兄弟部曲ぶきょくを率いて来奔す。爽等は軌の子なり。湛之之を以て廟算特に奨納する所と為し、敢えて苟くも私怨を申さず、田里に屏するを乞う。許さず。

原文二十六年,湛之入為丹陽尹、領太子詹事。二十七年,魏太武帝至瓜步,湛之與皇太子分守石頭。二十八年,魯爽兄弟率部曲來奔,爽等軌子也,湛之以為廟算特所獎納,不敢苟申私怨,乞屏田里。不許。

転じて尚書僕射、護軍将軍を領す。時に尚書令何尚之は湛之の国戚を以て、任遇隆重なり、朝政を以て之に推さんと欲す。湛之は令事総べざる無きを以て、又以て事を尚之に帰す。互いに推委し、御史中丞袁淑奏して並びに免官せしむ。詔乃ち湛之と尚之をして並びに辞訴を受けしむ。尚之令と為るも、而して朝事悉く湛之に帰す。

原文轉尚書僕射,領護軍將軍。時尚書令何尚之以湛之國戚,任遇隆重,欲以朝政推之。湛之以令事無不總,又以事歸尚之。互相推委,御史中丞袁淑奏並免官。詔乃使湛之與尚之並受辭訴。尚之雖為令,而以朝事悉歸湛之。

初め、劉湛誅せられ、殷景仁卒し、文帝沈演之・庾仲文・范曄等を任じ、後又江湛・何瑀之有り。曄誅せられ、仲文免ぜられ、演之・瑀之並びに卒してより、是に至り江湛吏部尚書と為り、湛之と並び権要に居り、世之を江・徐と謂う。上毎に疾有れば、湛之輒ち医薬に侍す。

原文初,劉湛伏誅,殷景仁卒,文帝任沈演之、庾仲文、范曄等,後又有江湛、何瑀之。自曄誅,仲文免,演之、瑀之並卒,至是江湛為吏部尚書,與湛之並居權要,世謂之江、徐。上每疾,湛之輒侍醫藥。

二凶巫蠱の事発す。上劭を廃し、浚に死を賜わんと欲す。而して孝武寵無く、故に累ねて外藩に出で、都下に停まるを得ず。南平王鑠・建平王宏並びに愛せられ、而して鑠の妃は即ち湛の妹なり。湛上を勧めて之を立てしめ、鑠を征して寿陽より朝に入らしむ。至りて又失旨し、宏を立てんと欲す。其の次に非ざるを嫌い、議久しく決せず。湛之と議し、或いは連日累夕す。毎夜、湛之をして自ら燭を執り壁を繞りて検行せしめ、窃聴する者有るを慮う。劭入りて之を弑するの旦、其の夕上湛之と人を屏して語り、暁に至るも猶未だ燭を滅さず。湛之驚き起ちて北戸に趣くも、未だ開くに及ばずして害せらる。時に年四十四。孝武即位し、司空を追贈し、諡して忠烈公と曰う。子聿之は元凶に殺さる。聿之の子孝嗣。

原文二凶巫蠱事發,上欲廢劭,賜浚死,而孝武無寵,故累出外藩,不得停都下。南平王鑠、建平王宏並被愛,而鑠妃即湛妹,湛勸上立之,征鑠自壽陽入朝。至又失旨,欲立宏,嫌其非次,議久不決。與湛之議,或連日累夕。每夜,使湛之自執燭繞壁檢行,慮有竊聽者。劭入弑之旦,其夕上與湛之屏人語,至曉猶未滅燭。湛之驚起趣北戶,未及開,見害,時年四十四。孝武即位,追贈司空,諡曰忠烈公。子聿之為元凶所殺。聿之子孝嗣。

湛之の孫 孝嗣

原文湛之孫 孝嗣

孝嗣は字を始昌とす。父害せらる。孝嗣孕に在り。母年少にして、更に行かんと欲し、子有るを願わず。自ら床より地に投ずること算無く、又以て擣衣杵を以て其の腰を舂き、並びに堕胎の薬を服すも、胎更に堅し。及び生まる。故に小字を遺奴とす。

原文孝嗣字始昌。父被害,孝嗣在孕,母年少,欲更行,不願有子,自床投地者無算,又以擣衣杵舂其腰,並服墮胎藥,胎更堅。及生,故小字遺奴。

幼にして挺立す。八歳にして爵枝江県公を襲い、宋孝武に見え、階を升りて流涕し、席に就くに迄る。帝甚だ之を愛し、康楽公主に尚し、駙馬都尉を拝す。泰始中、殿に登るに韎を著けざるを以て、書侍御史蔡准の奏する所と為り、金二両を罰せらる。

原文幼而挺立。八歲襲爵枝江縣公,見宋孝武,升階流涕,迄于就席。帝甚愛之,尚康樂公主,拜駙馬都尉。泰始中,以登殿不著韎,為書侍御史蔡准所奏,罰金二兩。

孝嗣の姑は東莞劉舍に適す。舍の兄蔵は尚書左丞と為る。孝嗣往きて之に詣る。蔵退きて舍に謂いて曰く、「徐郎は令僕の人、三十余にして知るべし。汝宜しく善く自ら結ぶべし」と。升明中、斉高帝の驃騎従事中郎と為り、南彭城太守を帯び、転じて太尉諮議参軍と為る。斉建元初、累ねて遷りて長兼侍中と為る。趨歩に善く、容止に閑なり。太宰褚彦回と相埒す。尚書令王儉人に謂いて曰く、「徐孝嗣将来必ず宰相と為らん」と。転じて御史中丞と為る。武帝儉に問いて曰く、「誰か卿に継ぐべき」と。儉曰く、「臣が東都の日、其れ徐孝嗣に在らんか」と。

原文孝嗣姑適東莞劉舍,舍兄藏為尚書左丞,孝嗣往詣之。藏退謂舍曰:「徐郎是令僕人,三十餘可知,汝宜善自結。」升明中,為齊高帝驃騎從事中郎,帶南彭城太守,轉太尉諮議參軍。齊建元初,累遷長兼侍中。善趨步,閑容止,與太宰褚彥回相埒。尚書令王儉謂人曰:「徐孝嗣將來必為宰相。」轉御史中丞。武帝問儉曰:「誰可繼卿?」儉曰:「臣東都之日,其在徐孝嗣乎。」

出でて呉興太守と為る。儉孝嗣に四言詩を贈りて曰く、「方軌叔茂、清きを追う彦輔、柔も亦茹わず、剛も亦吐さず」と。時人これを以て蔡子尼の行状に比す。郡に在りて能名有り。

原文出為吳興太守,儉贈孝嗣四言詩曰:「方軌叔茂,追清彥輔,柔亦不茹,剛亦不吐。」時人以比蔡子尼之行狀也。在郡有能名。

王儉が亡くなると、上(武帝)は孝嗣を召し出して五兵尚書とした。その年、江左以来の儀典を撰修するよう詔勅が下り、孝嗣に諮問して受けさせた。翌年、太子詹事に転じた。武帝に従って方山に行幸した。上は言った、「朕はこの山の南に経営を始め、また離宮とすべきである。霊丘を超えるべきであろう」。霊丘山湖とは、新林苑のことである。孝嗣は答えて言った、「黄山をめぐり、牛首に至るは、盛漢の事なり。今、江南は未だ広からず、願わくは陛下少し留神を加えられよ」。上はそこでやめた。竟つい陵王の子良は彼を非常に良くした。吏部尚書、右軍将軍を歴任し、太子左衛率を兼任し、台閣の事は多く彼に委ねられた。

原文王儉亡,上征孝嗣為五兵尚書。其年,敕撰江左以來儀典,令諮受孝嗣。明年,遷太子詹事。從武帝幸方山。上曰:「朕經始此山之南,復為離宮,應有邁靈丘。」靈丘山湖,新林苑也。孝嗣答曰:「繞黃山,款牛首,乃盛漢之事。今江南未廣,願陛下少更留神。」上乃止。竟陵王子良甚善之。曆吏部尚書,右軍將軍,領太子左衛率,台閣事多以委之。

武帝が崩御し、遺詔によって尚書右僕射とされた。隆昌元年、丹陽尹となった。明帝が郁林王を廃そうと謀り、側近の莫智明を遣わして孝嗣に告げると、孝嗣は旨を奉じて少しもためらうことなく、すぐに家に帰って太后の令を草した。明帝が殿中に入ると、孝嗣は戎服を着てその後ろに従った。郁林王が死んだ後、明帝は太后の令を必要としたので、孝嗣は袖の中から取り出して奏上した。帝は大いに喜んだ。当時、高帝・武帝の子孫を皆誅殺すべきとの議論があったが、孝嗣は強くこれを保持したので、無事であった。廃立の功により、枝江県侯に封ぜられ、甲仗五十人が殿中に入ることを許された。左僕射に転じた。明帝が即位すると、爵位を公に進められ、班剣二十人を与えられ、兵百人が加えられた。旧制では三公を拝する時のみ臨軒の礼を行ったが、この時、帝は特に詔して陳顕達・王晏とともに臨軒で拝授させた。当時王晏が尚書令であったが、人望は孝嗣に及ばず、王晏が誅殺されると、孝嗣は尚書令に転じた。孝嗣は文学を愛好し、器量は弘雅であり、権勢を以て自ら尊ぶことがなかったので、明帝の世に容れられたのである。

原文武帝崩,遺詔以為尚書右僕射。隆昌元年,為丹陽尹。明帝謀廢郁林,遣左右莫智明以告孝嗣,孝嗣奉旨無所厘替,即還家草太后令。明帝入殿,孝嗣戎服隨後。郁林既死,明帝須太后令,孝嗣於袖出而奏之,帝大悅。時議悉誅高、武子孫,孝嗣堅保持之,故得無恙。以廢立功,封枝江縣侯,甲仗五十人入殿。轉左僕射。明帝即位,進爵為公,給班劍二十人,加兵百人。舊拜三公乃臨軒,至是,帝特詔與陳顯達、王晏並臨軒拜授。時王晏為令,人情物望不及孝嗣,晏誅,轉尚書令。孝嗣愛好文學,器量弘雅,不以權勢自居,故見容明帝之世。

初め率府にいた時、昼に斎舎の北壁の下で臥していると、二人の童子が急に現れて言った、「公の床を移せ」。孝嗣が驚いて起き上がると、壁に音がするのを聞き、数歩歩いたところで壁が崩れ落ちて床を押し潰した。建武四年、本官のまま開府儀同三司に任ぜられたが、辞退して受けなかった。

原文初在率府,晝臥齋北壁下,夢兩童子遽云:「移公床。」孝嗣驚起,聞壁有聲,行數步而壁崩壓床。建武四年,即本號開府儀同三司,讓不受。

当時、連年魏軍が動き、国用は虚乏していたので、孝嗣は上表して屯田を立てることを奏請した。帝は既に病臥しており、兵事も終わらなかったので、結局行われなかった。帝が崩御すると、遺託を受け、開府の命を重ねて申し渡され、中書監を加えられた。永元の初めに輔政し、尚書下省から出て宮城の南の邸宅に住み、家に帰ることができなかった。帝が徳を失っても、孝嗣は諫めることができなかった。江祏が誅殺されると、内心憂い恐れたが、表には出さなかった。始安王の遙光が反乱を起こすと、人々は惶惑したが、孝嗣が宮中に入るのを見てようやく安堵した。しかし、群小が政権を握り、制御することができなかった。

原文時連年魏軍動,國用虛乏,孝嗣表立屯田。帝已寢疾,兵事未已,竟不行。及崩,受遺托,重申開府之命,加中書監。永元初輔政,自尚書下省出住宮城南宅,不得還家。帝失德,孝嗣不敢諫;及江祏誅,內懷憂恐,然未嘗表色。始安王遙光反,眾懷惶惑,見孝嗣入宮乃安,然群小用事,不能制也。

当時、孝嗣は帝がついに天常を乱すと考え、沈文季とともに南掖門にいた。文季を誘って門を以て応じようとし、四、五度目で合図したが、文季はいつも他の話題でごまかしたので、孝嗣はやめた。司空に進位したが、固辞した。丹陽尹の職を解くことを請うたが、許されなかった。孝嗣は文人であり、同異を顕わにせず、名位は大きかったが、故に禍に及ばずに済んだ。虎賁中郎将の許准は胆力があり、事の機微を説き、廃立を行うよう勧めた。孝嗣はためらい、必ずや干戈を用いる理はない、少主が出遊するのを待ち、城門を閉ざし、百官を召集して議し廃するべきだと言った。この考えはあったが、ついに決断できなかった。群小も次第に孝嗣を憎み、帝に除くよう勧めた。その冬、孝嗣が華林省に入ると、茹法珍を遣わして薬を賜り、孝嗣は容色を変えず、沈昭略に言った、「始安王の件で、私は門を以て応じようとした。賢叔おじもし同じくしていたならば、今日の恨みはなかったであろう」。少し酒が飲めたが、薬を一斗余り飲んでようやく死んだ。そこで詔を下して誅殺したと言い渡した。この時、殺された者は皆、その蝉冕(冠)を奪い、衣服を剥いだ。衆情は元より孝嗣を敬っていたので、侵されることはなかった。

原文時孝嗣以帝終亂天常,與沈文季俱在南掖門,欲要文季以門為應,四五目之,文季輒亂以他語,孝嗣乃止。進位司空,固讓。求解丹陽尹,不許。孝嗣文人,不顯同異,名位雖大,故得未及禍。虎賁中郎將許准有膽力,陳說事機,勸行廢立。孝嗣遲疑,謂必無用干戈理,須少主出遊,閉城門,召百僚集議廢之。雖有此懷,終不能決。群小亦稍憎孝嗣,勸帝除之。其冬,孝嗣入華林省,遣茹法珍賜藥,孝嗣容色不異,謂沈昭略曰:「始安事,吾欲以門應之,賢叔若同,無今日之恨。」少能飲酒,飲藥至鬥余方卒,乃下詔言誅之。于時凡被殺者,皆取其蟬冕,剝其衣服。眾情素敬孝嗣,得無所侵。

長子の演は、斉の武帝の娘である武康公主を娶り、太子中庶子の位にあり、第三子の況は、明帝の娘である山陰公主を娶り、ともに駙馬都尉に拝され、共に殺害された。

原文長子演,尚齊武帝女武康公主,位太子中庶子,第三子況,尚明帝女山陰公主,並拜駙馬都尉,俱見殺。

孝嗣が誅殺された時、人々は恐れて敢えて赴く者はいなかったが、ただ会稽の魏溫仁だけが駆けつけ、私財を以て喪事を営んだ。当時、これを称えられた。

原文孝嗣之誅,眾人懼,無敢至者,唯會稽魏溫仁奔赴,以私財營喪事,當時稱之。

初め、孝嗣が故封に復した時、旧吏の呉興の丘叡に占わせ、何代伝わるかを問うた。叡は言った、「怨みは身の尊きを終えず」。孝嗣の容色は甚だ悪く、ゆっくりと言った、「この慮いがあるからこそ、卿に決めさせたのだ」。

原文初,孝嗣復故封,使故吏吳興丘叡筮之,當傳幾世。叡曰:「怨不終尊身。」孝嗣容色甚惡,徐曰:「緣有此慮,故令卿決之。」

中興元年、和帝は孝嗣に太尉を追贈した。二年、宣徳太后を改葬し、詔して班剣四十人を増やし、羽葆・鼓吹を加え、諡して文忠とし、余幹県公に改封した。

原文中興元年,和帝贈孝嗣太尉。二年,改葬宣德太后,詔增班劍四十人,加羽葆、鼓吹,諡曰文忠,改封餘幹縣公。

子の緄は梁に仕え、侍中、太常、信武将軍の位に至り、諡して頃子といった。

原文子緄,仕梁,位侍中,太常,信武將軍,諡頃子。

緄の子、君蒨、字は懷簡、幼くして聡明で学問を好み、特に丁部の書(集部)に長じ、問えば答えられないことはなかった。弦歌を善くし、梁の湘東王の鎮西諮議参軍となった。頗る声色を好み、侍妾数十人、皆金翠を佩き、羅綺を曳き、服玩は悉く金銀を用いた。酒を数升飲むと酔い、門を閉じて終日酣歌した。歓謔に遇うごとに、一斗飲むこともあった。時に伎を乗せて肆意に遊行し、荊楚の山川、靡く(ことごとく)践まざるはなかった。朋従の游好も、彼を見ることができなかった。当時、襄陽の魚弘も豪侈をもって称せられ、そこで府中の謡に「北路に魚あり、南路に徐あり」と言った。しかしその服玩は魚弘に次いでいた。

原文緄子君蒨字懷簡,幼聰朗好學,尤長丁部書,問無不對。善弦歌,為梁湘東王鎮西諮議參軍。頗好聲色,侍妾數十,皆佩金翠,曳羅綺,服玩悉以金銀。飲酒數升便醉,而閉門盡日酣歌。每遇歡謔,則飲至鬥。有時載伎肆意遊行,荊楚山川,靡不畢踐。朋從游好,莫得見之。時襄陽魚弘亦以豪侈稱,於是府中謠曰:「北路魚,南路徐。」然其服翫次於弘也。

君蒨は辞令に弁があり、湘東王が嘗て軍を出した時、婦人を連れて従う者がいた。王は言った、「才は李陵に愧じ、未だ女子を先に誅する能わず。将は孫武に非ず、遂に戦う婦人を駆らんと欲す」。君蒨は応声して言った、「項籍は壮士なり、猶お虞兮の愛あり。紀信は成功す、亦た姬人の力を資たすく」。君蒨の文は一府に冠たり、特に軽艶の才を持ち、新声巧変、人多く諷習したが、竟に官で卒した。

原文君蒨辯於辭令,湘東王嘗出軍,有人將婦從者。王曰:「才愧李陵,未能先誅女子,將非孫武,遂欲驅戰婦人。」君蒨應聲曰:「項籍壯士,猶有虞兮之愛,紀信成功,亦資姬人之力。」君蒨文冠一府,特有輕豔之才,新聲巧變,人多諷習,竟卒於官。

傅亮

原文傅亮

傅亮、字は季友、北地霊州の人、晋の司隸校尉傅咸の玄孫である。父の瑗は学業をもって知られ、安成太守の位に至った。瑗は郗超と親しく、超は常に瑗を訪れ、二人の子、迪及び亮を見た。亮が四、五歳の時、超は人に命じて衣を解かせて持って行かせたが、初めから惜しむ色がなかった。超は瑗に言った、「卿の小児は才名位宦、兄を遠く超えるであろう。しかし家を保つのは終に大なる者に在り」。迪、字は長猷、宋の初めに五兵尚書で終わり、太常を追贈された。

原文傅亮字季友,北地靈州人,晉司隸校尉咸之玄孫也。父瑗以學業知名,位至安成太守。瑗與郗超善,超常造瑗,見二子迪及亮。亮年四五歲,超令人解衣使持去,初無吝色。超謂瑗曰:「卿小兒才名位宦當遠踰于兄,然保家終在大者。」迪字長猷,宋初終五兵尚書,贈太常。

亮は経史に広く渉猟し、特に文辞を善くした。義熙年中、累遷して中書黄門侍郎となり、西省に直した。宋の武帝はその久しく直する勤労を以て、東陽郡の太守にしようと考えた。先ず迪に話すと、迪は大喜びで亮に告げた。亮は答えず、すぐに馳せて武帝に会い、出ることを好まないと陳べた。帝は笑って言った、「卿が俸禄を必要とすると思っていたが、このようにできるとは、甚だ望みに叶う」。太尉従事中郎とし、記室を掌らせた。宋国が初めて建てられると、侍中に除かれ、世子中庶子を領し、中書令を加えられた。寿陽に還るのに従い、武帝は受禅の意があったが、発言することを難しくし、朝臣を集めて宴飲し、従容として言った、「桓玄が暴虐に篡奪し、鼎命は既に移った。我が首めて大義を唱え、皇室を興復した。今年時衰暮し、京師に帰り老いんと欲す」。群臣はただ盛んに功德を称えるのみで、この意を悟る者はなかった。亮はその旨を悟り、日が暮れて宮門が既に閉じられた時、扉を叩いて請見し言った、「臣は暫く都に還るべきです」。帝はその意を知り、他の言葉はなく、ただ言った、「幾人の者を送る必要があるか」。亮は言った、「数十人必要です」。そこで辞を奉じた。出てみると、夜に長星が天を竟(わた)るのを見て、髀を叩いて言った、「我は常に天文を信じなかったが、今始めて験あり」。亮が都に至ると、すぐに帝を征して輔政に入らせた。

原文亮博涉經史,尤善文辭。義熙中,累遷中書黃門侍郎,直西省。宋武帝以其久直之勤勞,欲以為東陽郡。先以語迪,大喜告亮,亮不答,即馳見武帝,陳不樂出。帝笑曰:「謂卿須祿耳,能如此,甚協所望也。」以為太尉從事中郎,掌記室。宋國初建,除侍中,領世子中庶子,加中書令。從還壽陽,武帝有受禪意,而難於發言,乃集朝臣宴飲,從容曰:「桓玄暴篡,鼎命已移,我首唱大義,興復皇室,今年時衰暮,欲歸老京師,」群臣唯盛稱功德,莫曉此意。亮悟旨,日晚宮門已閉,叩扉請見曰:「臣暫宜還都。」帝知意,無復他言,直云:「須幾人自送?」亮曰:「須數十人。」於是奉辭。及出,夜見長星竟天,拊髀曰:「我常不信天文,今始驗矣。」亮至都,即征帝入輔。

永初元年、太子詹事を加えられ、建城県公に封ぜられ、中書省に入り直し、詔命を専ら掌る。亮が国権を総任するに当たり、省中において客を見ることを聴された。神獣門の外には、毎朝車が常に数百輛あった。武帝が登庸された初め、文筆は皆参軍の滕演によるものであり、北征して広固を攻めた時は、悉く長史の王誕に委ねたが、此れ以降受命に至るまで、表策文誥は皆亮の辞であった。演は字を彦将といい、南陽西鄂の人、位は秘書監に至った。

原文永初元年,加太子詹事,封建城縣公,入直中書省,專典詔命。以亮任總國權,聽於省見客。神獸門外,每旦車常數百兩。武帝登庸之始,文筆皆是參軍滕演,北征廣固,悉委長史王誕,自此之後至於受命,表策文誥,皆亮辭也。演字彥將,南陽西鄂人,位至秘書監。

二年、亮に尚書僕射を加える。帝が不豫に陥ると、徐羨之・謝晦と共に顧命を受け、班剣二十人を給された。少帝が即位すると、中書監・尚書令に進み、護軍将軍を領した。

原文二年,加亮尚書僕射。及帝不豫,與徐羨之、謝晦並受顧命,給班劍二十人。少帝即位,進中書監、尚書令,領護軍將軍。

少帝が廃されると、亮は文帝を奉迎し、行台を江陵城南に立て、題して大司馬門とし、行台の百官を率いて門に詣でて表を拝し、威儀甚だ盛んであった。文帝が下向せんとするに当たり、亮を引見し、哭泣哀痛して左右を動かした。既にして義真及び少帝の薨去と廃立の本末を問うと、悲号嗚咽し、侍側する者は仰ぎ見る者なく、亮は流汗して背に沾い答えることが出来なかった。ここにおいて腹心を到彦之・王華等に布いた。都に至ると、徐羨之が帝を誰に比すべきかと問うと、亮は「晋の文・景以上の人物である」と言った。羨之は「必ずや我が赤心を明らかにしてくれるだろう」と言うと、亮は「そうではない」と言った。

原文少帝廢,亮奉迎文帝,立行台于江陵城南,題曰大司馬門,率行台百僚詣門拜表,威儀甚盛。文帝將下,引見亮,哭泣哀動左右。既而問義真及少帝薨廢本末,悲號嗚咽,侍側者莫能仰視,亮流汗沾背不能答。於是布腹心於到彥之、王華等。及至都,徐羨之問帝可方誰?亮曰:「晉文、景以上人。」羨之曰:「必能明我赤心。」亮曰:「不然。」

文帝が即位すると、左光禄大夫・開府儀同三司を加えられる。司空府の文武は即座に左光禄府となり、始興郡公に爵を進められたが、固く辞して進封を譲った。

原文及文帝即位,加左光祿大夫、開府儀同三司。司空府文武即為左光祿府,進爵始興郡公,固讓進封。

元嘉三年、帝が亮を誅殺せんとし、先ず呼び入れて見ようとしたが、省中に密かにこれを報ずる者があった。亮は嫂の病を理由に暫く帰ると辞し、信を遣わして徐羨之に報じ、因って車に乗って郭門を出で、馬に騎って兄の迪の墓に奔った。屯騎校尉の郭泓がこれを収捕した。初めて広莫門に至った時、上も亦た詔を持って使者を遣わし、「公の江陵における誠意を以て、諸子を恙無からしめん」と謂わしめた。亮は詔を読み終えて言った、「亮は先帝の布衣の眷顧を受け、遂に顧托を蒙った。昏きを黜け明きを立てるは、社稷の計である。罪を加えんと欲すれば、其れ辞なからんや」と。ここにおいて誅殺され、妻子は建安に流された。

原文元嘉三年,帝將誅亮,先呼入見,省內密有報之者。亮辭以嫂病暫還,遣信報徐羨之,因乘車出郭門,騎馬奔兄迪墓。屯騎校尉郭泓收之。初至廣莫門,上亦使以詔謂曰:「以公江陵之誠,當使諸子無恙。」亮讀詔訖曰:「亮受先帝布衣之眷,遂蒙顧托。黜昏立明,社稷之計。欲加之罪,其無辭乎。」於是伏誅,妻子流建安。

亮の貴盛たる時、兄の迪は常に深く誡めたが、従うことが出来なかった。世路の屯険を見るに及び、演慎と名付ける論を著した。少帝が徳を失うに及び、内に憂懼を懐いた。禁中に直宿し、夜蛾が燭に赴くのを見て、感物賦を作り以て意を寄せた。初めて大駕を奉じた時、道路で詩三首を賦し、其の一篇に悔懼の辞があった。傾覆することを自ら知り、退くを求むるも由なく、又た辛有・穆生・董仲道の賛を作り、其の微を見るの美を称えたという。

原文亮之方貴,兄迪每深誡焉,而不能從。及見世路屯險,著論名曰演慎。及少帝失德,內懷憂懼。直宿禁中,睹夜蛾赴燭,作感物賦以寄意。初奉大駕,道路賦詩三首,其一篇有悔懼之辭。自知傾覆,求退無由,又作辛有、穆生、董仲道贊,稱其見微之美云。

族兄 隆

原文族兄 隆

隆は字を伯祚といい、亮の族兄である。曾祖は晞、司徒属であった。父祖は共に早く卒した。隆は少くして孤貧であったが、学行があった。義熙初年、四十歳で孟昶の建威参軍となり、累遷して尚書左丞となった。族弟の亮が僕射となったため、緦服の親は互いに臨むことが出来ず、太子率更令に転じた。

原文隆字伯祚,亮族兄也。曾祖晞,司徒屬。父祖並早卒。隆少孤貧,有學行。義熙初,年四十,為孟昶建威參軍,累遷尚書左丞。以族弟亮為僕射,緦服不得相臨,徙太子率更令。

元嘉初年、御史中丞となり、司直の体を甚だ得て、司徒左長史に転じた。会稽剡県の人黄初の妻趙が息の載の妻王を打ち殺し、赦に遇った。王には父母及び男の称、女の葉があり、法に依り趙を二千里外に徙すこととなった。隆が議して言うには、「礼律の興るは、本之自然である。情理を求めれば、天より堕つるに非ず、地より出づるに非ず。父子は至親、形を分かち気を同じくする。称にとっての載は、即ち載にとっての趙である。三世と言えども、体は猶一である。称は創巨痛深きも、固より祖に讎するの義は無い。向使、石厚の子、日磾の孫が、鋒を砥ぎ鍔を挺てて、二祖と天日を同じくして戴かざれば、則ち石碏・秺侯何ぞ百代に名を流すことを得ん。旧令に、人の父母を殺せば、之を二千里外に徙すとあるのは、父子孫祖に施さざる明らかなり。趙は王の期功を避けて千里外に徙すべきのみ。令も亦た云う、凡そ流徙する者、同籍の親近相随いんと欲する者は之を聴くと。此れ又た大いに情理に通じ、親に因りて以て愛を教うるなり。趙既に流移すれば、載は人の子として、何ぞ従わざるを得ん。載が従うのに称が行かざるは、豈に名教の許す所ならんや。此くの如くすれば、称と趙は竟に分かつべからず。趙は内に終身愧じるも、称は沈痛没歯す。孫祖の義は、自ずから永絶すべからず、事理然りなり」と。これに従った。

原文元嘉初,為御史中丞,甚得司直之體,轉司徒左長史。會稽剡縣人黃初妻趙打殺息載妻王遇赦,王有父母及男稱女葉,依法徙趙二千里外。隆議曰:「禮律之興,本之自然。求之情理,非從天墮,非從地出。父子至親,分形同氣,稱之於載,即載之于趙。雖言三世,為體猶一。稱雖創钜痛深,固無讎祖之義。向使石厚之子,日磾之孫,砥鋒挺鍔,不與二祖同戴天日,則石碏、秺侯何得流名百代。舊令言殺人父母,徙之二千里外,不施父子孫祖明矣。趙當避王期功千里外耳。令亦云凡流徙者,同籍親近欲相隨者聽之。此又大通情體,因親以教愛也。趙既流移,載為人子,何得不從?載從而稱不行,豈名教所許?如此,稱、趙竟不可分。趙雖內愧終身,稱沈痛沒齒,孫祖之義,自不得以永絕,事理然也。」從之。

義興太守として出向し、能ある名があった。左戸尚書に拝されたが、正直に節假を受け、人に対し未だ至らぬうちに委ねて出たことを坐し、白衣として職を領した。尋いで太常に転じ、文帝は新たに撰した礼論を隆に付し、更に意見を下すよう命じた。隆は表を上して五十二事を述べた。

原文出為義興太守,有能名。拜左戶尚書,坐正直受節假,對人未至委出,白衣領職。尋轉太常,文帝以新撰禮論付隆,使更下意。隆表上五十二事。

後に致仕し、光禄大夫を拝し、家に帰って老いた。手から巻を釋さず、博学で多通、特に三礼に精しかった。八十三歳で卒した。

原文後致仕,拜光祿大夫,歸老於家。手不釋卷,博學多通,特精三禮。年八十三卒。

檀道済

原文檀道濟

檀道済は、高平金郷の人で、世々京口に住んだ。少くして孤となり、居喪に礼を備え、兄姊に奉じて和謹を以て称された。宋武帝が義を挙げると、道済は兄の韶・祗等と共に従って京城を平げ、俱に武帝の建武将軍事に参じた。累遷して太尉参軍となり、作唐県男に封ぜられた。

原文檀道濟,高平金鄉人也,世居京口。少孤,居喪備禮,奉兄姊以和謹稱。宋武帝建義,道濟與兄韶祗等從平京城,俱參武帝建武將軍事。累遷太尉參軍,封作唐縣男。

義熙十二年、武帝が北伐すると、道済は前鋒となり、至る所風に望んで降服した。径ちに洛陽に進み、議者は獲たる俘囚は、応に悉く戮して京観とすべしと言った。道済は「罪を伐ち人を吊うは、正に今日に在り」と言い、皆釈放して遣わした。ここにおいて中原は感悦し、帰順する者甚だ衆かった。長安が平定されると、琅邪内史とされた。

原文義熙十二年,武帝北伐,道濟為前鋒,所至望風降服。徑進洛陽,議者謂所獲俘囚,應悉戮以為京觀。道濟曰:「伐罪吊人,正在今日。」皆釋而遣之。於是中原感悅,歸者甚眾。長安平,以為琅邪內史。

武帝が受命すると、佐命の功を以て、永修県公に改封され、丹陽尹・護軍将軍の位にあった。武帝が不豫となると、班剣二十人を給された。鎮北将軍・南兗州刺史として出向した。徐羨之等が廃立を謀り、道済を諷して入朝させ、将に廬陵王義真を廃せんとすることを告げた。道済は屡々不可を陳べたが、竟に納れられなかった。帝を廃せんとする夜、道済は領軍府に入り謝晦の許に宿った。晦は悚息して眠ることが出来なかったが、道済は寝ると直ぐに熟睡した。晦は此れを以て之を服した。

原文武帝受命,以佐命功,改封永修縣公,位丹陽尹、護軍將軍。武帝不豫,給班劍二十人。出為鎮北將軍、南兗州刺史。徐羨之等謀廢立,諷道濟入朝,告以將廢廬陵王義真,道濟屢陳不可,竟不納。將廢帝夜,道濟入領軍府就謝晦宿,晦悚息不得眠。道濟寢便睡熟,晦以此服之。

文帝が即位すると、鼓吹一部を賜り、武陵郡公に進封された。進封を固辞した。道済はもとより王弘と親しく、時に寵遇が深まるにつれ、道済はますます結び付き、しばしば羨之らを讒構し、弘もまた雅に彼を頼りとした。上(文帝)は徐羨之らを誅殺せんとし、道済を召して西征させようとした。王華が「不可です」と言うと、上は「道済は人に従う者である。かつては首謀ではなく、慰撫して用いれば、必ずや心配はあるまい」と言った。道済が到着した翌日、上は羨之と傅亮を誅した。その後、道済を中領軍到彦之とともに前駆として西征させ、上は道済に策を問うた。対して「臣はかつて謝晦とともに北征に従い、関中に入る十策のうち、晦は九つを持っていた。才略は明練で、おそらく敵し難い。しかし孤軍で決勝したことはなく、軍事的な事柄はおそらくその長ではない。臣は晦の智を悉く知り、晦は臣の勇を悉く知っている。今、王命を奉じて外討すれば、必ずや陣を成さずに捕らえましょう」と答えた。時に晦はもともと道済が羨之とともに誅されたと思っていたので、突然、上(の軍)に来られたと聞き、ついに戦わずして自ら潰走した。事が平定されると、征南大将軍・開府儀同三司・江州刺史に遷った。

原文文帝即位,給鼓吹一部,進封武陵郡公。固辭進封。道濟素與王弘善,時被遇方深,道濟彌相結附,每構羨之等,弘亦雅仗之。上將誅徐羨之等,召道濟欲使西討。王華曰:「不可。」上曰:「道濟從人者也,曩非創謀,撫而使之,必將無慮。」道濟至之明日,上誅羨之、亮。既而使道濟與中領軍到彥之前驅西伐,上問策於道濟。對曰:「臣昔與謝晦同從北征,入關十策,晦有其九。才略明練,殆難與敵;然未嘗孤軍決勝,戎事恐非其長。臣悉晦智,晦悉臣勇。今奉王命外討,必未陣而禽。」時晦本謂道濟與羨之同誅,忽聞來上,遂不戰自潰。事平,遷征南大將軍、開府儀同三司、江州刺史。

元嘉八年、到彦之が魏を侵し、すでに河南を平定したが、再び失った。道済は征討諸軍事を都督し、北へ略地し、転戦して済水のほとりに至ったが、魏軍が盛んで、ついに滑台を陥とした。道済はこの時、魏軍と三十余戦し多く勝利したが、軍が歴城に至り、物資輸送が尽きたため帰還した。時に降魏した者が詳しく食糧が尽きたと説いたので、士卒は憂い恐れ、固守する志を持つ者はいなかった。道済は夜に籌(算木)を唱えて砂を量り、残り少ない米をその上に散らした。夜が明けると、魏軍は資糧が余りあると思い、それ以上追わず、降伏者の言葉が虚妄であるとして、斬って示し衆に従わせた。

原文元嘉八年,到彥之侵魏,已平河南,復失之。道濟都督征討諸軍事,北略地,轉戰至濟上,魏軍盛,遂克滑台。道濟時與魏軍三十餘戰多捷,軍至曆城,以資運竭乃還。時人降魏者具說糧食已罄,於是士卒憂懼,莫有固志。道濟夜唱籌量沙,以所余少米散其上。及旦,魏軍謂資糧有餘,故不復追,以降者妄,斬以徇。

時に道済の兵は寡弱で、軍中は大いに恐れた。道済はそこで軍士にみな甲冑を着けるよう命じ、自身は白服で輿に乗り、ゆっくりと周囲を巡って出た。魏軍は伏兵があることを恐れ、敢えて迫らず、ついに帰った。道済は河南を平定できなかったが、全軍を保って帰還し、雄名は大いに振るった。魏は彼をひどく畏れ、その像を描いて鬼を鎮めようとした。帰還後、司空に進位し、尋陽に鎮した。

原文時道濟兵寡弱,軍中大懼。道濟乃命軍士悉甲,身白服乘輿,徐出周邊。魏軍懼有伏,不敢逼,乃歸。道濟雖不克定河南,全軍而反,雄名大振。魏甚憚之,圖之以禳鬼。還進位司空,鎮尋陽。

道済は前朝に功を立て、威名が甚だ重く、左右の腹心はみな百戦を経ており、諸子にもまた才気があったので、朝廷は彼を疑い畏れた。時に人々の中には彼を見て「どうして司馬仲達(司馬懿)でないと言えようか」と言う者もいた。

原文道濟立功前朝,威名甚重,左右腹心並經百戰,諸子又有才氣,朝廷疑畏之。時人或目之曰:「安知非司馬仲達也。」

文帝は病臥すること数年、たびたび危殆に陥り、領軍劉湛は朝政を貪り執って、道済が異説を唱えることを慮り、また彭城王劉義康もまた、宮車(帝の崩御)が遅くなれば、道済はもはや制御できなくなることを慮った。十二年、上(文帝)の病が篤くなり、ちょうど魏軍が南伐したので、道済を召して朝廷に入らせた。その妻の向氏が「世に高い勲功は、道家の忌むところです。今、事がないのに召されれば、禍いが至るでしょう」と言った。到着した時、上(文帝)の病はすでに小康状態であった。十三年春、帰鎮させようとし、渚(岸)に下りてまだ出発しないうちに、鷦鳥みそさざいが船に集まり悲しげに鳴くことがあった。ちょうど上(文帝)の病気が再発し、義康が詔を偽って召し出し、祖道(送別の宴)の場で捕らえ、廷尉に引き渡し、その子の給事黄門侍郎檀植・司徒従事中郎檀粲・太子舎人檀混・征北主簿檀承伯・秘書郎中檀尊ら八人をともに誅した。時に人々は歌って「ああ憐れな白浮鳩(檀道済)、無実の罪で檀江州を殺す」と言った。道済が死んだ日、建鄴で地震があり白毛が生えた。また司空参軍薛肜・高進之を誅したが、ともに道済の心腹であった。

原文文帝寢疾累年,屢經危殆,領軍劉湛貪執朝政,慮道濟為異說,又彭城王義康亦慮宮車晏駕,道濟不復可制。十二年,上疾篤,會魏軍南伐,召道濟入朝。其妻向氏曰:「夫高世之勳,道家所忌,今無事相召,禍其至矣。」及至,上已間。十三年春,將遣還鎮,下渚未發,有似鷦鳥集船悲鳴。會上疾動,義康矯詔召入祖道,收付廷尉,及其子給事黃門侍郎植、司徒從事中郎粲、太子舍人混、征北主簿承伯、秘書郎中尊等八人並誅。時人歌曰:「可憐白浮鳩,枉殺檀江州。」道濟死日,建鄴地震白毛生。又誅司空參軍薛肜、高進之,並道濟心腹也。

道済が捕らえられた時、憤怒して気勢が盛んで、目光は炬火のようであり、しばらくして一斛を飲み干した。そして幘(頭巾)を脱ぎ捨て地面に投げつけ、「なんと、お前たちは万里の長城を壊してしまうのか」と言った。魏人がこれを聞き、皆「道済はすでに死んだ。呉の者どもはもはや畏れるに足らない」と言った。これより毎年のように南伐し、長江に馬を飲ませようとする志を持った。

原文道濟見收,憤怒氣盛,目光如炬,俄爾間引飲一斛。乃脫幘投地,曰:「乃壞汝萬里長城。」魏人聞之,皆曰:「道濟已死,吳子輩不足復憚」。自是頻歲南伐,有飲馬長江之志。

文帝が殷景仁に「誰が道済の後を継げるか」と問うと、答えて「道済は累ねて戦功があったからこそ、威名を致しました。他の者はまだ任に堪えません」と言った。帝は「そうではない。昔、李広が朝廷にいた時、匈奴は南を望むことすらできなかった。その後継者にまた幾人いるか」と言った。二十七年、魏軍が瓜歩に至ると、文帝は石頭城に登って望み、甚だ憂色があった。嘆いて「もし道済がいたならば、どうしてここまでなることがあろうか」と言った。

原文文帝問殷景仁曰:「誰可繼道濟?」答曰:「道濟以累有戰功,故致威名,余但未任耳。」帝曰:「不然,昔李廣在朝,匈奴不敢南望,後繼者復有幾人?」二十七年,魏軍至瓜步,文帝登石頭城望,甚有憂色。歎曰:「若道濟在,豈至此!」

兄に檀韶がいる。

原文兄 韶

韶は字を令孫といい、桓玄平定の功により巴丘県侯に封ぜられた。広固征伐に従い、率いる所領を率いて先登し、琅邪内史の位に至った。盧循討伐に従い、功により宜陽県侯に改封され、江州刺史に拝されたが、罪により免官された。

原文韶字令孫,以平桓玄功封巴丘縣侯。從征廣固,率所領先登,位琅邪內史。從討盧循,以功更封宜陽縣侯,拜江州刺史,以罪免。

韶は酒を嗜み貪欲で横暴であり、任地に政績がなく、上(武帝)はその一家が義挙に従ったことを嘉し、道済にもまた大功があったので、特に寵愛して官職を授けた。卒去した。子の臻は字を系宗といい、員外郎の位に至り、臻の子が珪である。

原文韶嗜酒貪橫,所蒞無政績,上嘉其合門從義,道濟又有大功,故特見寵授。卒。子臻字系宗,位員外郎,臻子珪。

道済の孫に檀珪がいる。

原文濟孫 珪

珪は字を伯玉といい、沅南令の位に至った。元徽年中、王僧虔が吏部尚書となった時、珪を征北板行参軍とした。珪は僧虔に禄を求めて得られず、僧虔に手紙を送って「私は一門、文通(文才による通達)には及びませんが、かえって武達(武勇による通達)を辱うけています。一族の従兄弟や叔父・叔母、三度の婚姻で帝室と姻戚となりながら、子や甥を餓死させ、ついに潤いを受けません。蝉の腹や亀の腸のように空っぽで、長い間です。飢えた虎は吼えれば、人はすぐに肉を与え、飢えた麒麟は噛みつかなくとも、誰が毛を落とすでしょうか。たとえ孤微(孤高で微賎)であっても、百世の国士であり、姻戚関係や官位も、他者に劣りはしません。尚書(僧虔)の同堂の姉は江夏王妃であり、檀珪の同堂の姑は南譙王妃です。尚書の伯父は江州刺史であり、檀珪の祖父も江州刺史でした。私は尚書と比べ、人柄や家柄はもともと懸隔がありますが、婚姻や官職についてはいずれも特別な差はありません。今、通塞(出世の有無)は異なりますが、なお同じ気類を辱うけています。尚書はどうしてこのように私を苦しめるのですか」と書いた。僧虔は返書で「私は足下と元来怨みも恨みもない。どうして苦しめようか。ただ、心に左右があるだけだ」と答えた。そして安成郡丞に任用した。

原文珪字伯玉,位沅南令。元徽中,王僧虔為吏部尚書,以珪為征北板行參軍。珪訴僧虔求祿不得,與僧虔書曰:「僕一門雖謝文通,乃忝武達。群從姑叔,三媾帝姻,而令子侄餓死,遂不荷潤。蟬腹龜腸,為日已久。饑彪能嚇,人遽與肉,餓驎不噬,誰為落毛。雖復孤微,百世國士,姻媾位宦,亦不後物。尚書同堂姊為江夏王妃,檀珪同堂姑為南譙王妃;尚書伯為江州,檀珪祖亦為江州。僕于尚書人地本懸,至於婚宦皆不殊絕。今通塞雖異,猶忝氣類,尚書何事為爾見苦。」僧虔報書曰:「吾與足下素無怨憾,何以相苦?直是意有左右耳。」乃用為安成郡丞。

兄に檀祗がいる。

原文兄 祗

祗は字を恭叔といい、兄の韶や弟の道済とともに義挙に参画し、西昌県侯に封ぜられ、広陵相の官を歴任した。義熙十年、亡命の司馬国璠兄弟が北徐州の境界から密かに淮水を渡り、天候が陰暗なのにつけ、夜に百人ほどを率いて広陵城に沿って侵入し、叫びながら真っ直ぐに聴事(役所の正堂)に上った。祗は腿に矢傷を負い、左右に「賊は暗がりにつけ込んで入り、我々の不意を襲おうとしている。ただ五鼓(五更の太鼓)を打って脅かせば、夜が明ければ必ず逃げるだろう」と言った。賊は鼓の音を聞き、まさに夜が明けたと思い、逃げ散り、百余人を追い殺した。

原文祗字恭叔,與兄韶弟道濟俱參義舉,封西昌縣侯,歷位廣陵相。義熙十年,亡命司馬國璠兄弟自北徐州界潛得過淮,因天陰闇,夜率百許人緣廣陵城入,叫喚直上聽事。祗被射傷股,語左右曰:「賊乘暗得入,欲掩我不備,但打五鼓懼之,曉必走矣。」賊聞鼓鳴,直謂為曉,乃奔散,追殺百餘人。

宋国が初めて建てられた時、領軍となった。祗は性質が誇り高く豪放で、外任に在って放恣に過ごすことを好み、内職(朝廷の職)を望まず、志を得ず、発病しても自ら療養せず、その年に広陵で卒去した。諡して威侯といった。封国は嗣子に伝えられたが、斉が禅譲を受けるに至り、国は除かれた。

原文宋國初建,為領軍。祗性矜豪,樂在外放恣,不願內職,不得志,發疾不自療,其年卒於廣陵。諡曰威侯。傳嗣至齊受禪,國除。

論曰。

原文【論】

論じて曰く、晉の綱紀弛みて、主威樹てられず、乱は王室に基き、毒は江左に被る。宋の武帝一朝に創業し、事は横流に属すれども、紊れたる章を改易し、平道に帰す。建武・永平の風を以て、太元・隆安の俗を変ず、これ蓋し文宣公の為すところか。其れ清廟に配饗せらるる、豈に徒然ならんや。若し才を恃みて物に驕るは、公旦すら猶諸を病む所にして、劉祥を以て之に居らしむれば、斯の亡も亦た幸と為すべし。秀の己を行う有道にして、位虚しく授けらるること無しと謂うべし。徐・傅の二公跪きて顧托を承くるに当たり、若し死して再びす可くんば、固より赴蹈を期とすべし。権を処し機を定むるに及び、主を震わすの地に当たり、甫く後禍を攘抑し、身災を禦蔽せんと欲すれども、桐宮に卒迫の痛有り、淮王は中霧の疾に非ず、若し社稷を以て存亡と為さば、則ち義是れに異なり。湛之・孝嗣機に臨みて決せず、既に国を敗り、且つ身を殞す、「反って其の乱を受く」、斯れ其の効なり。道濟始めは録用に因りて、故に瑕を忘るるを得、晩く大名に困り、以て顛覆に至る。韶・祗克く胤嗣を伝う、其れ木雁の間か。」

原文論曰:自晉網不綱,主威莫樹,亂基王室,毒被江左。宋武一朝創業,事屬橫流,改易紊章,歸於平道。以建武、永平之風,變太元、隆安之俗,此蓋文宣公之為乎。其配饗清廟,豈徒然也?若夫怙才驕物,公旦其猶病諸,而以劉祥居之,斯亡亦為幸焉。秀之行己有道,可謂位無虛授。當徐、傅二公跪承顧托,若使死而可再,固當赴蹈為期。及至處權定機,當震主之地,甫欲攘抑後禍,禦蔽身災,使桐宮有卒迫之痛,淮王非中霧之疾,若以社稷為存亡,則義異於此。湛之、孝嗣臨機不決,既以敗國,且以殞身,「反受其亂」,斯其效也。道濟始因錄用,故得忘瑕,晚困大名,以至顛覆。韶、祗克傳胤嗣,其木雁之間乎。」