文帝の子
文帝に十九人の男子あり。元皇后は元凶劭を生み、潘淑妃は始興王濬を生み、路淑媛は孝武帝を生み、呉淑儀は南平穆王鑠を生み、高修儀は廬陵昭王紹を生み、殷修華は竟陵王誕を生み、曹婕妤は建平宣簡王宏を生み、陳修容は東海王褘を生み、謝容華は晉熙王昶を生み、江修容は武昌王渾を生み、沈婕妤は明帝を生み、楊美人は始安王休仁を生み、邢美人は山陽王休佑を生み、蔡美人は海陵王休茂を生み、董美人は鄱陽哀王休業を生み、顔美人は臨慶沖王休倩を生み、陳美人は新野懷王夷父を生み、荀美人は桂陽王休范を生み、羅美人は巴陵哀王休若を生む。紹は出でて廬陵孝獻王義真を継ぐ。
元凶
生まれて三日目、帝往きて之を視るに、簪帽甚だ堅く、風無くして劭の側に墜つ。上悦ばず。初め之を命じて劭と曰う。文に在りては召刀なり。後に之を悪み、刀を力に改む。年六歳、皇太子に拝せらる。中庶子二率永福省に入り直し、為に更に宮を築き、制度厳麗なり。年十二、出でて東宮に居り、黄門侍郎殷淳の女を納れて妃と為す。十三にして元服を加う。史伝を読むを好み、特に弓馬を愛す。及び長ずるに、鬚眉美しく、眼大きく口方く、長さ七尺四寸。親しく宮事を覧み、賓客を延き、意の欲する所、上必ず之に従う。東宮に兵を置くこと羽林と等し。十七年、劭京陵に拝し、大将軍彭城王義康、竟陵王誕、桂陽侯義融並びに従う。
二十七年、上将に北侵せんとす。劭と蕭思話固く諫むも、従わず。魏の太武帝瓜歩に至る。上石頭城に登り、憂色有り。劭曰く、「江湛、徐湛之を斬らざれば、以て天下に謝す無し」と。上曰く、「北伐は我が意よりす、二人に関せず。但だ湛等異ならざるのみ」と。是より江、徐と平らかならず。
上時に本業を務め、宮内をして皆蠶せしめ、以て天下を諷励せんと欲す。女巫嚴道育有り。其の夫劫を為し、坐に因りて奚官に没入せらる。劭の姉東陽公主応に婢王鸚鵡を合う。鸚鵡公主に白して道育の霊に通ずるを言う。主乃ち上に白し、善く蠶すと托け、召し入るるを求む。道育云く、「奉ずる所の天神、当に符応を賜うべし」と。時に主夕べに臥すに、流光相い随うを見る。状螢火の若く、遂に巾箱に入りて化して双珠と為る。円くして青く愛すべし。ここにおいて主及び劭並びに之を信惑す。始興王濬素より佞って劭に事え、並びに過失多し。上知るを慮り、道育に祈請せしめ、過ち上聞せざらしめんと欲す。歌舞咒詛し、昼夜を舎てず。道育輒ち云く、「上天に自ら陳請す、必ず泄露せず」と。劭等敬事し、号して天師と曰う。後遂に巫蠱を為し、玉を刻みて上の形像と為し、含章殿の前に埋む。
初め、東陽公主に奴陳天興有り。鸚鵡養いて以て子と為し、而して之と淫通す。鸚鵡、天興及び寧州の献ずる所の黄門慶国並びに巫蠱の事に関わり、劭天興を以て隊主に補う。東陽主薨ず。鸚鵡応に出嫁すべし。劭言語の泄るるを慮り、浚と之を謀り、濬の府佐呉興沈懷遠に嫁して妾と為す。上に啓せず。事の泄るるを慮り、臨賀公主に因りて微かに之を言う。上後天興の隊を領するを知り、閹人奚承祖を遣わし劭を譲りて曰く、「汝間かに用いる隊主副は儘く是れ奴なるか。嫁さんと欲する者は又いずくに嫁すや」と。劭答えて曰く、「南第昔天興に属し将吏を求めて駆使せしむ。形容粗健なるを視て、便ち兼ねて隊副とす。下人嫁さんと欲する者は猶お処未だ有らず」と。時に鸚鵡既に懷遠に嫁せり。劭懼れ、書して濬に告げ、並びに臨賀主に報ぜしむ。上若し嫁処を問わば、当に未だ定まらずと言わんと。濬答書して曰く、「此の事啓すること多日、今始めて来り問う。当に是れ感発する者有るべし。計るに臨賀故に応に翻覆して言語すべからず、自ら寒熱を生ずるなり。此の姥由来両端を挟み、孤保し難し。正に爾り自ら臨賀に問いて審実を得んことを冀うなり。其れ若し見問せらるれば、当に依違して之に答うべし。天興先に佞人府の位に署す。監上に当に此の簿領無きを審らかにせず。急に宜しく犍くべし。殿下已に王を見たりや。宜しく此に依りて具に令し厳に躬より上啓聞せしむべし。彼人若し已まずと為せば、政に其の余命を促すべく、或いは大慶の漸たるべし」と。凡そ劭、濬相い与に書するに此の類の如し。言う所皆名号と為し、上を「彼人」と謂い、或いは「其」と為し、太尉江夏王義恭を「佞人」と謂う。東陽主の第は西掖門の外に在り、故に「南第」と云う。王は即ち鸚鵡の姓なり。「躬上啓聞」とは、道育をして上天して天神に白せしむるを令すなり。鸚鵡既に懷遠に適す。天興と私通する事の泄るるを慮り、劭に請うて之を殺さしむ。劭密かに人をして天興を害せしむ。既にして慶国往来するは唯だ二人有るを謂い、天興既に死す、将に及ばんことを慮り、乃ち以て上に白す。上驚き惋み、即ち鸚鵡の家を収め、劭、濬の手書を得る。皆咒詛巫蠱の言なり。埋むる所の上の形像を宮内に得る。道育叛き亡ぶ。之を捕うるも得ず。上劭、濬を詰責す。劭、濬唯だ陳謝するのみ。道育服を変えて尼と為り、逃げ匿れて東宮に在り。濬京口に往く、又以て自ら随い、或いは出でて人張旿の家に止る。上江夏王義恭に謂いて曰く、「常に典籍に此れ有るを見る。書伝の空言に謂うと為し、親しく睹ることを意いせざりき。劭南面の日は、復た我及び汝の事に非ず。汝兒子多し、将来此の不幸に遇わん」と。
先ず是れ二十八年、彗星畢、昴より起り、太微に入り、帝坐端門を掃い、翼、軫を滅す。二十九年、熒惑逆行して氐を守り、十一月より霖雨雪を連ね、陽光曜るに罕なり。時に道士范材形術を修練す。是の歳自ら死期を言い、期の如くにして死す。既に殯り、江夏王其の仙なるを疑い、棺を開きて之を視しむるに、首新たに刎ねたるが如く、血背に流る。上聞きて之を悪む。
三十年正月、大風霰を飛ばし且つ雷す。上竊発有るを憂え、輒ち劭に兵を加え、東宮実甲万人。其の年二月、濬京口より入朝し、当に江陵を鎮むべく、復た道育を載せて東宮に還り、将に西上せんと欲す。上に告ぐる者有りて云く、「京口人張旿の家に一尼服食有り、征北の内に出入りす。厳道育に似たり」と。上掩いて二婢を得しむ。云く、「道育征北に随い還都す」と。上惆悵惋駭し、須らく検覆し、劭を廃し濬に死を賜わんとす。初め、濬の母卒す。潘淑妃を命じて養いて以て子と為さしむ。淑妃濬を愛す。濬心附かず。妃寵せらる。上謀を以て之に告ぐ。妃以て濬に告ぐ。濬劭に報ず。因りて異謀有り。毎夜将士を饗し、或いは親しく行酒し、密かに腹心の隊主陳叔兒、齋帥張超之、任建之と之を謀る。
その月二十一日の夜、偽りの詔勅を作り、「魯秀が謀反を企てている。汝は明け方に兵を率いて入城せよ」と言った。そこで張超之らに命じて、平素養っていた士二千余人を集め、皆に甲冑を着させ、「討伐すべきところがある」と言った。夜のうちに前中庶子右軍長史の蕭斌及び左衛率の袁淑、中舍人の殷仲素、左積弩将軍の王正見を召し寄せ、共に参入させ、大事を告げ、自ら起ち上がって蕭斌らに拝礼し、涙を流した。皆驚愕した。翌朝、劉劭は朱色の服を戎服の上に加え、画輪車に乗り、蕭斌と同車し、衛従は平常の入朝の儀式の如く、万春門から入った。旧制では、東宮の隊は城に入ることができなかったが、劉劭は門衛に「詔を受けて収討すべきところがある」と言い、後隊が速やかに来るよう命じた。張超之ら数十人が雲龍東中華門に馳せ入った。斎閣に至ると、刃を抜いて直ちに合殿に上った。文帝はその夜、尚書僕射の徐湛之と人を屏いて語り、明け方になっても燭はまだ消えず、門階戸席には一人も侍衛がいなかった。文帝は机で自らを防いだが、張超之が行って殺害し、文帝の五指は全て落ち、徐湛之も殺された。劉劭が合殿の中合に進むと、文帝は既に崩じていた。出て東堂に坐ると、蕭斌が刀を執って侍直し、中書舎人の顧嘏を呼んだ。顧嘏は恐れて直ちに出ず、到着すると、「共に廃されようとしているのに、何故早く啓上しなかったのか」と問うた。答える間もなく斬った。崇礼闥に人を遣わし、吏部尚書の江湛を殺させた。文帝の左細仗主の卜天与が東堂で劉劭を攻撃し、殺された。また人を遣わして潘淑妃を殺させ、その心臓を剖いて邪正を観た。使者は劉劭の意に阿り、「心は邪である」と答えた。劉劭は「邪佞の心であるから、当然邪なのだ」と言った。また文帝の親信の左右数十人を殺した。急ぎ始興王の劉濬を召し、兵を率いて中堂に屯させた。
劉劭は即ち偽位に即き、参朝した百官は僅か数十人に過ぎず、そこで詔書を作って言った、「徐湛之が弑逆を犯した。吾は兵を率いて殿中に入ったが、既に及ぶところではなかった。今罪人は斯くの如く得られ、元凶は克く殄滅された。大赦を行い、元号を太初と改めるべし」。これは平素から道育と定めていたものである。蕭斌が言った、「旧制では年を踰えて元号を改める」。劉劭は侍中の王僧綽に問うと、王僧綽は言った、「晋の恵帝は即位するとすぐに年号を改めた」。劉劭は喜んでこれに従った。初め蕭斌に詔を作らせたが、蕭斌は文才がないと辞したので、王僧綽に作らせた。初め文帝が崩じる前日の甲夜、太史が奏上した、「東方に急兵あり、その禍は測り難い。万人の兵を太極前殿に列べ、以て災いを銷すべし」。文帝は従わなかった。劉劭の弑逆を聞くと、嘆いて言った、「ほとんど我が事を誤らせるところであった」。そこで太史令に問うた、「我は幾年を得るか」。答えて言った、「十年を得ます」。退いて人に語った、「十旬(百日)だけです」。劉劭はこれを聞いて怒り、追いかけて殺させた。
即位が終わると、直ちに病と称して永福省に還り入り、その後大行皇帝を遷して太極殿に昇らせ、蕭斌を尚書僕射とし、何尚之を司空とした。大行の大斂の際、劉劭は病と称して敢えて出なかった。先に諸所に給した兵仗を悉く収めて武庫に還した。人を遣わして魯秀に言った、「徐湛之は常に汝を危うくしようとしていたが、我已に卿のためにこれを除いた」。魯秀をして屯騎校尉の龐秀之と対にして軍隊を掌らせた。侍中の王僧綽を吏部尚書とし、司徒左長史の何偃を侍中とした。
成服の日、劉劭は殿に登って霊前に臨み、慟哭して自ら持することができなかった。広く公卿を訪ね、政道を詢ね求め、使者を四方に分行させた。浙江以東の五郡を分けて会州とし、揚州を省き、司隷校尉を立て、殷沖をこれに補った。大将軍の江夏王劉義恭を太保とし、司徒の南譙王劉義宣を太尉とした。荊州刺史の始興王劉濬は驃騎将軍に進号し、王僧綽は先に廃立に参与したことを以て誅殺された。長沙王劉瑾の弟の劉楷、臨川王劉燁、桂陽侯劉覬、新渝侯劉玠は、皆宿恨を以て死んだ。礼官は劉劭の意を迎え、文帝の諡を敢えて美称を尽くさず、中宗景皇帝と諡した。南譙王劉義宣、随王劉誕らが義師を起こしたと聞くと、諸王を悉く城内に集めた。江夏王劉義恭を移して尚書下舎に住まわせ、劉義恭の諸子を分けて侍中下省に住まわせた。
四月、妻の殷氏を立てて皇后とした。
孝武帝(劉駿)の檄文が届くと、劉劭は自ら平素武事に習熟していると思い、朝士に言った、「卿らは我を助けて文書を処理せよ、戎陣のことに意を置くな。若し寇難あらば、吾自ら出でん、唯だ賊虜の敢えて動かざるを恐れるのみ」。中外戒厳した。孝武帝の世子を侍中省に監禁し、南譙王劉義宣の諸子を太倉の空屋に監禁した。劉劭は劉濬を使わして孝武帝に書を送り、言った、「上(劉劭)自ら六師を御し、太保(劉義恭)もまた鉞を執って臨統す。吾と烏羊は相尋ねて即ち道に出ん。上聖恩は毎に法師を厚くし、殿内に住まわしむ。想うに弟(劉駿)消息を知らんと欲す、故に及ぶ」。烏羊とは南平王劉鑠、法師とは孝武帝の世子の小名である。
劉劭は三鎮(孝武帝方)の士庶の家族を殺そうとしたが、江夏王劉義恭と何尚之が説いて言った、「凡そ大事を挙ぐる者は、家口を顧みず。且つ多くは駆逼された者である。今忽ちにその余累を誅すれば、正に彼らの意を堅くするのみ」。劉劭は乃ち詔書を下し、一切問わなかった。
劉濬及び蕭斌は劉劭に勧めて水軍を率いて自ら上流で決戦すべしと言ったが、江夏王劉義恭は義兵が倉卒であり、船舫が陋小であるから、水戦に適さないと慮った。そこで策を進めて、「近くに待つに宜しく、遠く出れば則ち京師は空弱となり、東軍(孝武帝軍)が虚に乗じ、容れ能く患いを為さん。鋭を養って期を待つに如かず」と為すべきだと説いた。劉劭はその議を良しとした。蕭斌は厲色して言った、「南中郎(劉駿)は二十歳の年少で、業としてかくの如き大事を建てることができた。豈に復た量り得んや」。劉劭は受け入れなかった。朝廷の旧臣が己のために用いられぬことを疑い、王羅漢、魯秀を厚く撫で、悉く兵事を彼らに委ね、多く珍玩美色を賜ってその志を悦ばせた。王羅漢は先に南平王劉鑠の右軍参軍であったが、劉劭はその将としての用があるとして、故に心膂として委ねた。或る者が劉劭に石頭城を保つよう勧めたが、劉劭は言った、「昔の人が石頭を固くした所以は、諸侯の勤王を俟つためである。我若し此れを守らば、誰か当に救わん。唯だ力戦してこれを決するべし」。日々自ら出でて行軍し、将士を慰労した。有司に奏させて子の劉偉之を皇太子に立てた。
義軍が新亭に至ると、劉劭は朱雀門に登り躬自ら督戦した。将士は劉劭の重賞を懐き、皆そのために力戦した。将に克たんとした時、魯秀が退却の鼓を打ったので、軍は止まり、柳元景らに乗ぜられ、故に大敗した。褚湛之は二子を携え、檀和之と共に帰順した。劉劭は懼れ、走って台城に還った。その夜、魯秀もまた南へ奔った。二十五日、江夏王劉義恭は単騎で南へ奔った。劉劭は劉濬を遣わして劉義恭の諸子を殺させ、輦で蒋侯の神像を宮内に迎え、恩を乞い、大司馬に拝し、鍾山郡王に封じ、蘇侯を驃騎将軍とした。南平王劉鑠に祝文を作らせ、孝武帝を罪状した。二十七日、軒に臨み、子の劉偉之を皇太子に拝し、百官は皆戎服したが、劉劭のみ袞衣を着た。詔書を下して大赦したが、孝武帝、劉義恭、劉義宣、劉誕のみは原赦の例に含めなかった。
五月三日、魯秀らが大航を攻撃し、一艘の船を鉤で得た。王羅漢は昏酣して妓楽を楽しんでいたが、官軍が既に渡ったと聞き、驚いて仗を放り出して帰降した。この夜、劉劭は六門を閉じて守り、門内に塹を鑿ち柵を立て、露車を楼とした。城内は沸き乱れ、将吏は皆城を踰えて出奔した。劉劭は詹叔児に命じて輦及び袞冕服を焼かせた。蕭斌は大航が守られなかったと聞き、惶窘して為すところを知らず、統べる所の者に皆解甲せよと宣令し、尋ねて白幡を戴いて来降し、即ち軍門で誅殺された。
四日、劉劭の腹心の白直諸同逆は先に閶闔門外に屯していたが、皆走って殿中に入った。程天祚は薛安都の副官譚金と共にこれに乗じ、即座に共に入ることができた。臧質は広莫門から入り、太極殿前で一同と会した。即座に太子左衛率王正見を斬り、建平王・東海王ら七王は皆号泣して共に出た。劉劭は西垣を穿って武庫の井戸に入り、副隊の高禽がこれを捕らえた。劉濬は左右数十人を率い、南平王劉鑠と共に西明門から出て、共に南へ奔り、越城で江夏王劉義恭に遇った。劉濬は下馬し、「南中郎(劉義宣)は今どこにおられるか」と言った。義恭は「既に万国を君臨しておられる」と答えた。また字を呼んで「虎頭(劉濬の字)、来たが、遅すぎはしないか」と言うと、義恭は「恨めしいほど遅い」と言った。また「それでもやはり死なずに済むだろうか」と言うと、義恭は「行闕に赴いて罪を請うがよい」と言った。また「まだ一職を得て自ら効力を尽くせるかどうか分からない」と言うと、義恭はまた「これは測りがたい」と言った。義恭は彼を連れて自ら帰順するよう促し、馬上で首を斬るよう命じた。
始興王
初め元皇后は嫉妬深い性質で、潘氏が寵愛を受けたことを恨んで崩御した。故に劉劭は潘氏と劉濬を深く憎んだ。劉濬は将来禍を受けることを憂慮し、曲げて劉劭に仕え、劉劭は彼と遂に親しくなった。多くの過失があり、屡々主上から譲責され、憂い恐れて、劉劭と共に巫蠱を行った。後に京口に出鎮すると、員外散騎侍郎徐爰を通じて江陵を鎮めることを求め、また尚書僕射徐湛之に助力を求めた。しかし尚書令何尚之らは皆、劉濬は太子の次弟であるから、遠く出るべきではないと言った。主上は上流の重鎮には至親がいるべきと考え、故に劉濬を衛将軍・開府儀同三司・荊州刺史とし、都督を加え、護南蛮校尉を領させた。劉濬が入朝すると、京口に還すよう命じ、行留の処分をさせた。京口に着いて数日で巫蠱の事が発覚した。時は二十九年七月である。主上は一日中嘆き、「太子が富貴を図るのはまた一つの道理だが、虎頭(劉濬)までもこのようでは、もはや思慮の及ぶところではない。汝ら母子は一日も私なしでいられようか」と潘淑妃に言った。翌年、荊州赴任の事がようやく行われることになった。二月、劉濬は朝廷に帰った。十四日、臨軒して拝命を受けた。その日、厳道育を匿った事が発覚し、翌朝劉濬が入謝すると、主上の顔色は尋常でなく、その夕方に詰問を加えた。劉濬はただ謝罪した。潘淑妃は劉濬を抱いて泣き、「汝が呪詛の事が発覚した時は、まだ己を刻んで過ちを悔いることを望んでいたのに、どうして突然厳道育を匿ったのか。今日生きていて何の役に立とう、薬を送って来い、私は先ず自ら尽くそう、汝の禍敗を見るに忍びない」と言った。劉濬は衣を振り払って去り、「天下の事はやがて自ら決する、必ずや上(母)に累を及ぼすことはない」と言った。
劉劭が弑逆した朝、劉濬は西州にいた。府舎人朱法瑜が「台内で叫喚があり、宮門は皆閉ざされ、道上では太子の反逆が伝えられており、禍変の及ぶところを測りかねる」と言った。劉濬は驚いたふりをして「今どうすべきか」と言った。劉濬は劉劭からの確報を得ておらず、事が成就したかどうか分からず、騒然としてどうすべきか分からなかった。将軍王慶が「今宮内に変事があり、主上の安否も分からぬ。臣子たる者として、袂を投げて難に赴くべきである」と言ったが、劉濬は聞き入れなかった。やがて劉劭が張超之を馳せさせて劉濬を召すと、劉濬は状況を聞き終えると、即座に戎服を着て馬に乗って去った。朱法瑜は固く劉濬を止めたが、劉濬は従わなかった。中門に至ると、王慶がまた逆に従うべきでないと諫めた。劉濬は「皇太子の令である。敢えてまた言う者は斬る」と言った。入って劉劭に会うと、荀赤松らを殺すよう勧めた。劉劭が劉濬に「潘淑妃は遂に乱兵に害された」と言うと、劉濬は「これは下情(私心)より元来望んでいたところである」と言った。その悖逆はこのようなものであった。劉劭が敗れようとした時、劉劭に海に入るよう勧め、珍宝や繒帛を輦に載せて船に下ろさせた。
劉劭が井戸に入ると、高禽が井戸から彼を引き出した。劉劭が天子はどこにいるかと問うと、高禽は「至尊は近く新亭におられる」と言った。劉劭を殿前に連れて行くと、臧質はこれを見て慟哭した。劉劭は「天地の覆載するところとならぬ者を、丈人はどうして泣いて見られるのか」と言った。臧質はそこで彼の逆状を弁明すると、劉劭は答えて「先朝において冤罪で廃されかけた時、獄中の囚人となることができなかった。蕭斌に計を問うと、斌はこのように勧めたのだ」と言った。また臧質に「遠くに流罪としていただくことはできぬか」と言うと、質は「主上は近く航南におられる。自ら処分があるであろう」と言った。劉劭を馬上に縛り、防送して軍門に至らせた。牙門の下に至ると、鞍に据わって顧み望んだ。太尉江夏王劉義恭と諸王が共に臨んでこれを見ると、義恭は「私は背逆して帰順したが、何の大罪があって、たちまち十二人の児(弟たち)を殺したのか」と言った。劉劭は「諸弟を殺したこの一事が、阿父に背いたことだ」と言った。江湛の妻庾氏が車に乗って罵り、龐秀之もまた譏誚して責めた。劉劭は声を厲して「汝ら輩はまた何と煩わしいことをするのか」と言った。先ず彼の四人の子を殺し、南平王劉鑠に「これに何の関係があろうか」と言って、牙門の下で斬った。刑に臨んで嘆いて「図らずも宋室がこのような有様になるとは」と言った。劉劭・劉濬及びその子らは皆大航で梟首され、市中に屍を曝した。劉劭の妻殷氏は廷尉で賜死され、刑に臨んで獄丞江恪に「汝の家では骨肉が相残し合っているのに、どうして天下の無罪の人を枉げて殺すのか」と言った。恪は「皇后として拝命を受けたことが、罪でなくて何であろう」と言った。殷氏は「これは一時の権宜であった。鸚鵡を后とするはずであった」と言った。劉濬の妻褚氏は、丹陽尹褚湛之の娘である。湛之が南奔した当初、既に離絶されていたので、誅殺を免れた。その他の子女や妾媵は皆獄で賜死された。劉劭・劉濬の屍体を江に投げ込み、その他の同逆者及び王羅漢らは皆誅殺された。張超之は兵が入ったと聞くと、合殿の旧基に至り、御床のあった所で止まり、乱兵に殺され、腹を剖き心を刳り、その肉を臠割し、諸将が生で喰らった。その頭骨を焼いた。時に伝国璽が見えず、劉劭に問うと、厳道育の所にあると言った。行って取り、得た。道育と鸚鵡は共に都の街で鞭打ち殺し、石頭の四望山でその屍を焼き、灰を江に撒いた。劉劭の東宮の住んでいた斎舎を毀ち、その場所を汚池とした。高禽を新陽県男に封じた。潘淑妃を追贈して長寧園夫人とし、守塚を置いた。偽司隸校尉殷沖と丹陽尹尹弘は共に賜死された。沖は劉劭のために即位の符文を草し、また妃(劉劭の妻殷氏)の叔父であったためである。弘は劉劭のために兵士を選び配し、その心力を尽くしたためである。
南平王
二十六年、魏の太武帝が汝南の懸瓠城を包囲した。行汝南太守陳憲は城を保って自ら固守し、魏は高楼を築いて弩を施し城内を射た。城内では戸を背負って水を汲んだ。また仏図を毀ち、金像を取って大鉤とし、衝車の端に施して楼堞を牽かせた。城内に一人の沙門がおり、頗る機知に富み、常に奇策を設けてこれに応じた。魏人は蝦蟆車で塹を埋め、肉薄して城を攻め、死者は城と等しく、遂に屍を登らせて城に陵した。陳憲の鋭気はますます奮い、戦士は一もって百に当たらぬ者はなく、殺傷は万を数え、汝水はこれのために流れなくなった。四十余日相拒するうち、劉鑠は安蛮司馬劉康祖と甯朔将軍臧質を遣わしてこれを救い、魏人は攻具を焼いて退いた。
元凶(劉劭)が帝を弑して立つと、劉鑠を侍中・録尚書事とした。劉劭は宮中に蔣侯の神を迎え、孝武帝の年号と諱を書き出して呪詛し、位号を仮に授けるよう祈請し、劉鑠に策文を作らせた。義軍が宮中に入ると、劉鑠は劉濬と共に孝武帝に帰順した。劉濬は直ちに処刑された。上(孝武帝)は劉鑠を迎えて宮中に入れ、その時倉卒のうちに国璽を失ったが、事態が収まってから改めて鋳造して与えた。侍中・司空に進み、兵を領し属官を置いた。国の喪(文帝の喪)が終わっていないことを理由に、侍中を辞退した。
劉鑠は帰順が最も遅かったため、常に憂いと恐れを抱き、眠りの中でしばしば飛び起きて座り、人と話すことも多く間違っていたり偏っていたりした。家人に言うには、「我は自ら魂が守られていないと感じる」と。劉鑠は人となり才を恃んで狡猾に競い、しばしば兄弟と技芸や能力を比べ計り、帝(孝武帝)ともまた和することができず、食事の中で毒に遇い、間もなく薨じた。司徒を追贈され、楚穆の諡号が加えられた。三人の子:敬猷、敬深、敬先。
竟陵王
孝武帝が入って討伐するに当たり、甯朔将軍顧彬之を遣わして劉誕の節度を受けさせ、劉誕は参軍劉季之に兵を挙げて彬之と合流させた。曲阿の奔牛塘で劉劭の将華欽・庾遵に遇い、これを大破した。事が平定すると、劉誕を荊州刺史とし、都督・衛将軍・開府儀同三司を加えた。劉誕は位号がちょうど劉濬と同じであるのを嫌い、回改を求めたので、驃騎将軍に進号し、班剣二十人を加えられた。南譙王劉義宣が征に就くことを肯わず、劉誕を侍中・驃騎大将軍・揚州刺史とし、開府はもとの通りとした。竟陵王に改封された。劉誕の性格は恭順で温和、士庶の心を得、勇略に富んでいた。
翌年、義宣が反逆し、荊・江・兗・豫の四州の力を有し、その勢いは天下を震駭させた。上(孝武帝)の即位して日が浅く、朝野は大いに恐れた。上は乗輿や法物を奉じて義宣を迎えようとしたが、劉誕は固執して不可とし、言うには、「どうしてこの座(帝位)を持って人に与えようか」と。帝は劉誕に節を加え、仗士五十人に六門を出入りさせた。上流が平定したのは、劉誕の力によるものであった。劉誕は初め元凶を討つに当たり、ともに挙兵に与かり、奔牛の捷があり、この時また殊勳があった。上は性格が猜疑心が多く、劉誕をかなり疑い恐れた。そして劉誕が邸宅を造営するに、工巧を極め、園池の美は一時に冠たるものがあった。多くの材力の士を集めてこれを充実させた。邸内の精甲や利器は、上品でないものはなかった。上はますます不平を抱いた。
その年の四月、上は有司に命じて劉誕の罪悪を奏上させ、属籍を絶ち、爵土を削り、法獄に収めるべきとした。上は許さなかった。有司がまた固く請うたので、爵を侯に貶し、国に行くよう命じた。
上は劉誕を謀ろうとし、義興太守垣閬を兗州刺史とし、羽林の禁兵を配属した。給事中戴明宝を遣わして垣閬に随行し劉誕を襲撃させ、垣閬には鎮守を名目とさせた。垣閬が広陵に至った時、劉誕はまだ悟らなかった。明宝は夜に劉誕の典簽蔣成に内応するよう報せたが、蔣成は府の舎人許宗之に告げ、宗之が劉誕に告げた。劉誕は驚いて起き、録事参軍王璵之を召して言うには、「我は天に何の罪があって、ここに至ったのか」と。蔣成を斬り、兵を率いて自衛した。腹心の率いる壮士を遣わして明宝らを撃ち破り、垣閬は即時に害に遇い、明宝は海陵の界から逃げ帰った。
上は車騎大将軍沈慶之を遣わして劉誕を討たせた。劉誕は奉表して城外に投げ入れ、国に対して負うところがないことを自ら申し述べ、併せて帝の宮闈の醜事を言った。孝武帝は劉誕に対して憤りが深く、劉誕の左右の腹心で同籍の期親(喪服一年の親族)をすべて誅し、死者は数千に及んだ。車駕は出て宣武堂に頓し、内外は厳戒態勢をとった。劉誕は衆軍が大いに集まるのを見て、城を棄てて北に走ろうとしたが、十余里行くと、兵士たちは皆行きたがらず、劉誕に請うて城に戻った。
五月十九日の夜、流星が長さ十余丈で西北から来て城内に墜ちた。これを天狗という。占いには「天狗の墜つる所、下に伏屍流血あり」とある。広陵城はもと南門を開けず、「南門を開く者はその主に利あらず」と言われていた。劉誕はこれを開いた。彭城の邵領宗が城内でひそかに死士を結集して劉誕を襲おうとし、先ず慶之に誠意を示そうとして、劉誕に間諜となることを求めて説き、許された。領宗は出て誠意を示し終えると、再び城内に戻った。事が漏れ、劉誕は二百回鞭打ち、拷問したが服さず、遂に支解した。
上は章(印章)二組を送らせた。一つは「竟陵県開国侯、食邑千戸」とし、劉誕を生け捕りにする賞を募った。もう一つは「建興県開国男、食邑三百戸」とし、先に登城する者への賞を募った。もし外城を克すれば一つの烽火を挙げ、内城を克すれば二つの烽火を挙げ、劉誕を生け捕りにすれば三つの烽火を挙げよと。
七月二日、慶之は進軍し、その外城を陥落させ、勝ちに乗じてまた小城を陥落させた。誕は軍が入ったと聞き、走って後園に趣き水に墜ち、引き出されて殺され、首は建鄴に伝送され、よって広陵に葬られ、姓を留氏に貶められた。帝は城中の者を大小の別なく悉く斬るよう命じたが、慶之は諫めて執り、五尺以下の者は全うさせ、ここにおいて同党は悉く誅殺に伏した。城内の女口は軍の賞与とされ、男丁は殺されて京観とされ、死者なお数千人に及び、風の朝雨の夜毎に号哭の声があった。誕の母殷氏、妻徐氏はともに自殺した。殷氏を長寧園淑妃に追贈した。
八年、前廃帝が即位し、義陽王昶が徐州刺史となり、道すがら広陵を経由し、墓に至って哀悼の意を尽くし、表を奉って誕の改葬を請うた。詔して誕及び妻子を庶人の礼をもって葬らせた。明帝泰始四年、また改葬し、少牢をもって祭った。
王璵之は琅邪の人、才局あり。その五人の子は悉く建鄴にいた。璵之が嘗て城に乗った時、慶之はその五人の子を縛り、示して招き、富貴を約束した。璵之は言った、「私は主君の厚恩を受けており、二心を持つことはできない。三十の年、死に場所を得ずとも、どうして私的な親情で誘うことができようか」。五人の子は外で号叫し、その父を呼んだ。城が平定されると、慶之は悉くこれを撲殺した。
建平王
元凶が弑逆して立ち、孝武が入って討とうとした時、劭は宏を殿内に拘束したため、自ら抜け出す由もなかった。孝武は先に嘗て一手板を宏に与えており、宏は左右の親信周法道に手板を持たせて孝武のもとに遣わした。事が平定されると、尚書左僕射とし、太后を迎えさせた。還って中軍将軍、中書監を加えられた。人となり謙虚で倹約、周到で慎重、礼を賢者に接し士を受け入れ、政事に明達し、上は甚だ信頼し仗った。転じて尚書令となった。宏は若い頃から病多く、尚書令の解任を求めた。本号のまま開府儀同三司とされたが、拝せずに薨じた。司徒を追贈された。上は痛悼すること甚だしく、毎月の朔望に霊前に臨み、自ら墓誌銘並びに誄を作った。五年、諸弟の国に各千戸を益したが、薨じた者はその例に含まず、ただ宏のみが追って益された。子の景素が嗣いだ。
景素は若くして父の風あり、位は南徐州刺史、都督を加えられた。桂陽王休範が叛逆した時、景素は兵衆を纂集して朝廷に赴くことを名目としたが、陰に両端を懐いていた。事が平定されると、鎮北将軍に進号した。
景素は文章書籍を好み、才義の士を招集し、以て名誉を収めた。これにより朝野の属意するところとなった。しかるに後廃帝が狂凶にして道を失い、内外皆景素こそ神器に当たるべきであると言った。ただ廃帝の生母陳氏の親戚がこれを疾み忌み、また楊運長、阮佃夫はともに明帝の旧隷であり、幼主を貪ってその権を久しくすることを図り、景素が立ったならば長主(成年の君主)に容れられぬことを慮り、深く相忌み憚った。
四年七月、羽林監垣祗祖が景素のもとに奔り、台城が既に潰えたと言った。景素はこれを信じ、即ち兵を挙げた。運長らは常に景素に異志あることを疑っており、即ち厳を纂した。景素は本より威略に乏しく、何を為すべきか知らず、遂に台軍に破られ、斬られた。即ち京口に葬られた。
景素の性質は甚だ仁孝であり、献太妃に事え、朝夕侍養に違わなかった。太妃が不安を覚えると、景素は傍らにいて蓬髪となった。人と言う時は呴呴として、常にその情を傷つけることを恐れた。また甚だ儉素であり、荊州に在った時、州に高齋があり刻楹柏構であったが、景素は終に処らなかった。朝廷は甲第を賜わんとしたが、辞して当たらなかった。両宮の遺した珍玩は、笥篋の中で塵を被った。食は常に一肉を過ぎず、器用は瓦素であった。時に鏤玉の器を献ずる者があった。景素は主簿何昌宇を顧みて言った、「我はこれを持って何に用いようか」。乃ち謝してこれを返した。敗れた後、昌宇と故記室王摛らが上書してその冤罪を訟じた。斉が禅を受けると、景素の故秀才劉璡がまた上書してその徳美を述べ、冤罪を陳べたが、併せて省みられなかった。斉武帝が即位するに至り、詔を下して言った、「宋の建平王劉景素は、名父の子なり。末路に図を失うと雖も、原心に本あり。礼を以て旧塋に葬ることを聴すべし」。
廬江王
文帝の諸子のうち、劉褘は特に凡庸で劣っており、諸兄弟は皆これを嗤い軽蔑した。南平王劉鑠が薨去し、その子の敬深が婚礼を挙げるにあたり、劉褘はこれを見舞い、孝武帝に伎楽を借りることを願い出た。孝武帝は答えて言うには、「婚礼ではそもそも楽を挙げず、かつ敬深は孤苦であるから、伎楽は適切ではない」と。この時、明帝は建安王劉休仁に詔して言うには、「人は既に西方公を数に入れないので、汝が諸王の長となれ」と。当時劉褘は西州に住んでいたので、これを西方公と呼んだのである。泰始五年、河東の柳欣慰が謀反を企て、劉褘を立てようとし、劉褘はこれと応酬し和した。欣慰は征北諮議参軍杜幼文と結び、幼文はその事を詳しく上奏した。上はその罪悪を暴き、南豫州刺史・車騎将軍・開府儀同三司に貶黜した。上は腹心の楊運長に兵を率いさせて防衛させた。翌年、また役人に命じて劉褘が怨み恨んでいることを奏上させ、自殺を強要し、宣城に葬った。
晉熙王
廃帝は群公を誅殺した後、ますます狂惑を極め、常に側近に語って言うには、「朕が大位について以来、まだ戒厳を行わず、人をして憂鬱ならしめている」と。江夏王劉義恭が誅殺された後、劉昶は上表して入朝を求め、典籤の蘧法生を使者として派遣した。帝は法生に言うには、「義陽王は太宰と謀反を企てている。朕はまさにこれを討伐しようとしていたところだ。今、帰還を求めてきたことを知り、甚だ善い」と。また法生に問うには、「義陽王が謀反を企てているのに、何故啓上しなかったのか」と。法生は恐れ、彭城に逃げ帰った。帝はこれにより北討を行った。法生が到着すると、劉昶は即座に兵を起こしたが、統内の諸郡は皆これに従わなかった。劉昶は事が成功しないと悟り、夜に門を開いて魏に奔り、母と妻を棄て、ただ妾一人を連れ、男装させて馬に乗せて従わせた。道中で慷慨として断句を作り、「白雲は鄣に満ち来たり、黄塵は半天に起こる。関山は四面に絶え、故郷は幾千里」と詠んだ。そこで妾の手を握りしめて南を望み慟哭し、左右の者は哀しみ咽ぶ者なくはなかった。節目節目に悲しみ慟哭し、遥かにその母を拝した。
武昌王
劉渾は幼少より凶暴で残忍であり、かつて側近に憤り、防身刀を抜いてこれを斬りつけた。元凶(劉劭)が弑逆して立つと、中書令とした。山陵(文帝の陵)の夕べに、裸身で頭を露わにして散騎省に行き戯れ、弓を引き絞って通直郎の周朗の枕を射て、笑い楽しみとした。
建安王
帝は荊州・湘州の二州に南遊しようとし、明朝に諸父を殺して出発しようとしたその夜、華林園で殺害された。休仁はその日から明帝に対して臣下の礼を執った。当時、南平王劉敬猷、廬陵王劉敬先兄弟が害されたが、まだ殯斂が済んでおらず、休仁と休佑は同じ車に乗って臨み、帷を開けて歓笑し、鼓吹を往来させ、当時の人々は皆これを非難した。
明帝は休仁を侍中・司徒・尚書令・揚州刺史とし、三望車を与えた。当時、劉道隆は護軍であったが、休仁は職の解任を求め、言うには、「臣はこの者と同じ朝廷にいることはできません」と。上はそこで道隆に死を賜った。まもなく四方で逆命が起こると、休仁は征討諸軍事を都督し、班剣を増やして三十人とし、出陣して獣檻を占拠し、赭圻に進んだ。まもなく太子太傅を領し、諸軍を総統した。中流(長江中流域)が平定されたのは、休仁の力によるものであった。明帝は初め蘇侯神と兄弟の契りを結び、福と助力を祈った。事が平定されると、休仁に書を送り言うには、「この度のことは殊に蘇兄の神力を得た」と。
休仁の年齢は明帝とほぼ同じで、共に文籍を好み、平素から互いに親愛していた。廃帝の世において、共に艱難危険を経て、明帝はまたその権謀術数の力を頼りにした。泰始初年、四方で逆命が起こると、休仁は自ら矢石に当たり、大勲を成し遂げ、百揆を総任し、親密で寄せる信頼は甚だ厚く、四方から人が集まった。上は甚だ快く思わなかった。休仁はその意を悟り、上表して揚州の任を解くことを求め、許された。太尉に進位し、司徒を領するよう命じられたが、固く辞退した。また漆輪車を加えられ、剣履上殿を許された。漆輪車は受けたが、剣履上殿は固く辞退した。
明帝の末年は猜忌多く、休仁は次第に自ら安んじられなくなった。そして晋平王休祐を殺したその年、上(明帝)の病が重篤となり、楊運長とともに死後のことを謀った。運長らはまた、帝が崩御した後、休仁が一旦周公の地位に就けば、自分たちが権力を執れなくなることを慮り、ますます上を助けて諸王を害するよう勧めた。上(明帝)の病が急に甚だしくなると、内外ともに休仁に期待を寄せた。主書以下の者たちは皆、東府に行き休仁の親信に会い、あらかじめ結びつきを求めた。あるいは当直で出られない者も皆恐れた。上は運長らと謀略を定め、休仁を召して尚書下省に宿直させ、その夜、人を遣わして薬を持たせ休仁に死を賜った。休仁は使者に向かって罵って言った。「上(陛下)が天下を得たのは、誰の功か。孝武帝は子孫を誅殺したために滅亡に至った。今また覆車に従い、無実の兄弟を殺すとは。どうして忠臣がこのような冤罪を抱えようか。我が大宋の業、どうして長く保とうか。」上(明帝)は病が長引き、人心の同異を慮り、自ら力を振るって輿に乗り端門を出、休仁が死んだ後に入った。詔を下して彼が自殺したと称し、その二子を赦し、ともに封爵を全うさせた。有司が休仁を庶人に降格し、属籍を絶ち、子供たちを悉く遠郡に移すよう奏請した。詔により休仁を特に始安県王に降格し、併せて子の伯融らの流刑を停止し、封爵を襲ぐことを聴許した。帝の病が甚だしくなると、休仁が祟りをなすのを見て、叫んで言った。「司徒(休仁)、少し我を許せ。」まもなく崩御した。伯融は、妃の殷氏が生んだ子である。殷氏は、呉興太守の殷沖の娘である。范陽の祖翻は医術があり、容姿も美しかった。殷氏が病気の時、翻が脈を見に入り、彼女を気に入り、遂に私通した。事が露見し、家に帰らせて死を賜った。
晋平王
休祐は元より才能がなく、強情で独断専行であった。大明の世には、思い通りにできなかったが、この時には貪欲で淫ら、財貨と女色を好み、荊州で多くの財貨を営んだ。短陌銭(不足銭)百文を人に貸し、田の収穫時に白米一斛を求め、米粒はすべて透き通るほど白いことを命じた。もし砕けていたり割れていたりするものは一切受け取らなかった。世間ではこの米一斗を百文で買っていた。時期が来るとまた米を受け取らず、米を評価して銭を責め立てた。凡そ利益を求めることすべてこのようであった。百姓は嗷嗷とし、もはや命に堪えられなかった。南徐州刺史に徴され、都督を加えられた。上(明帝)は休祐が貪虐で民を治められないと考え、彼を都に留め置き、上佐を行府州事として派遣した。
海陵王
鄱陽王
臨慶王
新野王
桂陽王
齊高帝出でて新亭壘に次す。時に事起るや倉卒、朝廷の兵力甚だ弱く、武庫を開くに及び、将士の意に随いて取る。休範新林より歩上して新亭壘を攻む。屯騎校尉黄回乃ち偽り往きて降り、並びに齊高帝の意を宣ぶ。休範大いに悦び、之を左右に置く。休範の壮士李恒・鍾爽進みて諫めて之を親しむに宜しからざるを進む。休範曰く「人を欺かずして信を以てす」と。時に休範日々醇酒を飲み、二子徳宣・徳嗣を以て齊高帝に付して質と為す。至るや即ち之を斬る。回と越騎校尉張敬兒直ちに前に進みて休範の首を斬り持ちて還る。左右並びに散ず。
初め、休範新林より同党杜墨蠡・丁文豪等を分遣して直ちに朱雀門に向かわしむ。休範死すと雖も、墨蠡等知らず。王道隆羽林兵を率いて朱雀門内に在り、賊の至るを聞き、急ぎ劉勔を召す。勔石頭より来り戦に赴き、之に死す。墨蠡等勝に乗じて直ちに朱雀門に入る。道隆乱兵のために殺さる。墨蠡等唱えて云く「太尉至る」と。休範の死するや、齊高帝隊主陳霊宝を遣わし首を齎して台に還らしむ。賊に逢い、首を道側に埋め、身を挺して達するを得たり。已に平げたりと唱うと雖も、以て据うる所無く、衆ますます疑惑す。墨蠡径ちに杜姥宅に至る。宮省恇擾し、復た固き志無し。撫軍長史褚澄東府を以て賊を納る。賊安成王を擁して東府に拠り、休範の教と称して曰く「安成王は吾が子なり、侵すことを得ず」と。賊勢方に逼り、衆振るうこと能わず。尋いで丁文豪の衆休範の已に死せるを知り、稍々退散せんと欲す。文豪勇気殊に壮にして、声を厲して曰く「我独り天下を定めずんばや」と。休範の首至り、又羽林監陳顕達率いる所の者を以て杜姥宅に於いて墨蠡等を破る。諸賊一時に奔散す。墨蠡・文豪等を斬る。晉熙王燮夏口より軍を遣わし尋陽を平ぐ。
巴陵王
四年、行湘州刺史を改む。六年、荊州刺史と為り、都督・征西大将軍・開府儀同三司を加う。七年、晉平王休祐殺され、建安王休仁疑わしめらる。都下訛言して休若に至貴の表有りとす。明帝此の言を以て之に報ず。休若甚だ憂い、嘗て衆賓満座するに、一の異鳥席隅に集まり、哀鳴して地に墜ちて死す。又聴事の上に二の大白蛇長さ丈余有り、唅唅として声有り。休若之を甚だ悪む。
会に徴せられて南徐州刺史と為り、都督・征北大将軍を加え、開府は旧の如し。休若の腹心将佐咸に還朝必ず大禍有らんと謂う。中兵参軍京兆王敬先荊楚に割拠せんことを勧む。休若之を執録し、馳使して明帝に白くす。敬先坐して誅さる。休若京口に至る。上休若の善く能く物情を諧緝するを以て、将来幼主を傾けんことを慮り、使を遣わして之を殺さんと欲す。詔を奉ぜざるを慮り、征して朝に入らしむるも、又猜駭せんことを恐る。乃ち偽りて江州刺史に授く。至るや即ち第に於いて死を賜う。侍中・司空を贈る。子沖始め封を襲ぐ。
孝武子
孝武帝二十八男有り。文穆皇后は廃帝子業・豫章王子尚を生む。陳淑媛は晉安王子勲を生む。阮容華は安陸王子綏を生む。徐昭容は皇子子深を生む。何淑儀は松滋侯子房を生む。史昭華は臨海王子頊を生む。殷貴妃は始平孝敬王子鸞を生む。次に永嘉王子仁は皇子子深と同生す。何婕妤は皇子子鳳を生む。謝昭容は始安王子真を生む。江婕妤は皇子子玄を生む。史昭儀は邵陵王子元を生む。次に齊敬王子羽は始平孝敬王子鸞と同生す。江美人は皇子子衡を生む。楊婕妤は淮南王子孟を生む。次に皇子子況は皇子子玄と同生す。次に南平王子産は永嘉王子仁と同生す。次に晉陵孝王子雲・次に皇子子文は並びに始平孝敬王子鸞と同生す。次に廬陵王子輿は淮南王子孟と同生す。次に南海哀王子師は始平孝敬王子鸞と同生す。次に淮陽思王子霄は皇子子玄と同生す。次に皇子子雍は始安王子真と同生す。次に皇子子趨は皇子子鳳と同生す。次に皇子子期は皇子子衡と同生す。次に東平王子嗣は始安王子真と同生す。張容華は皇子子悦を生む。安陸王子綏・南平王子産・廬陵王子輿は並びに出継す。皇子子深・子鳳・子玄・子衡・子況・子文・子雍は未だ封ぜられずして早夭す。子趨・子期・子悦は未だ封ぜられず、明帝のために殺さる。
豫章王
前廃帝が即位すると、王畿を廃して旧に復し、子尚を征して揚州・南徐州の二州諸軍事を都督せしめ、尚書令を領せしめた。初め、孝建年間、孝武帝は子尚が太子の同母弟であることを以て、甚だ心を留めた。後に新安王子鸞が母の寵愛により愛され、子尚の寵は衰えた。成長して凶悪となり、廃帝の風有り。明帝は既に廃帝を誅した後、太皇太后の令を称して曰く、「子尚は頑凶、楚玉は淫乱、並びに邸に於いて賜死すべし」と。楚玉は、廃帝の姉山陰公主なり。廃帝は会稽郡長公主に改封し、鼓吹一部を与え、班剣二十人を加えたが、未だ拝受せずして廃帝敗れた。
晋安王
時に廃帝狂凶にして、誅害すること多し。前撫軍諮議参軍何邁、帝の出でるを謀り変を為し、子勲を迎え立てんとす。事泄れ、帝は邁を誅し、八座をして子勲が邁と通謀せしことを奏せしめ、左右朱景を遣わし薬を送りて子勲に死を賜う。景は盆口に至り、長史鄧琬に報ず。琬ら子勲を奉じて兵を起こし、廃立を以て名とす。明帝乱を定め、子勲を車騎将軍・開府儀同三司に進む。琬ら命を受けず。
松滋侯
臨海王
始平王
永嘉王
始安王
邵陵王
齊敬王
淮南王
晉陵王
南海王
淮陽王
東平王
武陵王
明帝の子
邵陵王
隨陽王
新興王
始建王
【論】
論じて言う。甚だしいかな、元嘉(文帝)の禍に遇うことよ。殺逆の兆しは、肌膚(身近なところ)から事が起こり、心に因る童(幼い者)は、遂に天性を失った。たとえ鳴鏑(匈奴の冒頓単于が父を殺した故事)の残酷さといえども、これほどには至らず、それで覆亡に至らなかったのも、幸いというべきである。明帝(明皇)が統治を継ぐと、疑いと隙が内に構えられ、斧を加えるところは、まず王戚(皇族)から始まった。晋刺王(劉昶)は獷暴によって身を摧かれ、巴哀王(劉休若)は和良によって体を酖(毒殺)され、身を保つ道は、どこに適うべきか知られなかった。昔、子を戒めて「慎んで善を行うなかれ」と言ったが、その旨を詳しく求めれば、遠くに根拠があるのであろうか。詩に「我が先に自らず、我が後に自らず」とある。これは古人が乱れを畏れたのである。孝武帝の諸子は、提挈(引き立て)られて釁乱(争乱)を成し、遂に宇内は沸騰し、王室は毀かれるが如くとなり、そして帝の諸胤(子孫)は皆殲滅された。強は弱に如かず、その道理はここにある。明帝の負螟(他姓の子を養子とする)の慶(幸い)は、事が己の出でたところではなく、枝葉が茂らなければ、どうしてその本(根本)を庇うことができようか。