南史

巻十四 列傳第四 宋宗室及び諸王下

巻十四 列傳第四 宋宗室及び諸王下

南史

巻十四 列傳第四 宋宗室及び諸王下

文帝の子

原文文帝子

文帝に十九人の男子あり。元皇后は元凶劭を生み、潘淑妃は始興王濬を生み、路淑媛は孝武帝を生み、呉淑儀は南平穆王鑠を生み、高修儀は廬陵昭王紹を生み、殷修華は竟陵王誕を生み、曹婕妤は建平宣簡王宏を生み、陳修容は東海王褘を生み、謝容華は晉熙王昶を生み、江修容は武昌王渾を生み、沈婕妤は明帝を生み、楊美人は始安王休仁を生み、邢美人は山陽王休佑を生み、蔡美人は海陵王休茂を生み、董美人は鄱陽哀王休業を生み、顔美人は臨慶沖王休倩を生み、陳美人は新野懷王夷父を生み、荀美人は桂陽王休范を生み、羅美人は巴陵哀王休若を生む。紹は出でて廬陵孝獻王義真を継ぐ。

原文文帝十九男:元皇后生元凶劭,潘淑妃生始興王濬,路淑媛生孝武帝,吳淑儀生南平穆王鑠,高修儀生廬陵昭王紹,殷修華生竟陵王誕,曹婕妤生建平宣簡王宏,陳修容生東海王褘,謝容華生晉熙王昶,江修容生武昌王渾,沈婕妤生明帝,楊美人生始安王休仁,邢美人生山陽王休佑,蔡美人生海陵王休茂,董美人生鄱陽哀王休業,顏美人生臨慶沖王休倩,陳美人生新野懷王夷父,荀美人生桂陽王休范,羅美人生巴陵哀王休若。紹出繼廬陵孝獻王義真。

元凶

原文元凶

元凶劭、字あざなは休遠、文帝の長子なり。帝即位の後、諒闇の中に劭を生む、故にこれを秘す。元嘉三年閏正月に初めて劭生まるると云う。前代人君の即位後に皇后が太子を生むは、唯だ殷の帝乙践阼し、正妃が紂を生み、ここに至りてまた劭有り。

原文元凶劭字休遠,文帝長子也。帝即位後,諒闇中生劭,故秘之。元嘉三年閏正月方云劭生。自前代人君即位後,皇后生太子,唯殷帝乙踐阼,正妃生紂,至此又有劭焉。

生まれて三日目、帝往きて之を視るに、簪帽甚だ堅く、風無くして劭の側に墜つ。上悦ばず。初め之を命じて劭と曰う。文に在りては召刀なり。後に之を悪み、刀を力に改む。年六歳、皇太子に拝せらる。中庶子二率永福省に入り直し、為に更に宮を築き、制度厳麗なり。年十二、出でて東宮に居り、黄門侍郎殷淳の女を納れて妃と為す。十三にして元服を加う。史伝を読むを好み、特に弓馬を愛す。及び長ずるに、鬚眉美しく、眼大きく口方く、長さ七尺四寸。親しく宮事を覧み、賓客を延き、意の欲する所、上必ず之に従う。東宮に兵を置くこと羽林と等し。十七年、劭京陵に拝し、大将軍彭城王義康、竟陵王誕、桂陽侯義融並びに従う。

原文始生三日,帝往視之,簪帽甚堅,無風而墜於劭側,上不悅。初命之曰劭,在文為召刀,後惡焉,改刀為力。年六歲,拜為皇太子,中庶子二率入直永福省,為更築宮,制度嚴麗。年十二,出居東宮,納黃門侍郎殷淳女為妃。十三加元服。好讀史傳,尤愛弓馬。及長,美鬚眉,大眼方口,長七尺四寸。親覽宮事,延賓客,意之所欲,上必從之。東宮置兵與羽林等。十七年,劭拜京陵,大將軍彭城王義康、竟陵王誕、桂陽侯義融並從。

二十七年、上将に北侵せんとす。劭と蕭思話固く諫むも、従わず。魏の太武帝瓜歩に至る。上石頭城に登り、憂色有り。劭曰く、「江湛、徐湛之を斬らざれば、以て天下に謝す無し」と。上曰く、「北伐は我が意よりす、二人に関せず。但だ湛等異ならざるのみ」と。是より江、徐と平らかならず。

原文二十七年,上將北侵,劭與蕭思話固諫,不從。魏太武帝至瓜步,上登石頭城,有憂色。劭曰:「不斬江湛、徐湛之,無以謝天下。」上曰:「北伐自我意,不關二人;但湛等不異耳。」由是與江、徐不平。

上時に本業を務め、宮内をして皆蠶せしめ、以て天下を諷励せんと欲す。女巫嚴道育有り。其の夫劫を為し、坐に因りて奚官に没入せらる。劭の姉東陽公主応に婢王鸚鵡を合う。鸚鵡公主に白して道育の霊に通ずるを言う。主乃ち上に白し、善く蠶すと托け、召し入るるを求む。道育云く、「奉ずる所の天神、当に符応を賜うべし」と。時に主夕べに臥すに、流光相い随うを見る。状螢火の若く、遂に巾箱に入りて化して双珠と為る。円くして青く愛すべし。ここにおいて主及び劭並びに之を信惑す。始興王濬素より佞って劭に事え、並びに過失多し。上知るを慮り、道育に祈請せしめ、過ち上聞せざらしめんと欲す。歌舞咒詛し、昼夜を舎てず。道育輒ち云く、「上天に自ら陳請す、必ず泄露せず」と。劭等敬事し、号して天師と曰う。後遂に巫蠱を為し、玉を刻みて上の形像と為し、含章殿の前に埋む。

原文上時務本業,使宮內皆蠶,欲以諷勵天下。有女巫嚴道育夫為劫,坐沒入奚官。劭姊東陽公主應合婢王鸚鵡白公主道育通靈,主乃白上托云善蠶,求召入。道育云:「所奉天神,當賜符應。」時主夕臥,見流光相隨,狀若螢火,遂入巾箱化為雙珠,圓青可愛。於是主及劭並信惑之。始興王濬素佞事劭,並多過失,慮上知,使道育祈請,欲令過不上聞。歌舞咒詛,不舍晝夜。道育輒云:「自上天陳請,必不洩露。」劭等敬事,號曰天師。後遂為巫蠱,刻玉為上形像,埋于含章殿前。

初め、東陽公主に奴陳天興有り。鸚鵡養いて以て子と為し、而して之と淫通す。鸚鵡、天興及び寧州の献ずる所の黄門慶国並びに巫蠱の事に関わり、劭天興を以て隊主に補う。東陽主薨ず。鸚鵡応に出嫁すべし。劭言語の泄るるを慮り、浚と之を謀り、濬の府佐呉興沈懷遠に嫁して妾と為す。上に啓せず。事の泄るるを慮り、臨賀公主に因りて微かに之を言う。上後天興の隊を領するを知り、閹人奚承祖を遣わし劭を譲りて曰く、「汝間かに用いる隊主副は儘く是れ奴なるか。嫁さんと欲する者は又いずくに嫁すや」と。劭答えて曰く、「南第昔天興に属し将吏を求めて駆使せしむ。形容粗健なるを視て、便ち兼ねて隊副とす。下人嫁さんと欲する者は猶お処未だ有らず」と。時に鸚鵡既に懷遠に嫁せり。劭懼れ、書して濬に告げ、並びに臨賀主に報ぜしむ。上若し嫁処を問わば、当に未だ定まらずと言わんと。濬答書して曰く、「此の事啓すること多日、今始めて来り問う。当に是れ感発する者有るべし。計るに臨賀故に応に翻覆して言語すべからず、自ら寒熱を生ずるなり。此の姥由来両端を挟み、孤保し難し。正に爾り自ら臨賀に問いて審実を得んことを冀うなり。其れ若し見問せらるれば、当に依違して之に答うべし。天興先に佞人府の位に署す。監上に当に此の簿領無きを審らかにせず。急に宜しく犍くべし。殿下已に王を見たりや。宜しく此に依りて具に令し厳に躬より上啓聞せしむべし。彼人若し已まずと為せば、政に其の余命を促すべく、或いは大慶の漸たるべし」と。凡そ劭、濬相い与に書するに此の類の如し。言う所皆名号と為し、上を「彼人」と謂い、或いは「其」と為し、太尉江夏王義恭を「佞人」と謂う。東陽主の第は西掖門の外に在り、故に「南第」と云う。王は即ち鸚鵡の姓なり。「躬上啓聞」とは、道育をして上天して天神に白せしむるを令すなり。鸚鵡既に懷遠に適す。天興と私通する事の泄るるを慮り、劭に請うて之を殺さしむ。劭密かに人をして天興を害せしむ。既にして慶国往来するは唯だ二人有るを謂い、天興既に死す、将に及ばんことを慮り、乃ち以て上に白す。上驚き惋み、即ち鸚鵡の家を収め、劭、濬の手書を得る。皆咒詛巫蠱の言なり。埋むる所の上の形像を宮内に得る。道育叛き亡ぶ。之を捕うるも得ず。上劭、濬を詰責す。劭、濬唯だ陳謝するのみ。道育服を変えて尼と為り、逃げ匿れて東宮に在り。濬京口に往く、又以て自ら随い、或いは出でて人張旿の家に止る。上江夏王義恭に謂いて曰く、「常に典籍に此れ有るを見る。書伝の空言に謂うと為し、親しく睹ることを意いせざりき。劭南面の日は、復た我及び汝の事に非ず。汝兒子多し、将来此の不幸に遇わん」と。

原文初,東陽公主有奴陳天興,鸚鵡養以為子而與之淫通。鸚鵡、天興及寧州所獻黃門慶國並與巫蠱事,劭以天興補隊主。東陽主薨,鸚鵡應出嫁,劭慮言語泄,與浚謀之,嫁與濬府佐吳興沈懷遠為妾。不啟上,慮事泄,因臨賀公主微言之。上後知天興領隊,遣閹人奚承祖讓劭曰:「汝間用隊主副儘是奴邪?欲嫁者又嫁何處?」劭答:「南第昔屬天興求將吏驅使,視形容粗健,便兼隊副;下人欲嫁者猶未有處。」時鸚鵡已嫁懷遠矣。劭懼,書告濬,並使報臨賀主,上若問嫁處,當言未定。濬答書曰:「啟此事多日,今始來問,當是有感發之者。計臨賀故不應翻覆言語,自生寒熱也。此姥由來挾兩端,難可孤保,正爾自問臨賀冀得審實也。其若見問,當作依違答之。天興先署佞人府位,不審監上當無此簿領,可急宜犍之。殿下已見王未?宜依此具令嚴自躬上啟聞。彼人若為不已,政可促其餘命,或是大慶之漸。」凡劭、濬相與書類如此。所言皆為名號,謂上為「彼人」,或以為「其」;謂太尉江夏王義恭為「佞人」;東陽主第在西掖門外,故云:「南第」。王即鸚鵡姓。「躬上啟聞。」者,令道育上天白天神也。鸚鵡既適懷遠,慮與天興私通事泄,請劭殺之。劭密使人害天興。既而慶國謂往來唯有二人,天興既死,慮將見及,乃以白上。上驚惋,即收鸚鵡家,得劭、濬手書,皆咒詛巫蠱之言。得所埋上形像于宮內。道育叛亡,捕之不得。上詰責劭、濬,劭、濬唯陳謝而已。道育變服為尼,逃匿東宮。濬往京口,又以自隨,或出止人張旿家。上謂江夏王義恭曰:「常見典籍有此,謂止書傳空言,不意親睹。劭南面之日,非復我及汝事。汝兒子多,將來遇此不幸耳。」

先ず是れ二十八年、彗星すいせい畢、昴より起り、太微に入り、帝坐端門を掃い、翼、軫を滅す。二十九年、熒惑逆行して氐を守り、十一月より霖雨雪を連ね、陽光曜るに罕なり。時に道士范材形術を修練す。是の歳自ら死期を言い、期の如くにして死す。既に殯り、江夏王其の仙なるを疑い、棺を開きて之を視しむるに、首新たに刎ねたるが如く、血背に流る。上聞きて之を悪む。

原文先是二十八年,彗星起畢、昴,入太微,掃帝坐端門,滅翼、軫。二十九年,熒惑逆行守氐,自十一月霖雨連雪,陽光罕曜。時道士范材修練形術,是歲自言死期,如期而死。既殯,江夏王疑其仙也,使開棺視之,首如新刎,血流於背,上聞而惡焉。

三十年正月、大風霰を飛ばし且つ雷す。上竊発有るを憂え、輒ち劭に兵を加え、東宮実甲万人。其の年二月、濬京口より入朝し、当に江陵を鎮むべく、復た道育を載せて東宮に還り、将に西上せんと欲す。上に告ぐる者有りて云く、「京口人張旿の家に一尼服食有り、征北の内に出入りす。厳道育に似たり」と。上掩いて二婢を得しむ。云く、「道育征北に随い還都す」と。上惆悵惋駭し、須らく検覆し、劭を廃し濬に死を賜わんとす。初め、濬の母卒す。潘淑妃を命じて養いて以て子と為さしむ。淑妃濬を愛す。濬心附かず。妃寵せらる。上謀を以て之に告ぐ。妃以て濬に告ぐ。濬劭に報ず。因りて異謀有り。毎夜将士を饗し、或いは親しく行酒し、密かに腹心の隊主陳叔兒、齋帥張超之、任建之と之を謀る。

原文三十年正月,大風飛霰且雷,上憂有竊發,輒加劭兵,東宮實甲萬人。其年二月,濬自京口入朝,當鎮江陵,復載道育還東宮,欲將西上。有告上云:「京口人張旿家有一尼服食,出入征北內,似是嚴道育。」上使掩得二婢,云:「道育隨征北還都。」上惆悵惋駭,須檢覆,廢劭賜濬死。初,濬母卒,命潘淑妃養以為子。淑妃愛濬,濬心不附。妃被寵,上以謀告之。妃以告濬,濬報劭,因有異謀。每夜饗將士,或親自行酒,密與腹心隊主陳叔兒、齋帥張超之、任建之謀之。

その月二十一日の夜、偽りの詔勅を作り、「魯秀が謀反を企てている。汝は明け方に兵を率いて入城せよ」と言った。そこで張超之らに命じて、平素養っていた士二千余人を集め、皆に甲冑を着させ、「討伐すべきところがある」と言った。夜のうちに前中庶子右軍長史の蕭斌及び左衛率の袁淑、中舍人の殷仲素、左積弩将軍の王正見を召し寄せ、共に参入させ、大事を告げ、自ら起ち上がって蕭斌らに拝礼し、涙を流した。皆驚愕した。翌朝、劉劭は朱色の服を戎服の上に加え、画輪車に乗り、蕭斌と同車し、衛従は平常の入朝の儀式の如く、万春門から入った。旧制では、東宮の隊は城に入ることができなかったが、劉劭は門衛に「詔を受けて収討すべきところがある」と言い、後隊が速やかに来るよう命じた。張超之ら数十人が雲龍東中華門に馳せ入った。斎閣に至ると、刃を抜いて直ちに合殿に上った。文帝はその夜、尚書僕射の徐湛之と人を屏いて語り、明け方になっても燭はまだ消えず、門階戸席には一人も侍衛がいなかった。文帝は机で自らを防いだが、張超之が行って殺害し、文帝の五指は全て落ち、徐湛之も殺された。劉劭が合殿の中合に進むと、文帝は既に崩じていた。出て東堂に坐ると、蕭斌が刀を執って侍直し、中書舎人の顧嘏を呼んだ。顧嘏は恐れて直ちに出ず、到着すると、「共に廃されようとしているのに、何故早く啓上しなかったのか」と問うた。答える間もなく斬った。崇礼闥に人を遣わし、吏部尚書の江湛を殺させた。文帝の左細仗主の卜天与が東堂で劉劭を攻撃し、殺された。また人を遣わして潘淑妃を殺させ、その心臓を剖いて邪正を観た。使者は劉劭の意に阿り、「心は邪である」と答えた。劉劭は「邪佞の心であるから、当然邪なのだ」と言った。また文帝の親信の左右数十人を殺した。急ぎ始興王の劉濬を召し、兵を率いて中堂に屯させた。

原文其月二十一日夜,詐作上詔,云:「魯秀謀反,汝可平明率眾入。」因使超之等集素所養士二千餘人皆被甲,云:「有所討」。宿召前中庶子右軍長史蕭斌及左衛率袁淑、中舍人殷仲素、左積弩將軍王正見併入,告以大事,自起拜斌等,因流涕。並驚愕。明旦,劭以朱服加戎服上,乘畫輪車,與蕭斌同載,衛從如常入朝儀,從萬春門入。舊制,東宮隊不得入城,劭語門衛云:「受詔有所收討。」令後速來,張超之等數十人馳入雲龍東中華門。及齋合,拔刃徑上合殿。上其夜與尚書僕射徐湛之屏人語,至旦燭猶未滅,門階戶席並無侍衛。上以幾自鄣,超之行殺,上五指俱落,並殺湛之。劭進至合殿中合,文帝已崩。出坐東堂,蕭斌執刀侍直,呼中書舍人顧嘏。嘏懼,不時出,及至,問曰:「欲共見廢,何不早啟。」未及答,斬之。遣人於崇禮闥,殺吏部尚書江湛。文帝左細仗主卜天與攻劭於東堂,見殺。又使人入殺潘淑妃,剖其心觀其邪正。使者阿旨,答曰:「心邪。」劭曰:「邪佞之心,故宜邪也。」又殺文帝親信左右數十人。急召始興王濬率眾屯中堂。

劉劭は即ち偽位に即き、参朝した百官は僅か数十人に過ぎず、そこで詔書を作って言った、「徐湛之が弑逆を犯した。吾は兵を率いて殿中に入ったが、既に及ぶところではなかった。今罪人は斯くの如く得られ、元凶は克く殄滅された。大赦を行い、元号を太初と改めるべし」。これは平素から道育と定めていたものである。蕭斌が言った、「旧制では年を踰えて元号を改める」。劉劭は侍中の王僧綽に問うと、王僧綽は言った、「晋の恵帝は即位するとすぐに年号を改めた」。劉劭は喜んでこれに従った。初め蕭斌に詔を作らせたが、蕭斌は文才がないと辞したので、王僧綽に作らせた。初め文帝が崩じる前日の甲夜、太史が奏上した、「東方に急兵あり、その禍は測り難い。万人の兵を太極前殿に列べ、以て災いを銷すべし」。文帝は従わなかった。劉劭の弑逆を聞くと、嘆いて言った、「ほとんど我が事を誤らせるところであった」。そこで太史令に問うた、「我は幾年を得るか」。答えて言った、「十年を得ます」。退いて人に語った、「十旬(百日)だけです」。劉劭はこれを聞いて怒り、追いかけて殺させた。

原文劭即偽位,百僚至者裁數十人,乃為書曰:「徐湛之弑逆,吾勒兵入殿,已無所及。今罪人斯得,元凶克殄,可大赦,改元為太初。」素與道育所定也。蕭斌曰:「舊踰年改元。」劭以問侍中王僧綽,僧綽曰:「晉惠帝即位便改年。」劭喜而從之。初使蕭斌作詔,斌辭以不文,乃使王僧綽。始文帝未崩前一日甲夜,太史奏:「東方有急兵,其禍不測,宜列萬人兵於太極前殿,可以銷災。」上不從。及劭弑逆,聞而歎曰:「幾誤我事。」乃問太史令曰:「我得幾年。」對曰:「得十年」。退而語人曰:「十旬耳。」劭聞而怒,驅殺之。

即位が終わると、直ちに病と称して永福省に還り入り、その後大行皇帝を遷して太極殿に昇らせ、蕭斌を尚書僕射とし、何尚之を司空とした。大行の大斂の際、劉劭は病と称して敢えて出なかった。先に諸所に給した兵仗を悉く収めて武庫に還した。人を遣わして魯秀に言った、「徐湛之は常に汝を危うくしようとしていたが、我已に卿のためにこれを除いた」。魯秀をして屯騎校尉の龐秀之と対にして軍隊を掌らせた。侍中の王僧綽を吏部尚書とし、司徒左長史の何偃を侍中とした。

原文即位訖,便稱疾還入永福省,然後遷大行皇帝升太極殿,以蕭斌為尚書僕射,何尚之為司空。大行大斂,劭辭疾不敢出。先給諸處兵仗,悉收還武庫。遣人謂魯秀曰:「徐湛之常欲相危,我已為卿除之。」使秀與屯騎校尉龐秀之對掌軍隊。以侍中王僧綽為吏部尚書,司徒左長史何偃為侍中。

成服の日、劉劭は殿に登って霊前に臨み、慟哭して自ら持することができなかった。広く公卿を訪ね、政道を詢ね求め、使者を四方に分行させた。浙江以東の五郡を分けて会州とし、揚州を省き、司隷校尉を立て、殷沖をこれに補った。大将軍の江夏王劉義恭を太保とし、司徒の南譙王劉義宣を太尉とした。荊州刺史の始興王劉濬は驃騎将軍に進号し、王僧綽は先に廃立に参与したことを以て誅殺された。長沙王劉瑾の弟の劉楷、臨川王劉燁、桂陽侯劉覬、新渝侯劉玠は、皆宿恨を以て死んだ。礼官は劉劭の意を迎え、文帝の諡を敢えて美称を尽くさず、中宗景皇帝と諡した。南譙王劉義宣、随王劉誕らが義師を起こしたと聞くと、諸王を悉く城内に集めた。江夏王劉義恭を移して尚書下舎に住まわせ、劉義恭の諸子を分けて侍中下省に住まわせた。

原文成服日,劭登殿臨靈,號慟不自持。博訪公卿,詢求政道,遣使分行四方。分浙江以東五郡為會州,省揚州,立司隸校尉,以殷沖補之。以大將軍江夏王義恭為太保,司徒南譙王義宣為太尉。荊州刺史始興王濬進號驃騎將軍,王僧綽以先豫廢立見誅。長沙王瑾弟楷、臨川王燁、桂陽侯覬、新渝侯玠,並以宿恨死。禮官希旨,諡文帝不敢盡美稱,諡曰中宗景皇帝。及聞南譙王義宣、隨王誕等起義師,悉聚諸王於城內。移江夏王義恭住尚書下舍,分義恭諸子住侍中下省。

四月、妻の殷氏を立てて皇后とした。

原文四月,立妻殷為皇后。

孝武帝(劉駿)の檄文が届くと、劉劭は自ら平素武事に習熟していると思い、朝士に言った、「卿らは我を助けて文書を処理せよ、戎陣のことに意を置くな。若し寇難あらば、吾自ら出でん、唯だ賊虜の敢えて動かざるを恐れるのみ」。中外戒厳した。孝武帝の世子を侍中省に監禁し、南譙王劉義宣の諸子を太倉の空屋に監禁した。劉劭は劉濬を使わして孝武帝に書を送り、言った、「上(劉劭)自ら六師を御し、太保(劉義恭)もまた鉞を執って臨統す。吾と烏羊は相尋ねて即ち道に出ん。上聖恩は毎に法師を厚くし、殿内に住まわしむ。想うに弟(劉駿)消息を知らんと欲す、故に及ぶ」。烏羊とは南平王劉鑠、法師とは孝武帝の世子の小名である。

原文孝武檄至,劭自謂素習武事,謂朝士曰:「卿等助我理文書,勿厝意戎陣。若有寇難,吾當自出,唯恐賊虜不敢動耳。」中外戒嚴。防孝武世子於侍中省,南譙王義宣諸子於太倉空屋。劭使浚與孝武書,言:「上親禦六師,太保又執鉞臨統,吾與烏羊相尋即道。上聖恩每厚法師,令在殿內住,想弟欲知消息,故及」。烏羊者,南平王鑠,法師,孝武世子小名也。

劉劭は三鎮(孝武帝方)の士庶の家族を殺そうとしたが、江夏王劉義恭と何尚之が説いて言った、「凡そ大事を挙ぐる者は、家口を顧みず。且つ多くは駆逼された者である。今忽ちにその余累を誅すれば、正に彼らの意を堅くするのみ」。劉劭は乃ち詔書を下し、一切問わなかった。

原文劭欲殺三鎮士庶家口,江夏王義恭、何尚之說曰:「凡舉大事,不顧家口;且多是驅逼。今忽誅其餘累,政足堅彼意耳。」劭乃下書,一無所問。

劉濬及び蕭斌は劉劭に勧めて水軍を率いて自ら上流で決戦すべしと言ったが、江夏王劉義恭は義兵が倉卒であり、船舫が陋小であるから、水戦に適さないと慮った。そこで策を進めて、「近くに待つに宜しく、遠く出れば則ち京師は空弱となり、東軍(孝武帝軍)が虚に乗じ、容れ能く患いを為さん。鋭を養って期を待つに如かず」と為すべきだと説いた。劉劭はその議を良しとした。蕭斌は厲色して言った、「南中郎(劉駿)は二十歳の年少で、業としてかくの如き大事を建てることができた。豈に復た量り得んや」。劉劭は受け入れなかった。朝廷の旧臣が己のために用いられぬことを疑い、王羅漢、魯秀を厚く撫で、悉く兵事を彼らに委ね、多く珍玩美色を賜ってその志を悦ばせた。王羅漢は先に南平王劉鑠の右軍参軍であったが、劉劭はその将としての用があるとして、故に心膂として委ねた。或る者が劉劭に石頭城を保つよう勧めたが、劉劭は言った、「昔の人が石頭を固くした所以は、諸侯の勤王を俟つためである。我若し此れを守らば、誰か当に救わん。唯だ力戦してこれを決するべし」。日々自ら出でて行軍し、将士を慰労した。有司に奏させて子の劉偉之を皇太子に立てた。

原文濬及蕭斌勸劭勒水軍自上決戰,江夏王義恭慮義兵倉卒,船舫陋小,不宜水戰。乃進策以為「宜以近待之,遠出則京師空弱,東軍乘虛,容能為患。不如養銳待期」。劭善其議。蕭斌厲色曰:「南中郎二十年少,業能建如此大事,豈復可量。」劭不納。疑朝廷舊臣不為之用,厚撫王羅漢、魯秀,悉以兵事委之,多賜珍玩美色以悅其志。羅漢先為南平王鑠右軍參軍,劭以其有將用,故以心膂委焉。或勸劭保石頭城者,劭曰:「昔人所以固石頭,俟諸侯勤王耳。我若守此,誰當見救,唯應力戰決之。」日日自出行軍,慰勞將士。使有司奏立子偉之為皇太子。

義軍が新亭に至ると、劉劭は朱雀門に登り躬自ら督戦した。将士は劉劭の重賞を懐き、皆そのために力戦した。将に克たんとした時、魯秀が退却の鼓を打ったので、軍は止まり、柳元景らに乗ぜられ、故に大敗した。褚湛之は二子を携え、檀和之と共に帰順した。劉劭は懼れ、走って台城に還った。その夜、魯秀もまた南へ奔った。二十五日、江夏王劉義恭は単騎で南へ奔った。劉劭は劉濬を遣わして劉義恭の諸子を殺させ、輦で蒋侯の神像を宮内に迎え、恩を乞い、大司馬に拝し、鍾山郡王に封じ、蘇侯を驃騎将軍とした。南平王劉鑠に祝文を作らせ、孝武帝を罪状した。二十七日、軒に臨み、子の劉偉之を皇太子に拝し、百官は皆戎服したが、劉劭のみ袞衣を着た。詔書を下して大赦したが、孝武帝、劉義恭、劉義宣、劉誕のみは原赦の例に含めなかった。

原文及義軍至新亭,劭登朱雀門躬自督戰。將士懷劭重賞,皆為之力戰。將克,而魯秀打退鼓,軍乃止,為柳元景等所乘,故大敗。褚湛之攜二子與檀和之同歸順,劭懼,走還台城。其夜,魯秀又南奔。二十五日,江夏王義恭單馬南奔,劭遣濬殺義恭諸子,以輦迎蔣侯神像于宮內,乞恩,拜為大司馬,封鍾山郡王,蘇侯為驃騎將軍。使南平王鑠為祝文,罪狀孝武。二十七日,臨軒,拜子偉之為皇太子,百官皆戎服,劭獨袞衣,下書大赦,唯孝武、劉義恭、義宣、誕不在原例。

五月三日、魯秀らが大航を攻撃し、一艘の船を鉤で得た。王羅漢は昏酣して妓楽を楽しんでいたが、官軍が既に渡ったと聞き、驚いて仗を放り出して帰降した。この夜、劉劭は六門を閉じて守り、門内に塹を鑿ち柵を立て、露車を楼とした。城内は沸き乱れ、将吏は皆城を踰えて出奔した。劉劭は詹叔児に命じて輦及び袞冕服を焼かせた。蕭斌は大航が守られなかったと聞き、惶窘して為すところを知らず、統べる所の者に皆解甲せよと宣令し、尋ねて白幡を戴いて来降し、即ち軍門で誅殺された。

原文五月三日,魯秀等攻大航,鉤得一舶。王羅漢昏酣作妓,聞官軍已度,驚放仗歸降。是夜,劭閉守六門,於門內鑿塹立柵,以露車為樓。城內沸亂,將吏並踰城出奔。劭使詹叔兒燒輦及袞冕服。蕭斌聞大航不守,惶窘不知所為,宣令所統皆使解甲,尋戴白幡來降,即於軍門伏誅。

四日、劉劭の腹心の白直諸同逆は先に閶闔門外に屯していたが、皆走って殿中に入った。程天祚は薛安都の副官譚金と共にこれに乗じ、即座に共に入ることができた。臧質は広莫門から入り、太極殿前で一同と会した。即座に太子左衛率王正見を斬り、建平王・東海王ら七王は皆号泣して共に出た。劉劭は西垣を穿って武庫の井戸に入り、副隊の高禽がこれを捕らえた。劉濬は左右数十人を率い、南平王劉鑠と共に西明門から出て、共に南へ奔り、越城で江夏王劉義恭に遇った。劉濬は下馬し、「南中郎(劉義宣)は今どこにおられるか」と言った。義恭は「既に万国を君臨しておられる」と答えた。また字を呼んで「虎頭(劉濬の字)、来たが、遅すぎはしないか」と言うと、義恭は「恨めしいほど遅い」と言った。また「それでもやはり死なずに済むだろうか」と言うと、義恭は「行闕に赴いて罪を請うがよい」と言った。また「まだ一職を得て自ら効力を尽くせるかどうか分からない」と言うと、義恭はまた「これは測りがたい」と言った。義恭は彼を連れて自ら帰順するよう促し、馬上で首を斬るよう命じた。

原文四日,劭腹心白直諸同逆先屯閶闔門外,並走還入殿。程天祚與薛安都副譚金因而乘之,即得俱入。臧質從廣莫門入,同會太極殿前。即斬太子左衛率王正見,建平、東海等七王並號哭俱出。劭穿西垣入武庫井中,副隊高禽執之。濬率左右數十人,與南平王鑠於西明門出,俱南奔,於越城遇江夏王義恭。濬下馬,曰:「南中郎今何在?」義恭曰:「已君臨萬國。」又稱字曰:「虎頭來,得無晚乎?」義恭曰:「恨晚。」又曰:「故當不死?」義恭曰:「可詣行闕請罪。」又曰:「未審猶能得一職自效不?」義恭又曰:「此未可量。」勒與俱自歸,命於馬上斬首。

始興王

原文始興王

劉濬は字を休明といい、生まれ出る前夜、鵩ふくろうが屋上で鳴き、聞いた者は皆これを嫌った。元嘉十三年、八歳の時、始興王に封ぜられた。劉濬は幼少より文籍を好み、資質は端正で美しく、母の潘淑妃は盛んな寵愛を受けていた。当時六宮に主がなく、潘氏が内政を総覧した。劉濬は人材が美しい上に、母もまた深く愛したので、文帝は大いに心を留めた。建平王劉宏、侍中王僧綽、中書郎蔡興宗らと共に、文義をもって往来した。

原文濬字休明,將產之夕,有鵩鳴於屋上,聞者莫不惡之。元嘉十三年,年八歲,封始興王。濬少好文籍,資質端妍,母潘淑妃有盛寵。時六宮無主,潘專總內政。濬人才既美,母又至愛,文帝甚所留心。與建平王宏、侍中王僧綽、中書郎蔡興宗等,並以文義往復。

初め元皇后は嫉妬深い性質で、潘氏が寵愛を受けたことを恨んで崩御した。故に劉劭は潘氏と劉濬を深く憎んだ。劉濬は将来禍を受けることを憂慮し、曲げて劉劭に仕え、劉劭は彼と遂に親しくなった。多くの過失があり、屡々主上から譲責され、憂い恐れて、劉劭と共に巫蠱を行った。後に京口に出鎮すると、員外散騎侍郎徐爰を通じて江陵を鎮めることを求め、また尚書僕射徐湛之に助力を求めた。しかし尚書令何尚之らは皆、劉濬は太子の次弟であるから、遠く出るべきではないと言った。主上は上流の重鎮には至親がいるべきと考え、故に劉濬を衛将軍・開府儀同三司・荊州刺史とし、都督を加え、護南蛮校尉を領させた。劉濬が入朝すると、京口に還すよう命じ、行留の処分をさせた。京口に着いて数日で巫蠱の事が発覚した。時は二十九年七月である。主上は一日中嘆き、「太子が富貴を図るのはまた一つの道理だが、虎頭(劉濬)までもこのようでは、もはや思慮の及ぶところではない。汝ら母子は一日も私なしでいられようか」と潘淑妃に言った。翌年、荊州赴任の事がようやく行われることになった。二月、劉濬は朝廷に帰った。十四日、臨軒して拝命を受けた。その日、厳道育を匿った事が発覚し、翌朝劉濬が入謝すると、主上の顔色は尋常でなく、その夕方に詰問を加えた。劉濬はただ謝罪した。潘淑妃は劉濬を抱いて泣き、「汝が呪詛の事が発覚した時は、まだ己を刻んで過ちを悔いることを望んでいたのに、どうして突然厳道育を匿ったのか。今日生きていて何の役に立とう、薬を送って来い、私は先ず自ら尽くそう、汝の禍敗を見るに忍びない」と言った。劉濬は衣を振り払って去り、「天下の事はやがて自ら決する、必ずや上(母)に累を及ぼすことはない」と言った。

原文初元皇后性忌,以潘氏見幸,恚恨致崩。故劭深病潘氏及濬。濬慮將來受禍,乃曲意事劭,劭與之遂善。多有過失,屢為上所讓,憂懼,乃與劭共為巫蠱。後出鎮京口,乃因員外散騎侍郎徐爰求鎮江陵,又求助於尚書僕射徐湛之。而尚書令何尚之等咸謂濬太子次弟,不應遠出。上以上流之重,宜有至親,故以濬為衛將軍、開府儀同三司、荊州刺史,加都督,領護南蠻校尉。浚入朝,遣還京口,為行留處分。至京口數日而巫蠱事發,時二十九年七月也。上惋歎彌日,謂潘淑妃曰:「太子圖富貴,更是一理,虎頭復如此,非復思慮所及。汝母子豈可一日無我邪?」明年荊州事方行。二月,濬還朝。十四日,臨軒受拜。其日,藏嚴道育事發,明旦濬入謝,上容色非常,其夕即加詰問。濬唯謝罪。潘淑妃抱濬泣曰:「汝始咒詛事發,猶冀刻己思愆,何意忽藏嚴道育。今日用活何為,可送藥來,吾當先自取盡,不忍見汝禍敗。」濬奮衣去,曰:「天下事尋自判,必不上累。」

劉劭が弑逆した朝、劉濬は西州にいた。府舎人朱法瑜が「台内で叫喚があり、宮門は皆閉ざされ、道上では太子の反逆が伝えられており、禍変の及ぶところを測りかねる」と言った。劉濬は驚いたふりをして「今どうすべきか」と言った。劉濬は劉劭からの確報を得ておらず、事が成就したかどうか分からず、騒然としてどうすべきか分からなかった。将軍王慶が「今宮内に変事があり、主上の安否も分からぬ。臣子たる者として、袂を投げて難に赴くべきである」と言ったが、劉濬は聞き入れなかった。やがて劉劭が張超之を馳せさせて劉濬を召すと、劉濬は状況を聞き終えると、即座に戎服を着て馬に乗って去った。朱法瑜は固く劉濬を止めたが、劉濬は従わなかった。中門に至ると、王慶がまた逆に従うべきでないと諫めた。劉濬は「皇太子の令である。敢えてまた言う者は斬る」と言った。入って劉劭に会うと、荀赤松らを殺すよう勧めた。劉劭が劉濬に「潘淑妃は遂に乱兵に害された」と言うと、劉濬は「これは下情(私心)より元来望んでいたところである」と言った。その悖逆はこのようなものであった。劉劭が敗れようとした時、劉劭に海に入るよう勧め、珍宝や繒帛を輦に載せて船に下ろさせた。

原文劭入弑之旦,濬在西州。府舍人朱法瑜曰:「台內叫喚,宮門皆閉,道上傳太子反,未測禍變所至。」濬陽驚曰:「今當奈何。」浚未得劭信,不知事之濟不,騷擾不知所為。將軍王慶曰:「今宮內有變,未知主上安危,預在臣子,當投袂赴難。」濬不聽。俄而劭遣張超之馳馬召濬,濬問狀訖,即戎服乘馬而去。朱法瑜固止浚,浚不從。至中門,王慶又諫不宜從逆。浚曰:「皇太子令,敢有復言者斬。」及入見劭,勸殺荀赤松等。劭謂濬曰:「潘淑妃遂為亂兵所害。」濬曰:「此是下情由來所願。」其悖逆如此。劭將敗,勸劭入海,輦珍寶繒帛下船。

劉劭が井戸に入ると、高禽が井戸から彼を引き出した。劉劭が天子はどこにいるかと問うと、高禽は「至尊は近く新亭におられる」と言った。劉劭を殿前に連れて行くと、臧質はこれを見て慟哭した。劉劭は「天地の覆載するところとならぬ者を、丈人はどうして泣いて見られるのか」と言った。臧質はそこで彼の逆状を弁明すると、劉劭は答えて「先朝において冤罪で廃されかけた時、獄中の囚人となることができなかった。蕭斌に計を問うと、斌はこのように勧めたのだ」と言った。また臧質に「遠くに流罪としていただくことはできぬか」と言うと、質は「主上は近く航南におられる。自ら処分があるであろう」と言った。劉劭を馬上に縛り、防送して軍門に至らせた。牙門の下に至ると、鞍に据わって顧み望んだ。太尉江夏王劉義恭と諸王が共に臨んでこれを見ると、義恭は「私は背逆して帰順したが、何の大罪があって、たちまち十二人の児(弟たち)を殺したのか」と言った。劉劭は「諸弟を殺したこの一事が、阿父に背いたことだ」と言った。江湛の妻庾氏が車に乗って罵り、龐秀之もまた譏誚して責めた。劉劭は声を厲して「汝ら輩はまた何と煩わしいことをするのか」と言った。先ず彼の四人の子を殺し、南平王劉鑠に「これに何の関係があろうか」と言って、牙門の下で斬った。刑に臨んで嘆いて「図らずも宋室がこのような有様になるとは」と言った。劉劭・劉濬及びその子らは皆大航で梟首され、市中に屍を曝した。劉劭の妻殷氏は廷尉で賜死され、刑に臨んで獄丞江恪に「汝の家では骨肉が相残し合っているのに、どうして天下の無罪の人を枉げて殺すのか」と言った。恪は「皇后として拝命を受けたことが、罪でなくて何であろう」と言った。殷氏は「これは一時の権宜であった。鸚鵡を后とするはずであった」と言った。劉濬の妻褚氏は、丹陽尹褚湛之の娘である。湛之が南奔した当初、既に離絶されていたので、誅殺を免れた。その他の子女や妾媵は皆獄で賜死された。劉劭・劉濬の屍体を江に投げ込み、その他の同逆者及び王羅漢らは皆誅殺された。張超之は兵が入ったと聞くと、合殿の旧基に至り、御床のあった所で止まり、乱兵に殺され、腹を剖き心を刳り、その肉を臠割し、諸将が生で喰らった。その頭骨を焼いた。時に伝国璽が見えず、劉劭に問うと、厳道育の所にあると言った。行って取り、得た。道育と鸚鵡は共に都の街で鞭打ち殺し、石頭の四望山でその屍を焼き、灰を江に撒いた。劉劭の東宮の住んでいた斎舎を毀やち、その場所を汚池とした。高禽を新陽県男に封じた。潘淑妃を追贈して長寧園夫人とし、守塚を置いた。偽司隸校尉殷沖と丹陽尹尹弘は共に賜死された。沖は劉劭のために即位の符文を草し、また妃(劉劭の妻殷氏)の叔父であったためである。弘は劉劭のために兵士を選び配し、その心力を尽くしたためである。

原文及劭入井,高禽于井出之。劭問天子何在,禽曰:「至尊近在新亭。」將劭至殿前,臧質見之慟哭。劭曰:「天地所不覆載,丈人何為見哭。」質因辨其逆狀,答曰:「先朝當見枉廢,不能作獄中囚。問計于蕭斌,斌見勸如此。」又語質曰:「可得為乞遠徙不?」質曰:「主上近在航南,自當有處分。」縛劭馬上,防送軍門。及至牙下,據鞍顧望。太尉江夏王義恭與諸王共臨視之,義恭曰:「我背逆歸順,有何大罪,頓殺十二兒。」劭曰:「殺諸弟此一事負阿父。」江湛妻庾氏乘車罵之,龐秀之亦加誚讓。劭厲聲曰:「汝輩復何煩爾。」先殺其四子,語南平王鑠曰:「此何有哉。」乃斬於牙下。臨刑歎曰:「不圖宋室一至於此。」劭、濬及其子並梟首大航,暴屍於市。劭妻殷氏賜死于廷尉,臨刑謂獄丞江恪曰:「汝家骨肉相殘,何以枉殺天下無罪人。」恪曰:「受拜皇后,非罪而何。」殷氏曰:「此權時耳,當以鸚鵡為後也。」濬妻褚氏,丹陽尹湛之之女。湛之南奔之始,即見離絕,故免於誅。其餘子女妾媵並於獄賜死。投劭、濬屍首于江,其餘同逆及王羅漢等皆伏誅。張超之聞兵入,遂至合殿故基,止於御床之所,為亂兵所殺,剖腹刳心,臠割其肉,諸將生噉之。焚其頭骨。時不見傳國璽,問劭,云在嚴道育處。就取得之。道育、鸚鵡並都街鞭殺,於石頭四望山焚其屍,揚灰于江。毀劭東宮所住齋,汙瀦其處。封高禽新陽縣男。追贈潘淑妃為長寧園夫人,置守塚。偽司隸校尉殷沖、丹陽尹尹弘並賜死。沖為劭草立符文,又妃叔父;弘為劭簡配兵士,盡其心力故也。

南平王

原文南平王

南平穆王劉鑠は字を休玄といい、文帝の第四子である。元嘉十六年、九歳の時、南平王に封ぜられた。幼少より学を好み、文才があり、弱冠に至らず、古詩を擬した三十余首があり、当時の人は陸機に次ぐものと認めた。二十二年、南豫州刺史となり、都督を加えられた。時に文帝は外征に力を注いでおり、南豫州を廃して寿陽に併せ、劉鑠を豫州刺史とし、安蛮校尉を領させた。

原文南平穆王鑠字休玄,文帝第四子也。元嘉十六年,年九歲,封南平王,少好學,有文才,未弱冠,擬古三十餘首,時人以為亞跡陸機。二十二年,為南豫州刺史,加都督。時文帝方事外略,罷南豫州並壽陽,以鑠為豫州刺史,領安蠻校尉。

二十六年、魏の太武帝が汝南の懸瓠城を包囲した。行汝南太守陳憲は城を保って自ら固守し、魏は高楼を築いて弩を施し城内を射た。城内では戸を背負って水を汲んだ。また仏図を毀ち、金像を取って大鉤とし、衝車の端に施して楼堞を牽かせた。城内に一人の沙門がおり、頗る機知に富み、常に奇策を設けてこれに応じた。魏人は蝦蟆車で塹を埋め、肉薄して城を攻め、死者は城と等しく、遂に屍を登らせて城に陵した。陳憲の鋭気はますます奮い、戦士は一もって百に当たらぬ者はなく、殺傷は万を数え、汝水はこれのために流れなくなった。四十余日相拒するうち、劉鑠は安蛮司馬劉康祖と甯朔将軍臧質を遣わしてこれを救い、魏人は攻具を焼いて退いた。

原文二十六年,魏太武圍汝南懸瓠城,行汝南太守陳憲保城自固,魏作高樓施弩射城內,城內負戶以汲。又毀佛圖,取金像以為大鉤,施之沖車端以牽樓堞。城內有一沙門頗有機思,輒設奇以應之。魏人以蝦蟆車填塹,肉薄攻城,死者與城等,遂登屍以陵城。憲銳氣愈奮,戰士無不一當百,殺傷萬計,汝水為之不流。相拒四十餘日,鑠遣安蠻司馬劉康祖與甯朔將軍臧質救之,魏人燒攻具而退。

元凶(劉劭)が帝を弑して立つと、劉鑠を侍中・録尚書事とした。劉劭は宮中に蔣侯の神を迎え、孝武帝の年号と諱いみなを書き出して呪詛し、位号を仮に授けるよう祈請し、劉鑠に策文を作らせた。義軍が宮中に入ると、劉鑠は劉濬と共に孝武帝に帰順した。劉濬は直ちに処刑された。上(孝武帝)は劉鑠を迎えて宮中に入れ、その時倉卒のうちに国璽を失ったが、事態が収まってから改めて鋳造して与えた。侍中・司空に進み、兵を領し属官を置いた。国の喪(文帝の喪)が終わっていないことを理由に、侍中を辞退した。

原文元凶弑立,以鑠為侍中、錄尚書事。劭迎蔣侯神于宮內,疏孝武年諱厭咒,祈請假授位號,使鑠造策文。及義軍入宮,鑠與濬俱歸孝武。濬即伏法。上迎鑠入宮,當時倉卒失國璽,事寧更鑄給之。進侍中、司空,領兵置佐。以國哀未闋,讓侍中。

劉鑠は帰順が最も遅かったため、常に憂いと恐れを抱き、眠りの中でしばしば飛び起きて座り、人と話すことも多く間違っていたり偏っていたりした。家人に言うには、「我は自ら魂が守られていないと感じる」と。劉鑠は人となり才を恃んで狡猾に競い、しばしば兄弟と技芸や能力を比べ計り、帝(孝武帝)ともまた和することができず、食事の中で毒に遇い、間もなく薨じた。司徒を追贈され、楚穆の諡号が加えられた。三人の子:敬猷、敬深、敬先。

原文鑠既歸義最晚,常懷憂懼,每於眠中蹶起坐,與人語亦多謬僻。語家人云:「我自覺無復魂守。」鑠為人負才狡競,每與兄弟計度藝能,與帝又不能和,食中遇毒,尋薨。贈司徒,加以楚穆之諡。三子:敬猷、敬深、敬先。

敬深は南安県侯に封ぜられ、敬先は廬陵王劉紹の後を継いだ。前廃帝の景和の末、劉鑠の妃江氏を召し出して宮中に入れ、左右の者に命じて面前で迫った。江氏は命を受けず、言うには、「もし従わなければ、汝の三子を殺すであろう」と。江氏はなお従わず、そこで使者を邸に遣わして敬猷、敬深、敬先らを殺し、江氏を百回鞭打った。その夜、廃帝もまた崩じた。明帝が即位すると、敬猷に侍中を追贈し、諡して懐といった。孝武帝の第十八子、臨賀王劉子産(字は孝仁)を南平王に改封し、劉鑠の後を継がせたが、拝受せずに殺された。泰始五年、晋平王劉休佑の第七子宣曜を南平王に立て、劉鑠の後を継がせた。劉休佑が死ぬと、宣曜は廃されて本来の身分に戻された。後廃帝の元徽元年、衡陽恭王劉嶷の第二子伯玉を南平王に立て、劉鑠の後を継がせたが、升明三年に誅殺された。

原文敬深封南安縣侯,敬先繼廬陵王紹,前廢帝景和末,召鑠妃江氏入宮,命左右於前逼之。江氏不受命,謂曰:「若不從,當殺汝三子。」江氏猶不從,於是遣使於第殺敬猷、敬深、敬先等,鞭江氏一百。其夕廢帝亦殞。明帝即位,追贈敬猷侍中,諡曰懷。改封孝武帝第十八子臨賀王子產字孝仁為南平王,繼鑠後,未拜被殺。泰始五年,立晉平王休佑第七子宣曜為南平王,繼鑠。休佑死,宣曜被廢還本。後廢帝元徽元年,立衡陽恭王嶷第二子伯玉為南平王,繼鑠後,升明三年被誅。

竟陵王

原文竟陵王

竟陵王劉誕(字は休文)は、文帝の第六子である。元嘉二十年、十一歳で広陵王に封ぜられた。二十六年、雍州刺史となり、都督を加えられた。広陵が凋弊しているため、随郡王に改封された。上(文帝)は大挙して魏を侵そうとし、襄陽が外に関河に接していることから、その資力を広げようと、江州の軍府を廃止し、文武の官をすべて雍州に配属し、湘州から朝廷(台)に入る租税雑物をすべて襄陽に給し、大挙して北を侵す時、諸藩に命じてともに出師させたが、皆奔走して敗れた。ただ劉誕だけが中兵参軍柳元景を遣わして弘農・関・陝を攻克した。元凶(劉劭)が立つと、揚州の浙江以西を司隸校尉の管轄とし、浙江以東の五郡に会州を立て、劉誕を刺史とした。

原文竟陵王誕字休文,文帝第六子也。元嘉二十年,年十一,封廣陵王。二十六年,為雍州刺史,加都督。以廣陵凋弊,改封隨郡王。上欲大舉侵魏,以襄陽外接關河,欲廣其資力,乃罷江州軍府,文武悉配雍州,湘州入台租稅雜物,悉給襄陽,及大舉北侵,命諸藩並出師,皆奔敗,唯誕遣中兵參軍柳元景克弘農、關、陝。元凶立,以揚州浙江西屬司隸校尉,浙江東五郡立會州,以誕為刺史。

孝武帝が入って討伐するに当たり、甯朔将軍顧彬之を遣わして劉誕の節度を受けさせ、劉誕は参軍劉季之に兵を挙げて彬之と合流させた。曲阿の奔牛塘で劉劭の将華欽・庾遵に遇い、これを大破した。事が平定すると、劉誕を荊州刺史とし、都督・衛将軍・開府儀同三司を加えた。劉誕は位号がちょうど劉濬と同じであるのを嫌い、回改を求めたので、驃騎将軍に進号し、班剣二十人を加えられた。南譙王劉義宣が征に就くことを肯わず、劉誕を侍中・驃騎大将軍・揚州刺史とし、開府はもとの通りとした。竟陵王に改封された。劉誕の性格は恭順で温和、士庶の心を得、勇略に富んでいた。

原文孝武入討,遣甯朔將軍顧彬之受誕節度,誕遣參軍劉季之舉兵與彬之並。遇劭將華欽、庾遵于曲阿之奔牛塘,大敗之。事平,以誕為荊州刺史,加都督、衛將軍、開府儀同三司。誕以位號正與濬同,惡之,請求回改,乃進號驃騎將軍,加班劍二十人。南譙王義宣不肯就征,以誕為侍中、驃騎大將軍、揚州刺史,開府如故。改封竟陵王。誕性恭和,得士庶之心,頗有勇略。

翌年、義宣が反逆し、荊・江・兗・豫の四州の力を有し、その勢いは天下を震駭させた。上(孝武帝)の即位して日が浅く、朝野は大いに恐れた。上は乗輿や法物を奉じて義宣を迎えようとしたが、劉誕は固執して不可とし、言うには、「どうしてこの座(帝位)を持って人に与えようか」と。帝は劉誕に節を加え、仗士五十人に六門を出入りさせた。上流が平定したのは、劉誕の力によるものであった。劉誕は初め元凶を討つに当たり、ともに挙兵に与かり、奔牛の捷があり、この時また殊勳があった。上は性格が猜疑心が多く、劉誕をかなり疑い恐れた。そして劉誕が邸宅を造営するに、工巧を極め、園池の美は一時に冠たるものがあった。多くの材力の士を集めてこれを充実させた。邸内の精甲や利器は、上品でないものはなかった。上はますます不平を抱いた。

原文明年義宣反,有荊、江、兗、豫四州之力,勢震天下。上即位日淺,朝野大懼。上欲奉乘輿法物以迎義宣,誕固執不可,曰:「奈何持此座與人。」帝加誕節,仗士五十人出入六門。上流平定,誕之力也。誕初討元凶,豫同舉兵,有奔牛之捷,至是又有殊勳。上性多猜,頗相疑憚。而誕造立第舍,窮極工巧,園池之美,冠于一時。多聚材力之士實之。第內精甲利器,莫非上品。上意愈不平。

孝建二年、司空・太子太傅として出て都督南徐州刺史となった。上は京口が都に近いため、なお劉誕を疑った。

原文孝建二年,以司空太子太傅出為都督南徐州刺史。上以京口去都密邇,猶疑之。

大明元年秋、また出て南兗州刺史となり、都督を加えられた。劉誕は猜疑されていることを知り、またひそかに備えをした。広陵に至り、魏が辺境を侵したことを理由に、城隍を修築し、糧を集め甲を練った。嫌隙が既に明らかとなり、道路では常に劉誕が反逆すると言われた。

原文大明元年秋,又出為南兗州刺史,加都督。誕知見猜,亦潛為之備。至廣陵,因魏侵邊,修城隍,聚糧練甲。嫌隙既著,道路常云誕反。

三年、建康の人陳文紹が訴えるには、父の陳饒が劉誕の府史として、常に山に入らせて道路を図画させ、帰宅を許さなかったという。劉誕は大いに怒り、人を遣わして陳饒を殺させた。呉郡の人劉成もまた訴えるには、息子の劉道龍が劉誕に仕え、劉誕が石頭城内で乗輿や法物を整え、警蹕の唱え方を習っているのを見て、仲間に話したという。劉誕は知ると、密かに捕らえて道龍を殺させた。豫章の人陳談之もまた上書して言うには、弟の陳詠之が劉誕の側におり、劉誕が側近の莊慶・傅元礼らとひそかに奸逆を図り、常に陛下の年齢と姓諱を書き出し、巫の鄭師憐の家に行って呪詛しているのを見たという。詠之は建康右尉の黄達と往来しており、劉誕はその漏洩を疑い、罪を誣いて殺された。

原文三年,建康人陳文紹訴父饒為誕府史,恒使入山圖畫道路,不聽歸家。誕大怒,使人殺饒。吳郡人劉成又訴稱息道龍伏事誕,見誕在石頭城內修乘輿法物,習唱警蹕,向伴侶言之。誕知,密捕殺道龍。豫章人陳談之又上書稱弟詠之在誕左右,見誕與左右莊慶、傅元禮等潛圖奸逆,常疏陛下年紀姓諱,往巫鄭師憐家咒詛。詠之與建康右尉黃達往來,誕疑其宣漏,誣以罪被殺。

その年の四月、上は有司に命じて劉誕の罪悪を奏上させ、属籍を絶ち、爵土を削り、法獄に収めるべきとした。上は許さなかった。有司がまた固く請うたので、爵を侯に貶し、国に行くよう命じた。

原文其年四月,上使有司奏誕罪惡,宜絕屬籍,削爵土,收付法獄。上不許。有司又固請,乃貶爵為侯,遣令之國。

上は劉誕を謀ろうとし、義興太守垣閬を兗州刺史とし、羽林の禁兵を配属した。給事中戴明宝を遣わして垣閬に随行し劉誕を襲撃させ、垣閬には鎮守を名目とさせた。垣閬が広陵に至った時、劉誕はまだ悟らなかった。明宝は夜に劉誕の典簽蔣成に内応するよう報せたが、蔣成は府の舎人許宗之に告げ、宗之が劉誕に告げた。劉誕は驚いて起き、録事参軍王璵之を召して言うには、「我は天に何の罪があって、ここに至ったのか」と。蔣成を斬り、兵を率いて自衛した。腹心の率いる壮士を遣わして明宝らを撃ち破り、垣閬は即時に害に遇い、明宝は海陵の界から逃げ帰った。

原文上將謀誕,以義興太守垣閬為兗州刺史,配以羽林禁兵。遣給事中戴明寶隨閬襲誕,使閬以之鎮為名。閬至廣陵,誕未悟也。明寶夜報誕典簽蔣成使為內應,成以告府舍人許宗之,宗之告誕。誕驚起,召錄事參軍王璵之曰:「我何罪於天,以至此。」斬蔣成,勒兵自衛。遣腹心率壯士擊明寶等破之,閬即遇害,明寶逃自海陵界還。

上は車騎大将軍沈慶之を遣わして劉誕を討たせた。劉誕は奉表して城外に投げ入れ、国に対して負うところがないことを自ら申し述べ、併せて帝の宮闈の醜事を言った。孝武帝は劉誕に対して憤りが深く、劉誕の左右の腹心で同籍の期親(喪服一年の親族)をすべて誅し、死者は数千に及んだ。車駕は出て宣武堂に頓し、内外は厳戒態勢をとった。劉誕は衆軍が大いに集まるのを見て、城を棄てて北に走ろうとしたが、十余里行くと、兵士たちは皆行きたがらず、劉誕に請うて城に戻った。

原文上遣車騎大將軍沈慶之討誕,誕奉表投之城外,自申于國無負,並言帝宮闈之醜。孝武忿誕深切,凡誕左右腹心同籍期親並誅之,死者千數。車駕出頓宣武堂,內外纂嚴。誕見眾軍大集,欲棄城北走,行十餘里,眾並不欲去,請誕乃還城。

五月十九日の夜、流星が長さ十余丈で西北から来て城内に墜ちた。これを天狗という。占いには「天狗の墜つる所、下に伏屍流血あり」とある。広陵城はもと南門を開けず、「南門を開く者はその主に利あらず」と言われていた。劉誕はこれを開いた。彭城の邵領宗が城内でひそかに死士を結集して劉誕を襲おうとし、先ず慶之に誠意を示そうとして、劉誕に間諜となることを求めて説き、許された。領宗は出て誠意を示し終えると、再び城内に戻った。事が漏れ、劉誕は二百回鞭打ち、拷問したが服さず、遂に支解した。

原文五月十九日夜,有流星長十餘丈從西北來墜城內,是謂天狗。占曰:「天狗所墜,下有伏屍流血。」廣陵城舊不開南門,云:「開南門者不利其主」。誕乃開焉。彭城邵領宗在城內陰結死士欲襲誕,先欲布誠于慶之,乃說誕求為間構,見許。領宗既出致誠畢,復還城內。事泄,誕鞭二百,考問不伏,遂支解之。

上は章(印章)二組を送らせた。一つは「竟陵県開国侯、食邑千戸」とし、劉誕を生け捕りにする賞を募った。もう一つは「建興県開国男、食邑三百戸」とし、先に登城する者への賞を募った。もし外城を克すれば一つの烽火を挙げ、内城を克すれば二つの烽火を挙げ、劉誕を生け捕りにすれば三つの烽火を挙げよと。

原文上遣送章二紐:其一曰:「竟陵縣開國侯,食邑千戶」。募賞禽誕。其二曰:「建興縣開國男,食邑三百戶」。募賞先登。若克外城舉一烽,克內城舉二烽,禽誕舉三烽。

七月二日、慶之は進軍し、その外城を陥落させ、勝ちに乗じてまた小城を陥落させた。誕は軍が入ったと聞き、走って後園に趣き水に墜ち、引き出されて殺され、首は建鄴に伝送され、よって広陵に葬られ、姓を留氏に貶められた。帝は城中の者を大小の別なく悉く斬るよう命じたが、慶之は諫めて執り、五尺以下の者は全うさせ、ここにおいて同党は悉く誅殺に伏した。城内の女口は軍の賞与とされ、男丁は殺されて京観とされ、死者なお数千人に及び、風の朝雨の夜毎に号哭の声があった。誕の母殷氏、妻徐氏はともに自殺した。殷氏を長寧園淑妃に追贈した。

原文七月二日,慶之進軍,克其外城,乘勝又克小城。誕聞軍入,走趣後園墜水,引出殺之,傳首建鄴,因葬廣陵,貶姓留氏。帝命城中無大小悉斬,慶之執諫,自五尺以下全之,於是同黨悉伏誅。城內女口為軍賞,男丁殺為京觀,死者尚數千人,每風晨雨夜有號哭之聲。誕母殷、妻徐並自殺。追贈殷長寧園淑妃。

初め、誕が南徐州刺史であった時、京口にあり、夜大風が吹いて屋瓦を飛ばし落とし、城門の鹿床が倒れ覆り、誕は心にこれを嫌った。及び広陵に遷鎮するに当たり、将に城に入らんとする時、沖風が暴に起こり、塵を揚げ、昼も暗くなった。また嘗て中夜に閑坐していた時、赤い光が室を照らし、見る者驚愕しない者はなかった。誕の左右の侍直が眠っている中で、人が告げる夢を見た、「官(主君)の鬚髪が矟の毦(飾り)になる」。既に覚めると髻を失っていた。このような者が数十人いた。誕は甚だ怪しみ恐れた。大明二年、人夫を発して広陵城を築かせた時、誕が巡行すると、ある人が輿を遮り、声を揚げて大罵した、「大兵が間もなく至る。どうして百姓を辛苦させるのか」。誕はこれを捕らえさせ、その本末を問うた。答えて言う、「姓は夷、名は孫、家は海陵にある。天公が道と仏と先に議し、この間の人を焼き除けようとした。道と仏が苦諫して、強いて今に至るまで得た。大禍が将に至らんとする。どうして六慎門を立てないのか」。誕が問う、「六慎門とはどういうものか」。答えて言う、「古に言う、禍は六慎門を過ぎず」。誕はその言葉が狂悖であるとして、これを殺した。また五音士が忽ち狂易して鬼を見、驚き怖れて啼哭し、「外軍が城を囲み、城上に白布の帆を張っている」と言った。誕はこれを捕らえて記録し、二十余日にしてようやく殺した。城が陥落した日、雲霧が晦冥し、白虹が北門に臨み、城内に亘って連なった。

原文初,誕為南徐州刺史,在京口,夜大風飛落屋瓦,城門鹿床倒覆,誕心惡之。及遷鎮廣陵,將入城,沖風暴起,揚塵,晝晦。又嘗中夜閑坐,有赤光照室,見者莫不駭愕。誕左右侍直,眠中夢人告之曰:「官鬚髮為矟毦。」既覺已失髻矣,如此者數十人。誕甚怪懼。大明二年,發人築廣陵城,誕循行,有人幹輿,揚聲大罵曰:「大兵尋至,何以辛苦百姓。」誕使執之,問其本末。答曰:「姓夷名孫,家在海陵。天公與道佛先議,欲燒除此間人。道佛苦諫,強得至今。大禍將至,何不立六慎門。」誕問:「六慎門雲何」?答曰:「古有言,禍不過六慎門。」誕以其言狂悖,殺之。又五音士忽狂易見鬼,驚怖啼哭曰:「外軍圍城,城上張白布帆。」誕執錄二十餘日乃殺。城陷之日,雲霧晦冥,白虹臨北門,亙屬城內。

八年、前廃帝が即位し、義陽王昶が徐州刺史となり、道すがら広陵を経由し、墓に至って哀悼の意を尽くし、表を奉って誕の改葬を請うた。詔して誕及び妻子を庶人の礼をもって葬らせた。明帝泰始四年、また改葬し、少牢をもって祭った。

原文八年,前廢帝即位,義陽王昶為徐州刺史,道經廣陵,至墓盡哀,表請改葬誕。詔葬誕及妻子並以庶人禮。明帝泰始四年,又改葬,祭以少牢。

王璵之は琅邪の人、才局あり。その五人の子は悉く建鄴にいた。璵之が嘗て城に乗った時、慶之はその五人の子を縛り、示して招き、富貴を約束した。璵之は言った、「私は主君の厚恩を受けており、二心を持つことはできない。三十の年、死に場所を得ずとも、どうして私的な親情で誘うことができようか」。五人の子は外で号叫し、その父を呼んだ。城が平定されると、慶之は悉くこれを撲殺した。

原文王璵之,琅邪人,有才局。其五子悉在建鄴。璵之嘗乘城,慶之縛其五子,示而招之,許以富貴。璵之曰:「吾受主王厚恩,不可以二心。三十之年,未獲死所耳,安可以私親誘之。」五子號叫于外,呼其父。及城平,慶之悉撲殺之。

建平王

原文建平王

建平宣簡王宏は字を休度といい、文帝の第七子である。早く母を喪った。元嘉二十一年、十一歳で建平王に封ぜられた。宏は若くして閑素であり、文籍を篤く好み、文帝の寵愛は殊に常ならず、雞籠山に邸宅を立てさせ、山水の美を尽くさせた。建平国の職は他の国より一階高く、歴任して中護軍、中書令となった。

原文建平宣簡王宏字休度,文帝第七子也。早喪母。元嘉二十一年,年十一,封建平王。宏少而閑素,篤好文籍,文帝寵愛殊常,為立第於雞籠山,盡山水之美。建平國職高他國一階,歷位中護軍,中書令。

元凶が弑逆して立ち、孝武が入って討とうとした時、劭は宏を殿内に拘束したため、自ら抜け出す由もなかった。孝武は先に嘗て一手板を宏に与えており、宏は左右の親信周法道に手板を持たせて孝武のもとに遣わした。事が平定されると、尚書左僕射とし、太后を迎えさせた。還って中軍将軍、中書監を加えられた。人となり謙虚で倹約、周到で慎重、礼を賢者に接し士を受け入れ、政事に明達し、上は甚だ信頼し仗った。転じて尚書令となった。宏は若い頃から病多く、尚書令の解任を求めた。本号のまま開府儀同三司とされたが、拝せずに薨じた。司徒を追贈された。上は痛悼すること甚だしく、毎月の朔望に霊前に臨み、自ら墓誌銘並びに誄を作った。五年、諸弟の国に各千戸を益したが、薨じた者はその例に含まず、ただ宏のみが追って益された。子の景素が嗣いだ。

原文元凶弑立,孝武入討,劭錄宏殿內,自拔莫由。孝武先嘗以一手板與巨集,巨集遣左右親信周法道齎手板詣孝武。事平,以為尚書左僕射,使迎太后。還加中軍將軍、中書監。為人謙儉周慎,禮賢接士,明達政事,上甚信仗之。轉尚書令。宏少多病,求解尚書令。以本號開府儀同三司,未拜薨。追贈司徒。上痛悼甚至,每朔望出臨靈,自為墓誌銘並誄。五年,益諸弟國各千戶,薨者不在其例,唯宏追益。子景素嗣。

景素は若くして父の風あり、位は南徐州刺史、都督を加えられた。桂陽王休範が叛逆した時、景素は兵衆を纂集して朝廷に赴くことを名目としたが、陰に両端を懐いていた。事が平定されると、鎮北将軍に進号した。

原文景素少有父風,位南徐州刺史,加都督。桂陽王休範為逆,景素雖纂集兵眾以赴朝廷為名,而陰懷兩端。及事平,進號鎮北將軍。

景素は文章書籍を好み、才義の士を招集し、以て名誉を収めた。これにより朝野の属意するところとなった。しかるに後廃帝が狂凶にして道を失い、内外皆景素こそ神器に当たるべきであると言った。ただ廃帝の生母陳氏の親戚がこれを疾み忌み、また楊運長、阮佃夫はともに明帝の旧隷であり、幼主を貪ってその権を久しくすることを図り、景素が立ったならば長主(成年の君主)に容れられぬことを慮り、深く相忌み憚った。

原文景素好文章書籍,招集才義之士,以收名譽,由是朝野屬意。而後廢帝狂凶失道,內外皆謂景素宜當神器;唯廢帝所生陳氏親戚疾忌之,而楊運長、阮佃夫並明帝舊隸,貪幼主以久其權,慮景素立,不見容於長主,深相忌憚。

元徽三年、景素の防合将軍王季符が景素を恨み、因って奔って告げた。運長らは便ち軍を遣わして討たんとした。斉高帝及び衛将軍袁粲以下はともにこれを保持し、景素もまた馳せて世子延齢を都に還らせ、具に自ら申し理めた。運長らは乃ち季符を梁州に徙し、また景素の鎮北将軍、開府儀同三司を奪った。ここより廃帝の狂悖日増しに甚だしく、朝野ともに心を景素に属した。陳氏及び運長らはますます相猜疑した。景素はこれにより稍々自防の計を為し、多く金帛をもって材力の士を結んだ。時に大臣は誅夷され、孝武の諸子孫は或いは殺され或いは廃され、再び朝に在る者無かった。かつ景素は藩国に在って甚だ人心を得ていたが、謗りの声は日々積もり、深く憂懼を懐いた。嘗て故吏の劉璡と独り曲台に処した時、鵲が承塵の上に集まり、飛び鳴きて相い追った。景素は涙ぐんで言った、「斯の鳥の如きは、遊べば則ち風煙の上に参じ、止まれば則ち林木の下に隠れ、飢えば則ち啄み、渇けば則ち飲み、形體は物に累わらず、得失は心に関せず、何と楽しいことか」。時に廃帝は単馬独り出で、郊野を遊走した。輔国将軍曹欣之らは廃帝の出行を待ち伏せ、因って衆を聚めて難を為し、事が成れば景素を奉らんと謀った。景素は毎度これを禁め、匆匆たる挙動を欲しなかった。運長は密かに傖人周天賜を遣わし、偽って景素に投じ異計を勧めさせた。景素は知るや即ちこれを斬り、首を台に送り返した。

原文元徽三年,景素防合將軍王季符恨景素,因奔告之。運長等便欲遣軍討之。齊高帝及衛將軍袁粲以下並保持之,景素亦馳遣世子延齡還都,具自申理。運長等乃徙季符于梁州,又奪景素鎮北將軍、開府儀同三司。自是廢帝狂悖日甚,朝野並屬心景素。陳氏及運長等彌相猜疑。景素因此稍為自防之計,多以金帛結材力之士。時大臣誅夷,孝武諸子孫或殺或廢,無復在朝者。且景素在蕃甚得人心,而謗聲日積,深懷憂懼。嘗與故吏劉璡獨處曲台,有鵲集於承塵上,飛鳴相追。景素泫然曰:「若斯鳥者,游則參於風煙之上,止則隱于林木之下,饑則啄,渴則飲,形體無累於物,得失不關於心,一何樂哉。」時廢帝單馬獨出,遊走郊野。輔國將軍曹欣之等謀候廢帝出行,因聚眾作難,事克,奉景素。景素每禁之,未欲匆匆舉動。運長密遣傖人周天賜偽投景素勸為異計,景素知即斬之,送首還台。

四年七月、羽林監垣祗祖が景素のもとに奔り、台城が既に潰えたと言った。景素はこれを信じ、即ち兵を挙げた。運長らは常に景素に異志あることを疑っており、即ち厳を纂した。景素は本より威略に乏しく、何を為すべきか知らず、遂に台軍に破られ、斬られた。即ち京口に葬られた。

原文四年七月,羽林監垣祗祖奔景素,言台城已潰。景素信之,即舉兵。運長等常疑景素有異志,即纂嚴。景素本乏威略,不知所為,竟為台軍破,斬之。即葬京口。

景素の性質は甚だ仁孝であり、献太妃に事え、朝夕侍養に違わなかった。太妃が不安を覚えると、景素は傍らにいて蓬髪となった。人と言う時は呴呴として、常にその情を傷つけることを恐れた。また甚だ儉素であり、荊州に在った時、州に高齋があり刻楹柏構であったが、景素は終に処らなかった。朝廷は甲第を賜わんとしたが、辞して当たらなかった。両宮の遺した珍玩は、笥篋の中で塵を被った。食は常に一肉を過ぎず、器用は瓦素であった。時に鏤玉の器を献ずる者があった。景素は主簿何昌宇を顧みて言った、「我はこれを持って何に用いようか」。乃ち謝してこれを返した。敗れた後、昌宇と故記室王摛らが上書してその冤罪を訟じた。斉が禅を受けると、景素の故秀才劉璡がまた上書してその徳美を述べ、冤罪を陳べたが、併せて省みられなかった。斉武帝が即位するに至り、詔を下して言った、「宋の建平王劉景素は、名父の子なり。末路に図を失うと雖も、原心に本あり。礼を以て旧塋に葬ることを聴すべし」。

原文景素性甚仁孝,事獻太妃,朝夕不違侍養。太妃有不安,景素傍行蓬發。與人言呴呴,常恐傷其情。又甚儉素,為荊州時,州有高齋刻楹柏構,景素竟不處。朝廷欲賜以甲第,辭而不當。兩宮所遺珍玩,塵於笥篋。食常不過一肉,器用瓦素。時有獻鏤玉器,景素顧主簿何昌宇曰:「我持此安所用哉。」乃謝而反之。及敗後,昌宇與故記室王摛等上書訟其冤。齊受禪,景素故秀才劉璡又上書述其德美,陳冤,並不見省。至齊武帝即位,下詔曰:「宋建平王劉景素,名父之子,雖末路失圖,而原心有本。可聽以禮葬舊塋。」

廬江王

原文廬江王

廬江王褘は字を休秀といい、文帝の第八子である。元嘉二十二年、十一歳で東海王に封ぜられた。大明七年、司空に進位した。明帝が践阼すると、太尉に進み、廬江王に封ぜられた。初め、廃帝が褘を驢に似ていると目した。上は廃帝の言葉が当たっているとして、故に改封したのである。

原文廬江王褘字休秀,文帝第八子也。元嘉二十二年,年十一,封東海王。大明七年,進位司空。明帝踐阼,進太尉,封廬江王。初,廢帝目褘似驢,上以廢帝之言類,故改封焉。

文帝の諸子のうち、劉褘は特に凡庸で劣っており、諸兄弟は皆これを嗤い軽蔑した。南平王劉鑠が薨去し、その子の敬深が婚礼を挙げるにあたり、劉褘はこれを見舞い、孝武帝に伎楽を借りることを願い出た。孝武帝は答えて言うには、「婚礼ではそもそも楽を挙げず、かつ敬深は孤苦であるから、伎楽は適切ではない」と。この時、明帝は建安王劉休仁に詔して言うには、「人は既に西方公を数に入れないので、汝が諸王の長となれ」と。当時劉褘は西州に住んでいたので、これを西方公と呼んだのである。泰始五年、河東の柳欣慰が謀反を企て、劉褘を立てようとし、劉褘はこれと応酬し和した。欣慰は征北諮議参軍杜幼文と結び、幼文はその事を詳しく上奏した。上はその罪悪を暴き、南豫州刺史・車騎将軍・開府儀同三司に貶黜した。上は腹心の楊運長に兵を率いさせて防衛させた。翌年、また役人に命じて劉褘が怨み恨んでいることを奏上させ、自殺を強要し、宣城に葬った。

原文文帝諸子,褘尤凡劣,諸兄弟並蚩鄙之。南平王鑠薨,子敬深婚,褘視之,白孝武借伎。孝武答曰:「婚禮既不舉樂,且敬深孤苦,伎非宜也。」至是明帝與建安王休仁詔曰:「人既不比數西方公,汝便為諸王之長。」時褘住西州,故謂之西方公。泰始五年,河東柳欣慰謀反,欲立褘,褘與相酬和。欣慰結征北諮議參軍杜幼文,幼文具奏其事。上暴其罪惡,黜為南豫州刺史、車騎將軍、開府儀同三司。上遣腹心楊運長領兵防衛。明年,又令有司奏褘怨懟,逼令自殺,葬宣城。

晉熙王

原文晉熙王

晉熙王劉昶、字は休道、文帝の第九子である。元嘉二十二年、十歳の時に義陽王に封ぜられた。大明年間、中書令・中軍将軍・開府儀同三司の位に至った。廃帝が即位すると、徐州刺史となり、都督を加えられた。劉昶は軽率で狭量かつ性急であり、孝武帝に仕えることができず、大明年間には常に嫌疑をかけられ責められ、世間では常に劉昶に異心があると噂された。

原文晉熙王昶字休道,文帝第九子也。元嘉二十二年,年十歲,封義陽王。大明中,位中書令、中軍將軍、開府儀同三司。廢帝即位,為徐州刺史,加都督。昶輕訬褊急,不能事孝武,大明中常被嫌責,人間常言昶當有異志。

廃帝は群公を誅殺した後、ますます狂惑を極め、常に側近に語って言うには、「朕が大位について以来、まだ戒厳を行わず、人をして憂鬱ならしめている」と。江夏王劉義恭が誅殺された後、劉昶は上表して入朝を求め、典籤の蘧法生を使者として派遣した。帝は法生に言うには、「義陽王は太宰と謀反を企てている。朕はまさにこれを討伐しようとしていたところだ。今、帰還を求めてきたことを知り、甚だ善い」と。また法生に問うには、「義陽王が謀反を企てているのに、何故啓上しなかったのか」と。法生は恐れ、彭城に逃げ帰った。帝はこれにより北討を行った。法生が到着すると、劉昶は即座に兵を起こしたが、統内の諸郡は皆これに従わなかった。劉昶は事が成功しないと悟り、夜に門を開いて魏に奔り、母と妻を棄て、ただ妾一人を連れ、男装させて馬に乗せて従わせた。道中で慷慨として断句を作り、「白雲は鄣に満ち来たり、黄塵は半天に起こる。関山は四面に絶え、故郷は幾千里」と詠んだ。そこで妾の手を握りしめて南を望み慟哭し、左右の者は哀しみ咽ぶ者なくはなかった。節目節目に悲しみ慟哭し、遥かにその母を拝した。

原文廢帝既誅群公,彌縱狂惑,常語左右曰:「我即大位來,遂未戒嚴,使人邑邑。」江夏王義恭誅後,昶表求入朝,遣典簽蘧法生銜使。帝謂法生:「義陽與太宰謀反,我政欲討之,今知求還,甚善。」又問法生:「義陽謀反,何不啟?」法生懼,走還彭城,帝因此北討。法生至,昶即起兵,統內諸郡並不受命。昶知事不捷,乃夜開門奔魏,棄母妻,唯攜妾一人,作丈夫服騎馬自隨。在道慷慨為斷句曰:「白雲滿鄣來,黃塵半天起。關山四面絕,故鄉幾千里。」因把姬手南望慟哭,左右莫不哀哽。每節悲慟,遙拜其母。

劉昶の家族は都に還され、二人の妾がそれぞれ一人の子を産んだ。明帝が即位すると、年長の方を思遠、年少の方を懷遠と名付け、まもなく共に亡くなった。帝は金千両をもって魏から劉昶を贖おうとしたが得られず、そこで第六皇子の劉燮、字は仲綏を劉昶の後継ぎとし、晉熙王に封じた。明帝は劉燮を劉昶の後継ぎとした後、詔して言うには、「晉熙国太妃謝氏は、冷酷で情が薄く、世の道理に比べるものも稀である。骨肉の至親ですら尚お互いに蔑み棄てるのであれば、ましてや義によって結ばれた者にとって、苦しみを免れることは難しい。その本家に還すべく、藩王としての秩序を削り絶つ」と。

原文昶家還都,二妾各生一子,明帝即位,名長者曰思遠,小者曰懷遠,尋並卒。帝以金千兩贖昶于魏不獲,乃以第六皇子燮字仲綏繼昶,封為晉熙王。明帝既以燮繼昶,乃詔曰:「晉熙國太妃謝氏,沈刻無親,物理罕比,骨肉至親,尚相棄蔑,況以義合,免苦為難。可還其本家,削絕蕃秩。」

先に、謝氏を射氏と改めていた。元徽元年、劉燮が四歳の時、郢州えいしゅう刺史とした。翌年、劉昶の生母である謝氏を再び晉熙国太妃とした。斉が禅譲を受けると、劉燮は陰安県公に降封され、謀反を企てたとして死を賜った。

原文先是,改謝氏為射氏。元徽元年,燮年四歲,以為郢州刺史。明年,復昶所生謝氏為晉熙國太妃。齊受禪,燮降封陰安縣公,謀反賜死。

武昌王

原文武昌王

武昌王劉渾、字は休深、文帝の第十子である。元嘉二十四年、九歳の時に汝陰王に封ぜられた。後に武昌に移封された。

原文武昌王渾字休深,文帝第十子也。元嘉二十四年,年九歲,封汝陰王。後徙武昌。

劉渾は幼少より凶暴で残忍であり、かつて側近に憤り、防身刀を抜いてこれを斬りつけた。元凶(劉劭)が弑逆して立つと、中書令とした。山陵(文帝の陵)の夕べに、裸身で頭を露わにして散騎省に行き戯れ、弓を引き絞って通直郎の周朗の枕を射て、笑い楽しみとした。

原文渾少而凶戾,嘗忿左右,拔防身刀斫之。元凶弑立,以為中書令。山陵夕,裸身露頭往散騎省戲,因彎弓射通直郎周朗中枕,以為笑樂。

孝建元年、雍州刺史となり、雍・梁・南北秦の四州および荊州の竟陵・随の二郡の諸軍事を監察し、甯蛮校尉を兼ねた。任地に至ると、側近とともに檄文を作り、自ら楚王と称し、年号を元光とし、百官を備え置いて戯れ笑いとした。長史の王翼之がその手跡を入手し、封をして孝武帝に呈上した。上は役人に命じて奏上させて庶人に免じ、太常に命じて属籍を絶たせ、始安郡に付させ、自殺を強要した。そのまま襄陽に葬った。大明四年、母の江太妃の墓の傍らに還葬することを許された。明帝が即位すると、武昌県侯を追封した。

原文孝建元年,為雍州刺史,監雍梁南北秦四州荊州之竟陵隨二郡諸軍事、甯蠻校尉。至鎮,與左右人作文檄,自稱楚王,號年為元光,備置百官以為戲笑。長史王翼之得其手跡,封呈孝武。上使有司奏免為庶人,下太常絕屬籍,使付始安郡,逼令自殺。即葬襄陽。大明四年,聽還葬母江太妃墓次。明帝即位,追封武昌縣侯。

建安王

原文建安王

建安王劉休仁、文帝の第十二子である。元嘉二十九年、十歳の時に建安王に立てられた。前廃帝の景和元年、累進して護軍将軍となった。当時、帝は狂悖で道に外れ、群公を誅殺害し、諸父(叔父たち)を畏れ憚り、皆を殿内に集め、駆り立て殴打し引きずり回し、もはや人の道理がなかった。休仁および明帝(劉彧)、山陽王劉休佑は体形が共に肥満で太っており、帝は籠に入れて秤にかけ、明帝が特に肥っていたので、猪王と号した。休仁を殺王、休佑を賊王と号した。三王は年長であったため、特に畏れ憚り、常に側近に置き、左右を離さなかった。東海王劉褘は凡庸で劣っており、驢王と号した。桂陽王劉休範、巴陵王劉休若は年少であったため、共にゆったりと構えることができた。かつて木の槽に飯を盛り、様々な食物を中に入れ、かき混ぜて和合させ、地面に坑の罠を掘り、泥水で満たした。明帝を裸にして坑の中に入れ、槽の食物を前に置き、口で槽の中のものを食べるように命じ、これをもって歓笑とした。明帝および休仁、休佑を害そうとし、前後十数回に及んだ。休仁は機略に富み、常に笑いと冗談で諂い媚び、応酬して喜ばせたので、事を先延ばしにすることができた。常に休仁の前で、側近に命じて休仁の生母である楊太妃を淫らに迫らせた。側近は皆やむを得ず命令に従ったが、右衛将軍の劉道隆に至っては、道隆は喜んで旨に奉じ、あらゆる醜態を尽くした。当時、廷尉の劉蒙の妾が臨月で妊娠しており、帝はこれを後宮に迎え入れ、男児が生まれることを期待し、太子に立てようとした。明帝がかつて旨に逆らった時、帝は怒り、彼を裸にし、その手足を縛り、杖で手足を貫いて中に通し、担がせて太官に渡させ、即日に豚を屠るように命じた。休仁は笑って帝に言うには、「まだ死なせるべきではありません」と。帝がその理由を問うと、休仁は言うには、「皇太子が生まれるのを待ち、豚を殺して肝肺を取るのです」と。帝の怒りは解け、言うには、「暫く廷尉に預けよ」と。一晩で釈放した。

原文建安王休仁,文帝第十二子也。元嘉二十九年,年十歲,立為建安王。前廢帝景和元年,累遷護軍將軍。時帝狂悖無道,誅害群公,忌憚諸父,並聚之殿內,驅捶陵曳,無復人理。休仁及明帝、山陽王休佑形體並肥壯,帝乃以籠盛稱之,以明帝尤肥,號為豬王。號休仁為殺王,休佑為賊王。以三王年長,尤所畏憚,故常錄以自近,不離左右。東海王褘凡劣,號之驢王。桂陽王休範、巴陵王休若年少,故並得從容。嘗以木槽盛飯,內諸雜食,攪令和合,掘地為坑阱,實之以泥水。裸明帝內坑中,以槽食置前,令以口就槽中食之,用為歡笑。欲害明帝及休仁、休佑,前後以十數。休仁多計數,每以笑調佞諛詶悅之,故得推遷。常於休仁前,使左右淫逼休仁所生楊太妃。左右並不得已順命,至右衛將軍劉道隆,道隆歡以奉旨,盡諸醜狀。時廷尉劉蒙妾孕臨月,帝迎入後宮,冀其生男,欲立為太子。明帝嘗忤旨,帝怒,乃裸之,縛其手腳,以杖貫手腳內,使擔付太官,即日屠豬。休仁笑謂帝曰:「未應死。」帝問其故,休仁曰:「待皇太子生,殺豬取肝肺。」帝意解,曰:「且付廷尉。」一宿出之。

帝は荊州・湘州の二州に南遊しようとし、明朝に諸父を殺して出発しようとしたその夜、華林園で殺害された。休仁はその日から明帝に対して臣下の礼を執った。当時、南平王劉敬猷、廬陵王劉敬先兄弟が害されたが、まだ殯斂が済んでおらず、休仁と休佑は同じ車に乗って臨み、帷を開けて歓笑し、鼓吹を往来させ、当時の人々は皆これを非難した。

原文帝將南游荊、湘二州,明旦欲殺諸父便發,其夕被殺于華林園。休仁即日便執臣禮於明帝。時南平王敬猷、廬陵王敬先兄弟被害,猶未殯斂,休仁、休佑同載臨之,開帷歡笑,鼓吹往反,時人咸非焉。

明帝は休仁を侍中・司徒・尚書令・揚州刺史とし、三望車を与えた。当時、劉道隆は護軍であったが、休仁は職の解任を求め、言うには、「臣はこの者と同じ朝廷にいることはできません」と。上はそこで道隆に死を賜った。まもなく四方で逆命が起こると、休仁は征討諸軍事を都督し、班剣を増やして三十人とし、出陣して獣檻を占拠し、赭圻に進んだ。まもなく太子太傅を領し、諸軍を総統した。中流(長江中流域)が平定されたのは、休仁の力によるものであった。明帝は初め蘇侯神と兄弟の契りを結び、福と助力を祈った。事が平定されると、休仁に書を送り言うには、「この度のことは殊に蘇兄の神力を得た」と。

原文明帝以休仁為侍中、司徒、尚書令、揚州刺史,給三望車。時劉道隆為護軍,休仁求解職,曰:「臣不得與此人同朝。」上乃賜道隆死。尋諸方逆命,休仁都督征討諸軍事,增班劍為三十人,出據獸檻,進赭圻。尋領太子太傅,總統諸軍。中流平定,休仁之力也。明帝初與蘇侯神結為兄弟,以祈福助。及事平,與休仁書曰:「此段殊得蘇兄神力。」

休仁の年齢は明帝とほぼ同じで、共に文籍を好み、平素から互いに親愛していた。廃帝の世において、共に艱難危険を経て、明帝はまたその権謀術数の力を頼りにした。泰始初年、四方で逆命が起こると、休仁は自ら矢石に当たり、大勲を成し遂げ、百揆を総任し、親密で寄せる信頼は甚だ厚く、四方から人が集まった。上は甚だ快く思わなかった。休仁はその意を悟り、上表して揚州の任を解くことを求め、許された。太尉に進位し、司徒を領するよう命じられたが、固く辞退した。また漆輪車を加えられ、剣履上殿を許された。漆輪車は受けたが、剣履上殿は固く辞退した。

原文休仁年與明帝相亞,俱好文籍,素相愛。及廢帝世,同經艱危,明帝又資其權譎之力。泰始初,四方逆命,休仁親當矢石,大勳克建,任總百揆,親寄甚隆,四方輻湊。上甚不悅。休仁悟其旨,表解揚州,見許。進位太尉,領司徒,固讓。又加漆輪車,劍履升殿。受漆輪車,固辭劍履。

明帝の末年は猜忌多く、休仁は次第に自ら安んじられなくなった。そして晋平王休祐を殺したその年、上(明帝)の病が重篤となり、楊運長とともに死後のことを謀った。運長らはまた、帝が崩御した後、休仁が一旦周公の地位に就けば、自分たちが権力を執れなくなることを慮り、ますます上を助けて諸王を害するよう勧めた。上(明帝)の病が急に甚だしくなると、内外ともに休仁に期待を寄せた。主書以下の者たちは皆、東府に行き休仁の親信に会い、あらかじめ結びつきを求めた。あるいは当直で出られない者も皆恐れた。上は運長らと謀略を定め、休仁を召して尚書下省に宿直させ、その夜、人を遣わして薬を持たせ休仁に死を賜った。休仁は使者に向かって罵って言った。「上(陛下)が天下を得たのは、誰の功か。孝武帝は子孫を誅殺したために滅亡に至った。今また覆車に従い、無実の兄弟を殺すとは。どうして忠臣がこのような冤罪を抱えようか。我が大宋の業、どうして長く保とうか。」上(明帝)は病が長引き、人心の同異を慮り、自ら力を振るって輿に乗り端門を出、休仁が死んだ後に入った。詔を下して彼が自殺したと称し、その二子を赦し、ともに封爵を全うさせた。有司が休仁を庶人に降格し、属籍を絶ち、子供たちを悉く遠郡に移すよう奏請した。詔により休仁を特に始安県王に降格し、併せて子の伯融らの流刑を停止し、封爵を襲ぐことを聴許した。帝の病が甚だしくなると、休仁が祟りをなすのを見て、叫んで言った。「司徒(休仁)、少し我を許せ。」まもなく崩御した。伯融は、妃の殷氏が生んだ子である。殷氏は、呉興太守の殷沖の娘である。范陽の祖翻は医術があり、容姿も美しかった。殷氏が病気の時、翻が脈を見に入り、彼女を気に入り、遂に私通した。事が露見し、家に帰らせて死を賜った。

原文明帝末年多忌,休仁轉不自安。及殺晉平王休佑,其年上疾篤,與楊運長為身後計。運長等又慮帝晏駕後,休仁一旦居周公之地,其輩不得執權,彌贊成上使害諸王。及上疾暴甚,內外皆屬意休仁。主書以下皆往東府詣休仁所親信,豫自結納。其或直不得出者皆懼。上與運長等定謀,召休仁入宿尚書下省,其夜遣人齎藥賜休仁死,休仁對使者罵曰:「上有天下,誰之功也。孝武以誅子孫而至於滅,令復遵覆車,枉殺兄弟,奈何忠臣抱此冤濫!我大宋之業,其能久乎。」上疾久,慮人情同異,自力乘輿出端門,休仁死後乃入。詔稱其自殺,宥其二子,並全封爵。有司奏請降休仁為庶人,絕屬籍,兒息悉徙遠郡。詔休仁特降為始安縣王,並停子伯融等流徙,聽襲封爵。及帝疾甚,見休仁為祟,叫曰:「司徒小寬我。」尋崩。伯融,妃殷氏所生。殷氏,吳興太守沖女也。范陽祖翻有醫術,姿貌又美,殷氏有疾,翻入視脈,悅之,遂與奸。事泄,遣還家賜死。

晋平王

原文晉平王

晋平刺王休祐は、文帝の第十三子である。孝建二年、十一歳で山陽王に封ぜられた。明帝が即位すると、山陽は荒廃していたため、晋平王に改封され、位は驃騎大将軍・開府儀同三司・荊州刺史となった。

原文晉平刺王休佑,文帝第十三子也。孝建二年,年十一,封山陽王。明帝即位,以山陽荒弊,改封晉平王,位驃騎大將軍、開府儀同三司、荊州刺史。

休祐は元より才能がなく、強情で独断専行であった。大明の世には、思い通りにできなかったが、この時には貪欲で淫ら、財貨と女色を好み、荊州で多くの財貨を営んだ。短陌銭(不足銭)百文を人に貸し、田の収穫時に白米一斛こくを求め、米粒はすべて透き通るほど白いことを命じた。もし砕けていたり割れていたりするものは一切受け取らなかった。世間ではこの米一斗を百文で買っていた。時期が来るとまた米を受け取らず、米を評価して銭を責め立てた。凡そ利益を求めることすべてこのようであった。百姓は嗷嗷とし、もはや命に堪えられなかった。南徐州刺史に徴され、都督を加えられた。上(明帝)は休祐が貪虐で民を治められないと考え、彼を都に留め置き、上佐を行府州事として派遣した。

原文休佑素無才能,強梁自用。大明之世,不得自專,至是貪淫好財色,在荊州多營財貨。以短錢一百賦人,田登就求白米一斛,米粒皆令徹白;若碎折者悉不受。人間糴此米一斗一百。至時又不受米,評米責錢,凡諸求利皆如此。百姓嗷然,不復堪命。徵為南徐州刺史,加都督。上以休佑貪虐,不可蒞人,留之都下,遣上佐行府州事。

休祐は残忍で、前後して上(明帝)に逆らうことが一度や二度ではなかった。荊州にいた時、側近の范景達は弾棋が上手で、上(明帝)が召したが、休祐は留めて遣わさなかった。上は怒って詰問し、かつ休祐が将来制し難くなることを慮り、機会を捉えて除こうとした。七年二月、車駕が岩山で雉を射た時、一羽の雉が場に入ろうとせず、日暮れになって帰ろうとした時、休祐を留めてこれを射させ、雉を得なければ帰るなと命じた。休祐はその時、黄麾の内に従っていたが、左右の従者はみな部隊の後ろにいた。休祐はすぐに馳せ去り、上は左右数人を彼に従わせた。上が帰還すると、前駆が道を清め、休祐の従者は悉く散り失せ、互いに連絡が取れなくなった。上は寿寂之ら諸壮士を追わせた。日はすでに暮れようとしており、休祐に追いつき、蹴って馬から落とさせた。休祐は元より勇壮で気力があり、拳を奮って左右を排撃し、近づく者もなかった。一人が後ろから陰部を引っ張り、それによって地面に倒れ、即ち共に引き倒して殺した。人を馳せて上に報告させ、行きながら驃騎が落馬したと唱えた。上は聞いて驚き、「驃騎は体が大きい。落馬するのは大変なはずだ」と言った。すぐに御医に薬を持たせて次々と派遣したが、しばらくして休祐の左右の者が到着した時には、すでに久しく絶命していた。輿に乗せて邸に戻し、司空を追贈した。その時、巴陵王休若が江陵にいたが、その日すぐに使者を走らせ休若に報せて言った。「私は驃騎と南山で雉を射た。驃騎の馬が驚き、直閤の夏文秀の馬と踏み合い、文秀は地に堕ち、驃騎は制御を失い、馬が重ねて驚き、松の木に触れて地に落ち硎(穴)の中に堕ちた。その時、倒れて気を失ったので、弟に馳せて報せる。」その年五月、休祐を追って免じて庶人とし、十三人の子をすべて晋平に移した。明帝はまもなく病にかかり、休祐が祟りをなすのを見て、使者を晋平に遣わしその諸子を慰撫させた。帝はまもなく崩御した。廃帝の元徽元年、諸子が都に還ることを聴許した。順帝の昇明三年、謀反を称し、ともに死を賜った。

原文休佑狠戾,前後忤上非一。在荊州時,左右范景達善彈棋,上召之,休佑留不遣。上怒詰責之,且慮休佑將來難制,欲方便除之。七年二月,車駕於岩山射雉,有一雉不肯入場,日暮將反,留休佑射之,令不得雉勿歸。休佑時從在黃麾內,左右從者並在部伍後。休佑便馳去,上遣左右數人隨之。上既還,前驅清道,休佑人從悉散,不復相得。上遣壽寂之等諸壯士追之,日已欲闇,與休佑相及,蹴令墜馬。休佑素勇壯,有氣力,奮拳左右排擊,莫得近。有一人自後引陰,因頓地,即共拉殺之。遣人馳白上,行唱驃騎落馬,上聞驚曰:「驃騎體大,落馬殊不易。」即遣御醫上藥相系至,頃之休佑左右人至,久已絕矣。輿以還第,贈司空。時巴陵王休若在江陵,其日即馳信報休若曰:「吾與驃騎南山射雉,驃騎馬驚,與直閣夏文秀馬相蹋,文秀墮地,驃騎失控,馬重驚,觸松樹墜地落硎中,時頓悶,故馳報弟。」其年五月,追免休佑為庶人,十三子並徙晉平。明帝尋病,見休佑為祟,使使至晉平撫其諸子。帝尋崩。廢帝元徽元年,聽諸子還都。順帝升明三年,稱謀反,並賜死。

海陵王

原文海陵王

海陵王休茂は、文帝の第十四子である。孝建二年、十一歳で海陵王に封ぜられた。大明二年、雍州刺史となり、都督・北中郎将・寧蛮校尉を加えられた。その時、司馬の庾深之が行府州事を務めていた。休茂は性急で自ら専断しようとし、深之や主帥が毎度これを禁じた。常に憤りを抱き、側近の張伯超が最も親愛されていたが、罪過が多く、主帥が常に叱責を加えた。伯超は罪を恐れ、休茂に言った。「主帥は密かに官(休茂)の罪を上疏し、上聞に達そうとしています。」休茂は言った。「今、どうする計略か。」伯超は言った。「ただ行事(庾深之)と主帥を殺し、兵を挙げて自衛するのみです。たとえ成功しなくとも、虜の中に入って王となることを失いません。」休茂はこれに従い、夜に伯超らに司馬の庾深之を殺させ、兵を集め牙旗を建て檄を馳せた。休茂は城を出て行営したが、諮議参軍の沈暢之らが門を閉ざして拒んだ。城が陥落し、暢之を斬った。その日、参軍の尹玄度が兵を起こして休茂を攻め、これを捕らえ、首を斬った。母と妻はともに自殺し、同党は悉く誅殺に伏した。有司が休茂の属籍を絶ち、姓を留に貶するよう奏上したが、許されなかった。即座に襄陽に葬った。

原文海陵王休茂,文帝第十四子也。孝建二年,年十一,封海陵王。大明二年,為雍州刺史,加都督、北中郎將、甯蠻校尉。時司馬庾深之行府州事,休茂性急欲自專,深之及主帥每禁之。常懷忿,因左右張伯超至所親愛,多罪過,主帥常加訶責。伯超懼罪,謂休茂曰:「主帥密疏官罪,欲以啟聞。」休茂曰:「今為何計?」伯超曰:「唯殺行事及主帥,舉兵自衛,縱不成,不失入虜中為王。」休茂從之,夜使伯超等殺司馬庾深之,集兵建牙馳檄。休茂出城行營,諮議參軍沈暢之等閉門拒之。城陷,斬暢之。其日,參軍尹玄度起兵攻休茂,禽之,斬首。母妻皆自殺,同黨悉伏誅。有司奏絕休茂屬籍,貶姓為留,不許。即葬襄陽。

鄱陽王

原文鄱陽王

鄱陽哀王休業は、文帝の第十五子である。孝建二年、十一歳で鄱陽王に封ぜられた。三年で薨じ、山陽王休祐の次子の士弘を嗣がせたが、廃されて国は除かれた。

原文鄱陽哀王休業,文帝第十五子也。孝建二年,年十一,封鄱陽王。三年薨,以山陽王休佑次子士弘嗣,被廢國除。

臨慶王

原文臨慶王

臨慶沖王休倩は、文帝の第十六子である。孝建元年、九歳で病篤く、東平王に封ぜられたが、拝せずして薨じた。大明七年、第二十七皇子の子嗣を立てて東平王とし、休倩を紹いだ。泰始三年に本宗に還り、遂に絶えた。六年、第五皇子の智井を東平王とし、休倩を継がせたが、拝せずして薨じた。その年、休倩を追って臨慶王と改めた。休倩は文帝に愛されたので、前後して度々紹嗣が加えられた。

原文臨慶沖王休倩,文帝第十六子也。孝建元年,年九歲,疾篤,封東平王,未拜,薨。大明七年,立第二十七皇子子嗣為東平王,紹休倩。泰始三年還本,遂絕。六年,以第五皇子智井為東平王,繼休倩,未拜,薨。其年,追改休倩為臨慶王。休倩為文帝所愛,故前後屢加紹嗣。

新野王

原文新野王

新野懷王夷父は、文帝の第十七子である。元嘉二十九年に薨じ、明帝の泰始五年、封と諡を追加された。

原文新野懷王夷父,文帝第十七子也。元嘉二十九年薨,明帝泰始五年,追加封諡。

桂陽王

原文桂陽王

桂陽王休範は、文帝の第十八子である。孝建三年、九歳で順陽王に封ぜられた。大明元年、桂陽王に改封された。泰始六年、累遷して驃騎大将軍・江州刺史となり、都督を加えられた。遺詔により位を進めて司空・侍中とし、班剣三十人を加えられた。休範は元より平凡で訥弁、理解力に乏しく、諸兄から軽んじられ遇されなかった。明帝は常に左右の人を指して王景文に言った。「休範の才能はこの者たちに及ばない。我が弟であるが故に、生まれながら富貴である。釈氏が王家に生まれんと願うのは、まことに理由があることだ。」明帝の晚年、晋平王休祐は狠戾のために禍を招き、建安王休仁は権勢が迫るが故に容れられず、巴陵王休若は元より人心を得ていたが、これによって害された。ただ休範のみは謹直で口数少なく才能がなく、衆望を集めなかったので、自らを保つことができたが、常に憂い恐れていた。

原文桂陽王休範,文帝第十八子也。孝建三年,年九歲,封順陽王。大明元年,改封桂陽。泰始六年,累遷驃騎大將軍、江州刺史,加都督。遺詔進位司空、侍中,加班劍三十人。休範素凡訥,少知解,不為諸兄齒遇。明帝常指左右人謂王景文曰:「休範人才不及此,以我弟故,生便富貴。釋氏願生王家,良有以也。」及明帝晚年,晉平王休佑以狠戾致禍,建安王休仁以權逼不容,巴陵王休若素得人情,以此見害;唯休範謹澀無才,不為物情所向,故得自保而常憂懼。

明帝が崩御し、主上幼く時局艱難なるに及び、休範は自ら宗戚として己に並ぶ者なしと謂い、宰輔の位に居るべきとす。事既に至らず、怨憤ますます結ぶ。勇士を招引し、器械を繕修す。尋陽を経過する行人は、降意折節せざる者なく、ここに至る者は帰するが如し。朝廷之を知り、密かに防禦す。母荀太妃薨じ、即ち廬山に葬り、以て還らざるの志を示す。時に夏口鎮を闕き、朝議以て尋陽の上流に居るを以て、腹心を樹置し、其の兵力を重くせんと欲す。元徽元年、乃ち第五皇弟晉熙王燮を以て郢州刺史と為し、長史王奐に府州事を行わしめ、実力を配し、出でて夏口に鎮せしむ。休範に撥留せられんことを慮り、太子洑より去り、尋陽を過ぎず。休範怒り、兵を挙げんと欲し、乃ち上表して城堞を修む。其の年太尉に進位し、明年五月遂に反す。尋陽より発し、昼夜道を取る。大雷戍主杜道欣馳下して変を告ぐ。道欣至ること一宿、休範已に新林に至る。朝廷震動す。

原文及明帝晏駕,主幼時艱,休範自謂宗戚莫二,應居宰輔。事既不至,怨憤彌結。招引勇士,繕修器械。行人經過尋陽者,莫不降意折節,於是至者如歸。朝廷知之,密相防禦。母荀太妃薨,即葬廬山,以示不還之志。時夏口闕鎮,朝議以居尋陽上流,欲樹置腹心,重其兵力。元徽元年,乃以第五皇弟晉熙王燮為郢州刺史,長史王奐行府州事,配以實力,出鎮夏口。慮為休範所撥留,自太子洑去,不過尋陽。休範怒,欲舉兵,乃上表修城堞。其年進位太尉,明年五月遂反。發自尋陽,晝夜取道。大雷戍主杜道欣馳下告變。道欣至一宿,休範已至新林,朝廷震動。

齊高帝出でて新亭壘に次す。時に事起るや倉卒、朝廷の兵力甚だ弱く、武庫を開くに及び、将士の意に随いて取る。休範新林より歩上して新亭壘を攻む。屯騎校尉黄回乃ち偽り往きて降り、並びに齊高帝の意を宣ぶ。休範大いに悦び、之を左右に置く。休範の壮士李恒・鍾爽進みて諫めて之を親しむに宜しからざるを進む。休範曰く「人を欺かずして信を以てす」と。時に休範日々醇酒を飲み、二子徳宣・徳嗣を以て齊高帝に付して質と為す。至るや即ち之を斬る。回と越騎校尉張敬兒直ちに前に進みて休範の首を斬り持ちて還る。左右並びに散ず。

原文齊高帝出次新亭壘。時事起倉卒,朝廷兵力甚弱,及開武庫,隨將士意取。休範于新林步上攻新亭壘。屯騎校尉黃回乃偽往降,並宣齊高帝意。休範大悅,置之左右。休範壯士李恒、鍾爽進諫不宜親之,休範曰:「不欺人以信。」時休範日飲醇酒,以二子德宣、德嗣付與齊高帝為質,至即斬之。回與越騎校尉張敬兒直前斬休範首持還,左右並散。

初め、休範新林より同党杜墨蠡・丁文豪等を分遣して直ちに朱雀門に向かわしむ。休範死すと雖も、墨蠡等知らず。王道隆羽林兵を率いて朱雀門内に在り、賊の至るを聞き、急ぎ劉勔を召す。勔石頭より来り戦に赴き、之に死す。墨蠡等勝に乗じて直ちに朱雀門に入る。道隆乱兵のために殺さる。墨蠡等唱えて云く「太尉至る」と。休範の死するや、齊高帝隊主陳霊宝を遣わし首を齎して台に還らしむ。賊に逢い、首を道側に埋め、身を挺して達するを得たり。已に平げたりと唱うと雖も、以て据うる所無く、衆ますます疑惑す。墨蠡径ちに杜姥宅に至る。宮省恇擾し、復た固き志無し。撫軍長史褚澄東府を以て賊を納る。賊安成王を擁して東府に拠り、休範の教と称して曰く「安成王は吾が子なり、侵すことを得ず」と。賊勢方に逼り、衆振るうこと能わず。尋いで丁文豪の衆休範の已に死せるを知り、稍々退散せんと欲す。文豪勇気殊に壮にして、声を厲して曰く「我独り天下を定めずんばや」と。休範の首至り、又羽林監陳顕達率いる所の者を以て杜姥宅に於いて墨蠡等を破る。諸賊一時に奔散す。墨蠡・文豪等を斬る。晉熙王燮夏口より軍を遣わし尋陽を平ぐ。

原文初,休範自新林分遣同黨杜墨蠡、丁文豪等直向朱雀門。休範雖死,墨蠡等不知。王道隆率羽林兵在朱雀門內,聞賊至,急召劉勉,勉自石頭來赴戰,死之。墨蠡等乘勝直入朱雀門,道隆為亂兵所殺。墨蠡等唱云:「太尉至」。休範之死也,齊高帝遣隊主陳靈寶齎首還台,逢賊,埋首道側,挺身得達。雖唱云已平,而無以為據,眾愈疑惑。墨蠡徑至杜姥宅,宮省恇擾,無復固志。撫軍長史褚澄以東府納賊。賊擁安成王據東府,稱休範教曰:「安成王吾子也,勿得侵。」賊勢方逼,眾莫能振。尋而丁文豪之眾知休範已死,稍欲退散。文豪勇氣殊壯,厲聲曰:「我獨不能定天下邪。」休範首至,又羽林監陳顯達率所領于杜姥宅破墨蠡等,諸賊一時奔散。斬墨蠡、文豪等。晉熙王燮自夏口遣軍平尋陽。

巴陵王

原文巴陵王

巴陵哀王休若は、文帝の第十九子なり。孝建三年、年九歳、巴陵王に封ぜらる。明帝即位し、出でて会稽太守と為り、都督を加う。二年、都督・雍州刺史・甯蛮校尉に遷る。前に会稽に在りし時、録事参軍陳郡謝沈諂側を以て休若に事え、財賂を多く受く。時に内外戒嚴し並びに褲褶す。沈母喪に居りて起され、声楽酣飲、吉人と異ならず。衣冠既に殊異無く、並びに沈の喪に居るを知らず。沈嘗て孤子と自称す。衆乃ち駭愕す。休若沈と褻黷するに坐し、鎮西将軍に降号す。典簽夏宝期休若に事えて礼無く、明帝に啓して之を殺さしむ。許さざるを慮り、啓未だ報ぜず、獄に行刑す。信反って令して鎖送せしむるも、宝期已に死す。上怒りて之を敕して曰く「孝建の世、汝何ぞ敢えてかくの如くせん」と。其の母羅をして杖三百を加えしむ。

原文巴陵哀王休若,文帝第十九子也。孝建三年,年九歲,封巴陵王。明帝即位,出為會稽太守,加都督。二年,遷都督、雍州刺史、甯蠻校尉。前在會稽錄事參軍陳郡謝沈以諂側事休若,多受財賂。時內外戒嚴並褲褶,沈居母喪被起,聲樂酣飲,不異吉人。衣冠既無殊異,並不知沈居喪。沈嘗自稱孤子,眾乃駭愕。休若坐與沈褻黷,降號鎮西將軍。典簽夏寶期事休若無禮,啟明帝殺之。慮不許,啟未報,於獄行刑。信反令鎖送,而寶期已死。上怒敕之曰:「孝建之世,汝何敢爾。」使其母羅加杖三百。

四年、行湘州刺史を改む。六年、荊州刺史と為り、都督・征西大将軍・開府儀同三司を加う。七年、晉平王休祐殺され、建安王休仁疑わしめらる。都下訛言して休若に至貴の表有りとす。明帝此の言を以て之に報ず。休若甚だ憂い、嘗て衆賓満座するに、一の異鳥席隅に集まり、哀鳴して地に墜ちて死す。又聴事の上に二の大白蛇長さ丈余有り、唅唅として声有り。休若之を甚だ悪む。

原文四年,改行湘州刺史。六年,為荊州刺史,加都督、征西大將軍、開府儀同三司。七年,晉平王休佑被殺,建安王休仁見疑,都下訛言休若有至貴之表,明帝以此言報之。休若甚憂,嘗眾賓滿坐,有一異鳥集席隅,哀鳴墜地死。又聽事上有二大白蛇長丈餘,唅唅有聲。休若甚惡之。

会に徴せられて南徐州刺史と為り、都督・征北大将軍を加え、開府は旧の如し。休若の腹心将佐咸に還朝必ず大禍有らんと謂う。中兵参軍京兆王敬先荊楚に割拠せんことを勧む。休若之を執録し、馳使して明帝に白くす。敬先坐して誅さる。休若京口に至る。上休若の善く能く物情を諧緝するを以て、将来幼主を傾けんことを慮り、使を遣わして之を殺さんと欲す。詔を奉ぜざるを慮り、征して朝に入らしむるも、又猜駭せんことを恐る。乃ち偽りて江州刺史に授く。至るや即ち第に於いて死を賜う。侍中・司空を贈る。子沖始め封を襲ぐ。

原文會被徵為南徐州刺史,加都督、征北大將軍,開府如故。休若腹心將佐咸謂還朝必有大禍,中兵參軍京兆王敬先勸割據荊楚。休若執錄,馳使白明帝,敬先坐誅。休若至京口,上以休若善能諧緝物情,慮將來傾幼主,欲遣使殺之,慮不奉詔。征入朝,又恐猜駭。乃偽授為江州刺史,至,即於第賜死,贈侍中、司空。子沖始襲封。

孝武子

原文孝武子

孝武帝二十八男有り。文穆皇后は廃帝子業・豫章王子尚を生む。陳淑媛は晉安王子勲を生む。阮容華は安陸王子綏を生む。徐昭容は皇子子深を生む。何淑儀は松滋侯子房を生む。史昭華は臨海王子頊を生む。殷貴妃は始平孝敬王子鸞を生む。次に永嘉王子仁は皇子子深と同生す。何婕妤は皇子子鳳を生む。謝昭容は始安王子真を生む。江婕妤は皇子子玄を生む。史昭儀は邵陵王子元を生む。次に齊敬王子羽は始平孝敬王子鸞と同生す。江美人は皇子子衡を生む。楊婕妤は淮南王子孟を生む。次に皇子子況は皇子子玄と同生す。次に南平王子産は永嘉王子仁と同生す。次に晉陵孝王子雲・次に皇子子文は並びに始平孝敬王子鸞と同生す。次に廬陵王子輿は淮南王子孟と同生す。次に南海哀王子師は始平孝敬王子鸞と同生す。次に淮陽思王子霄は皇子子玄と同生す。次に皇子子雍は始安王子真と同生す。次に皇子子趨は皇子子鳳と同生す。次に皇子子期は皇子子衡と同生す。次に東平王子嗣は始安王子真と同生す。張容華は皇子子悦を生む。安陸王子綏・南平王子産・廬陵王子輿は並びに出継す。皇子子深・子鳳・子玄・子衡・子況・子文・子雍は未だ封ぜられずして早夭す。子趨・子期・子悦は未だ封ぜられず、明帝のために殺さる。

原文孝武帝二十八男。文穆皇后生廢帝子業、豫章王子尚。陳淑媛生晉安王子勳。阮容華生安陸王子綏。徐昭容生皇子子深。何淑儀生松滋侯子房。史昭華生臨海王子頊。殷貴妃生始平孝敬王子鸞。次永嘉王子仁與皇子子深同生。何婕妤生皇子子鳳。謝昭容生始安王子真。江婕妤生皇子子玄。史昭儀生邵陵王子元。次齊敬王子羽與始平孝敬王子鸞同生。江美人生皇子子衡。楊婕妤生淮南王子孟。次皇子子況與皇子子玄同生;次南平王子產與永嘉王子仁同生;次晉陵孝王子雲、次皇子子文並與始平孝敬王子鸞同生;次廬陵王子輿與淮南王子孟同生;次南海哀王子師與始平孝敬王子鸞同生;次淮陽思王子霄與皇子子玄同生;次皇子子雍與始安王子真同生;次皇子子趨與皇子子鳳同生;次皇子子期與皇子子衡同生;次東平王子嗣與始安王子真同生。張容華生皇子子悅。安陸王子綏、南平王子產、廬陵王子輿並出繼。皇子子深、子鳳、子玄、子衡、子況、子文、子雍未封早夭。子趨、子期、子悅未封,為明帝所殺。

豫章王

原文豫章王

豫章王子尚は字を孝師と云い、孝武帝の第二子なり。孝建三年、年六歳、西陽王に封ぜらる。大明三年、浙江西を分ちて王畿を立て、浙江東を以て揚州と為し、子尚を以て刺史と為し、都督を加う。五年、改めて豫章王に封ぜられ、会稽太守を領す。七年、車騎大将軍・開府儀同三司に進号す。時に東土大旱し、鄞縣多く疇田有り。孝武子尚をして表して鄞縣に至り農を勧めしむ。又左学を立て、生徒を召し、儒林祭酒一人を置く。学生師を敬い、位は州中の従事に比す。文学祭酒一人は州西曹に比す。勧学従事二人は祭酒従事に比す。

原文豫章王子尚字孝師,孝武第二子也。孝建三年,年六歲,封西陽王。大明三年,分浙江西立王畿;以浙江東為揚州,以子尚為刺史,加都督。五年,改封豫章王,領會稽太守。七年,進號車騎大將軍、開府儀同三司。時東土大旱,鄞縣多疇田,孝武使子尚表至鄞縣勸農,又立左學,召生徒,置儒林祭酒一人,學生師敬,位比州中從事。文學祭酒一人,比州西曹。勸學從事二人比祭酒從事。

前廃帝が即位すると、王畿を廃して旧に復し、子尚を征して揚州・南徐州の二州諸軍事を都督せしめ、尚書令を領せしめた。初め、孝建年間、孝武帝は子尚が太子の同母弟であることを以て、甚だ心を留めた。後に新安王子鸞が母の寵愛により愛され、子尚の寵は衰えた。成長して凶悪となり、廃帝の風有り。明帝は既に廃帝を誅した後、太皇太后の令を称して曰く、「子尚は頑凶、楚玉は淫乱、並びに邸に於いて賜死すべし」と。楚玉は、廃帝の姉山陰公主なり。廃帝は会稽郡長公主に改封し、鼓吹一部を与え、班剣二十人を加えたが、未だ拝受せずして廃帝敗れた。

原文前廢帝即位,罷王畿復舊,征子尚都督揚、南徐二州諸軍事,領尚書令。初,孝建中,孝武以子尚太子母弟,甚留心;後新安王子鸞以母幸見愛,子尚寵衰。及長凶慝,有廢帝之風。明帝既殞廢帝,乃稱太皇太后令曰:「子尚頑凶,楚玉淫亂,並於第賜盡。」楚玉,廢帝姊山陰公主也。廢帝改封會稽郡長公主,給鼓吹一部,加班劍二十人,未拜受而廢帝敗。

晋安王

原文晉安王

晋安王子勲は字を孝徳と云い、孝武帝の第三子なり。眼に風疾を患い、孝武帝に愛されず。大明四年、五歳にして晋安王に封ぜらる。七年、江州刺史となり、都督を加えらる。八年、雍州に改めて授けらるるも、未だ拝せずして孝武帝崩御、還って江州と為る。

原文晉安王子勳字孝德,孝武第三子也。眼患風,不為孝武所愛。大明四年,年五歲,封晉安王。七年,為江州刺史,加都督。八年,改授雍州,未拜而孝武崩,還為江州。

時に廃帝狂凶にして、誅害すること多し。前撫軍諮議参軍何邁、帝の出でるを謀り変を為し、子勲を迎え立てんとす。事泄れ、帝は邁を誅し、八座をして子勲が邁と通謀せしことを奏せしめ、左右朱景を遣わし薬を送りて子勲に死を賜う。景は盆口に至り、長史鄧琬に報ず。琬ら子勲を奉じて兵を起こし、廃立を以て名とす。明帝乱を定め、子勲を車騎将軍・開府儀同三司に進む。琬ら命を受けず。

原文時廢帝狂凶,多所誅害。前撫軍諮議參軍何邁謀因帝出為變,迎立子勳。事泄,帝誅邁,使八座奏子勳與邁通謀,遣左右朱景送藥賜子勳死。景至盆口,遣報長史鄧琬。琬等奉子勳起兵,以廢立為名。明帝定亂,進子勳車騎將軍、開府儀同三司。琬等不受命。

泰始二年正月七日、子勲を奉じて帝と為し、即ち偽位に即くこと尋陽に於いて、年号を義嘉とし、百官を備え置き、四方応ず。是の歳四方の貢計、並びに尋陽に詣る。軍敗れ、子勲見殺さる。時に年十一。即ち尋陽廬山に葬る。

原文泰始二年正月七日,奉子勳為帝,即偽位於尋陽,年號義嘉,備置百官,四方回應。是歲四方貢計,並詣尋陽。及軍敗,子勳見殺,時年十一。即葬尋陽廬山。

松滋侯

原文松滋侯

松滋侯子房は字を孝良と云い、孝武帝の第六子なり。大明四年、五歳にして尋陽王に封ぜらる。前廃帝景和元年、会稽太守となり、都督を加えらる。明帝即位、征されて撫軍と為り、太常を領す。長史孔覬命を受けず、兵を挙げて晋安王子勲に応ず。上虞令王晏覬を殺し、子房を建鄴に送り返す。上之を宥し、松滋県侯に貶す。司徒建安王休仁、子房兄弟終に禍難と為るを以て、上に除くを勧む。廃されて遠郡に徙り見殺さる。年十一。

原文松滋侯子房字孝良,孝武第六子也。大明四年,年五歲,封尋陽王。前廢帝景和元年,為會稽太守,加都督。明帝即位,徵為撫軍,領太常。長史孔覬不受命,舉兵應晉安王子勳。上虞令王晏殺覬,送子房還建鄴。上宥之,貶為松滋縣侯。司徒建安王休仁以子房兄弟終為禍難,勸上除之。廢徙遠郡見殺,年十一。

臨海王

原文臨海王

臨海王子頊は字を孝烈と云い、孝武帝の第七子なり。初め歴陽王に封ぜられ、後に臨海に改封、位は荊州刺史。明帝即位、雍州都督に進む。長史孔道存命を受けず、晋安王子勲に応ず。事敗れて死を賜う。年十一。

原文臨海王子頊字孝烈,孝武第七子也。初封曆陽王,後改封臨海,位荊州刺史。明帝即位,進督雍州,長史孔道存不受命,應晉安王子勳。事敗賜死,年十一。

始平王

原文始平王

始平孝敬王子鸞は字を孝羽と云い、孝武帝の第八子なり。大明四年、襄陽王に封ぜられ、尋いで新安に改封。五年、北中郎将・南徐州刺史となり、南琅邪太守を領す。母殷淑儀の寵後宮を傾け、子鸞の愛は諸子に冠たり。凡そ上に眄遇せらるる者は、子鸞の府国に入らざるは莫し。南徐州を為すに及び、又呉郡を割きて之に属せしむ。六年、母の憂に服す。前廃帝素より子鸞の寵有るを疾み、即位するや、既に群臣を誅し、乃ち使を遣わし子鸞に死を賜う。時に年十歳。子鸞臨死に左右に謂いて曰く、「願わくは後身、復た王家に生まれざらんことを」と。同生の弟妹並びに死す。明帝即位、始平王に改封し、建平王景素の子延年を以て嗣がしむ。

原文始平孝敬王子鸞字孝羽,孝武第八子也。大明四年,封襄陽王,尋改封新安。五年,為北中郎將、南徐州刺史,領南琅邪太守。母殷淑儀寵傾後宮,子鸞愛冠諸子,凡為上眄遇者莫不入子鸞府國。為南徐州,又割吳郡屬之。六年,丁母憂。前廢帝素疾子鸞有寵,及即位,既誅群臣,乃遣使賜子鸞死,時年十歲。子鸞臨死謂左右曰:「願後身不復生王家。」同生弟妹並死。明帝即位,改封始平王,以建平王景素子延年嗣。

永嘉王

原文永嘉王

永嘉王子仁は字を孝和と云い、孝武帝の第九子なり。大明五年、永嘉王に封ぜらる。明帝即位、湘州刺史と為す。帝尋いで司徒建安王休仁の計に従い、未だ拝せずして死を賜う。時に年十歳。

原文永嘉王子仁字孝和,孝武第九子也。大明五年,封永嘉王。明帝即位,以為湘州刺史。帝尋從司徒建安王休仁計,未拜賜死,時年十歲。

始安王

原文始安王

始安王子真は字を孝貞と云い、孝武帝の第十一子なり。

原文始安王子真字孝貞,孝武第十一子也。

邵陵王

原文邵陵王

邵陵王子元、字は孝善、孝武帝の第十三子なり。並びに明帝に賜死せらる。

原文邵陵王子元字孝善,孝武第十三子也。並被明帝賜死。

齊敬王

原文齊敬王

齊敬王子羽、字は孝英、孝武帝の第十四子なり。二歳にして薨じ、封諡を追加す。

原文齊敬王子羽字孝英,孝武第十四子也。生二歲而薨,追加封諡。

淮南王

原文淮南王

淮南王子孟、字は孝光、孝武帝の第十六子なり。初め淮南王に封ぜられ、明帝、安成王に改封す。未だ拝せずして賜死す。

原文淮南王子孟字孝光,孝武第十六子也。初封淮南王,明帝改封安成王,未拜賜死。

晉陵王

原文晉陵王

晉陵孝王子雲、字は孝舉、孝武帝の第十九子なり。大明六年に封ぜらる。未だ拝せずして亡ぶ。

原文晉陵孝王子雲字孝舉,孝武第十九子也。大明六年封,未拜而亡。

南海王

原文南海王

南海哀王子師、字は孝友、孝武帝の第二十二子なり。大明七年に封ぜらる。未だ拝せず、前廢帝に害せらる。明帝即位し、追諡す。

原文南海哀王子師字孝友,孝武第二十二子也。大明七年封,未拜,為前廢帝所害。明帝即位追諡。

淮陽王

原文淮陽王

淮陽思王子霄、字は孝雲、孝武帝の第二十三子なり。早く薨じ、封諡を追加す。

原文淮陽思王子霄字孝雲,孝武第二十三子也。早薨,追加封諡。

東平王

原文東平王

東平王子嗣、字は孝叔、孝武帝の第二十七子なり。明帝に賜死せらる。

原文東平王子嗣字孝叔,孝武帝第二十七子也,明帝賜死。

武陵王

原文武陵王

武陵王劉贊は字を仲敷といい、幼名を智隨といい、明帝の第九子である。明帝が孝武帝の諸子を誅殺した後、詔によって智隨が孝武帝を奉じて子となり、武陵郡王に封ぜられた。順帝の昇明二年に薨去し、封国は除かれた。

原文武陵王贊字仲敷,小字智隨,明帝第九子也。明帝既誅孝武諸子,詔以智隨奉孝武為子,封武陵郡王。順帝升明二年薨,國除。

明帝の子

原文明帝子

明帝には十二人の男子があった。陳貴妃は後廃帝を生み、謝修儀は皇子の法良を生み、陳昭華は順帝を生み、徐婕妤は第四皇子を生み、鄭修容は皇子の智井を生み、次に晋熙王劉燮は皇子の法良と同母であり、泉美人は邵陵殤王劉友を生み、次に江夏王劉躋は第四皇子と同母であり、徐良人は武陵王劉贊を生み、杜修華は隨陽王劉翽を生み、次に新興王劉嵩は武陵王劉贊と同母であり、また泉美人は始建王劉禧を生んだ。智井・燮・躋・贊は皆他家に出継した。法良は封を受けず、第四皇子は名がなく、早く夭折した。

原文明帝十二男:陳貴妃生後廢帝。謝修儀生皇子法良。陳昭華生順帝。徐婕妤生第四皇子。鄭修容生皇子智井。次晉熙王燮與皇子法良同生。泉美人生邵陵殤王友;次江夏王躋與第四皇子同生。徐良人生武陵王贊。杜修華生隨陽王翽。次新興王嵩與武陵王贊同生。又泉美人生始建王禧。智井、燮、躋、贊並出繼。法良未封。第四皇子未有名,早夭。

邵陵王

原文邵陵王

邵陵殤王劉友は字を仲賢といい、明帝の第七子である。五歳の時、出仕して南中郎将・江州刺史となり、邵陵王に封ぜられた。後廃帝の元徽二年、桂陽王劉休範が誅殺された後、王室は微弱となり、劉友の府州の文書や臣下吏員が「有無」の「有」の字を避諱しなかった。順帝の昇明二年、南豫州刺史に転じ、薨去した。子がなく封国は除かれた。

原文邵陵殤王友字仲賢,明帝第七子也。年五歲,出為南中郎將、江州刺史,封邵陵王。後廢帝元徽二年,桂陽王休範誅後,王室微弱,友府州文案及臣吏不諱「有無」之「有」。順帝升明二年,徙南豫州刺史,薨。無子國除。

隨陽王

原文隨陽王

隨陽王劉翽は字を仲儀といい、明帝の第十子である。初め南陽王に封ぜられ、昇明二年に隨陽に改封された。斉が禅譲を受けると、舞陰県公に封ぜられた。

原文隨陽王翽字仲儀,明帝第十子也。初封南陽王,升明二年,改封隨陽。齊受禪,封舞陰縣公。

新興王

原文新興王

新興王劉嵩は字を仲嶽といい、明帝の第十一子である。斉が禅譲を受けると、定襄県公に降封された。

原文新興王嵩字仲嶽,明帝第十一子也。齊受禪,降封定襄縣公。

始建王

原文始建王

始建王劉禧は字を仲安といい、明帝の第十二子である。斉が禅譲を受けると、荔浦県公に降封され、まもなく皆謀反を企てたとして死を賜わった。

原文始建王禧字仲安,明帝第十二子也。齊受禪,降封荔浦縣公,尋並云謀反賜死。

【論】

原文【論】

論じて言う。甚だしいかな、元嘉(文帝)の禍に遇うことよ。殺逆の兆しは、肌膚(身近なところ)から事が起こり、心に因る童(幼い者)は、遂に天性を失った。たとえ鳴鏑(匈奴の冒頓単于が父を殺した故事)の残酷さといえども、これほどには至らず、それで覆亡に至らなかったのも、幸いというべきである。明帝(明皇)が統治を継ぐと、疑いと隙が内に構えられ、斧を加えるところは、まず王戚(皇族)から始まった。晋刺王(劉昶)は獷暴によって身を摧かれ、巴哀王(劉休若)は和良によって体を酖(毒殺)され、身を保つ道は、どこに適うべきか知られなかった。昔、子を戒めて「慎んで善を行うなかれ」と言ったが、その旨を詳しく求めれば、遠くに根拠があるのであろうか。詩に「我が先に自らず、我が後に自らず」とある。これは古人が乱れを畏れたのである。孝武帝の諸子は、提挈(引き立て)られて釁乱(争乱)を成し、遂に宇内は沸騰し、王室は毀かれるが如くとなり、そして帝の諸胤(子孫)は皆殲滅された。強は弱に如かず、その道理はここにある。明帝の負螟(他姓の子を養子とする)の慶(幸い)は、事が己の出でたところではなく、枝葉が茂らなければ、どうしてその本(根本)を庇うことができようか。

原文論曰:甚矣哉,元嘉之遇禍也。殺逆之釁,事起肌膚,因心之童,遂亡天性。雖鳴鏑之酷,未極於斯,其不至覆亡,亦為幸也。明皇統運,疑隙內構,尋斧所加,先自王戚。晉刺以獷暴摧軀,巴哀由和良酖體,保身之路,未知攸適。昔之戒子,慎勿為善,詳求其旨,將遠有以乎。詩云:「不自我先,不自我後。」蓋古人之畏亂也。孝武諸子,提挈以成釁亂,遂至宇內沸騰,王室如毀,而帝之諸胤莫不殲焉。強不如弱,義在於此。明帝負螟之慶,事非己出,枝葉不茂,豈能庇其本乎。